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◆◆◆疎開 Kiürítés
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<◆太平洋・インド洋方面 目次
<第2次世界大戦FAQ
【質問】
太平洋戦争中,戦場になることが予想された島々では,住民の疎開は行われなかったの?
【回答】
サイパンなどの太平洋の島嶼や,沖縄でも住民の疎開は行われています.
住民の保護自体の重要性はもとより,軍の食糧確保のためにも疎開させたほうが有利です.
しかし,占領して軍政下の地域はともかく,戦前からの委任統治領サイパンなどでは,直接に軍が住民の疎開指揮を行うことは,できませんでした.
あくまで県・南洋庁などの行政機関が第一義的な権限を持ち責任を負うことになります.
たとえば沖縄の場合,県知事が軍への協力に消極的で,疎開ができなかった面があるようです.
県知事が更迭されてからは,かなり精力的に疎開作業が行われています.
住民側の疎開への非協力もあったようです.
疎開先での生活不安が問題で,縁故者があれば比較的スムーズだったようです.
また,海上移動を伴う場合,途中の被害も予想されたことも非協力の要因です.
(ただ,実際には対馬丸を例外として,実はほとんど海没被害は無かったようです.)
敵上陸への危機感が弱かったことが最大の非協力要因のようです.
沖縄の場合,皮肉にも敵機動部隊の空襲で意識が変わり,急激に疎開が進展しています.
沖縄の場合,県外10万人疎開が目標とされ,6万人強の移動が実現したようです.
そのほか,島内北部へも疎開しています.
(田村洋三『沖縄の島守 内務官僚かく戦えり』)
追記.
行政機関ばかりが熱心で無かったような書き方になってしまいましたが,事実上の軍政地域であったフィリピンでも,住民避難が熱心に行われたとはいえないようです.
軍自身の部隊・物資移送すらも輸送力が不足していたことや,実際上,疎開先として安全だといえるような場所が確保しがたかったという事情もありますが,軍の仕事として十分に意識していなかった面も否めません.
たとえば,ミンダナオ島のダバオの場合,戦前から多くの日本人が住んでいましたが,米軍侵攻数日前になって,ようやく住民(5千~2万3千で不明)に避難命令が出されています.
とにかく内陸へ北上しろという程度の指示で,元軍政官が自発的に誘導するような次第だったと.
ミンダナオ島の場合,指揮系統が統一できず,責任の所在が不明になっていた面もあるようです.
(『戦史叢書 捷号陸軍作戦(2)ルソン決戦』)
眼い人 in 軍事板
青文字:加筆改修部分
※「眠い人」ではないので念のため
硫黄島防衛線に際しては事前に住民は全部疎開させた.
だから硫黄島では民間人の犠牲者は出ていない.
ただし,疎開させたはいいが疎開先の受け入れ態勢を整えて疎開させた
わけではないので,いきなり住居も仕事先もなくなった硫黄島住民はその後,かなりの苦労をすることになった.
また,今に至るも元島民は島に帰れず,自分の故郷に二度と帰れない,ということに.
土地等の権利の保障も全くといっていいほどされていないので,事実上,財産を取り上げられて強制移住させられたのと同じことになっている.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
大戦末期に於ける,八重山諸島からの民間人疎開の状況は?
【回答】
1944年7月7日夜,サイパンの日本軍が全滅したその日,日本の退勢が明らかになりつつあった時期,政府は緊急閣議を開いて,南西諸島の奄美大島,徳之島,沖縄本島,宮古島,石垣島の5つの島から老幼婦女子の疎開を決定しました.
沖縄本島からは8万人を九州以北の内地に,宮古島,石垣島からは併せて2万人を台湾に疎開させようとした訳です.
その疎開対象者としては,戦力にならない60歳以上の老人,15歳未満の子供,妊産婦と病弱者,これらを保護するのに必要な婦女,その他在住の必要なしと認められる婦女子と言う4つのカテゴリーが挙げられています.
サイパンの失陥により,次は比島方面又は台湾か沖縄が主戦場となると考えられていました.
同じ日,南西諸島方面と台湾へは,大本営海軍部は,敵上陸阻止に備えた機雷敷設の命令を出しています.
兎も角,9月から徐々に八重山から台湾へ疎開船が運航され始めました.
台湾が日本の植民地だった時代,沖縄からは台北,基隆,高雄などの大都市を中心に台湾各地でCommunityを形成しています.
植民地台湾に暮らす沖縄出身者は,1935年末で3,930名,うち37%の1,454名は八重山出身者が占めていました.
また,八重山出身者で海外に移民した2,057名中,台湾への渡航は70.1%となっていました.
八重山の人たちにとって,都会とは台湾の都市だった訳です.
沖縄での疎開もそうですが,当初,八重山からの疎開もそう多くありませんでした.
当初は個人疎開と呼ばれる,台湾にいる知人や親戚の縁故を頼って疎開するパターンでしたが,これに応じる人は希でした.
このため,役所も部落も,疎開を実行させる事に天手古舞いとなります.
結局,個人疎開よりも集団疎開,つまり,頼るべき知人や親戚もいないが,兎に角,当局の指示によりグループで疎開させる方式が採用されます.
ただ,町役場の首脳陣にとっても,家族を強制的に引きはがして島を捨てさせ,見知らぬ他国に町民を疎開させるのは耐え難く,狼狽する人も多かったと言います.
更に,防備強化の為に,石垣島に軍の駐屯が決まったので,疎開と駐留軍受入れ関係とで,町役場は振り回され,兵事係と戸籍の一部を残して,麻痺状態に陥ってしまいました.
この為,県庁内部では県警察部に,疎開の為の特別援護室が設置されました.
