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(画像掲示板より引用)
「安禅不必須山水」◆(2010/05/22)『朝鮮進駐軍』の話(1)〜怪しげなプラカード〜
「安禅不必須山水」◆(2010/05/23)『朝鮮進駐軍』の話(2)〜yahoo知恵袋〜
「安禅不必須山水」◆(2010/05/23)『朝鮮進駐軍』の話(3)〜名誉あるビラ発布者〜
「安禅不必須山水」◆(2010/05/25)『朝鮮進駐軍』の話(4)〜ネタは2つ?〜
「安禅不必須山水」◆(2010/05/25)『朝鮮進駐軍』の話(5)〜川東ヘイトスピーチ@神戸〜
「寄星蟲」◆(2010/07/05)やる夫は,日本で働くようです その1
「寄星座不定期日誌」◆(2010/09/05)やる夫は日本で働くようです
>米海軍の軍人アーレイ・バークを元にアレンジを加えた,やる夫シリーズ.
「国際情報センター」◆(2010/09/09)ソ連の天皇制廃止の企図
>1946年2月5日付の「日本に関する極東委員会でのソ連代表への指令」(機密)
「神保町系オタオタ日記」■(2006-08-02)[柳田國男][図書館][石田幹之助]
岩波書店『「帝国」日本の学知』シリーズ(その2)
>『「帝国」日本の学知』の第6巻『地域研究としてのアジア』中「第4章 日本占領期の社会調査と人類学の再編」(中生勝美)によると,竹内利美『家族慣行と家制度』(恒星社厚生閣,1969年)に大藤時彦ら民俗学者がCIEで農漁村の世論調査を行っていたことが記されているという
「神保町系オタオタ日記」■(2008-03-31)[柳田國男] 柳田國男とGHQのコンタクト
「神保町系オタオタ日記」■(2008-12-03)ハーバート・パッシンと生田正輝
GHQ関連
「神保町系オタオタ日記」■(2008-12-12)皇国運動連盟関係者の公職追放
「神保町系オタオタ日記」■(2009-11-03)[出版]二人の大島豊
公職追放関連
『軍港の闇に蠢く女 新聞切り抜き帳が語る』(片桐久吉著,文芸社,1999.8)
これすごい本だね.
戦時中ではなく,終戦直後〜朝鮮戦争などの話です.
パンパンとかそっちの方.
当時のややこしい事情を,よくまとめてある.
――――――軍事板,2010/06/29(火)
『現代日本政治史1 占領から独立へ ―1945-1952―』楠綾子著,吉川弘文館,2013/8/25)
『骨董金側懐中時計』(小野稔著,新潮社,1989.6)
著者の入手した懐中時計の思い出を語る本なのだが,その人物がすごい.
マッカーサ元帥の参謀,名古屋に駐留した25師団の情報部付参謀ヴァンダプール中佐は,マニラ突入の時,日本人将校3人の腹切り場面に出くわし,必死になって止めさせようとして,ピストルを突きつけながら,結局見ていることしかできず,日本進駐後,酒が入る事に
「戦争よさようなら,ハラキリはやめろ」
と叫んで手当たり次第に物を投げ始めるとか.
終戦後,イギリスのパーシバル将軍は,士官学校卒業時に英国王室から下賜された時計を著者に贈り,本国の自宅でバイロンの詩集「シオンの虜囚」を読みながら,鬱々とした生涯を過ごしたとか.
最後のローマ人と呼ばれていた,イタリアのオリンピック組織委員会長ボルゲーゼ氏は,戦勝国アメリカにベースボール用品を発注するのが気にいらず,日本にそれを求めて,
「かつてイタリアと日本は同盟国でした.
私は付き合いのあるアメリカ人よりも,まだ会ったこともないあなたに,通い合う心を感じるのです」
とかいって,正式に取引を結んだとか.
結構エピソードが面白い.
――――――名無しの愉しみ in 軍事板,2009/07/03(金)
数奇な運命を経て,著者の所に集まった金の懐中時計の物語.
大なり小なり先の大戦に関わった人たちから,譲り受けた懐中時計を,郷愁を交えて淡々と語る文章は,読んでいてかなり感情移入させられるものである.
「この時計は悲しい運命を背負っている,
何も言わずに買ってもらえないだろうか…」
と,デュプレ氏より受け取った,シーメンス事件の日本海軍高官への贈答品だった「ル・ロア」.
「一旦戦いに敗れたものは,誰かが勝利に導いてくれても,再び栄光の座に戻れないものです…」
と,戦後すぐに退役し,バーミンガムの自宅でバイロンの「シオン城の虜囚」を読みながら,鬱々と暮らしていたというパーシバルの「ウィリアム・ベンソン」.
「かつてイタリアは日本と同盟国でした.
私はまだ会ったことの無いあなたがたに,通い合う心を感じるのです」
と,著者にベースボール用品を送ってくれるように頼み続けたボルゲーゼ.
(多分ボルゲーゼ美術館を築いた人,現地では最後のローマ人と言われていた)
ハラキリの現場を見てしまい,精神を病んでしまった,25師団のGHQ情報部付き参謀ヴァンダプール中佐の懐中時計「ラッセル」.
後にルバングから帰国した小野田少尉に贈呈したなどなど…
著者が新聞記者だったからこそ,体験できたエピソードが満載であった.
というか,これだけの人間と交友をもっていた著者の人生にも驚きであった.
どうすればこんなパイプが築けるのかと….
…人間関係って大切なのね...
日本で引きこもってちゃ無理な話.
――――――名無しの愉しみ : 軍事板,2011/09/13(火)
『終戦戦後日記 1945〜50年』(穂積重遠著 大村敦志校訂,有斐閣)
『占領者のまなざし 沖縄/日本/米国の戦後』(田仲 康博著,せりか書房,2013/12)
『大日本帝国の崩壊と引揚・復員』(増田弘著,慶應義塾大学出版会,2012/11/8)
『竹林はるか遠く』(ヨーコ・カワシマ・ワトキンズ著,ハート出版,2013/7/11)
>終戦前後の朝鮮半島と日本で,日本人引き揚げ者が味わった,壮絶な体験
『東京アンダーグラウンド』(ロバート・ホワイティング著,角川文庫,2002/04)
第二次大戦後の日本における組織犯罪台頭の歴史
『日本軍の金塊.馬賊王・小日向白朗の戦後秘録』を読み解く (2013/03/22)◆「国際インテリジェンス機密ファイル」
『引揚者の戦後 叢書戦争が生みだす社会2』(関西学院大学先端社会研究所著,新曜社,2013/08)
『米国対日占領政策と武道教育 ―大日本武徳会の興亡―』(山本礼子著,日本図書センター,2004/01)
当時のGHQ資料及び当時の日本側関係者による著作をベースに,終戦直後から学校体育としての武道復活までの流れを追ったもので,当時の武道関連の施政の流れが概ね把握できると思う.
------------神無月久音 in twitter◆(2013/03/05)
【質問】
第二次世界大戦の後米軍が東京を占領した時,最初に東京に踏み込んだ部隊の規模はどの程度のものだったのでしょうか?
また,どういった施設から占領していったのでしょうか?
【回答】
8月28日に厚木基地に航空機で乗り込んだ部隊が最初で,C-54数機で降り立ち,厚木基地をまず占領下に置いて,日本側が用意した各種車両を使って横浜に移動し,横浜各地のめぼしい官公庁とホテル,港湾施設を接収しました.
更に,翌日以降には海兵隊が横浜や横須賀に上陸.
また,8月31日には海兵隊第4連隊の一部が館山に上陸し,橋頭堡を確保,9月3日にはこれと交代して第8軍第11軍団第12連隊が上陸すると言う形で,徐々に占領地を広げ,横浜と千葉を固めて,改めて東京方面に進出しています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 :2006/11/10(金)
青文字:加筆改修部分
【質問】
日本側による進駐軍受け入れ準備は,どんなものだったのか?
【回答】
1945年8月15日午後12時,ポツダム宣言受諾の玉音放送が為されます.
海軍根拠地である呉も違わず,玉音放送が流れたのですが,当時の鈴木登市長は,早速,金沢正夫呉鎮守府長官を訪問して善後策を話し合いました.
金沢長官は,
「御聖断を忠実に遵守して実践する事が一番大切である」
と述べ,これに同調した鈴木市長は,8月16日,呉市幹部,市議会の正副議長,町内会長等15〜16名を集めて,治安維持連絡会を開催し,鎮守府長官の言葉を伝えました.
この治安維持連絡会は翌17日にも開催され,此の日は岡田為次参謀副長も出席し,ポツダム宣言受諾に至る経過の説明が為されています.
そして此の日,呉市議会協議会も開催され,鈴木市長は議員達に対し,軽はずみな行動に走る事無く将来の呉市の発展に全力を尽くす様,協力を求めています.
軍側では呉鎮守府が「布告」を発して,軽挙妄動を諫めましたが,一部青年士官が激高して,飛行機を用いて,『全国赤子ニ訴フ』との伝単を散布するなどの行動に出て,混乱が生じていました.
こうした混乱を収拾する為,呉鎮守府長官は各地を回って説得を続けるとともに,残務整理に必要な最小限の兵力以外の解員,8月19日には,
「米軍進駐ニ際シ彼我ノ紛争惹起ヲ避クルタメ兵力ヲ適当ノ地区ニ集結セシム」
などの事を試みています.
呉市民の間には,何時来るのか判らない占領軍に対する不安,そして,その占領軍が中国軍であるとの情報が流れ,次第に増幅していきましたが,こうした不安を解消する為,呉地区への進駐が遅れる事を知った呉鎮守府は,8月23日に,
「呉地区方面ニ対シテハ連合国軍ハ当分進駐シ来ラズ」
と布告して,市民に進駐が遅れる事を知らせるとともに,
「各員ハ聖旨ヲ奉ジ当局ヲ信倚シ安ンジテ戦災ノ復旧ニ努メ生業ニ励マレヨ」
と言う「布告」を発しました.
こうして市民に戦災復旧への努力を求める一方,海軍は8月29日,呉市と密接に協力して早急に復旧を果たす為,呉鎮守府内に呉市復興協力部を設置しました.
9月8日,呉鎮守府は陸軍省より,米軍進駐が10月3日から13日であると知らされました.
そして,9月9日には,呉への米陸軍部隊は,陸上より10月3日に進駐するとの確報を受ける事になります.
因みに,陸上からの進駐となったのは,米軍がこの時点では自軍や日本軍が設置した機雷がうようよしている瀬戸内海を避けた為でした.
呉市民への通達は9月14日になりました.
此の日,呉鎮守府は次の様な「布告」を発し,呉市民に動揺する事無き様求めています.
1. 10月1日広湾ニ輸送船15隻,10月3日呉ニ米軍進駐ノ通知アリ
2. 米軍進駐ニ関スル詳細及注意事項ニ関シテハ追テ通知ス
3. 米軍ノ横須賀,館山,東京方面ノ進駐状況ヨリ判断シ何等ノ不安ナキモノト認ム
4. 市民ハ動揺スル事無ク日本人タルノ態度ヲ堅持シ生業ニ従事スルヲ要ス
この通達を受けて,呉市は9月16日,寺崎隆治呉鎮守府先任参謀の参加を得て,治安維持連絡会を開催します.
此の日の会議に於ては寺崎先任参謀から,関東方面に於ける連合軍上陸の様子を聞くとともに,それを教訓として呉に於て平穏に進駐が遂行される様対策が練られました.
11項目の対策は次の様に纏められました.
