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月刊「航空朝日」1944年3月号の広告


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「2ろぐちゃんねる」◆(2014/03/13) 戦時中の「主婦の友」の表紙が過激すぎる((((;゚Д゚))))

「神保町系オタオタ日記」■(2006-09-01) [文藝] 生方敏郎のユーモア雑誌
 昭和5年

「神保町系オタオタ日記」■(2007-02-10)[文藝][国木田独歩][柳田國男] 武侠社に関するメモ
>昭和初期の「エロ・グロ・ナンセンス」と円本時代

「神保町系オタオタ日記」■(2007-03-18)[文藝] 武侠社の弥吉三光

「神保町系オタオタ日記」■(2007-04-22)[出版] 関根喜太郎と斎藤昌三
 「軟書」関連

「神保町系オタオタ日記」■(2008-05-03)戦時下に「桃太郎の海鷲」を見る高見順

「神保町系オタオタ日記」■(2010-06-04)柴野拓美の父と満洲映画協会

「神保町系オタオタ日記」■(2010-10-01)忘れられた美人女優及川道子と堺利彦夫妻

「神保町系オタオタ日記」■(2011-01-01)久米正雄原作の映画『沈丁花』
>昭和8年11月16日,帝国館で封切

「神保町系オタオタ日記」■(2011-07-29)[出版]エロ・グロ雑誌編集の三冠王田中直樹

●書籍

『従軍歌謡慰問団』(馬場マコト著,白水社)

『戦時演芸慰問団 「わらわし隊」の記録 芸人たちが見た日中戦争』(早坂隆著,中公文庫,2010.7)

 慰問として,戦場にお笑いを提供した方々の記録.
 字面を通して当時の空気というか,人間味が溢れてくるような切ない暖かさが心地よい.
 笑いは文化だよな.

――――――軍事板,2011/02/01(火)

『日本の戦時下ジョーク集 太平洋戦争篇』(早坂隆著,中公新書ラクレ,2007.7)
『日本の戦時下ジョーク集 満州事変・日中戦争篇』(早坂隆著,中公新書ラクレ,2007.7)

 こちらは銃後の国内に,主な焦点を当てている.
 お笑いが世間の風潮を受けたり,プロパガンダとして国内統制に役立てられたりしていたのが,よく分かる.
 例えば
「棺桶買いだめして,ご近所におすそ分けしに行ったら怒られた」
など,配給制を肯定し,買いだめを否定する方向で漫才が組み立てられたりとか.

――――――軍事板,2011/02/01(火)
青文字:加筆改修部分

 【質問】
 戦前・戦中の軍国主義の時代には,娯楽は禁止されていたというのは本当ですか?

 【回答】
 まあ,戦前をどこまで遡るかにもよりますが,1930年代からだとしますと,娯楽が禁止されていたわけではないようです.
 そのことを裏付けるものとして,例えば以下の証言があります.

----------------
 この昭和9年,全国のカフェー,バーの数はざっと3万軒.
 東京の女給の数2万2千人.
 町には東海林太郎の「赤城の子守唄」「国境の町」,ディック・ミネの「ダイナ」の流行歌が流れていた.
 山口登はこの年4月,神戸「八千代座」でディック・ミネ,東海林太郎,美ち奴,楠木繁夫たち,当時の蒼々たる人気歌手を集めて興業を打ち,大成功を収めている.
 山口登は相撲,歌謡曲,浪曲界へと着々と手を広げていたのである.
 この間の事情については,日新プロ社長であり,山口登とは兄弟分に当たる永田貞雄氏が詳しい.

――田岡一雄著『山口組三代目 田岡一雄自伝』(徳間書店,2006.10),p.83
----------------
 国技館の試合というのは,昭和12年1月27日,不二拳・極東拳の共催で行われた.
 当時,〔ピストン〕堀口はじつに47連勝,うちKO,TKOの数33回,5か年に渡って不敗の王座を守っていた.
 これに挑戦してきたのは,フィリピンの荒鷲ジョー・イーグルである.
 〔略〕
 1月27日,国技館は超満員の観衆でふくれあがった.

――田岡一雄著『山口組三代目 田岡一雄自伝』(徳間書店,2006.10),p.100-101
----------------
 今輔さんが3人の大恩人の最後の一人,長谷川伸先生に会ったのは,昭和22年のことだった.
「長谷川先生の芝居を初めて見たのは,市村座でやった,音羽屋(菊五郎)と喜多村緑郎の『一本刀土俵入り』,
その次に見たのが歌舞伎座でやった勘三郎の『一本刀』.
 それから,『刺青奇偶(いれずみちょうはん)』.
 伯龍さんの『刺青奇偶』を聞いたこともあります.
 でも,芝居を見て,先生のお名前が頭に刻み込まれたわけです.

 先生の芝居は,昭和19年から20年あたりに,盛んにやってました.
 あれは,ほら,戦争中でも差し支えないんです」

――山口正二著『聞書き五代目古今亭今輔』(青蛙房(せいあぼう),2003/7/5),p.206
[quote]

 1941年(昭和16)に昭和書房なる版元から出ている,近藤春雄『藝能文化讀本』の伝えるところによると,

<大正13年の警視庁の調査によると,東京市内の演藝場は107箇所で入場人員は3943801名を算へてゐたが,昭和12年には124箇所,3130000名となり,13年末には96箇所に減じながらも,入場人員は4013000と増加してゐる.>

[/quote]

―――矢野誠一著『志ん生のいる風景』(青蛙房,1983.12),p.118-119

 先述の『山口組三代目』によれば,一般庶民のケツに火がつくようになったのは,昭和19年になってからだとか.

――――――
 昭和19年,戦局の不利は国民の間にも喧伝され,国内における物資の欠乏は目にみえて深刻化してきた.
 前年2月のダガルカナル島撤退以降,戦局は悪化の一途を辿り,この年の3月,全国のバー,カフェーは閉鎖,4月には雑炊食堂ができ,飢えた国民はえんえん長蛇の列を作ってその日の糧を求めた.

――――――田岡一雄著『山口組三代目 田岡一雄自伝』(徳間書店,2006.10),p.145

▼ 若き日の植木等はその当時,軍需工場に慰問に行ったという.
 当時,東洋大学1年生だった植木は,構内で軽音楽同好会を作り(植木はヴォーカル),
>「それで,都内に3ヶ所あった軍需工場に慰問に行くわけ.
> これが,女工さんからもてたのなんのって」
 〔略〕
> 慰問に行けば銀シャリが食べられたし,時には肉も出た.

とのこと.

 詳しくは『植木等伝「わかっちゃいるけど,やめられない!」』(戸井十月著,小学館,2007/12/25),p.49-50を参照されたし.▲

 ただし敵性芸術と見なされたものは禁止されました.
 たとえば以下のようなエピソードが残されています.

――――――
 タップダンスの萩野幸久さんも,タップダンスは敵性芸術だから,やっちゃいかんと踊れなくなり,やむなく人形を抱いて腹話術を始めたのです.
 腹話術はそのころアメリカで,エドガー・バーゲンという人がチャーリー・マッカーシーという人形を使って大人気.
 それを真似したのですから,オペラやタップよりももっと敵性なんですよ.
 当時のお役人はそこまで気がつかなかったんですかな.

――――――三遊亭金馬著『金馬のいななき』(朝日新聞社,2006.3.30),p.100

 廓話なども禁止されたそうで,その禁止された話を封印・供養するための「噺塚」なんてエピソードも,同書には出てきます.