台湾への疎開受け入れは,7月27日が最初ですが,八重山からの無縁故疎開受け入れは8月27日の記録が最も早かったと言います.
疎開者の台湾への渡航は,軍部に指揮権が与えられ,県警察部が関与する事はありませんでした.
当時の疎開船は機帆船を用いて行われており,その航行は日中に行われていました.
石垣島の新川からは先ず西表島の白浜に向かい,船内で1夜を明かします.
翌日,与那国島の祖納に向かって,そこでまた船内泊,そうして翌朝,一気に基隆を目指し,その日中に基隆港に入ると言う2泊3日の行程でした.
その疎開者の数は,台湾総督府が1945年にまとめた『台湾統治概要』によれば,12,447名を数えています.
また,1945年9月末現在で沖縄県がまとめた『沖縄県疎開者調』では,縁故疎開を4,369名,無縁故疎開が8,570名,合計12,939名となっています.
無縁故疎開の内訳は,宮古の4,892名が最も多く,八重山が2,171名,以下島尻郡525名,国頭郡493名,中頭郡262名,那覇市159名,首里市68名などと続いています.
その2ヶ月後の11月4日付で,「台湾軍管区参謀長」が「陸軍次官」宛に発した「台湾疎開沖縄県人帰還ノ件」と言う電報では,約1万名(内訳は本島3,000,宮古5,000,石垣2,500)と言う数字が出て来ます.
12月に,台湾在住の沖縄出身者で組織した台湾沖縄同郷会連合会が,中華民国政府の台湾当局に提出した,「無縁故疎開セル沖縄島民ノ送還ニ関シ嘆願ノ件」では,沖縄からの疎開者の数字を12,447名と最初の『台湾統治概要』で採用した数字を書いています.
尤も,この間に自分たちで交通手段を得て,帰国した人もいる訳ですから,混乱期に特有の状況ですが,『沖縄県疎開者調』の数字は,実際に県当局者が面談で調べたものなので,この数字が実態に近いのでしょう.
但し,この数字には縁故疎開者の数は入っていませんから,実数は分らない訳ですが.
ところで,受入れ側の台湾総督府の組織はどうだったか,と言うと,総督府の下に,台北,新竹,台中,台南,高雄の5州と台東,花蓮港,澎湖の3庁を置き,州庁の下に,市と郡,郡の下に街と庄を置く地方制度を敷いていました.
このうち,沖縄からの疎開者の半数以上は台南州に落ち着きましたが,台南州は台南と嘉義の2つの市,新豊,新化,曾文,北門,新営,嘉義の6郡に分かれており,6郡は6つの街と36の庄で構成されていました.
疎開者に対する州レベルの支援組織としては,島外疎開民共助会台南州支部,台湾戦時援護会台南州支部が設置され,郡や庄と文書をやりとりしていました.
支部長は何れも台南州知事で,疎開者や現地台湾人が文書をやりとりする場合は,郡が相手先となっていました.
疎開受け入れ体制の第一線は,街や庄の役場であり,疎開者を受入れる場所を探す場合は,街や庄の役場担当者と一緒に郡役所の疎開業務担当者が同行するようになっていました.
郡役所の担当者が,街や庄の役所担当者と同行するのは,その依頼に重み付けをする事にあったりします.
この様にして,無縁故疎開でも落ち着き場所は確保されるようになりました.
疎開者を受入れた後は,初日は弁当を届け,その間に自炊が出来るように準備を行い,疎開3日目から疎開者は自炊を開始します.
米の配給は,米穀協会という民間団体が行いましたし,疎開者の中に病人がいれば,医者を往診させることもありました.
また,当初は何かにつけて,役所の担当が出向いていったのですが,次第にその中でリーダーとなる人を選出し,その人に任せていくようにしていきます.
無縁故疎開の場合,生活資金は,政府の約束では,十分に支給されると言うものでしたが,実際には疎開元に残った人々からの送金が頼りでした.
その為,自活せざるを得ず,避難所の近くの市場では値段の高い野菜の購入は諦め,列車で遠くの街まで行って,買い出し生活をしたりもしています.
更に戦争が進み,制海権が失われると,与那国から基隆に来る航路も途絶えがちとなり,次第に送金も不安定になってきました.
そうなると,この地で生きていかなければならず,特に学童の無縁故疎開で来た子供達は,世話人が自らも疎開で逃げてしまうと,内職をしたり,畑仕事を手伝うなど,更に自活の道を探っていかなければなりませんでした.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/11/03 22:36
【質問】
「第1次避難」以後の八重山諸島の状況は?
【回答】
さて,1945年に入ると,無敵を誇った日本海軍は消滅し,シンガポールや呉に逼塞するだけとなり,フィリピンは陥落寸前でゲリラ戦を行い,本土は空襲され,と日本国内に安全な場所は殆ど残っていません.
八重山も例外ではなく,3月以降になると,艦載機の空襲は激しさを増し,3月末には英国太平洋艦隊の一部も戦闘に加わるようになり,英国籍マークを付けたコルセアが八重山の空を乱舞する有様になっていきます.
その頃から,住民の間から死傷者を出す様になり,住民は各自安全と思われる畑小屋や山林など,或いは軍の指定した避難場所に難を逃れ,避難先と住宅とを通う様な日々が始まりました.
この頃を,「第1次避難」と呼んでいます.
4月1日,宮古と八重山を飛び越えて,連合軍は沖縄本島に上陸を開始しました.
沖縄本島の南北を分断した連合軍は,やがて沖縄守備軍の第32軍の本拠地である首里を目指して南下し,各地で激しい地上戦が展開されました.
