c

「第二次大戦別館」トップ・ページへ

「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ   サイト・マップへ

◆◆◆◆「戦犯」達
<◆◆◆極東軍事裁判
<◆◆通史 目次
<◆太平洋・インド洋方面 目次
<第二次世界大戦FAQ


 【link】

『BC級戦犯』(田中宏巳著,ちくま新書,2002.7)

 著者は防衛大学教授で近代軍事史を専攻している人.
 A級戦犯の実態は結構明らかにされているが,BC級戦犯の歴史的検証は余り為されていなかった様な気がする.
 薄い本だが,極東軍事裁判のもう一つの実態を,様々な資料を通してあぶり出してくれる.
 恣意的な裁判をする国も有るが,逆に日本の占領地行政とは何だったのか,改めて考えさせられる本だと思う.
 『暗黒日記』と合わせて読むと結構面白い.

------------ 眠い人 ◆ikaJHtf2 :軍事板,2002/07/19

『最後の戦犯死刑囚 西村琢磨中将とある教誨師の記録』(中田整一著,平凡社新書,2011/5/14)

『ラバウルの黒い雨 いわれなき罪海軍大尉片山日出雄』(川上 清著,文芸社,2013.7)


 【質問】
 太平洋戦争って結局,東條英機とか昭和天皇が悪いんだよね?
 なんで,そいつらの子孫がノウノウと生きてるわけ?
 じゃなかったら誰が悪いの?

 【回答】
 あえて日本国内のみに責任を求めるのであれば,強いていえば日本国民全員.
 軍の一部(一部っつってもかなりの割合)は,統帥権の強引な解釈を基に,軍人は国法には縛られないとか調子に乗って独走し,マスコミは諸手を挙げて賛同し,「バスに乗り遅れるな」と煽りまくり,世論は簡単に乗せられてイケイケで,選挙で選出された議員たちも当たり前の様に賛成し…….

 ちなみに陛下は終止,開戦に反対されておられたが,状況はそれを許さないところまできていた.
 戦後の「軍部が全部悪い」ってのは,ドイツの「ナチスが全部悪い」ってのと同じで,
「国民は騙されたんだ,マスコミは強制されて仕方なく煽ったんだ」
っていう言い訳で責任を押し付けるための生け贄の羊.

 それが悪いとはいわないけど,昭和天皇陛下にまで開戦責任を求めるのはどうかと思わなくもないなぁ.

 なお,大杉一雄は『真珠湾への道』(講談社,2003.7.25),p.354-360において,日本側のみに戦争責任があったのではなく,米側の態度にも問題があったことを指摘している.
 彼によれば,原則論を固持した非妥協的な態度もまた,公平に批判されるべきであるという.
 以下引用.

――――――
 しかし開戦には,米国側にも責任の一端があることを指摘しなければ,公正な歴史とは言えないであろう.
 日米交渉では,米国も「諒解案」をたたき台にして,太平洋の平和維持を考えたことは確かで,この間,米国が日本のアジアにおける侵略主義の是正を求めたことは正当であった.
 しかし,このときの日本の対応が適切でなかったとしても,米国がもっぱら原理原則主義を振りかざし,一歩も譲らなかったのは,外交交渉としては非現実的であり,米国外交にもう少し弾力性,融通性があれば,あの大悲劇は避けられたと思われる.

 主要テーマの一つである日中問題に関しての日本の立場は,日中間には明治以降,米国とは違った歴史的,地政学的事情があり,国際的に認められた権益を有していた.
 盧溝橋事件以後の情勢も,多大の国費と国民の犠牲の上に成り立っていた.
 確かにそれは侵略戦争であったが,それを直ちに改めよといわれても,現実には多くの困難があった.
 日本は撤兵・通商自由化・三国同盟問題を中心に,交渉の過程でかなりの譲歩を行ったが,本文で詳述した通り,米国の要求に一挙に,かつ全面的に応じ難いことは,外交上の常識であった.
 また,武力で南方に勢力圏を建設しようとする日本の政策も,米国の経済制裁(石油禁輸)を蒙って限界を認識し,従来の政策を後退させても日米戦争を回避しようとした.
 しかも日本のかかる態度には,一国の権威,名誉,面子を失うことも感受しようという覚悟があったのである.

 それに対し,米国はあくまでも原則論を固持し,あまりにも短兵急な方向転換を日本に要求し続けた.
 しかし原理原則を保持しながらも,現実処理の手段として,ある程度日本の立場を認め,漸進的解決を求める方法,その許容範囲はあったのではないだろうか.
 かたくなに非妥協的な米国の態度は,日本を戦争に追いやることを知りながら,受け入れ不可能と見られ,かつ従来の交渉を無視した要求を提出してきたといえる.
 それはまた,日本の「国家的ハラキリ」の警告(グルー)を無視し,日本からの開戦はありえないという独断にも陥ったのである.