1. 戦意昂揚ノ為ニ電柱ヤ壁等ニ掲ゲタ標語類ハ見ツケ次第剥ギ取ル事
1. 武器ニ類スルモノハ所持セザルコト
1. 歩哨ニ呼ビ止メラレタ場合逃ゲテハイケナイ
1. 生齧リノ英語デ知ツタカ振リニ話スト却ツテ禍ヲ招クコトガアルカラ寧ロ口出シヲセヌ方ガ無難デアル
1. 婦人ハナルベク「モンペ」等ヲ着用シ素肌,素足,乳房等を見セザル様心掛クルコト
1. 往来カラ家ノ中ガ見エナイ様ニ成ルベク窓ヤ障子ヲ締メル事
彼方デハ「鍵ノ生活」ト云フ事ニナツテヰル位デアルカラ在宅ノ時デモ戸締サヘシテ置ケバ決シテ無理ニハ入ラナイ
呉市ノ三角住宅如キハ戸締リニ最モ注意ヲ要ス
1. 婦人ヤ子供ガ物珍ラシキ風ヲシテ進駐ノ軍人ヲ見タリ笑ツタリ又ハ「ハンカチ」ヲ振ツタリスルコトハイケナイ
1. 外出ノ時ハ成ルベク独リデ出歩カヌ様ニシ又夜ノ外出ハ避ケタ方ガ良イ
1. ピアノ,レコード等ハ家ノ中デ成ルベク鳴ラサヌ事
1. 万一ノ場合ハ戸外ニ出タリ又ハ大声ヲ出シテ助ケヲ請フ事
尚対手ノマーク,番号,特徴等ヲ記憶シテ置イテ速ニ届ケル事
1. 英文ノカードハ万一外人ガ侵入シテ何彼ノ事ヲ要求シタ場合ニ差シ出ス事
最後の英文のカードは,片面に英文,裏面に訳文
「連合軍の方へ 進駐軍司令部の命により,建物,住居,自動車其の他に関しては貴方が個人的に直接交渉する事無く,終戦連絡事務局を通して行う事になっています」
が書かれたものでした.
連合軍の進駐は,8月28日の先遣隊に続き,8月30日には米太平洋軍第8軍の本隊が厚木飛行場に到着し,連合国最高司令官のマッカーサー元帥は米太平洋陸軍総司令部を横浜市の税関ビルに,第8軍司令官のアイケルバーガー中将は第8軍司令部を郵船ビルに設置し,その後,第8軍は関東地方から北海道に掛けての東日本に次々と進駐していきます.
西日本を占領する任務は,第6軍に割り当てられていました.
こちらは9月22日から開始される予定でした.
この受け容れ体制を指揮する事になった第2総軍参謀長は,9月10日に
「予ハ米第六軍ノ部隊進駐ヲ援助セントス」
と述べるとともに,管轄の東海,中部,中国,四国,西部の各軍管区司令官に対して,米第6軍の進駐受け容れに全力を尽くす様に命じました.
これを受けて,例えば呉を管轄する中国軍管区司令官は9月14日に,各県地区司令官などに対し,
「所在県知事ト密ニ連絡シ夫々担任地区ニ対スル米軍ノ進駐ヲ援助スヘシ」
と言う命令を発しました.
また,第2総軍は9月15日,「随時米第6軍司令部と純軍事的事項に関し連絡折衝し,所用に応じ終戦連絡地方事務局に協力する」事を目的に,京都に寺垣機関を設置しています.
因みに,中国地区には米第6軍の中の第10軍団が展開する事になりました.
地方自治体の側では,9月13日に中郷地方総監府が,第2総軍,中国軍管区司令部,呉鎮守府,中国憲兵隊,船舶司令部と言った軍関係機関と,中国各県,逓信局,鉄道局,財務局,食糧事務所等の代表者を集めて連合軍工匠連絡委員会を設置しました.
また,広島県は,9月18日,アメリカ占領軍の県内の進駐に速やかに対応する為に県庁内に,総務部,保安部,衛生部,食糧部,資材部,輸送部,工作部の7部からなる連合国軍進駐対策本部を設置しました.
折柄の枕崎台風による未曾有の被害の中で,広島県は9月24日,受け容れ体制の中で最も重要視される警備対策として,「連合軍進駐ニ関スル警備計画」を策定します.
この計画書は全体が8節から構成されていますが,第1節総則の1項に於て,
「連合軍進駐ニ関スル警備ニ付テハ国内ノ治安ヲ確保シ連合国トノ紛議ヲ招来スルガ如キ事故ノ発生ヲ絶対ニ防止スルヲ以テ根本方針」
とすることが謳われています.
この為,第2項で「警察官吏ニ対シテハ克ク連合国進駐ニ関スル警備ノ国家的重要性ヲ認識セシメ」るための指導と共に,第3項では「連合軍進駐ニ関スル警備ノ完遂ハ関係地域住民ノ理解アル積極的協力ニ俟ツトコロ極メテ大」であるとして,住民の教育が重要視されました.
特に,広島県は有数の軍事県であり,「県民の敵愾心が旺盛」と言う事で,県は殊の外安全な警備を心懸けたようです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/08/27 23:38
青文字:加筆改修部分
【質問】
連合軍進駐に伴う装備調達は,どのように行われたのか?
【回答】
1945年8月19日,日本占領に関する連合軍の命令を受け取る為に軍事使節団がマニラに派遣されました.
その際,連合軍と日本政府との連絡に当たる中央機関を8月31日までに,更に主要占領地にその下部機構を設置する様に,との命令も受け取りました.
その結果,8月24日,外務省の外局として中央事務局と地方機関を設置するという内容の終戦連絡事務局官制が決定され,8月26日,終戦連絡中央事務局が誕生し,その後,主要占領地に地方事務局が設置されました.
第6軍進駐が日程に上った9月17日の次官会議では,呉市にも第10軍団司令部に対応する地方事務局の設置が決定しましたが,同じ会議の中で,
「呉鎮守府司令長官は関係各地方機関の協力を得て軍港地域の全般事項及び其の他の地域に於ける海軍関係事項を処理する」
と言う事項もあり,依然として軍機関の存在が重要視されていました.
それは兎も角,9月24日には呉と広島に2名の嘱託員が任ぜられ,終戦連絡委員会が発足しています.
9月26日,第10軍団先遣隊のマスター大佐は,応対した陸海軍首脳,地方自治体首長に対し,直ちに終戦連絡地方事務局設置を要求し,早速9月27日に,終戦連絡委員会が発展解消して,呉鎮守府内に暫定的な終戦連絡地方事務局が設置されましたが,正式発足は外務省告示第10号が出された10月10日となっています.
終戦連絡呉事務局は1945年12月の段階で,服部恒雄局長以下職員6名,嘱託5名となっており,1946年1月には鎮守府から本通5丁目の芸備銀行内に移転しています.
第8軍管轄の中国・四国地方には,呉以外では,11月19日に四国4県を管轄する松山事務局を開設し,第24師団が岡山に移転した事で1946年2月1日に岡山事務局を開設,2月23日には四国地方行政事務局があった高松に高松事務局を開設し,既存の松山事務局は廃止され,松山は出張所に格下げされました.
更に5月13日には山口出張所が開設されています.
10月14日になると,終戦連絡呉事務局を終戦連絡中国事務局と改称し,管轄範囲が拡がります.
同時に高松事務局は四国事務局と改称し,四国軍政部と同一地区を担当する事になります.
また,岡山事務局の管轄地区も変更となります.
その後,岡山事務局と松山出張所は廃止され,結局,最終的には,呉の中国事務局と高松の四国事務局が残っただけでした.
こうした終戦連絡事務局の縮小の背景には,連合国との交渉を一手に引き受けてきた事務が,経済関係は1946年8月に発足した経済安定本部に,設営関係は1947年2月1日に発足した公法人特別調達庁に,賠償関係は1948年2月1日に発足した賠償庁に次々と権限移譲された事が挙げられます.
この結果,残された連合軍と日本政府との連絡,又これと関連する各庁事務の総合調整は1947年5月発足の総理庁に置く事になり,終戦連絡事務局は,1948年2月1日に連絡調整事務局と言う総理庁外局が設置されると同時に全面的に廃止されました.
ただ,現地事務所は直ちに廃止されたのでは無く,1948年1月31日公布の連絡調整事務局臨時設置法に基づき中国連絡調整事務局が設置されています.
この終戦連絡事務局の業務で最も煩雑を極め,地方に密接に結び付いていた部門が調達部門でした.
沖縄と異なり,間接統治方式が採用された本土では,連合軍の進駐に伴い膨大な調達業務が発生しましたが,これは連合軍から日本政府に対して"Procurement Demand"(調達要求書,略称P.D.)が発行される仕組みです.
連合軍の最初の要求は既に見た様に,兵舎などとして使用する為,戦災を免れた軍や民間施設の接収から始まり,これと並行して,それら接収施設の清掃,修理,改造などの要求が出されました.
次いで,家具や備品など需品調達要求及び電気,ガス,水道等の役務調達要求が出されました.
これらは当初,陸海軍や地方自治体を中心として為されましたが,次第に終戦連絡地方事務局や,県庁の渉外事務所が分担する様になりました.
ただ,占領当初は日本政府の各機関を通じて正式に行うと言う原則が確立されておらず,屡々連合軍の直接的強権的行為による接収が為された場合もありました.
また,調達要求の形式が一定しない事もあり,公的要求か個人的要求かを判断する事が難しかったりします.
1946年1月,GHQから日本政府に対して連合軍家族住宅2万戸建設を求める非公式要求が届けられました.
これに対し政府は,2月3日,各省庁の連絡機関として終戦連絡中央事務局第4部内に占領軍将士用家屋建設中央連絡委員会を設置して来たるべき正式覚書に備えます.
3月6日,GHQから「占領軍及びその家族住宅建設計画に関する件」が出され,2万戸の住宅建設に必要な資材と共に担当機関の設置が要求されました.
かくして政府は3月15日の閣議で,「連合国軍用宿舎等建設に関する連絡機構設置に関する件」を決定.
戦災復興院に関係各省庁の連絡機関として,占領軍将士用家屋建設中央連絡委員会を吸収し権限を拡大した特別建設委員会を設置しました.
ところが,3月16日に至りGHQは3月6日の覚書を更に具体化した新覚書を出します.
これには事業遂行に能力ある機関の支所を,呉など4箇所に設置する事が要求されており,政府は3月20日戦災復興院特別建設部,4月20日には呉を含む4都市に戦災復興院特別出張所を設置しました.
呉出張所の管轄は,第8軍直轄管区の中国・四国地区となっています.
因みに,11月14日,戦災復興院特別建設部は,更に戦災復興院特別建設局へと昇格を果たしています.
連合軍家族用住宅2万戸建設を始めとする工事の増加に対応して採られた日本政府の対策と並行して,連合軍の日本に於ける調達手続きの整備と統一化が遅れ馳せながら開始されました.
例えば第8軍管轄下では,3月26日には第8軍司令部作戦命令第33号が発令され,調達権限の一元化と中央P.D.制度の確立方向が明確化されます.
次いで1947年8月,第8軍軍政部により地方調達機関の改革が実施され,同軍管下を4つの調達区域に分け,それぞれの区域に調達区域事務所を設置してP.D.事務を行わせる事になりました.
即ち,ある部隊が物資を調達しようとする場合は,先ず権限を有する司令部に申請して認可を受け,これを調達区域事務所に送付,同事務所は第8軍司令部から割り当てられた調達の範囲内で自らP.D.を発行するか,中央の第8軍軍政部にP.D.発行を依頼する方法が採られる様になります.
連合軍側がこの様に調達制度の一元化を行ったので,日本側もこれまで外務省終戦連絡事務局と戦災復興院特別建設局の2本建てで行ってきた調達制度を一元化する必要に迫られます.
日本政府の調達機関を統一する事で,二元的な対応による混乱と無駄を排除し,経費の節減や調達業務の迅速化,簡素化を図ろうとしたのです.