第32軍の司令部は首里城の地下に造られていた為,首里城攻防戦は一進一退の攻防を続けましたが,遂に物量に勝った連合軍が突破し,敗れた第32軍は,5月27日に司令部を放棄して南部へと敗走していきます.
石垣の第45旅団は本島の第32軍が壊滅した為,5月30日を以て,台湾の第10方面軍の指揮下に入る事になります.
戦局が極度に逼迫してきた事もあり,旅団本部は6月1日,本部に石垣町長や大浜村長等官民代表を呼び出し,官公庁の職員は6月5日までに,一般住民は6月10日までに軍の指定する場所に避難せよ,と命令しました.
軍命は直ちに部落会長や隣組長等を通じて住民に伝達され,住民の山中避難が開始されました.
これを「第2次避難」と呼びます.
その避難先は,登野城,大川は白水,石垣はカーラ岳,新川はウガドー,川平,平得,真栄里,大浜,宮良,白保は武名田原,伊原間,平久保は桴梅と指定されています.
指定地への移動は,日中を避けて朝早くか夕方に,家族や隣組が一塊になって移動しましたが,これら避難先は何れも於茂登山麓の山中でした.
町長等有力者はトラックで避難していましたが,中にはその途次を空襲に襲われ,機銃弾を受けて全員戦死と言う痛ましい事件も起きています.
山中の避難場所で住民達は樹木を払い,小屋を造って住む事になりましたが,炊飯の関係から小川の周辺が選ばれていました.
ところが,こうした水辺の地はマラリア蚊の猖獗地であり,住民の間には忽ちマラリアが流行する事になります.
当時は,戦争初期と違って物資不足でマラリアの特効薬であるキニーネも手に入らず,蚊帳も無い状態で,しかも食糧不足で栄養不良であった住民達は次々にマラリアに感染して,高熱を発しながら死んでいきました.
医師達は軍にキニーネの配給を求めましたが,「軍も不足している」と言って断られました.
そして,1ヶ月の短期間に16,884名の罹患者と3,674名が死亡する未曾有の惨事となり,これは後に「戦争マラリア」と呼ばれて,軍や政府の責任と補償が問われた事件となっています.
6月10日,旅団司令部は住民を避難させた後,作戦命令を発し,全部隊に対して「甲号戦備」を下令します.
これは敵部隊が上陸した際に備えて準備を整えよ,と言うもので,旅団本部を始め,各部隊は於茂登山中の複郭陣地へと移動しました.
これは,沖縄侵攻の余波を駆って,連合軍が石垣に侵攻する事を警戒し,持久戦の体制を立てたものですが,沖縄本島では,それから2週間後の6月23日,第32軍司令官の牛島中将等が自決して組織的戦闘は終わりました.
7月に入ると石垣への空襲も減りましたが,それでも旅団はそのまま山中に籠もり,住民の山中避難も続行されました.
住民は食糧難の上にマラリアで苦しみ,衛生状態は悪く,死者が枕を並べていました.
弔う家族も罹患し,埋葬する力さえ失われていました.
この甲号戦備が解かれ,住民の元の居住地への移動が認められたのは,7月23日,沖縄での組織的戦闘が終了してから1ヶ月後の事でした.
とは言え,空襲の続く市街地は誰かが守らねば灰燼に帰してしまいます.
そこで,この地に残ったのは警防団の人々でした.
連日の消火作業でこちらも疲労困憊して,体調を崩す人も多かったようです.
最後の空襲は,8月10日でしたが,疲労困憊して避難もせずに家で寝ていた人は助かり,避難しようと防空壕に向かった人が運悪く,爆弾で吹き飛ばされた柱に当たって即死したりしていました.
後,5日生きていれば,無事に生き延びられたのに,つくづく,運命とは皮肉なものです.
8月15日に日本はポツダム宣言を受諾し,敗戦となったのですが,8月14日には,台湾の第10方面軍から第45旅団本部に,敗戦の報が内報されていました.
旅団本部は15日に各部隊長を召集し,旅団長から詔書が奉読され,3日後の八重山支庁でも同様の事が行われていました.
因みに,一般兵士はその頃,何をしていたかと言えば,「現地自活」の方針の下,様々な事をしていました.
土佐出身の兵士のうち,10年以上製紙の経験のある兵隊を集めて,「紙の現地自活」として製紙工場を造ったのもその一環です.
敗戦の日,元々,部隊長が召集されて,午後からは高級部員からの戦況説明,そして,旅団長の訓示が為された後,解散しようとしていたら,情報通信主任の大尉が駆け込んできて,旅団長から再び緊急情報として敗戦の説明が為されたと言います.
8月18日には内閣の告諭がプリントで配られ,8月20日には第226,第227特設警備隊が解散します.
ただ,部隊長は部隊解散後も旅団司令部で復員業務に当たりました.
9月1日には現地召集兵の召集解除が言い渡され,11月23日には,第1回復員輸送船に乗り込み,復員兵の一部は部隊長帯同で横須賀に赴き,第226特設警備隊隊長は福岡県にあった沖縄県事務所に沖縄の様子を報告したりしています.
最終的に,部隊兵士の引揚げは1946年1月まで続きました.
当然,この地にも米軍兵士がやって来たので,武装解除や兵器の処分が行われていましたが,第45旅団の高級参謀の記録では,米軍は各部隊の調査,検査は一切行わず,司令部報告通り受理されると言ったスムースなものでした.
また,派遣米軍司令官代将は,旅団司令部を訪れ,旅団長の宮崎少将の人格を称え,司令部撤退まで軍政は従来通り,旅団長に委任され,捕虜としての取扱は一切受けなかったと言います.
