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◆◆◆米軍本格反攻以降 Amerikai ellentámadás
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<◆太平洋・インド洋方面 目次
<第2次世界大戦FAQ
(画像掲示板より引用)
「朝目新聞」●陸軍軍曹は大変なものを盗んでいきました (of MURAJIの戯れ言 /by D.B.E三二型)
「神保町系オタオタ日記」■(2009-11-26) 川上初枝=若林初枝=内山若枝=日高みほの年譜
大連でソ連軍により射殺
『奄美戦時下米軍航空写真集 よみがえるシマの記憶』(当山 昌直著,南方新社,2013/10)
【質問】
太平洋戦争の時,日本軍はアメリカ軍の本格的反攻は1943年以降と考えていたとのことですが,何を根拠にそう考えたのでしょうか?
【回答】
米国が開戦後に戦時体制に入って,戦力の動員と兵器の大量生産を軌道に乗せるまでに1年半程度の時間が必要で,反攻はこうした準備が整ってからであろうと予測していました.
実際に米軍が大量の空母と航空機,そして兵員を投入可能になったのは1943年半ばですので,日本軍の米軍戦力整備に関する予測は,実は誤ってはいませんでした.
問題は,米軍がミッドウェーにおける勝利と前後して,戦力不十分なままで早期反攻に出るという事態に対して,これを予測していなかったり,あるいは十分な対策を検討し,準備しておかなかったということだといえると思います.
軍事板,2005/03/06
青文字:加筆改修部分
海軍の場合ですと,昭和15年に成立した第3次ヴィンソン計画による艦艇・航空機の増強が昭和17年度に完了することが判明しています.
これでロンドン条約のアメリカ側の制限枠が満たされますが,ヴィンソン計画成立から半年後に,制限枠にとらわれないスターク計画が追加され,これには幻のモンタナ級・アラスカ級・エセックス級・ボルチモア級・クリーブランド級など,大反攻の主力艦が含まれています.
真珠湾にしろミッドウェーにしろ,ヴィンソン計画艦を叩くのが精一杯で,18年度以降に就役するスターク計画艦までは手が回らないのが実情でした.
このスターク計画によってアメリカの陸軍戦備も予算的になかなか整わず,イギリス支援に忙殺されてもいたために,対日戦備も後手に回っていました.
それに希望的観測もあって,18年度からの反攻が想定されたわけです.
鷂 ◆Kr61cmWkkQ :軍事板,2005/03/06
青文字:加筆改修部分
【質問】
太平洋戦争で米軍反攻作戦が2正面攻勢になったのは,マッカーサーとニミッツが侵攻軸設定で対立した結果,「互いに好きにやれ」になっちゃったため?
軍事板
青文字:加筆改修部分
【回答】
少なくとも,ケンカ別れして別々の道を進んだ,というような話ではない模様.
『モリソンの太平洋海戦史』(Samuel Eliot Morison著,光人社,2003.8.31),p.260-261によれば,マーシャル諸島攻略後,どう行動すべきか?については2つの案があったという.
(1)マッカーサーの単一攻勢軸案:
ニューギニア⇒セレベス海⇒ミンダナオと攻略していく案
(2)ニミッツの2方面攻勢案:
マッカーサーの攻勢軸に加え,同時に日本委任統治領の島々を奪取し,グアム・テニアン・サイパンを戦略爆撃部隊に展開させる案
そして1943/12/3,カイロで開かれた統合幕僚長会議の「六分儀」会議で,(2)が承認された.
その作戦決定の際,ニミッツ案に反対していたのはスプルーアンス提督,ターナー将軍,H.M.スミス将軍だったという.
モリソンが挙げた反対者の中にはマッカーサーは含まれておらず,また,スプルーアンス提督が含まれていることから考えても,
「陸海軍の対立によって別々に侵攻することになった」
ということは言えそうにない.
【質問】
昭和18年鳥取地震について3行以上で教えてください.
Kérem, mondja el a 1943. Tottori földrengést a három vagy több sorban.
【回答】
第二次世界大戦中,イタリアのバドリオ政権が連合軍に降伏(9月3日)して間もない1943年(昭和18年)9月10日に発生した,鳥取県気高郡豊実村(現・鳥取市)野坂川中流域を震源地とする地震.
鳥取平野直下の鹿野断層と吉岡断層が活動した事による地震で,震源が浅かったため,鳥取市などが最大震度6の激しい揺れに見舞われた.
鳥取市の中心部は壊滅し,古い町並みの木造家屋のほぼ全てが倒壊.
家屋全壊は13295戸,半壊は14110戸で,家屋の全壊率は80%を超えた.
山陰本線や因美線といった鉄道もこの被害を受け,長期にわたって鉄道が不通になった.
通信も,電柱破損,架線の切断等で電話は全て不通.
無電もアンテナ架線と電線の切断で受信も送信も不能となった.
さらに,夕食の準備中だったこともあり,地震後には,市内16ヶ所から出火.
水道管が破裂するという悪条件であったが,
・地震前に降雨があり湿度が約90%と高かった事,
・倒壊した家屋が破壊消防の防火帯の役目を果たした事
・第二次世界大戦中であったため,住民の防災訓練が徹底されていた事
などが,不幸中の幸いとなって,市民のバケツ・リレーにて延焼を食い止める事ができた.
地震による死者は1210人,重軽傷者は3860人.
死傷者の大部分は家屋の下敷きになったが,道路が狭いため倒れてきた家に押しつぶされた例もあった.
また,死者のうち702名が女性であった.
これは戦地へ出征している男性が多かったためである.
被災後,戦時中にも関わらず,国内外から多数の援助があり,満州国皇帝からも支援金が送られた.
鳥取県は,防空法を準用した災害対処を実施した.
二度目の防空法改正前であり「防疫」の項目は,まだ追加されていなかったにもかかわらず,鳥取県は,防疫にかかわる処置を実施し,成果を収めた.
震災後,上下水道の破壊により,汚物の処置ができなくなったが,それが,井戸や破裂した水道管の飲料水に浸透するといった伝染病の発生を防止するために,軍官民合同の鳥取震災防疫委員会を設けた.
そして,
①防疫のための給水と井戸等の消毒,
②共同便所の設置,
③防疫指導の巡回,
④予防注射,
⑤市内の清掃
などが実施された.
その結果,疫病の発生は前年同期間に比べ3倍弱程度に食い止めたと記録されている.
浜坂砂丘のグライダー訓練所にあったグライダー格納庫2棟に避難した者もいたが,その人数は寡聞にして不明である.
【参考ページ】
http://blogs.yahoo.co.jp/sac_murakumo/51885269.html
http://www.rs.tottori-u.ac.jp/geopark-handbook/d11.html
http://nda-repository.nda.ac.jp/dspace/bitstream/11605/55/1/2-2-%E5%A4%A7%E4%BA%95.pdf
http://www.vsha.jp/n/n-1-11-2.pdf
右横ずれ1.2mが生じた農家家屋
(こちらより引用)
【ぐんじさんぎょう】,2016/10/24 20:00
を加筆改修
【質問】
戦時中の首相で,小磯国昭の存在意義って何ですか?
東条が開戦のためで,鈴木が終戦のためってのは分かりますが…
【回答】
中継ぎ.
「とにかく東条じゃ駄目だ」と言うことで,彼を引き摺り下ろしたのはいいが,誰を後継にするか決めていなかった.