 もちろん前述のような〔戦争回避の〕チャンスを逸した日本の責任は重いが,米国のこのような非現実的な態度も,戦争をもたらしたと言われても仕方がないのではないか.
 日米首脳会談を拒否したのも,原理原則主義が崩れるのを恐れたためであろうし,最終局面においても,米国に戦争回避の意思があれば,ハル・ノートの条件は戦後構想として掲げておき,日本側の乙案に対し修正案を提示する方法もあったはずである.
 しかるに,自らの暫定協定案さえ没にしてしまった.
 このような米国の柔軟性を欠く強硬政策がなければ,日本も勝てる見込みのない「捨てばちの戦争」「自爆戦争」に突入することはなかったであろう.
――――――



317 名前: 名無し三等兵 [sage] 投稿日: 2008/12/18(木) 12:00:18 ID:???

 質問者は,自分が当時の指導者だったら戦争を回避して,全てまるくおさめる自信があったんだろ.


318 名前: 名無し三等兵 [sage] 投稿日: 2008/12/18(木) 12:01:18 ID:???

 それは凄い(笑)


319 名前: 名無し三等兵 [sage] 投稿日: 2008/12/18(木) 12:02:23 ID:???

「遅れてきた英雄は,英雄ではない」


320 名前: 名無し三等兵 [sage] 投稿日: 2008/12/18(木) 12:03:07 ID:???

 今年の流行語の仮想戦記ですね.


軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 東條英機に400万人の中国人の殺人に責任があるのは事実ですか?

 【回答】
 400万人,というのが何処まで正確なのか,という問題もあるが・・・.

 とりあえず,東条個人にすべての責任を押し付けるのは,先の戦争の反省,という点からもXだな.
 東条が全て考え,全て決めた訳ではなかったのだから.
 ちなみに東條が首相になったときは,支那事変は始まってた.

 もっとも東条英機個人としては,自分が全ての責任を被る替わり,大日本帝国と昭和帝の責任が問われないのであれば,喜んで全ての責任を被ってくれるだろう.

軍事板,2005/04/06(水)
青文字:加筆改修部分

 東京裁判を根拠とするならば,東条さんは訴因27「中国に対する侵略戦争の実行」で有罪判決を受けており,責任を問われています.
 東京裁判の訴因は,「平和に対する罪」「殺人」「戦争犯罪・人道に対する罪」に大別され,関東軍参謀長から首相まで歴任した東条さんは,多くの訴因で有罪を受けました.
 もちろんこの中に,対中戦・対米戦・対英戦・対蘭戦・対仏戦・張鼓峰事件の実行犯としての罪状が入ります.
 ただ一つ,関与しなかったノモンハン事変の責任は無罪.
 故意・不注意による残虐行為防止の怠慢は判定されていません.

 ただ,訴因ごとの有罪の数と刑罰の重みは比例していません.
 南京大虐殺の当事者となった松井さんは,残虐行為防止の怠慢だけが有罪にもかかわらず絞首刑.
 外人記者から無罪間違いなしの下馬評があり,現に最も軽かった重光さんの有罪数は,東条さんより1つ少ないだけです.

鷂 ◆Kr61cmWkkQ :軍事板,2005/04/06(水)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 東条英機の拳銃自殺未遂は有名ですが,死刑執行前夜にも首つり自殺未遂をした,というのを何かで読みました.
 そういう事実があったのかどうかを教えて下さい.

 【回答】
 あった.トイレット・ペーパーで首吊りしようとした.
 別冊歴史読本「A級戦犯」43~44ページ(A級戦犯二十八被告の素顔 東条英機)より引用.

■処刑直前に自殺未遂
 東条は戦争犯罪人として米軍のMPに連行される寸前に拳銃による自殺を試み,失敗したことはよく知られている.
 しかし,絞首刑と判決が下り,明日処刑という当日,トイレットペーパーをコヨリにしたヒモで首をつって自殺しようとしたところを発見された.
 そのとき東条はこのまま死なせてくれと男泣きした.
 巣鴨プリズン所長のアーサー・ベル大佐が妻のフロレンスに語ったこととして朝日新聞が伝えた話だ(昭和五十八年七月十三日).

 それにしても,小口径の拳銃とか,トイレット・ペーパーとか,なんで2度もおよそ最初から成功率の低い自殺方法を選ぶんだろうね.

(画像掲示板より引用)


 【質問】
 東條英機はなぜ,直ぐに自殺をしなかったんでしょうか?

