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(画像掲示板より引用)
「古森義久」◆(2010/1/31)東京裁判が拒んだ資料が新刊書に
「神保町系オタオタ日記」■(2006-11-21)[亀井貫一郎][森茉莉]
森鴎外に預けられた亀井貫一郎
亀井貫一郎は戦後,731部隊の戦犯免責に深く関与した人物
「人民網」◇(2013/05/24) 旧日本兵:日本軍が中国人女性を捕えるのを目撃
「ワレYouTube発見セリ」:The International
Military Tribunal for the Far East
極東国際軍事裁判の一部
【質問】
極東軍事裁判における戦犯のAと BCとは,どう違うのか?
【回答】
東京裁判での戦犯に対する「A級」というのは「平和に対する罪」,つまり「戦争における政策指導者」に対しての区分であり,「B級」は「通常の戦争犯罪」,「C級」は「人道に対する罪」という区分であって,罪の軽量ではありません.
「A級戦犯」
http://ja.wikipedia.org/wiki/A%E7%B4%9A%E6%88%A6%E7%8A%AF
「BC級戦犯」
http://ja.wikipedia.org/wiki/B%E3%83%BBC%E7%B4%9A%E6%88%A6%E7%8A%AF
軍事板
意外なのですが,そもそも,BC級戦犯裁判と言うのは,Court
Martial(軍法会議)ではなく,Military Commissions(軍事委員会)と言う組織で裁かれています.
Military Martialと言うのは,主に軍人と軍属について軍の規律に反する犯罪について裁判し,その犯罪の種類は法律によって制限されています.
一方のMilitary Commissionsは,
「戦争や事変の際に,捕虜や占領地人民を裁判しなければならない場合がある.
軍人軍属に関して,軍法会議の管轄に属しないところの戦争や事変特有の犯罪が有り得る.
これらの人と犯罪について裁判を行う機関」
と規定されているものです.
つまり,軍事委員会の裁判と言うのは,
「軍司令官が自己の処罰権を行使するための参考として,部下の将校に審理を行わせ,その意見を求める性質のもの」
であり,機能的には米国の司法権の作用ではなく,行政権の作用に属するものだったりするのです.
したがって正確に言えば,BC級に関しては,戦犯裁判というのは,米国に敵対する者を戦時中に処罰するための行政機関だったりする訳です.
ちなみに,この軍事委員会,日本では軍律法廷というものと同義だったりします.
本来,裁判と言うのは,平時に於いては,司法権の執行でないと正当でない訳で,其処で戦犯裁判は不平等だと言う考えが出るわけです.
但し,此処でそうした問題が出たのはあくまでもBC級に関してだけで,A級については,国際軍事裁判所方式というものを採用したことで,とりあえず司法権の執行と言う形は整えています.
BC級は,軍事委員会方式で裁かれました.
この考えの下,規定上判決書の作成は義務とされておらず,判決理由を付すことすら義務とされていないのです.
で,記録が残らない状態となっている.
つまり,判決を下した法務官が,どんな考えで被告に対する判決を考えたのか,その考え方を後で知ることすら出来ないと言うことになりました.
一方,A級の場合は,極東軍事裁判所条例17条で,「判決理由を付すべきものとす」と明確に規定され,裁判所の義務としていたために,多数意見の他に少数意見も付され,論点や考察が可能となっています.
更に,判決で科せられた刑の確定については,その占領地区の司令官(決して,Douglas
MacArthurではない)が部下の法務官に審査させ,妥当であれば,それを承認することで確定することとなり,減刑,差し戻しなどはその司令官の胸先三寸となっています.
また,軍事委員会は一審制で,委員会の招集者またはその後任者,つまり占領地区の軍司令官が承認したら,その判決は一度確定しますが,刑の減刑を求める場合は,彼に再審申し立てを行う申立書を提出することになります.
こうしたことも,この法廷が行政権の延長線上にあるということを如実に表しています.
但し死刑判決だけは,連合国軍最高司令官の確認が無ければ執行してはならない,としています.
先ほどのように,判決書が作成されていないBC級軍事裁判については,現在,検察側,弁護側の記録としては,その異議申立書とその回答を読むくらいしかない状態だそうで,なかなか全貌が掴めないのも,そこらへんに原因があったりします.
歴史を学ぶと言うのもなかなか難しいものですね.
眠い人◆gQikaJHtf2 in mixi 2006年10月25日22:14
巣鴨プリズン跡地に建てられた石碑
(こちらより引用)
【質問】
以下のような記述を見たが,実際のところ,B級とC級の違いは何か?
[quote]
A級〔戦犯〕というからには,当然B級やC級がいるわけだが,こちらは,主として占領地における捕虜虐待や,現地住民に対する残虐行為などの戦争犯罪に問われた者のことである.
罪の重さではなく,命令を下す側にいた将校はB級,下士官兵はC級とされたに過ぎない.
―――林信吾著『反戦軍事学』,p.168
[/quote]
【事実】
BとCとの区別には法的根拠はなく,裁判の実態としても区別されて裁かれた例はない.
カーペンター大佐の談話や,横浜裁判第1号事案第1回公判の検察側冒頭陳述とが,B,Cの区別があるかのような誤解を生んだ模様.
***
まず,一般にA級戦犯を裁いたのが,『極東国際軍事裁判所条例』,BC級が『戦争犯罪被告人規定』です.
しかし,そのいずれをみても,A・B・C級のクラス分けは存在せず,あるのは『主要戦争犯罪人』(A級戦犯に該当)と,そうでない普通の『戦争犯罪人』(BC級戦犯に該当)の2クラスだけ.
ABCのクラス分けには,法的根拠はないのです.
一応,これらの規定には,以下の項目があります.
(a)平和に対する罪
(b)通例の戦争犯罪
(c)人道に対する罪
これが誤解を生む元なのでしょうが,これらの規定はA級戦犯を裁いた『極東国際軍事裁判所条例』にも,BC級戦犯を裁いた『戦争犯罪被告人規定』にも存在します.
そのため,(a)の罪を犯したからA級,(b)の罪を犯したからB級とは単純にはいえないのです.
たとえば,(b)の訴因のみで判決を下されたA級戦犯もいます(松井石根元大将)
もっとも,A級戦犯は主に(a)の訴因で,BC級戦犯は主に(b)(c)の訴因で裁かれているのは間違いなく,あまり厳密に考えなければ,A級,BC級とするクラス分けは,おおむね正しいと言えるでしょう.
(ただし,A級,B級,C級とするのは間違いです)
誤解を生む原因として,GHQ法務部が(おそらく意図的に)「A級,B級,C級」の三つの言葉を使ったことがあげられます.(本来2クラスしかないのにもかかわらず)
たとえば,「星条旗」誌1945年12月14日に法務部長カーペンター大佐の次の談話を発表しています.
『1−B級というのは山下,本間両将軍の如き軍指導者を指し,殺害,虐待,奴隷行為などの責任を問われるものであり,1−C級というのは以上の犯罪を実際に行ったものをいう.
1−A級というのは東条首相の如き政治指導者でこれらのものの裁判には主席検事ジョセフ・キーナン氏が自らこれに当たる』
これらの「1」が何を示すのか不明ですが,本来法規上2クラスしかない戦犯者が,あたかも3クラスあるように錯覚させ,しかもB級は(b)罪,C級は(c)罪を犯したものという誤解は,ここから始まったのではないかと思われます.
以上,『別冊歴史読本特別増刊 戦争裁判処刑者1千』(新人物往来社,1993)のP44〜から要約して記述しました.
極東の名無し三等兵
補足意見として書きます.
-----------------------------------------------------------------------
では三種類の罪とは何か?
それは,占領下の日本統治に当たった,連合国最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥によって制定された,裁判所条例(極東国際軍事裁判所条例)の第五条に示されている次の三つである.
「イ,平和に対する罪 すなわち,宣戦を布告せるまたは布告せざる侵略戦争,もしくは国際法,条約,協定または誓約に違反せる戦争の計画,準備,開始,または実行,もしくは右諸行為のいずれかを達成するための共通の計画または共同謀議への参加.
ロ,通例の戦争犯罪 すなわち戦争法規または戦争慣例への違反.
ハ,人道に対する罪 すなわち,戦前または戦争中に為されたる殺戮殲滅,奴隷的虐使,追放その他の非人道的行為,もしくは犯行地の国内法違反たると否とをとわう本裁判所の管轄に属する犯罪の遂行としてまたはこれに関連してなされたる政治的または人種的理由に基づく迫害行為」
英文の原文では右のイ,ロ,ハ,はa,b,cとなっているところから,イの戦争犯罪を犯したとして訴追された人たちを「A級戦犯」と呼ぶようになった.ロはB級,ハはC級戦犯である.
罪名は,ナチス・ドイツの幹部を裁いたニュルベルグ裁判におけるものを,そのまま踏襲したものである.
C級はナチス・ドイツにおけるホロコースト(ユダヤ人大虐殺)を念頭においている,
日本ではB級とC級をまとめてBC級戦犯と呼ぶのが普通だ.
日本軍による大虐殺もあったが,計画され,組織的に行われた,いわゆるホロコースト級のものはなかったのである.
-------------------------------------------------------------------------
『東京裁判「パル判決文書」の真実』(太平洋戦争研究会著,PHP研究所,2006.12),16〜19ページ
蛇足:三種類のうち「平和に対する罪」「人道に対する罪」は戦争開始当初なかったので「事後法」だとパル判事は主張.
また,A級戦犯に関しても「共同謀議」がなかったと言っているだけで,日本の政治的責任を罷免したわけではない.
ますたーあじあ
蛇足です.(寝ろと言う声はさておき)
横浜弁護士会編『法廷の星条旗』(日本評論社,2004.7),PP29〜30では,BC級戦犯裁判はあくまでも通称であって,法令上の根拠を持つものではないとしています.
第二次大戦中,特定地域で通例の戦争犯罪を行った者を連合国各国が裁いた軍事裁判を,一般にBC級戦争裁判と呼んでいます.
で,B級,C級に関しては,日本の新聞の区分けで,横浜裁判の第一号事案を「C級裁判」と呼び,上級者に対する裁判を「B級裁判」と呼んでいます.
1945年12月15日付「朝日新聞」東京版に,連合国軍総司令部法務部カーペンター大佐談として次のように書いています.
「B級というのは山下,本間将軍のごとき軍指導者を指し,C級というのは殺害,虐待,奴隷行為などの犯罪を実際に行った者を言い,A級というのは,東条首相のような政治指導者を指し,これについての裁判はキーナン主席検事がこれにあたる」
また,横浜裁判第一号事案の裁判記録において,検察官は第一回公判の冒頭陳述の中で,戦争法規・慣習の違反が戦争犯罪を構成するとしたうえで,戦争犯罪は三種類に分類されるとして次のように説明しています.
「第一は侵略戦争,国際条約や協定や保障に違反する戦争の計画,準備,開始または実行に関与した戦争犯罪人である.
第二分類は,占領地の民間人の殺害,虐待若しくは奴隷的扱い,捕虜その他抑留者に対する殺害若しくは虐待,または都市村落の悪意の破壊に付き責任を負うべき軍司令官である.
そして,第三分類は,占領地の民間人や捕虜その他抑留者に対する殺害,虐待を行った実行者である.
本日,裁判の場に引き出された被告人は,この第三分類に該当する」
カーペンター大佐談話とこの冒頭陳述を聞いた当時の新聞記者が,第一分類をA級,第二分類をB級,第三分類をC級と理解して記事を書き,以後,これが地位に応じてB級,C級と呼ぶようになったものと思われる――とあります.
眠い人 ◆gQikaJHtf2
〔ちなみに,〕『大東亜戦争の謎を解く』(別宮暖朗+兵頭二十八著,光人社,2006.5)によれば,通例の戦争犯罪をBC級
(BとCの違いは,
Bが他国軍民に対してなしたケースで,
Cが自国軍民に対してなしたケース)
とし,「平和に対する罪」と「人道に対する罪」という2つの新規の戦争犯罪を創って持ち込み,それをA級戦犯としたとなってます〔略〕
〔また,〕wikipediaによれば,
「一又正雄(国際法学者)は,東京裁判研究会編『共同研究 パル判決書(上)』(講談社,1984年)「第一章 パル判決の背景 東京裁判の概要」において
B級は指揮・監督にあたった士官・部隊長,
C級は直接捕虜の取り扱いにあたった者,主として下士官,兵士,軍属である
という主旨の説明をしている」
とのことです.
何所まで正確かは分かりませんが.
鉄底海峡
【珍説】
アメリカは「人道に対する罪」などという,それまでありもしなかった「事後法」で日本を裁いたのだ.
A級戦犯などと,勝手に相手国の指導者を犯罪者にして処刑した.
戦争の勝者が敗者を裁く.それは野蛮なことなのだ.軍事法廷はリンチそのものなのだ.
だから東京裁判の裁判官の中で唯一の国際法の権威だったパール判事が日本を「無罪」とし,この裁判自体を「無効」だとした.
〔略〕
ところが愚かなことにサヨクは,この国際法を無視したアメリカの野蛮な行為を容認してしまい,靖国神社には「A級戦犯がまつられているからだめだ」などと主張して運動してきた.
〔略〕
ところがなんと保守を自称する者達まで,今現在,進行形のアメリカの野蛮な「懲罰戦争」に,拍手を送っているのである!
(小林よしのり「戦争論」3,P.54-55,太字は原文ママ)
【事実】
イラク戦争は懲罰戦争ではないし,東京裁判は容認されていない.
