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<第二次世界大戦FAQ


(画像掲示板より引用)


 【質問】
 太平洋戦争での,本土防空戦や日本の防空体制について知るには,どの本がオススメ?

 【回答】
 まだ手に入る,渡辺洋二氏の本土防空戦で我慢しろ.

 本土防空で,陸軍飛行第244戦隊史なら,ウチの中央図書館の郷土史コーナーに置いてあった.
 B-29迎撃に,多摩墓地の緑の下から引っ張り出されて,舞い上がる飛燕(いやマジで)とか,押井守あたりに映画化してもらいたいぜ本当.

 渡辺氏の302空の本が,文春文庫から出ないかなぁ…
 雷電部隊の活躍本って無いに等しいし.
 雷電本は出てるけど.
 本土防空で日本軍が手を打ってないってのが,まかり通ってるしな,非ミリヲタ系の人たちに.

軍事板,2011/03/06(日)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 空襲の話を聞くと,よく「グラマンが・・・・」と聞きます.
 民間人でも米軍機の名前や姿を知っていたようですが,戦争中に敵国の飛行機のデータは入ってこないと思うんですけど,どうやって名前や設計会社の名前を知ったのですか?

 【回答】
 そんなことはありません.
 戦時中でも,中立国を通じて敵国の航空機の情報は入っています.

 なので,例えば1942年発行の航空朝日なんかには,F4Uの試作機とかB-24/25/26とかの機体の写真が掲載されていたりします.
 また,昭和19年発刊の「翼の科学」と言う本には,どう入手したのかワカランが,A型ムスタングの飛行写真が載ってて,
「この米国製戦闘機の主翼は層流翼断面で・・・」
と書かれていました.
 本土爆撃前にB-29の情報が入ってきていたりします.
 勿論,マンタ戦闘機なんて言うガセが出てきたりしますが.

 また,良くニュース映画に出てくるように,小学校の頃から敵味方航空機識別の教育を行なっているため,飛行機の形は結構知っていたと思われます.

 たとえば,昭和17年製作の美術学校卒展の絵にもスピットファイアが描かれていたりしました.

 ただ,一般人が言う場合は,アメリカの戦闘機はすべてグラマンになってしまう場合があります.
 ちゃんと識別しているわけではなく,アメリカの戦闘機=グラマンなわけです.
 代名詞的に使われているわけです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2(黄文字部分) :軍事板,2004/10/03
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 第二次大戦中の日本の焼夷弾対策について,
「濡れ筵(むしろ)と砂で消す程度の,話にならないものだった」
とかいう批判をしている人が多いですが,

質問1
 上記のような貧弱な装備でも初期消火に挑むのと,ほっといて退避するのとどちらの方がよかったのですか?
 空襲の規模によっても話は変わると思いますが・・・・

質問2
 有効な消火剤の開発は行われていたのでしょうか?
 まあ,戦争末期の日本ではそれどころじゃないし,開発したところで有効な数を確保するだけの生産能力もなかったと思いますが・・・・

 【回答】
 避難するほう.

 昭和19年版某新聞社年鑑より引用.

------------
●焼夷弾が落ちたら

1. 焼夷弾の落ちた家庭

 (1)防空従事者は,速に防火に当たると共に近隣に大声で知らせる.
 (2)防火のやり方は最初の一分間が大切で,周囲の燃えやすいものに水を掛けることが第一である.
  エレクトロン焼夷弾には蓆類をぬらして掛け,その上に水を掛けるか,砂袋を投げつける.
  油脂焼夷弾も蓆類を濡らして掛けるか,水を掛けるか,バケツやシャベルで砂や土を投げかけて火焔を消す.
  黄燐焼夷弾も塊って燃えているものは油脂と同様にし,飛散して燃えている黄燐は,水で濡らした火叩きで叩き消すか,水を掛けて消す.
 (3)焼夷弾が天井裏や屋根裏に止まったら鳶口か長棒で突き落とす.防火に不便な所に有るときもこれらで移動する.
  高いところや遠いところの火炎は水柄杓で水を掛け,小火焔や,火の粉は火叩きで叩き消す.
 (4)黄燐は長く燃え,また一旦消しても再燃するから安全なところで燃焼させる.
 (5)焼夷弾は何処に落ちているか判らない.押し入れ,物置,天井裏,床下にも注意する.

2. 隣組

 隣組防空の要領は,まず自宅に異常のない防空従事者は現場に駆けつけ,隣組長の指揮で防火に当たり,組内に異常がなければ,他の組を応援する.
 隣組長は組内に焼夷弾が落ちたら,最寄りの警防団詰め所か,警察消防官署に状況を簡単に通知し,隣組で防火の見込み無ければ,警防団や消防署に応援を求める(以下略)

3. 火災になったら

 隣組長は警察消防官吏や警防団員の指図があるまで消火や延焼防止に当たる.
 消火方法はまず燃え移ろうとするところに水を掛け,次に燃えている所に水を掛けて消す.
 延焼防止のためには,火炎を被っていれば,その場所に水を掛け,熱気を受けているときは発火しやすい軒下,妻などに注意して水を掛ける.
 隣接の隣組長は,延焼の危険が組内に有れば,防空従事者をその防止に当たらせ,危険なければ一部を他へ応援させる.
 消防隊や警防団が着いたら,その指図で消防の補助に当たる.
 風下では飛び火の警戒をする.
------------

……とまあ,こういう感じで,のんびり構えてたら,実際の空襲は想像以上の激しいもので,犠牲者が多数出たために,方針転換して,退避を優先するようになっています.

 また,防火帯と言って,延焼を防ぐために,焼けていない住宅を破壊して,空間を作り,そこで火を止めようとしました.

 消火剤の開発なんてのは,端っからしてません.
 してたら,皇居や神宮は焼けてませんて.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/05/24(火)
青文字:加筆改修部分

※ 屋根で止まった場合の対処法というのがあるのは,焼夷弾は日本家屋を詳細に研究し,消火しにくいように屋根や屋根裏で止まるように作られたから
 NHKの東京大空襲の番組によれば,その後,屋根瓦を突き破って中で発火する様に改善された.
 実際に日本家屋を作って投下テストをしたそうだ.
 うちの祖母から聞いた話では,畳みに突き刺さってボーボーと花火みたいに火を噴いていたそうだ.
 焼夷弾の設計を命じたのは,かのカーチス・ルメイ.

 爆撃した米側でも,
「初期の大空襲では多数の死者が出たが,途中から避難が上手になったので,空襲規模の割に死者が激減した」
とする分析があります.
 結局,上記のようなことは無駄と気づいて,燃えるにまかせてさっさと逃げる,に転じたことが人的被害を抑えた,ということでしょう.

 ちなみに,誰かの手記で,,,
 女子供は疎開させ,親爺と二人で家にいたら,空襲襲来.
 焼夷弾というのは鉄パイプみたいなもんで,それが何十本も束になってるのが,空中でバラけて1っ町,ワンブロック,いっぺんにドサドサ落ちてくる.
 自分の家にも一本,屋根瓦をブチぬいて,天井板を突き抜け,畳をブチ抜き,縁の下:床下の地面に深ぶかと突き刺さる! モノ凄い勢いで!
 と, ケツから鉄パイプの,火がブワーって吹き出して天井板までとどく勢いの!
 とてもとても消せるような代物ではなくて,第一,近づけ無い,家ン中が真っ赤に染まる.
 それでも,我が家は自分と親爺,男手が2人いたので,庭の土をバケツに入れて延焼しないよう死に物狂いで廻りに掛けまくる!
 すると,さしもの焼夷弾も尻から火が出なくなり・・・家は守りきった.

