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『日中戦争とイスラーム』(坂本勉編,慶應義塾大学出版会,2008.3)

 日本に於ける対イスラーム政策を俯瞰するのであれば,最も充実していると思います.

 坂本さんからして近代イスラーム社会史,トルコ民族史を専攻している研究者ですし,他の執筆者としても
東洋史,イスラーム文献学の国立国会図書館主題情報部主査の白岩一彦氏,
日本=トルコ関係史,トルコ民族史のメルトハン・デュンダル氏,
トルコ民族史の松長昭氏,
南方イスラームを研究している倉沢愛子氏
が出て来ています.
 最近,この辺の史料が多く出て来て,パン・イスラーム主義とオスマーン,日本,中央アジアの関係を論じた本も出て来ていますね.

 当初はロシアとの関係を考えて,ロシアの勢力範囲だった中央アジア方面の民族問題を扇動しようと,中国浪人を中心に活動していたのが最初,一旦下火になって,1920年代に於けるロシアの混乱と中華民国の迷走を見た陸軍が中心になって活動して,満州事変後は,陸軍,外務省,後に大東亜省が独自に勢力を扶植しようとした訳で.

 大日本回教協会の初代会長が林銑十郎だったと言う点でも,とても陸軍の少数派とは言えないのではないかな,と思ってみたりして.
 尤も,日本の構想が,皇室の様なカリフ制の復活であったのが日本の限界で,その復活を危険視したトルコとの関係を危うくし,結果的に日本政府はトルコを採った訳ですが.
※ 田中逸平に至っては,イスラームと古神道を習合し,大東亜共栄圏=ウンマ(イスラーム共同体)とする無茶な構想だった.
 『イスラーム世界と拓殖大学』参照.
――――――眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板,2010/07/24(土)
青文字:加筆改修部分

 【質問】
 神州思想というのは,元はどこから来てるの?

 【回答】
 神功皇后の故事のなかの新羅王の言葉に由来し,「日本書紀」仲哀天皇9年10月の条
「吾聞く,東に神国あり,日本という.また聖王あり,天皇という.必ず其の国の神兵ならむ」

 平安期末の末法思想の興隆期には衰退するものの,「元寇」の前後に鎌倉新仏教に取り入れられ,「神皇正統記」の
「大日本は神国なり.天祖はじめ其をひらき,日神ながく統を伝えたまう.我が国のみこの事あり,異朝にはその類なし.この故に神国と言うなり.」
と神州思想は完成し,その後対外緊張の高まるたび強調される事となるのです.

軍事板


 【質問】
 国家神道のルーツについて教えられたし.

 【回答】
 インドで発祥した仏教は,各地で教徒を獲得しながら,ついには極東の辺境である日本に至ります.
 しかし,各種の宗教が犇めく発祥の地,インドは元より,中国や朝鮮でも様々な迫害が為されました.

 中国ではその仏教弾圧は,「三武一宗の法難」と言う言葉で語られます.
 今ではそれに中国共産党と言うのも加わりますが…まぁそれは置いておいて.

 三武一宗と言うのは,極端な廃仏を実行した皇帝達のことで,その第1は北魏の太武帝,第2が北周の武帝,第3が等の武宗帝,そして第4が後周の世宗です.
 このうち,北魏の太武帝の弾圧が最も強いものでした.

 太武帝は8歳で即位し,幼帝だったので政治については司徒崔浩が補佐しました.
 彼は道教の信徒で,帝が国事を訊ねる度に,仏教は嘘偽りの教えで,民衆の為に害となっている.
 それに対して黄老の学は素晴らしく,国教の中心になると吹き込みます.
 当時,嵩岳に道士寇謙之と言う者がおり,北魏始光元年(424年),『道教』を老子から授けられたと帝に奏上し,崔浩は上書して幼帝を丸め込んで,遂に勅命で嵩岳に道教の「玄都壇」を建立して,「静輪天宮」を起こし,寇謙之を諸王公の上に位させ,大家の子弟120余名を選んで道士とします.

 寇謙之は帝に祝福だと言い,しかも老子に授けられたとして,元号を太平真君と改元し,更に帝は詔して長安の僧侶を誅殺し,仏像を焼き払い,寺院を焼き払いました.
 太平真君5年(444年)になると,また詔を下して王公より以下庶民に至るまで僧の養育を禁じ,2月15日を限って僧侶を出頭させ,期日を過ぎれば僧は死罪,出頭を止めた者は一族皆殺しとし,太平真君7年(446年)3月には,詔によって仏教全寺院を壊し,仏像仏具教典を一切焼き捨て,僧侶は全員穴埋めにして殺害してしまいます.

 それが仏の怒りに触れたのか,翌年の太平真君8年に帝は雷に打たれて傷害し,11年になると疫病に罹ります.
 そんな中でも,崔浩自らは国史を編纂して石にこれを刻もうとしていましたが,群臣の中から皇帝に注進する者がおり,帝は初めて自分が利用されていたことに気づき,立腹して崔浩を始め一族120余名を殺害してしまいます.
 それでも仏の怒りは解けず,13年2月には帝は癩病に罹って死んだと言います.

 それから110年の後,今度は北周の武帝が廃仏を行います.
 武帝は『讖緯』と言う未来を予言する書を固く信じ,その書に「黒相ある者は正に天下を得べし」とあったので,大変黒色を忌み嫌い,僧侶は全て黒衣を捨てて黄衣を着用させた程です.
 しかし,道士の張賓と言う人物が,黄衣は黄老,つまり道教のもので,仏教のものではないと暴言した上,帝に大して仏教は国家の不祥であり,道教は吉祥であると説き,遂に帝もこれを信じるようになり,仏教を廃して道教を建てようと考えるに至ります.

 そして,道教の道家と仏教の僧侶との間に争論をさせ,それを調停する名目で,建徳2年(574年)2月6日に詔して,仏道2教ともこれを廃して,これを纏めてしまう「通道観」を設立し,これを纏める為に通道観学士120名を仏教と道教の双方から選びます.

 一見,公平な措置に見えますが,その学士の服装は衣冠杓履を着用させます.
 この衣冠杓履は,日本の神職の衣装と同じもので,これは実は道士の服装であり,所作も道教の所作をしなければなりませんでした.
 つまり,仏教を知的に排除した訳です.
 因みに,実は日本でもこれと同じ事を明治政府が行っています.

 やがて,武帝は寺塔を取り上げて王公の邸宅に宛て,仏像教典を焼き捨て,僧尼300余万人を強制的に還俗させ,仏教弾圧をより明確にしますが,宣政元年(578)に仏罰が下ったのか,武帝は体中に悪性の腫瘍が出来て死にました.

 更に260年が下ると,唐の15代皇帝である武宗が廃仏を行いました.
 これも,道教の道士趙帰真に唆されて,破仏の思想を幼少から植え付けられました.
 因みに,その弟である宣宗は即位前から禅僧となったほどの崇仏家でしたが,逆に武宗は道士に教育されていました.
 そして,会昌5年(845年)に詔して,天下の寺院4,600余カ所を壊し,僧尼26万500人を還俗させ,仏像はこれを破棄して,銭や農具などに改鋳させました.