――――――
 空襲とは別に,お上の監視もありました.
 落語に繰り返し出てくる,飲む,打つ,買う――酔っ払い,博打,女ですが,こんなふざけた内容の噺を広めるのは戦時下に不謹慎ではないかというわけです.
 不謹慎も何も,元来,落語はそうしたものなのですがね.
 こうした干渉は軽演劇や映画にたいしてもあったそうです.
 昭和16年10月には,噺家が自主的に「禁演落語」53席を定めて,当分はこれを上演しません,と浅草寿町の長滝山本法寺境内のはなし塚に葬ってしまいました.
 お上にうるさく干渉される前に,みずから自粛します,という形をとったのですね.
 〔略〕
 廓噺,間男の噺,無線飲食の噺などが多いようです.
 もっとも落語は映画や芝居とは違いますから,やりませんといったところで,やる気になれば座敷でもすぐできますし,実際は軍隊慰問にいって,お女郎買いの噺をやると,兵隊さんは大喜びしたものです.
 いずれにしてもつまらないことをしたものです.
 それを政府は愛国心の表れだと誉めたんですから,狂っていますね.

 また,時流に合わせて,噺家が戦時下をテーマにした新作落語をつくって高座に掛けるという傾向もありました.
 うちの師匠〔先代金馬師匠〕の「防空演習」という噺.
「帝都の空を守るために,長屋の者は皆,力を合わせてこれから訓練をする」
なんていうことを言って,
「空襲,空襲やおはらい」
「くす屋だ,そりゃあ」
なんてサゲになります.
 これはSP盤のレコードにもなって,結構売れていたようです.

 金語楼師匠の兵隊落語だってその一つです.
 もっとも金語楼師匠の話は,よく聞くと,兵隊は嫌だ,軍隊はつらいということを言っているわけで,よくあれが問題にならなかったものですよ.
 桂右女助(のちの三升家小勝)師匠にも兵隊落語がありました.
 これは中国の戦地が舞台になっていて,陸軍兵士が駐屯地で現地の中国人と会話を交わすのですが,とんちんかんなやりとりで,なかなか通じない.
 ハシゴをもってこいというのに,
「(仕草で示して)こういうの,何だって,分かんねえかなあ.ハシゴ.壁に立てかけて,ちゃかちゃかちゃかと,こうやってやるやつだ」
と大騒ぎをした挙げ句,やっとハシゴが届く.
「よかった.これはお前,中国で何て言うんだ」
「テイズ」
「テイズか」
「日本の言葉でハシゴ」
「なんだ知ってんじゃねえか,お前――」
 そんな噺でした.

――――――三遊亭金馬著『金馬のいななき』(朝日新聞社,2006.3.30),p.57-60

 ただし先代・林家正蔵師匠によれば,「はなし塚」も表向きだけの話だったそうで.
 以下引用.

――――――
 あれで10回くらい,猥談の研究会をやりましたかねェ.
 ええ,ずっと4代目のうちでね.
 集まったのが,4代目〔小さん〕,先の金馬,志ん生,上原の小せんだの,馬風なんぞも来てましたよ.
 圓生さんは来なかったと思いますが,文楽さんは来たことがありましたね.
 今輔も来たかな,なんでも10人ぐらいの頭数でした.

 戦争中に,そんな猥談の会があったなんてことは,思いもよらないことかもしれませんね.
 けども戦地へ行くと,兵隊の前じゃァいけないが,将校の前ならば会食のときやなんかに演ると,大変喜ばれるんです.

 ですから,片っぽでは,禁演落語なんてって,女郎買いや間男の噺は自粛するってんで,熊谷稲荷に今でもありますが,はなし塚ってものを建てたりしましたけどもね,あんなものはあくまでも表向きのものなんですよね.

――――――林家正蔵著『正蔵一代』(青蛙房,2001/4/25),p.193-194

▼ 雑誌については,以下のような統制が行われたといいます.

[quote]

 昭和13(1938)年に国家総動員法が公布されてから,各方面に厳しい統制が行われ,児童雑誌に対しても,懸賞,付録の禁止,俗悪な漫画の廃止を命じられた.
 〔略〕
 しかし印刷用紙の不足から,15年には内閣に新聞雑誌統制委員会が出来て,さらに厳しい統制を実行した.
 月刊誌の場合,前月号の発行部数に応じて次の号の用紙を配給することになり,売れ行きの落ちた月があると,翌月から用紙を減らされた.
 ところが『少年倶楽部』は少しも発行部数が減らなかった.
 委員会では,何とか配給の紙を減らそうと躍起になって,
「この非常時に,漫画のようなふざけたものを雑誌にのせて貴重な資源である用紙を費やすことは許さん.
 そんなくだらんものより軍国美談とか銃後美談をのせろ」
と強く命令した〔略〕

[/quote]
――――――『のらくろ一代記 田河水泡自叙伝』(田河水泡/高見澤潤子著,講談社,1991/12/11),p.173

編者

▼ 現代とは次元が違いますが,地方の山奥でも娯楽は盛んだったようです.
 戦中は自粛したようですが,村芝居,村歌舞伎,村浄瑠璃など.
 縁戚がいる長野県伊那谷あたりには,大字ごとに座があったほどで(笑)
 大鹿歌舞伎は今でも有名です.
http://www.ooshika.com/kabuki/src/
 たとえば旧軍の軍旗祭りなどで,出し物に演劇が必ず見られたことも,こんな下地があったからだと思われます.

閻魔さくや in FAQ BBS,2010/6/11(金) 19:9
青文字:加筆改修部分

▼ 農村部については,今のところデータ不足ですが,ただ,戦局が悪化してきた頃も,地方慰問という名目で落語家などが地方巡業を行っていたといいます.
 戦局が悪化してきた頃も,地方慰問という名目で落語家などが地方巡業を行っていたといいます.▲

――――――
 寄席が焼けたり,閉鎖されてしまって,落語ができなくなったかわりに,地方慰問をよくしました.
 「芸能挺身隊」なんていう名前をつけて,軍需工場だとか農村だとかを慰問して廻ります.
 銃後の人たちのお役に立つようになんて,もっともらしいモットーを掲げているのですが,これが実は徴用逃れなのです.
 噺家,それも私たちのように若いものは徴用され,軍需工場に連れて行かれる危険性がありますから,慰問という形でお国のために働く,芸能をもって奉仕しますと,芸能挺身隊ということで届けを出して,いつでもお手伝いに行きますからなんてなことを言っておくと,徴用に行かなくてもいいわけです.
 ですからこれは仕事だとはいっても,お金目当てのことではなく,自分たちの身を守るための「慰問活動」でした.

――――――三遊亭金馬著『金馬のいななき』(朝日新聞社,2006.3.30),p.60-61

▼ 映画が巡回していたという話もあります.

――――――
◎◎◎ 高志さんのコラム 「国民年金の花柳な生活」◎◎◎

■2008/07/05 (土) 水着

 戦時中,ハリウッド映画は禁じられていて観る事が出来なかったが,唯一例外は「ターザン」だった.「ターザンの復讐」「ターザンの逆襲」はヨーロッパで戦火が上がる前に輸入され上映されていたものだが,大東亜戦争中は巡回映画として地方を回っていた.
 巡回映画というのは映画館の無い地方の町や村に機材を持ちこみ,広い会場に人を集めて劇映画やニュース映画を見せる催しである.
 大抵,官公庁や新聞社の後援だからタダだった.
 夏の夜などは学校の校庭に大きなスクリーンを建てて上映した.