 ホッとして,家から出てみたら,ご近所中が火の海.
 ほうほうのていで,親爺をかばって逃げ出す.
 消火中に大火傷を負ったのだ.
 火の海の中をナントか男2人,だったからこそナントか,逃げ出せた.

 数日後,焼け野原の中で自分家も跡形も無かった,そうだ.

 アメ公,ヒデー事すんナァ〜・・・ort

軍事板,2005/05/24(火)
青文字:加筆改修部分

 一方,曾祖母が,防空壕に飛び込んできた焼夷弾を新聞紙で消火したっつー,「信じられないが本当だ」チックな話あった.

たれ in 「軍事板常見問題 mixi別館」
青文字:加筆改修部分

▼ 以下は実際に「防空」に狩り出された人の証言.
 非合理とも思える命令になぜ人々が従ったのかについて,示唆するところが含まれている.

――――――
 隣組では防空訓練が度々行われ,バケツリレーや竹槍の使い方を習い,銃後を守る者の心得を説き聞かされた.
 また,各戸に至急,防空壕を掘るようにとの通達があった.
 それによれば,畳を上げて,床下に一家全員が入れるほどの穴を掘れ,という命令だった.

 今から考えれば,愚かしい限りである.
 こんな壕に入っていれば,家に焼夷弾でも落ちたら,または類焼にでもあったら,一家全員こんがりと蒸し焼きになるであろうことは自明の理ではなかろうか.

 それにもかかわらず,誰も異を唱えず,不条理を指摘もせず黙々とその命令にしたがって穴掘りに取りかかった.
 その頃の国民は,強力な,一種のマインド・コントロールにかかっていたのか,あるいは逆らっても無駄だという無力感にひしがれていたのだろう.
 全く,羊のように従順だった.

――――――『サザエさんの東京物語』(長谷川洋子著,朝日出版社,2008.4.30),p.52-53

 ちなみに以下のような「消防豆知識」もあるので,次に空襲を受けたときには活用されたし.

――――――

 あの,火事ってものは,燃え盛っているときよか,少ゥし下火になったときが,一番危険なんですってね.
 あたりがすっかり温まってますから,ちょっと風さえ吹けば,すぐ燃える,そこでまた再び火災が起こるんですって.
 そんなことを聞いてるから,燃え残りンところィもあたりのほうから水をかけちゃいましたから,無事にまァ,焼け止まったわけです.

――――――林家正蔵(先代)著『正蔵一代』(青蛙房,2001/4/25),p.206-207

防空電球
消火弾
焼夷弾拾い器
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 第二次大戦中の疎開と言えば,日本では学童疎開が有名だが,大人の疎開はなかったのか?

 【回答】
 建物疎開というものがあった.
 これは都市部の民家などを強制的に立ち退かせ,防火帯を作るためのものだった.
 突如として家を失うことになった市民は,たいそう困惑し,また,不満を持ったという.
 硫黄島などの小笠原諸島,沖縄などの南西諸島では戦時疎開が行われ,本土の疎開地へ強制移住させられた.

 その他は,専ら縁故を頼っての自主避難だった.
 例えば横溝正史は,縁者の世話で岡山県岡田村に昭和20年始めに疎開.戦争中は農作業をするなどして,そこで4年間を過ごした.
 「獄門島」「八つ墓村」は戦後,同地での執筆.

 一方,頑固に避難を拒む者もいた.
 以下引用.

――――――
 師匠は,どんなに戦局が激しくなっても,東京を離れる考えはなかったようです.
「芸人がみんな東京からいなくなっても,俺は一人になってもラジオの前でしゃべるよ」
なんてことを言っていました.
 ですからNHKのほうでも,金馬さんはいつも東京にいる,というので師匠のことをとても大事にしていました.
 おそらく噺家が,大戦中に放送に出た回数は師匠がトップだと思います.
 頑固者,という部分もあったのだと思います.威勢がよくて意地っ張りだから,空襲が来ても怖いなんてことを決して言いません.
 それに付き合ったおかみさんも偉い人ですね.

――――――三遊亭金馬著『金馬のいななき』(朝日新聞社,2006.3.30),p.65-66

 古今亭志ん生師匠は,空襲から逃れたい一心で,疎開代わりに満州慰問団に参加した模様.
 以下,その根拠.

――――――
 なぜ志ん生が満州へ行く気になったかについて,多くの書は,
「むこうには,まだ酒がありますから」
と,いうひと言に,無類の酒好きであった志ん生がすっかりまいってしまったからだと伝えている.

 しかし,実際はそうではなかったようだ.
 むろん酒の豊富なことが,志ん生の食指をそそったことは間違いない.
 そのこと以上に,その自分,連日になっていた空襲を異常に恐れていたのだという.
 空襲から逃れたい一心で,いわば,なんとしても自分だけは助かりたいという気持ちから,家族も,何もかも捨てるようにして,満州の地へ逃れた志ん生の人間的な弱さが,実は強烈な自我の塊と化して,〔大連での敗戦の混乱において〕志ん生を支えたのだ.

 まだ志ん生が不自由な身体ながらも高座を続けていた時分のことだが,僕は金原亭馬生と飲んで,こんな話を聞かされたものである.
「私は,実は親父は,それほど好きじゃないン.
 そりゃ芸人としては認めますよ.
 でも,ひとの親としちゃ駄目ですよ.
 だってそうでしょ,みなさん方は他人だから自由で面白いなんて言うけれど,あのもののない時代,一家の働き手に満州くんだりまで行かれちゃって,あとに残された者が,どんな思いで毎日を過ごしていたか」

――――――矢野誠一著『志ん生のいる風景』(青蛙房,1983.12),p.32-33

 なお,定義上は自主避難は「疎開」に含まれない.

消印所沢


 【質問】
 建物疎開について教えられたし.

 【回答】
 時に戦災と言えば,大概の人のイメージは,爆撃での焼失が主であると思いがちですが,実はその前から建物疎開と称して,全国で55万戸に上る建物の除去が行われ,人口200万人分の家屋が強制的に取り壊されていた事は余り知られていません.
 「疎開」と言う言葉は,第二次世界大戦時に英国政府が使用した"evacuation"と言う言葉の訳です.
 当初は,防空意識を削ぐと言う理由で,「避難」と訳されていましたが,1943年10月15日の閣議決定「帝都及重要都市ニ於ケル工場家屋ノ疎開及人員ノ地方転出ニ関スル件」で,初めて「疎開」と言う言葉に転換されました.
 12月には,「都市疎開実施要綱」に基づき,全国12都市が疎開実施区域とされ,1944年3月には人員疎開を行う「一般疎開促進要綱」そして,6月には有名な「学頭疎開促進要綱」が打ち出されました.

 建物疎開で最も大きな被害を被ったのは,戦災を余り受けなかった京都市です.
 第1次疎開が1944年10月に始まり,1945年1月には第二次,3月に第3次,更に夏に第4次を執り行う最中に敗戦を迎えることになりました.

