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◆◆◆◆◆◆日本の原爆研究
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<第2次世界大戦FAQ
『日本の原爆 その開発と挫折の道程』(保阪正康著著,新潮社,2012.4)
【質問】
戦前や戦中,日本の上層部は原爆について,どれだけ知識や情報を持っていたのですか?
「核分裂を利用すれば凄まじい威力を持った爆弾を造れるらしい」
というのは戦前から知識人の間では常識だったのですか?
「広島が一瞬で壊滅した」
と聞かされた時,上層部は誰もが
「あっ,原爆だ!」
と思ったのですか?
【回答】
ハーンによる核分裂の発見が1938年,その後すぐに放出エネルギーの測定,中性子の放出・連鎖反応の確認,原子炉・核兵器の構想がなされているので,戦前でも少なくとも原子物理学者なら
「核分裂を利用すれば凄まじい威力を持った爆弾を造れるらしい」
というのは常識でしょう.(兵器開発はともかく核分裂自体の研究は公開(発表)されてました)
http://sta-atm.jst.go.jp/atomica/group.html
また,日本でも原爆開発(陸軍の仁科機関.海軍も概念研究くらいはしたらしい)してましたし.
一般大衆の間にも,
「マッチ箱大で街を壊滅させられる爆弾があるらしい」
という程度の認識はあったようです.
以下引用.
------------------------------
8月7日の朝,仁科は陸軍将校の訪問を受け,即刻参謀本部へ同道願いたいとの申し出を受けた.
留守の間の指示をあれこれと弟子たちに与えている内,同盟通信の記者が面会を申し込んできて,
「広島に原子爆弾が投下されたとアメリカ軍が報じていますが,どう思いますか」
と尋ねた.
仁科は顔あおざめて〔原文ママ〕
「ありえることです」
と言いながら,軍の車に乗っていった.
研究室には「原子爆弾」と置手紙が残されていた.
参謀本部では,河辺虎四郎参謀次長が,
「6ヵ月以内に原子爆弾を製造することができませんか」
と質問した.
仁科は答えた.
「6ヶ月どころか,6年でも足りないでしょう.ウランがまるでないのですから」
では,原子爆弾を防ぐにはどうしたらよいか,と尋ねられて,これにはこう答えた.
「日本の上空に現れる敵機をことごとく撃墜なさることです」
---------------宮田親平著『科学者たちの自由な楽園』(文藝春秋,1983/7/15),p.258
--------------------------------
〔日本の原爆研究は〕むろん機密研究であったが,中には
「マッチ1箱で軍艦を吹き飛ばす爆弾を作っているそうだ」
という噂が人々の間に飛び交っていた.
この風聞はまた,絶望にひしがれている民衆に一縷の希望を繋がせるような作用もした.
機密としながら,軍も士気を鼓舞するのにときには利用したフシがある.
特攻隊として出撃する若者達に,
「まもなく一発で大都市を吹き飛ばすくらい威力のある新兵器ができる.
君たちは,それができるまでの間,国を守るために命を投げ出してくれ」
と激励を与える高級将校もあったという.
〔略〕
一方で,長岡〔半太郎〕老博士は,
「ウラン爆弾などは夢物語,デマのたぐいである」
と言っていたとも言われる.
---------------宮田親平著『科学者たちの自由な楽園』(文藝春秋,1983/7/15),p.247-249
なので広島・長崎の場合にも,軍上層部はすぐに原子爆弾だと見当がついたでしょう.
そしてすぐ,「原子爆弾」という呼称を禁じ,「新型爆弾」と呼ぶように各方面に指示しました.
後段に関しては「誰も」ではなくとも,「一部」は思い当たった言う事だそうです.
【質問】
第二次大戦中,日本も原爆の研究をしていたと聞いたことがあるんですが,これは本当でしょうか?
軍事板
【回答】
本当です.
陸軍は理化学研究所の仁科芳雄研究室に原爆研究を依頼.
同研究所は「二号研究」と称して研究を始めました.
理研では熱拡散式の分離筒を建設.
米粒大の6弗化ウランを入れ,1944年7月頃から分離実験を開始しましたが,サイクロトロンによる分析では良い結果は出ませんでした.
そうこうしているうちに,1945年4月の東京大空襲で,分離筒も破壊焼失.
地方都市での研究再開を図っている内に終戦となってしまいました,
以下引用.
――――――――――――――――
仁科研究室自体は,当時実験グループはほとんど挙げて大サイクロトロン製作に奔命しており,原子力解放の事実は知っても,それを実験してみようという余裕はない.
一番先に着目したのは陸軍航空技術研究所長の安田武雄中将であった.
安田は東大教授になっていた嵯峨根遼吉のもとに委託学生として派遣されて,彼の講義を聞いたことのある部下の技術将校を通じて嵯峨根に相談した.
その結果,
「ウラン爆弾は出現する可能性がある.
原料のウラニウムも日本に埋蔵されている可能性がある」
という結論を得た.
16年4月には安田中将から正式に大河内に研究の依頼があったが,仁科がこれをどう受け止めたかは,分からない.
仁科が回答を与えるまでに2年間の歳月が流れている.
このブランクは,陸軍が緒戦の大勝に酔っていて,さほど差し迫って必要と考えなかったこともあるだろう.