それで重臣の方々が意見を出した結果,
・取りあえず軍人
・けど,皇道派は駄目(天皇陛下は2・26以来,皇道派が嫌い)
・後方勤務でヒマな奴
って事で選ばれた.
もっとマシな奴がいるだろ,ってのが個人的感想.
【質問】
八重山諸島における,大戦中の防備状況を教えられたし.
【回答】
八重山諸島に軍が配備されたのは,1941年,西表島の内離に船浮要塞が構築され,高射砲部隊や歩兵部隊が配置されてからです.
その後,島に配備する重砲兵連隊も配備され,外離島や祖納,サバ崎等にも野砲陣地が構築されています.
更に,ミッドウェー海戦で米軍が勝利して,南方戦線で日本軍が苦戦を強いられる様になると,宮古島や石垣島が航空路確保の点から重要視され,それぞれ飛行場の建設が決まりました.
その後,1943年に観音寺部隊が平喜名飛行場に駐屯したのを皮切りに,翌年には陸海軍部隊が駐屯する様になります.
一方,1944年2月,西表要塞司令部によって,郷土防衛の為の特設警備隊が住民によって編成されます.
これらはそれぞれ第226特設警備隊,第227特設警備隊と命名され,何れも予備役の在郷軍人を対象にした現地編成部隊としての位置づけでした.
第226特設警備隊中隊長には,那覇出身の又吉嘉栄大尉,第227特設警備隊中隊長には,高松出身で当地において製材業などを幅広く経営していた,三木義行少尉が就任しました.
西表要塞司令部に出頭した2名は,3週間ほど,編成や要員の招集要領などの促成幹部教育を受け,第226特設警備隊は大浜村駐屯,第227特設警備隊は石垣町駐屯で編成が開始されました.
両部隊は「兄弟隊」と呼ばれ,同じ指令を受け,同じように行動する事が多かったと言います.
この2つの部隊は中隊編成で,それぞれ約200名の人員により,本部,指揮班,3個小隊を編成していました.
その任務は,「普段は家業に従事し,生産活動に従事しながら訓練を実施し,有事の際は実戦部隊を補助する」という,謂わば屯田兵的な性格の部隊です.
沖縄に南西諸島守備が命ぜられたのはこの年の5月ですが,両中隊の編成はそれよりも前でした.
その後,この地に混成旅団が配備されると球部隊に編入されて,宮崎武之旅団長の指揮下に入りました.
そうなると,当初の任務が変質して来ました.
その任務は,旅団編入当初は旅団主力進駐までの奇襲対応及び防空訓練の指導,航空基地掩護,陣地構築,進駐部隊の設営補助だったのですが,状況が逼迫するにつれて,各地区隊に配備されて天一号作戦下令後は,飛行場補修作業に従事する他,敵の上陸戦闘に備えての斬込み,対戦車戦法の研究訓練など戦闘準備にも力点が置かれ,旅団の一戦力にまでなっています.
但し,沖縄戦後は,本土と完全に切り離されてしまった事から,農耕,狩猟,漁労など自治作業を主として,全般の自治体制を確立する事に主眼が置かれる様になりました.
まぁ,土着の兵隊なので地理地形に明るい事から,遊撃や奇襲部隊としての性格を持たされたのでした.
とは言え,正規部隊ではないので武器も満足に供給されず,三八式歩兵銃と十一年式軽機関銃が併せて6挺程度で,小銃は軍から支給されたものではなく,八重山中学校の軍事教練用の装備をそのまま流用したものでしたし,軍服に至っても10月に入って漸く支給されました.
それまでは全員,私服で作業や訓練をしていた訳です.
また,1944年8月には,白保飛行場の補修や秘密飛行場の建設をする為,高良鉄夫大隊長を頭とする総員1,200名,8個中隊からなる第506特設工兵大隊が地元民により編成されています.
こちらも部隊とは名ばかりで,武器や軍服は支給されず,蓑笠を付けて,スコップや鋤を手に毎日補修作業に明け暮れていたので,自分たちのことを自嘲的に「みのかさ部隊」と呼んでいました.
特設警備隊は,日頃は農作業に従事していましたが,10月8日に丙戦下令以後は宿舎に寝泊まりし,於茂登山近くの外山田と呼ばれる場所で陣地構築を行っていました.
補給物資は本軍から来る事がないので,本職が農夫や漁夫と言った人々が,それぞれ芋を作ったり,魚を捕獲したりして,自活を続けています.
そのうちに,家族は既に書いた様に,台湾に疎開させる事になり,特に老人,幼児,妊婦,病弱者は台湾に送り出す事になりました.
その後の石垣島には,台湾防備や南西諸島守備の為に大陸や本土から続々とやって来て,8月には宮古島から第45旅団本部が八重山農学校校舎に移駐してきます.
農学校の生徒は学徒兵として招集され,事務所は暁部隊の本部に,倉庫は軍事物資の倉庫として使用され,石垣島全体で,8,000名の兵士が島外からやって来ました.
飛行場は白保飛行場を始め,平喜名など幾つかの地区で建設が本格化し,特設警備隊もそれに投入されていきました.
また,富川農場近くにあったフクブクイーザー(自然洞窟)を改造して,洞窟陣地にする工事にも投入されました.
この陣地は,富川農園を200m近く通っていて,敵が大浜海岸に上陸した場合の遊撃戦の拠点となる予定でした.
大浜海岸には,敵上陸に備えて,連日の様に蛸壺が掘られていきました.
万一敵が攻めてきた場合は,兵士がこの穴に潜んで敵の上陸を迎え撃つと言う戦法です.
1944年10月12日午前8時過ぎ,突如米軍の艦載機4機が石垣島上空に姿を現しました.
米軍機は平喜名の飛行場を次々に攻撃し,翌日には白保の飛行場を銃爆撃して去っていきました.
石垣町内には空襲警報のサイレンが響き渡り,警防団が走り回りましたが,この時の攻撃は飛行場だけで,町には攻撃がありませんでした.
これは,台湾沖航空戦の余波だったりします.
それより2日前の10月10日には那覇が大空襲に遭い,一夜にして灰燼に帰しました.
米軍は3次にわたって延べ600機で来襲し,那覇の凡そ9割を壊滅させたのです.
連合軍の戦略は,本来は,台湾を攻略した後,日本本土に攻め寄せる予定でしたが,この時期を境に,台湾より沖縄本島に攻め込む事に変更し,「アイスバーグ」作戦がスタートします.
石垣への米軍の空襲は,1945年1月1日にも行われ,飛行場を攻撃します.
町への空襲は,1月23日に石垣町四ヶ字の民家に爆弾を投下したのが最初です.
爆弾は2発が登野城に投下されて,うち1発が民家に命中して被害をもたらしました.
その後,毎日の様に空襲が続き,第506特設工兵隊,通称「みのかさ部隊」は連日飛行場に落下した爆弾の大穴を人海戦術で埋める事を繰り返していました.
また,この頃には八重山農学校や八重山中学校の生徒も,学徒動員で鉄血勤皇隊として,通信班や特攻班として各部隊に配属されていました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/11/07 22:43
【珍説】
『日本は太平洋戦争を早期に終わらせようと努力していた.
沖縄戦の最中,45年5月にはアメリカ国内の新聞で日本が降服を打診していることが報道されている. しかしアメリカ政府は公式にこれを拒否した.
アメリカには,戦争を継続して原爆による人体実験をしたかったと云う思惑があり,それ故に日本の和平努力を無視したのである』
【事実】
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1945年1月……
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米軍がルソン島上陸作戦を計画中である事を知った昭和天皇は,重臣たちを召集して,各々から国家の現状を述べるように求めた.
