c
「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ サイト・マップへ
◆◆◆◆◆原爆投下
<◆◆◆◆日本本土爆撃
<◆◆◆航空史
<◆◆航空 目次
<◆太平洋・インド洋方面 目次
<第二次世界大戦FAQ
(画像掲示板より引用)
「The Commons」◆(2009/03/30) ガセネタ溢れる日本
偽「二重被爆者」について
「tnfuk」◆(2009/08/06)ただ,terribly wrongである,とさえ
「tnfuk」◆(2009/08/07)"Hiroshima" on Twitter
「U-1速報」◆(2013/08/02) 「原爆投下で死亡した韓国人4万人に対する謝罪と賠償を要求する」 市民団体が韓国人被爆者の総数を7万人以上と断定
「U-1速報」◆(2013/08/03) 「韓国調査で原爆投下時の広島市民の3割が韓国人だと判明した」 広島で5万人の韓国人が被曝したと日本を非難
「VOR」◆(2012/07/16)広島の老人合唱団 ロシア参戦軍人らに「カチューシャ」
「愛・蔵太のもう少し調べて書きたい日記」■俺がアメリカ人なら広島の「死没者奉納数」のリストを見たら激怒すると思うね
「愛・蔵太のもう少し調べて書きたい日記」■「広島の原爆」関連でのコメント欄での情報提供リンク
「愛・蔵太のもう少し調べて書きたい日記」■広島の原爆で死んだ人(死者)の数は何人?
「愛・蔵太のもう少し調べて書きたい日記」■広島原爆の死者増を肯定する人は阪神大震災の死者増も考えるべきかも
「愛・蔵太のもう少し調べて書きたい日記」■広島の原爆と死者数についてもう一度考えるために
「愛・蔵太のもう少し調べて書きたい日記」■広島の原爆について,広島市のかたから情報をいただきました
「愛・蔵太のもう少し調べて書きたい日記」■広島の原爆の死者の公式数15万±1万人は幻か
「朝目新聞」●イギリス兵が撮影した原爆投下直後の長崎と広島 (of エルエル)
「エルエル」◆丸木夫妻による「原爆の図」 "HIROSIMSA PANELS"
「カラパイア」◆(2010/08/14)この物体は?日本のニュース映像に現れた,手招きする指のようなものl
「ザイーガ」:【画像】少女時代に体験した広島原爆グランドゼロを大人になって忠実に再現した絵日記
「町山智浩」:アメリカ人に聞きました.広島と長崎はなんで有名?
『汽車ポッポ判事の鉄道と戦争』(ゆたかはじめ著,弦書房,2015)
作者は明治以来の司法官の家系に生まれ,自らも裁判官として法服を着ていた人.
因みに,父親は廣田弘毅の秘書官を務めた人だそうです.
作者自身は東京高裁長官にまで上り詰めたのですが,退官後は悠々自適の生活を送り,沖縄の大学で司法界とは全く違う世界である保育行政関係を教え,またエッセイストとしても活躍しています.
この作品は,作者の生い立ちから現在までを書いた自伝です.
子供の頃は,官舎があった東京の牛込近辺の東京市電のガタゴトを聴いて育ち,家族で様々な場所にハイキングに出掛けた際に乗った郊外電車の事や,福岡の祖母に会いに父の休廷期間を利用しての長距離急行列車,或いは特別急行列車に乗った事など,戦前の鉄道の描写が,その記憶と共に生き生きと活写されています.
長じてからは,父が思いがけず廣田弘毅首相の秘書官となった事で,東京都心部に転居することになり,作者は嬉しいことに市電で電車通学が出来る事になった喜び,しかし,程なく戦時色が濃くなり,旅行することも難しくなっていったこと,その戦時体制の最中,旧制高等学校の受験のために福岡まで廃止直前の特別急行「富士」に乗ったこと,しかし福岡高等学校の受験に失敗して吉祥寺の成蹊高等学校に入学して,片道2時間半かけて都電と商船を乗り継いで学校に通ったことが書かれています.
また,東京大空襲の直後,長崎の裁判所に赴任が決まった父親の引越しに付き添って,この頃切符を取るのも至難となった列車で父親と共に長崎に行ったこと,東京から福岡に縁故疎開した妹を疎開先に送る途中,機銃掃射で九死に一生を得て,生きた心地がしなかったこと….
この本前半のハイライトは,長崎に赴任した父を頼って疎開した妹さんが,長崎原爆炸裂時,爆心地至近で被爆したのですが,命からがら生き延び,その体験記を書いたくだりです.
当時,身内への消息連絡用に作者が中心になって「石田新聞」というのを作成していたのですが,その被爆体験記をまだ本人の記憶が生々しい時に書いてもらい,それが紆余曲折の末,1949年の段階で出版に漕ぎ着けます.
この本は原爆投下直後に執筆された体験記としては希有なものとして,世に評価されているそうです.
戦後,作者は東大に進み,司法修習生となって法曹界に身を置くことになります.