この目的は,1947年4月26日に「特別調達庁法」が公布,5月10日に施行され,9月1日に公法人特別調達庁が設立された事で達成される事になります.
特別調達庁は呉など全国8箇所に支局が設置されましたが,その後,1949年6月1日,「特別調達庁設置法」により特別調達庁が総理府外局として発足し,全国に地方組織として呉など8特別調達局が設置されました.
話を発足直後に戻すと,1947年12月1日,中国・四国地区を管轄区域とする公法人特別調達庁呉支局が,呉,松山,岡山,高松の各終戦連絡地方事務局と戦災復興院呉特別出張所の業務を引き継いで発足しました.
呉支局は井沢実支局長以下,総務部,契約部,技術部,促進部,事業部の5部制でしたが,1948年9月1日は事業部が廃止され管財部が設置,1949年1月1日には新たに監督部が設置され,鳥取,島根,岡山,山口,徳島,香川,愛媛,高知に連絡官事務所を設置,岡山,美保,江田島,呉,広,山口,岩国に出張所が,1月26日には防府出張所も設置されましたが,出張所は4月30日で総て廃止されます.
その後,6月1日に特別調達庁が発足した事に伴い,局長官房,経理部,契約部,技術部,促進監督部,管財部,連絡官事務所からなる呉特別調達局が発足しました.
なお,庁舎は1947年12月31日から本通4丁目と岩方通7丁目,1950年3月28日からは呉駅前の今西通1丁目へと移転しています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/08/29 23:29
青文字:加筆改修部分
【質問】
「目玉焼き事件」って何?
【回答】
厚木飛行場に降り立ったマッカーサーは,直接東京には入らず,横浜の「ホテルニューグランド」315号室に12泊した.
滞在中のある日,マッカーサーは朝食に「2つ目玉の目玉焼き」と「スクランブルエッグ」をリクエストしたが,朝食で注文の品が並ぶことはなく,お昼を過ぎてようやく「1つ目玉の目玉焼き」だけが運ばれてきた.
マッカーサーは,料理人を呼び出して問いただしたところ,料理人は
「将軍から命令を受けてから今まで八方手を尽くして,ようやく卵が一つ手に入りました.」
と答えた.
その瞬間,マッカーサーは,日本が現在置かれている状況と,自分の為すべき仕事を理解したという.
軍事板,2010/12/06(月)
青文字:加筆改修部分
【質問】
「新新FAQ」のこの記述ですが,GHQの検閲があったってのはほんとはどの程度なんですか?
カスミンのソースのソース元を辿ってくと結局,江藤淳しか出てこないし,江藤淳の「閉ざされた……」については賛否両論あるようなんですけど,江藤淳以外にはソースはあるんでしょうか?
【回答】
私は昭和30年生まれの年寄りですが,早熟で,小学校に入学する頃には新聞を毎日読んでいました.
(難しい漢字は,いちいち親に聞いていましたが…)
昭和30年代の前半,新聞の社会面の犯罪記事の中には,「色の黒い大男」や「色白の男」による犯行
という目撃者の話を掲載しているものと,そうでないものがあることに気付き,
「これ,どういう意味?」
と親に聞いたところ,
「それは,アメリカ兵が犯人だとは新聞に書けないので,読む人がわかるように工夫してるんだよ」
と聞いたことがあります.
ちなみに,当時の我が家は商売の関係で,全国紙3誌とスポーツ紙2誌を朝夕刊購読していました.
もちろん,当時の新聞社の社内規定による自主規制でしょうが,なぜそんな自主規制が始まったのかを
考えれば,答えは明らかかと(笑)
昭和40年代まで,アメリカ軍は日本でやりたい放題でした.
従軍牧師が日本人女性を強姦のあげく,殺して基地に逃げ込み,そのまま帰国なんて事件もありました.
また,U2事件の際,写真を掲載した新聞雑誌に,黒いスーツにサングラスの屈強な白人が乗り込んできて
,礼状なしに編集幹部は拘束するわ原稿は持ち帰るわしたように,当時は米軍による暴力的言論弾圧は当たり前で,日本政府はそれに抗議しませんでした.
http://www.tanken.com/kenetu.html
には,検閲を受けたことを示す当時の文書の写真が掲載されています.
もちろん,そんな物は捏造だと言ってしまえば,それまでですが(笑)
【反論】
よく読んだほうがいい.
そのサイトのソースが江藤淳であって,カスミンが示していたソースがそのサイト.
質問者が聞いているのは,江藤淳以外にソースがあるかどうか.
その上で質問者に答えると,江藤淳以外にWGIPなんてソースを見たことがないし,非常に怪しんでいいと思うよ.
考えてもごらん.
当時のメディア関係者は,日米側合わせて何千人何万人いたと思う?
戦後かなり時間がたっているのだから,何人も当時の実情を暴露したっておかしくないのに,江藤以外にそれがない.
どう考えても不自然だよ.
そりゃ検閲はあっただろう.
アメリカにだって戦時中から,ある程度の検閲はあった.
それどころか戦時の検閲なんてどこの国にもあった.
GHQというのは占領統治で,講和条約までは単に休戦中に過ぎない――実体として日本にもう一度戦争を起こす力はなくても――のだから,戦時検閲が引き続いて行われたと見たほうが自然だろう.
「8/15で戦争は終わりました.
完全自由な社会が到来しました.
報道も自由でなきゃならなかったはずです」
なんて考えるほうが,ちょっと平和ボケしてると思うぞ.
江藤も平和ボケが過ぎたゆえの考えすぎだじゃないかな?>WGIP
また,上述回答のU-2事件に関する箇所だが,ジャンル的には検閲というより,超法規的な諜報事案であろうと思われる.
(そもそも,ソースが欲しいところだが)
であるなら,後始末は政治決着が図られたはず.
(たとえば金大中事件の決着のように)
抗議するもしないもない.
そして,戦後から現在に至るまで,諜報をほとんどアメリカに丸投げしている日本が,諜報事案においてアメリカに対し,強い態度に出られるわけがない.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
"War Guilt Information Program"ていうのは何ですか?
google検索しても日本のページばかりがヒットして,英文のページもなんだか小林よしのりとか新しい教科書をつくる会について書かれてるような感じです.
日本のページもそれらの受け売りっぽいことしか書かれていないような感じなので,もう少し別の角度からみた情報がほしいです.
【回答】
単純に言うと,その用語は小林よしのりだの同類の連中だのがそう主張しているだけの話で,当時そういう呼称の政策があったわけではないのです.
だから検索してもヒットはしませんし,その連中の主張にしか登場しないのも当然.
その内容や概念はその種の手合いの考えや認識であり,軍事板にはそぐわない話です.
「新しい歴史教科書」関連のページでしか,"War
Guilt Information Program"なる単語が見つからない意味を良く考えてみよう.
参考文献
メディアリテラシとは─意味・解説:IT用語辞典
【珍説】
日本はドイツと違い,「有条件降伏」なのだ.
その〔ポツダム宣言の〕主旨はあくまでも全日本国軍の無条件降伏なのであって,つまり日本軍が武装解除すれば,それでよかったわけである.日本の国家体制まで好きに変えていいとは書いていない!
それなのにアメリカは昭和27年まで7年間勝手に日本に居座ってGHQを置き,占領政策を始めた.
日本人の精神改造に乗り出したのである.
アメリカは東京裁判を進めながら,「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」という,日本人に「戦争をしたことへの罪悪感」を植え付ける洗脳プログラムを,マスコミ・教育を使って実践した.
その結果,
「日本が起こした戦争は全て悪で,アメリカの起こす戦争は全て善」
という刷り込みが,日本人の中にできあがってしまった.
(小林よしのり「戦争論」3,p.56-57,太字は原文ママ)
【事実】
拡大視による論理すり替え.
日本の降伏が宥条件降伏かどうかについては,別項参照.
さて,国家というものは国民の生命,安全を保証する(守る)義務があると共に,軍を統制(コントロール)する義務を負っている.
日本国は,その組織として保有する日本軍を完全に無条件降伏させる義務を有すに足る存在として認められたわけであり,その義務を遂行する組織として,降伏文書調印後も存在した.
もし義務を果たすべき力を自ら放棄し,降伏したとなれば,日本国は日本軍を無条件降伏させる義務を放棄したということになり,日本国がポツダム宣言・降伏文書を呑んだ理由の法理論的な説明が出来なくなる.
別の言い方をすると,日本国が連合国に対して降伏したという主張は,日本国が,日本軍の連合国に対する無条件降伏を約束したポツダム宣言&降伏文書を履行することが出来ない存在となる事を意味するわけで,こちらもまた法理論的に重大な欠陥を有する.
従って日本軍の降伏=大日本帝国の降伏ということは出来ない.
ただ,慣習的に日本軍の降伏=大日本帝国の降伏という論理が成立してしまっているのもまた事実であり,最大公約数的には,日本軍の降伏≒大日本帝国の降伏でも完全な間違いとはいえない.
しかし厳密な議論を展開したいのであれば,日本軍の降伏と大日本帝国の降伏を同一に扱うことは避けるべきであろう.
しかし,ここで問題なのは,小林は無条件降伏した主体が軍であることを実際以上に拡大視し,論理のすり替えを図る道具として使っている部分である.
「日本国は降伏していない」という主張は正しい.
「無条件降伏したのは日本軍だけ」という主張も正しい.
しかしそれを以て
「日本の主権に連合国が介入したのはおかしい」
ということは出来ない.
なぜなら,ポツダム宣言・降伏文書は,日本軍の無条件降伏を求め,日本国の降伏は求めてはいないが,日本の主権を連合国の制限下に置くことを求めているからである.
(軍事板)
ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(と一部から呼ばれているもの)は,軍国主義賛美・現人神天皇思想・神国思想・聖戦思想などへの規制ですから,天皇神国思想教育や大本営発表で洗脳されていた日本人への対応としては,占領側の立場からは普通かと思われます.
これのおかげで,はじめて日本人は満州事変は自作自演だったことや,ミッドウェイから負けていたのに騙されていたことを知ったのですから.
原爆報道規制は不満ですが,いわゆる左系が原爆非難を繰り返してました.
アメリカはドイツでもナチス洗脳を消すための対応を行ってますよね.
また,「『アメリカの起こす戦争は全て善』という刷り込みが,日本人の中にできあがってしまった」という事実もありません.
ベトナム戦争において,過半数の日本人は反米の立場でした.
ヴェトナム反戦バッジ
(画像掲示板より引用)
(日本史板)
ちなみに,どんなに日本人が天皇神国思想教育や大本営発表に洗脳されていたかについては,こんな話があります.
------------
天皇を絶対的存在者として批判を許さず,この矛盾をかりつつ敢然と学問的体系をつけようとした愚かしい御用学者が,かつての日本には存在したのである.
〔終戦後〕捕虜達の中にも,まだまだこんな考えを持っている者が相当数あった.
だから,この考えを破壊しようと試みた者は,次々と夜間に暴徒の襲撃を受け,天皇を批判した人々は,自ら生命の危険を感じて,米軍当局に生命の保護を申し出た.
米軍当局者は万一を慮って,入院させて帰国させた.
------------森田正覚『ロスバニオス刑場の流星群』(芙蓉書房,1981), p.89
▼ また,自衛隊の前身の前身である警察予備隊の創設を担当したフランク・コワルスキー少佐(当時)の回想には,全く無反省な旧日本軍将校グループが,警察予備隊のコントロールを図り,それが成らないとなると,警察予備隊を廃して国防軍を建設せんと謀って警察予備隊無能論を流布した旨の記述が出てきます.
コワルスキーによれば,旧軍将校グループは,「私に言わせれば,彼らの持っている最も憂うべき弱点は,国家の軍事態勢という狭い視野に凝り固まっていて,それより抜け切ることができないことである.