 最後の後周の世宗は,更にそれから110年.

 即位後間もなくの顕徳2年(955年)4月に詔して僧尼の私度を禁じて国家統制下に置き,勅額の無い寺院33,036カ所は全て廃毀させました.
 更に9月には再び詔して仏像仏具を壊して銭を鋳造しましたが,こうして出来た銭を周通銭と呼んでいます.
 しかしこれまた,仏罰が当たったのか,北征を行っていた途上の顕徳6年(959年)に胸に悪性の腫瘍が出来て死んでしまいました.

 これらを称して,三武一宗の法難と言います.
 その後の中華人民共和国の文化大革命による廃仏も大概だと思いますけどね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/10/08 22:16

 日本の仏教排斥の話と言えば,仏教伝来初期の物部尾輿による排仏運動がありましたが,これはどちらかと言えば,神祇崇拝と仏教が調和するかどうかと言う点に論点があり,其の実は,仏教を支持する勢力であった蘇我稲目との権力闘争だったので,本格的な仏教排斥とは少し違います.

 その権力闘争を経た後は,日本国内に古来からある八百万の神々を信奉する古神道と,仏教とは時に啀み合うことは有りましたが,概ねうまく共存しあってきました.

 しかし,その関係に変化の兆しが現れるのは,江戸時代になって朱子学の泰斗となった山崎闇斎からです.
 山崎闇斎は,晩年,幕府の神道方となった吉川惟足に神道を学び,自らの朱子学と組み合わせて「垂加神道」なる神道を新たに興しました.
 そこで,山崎闇斎は,唐の韓愈などの儒教的な言葉を借りて,仏教を異端邪説と非難するのです.
 つまり,仏教は夷狄の宗教であり邪説であって,神祇忠孝の人倫の道に反するものであるから,神国日本の奉ずべきものではないと主張しました.

 ところで,儒教にしろ,朱子学にしろ,中国と言う夷狄の学問なのですが,それは無視ですかそうですか….
 ま,往々にして,新しい宗教と言うものは,過激にしなければ信者を獲得できませんからねぇ.
 兎に角,これが日本における排仏思想の始まりです.

 江戸中期になると,国学と言う学問が盛んになります.
 これは,古典の研究を通じて,我が国固有の道を明らかにしようと言う学問ですが,例えば,神道で皇典だと称している『古事記』『日本書紀』『古語拾遺』なるものは,儒者でも仏教者でも誰でも読んで構わないものであり,宗教的なものでなければ,神秘的なものではありません.
 元々は下記に見るように,歌道として発展してきたのが国学になる訳で,江戸時代の後期に出てきた国学はそれとは全く異質な学問,寧ろ奇形児と言っても過言ではありません.

 そもそもの国学の興りと言うのは,時代の推移とともに古い言葉が解らなくなり,歌を詠むすべも乱れ,遂には『万葉集』ですら読むことが出来なくなったことに始まります.

 951年に村上天皇が和歌所の寄人であった清原元輔,紀時文,大中臣能宣,坂上望城,源順と言った「梨壺の五人」に命じて,『万葉集』に訓点を加えさせたことが最初で,鎌倉期には仙覚法印と言う僧が国学を発展させます.
 この間,全く神道の人間は出て来なかったりします.
 その仙覚と言う僧は,元々天台宗の人で,悉曇,つまりインド語学を学び,音韻に通じて,権律師に任ぜられます.

 更に仙覚は生来和歌を嗜み,1215年からは特に万葉集を研究して,1246年,45歳の時に鎌倉比企谷新釈迦堂に於いて万葉集の無点歌152首に注釈を加え,それを1253年12月に後嵯峨上皇へ『仙覚奏覧状』として奉り,仙覚は,上皇から万葉得業と言う僧階を授かりました.
 そして,仙覚の歌は『続古今集』に収められ,更に1269年には67歳で,『万葉集註釈』全10巻を撰する等,国学の基礎作りに大活躍しています.

 つまり,国学の基本は,仏教の僧侶が作り上げたものだった訳です.

 その後,鎌倉幕府の瓦解,南北朝の争乱,応仁の乱等が相次いで起きると,誰も日本の古語等見向きもしなくなりましたが,江戸期に入ると再びそうした古語に目を向ける余力が出てきて,契沖阿闍梨が『万葉集』の講釈を始めました.
 この人は大坂で僧侶として勤めた人で,仙覚同様悉曇に通じ,仏典の研究の傍ら,『万葉集』の古典注釈研究に没頭し,1688年頃に『万葉代匠記』20巻,惣釈1巻を著し,水戸の徳川光圀に奉呈しています.
 更に,万葉代匠記は1690年には精選本49巻になり,これも光圀に奉呈されました.
 何れも,この研究は水戸徳川家から資金が出ていたものですが,その学風は,実証的かつ帰納的なもので,国学の考え方の祖となるべきものでした.

 この人の後に,弟子として荷田春満が出て来て,荷田春満の弟子として賀茂真淵が出て,国学は益々発展し,賀茂真淵が江戸で講義をすることにより,更に関西だけでなく,江戸でも国学が盛んになっていきます.
 賀茂真淵の考えは自然の感情を理想とするものであり,その思想は,弟子である本居宣長や加藤千蔭に引き継がれていきます.
 本居宣長等は,仏教を排斥する思想の持ち主とよく言われますが,元々は国学の研究に勤しみ,純粋に古典を調査して,歌道を復興させた人々であり,『古事記伝』では,『古事記』の神代の巻の神々を仏典による仏や菩薩の様に解釈して,一種の神の道を作っていたりするものの,自身は浄土宗の信者であり,排仏思想は微塵もありませんでした.

 この辺,本居宣長が神代思想を吹聴したとされたのは,実はもっと後の時代,近代に至ってからだったり.

 この国学が大きく変質していくのは,江戸末期,日本が諸外国に開国を迫られてからです.
 1854年,日米和親条約締結により,世論を顧みずに国を売った幕閣に,天下の有志が挙って立ち上がり,国是問題が持ち上がります.
 当然,こうした状態では排他国思想とともに愛国心が芽生えることとなり,幕閣は対応に苦慮することになります.
 但し,この時期でも,討幕論或いは攘夷論であって,廃仏論ではありません.

 しかし,世の中が乱れてくると,庶民は生きることが精一杯で,生活のみが重視されるようになります.
 そうなると,仏教の価値が薄れ,仏教は贅沢不必要なものであるとされ,更に仏教は外来の異国神を祀るものであり,百害あって一利なし,寺院や僧侶は無用のものであると言う過激な思想が現れ始めます.
 それに拍車を掛けたのが,儒学や国学に刺激された,「日本は神国であるから神の道で事足りる」と言う考え方です.
 そして,伊勢外宮の御師達は,そうした風潮を利用して庶民を扇動し,「御蔭参り」を実施します.
 これは群衆が伊勢神宮に集団で参拝すると言うもので,伊勢の御札が天から降ってきたと言う噂で,民衆が挙って伊勢神宮に殺到し,道中では無料で宿泊や食物の施しを受けたりしました.
 因みに,御蔭参りはこの時だけの現象ではなく,1650年頃から50~60年周期で発生しているもので,民衆の不満をそらすために実施したと言う説もあります.
 その御蔭参りの絶頂期が,1867年に発生した『ええじゃないか』です.
 これも,討幕派や廃仏派が社会不安を増大させるために起こしたものではないかと言う説があります.