前半とは一転して軽妙洒脱な筆致に,裁判所の仕事の事に触れていて,裁判官を目指す人にも参考になる内容が所々で出て来ます.
裁判官の判決書の書き方の極意とかね.
一方で就職しても子供の頃から筋金入りの鉄道ヲタはおいそれとは灯が消えず,週末に仕事を終えると夜行列車で地方に出掛け,乗り鉄をして再び夜行で任地に舞い戻り,平然と法服を着ると言う生活をしていたそうです.
そんな訳で,遂にはロープウェイ以外の全ての鉄道を乗り潰す事に成功したそうです.
こんな事をしていても,出世の階段を上っていられたのは,それだけ公私をきちっと分けて,公の部分をきちっとされていたからだろうな,と思いました.
後に,同好の士として宮脇俊三さんと知り合い,同じ成蹊出身と言う事で意気投合,後に作者が沖縄に移住した際には,宮脇俊三さんの『失われた鉄路を求めて』では,一緒に沖縄のケービンの走った跡を探していて,それが宮脇さんの作品にも掲載されています.
最後は,移住した沖縄での日々を描いていますが,この中で交通に対する提言として,鉄道の敷設,それも,高速地下鉄では無く,欧米型のLRTを導入すべきであると説いています.
その内容はなるほど,と思わせるものです.
まぁ,見方によってはこの部分は蛇足だと感じるかも知れませんが.
そうそう,この本の中で秀逸なのは,「司法研究報告書」のパロディ版,「嗜好研究報告書・霞ヶ関周辺に於ける昼食の実証的研究」の抄録です.
------------
第二 庁外食の意義及び効用についての憲法的考察
三 司法の独立(憲法七六条)
裁判長や上司がもりそばにするからといって,これに追随して,もりそばで我慢するようでは情けない.
独立して食権を行使すべきである.
五 両性の平等(憲法二四条)
女子職員を食事に誘うのも,夜だと物議を醸す.
昼食なら,爽やかに,対等に,公然且つ平穏に誘うことが出来る.
女子職員の方から男子に対しても気軽に声を掛けられる.
------------
これ,何処かの官庁の前事務次官に読んで貰うべき代物かも知れない.
------------
第三 実務上の法律問題
四 費用の各自負担
昼食は割り勘を原則とする.
昼食を楽しむ一番の秘訣.
驕る時でもコーヒー程度.
レジの前で,債務者同士金銭のやりとりをしない.
みっともない.
------------
これを読んでいると,作者の公私の切り替え方が見えてきたりしますし,かなりさばけた裁判官だったのではないかと思ったりもします.
------------眠い人 ◆gQikaJHtf2,2018/04/26 23:40
『原子爆弾の誕生』上・下(リチャード ローズ著,紀伊國屋書店,1995/07)
重水工場破壊作戦とか載ってて結構オモロイです.
真珠湾の時に「淵田美津雄は機内で"トラトラトラ"と叫んだ」となっているのがおかしいところかな.
まあでも,写真とかも結構豊富に載ってますし,図書館で見てみては?
------------ よ! : 軍事板,2002/02/07
『原爆で死んだ米兵秘史』(森重昭著,光人社,2008.8)
『原爆と検閲 アメリカ人記者たちが見た広島・長崎』(繁沢敦子著,中公新書,2010.6)
『原爆許すまじ』(横田 ミサホ著,鳥影社,2013/6/17)
『被爆者調査を読む ヒロシマ・ナガサキの継承』(浜 日出夫著,慶應義塾大学出版会,2013.3)
『再び「広島・長崎への原子爆弾投下の過程」を検証する』(木本清著,鳥影社,2013/6/17)
『マンハッタン計画 原爆開発グループの記録』(S. グルーエフ著,早川書房,1967)
『夕凪の街 桜の国』(こうの史代著,双葉社,2004.10)
広島の原爆をテーマとしており,以前映画化されました.
私は田中麗奈主演のそのDVDを見て,原作の漫画も買って読んだ訳です.
映画と漫画は,全く違うイメージです.
コマの取り方が,その空白が,故人のやるせない気持ちを,鮮やかに描いています.
ちなみに著者は,戦争に関する漫画を,他にも描いています.
――――――ZII ◆RPvijAGt7k :軍事板,2011/02/23(水)
最近仕事がくそ忙しくって,本を読む余裕がなかったが,漫画ならすぐに読めるし,以前に新聞でも紹介されて興味を持ってたので,買って読んでみました.
しかし,これはイイ話だ.
紹介してくれて,ホントありがとう.
これだけでは何なので,内容を少し紹介しておきます.
<以下ネタばれ注意>
原爆を被爆した人たちと,彼らの子・孫世代の話.
3話構成になっていて舞台は1945年,1955年,1987年,2005年の広島&東京.
初めの主役は,復興途上の広島の街で生活する母親と姉弟.弟の名前は旭.
その後,時は流れ,2005年の東京に舞台が移る.