まず第1に,イラク戦争は懲罰戦争ではなく,予防戦争と見るのが一般的.2002年9月のブッシュ・ドクトリン「国家安全保障戦略」において,アメリカ自らそう公表しており,また,今度の戦争を善悪論で論じている(まっとうな)軍事専門家を寡聞にして知らない.⇒more
第2に,事後法による東京裁判の違法性は,左派右派ともに戦後の基本的な共通認識.
アメリカでも当時から批判があったほど.
原爆や無差別爆撃を非難する以上,左翼だって東京裁判の内包する矛盾に突き当たるのは道理でしょ?
「違法だったが意義があった」
と言う人はいれど,東京裁判の違法性を否定する人は,まともな学者にはいない(ニュルンベルク裁判の方は,自然法で正当化することはできる).大学の現代史や国際関係,国際法の講義で東京裁判の違法性に言及しない教授はまずいないし,BC級戦犯の悲劇は膾炙されていることだったし.
東京裁判なら,手軽なところでは保坂正康とかも読まれると宜しい.
「合意の上での出来レース」「双方の再出発のための儀式として」の東京裁判という見方もある.そもそもA級戦犯自身が天皇訴追の身代わりということで,被告原告双方が納得していた.
あれほど巨大な政治的裁判が,単なる正義や復讐の場で済むと考えるのはおめでたすぎる.
第3に,左翼の多くは戦犯合祀なんか問題にしてない.
彼らの批判の力点は,
・国家神道の復活に反対するための靖国批判
・慰霊の宗教施設という分限を超えて大東亜戦争とその前段の軍の暴走を靖国はほぼ完全肯定しているために,靖国を全体として非難
しているところにあり,後者については右派の間でも,非難が多い点.
戦争に負けた結果責任と,現在の日本国(つまり今上陛下)が認めている植民地支配とアジアの平和を乱した非を受け入れた上で,
「亡くなれば二等兵も東条大将も神様だよ.弊社はつつしんでお祀りしています」
とすれば,ここまで非難されることはなかった(まあ,左翼のヒステリックな攻撃も悪かったんだけどね).
ところが靖国(護国神社)は,日本人でも賊軍だと祀ってあげず,他宗教の信者で遺族が断っているのに勝手に祀ったりしている.こんな姿勢では批判が出ないほうがおかしい.
左翼や知識人は東京裁判マンセーか批判精神ゼロばっかりだった,と若い奴に鵜呑みにさせる本は問題がある.
なお,「人道に対する罪」に関しては,
「1899年,1907年ハーグ条約前文で人道に対する侵害を包括定義し,条文の実体内容として奴隷化,性的侵害をともに禁止している.
具体的事件,事例にこれを丁寧に当てはめれば,旧ユーゴ刑事法廷規程,国際刑事裁判所規程と同じことになる」
という話もある.
これを信頼するならば,第2次大戦前から人道に対する罪はすでにあったということになる.
一方,これに対する反論としては,
・ハーグ条約のマルテンス条項はあくまで,戦争に関して人道を重視せよと書いてあるに過ぎない
・セント・ジェームス宣言は一般的な宣言であり,国際条約として機能を果たすようにはできていない
というものがある.
これに関して客観的立場に立つソースは,少なくともネットでは発見困難.これに関してふれているサイトは,jcaだの,南京事件否定論サイトだのと,色が付き過ぎ.
したがって本サイトでは,「戦前から『人道に対する罪』が国際法上,存在したかどうか」については,現段階では情報不足につき肯定も否定もできない.
【質問】
そもそもの問題として、「右翼」が「パール判決は日本の道義的責任をも免罪したものである」などと主張したことがあるのでしょうか?
【回答】
当方の記憶では,小林よしのり及びその信者,いわゆるコヴァがそのように主張していたかと存じます.
小林の主張は他人の「コピペ」であるケースが多いので,探せば元ネタもあるでしょう.
関連の書籍を読んでみたのですが,小林はどうも真逆の主張をしているようです.
「あくまでも法律論としての「日本無罪論」であることなど百も承知で言っているのに,道義的問題と混同しているなどと,やってもいないことを批判して中傷するのだ」
「「日本無罪論」は「日本無謬論」ではないのである」
(『パール真論』p229)
また,同じページで「元ネタ」?と思われる田中正明氏の書籍から次のような文章を引用しています.
「われわれは道義と法律を混同してはならない.極東国際軍事裁判は文字どおり「裁判」なのである.裁判は法にもとづいて裁くのであって,感情や道義で裁くのではない」
(『パール判事の日本無罪論』p20)
突っ込まれると「いや,そんなつもりで言ってはいない」というのは,小林に限らず自己正当化型言論人の一つの手口ですから,その言葉も鵜呑みには…
特に小林は頻繁に言説を変えるので,過去の言説との矛盾が多発している状況にありますから.
では,ちょっと,それ以前の著書をチェックしてみましょう.
まず,『戦争論』vol.1(幻冬舎,1998)に早くもパール判事は登場していました.
といっても,ほんの3コマですが.
本書は全編が大東亜戦争には日本側に正義があったことを訴えるものでして,
「支那のプロパガンダにやられた!」
「アメリカGHQのウォーギルトインフォーメーションプログラムによって,日本人は洗脳された!」
等が主な論旨です.
そうした文脈の中で,
「何度も言うが この裁判(編注;東京裁判のこと)唯一の国際法の専門家 インド人パル判事は『全員無罪』の判決だった」
「パル判事は『日本無罪論』の最後に このように書いている」
「『時が,熱狂と,偏見を和らげたあかつきには,また理性が虚偽からその仮面をはぎ取った暁には,その時こそ,正義の女神はその天秤を平衡に保ちながら,過去の賞罰の多くに,そのところを変えることを要求するであろう』」
と書いています.
(p.308)
なるほど,確かに小林は,パル判事を用いて直接に道義的問題を述べてはおりません.
しかし本書全体が道義問題を問うているものである以上,
「あくまでも法律論としての「日本無罪論」であることなど百も承知で言っているのに,道義的問題と混同しているなどと,やってもいないことを批判して中傷するのだ」
というのは苦しい言い訳ではないでしょうか.
次に小林『戦争論』2.
本書もパール判事が出てくるのはごく僅かであり,主張も小林『戦争論』1と大差ありませんでした.
その次が,小林『戦争論』3です.
本書は,イラク戦争を目の当たりにして頭に血が上った小林が,ひたすらアメリカを,そして勢い余って「白人」全体を「道義がなく野蛮」とバッシングする内容ですが,vol.1〜2に比べるとパール判事が登場する頻度が増加しています.
まず,p.53-54における論法:
・アメリカはキリスト教の善悪二分法の倫理観を戦争に持ち込んでいる! ┓
↑ ┣⇒ 東京裁判を支持するサヨクも,イラク戦争を支持する保守派も,どちらも自己矛盾している!
・戦勝国が敗戦国を裁くのは野蛮なことである! ←(論拠:パール判事の東京裁判無罪論 ┛
次に,p.57-59における論法(というか論理にもなっていないのですが);
・ルール無視の戦争はテロと同じ!
・アメリカの戦争は非文明的で,我々,日本人の公正さを測る感覚から見れば「悪」!
・パール判事の警告は正しかった! 世界は弱肉強食の時代に戻りつつある!
どうみても「善悪の問題」,すなわち道義的問題を論じているようにしか見えないのですが.
さらに,『いわゆるA級戦犯』(幻冬舎,2006).
『戦争論』の「日本には正義があった」という主張が,本書では「A級戦犯に道義的責任は無かった」というものに主張を後退させているのですが,その論理立てのパーツの一部にパール判事を利用しています.
------------
「では,いわゆる『A級戦犯』に,未だに責められるべき道義的責任があるのか?」
「それを検証するために わしはこの本を作ったのだ」
「だが,たとえ道義的責任があったとしても,法に基づかない偽装裁判を行って個人を裁くなどという行為が正当化されてはならない」
「それは釘をさしておく」
「パール判事は判決書で『東京裁判』をこう評した.」
「『勝者によって今日与えられた犯罪の定義に従っていわゆる裁判を行うことは 敗戦者を即時殺戮した昔と,我々の時代との間に横たわるところの,数世紀にわたる文明を抹殺するものである.』」
「それはまさに,インカ帝国を滅ぼしたスペイン人ピサロと,神父バルベルデがインカ王アタワルバに死刑を言い渡した『裁判』と何ら変わらぬ,時計の針を400年逆行させる蛮行だったのである」
(編注;同コマの絵は,残虐な処刑シーン)
------------p.72-73
つまりここでは,逆に東京裁判こそ道義がないと暗喩しているわけですね.
さて,『いわゆるA級戦犯』では最終章を「パール博士の合掌」と題し,一章丸ごとパール判事について書かれています.
そして,p.212〜216に渡り,著者は"日本が道義的に無罪である"旨,述べています.
これらを全部引用すると長くなりますので,最も端的に小林理論を表しているであろう部分を引用しましょう.
------------
パール氏の真意は パール氏自身の言葉ではっきりわかる.
パール氏は 東京裁判の4年後再び来日,広島で 原爆慰霊碑に献花した.
だが碑文の意味を通訳に聞くと,表情が険しくなった.
「安らかに眠ってください.
過ちは繰り返しませぬから」
(編注:「」内は碑文の語)
「この『過ちは繰り返しませぬ』という過ちは誰の行為を指しているのか.
もちろん,日本人が日本人に謝っていることは明らかだ.
それがどんな過ちなのか.
私は疑う」
「ここに祀ってあるのは原爆犠牲者の霊であり,その原爆を落としたものは日本人でないことは明瞭である.
落としたものが責任の所在を明らかにして『二度と再びこの過ちは犯さぬ』というなら肯(うなず)ける」
「この過ちが,もし太平洋戦争を意味しているというなら,これまた日本の責任ではない.
その戦争の種は西欧諸国が東洋侵略のため撒いたものであることも明瞭だ.
さらにアメリカは,ABCD包囲陣を作り,日本を経済的に封鎖し,石油禁輸まで行って挑発した上,ハルノートを突き付けてきた.
アメリカこそ開戦の責任者である」
「東京裁判で何もかも悪かったとする戦時宣伝のデマゴーグがこれほどまでに日本人の魂を奪ってしまったとは思わなかった.
東京裁判の影響は原子爆弾の被害よりも甚大だ」
パール氏はその翌日,講演で語気を強めて言った.
「私は1928年から45年までの18年間の歴史を2年8か月かかって調べた.
各方面の貴重な資料を集めて研究した.
この中にはおそらく日本人の知らなかった問題もある.
これを私は判決文の中につづった」
「この私の歴史を読めば,欧米こそ憎むべきアジア侵略の張本人であることが分かるはずだ.
しかるに日本の多くの知識人は,殆どそれを読んでいない.
そして自分らの子弟に,
『日本は国際犯罪を犯したのだ』
『日本は侵略の暴挙を敢えてしたのだ』
と教えている」
「満州事変から大東亜戦争勃発に至る真実の歴史を,どうか私の判決文を通して十分研究していただきたい.
日本の子弟が歪められた罪悪感を背負って卑屈・頽廃に流されてゆくのを,私は見過ごして平然たるわけにはゆかない」
「彼らの戦時宣伝の欺瞞を腐蝕せよ.
誤られた歴史は書き換えられねばならない」
(編注:「」内は小林が"パール判事の言葉"としている部分)
…これこそがパール氏の真意である.
太平洋戦争は日本の責任ではない.
あの判決文さえ読めば,欧米こそ侵略者だということが分かるはずだ.
東京裁判は「戦時宣伝のデマゴーグ」である.
あの「遊就館」の展示とほとんど同じ主張だ.
明らかに日本は無罪だと言っている!
------------p.213-215
明らかに小林は,パール判事に道義的問題を語らせていますよね?
なお,この辺の箇所は,田中正明『パール判事の日本無罪論』の受け売りのようなのですが,田中が「日本には道義的責任は無かった」論を唱えているのかどうかまでは,いまだチェックしていないので分かりません.
貴氏のほうでもお調べになってみてはいかがでしょうか?
最後に『パール真論』(幻冬舎,2008)ですが,要は中島岳志『パール判事』(白水社,2007)の中で名指しで批判されたことにキレた小林よしのり(この御老人は些細なことでキレるようです)が,中島本を叩きたいがために,過去の小林自身の言行も顧みず,あることないこと書いている――という印象を持ちます.
たしかに,パール判事を憲法9条擁護に用いるのは,中島の論理に無理があるように思えます.
しかし中島批判のために自己の過去の言動まで偽るのであれば,小林も中島と五十歩百歩と言わざるを得ません.
しかも,小林も中島と同じか,またはそれ以上に論理に無理があります.
たとえばこういうところ.
------------
さらにふざけたことに,[『現代』2008年2月号における中島による反論論文中において,]中島はわしへの的外れな批判を一切取り下げず,わしが『戦争論』で「パール判決書」を「大東亜戦争肯定論」の文脈で使っていると,最初の主張を繰り返している.
何も反省などしていないのだ.
[中略]
漫画の「文脈」は,ネーム(文字部分)だけではなく,絵,コマ運び,ページのめくり,吹き出しの有無や吹き出しの形,写植の種類などの要素も関係して構成される.
それを素直に読めば,パールの主張として書いたのは,「アメリカの正義」の否定まで!
「大東亜戦争肯定論」の主張は,ページをめくらせて,わしの主張として書いていることは明白だ!