 私が初めて「ターザン」を見たのは巡回映画会で,「復讐」と「逆襲」は夫々別の時に観ている.
 ターザンを演じたのはジョニー・ワイズミューラーである.
 あの頃の男の子は夏になると裸だったので,大抵一度や2度は雄叫びを上げて木から木へ跳び移る真似をしている.
 私は何十回も試み,何回か墜落した.
 〔略〕

――――――おきらく軍事研究会,平成20年(2008年)7月7日

 また,古今亭志ん生師匠,6代目三遊亭円生師匠,漫才の坂野比呂志夫婦,講談の紫香らは,陸軍恤兵部の命を受けた松竹の手によって結成された慰問団の一員として,1945/5/6,日本を出発したが,7月に志ん生,円生両師匠は他のメンバーとは別行動となり,大連にいるときに敗戦となったといいます.
 そして2人は共同生活をしながら,何度か死にかけるような苦労をした後,1947/1/12に志ん生師匠がまず帰国.次いで円生師匠も帰国したそうです.
 日本では,その間,2人は行方不明扱い.

 詳しくは,矢野誠一著『志ん生のいる風景』(青蛙房,1983.12),p.23-33を参照されてください.

▼ それに戦前は貧富の差が激しかったことを考えると,戦争の有無に関わらず,娯楽は少なかったのではないかと.

▼ 以下の記述からも,戦前は大都市圏以外は娯楽そのものが少なかったことが推測される.
 ただし,以下のような話もあります.▲

[quote]

 うんと田舎へ行くてえと,落語なんてものは見たこともきいたこともない人がいる.
 ハナシカをカモシカと間違えて,百姓が鉄砲もってかけ込んで来たなんてえ話もあるくらいであります.

---------『びんぼう自慢』(古今亭志ん生著/小島貞二編,立風書房,1981/2/10),p.55

 名古屋てえところは,昔から芸どころといわれて,大変に芸にはうるさいところでありますから,寄せなんぞもたくさんあり,東京からも大阪からも芸人がゾロゾロと集まってくる.
 そこを根城にして,岐阜だの豊橋だの,伊勢のほうなんぞを回って,また名古屋へ戻ったりして,どうにか食べるぐらいの暮らしはやっている.
 そんな連中の中に,あたしもしばらくいたんです.

[/quote]
---------同,p.72

 もっとも,同書巻末の解説や,矢野誠一著『志ん生のいる風景』(文春文庫,1987.12)によれば,同書には記憶違いのある箇所も見られるそうなので,その点は留意されたし.▲

 一方,都市部では空襲が娯楽文化にも深刻な影響を及ぼしたようです.

――――――
 〔空襲で焼失しなかった〕ほかの寄席も経営は厳しくなっていました.
 四谷の喜よしも,新宿の末広亭も,昔の寄席は夜席が主体だったのですが,空襲が激しくなってからは,夜席がやりにくいのです.
 公演中にサイレンが鳴ると,みんな退避しなきゃいけないし,電気を消さなきゃいけないし,とても落ち着いて噺を聞くという雰囲気になりませんからね.

――――――三遊亭金馬著『金馬のいななき』(朝日新聞社,2006.3.30),p.57

▼ 【関連リンク】
「日本映画データベース」
1941年に公開された日本映画
1942年に公開された日本映画
1943年に公開された日本映画
1944年に公開された日本映画
1945年に公開された日本映画

桂歌丸師匠
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 戦前・戦中の風俗・娯楽興行の取締り状況は?

 【回答】
 風俗の取締りは,今も昔も警察のお仕事です.
 埼玉県で風俗・娯楽興行の取締りは,1882年3月に出された諸興行取締規則(県布達第四三号)から本格化し,風俗警察面から体系化され,遊芸人,演劇場,人寄席,演芸場,遊覧場,遊技場が次の様に規定されました.

遊芸人:俳優,相撲,相撲行司,軽業,浄瑠璃,鳥獣遣,人形遣,手品遣,唄軍談,写絵,落語,音曲,祭文読,手踊,神楽,類似の諸芸を稼業とする者
演劇場:勧善懲悪の意を寓した古今の歴史及び新著作物を演技する所
人寄席:理非を転倒せず猥褻にわたらない諸芸を講談演技する所
演芸場:各種の遊芸を演じ,公衆に聴覧させる所
遊覧場:各種の見世物を陳列し,公衆に聴覧させる所
遊技場:室内で射的,大弓,半弓,揚弓,打球,玉突き,球転し,投扇競,人形倒,吹矢などの器具を揃えて公衆の遊技に供し営業する所

 遊芸人は,所轄の警察署や分署に鑑札を申請すること.
 演劇場などの建改築申請者には,場所の詳図(演芸場,遊技場は小学校,幼稚園より1丁以上離れている事)・近隣地主の承諾書・族籍現住地身分年齢氏名・建物構造の詳図の提出と,非常口の明示・舞台正面に警察官吏の監臨席の設置・防火用具の設置・開演中の蝋燭以外の裸火の自粛・二階席と梯子への扶欄(手摺)の設置・木戸銭席料の木戸口への掲示などが義務付けられました.
 開演時間は,午前8時から午後11時で,開席2日前までに演技の種類・日数・木戸銭・芸人名簿の提出,埼玉県の鑑札所持者のみの演技許可などが規定されました.

 1903年6月には劇場取締規則(県令甲四四号)・観物取締規則(県令甲七四五号)では,演劇場などのハコモノは,劇場・寄席・観物場に整理されました.
 前の取締規則では,主にハード面の規制が主でしたが,今回はソフト面の規制も進みます.

 警察署への上演許可願い届には,劇場の名称,演劇脚本,一年以内の同一の作品は許可年月日の記載のみ,興行年月日時,俳優の氏名と芸名,木戸銭と席料を明示する様にしなければ成りません.
 また,臨検警察官が公安又は風俗を害する虞有りと認めた場合には,興行許可を取り消すことが出来ました.
 更に観客に対しては,高談放話・喧噪に渡る他人への妨害,裸体・袒裼(諸肌脱ぎ)の禁止,楽屋への出入り・舞台に登ること・花道での徘徊の禁止,廊下・通路・出入り口等での交通妨害の禁止が指示されています.

 …今の観客の基準だと,これなんか即上演中止になりそう.

 観客は満12歳以下,3歳以上は2人で大人1人,3歳未満は定員に算入せず,興行時間は午後12時までとされました.

 今までは演劇が主でしたが,地方に映画が進出してくると,1922年3月に興行場及興行取締規則(県令二〇号)が出されています.
 此処で活動写真興行への規制が,後に映画法細則(県令六三号)に踏襲されていきます.

 この興行場及興行取締規則は,1章で興行場の定義を書き,興行場とは,演劇・演芸・活動写真・観物を公衆に見せる場所(第1条)とされました.
 建築申請には,設計者・監督者の住所氏名生年月日の届出(第2条)が必要となり,随時検査で警察署が公安・風俗・衛生その他取締り上必要と認める時は,増改築・変更・修繕を命令出来る(第12条)事となり,警察の権限が強化されています.

 客席については,
 1. 男子・女子・同伴席に区別し,各席の間隔は3尺以上とし,見やすい場所にその区別を標示する.
 2. 映写中,観客の容貌を認識出来る程度の不滅灯を設置する.
 9. 映写室で瓦斯を使用する場合は,瓦斯発生器を映写室外に3尺以上離して設置し,危険予防装置も設置する.瓦斯管は出来るだけ鉛管か鉄管とし,遮断機を備える.
としています.

 映画は劇場内に「闇」を齎したことから,風俗の悪化が懸念され,警視庁では1917年5月の活動写真興行取締規則(警視庁令第一二号)の第35条1項にて,男女別席を指示しており,全国のお手本となっていった事が伺えます.