少年だった旭は,初老のおっさんとなって登場する.
彼は退職し,20代の2人の子供とともに,都内の団地に住んでいる.
父の口座からの不審な引き出し記録を見つけ,不審の眼を向ける旭の子供たち.
ある夜,外出した旭は一人,高速バスに乗り込み広島へと向かう.
父の奇行を心配した娘は,尾行しつつともに広島へ.その先で娘の見たものは…
最後の章に出てくる旭の息子が,ちょうど自分と同世代なので,すごく感情移入した.
祖父たちの生きた戦時と,俺らの生きている今が,同一線上にあるのを感じて胸熱だった.
軍本というにはちょっと微妙だが,安心して友人や家族にも見せられる本.
ていうかぜひ見せたい...
――――――墓 ◆OYxT9PNEKpHC :軍事板,2011/02/28(月)
【質問】
原爆の発案者は誰か?
【回答】
この問いは答えることができません.
なぜならウラニウム原子核に中性子が飛び込むと,原子核は二つに分裂し,そのとき多量のエネルギーが放出され,分裂片は高速度で飛び散ることがボーア博士によって発表された時点で,ほとんどの軍用兵器開発者が同じことを考えるからです.
ただ,最初に開発を始めたのはドイツです.
【参照】
http://sta-atm.jst.go.jp/atomica/16030312_1.html
http://mext-atm.jst.go.jp/atomica/16030109_1.html
「ご冗談でしょう,ファインマンさん」
「困りますファインマンさん」
「ファインマンさん最後の授業」
【質問】
なぜ原爆を造ったのか?
【回答】
ドイツの場合は野心(誰でも想像がつきそうな)からです.
アメリカの場合は,「ドイツに対抗するために」です.
ソ連の場合は,「アメリカに対抗するために」です.
【質問】
他のスレッドでリトルボーイの話が出たんです.
いわゆる,「リトルボーイに使われた濃縮ウランはドイツが濃縮した物」ってヤツです.
ぶっちゃけた話,このテの話,どれくらい慎重性があるんでしょう?
自分はトンデモ都市伝説だと思ってましたが,ウィキぺにも
「リトルボーイに使われた濃縮ウランの出どころは,はっきりしてない」
などあるわけで,非常に気持ち悪いのです
(ウィキぺの信憑性云々は耳にタコなので結構ですが,じゃあ実際のところどうなの?
と,気になるわけです).
【回答】
http://www.antiatom.org/GSKY/jp/Rcrd/Basics/jsawa-07.htm
テネッシー州オークリッジに建設された暗号名Y│12という電磁分離法の巨大な工場がつくられました.
天然ウランから中間段階まで濃縮する「アルファ」と呼ばれた長さ165㍍幅95㍍の巨大な施設が五つと,
それよりやや小さくて,中間段階の濃縮から兵器級濃縮ウランにする「ベータ」と呼ばれた施設が3つつくられました.
六フッ化ウランは腐食性が強く,強い圧力に耐える薄い隔壁膜を作るのに再三材料の変更などで手間取って,「マンハッタン工兵管区」の期間内には高濃縮段階まで完成に至りませんでした.
低濃縮したウランは,海軍の「熱拡散法」の低濃縮ウランと合わせて,1945年3月から,電磁分離法の「ベータ」の入力として結合させました.
ナチスドイツの濃縮ウラン説というのは
http://www.ask.ne.jp/~hankaku/html/nenp5.html
1944. 9.19の米・米軍特種部隊(ALSOS) ドイツのウラン鉱石
68トンを押収[ボーリス・パッシュ]
(ブリュッセルのユニオン・ミニエール社の調査より,ドイツへ送れないでいる分を発見,1944.10
フランス・ツールーズで 30トンを発見)
この↑ウラン鉱石と
http://www.ask.ne.jp/~hankaku/html/nenp7.html
1945. 2 米・液体熱拡散プラント操業開始
(弱濃縮ウランをαカルトロンへ供給,6月以降は気体拡散プラントの濃縮度が改善されたため,液体熱拡散プラント
→ 気体拡散プラント → βカルトロンの流れとなる)
ここの「拡散プラントからの供給」の濃縮ウランとを,同じものとして誰かが情報を混同させたもの.
あと,これもネタ元の可能性がある.
1945. 4.17米・米軍特種部隊(ALSOS) ドイツのウラン鉱石
1100トンを押収
[ジョン・ランズデール中佐]
(シュツットガルトの物置小屋,ソ連占領予定地区,樽が壊れていたため
1万枚の紙袋を用意,ウラン鉱石はマンハッタン計画に使用される)
ウラン鉱石だけどね.
なお,日本語のwiki記事ではなく英語のwiki記事で確認したほうがいい.
ついでに,マンハッタン計画を少し調べれば,ウラン濃縮にとんでもない金と労力をかけたことがわかるので,それがドイツに可能かどうか考えてみよう.
軍事板,2009/06/05(金)
青文字:加筆改修部分
【質問】
なぜ広島と長崎に原爆を投下したのか?