------------p.92
[]内は編者,強調は本文ママ
この「"アメリカの正義"の否定」が大東亜戦争肯定論の論拠の一つとして使われている以上,小林が『戦争論』で「パール判決書」を「大東亜戦争肯定論」の文脈で使っているというのは,否定しきれない事実と言えるでしょう.
小林は,漫画の読み方の問題にミスリードしようとしているようですが,詭弁の一つ,「関係があるようで実は関係のない話を始める」のヴァリエーションでしかありません.
その上,
「ページをめくらせて書いてあることは,その直前の記述とは何ら関係しない」
という主張には無理があります.
こんな理屈が通るのであれば,かつて小林が『SPA!』から『SAPIO』に連載を移した時の主張,
「オウムの上祐のインタビューを載せる雑誌に,わしの作品を載せることはできない」
とも矛盾することになるでしょう.
こちらのほうは,それこそ「別ページの,小林の記述とは何ら関係しない」ものだったのですから.
また,p.134-135では,「『パール判決書は日本の道義的責任までは免罪していない』というのはサヨクの常套句でもあるが,全くのウソである」などとしておきながら,その次のページでは,
------------
わしとて「日本無謬論」ではない.
日本が何一つ道徳的に間違ったことをしていないとは考えない.
だが,わしが,中島岳志や,保坂正康ら「薄らサヨク」と決定的に違うのは,わしは「中国・朝鮮無謬論」ではないという点である.
日本に「道徳的責任」があるのなら,西欧列強,特にアメリカにはもっと大きな「道義的責任」があり,ソ連にも当然あった.
そして国の近代化の必要に目を啓かなかった朝鮮にも,内乱と条約無視の排外主義に明け暮れていた中国にも,「道義的責任」はあったのだ!
これは中島の言う「日本と欧米は同じ穴の狢」論ではない.
それは「戦争=悪」という現在の価値観で見た論に過ぎないが,パール判決書にはそんな単純なことは書かれていない.
パール判決書の近代史の認識は,かなりわしと近いのである.
------------
としています.
小林『戦争論』において,あれだけ日本を擁護した小林が,今更
>わしとて「日本無謬論」ではない.
と言っても,誰が信用するだろうか?という話ですが,パール判決について小林は要するに,
(1)パール判決書には道義的責任については書いていないよ
(2)でもパール判事自身は,小林の認識と近いよ(≒欧米のほうがずっと悪いよ)
と,小林の過去の主張を分割することにより,どうにかして言い逃れをしようとしているように見えます.
この"小林分割"を活用して,例えば
「そもそもパールは満州事変を侵略と思っていない」(p.160)
「日露戦争の目的は,ロシアによる満州・朝鮮占領の阻止だった.
そしてこれに勝った以上,日本が満州・朝鮮を確保し,発展させるのは,「まさに当然」で,「公人の基本的任務」である.
むしろそれを無にすることは「犯罪である」とまでパールは言ったのだ!」(p.161)
などと,(2)の論理の下,
「日本には道義的責任は無い」
という小林自身の主張を補強するための材料として,パールを活用しているわけです.
その上,中島の主張とされている「パール判決書は日本無罪論ではない! 日本に道義的責任はある!」(p.202)に対し,小林は
「『A級戦犯』全員をパールが無罪と言ったのは,すなわち,日本を無罪と言ったのである!
東京裁判を全否定したのである」(p.203)
としています.
すなわち上記(1)のヴァリエーションとして,
(1') パール判決書には道義的責任については書いていないから,日本は無罪.よって道義的責任も日本にはない.
という奇怪な論理展開まで生まれているのです.
なお,巻末の参考文献一覧を見ると,どうやらこれまで参考文献に殆ど出てこなかった牛村圭の著述が3つも並んでおりますので,小林が誰かの受け売りをしている(過去の事例から考えて,その可能性は非常に高い)とすれば,この牛村かもしれません.
チェックしていただけると面白いかと.
<田中が「日本には道義的責任は無かった」論を唱えているのかどうかまでは,いまだチェックしていないので分かりません
に対する返信ですが,小林が『パール真論』で引用していた『世界連邦その思想と運動』についてまず調査しました.
これについては世界連邦運動の歴史や提唱者に関する解説が大部分を占めており,自分の見た限り「日本には道義的責任は無かった論」に関連する記述はありませんでした.
情報をお寄せいただきありがとうございます.
中島岳志『パール判事』も立ち読み程度で目を通してきましたが,同書は主張はやはり「憲法9条原理主義者」臭いものの,目を引いたのは,『判決書』以外にもパール判事の様々な著作を原書で読んで引用していることでした.
小林がやたら田中正明を擁護していたのも道理で,小林にとっては依るべき論拠が田中しかないのに比べ,中島は引用資料の豊富さで優勢に立っています.
小林が『真論』の中で中島の人格批判を繰り返していたのも,直接対談を嫌がっていたのも,まともな対談なり議論なりをすれば,太刀打ちできないことが分かっていたからだと思われます.
【珍説】
恨んでも憎んでもいない人,会ったこともなく虫が好かぬという印象さえない人を殺すというのは,相手から手出しをした場合に限られる.
何もしない相手を殺傷する動機があるというのは,相手の持ち物を奪う場合があるのみだ.
日本兵にそんな過失を犯す素養があり,かつそんな機会に遭う可能性は,非常に希なことだろう.
そこには凶悪犯罪の付け入る隙はなく,常に己が恥は親の恥,家門の恥とする恥の意識が,その行動を厳しく律していた.
貧乏世帯で生活は苦しいものが多かったが,犯罪はこそ泥やスリ程度で,凶悪なものは滅多になかった.
海外に出ていく民間人には一旗組も多かったが,兵士は常に使命感と信義・礼節・質素と専ら道義心に裏付けされて,規律の正しさは各国の模範とされていたのである.
〔※他のページでは義和団の例を提示〕
純朴な兵は思いやり深く,民間人を愛護するのは治安維持の最重要秘訣であると徹底した教育を受けており,民度の低い外国の庶民の持ち物を巻き上げたり奪うなど,およそ考えられないことだ.
「昨日の敵は今日の友」は,降伏した敵兵に言う言葉であって,民間人に対しては初めから敵意はなかった.無益な殺生は最も恥ずべきことであり,皆無と言ってよかったと思う.
しかし,実例に根拠があれば慎重にお聞きしよう.
軽薄な口舌なら,はじめから止めたまえ.
敢えて言わせてもらおうか.戦前の日本人は現代とは比較にならぬほどスレていなかった.
平素から貧窮に甘んじながらそれを恥とせず,不満を持たず,不自由を忍び,謙虚で素直で愚直なまでに従順だった.
お上を敬い年長者を尊び,修身と道徳を熱心に学んだ.
教える側は,まず皇室がその範となった.
明治天皇陛下と皇后陛下は日頃から啓蒙に心を砕かれ,度々勅語や御製を下され,おみうたはご生涯に10万首を数えたという.
〔略〕
唱歌の時間には修身も同時に学んだのだ.こうしたお上を慕い,国を愛し,誇りと喜びに支えられて情熱の意欲に満ちては国家に尽くしたのだ.熱心の前に悪徳は陰を潜め,心をあわせて一心不乱にいそしんだのである.今の人とは心がけが違うのだ.
世界を驚かせた日清日露の勝利も,驚異的な発展の速度も,ひとえに修身と武士道に支えられた若者達が,愛国心に勇み立って邁進したおかげだ.
命令を受け,作戦行動を行うのは,民間人を対象としない.あくまで便衣隊や匪賊の抵抗組織が対象である.
その見境を曖昧にして安易に敵の口車に乗るのは愚かしいことだ.
〔略〕
個人犯罪で無益の殺傷事件をあえて起こす,その発生率はどんなものか.起こり得たとしても,それは年間に数万人に一人発生する程度ではなかろうか.
(三好誠著「戦争プロパガンダの嘘を暴く」,展転社,2005/4/1,p.146-148)
【事実】
そりゃ,どこのジェダイ騎士ですか?(笑)
そんなに戦前日本人が美徳にあふれているなら,国籍問題を利用した満州での様々な不正行為や,軍隊内における陰湿ないじめの話は,全部作り話なんでしょうか.
そもそも,「民度の低い外国の庶民」などという,他国民蔑視の姿勢が,アジアにおいて独善を押し付ける事になり,ビルマ義勇軍の反乱を招いたり,タイやフィリピンでのレジスタンスに遭った一因になるわけですが.
【質問】
極東軍事裁判の法的根拠は? 法的根拠がないなら,東京裁判は主権侵害にはならないか?
【回答】
東京軍事裁判は「極東国際軍事裁判所設置条例」を以って裁判所設立の法的根拠としています.
同条例は連合国軍最高司令官であるマッカーサー元帥によって発令されました.
連合国軍最高司令官は日本の主権者であり,日本国内においては憲法,法律を超えて権限を行使することが出来ました.
要するに当時,日本の国家主権はハナから侵害されており,東京裁判だけをことさらに取り上げて,主権侵害云々を言い出すのは滑稽です.
また,主権の譲渡はポツダム宣言の受諾に基づいて行われたもので,国際法上の問題はありません.
まぁ,この点については連合国に無制限の主権を与えたものとする説と,ポツダム宣言の範囲内においての主権を与えたものとする説があります.
回答者個人としては,国権の存在というものを,防衛力抜きにして考えるのは現実的ではないとの立場から,連合国に無制限の主権を与えたとする説を支持しています.
※なお,軍事板質問スレッドにおいては,上記の書き込みのソースは?と問われており,それについては,捜索中.ご存じの方はご一報を.
【質問】
東京裁判は事後法で裁く事にならないのですか?
【回答】
国内法だろうが国際法だろうが,法とは,強者が自分の獲得した権利を維持継続させるため,尤もらしい口実を設け,作ったもの,という側面もある.
国際法は特にそう.公平な立法機関は存在しないし,そもそも世界各国が一致して「公平」と認められる概念が存在しうるかも疑わしい.
弱者がそんな国際法に不服なら,粘り強く交渉するか,さもなきゃ戦争に訴えるしかない.
日本は,その戦争に訴える賭けのほうに出て敗れたのだから,事後法だろうが何だろうが,何をされても仕方ない立場.
「勝者は敗者に対する万能の神である」
by 東条英樹 in 巣鴨刑務所.
国際社会は法治社会としては不完全なものである.
現代社会は社会契約の元に成り立ち,国民は社会契約の下で法の庇護下にある.
ゆえに遡及禁止などの法の原理が適用されるが,国際社会にはまだその様な法の庇護を確立させてはいない.
国家に対し法令を執行させる権限が存在しない.国際司法裁判所は係争国が同意しなければ開かれないし,その裁定を執行させる機関も存在しない.
そもそも戦争による領有権問題の解決などは,所有権の主張をその時点から遡って適用する場合もあり,国際関係において遡及的な処理は珍しくない.
そこで結局,国際法廷とは当事国の同意の上に成り立つことになる.合意さえあればなんだって正当.
敗戦により相手の要求を拒否できない場合でも,受け入れてしまえば,それは正当.
後から不当だったと主張するのは,それこそが遡及と言うものだ.
遡及を適用させたければ,相手国の合意を得なければならない(その為に戦争を仕掛けるのは不戦条約違反だが).
【質問】
それは,いくらなんでも自虐的過ぎる見解ではないか?
【回答】
そういった主張を許せない,と思っても,戦争に負けたらそうなる.
ビスマルクの言った
「大国は自らに利あれば万国公法(国際法)を押し付けるが,これが一度不利となるや,軍靴をもって踏みにじる」
という主張は今も昔も基本的には真理だよ.
それが嫌なら,戦争に勝つか,始めから負けるような戦争はしないことだな.
まあ現代では,あまりやりすぎるとその後が困るから,そんなにやりたい放題はしないけどな.
【質問】
それはつまり,今日的に見れば問題があるが,覆すことはできない,ということか?
【回答】
そう思ってくれていい
貴方は「自虐ではないか?」という質問をしたが,オイラはあえて
「自虐であるかどうか」
というスタンスで答えなかった.
なぜならオイラが軍ヲタだからだ.それが自虐だろうが他虐だろうが反日だろうが興味はない.
その主張を聞いて
「自虐だ!」
と怒るのがコヴァ〔小林よしのり狂信者〕であり,
「じゃあ,負けないようにするにはどうしたらいいか?」
を考えるのが軍ヲタなんだよ.
つまり戦争に対する根本的な切り口が,コヴァと軍ヲタでは違うんですわ.
ちなみに,
「そもそも闘う必要があるのか?」
まで遡って考えるのは政治オタですな.
【質問】
今日,中・韓・北韓は戦争犯罪を声高に言いたてることで外交に役立てているわけだが,日本政府はこのアンフェアな裁判を声高に叫ぶことをしていないのは何故か?
【回答】
逆にいえば,そんな主張をされて,いちいちまともに取り合ってる日本の側に問題があると思うね.
例えばイギリスやオランダも,捕虜の問題で個人レベルの恨みはあるだろうが,今さら政府レベルでなにか要求してくることはない.
つまり,極東3カ国がやってる手法が日本に通用するのは,世界的に見ても極めて特異な例であって,日本がその手法をアメリカにやっても,
「バカじゃないの?」
と言われるだけだろう.
それと,小林が軍ヲタに悪し様に言われるのは,(あの戦争についていえば)いたずらに戦争に対して浪漫的な大義や正義を持ち出して,日本軍の構造的欠陥を反省する節がないからだろう.