2月14日,宮城に召された
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ヽ ヽヾ三,' :::..,.
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`ー',ミミ ::.弋ラ''ー、
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二フ´ l ヽ、.ノ ,'
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近衛文麿はいわゆる,
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ヽ 幺ク 亡 月 | ┼‐ .|] |]
/互7―- 、__|______|
/ 小巴 三l三. ヽ_ノ / こ o o
{三,ゝ <三)
(三> ,ノ三ヾ \
r!ミ´ _,. .. ,
_ 、,..,_ `ヾ三ミ! / 日本は敗戦するでおじゃる!
|{ミ' .:'イ(;;)ン'、 : '
ィ'(;;)>.:.:. }三ム /
゙ト{, `三シ' .: :::.`三彡:.:.:.
lシ/り  ̄ ̄|_ /ヽ, /\
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{j! ,r'.: :ヘ,:.
fミ/、リ (ヽ、//\/ \/ \/
`! / `^ー '^'ヽ liにソ
ヽ´ヽ,ヽ
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/朴 (,ゝ, \ ヽ l、
ヽ. レ,二二ェ!
ノ イ〉ヽ, ヽ、 ヽ, | | ! l
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,. '´ `ト、`ニ==ゝ‐'―'´≦ニ=‐'´_,.
'′ l /
日本敗戦を予告する,いわゆる 『近衛上奏文』 を奉じる.
これを知った特高,憲兵隊は,
コレカイタノダレ?
∧,,∧ ∧,,∧
∧ (´・ω・) (・ω・`) ∧∧ ヨシダシゲルトカ
アヤシクネ?
( ´・ω) U) ( つと ノ(ω・` )
| U ( ´・) (・` ) と ノ
u-u (l ) ( ノu-u
`u-u'. `u-u'
聖戦遂行を阻害するこの文章を書いた人物を特定しようとした.
結果,
ハンニンハ ヨシダシゲル!
∧,,∧ .∧,,∧
∧∧(`・ω・´)(`・ω・´)∧∧
(`・ω・´).∧∧) (∧∧(`・ω・´)
| U (`・ω・´)(`・ω・´) と ノ
u-u (l ) ( ノ u-u
`u-u' `u-u'
と云うことになり,
__ _
/⌒ヽ (: : :z >==<,z: : )
ゝ く > ´ `;:ヽ
|| / (;;;;;;;) i i (;;;;;;;)
|U:';
|| | - | -
|: :';
|| | `ー /:
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|| _,.人 〓 人.,_:
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: : : : : : : : : ';
吉田茂は逮捕されることとなった.
実際,吉田は近衛上奏文に関わっていたのであるが,その証拠は完璧に処分したのであったが,
-―- 、
/ ・ ヽ
6 |
(( )ミ ノ
> <
樺山愛輔 (伯爵) が,近衛が書いた上奏文の下書きを,
-―- 、
/ ・ ヽ
6 | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
(( )ミ ノ < 近衛の書いた文字が綺麗でねぇ……
> < \_____
/ \
〈/| |ヽ皿
と云う理由で保管していたモノが憲兵隊に発見され,吉田を筆頭とする反戦組織 『ヨハンセングループ』 は摘発されることとなったのです.
逮捕される際,吉田は,
,,-‐、______,-''三ヽ
葉
( ミ,,-――――――-- ,丿
巻
/::/ U `ヽ
の
/:/ (;;;;;;;;;)ノ ハU(;;;;;;;;;)U
ヽ 保
/:/ U i||| - l - lli i
管
|;| 、__丿 U i だ
|| U ,ニ,ニ、 i.
は
|::| U | |  ̄ | | U <三三
!!
三三> U l iエエ,i 人
|:::::::::ヽ、______ー___,,-'':::::
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と家人に云い残していったとされる.
一方,吉田家を捜索した特高は,
ショウコ デテコナイヨネ!
∧,,∧ ∧,,∧
∧ (´・ω・) (・ω・`) ∧∧ コマッタ・・・
( ´・ω) U) ( つと ノ(ω・` )
| U ( ´・) (・` ) と ノ
u-u (l ) ( ノu-u
`u-u'. `u-u'
吉田が直接的に上奏文に関わった証拠を見つけられずにいた.
そこで怪しまれたのが,吉田が最後に家人へ言い残していった一言,
,,-‐、______,-''三ヽ
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三三> U l iエエ,i 人
|:::::::::ヽ、______ー___,,-'':::::
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である.
ハマキガアヤシイ!
∧,,∧ .∧,,∧
∧∧(`・ω・´)(`・ω・´)∧∧
(`・ω・´).∧∧) (∧∧(`・ω・´)
| U (`・ω・´)(`・ω・´) と ノ
u-u (l ) ( ノ u-u
`u-u' `u-u'
との結論に達した特高は,吉田が 『戦争終結時,嫌いで嫌いでしょうがない陸軍が解散したお祝いに吸う予定だった葉巻』 を
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二度と吸えない程に,ボロボロにされたのでした……
とまぁ,45年2月の段階では,和平交渉を口にすれば,特高に逮捕されかねない状態,つまり,
△
(=゜(・・)゜) < 国家の総意として 『和平案』 は支持されていない!
( x)
)ノ
状態だったのです.
(文字制限の為,続く)
ちなみに,この件にかんして近衛や樺山は逮捕されていない.
なぜかって?
-―- 、
/ ・ ヽ
6 | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
(( )ミ ノ < 爵位あっから~
> < \_____
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ベタ藤原 in mixi,2010年08月08日12:20
【質問】
太平洋戦争中~戦後直後に,日本で起きた震災について教えられたし.
【回答】
今の世の中,ちょっと揺れたくらいでも直ぐに地震速報が出て,剰え,地震が来る前に警報が鳴り出す仕組みも作っていたりします.
日本が戦争をしていた1945年頃は,そんなものはありませんでした.
しかも,1943年から1945年に掛けては,日本は数々の天変地異に巻き込まれていたりします.
正に泣きっ面に蜂です.
最初に起きたのが,1943年9月10日に起きたマグニチュード7.2の鳥取大地震です.
この地震は,鳥取市周辺を襲った直下型の地震であり,地割れや地変が多く,長さ8kmの鹿野断層,4.5kmの吉岡断層が出来て,13,000戸以上の家屋が破壊され,1,083人が死亡する大災害になりました.
しかし,日本では検閲の為,被害写真は1枚だけであり,救援活動も全国的に行われることもありませんでした.
それ以降,日本では
1944年12月7日に発生したマグニチュード7.9の東南海大地震で死者1,223人,
直ぐ後の1945年1月13日にはマグニチュード6.8ながら直下型で死者2,306人を出した三河地震,
更に敗戦後の1946年12月21日にはマグニチュード8.0で死者1,330人を出した南海大地震
と立て続けに起きています.
更に,1948年6月28日はマグニチュード7.1で死者3,769人を出した福井大地震と,僅か6年の間に死者1,000人超えの大地震が6回有って,1万人近くの人が戦災とは別の要因で死亡している訳です.
因みに,死者1,000人を超える地震災害は,明治以降は1891年の濃尾地震から1995年の阪神淡路大震災の約1世紀間の間に,11回だけしか記録されていません.
その内,5回は1943~1948年の5年間に集中している訳で,これは偶然か,神の怒りか,よく分りませんが,兎に角異常な状態でした.
この5回の内,大きな被害を出したのが東南海地震と三河地震でした.