【回答】
ヤンキーどもは
「太平洋戦争を終わらせるためには仕方なかった」
とかほざいてますが,誰でも知ってると思いますが,嘘です.
当時の日本は,原爆がなくても十分降伏させられるような状態でした.
投下した理由は,戦後のソ連に対する威圧の狙いがあったと思います.
あとオリンピック作戦をやりたくなかったのと.
広島にはウランのガンバレル型を,長崎にはプルトニウムの爆縮型を使用した理由を考えてみましょう.
奥が深くなります.
実際,原爆後の広島長崎は,米軍によって徹底的に調査されています.
もっともビキニの核実験でまじめに,「核爆発で海の底が抜けるかも」とか心配していたようなレベルの認識なんですが.
その程度の認識だったことが,戦後の「アトミックソルジャー」の悲劇を生むことになったわけで…….
【質問】
「原爆投下が無ければ,日本が降伏するまでの間に,原爆の死者を遥かに上回る人間が空襲と飢餓で死ぬ事になっていた.
結果的に原爆投下が最も良い方法だった」
と言っているアメリカ人がいるんですが,彼の言ってる事は事実ですか?
【回答】
戦争が続いていれば日本が餓島になっただろうって話は本当.
詳しくは別項参照.
でも原爆投下は人体実験の要素が強かったから,本土決戦で予想される死者の数に関わりなく実行されただろう.
よって後付けのリクツでしかない.
ついでに言えば,本土上陸の際にはアメリカは原爆を大量に使う気だった.
なお,原爆投下がなかったとしても,太平洋戦争は終わっていただろうという分析は,米側の報告書にも記載されているという.
以下引用.
原爆投下必要なかった?=「使用せずとも終戦」と分析-米軍神話覆す機密資料
時事通信,2007年8月3日(金)14:30
〔略〕
「原爆を使用せずとも,対日戦争は(1945年8月9日の)ソ連参戦でほぼ終わっており,遅くとも46年2月半ばまでには終戦を迎えていた」.
戦後間もない46年4月,当時の米陸軍省情報部門の研究チームがまとめた極秘報告書がワシントン郊外の米国立公文書館に保管されている.
〔略〕
報告書は,米軍が原爆を使用しなかった場合の戦局の推移を研究したもので,昭和天皇は早ければ45年6月20日には終戦を決意していたと指摘.
ソ連参戦に至るまで,日本指導部は原爆投下にほとんど言及していないとして,和平の仲介を依頼していたソ連の参戦が「日本にとって終戦の理由を完成させた」と結論付けている.
〔略〕
【質問】
広島に落とされた原爆は,現在の価格に換算すると幾らになるんですか?
【回答】
マンハッタン計画には20億ドルが投入されました.現在の物価換算で260億ドルだそうです.
$1=¥120として3兆1,200億円になります.
この計画によってリトルボーイとファットマンが各1発実戦で使用されたのですから,単純に考えれば,それがこれら2発の原爆の価格といえないこともありません.
【質問】
よく,「アメリカは同じ白人の国であるドイツに原爆を使用する気は無かった」などという意見を聞きますが,これを証拠づける資料,もしくは逆に否定する資料などありますでしょうか?
【回答】
資料までは知らんけど,大戦中のアメリカのプロパガンダとか調べてみれば,イエロージャップ叩きに負けないレベルでナチ叩きやってるのが解るべ.
大体,対日本以上の規模でドイツ本土に無差別爆撃やりまくってた(主に虐殺ってたのはエゲレスだけど)アメちゃんの上層部が,原爆みたいな強力な兵器(しかも放射能汚染とかについてはほとんど認識無し)に手を出さんとは思えんよ.
っつーか,戦後は思いっきり東欧に向けて核落とす気満々になるわけだし,人種がどうのなんてなんて関係無いと思うね.
【質問】
第59混成群団とは?
【回答】
原爆投下専任部隊.
他の全てのB-29部隊の指揮系統から独立していた.
詳しくは,奥住喜重著『中小都市空襲』(三省堂,1988/7/15),p.48-49を参照されたし.
【質問】
原爆投下目標は,どのように選定されたか? なぜ東京は外されたか?
【回答】
1943年5月5日の軍事政策委員会において,初めて原爆投下の目標地についての話がでました.
このときの議事内容について,次のような記録が残っています.
・最初の爆弾の使用について論じられた.
・トラック諸島の軍港に集まっている日本の艦艇に対して使用することが一番よいというのが,大体の意見だった.
・スタイヤー少将は『東京はどうか』といったが,
『原爆は万一不発になる場合,簡単には引き上げられないような場所で使用すべきだ』
という指摘がなされた.
・また,日本人ならばドイツ人ほど適切に不発弾から知識を引き出さないであろう,という理由から日本が選ばれた.
私が大昔に見た本では,日本の多くの地方都市の中から選ばれたと有ります.