公平さが必要 というのが
1.「国際法が,不完全(未整備)な法律であっても,悪法でも法は法だから,守るべき」という視点から「日本のA級戦犯を裁く際にも守るべきだ」 という主張に対して
●実際に,国際法を守ってるという状況にあったのなら,日本にだけ守らないで「復讐的な」裁判をしたってことで,東京裁判は責められるべきだろうが,その当時,「守られてないし,守らせるだけの強制力も無かった」.
●それは当時の状況からしたら「仕方が無い」ことで,この仕方無さは,日本が軍事侵略をせざるを得なかったのが仕方が無かったのなら,それと同等に仕方が無かったこと.
●また,「実態守られていない法律」なんてものは,規範として「守ったほうがいいね!」という程度の存在でしかなく,それなら,
「国際法を守った裁判をされてたか?」
という考慮をするよりも,
「道義的にどのように評価されてたのか?」
という視点から評価した方がいいだろ.
だって,国際法が規範でしかない以上,「道義の一部分を示したもの=国際法」でしかありえず,それなら,「道義」で評価するほうが,当時の視点としては正しいし公平.
●その上で,「国際法に照らし合わせたら」という視点で物言いすることは,「国際法が遵守されてる状況だったとしたら」という仮定を置いてるもので,この仮定はすでに『現在の視点で評価したら』ということを暗黙の前提 として置いてるものであり,小林よしのりの,日本の侵略戦争を評価する際の視点である
『現在の視点で評価したら侵略は悪だろうけど,当時から考えたら仕方がなかったんだ.(だから日本は悪くない)』
という視点と相反するものであり,ダブルスタンスになってる.
【質問】
戦犯容疑者の取調は,連合軍の憲兵が担当したのでしょうか?
それとも普通の将校や警察,法曹などが担当したのでしょうか?
【回答】
連合国の戦犯裁判では,基本的に,こうした取り調べに関しては法務部が主管します.
また,検察官送致が行われた後も,宣誓供述調書を作成するのに,法務将校が中心となって行う事になります.
日本の場合は,陸軍司法警察官(下士官以上の憲兵)により取り調べが行われ,調書を作成して,法務将校宛てに事件送致書が作成され,法務将校が訴訟指揮をする形が取られています.
送致の後,検察官の役割を果たす法務将校により取り調べが行われ,彼によって,実際の訴訟が準備され,法務将校が検察官,弁護人になって法廷が開廷されることになります.
但し,両軍とも軍刑法犯罪に関しては,憲兵が行うことになります.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板,2007/10/05(金)
青文字:加筆改修部分
【質問】
なぜ戦勝国が敗戦国の戦犯を裁くという,復讐裁判に転化され易いルールがまかり通ったのか?
【回答】
第1次大戦における戦犯追及の大失敗の反省を踏まえたため.
以下ソース.
第1次大戦後,ドイツ軍将兵の残虐行為についての,カイザー・ヴィルヘルム2世の責任が問題となった.
連合軍は,ベルサイユ条約第227条で
「同盟および連合国は,国際道義に反し,条約の神聖を犯したる重大なる犯行につき,前ドイツ皇帝ホーヘンツォルレン家のヴィルヘルム2世を訴追す」
と規定して,カイザーを法廷に引き出そうとした.
しかし彼は休戦直前,皇位を放棄してオランダに蒙塵,オランダは彼の身柄引渡を拒否した.
これについては,連合国内においても囂々たる議論があった.
フランスは,ドイツの将軍,将兵による残虐行為に対する責任は,最終的には長の長たる皇帝にあると強硬に主張.
しかしアメリカ代表ランシングは,これに反対して,
「皇帝には道徳的見解からするならば,人類に対して責任はあるが,法的見地からするならば,その国の臣民にだけ責任があるに過ぎない.他の国民に対しては何ら法的責任はない」
と主張した.
さらに,その他の戦争犯罪人の裁判が,これまた当を得ないものだった.
1921/5/23,ライプチヒにおいて戦犯裁判が開始されたが,裁く者はドイツ帝国裁判所戦犯処理委員会だった.
多くの戦犯達は,ドイツ人の手では逮捕されることがなかった.
例えば,無警告で英国病院船ランドベリー・キャッスルを雷撃し,その救命艇にも銃火を浴びせてこれも撃沈したUボート艦長パッチッヒは,「行方不明」とされたが,ライプチヒに隠れていたと言われる.副艦長は追及されず,他の将校はポーランドに逃亡.
結局,裁かれたのはドイツ側が起訴した2名,英国が起訴した4名,フランスが起訴した5名,ポーランドが起訴した1名の12名に過ぎなかった.
課せられた刑罰は,ドイツの起訴した2名が4年,英国の起訴した者の内2名は6ヶ月,1名が10ヵ月,フランスの起訴した者の内1名が2年といういい加減なものであり,連合軍使節は12人の事件の結果に対して抗議して撤退.
すると,ドイツ法廷は800の戦争犯罪事件を訴訟取り下げ,あるいは証拠不充分として処理してしまう.
1922年1月,連合軍は,ライプチヒ裁判所をこのまま継続する事は無意味であるので,ドイツ政府は速やかにベルサイユ条約228条によって連合軍側から起訴されている戦犯を引き渡すべきであると勧告した.
が,ドイツ裁判所及び国民は強く拒否.
また,有罪判決を受けた戦犯6名も,間もなく脱獄・逃亡してしまう.
かくして,ドイツ戦犯裁判は完全に失敗.
次のような教訓が生まれた.
(1) 敵戦犯を敵国の裁判に委ねない.
(2) 犯罪者の処分を休戦の条件とする.
(3) 戦犯の起訴は可及的速やかに裁判する.そうでないならば証人は消滅,証拠は隠滅される.
(4) 裁判の主たる準備は戦勝国当局において行う.
(5) 驚くべき犯罪によって戦犯が処分されるのは当然であると,敵国の世論を喚起する.
(6) ライプチヒ裁判は連合軍側の意見の不一致に基づくものであったから,今度は真に結合して協力態勢をとる.
(森田正覚「ロスバニオス刑場の流星群」,芙蓉書房,
1981/9/25, p.172-175,抜粋要約)
要するに国際法の不備を突かれた格好.
なぜWW1のときの反省に基づいて,きちんとしたルールを作らなかったのか,不思議でならない.
まあ,二度と大きな戦争は起こるまいと思ったのかもしれないが.
ちなみに,多少なりとも中立な場所で戦争反罪人が裁かれるようになったのは,当方の記憶ではユーゴ内戦の後のこと.
WW2から約半世紀が経過するまで善処されなかったわけで,戦争犯罪の件は,公正な国際ルール作りがどんなに時間がかかるかの見本と言えよう.
【質問】
日本の保守リベラル派は戦犯追及を希望してた,というのは本当ですか?
【回答】
本当です.
「戦前派の知識層やリベラル派,とくに親英米派の人々は,戦時中の日本の軍国主義的指導層に対する反感や憎悪から,この東京裁判の判決を是認し,太平洋戦争を否定する側に立った」(「雑学・太平洋戦争の真実」(日東書院)佐治芳彦著 -1997.4.1-)
そこで日本の関係者は積極的に協力することによって裁判(東京裁判)を特定の方向に誘導する方法をとった.特に天皇の側近たちや重臣(宮中グループ),海軍,外務官僚たちがそうだった.近衛文麿や木戸幸一に連なるグループは国際検察局に積極的に情報を提供し具体的な戦犯リストなども提供している.後の首相吉田茂もこの人脈の一員であることに注意していただきたい.
彼らは,天皇を擁護し,責任を東条英機など特定の陸軍軍人などに押しつける,という点で共通していた.木戸が提出した日記が,被告の選定に大きな影響を与えたことはよく知られている.
満州事変〜日中戦争〜アジア太平洋戦争の一連の侵略戦争において,陸軍が強硬派だったことはまちがいないが,総力戦は陸軍だけで行えるものではない.
要所要所で重要な決断を下した天皇をはじめ天皇を支える宮中グループ,海軍,官僚,財閥なども戦争を推進した.アメリカとの開戦については躊躇したグループも,少なくとも中国に対しては,日本の利益を確保するために軍事力を行使することは当然と考えていた.
しかしながら,東京裁判では,これらのグループはアメリカと一緒になって,天皇をはじめ自分たちは本当は対米戦争には反対だったが陸軍に押し切られたのだ,すべての責任は陸軍にあるという虚偽の「歴史像」を創作し,陸軍を切り捨てることによって自らの生き残りを図ったのである.
冷戦が始まり,アメリカは非軍事化・民主化政策から反共のために日本を活用する政策に転換していく(占領政策の転換)が,その中でアメリカはそうしたグループを政治的受皿として利用しようとしていく.一九四八年一〇月に成立した第二次吉田茂内閣はまさにその表れだった.外務官僚出身,元内大臣牧野伸顕の娘婿,近衛グループの一員だった吉田がアメリカに忠実な保守政治の創始者になったのである.
参考
大沼保昭『東京裁判から戦後責任の思想へ』有信堂,1985年
粟屋憲太郎『東京裁判論』大月書店,1989年
吉田裕『昭和天皇の終戦史』岩波新書,1992年
粟屋憲太郎『未決の戦争責任』柏書房,1994年
粟屋憲太郎ほか『戦争責任・戦後責任 日本とドイツはどう違うか』朝日新聞社,1994年
渡辺治『政治改革と憲法改正 中曾根康弘から小沢一郎へ』青木書店,1994年
日本史板,2003/10/28〜10/29
青文字:加筆改修部分
【質問】
パール判事は本当に日本無罪を主張したの?
【回答】
よく右翼側から引用される「パール判事」の「日本無罪」だが,これって単なるトリミングの成果に過ぎない.
パール判事が言っているのは「共同謀議」は認められないということだけであり,日本の罪にしたところで「事後法では裁けない」と言っているだけで,日本の道義的責任を免罪したわけじゃないんだよね.
「パールは,決して『日本無罪』と主張したわけではなかった.
彼が判決書の中で主張したことは『A級戦犯は法的に無罪』ということであり,指導者たちの道義的責任までも免罪したのではなかった.
まして日本の植民地政策を正当化したり,『大東亜』戦争を肯定する主張など,一切していない.
彼の歴史観によれば,日本は欧米列強の悪しき『模倣者』であって,その道義的責任は連合国にも日本にも存在すると見ていたのである」
(中島p.297?298).
パールの言いたいのは,
「おめーらに日本の事どうこう言える資格なんてねーよ,この帝国主義者どもが」
ってことであり,日本の責任を免罪したわけではない.
よく引用されている「日本無罪」論は単なるトリミングの効果に過ぎないわけだ.
都合のいいトリミングはサヨクの専売特許だと思っていたが,ウヨク(つか酷使)連中も大して変わらんことやってるわけね.
んで,これにホイホイされる人の多いこと・・・.
やっぱし,マトモな学術書とかは読むべきだわな.
ますたーあじあ in mixi,2007年12月26日19:00
▼ ようやくパル判事(上巻)700ページまでたどり着いたので,とりあえず現時点での感想.
大体「日本無罪論」の勘違いの元がわかってきた.
パル判事は満州事変にしても,それ以降にしても,「共同謀議」の事実があったのかどうかに焦点を当てていて,日本の正当性は「間違っていたのだろう」「認められない」「共同謀議の件に関しては無関係」というスタンス.
やはり
「法理的には裁けない」=無罪
であって
日本の行動が正当=無罪
というわけじゃないようだ.
内容が膨大なんで,完全に理解しきれてるわけじゃないけど.
ただ,満州における中国の行動が,日本の権益侵害の原因であるところは述べており,この点では,たしかに「日本の行動」に「同情的」ではある.
しかしながら,それを元に起こした行動については「恐らく間違っていたのであろう」と述べているし,そもそも正当性に関する言及なんてしてない.
それが「共同謀議」か否かとういう観点から論じているだけ.
読んでいて,ちょっと理想論的過ぎる所はあるものの,見識の高さは伺える.
ますたーあじあ in mixi,2008年02月05日08:44▲
▼ パル判決文より引用してみる.
中島岳の本はコヴァから叩かれてるみたいだしね.
[quote]
(前略)
起訴状の中の書く起訴事実全部につき全て無罪と決定されなければならず,また,これらの起訴事実の全部からすべて免罪さるべきであると強く主張する」(判下・七二七)
に尽きている.
しかしながら,ここで我々が特に注意を払うべき点はこの「無罪」の意味である,
それは,目下の論点たる共同謀議だけに限るとしても,日本の為政者,外交官および政治家は「共同謀議ではなかった.かれらは共同謀議はしなかった」(判下・四六六)
したがって検察側の共同謀議の訴追には該当せず,したがってその関係からは無罪とせざるを得ない
※この一文には傍点がついている.
という意味なのであり,広く一般的に,あるいは日本の国内法上から無罪である,あるいは道義上も責任がない,という手の判断とは全然無関係なのである.
したがって,パル判決書を至当と認める立場においても,なお昭和の為政者,外交官および軍幹部に対する一般的あるいは国内法上の追求,および道義上の糾明の自由を,われわれは全然損なわれずに保障されているのである.