 これにより建物を取り壊した跡地は,四条通と七条通の間の五条通となり,
丸太町通と四条通の間に御池通,
烏丸通と千本〜大宮通の間に堀川通,
七条通と九条通の間に八条通
を作り上げ,それぞれ幅員60m,計67haの疎開空地帯を縦横十文字に配し,それを小規模に補完する幅員8〜11mの消防道路が設けられ,出町柳,市役所前,京阪三条,四条大宮,南座附近に交通広場と称する空地が作られました.
 主要工場や鉄道線路沿いにも防空空地帯が設けられ,各所に疎開小空地を設けて,計133haの木造家屋を強制的且つ強引に取り壊されていきました.

 京都の戦後復興は,この疎開空地の利用が中心課題になっていきます.

 それ以外の都市では,こうした建物疎開は全く意味を成しませんでした.
 大阪市では1943年3月に防空法に基づき,203haの疎開事業に加え,放射状に7,998haに及ぶ防空空地帯が設定されていました.
 こうした空地帯は戦後になって,服部緑地,鶴見緑地,久宝寺緑地,大泉緑地と言った緑地公園や,長居公園や住之江公園と言った公園に利用されていきました.
 しかし,残念ながら空襲を防ぐことが出来ていません.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/08/12 23:15


 【質問】
 田中角栄の田中土建は戦時中,なぜ急成長できたのか?

 【回答】
 それ以前からの理研との結びつきに加え,東京の工場疎開で多いに有能さを示したためだという.
 以下引用.

――――――
 〔昭和〕19年暮から,東京近辺の工場は軍命令で朝鮮への疎開作業が行われていた.
 このとき,王子神谷町にあるピストンリングの工場を朝鮮の大田に移設する工事いっさいを田中土建という会社が請け負った.
 この会社の社長は田中角栄である.
 彼は在満勤務の兵役中,クルップ肺炎にかかり,内地に護送されて16年10月に除隊していたのである.

 彼はすぐに,警視庁の衛生技師を辞めていた前からの親友,中西正光の世話で飯田橋近くに建築設計,同工事請負,機会基礎計算の事務所を開き,理研との関係を復活して目の回るように忙しい日々に突入していった.

 この事務所の大家は土建業者だったが,その主は前年死んで事業を閉鎖していた.
 ここには子供一人をもうけながら,不縁で帰ってきていた娘がいた.
 田中は彼女と結婚し,事業を継承して,翌18年には今までの個人企業を田中土建工業株式会社と改めて,社長となった.
 彼は公病で除隊したため傷痍軍人記章を持ち,再び赤紙の来る恐れはなかった.
 この傷痍軍人≠ヘ大変な働き者で,日曜も祭日もなく活動し,この年には年間施工実績は全国50社の一つに数えられるようにもなっていた.

 そして,19年には2千万円を上回る工費で,理研工場疎開の大プロジェクトを請け負ったのである.
 金は興銀の窓口から支払われた.
 彼は目を見張る機敏さで,どう手配したのかアッというまに輸送船を調達し,もちろん自ら朝鮮半島に渡って,木材の買いつけなどのために駆け巡る傍ら,延べ37万5千人の人夫を動員しての大工事を完了してしまった.

――――――宮田親平著『科学者たちの自由な楽園』(文藝春秋,1983/7/15),p.249-250

 ただし同書は,ソースの一つに田中角栄の自伝『田中角栄私の履歴書』(日本経済新聞社,1966)を用いているようなので,その点は留意されたし.

 また,
>どう手配したのか
の部分も明らかにしてほしかったところ.


 【質問】
 田中角栄と理研との接点は?

 【回答】
 宮田親平著『科学者たちの自由な楽園』(文藝春秋,1983/7/15),p.197-208にて,田中角栄の自伝『田中角栄私の履歴書』(日本経済新聞社,1966)を参照して記述しているところによると,そもそも田中は,理研が新潟県に多数工場を持っている縁から,理研会長の大河内邸で書生として学校に通えるという話を聞き上京.
 大河内邸を訪ねると,「話は理化学研究所へ」と言われたものの,理化学研究所が理研のことであることも知らず,そのまま東京で,「仮の宿」のはずだった土建会社で小僧に.
 その後職を転々としながら勉学を続け,中村勇吉という人の個人建築事務所に設計技術者の職を得た.
 その事務所が理研産業団の仕事を請け負っており,田中も美松ビルに出入りしている内,大河内と3度ほど偶然出会い,中村が応召したために田中が独立していたこともあって,まず「理研コランダム」の水槽鉄塔の設計を受注.
 王子,荒川一帯における新工場計画に参画したり,大河内の依頼を受けて群馬県の小工場の買収に赴いたりと,理研に籍こそ置かないものの,まるで理研の一員のような活動をしたという.

 田中の自伝がソースである為,「偶然」という言葉には眉に唾したほうがいいのかもしれないが,一方,大河内がバイタリティに富んだ田中のような人物がお好みで,外様の人間を抜擢することもあったというのも事実のようである.

 ちなみに戦後,田中が代議士として当選できたのも,この「理研地盤」のおかげ.

 【質問】
 第一次・第二次大戦でロンドンの地下鉄は,防空壕として活躍しましたが,アメリカ・イギリスから大量爆撃を受けたドイツや日本の都市でも,地下鉄は防空壕代わりとして役に立ったのでしょうか?
 あの爆撃量を考えると,ドイツや日本では役に立たなかったような気がしますが,実際のところどうなんでしょうか?

 【回答】
 日本の場合は,1945年1月27日に銀座一帯が空襲を受けた際に,銀座駅の新橋寄りのトンネルに500kg爆弾を被弾.
 半月ほど単線での運転を余儀なくされますが,東京大空襲では,職員の懸命な消火活動によって,特に大きな被害が出ませんでした.
 但し銀座線は,車庫が地上にありますし,渋谷駅近辺は高架ですから,1945年5月24日の渋谷空襲では,電車5両が焼失しています.

 また,爆撃対策として,河底トンネルが破壊された場合を想定して,コンクリートブロックを水底に沈めることも考えられましたが,これは資材不足で頓挫しています.

 このほか,地下鉄ではありませんが,京成の上野〜日暮里の地下区間を,国鉄車輌の避難場所に提供していたこともありました.

 大阪では,当時開通していた御堂筋線梅田〜天王寺間の駅が,空襲の避難場所として指定されています.
 これは構造物が300kg爆弾に耐えうる設計であると言うことでしていされたものですが,実際には米軍は1t爆弾を投下するに至り,トンネル破壊や水道管破裂によるトンネル水没が懸念され,空襲時には駅の出入り口は閉鎖されることとなりました.
 尤も,1945年3月13日からの大阪大空襲では,駅舎を解放し,避難民を収容した上,交通局は夜通し電車を運転して,彼らを安全な場所へ避難させています.

 ドイツの方は,都市への集中を排除する方向ですので,地下鉄自体の整備も遅れており,BerlinとHamburg程度しか地下鉄はありません.
 しかも,その地下鉄の建設地は非常に脆く,そのため函型の構造体を地中に埋めて補強して地下を掘る形式を採った為,地下鉄と言えども,非常に浅いところを走っていますので,防空壕としては役に立ちません.