 討幕と廃仏論が結びついたのは,1640年に家光が寺請制度を作ったためです.
 これは国民全てを何処かの寺院の檀家とさせる制度で,それを登録する宗門人別帳を作成し,宗門改役がこれを検査すると言うものであり,この台帳に於ては,武士も名主も神主も町人も農民も,全て仏教徒として扱われました.
 いわば,現在の戸籍です.

 寺は,他にも旅に出るときの通行手形発行に必要な書類を整えたり,埋葬に必要な手続きを行ったりする役場的な存在でもありました.
 従って,討幕を行って民衆を握るためには,寺院にある人別帳を提出させる必要がありました.
 それにより,幕府の財源や生産力を手に入れることが必要で,その為には,寺院を打ち壊して,人別を奪うのが,討幕派にとっては必要条件となった訳です.

 それに乗じて暗躍したのが,国粋主義の一派でした.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/10/11 22:00

 さて,国学をねじ曲げた張本人のお話.

 山崎闇斎が垂加神道と言うものを作り上げて,仏教を攻撃しましたが,それは一過性のもので,全国に広がることはありませんでした.
 しかし幕末には,庶民にそうした廃仏思想を受け入れる余地があり,明治維新とともに爆発した訳です.

 元々,国学と言う学問は,先述の通り,僧侶によって主導され,歌の道を究めるための学問として発展してきました.
 それをねじ曲げて神代学と唱え,神道説を唱えたのが,平田篤胤と言う人物です.
 平田篤胤も,山崎闇斎同様,神道を作り上げ,これを復古神道と名付けました.

 本居宣長が,『古事記伝』で神の道を説いたのですが,排仏思想は一切無かったのに対し,平田篤胤は自派の勢力拡大の為に本居宣長の名を用い,その中に都合の良いような理屈を付け,過激な主張をして,世の耳目を集めようとしたに過ぎなかったりします.
 そう言う意味では,彼は後の世に出てくる,オウム真理教の教祖と何ら変わらなかったりします.

 確かに復古神道を創設し,惟神の道の教祖の様に崇められているのですが,例えば,彼の理論は天地の根源神として天御中主神をあげています.
 ところが,この神様,『古事記』の冒頭に名前だけ出てくる神であり,この神を祀った社も無し,個性も明らかではない,相当怪しい神だったりするのであり,『古事記』を読み込んでの理論構築ではなかったりする訳です.

 因みに平田篤胤自身は,本居宣長の正統を継ぐ国学者として一生を通していますが,実際には本居宣長は1801年9月29日に72歳で没した後,その後2年たった1803年まで,平田篤胤は本居宣長の著作は勿論のこと,その名前すら知らなかったのです.

 1803年に,平田篤胤は処女作である『呵妄書』を著しています.
 この著作は,本居宣長の立場から,儒者である太宰春台の『弁道書』を批判した内容になっていますが,この書では本居宣長はいますが,平田篤胤は出て来ません.
 ところが,この著作が出て来た1803年と言えば,すでに本居宣長は此の世にいなかったりします.
 更に,平田篤胤が本居宣長の書に接したのは更に後で,1807年3月16日付の大友直枝宛の書簡に,篤胤自身が,
「小生事は,故翁(本居宣長のこと)御没故は一昨年と申す年に,初めて御名をさえに承わり,かつ,古典も読み始め候ことにござ候えば(以下略)」
と白状しており,平田篤胤は,自身が披瀝しているように,本居宣長に合ったこともなければ,その名さえも知らず,1803年頃にやっとその名を知った訳です.

 その上,本居宣長の嫡子である本居春庭に宛てた平田篤胤の入門願いには,
「世にましまし候間に御名も存ぜず,同じ年代に生まれ合ひ候ふ身の御弟子の数に入りはべらざりしこと,本意無くうらめしく,実に悲痛に堪えず存知つづけたてまつり候ふところ,去春不思議にも翁に見え候ひて夢ながら師弟の御契約申し上げ候」
等と,要は夢の中に本居宣長が出て来て,私と師弟の契りを結んだのだ,等とぬけぬけと書いています.
殆ど誇大妄想な世界で,オウム真理教の教祖に非常に似ているような感じ.
 で,その夢を盾にして,自分こそが本居宣長の正当後継者だと言い張っている訳です.
 勿論,嫡子である本居春庭には,全くその事はおくびにも出さないのですが….

 1823年には,宣長の養子で,学問の後継者である本居大平を和歌山に訪ね,宣長の仏壇に飾ってあった宣長手作りの笏のようなものを譲り受けて,自分こそ後継者なのである…などと,まぁ誇大妄想の常軌を逸している危ないおっさんだった訳で,その後の所行を考えると,本居宣長こそ好い迷惑です.

 話を戻して,平田篤胤は,どのような手管を用いたか,本居春庭の門弟となることに成功します.
 本居春庭は中年に失明してしまったので,真剣度を見抜けなかったのかもしれません.

 その後,平田篤胤は,『新鬼論』『古道大意』『俗神道大意』『西籍概論』『出定笑語』『歌道大意』『志都能岩屋』『気吹於呂志』『玉だすき』『霊能真柱』等の稿本を多数書き,世に出ようと努力します.
 しかし,江戸ではそれに共鳴してもらえる事はなく,失意の篤胤は,1823年6月に江戸を起って上京し,仁孝天皇や光格上皇等に自著を献上したり,先述のように,本居宗家を訪ねたり,宣長の墓所に参ったりとパフォーマンスを繰り広げ,上京の途中には,神道の絶対的権威である吉田家を訪問したりもしています.
 しかも臆面もなく,前には徹底的に批判していた吉田神道を擁護する,『吉田家系譜伝』を著してヨイショに励み,やっと念願叶って,12月には吉田家から神職教授を委嘱されました.

 こうして,自分の野心の第一歩が叶った篤胤は,1825年以来,御三家の一つである尾張家に仕官運動を続け,1831年にやっと尾張家より3人扶持を宛がわれましたが,あくまでも仮就職であり,正式仕官は認められません.
 また,水戸家にも出入りを願い出ますが,認められませんでした.
 そうこうしているうちに,幕府では篤胤の書が荒唐無稽の出鱈目で,その節に取留めが無く,考えに拠所がないことに疑念を抱き,1834年6月,時の大学頭である林衝が篤胤の学問などについて幕府の諮問に答え,見解書を提出しました.
 その状況を見た尾張家は,11月に彼の禄を召し上げてしまい,結局尾張家から放逐されます.

 諦めきれない篤胤は,同じ月に水戸家の藤田東湖に願書を送り,水戸家の史館出仕を願い出ましたが,これも許されませんでした.
 性懲りもなく,1835年正月には名前を偽称した上,名高い国学者だった屋代弘賢の名前で,史館出仕推挙の口上書を送りましたが,これもまた願いが叶いませんでした.
 藤田東湖は,彰考館総裁であった相沢安宛の書簡で,篤胤を評して「怪妄浮誕」の人物,つまり,とりとめのないでたらめな人物として切って捨てています.