先ず,1944年の大詔奉戴日,13時36分に起きたのが東南海地震です.
マグニチュードは当初8.0,後に7.9に改められましたが,震源は遠州灘沖深さ約20kmの海底地震でした.
この頃,東京では軍需大臣の藤原銀次郎,航空兵器総局長の遠藤三郎陸軍中将を始めとする,軍需省の幹部が集まって,航空機大増産の為の会議が開始された所でした.
この地震は,東京でも揺れを検知したのですが,中央気象台から入ってきた情報は,被害の中心が東海地方であると言う事で,一同色を失いました.
当時,名古屋を中心とする愛知県は航空機生産の中心地であり,航空機産業の60%が集中していたからです.
早速,遠藤中将が飛行機で現地に飛ぶことになりました.
東南海地震では,菊川や大田川と言った静岡県の地盤が軟弱な地域で家屋の倒壊が非常に多く,今井村と言う場所では,総戸数344戸の内,336戸までが全半壊して満足に残った家はほぼ皆無,被害率99.1%と言う状態でしたし,袋井町では小学校や保育所が倒壊して,小学生20名,保育園児21名,保母1名が圧死しています.
また,三重県の熊野灘沿岸には地震発生後5~6分で津波が到達し,尾鷲町などに大被害をもたらしましたし,遠く長野県諏訪地方や大阪市内の軟弱地盤でも被害が発生している状況でした.
とは言え,政府としては先ずは名古屋と,その周辺地域しか興味がありませんでした.
明野に降り立った遠藤中将は,先ず伊勢神宮に参拝して戦勝を祈願した後,三菱重工の鈴鹿工場,四日市にある中島飛行機の部品工場を視察しました.
こちらは震源から離れていたので,大した被害では無かったのですが,12月9日,名古屋入りすると,零戦を生産していた三菱重工名古屋航空機製作所大江工場,百式司令部偵察機を生産していた道徳工場,更に半田で,天山や彩雲を生産していた中島飛行機山方工場と葭野工場は,すっかり倒壊して跡形もありませんでした.
因みに,この地震の翌日の新聞は,大詔奉戴日ともあって,1面は大元帥陛下の凛々しい立像写真,戦勝記事が幾つかあり,一面には地震の記事はなく,三面記事の下段の所で,毎日新聞は小さなベタ記事で「きのふの地震」「疎開児童は無事」,朝日新聞でも2段見出しでしたが,殆ど意味のない情報提供に終始していました.
勿論,これは内務省検閲課の指示があったからです.
この時,内務省検閲課は,東南海地震直後,全国の主要日刊紙と通信社に対して電話通達を発し,
1. 災害状況は誇大刺激的に扱わない.
2. 軍の施設,軍需工場などの被害に触れない.
3. 被害程度は当局発表通りに扱い,独自の推測を交えない.
4. 災害現場写真は掲載しない.
と言う指示を行っていました.
ところが,国内には完璧に防諜体制を強いた筈の報道管制は,敵国には余り役に立ちませんでした.
東京発の外電により,既に地震は世界中に発信され,ニューヨーク・タイムズなどは第3回パールハーバー記念日に地震学者のコメント付きで,日本の遠州灘を震源とする強烈な地震があったことを報道していたりします.
米国側は,地震観測網から得られたデータを基に,日本の被害を正確に把握し,更に「東京に大津波」などと言う虚報も織り交ぜながら,この時とばかり大きく報道し,全世界に向けて発信したのでした.
正に,「知らぬは日本ばかりなり」です.
更に,この地震災害の傷に塩を塗り込む様に,12月13日にはB-29を80機配して名古屋空襲を行い,12月18日に40機,1月3日に78機と名古屋地区を集中的に爆撃しています.
とは言え,地震の破壊力に比べれば,B-29の爆撃など軽微なものです.
東大地震研究所の50年史には,この度の地震は,B-29の爆撃では凡そ2万機分に相当すると考えられていました.
因みに,中島飛行機の半田にある工場からは11月に月産108機だった生産量が,12月になると76機に落ち込んだことでも,生産力に対する地震の破壊力が見て取れます.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/08/03 23:37
さて,再び東南海大地震の話.
新聞は情報統制により,一切地震の事を報道しませんでした.
また,軍も躍起になって情報を遮断しようとしています.
例えば,三重県の翼賛壮年団本部長だった七里亀之助と言う人は,知事からの要請で,被害の大きいと言われた錦町方面への状況視察と激励に訪れた後,懇意の新聞記者に頼まれて被害状況についての簡単なメモを渡した所,それが新聞記事になる前に押さえられ,亀之助氏は憲兵隊にしょっ引かれて,ベルトや革靴で失神するほど殴られ,頭から水を被せられると言った拷問を受けたと記録にあります.
体制側の人間でも,容赦しなかった訳ですね…と言っても,既に見た様にザルですが.
もう一つ,浜松では通行人から「今日は余震があるかも知れない」と聞いた挺身隊の女子工員が,同じ工場にいた姉にその話をしました.
それが瞬く間に尾鰭が付いて,「大きな地震が来る」と言うデマとなり,7時間半に渡って静岡県西部を混乱の渦に巻き込んだそうです.
逆に言えば,当局が適切な情報を与えていれば防ぎ得た話だったりするのですが,結局,この工場の40名の女子工員達が,特高警察と憲兵隊の取り調べを受ける羽目になり,新聞には,「遠州っ子の黒星である」とか,「デマは特攻隊の1機,場合によっては10機分の戦果をも台無しにする」とまで書立てた訳です.
そんな状況だったので,困り果てたのが地震研究所と中央気象台の職員と研究者でした.
当然,地震研究所にしても中央気象台にしても,国の機関です.
ですから,それ相応の権力は持っている筈でしたが,国の権力を上回っていたのが当時の軍の権力でした.
従って,憲兵隊司令部や警察に赴いて,調査の目的とか方法を一々説明しなければ成りませんし,その調査にしても,先ず注意事項を守らねば成りませんでした.
例えば,大阪や和歌山県下で地震調査に伴う写真撮影をする場合は,大阪憲兵隊の許可が必要で,三重県で写真撮影をする場合は京都憲兵隊の許可を得なければならないとか….
当然,面接調査も大変で,被災者に会って津波が押し寄せてきた時の話を聞きたいと頼んでも,はいそれでは,とは行きません.
先述の様に,ちょっとでも地震に関する情報を出しただけで拷問にあったり,取り調べを受けたりする時代です.
本当にこの人は地震研究所の研究者なのか?スパイではないのか?と先ず疑いの目で品定めしてから,漸く重い口を開いてくれます.
しかし,核心に近付くと再び口を閉ざしてしまい,これ以上話して良いものかと再び逡巡を始めるので,調査は手間暇ばかり掛かって中々捗らないと言う状況でした.
町村役場にも,こうした地震の記録は余り残っていません.
と言うのも,特高警察や軍から記録はするなと釘を刺された為です.
従って,これだけの大地震にも関わらず,町村の記録も,静岡県の袋井町と,三重県の錦町だけしか残っていないそうです.
ところで,愛知県半田市はこの地震では震度6を記録しています.
確かに震度6は激しい揺れになるのですが,老朽化した建物か,構造上の問題が無い限り,建物が倒壊することはありません.
しかし,実際には半田にあった中島飛行機山方工場,葭野工場共に瞬く間に倒壊してしまいました.
つまり,此等の工場は,構造上の問題があったと言う訳です.