眠い人◆gQikaJHtf2,2006/12/18(月)


 【質問】
 「警防団」とは?

 【回答】
 空襲に備える為,消防組と防空を担当する防護団を統合した団体.
 1939年結成(by 広辞苑)

http://www5.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=514369&log=20071228
によれば,隣組を取り仕切り,時に「お上」を笠に着て命令調で振舞ったという.

 しかも,元を正せば仕事のなくなったサラリーマンと,売るモノが無くなって転職した元小売商人.
 物資不足の折,売り手と買い手の立場は逆転していたため,商売人はふんぞり返って「ああ」と生返事するくらいだったので,なおさら威張ったという.

 詳しくは同コラムを参照されたし.


 【質問】
 日本本土空襲に対する消防の活動について教えられたし.

 【回答】
 さて,帝都防衛の第一線に集められたのは何も軍隊だけではありません.
 当時は警察に所属していた消防隊も,空襲の炎を消す為に,奮闘していました.
 寧ろ,帝都の庶民が頼りとしたのは,軍隊ではなく消防だったのではないでしょうか.

 1941年12月以降,帝都の空襲対策は等閑にされていました.
 それが引っ繰り返ったのは,1942年に行われたドゥリットル隊の空襲でした.
 異国の軍用機を絶対に帝都上空に侵入させないとされたのがあっさりと反故にされた訳です.
 更に泥沼の戦局が続き,国民の中には厭戦気分が蔓延しつつありました.
 それは消防隊も例外ではなく,戦意昂揚と士気の鼓舞のため作られたのが,「消防訓律」と呼ばれるものです.
 これは,消防隊の戦陣訓みたいなもので,24条から成っています.

――――――
消防訓律
第1条 尊厳ナル国体ノ本義ニ徹シ至誠一環皇運連扶翼ノ道ニ精進スベシ
第2条 崇高ナル職責ヲ自覚シ各分ヲ尽シテ消防使命ノ完遂ヲ期スベシ
第3条 旺盛ナル消防精神ト強健ナル体力ヲ錬成シ只菅訓練以テ機ニ応ズルノ力ヲ養ウベシ
   (略)
第13条 常ニ上官ノ意図ヲ体シ至純以テ服従ノ誠ヲ捧ゲ進ンデ之ガ補佐ヲ為スベシ
第16条 機械器具ハ愛護保全ニ努メ物心一体以テ機能ノ妙用ヲ発揮スベシ
   (略)
第21条 猛煙猛火ニモ心ヲ動セズ混乱ノ事態ニモ沈着ヲ失ハズ勇猛果敢ニ任務ヲ果シ死スルモ尚已マザルノ気概アルベシ
   (以下略)
――――――

 ええ,全部精神論ですが何か?
 当時の機関紙『帝都消防』はこの制定の趣旨を解説して曰く,
「科学消防を以てしては満足出来ざる事なり,魂の消防建設でなければならない」
と書き,消防隊の人々に対しては,
「人体の6割は水分,何も無かったら腹で押さえて焼夷弾を消せ」
と言う教育も行われていたそうです.

 ところで,その消防の体制とはどんな感じだったか,と言えば,例えば,日本を代表する軍需工場の1つだった中島飛行機武蔵野製作所の場合を例に取ってみると….
 工場が設置されると人が集まる,人が集まると犯罪が増えると言うので,警察署は逸速く出来ました.
 しかし,消防や救急は後回しで,地元の警防団が火事の時には「いざ鎌倉」とポンプ小屋に駆けつけると言う,昔ながらの村消防のレベルの儘でした.
 官設の常備消防の予算を要求しても,未だ早いと見送られてしまっています.
 仕方なしに,立川市が市の予算を投じて1942年4月1日からポンプ車1台と警防団員9名で常備消防をスタートさせました.
 次いで,翌年4月1日から武蔵野市も同様に,,ポンプ車1台と警防団員9名の体制で常備消防をスタートさせています.
 こんな状況では,東洋一の工場が万一空爆を受けた場合はおろか,一般の火災でも手が回りかねる,誰が見てもアリバイ作りとしての消防体制でしかありませんでした.
 1942年7月1日,東京府が東京都となり,予算規模が拡大したことでやっと1943年10月25日に,八王子,立川,武蔵野に定員81名,ポンプ車各6台装備の消防署が設置されています.

 また,帝都防衛に於ける車輌の増強では,はしご車や救急車の増備は見送られ,その増備の主力は,専らポンプ車でした.
 1941年10月には267台のポンプ車が全国に配備されていましたが,1943年12月までに783台に増加しています.
 ポンプ車を増強する為に,内務省は,消防署に配備するポンプ車の生産台数を729台とし,その内130台を中古車や廃車を修理したり改造して使い続けるポンプ車生産強化を進めました.
 ところが,計画はあるものの,既に全国的に資材不足で,ポンプ車増強政策は遅々として進まず,一方で,現場からは「1台でも多くポンプ車を!」と矢のような催促.

 遂に1943年3月,政府は地方各県の村々の消防団のポンプ小屋や物置で眠っているポンプ車や手引きポンプを東京に供出させる命令を出しました.
 こうして,北は青森から南は三重県まで,18県から301台のポンプ車と920台の手引きポンプが帝都に掻き集められました.

 ただ,こうして量は揃ったものの,質はと言えば,ポンコツ車が多くて故障が多く,整備に手間取り,遂には整備陣が匙を投げて車庫に起きっぱなしの役立たずの骨董品ポンプも多数あったりします.
 一方で,新規製造ポンプ車が配備されても,粗製濫造の状況でエンジン不調は未だしも,一旦エンジンが止まると二度とかからなくなると言う厄介な代物もあり,機関員泣かせだったそうです.
 そのポンプ車は,1945年3月以降,従来の赤から国防色に塗り替えられました.
 これは防空面もありましたが,実は赤色塗料の原料が不足し,残ったのが国防色だったと言うのが真相だったりします.
 また,「戦訓」を得て,防弾用に古畳をボンネットに縛り付け,ガソリンタンクを三寸柱で囲んだりしたものも出現します.
 更に,消防車の全滅を防ぐ為,1944年以降は,消防署や屯所から200〜300m離れた所に臨時車庫を設置して,予備のポンプ車を収容していました.
 この臨時車庫は,一方の出口が塞がれても,片方の出口から出られるような条件の場所を選び,廻りの地形を利用して土嚢で周りを囲んだ横穴式,半地下式の車庫を造り,ガソリンも安全な民間遊休施設を利用して分散貯蔵としたり,消防署の望楼が敵機に攻撃されないよう,木の枝で偽装するなどの涙ぐましい努力をしています.