 第2章では,興行について規定し,興行者は活動写真において,題名フィルム,筋書きの検閲済み年月日及び検閲番号と,検閲済み筋書,連続劇場用フィルムの尺数の提示と共に,慈善金・救済金蒐集興行では,趣旨と蒐集金処分方法と興行終了時に収支計算書の,一般興行では興行終了後3日以内に興行度数,入場人員,収入金高を警察署に届ける事が義務づけられています.(第17条)
 興行不許可については,「勧善懲悪の趣旨に反する,嫌悪・卑猥・惨酷に渡る,犯罪の手段方法を誘致助成する,時事を風刺し政談に紛らわしい,国交の親善を阻害する,教育上悪影響を及ぼす,公安を害し,風俗を紊す」虞のあるもの(第18条)へと拡大されました.

 今の映像コンテンツで映写出来る物はどれだけ残るのやら….

 1925年5月には,内務省が活動写真「フィルム」検閲規則(省令第一〇号)を出しますが,これは更に厳しく,「公安風俗衛生ヲ害スル虞アルモノ」へと拡大され,公安(皇室・国家・国体・政体・国交・偉人・聖賢・犯罪),風俗(惨酷・醜汚・猥褻・姦通・恋愛・時事風刺・学業・生業・知徳・児童悪戯・教師威信・勧善懲悪)が取締対象となり,更に,1930年代初頭には,公安には,民族革新・社会紛議・団体の実力闘争・公務執行妨害が,風俗には敬神祖宗の良風・貞操観が加えられます.

 興行に当たっては興行時間は1興行9時間以下,活動写真は1興行5時間以下・2回以上興行では30分の休憩(19条)と規定され,臨監警察官の要求で,脚本・筋書・説明書・出演者鑑札の提示請求(20条)が可能となり,1時間以内毎に5分以上の休憩で換気・採光をする,フィルムは都度回転巻付けをして容器へ収める(当時のフィルムは燃えやすかった),映写室への技術者以外の出入り禁止,必要以外の火気使用・可燃物質を置くことの禁止,消火器1個以上と赤書した乾燥砂バケツ2個以上の配置(21条)などが規定されました.

 フィルムの検閲条項としては,先ず,活動写真興行は知事の許可したフィルムとその筋書きでなければならない,と規定(24条)し,興行用フィルム・筋書の検閲許可願には,出願者並に所有者の住所氏名(法人はその名称・事務所所在地・代表者所在地),種別(喜劇・悲劇・活劇・写真劇など)と題名(外国製は原名と訳名),フィルム製造元,フィルムの長さと巻数,詳細な筋書(正副2通,各表紙に第1号,第2号と記載し,末尾には1ページ以上の余白を付ける)の記載を求めました.(25条)
 フィルムの許可期限は許可日より1年間で,期間を過ぎたら使用不可(27条)
 検閲済筋書の亡失,毀損は,5日以内に知事に届け出,再検印を受ける(28条)
 検閲済みフィルムと筋書でも,知事が公安,風俗,衛生その他取締り上必要と認めた場合,使用を禁止する場合がある.
 もし,その様な事態になった場合は,検閲証印のある筋書を5日以内に知事に提出して,抹消院を受ける(29条).

 結構,厳しくなっています.

 又,芸人及説明者の項には,活動写真ノ説明者(弁士)の規程が加えられ,免許申請者は本籍・住所・雅号・氏名・生年月日記入の履歴書に,最近影写真(名刺型半身無台紙)2枚を添付して知事に提出,必要に応じて試験を行い,許可者には免許状を交付,素行不良その他不適当なら許可せず,その免許有効期限は3カ年(31条)とされました.

 入場者の制限では,従来の放談・高話・喧噪に加え,妄りに起立して他人の妨害となる行為(37条)が加えられました.

 これらの規程に違反した場合は,該当者は科料と拘留(38条)となっています.

 何故にこうした厳しい規程になったかと言えば,不良少年の3割が活動写真の影響を受けていると警察部長は県会で答弁しています.

 1929年11月には興行取締規則(県令五七号)は改正され,興行場及興行取締規則(県令二〇号)が廃止され,内容がやや簡略化されました.
 建築申請では,建設費と出資方法が加えられ,位置構造設備では学校などへの距離制限が1丁から60間となり,フィルムの長さ明記は尺数からメートル数となり,興行不許可条項,フィルム検閲条項,消火器の常備が削除され,常設興行場経営者の組合設立は知事の認可を得るとする条項が加わりました.

 正に大正デモクラシーの残照的なものと言えるのではないでしょうか.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/07/25 23:54

 さて,1939年4月に,映画法(1939年法律第六六号),9月には映画法施行規則(内務・文部・厚生省令第一号)を受け,埼玉県でも12月に映画法施行細則(県令六三号)が出されました.
 以後,映画は発展期から統制期へと移っていきます.

 この映画法は,既存の映画検閲体制を法律レベルで再編しただけでなく(従来は規則とか省令とかで対処),映画産業とその従事者を全面的に管理統制することで,個々の映画内容を完膚無きまでに統制すると共に,映画界全般の国家政策・戦争遂行への誘導を担っていました.

 この法律では,以下の様な統制が行われていました.
 1. 映画の製作・配給業者に,総理・内務・文部大臣への詳細な申請提出を義務化
 2. 監督,俳優,カメラマンなど,映画製作従事者の登録制度.
   → 大日本映画協会発行の技能証明書を添付し,内務大臣に登録申請,思想的な問題,偏向があれば,
      「不適当」として締め出される仕組みの確立.
 3. 脚本の事前検閲 → 劇映画・それ以外の映画の検閲強化
 4. 外国映画の締め出し → 1映画館に付き年間50本以内(再上映は可)
 5. 製作映画の種類・数量制限・配給調整への政府の強力な命令権
   → 新作映画の製作本数は主要映画会社で年間48本以内とする.
 6. 優良映画の推奨制度 → 映画推薦制度に法的基礎を付与
 7. 文化映画・時事映画,啓発宣伝映画の強制上映制度の創設
   → 映画興行者は1興行毎に「国民教育上有益ナル特定種類ノ映画(文化映画・時事映画)」を各1本以上上映
   「文化映画」とは,「国民精神ノ涵養又ハ国民智能ノ啓培ニ資スル映画」で劇映画以外.
   「時事映画」とは,「時事ヲ撮影シタル映画ニシテ国民ヲシテ内外ノ情勢ニ関シ必須ナル知識ヲ得シムベキモノ」
   … 同盟通信と三大紙ニュース部門の統合で社団法人日本ニュース映画社を設立し,同社が製作・供給を独占.
   「啓発宣伝映画」は知事が自前映画・官庁製作映画を映画館に強制上映させる制度
 8. 映画上映方法の制限
   → 14歳未満の映画館入場禁止,普通の映画館では1回の興行時間を2.5時間にする.

 当時の『東日小学生新聞』(1939.9.26)には,以下の様な記事があります.
「子供は子供の映画 映画法が出来た
 来年のお正月からは 大人の映画館へは入れません
 皆さんには文部省が許可した良い映画を」
と言う見出しで,
「来年お正月から“お子様はお断り”の札が出ます.
 イギリスでもイタリアでも,十五,六歳以下の子供は制限されてゐます.
 ドイツでは十九歳にならないと自由に映画を見られないほど厳重です.」
と書いています.

 因みに,文部省の映画認定官が纏めた,「子供にとって悪い映画」とは….

・足利尊氏を忠臣であるかの様に扱うなど,歴史上の事実について児童の判断を動揺させる虞のある作品.
・国定教科書の内容に背いたり,それと矛盾する作品
・父母・教師など目上の人に対する尊敬の念を失わせる様な作品
・ギャング映画その他,年少者の非行・犯罪・悪戯を誘発しかねない作品
・チャンバラ映画その他,年少者に恐怖心や嫌悪の情を抱かせる作品
・恋愛をテーマとする作品
・空想・好奇心を過度に刺激する作品
・戦争を遺家族の側からだけ眺めて,悲劇性を強調する様な,過度に感傷的な作品

 え〜っと,今の映画作品は悉く,この辺に抵触しますなぁ.