上げられていた数は十前後と記憶していますが,中に仙台と京都が有ったのだけははっきり覚えています.
京都が外された理由は「文化財の点から反対が有った」とのように短く記されておりました.
仙台のほうは,通常爆撃がビール工場以外を焼け野原にしていましたし,後はビール工場しか無いのにそこに原爆を使用するのはまず無いと思います.
東京が外された理由ですが,上の本では,地方都市という選択の時点で外されていたと記憶しています.
東京が外された理由は,以下のような事から推測しえると考えます.
1)交渉対象となる人物を殺傷する恐れが有ったから.
2)首都機能の集中性が高い東京の壊滅は,占領時に支障が有る.
3)防空に最も力をかけていた首都なので,迎撃される危険性が高かった.
4)東京は通常爆撃で大損害を与えられていた.
昭和20年5月23日,25日の東京への夜間連続空襲の後,米軍は目標となる爆撃対象はもう存在しないとの理由から,爆撃目標から東京を外し,戦略爆撃の力を他の目標に向けたとされています.
それ以前の3月10日の東京大空襲の時点で,東京はすでに大きな損害を受けていたと思います.この一日の爆撃で,約100万世帯が焼け,約十万人が死亡したとされています.
極東板の名無し三等兵,キルロイ ◆dtIofpVHHg in FAQ BBS
また,2007年の報道によれば,皇居への原爆攻撃も45年の春頃まで「一つの可能性」とされていたという.
以下引用.
皇居への原爆投下を討議=45年春,標的選定委員会-米
時事通信,2007年8月5日(日)16:00
【ワシントン5日時事】1945年(昭和20年)8月に広島,長崎に原爆が投下される約3カ月前の同年春,米国の原爆開発プロジェクト「マンハッタン計画」を指導した核物理学者オッペンハイマー博士らも出席した「標的選定委員会」で,東京・皇居への原爆投下の可能性が討議されていたことが,米国立公文書館所蔵の委員会議事録により裏付けられた.
議事録の存在はこれまでも知られており,皇居を含む東京はその後,標的から外されたまま終戦を迎えたとされる.
しかし,〔略〕議事録によれば,米軍の超大型爆撃機B29部隊を統括する陸軍戦略航空軍の幹部軍人やマンハッタン計画にかかわった科学者が出席した同委員会は,少なくとも2回にわたって東京への原爆攻撃を検討した.
同年4月27日にワシントンのノースタッド米陸軍戦略航空軍後方司令官(准将)の会議室で開催された初会合では,マンハッタン計画の最高責任者グローブズ少将も出席.委員会は
「東京は(3月の大空襲で)焼き払われ,がれきの中に皇居が立っているだけ」(議事録)
と指摘しながらも,
「東京は一つの可能性」
と位置付けた.
【質問】
横浜って原爆の投下目標として広島,小倉,長崎と並んでギリギリまで選定プランに入っていたみたいですが
,何で最終決定時には外されたんでしょうか.東京に近すぎるから?
【回答】
東京にGHQを置く前段階として,横浜の施設を接収して占領業務を行う事が決まった為と思われます.
実際にGHQは横浜に設置され,後に東京に移動していますが,実質的に東日本の占領を担当した第8軍は横浜を司令部にしています.
【質問】
原爆の2発目,長崎は規模と気候から妥当かなと思いますが,1発目は純粋に軍事的見地で言えば少し離れた呉に落とすべきだと思うんだけどどうなんでしょうか?
アメリカ,いかに人体実験したいか分かりますよね,
アメリカは犯罪国家,確定ですよね.
【回答】
広島には本土決戦に備えた第二総軍司令部が所在.
更に戦前から軍都と呼ばれる都市だった訳で.
つまり軍事的見地から言えば,広島と長崎は重要目標ではあった.
また,呉もそうだが,日本各地の軍港は
*もし日本本土上陸することなく日本が降伏した場合,即座に接収して米軍自身が使う
*既に日本艦隊は壊滅しているので,軍港を破壊することには意味がない
といった見地から,優先攻撃目標から外されていた.
機雷による封鎖と,港外に潜水艦を待ち伏せさせての半封鎖は行われていたが,軍港自体に戦略価値はもうないという見解だった.
事実,呉は艦載機の襲撃によって大きな打撃を受けていた.
【質問】
「パンプキン」とは?
【回答】
長崎に投下されたのは,ファットマンと言うプルトニウム爆弾ですが,何もいきなりこれを投下した訳ではありません.
米国側は,その前に入念な練習を行っています.
それも,実戦で….
これらの模擬爆弾はパンプキンと呼ばれ,大きさ,形,重さ全てがファットマンと同じ数値に造られていました.
ファットマンとの違いは,2つだけ.
1つは信管数が1本少ない3本だったこと,もう1つは弾頭…まぁ当然ですが,パンプキンは米国国内で火薬を詰めて溶接されて完成されていました.
ファットマンは,核物質を本土から輸送してテニアンでボルト止めして組立てられたものですから,この部分は大きく違います.