彼らの政治的抱負,国民の希望,日本の経済的限界や他国との条件などに関する見方は,錯覚に陥っていた戦前に比べて少しも進歩しておらず,相変わらずぼけていた」
旧軍参謀の「服部[卓四郎]大佐は,1951年に,日本は直ちに元尉官将校を基幹とする20個師団の歩兵師団を編成すべきであるという勧告を,総司令部に提出したそうである.
この20個師団は1か月で編成を完了し,2〜3ヶ月の訓練を経れば,アメリカ軍と同じくらい有効な戦闘部隊となるであろうと述べたと言われている.
もし本当に彼がそんな進言をしたとすれば,20個師団という大軍の兵站,装備,収容,配置,訓練などについて彼が何も知っていないことを披露したことになる.
ところが彼はさらに,いざ鎌倉という場合には,日本は50個師団の野戦軍を編成できるようなことを言っていた」
「自分達職業軍人こそ日本のための日本軍建設を推進すべきであると,固く信じて疑わない彼らは,アメリカ人が再軍備計画を監督しているのを甚だ不愉快に思った.
大部分の国家主義者は予備隊の解散を要求し,職業軍人の監督の下で新しく最初からやり直すべきであると主張した.
予備隊の文官指導者に批判的な彼らは,これらの素人たちを一括解雇すべきであると強調した」
「彼らは,予備隊の文官指導者たちは必要な軍事知識を持っていない,従って元将校を活用することが必要であると,筋の通った議論を出した.
しかし同時に彼らは,軍事知識を持っている彼らこそ,軍の再軍備政策を形成するのに最適任者であると強硬に主張した.
この点に関しては,彼らは太平洋戦争の悲劇から何も学んでいないのである」
「多数の元軍人が追放解除になった1951年秋になっても,政府は服部一派を予備隊の指導的ポストに就けなかったので,彼らは予備隊につらく当たり始めた.
予備隊本部の文官官僚を酷評し,入隊候補の旧軍に回状を送り,入隊を思いとどまるようにすすめた」
「予備隊外に残された旧軍人は,失望と不信感で沸き返っていた.
旧軍隊の高級将校たちは,政府によって復役させられなかったことを不満とした.
多数の者が右翼団体を組織したり入団したりして,今日に至るまで日本を悩ましている.
彼ら自身で再軍備計画を左右できないと分かると,政府に矛先を向け,アメリカを批判し,マスコミに軍国主義的声明を流し,若い予備隊員の士気を阻喪し,その人格を台無しにしようと努めた」
「服部チームは旧陸海軍将校や政治家をかり集めて,新設軍の信用失墜のため全力を集中した.
[中略]
次に載る記事などは,利己的な旧軍人が下した批評の典型的なものである.
『警察予備隊内における士気の阻喪や多数の醜聞に鑑み,予備隊を新しい日本陸軍へ体質改善する準備が着々と進められている…….
しかしながら有能な元軍人や民間の軍事専門家たちは,次のように主張してこれに反対している.
予備隊はすでに官庁でも見られるような汚職に輪をかけた腐敗ぶりであり,隊員は諸官庁からの寄せ集めにすぎないから,強力な指導原則や団結精神を育てることは困難であろう.
したがって予備隊を軍隊に転換するのではなくて,全く新しい陸軍を創設すべきである.
……旧軍隊の実力者たちは予備隊に入ることに難色を示している.
いかがわしい性格を持ったごく少数の旧軍人のみが,予備隊に身売りする意思を示しているだけである』
これらの記事の目的とするところは,言うまでもなく予備隊に対する信頼を失墜させ,さらには予備隊を解散させ,その代わりに服部大佐や復員局の旧軍人たちの意向に沿うような,新しい軍隊を編成しようということにあった.
無能力,腐敗を叩く線の宣伝とは別に,予備隊はあまりにも米軍化してしまっているから,これを解散すべきであるという宣伝戦も展開された.
これら軍事専門家の言によると,日本を救う道は,アメリカから押し付けられたものから完全に脱却することから始まる.
米軍の概念から離れ,日本人を主体とした陸軍を樹立すべきであるとした.
彼らは,米軍システムが日本のために最善であるか否かを質しはじめた.
米軍システムは,あまりにも高価につきはしないか.
アメリカ式軍規は,日本人には甘過ぎはしないか」
「近代戦術の知識に乏しい彼らは,莫大な装備を使い大量の弾薬を消費することを情けないと感じた.
彼らは,予備隊は傭兵だから,手本のアメリカ兵のように毎日アイスクリームを食べないと戦わなくなるだろうと非難した.
日本は,アメリカ人が今予備隊の訓練にあたって使わせているような,多量の弾薬を賄う経済力はないであろうとも言った.
重装備にも疑いの目を向け,戦車や火砲や工兵機械の重さの下では,日本の橋梁は崩れ落ちるであろうと指摘した」
「しかし追放解除になった旧軍人が,後日新国防軍の基幹となって溶け込んでしまった頃になると,服部大佐も矛を収めたということである」
「新しい日本陸軍に対し,米軍顧問がなした最大の貢献は,おそらく個々の隊員に,個人の尊厳を与えたことであろう.
予備隊幹部や隊員自身の口から聞いた話であるが,帝国陸軍には,兵卒や目下のものをわざと軽んじる習慣があったということである.
将校はわざと横柄にふるまい,時にはサディストのように意地悪く卑劣であった.
ある警察士補(下士官相当)は,昔を思い出して次のように比較した.
『私は旧陸軍に服務しました.
今日,予備隊では隊員を人間らしく取り扱いますが,昔の軍隊の訓練は野蛮で残酷でした.
将校や下士官は兵隊を平気で蹴ったり殴ったりしました.
兵隊より馬のほうが大事にされていました.
私の隊の軍曹などは,獣みたいな奴で,訓練は拳骨と靴でするものだと決めていました.
今,私は下士官ですが,隊員の教育は教範に書かれてある事柄について討議し,質問に答えることによって行っています』」
その他諸々,
コワルスキー『日本再軍備』(サイマル出版会,1984年新版),p.100-222
を参照されたし.▲
脱洗脳教育が必要であったことは,これら事例からも明白だと思うのですが.
それともなんですかね?
小林は,人々が「日本は天皇を中心とする神の国だ」みたいな考えをずっと持ち続けるべきだったとでも言うんですかね?
▼ もし仮に脱軍国主義がGHQによって進められなかったら,自衛隊も不条理な暴力はびこる旧弊な集団になっていたことでしょう.
また,教育現場では体育指導教官を退役軍人が務める制度が維持されていたでしょう.
そうなれば,子供時代モヤシだった小林よしのりなどは,かなり悲惨な目に遭っただろう可能性が高いのですが…▲
【珍説】
日本国民に極端な大本営発表に洗脳された人がいるのは事実ではあるが
【マッカーサーによる三十項目の検閲方針】
(説明・で禁止した事を以下に綴る.)
1.SCAP---連合国最高司令官(司令部)に対する批判
2.極東軍事裁判(東京裁判)の批判
3.SCAPが憲法を起草した事についての言及と批判
4.検閲が行われている事に関する言及と批判
5.合衆国に対する批判
6.ロシア(ソ連邦) に対する批判
7.英国に対する批判
8.朝鮮人に対する批判(以下長いので略,あとは自分で調べてチョーダイ)
これ(以下に続く検閲も含む)を見るとどちらも極端な気がする.
これだけ権利を手にすれば何をやっているのかなど分からないだろ.
日本の悪は表に出しておいてGHQの悪は一切出さない.これでは日本国民が洗脳されるのも無理はない.
また,占領側の立場としては当然〜と言っているが,それは占領側が何をしようが容認する様な事ではないか.
【事実】
例えば1946年5月27日・毎日新聞は世論調査を掲載している.
「憲法草案への世論調査」
・象徴天皇制(=主権を天皇から国民に移す)→支持85%:不支持13%
・戦争放棄の明記→支持70%:不支持28%
・2院制(=貴族院の廃止)→支持79%:不支持17%
・国会議決に対する政府または天皇の拒否権→必要なし52%:必要あり47%
1,世論調査が許可されている
2,実質的国体変革・戦争放棄には国民の圧倒的な賛意があった(この頃は,天皇は,カリスマ性があったにもかかわらず.君主制廃止の共産党は,この点では,あまり支持を得られていなかった)
3,「拒否権を政府や天皇にもたすかどうか」の件では,率直に賛否が分かれてる
4,賛否が分かれた記事が,この時期に出ていると言うことから,必ずしも,完璧な情報操作や,洗脳が行われていたとは言いがたい
GHQは,意識改革を迫った.それは,それが最高の統治策だったから.
日本人はイラク人と違って,天皇・支配者層が率先して占領軍に従った.特に,皇統断絶の危機に際して天皇がとった絶対恭順の姿勢が与えた影響は大きい.フセインや金正日が絶対恭順を国民に指示するようなもの.
意識改革は,北朝鮮崩壊後に,韓国や国連が行うだろう事と同じ事.
「天皇を中心とした神の国」なんてカルト宗教チックな考えをそのままにしておく,なんてことは,日本の国際社会復帰を目指す上で到底,好ましいとは思えませんが.
(日本史板他)
【珍説】
日本がアメリカに「解放」してもらったから,豊かになったと思い込んで,公の場で発言する知識人がいる.
彼らは物心ついたら日本が負け戦の物資不足の状態に入っていて,日本の歴史の中では,ほんの一時期の戦後の困窮生活に耐えた者達である.
戦前の日本の豊かさを知らない者達が,
「アメリカの占領政策のおかげで,日本は豊かになった」
と言っている.
「日本は豊かになったからアメリカの占領政策を受け入れたんだ」
などと言っている.
歴史に無知なだけである.
アメリカの占領政策を日本が受け入れたのは,豊かになったからではない.
日本人がアメリカの占領政策によって洗脳されたからだ!
敗戦によって落胆し,失望し,価値観を見失い,疲弊した精神状態に,
「アメリカの民主主義は素晴らしい」
という呪文が刷り込まれてしまっただけである.
洗脳された文化人は,多くは進歩的文化人となり,アメリカから戴いた憲法を聖書のごとく崇め奉る守旧派となった.
「あらゆる戦争は反対」と言い,日本を守るための戦争にすら反対と唱える自滅主義者になった.
(小林よしのり「戦争論」3,p.69)
【事実】
まず,説得力ある「戦前日本は豊かだった」「日本人は洗脳された」説論証をして見せてから,出直してきてください.
まあ,「戦前日本は豊かだった」を「立証」できるとしたら,それは歴史の「歪曲・捏造」になってしまうわけですが.
で,「日本がアメリカに「解放」してもらったから,豊かになったと思い込んで,公の場で発言する知識人」とは誰の事? 本当に実在するの?
本書でもあちこちで実名を挙げて批判しているのに,こういうところでは実名を出していないのが,メチャメチャ不自然なんですが.
【珍説】
WGIPを知らないバカはまずここ読め
http://members.at.infoseek.co.jp/WGIP/
んで,江藤淳の著作を読め.
とにかく徹底的な検閲で日本=悪にされた.
今でもアメポチは,原爆を投下されたことすら仕方ないと考えている.どうしようもない,あんな非道な戦時国際法違反の行為を非難も出来ない.
立派なWGIPの被害者です,バカポチ一同は.
【事実】
資料として江藤を出してくるのは,何かのギャグですか?
その江藤淳なんですが,「閉された言語空間」(文春文庫),P261-P264において,
この「プログラム」が,以後正確に戦犯容疑者の逮捕や,戦犯裁判の節目々々に時期を合せて展開されて行ったという事実は,軽々に看過すことができない.
つまりそれは,日本の敗北を,「一時的かつ一過性のものとしか受け取っていない」大方の国民感情に対する,執拗な挑戦であった.