 一方,1939年に東京日日新聞社は,政府の動きに率先して,有楽町駅前の新社屋地階に東日児童文化映画劇場を開館しました.
 此処で上映されたのは短編(15分程度)ですが,ミッキーマウスやポパイ,ベティ・ブープの漫画映画も上映されたりしています.

 この映画法施行は,道府県段階に於ては,施行規則を受けて,施行細則によって実施されました.
 埼玉県では,興行取締規則(県令五七号)を踏襲して,活動写真関係を削除して県令六四号として存続し,削除した部分は,映画法施行細則,県令六三号として1940年1月1日に施行されました.

 この映画法施行細則は全84条で,第1章総則(1〜4条),第2章映画の製作(5〜6条),第3章映画興行場(7〜19条),第4章映画の上映(20〜72条),第5章組合(73〜75条),第6章罰則(76〜78条),附則(79〜84条),別表建物の構造基準から成っています.

 映画興行場については,設置位置制限の単位がメートルに直され,学校等から100m以上,道路を除き建物周囲の余裕が5m以上の空地,屋上は不燃物で葺き,出入口幅は3m以上,観覧席後方には階上は1m,階下に1.2mの廊下の設置,観覧席,階段基準のメートル化,照明は電灯か瓦斯灯とし,予備灯を設置,定員100人に1個の消火器を設置,映写室の床・天井・窓の戸には1.5mm以上の鉄板を使用,映写室は間口2m,奥行3m,天井の高さ2.1m以上(映写機の台数が増える毎に間口1m増),映写室には不燃質物の換気筒,9リットル入り薬液消火器1個以上と10リットル入り乾燥砂バケツの設置,映写室に近接して4m^2以上の映写技師室の設置など,事細かに規定され,観客定員規模に応じた準耐火構造,耐火構造が義務づけられました.

 映画の上映では,映画興行者が,「思想・素行不良,その他警察が不適当と認めた者」への不許可,「公安を害し,風俗を紊し,その他不適当と認めた者」の業務停止・許可取消が定められました.
 この他,上映許可申請書には事細かに記載を行う必要があり,外国製映画については上映台帳を備え,国内映画同様に検閲事項を記入したり,興行は午後10時(許可がある場合は10時半まで可)まで,映写2時間で5分以上の休憩を1回以上,1日2回興行では,1回終了後に10分以上の休憩,一般映画館は14歳未満入場禁止,観覧車の遵守事項,観覧席毎の定員,料金額の提示の義務化が加わりました.

 興行中の遵守事項では,定員の際には切符売場窓口に「満員札」の掲示,切符売場と観覧席に映写時間表の掲出,出入口・非常口・廊下等に通行避難の障害物を置かない,観覧者の使用場所に灯火の設置,機械換気設備の設置に際しては取扱主任者を配置,速燃性映画(フィルム)の金属製ドラムの保管,映写中の映写室から映写技師の外出禁止が加わりました.

 届け出については,上映許可申請書の他,興行休止,中止の場合には遅滞なく警察署長へ理由を記しての届け出,興行終了後5日以内に『宝恵』と呼ばれる興行度数,観覧者人員(大人・子供別),収入金高を記載した届け出の提出,従業員名簿の作成と整備,火災などの防災・避難誘導員の配置と任務などの作成と提出,興行場の構造設備の効用保持が定められました.

 映写技士に関しては,映写機の操作は映写技士しか出来ないと明文化され,映写技士は知事の映写免許を受けることが義務づけられました.
 映写免許と言うのは甲と乙に分かれ,乙種は炭素弧光灯を光源とする映写機の操作しか出来ないとされています.
 映写技士は,作業中は免許を携帯し,酒気帯びでの操作が禁じられました.
 この免許の受験資格は18歳以上で,「精神病者・聾者・唖者・盲者・その他身体に重大な欠陥のある者」は除外されました.
 試験は2次に分かれ,1次が実地試験,2次は学科試験で,実地試験では,映写機の操作(映写機の調整・光源の調整・映写の巧拙),災害予防の方法並びに災害発生に対する応急措置に対する対応が見極められ,学科試験では映写機の構造・捜査上必要な電気知識・映画法令中の映写に関する知識が見極められます.

 乙種免許所有者で甲種を受験する場合,工業学校以上の電気科と機械科などの学科修了者,他府県で免許を受けた者,知事の認めた者は試験の全部か一部が省略されました.

 一旦免許を受けても,5年ごとに更新審査が行われ,本籍住所氏名,従業地の変更,他府県から埼玉県下へ従業地を変更した場合には,知事に遅滞なく届け出を行う事とされていました.

 映画法では,自主製作映画の様に,無許可で映画を製作・配給した場合は,拘留又は科料は6ヶ月以下の懲役又は2,000円以下の罰金と許可などの取消となっていました.
 施行細則では,興行者の代理人,戸主家族,同居者,雇人,従業者の業務違反への連座まで規定されています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/07/26 20:38

 さて,1944年2月には内務省令第四号,興行等取締規則が施行され,4月に興行等取締規則施行細則(県令一九号)と映画法施行細則改正(県令二〇号)が出され,1929年の興行取締規則が廃止されました.
 興行等取締規則施行細則は,戦況悪化により法令を簡素化する動きの中で策定されたもので,映画法施行細則の細かな統制を映画館のみ成らず,一般興行施設にも適用し,思想統制面での規制を強化したものとなります.

 これは,2月22日に東条内閣が国内の動員体制強化を目的とした決戦非常措置要綱を閣議決定した動きを受けたものです.
 この中では,「戦時下国民思想ノ指導」として学徒勤労動員・学校校舎の軍事工場化・女子の勤労動員や生活簡素化・高級娯楽の禁止などが叫ばれ,これを受けて内務省警保局が4月に「興行等取締ノ事務取扱ニ関スル件」(警保局検映発第五号)を各道府県に通達し,思想取締を主眼に,技芸者・演出者は個別に監督し,興行協会の活用による興行者取締など,興行取締強化を図ります.
 5月には,「演劇脚本検閲ニ関スル件」(特興第五八号)で,大日本興行協会が設立され,「演劇脚本検閲申請取扱規程」も制定されたことにより,希望者は協会で検閲を受けさせよと指示し,この段階で各道府県にもこの協会支部が結成されていきます.

 因みに,この埼玉県の県令では,従来無かった規則として,興行者・技芸者・演出者の「思想,素行不良と認メタル時」興行不許可とする条項が加えられ,映画法施行細則にあった「公害(公安を害するの意であって,後の公害ではない)アリ」が,興行側の規制対象を技芸者・演出者に広げられ,「思想・素行不良」に絞り込まれました.
 他に,興行者・技芸者・演出者は5年毎に証明書を警察に提出,検査することとし,劇団・演芸団・観物園は主宰者に毎年1月末までに業務報告書を提出する様義務づけられます.
 それには,住所氏名・団体の名称・組織届出年月日・事務所所在地・月別興行形態別興行日数・市町村別上演日数及び回数・慰問その他公共的上演回数・収入・支出明細(脚本費,団員諸給与,興行場賃借料,広告宣伝費,上演諸道具費,購入修繕費,交通宿泊費その他)・12月31日現在の資金・業務別(技芸者,演出者,競技者,脚本部,美術部,庶務部その他)団員動態,巡回地域を報告し,12月31日現在の団員名簿(氏名,業務上の氏名,男女別,業務上の種類,許可府県名,興行者と技芸者と演出者は許可番号),主要上演目録(表題,脚本台本の著作者名,種別,上演回数)の提出も義務づけられました.