しかし,形状や特性は全く同じですから,原爆投下予定機はこの爆弾を搭載して,1945年7月20日以降,全国で50箇所に投下し,乗員は原爆投下ミッションのシミュレートと投下後の避難方法の訓練を実施しています.
これらを投下したのは,原爆投下専門部隊である第509混成航空団です.
この部隊は1944年12月17日に正式発足しましたが,12月28日に隊長のチベッツ中佐は,ワシントンでの作戦会議に於て,実戦訓練としての日本本土空襲を主張し,ファットマンと同型,同重量,同じ弾道特性を持つ大型爆弾を,麾下の15機のB-29が3回ずつ投下できるように45発要求しました.
また,この実戦訓練には3週間必要だとし,その後も全機が週1回の訓練を行える様に追加の大型爆弾を要求しました.
2月にはテニアン島を発進基地とすることが決定し,乗務員や整備士等は国内での訓練の後,6月にはテニアン島に到着しています.
これに先立つ5月上旬,原爆目標選定委員会は,投下予定地点として,京都,広島,横浜,小倉を選びましたが,5月末には横浜,小倉が消え,新潟が加えられて,京都,広島,新潟となります.
ところが,陸軍長官のスチムソンはその後の占領政策に支障を来すことを懸念して,京都を外すことを強硬に主張し,京都が消えて小倉が復活しました.
とは言え,マンハッタン計画の中心人物であるグローブス将軍は内心,最も効果的な目標として京都を主張しています.
7月の段階では,京都,広島,小倉,新潟の4箇所が原爆投下目標となっており,第509混成航空団麾下の15機のB-29は,この地域へのパンプキン爆弾投下を計画しました.
7月20日から4地点を標的としたパンプキン爆弾投下訓練が開始されましたが,京都は未だスチムソンの同意を得ておらず,7月21日にグローブス将軍の意を受けた暫定委員会委員のハリソンがスチムソンに対し,京都を加える要請の電文をポツダムにいたスチムソンに打ちましたが,スチムソンは首を縦に振りませんでした.
最終的にアーノルド大将の裁定により,京都を外し,その代りに長崎を加える指示を出しました.
7月24日の会議でこの4箇所の目標は承認され,此処に長崎の運命は決まった訳です.
とは言え,7月25日の時点で,通常爆撃の範囲から外れた都市は,京都,新潟,広島,小倉です.
7月28日では,この順番に変化が出て,京都,広島,新潟,小倉となります.
8月7日の時点では,既に原爆が投下されていますが,広島,京都,小倉,長崎,新潟となり,依然,京都は入ったまま.
8月13日の時点では,広島,京都,小倉,長崎,新潟となっています.
この順番は,本来,原爆が投下されるべき目標の優先順位であると考えられていますが,7月24日の時点で京都を抜くことを明示した筈にも関わらず,未だに京都が入っています.
つまり,3発目の原爆が準備出来る時点まで,日本が降伏しなければ,京都もまた,候補地としてあげられた可能性も否定出来ません.
因みに,原爆投下目標には2箇所の準備が必要とされていました.
これらの目標の内,新潟は距離が遠いことと市街地規模が小さいことから,乗員達には極めて不評だったそうです.
もし,3発目の原爆が投下されるのであれば,その第1目標は小倉になったでしょうが,その場合,第2目標として京都を指定したのではないでしょうか.
…あくまでも,これはifでしかありませんが.
ところで,この模擬原爆パンプキンの投下の目的は,その弾道を見定めて本番での目標命中率を高めることと,投下後の避難態勢を反復練習する事でした.
この為,向い風で進入して目視で標的を定め,爆弾投下後,反転して追い風で退避すると言う,通常爆弾の投下では不必要な訓練を実施しています.
目標は,京都,広島,小倉,新潟を想定して計画していますが,具体的目標は特定軍需工場であり,天候などで投下が不可能の場合は第2目標となりますが,第2目標が指定されていなかったり,目標への投下が不可能である場合には,任意の市街地でも投下が認められていました.
但し,当然ながら原爆投下目標都市自体への爆撃は禁じられていました.
結果的に44目標に対し,パンプキンが49発投下(計18ソーティー,延べ50機)され,この爆弾投下により約420名が死亡,約1,200名が負傷しています.
全て原爆投下目標都市以外の軍需工場か市街地が標的であり,飛行場や基地は目標になっていませんでした.
唯一の例外は,舞鶴の海軍基地ですが,これは直接目標が舞鶴海軍工廠だったのが,外れた為と考えられています.
これは,本土空襲と言ってもあくまでも彼等にとっては練習ですから,日本本土に進入し,パンプキンを投下して訓練を実施し,無事に基地に帰ってくるのが任務であり,一応目標が設定されていたとは言え,無理ならば,その航路上で投下する事は何ら問題にはなりませんでした.