しかも,米軍は連絡将校や通訳以外は一兵も上陸させず,港外の艦船に待機していたそうです.
これは極めて異例の措置ですが,これは撃墜され,漂流していた米軍捕虜の扱いに起因していたのではないかと言われています.
捕虜は撃墜されゴムボートで漂流していた所を竹富沖で捕えられ,旅団司令部に送られてきました.
旅団司令部では捕虜を喚問した後,司令部防空壕近くの民家に収容しますが,それも特に拘束せず,憲兵の護衛を1名付しただけ,給食は捕虜の希望を入れて,軍用パン等を給して,空襲の際には司令部幹部と同一防空壕に収容したりしています.
これと対照的だったのが,石垣島に駐屯していた海軍警備隊で,5月15日に墜落した機体から脱出した捕虜3名をバンナ岳南麓に連行し,喚問を終えると,司令が憲兵隊に処刑を命じ,夜中に斬殺されて,延べ50名もの兵士に銃剣で突かせると言う凄惨な事件を起こしています.
こちらの方は戦後に事件が発覚し,横浜軍事法廷で46名が起訴され,死刑が言い渡されました.
これは「石垣島事件」と呼ばれ,再審,再々審の後,最終的に司令等7名がBC級戦犯として死刑に処されています.
陸軍と海軍の捕虜取扱の違いですが,最近の資料では,海軍軍令部で「一人残らず捕虜を殺害せよ」と言う軍命を出していたとされています.
その後,戦犯裁判で捕虜の事が問題化すると察知した海軍関係者は,裁判での対応策として,「捕虜殺害の責任は全て現地司令官止まりとせよ」との指示を出し,海軍上層部に火の手が及ばぬ様に手を打っています.
結局,軍命を出した司令官は誰一人訴追されることなく,死刑判決を受けた者もいませんでした.
ところで,第45旅団の旅団長だった宮崎少将は,引揚げる際,愛用していた籐椅子を第227特設警備隊中隊長だった三木義行に贈り,置き土産としています.
三木は終生,それを自宅の濡れぶちに置き,その置き土産に腰掛け,新聞や本を読んでいたそうです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/11/08 22:50
【質問】
台湾に疎開していた人々は終戦後,どうなったのか?
【回答】
さて,1945年8月15日,日本はポツダム宣言を受諾し,停戦となります.
必然的に,周辺を占領していた日本軍の地位は低下し,植民地で大手を振って歩いていた官憲は,民衆に襲われ,一種の無政府状態となって行きました.
今までの価値観が全く逆転し,台湾では台湾人が一等国民,琉球人が二等国民,そして内地人が三等国民となってしまいます.
台湾の現地住民が多い場所では,日本人達は散々酷い目に遭っていました.
特に警官達は普段から怨嗟の的でしたから,彼方此方で暴行を加えられています.
そんな騒然と,且つ混沌とした台湾では,琉球から来た人々の地位は非常に微妙なものがありました.
日本人の家なら略奪を受け,道を歩いていると暴行を受けたのですが,確かに一部の人々は石を投げられたりしたケースもありましたが,総じて沖縄から来た人々は,内地人とは区別され,親しく接して貰ったと言います.
また,石垣島出身者の中には,家の門に「琉球人」と書いた札を貼り,報復を避けたケースもありました.
彼ら台湾人も,琉球人がいると知ると,「オー,リュウキュウラン(琉球人の意味),兄弟兄弟」と言って通り過ぎたそうです.
一方で,内地の人たち,特に台湾で良い職に就いていた人々は,台湾人から追い回され,逃げ隠れをしていたとか.
この頃,政府は虚脱状態に陥っていました.
しかも,頼みとなる沖縄県庁は破壊され,既に米軍の占領下にあり期待できません.
また,県庁の代理である八重山支庁も,4月5日に支庁長が爆死した為,統制を取るべき人間がいませんでした.
このため,八重山地方の島々の自治体は,自分たちで責任を持って,台湾に送り出した人々を帰還させようと奮闘していました.
例えば,石垣町では町の幹部が来台して,疎開者支援を試みています.
また,1945年12月7日には石垣町長自らが台湾入りし,「疎開者救済専任事務員」と呼ばれる職員や嘱託の職員に疎開者の帰還作業に当たらせています.
同時に,疎開者救済専任事務員には町長から,見舞金,預かり品,換金用物資を引き渡し,全ての連絡や引揚者の面倒は専任事務員が担当する事になりました.
既にこの当時,台湾ではインフレが進行しており,日本円の価値は下落していますので,町役場では換金可能な食品を用意しようと,当初は鰹節に白羽の矢を立てましたが,当の鰹節工場が戦時中に取り壊されており,出漁も漁船の徴用で不可能な状態にあったので,仕方なく魚の塩漬けを持って行ったそうです.
しかし,塩漬けは取り扱いにくく,余り売れなかったので,資金調達には役立ちませんでした.
石垣町の独自救済は結局,実を結ばなかったのです.
疎開していた人々は,兎に角,八重山住民が多く集まっていた場所,特に台北方面へと逃れ,島の出身者を頼りました.
一方,まだ日本軍は武器を残したまま,ある程度の統制を保ち,集団で「自活隊」と名乗って,生活していました.
流石に個人単位では暴行をする人々も,集団で規律の取れた軍隊には近づこうとしなかったので,軍隊が引揚げるまで,元軍人達の生活の手伝いをしながら,まずは糧食の確保に血道を挙げていた訳です.
台北まで来ても,日本円が換金出来ず,しかも台湾から八重山方面に向かう漁船や機帆船の運賃は現地通貨で大人も子供も一律300元以上,荷物は1個100元以上でしたから,おいそれとそれに乗る事が出来ませんでした.