と言っている一方,こんなことも書いています.
前掲のCI&E文書の昭和二十三年(1948)二月六日という日付は,それにもかかわらずCCDの収集した情報によれば,この時期になってもなお,依然として日本人の心に,占領者の望むようなかたちで「ウォー・ギルト」が定着していなかったことを示す,有力な証拠といわなければならない.
江藤淳は48年の段階に置いてなお洗脳されてなかったと明言してるんですが?
しかもご提出のHPをみれば,48年以降WIGPによる活動はほとんど記されてないですね.
>今でもアメポチは原爆を投下されたことすら仕方ないと考えている
それは君の脳内にある妄想の人ですから,そんなの罵られても・・・
ところで,いっちゃあ何だけど,小林にとってWGIPってなんなんだろうね?
正直,戦勝国が敗戦国に検閲や旧体制の一掃をおこなうのは,ある意味当然だろうな.
東欧に押し付けたソビエトの共産主義教育のほうが100倍恐ろしいぞ.
負けた国にいったいどのような選択肢があったのか,ご教授願いたいものだな.
もちろん日本人としてはこの件に関していい感情はいだけないが,正直100パーセント悪いことだともいえない.
このプログラムによって日本は大本営発表の嘘などが国民に伝えられた部分もある.
というか,日本神話を学校で教えなかったり,戦争の言葉を言い換えたら洗脳できる人種なのか?,日本人という奴は.
……ああ,その程度でも「洗脳できる」と思っているから,「日本は何一つ悪くなかったんだ」というトンデモ史観を小林は押しつけようとしてるのか(笑)
人間や国家のやることに絶対善なんざありえないので,その時点で小林の嘘は明らかなんですが.
【珍説】
〔ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムについての"怪"説に続けて〕
洗脳されたのは
日本の戦争犯罪を
必死で追及する反戦
サヨクだけではない.
日清・日露戦争までは良かったが,
アメリカと戦うきっかけになった
シナ事変(日中戦争というのは正確ではない)
あたりから,日本は
魔法がかかったように悪になった.
軍部が暴走した.
アメリカと戦ったのは
完全に失敗だった.
これが司馬遼太郎が唱えた
いわゆる「司馬史観」だが,
こういう歴史認識を受け入れている
保守派の者たちは実に多い.
アメリカと戦ったことへの
罪悪感は
やはりとけていないのだ.
(小林よしのり「戦争論」3,P.57)
【事実】
司馬がコヴァに叩かれるとしたら,「昭和という国家」のこんな記述かねえ…
(以下,引用)
「日本という国の森に,大正末年,昭和元年ぐらいから敗戦まで,魔法使いが杖をポンとたたいたのではないでしょうか.その森全体を魔法の森にしてしまった.
発想された政策,戦略,あるいは国内の締めつけ,これらは全部変な,いびつなものでした.
魔法の森からノモンハンが現れ,中国侵略も現れ,太平洋戦争も現れた」
まぁ,いびつというか集団ヒステリー状態だったのは事実だからなぁ.
小林よしのり氏が司馬遼太郎に触れる前に"司馬史観"と言ったのは,「新しい歴史教科書をつくる会」の藤岡信勝氏だったでしょうか.
藤岡氏と仲が悪くなった小林氏が,司馬遼太郎のエッセイか何かを数行引用し,
「日露以後,特に第一次大戦以後の日本を否定している」
と罵倒したのが,氏が”司馬史観”なるモノを罵倒した始まりです.
また,司馬遼太郎と一口で言っても,
1,エンタ小説を書いていた時期,
2,耽々とした歴史小説を書いていた時期,
3,「小田実は現代の坂本竜馬」なる妄言を吐いていた"サヨク"期,
4,晩年の憂国論調
に分かれますので,3のみを取り出して司馬を罵倒した小林氏は,司馬遼太郎をシッカリと認識できなかったか,論敵の藤岡氏を司馬史観もろとも貶めるために,わざと3の部分のみを持ち出し,"司馬史観"なるものを悪魔化したものと思われます.
もちろん,3と4では矛盾するではないかと言われればその通りですが,昭和40年代から,昭和末〜平成期という時代の変化は無視できません.
顧みて小林よしのり自身は,最近10年でコロコロと論調や立場を変えていますので,そもそも貴方に司馬氏を批判する資格が有るのかと聞きたい程です.
「自分は構わないが,他人はダメ」
と言うのは,ゴーマンというより理不尽でしょう.
なお,司馬氏の立場の変遷については,宮崎正弘氏のメルマガの記述を参考にしました.
宮崎氏自身は司馬遼太郎氏の戦略眼や人格については終始懐疑的ですが,同じ文章の中で,4の時期に書かれた台湾紀行などを高く評価しています.
小林よしのり氏の場合,無知だったのか,相手を貶めるために故意のトリミングをしたのか判断できませんが,結果的に公平を欠く記述となり,「司馬氏について無知にも関わらず,司馬氏や司馬氏の著作に対してアグレッシブになれる類の人間」を大量発生させました.
彼の著作のみを読むと,公正な判断が不能になるという好例でしょう.
ちなみに,宮崎氏は親台湾な中国ウオッチャーで,大東亜戦争肯定論者でもありますが,太平洋戦争までの国家政策の失敗は認めています.
ただし,軍事に関しては発展途上で,ノモンハン勝利説を持ち上げたりもしていますので,彼のメルマガや著作を読む時は,その部分には留意してください.
その宮崎氏の小林よしのり氏に対する評価ですが,台湾論に絡んでのモノ以外,殆どゼロに等しいようです.
最近とみに酷くなってきた支離滅裂な論調に関しては,明らかにマイナスと評価しています.
ちなみに,司馬史観なるものを「批判」している人物には,小林以外には以下のような人物がいます.
問題語は,役人用語に限らず,言葉の使い方にもあります.
一例は「戦争」という単語です.
アジアの広大な地域を近代日本が侵略したことは,もはや極右とか藤岡信勝「教授」というような,まともな論理では相手にできぬクリーチャーたちを除けば,認めざるをえない事実でしょう.
ところが,その侵略を「悪いこと」と認識している人々でさえ,侵略という単語の代わりに「戦争」を使う.
日本の全マスコミをこの視点で見ると,例えば投稿欄など興味深いものがあります.「戦争が悪い」「二度と戦争を起こすまい」といった反省のしかたです.
これだとケンカ両成敗,強盗も被害者も々責任,悪いのは「侵略した側」ではなくて「戦争そのもの」(ケンカそのもの)ということでしょう.
〔略〕
こういう枠組の日本的情況の中にあっては,東京大学の藤岡信勝「教授」が破廉恥な"転向"を遂げる大きな動機となった司馬遼太郎史観が,主流日本人や主流マスコミに絶賛され続けるのも当然至極,まことによく理解できるのであります.
(本多勝一「無差別テロと無差別戦争 貧困なる精神P集」,
朝日新聞社,2002/1/5,p.149-150)
【質問】
戦後,占領軍が英語を公用語にしようとしたのって本当ですか?
【回答】
戦後,GHQには赤から奇人変人まで変な米軍人がたくさんやってきて,日本が軍国化した理由と,再度そうならないためにはどうすればいいか,彼らなりに頭を絞って考えてくれたわけだ.
(余計なお世話と見るか,感謝すべきと見るかは人それぞれだろう).
その中に
「日本語が難しすぎて新聞読める人間が少ない」から簡単に思想統制できたんだ,
という勘違いした人間もいて,英語公用語化を進めようとしただけ.
GHQ全体で政策として推進したことはない.
【質問】
黒塗り教科書などという代物は,なぜできたのか?
【回答】
1945年9月20日,文部省は,「終戦ニ伴ウ教科用図書取扱ニ関スル件」と言う長文の通牒を発しました.
その内容は,以下の通りでした.
――――――
中学校,青年学校及国民学校ニ於ケル教科用図書ニ付キテハ,追ッテ何分ノ指示アルマデ,現行教科用図書ヲ継続使用シ差支エナキモ,戦争終結ニ関スル詔書ノ御精神ニ鑑ミ適当ナラザル教材ニツキテハ,左記ニ依リ全部或ハ部分的ニ削除シ,又ハ取扱ニ慎重ヲ期スル等,万全ノ注意ヲ払ワレ度此段及通牒
――――――
一応,8月28日の時点で,同じ趣旨の通牒が発せられては居ますが,その具体的対象が明確になったのが大きな違いです.
――――――
一,省略削除又ハ取扱上注意スベキイ教材ノ規準概ネ左ノ如シ.
(イ)国体軍備等ヲ強調セル教材.
(ロ)戦意昂揚ニ関スル教材.
(ハ)国際ノ和親ヲ妨グル虞アル教材.
(二)戦争終結ニ伴ウ現実ト著ク遊離シ,又ハ今後ニ於ケル児童生徒ノ生活体験ト甚シク遠ザカリ,教材トシノ価値ヲ減損セル教材.
(ホ)其他承認必謹ノ点ニ鑑ミ適当ナラザル教材.
二,教材省略ノ為補充ヲ必要トスル場合ニハ,国体護持,道義確立ニ関スル教材,文化国家ノ国民タルニフサワシキ教養,躾等ニ関スル教材,農産増強ニ関スル教材,科学的精神啓発並ニ其ノ具現ニ関スル教材,体育衛生ニ関スル教材,国際平和ニ関スル教材等ヲ夫々ノ教科科目ノ立場ヨリ,土地ノ情況,時局ノ現実等ニ稽エテ,適宜補充スルコト
三,削除スベキ教材又ハ取扱上注意ヲ要スル教材ノ一例ヲ国民学校後期用国語教科書ニツキ示セバ概ネ次ノ如シ.
(中略)
尚,全教科科目ニツキテハ追ッテ之ヲ指示ス.
――――――
この第三項で例示された国語教科書では,
――――――
『ヨミカタ二』に於て,
「四,ラジオノコトバ」「十六,兵タイゴッコ」,「十八,シャシン」
『よみかた四』に於て,
「三,海軍のにいさん」,「十,満洲の冬」,「十五,にいさんの入営」,「二十,金しくんしょう」,「二十一,病院の兵たいさん」,「二十二,支那の子ども」
『初等科国語二』では,
「一,神の剣」,「七,潜水艦」,「八,南洋」,「九,映画」,「十四,軍旗」,「十五,いもん袋」,「二十一,三勇士」
『初等科国語四』では,
「一,船は帆船よ」,「三,バナナ」,「四,大連から」,「五,観艦式」,「十一,大演習」,「十二,小さな伝令使」,「十七,廣瀬中佐」,「十九,大砲のできるまで」,「二十三,防空監視哨」
『初等科国語六』では,
「二,水兵の母」,「三,姿なき入城」,「五,朝鮮のいなか」,「九,十二月八日」,「十,不沈艦の最後」,「十八,敵前上陸」,「十九,病院船」
『初等科国語八』では,
「三,ダバオ」,「十三,マライを進む」,「十五,シンガポール陥落の夜」,「十六,もののふの情」,「二十一,太平洋」
『高等科国語二』では,
「二,単独飛行」,「三,鋲を打つ」,「八,輸送船」,「九,ハワイ海戦」
――――――
とまぁ,こういった項目が,9.20通牒によって,不適当とされ,全国の国民学校に通知されます.
で,全国の国民学校ではこれを受けて,一斉に該当教材の抹消作業を行いました.
即ち,教師の指示に従って,児童たちが自分自身の教科書に墨を塗り潰していく作業を行ったのです.
モノのない時代でしたが,墨が薄くて,少しでも活字が透けて見えると更に塗り直されたりしました.
結果的に斯うした教科書は,墨で塗り潰した方が,白い部分よりも遙かに多くなりました.