例え,東北の福島県郡山市に投下されたにしても,これを投下する少数機(2~3機,多くても6~7機)編隊はわざわざ新潟まで飛行して,直接目標を目視確認した後,帰りに郡山にパンプキンを投下すると言った飛行を行っています.
で,何故にパンプキンはファットマンと同じ形に作られたかと言えば,ウラン濃縮型の核爆弾であるリトルボーイは通常爆弾に形状が似ている為,投下後の弾道予測が容易であると考えられたのに対し,プルトニウム爆弾であるファットマンは形状がラグビーボール状で,弾道特性が捕えにくく訓練が必要だったこと,又,こちらの方が重要ですが,プルトニウム爆弾の方がコストが安く,誤作動も少なく,量産に向いていたからでもあります.
事実,第3の原爆を始め,1940年代後半の米国の核兵器は全てファットマン型のものであり,序でに言えば,ソ連が開発していたのも又,同じ形状だったりします.
この部隊が最後にパンプキンを投下したのは,8月14日に行われた名古屋造兵廠鳥居松製造所と,トヨタ自動車挙母工場の2箇所ですが,今までは1発ずつしか投下していなかったのに,この空襲では両方で7発のパンプキンを投下しています.
在庫整理という面無きにしも非ずですが,パンプキンの威力そのものを検証したのではないかと考えられています.
また,来るべき核戦争に備え,数発の核爆弾を同時に投下した場合のシミュレーションをしていたのかも知れません.
因みに,この第509混成航空団は,1945年10月17日にテニアンを引揚げてロズウェル基地に移動し,1946年7月のビキニ環礁に於ける核実験「オペレーション・クロスロード」ではファットマン型の原爆エイブルを投下しています.
最終的には1947年6月に解散していますが,それまで米国の核兵器専門部隊として活動していた訳です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/08/08 21:30
さて,パンプキンは各地の原爆投下目標近くに投下されています.
7月20日には任務番号1~4で,10機により,原爆投下目標「新潟」を想定した投下が行われましたが,7月24日には原爆投下目標「京都」を想定した任務番号5~7が行われました.
任務番号5は新居浜,6と7は神戸,ついでに,同じ時期に行われた8は長岡,9は富山です.
任務番号7に割り当てられたのはB-29の7301号機,後にストレート・フラッシュと名付けられ,8月6日の広島原爆投下の際,広島上空で45分間旋回し,気象観測を行って,エノラ・ゲイにゴーサインを出した機体です.
本来この7301号機が目標としていたのは,西宮にあった旧新興毛織工場,その頃は鐘淵機械工業西宮工場でした.
此処では,航空機部品製造に転換していた為,米軍は此処を爆撃目標とした訳です.
しかし,この場所は当日雲が掛かって目標が見えず,任意の第2目標に向けて針路を取り直しました.
そして,彼等が選んだのが,滋賀の東洋レーヨン石山工場です.
この工場は元々人絹工場でしたが,1941年に舞鶴海軍工廠の下請けとして魚雷の部品製造を開始し,1943年には呉海軍工廠から弾頭部以外の魚雷組立を始め,特殊軍需部が3月に設置されて,5月に業務開始し,潜水艦用九二式改一電池魚雷本体を製造し始めました.
最終組立は呉海軍工廠ですが,大量生産方式を試みて,徴用工,挺身隊,学徒を動員して,1945年7月には月産100本に達していました.
学徒は,彦根高商が転換した彦根工業専門学校,膳所中,瀬田工業,八幡商業,滋賀高等女子実業などが動員されています.
7月24日午前1時,7301号機を始めとする3機編隊がテニアンを離陸します.
彼等は早朝に神戸に到着しましたが,神戸は雲に覆われて目標を視認出来ず,次の目標へと向かいました.
神戸から大阪を経由して,淀川沿いに遡り,途中京都の梅小路機関区を視認し(京都に原爆を投下する場合の目標が東海道線と山陰線が交差するこの場所でした),琵琶湖に出,午前7時40分,第2目標を視認した7301号機は,一旦目標をやり過ごした後,音羽山の方角から戻って高度8,400mでパンプキンを投下しました.
因みに,残りの2機は,四日市と大垣を空襲しています.
地上では6時頃警戒警報が発令され,7時過ぎに空襲警報が発令されました.
パンプキンはファットマンと同型ですから,重量は4,500kgに達する巨大な爆弾で,その腹の中には2,300kgの高性能火薬が詰められていました.
爆弾はほぼ狙い過たず,東洋レーヨン石山工場の敷地内にある兵器部品倉庫南側1mの地点に着弾し,爆発.
たった1発の投下でしたが,倉庫,売店,守衛詰所などが全壊し,寄宿舎などが半壊しました.
従業員,海軍軍人,軍属の16名が死亡し,重軽傷者は104名としていますが,実際には消し飛んだ人もいたり,入院中に亡くなった方も居て,実際にどれくらいの方が亡くなられたのかは正確には判明していません.
着弾地点には直径20mの大穴と破壊された魚雷の胴体部が散乱し,ばらばらになった人体が彼方此方に転がっていたそうです.