一方,石垣の動きとは別に宮古でも,戦時中台湾に疎開した人たちを帰還させようと,1945年9月初旬に,石垣に先行して民間組織「疎開引揚組合」が結成され,疎開者の引揚げに対する支援が開始されました.
平良町議会でも,11月1日,台湾に於ける疎開者の窮状や交通事情や治安の悪化が懸念され,「疎開者援護会」の設置が決まっています.
疎開者援護会の依頼を受けて,最初の引揚船団6隻が宮古から台湾向けに出港したのは,1946年1月8日.
それに先んじて,11月に疎開引揚組合が運航した総トン数25トン,全長17.6m,船幅3m,喫水2.1mの宮古平良港船籍の第三幸福丸と言う小船が4航海,300名を運んでいます.
ところが,11月25日に基隆で停泊中に,12月1日に基隆市警察局の巡査に船舶航行証明書を持ち去られてしまい,係船の憂き目に遭ってしまいました.
丁度,この船の船倉には,船員と引揚者の支援用に白米700斤が搭載されており,密輸の嫌疑が掛けられたのではないか,と考えられています.
また,船舶運営会の配下にあった船舶3隻を,宮古の「疎開引揚組合」が活用して引揚任務に投入しようとしましたが,台湾省行政長官公署交通處港務管理局に接収されてしまい,身動きが取れなくなっていました.
結局,第三幸福丸はその後,1946年2月に係船を解かれ,宮古に戻ってきています.
宮古での引揚げでは,平良町長を務めていた石原雅太郎と言う人物が重要な役割を果たしています.
雅太郎は,平良町長として敗戦を迎えますが,
「戦時中,自分の命令で,彼らを台湾に疎開させたのだ.
疎開させて放任する訳に行かぬ」
として,12月に町長を辞任し,自ら渡台して行きます.
そして,台湾各地に散在していた宮古からの疎開者の間を回り,基隆への集結を呼びかけました.
その間,台湾沖縄同郷会連合会の幹部と連絡を取り,疎開者の保護や帰還に対する助力を呼びかけています.
因みに,雅太郎は1945年初頭と言う戦局が困難な時期にも渡台しています.
宮古では台湾の疎開の後,二次疎開先でマラリアや食糧不足に見舞われていると言う窮状が伝わり,平良,城辺,下地,伊良部の4町村長が台湾へ疎開者を見舞っています.
当時,宮古支庁長が,連合軍が万一上陸してきた場合に備えて町村長は宮古を離れるべきではないと言って反対しましたが,彼らはそれを押し切って渡台し,雅太郎は特に20日以上掛けて台湾各地に散在する疎開者を訪問しています.
雅太郎は,今度は前町長として台湾全土を回り,その呼びかけに応えて,疎開者は基隆に集結していきます.
その中にはマラリアや食糧不足等で衰弱した患者が多く,台湾沖縄同郷会連合会に所属していた医師によって手当てが施されていました.
因みに,この医師は陸軍の少佐に疎開者の引き上げを相談したものの,
「君らは戦争に負けた国民の惨めさを,全然知っていない.
男は奴隷になって動力を捧げ,女は売春してでも糊口を凌ぐのが,歴史の示す実態である」
と,けんもほろろに返され,憤慨しています.
それに比べ,
「『台湾疎開を勧誘した自分にも責任がある』と全財産を擲って,宮古から疎開者救出の為に渡台した石原雅太郎氏は全く対照的だった」
と述べています.
こうした動きに対して,台湾民政府も心を動かされたのか,貧窮している基隆の引揚者に対し,1日2円の生活費補助が沖縄県籍民に1946年1月11日から支給されています.
その後,遣回琉球難民辨法(沖縄疎開者帰還規則)に基づく疎開者帰還船4隻が1月25日に基隆を出港します.
うち,2隻の台交110号,台交103号に395名が乗り込み,宮古に向かいました.
石垣島行の同127号と同129号は,蘇澳経由で石垣に向かったのとは対照的に,一直線に目的地に向かっています.
雅太郎が,宮古帰還民を基隆にまとめてきたからこそ,出来た訳です.
宮古行の2隻は,それぞれ1月27日と29日に平良港に到着しました.
その後,3月12日と30日にも引揚げ船が宮古に入り122名が帰還,最後に1946年5月18日に台交55号で146名が帰還して,宮古関係の疎開者帰還はほぼ完了しました.
雅太郎氏の様に,国家の政策で実行した事でも責任を感じて,後始末をきちんとする人間が,今の世の中,特に政治家にどれだけいるのでしょうか.
戦後は遠くなりにけりと言う訳ではないでしょうが,こうした責任の取り方もあると思うのですが.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/11/04 23:22
さて,昨日は宮古の引揚げについて書いてみましたが,今日は八重山の引揚げについて.
戦争が終わって台湾で暮らしていた沖縄県人は,台湾が中華民国の領土になった為,地元に引揚げなければなりませんでした.
終戦後,中華民国政府は台北に台湾省行政長官公署を設置し,1945年12月には同公署の下に日僑管理委員会を設け,在台日本人を管理する事になりました.
この日僑管理委員会で在台日本人の引揚げを担当したのは,管理組と言う組織でした.
当初,管理組長の周夢麟は,在台日本人を全て本土に引揚げさせようと考えていました.
しかし,台湾沖縄同郷会連合会の与儀会長と話し合いを行う中で,与儀は,我々を本土に帰しても,それから再び米軍施政権下の沖縄に戻らねばならない,であるならば,沖縄県人は沖縄に帰して欲しいと訴えます.