一方,仁科のほうも主関心事は従来からの宇宙線をとらえる実験や,サイクロトロン建設,そして原子核物理の理論的研究で,たぶん催促がないのをよいことに,あまり意を払わなかったのではないか.
それに軍にとって第一の技術開発目標は,電波探知機にあったこともあるかもしれない.
ところが,そのうちに海軍からいっそう強い要請が寄せられたのである.
海軍は技術研究所と艦政本部が昭和16年5月頃からウラン爆弾に注目し,艦政本部の京大理学部出身の磯恵大佐は,母校の荒勝文策教授に相談に行っている.
これとは別個に,技術本部の伊藤庸二大佐が,旧知の長岡半太郎を訪れ,彼を会して仁科らに研究を依頼したのだ.
会合は17年7月から水交社で何回か開かれ,仁科らは結論として,理論的には可能だが,日本には原鉱石がない,朝鮮はやや有望だが未開発,アメリカでも今次大戦には間に合うまい,と言った.
長岡老博士は,重い物質のウランは地球の皺の多いところに出易いから,ビルマはどうかと意見を述べたという.
一方で,陸軍のほうでも東條首相兼陸相がじきじきに18年初め,
「アメリカとドイツで原爆製造計画が進んでいる.遅れたら戦争に負ける」
と命令し,係官が直ちに仁科のもとに走って,
「お金と資材はいくらでも出します」
と言った.
仁科は,
「できるかどうか分からない.ともかく原料となるウランを軍で探して欲しい」
と答えた,という.
〔略〕
このあたりの仁科の対応は,海軍には否定的に,陸軍には肯定的に答えたようにもとられ,いささか矛盾している.
これは海軍が仁科だけでなく長岡ら長老の意見を聞いて,一様に彼らが否定的な見解を述べたということ,そしてまた,仁科個人の心の動揺の表れとも見ることができそうだ.
先立っては,それが得られたと仮定して,ウラン鉱石から,原爆の材料となるたった0.7%しか含まれていないウラン235をいかにして分離するか,である.
竹内は,考えられる幾つかの方法の中で,資材,コストからみて,熱拡散法以外にはないと計算して,仁科に答えた.
しかし,それとても何年かかるか見当もつかない,とても無理だと進言した.
しかし,仁科はやってみよう,と言った.
サイクロトロン建設計画でも見せたように,常識的には無理に見えても,とにかく「やってみよう」と推進していく.
「山師」といささか揶揄的に陰口されながら,それが仁科の科学者精神であり,行動性の現われなのである.
と同時に,仁科の中には,研究者を戦場に駆り出されたくない心も動いている.
戦時研究に従っていれば,弟子たちの身柄は確保できるのである.
このあたり,仁科の内心は微妙に揺れ動いていたと思われる.
武見太郎によると,ある日,仁科が,
「軍からやかましく言われて,基礎研究はやめて全部,戦事研究に切り換えなければならない情勢になってきた」
と沈痛な表情で語っていた,という.
そしてまた,弟子たちの中には,時間的にとうてい間に合わないことは承知の上で,それが爆弾になるか動力用の原子炉になるか,結果はともかく純学術的に原子核エネルギーを取り出してみタイという科学的欲求もなくはなかった.
大サイクロトロンが完成したのは19年末になってだが,電力が供給できず,結果的にはまるで用はなさなかったのである.
日に日に研究,実験の条件が苦しくなる中で,これだけは国家が「いくらでも出します」と言ってくれているのだ.
こうして18年5月,仁科は陸軍に回答を与えた.技術的に可能である.ウラニウム235の分離には熱拡散方式が適当である,と.
――この計画は,軍によって「ニ号計画」と呼ばれることになった.
竹内は熱拡散法のための分離装置を作る準備を始めた.
ところが,軍は「金と資材はいくらでも」と言っていたが,さて「緊急」のハンを推された切符を貰って指定業者のところに行っても,そんな切符は山ほど積まれていて,現物はまるでないという状況なのを見出したのである.
彼は,そんな雑用に追われながら資材を調達し,苦心惨憺して分離筒を作っていった.
一方で,ウラン鉱探しが始まっていた.
理研で放射化学が専門の主任研究員飯盛里安は,朝鮮と福島県で希元素鉱物を含む鉱床を発見し,前からウランやトリウムを研究所内の工場で精製していた.
軍は彼の研究を全面的にバックアップし,中国,マレー半島にまで,探索の手を伸ばそうとした.
このようにして掻き集められたウラン鉱の精製作業は,理研内の本郷工場では敷地不足で,新たに荒川工場を建てて大規模に抽出を行い始めた.
竹内が分離筒製作に心魂を注いでいる一方で,熱拡散法ではウランを気体化合物にしなければならないので,木越が六弗化ウランの製造に取り組んでいた.
東大理学部化学科出身の木越は,卒業論文にウラニウムの核分裂をテーマに選び,東大に設備がないのでサイクロトロンのある仁科研究室に通っていた.
彼は化学屋だから,仁科研究室に入るつもりはなく,理研に入るにしても希元素を扱っている飯盛研究室に行くつもりでいたが,ある日,仁科から,
「君は六弗化ウランの研究をやったら,兵隊に行かなくても済むぞ」
と言われ,仁科研に入ろうと決めた.