パル自身もまた,その判決書が全面的共同謀議の検討を離れて,広く要路者あるいは日本国の「行動を正当化する必要はない」(判六四五),日本の「行為が果たして正当となしうるものであったかどうか,を検討することは全然必要ない」(判七六六,判八五八)との建前を維持して,「当時の日本の政策が隣国に対する正義と公平に基づく賢明な利己政策であったのか,あるいは単に主我的な侵略政策であったのか,はわれわれの現在の目的のためにはさほど重大ではない」(判七六四)
(中略)
「無謀でまた卑怯でもある」(張作霖殺害事件)(判七六四)
「一九三一年九月一八日以降の満州における軍事的な発展は,たしかに非難すべきものであった」(判七九三)
日本の東亜共栄圏建設計画推進にさいしての米国への態度は「無理であり,攻撃的であり,あるいは傍若無人だったかも知れぬ」(判三七五)
と言うように散見するパル判断から演繹するならば,昭和日本に対するパルの総括的な評価が,「日本がある特定の時期に採用したどの政策にしても,あるいはその政策に従って取ったどの行動にしても,それはおそらく(法律的に)正当化できるものではなかったであろう.
・・・・・日本の為政者,外交官および政治家はおそらく過ちを犯したのであろう」(判下・四六五)
[/quote]
―――『パル判決書』(上)(東京裁判研究会編,講談社学術文庫,1984.2),P199〜201より引用
と言うように,読み返せば,日本の行動を正当化しているわけではないと分かる.
(ただし,読み進めれば,日本の政策を評価している部分もあり,これは彼の賢明さを表すものだろうね.)
にしても・・・・
絶望した! 「はってん」の変換一発目が「ハッテン」な自分のIMEに絶望した!(滅
ますたーあじあ in mixi,2008年03月03日22:21
▲
▼ 読破した感想としては,パル判事は「法の人」であって,日本に同情したとか,日本が正しかったと言いたかったわけではないということかな?
もちろん,彼は日本に親愛の情を持っていた.
しかしながら,日本の行った行動に関しては,かなり批判的なニュアンスが強い.
だが,そこで終わらないのがパル判事の凄いところ.
あの時期に,真っ向から原爆投下を批判し,欧米の専横を戒めたところは,賞賛に値するだろう.
アメリカ大統領の決定で原爆投下を行った事に対しての痛烈な批判は,彼の法学者としてだけではなく,人間としての非常に卓越した見識と勇気を見ることができる.
ますたーあじあ in mixi,2008年04月18日18:00
▲
【珍説】
東京裁判でも,インドのパル判事は,「平和に対する罪」などというものは,法理論上,成立しないとして,被告全員を無罪とすべきだ,との判決書(厳密に言えば意見書)を書いている.
林信吾著『反戦軍事学』,p.193-194
【事実】
明らかに違いますね.
パル判事の意見は,
・「平和に対する罪」というものは「第二次世界大戦前」には概念がなく,ニュルベルク裁判のため作った「事後法」であること.
・「共同謀議」がなかった
だけであって,日本の政策や行動に対しては,痛烈とも言える批判をしています.
逆に「法理的」見地から,当時のアメリカ大統領にすら堂々と逆らったところに,彼の凄いところがあると思います.
ますたーあじあ in mixi,2008年04月19日 20:45
補読として読んでいる『東京裁判「パル判決書」の真実』(太平洋戦争研究会著,PHP研究所,2006.12)に,項目がありました.
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「平和に対する罪」と「人道に対する罪」というものは,戦争が始まった頃にはなかった.
ナチス・ドイツが連合国に降伏した(一九四五年五月七日)あとの,「一九四五年八月八日,ロンドンにおいて英連邦,合衆国,フランス共和国ならびにソ連邦各国政府間に結ばれた協定」(上二六六)ではじめて規定された罪名だった.
(中略)
パル判事はこういうやり方を
「原則としてその行為が処罰の対象となるところの国家との間に締結された国際条約」(上二七一〜二七二)
なら是認されるとした,カルフォルニア大学のハンス・ケルゼン教授の説に反論する形で次のように述べている .
「かのような条約によって常に『事後法』を制定することができ,かつかような人々の裁判に,これを適用する事ができると言う見解を受け入れることはできない.
しかし今の場合,この命題にたいして異議を唱える必要はない.
この裁判の場合においては,そのような条約は存在しない.
そして最高司令官(マッカーサー元帥を指す 引用者)の権能に対する諸条約は,最高司令官に付与されたどのような権力も,決して契約的関係を通じて敗戦国から継受したものでないことを特に明らかにしている」(上二七三)
このようにパル判事は,事後法である「平和に対する罪」で裁く事に疑問を提出した.そして言う.
「以上述べたところからみて次のことは十分明白であると思う.
すなわち,もし連合国が交戦国として国際法の下でかような人々を戦争犯罪人として取り扱う法的権利を持っていないとすれば,連合国は条約によっても,あるいはその他の方法によっても,かような権利を継受していないのである.
連合国が法律上自己に属していない権力を,あえて自己の手におさめようという意図を少しでもほのめかしたことはない.
したがって国際関係において戦勝国が敗戦国に対して有する合法的権能の範囲がなんであるかを探求するのは当を得たことである.
二十世紀の今日においては,敗戦国の人や財産に関してこの権力が今なお無制限なものであると主張するものは一人もいないと信ずる.
復仇の権利は別として,戦勝国は疑いもなく,戦争放棄に違反した人々を処罰する権利を持っている.
しかしながら戦勝国が任意に犯罪を定義した上で,その犯罪を犯した者を処罰する事ができると唱える事は,その昔戦勝国がその占領下の国を火と剣を持って蹂躙し,その国内の財産は公私問わずすべてこれを押収し,かつ住民を殺害し,あるいは捕虜として連れ去る事を許されていた時代に逆戻りするに他ならない.
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『東京裁判「パル判決書」の真実』 21〜22ページ
ますたーあじあ in mixi,2008年04月19日 21:57
【質問】
極東国際軍事裁判においては,通訳はどのように行われたのか?
【回答】
時に極東国際軍事裁判では,用語として第3章「被告人に対する公正な審理」の中に第9条「公正な審理の為の手続き」として(ロ)項にこうした記述があります.
――――――
(ロ)用語
審理並に之に関連せる手続は英語及び被告人の国語を以て行わるべきものとす.
文書その他の書類の翻訳文は必要なる場合請求に応じ提供せられるべきものとす.
――――――
この規定に従い,判事の国語である英語と,被告人の国語としての日本語と言う,協定言語間の逐次通訳が継続的に提供されましたが,ソ連代表判事は英語も日本語も解しなかった為,非公式にソ連代表団は,「好意」で第3のチャンネルに独自で用意した,ロシア語の逐次通訳を割り当てていました.
実際,極東国際軍事裁判では正式な審理手続きとして中国語,フランス語,オランダ語,ドイツ語,ロシア語,モンゴル語の通訳者も登場していますが,法廷は証人や検事が英語と日本語以外の言語で発言する事態を想定していなかったことが伺えます.
これは欧州で開かれたニュルンベルク裁判では,英語・ドイツ語・フランス語・ロシア語の使用を最初から定めて通訳体制を準備したのと対照的です.
この問題が表面化したのは,開廷後3ヶ月も経った1946年7月22日,中国の泰徳純将軍が証人として出廷してからです.
当初の取り決めでは,日本語を軸語として中国語で証人が発言すると日本語に翻訳され,更に英語に翻訳すると言うリレー通訳方式が採られることになっていました.
これは,英語と中国語を相互に通訳する能力を持った人を手配出来なかったのが原因です.
中国検察団から通訳を出す事も検討されましたが,検察が召喚した証人の通訳を検事が行うのは不適切として,実現せず,この様な方式を採りました.
当然,弁護側は二重通訳は極めて不完全であることを懸念して,屡々異議を出しています.
その法廷指揮を執るウェッブ裁判長も,事前にリレー通訳についての仕組みを知らされておらず,検察側の提案に従って,梅汝傲中国代表判事の秘書官を中国語通訳官に任命することをその場で決定しました.
それ以降,英語を軸語に,日本語・英語・中国語のリレー通訳方式が行われる様になりましたが,そもそもが即席の通訳ですから,その出来不出来は大きな問題が発生して,弁護側は元より検察側からも異議が申し立てられて,屡々審理が中断することと成ります.
この問題は,検察側の証人として出廷した,満州帝国元皇帝であった愛新覚羅溥儀が出廷した時にも続出し,遂に堪り兼ねたウェッブ裁判長は,マッカーサー元帥に書簡を送って,有能な中国語通訳者の派遣を直訴する事態にまで発展しました.
マッカーサーはこれに即座に応えて,8月26日に自らの英語・中国語通訳者を法廷に派遣すると共に,上海在住の通訳者も手配することになりました.
日本語の通訳もこうした即席中国語通訳者が配備されたことで,非常に厳しい環境に置かれることになりました.
日本語通訳も,裁判中仕事で最も苦労したことの一つが,中国語通訳者による分かり難い英訳を元に,日本語にリレー通訳する必要に迫られています.
こうした状況を踏まえて,極東国際軍事裁判事務局は開廷後4ヶ月が経過した1946年8月23日付電報で,ニュルンベルク裁判所に連絡し,以下のような問い合わせを行っています.
――――――
1. 法廷は何カ国語が使用されているか
2. 通訳機器を通して何カ国語が同時に話されているか
3. 一度に何名の通訳者とモニターを配属しているか
4. 通訳者は仕切りのない所にいるのか,それともガラスの壁の後にいるのか
5. 証人席と通訳者の距離はどのくらい離れているか
6. 各言語の通訳者に対し複数の法廷速記者が必要か
7. 法廷速記者は何所に位置しているか.証人の近くか,それとも通訳者の近くか
8. 通訳者,モニター,その他の通訳要員の為のスペースはどのくらいか
9. 弁護人,証人,通訳者の発言順番はどの様に調整されているか
――――――
これに対し,ニュルンベルク裁判所は8月27日付電報で以下のように返しています.
――――――
1. 法廷は何カ国語が使用されているか
− 4言語(特別措置で第5言語が使用される可能性もあり)
2. 通訳機器を通して何カ国語が同時に話されているか
− 3つの言語が通訳機器を使用して同時に話されている.
発言者が協定言語の1つを話し,通訳者が残りの3つの協定言語に訳していく.
3. 一度に何名の通訳者とモニターを配属しているか
− 通訳者12名に1名のモニターを配属.
4. 通訳者は仕切りのない所にいるのか,それともガラスの壁の後にいるのか
− 通訳者は天井のないガラスの仕切りの後にいる
5. 証人席と通訳者の距離はどのくらい離れているか
− 15フィート.しかし,両者はマイク,イヤホン,ワイヤで繋がっているので距離は問題ではない.
6. 各言語の通訳者に対し複数の法廷速記者が必要か
− 各言語に対する法廷速記者の数は速記者個人の能力による.
念の為に,各言語に付き1度に2名の速記者を配属してきた.
各言語当りの速記者数は合計約9名で,1日6時間の業務体制になっている.
7. 法廷速記者は何所に位置しているか.証人の近くか,それとも通訳者の近くか
− 法廷速記者は証言台と検事・弁護任用の発言大の間に座っている.
これは裁判官積登被告人席の間で法廷のほぼ中央に当る.
しかし,ここもワイヤ,イヤホンで発言者及び通訳者と繋がっているので位置は問題でない.
8. 通訳者,モニター,その他の通訳要員の為のスペースはどのくらいか
− 6名の通訳者用テーブルが2つで,椅子は座り心地の良いもの.
広さは6フィート×15フィート.
モニターは通訳者席の端に座る.
加えて,3名の器材担当者席が2箇所必要.
1つは法廷内のコンソール前で様々なマイクの音量を一定に保つ為のもの.
広さは3フィート×10フィート.
もう1箇所は法廷外でも良いが,アンプやシステム全体をチェックする為法廷内が見える位置で
なければならない.
9. 弁護人,証人,通訳者の発言順番はどの様に調整されているか
− 発言の手順は以下の通り.
検察側と弁護側は同じ発言台からマイクを遣って順番に発言する.
イヤホンがその発言台に用意されている.
判事はそれぞれマイクとイヤホンを持ち,発言者を指すことも出来る.
証言台にもマイクとイヤホンがある.
証人に尋問を行う際,検事・弁護人は母語を使う.
それが証人の言語に同時通訳され,尋問が終わると同時に証人がそれを理解出来る様に
なっている.
証人は母語で答え,それがまた検察側・弁護側の母語に同時通訳される.
尋問と答弁の間に遅れはない.
通訳は同時であると言う事,発言者が話し始めるのと同時に他の3言語に訳出され,発言者
が話し終わった数秒以内に訳出も終わるという点を強調したい.
高度な技能を持ち高度な訓練を受けた人材が必要である.
通訳者は発言者が何語を話すが知っておく必要が有る.
ソ連の検事が発言台に近付けば,ロシア語からそれぞれ英語,フランス語,ドイツ語に訳す
通訳者はその検事が話し始めると直ぐに訳出が出来る様準備,待機しておかなければなら
ない.
通訳者は発言を聞き,同時に訳出する.
――――――
まぁ,同じ様な構造体形を持つ言語同志の訳出であることを割り引いても,既にニュルンベルク裁判では通訳者の要件を理解し,効果的に機能する通訳体制を確立していた訳です.
ただ,当然のことながら,主語→述語→修飾語と並ぶ英語と,主語が最初に(或いは略され)修飾語,最後に述語が来る日本語とは如何せん訳出のやり方も違いますので,そのままニュルンベルク方式を持ち込んでも使えませんでした.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/08/30 18:43
極東国際軍事裁判での使用言語は,被告が使用する国語と英語であることが定められていました.