実際,此等の工場は埋め立て地の軟弱地盤の上に建っていました.
また,本工場は鉄筋コンクリート造りの工場で,こちらの被害は軽微でした.
倒壊した工場は,煉瓦造りの立派な工場ですが,何が問題だったのか.
そもそも,この工場は1944年3月に,航空機増産の動きに合わせて東洋紡の鋸屋根,煉瓦造りの紡績工場が中島飛行機に買収されて山方工場となり,山田紡の工場も買収されて葭野工場となりました.
山方工場は,19世紀末から20世紀にかけて山方新田と呼ばれた泥海の様な土地に,1.5mもの厚さに石炭殻を埋立てて建設した知多紡績の工場で,後に東洋紡に買収されたものでした.
内部は,紡績工場なので幾つもの間仕切りがあり,鋸屋根を支える柱が何本も立っていて,それなりの強度が保障されていました.
ところが,中島飛行機で飛行機を作る場合,こうした柱や間仕切りは邪魔になります.
そこで,航空機工場にするに当って,大規模な模様替えを実施し,間仕切りばかりでなく支えの柱の内何本かを取り除いてしまいました.
他にも,浜松の中島飛行機宮竹工場,東西航空の浜松工場など紡績会社を買収した航空機工場はこうした造りになっている事が多かったのです.
当然,これには耐震性など有りはしません.
半田市に飛行機工場が集中したのは,広い敷地があるとか,風向きが安定していて関連飛行場の設置に都合がよい,下請工場の確保がしやすいなど幾つもの条件が挙げられましたが,当所が軟弱地盤にあるとか,建物の強弱は全く問題にされていませんでした.
因みに,明治時代から日本は耐震建築を研究し,地震工学の分野も進んでいて,国も耐震基準を適用していたのですが,軍の意向が絶対の時代,地震研究者の意見は一顧だにされず,完全に地震学者達は蚊帳の外に置かれていました.
山方工場も,葭野工場も,震度6が来たら一溜まりもなく,煉瓦が崩れ落ちて崩壊してしまいました.
しかも,秘密工場であったために出入口は1カ所で,扉は二重構造となっていたので脱出は容易ではなく,153名が圧死してしまいました.
この153名の内実に96名が勤労学徒であり,中学生が27名,女学生が55名,国民学校生徒が14名犠牲になりました.
また,残りも徴用工や女子挺身隊の人々でした.
因みに,俳優として有名な田村高廣さんは京都三中の生徒として動員された山方工場で天山の組立中に地震に遭い,13名の仲間を失っています.
ご自身は偶々,天山の機体の中で作業していたので,圧壊した建物の下敷きにならずに済んだそうです.
また,三菱名古屋の道徳工場も南区道徳にあった日清紡名古屋工場を買収したもので,造りは同じ様な物でした.
こちらも,あっという間に崩壊し,13名の勤労学徒と朝鮮人女子挺身隊6名を含む57名が圧死しています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/08/04 22:34
さて,東南海地震から僅か37日後,1945年1月13日午前3時38分,夜明け前の東海地方を再び大地震が襲います.
震央は三河の海岸から直ぐ其処の三河湾内で,規模はマグニチュード6.8の直下型地震でした.
例によって新聞は,「被害最小限度に防止」「被害の多くは納屋物置小屋」としか報道せず,疎開児童のいた寺が圧壊して55人の生徒と教師など5人の付き添いが死亡した場所でも,「教員,寮母四名尊き殉職」と言う程度の扱いでした.
まぁ,全国的に損害規模の隠蔽が行われていた訳ですから,今更ではありますが.
この時,吉野愛知県知事は,「決戦に手を抜くな」とか「この程度の地震が何だ」と言う談話を発表したりもしています.
被害区域は愛知県の三河地方が中心で,名古屋の方の被害は少なかったからこうした談話が出せたのかも知れませんが,全長28kmの地震断層を始め,隆起,沈降などの地変も著しく,断層の走った三和村や福地村では被害率80%とほぼ全滅の状態であり,全半壊は23,700余戸に達し,2,300人余が死亡,その殆どが寝ている間に圧死すると言う惨事でした.
地震の5日後には,『臨時愛知県震災対策事務局』が『極秘三河地方震災状況記録』をまとめていますが…まぁ,こうした記録も極秘扱いです…,東南海地震からの復旧を始めた矢先に再度の大地震で,被害が更に拡大したことを生々しく書いています.
実は,中央気象台長の藤原咲平が,東南海地震の現地調査から帰った直後に安政東南海地震の後の江戸地震,関東大震災の後の丹沢地震の例を挙げ,大きな余震の可能性を指摘する「地震調査私見」を出して,警告を発していました.
しかし,時代はこうした地震学者の意見を採り入れる情勢ではなく,一部の人たちだけにしか広まらないものでした.
従って,地域住民は元より当局側も,これだけ激しい地震が余震として襲ってくるとは全く予測していなかった訳です.
前回の東南海地震でも,三河地方はかなりの被害を被っていました.
福地村は全半壊1,250余戸,西尾町で490余戸,明治村240余戸といずれもかなりの家が全半壊していました.
また,全半壊を免れた家でも,骨格が軋んだり損傷したりしている家が少なくありませんでした.
普通,こうした状況なら,1週間後くらいから筋交いを入れるなどの補強工事を実施するのですが,材木,釘,鎹などの建築資材は全て戦時統制で手に入ることはなく,大工や鳶職と言った専門職も,或いは根刮ぎ動員で徴兵されたり,本土決戦に備えた陣地構築作業に徴用されたりして人手もありません.
仮に材料が配給されたとしても,それは外目に損傷の激しい家に限られましたし,配給された材料を手にしても,素人の虚弱者や老人ばかりしか残っていない状態では使いようがありませんでした.
それに,余震と言っても,そんなに大きなものは来ないだろう,とか,あれほどの大地震だったのだから,当分は大きなものが来ることはあるまいなど高をくくっていたものもあります.
修理は何も寒い時期にする必要はない,中には「戦争に勝ってからやるんだ」と言う人も居たくらいです.
ところが,やって来たのは短周期の猛烈極まる烈震だったのです.
確かに,前回の東南海地震に懲りて,三河の村々も度々襲ってくる余震に悩まされ,万一の場合に備えて近くの空き地などに「地震小屋」と呼ばれる掘っ立て小屋を急造し,余震の多い日などは其処に寝泊まりする様にしていました.
しかし,1ヶ月を経て次第に下降線を辿って人々が安心しだした1月11日から俄然ぶり返し,発光現象や地鳴りを伴った地震がこの日6回有り,その1つはマグニチュード5.2と言うかなりのものでした.
これは後付けで考えれば,三河地震の前震だったのですが,光や地鳴りが地震によるものだと認識した人は少なく,中には本土決戦に備えた軍の射撃演習か,三河湾沖に来た米海軍の艦砲射撃だと思った人もいたそうです.
こうした不気味な現象の為,人々は再び地震小屋での生活に戻りましたが,翌日にはその現象がピタリと止まります.
ただでさえ,冬の寒い日,少し離れた所には暖かい寝床があるのに,地震も来ない平穏な日に何故避難生活をせねばならぬのか,そう考えた人々の多くは,その夜,地震小屋や防空壕から自分の家に戻り,寝床に入って久しぶりの布団の感触にまどろみました.
その時期を狙ったかの様に,深夜3時に地震が発生した訳です.
また,前回の東南海地震は,比較的長周期の揺れでした.