ところが,17年9月卒業と共に召集令状が来た.
がっかりしながら入隊すると,夕刻,即時帰郷を申し渡された.
初めは一人で研究していたが,協力者も得て,19年初めにようやく米粒大の六弗化ウランが生まれ,仁科を喜ばせた.
一方で,玉木〔英彦〕,武谷〔三男〕らの理論グループは,ウラン核分裂の臨界量や,熱拡散の計算を進めていたが,武谷は5月に特高警察によって再逮捕され,警視庁の留置場に送られてしまっている.
その直後,彼はそれまで懐疑していた原爆計画が可能であると確信し,また,獄中でウラン分離の方法として熱拡散法では無理であることに気付いたと書いている.
戦局は日に日に悪化していった.
始めは比較的のんびり構えていた陸軍も焦り始め,東條は,研究者が実験ばかりしていて,実用化しないと怒りをもらしたという.
平素は基礎研究を等閑視していながら,緊急時になると技術の不足に不満をぶつける.
これは古今を問わず,日本の為政者の常套であろう.
サイパン島攻防が始まった19年春には,航空本部は理研の近所の民家を借りて,そこから技術将校を何人か仁科研究室に派遣した.
もっとも将校といっても,全部理工系出身者で,中には仁科研究室から応召していた軍人もいるのだから,研究室に入って実験衣を着てしまえば,仲間同然であり,見分けはつかない.
しかし,すき腹の研究員にとって,彼らの立派な昼の弁当は,羨望の種であった.
彼らが役立ったのは資材集めで,竹内がてこずったこの雑用≠焉C軍服に身を固めて彼らが行けば一発で済むことがあった.
木越の作った六弗化ウランを竹内の完成した分離筒に入れ,19年7月頃から分離実験を始めた.
ウラン235が分離できるかどうか,ここは質量分析器のいるところだが,理研にはなく,サイクロトロンを用いて山崎文男が分析に当たった.
19年から20年初めにかけて,東京は次第に激しい空襲にさらされようとしている.
だが,ウラン濃縮に成功したとの分析結果が,山崎からもたらされることはなかった.
――――――――宮田親平著『科学者たちの自由な楽園』(文藝春秋,1983/7/15),p.242-247
――――――――――――――――――――――――
20年2月になると,せっかく完成したサイクロトロンも,電源の電圧が低下して運転が困難になり,4月13日には,〔理研も被爆した.〕
竹内が苦心して製作した分離筒のある49号館は無事らしかった.
大切な「ニ号研究」の建物だからと延焼を防ぐ作業を行い,明け方になってやれやれと思い,向かいのこれも焼け残った43号館に入って一休みしていたら,49号館からもくもくと煙が出ていた.
モルタル塗りなので,消えずに残っていた火がいつのまにかまわって燃え出していたのが分からなかったのである.
こうして,分離筒は烏有に帰してしまった.
――――――――宮田親平著『科学者たちの自由な楽園』(文藝春秋,1983/7/15),p.253
――――――――――――――――――――――――
しかし,「ニ号研究」はこれで完全に放棄されてしまったわけではない.
木越らは,その前から山形県に疎開して六弗化ウラン製造を継続しており,また,飯盛は荒川工場が直撃弾を食って壊滅したので,4月下旬にはウラン鉱が出る福島県石川町に移って新工場を再建しようとしていた.
――――――――宮田親平著『科学者たちの自由な楽園』(文藝春秋,1983/7/15),p.255
けれども結局,後述するように昭和20年も深まると,両研究とも相次いで立ち消えのようになっています.
消印所沢
さらに,ウラン濃縮方法が確立できたと仮定して,その場合,どこからウラン資源を持ってくるかも問題になりました.
そこで陸軍は極秘調査命令を発すると共に,これと並行して,ドイツに資源提供を要請.
それに応えて,ドイツ海軍のUボートがピッチ・ブレンド(酸化ウラニウム)560kgを積んで日本に向かいますが,1945/5/7にドイツ本国が降伏したことにより,同艦も1945/5/19にアメリカ軍に降伏(この際,同乗の日本軍人2人は自決).
そのため日本にウランは届きませんでした.(理化学研究所HPより)
90式改 in FAQ BBS(緑文字)
海軍は海軍で別に,「F号研究」という原爆開発計画を進めてました.
これは上述のように,
・艦政本部⇒京大理学部の荒勝文策教授
・技術本部⇒長岡半太郎⇒仁科研
の2つのルートで始まりましたが,のちに京大だけに絞られています.
F号研究では,ウラン分離には超遠心分離法を採用しましたが,終戦までに行われたのは理論研究だけであり,分離機製作には至っていません.
以下引用.
------------------------------
長岡半太郎は帝国学士院院長,学術振興会理事長,学術研究会議副会長などに就任していたが,〔略〕この長岡を通じて話があり,仁科が「原子核物理の兵器応用」について海軍から最初に諮問を受けたのは,〔昭和〕17年7月ころであるらしい.
宇宙線グループの一人であった竹内柾は,それからしばらくたった12月22日,
「ウラン爆弾を研究してみろ」
と言われた.
---------------宮田親平著『科学者たちの自由な楽園』(文藝春秋,1983/7/15),p.240
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仁科らによって推進されたことになる「日本原爆計画」をめぐって知らされるのは,陸海軍の仲の悪さ,とまでいわずとも,両者の計画の間の脈絡のなさである.