 1944年7月以降は,更に消防署所の設置場所付近に全員を収容しうる退避場所を設けることが義務づけられ,ポンプ車の風除け前面ガラスは飛び散らないように,ガラスを外して保管すると言った対策も命令されるようになります.
 空襲の際には,望楼に上った1名を除いて全員が防空壕に潜み,消防署の車庫の扉は開け放たれ,出動命令が出るのを今や遅しと待ち構えている状態でした…が,消防資機材は何時も不足気味で,頭部保護の為に使用する鉄兜の代用品には竹で編んだ竹兜を充当したり,消防士が身につけるズック靴は麻と干し草で編んだ草履靴で代用し,火事場に着ていく「刺子」も大小まちまちで数が不足した為,破れを継ぎ接ぎしたボロを着る者もいました.
 ポンプ車を動かすガソリンも質が悪く,幾ら力強くクランクを回しても一向にエンジンが掛からない器材も多かったりします.
 この為,駐留部隊や基地などと交渉して内緒で良質のガソリンを貰い受け,そのガソリンは点火用にだけ使用すると言った涙ぐましい努力をしていました.

 ええ,それでも,上からはこう言われたそうです.
 「モノが足りなきゃ,頭と体を使え!」とか,「エンジンが掛からないのは腕が悪いのだ!」と消防訓律16条で謳われた精神論が蔓延っていた時代,いよいよB29による帝都空襲が始まり出しました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/08/21 22:12

 さて,帝都に対する本格的夜間空襲が開始されると,消防の苦労は筆舌に尽しがたい状況と成ります.
 1944年11月29日午後11時頃がその最初の空襲となりました.

 神田消防署管内では,12箇所から同時に炎が上がりましたが,手持ちのポンプ車は僅か7隊のみ.
 その前に,東京都心の消防署から軍部は,6割のポンプ車と隊員を軍需工場を守る為の消防隊として抽出し,緊急配備をしましたが,その補充が来ない中での対応となり,本部への増援も混乱の中で遅れること2時間余.
結局,放任火災となって皇居の外堀で火流を止めざるを得ませんでした.
 日本橋消防署管内でも,13箇所から同時に延焼火災が発生し,手持ち12台のポンプ車で対応しても火勢に衰えが見られず,応援が来た時には既に大火流と化していました.

 そんな中でも,上空からB29は焼夷弾を容赦なく降らし,神田界隈は,正に消防隊とB29とが戦う戦場と化していました.

 その鎮火に目処が立った翌30日午前4時頃に敵第2波がやって来て,都心へ50kg爆弾19発,焼夷弾1,303発を投下し,都心に火の手が上がりました.
 こうした波状攻撃に対し,消防隊は為す術が無く,火災は合流して広範囲が焼け尽されて午前6時に自然鎮火しました.

 この原因は,軍部や消防隊上層部の楽観主義と精神主義が主だったりするのですが,結局は精神主義で克服しろとばかり,休みの非番員と機関員を署に足止めさせたり,3日連続の宿直勤務の上,1日休みと言う戦場よりも過酷な勤務を消防隊員に強いることになります.
 また,「質よりも量」が優先される結果となり,警防団員と学生を消防署に勤務させる,特別消防員制度,後に学徒消防隊員制度が出来ていきます.

 一方,生き残る為に庶民も必死でした.
 当初言われていた,初期消火への対応は神通力を失い,初期消火は二の次にして「空襲は一時退避」と言うのが都民達の暗黙の了解事項となっていました.
 既にこうした同時多発火災に対して,火叩きとバケツリレーでの初期消火は無力だという事が判った訳ですが,政府は消防の充実を図るよりも,こう宣っています.

 今回の如き空襲は当然に覚悟すべき処で,国民は益々忠勇義烈の精神を奮起し…本土も戦場だと覚悟し一致結束して防衛に期して欲しい.
 そして,「焼夷弾はつまみ出せ!」と強要し,相変わらずのバケツリレーの消火訓練を実施,更にそれに参加しない家には,「非国民」と言うレッテルを貼りました.
 とは言え,命を省みない初期消火の強要が,結果として多くの人々の犠牲を出すことになったのです.

 また,軍部や上層部は現実を見ていませんでした.
 江戸川消防署管内は,B29の帰還経路に当り,その周辺で機内に残っていた爆弾を捨てる場所にもなっていた様で,屡々空襲警報がないのに爆弾投下の憂き目に遭いました.
 例えば,1944年12月6日には中島飛行機武蔵野製作所の爆撃帰りのB29がその界隈で爆弾を捨てた為,江戸川消防署管内で火災が発生しました.
 これを空襲火災であると警視庁防空本部に報告すると,本部では本気にせず,「そんな馬鹿なことがあるか」と怒られたそうです.
 信用しないので,何度も空襲火災であると報告すると,東部軍から参謀が,防空本部から警防課員が来て調査した結果,「空襲火災に間違いない」と言う事になったと言います.
 因みに,江戸川消防署にはこうした火災が相次いだ為,消防内でも「江戸川は危なくて行けない」と言われていました.
 その空襲では民家2棟が全焼し,死者3人,負傷者11人の被害が出ましたが,警報も鳴らず,ラジオでも空襲の臨時ニュースが流れない事に周辺住民が腹を立て,頼りない軍部を口々に批判したりした為,警視庁は警備隊を派遣して騒動を収拾しなければなりませんでした.
 正に,「空襲は現場で起きているんだ!」です.

 以後,失態を恐れた軍部は,敵の動きに異常なほど神経をとがらせ,怪しいと思ったら即座に警戒警報を発報しました.
 …別名を小心者とも言いますが….

 例えば,翌7日の場合,午前1時32分にサイレンが鳴り,2分後に空襲警報,空振りで朝の4時5分に解除.
 午後5時45分に警戒サイレン,空襲警報になりましたが,これも空振りで午後7時15分に解除.
 翌8日午前2時5分に警戒サイレン,10分後に空襲警報,朝の3時45分に空振りで解除.
 午後12時00分に警戒サイレン,これまた空振りで14時30分に解除.
 翌9日午前3時9分,警戒サイレンが鳴り,53分に何事もなく解除.
 午前9時44分に警戒サイレン,これまた機影無く,10時20分に解除.
 午後8時00分に警戒サイレン,何も無くて45分に解除.
 …これだけ「狼が来た」的サイレンが鳴り続くと,かくて庶民は誰もサイレンを信用しなくなりました.

 逆に空襲が起きているのに,空襲警報が解除されていたりしたこともあって軍部は相当狼狽していたと思われます.
 尤も,米軍も戦術を変え,目標上空に飛来しても一旦フライパスして,空襲警報が解除された頃を見計らって再度侵入して爆弾を投下したり,複数機が2度3度とフライパスして,慣れた頃に投下とかをしています.

 例えば,12月30日の空襲はたった1機のB29によるものでした.
 12月30日午前1時に静岡から侵入した機体は1時間後に海上に姿を消し,一旦警戒は解除.
 ところが,3時35分に隅田川沿いを飛来したB29が1機,浅草に焼夷弾を投下します.
 これに消防隊は不意を突かれて初期消火に失敗.
 100台のポンプ車と37台の手引きポンプ車を投入しましたが,浅草や蔵前の問屋街合わせて148棟,3,944坪が炎上と大被害を被りました.
 大晦日も,午後9時43分に警戒警報が発令されますが,発令と同時に焼夷弾が落ちてきて,空襲警報は発令されず,疲労困憊の帝都消防隊は下谷長者町,上野大門町,神田五軒町,末広町,浅草小島町,七軒町,永住町,北三筋町などが炎に包まれたのを為す術もなく眺めているだけで,527棟38,403坪が灰になっていきました.