この為,揺れ出してから建物の倒壊までに少々時間的な余裕があり,道徳工場や山方工場などの軟弱地の耐震性に問題のあった建物以外は,比較的逃げる時間的な余裕がありました.
しかし,今回の三河地震は短周期でしかも震度6~7の烈震,激震であり,逃げ出す余裕も全くありません.
それ故,死者は寝たままの姿で圧死しているケースが多く,その殆どは内臓破裂でした.
こうして,三河地方と言う比較的狭い地域にも関わらず,東南海地震で愛知,静岡,三重,和歌山などの死者合計1,223名からほぼ倍化した2,300余名が寒空に骸を曝す事になったのです.
こうした死者を弔うのに,既に棺桶を作る資材も底を突き,前回の東南海地震では名古屋から棺桶50個を急送したとの記録がありましたが,今回は多くが銘々古材を集めてきて棺桶を手作りしたと言います.
また,死者に着せる経帷子も,布が入手困難である為,そのままの姿で納棺させざるを得ませんでした.
死者の多かった,明治村(325名),形原町(233名),桜井村(179名),西尾町(176名)と言った地区では,数十人ずつを集めての合同葬が野外で行われ,警防団が田圃など適当な場所を見つけて穴を掘り,其処に銘々が棺桶を運んできて火葬したり,横穴を掘っただけの塹壕の中で火葬することなどもありました.
火葬にしても数が多いので,棺桶を重ね合わせて足首に間違わない様に番号札を付けて名前と番号を帳面に控えて焼くのですが,途中で空襲警報が鳴ると火を消さねば成りません.
明治村の和泉では,小学校の校庭で合同葬が始まると空襲警報が鳴り,遂には火葬が不可能となって,その夜80余名の棺桶を,火葬場の東隅に南から大人,北から子供と言うように重ねるようにして埋葬したと言う記録が残っています.
生者を救出するにも道具すらなく,そうこうしている内に余震で再びその建物が倒壊して息絶えると言うケースも屡々.
また生き延びた人々も,地震小屋で生活を余儀なくされました.
この地震小屋と言うもの,小屋と言っても人の背の高さほどもない低くて小さなもので,周りと上を簡単に囲ったもので,其処に布団を持ち込んで寝るのですが,それすら藁布団のようなもの,普請が悪くて少し明かりが漏れても警防団に咎められ,寒いので風邪を引く者が続出しました.
ところが,栄養失調に加え,満足な医薬品もなく,単なる風邪が命取りになって,多くの人が地震小屋で死亡したと言います.
この地震小屋生活は春3月頃まで続き,地震被害皆無な豊橋までもこうした生活をした人が出ていました.
因みに,この年の冬は例年に比べて寒く,しかも雪の多い年だったそうです.
正に踏んだり蹴ったりの年でした.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/08/05 23:06
今日は広島に原爆が投下された日でした.
その式典に,中国以外の核大国の外交官が参列したり,国連事務総長が参列するなど,一体誰が想像し得たことなのかと思うと,感慨深いものが有りますね.
それにしても,意趣返しなのか,外交官や事務総長の上ぐらいテントを張っておけばいいのに,と思ってみたりして.
しかし,原爆だけでなく,各地に空襲があったり,艦砲射撃があったりして,この日本の彼方此方で被害が続出していました.
さて,人為的なものではなく,自然現象による破壊というのもあったりします.
太平洋戦争も先が見えてきた1944年末と1945年初めの東海地方を襲った2度の大地震です.
特に三河地震では,多数の死者が出ました.
当時,空襲を避けて名古屋市内から多くの国民学校生徒が疎開先として三河地方の寺に分宿していましたが,三河地震ではそうした寺も瞬く間に倒壊しました.
この時,三河地方には7校が各寺に疎開して,彼らも犠牲になりました.
最も被害の大きかったのが大井国民学校で,彼らが分宿していたお寺の内,妙喜寺と言う寺は,縁の下に地震断層が走り,震度7の激震だったので一溜まりもなく,周辺住民の必死の救出活動にも関わらず,大井国民学校の3年生12人と教師1人,お寺の6歳になる幼児の計14人が圧死しました.
この他,安楽寺には同じ国民学校の3年生8人,福淨寺に同じく5年生11人と,大井国民学校の生徒は合わせて31人,教師1人が犠牲になりました.
中には,5年生に兄が,3年生に弟がと言った様に,兄弟が3組も圧死したケースもあります.
この大井国民学校の3~6年生までの児童332人は,1944年8月15日,当局の指定を受けて,愛知県下の蟹江町にある4つの寺に疎開しました.
これらの寺は川縁且つ湿地帯であったため,水が良くなく,蚊や蚤,虱に悩まされ,不衛生で病人が続出した上,名古屋から近いこともあり,親たちが入れ替わり立ち替わり毎日のように訪れ,しかも,ついでに買い出しをするものだから,遂に地元とトラブルになり,挙げ句は面会禁止になってしまいました.
こうして,混乱の内にいた11月末,防空作戦を考慮した軍命令による県庁の指示で,突然再疎開命令が下り,1日で引越し準備を整えて三河の三和村へと引っ越しが行われました.
こちらは蟹江町と違って水も良く,景色も良いので,何とか過ごせると思った矢先の12月7日,東南海地震が起きて,宿舎のお寺の壁が崩れ落ちただけでなく,本堂も傾く状況に陥りました.
しかし,資材不足,人手不足の折から,村人が太い材木を運んできてつっかえ棒をしただけの応急措置で,疎開児童の宿舎として使用し続けました.
更に追い打ちを掛けたのが,1月13日の三河地震です.
前述のように,傾いたお寺の本堂は一溜まりもなく,崩れ落ちてしまい,全部で31名の児童と,1名の教師が命を落としてしまいました.
因みに,救出活動には村人だけでなく,近くに布陣していた朝鮮人兵士も携わっていたそうです.
この結果,三和村での疎開は不可能となり,着の身着のままの状態で,隣の西尾町にある実業学校の講堂に移動させられました.
ところが,既にこの地は軍隊の宿舎になっており,落着くこともままならず,県庁は更に遠くの村に移動するように提案しましたが,校長や父母が,「こうなったら,何処に行っても一緒だ」と主張して,元の三和村に戻ることになりました.
再び村に戻って,寺に分宿する生活を続けていましたが,今度は3月12日の名古屋大空襲により,校区が全滅して家も学校も何もかも焼けてしまったとの悲報が届きました.
正に踏んだり蹴ったりです.
卒業式を控え,名古屋に帰った6年生は形ばかりの卒業式を,新入生たった1人の入学式と共に,焼け落ちた校庭の片隅で挙行しました.
名古屋では,校長が近くの学校を間借りして低学年の授業を再開しようとしましたが,その学校も次の空襲で焼かれ,遂に大井国民学校は行き詰まってしまいました.
疎開地では,疥癬や皮癬と言った悪質の皮膚病が広まり,罹った子はみんなに嫌われ,医師や教師にもて余されて帰郷させられ,残った児童達は自給自足の為の農耕と「学徒義勇隊」として竹槍訓練に明け暮れる毎日.
その内に,根刮ぎ動員として,教師も1人,又1人と軍に召集されてしまい,そして,空は日本の飛行機でなく,米軍の艦載機が我が物顔に飛び交い,機銃掃射を仕掛けてくる状況でした.
こんな時期も8月15日に漸く終わりましたが,帰るべき家も学校も失ってしまった学童達の生活は未だ続き,元の名古屋に戻ったのはやっと11月に入ってからでした.