周は,台湾沖縄同郷会連合会が沖縄県人を把握すると共に,沖縄県人以外の日本人が,沖縄県人に転籍する事の無いようにすることを条件に,沖縄県人の分離引揚げを容認しました.
これにより,台湾沖縄同郷会連合会は台湾在住の各地の沖縄県人会に呼びかけて在台沖縄県人の名簿を作成すると共に,台湾行政府では,日僑とは別に,沖縄県人を琉僑として扱う事になりました.
こうして,在台沖縄県人として名簿に掲載された人は,台湾沖縄同郷会連合会より証明書を発行され,琉僑として台湾から取り扱われるようになりました.
ところで,台湾沖縄同郷会連合会と言うのは,戦時中からあった組織ではありません.
台湾が日本の植民地だった当時,台湾総督府総督官房の臨時情報部員だった川平朝申と言う人は,戦時中の根刮ぎ動員から復員し,日本の敗戦後,権力の空白期間を埋める為に,機構改革に伴って発足した台湾総督府情報課勤務となりました.
この部署は,「在台日本人の世論指導と広報活動及び連合軍との事務連絡」を任務としていたものでしたが,川平は台湾中南部の世論と戦災状況を把握する為に行った出張の帰途,高雄から台北に戻る途次,各地で下車し沖縄からの疎開者の調査を行っています.
その結果,台南,台中,大屯郡,員林郡に相当数の疎開者が生活しているにも関わらず,政府からの援助が打ち切られている事が分り,その救援策を考えようとしていました.
しかし,台北に戻って窮状を訴えても,既に日本政府は統治者能力を失っており,一方で中華民国政府は,疎開民を保護する責任はないと突き放される始末で,疎開民は宙ぶらりんの状態にされてしまいました.
一方,医師である當山堅一と言う人は,新竹で敗戦を迎えた後,台北に戻ってきました.
その時に當山が目にしたのは,政府からの生活援護が断ち切られた,沖縄の婦女子疎開者でした.
彼らは爆撃を避け,山間僻地に身を寄せ合うように住んでいましたが,食糧不足と相まってマラリアに罹り,次々と倒れていったのです.
事態を憂慮した當山は,川平の元を尋ね,沖縄からの疎開婦女子達の援護を一緒にやろうと呼びかけ,川平も同じく思い悩んでいたので,善は急げとばかり,会を立ち上げます.
それが,台湾沖縄同郷会連合会でした.
2人が会長に担ぎ上げたのは,旧具志頭村出身で,台湾総督府水産試験場長を務めた与儀喜宣,副会長を台南市で市議を務めた安里積千代と,医師の南風原朝保に依頼し,事務所は南風原が台北市児玉町で開業していた南風原病院に置き,川平と當山は理事として会を切り盛りしました.
台湾では,台湾総督府に代り台湾行政長官公署が置かれ,10月25日から宣伝委員会の機関紙『台湾新生報』が発刊します.
その10月31日付に,南風原と安里の連名で下記の様な呼びかけ広告が掲載されました.
――――――
在台沖縄県人に告ぐ
至急左記宛,本籍,現住所,氏名(家族共),年齢,職業,渡台年月,健康状態等御通知有り度し.
疎開の為来台の方は其の旨附記の事
――――――
連合会では新聞広告を通じて,沖縄県人の把握に努め,名簿作成を急いだ事が伺えます.
因みに当時の台湾では結社の自由が制限されており,その制限を正式に盛り込んだ人民団体組織暫定規定が11月17日に公布されています.
これらの広告が,個人の名前で行われたのは,まだ正式に組織が発足していなかったのもありますが,結社の自由制限を考慮したのかも知れません.
しかし,その規定が公布される前日,「台湾沖縄県人会連合会」の名称で,疎開者支援のカンパを募る広告が掲載されており,その時点では,メンバー達は中国側が「県人会の組織化とその為の行動」については制限しない事を確認していたのではないかと推定出来ます.
この時の義援金は,沖縄県無縁故疎開者の窮状を訴え,一口10円で40日間の内に50万円を集める事が目標となっていました.
実際の金額については明らかになっていませんが,理事の當山はこの金で日本軍の貯蔵米300袋ほどを疎開民の為に貰い受ける事が出来たと述懐していましたので,各自が苦しい中から献金をしていた事が伺えます.
ついでに,日本軍の経理部長から50万円が添えられていた事も述べていたりします.
こうして,台湾沖縄同郷会連合会は資金確保と並行して,12月に台湾省行政長官を務めていた陳儀に「無縁故疎開セル沖縄島民ノ送還ニ関シ嘆願ノ件」と言う文書を提出しています.
この文書の送付先は,陳儀と共に,写しを戦後処理の為に設置されている中華民国善後救済総署台湾分署署長の銭宗起と,米国第5軍情報官のジョンソン陸軍大尉に宛てています.
嘆願書が対象にしている疎開者は,沖縄からの疎開者12,447名,南洋群島からの疎開者1,597名を併せた14,044名.
このうち,無縁故疎開者は11,448名で,そのうち1,162名は既にマラリアや戦災で死亡したと書いています.
彼らの死亡率は実に10.2%.
残った人々の生活も困窮しており,基隆や蘇澳から自力で帰還しようとする疎開者の中には,不良の行為を犯す所まで追い詰められている人々もいると書き,これを踏まえて,
(甲)疎開者の早急な帰還
(乙)疎開者の帰還船で食料も移送する
(丙)残留者への救済
の3点を台湾側に要望しています.
なお,送還順位は宮古島,八重山諸島の無縁故者を優先する事と書いており,無縁故疎開者の優先取扱を求めています.