ロシア人達はロシア語を使いましたが,あくまでもそれは非公式なものとの位置づけでした.
ところが,1946年9月30日,1つの事件が起こります.
フランスの検事ロバート・L・オネトが,英語で発言すると言う約束事を無視して,フランス語で話し始めたのです.
弁護側は,使用言語を規定した裁判所憲章に違反するとして異議を唱え,通訳の正確さをチェックすることの難しさ,審理の遅れについても懸念を表明しました.
この異議自体は却下されましたが,全ての書類を事前にフランス語に訳出することの煩雑さもあって,結局,オネト検事が文書を読み上げる際は,英語を用いることになりました.
しかし,オネトの英語は訛りが強く,通訳者も法廷速記者も発言を理解する事が出来ませんでした.
長い議論の末,苛立ったウェッブ裁判長は英語のみを使用する決定を下し,オネト検事に代わって英語を母語とする検事が発言するように提案しました.
翌日も,フランス語の使用について長々と議論が続きますが,ウェッブの提案にも拘わらず,オネト検事は再びフランス語で話し始めました.
これを侮辱と受け取ったウェッブは,休廷を宣言しました.
更に,この言語問題は拡大し,翌日になってフランス代表判事が辞任を仄めかした為,ウェッブも折れて漸く極東国際軍事裁判に於てフランス語の使用を認めることになりました.
こうしてオネト検事は堂々とフランス語で発言するようになりましたが,英語の証拠書類を読み上げる時だけは,通訳者や法廷速記者の為に米国人検事に代読して貰いました.
リレー通訳は使用されず,英・仏間,仏・日間,英・日間の通訳が配され,発言者の言語は他の2言語に一斉に訳されることと成ります.
これを見て,1946年10月4日午後の法廷では,ソ連の検事がロシア語の使用を主張し,このロシア語使用に関する議論一色と成ってしまいました.
弁護団は,フランス語の使用で既に審理が中断されて遅れが生じ,今又ロシア語の使用も認められれば公正で円滑な審理が益々難しくなると異議を申し立てます.
再び,裁判所憲章の「審理は英語及び被告人の国語を以て行はるべきものとす」を盾に取った訳です.
更に,弁護側はソ連検事のロシア語での発言許可の背後には政治的配慮があり,これは極東国際軍事裁判前に米ソが事前に取り決めていたことではないかと示唆しました.
ウェッブはこの一連の発言に不快感を示し,憲章は第3の言語を排除していないと主張し,その上で,極東国際軍事裁判の法廷に於ける発言は,代表団を派遣している国の言語であれば何語でも良しとの決定を下しました.
ソ連側の冒頭陳述及び尋問中は,発言者の言語は他の2つの言語に一斉に訳出され,リレー通訳は用いられませんでした.
その後,ドイツ語証人による証言中は独・日,独・英間の通訳者が配され,オランダ語による証言時は英語,モンゴル語による証言時はロシア語をそれぞれ軸語としたリレー通訳が行われました.
これら裁判の運営は,極東国際軍事裁判所書記局が担っていました.
書記局は,主に書類管理,記録保持,裁判運営事務作業を担当しており,局長は米陸軍大佐でした.
その書記局の下に言語部があり,通訳者,モニター,翻訳者の手配など言語面でのサポートを実施しています.
裁判期間中,言語部長には,4名の米海軍及び陸軍士官(退役士官も含む)が就任していますが,特にその発言が審理中に記録されていたのは,初代部長を務めたディビッド・ホーンスティン海軍少尉ばかりで,他の3名は特に目立った行動を取ることはなかったようです.
因みに,ホーンスティン海軍少尉は,米海軍日本語学校の出身者でした.
モニターと言語裁定官は,通訳者が裁判中,最適な訳を行っているかを確認する役目です.
この両者は,戦時中,語学兵として前線又は陸軍情報部内で活動し,戦後はGHQ内部の諸部署に配属された者達から選抜され,採用されたもので,モニターには4名の軍属日系二世米国人が選ばれ,言語裁定官は裁判の前半,後半で各1名,何れも白人の米陸軍士官が就任していました.
一方,通訳者は外務省及びGHQの翻訳通訳部(ATIS)や裁判準備を行っていた国際検察局等の機関で既に翻訳者として働いていた日本人の中から採用されました.
採用は,1946年1〜2月に募集と採用試験が掛けられています.
その試験は,模擬裁判で通訳を行うと言うもので,合格者は裁判の手続きなどについてのオリエンテーションを受けるだけで,通訳の訓練もなく直ぐに法廷に送られ,審理の通訳を始めました.
ニュルンベルク裁判では,同時通訳システムを導入し,裁判前には通訳に対し入念な教育を実施した,ベテラン通訳者であるレオン・ドスタート大佐という人物がいましたが,極東国際軍事裁判では通訳を教育出来る人材がそもそもいませんでした.
この通訳者は当初15名程度が採用されましたが,その多くは直ぐに落伍,補充が行われ,また落伍の繰り返しで,3ヶ月の間一定せず,そうした期間を経てやっと10名程度に落ち着いたそうです.
採用者は海外経験のある外務省職員,米国で教育を受けた者,日本でバイリンガルの家庭に育ちインターナショナルスクールに通った者などが居ました.
因みに速記録では,合計27名の日英通訳者の名前が記されていますが,裁判中継続的に通訳作業に従事し,200回以上の審理を担当したのはその内僅か4名でした.
この通訳の月給は,例えば,外務省職員から法廷通訳者に指名された者の場合,1946年9〜10月の時点で月給は1,800円,日当は100円でした.
因みに当時の標準生活費は1ヶ月500円ですから,かなり好待遇の仕事だったりします…が,戦後の預金封鎖や新円切替えで現金が中々届かず苦労したそうです.
モニターや言語裁定官の給与は,米軍の給与体系で行われ,モニターのリーダ的存在だった日系人では,軍属ではありますが少佐待遇となっており,「事務・行政・財務サービス(CAF)11号給」が支給されていました.
その当時,CAF12号給の最低年給が6,235.20ドル,CAF9号給で4,479.60ドルでしたので,モニターの月給は約470ドル程度だったと推定されます.
因みにこの当時,アメリカンスクールの教師の月給が1947年で244ドルでしたから,これもその倍程度で,結構な高給取りだったと言えますね.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/08/31 22:39
極東国際軍事裁判に於ける東京裁判の法廷は,有名な市ヶ谷の旧陸軍士官学校講堂で開廷されました.
この建物はニュルンベルク裁判所に倣って改装され,法廷になった訳です.
ただ,ニュルンベルクと違って,夏は非常に暑い状態にも拘わらず,記録映画撮影用に照明が天井からぶら下がり,これが更に耐え難いほどの暑さの原因となり,1946年7月の休廷時にエアコン設備が整備されています.
通訳の場所は,開廷後最初の1ヶ月間は法廷の中央部にある検察官席や弁護人席の隣のテーブルが与えられ,そこから通訳が行われました.
その後,1946年6月,1週間休廷が行われた際に講堂の壇上に通訳ブースが設営され,ニュルンベルクで用いられたものと同じIBM社製同時通訳装置が設置されました.
6月14日以降,通訳者,モニター,法廷速記者,機材関係者にとってはそのブースが新しい仕事場と成りました.
因みにこの場所は,敗戦まで玉座として使われていた壇上で,其所に上り下りする階段は天皇陛下のみが使用出来るものでした.
この階段は足が踏み込む部分が安定するよう,やや表面が凹んだ作りになっています.
現在,この場所は防衛省市ヶ谷記念館となっており,見学ツアーに参加すると,この階段を実際に上り下り出来るそうですので,見学の機会があれば,一度確認してみては如何でしょうか….
余談は扨措き,法廷内には通訳を聞く為のイヤホンが適宜置かれていました.
これはチャンネルを切り替える方式で,チャンネル1は英語,チャンネル2は日本語となっており,チャンネル3は前に述べたように「好意で」ロシア語用に提供されていました.
マイクは裁判長席,検事と弁護人発言台,証人席,通訳ブース台に置かれましたが,その感度は非常に高く,通訳者の私語や書類のページを捲る音まではっきり聞こえたそうです.
通訳はニュルンベルクと違って,同時通訳装置が置かれたものの,日系人モニターのリーダの主張により基本的に逐次通訳となっていました.
これは日本語・英語官の同時通訳は不可能と言う判断を下した為であり,モニターのリーダは特に日英同時通訳不可能論を強く唱えたと言います.
発言者が前もって準備された文書を読み上げ,その翻訳が通訳ブースに提供されていた時のみ,同時通訳というか同時読み上げ式通訳が行われました.
この読み上げは,日本人通訳者ではなく,日系人モニターが実施しています.
何故逐次通訳となったか.
これは,通訳者が通訳した際,その通訳に問題があると感じたモニターが即座に訂正を入れる利点があるからとも言われています.
裁判長席,検事・弁護人用発言台,証言台には通訳状況を知らせる為のランプが取り付けられており,ランプが点灯中は逐次通訳進行中を示し,その間,発言者は通訳が終了をするのを待たねばなりませんでした.
また,発言が速すぎたり,長すぎたり,通訳終了前に次の発言が始まった場合には,間を開けて話すよう発言者に注意を喚起する為,ランプが点滅するようになっていました.
通訳者は毎日午前と午後の審理に,それぞれ2〜4名の通訳者が配され,交代で30分毎に通訳を行う事になっていましたが,実際には通訳者の能力やその場の状況によって,モニターが指示して柔軟に通訳交代の指示を出しています.
従って,日英・英日の双方向を担当する通訳も居れば,どちらか一方のみを通訳する通訳者もおりました.
通訳業務は,2日間勤務し1日休むと言う週休3日制で,比較的楽なスケジュールとなっていました.
モニターは午前と午後の各審理で,1名配属されました.
また,審理中,言語裁定官は検察団の座席に着き,翻訳や通訳を巡る混乱や問題が生じた時のみ発言することになっていましたが,主な仕事は言語裁定部が翻訳・通訳の問題について下した裁定を法廷で発表することでした.
また,言語裁定官は,翻訳を巡る問題にも頻繁に関わりました.
特に,証拠書類を翻訳する際の誤訳が頻発し,その訂正が結構ありました.
極東国際軍事裁判憲章では,証拠として提出された全ての書類を英文であれば日本語の,和文であれば英語の翻訳を添付することとなっていました.
また,最終弁論や判決文など前もって準備される陳述も判事,検察団,弁護団,通訳者,モニターの為に予め翻訳する必要が有りました.
この為,翻訳者は膨大な数を必要としたのですが,その翻訳者の数が不足していて,特に弁護団の陳述準備の為の翻訳者不足は深刻でした.
1946年11月,検察側の冒頭陳述が最終段階に近付くと,弁護団は陳述準備の為に緊急会議を開き,翻訳者25名と通訳者5名を至急手配するようGHQ法務部に要請しています.
11月25日付文書では,「弁護側には膨大な任務が課せられ,人員を増やさなければ職務を全う出来ない」とか,「これらの文書の処理が遅れたが為に弁護側の陳述が出来なくなると言う事態にでもなれば,連合国最高司令官,軍事裁判所,弁護側にとっても大きな恥となるであろう」と強い調子で訴えています.
結局,東京裁判で翻訳者として活動したのは計230名(検察側175名,弁護側55名)に上りましたが,提出が認められた証拠書類は3万頁に達して大量の書類が翻訳される必要が生じました.
ATISからも日系2世翻訳者が派遣されましたが,1946年1月29日付GHQ語学専門か調査によると,「独力で何不自由なく日本語の書面を正確に翻訳し,様々な書体の日本語を容易に理解する」と定義されたAランクの翻訳者は全体の2.2%しかいませんでした.
東京裁判以外にもGHQの占領政策では多くの翻訳者が必要であり,学者始め津田塾大学など英語専攻学生を中心に大量採用が行われました.
例えば,東京裁判準備段階でスタッフ数は70名に上ったのですが,日本語を読めるのは僅か5名であり,仕方なくキーナン首席検察官は日本政府に英語の堪能な日本人を50名派遣する様要請せざるを得ませんでした.
これにより,事務自体は円滑に行ったのですが,英国作成のA級戦犯候補リストがキーナンに報告した直後にマスコミに漏れるなど,裁判所は頻繁な情報漏洩に悩まされるようになります.
つまり,「日本人は信用出来ない.だからなるべくなら使いたくない」というのが本音だったと言えます.
因みに,翻訳者として掻き集められたのは,経済学者の都留重人やこのほど引退した元法務大臣の森山真弓,元神奈川県知事でマルクス経済学者の長洲一二などもいました.
また,こうした翻訳作業はチームで行われており,例えば,主任弁護人だった清瀬一郎は自ら東条英機の宣誓口述書の英訳を手がけましたが,その英文の校正を行ったのは米国人弁護人のブルーエットでした.
『木戸日記』の翻訳は,「スクリーニング用」版と「正確」版の2種類があり,2つの翻訳チームが段階的に翻訳を担当していました.
この『木戸日記』は草書体であり,楷書体に先ず直して翻訳作業に入ったのですが,その草書体が読めずに苦労したとの話しが伝わっています.
判決文の翻訳については最大の体制が組まれ,1948年8月2日から10月末まで完成に3ヶ月を要しました.
9名の日系2世と36名の日本人翻訳者が,30万語に及ぶ判決文の翻訳に取り組み,東大国際法教授の横田喜三郎が法律用語をチェックし,文部省国語科課長の林大が日本語を整えました.