〔略〕
〔東條首相の直接命令が仁科研に下りた結果,〕ここで,陸海軍の研究依頼がかち合ったことが明らかになり,一説には東條の裁定によって陸軍の研究は理研が行うことになったと言われ,以後,海軍は荒勝教授らの京大が一手に引き受ける形に分かれていった.
---------------宮田親平著『科学者たちの自由な楽園』(文藝春秋,1983/7/15),p.242-244
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一方の,「F研究」と暗号名で呼ばれた,海軍のほうの原爆計画の依頼を受けた京大の荒勝グループも,理論では湯川研究室の小林稔が担当して臨界量を計算し,また,ウラン分離には理研と同じ方法でないほうがよいと,超遠心分離法を採用したが,これは設計の段階にとどまり,その建設には着手しないで終わっている.
---------------宮田親平著『科学者たちの自由な楽園』(文藝春秋,1983/7/15),p.257
ここでもまた,「陸海軍は別々に」が…….
【質問】
世界史板で,↓のように主張してる方がいるのですが本当ですか?
807 名前:世界@名無史さん[] 投稿日:2007/06/02(土) 22:20:04 0
マジな話,昭和20年頃には日本はほとんど原爆を作れるほどの技術を持っていた.
ただ,戦後日本は徹底的に原爆開発の事実を隠蔽した.
そもそも,戦前のドイツと日本は核研究の先進国.
なぜドイツが原爆開発でアメリカに遅れたかというと,ヒトラーが当時順調だったロケット開発に人材と資金を投入したからだ.
実際ロケット(ミサイル)開発にドイツは成功し,戦後のアポロ計画もずっとフォン・ブラウンが主導した.
広島型原爆の設計はドイツという説もあるし,広島型原爆で使われたウランを精製したのはドイツである(アメリカがドイツ敗戦により捕獲した)という説はかなり信憑性が高い.
(ちなみに,中丸薫氏という人が著書で
「広島,長崎に落とされた原爆は実は日本製だった」
なんて,電波なことを書いていた気が)
【回答】
原爆そのものの(物理学的な)原理は分かっていました.
しかし,日本に限らず当時の世界最高の科学水準でも,現在我々がウラン濃縮と聞いて想像する「遠心分離器」に至る技術レベルにはとうてい到達しておらず,マンハッタン計画でもエネルギー効率の非常に悪い「ガス拡散法」と「電磁分離法」を用いるのが精一杯でした.
そのため当時の仁科芳雄博士などは,ウラン濃縮による原爆作成は,当時採用した「熱拡散法」も含め,「技術的には可能」かも知れないが,エネルギー効率及びそれにかかる費用(エネルギー)・時間を考えれば,「事実上限りなく不可能に近いもの」との判断を固めていました.
軍部による要請で,実験設備の規模の拡大も図りたかったようですが,情勢が悪化し,研究は足踏みを続けざるを得なかったことと同時に,上記の判断があったのは,押さえておくべき重大な史実と考えます.
そのため,広島,長崎(後者はプルトニウム使用ですが)の原爆投下には,その被害の様相などから仁科芳雄博士はすぐに原子爆弾による物との判断を下せただけではなく,それをアメリカが力業で可能とさせたことに「まさか」の想いであり,大変強い衝撃を受けていたそうです.
宮田親平著『科学者たちの自由な楽園 栄光の理化学研究所』(文藝春秋,1983)では,日本の原爆研究について以下のように総括しています.
--------------------------------
要するに,日本の技術力,資金力では原子爆弾製造は,初めから画餅にしかすぎなかったのである.
例えば,最初,日本でも検討され,アメリカでも試みていたという,サイクロトロンのマグネットを用いる電磁分離法という方法があったが,これでやったとして,理研の1基のサイクロトロンで1発の原爆製造に必要なウラン235を作るには,計画通りいったとしても百年かかったといわれる.
ウラン鉱石もとうてい集めることのできないものであった.
よし原爆ができたところで,航空機もろくすっぽないのに,それをどこへどう運べばよいものだったろうか.
昭和20年も深まると,両研究とも相次いで立ち消えのようになっている.
――――宮田親平著『科学者たちの自由な楽園』(文藝春秋,1983/7/15),p.257
これを見ても,「日本の当時の技術で原爆製造は可能だった」など,ネタかトンデモの類でしかないことが分かります.
また,以上を引用するまでもなく,「広島,長崎に落とされた原爆は実は日本製」など笑止以外の何物でもありません.そのような説を唱えられる方には,当時の科学技術史・科学技術水準を一から勉強し直すことをお勧めします.
(蛇足ですが,イラクの核開発で「電磁分離法」が使われていたのは,米国の「エネルギー効率等を考えればあり得ない」との経験上からの思いこみの裏をかく物でした.
だからこそ米国はウラン濃縮に関する「電磁分離法」の秘密を解除したからに他ならず,その裏をかかれた米国の衝撃は計り知れないものがあったと聞いています.)
なお,以上は仁科芳雄博士のご子息
(仁科浩二郎名古屋大学名誉教授;原子炉(中性子)物理学専攻;ちなみに私の大学院修士課程の指導教官であり,私は直接最後の教え子となります.)