 興行時間は原則午後11時,1興行は4時間までとされ,警察署長は公安風俗・衛生・その他保安上必要な場合は,興行時間・興行終了時の指定や興行の停止・禁止が出来る様になりました.

 上演では,事前に県内上演は検閲申請書と脚本2部を知事に,警察署管内の場合は所轄警察署長に検閲申請書と脚本2部を提出しなければならなくなります.
 紙も払底している時代,結構これはきつい規制です.

 防災面では,空襲が頻繁となり,火災や災害発生を想定した避難訓練の実施も義務づけられました.

 一方で,今までメートル法で策定されていた諸施設の寸法や距離が,再び尺貫法に戻っています.
 「敵性用語」を意識したものでしょうか.

 〔略〕

 こうした統制は,1945年10月に発されたGHQ覚書,「映画法と興行等取締規則の廃止」によって名実共に終止符が打たれました.

 ところで,埼玉県の常設映画興行館は,所在地人口規模から1級館〜3級館に分かれていました.
1級館は,浦和,大宮,熊谷,川越と市制が施行されている様な場所,2級館は所沢,秩父,深谷,本庄,忍と言った比較的大きな町,三級館は羽生,小川,松山,鴻巣,蕨の様な小さな町だったりするのですが,何故か市制を施行していた筈の川口は資料がないのか,何処にもありません.
 埼玉の場合は,市制施行の条件として,映画館が有ることだった筈なんですが….
 この等級は,其の儘,映画館の格を表す様なもので,1級館は特別席が大人70銭に対し,2級館は60銭,3級館50銭となり,一般席でも1級館は3級の特別席と同じ50銭,2級館は45銭,3級館は40銭になっていました(1945年3月21日の県告示一三八号による)

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/07/27 21:55


 【質問】
 日本政府当局は,芸能に対してはどのような規制を行ったのか?

 【回答】
 猪野健治によれば,戦時態勢強化のために,あらゆる業種,職業の一本化を進め,興行者,技芸者,演出者の全てを許可営業制としたという.
 認定は各芸域ごとに組織された協会に全てゆだねられ,その協会が社会主義思想や反戦思想の持ち主を排除するシステムだったという.
 以下引用.

――――――
 内閣情報部と大政翼賛会は,戦時態勢強化のために,あらゆる業種,職業の一本化を進めた.
 地方紙は1県1紙,
通信社は日本電報通信社の通信部門と新聞聯合社を合併して同盟通信社とし,
映画産業は松竹と東宝は残して,日活,大都,新興キネマを合同させ大映とした.
 講談と落語は一緒にさせられて,講談落語協会,
漫才は帝都漫才協会に統一された.

 警視庁は興行取締規則を発令,興行者,技芸者,演出者の全てを許可営業制とした.
 警視庁が公布する許可証なしには,興行を打つことも舞台に立つこともできなかったのである.

 とはいっても,芸能界には素人の刑事に,興行師の実績や芸人のランク付け,あるいは演出家の才能を判定することなどできるわけがない.
 警視庁は,そこでこの面倒な認定の仕事は各芸域ごとに組織された協会に全てゆだねた.
 協会を通して申請された人物に対しては,自動的に営業許可証を公布する方法をとったのである.
 社会主義思想や反戦思想の持ち主は,沈黙を守っていても厳しくチェックされた.
 かりに協会がそういう人を技芸者として申請すれば,責任を問われる仕組みであった.

――――――『興行界の顔役』(猪野健治著,ちくま文庫,2004.9.10),p.466-467

 【質問】
 昭和10年前後の東京における映画の状況は?

 【回答】
 複数の証言によれば,無声映画がトーキーに切り替わったのが昭和14年頃.
 日米関係が決定的に悪化する昭和15年頃までは,ハリウッド大作も上映されていたという.
 戦争中もアニメや報道映画などが上映されていたという.

 以下引用.

[quote]

私が独立するまで暮らしていた本郷は,山の手と下町の接点で,洋画映画館としては近くに「本郷座」,神田神保町に「神田日活」,そして神田昌平橋に「シネマパレス」があった.
 場所がいわゆる「文教の町」なので,どの館も大学生で沸き返っていた.
 また赤坂,溜池の「葵館」は慶應の学生と山の手の令嬢たちでにぎわっていた.
 この時代はトーキーに切り替わる前の,いわゆる無声映画(活動写真)で,各館それぞれ弁士(説明者)を抱えていたのだ.
 〔略〕
 御大・徳川無声,石野馬城,山野一郎,丸山章治などが,説明とセリフをうまく絡ませた話芸を競ったものだった.
 〔略〕
 伴奏音楽はスクリーン前方ボックスに腰掛けた楽士が奏でるのだ.
 少ない館で6,7人,多い館では12人もいたのだ.
 それに必ず楽長が一人,特別な大作映画にはアメリカの映画会社から直送された楽譜に従って伴奏されたのであった.

 だが,やがて昭和4年,トーキーとなって弁士は職を失うことに成ったのだ.
 トーキー第1号は,アメリカ映画「進軍」.
 そしてやがて昭和6年,スタンバーグ監督の「モロッコ」が大当たりをとったのだ.
 マレーネ・ディートリッヒの妖しい歌声と,砂漠を行進する外人部隊の太鼓の音に私はしびれた.

 〔略〕
 さて,この頃,日本の読書界で,ベストセラーになったのは,三笠書房より刊行された『風と共に去りぬ』.
 ご存じ,マーガレット・ミッチェルの恋愛大作だ.
 映画はすでに完成され,アメリカで公開上映されていたが,日米間の雲行き険悪のため,わが国には入荷されなかった.

 いっぽう「駅馬車」は,東京では昭和15年6月に公開上映された.
 洋画ファンは日米の険しい状勢で,もうアメリカ映画は観られぬと感じたのであろう,この作品の上映館はどこも長蛇の列であった.
 〔略〕

[/quote]
―――杉浦茂他著『杉浦茂 自伝と回想』(筑摩書房,2002/4/25),p.71-72 & 36
――――――

 〔略〕
 そうそう,やはり伊勢崎町のいまの花見煎餅の裏のほうに,ニュース専門の映画館がありましてね,あそこへしょっちゅう連れて行かれました.
 普通の映画館は,上映している映画によっては,子供が入れないことがあるんですが,そこはニュース映画と,その合間に漫画映画をやるンで,子供向けなんですね.
 〔略〕
 漫画は,戦争が始まってからも「ポパイ」なんぞやてましたね.
 それでぎりぎりのところになって,日本の漫画だけになった.
 なんでもタヌキに化かされたおばあさんが,そのタヌキを捕まえて仇討ちをするっていうような,タヌキを井戸へぶら下げて,出刃包丁を砥いでると,タヌキの仲間が助けにくるというような,そんな漫画映画を覚えてますよ.
 それから有名な「桃太郎の海の神兵」なんてのもありました.
 〔略〕

――――――桂歌丸著『極上歌丸ばなし』(うなぎ書房,2006.6.8),p.21-22

 【関連動画】

「ザイーガ」:【MOVIE】日本海軍省の指示により作られた国策アニメ映画「桃太郎 海の神兵」(1945年)

「ザイーガ」:【MOVIE】邪悪なミッキーマウスのクローンが侵略しに来たよ(1934年の日本のアニメ)


 【質問】
 戦中〜戦後の主な日本人映画監督について教えられたし.

 【回答】
 さて,1912年生まれの映画監督には逸材が揃っており,その中でも,今井正,木下恵介,新藤兼人が有名です.

 今井正は,1943年に『望楼の決死隊』と言う作品を手がけていますが,敗戦後の自由な雰囲気の中で,1949年に『青い山脈』,以後『また逢う日まで』,『山びこ学校』,最近リメークされた『ひめゆりの塔』,『真昼の暗黒』,『橋のない川』と言った,戦争や社会をテーマにした作品を数多く作っています.