その大井国民学校は,1946年4月,同様に校舎が焼けて名前だけ残っていた2つの小学校と統合し,その名も「平和国民学校」となって新校舎を建設しました.
更に,1947年には国民学校が廃され,平和国民学校は平和小学校になりました.
その名は,共に戦争の為に校舎を失い,戦争の為に苦しい疎開生活を強いられた3つの学校の父母と教師達が,子供達に二度と戦争の苦しみをさせたくないと言う願いを込めて名付けたものです.
そして,その校歌も「きずこうぼくらが,心をあわせ,ひらこうぼくらが,ただしい道で,平和の園を,平和の国を」と謳い上げる「平和の園」が選ばれました.
たかが小学校の名前ですが,其処にはこんなに悲しい歴史があったりする訳です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/08/06 23:56
【質問】
日本による独ソ和平工作は,どんなものだったのか?
【回答】
さて,今日から再び日ソ関係の話に.
此処でも度々,大戦中の日ソ関係の話を取り上げていたのですが,敗戦も近いので再び取り上げる事にします.
今回は,1944年の動きなどを少々.
この頃の日ソ関係は,ぎくしゃくしながらも,北樺太利権解消と漁業条約延長の二大問題の解決に漕ぎ着け,一応安定した状態になっていました.
しかし,太平洋戦争は日本の退潮が続き,ドイツは敗色が益々濃く,ソ連国内からポーランド国境にまで押し込まれている状態でした.
このままでは両国とも共倒れになると考えた日本の外務省は,1943年9月10日に独ソ調停の為の特使派遣について,一度ソ連側から断られていたのにも関わらず,再び,ドイツの危機を救う為に特使派遣を打診する事になります.
1944年4月8日,佐藤大使は政府の訓令に基づいてモロトフに会い,利権解消と漁業条約延長についての重光外相の祝意を述べると共に,大臣からのメッセージを伝えます.
重光外相からは,
「日本は隣接諸国との友好関係を維持したいが,更にソ連とのそれを発展させる為に,昨年9月に日本の重要使節をモスクワに,次いで西欧諸国に向け派遣する事を提議したが,これは日ソ間の利益だけで無く,世界平和再建の為に提議したものである.」
とした上で,特使の再派遣を申し入れ,今回の二大問題を解決した事を起点に,松岡書簡中に懸案とされている,通商問題及び国境画定問題の解決をも図りたいと提議しました.
これに対しモロトフは,重光外相の祝意に謝意を示した上で,協定成立は日ソ間の友好関係を発展させる事に繋がり,これにより両国間の誤解の原因をも排除しうると思考され,これは両国の為に有益且つ有用な事実であると述べ,更に重光外相の特使派遣については,昨秋佐藤大使に回答した通りであると答えます.
なお,モロトフは語を継いで,日ソ両国関係の有益な点については,可能ならば追加の情報を戴きたく,また通商と国境問題に関しては,松岡書簡以降より著しく事態が推移しているので,現在これらの問題がどの様な意義を持っているのかを研究する必要があると答えています.
この返答を受けて,佐藤大使は,日ソ関係が好転した事を受けて諸問題の解決を図る事が賢明である,と指摘すると共に,追加の情報については,これ以上付言する事無く,またこれ以上に渡る事について訓令は有していないものの,個人的には,特使派遣問題は重光外相は日ソ両国の利益を図るばかりで無く,世界平和を顧慮しているものであり,もし,世界平和という言葉が余りに大きすぎるのであれば,少なくともソ独間の和平を考えているものと考えていると付言しています.
当然,この付言はモロトフの注意を引き,昨年9月にソ連側が拒否している特使派遣問題を,何故に日本が再度打診してきたのか,それには裏でドイツの意向が動いているのでは無いかと問い質しましたが,佐藤大使はその様な事が無いと否定し,モロトフもそれを了としています.
最後に,佐藤大使から,ソ連政府はドイツの無条件降伏を欲しているのではあるまいか,もし,平和が来るとすれば,それは名誉ある和平を意味するものと考える旨を述べた所,モロトフは目下戦争の事だけを考えており,平和に関しては一切考えていないと言う答えが返ってきています.
4月12日,モロトフは佐藤大使を招致し,ソ連政府から重光外相への回答を読み上げます.
――――――
ソ連政府は,4月8日佐藤大使からモロトフに伝達された重光外相のメッセージを了承し,事態改善方に関する日本政府の努力を十分尊重するものである事を言明する.
同時に,重光氏の申し出は,昨年9月の申し出と全く同趣旨であるのに鑑み,ソ連政府は当時早速右に対して回答し,その後に於て自体に別段の変更を見ないのに鑑み,改めて右に何ら追加すべきものを有しないものである事を言明する.
――――――
こうして,独ソ間和平実現の為の日本政府からの特使は,ソ連政府から再度正式に拒否された訳です.
ところが,この情報が日本に届かなかったのか,重光外相及び政府部内に未だ未練があったのか,9月8日に駐日ソ連大使のマリクが本国に帰任の挨拶にやって来た際,外相はこの機会を捉えて,マリクに対し,在ソ大使の佐藤も在任期間が長くなっているので,事務打ち合わせの為に帰朝させようと考えたが,寧ろこの際,国内事情に精通する地位の高い人物を特派使節とし,大使の顧問格として随員2~3名と共にモスクワに派遣して大使を補佐させると共に,日本側の意向をソ連側に徹底させる様希望しているので,此の事について佐藤大使からソ連側中央に申し入れる節は,ソ連側に於て理解を以てこれを受容れられる様希望すると述べ,その人選についても,日ソ関係を一層良好ならしめる仕事に通暁しソ連に好感を抱く者から選ぶ事を伝えて,マリク大使に協力を希望しました.
マリク大使はその人選が具体的に進展しているかを訪ねたところ,外相は人選を相談中と答えた事から,マリク大使は申し出の次第を直ちに本国政府に伝達すると述べます.
こうして,重光外相は3度佐藤大使に特使派遣問題を訓令しました.
この特使としては,候補として広田弘毅前総理の名が上がっていました.
9月16日,佐藤大使はモロトフの元を訪れ,既に重光外相からマリク大使に特使派遣について話されているので,ご承知だと思うが,政府の訓令によって改めてこの問題を申し入れ,ソ連政府に於てこれを受容れる用意があるかどうかを承知したい次第であると述べ,此の度の特使は前回と異なり,モスクワにだけ派遣されるもので,前回の分とは全く関係が無い事を申し添えました.
これに対し,モロトフはその情報は報告として聞いているが,特使派遣の意義については情報が無いので,その特使が如何なる問題について派遣されるものなのかを承知したい旨,反問されます.
そこで佐藤大使は,特使の使命は重光外相の言葉に尽きているが,これを解釈して述べるならば,日ソ関係は現在,友好状態を維持しているものの,その間意見交換の形で話し合いをすれば有利である問題が多々あり,また欧州及び東亜に於ける大戦の結果,種々の重要問題もある訳で,重光外相は佐藤の離国が既に二カ年半になるため,この際日本内部の事情に通暁する人物が来て,モロトフ氏と意見交換を行う事を有意義と考えておられるものであり,当方もその案に賛成すると答えました.
しかし,モロトフの見解は以下の様なものでした.
――――――
日ソ関係は中立条約によって正常な関係が設立され,これまでには種々誤解もあったが,現在はそういうことも無く,特に最近では引き続き友好関係を維持している事に双方満足する所であり,また日常の問題は正常の手続きによって解決されているので,お申し出の考案は何を意味するのかとの疑問を起こさざるを得ない.