 その後,篤胤は1837年に書いた『天朝無窮暦』が問題となり,1839年には幕府から尋問を受け,6月には出身である秋田佐竹家に照会があり,1841年には著述の禁止を幕府から申し渡された上に,国元の秋田に退去帰国を命じられました.
 以後,篤胤は種々の伝手を頼って宥免の運動をしましたが,果たし得ず,1843年9月11日に没しました.

 こうした誇大妄想のおっさんが死んだだけであれば良かったのですが,彼の過激主張に共鳴するシンパが既に553名もいて,彼らが養子である平田銕胤を中心に結束し,平田神道を奉じて,仏教を排撃していったのでした.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/10/12 22:36

 篤胤は唯一神道や垂加神道と言った,仏教や儒教の思想を取入れた神道を俗神道として排撃したばかりでなく,極力仏教を罵倒し続けました.
 例えば,『出定笑語』『巫学談叢』『古今妖魅考』『悟道弁』なんて言う著作がそれです.
 こうした書を著す篤胤のことを,本居学派の城戸千楯は,「大山師」とか「大嘘つき」と言って,厳しく篤胤が偽物であることを批判しています.

 『出定笑語』と言うのは,大坂の思想家で,反仏教などの論陣を張った富永仲基の『出定後語』を模したものですが,富永仲基は,仏教を深く学び,儒教に通じ,更に神道をも極めた結果,極めて科学的な立場から仏教を批判した訳ですが,元々アジテーター気質しか持たない篤胤は,そんな深くまで考えません.
 と言うわけで,釈迦を攻撃するにしても,
「なんと妻を三人持って,子も三人生ませりや,随分沢山なことで,子福者といってもよい程のことでござる.
 但しこれは,仏本行経,五夢経,十二遊経などいふ類の慥かなる仏経に記し有って争はれぬことでござる」
と述べていますが,却ってこれが,見るべくしてみた人から見れば,その知識の浅はかな事が透けて見えるわけです.

 例えば,『五夢経』等という教典は此の世に存在しないものですし,釈迦に3人の妻がいたと言うのは,『十二遊経』に出てくる3人の女官と勘違いしたと考えられますし,これも『本行経』にはありません.
 因みに,釈迦の夫人とされるのは耶輸多羅のみです.

 ついでに,篤胤は26歳で石橋織瀬と結婚しますが,36歳で妻を失い,43歳で再婚するも1年と続かず,更に離縁から4ヶ月後に,山崎篤利の養女と再々婚するので,都合3人の妻を持ったことになります.
 何のことはない,自分の自慢を釈迦に託しただけですな.

 他にも,
「釈迦は刹帝利の家に生れは致したなれども,自分の物ずきで王とはならず,二十五の時に家を出て婆羅門と同じやうに人を導き教へ,釈迦以前にはとんと無かったことの新趣向を立て(以下略)」
とか
「悉達は王の太子で有りながら,この出たる度々にかかる不浄の者など見る所を以ても,漢土の王などの如く立派なことではなく,今御国でいはうならば,村々の大庄屋を見たやうな物なることを知るがよいでござる」
など言いたい放題書いています.

 その上,日本には昔から文字があり,儒教や仏経が入ってくる以前に既に文字があったのだ!(な,なんだってーAAryなどと言って,その文字までを創作しています.
 其の昔,神の手と呼ばれて彼方此方で旧石器時代の石器が出土したことがありましたが,まぁこれよりひどい話です.
 要は,自分が気に入ったものは徹底的に擁護し,自分の気に入らないものや人は,徹底的に排撃すると言うもので,今の世の中にも通じる物があります.
 幸い,今の世の中には,江戸期と違って,多元的な情報入手が可能ですから,変なことを書くと徹底的に排撃されるのは自分たちなのですが…
 最近は,多元的な物の考え方自体が出来なくなりつつあるからなぁ.

 しかし,こうした平田篤胤の歯切れの良い物言いは,平俗であり,面白可笑しい語り口で,民衆に受け入れられたのも確かです.
 江戸も後期になると,文化文政の町人文化が最高潮を迎えます.
 ちょうど,篤胤の本がその頃の時代のニーズにマッチした訳です.

 ところで,江戸期に花開いた庶民文化と言えば,歌舞伎や狂言などもそうですが,落とし噺,現在の落語もそうです.

 最初に落とし噺を始めたとされるのが,京都誓願寺竹林院の住持であった安楽庵策伝です.
 策伝は浄土宗の説教僧で,様々な階層の人々を相手に,説教を面白可笑しく行う人でした.
 策伝が京都所司代板倉重宗の所望で,1628年に著した『醒睡笑』は,今日古典落語の元ネタとなっていますが,元々は策伝和尚の説教話材のメモ書き集大成であり,一種の仏書としての性格も有していました.

 次いで落とし噺の世界に登場するのが,現在,上方落語の祖とされる露の五郎兵衛で,この人は辻談義の名人であり,元々日蓮宗の僧侶でした.
 五郎兵衞は露休と言う僧名も持ち,僧形で話し続けて評判になったと言います.
 以後,落とし噺を生業にする者は,全て五郎兵衞の形を真似て,僧形で語る者が多く現れるようになった訳です.

 落とし噺の出だしがそれだった為に,古典落語と呼ばれるものには多く仏経説話的な内容が見られます.
 中でも,「阿弥陀池」「お血脈」「御座参り」「御文様」「御印文」「小言念仏」「地獄八景亡者戯」「七度狐」「十八檀林」「寿限無」「百万遍」と言ったものには,浄土宗系の説教の影響が見られます.
 例えば,有名な「寿限無」は『無量寿経』に発する珍名の命名に関する噺であり,「十八檀林」は関東にある浄土宗の18カ所の学問所を順次照会するもので,江戸時代,「山号寺号」と同じように庶民に親しまれたものでした.

 上方落語で,旅ネタと称する道中噺の代表作で,往年の米朝師匠が十八番としていた「地獄八景亡者戯」も,説教と深い関わりを持っています.
 『長阿含経』『観仏三昧経』『雑阿含経』『地蔵菩薩本願経』『十王経』と言った経典に描かれている地獄の様が,源信の『往生要集』や存覚の『浄土見聞集』を通して,説教の世界で様々な形で口演され,それが噺となっていったものです.
 また,「高野違い」,弘法大師の登場する「杵大師」「大師の馬」は真言宗系の落語であり,「景清」「お神酒徳利」「船徳」「野崎詣り」には観音信仰が語られています.
 更に,「法華長屋」「甲府い」は日蓮宗についての落とし噺で,「甲府い」は別名を「法華豆腐」と言ったりしていますし,身延山詣りの旅人がお題目の御陰で一命が助かると言う「鰍沢」も日蓮宗系の落とし噺ですね.

 「松山鏡」「野晒し」「蒟蒻問答」は,禅的要素が詰まっている落とし噺です.
 これらの落とし噺は,教化遊行僧の説教が原型であり,仏典の『百喩経』から来ているものも多かったりします.