から折に触れ,聞いたものです.
類似の記述は理研などの歴史を直接調査し,信憑性のおけるものには大概触れられるものであり,例え一部に記憶違いはあるにしても,日本の原爆開発について,上記の当事者の証言に勝る物はないと考えます.
以上,ご参考まで.
へぼ担当 in FAQ BBS(青文字)
&軍事板
※加筆修正部分:緑文字
【質問】
第二次大戦中の日本は,原爆開発に必要なウランを,どのように調達するつもりだったのか?
【回答】
モナザイトの成分は,燐,セリウム,トリウムの化合物で,他にウラニウムなどの各種元素の化合物を含んでいます.
放射性鉱物トリウムは,中性子照射によって,ウラン233を生じます.
日本陸軍の原爆研究では,仁科博士率いる理研が,北朝鮮のモナザイトに着目し,其処からのウラン抽出を企図した事がありました.
因みに,ソ連でもこの北朝鮮産モナザイトを原爆製造原料とする研究をしていたみたいです.
北朝鮮のモナザイトは,1918年に京都帝大の中村新太郎教授によって調査が行われ,1930年代に入ると理化学研究所の飯盛里安博士が更に詳しい調査を行い,研究成果を発表しています.
モナザイト原鉱は,一般に黒色砂鉱で,磁鉄鉱,チタン鉄鉱,尖晶石,電気石などの各種鉱石を含みます.
しかし,北朝鮮のそれは柘榴石を含むので,黒ではなく赤褐色であり,飯盛博士はこれを重砂と称しました.
朝鮮半島では,平南・平原郡の順安面から粛川面に至る地域,大同江・清川江の沿岸地域,黄海道南部,咸鏡南道南部の龍興江・城川江流域と言った砂金地帯に多く存在していました.
特に大同江・清川江沿岸地域の重砂は,3〜4%のモナザイトを含有していますが,その鉱石中のトリウム含有率は5%であり,主産地のインドやブラジルのそれが4〜10%であることから比べると,少し低めでありました.
しかし,平南・平原郡順安面と黄海・延白郡のそれには11%も含まれています.
順安面に隣接する石岩面のモナザイトは,トリウムとウランをそれぞれ,9%と0.1%含有していました.
とは言うものの,これらの鉱石に含まれるウラン233自体,核兵器に利用されるものではなく,核兵器開発でより重視されるのは,ウラン235になります.
北朝鮮では,天然ウラン(ウラン238/ウラン235)を多量に含むフェルグソン石,燐灰ウラン石,銅ウラン雲母も産出しており,これらは多くの場合,ペグマタイト中にモナザイトやタンタルニオブ原鉱と混在しており,フェルグソン石は黄海・延白郡海月面の菊根鉱山にて,モナズ重砂と共に算していました.
因みに,菊根鉱山は38度線南部にあるのですが,朝鮮戦争の結果,北朝鮮の領域に入ったものです.
この鉱山から産出されるフェルグソン石は,ウランを8.4%含有する優良鉱でした.
燐灰ウラン石,銅ウラン雲母は平北・朔州郡の銀谷鉱山,江原・鉄原郡の丹緑鉱山で産し,コロンブ石も伴っていました.
こうしたモナザイトの精錬は,日窒鉱業開発の興南製錬所で行っていましたが,1943年に平北・鉄山郡の仙岩鉱業所で重砂を採取し,此処で簡単な選鉱でモナザイト含有50%の鉱石を得る事が出来,これを興南の製錬所に送りました.
興南では日窒電気技術部の開発した静電気法で95%の精鉱にし,副産物としてチタン鉄鉱と柘榴石を得る事が出来ました.
因みに,当時の精鉱能力は1t/日だったそうな.
このモナザイトからはセリウムも抽出され,これは興南カーボン工場で,炭素棒製造の重要な原料となりました.
一方,日本陸軍は菊根鉱山で,1944年6月からフェルグソン石の採掘を行い,これによって原爆製造に必要なウラン235の半量500kgを得る予定でした.
残りの半量は,福島県石川町で得る予定だったり.
しかし,日本陸軍の原爆製造計画は1945年6月に技術的問題から中止となり,日本海軍が進めていた同様の計画も中止となって,結局頓挫してしまいます.
戦後,日本海軍と日窒が興南の龍興工場で原爆製造に成功したと言う説が流れますが,事実は全く異なり,原材料すら入手出来なかったと言うのが真相です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年11月08日22:15
青文字:加筆改修部分
【質問】
Uボートが日本に向けてウランを輸送中米軍に拿捕されたそうですが,そのウランはその後どうなったのですか?
【回答】
リトル・ボーイの製造に使われた,という説があります.
▼ メーン州キャツコ・ベイに寄港した際おろしたらしい.▲
ウランは連合国側でも貴重だったから.
ウランの不足による研究の遅延は,ロスアラモスでも問題になってたくらい.
当時は採掘技術も未熟だったし,数キロのウランを各国が血眼になって買い漁ってた.
不足が解消されたのは,ドイツが買ったのを横取りしてから.
核開発のエポックだから,たいがいの本は一章を割いている.
モッティ(黄文字)他 in 軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
人形峠のウラン鉱山は米軍機の攻撃を受けなかったの?