つまり,特使の使命が問題となる訳で,自分としてはこの問題は国内及び国外に於て,如何に解釈されるかを考えざるを得ない.
今回の特使は前二回の申し出とは異なり,特にモスクワに派遣される趣であるが,前回と同様の意味で,国の内外に於て種々解釈されるべく,また独ソ和平についての意味にも取られるべく,それは目下その時機では無い.
自分の意見は以上の通りであるが,この様な事情は日本の内外でも同様であろうと考えられる.
――――――
そこで佐藤大使は,日本政府としてはお話の様な考えは一切有していないのであり,貴方の考えではこの案が国内のみならず,国外との関係に於て好ましからざるをされているものと諒解されるが,独ソ和平の意味に解釈される云々の点については,日本政府に於ては,全然その様な事にまで及ぶ考えを有していないし,日本政府の目的とするところは,特に日ソ関係の増進に限られるものであると説明しました.
この説明に対してモロトフは,果たして貴説の如しとすれば,日ソ両国間に於て提起すべき何らかの新問題ありやと問わざるを得ない次第だが,前述の様に両国間には新問題は無く,また実際的に新問題を提起する必要も無いものと認められる.
なお,マリク大使は若年ではあるが,ソ連側としては満足しており,同様に在モスクワ日本大使についてもソ連側で満足しており,有らゆる問題について日本大使と欣然解決しようと心がけていると述べています.
佐藤大使は更に反論を試みます.
ソ連政府が重光外相の提議に対して直ちに賛意を表されない以上,強要は出来ないが,今回の特使が日ソ関係に精通した人物ならば,両国関係増進に資する所も大きかるべく,本使としては重光外相の提議を支持するもので,モロトフ氏に於て即決困難ならば,ご研究を願う事としても結構であると述べます.
しかしモロトフは,自分としては既に熟考し尽したものであり,ソ連政府としては日ソ関係を正常の状態にあると認め,かつ良好な方向に発展していると考えており,それは条約により又その後の諸協定締結により証明されているし,ソ連政府もこの関係を支持しようとするものであると述べた上で,だが,特使派遣は国の内外に於て,特殊の意味を持って解釈される恐れがある故にこれを不適当と考えるものであると述べ,会談を打ち切りました.
そして,会見の最後,佐藤大使の去り際に,モロトフは椅子を立ちながら,こう言い残しました.
「『万物は流転する』と言う事であろうか.」と.
此の言葉は,古代ギリシャの哲学者ヘラクレイトスのものとされていますが,モロトフがふと漏らした言葉こそ,日本外交の窮状を見抜いたものと言う意味であったのではないでしょうか.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/08/14 22:21
青文字:加筆改修部分
【質問】
.太平洋戦争末期,日本の政府機能はどのように維持していたのでしょうか?
首都圏は空襲でぼろぼろの状態で今の日本を支える官僚の方々は,どのように政府機能を維持したのでしょうか.
決済とかで必要な方等,組織を維持するために必要な人が亡くなっていると思いますが.
【回答】
空襲で官僚も死亡しましたが,基本的に政府および地方自治体は機能していました.
決済に必要な人が死亡した場合は,その次席の人が代わって決済します.
昭和20年6月には地方総監府が設置されます.
これは,本土決戦で東京からの指示が地方に伝達できなくなった時に,総監府が政府の代わりに行政を担当するものです.
【質問】
日本軍は,敗戦3ヶ月前にこのような蛮行を出来たのですか?
日帝,2次大戦末期に中国の子供数千名拉致
最近中国と日本の関係がますます悪くなっている中,日帝が第二次大戦末期に中国人児童数千人を日本へ拉致して行ったという主張が提起された.
香港のサウスチャイナモーニングポスト紙は8日,中国共産党歴史研究所歴史学者である官麗珍女史の言葉を引用して,日本軍が広東省の児童数千人を日本に連れて行ったと報道した.
官麗珍女史は,
「日本軍が降伏する直前の1945年5~7月に,広州の児童数千人を拉致した.
内務省広州支局は1945年12月に政府に報告して,警察の協力を依頼した」
と述べた.
官女史は
「しかし中国警察は,失踪した児童たちの所在地把握に失敗した.
今も,当時失踪した児童たちに対する情報が全くなく,日帝が彼らを拉致した理由も分からない」
と語った.
これについて,中国の公共メディアも官女史の主張を一斉に報道して,日帝の中国人児童大規模拉致事件が歴史の中に埋もれたのは,当時の国民党政府が無能力だったからだと指摘した.
官女史は,
「日帝の広東省侵略に関する本を執筆するために資料を収集していた5年前に,広州公文書保管所で偶然に,日本軍が子供たちを拉致したという情報に接するようになった」
と述べた.
【回答】
船・燃料が不足し,東シナ海に米潜が,日本の港湾に機雷が敷設され使用困難な中,そんなもん命懸けで運ぶ暇があれば,他にもっと運ぶべきものがあるとおもうのだが,矢張り08MS小隊に出てくるフラナガン機関の子供達のようなものであろうか(失笑)
【質問】
1945年に吉田茂が,憲兵に拘束された理由は?
【回答】
太平洋戦争中,吉田茂は岳父である牧野伸顕の義兄,秋月佐都夫から呼び出しを受けました.
87歳の秋月曰く,
「海軍が英国と講和を考えてるから,お前ちょっと交渉役をしてこい」
ということらしい.
さすがの無茶ぶりに,吉田は
「四方八方敵だらけじゃ無理でしょ」
と言うも,秋月は
「潜航艇があるだろ.
事の詳細は,海軍の小沢治三郎が知ってるから聞いてくれ」
と言う.
まぁ,とりあえず話を聞くかと小沢を訪ねたところ,
「そんな計画ないよ」
と一蹴されたばかりか,
「それよりも,憲兵にうろつかれてるのに会いに来るとか,面倒持ち込まないでよ」
と言われる始末.
首をかしげる吉田.
秋月が嘘を言うとも思えず,(この計画はすでに没になったんだろうな)と思い,吉田は小沢に
「分かった.とりあえず秋月さんにはそっちから連絡しといてよ」
と言って帰宅.
その翌日に,吉田邸に憲兵がやってきて即連行.
吉田茂は
「秋月の件がばれたな」
と思ったのだが,憲兵が証拠として出してきたのは,2ヶ月ほど前に,近衛達と協力して天皇に上奏した,即時終戦を求める文章だった.
吉田はこれがどこから漏れたのか,さっぱり分からず首をかしげる.
どうしても納得のいかない吉田だったが,物証があってはどうすることも出来ない.
こうして吉田は,憲兵の取り調べを受けることになった.
では,この文章はいったいどこから漏れたのか.
実は,憲兵は4年前から吉田,樺山愛輔と原田熊雄の3人に,諜報活動の的を絞っていた.
文章の出所になったのは,樺山愛輔(ちなみに,白洲次郎の妻,正子の実父)だった.
なんと樺山は上奏文の下書きを,後生大事に家で保管していたのだ.
本人曰く,
「実は焼いてしまおうかと思ったんだが,あまりにうまく書けていたので惜しくてとっておいたんだよ」
という事らしい.
このおかげで憲兵に取り調べを受けるだけではなく,刑務所で空襲に巻き込まれて焼き殺されそうになったのだから,吉田にとってはえらい迷惑な話です.
寄星蟲 in mixi,2010年07月15日05:15
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