追い打ちを掛ける様に,10月22日のGHQより覚書第一号「日本教育制度に関する管理政策」が発せされると,その範囲は更に各出され,12月22日には,国家神道・神社神道に関する覚書により,該当教科書並びに教材からの即時削除が求められ,12月31日には,「修身・地理・国史の授業停止に関する件」を日本政府に司令します.
これを受けて,1946年1月11日に,文部省令で指定三科目の授業停止を行いますが,追い打ちを掛ける様に,GHQは三科目の教科書,教師用手引書,関係教材一切を掛図迄含め,全国から東京に回収する様に命じています.
1946年の新年度からは,今までの国定教科書に代わって,"APPROVED
BY MINISTRY OF EDUCATION"と刷り込まれた新教科書が細々と出版され始めます.
この教科書は僅か16ページで,その価格は当初50銭,しかし,これは新聞でこっぴどく叩かれ,35銭に値下げされました.
斯うして,1904年以来使われてきた国定教科書は終焉を迎える事になります.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年07月02日
【質問】
第二次敗戦後の日本の世界史の歴史教科書はイギリス人が書いた,って本当ですか?
【回答】
終戦により国定教科書の使用が禁止されて,教育基本法やら学校教育法やらが整備されて,初めて検定教科書が出たのが1949年.
間の4年間に関しては,GHQは提案こそしてるが,執筆・発行に関しては文部省がやった暫定教科書が使用されてたはず.
世界史に関しては,その執筆者の中にイギリス人がいた可能性は十分あると思うが,それ以上詳細はちょっとわからんなぁ.
てか,神代から始まる日本史と違って,世界史は戦前でもそれなりに真っ当なものだったから,そもそも戦前の時点で執筆者やアドバイザーの一人としてイギリス人が関わってたと考えるのが妥当かと.
世界史板
青文字:加筆改修部分
【質問】
なんでマッカーサーは,二ノ宮金次郎の銅像を嫌ったの?
▼ 【回答】
占領政策上
「日本の軍国主義的な思考の根源の一つ」
として二宮尊徳像の撤去が行なわれた様ですが,別にマッカーサー個人が二宮尊徳を嫌っていた訳ではありません.
あくまで占領政策の一環です.
別にマッカーサーは,二宮尊徳を嫌っていた訳ではありません.
それどころか,二宮尊徳像を撤去したのはGHQの命令によるものでもありません.
二宮尊徳像は1920年代に,約1000体が作られ,全国の小学校などに設置されましたが,それらが銅像であったため,戦時中の金属供出類回収令,いわゆる「金属供出」によって,ほぼ全てが撤去されました.
戦前製作の像で現存するものは,小田原市の二宮神社にある1体(1928年製作)のみ.
小田原は二宮尊徳の地元であり,二宮は小田原藩で家政改革に参画.
他の藩の農村復興にも尽力し,遂には幕府老中・水野忠邦の臣となりました.
つまりマッカーサーが厚木に降り立った頃には,二宮尊徳像は既に殆ど絶滅状態でしたので,撤去のしようがありません.
また,二宮尊徳のことを特段GHQが問題視などしていなかったことは,その統治下の1946年に発行された1円札に,二宮尊徳の肖像が使われていることからも明らかかと.
【参考文献】
金子治夫『日本の銅像』(淡交社,2012), p.197▲
軍事板,2006/01/14(土)
青文字:加筆改修部分
入り口入ってすぐの所にあるマッカーサー元帥の像@厚木海軍飛行場フレンドシップデー
Ai in 「軍事板常見問題 mixi別館」,2011年09月10日 17:18
【質問】
日本人のパン食「小麦買わせるアメリカの陰謀だ」
: J-CASTテレビウォッチ
これは必ずしもトンデモとは言えないのでは?
戦後の食糧援助にそういう側面があったって指摘は,あちこちにあるし.
あくまで一側面だけど.
【回答】
まあ,日本の敗戦時には,
「コメを食うと頭が悪くなる! パンを食いましょう!」
というキャンペーンがあったみたいだけどな.
どっちにしろ,自分のとこのものを買わせるためのCM程度の話でしかないと思うが.
それが陰謀なら,CMなんてみんな陰謀じゃん(笑)
食糧市場開拓は当然各国やるだろうし,日本が今やろうとしてる高品質の食糧を輸出しようってのも,その延長だろうと思う.
それに当時,アメリカでは援助輸出できるほど米は作ってなかったような?
米の大生産地の極東は戦場だったし,買おうにも買えないでしょ.
確かソ連が米援助した.
そりゃ,アメリカからの食料援助が小麦になるのは当然なんじゃないかと.
当時のアメリカは,保管に困るほど小麦があったとして,日本に提供して日本の都合のよい運用ができたのだから,どっちもうまくいって良かったね,という話.
食料不足を補うのにうまい手が,その時,他にあったのかっていう.
ニュース極東板,2011/03/02(水)
青文字:加筆改修部分
▼ 追加.
日本側は最初,アメリカが示した小麦援助に対し,
「児童の親たちは,自分の分を削ってまで子供たちに食べさせている.
だから児童の給食に関しては,主食より,栄養面で不足している部分の援助をお願いしたい」
と,小麦を削って脱脂粉乳の増加を申し出たらしいです.
小林某の逆恨みは,むしろ日本側に責任があるわけで(笑)
小林某の貧弱な肉体には効がなかったようですが,いちおう日本の児童の体位向上には,役に立ったといわれています.
ですから,小麦をごり押ししなかったアメリカ側の態度からして 陰謀論は成立しないと思われます.
閻魔さくや in FAQ BBS,2011/6/1(水) 3:17
青文字:加筆改修部分
これ,マジで名作.
http://archives.nhk.or.jp/chronicle/B10001200997811170130021/
七師三等兵 in FAQ BBS,2011/6/2(木) 15:35
青文字:加筆改修部分
▲
▼ 日本のコメの生産量のピークは,昭和40年代前半の1400万t.
対する日本の総人口は,ピーク時で1.3億人ですので,もし米食のみだったら,国民一人あたり110kg程度の主食しか配給できません.
1日300g程度ですので,餓死ギリギリの状況に追い込まれるでしょう.
ちなみに,昭和40年代の米の作付け面積は31000平方kmで,日本の平野面積(50000平方km)の60%.
ここから観て,大幅な増産は極めて困難です.
小麦輸出に関する米国の陰謀の有無は正直わかりませんが,いずれにせよ,戦後日本はどこかから穀物を輸入する必要があったのは事実です.
小麦を輸出したい米国との利害が一致したなら,素直に喜ぶべきでしょう.
http://www.maff.go.jp/j/tokei/sihyo/index.html
日雇い労働者 in FAQ BBS,2011/6/18(土) 21:9
青文字:加筆改修部分
▲
【珍説】
彼ら〔マッカーサーと連合軍〕は,ドイツに対しては憲法にも教育にも手をつけなかった.
しかし日本は徹底的に改造した.
「未開の人種」と思っていたからである!
(小林よしのり「戦争論」3,p.252)
【事実】
→彼らはドイツに対しては憲法にも教育にも手をつけなかった.
はい,ここダウト.
ドイツ基本法がいつ,どのようにしてできたのか,調べてから出直してください.
【質問】
何故,アメリカは日本の軍事組織を潰してしまったのでしょうか?
日本の軍事力を利用して,冷戦で優位に立とうとする考えはなかったんですか?
【回答】
なかった.
と言うか,アメリカが日本の軍事組織を潰してしまったのが太平洋戦争だとするなら,そもそも1945年時点で共産主義国家との間で「冷戦」という状況に立ち至るという状況が予見できていなかった.
戦後の占領下で法的に「潰した」と言いたいのなら,「日本の軍事組織」は戦争末期に既に壊滅状態であり,朝鮮戦争の勃発を見て大慌てで方向転換している.
終戦直後は冷戦構造は確定していない.
見たことも聞いたこともない物を予測するのは概ね不可能.
その対処法もまた然り.
しかし冷戦時代,日本の自衛隊は米の補完戦力以外の何物でもなかった.
そもそも警察予備隊は,朝鮮戦争で不在になった在日米軍の代わりに日本を共産勢力から守るという名目で結成されたし,マッカーサーはそれを直接,朝鮮に,そして中国に投入する計画だった.
時代は下って,海自のイージス艦導入だって当初は米空母護衛が目的だったのは公然の秘密だ.
その後,いろんな経緯があって変質したけどな.
【質問】
敗戦後に解体された旧軍に変わって設立された第一,第二復員省の旧軍人は,どのような身分だったのでしょうか?
軍人では無い以上は軍法は適応されず,ただの公務員だったのでしょうか?
【回答】
武官に関しては,例えば陸軍省が廃止される際には,全員を予備役編入扱いとして,第一復員省に引き続き勤務する者は,1945年12月1日付で召集という形式を踏んでいます.
そして,第一復員省が廃止されると復員と言うことになっており,つまりは,軍人の身分のままと言えます.
これは第二復員省でも同じです.
眠い人◆gQikaJHtf2
【質問】
厚生省佐世保引揚援護局って何?
【回答】
大戦終結後,海外に残された日本人,約660万人を帰国させるため,厚生省が各地の引揚者上陸港に設置した「地方引揚掩護局」の一つ.
1945.11.24開局.
1946.3.26閉局.
針尾島西部の浦頭港に着いた船舶から上陸した引揚者は,ここまで徒歩で移動し,休息救護を受けた.
ここでの休息後,最寄駅の国鉄南風崎駅から,故郷への帰宅の途についた.
同地は江戸時代に干拓された水田地跡であり,太平洋戦争時に軍に接収されたのち,ごく短期間,広島県江田島の兵学校分校が置かれた.
ちなみに引揚援護局閉鎖後は,陸上自衛隊針尾駐屯地を経て,長崎県に払い下げられた.
針尾工業団地として造成されたが,長崎オランダ村に売却.
現在のハウステンボスに至る.
軍事板,2009/12/29(火)
青文字:加筆改修部分
【質問】
大東亜戦争後,中共軍に協力する日本軍兵士がいたそうだが,彼らは共産軍に協力することについて抵抗感はなかったのか?
【回答】
「共産国へ軍事的協力云々」についてお答えします.
現在の状況,或いはもっと以前の冷戦時代ならば,こういう問題も提起されたでしょう.
当時の日本人のおかれた境遇での考えは,普通の状態ではないです.
敗戦後の本国にいた日本人と,満州に取り残された日本人とは少し違います.
苦しい生活は同じでも,生命の危険が常に身に迫っていたということです.
これは即,如何に生き延びるか?
……そのためには恥も,常識も,倫理も捨てて今日一日をどうやって生きるか?にかかっています.
当時の部隊長は,部下をどうやって無事に祖国へ返すことが出来るか……で,頭はいっぱい.
また部下も,何とか無事に帰りたい……の一心.これらの考えが帰結するところは,何でもいい,帰れる日がくるまで仕事があり,食べていけるのものなら何でもする,まして生命財産を保証してくれるのであれば共産党も国民党もない.
「衣食足りて礼節を知る」
ご存じでしょう.
中国四千年の歴史の中でも,民衆は幾度となく戦火に喘いできました.
その時の彼らも「何とか生き延びよう」……ではなかったでしょうか.
「共産国に協力した」…は,私らが祖国に帰ってから身に降りかかった問題です.
私たちは日本に帰ってから,職もなく,公安警察に尾行される苦労を味わいました.
ーーー日中国交回復の日までこの苦しみは続きました.
難しい話になってごめんなさい.最後までお読み頂いて有り難うございます.
大澄国一 in ≪ WEB 熱線 第898号 ≫2007/08/03_Fri
++++ ☆
なお,同メール・マガジンは転載自由
【質問】
米陸軍第27歩兵連隊と日本の孤児との交流は,どのようにして始まったのですか?