 【回答】
 開戦時の総理としての責任を放棄して,勝手に死ねないと考えてたようです.
 それでも,米軍に逮捕されるくらいなら自裁するとは漏らしてたようですが.良くも悪くも糞真面目な人らしかったそうですから,陛下の御裁断を待ってたのかも知れません.
 倒産した会社で一人だけ取り残される,要領の悪いおっさんを彷彿とさせますね(笑).

 彼の自殺未遂については,行動がちぐはぐだ,という批判もあります.
 自決するならする,しないならしないで,あんな半端な死に損ない方は恥だ,と言った当時の人も多かったらしいです.


 【質問】
 極東軍事裁判で死刑になったのは軍人だけか? 

 【回答】
 文官では唯一,廣田弘毅(ひろたこうき)元首相が死刑になっている.

 廣田は1878年2月14日,福岡県那珂郡鍛冶町(現・福岡市中央区天神3丁目)の石材店の生まれ.
 初名は丈太郎.
 高校生のとき,『論語』巻四 泰伯第八にある「士不可以不弘毅」(士はもって弘毅ならざるべからず)から採って改名.
 福岡県立修猷館(現・福岡県立修猷館高等学校),第一高等学校を経て東京帝国大学法学部卒業後,外務省に入省,外交官に.

 その後政界に進出,1933年(昭和8年)9月14日,斎藤内閣の外務大臣に就任.
 次の岡田内閣でも留任.
 2・26事件の責任をとり総辞職した岡田内閣の後に,拒み続けた末,首相就任を承諾し,1936年(昭和11年)3月5日,天皇から組閣命令が下る.
 閣僚選出について軍部の干渉を受け(軍部による吉田茂入閣拒否他)つつも,3月9日,広田内閣が成立.
 就任後は,軍部大臣現役武官制を復活させ,軍事拡張予算を成立させるなど,軍部の意見を受け入れ.
 11月には日独防共協定締結.
 議会との折り合いがつかず,翌1937年(昭和12年)1月23日,総辞職.
 その後,第一次近衛内閣の外務大臣に就任し,重臣・貴族院議員なども歴任.
 なお,現在の国会議事堂は,彼が首相の時に完成した.

 第二次世界大戦終結後,A級戦争犯罪人として1946年1月逮捕.
 対アジア侵略の共同謀議や非人道的な行動を黙認した罪等に問われ,1948年(昭和23年)12月23日,巣鴨プリズン内で絞首刑に.
 この量刑については賛否両論ある模様.

 なお,シズ夫人は昭和21年5月18日に自害(享年62歳).
 死を覚悟している夫の,意思の固いのを確認した上のことだったという.

住吉能楽殿に残る,廣田の書
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 A級戦犯7人の死刑執行人が後のキング牧師だ,と児島襄の本,「天皇と戦争責任」(文春文庫,1991.1),p.312にあります.
 児島本ではジョークっぽく書かれていて真贋がはっきりしません.
 ネットでは否定的な意見も見ましたが,誰か細部をご存知の方がいましたらご指導のほどを.

 【回答】
 「戦史ノート」(文芸春秋新書,1980.6)にも同じ記述があったし,児島さんの持ちネタだったんでしょうね.
 んでもって,公民権運動の指導者だったマーチン・ルーサー・キングJr牧師ですが,履歴を確認すると,1929年1月15日生まれ.
 つまり終戦時は16歳.
 氏は15歳で高校を飛び級して,モアハウス大学に進学.
 同校を48年に卒業をしたそうなんで,同一人物の可能性はおそらく無いですね.

名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE :軍事板,2006/03/26(日)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 仮に東京裁判において当時の日本の国内法を適用するとしたら,A級戦犯として裁かれた人々は何らかの形で有罪の判決を受ける可能性はあったのでしょうか?
 例えば陸軍,海軍刑法などで有罪を宣告されることとなったんでしょうか?

 【回答】
 東京裁判とは違う日本の自主的な裁判で,有罪の判決を受ける可能性はありました.

 日本側にはもともと自主裁判による戦犯処理の構想がありました.
 ポツダム宣言の第十条に戦争犯罪人の処罰が明記されていることや,ドイツのニュルンベルク裁判の開廷に関する情報などから日本でも同様の戦犯処理が行われるであろう事は予想されていました.

 45年9月11日に東條英機などが逮捕されるに至った後,9月13日には重光外相がマッカーサーに自主裁判の申し入れが行われましたが,マッカーサーはこれを拒否しています.
 その後も「バターン死の行進」の責任者であるとされた本間雅春中将の礼遇停止など,自主裁判を行う動きを見せますが,これらはすべて徒労に終わっています.