【回答】
受けなかった.
人形峠のウランの存在が確認されたのは戦後なんだ.
戦前はサンプルが微量すぎて確証がなかった.
http://www.jaea.go.jp/04/zningyo/tougeintro/discover/index.html
当時,日本でウランを産出していたのは福島県石川町.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
朝永振一郎は原爆開発には携わっていなかったのか?
【回答】
携わっていなかった.
その代わり,レーダーに関する研究に従事させられていたという.
以下引用.
――――――――――――――――
原爆計画に動員されている山崎〔文男〕と同じく,朝永〔振一郎〕もまた戦事研究に従事させられていた.
18年には長年の研究が身を結び,量子力学の原理を相対論的に電磁波に応用する「超多時間理論」が発表されているが,この年半ばから,海軍は電波兵器開発のため,静岡県島田に研究所を作り,朝永も小谷正雄,萩原雄祐らと共に研究に当たらせられた.
朝永の天才はここでも鮮やかに発揮されて,レーダーに使うマグネトロン発振現象の理論を短時日に解き明かし,この研究で戦後,学士院賞を受けている.
〔略〕
空襲は次第に都心が狙われるようになっていた.
ある夜,B-29 1機による空襲があり,見上げると弾倉が開いて,白いものが幾つか機体を離れた.
朝永はその途端,右手を上げて仰角を測定するような身ぶりをし,そのあと直ちに壕に転げ込んだ.
轟々たる落下音を耳にしながら息を殺していたが,彼はその間,仰角,高度,速度から落下点を計算して推定していたのではないか,と山崎は書いている.
宮田親平著『科学者たちの自由な楽園』(文藝春秋,1983/7/15),p.252
まあ総力戦であるから,何らかの形で戦争に協力させられていたのは,仕方ないことだったと言える.
▼ 私が知る限り,このプロジェクトは東大理学部物理出身の海軍(技術?)大佐(名前は失念)がリーダーであり,その縁で,
東大理学部物理 小谷正雄,
東大理学部天文 萩原雄祐,
東京文理科大物理 朝永振一郎
といった面々が集まり,マグネトロンの研究を行ったはずです.
ちなみに小谷氏の回想(物理学会誌に掲載)によると
「海軍大佐氏が,応用などは気にせず,マグネトロンの動作原理を追求してくれというので,みんな好き勝手に研究した.
当時は数値計算は極めて弱かったので,理論的な予想にもとづき,解析的に原理を追求した.
その解析手法は,それぞれの専門分野で用いられていたものを用いていたのは興味深かった.
終戦後,アメリカの調査団に講義したら,大いに驚いていた.
彼らはマグネトロンの発振原理をよく理解していなかったようだ.
今にして思うと,やっぱり生産や応用した回路の研究をもっとやらなければ,戦局には役に立たなかったと思う.
そういったプラグマティズムがアメリカの強さかもしれない.」
これらの研究は「極超短波磁電管の研究」にまとめられています.
また,これらの一連の研究「磁電管の発振機構と立体回路の理論的研究」に対して,日本学士院賞が授与されています.
おわかりとは思いますが,マグネトロンは日本語では磁電管(じでんかん)と呼ばれます.
立体回路とは,超短波などの伝達に用いられるもので,導波管(wave
guide)やその他の素子の総称です.
話が横道にズレますが,戦時中のこうした科学者や技術者の動員は,軍部の専横とか軍産複合体という文脈で批判的に論じられることが多いです.
しかし,この時に軍から投じられた予算や,人材交流が,戦後の日本の飛躍につながっていったと,物理学者の高橋秀俊氏は論じています.
高橋氏自身の経験では,電気工学の回路(circuit)という用語も,戦前,物理学の業界では輪道と呼ばれており,こういった軍による動員の中で共通語が形成されていったそうです.
また,このときに物理学者と電気工学者,化学者と化学工学者といった面々の人的交流が(強制的に)進み,戦後の復興に大きな寄与があったとのこと.
HDK in FAQ BBS,2010/4/17(土) 14:56
青文字:加筆改修部分
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【質問】
仁科芳雄って誰?
【回答】
仁科芳雄(にしな・よしお,1890〜1951)は,岡山県,里庄町生まれの物理学者.
東京帝国大学工学部電気工学科を卒業後,理化学研究所に入り研究生となると同時に,東京大学大学院,ケンブリッジ大学,ゲッチンゲン大学,そしてコペンハーゲン大学に学ぶ.
昭和10年,理化学研究所に原子核実験室をつくり,大戦勃発後は軍の要請で昭和18年,原爆開発に参加した.
【質問】
戦後,理研のサイクロトロンを米軍が破壊したのは何故か?
【回答】
アホな米軍が「原爆製造施設」と混同したからです.
非常に良く勘違いされるのですが,絶対に間違えてはいけないのは,
「サイクロトロン」≠「遠心分離器」
です.
サイクロトロンについては「加速器 - Wikipedia」を参照願います.
これを間違えると,米国陸軍の愚挙と同じになってしまいます.
理化学研究所HPに有るとおり,科学技術のかの字も分かっていない米国陸軍は,サイクロトロン(大小2基)を「原爆製造施設」と混同(意図的ですらあったとの説もあり)し,1945年11月に突然破壊,東京湾4000フィートの海底に投棄するという愚挙に出ています.