(甲)の説明では,先島諸島からの疎開者の内,2,000余人は既に台湾を離脱しているものの,台湾当局が行っている先島諸島向けの「航行禁止措置」により,送還が停滞していると述べ,基隆と蘇澳では約500名が足止めされ,彼らは窮余の結果不良行為を為す者も出だしていると指摘しています.
(乙)の食糧事情も同様で,先島諸島内の食糧事情も極めて逼迫していました.
空襲を避けて都市部から山間部に疎開した人々は,戦争マラリアで倒れ,労働力が極端に不足してしまい,農地そのものが荒廃していました.
航行禁止措置で,台湾から米を取り寄せる事もままならず,このまま疎開民を帰しても,食糧不足が起きる可能性が高いとしています.
(丙)ではやむを得ず台湾に残る沖縄県人の救済策が取り上げられており,食料と医薬品,衣類の供与と授産を行うもので,その資金として既にカンパを募っている事を紹介しています.
そして,嘆願は次の3点について具体的な方策を求めていました.
1. 本会証明の疎開者送還の為,地元漁船の出入港を承認して欲しい.
2. 在沖縄台胞引揚船の往航に同会の承諾ある場合,上記疎開者の便乗を許可して欲しい.
3. 疎開者地元代表が既に提出している米及び種籾の輸出に関する嘆願を許可して欲しい.
このうち,2点目については,台湾出身者が沖縄にいて終戦を迎えた場合,台湾に戻る事を希望した人には,迎えの船を送って貰うが,その際,出迎えの船には台湾から疎開者を乗せていって欲しいと依頼しています.
3点目については,戦後逸速く,石垣町の翁長町長や助役の渡台,宮古元町長の石原雅太郎が疎開者救援の為に台湾に滞在しており,彼らが台湾当局に提出していた文書に対する嘆願である可能性が高いと考えられます.
こうして,台湾からの沖縄県人引揚げ計画は動き始めました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/11/05 23:26
さて,時は1945年9月に遡ります.
9月2日のミズーリ号での日本と連合国との正式な降伏文書調印を経て1週間後の9日,南京でも,中華民国陸軍総司令部総司令を務めていた何応欽と,日本軍の支那派遣軍総司令官岡村寧次との間で降伏文書を取り交わしました.
この席には日本軍第10方面軍(旧台湾軍)から,参謀長の諫山春樹が同席しています.
この時,諫山参謀長から何応欽に対して,琉球難民の困窮について何らかの支援要請があったようです.
その傍証は,11月4日付で諫山が陸軍次官に宛てて送った電文「台湾疎開沖縄県人帰還ノ件」では,
「沖縄県人ニシテ台湾ニ強制疎開セシメラレタル者一万名(本島三千,宮古五千,石垣二千五百)ニ上リアリタリ」
としていますが,11月12日付で台湾行政長官公署が南京政府から受け取った電報には,
「沖縄県人因避難来台者約一萬人,宮古島五千人,石噛(垣)島二千五百人」
と,諫山電報と全く同じ数字が挙げられているからです.
因みに,諫山電報はその後,続けてこう書いています.
「二,右人員ノ大多数ハ老人婦女子ニシテ台湾ニ縁故者ナク従来ハ官ノ宿営援助及官費補助(一人一日五十銭)ヲ受ケアリタルモ総督府ノ接収ニ伴ヒ実質的援助ハ中絶状態トナレリ.
加フルニ終戦後ノ物価昂騰ニ依リ所持スル金品ヲ消費シ尽シ「マラリヤ」患者続出スルト共ニ生活困窮シ全ク悲惨ナル境遇ニアリテ速カニ帰還セシムルノ要有リ.
三,依ッテ連合国側ニ折衝ノ上早期帰還並ニ食料対策実現方配慮アリ度シ」
一方の南京電報には,こうあります.
「近来物価高漲虐疾流行生活極感急迫」.
「虐疾」はマラリアの事で,「生活極感急迫」とは諫山電報の「生活困窮シ全ク悲惨ナル境遇ニアリ」と同義です.
ところで,10月24日,台湾行政長官陳儀が赴任し,25日に「受降典礼」が開かれて,第10方面軍が正式に降伏しました.
しかし,そのまま第10方面軍は解散し抑留された訳でなく,戦後処理を行う為の「台湾地区日本官兵善後連絡部」と言う組織に改組されます.
諫山参謀長は,その渉外委員長に就任し,12月7日に「沖縄県疎開民帰還輸送並救済ニ関スル件」と題した申請書を陳儀に提出しています.
内容は,11月4日付の諫山電報と殆ど変わっていませんが,1点だけ,マラリアの「患者続出」の表記が,「死亡続出」へと改められていました.
疎開者の状況が一層悪化している事が,窺い知れる内容です.
諫山は,自力で帰還しようとしている疎開者の姿を,
「一部ノ者ハ便船ヲ求メントシテ基隆,蘇澳ニ出デ寒季迫ル街頭軒先等ニ起居シ居リ目処モ無キ便船ヲ待チアル状態ニ在リ」
と記しています.
蘇澳や基隆は,台湾が植民地だった時代に八重山と結んだ重要な港町でした.
この諫山の申請書が出された1週間後に,再び「運送大渓郡琉球列島日籍居民返籍案」が作成されています.
此処では自力で帰還出来ない龍潭の疎開者が,餓死寸前に追い込まれている事が描かれています.
諫山はこの中で,
「沖縄県人会連合会ニ於イテ,之ガ対策トシテ帰還輸送ノ促進及食糧ノ確保等ニ八方奔走シアルモ」
と書き,台湾沖縄同郷会連合会の疎開者救援活動にも触れています.