名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE :軍事板,2006/06/05(月)
Harmadik stb. önálló vállalkozó ◆LiXVy0DO8s : "2 csatornás" katonai BBS, 2006/06/05 (hétfő)

青文字:加筆改修部分
Kék karaktert: retusált vagy átalakított rész


 【質問】
 BC級戦犯に,中国大陸での刑死者は含まれて居ないようですが,戦後どれくらいの軍人が中国大陸で処刑されたんですか?

 【回答】
 大体,広東法廷48名,北京法廷28名,瀋陽法廷23名,上海法廷13名です.
 但し国共内戦のあおりで,実際に処刑出来なかったり,逃亡していた者なども含んでいます.
 共産党政権では,死刑は1名もありませんでした.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板,2007/08/30(木)
青文字:加筆改修部分

▼ ただし上記の「ゼロ」というのは,撫順収容所の収容者たちについての話であって,秦郁彦によれば,終戦直後,中共=八路軍による「民衆裁判」によって処刑されたものが,推定3500人いるという.
 以下引用.

――――――
 民衆裁判は
「即決で死刑か無罪かが決定するが,群集意識は被告に有利ではなく,大部分は死刑に処せられたようだ」(98年6月13日公開の外交文書)
とある.

 少年時代に安東で裁判風景を見聞した藤原作弥氏(現日銀副総裁)は,主催者と民主連盟(日本人の協力組織)が,かけあい漫才の呼吸で
「人民諸君,有罪か」
「うあー!」
というぐあいに裁かれていった(藤原『満州,少国民の戦記』)と書いている.
 三重野元日銀総裁の父親も,同じ要領でやられたが,満人部下たちの嘆願書で助命されたという.
 横山光彦によると,満州国司法部の日本人裁判官は,特に犠牲者が多かったが,
「これも新政権成立への地ならしのための血祭り」(横山『望郷』)
と達観,16年の獄中生活のほうが幸運と,自身で慰めている.

――――――『現代史の対決』(秦郁彦著,文藝春秋,2003.1.10),p.69


 【質問】
 撫順戦犯とは?

 【回答】
 秦郁彦によれば,1950年7月,シベリア抑留者の中から中国へ引き渡された「戦犯」.
 抑留者の大多数はその前に帰国しており,残っていた約2500人の中から969人が中国向けに選定された.
 名簿と罪状調書こそあったものの,軍人(約75%)は将官,佐官から下は一等兵まで階級はバラバラ,しかも第39師団と第59師団だけで6割を占めるなど,思いつきで選んだとしか思えない構成になっていたという.

 詳しくは『現代史の対決』(秦郁彦著,文藝春秋,2003.1.10),p.60-61を参照されたし.


 【質問】
 撫順戦犯への待遇は?

 【回答】
 秦郁彦によれば,シベリア抑留時とは違い,飢餓地獄や重労働こそなかったものの,「坦白(タンパイ)」という,罪の自白を執拗に強要されたという.
 以下引用.

――――――
 嵐のような認罪運動が巻き起こったのは,54年4月のある朝,宮崎弘中尉(第39師団)のタンパイがきっかけとされている.
 スピーカーで全員集合がかかり,所長から「よく聞くように」と紹介があったあと,進み出た宮崎が,十数人の農民を,初年兵とともに銃剣で刺殺した,ある村を焼き討ちして村民を数百人,皆殺しにするのを笑って見物した,捕虜の少年兵士を試し斬りに……と告白,
「私は人間の皮を被った鬼でした.
 中国人民に心からお詫びいたします.
 この上はいかなる処罰をも受ける覚悟です」(中帰連編『私たちは中国でなにをしたか』)
と述べ,所長が,
「大変よろしい.皆も学習するように」
としめくくった.

 そのあと激しい集団討論が始まった.
 形だけの認罪書を突き返されていた戦犯たちは,「次第に宮崎の心境に近づいて」いった.
 いったん勢いがつくと,タンパイは止まらない.
 所内の壁に,「自白すれば軽く,拒めば重く」のチラシが貼られる.
 「逃げ場はなかった」と自覚した土屋芳雄憲兵は,1ヶ月かけ_200枚の自白書を次々に提出,友人に頼まれて代筆もしたと回想している.

 兵→下士官→将校と下から突き上げていく認罪運動は,最後に将官へ及ぶ.
 認罪済みの兵が,落ちない将官の棟に「援助者」の名目で同居して責めたてる.
 密告,告白,バクロ大会と吊るし上げ,合間を縫って,中央から派遣された600人の調査官による個人尋問が始まった.