また,阪大や京大のサイクロトロンも同じ運命をたどり,これにより戦前まで世界最高水準にあった,日本の「原子核」研究は大打撃を受けています.
さすがに,これには全米科学者から激しい非難と抗議がトルーマン大統領に集中していますが,根本から破壊されては後の祭り.
この愚挙が混同等による過失ではなく,意図的であった,との説すら出されているのもそのためです.
以下はそのときの模様.
------------------------------------
〔1945年9月〕20日頃,米軍兵士の一隊が裏門を壊してどやどやと入って来た.
仁科研究室員は退去せよと命令して,書類を持ち帰り,さらに,ワシントンの指令によってサイクロトロンは壊すことになった,と宣告した.
仁科はむろん抗議し,コンプトンに聞いたかと質問すると,彼はもうワシントンに帰着しているから,意見は聞いているはずだと言う.
彼らは24日から昼夜をわかたず5日間,騒音を響かせてサイクロトロンを破壊し,2基とも東京湾に投棄してしまった.
ところが,29日の「スターズ・アンド・ストライブ」紙には,オークリッジの科学者がニュースを聞いて陸軍省に抗議を申し入れ,サイクロトロンは原子爆弾に関係がない,これはナチスの焚書に等しい,命令を出した者は首を切れ,と言ったと書いてあった.
こと既に遅し,である.
仁科にとって10年の歳月をかけた,戦後のたった一つの希望は烏有に帰し,文字通り,「本来空」となってしまった.
この不幸なハプニングは,終戦直後,「あと5年もあれば原爆ができた」などといったある学者の心ない発言が影響したのではないかとも言われている.
------------------宮田親平著『科学者たちの自由な楽園』(文藝春秋,1983/7/15),p.263-264
蛇足ですが,米軍はサイクロトロンを破壊したことについて,米国内の科学者から「人類に対する犯罪行為」であるとして非難が相次いだことなどから,翌年46年1月に,サイクロトロンの破壊について,これが誤りであったことを認めています.
極東の名無し三等兵◆5cYGBbCsjQ in FAQ BBS
私見では,この破壊行為は理研潰しの一環ではなかったか?と愚考する.
科学面で産・軍をリードしてきた理研産業団は,戦後直後の,日本の戦力完全解体を考えていたGHQにとっては邪魔者以外の何者でもなかったと推測されるからである.
事実,サイクロトロン破壊以外にも,GHQは理研に対して様々な圧力を加えている.
以下引用.
大河内正敏が戦犯容疑者に指名されたのである.
おそらくは,一大産業団を率いて軍需生産に奔走し,また内閣顧問として軍閥内閣に協力し,しかも傘下の研究所で原爆製造計画も行っていたということで,東條ら戦争指導勢力のブレーン・トラストでもあるかのように疑われたに違いない.
〔略〕
12月13日,大河内は巣鴨拘置所に収監された.
〔略〕
このとき朝鮮から引き揚げていた田中角栄は,先生が警視庁の車で護送されるのはお気の毒だ,自分の車で巣鴨まで送りたいといった.
〔略〕
理研では,長岡,本多をはじめとする32人の主任研究員たちが陳情書を作成し,全員署名して占領軍司令部に提出し,釈放を要請した.
この陳情書がどれだけ効果を発揮したかは分からないが,たしかに大河内は戦時体制下で協力は行ったが,開戦謀議には全く参画していないことが明らかになり,釈放されたのは,21年4月になって,であった.
〔略〕
この釈放のときにも,出迎えの中に田中角栄の顔が見られた.
田中の行動は終戦後も神速で,報を知ると直ちに大田から釜山に出,早々に海防艦に乗せられて引き揚げてきた.
艦上は女と子供ばかりであった.
彼の名前が「田中菊栄」と読まれ,女と間違えられたからという.
〔略〕
しかし,彼は戦犯の容疑は晴れても,GHQに徹底的にマークされた.
釈放翌日にはもう委細構わず所長室に来ていたが,彼には尾行がついており,すぐさまGHQに通報された.
このことは進駐軍を刺激して,再逮捕もありうるかもしれないということが,外相になっていた吉田茂を通じて武見〔太郎〕に伝えられた.
武見は仁科にこのことを大河内に告げてくれと申し入れたが,大河内に恩顧を受けている仁科にはしのびがたいことだった.
やむなく,武見は吉田を動かして,さる場所に大河内を呼び,仁科立会いの上で,吉田が理研の出入りを遠慮するよう懇請した.
大河内は,
「自分がこの敗戦日本の再建のために努力するのは国民として当然のことである.
それが悪いということであれば,再び巣鴨に捕えられても悔いはない」
と言っていたが,いったんは吉田のこの忠告を受け容れた.
11月には進駐軍の意向により,正式に所長を辞任せざるを得なくなり,25年に渡った所長生活にピリオドを打った.
と同時に,彼の手腕に一縷の希望を託していた職員たちには,またしても大きな挫折感をもたらした.
――――――――宮田親平著『科学者たちの自由な楽園』(文藝春秋,1983/7/15),p.265-269
第3の衝撃は,大河内が巣鴨拘置所から出所してきて間もなくの21年6月末に襲ってきた.