 木下恵介と言えば,1944年に『陸軍』を手がけた後,敗戦後は,1946年の『大曽根家の朝』に始まり,有名な『カルメン故郷に帰る』,『二十四の瞳』,『野菊の如き君なりき』,『喜びも悲しみも幾年月』などヒューマニズムを主題とした作品を手がけました.

 新藤兼人は,溝口門下で腕を磨き,1950年に独立プロダクションの近代映画協会を設立,1952年に出身地である広島を題材にした『原爆の子』,『第五福竜丸』,『裸の島』,『竹山ひとり旅』,先日も触れた『サクラ隊散る』,『午後の遺言状』などで,人間の戦争と平和への執着,生への執着を映像化し続けています.

 特に木下恵介は,『戦場の固き約束』と言うシナリオ集の中で,1951年にパリで出会った三島由紀夫が語った,
『小説家は日本の国がどうなろうと,どうでも良いんだ』
と言う言葉を回想して,自分自身の映画作りは,
「日本の社会の,その中に生きる人々の日常生活を描く映画監督としては,自分も一緒に悩み,一緒に幸せになりたいのである」
「私は,やむにやまれぬ気持ちで,『戦場の固き約束』を書き,『女たちの戦場』を書いてしまう」
と語っています.
 彼の「やむにやまれぬ気持ち」とは,1944年に制作し,これが元で内閣情報局から睨まれて監督が出来なくなった,火野葦平原作の『陸軍』以来の,人々の,殊に母や女の,当たり前の日常生活の破壊・生命軽視に対する悲しみと怒りの凝集とされています.

 例えば,その『陸軍』では,ラストシーンの撮影で,福岡市の目抜き通りを全て通行止めにして,人々に日の丸の小旗を振って貰い,母親役の田中絹代に列の前を行進する部隊の息子の姿を延々と追わせています.
 また,戦後の作品ですが,1963年の『戦場の固き約束』では,自身が体験した中支戦線を部隊に,日本の輜重部隊に軍夫として徴用された農民黄昌英と許嫁の李春瑛の純愛を描いています.
 この中での人間模様は,日本兵は須く悪い人と言う通り一遍の描き方ではなく,一部の日本兵の良心が戦場での人間性を辛うじて保っている設定となっており,これは経験者でないと描けないものです.
 一方で,兵士が無造作に織機の経糸を切断してしまうシーンは,日本の侵略の実態の象徴と言え,孫娘である李春瑛の結婚の為に機織りをしていた祖母は,抵抗されて殺されてしまうのですが,この場面は,木下恵介が中支戦線で体験したものだったそうです.

 1981年の『女たちの戦場』は,フィリピン戦線で命を落とした従軍看護婦達の姿を描いたものです.
 この作品で木下監督は,
「参考書を読み漁って出来る限り事実の儘を再現しようと苦心」
し,
「件名に事実に迫ろうとする誠意こそが,フィリピンの戦場で命を落とした百三十名に及ぶ看護婦さん達への心からに祈りだと重い,創作場面を極力排除した」
作品と述べています.

 その最初の場面は,「松竹のマークの後,突然,爆発音」で開始され,『暁に祈る』が流れ,フェードインしていく中,黒バックに白地のタイトルが出てきます.

>戦争の真のこわさは 人間である相手を 人間である自分が 殺さねばならないことである.
>そして,自分の中に それの出来る自分を 思い知ることである

 黒の画面が真っ赤になり,その赤が赤十字のマークとなる構図です.
 メインタイトルの後は,従軍看護婦の出陣式から開始されますが,ラストのナレーションではこう語られます.

> 日本が占領軍から解放された時,軍人恩給は復活した.
> だが,婦長以外の彼女たちには恩給は無い.
> 傭人だったからである

 ヒューマニズムを重んじた監督の重い問いかけではないかと思ってみたり.

 なお,『戦場の固き約束』『女たちの戦場』は商業ベースに合わなかったので,映像化されていません.

 一方の新藤兼人監督は,『原爆の子』の後,1988年,77歳の時に絵津萩枝の原作を脚色した,『サクラ隊散る』を完成させます.
 この映像化に当たって新藤監督は,
「この記録は事実なのでドキュメンタリーでやってみたかった」
と語っています.

 櫻隊は,前にも書いた様に,内閣情報局の肝煎りで作られた移動演劇隊の一つです.
 1945年8月6日午前8時15分,櫻隊は,爆心地の1km以内にいました.
 櫻隊のうち,5人は即死,4人は助かりましたが,次々に死んでいきました.
 毎年8月6日に,新劇人達は目黒の羅漢寺で原爆忌を催しています.

 俳優達の内,丸山定夫は厳島の存光寺で,死の直前,身体が熱いと井戸水を被って苦しみ悶死.
 高山象三は神戸で,体温は41度に達し,布団から転げ出て手で畳を掻き毟り,黒血を止め処もなく吹き出して絶命.
 園井恵子も神戸で,皮下出血の後を掻き毟り,熱と渇きの中悶絶しながら死亡しました.
 仲みどりは東大病院で絶命しましたが,彼女は原爆症初の解剖検体となり,その所見と標本である腐った肺と大腿部が残っています.
 因みに,彼女の白血球は通常人の7〜8,000に対し,僅かに5〜600しかありませんでした.

 彼等を巡る人々としてインタビューに応じたのは,滝沢修,千田是也,杉村春子,小沢栄太郎,宇野重吉,山本安英,長門裕之ら新劇関係の蒼々たるメンバー.
 また,医学的見地からそうしたデータも映像化し,「放射線を浴びると人はこんな風に死ぬ」と言う事を表したかったとしています.
 その映像化に当たっては,出来るだけデータと証言に基づいて正確を期しました.

 こうした手法は,仮説があって映像で証明するのではなく,証明があることを映像化したものです.
 部隊の4人を演じた俳優達には,最後の演技として,放射能を受けた死に方をやって貰ったのもその一つ.

 因みに,新藤監督も,自身家族と共に,広島で被曝しました.

>前の晩まで,来年,再来年どうしようかと考えていた人たちの人生が中断されたこと
に対する無念の映像化です.

 もう一つ,彼の作品で映像化されていないのが,シナリオ「恥ずかしながら生きながらえて」です.
 これは,1972年にグアム島から帰還した横井庄一軍曹を取り上げたもので,戦時の儘27年余の「戦後」をジャングルで生存して祖国に帰還した一人の洋服職人の,戦争に翻弄された人生とその後の高度成長社会での今浦島生活とは何だったのかを,パロディ風に痛烈に問うているものです.

 そう言えば,子供の頃に見た「天才バカボン」で,大戦当時のカチコチの軍人さんがバカボンたちの前に出てきて,無闇矢鱈とお上風をふかすのですが,何かを切っ掛けに,止まっていた時間が動き出し,ヨボヨボの爺さんになってしまったと言う作品がありました.
 あれも,戦争を痛烈に皮肉った作品でしたね.
 バカボンの中でもこの回は鮮明に覚えています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2, 2008/07/30 23:32


 【質問】
 亀井文夫とは?

 【回答】
 さて,日本の映画監督に亀井文夫と言う人がいます.
 『日本の悲劇』『戦争と平和』『生きていてよかった』と言う作品を残した巨匠の一人ですが,彼は又,弾圧を幾度も受けた監督でもありました.