そして,この資料には,「沖縄県疎開者調」が添付されています.
以前にも触れましたが,この資料で,「有縁故」の疎開者が4,369名,「無縁故」が8,570名,沖縄からの疎開者合計は12,939名と記載されており,以後,中華民国は送還者送還計画を立案する上で,基礎的な数字として,この数字を置くようになります.
この様に,旧第10方面軍からも支援があり,12月11日,「琉球代表」が米軍将校のジョンソンと共に,中華民国善後救済総署台湾分署の署長銭宗起の元を訪れ,10隻の船を用い,1隻に100名程度の疎開者を乗船させて,沖縄に帰したいと提案がありました.
12日,銭は基隆で「琉球難民」を調査した所,基隆にいる難民約2,000名の内,仕事が出来るのは僅か100名に過ぎない事が判明します.
18日に,銭は民政処で,台湾沖縄同郷会連合会の副会長南風原朝保など同会幹部等と面会.
21日,台湾省行政長官官公署民政処で,疎開者を沖縄に送り出す具体的な日にちが決まりました.
処長の周一鶚が部下から受け取った計画書の中に,基隆で帰還を待つ1,995名の疎開者を,翌年1月15日までに帰還させると言う提案が出ていました.
この計画案では,4~6隻を配船し,1隻に疎開者300名を乗船させるものでした.
28日,周は提案の内容に時間的な幅を持たせ,陳儀に「移送を1月に開始する」と伝えます.
この計画の基底となった数字は,諫山から出て来た13,000名と言う数字です.
これは米軍のジョンソンを通じて,銭に伝えられています.
一方で,民政処も独自調査をしていた様で,その数字は8,570名,そのうちの1,965名が基隆に留まると記録しています.
この数字は,無縁故疎開の人数と全く同じです.
因みに,この計画の他,別の計画もありました.
こちらは「疎開沖縄県民遣送配船計画」と言う名称です.
具体的には12月24日から1月4日までに福建省から6隻の船を調達し,1,430名を帰還させるものでした.
こちらの計画は中国人でも,台湾総督府にいた様な,日本人との付き合いがあったグループの計画だった様です.
最終的に台湾省行政長官公署では,全13条の「遣回琉球難民辨法」(沖縄疎開者帰還規則)を策定しました.
これに依れば,移送は基隆からの出発を原則とし(第4条),基隆には「琉球難民回島臨時登記處」と言う事務所を設置し,基隆市役所職員が事務を行う(第7条).
先ずは基隆で移送を待っている疎開者1,965名を移送するという方針が採られ(第6条),その後,他地域に疎開している疎開者を基隆に送り出すと言う手はずになっていました.
自活出来ない疎開者に対しては,食費の支給を盛り込み(第11条),それは1946年1月1日から開始するとしていました.
基隆から沖縄までの所要時間は2日間を見込み,渡航期間中の食費として,1人1日当り大人には5元,子供には3元を支給(第3条)することや,食糧や輸送など移送に伴う経費については,台湾省行政長官公署が関係機関と共に統括する(第12条)として,疎開者の送還費用は台湾当局側がそっくり負担する形で開始される事になっていました.
こうして第1回の疎開者帰還船は,4隻で構成され,1946年1月25日に基隆を出港します.
疎開者は4隻併せて525名で,2隻は宮古に直行し,残りの2隻は1月27日に一旦蘇澳に寄港しています.
辨法では,直行する事になっていましたが,自力で引揚げようとする疎開者が蘇澳の漁港である南方澳に集結していたと言う事情に配慮したものと考えられています.
「台交129号」が2月5日に蘇澳を出て,石垣島に7日到着,「台交127号」は8日出港,12日石垣島着となっていますが,蘇澳での滞在期間が長かったのは,2月2日が旧正月だったからかも知れません.
一方で1月16日,南方澳では日本籍の漁船を接収する作業も行われています.
銭の報告書に依れば,基隆で引揚げを待つ人の数は,500名余りで,当初計画の1,965名からすると大分減っています.
これは基隆から漁船に乗り込んだり,蘇澳に行ってそこから漁船に乗り込んで引揚げていった人が多くいた事を示しています.
このため,4隻の船に乗り込んだ避難民は500名余となった模様です.
4隻の船の運航を受け持った船主は,同分署に「輸送琉球難民航程報告表」を提出し,3月1日,銭は陳儀にこれを伝えています.
それによると,次の3点が書かれていました.
1. 宮古島と石垣島に到着後,直ちに米国哨戒艦に連絡し,許可を得た後,疎開者全員を上陸させて当局者に引き渡した.
2. 疎開者は安全に到着した.
3. 当局者に諜知在住の台湾出身者の中で帰台希望者がいるか調査を依頼した所,殆どが既に台湾に帰還しており,残留台湾人には帰国の意志がなく,台湾向けの復路は乗客なしで運航した.
その後,2月21日に新竹県政府でも疎開者に関する文書を纏めていますが,まだ引揚げられない疎開者,特に「婦老幼弱」について深刻な問題である事が取り上げられています.
それでも,帰還は徐々に進み,3月3日に先島諸島出身者の疎開民帰還がほぼ終了したと『台湾新生報』に書かれ,宮古では前町長の奮闘の甲斐もあって,5月18日に全疎開者の帰還が完了しました.
一方で,沖縄本島出身者の引揚げは進展せず,1946年10月までかかって漸く引揚げが完了しています.
これは,宮古や石垣の様に地方自治体の首長が率先して動けたのとは対照的に,県庁の知事を始め,地方自治体が悉く壊滅して,その復旧に手間取った事と,米軍側の承認が中々降りなかった事が挙げられます.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/11/06 22:46
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