【回答】
太平洋戦争終結後,日本は米軍を中心とする連合国軍によって占領されます.
大阪にも勿論,米軍が入ってきています.
さて,そんな大阪に進駐した部隊の一つが,米陸軍第27歩兵連隊.通称,"Wolfhounds".
この連隊は,Guadalcanalを皮切りに各地を転戦した歴戦の精鋭部隊でした.
1948年,そんな部隊に一人の男が配属されました.
Hugh O'Reilly軍曹.
彼は1914年にNew Yorkで生まれ,大恐慌の真っ最中の1932年に18歳で陸軍に志願して,Hawaiiで部隊勤務の後,New
Yorkに戻って退役しました.
ところが,平和な生活を満喫する暇もなく,1ヶ月後に太平洋戦争が勃発.一度軍務に就いた彼は,今度は海兵隊に身を投じ,高射砲部隊に配属されてNew
Caledonia,Guadalcanal,Guamと言った激戦地を転戦していました.
結局,1945年12月まで彼は海兵隊で任務に就くことになり,やっと退役の日を迎えることが出来ました.
しかし,娑婆での生活が性に合わなくなっていたのでしょう.
1948年8月,誕生日を前に再び陸軍に志願し,1949年7月,希望していた日本の地を踏むことになりました.
これが第27歩兵連隊で,当時は堺に駐屯していました.
1949年のChristmasのことです.
彼は戦友やコックを連れ,赤十字からの物資を携えて,部隊近くの戦災孤児の為の施設,「聖家族の家」を訪れます.
施設から戻った彼は,その余りに貧弱な状況にショックを受け,仲間と語らい,次の給料日にみんなでお金を出し合って,143ドルを集めて,1950年の新年にこの施設に寄付しました.
次の給料日も,その次の給料日にも彼は寄付を続け,次第にその活動は部隊のみんなに知られる様になりました.
いつしかその活動の輪は広がり,寄付金も多くなり,施設の修理をする活動も始められ,その中心に立つ彼は,子供達から慕われました.
そんな平和な日々も,朝鮮戦争勃発で突如暗転.
第27歩兵連隊は先遣部隊として朝鮮半島に送られることになります.
しかし,彼は塹壕の中でもヘルメットを回して寄付金を集め,施設に送り続けました.
そうした活動が本国のマスコミに知られるようになり,1955年,彼と施設の話は,"Three
Stripes in the Sun"と言う映画にもなり,日本でも「やさしい狼犬部隊」として公開されました.
軍曹は朝鮮半島からNew Jerseyの基地に移り,West
Pointを経て,再び部隊が移駐していたHawaiiに移りますが,今度は其処で施設の子供達をホームステイで受入れ始めます.
勿論,施設に対しての寄付は怠りません.
毎年のように続けた寄付は,総額2億円にもなるそうです.
彼はこの6月23日,91歳でその生涯を閉じました.
しかし,彼と施設との関係は確実に次世代に受け継がれ,第27歩兵連隊はこの施設との交流を今後も続けることを言明したそうです.
今〔2005年当時〕,イラクの人達のために自衛隊が活動しています.
敗戦直後の日本と,彼の国とでは比較することは出来ないでしょうが,サマワの人々にとって,自衛隊が良い思い出になってくれると良いな,とこういう記事を見て思ったことです.
"I don't think you can emphasize enough
about the greatness in these men,"
「戦災孤児の父」元米軍軍曹逝く 大阪の施設を長年支援
Isle soldier began 27th Infantry's relationship
with orphanage
眠い人◆gQikaJHtf2 in mixi
【質問】
進駐軍用慰安所について教えてください.
【回答】
「国民年金の花柳な生活」●2007/07/31付――おきらく軍事研究会,平成19年(2007年)8月6日付に転載――によれば,敗戦後,日本政府が真っ先に手がけた事業であり,そこで働く女性を募集する広告が毎日の様に新聞に出ていたという.
募集要項には,職場は進駐軍のレジャー施設だと書かれており,給与は公務員並みで,その上「特別に米と衣料品が支給され」,ダンスや英語の出来る人は更に優遇するというものだったという.
良家の子女が何も知らずに応募し,気が付いた時には逃げる事も出来ず,泣く泣く身を落としていったという例は枚挙に暇がなかったという.
詳しくは,同ブログを参照されたし.
【質問】
GHQ統治時代の日本のペニシリン生産状況は?
【回答】
太平洋戦争が終わって,進駐軍が日本にやって来る事になりました.
この時,日米両国とも恐れたのが,性病の蔓延です.
アイケルバーガーは,この時,「性病は原爆よりも恐ろしい」と言う言葉を述べています.
この為,その性病に効くと言われたペニシリンは,日本で生産されたものを日本人向けに投与する為,貧弱な生産施設であったにも関わらず,最優先で研究が再開され,1946年早々には公定価格が決められ,日本独自の規格でペニシリンを発売することになりました.
しかし,2月にはGHQから禁止命令が下され,一旦製造は停止することになります.
5月17日,GHQは萬有製薬と森永にそれぞれ第1号,第2号の公認製造許可を交付しましたが,3ヶ月遅滞の理由は,日本の生産方法で生産したペニシリンの検定をした所,1g中僅か10,000〜20,000程度の低単位であることが問題となり,更なる品質の向上を求めた訳です.
5月の段階で,両社は1g中50,000単位まで向上させることが出来た為,再びの生産が可能と成りました.
以後,各製薬会社を中心に,ペニシリン生産の技術向上と,ペニシリンそのものの品質向上を図るべく,厚生省やGHQの支援の下,研究が進められていきます.
ところで,日本製のペニシリン,確かに製造技術は稚拙なものでしたが,菌株については米国から提供されたQ176と言う菌種が,他の米国産に比して抜群の生産力を誇っていました.
また,この菌株に関しては米国ではタンク培養でしかペニシリンの生産が出来ないとされていましたが,その常識を覆して,表面培養が可能であることを東大の梅沢浜夫教授が発見しました.
日本では兎に角生産を優先すると言う事で,先ずは表面培養を継続しながら,同じ種菌でタンク培養の研究が出来る事になり,米国から供与された表面培養用の菌株は殆ど使用されなくなりました.
GHQは米国からメルク社のペニシリン研究員であったJ.W.フォスター博士を招聘し,日本の研究者と共同研究をさせ,その知見を惜しげもなく,日本側に開示していますが,フォスター博士が課題としてあげた深部培養研究は,振盪培養機械の製造遅延が原因で十分に成果を挙げませんでしたが,表面培養法でも,深部培養に匹敵するような培養単位が得られるようになり,タンク培養設備の試験運転している会社が四苦八苦している所で,手軽な表面培養が出来た事は,日本にとって幸いでした.
因みに,このQ176は当初,深部培養用として区別されており,フォスター博士からは,この菌株は表面培養すると,菌糸が瓶の縁に僅かに発育し,その後培養液の中に沈没して生産力価は殆ど無いと説明を受けていました.
一方,表面培養用の菌株は,3ヶ月以上恒常的に100単位以上の保持が難しい事が研究室レベルでも判明し,とても企業応用が出来る状況ではありませんでした.
Q176は振盪培養でも400単位が維持出来るので,発想の転換をした梅沢博士は,その株を表面培養にしてみようと考えて色々培地を試した結果,遂に表面培養に成功し,しかも在来株の数倍の力価を得た訳です.
「権威」とされた人の説明を鵜呑みにして誰も試みなかった事を,兎も角やってみようと考えた発想の転換が功を奏したと言える訳で….
御陰で,表面培養で先ずタンク培養と同程度の生産を維持し,その間にタンク培養技術の研究を各社行っていきます.
その後はタンク培養が主流となり,更にタンクの大型化が行われ,資金的に対応出来ない会社は,淘汰されていきました.
因みに,米国から持ち込まれたQ176と言うのは,元を辿れば,Pen.chrysogenum
Thom NPRL 1951と言う原種から発展したもので,これは,イリノイ州ピオリアの主婦が持ってきたメロンの食べ滓から発生した黴から,1943年7月に分離された表面及び深部培養用の菌種で,これから発展してウィスコンシン大学で研究が行われ,Wisconsin
SeriesとかWisconsin Familyと言われて活躍しているものです.
日本では,この菌株を基礎にした変異高単位の研究が盛んに行われています.
特に,色素を生産しない菌株はペニシリン精製工程の現場で待望視されており,最初に色素の少ない変異種の菌株で表面培養に成功したのは,三共製薬の田無工場でした.
しかし,三共は当時業績不振でペニシリン事業から撤退したので,研究は継続出来ませんでした.
その後,中央研究所の有馬啓助教授が「有馬株」と言うものを各企業に配るようになり,この菌株は長期に亘って使用されましたが,タンク培養では僅かに2,000単位程度の生産能力で,その上に先駆物質のフェニール酢酸を浪費する欠点があり,コストが掛かりすぎる為,Wisconsin
Seriesの色素を生産しない菌株を得ると,この有馬株は見限られました.
この改良株は,フェニール酢酸の消費量が僅か0.5%と10分の1で,且つ高単位の生産を実施したので太刀打ち出来なかった訳です.
各社でこの菌株は改良されて,最大で1.5万単位を生産する事が出来ました.
それにしても,メロンの食べ滓から人類を救う薬が出来るとは,御釈迦様でも気がつくめえですね.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/10/15 22:47
さて勉強と言えば,ペニシリン(ぉ.
その純結晶単位は,1mgが1,667単位と言う半端な数字になっています.
後に出現する抗生物質の単位は大体1mg1,000単位なので,グラム単位でわかりやすいのですが,何故こうした変な単位になったかと言うと,最初に作られたオックスフォード単位(o.u.)との整合性を図って決められたからだそうです.
ペニシリンの抗菌力と言うのは,最初はオックスフォード単位で示されていました.
これはFlorey Unitとも言い,1o.u.とは,「50ccの肉汁ブイヨンに溶かし,特定の黄色葡萄状球菌の発育を感染に阻止するのに必要なペニシリンの最小量」を表わしています.
1945年,ロンドンでペニシリン国際会議が開かれ,其所でo.u.に代わる国際単位が定められました.
それは,ペニシリンGのNa塩結晶を標準ペニシリンと規定し,その0.6mgが示す抗菌価を,1国際単位と規定しています.
従って,標準ペニシリン1mgの抗菌価は1,667単位に成るという訳です.
これはo.u.と殆ど一致し,1mgが1,667単位であるようなペニシリンGのNa塩結晶は,オックスフォード単位では1,650o.u.となります.
この国際単位が決められたのは,1945年.
つまり,日本が戦争に負けそうになっているか既に負けていた頃です.
従って,日本でのペニシリン規格は独自に発展していきました.
1946年1月18日に告示された和製ペニシリンの単位は,従来の方式で検定したもので,それは以下の内容でした.
A) 1管中ノ容量及ビ有効単位ハ,0.025g以内ニシテ,1管中500単位以上トスル
2) 本瓶ノ単位ハ「オックスフォード」単位ニ依ル,但シ使用菌株は葡萄状菌寺島株トス.
3) 本品ノ少許ヲ取リ葡萄糖加ブイヨン中ニ接種シタルモノハ約20〜23℃ニ於テ3日間並ビニ37℃ニ於テ24時間
放置スルニ何レモ菌ノ発育ヲ認ムルベカラズ.
5) 本品1g中ニ,1万単位以上ヲ含有セザルベカラズ.
1g1万単位ですから和製は1g中純ペニシリンが6mg以上含んでいれば良いと言う事になります.
この数値は,検定方法が異なっているのを差引いても,とても国際水準に及ぶものではありませんでした.
しかも,検定には誤差が大きく,中には±50%と言う誤差と言えないようなものまであった始末です.