 江戸期の寺院は,今と違って信仰の場と言うだけでなく,人々の集まる遊技場としての機能も持っていました.
 その為,その中では屡々能や狂言,農村歌舞伎と言ったイベントが催されたほか,噺の会が催されて,落とし噺名人がその席上で,人々に面白可笑しく落とし噺を語った訳です.
 お寺を舞台とした場合,当然面白く脚色を施した説話的落とし噺も語られたのですが,納涼の会として,因果応報や輪廻転生を語る様な怪異談も語られました.
 それが現在残っている,「怪談牡丹灯籠」や「真景累ヶ淵」の様な怪談噺となっていった訳です.

 こうした落とし噺の流行は,仏教の世界を庶民に身近にさせた反面,これを茶化す様な考えが人々の中に広める事にもなりました.

 それに乗っかったのが,篤胤の「惟神の道」と言うものです.
 その大元は,こうした落とし噺にあった訳です.
 丁度この頃は,跡見光海の『排仏論』,斉藤高寿の『儒仏論』,丹羽貴明の『因果可笑論』と言った排仏書が世上に流布されており,廃仏は一種のブームにもなって行きました.

 因みに,明治以降は更に説教色が薄れ,廃仏毀釈の流れで,古典落語の中にある「小言念仏」などは変質してしまい,説教本来の意味どころか,念仏者を憎悪する話へと変わってしまいました.
 明治以降の落語になると,僧侶の失態や小僧の茶化し,寺院の荒廃が出るようになっていきます.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/10/13 22:52

 1872年に明治政府が太陰暦から太陽暦に改暦するに当たり,記紀神話が伝える神武天皇即位の年を元年とする天皇紀元,所謂,皇紀となるものを作り出しました.
 これは釈迦誕生を元年とする仏暦や,キリスト紀元を世界暦とするものに対抗してのものだったりします.

 神武天皇の即位日は1月29日と定めて,例年その日には全国の各神社で祭典を行う事が布告されました.
 これによって,現在の宮崎神宮,当時の神武天皇社は時流に乗る事が出来たのですが,1873年6月になると,政府は「神武天皇御即位日ヲ紀元節ト被称候事」と言う太政官達を発して,なぜか10月には2月11日を紀元節とする事になります.

 紀元節は,『日本書紀』に神武天皇が「辛酉年春庚申朔」に即位されたと記されているのを根拠としているのですが,これは辛酉が古代中国の陰陽五行説で言う所の変革の年である事から,人皇第一代の天皇即位を,五行説に則って,辛酉年春としたもので,暦史的な根拠となる事実ではありません.
 当初,即位日を1月29日としたのは,新暦の1月29日がたまたま旧暦の元旦であったと言うだけのことで,その後,神武天皇当時の暦(元よりそのようなものは存在しない)に基づいて計算したとして,2月11日に改められました.

 しかし,この様な計算自体が成立しない物であり,暦の換算根拠も一切公表されないまま,国民は2月11日を紀元節として祝ってきました.
 戦争が終わっても,その祭日は連綿と引き継がれ,現在でも建国記念の日となっています.
 日本自体が古い国であるのは確かなのですが,明治時代に創始された,全く根拠のない日にちが未だに建国記念日となっているのは,それはそれで,国を蔑ろにしている様な気がしてしょうがありません.

 考えてみると,明治時代に創始されたのにも関わらず,今や古くから有る様に人々に思われているものは,たくさんあります.
 奈良にある様な古くからの原始神社は兎も角,凡そ現代で神道と呼ばれるものは,古代から連綿と続いていた訳でなく,明治時代に儀式を整えた,新興宗教が殆どで,その原型は全て他の宗教からの借り物だったりします.
 神社の伽藍造りも明治時代からですし,祭神にしても地方の自然発生的に作られた神社では,名も無き神々は全て,夫婦神なら伊弉諾と伊邪那美,天神は菅原道真,山の神は大山祇神とされて,それに官幣,国幣,府県幣,郷村弊と差別化し,出費も国家が行いましたがその費用も差別化されました.

 本来,古代の神社のご神体とは,三輪明神に見られる様に,山そのものが神であり,川しかり,老木古樹しかり,実体のないもので,そうした自然に対する畏敬から,人々はそれらを拝んでいたのであって,現在の様に拝殿が作られていた訳ではないのです.

 また,近代神道には宗教的教義がありません.
 近代の神道では,あるとすれば,「惟神」と言うもののみで,これは1945年まで言われていた「国体」そのものでしかありません.
 その天皇ですら,江戸が終わるまでは敬虔な仏教徒であり,明治天皇も「即位式を仏教の大元帥の法によって出来なかった事である」と悔いていました.

 仏壇も,685年3月,天武天皇が諸国に命じて家毎に仏舎を作らしめた勅令があってから始まった風習で,神棚を祀るのは明治期になってからです.
 結婚式でも,神前結婚式で花嫁がつける角隠しは,浄土真宗の教義内容から来たもので,これは,「罪悪生死の凡夫としての自覚に立って,鬼の様な浅ましい私を嫁として頂いてありがとうございます」と言う意味が込められているものです.
 神前結婚式の始まりも,1901年の神宮奉斎会の東京大神宮で行われたのが最初であり,元々は仏式が主流でした.
 その結婚式に流れる雅楽も,1897年1月18日に社寺局通達で仏教から奪い取ったもので,元々はインド仏教の釈迦誕生日会に伎楽を奏する風習があったものが560年に日本に入ってきて,612年になると百済からの帰化人が呉楽をもたらしています.
 これが元々の雅楽渡来の最初で,701年には遣唐使粟田道麻呂が,唐楽を持ち込みました.
 752年の東大寺大仏開眼供養では,唐楽は伎楽,高麗楽と共に演奏され,809年には雅楽寮の楽師が定められています.
 それが,1897年のたった一枚の通達で仏教から引きはがし,古文献の仏教儀式の諸「会」を全て神式の「祭」に改竄して,神嘗祭や新嘗祭と銘打ち,神社神道のものであるかの様にしてしまっています.

 神社につきものの鳥居も,元は仏教から来たものです.
 稲荷鳥居,山王鳥居,両部鳥居の様に台座(丸い輪)のあるものは,明らかに仏教式で,本来はその台座の中に納骨する為のものでした.
 また,鳥居を表わすのに,「華表」と言う字を充てる場合がありますが,これは仏・菩薩示現の聖域を示すもので,極楽への門になっています.

 四天王寺の鳥居には「釈迦如来天法輪所 当極楽土東門中心」と書かれてあると『法然上人行状画図』にありますし,吉野にある蔵王権現堂の日本最古の鉄の鳥居には,「吉野なる鉄の鳥居に手をかけて弥陀の浄土に入るぞうれしき」と記されています.
 密教では,護摩壇の門を鳥居又は表木と言い,表木も華表の表を取ったものです.
 地方に行くと,古くからの葬場や棺廓の四方に鳥居を建てて,額を掛けて,これを「四門の額」と言い,発心・修行・菩提・涅槃の仏道求道の四転を示すものです.