 この警報は午後10時10分に一旦解除されましたが,午後11時50分に警戒警報が鳴り響きました.
 既にこの頃には警戒警報→空襲警報と言う流れは無くなり,警戒警報だけとなっていました.
 1945年1月1日午前0時0分きっかり,お年玉のように第2波が襲来し,未だ消えていない火災の火を目標に浅草公園仁王門前の仲見世と雷門一帯に120発の焼夷弾が落とされ,次いで,下谷区の南北稲荷町,本所区の向島1〜3丁目,吾妻町西1,4丁目と浅草寺を中心とした下町に油脂焼夷弾683発を投下し,41棟704坪を焼失,死者5名,負傷29名に罹災者173名が新年早々に住む家を失いました.
 既に第1波の空襲で手一杯だった消防は,ポンプ車30台,手引きポンプ車50台の応援部隊を要請し,やっと明け方に鎮火しましたが,第3波が午前5時に京浜地区からB29が2機侵入し,江戸川区と葛飾区に焼夷弾を投下して,20分後に姿を消しました.
 流石に,第3波の場合は警防団や民間防空員の活躍で初期消火活動がスムースに行われ,6棟の全半焼で済みました.

 そして,帝都消防にとっても,1945年は正念場となっていきます.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/08/22 20:57

 さて,1945年3月9日未明から10日にかけて,東京は大空襲に見舞われました.
 消防隊は奮闘しましたが,消防車の焼失96台,手引きポンプ焼失150台,水管1,000本,そして,隊員の焼死85名,行方不明40名,警防団の死傷者500名超と言う記録が残っています.

 当時の『警視庁消防部空襲災害状況』によると,空襲開始が10日の午前0時8分でしたが,実際には9日の23時50分であったと言う証言が多かったりします.
 深川消防署では,敵機が2機だけと言う連絡を聞き,深川区白河町,三好町,木場に掛け出火と共に10数カ所の火の帯が出現した為,深川消防署所有のポンプ車3分の2,本署から3台,常磐隊3台,清澄隊2台,千石隊2台,猿江隊3台,永代隊2台の計15台を出動させました.
 つまり,一挙に投入して火勢を消し止める作戦を採りましたが,これが裏目に出ます.

 その後に来襲した第2波,第3波の焼夷弾集中攻撃に遇い,猛火に囲まれて前に進めず,已むなく方向転換(転戦と言ったらしい)を余儀なくされ,2台は焼夷弾の直撃を受けて隊員諸共火達磨となりました.
 結局,深川と洲崎両消防署で46名の殉職者を出しました.
 この時の深川消防署の報告書にはこうあります.

――――――
無数ノ独立火災ノ合流ハ,烈風ノタメ瞬時ニシテ深川消防署管内ヲ包囲セルタメ,防衛奮戦中ノ各隊ハ四面ニ火流ヲ浴ビ脱出セントスルモ遂ニ及バズ,猿江公園ニ脱出シタルハ僅ニ三隊ノミノ悲惨ヲ惹起スルニ至リタリ
――――――

 隣接の本所消防署,城東消防署でも状況は同じで,本所には錦糸町,江東橋の一帯に第1波が来襲し,一挙に無数の火柱が上がり,7台のポンプ車では対応出来ず,「30台の応援を頼む」と言う要請も空しく,転戦,又転戦と火中を敗退していきました.
 第2波の向島,小梅の火災には2台,第3波の緑町,堅川,菊川の火災に3台,第4波の石原,亀沢に手持ち隊全部を投入して,遂に本所消防署には手持ちポンプ車が無くなりましたが,尚も敵は第5波,第6波と襲来し,2台のポンプ車が直撃を受けて隊員10名も火達磨となり殉職.
 以降,火災は燃えるに任され,火が無いのは隅田公園の一部だけとなりました.
 この時の本所消防署の報告書にはこうありました.

――――――
 スデニ部隊ナク,放任ノヤムナキニ至リ,終始応援隊無ク敢闘セルモ力及バズ,隊員十名ノ殉死ト共ニポンプ車七台を焼失セシメルノ悲惨事ヲ惹起セリ
――――――

 城東区は8波の集中攻撃を受けました.
 城東消防署の報告書にはこう書かれています.

――――――
 部隊三八隊ヲ転戦シ,敢闘之務メタルモ,地域ノ大半ガ工場地帯ヲ形成シ居リタル関係上,火勢ハ最モ猛烈ヲ極メ,僅ニ亀戸九丁目同八丁目ノ一部ヲ残シテ大半を鳥有ニ帰セシメタリ,尚職員ノ殉職五名行方不明二十一名重軽傷者百十三名ヲ数ヘ自動車ポンプ焼失二十六台ヲ算スル悲惨事ヲ招来セリ
――――――

 消防署には近年まで望楼と言うのがありました.
 高い建物のない時代,火事の状況と敵機の動きを望楼上で確認し,地上の消防隊に状況を伝える役目を持っていました.
 城東消防署では,本署が火に包まれ,全員が避難しても,望楼にいた職員は最後まで残り,報告を続けていましたが,いよいよと言う事で撤収をして望楼から駆け下りた直後,吹き付ける熱で望楼を支える鉄柱が飴のように曲がったそうです.

 東京大空襲の死者数は正確には分かりません.
 軍部でも,消防でも,警察でも,何所でどれだけの人が死んだのか正確に記録出来ていません.
 焼死体は原形を留めないほどに炭化し,溶け,四散していました.
 この為,釦とか蝦蟇口の口金,鉄兜などで死者数を割出したそうです.
 川に流れた死体も回収しきれず,東京湾に流れてしまった死体も多くありました.

 因みに,米軍戦略爆撃調査団がこの空襲の資料の提出を求めても,死傷者による日本の資料は皆無に近く,ドイツの場合,医師が検死して,空襲中の死者には一酸化炭素中毒が圧倒的に多い事が判明していましたが,日本の医師は検死しても,一酸化炭素という項目すら作らず,「圧潰及び窒息」と言う項目の12.9%から一酸化炭素による死者を推定するしかなく,調査団を失望させたと言います.

 因みに,この空襲で多くの消防隊員の殉職を出した原因として,報告書の中にはこう書かれています.
「ポンプ車ヲ援護セント…ポンプ車ト共ニ運命ヲ共ニセリ」
「管鎗ヲ握リタル儘殉職セルモノ多数アリ」
「本部ノ消失ヲ最後迄護リ…庁舎ト共ニ殉職」
 車から落ちた1本のホースを守ろうとして殉職した隊員や,エンジンが掛からないポンプ車を押して退避中に殉職した隊員,バケツで庁舎を守り遂にバケツを持った儘殉職した隊員など,『消防訓律』の過度な押しつけが,不必要な死を招いたのではないかと言われています.

 軍部の精神主義と言うのは,日本国中何所でも蔓延していた訳です.
 …まぁ,今でもそんなことをしている節が見られますがね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/08/23 17:57

 1945年3月9日の東京大空襲を皮切りに,名古屋,大阪,神戸の4大都市を灰燼に帰して,焼夷弾の在庫が尽き,それが溜まるまでに1ヶ月を要しました.
 こうした波状攻撃に,都市住民の戦意は地に落ち,都市部の住民は田舎に疎開し始めました.
 一方,軍部は「本土決戦準備」をお題目に,戦闘機での迎撃という爆撃機に最も効果的である防衛手段を講じなくなり,都市住民はその防衛網からほぼ完全に見捨てられました.
 結局は,第1線に立つのは消防隊の他はありませんでした.