翻訳チームに加え,約30名の速記者,タイピストが作業を行ったのは,東京芝白金の「ハットリ・ハウス」(服部時計店主の服部玄三郎宅)で行われ,判決文が外部に漏れるのを防ぐ為に,厳重警備体制が布かれ,誰も敷地から離れることは許されませんでした.
通訳の家族が会いに行っても,門の所でしか会えず,敷地内に入れなかったと言います.
こうして様々な文書が翻訳されていった訳です…が,これらには少なからず問題がありました.
1948年5月の言語裁定部発表の資料では,検察側・弁護側の誤訳の指摘に対し,裁定部が審議を行って翻訳の訂正をした箇所は,433箇所に上ったそうです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/09/01 23:24
極東国際軍事裁判では膨大な量の文書が翻訳されていきました.
勿論,洗練された翻訳で検察側,弁護側双方納得したものあれば,誤訳かどうかで争われたケースもありました.
特に,誤訳かどうか異議を唱えたのは弁護側からが多かった様です.
例えば,1946年8月28日の東京裁判での検察側立証段階での審理中の事,日本軍が清国廃帝であった愛新覚羅溥儀にどう対応したかについての電報を検察側が証拠として提出しました.
しかし,その書類の中にあった「軟禁状態」と言う言葉の英訳である"light
confinement"と言う言葉に弁護側は異議を唱えました.
この言葉,囚人としての"light confinement"を本当に意味しているのか,それとも保護監督下と言う意味で使っているのか質している訳です.
日本語の「軟禁状態」は誰かが囚人の立場に置かれていると言う意味には使われないとして誤訳ではないかと言う事を言語裁定官に判断を依頼しています.
"confinement"は「監禁」=「閉じ込めておく」と言うニュアンスがありましたが,溥儀は既に日本軍の保護下にあったので,これは別の訳語"protective
custody",つまり「保護的監督下」を使うべきではないかと言う主張を弁護側はしていました.
また,同じ日の審理では,皇后を「連れ出す」と言う言葉についても異議を唱えています.
証拠書類の訳文では,これを"abduct"としているのですが,"abduct"は「誘拐」とか「拉致」と言う意味であり,証拠書類には「連れ出す」とあるので,訳語は"take
a way"であると言うのが正しいと主張した訳です.
「上海で日本軍が廃帝である溥儀を監禁し,更に満洲へ皇后を誘拐した」と言うのと,「上海で日本軍が廃帝である溥儀を保護的監督下に置き,更に満洲へ皇后を連れ出した」と言うのでは随分受けるニュアンスが違います.
最終的に翌日の法廷で,ムーア言語裁定官は,前者については,文字通り訳すと"condition
of light confinement ",つまり「軽い監禁の状態」となりますが,文脈に沿うには"protective
restraint",即ち,「保護的拘束」とすると言う裁定が下りました.
この様に誤訳と判定されて直ぐに訂正が反映されるケースもありましたが,後者の「連れ出す」については,弁護側から問題提起が行われてから1年4ヶ月経過した1947年12月26日になったりしました.
ただ,こうした誤訳問題については,その最初の誤訳が判事達に与える心証について懸念する声もありました.
オランダ代表判事のレーリンクもその1人で,ある文書が平和から戦争へと進展した経緯について意味を成さなかった為,その文書を言語裁定部に送った所,以前のものが誤訳であったことが判明しました.
レーリンクは,判決を下す際には正確な翻訳文書を使用すると言う案を判事団に諮りましたが,審理を再開し正しい翻訳を提出し直なければならないから膨大な手間と費用が掛かるとして却下されました.
既に,誤訳が法廷で使用されているので,それを証拠として扱うという者も居ました.
こうした誤訳が,東京裁判にどの様な影響を与えたかは不明ですが,例えば,文官として唯一死刑判決を受けた広田弘毅の肩書きは,日本語では「内閣審議官」,本来の英語では"Cabinet
Councilor"になるべきところ,これを"Supreme
War Councilor",つまり,「軍事参議官」となっており,判決文の中でもこの誤訳が訂正されることなく使用されています.
まぁ,広田弘毅はこの肩書きの御陰で絞首刑判決を受けた訳ではないでしょうが….
尤も,誤訳があればそれを言語裁定部に送り,裁定を仰ぐという仕組みが東京裁判にはありましたので,致命的な誤訳を置き去りにして,判決の結果に影響が出たと言うことは無いと言われています.
東京裁判はニュルンベルク裁判の10ヶ月と違って,閉廷までに2年半を要しました.
これは逐次通訳の所為だと言う説を採る人もいます.
しかし,多くの学者は,それだけではなく,主に言語上の問題があるとしながらも,戦争裁判で裁かれた事象が,単なる法で裁く範囲に収まりきらず,歴史や政府の仕組み,外交関係まで審理の対象となったこと,日本軍や政府の書類が敗戦と共に焼却処分にされていたので,立証の為には膨大な数の証人を必要としたこと,更に,英米法に不慣れな日本人弁護士や証人が屡々,冗長で的外れな発言をする傾向にあった事などを挙げています.
また,逐次通訳と言う事で,検察官や弁護人が尋問する際の言葉遣いやリズムが屡々妨げられ,その翻訳の稚拙さ故に弁護側,検察側とも証言の確信を捕えるのに苦労し,通訳者の為に事前に書類を提出する必要が有ったと言うのも弁護側,検察側双方にとって煩瑣な作業とされていました.
日本語は英語と違って,曖昧な表現が多くありました.
この為,直接的な表現を好む英語と違って,その冗長さが通訳者を悩ませ,裁判長を苛立たせ,日本人被告には不利に働いたと言われています.
ただ,先述のように一定の制限はありますが,不服申立ての制度はある訳で,翻訳や通訳が意図的にねじ曲げられたとか,根本的に正確さを欠いていたと言う理由で刑が決まったという事までは言えません.
ウェッブ裁判長の引退後のインタビューで,
「もし日本人弁護人が英語に堪能であるか,或いは通訳がもっと有能であったならば,裁判にも影響を与えたかも知れない」
と述懐したそうですが,これは判決内容が異なっていたであろうと言うよりは,裁判運営面に於て,もっと東京裁判が短縮されたであろうと言うニュアンスの言葉であろうと思われます.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/09/02 23:46
▼ ニュルンベルクでは余りモニターや言語裁定官の出る場が少なかったりします.
しかし,東京裁判法廷では,通訳の三層構造とでも言うべき,最下層に審理を通訳する全員が日本人で構成された通訳者,上の第二層に4名の帰米日系二世がモニターとして存在して,通訳をチェックし,誤訳の場合は逐次訂正を入れたり,通訳の補足説明や発言順番の交通整理を行いました.
モニターはまた,最終弁論,判決文,その他事前に用意された文書の「翻訳同時読み上げ」通訳も行いました.
そして,最上層には言語裁定部がいました.
言語裁定部は検察側から1名…日系帰化米人の弁護士,弁護側から1名…英字雑誌の日本人編集長,裁判所側から1名…白人米軍士官の3名で構成され,検察側,弁護側から異議を唱えられた翻訳や通訳について審議し,その結果を白人米軍士官の裁判所代表が法廷で発表すると言う任務でした.
この言語裁定部の設置経緯については,東京裁判判決文「A部 第1章 本裁判所の設立及び審理」の中でこう述べられています.
――――――
法廷で話される言葉は,一々,英語から日本語に,またはその反対に,通訳する必要が有ったので,審理は少なくとも二倍の長さになった.
日本語と英語の間の翻訳では,西洋の一つの国語を,同じ西洋の他の国語に翻訳する時の速さと確実さを以て,翻訳を行う事が出来ない.
日本語から英語に,またはその反対に,逐語的に翻訳するのは,不可能なことが多い.
大部分はただ意訳が出来るに過ぎない.
しかも,両国語の専門家の間で,正しい意訳について,屡々意見を異にすることがある.
その結果として,法廷の通訳者達の間に,度々,どう訳したら良いかについて困難を生じた.
そこで,通訳に関する争いの問題を解決する為に,裁判所は言語裁定部を設けなければならなかった.
――――――
そうした背景は判るものの,何故,そのほかにモニターが採用されたか,国籍・人種別に通訳の役割分担についての説明はありません.
それを検討するには,東京裁判の前に行われた山下裁判法廷を見る必要が有ります.
1945年10月からマニラで行われた山下奉文大将と本間雅晴中将の米軍による戦犯裁判は,東京裁判に先立ち行われましたが,これは通訳について非常に大きな問題を孕んだ裁判でした.
例えば,当初法廷通訳者として任命された3名の白人米軍士官は,自らの日本語能力の低さを理由に法廷通訳者としての宣誓を拒否した事件が起きています.
この為,米太平洋陸軍司令官は,1945年10月28日(山下裁判の1日前)付書簡で,
「このとんでもない事態を防ぐ為に,何故十分な時間を掛けて有能な通訳者を探さなかったのか」
と,苛立ちを顕にしています.
山下大将自身は,降伏前から通訳者として,軍属の浜本正勝氏を通訳者として雇用していました.
浜本氏はハーバード大学出身で,戦前はGMの極東本部支配人でしたが,その後軍属としてフィリピンに渡り,陸軍の通訳やフィリピンに出来たラウレル政権の相談役を務めていました.
浜本氏は,山下大将と弁護人間の会話や精神鑑定など法定外の遣り取りに於ける通訳は行いましたが,山下大将と同様,自身も捕虜であるという立場から法廷内で裁判の通訳をすることは当初許されていませんでした.
さて,白人士官が宣誓拒否をした事で改めて通訳者を探すことになり,主に日系二世が法廷通訳者の役割を果たしましたが,山下大将の弁護人の1人であったリール弁護士は,回想録で以下のように酷評しています.
――――――
法廷通訳者は2つのグループに分類された.
日系二世兵のグループはそれなりに日本語での対応は出来たが,表現力は初級つまり「幼稚園」レベルに限られており,英語は望ましいレベルとは程遠く,その為弁護人の質問を自らの語学レベルに合わせて許可無く変更してしまうことが屡々だった.
海軍・海兵隊の米人士官グループは英語は素晴らしかったが,日本語は不充分で,常に辞書に頼らなければならなかった.
――――――
これは山下大将裁判に関わった,7名の日系二世通訳者も認めていました.
彼等は,何れもMISLSの卒業生でしたが,MISLSでの9ヶ月間は通常の日本語ではなく軍事用語のみ学ばされた為,山下大将の裁判中は法律用語の訳出に苦しみ,「常に辞書を引かなければならなかった」と言います.
こうした状況による通訳は稚拙でスピードが遅かったので,審理が何度も中断されました.
この状況を見かねた法廷では,審理中,浜本氏を山下大将の隣に座らせ,英語から日本語へのウィスパー通訳(小声で囁く同時通訳)を許可し,御陰で公判が何週間分も短縮出来たと言います.
ただ,山下大将の証言時には,浜本氏の英訳は許されませんでした.
その為,山下大将の証言時は,その法廷にいる日系二世通訳の中で,最も翻訳能力の高かったテッド・ヤジマを要請しました.
それでも山下大将はヤジマの日本語理解力を懸念し,
「山下は間違いを欲しない.
長い文章は二回繰り返す.
耳と頭を使って注意深く聞くように」
と釘を刺して証言台に立ったと言います.
ドキュメンタリー映画の『東京裁判』で,山下大将が証言する場面が出て来ますが,山下大将は明確な日本語で非常にゆっくりと証言していたのは,背景に通訳の問題があった訳です.
この通訳の問題はその後もついて回り,中には通訳の間違いを指摘した地元の新聞記者達が,法廷に証人として召喚され,詳細な説明を求められる事態まで発生しました.
前述のリール弁護士は,「苦しそうな」「もたもたした」「いらいらさせる」という修飾語を用いて,法廷の様子を述べています.
結局,1945年12月7日,即ち真珠湾攻撃の4周年記念日と言う象徴的な日に山下大将は絞首刑を宣告され,1946年2月23日に処刑されました.
歴史にIFは許されませんが,もし,東京裁判の法廷で山下大将が裁かれていたとするならば,山下大将はもしかしたら,絞首刑になどならなかったかも知れません.
これは,同じ様に外地で戦犯裁判を受けた人々にも少なからず言えた事です.
また,内地で行われた,所謂BC級戦犯裁判でも,通訳者の能力の問題が色々と取り沙汰されています.
東京裁判はニュルンベルク裁判と共に,米国単独の軍事裁判ではなく,形式上11カ国の判事から構成される国際裁判であり,ある意味,世界中の耳目を集めた裁判でもありました.
此処で,マニラ裁判の様な失態を繰り返す訳には行かない.
記録にはありませんが,GHQ内部では彼等の威信を保つ為にも,通訳問題には特別対処しなければならないものでした.
其所で採った方法が,国籍・人種・軍籍の如何に関わらず能力のある通訳者を採用する事です.
即ち,通訳者として日本国籍者にも門戸を開く事になりました.
これにより27名採用された日本人通訳者の半数以上は外務省職員でしたし,他にも陸軍兵士だった者,真崎秀樹氏の様に父親がA級戦犯容疑者として取調べを受けたことのある真崎甚三郎大将と言った者が含まれています.
被告人には3名の元外務大臣,2名の元外交官,17名の元軍部指導者が含まれており,通訳者は元上司や指導者の命が掛かっている場で通訳をしていたことになります.