 これまた近代神道では,鳥居は神社のシンボルとして,汚れのある者は鳥居をくぐってはならぬと言う迷信を加え,肉親の死に会った者は穢れているので49日神社の鳥居をくぐってはならぬとか,僧侶は不浄の者なのでくぐってはならぬとか,部落差別の道具にもされ,本来の仏教的意義は失われてしまいました.

 ついでに,神社の拍手も仏教から来たものであり,仏教では「歓喜拍掌」と言って,3回するのが正式ですが,今では掌が手になって,意味がぼやけ,3回が2回になると言ったぞんざいな状況になっています.
 ちなみに,「かしわで」は「拍手」であって「柏手」ではありません.

 とまぁ,こんな感じで,日本人の宗教観が好い加減になったのは,この廃仏毀釈の所為ではないだろうかとも思ってみたりする訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/10/22 23:56

 江戸期まで,公式文書には,お寺と神社の順番は,「寺社」となっていました.
 奉行の職制でも,「寺社奉行」と言う風になっていますが,明治期に廃仏毀釈が行われると,その地位は逆転して,「社寺」となります.
 神社は,従来,寺と共に共存共栄してきたのですが,王政復古の大号令と共に,全て天皇の名の下に寺院から引きはがして,惟神神道を国の宗教と位置づけようとした訳です.

 まさに心の問題に,国家が関わってくる始めでした.
 更に,先に見た様に元々寺院のものだったものは全て神社の創始とされ,国民は誤った知識を植え付けられる事になりました.
 そう言う意味で,修身を復活させろと言う動きや国家神道を国の基に据えろと言う要求に対して,政府が取っている態度は方向としては間違ってはいません.

 4月と9月には春分の日,秋分の日があります.
 これは国家の祭日になっていますが,この大元は,春の彼岸,秋の彼岸として,中日を中心として7日間,仏教法事を営み修する事を彼岸会とした事から始まっています.

 彼岸会は仏教行事ですが,日本独特の行事であり,他国にはありません.
 これは聖徳太子が四天王寺を建立して以後広まる考え方で,中日には太陽が真東から昇り,真西に沈んで,昼夜の長さが同じであると言う現象の中,生死輪廻の此の岸(此の世)から涅槃常楽の彼の岸(極楽浄土)を欣求し,併せて現実界を浄化すると言う意義を持ちます.
 記録としては,741年に「諸国の国分寺の僧に,春と秋の7日間剛般若経を読ませた」と有る様に,既に奈良時代には定着しているものでした.

 これは,1878年6月以後,彼岸という行事は廃され,春季皇霊祭,秋季皇霊祭としてしまいました.
 良く靖国の参拝が話題になりますが,既に見た様に,これも比較的最近の行事なのです.
 流石に戦後は,春分の日は「自然を称え,生物を慈しむ日」であり,秋分の日は「祖先を敬い,亡くなった人々を偲ぶ日」と定義付けが再編されています.

 さて,更にお盆も同様に,古くから有る日本人の年中行事の最たるものの一つです.
 お盆は,?lambanaと言うインドの古典語であり,「一切の苦しみを救う」と言う意味を持ちます.
 お盆会は『仏説盂蘭盆経』によって行われる,仏教行事の一つで,657年7月15日に,須弥山の形を飛鳥寺の西に造り,天皇親修の下にお盆会が営なまれたのが,国家的な行事としてのお盆会の始まりです.
 この時の天皇は,皇極天皇の重祚である斉明天皇で,以後,お盆という行事は日本国民の行事となっています.

 この行事だけは,神道論者もどうしようもありませんでした.
 中には,お盆行事を一切しないと言う地域もありますが,神職がお盆のお祓いと称して氏子宅を回るのは,全く滑稽な話になります.
 しかも,夏の神祭として7月15日や8月15日にお盆行事を神社の祭りと為したのは,殆ど笑止千万な出来事です.
 因みに,冬の神祭は仏教の報恩講を真似たものです.

 「先祖の供養」と言う様に,供養というのは,「仏・法・僧の三宝を資け養う」為に,香・花・灯明・飲食・資材等を供え奉る事を言い,純然たる仏教行事です.
 その儀式作法は二種供養,三種供養,四種供養,五種供養,六種供養,十種供養などがありますが,標準的な五種供養の場合,1には塗香,2には花,3には焼香,4には飲食,5には灯明の5種を供えての儀式作用が中心で,少なくとも必須な供養の基底なのは,香・花・灯明の3種類であり,これらを総括して利供養と呼びます.
 また,口に経典を誦し,称名念仏して仏徳を讃嘆恭敬するのを敬供養と言います.
 この利供養,敬供養が相まって,初めて真の供養は成就できます.

 『無量寿経』では阿弥陀仏の四十八願が示される中,第二十三の願に諸仏供養の願が掲げられています.
 この様に,供養と仏教は切っても切れないものです.

 この行事も,国家神道では神社の儀式に組み込みました.
 良く,ニュースで人形供養とか針供養,筆供養として神社で行っている供養行事を見かけますが,これは本来の供養の意味からすると噴飯ものの行事です.

 例えば,針供養.
 『歳時記』では,「針を遣うのを慎む日」とされており,更に,
「関東では2月8日,関西・九州では12月8日,この日は針仕事を休み,一年中に遣った針の折れたのを淡島神社に納めに行き,神前に置いてある豆腐に刺す」
とあるだけで,万物,つまり,針に対する感謝の気持ちや報恩の誠意は全くそこにありません.
 2月8日と言うのは,『荊楚歳時記』では釈迦の誕生日のことを指し,12月8日は成道会と言って,釈迦の悟りを完成させた日を祝う日で,何れも仏教に関する法会です.
 淡島神社も,元々は弁才天を祀る仏教の社であり,廃仏毀釈前までは仏式で本当の意味の針供養が行われていました.

 しかし廃仏毀釈により,強制的に神社として独立させてしまうと,それまでの針供養の位置づけが出来なくなったので,「針を遣うのを忌み嫌う日」と言う名目をでっち上げ,現在では形骸化してしまいました.

 そう言う意味では,何でも「我が国のものニダ」などと言う隣国と,国家神道のメンタリティは大して変わらないものがあったりする訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/10/23 21:24


 【質問】
 戦時下の日本について質問.
 長谷川町子がキリスト教徒だったことを知ってふと疑問に思ったのですが.仏教徒,キ教徒などは不殺の教えと戦争についてどんな立場を取っていたのでしょう?
 特にキリスト教は敵の宗教として風当たりが強そうな気がするのですが,それらの宗教は社会的にどのような扱いを受けたのでしょう?
 良心的兵役拒否など通るわけないでしょうが,断固拒否した場合公的にはどんなペナルティを課せられたのでしょう?

 【回答】
 最近,仏教徒の宗派にしろ,基督教の宗派にしろ,太平洋戦争に於ける国家への戦争協力を反省する文章が出てた筈です.