この衝撃こそは致命的だった.
GHQから,理研は集中排除法に触れるから解体せよという指令が発せられたのである.
財団法人理化学研究所は理化学興業と共に,コンツェルン系の諸会社の株を持っている,一種の持ち株会社である.
こうした株の独占機関は全て解散させられるということで,つまり財閥解体の対象にさせられてしまったわけだ.
このことは研究所そのものが潰されることを意味する.
研究所員たちの危機意識は高まった.
ただちに仁科らを代表にして,GHQとの交渉に当たらせた.
仁科は日本の再建のためにこのような研究所が必要であることを説き,ESSのアンチ・トラスト課は強硬であったが,派遣されてきていた物理学者のケリー博士が理解を示し,第2会社を作れという指示を受け,辛うじて解散は免れた.
しかし,ここに理研産業団との関係は絶ち切られて,研究所は財源を全く失い,路頭に迷うことになった.
いったい,会社に改組して,何で儲けたらよいか.
理研はもともと科学の産業利用を最初に行ったのだから,特許を売ったり技術指導を行ったりして利益を得たらどうか,アメリカにはそういう会社が50くらいあると助言を受けた.
しかし,戦争直後の日本の産業にそのようなことを受け容れる余地があるはずがない.
――――宮田親平著『科学者たちの自由な楽園』(文藝春秋,1983/7/15),p.273-274
その後,辛うじてペニシリン製造に成功して理研は生き長らえるが,収支は悪く,昭和33年に政府によって特殊法人に改組され,現代に至っている.
消印所沢
【質問】
サイクロトロン破壊を阻止できる勢力は,GHQ内にはいなかったのか?
【回答】
いなかった.
視察団は文字通り視察に来ただけで,モーランド一人を残して米国に帰国.
そのモーランドもしばらくすると帰国してしまい,GHQには科学に精通した者がいなくなってしまった模様.
以下引用.
------------------------------------
9月にはマサチューセッツ工科大学総長コンプトンを団長とする科学情報視察団が来日した.
18日には理研の焼け跡に立ち,〔略〕コンプトンはサイクロトロンを見て,研究内容を聞いた.
放射性同位元素で生物の研究をやりたいと考えていると答えると,彼は自分には決定権はないが,使ってもよいとマッカーサーには話しておく,と言って帰っていった.
コンプトン調査団の中ではモーランドという学者だけがしばらく日本に残り,彼にサイクロトロンの使用許可を受けるよう進言されて,「物理,化学,冶金,生物」の4つの研究テーマを書いて出すと,10月25日に生物だけが許可されてきた.
「アトミック・エナジー」の研究は不可である,というのである.
アトミック・エナジーとは漠然とした言葉で,あまり科学的とは言えない表現だったが,唯一の仲介者のモーランドも11月初めに帰って,GHQには科学者は誰もいなくなった.
------------------宮田親平著『科学者たちの自由な楽園』(文藝春秋,1983/7/15),p.263
ただ,仮にそのような人材がGHQにいたとしても,サイクロトロン破壊は「ワシントンからの指令」に基づいて実施されており,実際にワシントン内部でどのような動きがあったのかは本サイトでは情報不足で明らかではないが,GHQレベルでその動きを阻止できたかは疑問である.
【質問】
日本にはサイクロトロンがいつ頃からあったのか?
【回答】
昭和12年には小サイクロトロンが完成していたという.
続いて大サイクロトロンの建設に着手したが,こちらは難航した.
以下引用.
--------------------------------
〔昭和〕12年には小サイクロトロンが完成して動き始めていた.
実験グループは希望に胸を膨らませた.
ところが,仁科はこの小サイクロトロンの建設を叩き台のように考えていて,すぐに大きなサイクロトロンを作ろうと言い出したのである.
〔昭和14年に帰国した〕朝永〔振一郎〕らは,ウィルソン霧箱や小サイクロトロンで,いくらでも「スマートな研究」ができるのに,と思った.
<フェルミのように少量のラジウムとベリリウムを用いて,ブリキ鑵とタライだけの装置でノーベル賞級の仕事をすることもできた>
それなのに,仁科は何かに追われるように先へ先へと急いでいた.
せっかくできた小サイクロトロンを見捨てるようにして,仁科研究室の多くのスタッフが,大サイクロトロン建設のために奔命させられていた.
しかも,これには重大な設計ミスがあり,完成は予定よりずっと遅れてしまったのである.
〔略〕
しかし,大河内が研究費はいくら使ってもいい,といっても何十トンも何百トンもする鉄塊と,工場のような大規模な装置を必要とするサイクロトロンを作るには,とうてい資金が足りない.
仁科研究室は,4月中に一年分の予算を使い果たしてしまうというので有名だったが,そこで仁科は金策に駆け回らねばならなかった.
彼は三井財閥や服部報公会や東京電燈などに資金援助を請い,また,このころからPR活動のため,講演を行ったり,ジャーナリズムで通俗的な啓蒙記事の筆をとったりし始めた.
南米ウルグァイ沖でドイツの戦艦グラフ・シュペー号が自沈したとき,
「あの鉄があれば,大きいサイクロトロンができるのになあ」
と残念がっていた.
宮田親平著『科学者たちの自由な楽園』(文藝春秋,1983/7/15),p.221-222
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