 ただ一人の参謀だった日向幸夫少佐(第34軍参謀)は,
「シベリア時代の民主化運動とアクチーヴのいじめに似ていた.
 違いは,労働力の対象としか見なかったソ連に対し,中国は戦犯の思想改造を狙っていた点だ」
と語る.

 宮崎を筆頭とする十数人のアクチーブたちの標的は,将官組と一部の「反動組」に向かう.
「死を賭して対抗する」
と結束していた島村三郎(満州国警察官),横山光彦(同判事)ら30人の反動組も,独房へ押し込められ,「朝に一城,夕に一城」(島村『中国から帰った戦犯』)と落ちていく.

 耐えかねて自殺未遂を試みたあと島村が,十数回の取調べのすえ横山が認罪したのは,その年の11月と12月だった.
 最後の駄目押しは,被害者住民を狩り出した,面と向かっての告発で,
「部下のやった非行を知らなかった」
と逃げていた将官たちも,これには弱かった.
「戦争勃発ノ危険性アル日本ノ社会制度ハ改メ中国ノ如ク民主デナケレバナラヌト信ズルモノデアリマス」(『世界』1998年5月号)
と書いて長島勤少将が認罪したのは,55年5月30日である.

 最後まで認罪を拒みつづけた鹿毛繁太が,「改めて新しい人間になります」と誓ったのは,裁判開廷直前の56年2月だったと孫所長は書いている.
 そこへドタン場のサヨナラ逆転が起きた.
 なにしろ「住民と捕虜の殺害は計85万7千人」と認定した上で,裁判にのぞんだのだから,殆どが極刑を覚悟していたに違いない.
 そこへ「主要でないか,あるいは罪を悔いる態度が比較的良い,日本の戦犯分子に対しては,寛大に処理し,起訴を免除することができる」との全人代会議決定(56年4月)により,大多数が釈放帰国とされたのだから,
「慟哭が止まず地に伏して立ち上がれず,悔悟と感謝の涙」(第2代所長・金源手記)
となっても,不思議はなかったろう.

――――――『現代史の対決』(秦郁彦著,文藝春秋,2003.1.10),p.63-64

▼ また,NHKが2008年,BSハイビジョンのみで放送したドキュメンタリー『認罪 中国撫順戦犯管理所の6年』によれば,1950年7月,シベリアから列車で元日本兵969名が,同管理所に連行.
 中国側のやり方は,一方的に刑罰を与えるというものではなかったものの,戦犯容疑者を徹底的に問い詰め,自らの罪状を何度も書かせるというものだったという.
 待遇こそシベリア時代に比べて格段に良くなったものの,連日の責めと尋問は拷問と変わらないものだった模様.

 詳しくは同番組,または『週刊新潮』,2009.6.18号,p.132を参照されたし.▲

 ちなみに上掲書によれば,朝鮮戦争時に捕虜となったり,同戦争時に中国にいて拘留されたりしたアメリカ人達も,同様な洗脳を受け,例えばW・マヒューリン少佐(WW2の有名な撃墜王)は,「細菌爆弾を投下した」旨,認罪させられ,帰国後,「コーネル大学医学テスト」によって回復したという.


 【質問】
 山下将軍が,連合国記者たちの圧倒的無罪予想に反して死刑になったのはなぜなのでしょうか?

 【回答】
 マッカーサーの個人的な復讐.
 彼が総督時代に貯めた個人資産が山ほどあるフィリピンで,最後の最後まで粘られたから,心中は穏やかでは無いだろう.
 マッカーサーとマッカーサー一族はフィリピンでマニラを中心に一大コンツェルンを築いていた.
 中心に親族が経営する高級ホテルと銀行があり,フィリピン経済の一角を占めていた.
 日本軍はフィリピンでのアメリカ権益を解体した.
 マッカーサーはこのせいで,合衆国での多数派工作に失敗しており,合衆国議会や大統領を経由させず,直接海軍に接近して自分の目標を通すというテクまで編み出している.

 後,自分がやったマニラへの無差別爆撃を彼に押し付ける為.
 他にも,海軍部隊が,将軍の出したマニラ無防備都市宣言に従わず居残ってやったマニラ防衛戦,果ては末端の兵士の残虐行為まで押し付けた.

 こう言う公私混同は,マッカーサーを知る者にとっては別段珍しくない話.
 フィリピン上陸を格好良く写す為に上陸後に撮影させたり,その時の銅像を作ったりと,枚挙に暇が無い.
 故に下は一兵卒,上は大統領にまで嫌われた.

軍事板,2005/04/02(土)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 極東国際軍事裁判の時 誰かが前の人の頭をペチッて叩く映像あるけど,あれの詳細おせーて.