 その消防隊も度重なる空襲被害で満身創痍であり,充分な活動が出来ませんでした.
 とは言え,空襲は待ってくれません.
 4月からは目の上のたんこぶ的存在だった中島飛行機武蔵野製作所を徹底的に破壊し,硫黄島占領による飛行場の整備で護衛戦闘機が進出して,迎撃してきたなけなしの陸軍機,海軍機は次々と撃墜されていきました.
 以後,制空権は完全に米軍の手に落ちました.
 4月13日の東京西北部の赤羽を中心とした空襲では,消防も都民を守ることを放棄せざるを得ず,重要施設の重点警護にのみ回って,残りの地域は燃えるに任せる事になりました.

 ただ,都民の側も空襲から学んでいました.
 現場に居残って初期消火等と言う愚にも付かないことをするよりも,逸速く逃げるが勝ちを選んだのです.
 この為,3月10日の東京大空襲に比べると死傷者は20分の1に留まりました…と言っても,2,500名弱の死者が出たのですが….

 4月15日には城南地区への空襲では,消防隊は単隊行動は採らなくなりました.
 集団行動により,孤立しての殉職やポンプ車の損壊は軽微で済み,全ての火災に対処せず,避難道路への放水を続けて都民の逃げ道を確保する作戦を採り,結果としてこれが死者1,000名弱で済んだ結果となっています.

 この日を境に,B29の大部分は沖縄作戦の支援に回され,東京への空襲は散発的なものとなりましたが,5月11日に再び焦土作戦が開始されることになります.
 14日と17日には名古屋が目標となり,作戦リストから消滅するまでに焼き尽くされ,23日には東京の番になりました.
 流石に,戦訓を加味した消防隊は,一般民家の炎上は涙を飲んで放任しますが,重要施設と避難路の確保に注力し,4月13日の空襲より被害は25%程度の留めることが出来ました.
 しかも,この時は護衛も付けず,かつ低空来襲だった為,日本側の対空砲火と迎撃活動も珍しく熾烈で,米軍記録では17機が失われ,69機が被弾すると言う被害を出しています.

 そのリベンジか,5月25日には万全の体制で昼間に戦闘機が基地攻撃を行い,夜間にはB29が都心部を襲いました.
 464機のB29が参加した空襲では,初期消火が為されずに無数に火の手が上がり,望楼からの視野が効かず,投弾量の測定が不可能となりました.
 火事場風は20mに達し,発電設備も被災して,都区内は停電し,浄水場の機能が麻痺して消火栓の水圧がゼロに低下,ポンプ車は転戦を余儀なくされ,更に突風で飛散するトタン板や看板でホースが切断してしまい,消火活動が不可能になったりもしました.
 また,ビルは耐火構造だから大丈夫と言う消防の判断も甘く,屋上のコンクリート部が弱く,焼夷弾が貫通して内部が燃えるビルや,通気口とか爆風で破損した窓から火が入り,次々に延焼し,階段やエレベータが火の通り道になって炎上していき,丸の内,霞ヶ関,日本橋のビル群が燃えていきました.
 消防隊は,木造家屋用の装備しか持っていない為,こうした鉄筋コンクリート建造物には手を拱いて見ていただけでした.
 結局,市街地の大半が焼失しましたが,死者は3,600名程度で済んでいます.
 ただ,絶対死守とされた皇居も炎上してしまい,その防衛に当った消防隊の被害は大きく,ポンプ車42台,殉職25名を出していました.

 そして,この日を以て,東京がリストから抹消されました.

 以後,都心の消防隊は地方都市や近隣都市に派遣して,応援に当りました.

 7月,八王子市内に天からビラが降ってきました.
 勿論,B29から撒かれたもので,爆弾に変えて,先ずは空襲予告を行い,それから徐に空襲を行うと言う,まあ末期的状況でした.
 このビラには,「72時間以内に爆撃が始められる」と言う趣旨のことが書かれて居ました.
 しかし,既にこれに対抗するだけの気概を持つ軍隊はありませんでした.

 ところが,消防隊は諦めていませんでした.
 7月31日の昼頃,甲州街道に列を成してポンプ車が八王子へと向かいました.
 消防部長は自ら陣頭指揮に立ち,49台のポンプ車を率いて八王子へと入って行きます.
 とは言え,八王子は消防用水が極端に不足しており,甲州街道の脇にあるドブ川を堰き止め,ポンプ車を並べるなど,空襲対策にこの堰き止めた水を利用しようと苦心をしていたりします.
 8月1日20時20分,空襲のサイレンが鳴り,2日の0時5分に立川市富士見町,緑町付近から空襲が始まりました.
 B29は5〜6機の編隊に分かれ,福生町,高松町,昭和町,八王子市へと合計310機が焼夷弾を散蒔きました.

 応援の王子消防隊員5名が火炎に包囲されて殉職,他2名が殉職し,その中には年少消防官4名がいました.
 事前に49台ものポンプ車を派遣し,万全の体制で臨んだのですが,結局八王子市は一夜にして全滅し,死者225名,負傷者221名,被害家屋8,607戸,301,843坪を焼失し,ポンプ車は12台を失って,帝都消防隊は惨敗しました.

 戦後,防衛庁がカーチス・ルメイに勲章を申請し,受勲したと言うニュースを聞いて,東京都の消防官達は一様に複雑な表情を見せたそうです.

 ところで,1947年5月,七ツ海と言う四股名の相撲取りが初土俵を踏みます.
 1952年1月には幕下優勝を果たし,翌場所幕下筆頭で勝ち越して9月には十両に昇進,1954年の秋には新入幕を果たし,33場所に渡って関取の座を務めました.
 1953年と1954年には大横綱である柏戸と大鵬を負かすと言う殊勲を挙げています.
 この七ツ海,元はと言えば,東京大空襲の最中,ホースを持って火災現場を駆け巡っていた大きなガタイの消防官でした.
 消防官のリストラが人々の口の端に上った時,偶々双葉山の引退相撲を国技館に見に行って,立浪部屋の大島親方にスカウトされた事から,世界が大きく変る事になったそうです.

 もし,東京に空襲が無く,消防官の増員が図られていなかったら,もしかしたら,彼の相撲取り人生は無かったかも知れませんね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/08/24 22:33


 【質問】
 防空壕の作り方を教えられたし.

 【回答】
 太平洋戦争の様々な日記を読んだり,資料を見たりしていると,太平洋戦争末期になると防空壕に関する話が結構出て来ます.

 防空壕には2種類有り,片や官庁や大工場,駅などで準備されていた集団防空壕,片や一般家庭で準備されていた家庭防空壕と呼ばれるもので,大抵は後者の記録が残っています.
 集団防空壕としては,松代大本営や日吉の海軍省地下壕なんかが有名ではないか,と.

 で,家庭防空壕ですが,更に屋内防空壕,屋外防空壕の2種類に分かれます.
 屋内防空壕は,床下に造るのが一般的ですが,場合によっては風呂場を改造して防空壕とする場合もありました.