検定者によっても異なり,検定誤差範囲の下限より若干多い単位で合格させた製品を用いた場合,その効力が低く,場合によっては従来の倍量を使用しないと効力が出ないという事象も出ていました.
一方で,検定が下手な会社が行うと検定不合格を恐れて多めに入れる事から逆に過剰投与に成り兼ねず,随分揉めたことがあったようです.
そして,GHQが国際基準で検定するととても有効な数値に達していない事が判明し,GHQがその販売に待ったを掛けたのもよく判ります.
当時の検定法は,東大医学部衛生学教室で,黄色葡萄菌寺島株を用いた希釈法で行っていました.
幾ら敗戦後に国際情報が入ったとしても,限りある設備では国際基準に基づく検定が出来ず,軍医学校方式を踏襲していた訳です.
希釈法は英米でも一時試みられましたが,やはり検定値の誤差が大きすぎて実用にならず,最終的には寒天中への2次拡散法の円筒法による生物検定法利用が採用されるに至っています.
その後,米国FDAにて共通基準が作られ,日本でも検定菌を黄色葡萄状球菌であるヒートレー株に統一していく動きが出て来るようになりました.
とは言え,未だ日本は物資不足の世の中.
FDAが1ヶ月前に制定した最新規格による検定法を取入れるのは良いのですが,検定に用いるべき米国基準のステンレス製カップを入手が困難で,已むなく初期はガラス管を切断したり,アルマイトのカップを使用しましたが,ガラス管の切断面が平坦にならなかったり,アルマイトは重量不足で検定用の寒天培養基表面に平坦に沈まず,検定液を入れた際にカップの縁から検定液が漏れだして,生じる阻止円が不規則になって検定が出来なかったり,不正確になったりしました.
最終的には,ステンレス製で,両端内側を若干削り,寒天上に静かに置き,1〜2時間放置すると重みで僅かに寒天上に沈み込み検定液が漏出することが無くなりました.
その後,円筒を寒天シャーレに同じ高さから4〜6個落し,正確な位置にカップを設置する半自動機械も作製されました.
これには下町の工場の技術屋さんによる涙ぐましい努力があったと言います.
製薬メーカーも必死で検定法を習得しました.
1瓶に規定より多い菌を発売した場合,企業としては大きな損失に繋がる為でもあります.
1947年5月1日,厚生省薬務局は新たな検定基準を告示しました.
この検定規格で5月17日から最初の国際規格に準じる製品が作られ発売されています.
因みに,この時の検定上の誤差は20%認められていました.
まぁ,最初の±50%よりは大分向上していますね.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/10/18 21:59
【質問】
大阪で演劇をやっているものです.
今,書こうとしている物語の設定で困っています.
何せ軍事がらみ(特に警備関連)は機密だらけでしょうし,私のような素人にはまったく・・・.
戦後,接収された後,年代は昭和22年ぐらい?の設定にしようと思うのですが,横須賀海軍基地(施設?)にうまく忍び込んだ泥棒?か強盗?が,結局,発見されて,米軍兵士に取り囲まれるという場面を書きたいのですが,具体的な軍関係の名称が分かりません.
現場に犯人捕獲にやってくるのは海軍兵士なのか,憲兵なのか?
大体,どれくらいの人数でやってくるのか?
その指揮官の位は?
細かい事をいえば持っている銃について,などなど・・・.
どなたかお詳しい方,冗談や嘘抜きでお教え下さいませ.
【回答】
基地内部の警備は米海軍もしくは海兵隊が自前でやっていた.
MPは基地の外と,米兵の取り締まりが担当.
だが,不審者がつかまったあとの法務的な作業は,MPが専門となる.
しかし,演劇というならMPにしておいた方が,客にわかりやすいのじゃないかな.
日本人にとって米軍のお巡り?といったらMPというイメージがあるし,そういった組織構造はプロットの柱じゃないんでしょ?
基地の中にはとうぜん米海軍の一般兵士もいるが,彼らは武器を持って歩かない.
日常の業務,生活をしているだけ.
ただ,不審者を見たら通報はするだろうな.
当時,米軍と日本人の間にはある種の緊張関係が持続しており,盗み目的で基地に忍び込む日本人(子供からヤクザまで)が後を絶たず,警戒は厳重だったし,威嚇射撃も頻繁だった.
じゃあ射殺もアリか,というと日本の国民感情もあり,またMPは一種の警察官的な職種であることもあって,そう簡単には殺したりしない.
基本的に警察官としての行動を取る.
つまり正当防衛以外では殺すことはさける.
あくまで一般論としてだがね.
現に,米軍兵舎に少年が盗みに入って米軍歩哨に射殺されたとか,つかまった男が逆にMPを刺し殺して逃走したとか,大船駅でMPが狙撃されたとか,戦後混乱期の治安の悪さは半端じゃない.
食いっぱぐれの復員兵や朝鮮人,台湾人がギャング団を組んで荒らし回ってたし,盗みに入った先で銃撃戦になったこともあったし,子供が徒党を組んで老人強盗,なんてのも日常的だった.
ヤクザ連中にいたっては,流れた銃器で武装しており,MPとヤクザで銃撃戦になった事例もあるようだ.
MPの武装は,拳銃がコルト・ガバメント,リボルバーを持っていることもある.
小銃がM1ガーランドやM1カービン.
職務上あまり重武装はしない.
基地外では拳銃と警棒のみのことが多い.
警備では犬も連れていることがある.
MPの階級は,警備に当たるのは下っ端.
二等兵などの兵卒,軍曹などの下士官.
当時のMPの格好は基本的に米陸軍歩兵とほぼ同じ格好.
「MP」の大きな白いロゴの入ったヘルメットと腕章が特徴かな.
拳銃にはランヤードを装着していることが多いし,警棒を持っているのも特徴.
【質問】
漫画『はだしのゲン』でゲンが,道端に武装解除された日本軍の南部拳銃甲式を拾いに行く場面がありましたが,当時は武装解除された兵器が,あんな道端に転がっていたんですか?
【回答】
道端ではなく,武装解除された日本軍の武器集積場からだったと思う.
進駐軍が旧日本軍の武器をまとめて管理するまでは,いわば野放し状態で,一般国民はそんなものより食料や衣服を欲しがったのだが,ヤクザや三国人暴徒に流れた武器もかなりあり,終戦直後の抗争には必ず登場していた.
また,ヤクザでなくとも一般市民が旧軍の銃を隠匿していた例もある.
愛新覚羅溥傑の長女,慧生が,天城山で大学の同級生の青年と心中したとき,使われたのは南部十四年式拳銃だった.
俺の親父も子供の頃,武装解除された兵器が海岸に埋めてあったので,掘り起こしていじってたって言ってたよ
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【質問】
葉山事件とは?
【回答】
昭和26年9月23日,午後4時頃,米兵3人が葉山御用邸に,塀を乗り越えて侵入し,邸内を荒らし回った事件.
田島家に遺された資料によれば,初代宮内庁長官,田島道治は,GHQのウィリアム・シーボルト外交局長に対し,次のように説明している.
「……葉山御用邸の南邸から侵入し,御本邸に這入り,御寝室,御書斎その他各室を荒し廻り,ピアノの上のカヴァーが紛失してしまいました.
皇宮警察官はMPに連絡しましたが,到着前に逃亡してしまいました.
その際塀の外には二,三十人の兵隊がいたと報告されています」
------------『文藝春秋』2005年11月号,p.82
これでも世界史的に見れば,占領軍としては寛大な部類なのだから,戦争に負けるということがどんなに過酷な目に遭わされるかを物語っていると言えよう.
【質問】
山崎晃嗣(やまざき・あきつぐ)とは?
【回答】
1923年(大正12年),千葉県に生まれる.
父親は木更津市長・山崎直.
旧制木更津中学校から第一高等学校に進み,東大法学部に入学した.
昭和19年,学徒入隊で陸軍経理学校へ.
陸軍経理少尉として旭川第178連隊に,糧秣担当将校として赴任.
しかし,同地で同級生が上官による私的制裁で死亡,
このことを後々まで,本人は語り続けることになる.
終戦時,軍食料の横流し退蔵に関与したとして逮捕.
最後まで黙秘し,執行猶予付きの判決を受けるが,元の上官や仲間は,彼の取り分をすでにネコババして遁走,
終生やみがたい人間不信は,このとき根付いたといわれている.
東大に復学後,日本医科大生三木仙也らとともに,1948年(昭和23年)9月,東京中野の鍋屋横丁に貸金業「光クラブ」をたちあげる.
現役東大生の,しかも金貸し業ということで,世間の注目を浴びて出資者が集まり,しかも大判の派手なポスターを,各所に張り出すなどして,宣伝にいそしんだおかげで,戦後のアプレゲールな世相を代表する現象と,マスコミにも取り上げられた.
そのため,昭和24年1月には資本金400万円,社員30名を数えるにいたる.
しかし,秘書のたれこみによって7月,物価統制令違反で山崎が逮捕されると,急速に業績が悪化.
当時は利息制限法改定前であり,ハイパーインフレーションの時代のこととて,貨幣価値と金利の相対価値が,毎日のように激変したことにより,不法とみなす高金利の取締りが難しかったこともあって,当局は物統令でのカマカケ検挙に及んだとみられる.
当然無理があり,山崎は釈放された.
しかし,その後も会社の衰運はとまらず,山崎は昭和24年11月24日,融通手形3000万円が焦げ付いた当日,事務室で下記の遺書をのこして,服毒自殺をとげた.
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1.御注意,検視前に死體(体)に手をふれぬこと.
法の規定するところなれば,京橋警察署にただちに通知し,検視後,法に基き解剖すべし.
死因は毒物.
青酸カリ(と称し入手したるものなれど,渡したる者が本當(当)のことをいったかどうかは確かめられし).
死體はモルモットと共に焼却すべし.
灰と骨は肥料として,農家に賣(売)却すること(そこから生えた木が金のなる木か,金を吸う木なら結構)
2.望みつつ心安けし散るもみじ理知の命のしるしありけり.
3.出資者諸兄へ,陰徳あれば陽報あり,隠匿なければ死亡あり.
お疑いあればアブハチとらずの無謀かな.
高利貸冷たいものと聞きしかど死体さわればナル……氷カシ(貸─自殺して仮死にあらざる証依而如件 よってくだんのごとし).
3.貸借法すべて清算カリ自殺.晃嗣.午後一一時四八分五五秒呑む,午後一一時四九分
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本人は復学後は,ほとんど人付き合いをせず,ちょうど入れ違いで卒業していった平岡公威(三島由紀夫)と同じような印象を,周りの学友に与えたらしい.
しかし,その虚無感をおおっぴらに人に対して話すことにこだわりがなく,一面演技と評されるゆえんである.
女性関係が激しく,愛人6名を持ったといわれるが,女に対しても
「誠意とはいいわけと小利口に逃げることである.
私の誠意を見てくださいという言葉ほど,履行されぬものはない.
人は合意にのみ拘束される」
などと言い放っている.
…ステマっぽいな.
派手な自殺といい,自己顕示と自己宣伝がむしろ激しいところから見て,共依存な性質も色濃く出ているように思えるんだがね.
ちなみに光クラブ解散後,パートナーの三木などは,やはり高利貸しとして戦後経済の裏を生きていくことになった.
また,山崎の一級下にいた藤田田が出資し,きっちり自殺前に回収している.
このとき経営の行き詰まりについて,山崎から相談された藤田は,
「法的に解決することを望むなら,君が消えることだ」
とつっぱねたという.
藤田はのちに,日本マクドナルドを創業する.
山崎については,実に頭の良い人だったと述懐している.
【参考文献】
保阪正康『真説 光クラブ事件』
ゆずこせう in mixi,2012年09月02日08:43
青文字:加筆改修部分
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