 例えば,賀川豊彦門下のキリスト教徒が,国家総動員体制の一翼を積極的に担ったりしています.
 また,太平洋戦争では,宗教団体戦時中央委員会と言うのが結成され,戦時活動実施の要目として,教化活動の強化,宗教施設活用,報国団の整備拡充を申し合わせています.
 仏教徒は,大東亜仏教青年会連盟を結成し,大東亜諸地域に於ける仏教徒の総力を結集するとしていました.
 基督教では,日本基督教団が,各宗派の大同団結の下に結成され,ラテン語の賛美歌を日本語化する活動を行い,新日曜学校賛美歌集と言う日本独自の作詞作曲で作られたものを1943年以降使っています.

 建前上,日本は宗教に関してはどれも同じ扱いとしていましたが,国家神道は別格扱いでした(とは言え,その神道を管轄していた内務省内では三等局扱いだったそうですが).
 民間レベルでは,特にその教義から基督教は敵視され,徴兵に於いても,生きて帰ってきても何度も徴兵を受ける人もいました(うちなんか仏教徒なのに,基督教系の学校で先生やってたから,祖父は三回も徴兵されたし).

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2006/03/15(水)
青文字:加筆改修部分

▼ 森達也(映像作家)によれば,具体的には以下のような状況だったという.

-----------------------------
 第二次世界大戦時に浄土真宗本願寺派は,
「罪悪人を膺懲(ようちょう)し,救済せんがためには,殺生も亦(また),時にその方法として採用せらるべき」(『仏教と戦争』 1937年8月,本願寺計画課発行)
との布告を門徒たちに伝え,聖戦として位置づけたこの戦争に積極的に協力した.
 つまり,悪い連合国側の人たちを,救済のために殺生してあげましょうとのレトリックだ.

 本願寺派だけではない.
 浄土真宗大谷派も強力に戦争を推進した.

 浄土真宗だけでもない.
 当時の仏教界における殆どの宗派は,基本的には戦争に大いに協力した.

 仏教だけではない.
 日本基督教団などのキリスト教各宗派も,やはり戦争には積極的に協力した.

----------------------------- 『宗教と現代がわかる本 2010』(平凡社,2010.3.4),p.41-42

>良心的兵役拒否など通るわけないでしょうが,
>断固拒否した場合公的にはどんなペナルティを課せられたのでしょう?

 兵役は国民の義務であり,断固拒否すれば脱税と同様犯罪です.
 公的なペナルティよりも,非国民として扱われる社会的ペナルティのほうが大きいでしょう.
 良心的兵役拒否は認められませんが,神職や僧侶等は非戦闘職種への配置が行われたようです.
 私の祖父,曾祖父は代々神職でしたが,衛生兵として従軍しています.
 親父の代で神職は途絶え,俺は戦車兵でしたが.

軍事板,2006/03/15(水)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 終戦までの日本における,キリスト教徒の状況は?

 【回答】
 さて,戦前の日本に於いては仏教を始め各種の宗教があったのですが,神社神道は全く例外とされていました.
 これは行政府の所管にも如実に表れており,神社神道は内務省管轄ですが,教派神道,仏教,そしてキリスト教などの宗教は,文部省だったりします.
 ホーリネスの中田重治は,
「基督教を西洋人関係として外務省に移せば,それで宗教で無くなると思うか」
などと痛烈に皮肉を浴びせていますが,実際にはこの理屈で当時の教会は翻弄された訳です.
 因みに,何故か(と言うか当然ながら),靖国神社は陸軍大臣,海軍大臣の共同管掌です.

 1937年の日中戦争勃発以降,文部省は宗教への関与,特にキリスト教への統制を強化し,興亜奉公日設定,銃後後援強化週間実施などの文部次官通達を毎週の様に教会に送りつけるようになり,その仕上げが先述の宗教団体法として結実します.
 そして,宗教団体法の成立以後は,文部省は「認可」を盾に,教会の規模や教義にも口出しするようになりました.
 とは言え,文部省は悪意だけを以て教会を統括しようとしたのではなく,信者の官僚もいて,彼らが教会に対し,親身になって認可の為のアドバイスをしたと言う事実も否めません.
 但し,認可を容易にする為のアドバイスと言うのは,それが善意から出たものであれ,政府によるキリスト教統轄の線に沿うものでした.
 こうして,1941年になるとキリスト教教団の統一機構として,日本基督教団が成立し,「認可」された教団規則には,「皇国の道に従いて信仰に徹し各其の分を尽くして皇運を扶翼し奉るべし」と記されました.
 結果的に,公権力や天皇制に依っての教会を守ってもらう事で,キリストの主権を蔑ろにしたと言うことになります.

 もう1つ,治安維持法による宗教の弾圧と言うのがあります.
 元々,治安維持法は共産主義勢力の伸張に対抗する為の法律だったのですが,この効果は覿面で,共産主義の力を確実に削ぎ落としてしまいました.
 この威力を目の当たりにした国家権力は,戦争に反対する勢力を封印する為,自由人や宗教を取り締まる対象に広げ,1941年にこれらの弾圧を効果的に実施する事を目的に,治安維持法の全面改正を実施します.

 この時の改正にて,「国体の変革」「国体の否定」と言う,極めて曖昧に解釈出来る容疑で,人の内面を国家統制の対象にする事が出来る様になります.

 この改正の基軸は,当然のことながら,「国体」,つまり,天皇制の維持であり,イエスを絶対唯一のキリスト神に仰ぐキリスト教は,居場所どころか存在さえも許さない力を持っており,「国体の否定」に繋がりかねない危険な思想と見做されてもおかしくありません.
 特にホーリネスに関しては,その教義に再臨信仰を持っており,弾圧の対象となりました.
 そして,牧師達に「天皇か,キリストか」を詰問すると言う禅問答的な尋問を行ったりしています.

 ところが日本基督教団の幹部達は,そのホーリネス弾圧が起きた時,その弾圧に抗議するどころか,教団から不純物を取り除いた当局の英断を絶賛し,ひたすらホーリネスとの違いを強調して自分たちの身を守ろうとしました.
 この段階でも,教会は公権力と天皇制にすり寄りましたが,これはホーリネスでも同じで,弾圧によって死者が出る状況でも,幹部達は保身に汲々としていた訳です.

 ホーリネスの再臨信仰は,治安維持法に抵触するとして,裁判にかけられます.
 その裁判で無罪を主張しましたが,その裁判戦略は法律論よりも,天皇を崇敬し,神社参拝もする日本人だから無罪であると言う信仰論の上に,神社参拝容認と言う偶像礼拝と結びついた信仰論での無罪の主張だったりします.
 全く,教会としての戦う姿勢は何処へやらと言う感じです.

 宗教弾圧の暴力装置として,内務省の特高警察の他,憲兵隊と言うものが利用されました.
 1940年には,救世軍スパイ事件,賀川豊彦の検挙などで既に宗教弾圧の第一線に登場しましたが,その救世軍スパイ事件については,それまで難航していた教会合同協議が進展する契機になったと言われるほどの影響があっただけでなく,救世軍に名称を変更させる等の宗教行政に口出しする位でした.

 それより前の1938年には,早くも大阪憲兵隊特高課長が,13項目の諮問事項を教会に送りつけています.
 これは教会の神観,国体観を質すものですが,この送達には何ら法的根拠がなかったりします.
 非常時体制が確立しつつある中で,早くも憲兵隊と言う弾圧装置が暴走を始めた訳です.