 一方の屋外防空壕は,地上式,半地下式,全地下式の3種類があります.
 地上式防空壕は,一般家庭の庭先に造るのが多く,壕を造る場合は,木造に土盛りするか,土砂を詰めた木箱を積み上げて壁を造り,天井に板を渡して土を被せる様にしていました.
 半地下式防空壕の場合は,同じ様に庭先に造りますが,穴を掘って角材と板材で囲うか,丸太を打ち込んでから板囲いをして,上部に板を被せる構造.
 地下式防空壕も同様に,穴を深く掘って,角材,板材で囲うか,丸太を打ち込んでから板囲いをして板を上部に被せる構造でした.

 防空壕の上部構造には掩蓋式(掩蓋型)と露天式(開放型)の2種類があり,家庭用防空壕の場合は,投下される爆弾の爆風,弾片,破壊飛散物からの防護を考慮して,丸太・厚板・波板・畳等を用いた掩蓋式で,其の上に防水紙を貼り,50cm程度の盛り土をすることが推奨されていました.
 取り敢ず50cm程度の盛り土があれば,小型焼夷弾が防空壕の上部構造を突き破って,内部に貫徹するのを防ぐことが出来ます.

 防空壕に持ち込むものは,非常袋,救急箱,貴重品,位牌,食糧,懐中電灯,毛布等がありました.

 内閣情報局の指導としては,防空壕を木造住宅に設ける場合は,出入りが容易な屋内床下の地下若しくは屋外の地下を推奨し,止むを得ない場合に限り,効力は少ないが床上若しくは地上に造ること,としていました.

 家庭用防空壕は,防空従事者が弾片や爆風で無益な死傷をするのを避け,防空活動に備え,一時的に待機する場所でもありました.
 この為,地面を掘り下げて造った地下式防空壕の方が安全が高いとされた訳です.

 地下に造れない場合,地上又は床上に造る様になります.
 床上に造る場合,日常生活に支障を生じる様な場所であれば,警戒警報が発令されたら直ぐ造る事,とされていました.
 これはどちらかと言えば,防空壕よりも組立式防空設備とでも言うべきかも知れません.

 屋外式防空壕の場合は,上からの落下物に対し,頭などを保護する為に布団や鉄兜で頭や肩を覆う様にし,又,上部に畳を置くことで,鋭利な破片を防ぐことが出来るとされています.

 1940年12月に制定された『防空壕構築指導要領』では,防空壕の上部構造は掩蓋型が基本で,止むを得ない場合のみ開放型とし,下部構造は地下式が原則,湧水その他特別な事情があってもなるべく半地下式とし,地上式は最後の手段とされていました.
 内部施設については,片側席と両側席の2種類あり,大型防空壕では両側席とする様に指導されています.

 収容室の内法寸法は,小型防空壕で片側席の場合は,幅約2尺3寸(約70cm),両側席の場合は,幅約3尺3寸(約100cm),高さは約4尺6寸(約140cm)が標準とされました.
 腰掛けは奥行き約1尺(約30cm),高さ約1尺2寸(約36cm)が標準とされています.
 一方,大型防空壕で片側席の場合は,幅が約2尺6寸(約80cm),両側席の場合は幅が約4尺(約140cm),高さ約5尺(約150cm)とされました.
 防空壕の敷地面積は概ね1人当り0.45坪(約1.5m^2)を標準に算定し,収容人員が5名であれば約2.3坪(約7.5m^2),20人だと約9坪(約30^2)となっています.
 なお,丘陵地帯の場合は,横穴式防空壕が掘られていましたし,庭のない様な住宅密集地の場合は,公園,広場,運動場,空地などに公共用防空壕が造られていました.

 この前にも,鹿児島だか何処かで,防空壕が陥没して学生が亡くなった事件があった様に,彼方此方に防空壕が造られたので,未だに彼方此方にその痕跡が残っています.
 こうした防空壕は「特殊地下壕」と呼ばれ,1973年に建設省,農林水産省が実態を調査して,1974〜81年に掛けて危険性の高いものは埋め戻しの措置が為されました.
 その後,1973年の調査時点では危険性が余りなかったものでも,その後の老朽化,土地利用の変化によって危険性が増えた為,1994〜95年に再度建設省,農林水産省,林野庁,国土庁による特殊地下壕実態調査が行われています.

 こうした特殊地下壕の内,危険度が高いものについては国土交通省によって埋め戻し,防災処理が行われてきています.
 この埋め戻し,防災処理などを併せ,特殊地下壕対策事業として,戦時中に旧軍,地方公共団体等が築造した特殊地下壕に対し,地方公共団体が以下の様な事業を行う場合に,国が補助するものです.
 1. 市街地に現存する特殊地下壕で,陥没,落盤又は壁面の罅割れ,出水などが顕著に成っており,建造物に対する危険度が増し,放置し難いものの全部又は一部の埋め戻し
 2. 都市計画区域内の都市施設が被災し,その復旧に伴い特殊地下壕の埋め戻し,防災処理などが必要となったものについて,壕の埋め戻し並びに壕口並びにその両側に土留め壁を設けて施行するなど必要最小限の工事を行う事業

 安全面からこうした埋め戻しや壕口の閉鎖などは急がれているのでしょうが,一方で戦跡としての調査も本来必要なものであるはずなので,中々頭の痛い問題ではあります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/09/04 22:37


 【質問】
 「防衛食」とは?

 【回答】
 最近マイミクさんからお譲りしてもらった品にこういうものがあります.

 寿司屋の湯のみぐらいのサイズの焼き物の表には,“防衛食(防3)大日本防空食糧株式会社”と書かれ,蓋には“(防3)特許真空容器”“矢印ノクボミヲ釘デツクト蓋ガ取レマス”などとありました.

 おそらく民間用の空襲時の非常食だと思いますが,中身はどんなものであったのか気になりますねー.

よしぞう(maro') in mixi,2007年03月03日01:49

>防衛食

 最初は肉類. それの供給がなくなると,イワシや昆布,豆を入れていたみたいです.
http://tokinokake.exblog.jp/m2006-03-01/

ベタ藤原 in mixi,2007年03月03日 08:16

▼ これは戦時中,金属統制によって缶詰が作れなくなったため,その代用として陶器で作られた缶詰代用容器です.
 容器の中にモノを入れて暖めたところで,ゴムパッキンのついた蓋をしてさまし,容器の中を真空状態にして中身を保存すると云うものです.

 当初,中には肉類を入れていたようですが,後に肉類の供給が滞るようになると,イワシや昆布,豆などを入れたようです.
 んで,戦後20〜30年頃,戦時中に作られたモノを開封すると,普通に食べられた,とか (w`;

ベタ藤原 in mixi,2007年03月07日22:51・改

 今回は貴重な品をお譲り頂き,多謝です!

 また,資料サイトのご紹介も有難うございます.
 それにしても戦後まで,この保存食が作られていたとは驚きでした.
 その頃は物資も乏しかったでしょうから,野菜を煮たものでも詰めていたのでしょうか.

 それにしてもご紹介ブログにあった,“ある著書には戦後20-30年後になって開封したが味に変化など無かったと書いてありました.”という記述には…(((( ;゚Д゚)))

よしぞう(maro') in mixi,2007年03月03日 18:38


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