 彼は,1939年5月の『映画評論』で「記録映画と真実と」と題して記事を投稿し,
『記録映画に於ける「真実」とはその「劇的構成」が重要だとして,幾つかの現象を有機的に編集しなかったら,「虚構映画」に過ぎなくなる』
と書いています.
 当時,彼は陸軍の肝煎りで,戦意昂揚映画『戦ふ兵隊』を製作したのですが,敗戦後の証言に依れば,
「戦争ハ悲シキモノデアリ,決シテ人生ノ光栄デハナイコトヲ描写シタモノデアリ」,
陸軍省の見解では,これは「疲れた兵隊」だとして,1939年3月,完成はしたものの,「絶対禁止トナリマシタ」.
 この映画の中で,亀井監督は,家を焼き払われて唖然とした中国人農民の顔をアップにして,
「だが,どうして,この男は唖然としているのか? 此処が問題なのだ」
と問いかけたりする手法を多用したりしました.

 それでも亀井監督はめげず,信濃三部作の一つで代表作とも言われる『小林一茶』を制作し,これは時の政府に嫌われ,文部省推薦にならなかったものの,文部省非認定映画ながら,全国上映され大ヒットとなります.

 しかし1941年10月,亀井監督は,特別高等警察に治安維持法違反容疑で逮捕されて1年間の入獄を経験し,釈放されました.
 当然,彼は映画監督として好ましからざる人物ですので,監督資格を剥奪されてしまいます.

 そして敗戦.

 彼は,1946年5月に,戦時中の『日本ニュース』を題材として編集した『日本の悲劇』を完成させますが,GHQは検閲を通過させ,上映可能となっていたものの,その内容から東宝や松竹は配給を拒否し,時の首相「臣」吉田茂はこの映画を見て激怒,8月に最検閲の結果,ネガ諸共没収され,上映禁止になると言う憂き目に遭いました.
 と言うのも,戦犯追及集会の様子や,昭和天皇が軍服から平服に替わるモンタージュ手法が描かれていたからで,
「天皇を蔑ろにする」
と吉田茂が怒ったのも無理はありません.

 亀井監督は当時のことをこう述べています.

――――――
 戦前に作ったものも引っかかり,戦後も引っかかるというのは,こっちが変わらないだけではなくて,社会情勢も実は余り変わっていない,本質的に同じなのではないか.
――――――

 けだし至言で,戦後の民主主義の危うさと言うか脆さを見抜いていたのではないでしょうか.
 その後,日本は独立と共に,再び戦前の制度が復活するなど,「逆コース」の道を辿ったとされていたりして.

 その後,彼は東宝に戻り,八住利雄,水木洋子(後に『また逢う日まで』を手がける』)のコンビで,徳永直の原作を脚本し,山本薩夫と共に共同監督で,『戦争と平和』(1947)を制作します.
 しかし,当時東宝では,「来なかったのは軍艦だけ」と迄言われた第三次東宝争議が砧撮影所で開始され,彼は組合員ではなかったのですが,スクリプターの菊池雪江と共に,亀井文夫は「暴力では文化は破壊されない!」と言うタイトルを持って,米軍戦車の前に無言で立ちはだかり,映画は大ヒットしたものの,再び東宝を去り(実質的には馘)ました.

 以後,彼はドキュメンタリー映画監督として,食うや食わずの生活の中で,『基地の子供』(1953),『流血の記録−砂川』(1956)を監督します.
 特に,1954年の第五福竜丸被曝事件を切っ掛けに盛り上がった原水爆禁止運動は,1955年第一回原水爆世界大会が開催されるに至ったのですが,この大会で被爆者救援運動の一環として,記録映画『生きていてよかった』を制作します.
 亀井監督は,原爆は「それまでの生活体験や概念には無いものだから」「日本の芸術家にとって一番魅力的なテーマ」であり,「原爆や水爆を使ってまで守らなければならないようなものが,いったい此の世にあるのだろうか」と考えたそうです.

 因みに,この「生きていてよかった」は,後にJ.F.ケネディが見て感激し,米国への招待状を亀井監督に送ったのですが,日本政府はビザの発給を拒否したそうです.

 しかし,彼の時代の見る目の鋭さは凄いものがありますねぇ.
 原爆を「日本の芸術家にとって一番魅力的なテーマ」とするのは,よく考えると,Godzillaもそれを切っ掛けに生まれていますし,岡本太郎の「明日の神話」も同じく原爆をテーマにした作品ですものね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2, 2008/07/29 22:32


 【質問】
 「芸能文化連盟」とは?

 【回答】
 「新体制運動」に迎合して,芸能人らで結成された国策組織.
 以下の文章に,その内実が見て取れる.

[quote]

 戦時体制というものが,その時代の芸に対していろいろな枷を加えてくるのは,どこの国でも大差ない.
 日本でのそうした具体的な動きの表れとして,1940年(昭和15)に近衛文麿の提唱した新体制運動を無視することはできない.
 その年の暮には,この運動に呼応するように,
<演劇,映画,芸能及競技其他ノ醇化ヲ図リ日本精神ノ昂揚ト健全ナル国民文化ノ進展ニ寄与シ以テ藝能報国ノ誠ヲ致スヲ目的>
として,
<国策ノ普及徹底ニ必要ナル事業>
を行うために,「藝能文化聯盟」なるものが結成されている.

 〔略〕

 さすが正岡容は,『随筆寄席風俗』のなかで,
<どうも今次の新体制に対する演芸界の連中にはこの種のゆきすぎが,まことに少なくないやうである.>
と,やるかたない憤懣を述べている.

[/quote]

―――矢野誠一著『志ん生のいる風景』(青蛙房,1983.12),p.131-132

 まあ,正確には世論迎合と言ふべきであらうか.
 その点では現在の芸能界も,当時と大差ない.


 【質問】
 移動演劇隊とは?

 【回答】
 これは,1941年6月9日に内閣情報局の肝煎りで,大政翼賛会大会議室に於て,岸田国士が委員長となって,日本移動演劇連盟が結成され,この傘下に今までの劇団が加盟する形をとっていました.
 その中には,松竹国民移動劇団(2班),東宝移動文化隊,吉本移動演劇隊,吉本移動演芸隊,宝塚歌劇移動隊,瑞穂劇団など12の移動演劇隊が加盟し,専属劇団としてくろがね隊がありました.
 この他,市村羽左衛門一座,市川猿之助一座,大谷友右衛門一座,関西歌舞伎俳優協会,新制新派移動隊,井上正夫一座,水谷八重子一座,文学座移動隊,前進座移動隊,文化座などが参加し,更に踊りの藤蔭舞踊奉仕隊,千草奉公舞踊隊も加わると言う大組織になっていきます.

 12月には徳川夢声と共に苦楽座を旗揚げした丸山定夫は,後に園井恵子らと共に櫻隊を結成し,各地を移動公演して回りますが,1945年8月6日に広島の地で原爆によって全滅しました.
 因みに園井恵子は,阪東妻三郎と共に『無法松の一生』にヒロイン役吉岡良子を演じた女優で,同じ映画に出ていた子役が長門裕之だったりします.
 櫻隊の全滅については,新藤兼人監督が後に,『さくら隊散る』と言うドキュメンタリー映画として描いています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/07/27 21:55


 【質問】
 浪曲向上会とは?

 【回答】
 1940年,内閣情報局のキモ入りで結成された,「愛国の大衆に与える影響感化力を利用して愛国心を高揚する」運動を主唱する団体.
 それまでは浪曲は大衆芸能の扱いだったが,この会では当時一流の作家がほぼ全員,台本作りに協力.
 また,愛国浪曲だけでなく,戦時対応の新作を軍事保護院,陸海軍省,軍人援護会,海務院などの委託を受けて数多く作り出し,放送や舞台で発表したという.

 詳しくは『興行界の顔役』(猪野健治著,ちくま文庫,2004.9.10),p.473-474を参照されたし.


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