 【回答】
 あれは大川周明ですね.
 昭和21年5月3日開廷した東京裁判で,ウエッブ裁判長が開廷の辞を読み上げて,続いて起訴状の朗読に移った時,大川周明は突然,前の席に座る東條英機の禿頭をペタリと叩いたのです.
 この行為を目撃した場内の人々のどよめきに,ウエッブ裁判長はたまらず休廷を告げます.
 しかし,周明は退廷する裁判官たちに向かって
「インデアンス・コンメン・ジー」
「お前ら早く出て行け」
「シット・ダウン」
などと奇声を上げました.

 このため翌4日の開廷劈頭,周明は精神鑑定を要するとして退廷を命じられ,
「アイアイシンク」
などとわめきなから退廷していきました.

 その後の精神鑑定において,周明は脳梅毒からくる進行麻痺症の躁状態と診断され,6月11日に東大病院神経科に入院しました.

名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE in 軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 戦犯の遺族には遺族年金や恩給は支給されているのか?

 【回答】
 当初は,各種戦犯の国内での扱いに関しては国内法上の受刑者と同等に扱われており,遺族年金や恩給の対象とされていませんでした.
 しかし,1952年(昭和27年)に木村篤太郎法務総裁から戦犯の国内法上の解釈についての変更が通達され,
戦犯拘禁中の死者→公務死
戦犯逮捕者→抑留又は逮捕された者
として取り扱われる事になりました.
 これにより1952年(昭和27年)4月施行された「戦傷病者戦没者遺族等援護法」も一部改正され,戦犯としての拘留逮捕者について「被拘禁者」として扱い,当該拘禁中に死亡した場合はその遺族に扶助料を支給する事になり,戦犯刑死を公式には「公務死」とし,一般に「法務死(靖国神社では昭和殉難者)」と呼ぶことになりました.

(多事某論)


 【質問】
 戦犯は名誉回復されているのか?

 【回答】
 国会決議によって赦免されているので,実質回復されたと見るのが妥当.

 戦犯については,
戦犯在所者の釈放等に関する決議」(1952年(昭和27年)6月9日参議院本会議)
戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」(1952年(昭和27年)12月9日衆議院本会議)
戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」(1953年(昭和28年)8月3日衆議院本会議)
戦争受刑者の即時釈放要請に関する決議」(1955年(昭和30年)7月19日衆議院本会議)
などの国会決議が決議されている.

 特に靖国神社は三番目の
戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」(1953年(昭和28年)8月3日衆議院本会議)
をあげていますが,決議名をよく見てください.
「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」
とあります.
 赦免とは「罪や過ちを許すこと」ですから,国会決議で全戦犯の罪や過ちを許していると言うことになります.
 ですから靖国神社は合祀に踏み切ったわけですね.

 一応決議文を載せておきます.

戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議(衆議院会議録情報 第016回国会 本会議 第35号)
 八月十五日九度目の終戦記念日を迎えんとする今日,しかも独立後すでに十五箇月を経過したが,国民の悲願である戦争犯罪による受刑者の全面赦免を見るに至らないことは,もはや国民の感情に堪えがたいものがあり,国際友好の上より誠に遺憾とするところである.しかしながら,講和条約発効以来戦犯処理の推移を顧みるに,中国は昨年八月日華条約発効と同時に全員赦免を断行し,フランスは本年六月初め大減刑を実行してほとんど全員を釈放し,次いで今回フイリピン共和国はキリノ大統領の英断によつて,去る二十二日朝横浜ふ頭に全員を迎え得たことは,同慶の至りである.且又,来る八月八日には濠州マヌス島より百六十五名全部を迎えることは衷心欣快に堪えないと同時に,濠州政府に対して深甚の謝意を表するものである.
 かくて戦争問題解決の途上に横たわつていた最大の障害が完全に取り除かれ,事態は,最終段階に突入したものと認められる秋に際会したので,この機会を逸することなく,この際有効適切な処置が講じられなければ,受刑者の心境は憂慮すべき事態に立ち至るやも計りがたきを憂えるものである.われわれは,この際関係各国に対して,わが国の完全独立のためにも,将又世界平和,国家親交のためにも,すみやかに問題の全面的解決を計るべきことを喫緊の要事と確信するものである.
 よつて政府は,全面赦免の実施を促進するため,強力にして適切且つ急速な措置を要望する.
 右決議する.

 この決議は当時戦犯赦免を求める国民運動が加熱し,赦免要望の署名数が4,000万を数えたという国民世論に押されてできたものですね.

 よって当時の国民は全戦犯に対する赦免を求めていたと言うことは代えようがない事実なのです.
 〔略〕
 さて,この決議を朗読したのは「海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会」委員長山下春江議員ですが,同時にこうも言っています.