ニュルンベルク裁判の場で,元ナチス党員が通訳者を務める様な事態が東京では発生していた訳です.
この様な状況下では,GHQや裁判所書記局が彼等の中立性を懸念し,敗戦国国民に通訳させていることを対外的に見せるのを非常に嫌い,言語監督官という制度を作って彼等を監督させた訳です.
ただ,言語部長自身は日本語を解しなかったことから,間接統治の方法として日系二世を採用して通訳を直接監督せしめる「モニター」を作り上げたのが真相のようです.
因みに,日本人通訳者は全く信用されていませんでした.
従って,尋問者が宣誓口述書などの書類を読み上げる際,そのフォーマルな書類が通訳ブースに翻訳されて届いていた場合には通訳者ではなく,日系二世モニターが「翻訳の同時読み上げ」通訳を行い,面子を保ち,かつ,日本人通訳者が意図的に誤訳をしないようにしていました.
また,言語裁定部から見ると,日系二世モニターも信用されていませんでした.
モニターは全員日本で教育を受けていた帰米二世でしたから,彼等は「親日的」であると見做されており,他の日系米人よりも激しい差別や偏見を経験し,米国に対する忠誠心を最も疑われた人達でした.
事実,語学兵として従軍した日系二世達も,部隊内で差別を受け,監視され,戦争末期まで士官への昇任を認められませんでした.
東京裁判の間も,モニターとなった日系二世達も,日本人被告達に同情心を持っているのではないか,それ故に手心を加えることがあるのではないか,と常に懐疑的な目で見られていました.
それ故に,言語裁定官は白人の士官である必要があった可能性があります.
更に言語裁定官は,通訳ブースではなく検察官席に陣取っていたのは,通訳・翻訳の権威を司っているのは米軍であり,米軍がこの裁判の主役であることを暗に仄めかしていたのかも知れません.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/09/06 18:47
▲
▼ さて,東京裁判では通訳の陣容が一応整えられていましたが,それでも敵は未だ未だいました.
特に裁判長のウェッブは,1年に亘って通訳を泣かせ続けていました.
1946年5月3日,法廷審理初日にホーンスティン言語部長が,ウェッブに対し,通訳者の為に発言者は短く区切って発言することを要請しましたが,ウェッブはこれを無視して何ら対策を採りませんでした.
6日,ムーア言語裁定官が,発言者は通訳者の通訳が終わるまで発言を待つべしと言う言語部からの正式要求を法廷に伝えましたが,ウェッブは,発言の全てを通訳する必要など無く,時間節約の為にも要約で事足りると回答しています.
ホーンスティンが公正な裁判を実施する為に,日本語と英語の通訳が提供されることが規定された裁判所憲章に言及して,「全訳」を要求しましたが,ウェッブは尚も「要約通訳」を強硬に主張.
余りの対立の激しさに,ウォーレン弁護人が同時通訳機器の設置が行われれば「翻訳原稿の同時読み上げ」が可能となると発言して,その議論は一旦収まりました.
14日,発言者が書類を読み上げ始めましたが,日本語訳を渡されていなかった通訳者は,発言内容をもれなく通訳することが出来ず,通訳者の為に発言を短く切る要請が出されたものの,再びウェッブが,「この通訳は一節ごとだったら読むことが出来るのに,何故それを全部繋げて言えないのか私には判らない」と言い放ち,発言者に対して,短く切ることなく原稿を一気に読み終えるように,と指示しました.
当然のことながら,通訳は著しく不正確なものとなり,訳し漏れも多くなった為,弁護側から異議が出され,議論が再び生じました.
ムーアはウェッブに対し,英語と日本語の文構造が異なることを指摘し,通訳の難しさを説明しようとしたのですが,ウェッブは,「一節ごとだと通訳出来るのに,何故それを全部続けて言えないのかどうしても判らない」と対応しています.
ムーアはそれに対し,発言者が書類を読み上げる時は前もってその翻訳を通訳に渡すべきだと提案し,ホーンスティンも,要約でなく「完全で正確な逐語訳」を弁護側が強く要求していると伝えましたが,ウェッブに対しては糠に釘状態で,その裁定は「要約通訳」を続け,後で完全な翻訳を弁護側に提供するとしました.
当然,弁護側は強く反発,副団長の清瀬一郎弁護人が裁判所憲章を盾に幾度も異議を申し立てますが,ウェッブは通訳による割り込みを許さず,発言者は書類を一気に読み上げるべきとの主張を繰り返しました.
15日にも同じ状態が繰り返されます.
弁護側が通訳者への翻訳の提供を執拗に要請し,ウェッブも漸くそれを了承.
一文ごとの通訳方式も認められることになりました.
7月23日,中国語の証人が初めて登場します.
この結果,中国語→英語→日本語(あるいはその逆)と言うリレー通訳が行われますが,この過程でかなりの混乱が生じました.
改めて,弁護側から通訳の正確性に対し,強い異議が繰り返されます.
それに対し,ウェッブはこう発言しています.
――――――
前にも説明したように,法廷の利益に於ては,一字一句を通訳することは必要ではありません.
それはプロパガンダの為に必要なのです.
核心は其所にあります.
全てを通訳すると言う入念なシステムはどの国の法廷でも見られません.
我々は国内の法廷で殺人者を裁いています.
英語が話せない者を裁いていますが,こんな通訳など有りません.
其所の所を日本人に理解して欲しいのです.
実際,憲章が最も腐心しているのは,法廷で何が起こっているかについて日本人が理解する,と言う事です.
法廷の利益の為には必要とされていないのです.
――――――
裁判長自らが発言した,「通訳はプロパガンダの為」と言う発言は,本来は爆弾発言な筈ですが,この発言に対し,誰も異議を唱えたり,法廷内で議論が交わされたと言う記録は残っていません.
しかし,当然のことながら,事はこの裁判の正当性を問われるような重大な発言ですし,更に言えば,前に触れた様にニュルンベルク裁判では,全てを通訳すると言う入念なシステムを構築して,ナチスの戦争犯罪人を裁いています.
多分,他の判事からの忠告や上層部から圧力があったのかも知れませんが,恐らく法廷外で話し合いが持たれたと考えられます.
何故なら2日後の7月25日,ウェッブの態度は一変したからです.
今までの通訳に対する無理解は影を潜め,不必要に長い質問は通訳者泣かせであると言うムーアの進言を法廷に伝え,翻訳を事前に提供することによって通訳者の負担が和らぐことを指摘.
続けて,ムーアの意見を参考にして,否定形を使った質問では通訳が困難であると説明し,出来るだけ行程形を使用する事を指導.
更に,検事と弁護人に対し,「質問は短く且つ明確に,そして,報告書やその他の文書からの一節を証人に対して読み上げる場合は,必ず前もって通知するよう,今一度強く求めます」と述べています.
先日までの「通訳はプロパガンダ」なんて言っていたのが嘘のようです.
10月11日,ウェッブは前日にムーアと通訳について話し合ったことに言及.
「我々は全員,マイクに向かって発言し,ゆっくりと話し,出来れば短文を用いて発言すべきです」
と述べ,関係者にこの3点を実行するよう求めています.
その後,通訳によって質問が中断されたり,陳述が中断されたりしたことについて検事側から苦情が出ると,
「我々の非常に有能な通訳者達は,常に最善を尽しています.
彼等は最も困難な仕事をしていますが,それに立派に取り組んでいます.
それが本裁判所の意見です」
と,通訳者を弁護するような発言まで行っています.
1947年4月29日,ウェッブは法廷で以下の要求を行いました.
「同時通訳を確実に行う為,弁護人や検事が随時行うコメントも含め全ての文書は,発言の48時間前に言語部へ提出されなければならず,またその使用順番予定に変更があれば,事前に言語部に通知しなければなりません」
とし,法廷関係者全体もウェッブの要求に真摯に応え,実施に努め,5月8日付の裁判書記局からウェッブ宛の覚書では,直ちに「ルール違反」が報告されています.
そもそもが「通訳」の使用法が確立していない中での裁判であり,当初ウェッブは,自国の裁判手法をそのまま取入れようとしたとも言え,それが徐々にではありますが,言語部との公式,非公式の協議の中で「通訳」の仕事の大変さをやっと理解し,その後,国際法廷での「通訳」の使用について一定のルールを制定しようと試行錯誤した過程と言えば言えなくもないのですが,「通訳はプロパガンダ」と言う発言は案外本音なのかも知れません.
急に掌を返したようにウェッブが協力的になったのは如何なる理由があるのか,その辺を探っていくと結構面白い小説が1冊書けるかも知れませんね.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/09/08 22:42
▲
【質問】
フィリピンにおける軍事裁判は,どういう点に問題があったか?
【回答】
被害者が加害者を直接裁くという形態になり,とうてい公正さを期待できなかった.
まず,比島における戦犯裁判は,フィリピンの管轄下で行われた.
戦争裁判は米軍から比島共和国に移管せられ,比島行政命令第68号(ロハス大統領発令)により,比島共和国国防軍軍事法廷において審判することとなった.
終戦直後各地(ルソン島カランバ地区と北サンフェルナンド地区,レイテ島タクロバン付近,ミンダナオ島ダバオ付近)にあった日本人俘虜収容所は,昭和21年4月頃にはルソン地区に集結され,続いて戦犯裁判権の比島共和国移管と共に,昭和22年6月末,マニラ市東方マンダルヨングに容疑者360余名と既決者20余名が移動せしめられ,その他は内地に帰還した.
歴史的な比島戦犯裁判は,その裁判権存否論については謎のまま,昭和22年8月1日より,マニラ市師範学校校庭に臨時に建てられた比島軍軍事法廷において開始されたのである.
(坂邦康編著「比島戦とその戦争裁判」,東潮社,1967/5/25, p.40)
このような裁判は復讐裁判になり易い傾向があった.
ところでこの裁判は,比島人の対日悪感情を再燃させる結果となり,言論機関は戦犯裁判について連日煽動的記事を掲載し,〔略〕
同年8月23日頃,日本人弁護士団(含通訳)が到着し,弁護に当たったが,法廷においてフィリッピン側との感情的対立が現れ,遂に検事団長セバ大尉との間に殴打事件まで惹起するに至り,翌23年1月末,日本人弁護団は内地へ送還された.
その後は,比島陸軍の将校で適任者が弁護士団を組織し,弁護に当たったのである.
比島共和国,国防軍軍事法廷(戦犯裁判法廷)の軍法委員には,日本軍占領当時のゲリラ隊将校が多く含まれており,検事には陸軍将校や被害地域の住民で比島市民より特に選抜せられた者が任命されている.
〔略〕
また,検事側の立証は容易でも,被告側は全くこれに反して,環境や裁判その他の組織自体に制約を受けていた.
以上のように被告にとっては極めて不利な状態に加えて,英米法の特質たる証人のポイントが決定的証拠価値としては採決せられるため,事件の真相とは全く異なった場合においても,有罪と認定されるような遊戯的裁判を生むこととなり,換言すれば裁判のための裁判,日本人を死刑にするための裁判という結果を生んだ.
(同,p.41-42)
一方,比島共和国政府は,日本軍に協力したラウレル元大統領以下の比島要人を逮捕し,反逆者として国民裁判に附したが,これらも戦犯裁判に直接影響を及ぼした.
(同,p.40)
以下は実際の体験者の証言.
――――――
捕虜収容所でのドストエフスキー的体験も,〔ダイエー創業者の〕中内氏の人間不信を募らせた.
「僕はナカウチという日本人には珍しい名前だったから助かったんです.
スズキ,サトウ,タナカ.日本人に多い名前の順から呼び出され,ろくな取り調べもされず,次から次へと縛り首になっていった」
――――――佐野眞一 in 『文藝春秋』2005年11月号,p.133
【質問】
今の大人たちが学校で受けていた謝罪教育とはどのような教育でしょうか?
【回答】
ネットで拾えるものとしては,こんな情報がある.
ソースが産経だけどな.
【正論】筑波大学大学院教授・古田博司 すでに時効迎えた「過去」への贖罪
(略)
そもそも,反日日本人が倫理のネタを西洋革命思想と東アジアへの贖罪から密輸入してきたのは,1950年代末のことであった.それまでの日本人は戦争の災禍が甚だしく,自らを被害者としか認められなかった.
当時彼らは,社会主義による近代化を信じていたので,中国は戦禍をこうむったがそこから建設のエネルギーを汲(く)み取ったと見た.
それに引き替え,日本はこれまでの資本主義による近代化を惨敗として自覚せず,戦争のおかげでアジアは独立を勝ち得たのだと,侵略の過去を合理化してしまったと考えたのである.
そこで商業誌を中心に,日本こそが戦争の加害者で,贖罪すべきであると猛烈な宣伝戦を展開した.
その後50年間の教化の成果として,今日の「贖罪大国日本」がある.
(略)
まあ,自衛官の子供を吊るし上げるような「教育」はあったけどな.
また,どこかの高校では,修学旅行先に韓国を選び,生徒に土下座させて戦争責任を謝罪させているそうだが.
どう考えても逆効果です.本当に(ry
日本史板
また,謝罪教育とまでは言えないにしても,以下のような事例もあったという.
(私の住んでいた国立に桐朋学園という「進学校」がある.そこの高校の社会科教師が,アカで,「戦争中に日本がやった悪いことを五つ挙げなさい」などという偏向した教育を実践したので,ついには生徒から授業ボイコット運動が起きたと,同校出身の後輩に話を聞いたことがある).
塩津計 in 『bk1』,2007/05/01/18:34:57
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