 その暴走の例が以下の様なものです.

 1941年夏,小山宗祐牧師補が東京聖書学校から函館本町教会に赴任します.
 その小山牧師補は,1942年1月に函館憲兵分隊に拘引され,すぐに起訴されますが,3月には拘置所で「自殺」しました.
 ところが,その身体には無数の傷がついていたことから,憲兵隊による拷問による死亡が疑われています.
 因みに彼の拘引理由は,隣組で輪番制となっていた護国神社参拝を拒否した為とされていましたが,実際には隣組にもこうした取り決めはなく,「敵国宗教」視していた他宗教関係者の密告の疑いが高いとされています.

 この「自殺」問題に関するもう1つの問題は,拘引の法的根拠が明らかになっていないと言うものです.
 唯一見出されるのは,「陸軍刑法違反」なのですが,この法律そのものは陸軍軍人の犯罪に適用されるものであり,民間人にその陸軍刑法が適用されるのは流言飛語くらいです.
 しかし,小山牧師補に流言飛語の事実はありません.
 また,神社問題についても,陸軍刑法では神社の「じ」の字も出てこない訳で,小山牧師補は法的妥当性すらない言いがかり程度で拘引され,命を落としたわけです.

 一方で,基督教団についても問題がありました.

 開国以来,プロテスタントが多く流入していきますが,次第に背景や指導者によって様々な教派に分かれていきます.
 教派には多様性はありますが,共通していたのは,「イエスは主」であると言う信仰告白です.

 もう1つ,日本のキリスト教界で酷似していたのは天皇観でした.
 日本基督教団成立時,合同協議はかなり難航しました.
 それぞれの教派が,自己同一性に関わる部分に拘ったからで,これ自体は健全な動きです.
 この統一の流れが一気に進んだのは,宗教団体法の成立,救世軍スパイ事件などの公権力介入,更に皇紀二六〇〇年奉祝基督教信徒大会での
「吾等は全基督教会合同の完成を期す」
とした宣言等で,諸派の内的要因はかき消されて,日本基督教団成立に至ったわけです.

 日本基督教団は,諸教派がその「教派性」を棄てた結果成立したもので,教団統理者となった富田満は,伊勢神宮(!)にて教団発足の報告と発展祈願をし,太平洋戦争勃発後は,教団は
「国体の本義に徹し大東亜戦争の目的完遂に邁進すべし」
と綱領に定め,ホーリネス弾圧事件では,教会解散や牧師職辞任の強要と言った恰も文部省の下部機関な振る舞いを行い,国体やら教団成立やら戦争の意義と言った,「日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書翰」を,「現代的使徒書翰」として,アジア各地の教会に送りつけました.

 これより以前に,日本独自のキリスト教信仰を目指すとの形で,彼らは海外との高誼も絶っています.

 因みに,敗戦により宗教団体法が廃棄されると,日本基督教団からは多くの教派が離脱し,往事の勢いは無くなり,寧ろ福音派が隆盛となっていきます.
 日本基督教団は,その後,賀川豊彦が中心になって盛り立てを図りますが,教派を超えての統一と言うのは戦争期の苦い経験があって,未だに成されないままとなっています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/09/20 21:55


 【質問 kérdés】
 この春,特別高等警察に配属されたばかりの新米刑事です.
 キリスト教徒担当になったのですが,連中への圧力の掛け方がよく分かりません.
 やり方を教えてください.

 【回答 válasz】
 二つのパターンがありますので,まづそれを覺えませう.

(壱) スパイ容疑

 キリスト教は歐米に由來する「敵性宗教」です.
 ですので敵國のために宣教師がスパイしてゐる可能性は,決して低くありません.
 何かあればまずそれを疑つてかかりませう.

 たとへば憲兵隊のはうでは,ルーテル教會の婦人宣教師ヘレン・シャークを呼び出し,福岡市郊外,奈多一帶への立入禁止を命令したことがあります.
 シャーク宣教師は奈多に幼稚園創設を準備してゐましたが,これは雁ノ巣海軍飛行場を探るスパイ活動の隱れ蓑だつたに違ひありません.
 證據は何もありませんでしたが,そんなことは問題ではありません.
 我々も憲兵隊ごときに後れをとつてはいけません.

(弐) 発言の監視

 牧師の説法の中には,天皇陛下に對する不敬發言や,時局に對する不穩な批判發言が含まれてゐるかもしれません.
 きつとさうに違ひありません.
 そこで信徒に混じつて私服で禮拜に出席し,牧師の發言を常に監視しませう.

 昭和17年には福岡市舞鶴町のセブンズデー・アドベンチスト教會の牧師・今村正一を治安維持法違反容疑で逮捕拘置しましたが,これは今村が,キリストが再臨する終末の日の近いことを説教で説いたことによります.
 ちなみに今村は留置場の不潔さ,過酷な取り調べと拷問により衰弱して急性腎臟炎を發病.
 自宅送致したその夜に死亡してしまひ,起訴まで至らなかつたのが殘念です.

 また同年,同市今泉町のホーリネス教會の牧師・桑原福三を逮捕しましたが,これは同教會の教役者たちが日本基督教團加入を拒否したことによる「宗教團體法」違反,ならびにキリスト再臨による神の國・千年王國の競技が,天皇の統治權を否定し,國體變革を企てる危險思想を説くものだつたからです.
 こちらのはうは起訴することができました.

 また,たとへば憲兵隊のはうでは,福岡中部教會牧師・大野寛一郎が教會前の掲示板に,
「人に事ふるが如くせず,主に事ふるが如く心より行へ」(コロサイ書三・二三)
と書いて貼り出したので,早速呼び出して
「現人神である天皇陛下に仕へないで耶蘇の神に仕へよ,とはどう云ふことか」
と詰問しました.
 また,大野牧師が
「汝らキリスト・イエスの心を心とせよ」
と貼つた時には,
「キリストの心と云ふのは平和主義のことだらう.
 この戰爭の最中にキリスト・イエスの心を心とせよと云ふのは,戰爭をやめろと云ふことか」
と追及しました.

 理屈と膏藥は何にでもくつつくものです.
 あらゆる言葉尻をとらへて檢舉のきつかけとしませう.

 【参考ページ Referencia Oldal】
坂井信生『福岡とキリスト教』(海鳥社,2012), p.111-115,

mixi, 2018.5.14


 【質問 kérdés】
 戦時中の日本人の対キリスト教感情は?

 【回答 válasz】
 戦時下という社会風潮に醸成された,強硬な反キリスト教感情が,広く存在していた模様.
 「興亜青年同盟」などの国粋主義団体で「基督教撲滅大演説会」など開催されたのみならず,普通の町民大会でも教会立ち退きを決議する例などが見られ,キリスト教徒は非国民扱いだった.
 ところがこれが終戦直後になると,拝米主義の一種でキリスト教ブームが起きたというから,いい加減なものである.

 【参考ページ Referencia Oldal】
坂井信生『福岡とキリスト教』(海鳥社,2012), p.115-117, 123-124

2018.5.15


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