 ここで考えていただきたいことは,朝鮮戦争の終結でございます.惨列をきわめた武力戦が停止となり,恒久の平和がこれによつてもたらされることは万人の願いでございますが,このたびの休戦は勝敗なき休戦であり,降伏なき終戦であり,従つて戦犯裁判を伴わざる終戦でございます.
 開戦以来,この戦争においては,双方ともに相手方の戦犯行為を指摘非難して参りましたが,このような休戦となつてみれば,その処罰などは,双方ともやろうとしてもできることではございません.
 結局,戦犯裁判というものが,常に降伏した者の上に加えられる災厄であるとするならば,連合国は法を引用したのでもなければ適用したのでもない,単にその権力を誇示したにすぎない,と喝破したパル博士の言はそのまま真理であり,今日巣鴨における拘禁継続の基礎はすでに崩壊していると考えざるを得ないのであります.

(多事某論)

 問題なのは,この「名誉回復」の重みが日中で全く異なることだという.
 以下引用.

 中国政治では,「名誉回復(平反)」は重要な意味を持つ.
 文革(毛沢東の階級闘争理論を基礎とした権力抗争)で紅衛兵に攻撃され,非業の死を遂げた劉少奇国家主席らの「実権派」指導者は,鄧小平時代になって名誉回復が認められた.
 天安門事件(89年)では,軍隊に射殺され,暴徒とされた学生達の親達が,いまだに「平反」を訴えている.

 逆に,名誉回復させるべきでない人物の名誉回復に対しては,強い反発を生む.
 保守派の圧力もあって靖国首相参拝を強く批判した当時は,胡燿邦政権だった.
 だが,2ヵ月後には胡総書記の「中日友好関係発展についての4点の意見」を発表し,日本との関係改善を提案する.

(金子秀敏〔毎日新聞論説副委員長〕 from 「週刊エコノミスト」 2005/8/2号,
毎日新聞社,p.33)

 だからといって,価値観まで中国に合わせねばならない義務は何もないが,中国への説明はくどいほど繰り返したほうがよいと思われる.
 相手がそれで納得するかどうかは別にして.


 【質問】
 A級戦犯達が実質名誉回復されたとき,外国から抗議は受けなかったのか?

 【回答】
 特になかった.
 読売新聞によれば,次のような事実があるという.

 まず,サンフランシスコ講和条約発効後,いわゆるA級戦犯の刑死は国内法上は「公務死」の扱いにされた.
 「A級戦犯」として禁固7年とされた重光葵氏は,戦後,鳩山内閣の副総理・外相となった.終身刑「A級戦犯」だった賀屋興宣氏は,池田内閣の法相を務めている.言うなれば“犯罪人”が法の番人になったわけである.
 しかし,「A級戦犯」が閣僚として,“名誉回復”されたことについて,諸外国からとりたてて異議はなかった.

 いわゆるA級戦犯が,靖国神社に合祀されたのは1978年のことである.
 翌79年に,そのことが明らかになるが,当時の大平首相,次の鈴木首相は,従来通り,靖国神社に参拝している.
 大平首相は
「A級戦犯あるいは大東亜戦争というものについての審判は,歴史が致すであろうと私は考えております」
として,いわゆるA級戦犯が“犯罪人”であるかどうかについての認識表明は留保した.
 鈴木首相の時代には,公私の区別についての質問には答えないという方針を打ち出している.
 A級戦犯合祀が明らかになった後も,大平,鈴木首相の靖国神社参拝に対し,中国からの表立った異議はなかった.

 異議を唱えるようになったのは,1985年に中曽根首相が「公式参拝」の形をとってからである.
 中曽根首相はその翌年に,中国の抗議に屈して,靖国神社への参拝を中止した.いわば中国に外交カードを与える結果になった“失政”が,今日の混乱を招いた.

 その後,天安門事件で共産党統治の求心力に危機感を抱いた中国は,「愛国・反日教育」の強化に転じ,年々歳々,膨大な数の反日世代を育て続けている.
 4月に行われた反日デモのスローガンは,当初,日本の国連安保理常任理事国入りの問題であり,台湾問題だった.

(読売新聞,2005/6/3)

 そもそも,日中の対立において,靖国参拝はその本質ではないという見解もある.
 以下引用.

【緯度経度】ワシントン・古森義久 「媚中派」主張の虚構打破

 日中関係のいまの摩擦や米国の態度について,中国側の文句だけをもっぱら尊重する朝日新聞のような日本側の媚(び)中・親中派の主張は次のようになる. 
「日中関係は小泉純一郎首相が靖国神社を参拝するために悪化している.
 だから参拝をやめると言明すれば,日中関係は改善される.
 米国でもブッシュ政権の内外で靖国や歴史認識での日本側の態度への批判が広まってきた」

 ところがワシントンでこのほど開かれた日中関係に関する討論会では,中国,日本,米国の三国代表いずれもがそんな構図を完全に否定するような言明をしたのだった.
 媚中派の主張の虚構はわかっていたとはいえ,各国の当事者たちからそれを改めて打破する議論を直接に聞くのは新鮮な体験だった.
 ワシントンの大手シンクタンクの「AEI」が二月十三日に開催した,「中日関係の将来」と題するセミナーだった.

 まず中国政府系機関の中国現代国際関係研究院日本研究所長,楊伯江氏が,今の日中関係の緊迫の原因は靖国ではなく,両国間の「戦略的な衝突」だと述べるのである.
「私は小泉首相の靖国参拝に反対ではあるが,日中関係全体では靖国にはあまり重要性を感じておらず,歴史問題にもそれほど関心は覚えない.
 靖国は日中両国の対決の反映あるいは象徴なのだ.
 両国間の緊迫はあくまで戦略的な衝突という深い背景から見なければならない.
 中国のGDP(国内総生産)の拡大が明示する日中間のパワーのバランスのシフトも緊迫の原因だ.
 米国の対日政策も同様に原因だろう」
 楊氏はさらに日本が世界第二の経済パワーを政治化しようとしていることや,中国の台頭が明治時代以来,日本にとって初めて優位に立たれる形で進んできたことも,最近の日中関係悪化の要因だと付け加えた.

 ブッシュ政権一期目の国防総省と国務省の両方で中国担当の次官補代理を務めたランディー・シュライバー氏も,中国の台頭,日本の「普通の国」としての復活,日米同盟の強化,中国軍の増強と近代化などを日中摩擦の原因としてあげた.
「表面的には靖国のような歴史にからむ課題が,中国と日本とを離反させているようにみえるかもしれないが,実際には単なる神社への参拝をめぐる紛争ではなく,両国の政策の差が大きな要因なのだ.
 経済力,軍事力,外交面での影響力のいずれを見ても,中国と日本とはほぼ同等の水準にあり,ほぼ同等の場合は二国間関係は安定しない.
 いまの対立は過去ではなく将来の情勢をめぐってなのだ」

 日本外務省の国際報道官,千葉明氏はチャイナスクールとしての体験や背景をもとに,そもそもいま日中関係が悪化しているとする前提自体を否定した.
「日中関係全体が拡大している.日本の対中投資や対中貿易が急成長して,相互補完の構図を成してきた.
 人間の交流は毎年増えて,年間四百万人,姉妹都市の数は三百十三を突破した」
 そのうえで千葉氏は小泉首相の対中謝罪や防衛費の額の抑制をあげて,中国側の
「首相の靖国参拝は日本の軍国主義の復活の兆し」
などという主張の空疎さを強調した.
 さらにはA級戦犯合祀(ごうし)が明白となったあとの大平正芳首相の繰り返しの靖国参拝と,中国側の沈黙をも指摘して,中国側のいまの主張の矛盾を突くのだった.

 米国がどう対応すべきかとなると,シュライバー氏の見解はもっと鮮烈だった.
「日中関係の悪化は米国にとっても好ましい事態ではないが,米国の対応は日中両国に対して同等ではない.
 米国にとって日本は民主主義の共通の価値観と友好とを保つ条約上での同盟国であり,戦略的パートナーであるのに対し,中国はそうではないからだ」
 シュライバー氏はさらに,米国は靖国を含む日中間の歴史問題には介入を避けるべきだと強調し,もし介入するならば,東シナ海での日中両国の軍事衝突を防ぐというような範疇(はんちゅう)にとどまるべきだ,と説くのだった.

 日本擁護のこうした見解をさらに補強するかのように,司会役のダン・ブルーメンソール前国防総省中国部長が楊氏らに問いかけた.
「ブッシュ政権の最新の対中政策をまとめたロバート・ゼーリック国務副長官は,中国の歴史博物館の展示の偏向を引用して『中国側も自国の歴史をきちんと認識していない』と述べたが,日本を一方的に非難できないのではないか」
 こうした関係者たちの現実の発言は,冒頭で紹介した日本の媚中派の「情勢報告」とはあまりに異なるのである.

2006/02/18産経朝刊

 なお,当サイトにおきましては,靖国問題は
・戦犯に関する事実関係
・諜報工作分野の一つとしての対日工作
という視点以外,扱う予定はございませんので,悪しからず.


目次へ

「第二次大戦別館」トップ・ページへ

「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ   サイト・マップへ