偶々,学生達は殆どが空襲警報によって防空壕に入っていて助かったのですが,舞鶴海軍工廠への爆撃では,たった1発の爆弾で,97名の死者と100数十名の負傷者を出しています.
今まで,京都やその隣の滋賀は余り空襲を受けていませんでした.
大阪空襲で焼け出された人が,京都に疎開した際,空襲警報が鳴ると,着の身着の儘で逃げ出そうとするのに,京都の人は「何をそんな大層に」と言う目で彼等を見たそうです.
大津でも呑気に構えていましたが,7月24日以後は,工場を分散するなど対応に追われました.
翌日以降,滋賀は度々空襲に見舞われることになりますが,その被害がどれくらいあったのかは軍事機密の壁で中々残っていなかったりします.
最近の動向を見ていると,こうした戦争を知っている人々が死に絶えると,再び日本は同じ道を歩むんじゃないかと思ってみたりします.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/08/09 18:13
【質問】
日本側では原爆投下をどこまで察知できていたのか?
【回答】
以下引用.
------------
昭和19年末,田無にある陸軍中央特殊情報部(特情部)ではサイパン,グアム,テニアンに展開するB-29の編成・機数の情報をコールサインの規則性から推測することに成功していた.
それによるとサイパン駐留の機体には400番台,同グアム500番台,同テニアン700番台の符号を使用し,一飛行戦隊が112機で編成されているところまで突き止めていた.
昭和20年5月,新たにホノルルからテニアンに600番台のコールサインが付せられたB-29が加わった.
この部隊は離陸する前にワシントンに直接打電するという極めて奇怪な行動をとった.
しかも不思議なことに,この戦隊の編成は10機~12機という極めて少数であることも判明した.
特情部ではこの謎の部隊機を「特殊任務機」と呼称し特に警戒して注視することになった.
8月6日午前3時,この「特殊任務機」がワシントンへ短い電波を送っりテニアンを離陸したのを特情部は探知した.
無論内容は判らない.部内は大緊張をはじめたが,それ以後,午前4時に硫黄島の航空基地に対して「われら目標に進行中」の無線電話を発信したのち無線封止したのか,電波は一切出さなくなってしまった.
大本営に原爆投下の知らせが届いたのは,その日の午後になってからだった.
特情部がスウェーデン経由で入手した暗号解読機で米軍暗号の解読に成功し,原文から「nuclear」の単語が現れたのは8月11日のことで,関係者は地団駄を踏んで悔しがった.
堀栄三著『大本営参謀の情報戦記』より要約.
------------
旧軍情報部でも原爆機の作戦任務はわからなかったにせよ,惜しいところまで判明していたんですね.
若し,この「特殊任務機」と外電で伝わってきていたアラモゴードでの原爆実験が結びついていたのなら,気休め程度ではあるにせよ当時,日本側での幾らかの対処のしようがあったかもしれませんし,広島,長崎での壊滅的被害を抑えることが出来たかもしれません.
ほっけ = うるふ in mixi,2007年08月08日21:08
【質問】
NHKで特集をやってたから,久しぶりに原爆関連の本を読んでみた.
上層部は情報を掴んでけど,放置したままってホントかね?
【回答】
録画したのを見返していないのでアレだが,通信の人が,特殊部隊の符号を受信したというのは事実だろう.
だがそれは「兆候」であって,何時頃にどこに原爆を落としますよ,という具体的な事までは分からないと思う.
例えるなら,携帯に着信があった.
でも何の用事かまでは分からない,と.
まあ,頭の回転が速い人なら,察知はできるだろうけど.
第一,6日に原爆落とされて,おおよそ原爆だろうと分かったのが7日.
それで2回目が9日というのでは,原爆投下迎撃体勢は取れないと思う.
ソ連参戦もあるし.状況把握に1週間は欲しいところ.
加えて,ボックス・カーの方は文字通り「迷走」してた.
あれ,映画にしたらコメディにしかならないだろう.
常識的に考えて,3回もアプローチに失敗するような機体が,原爆落とそうとしてるとか考えないわな.
ちなみに,8月12日に343空は,原爆迎撃態勢を取っている.
飛んできたら,源田司令本人が体当たりするという内容で.
【参考文献】
同じようなテーマを扱った本が,自分が知るかぎり2冊出てる.
原爆投下は予告されていた!―第五航空情報連隊情報室勤務者の記録 黒木雄司
ttp://www.amazon.co.jp/dp/4769806191
原爆投下は予告されていた 国民を見殺しにした帝国陸海軍の「犯罪」古川愛哲
ttp://www.bookclub.kodansha.co.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=2171163&x=B
軍事板,2011/08/07(日)
青文字:加筆改修部分
【反論】
特殊任務を帯びてるらしい部隊が,活動中という情報ならつかんでるだろ.
「ある通信兵の話」として,投稿されたものにもその記述はある.
http://okigunnji.com/ohanashi/backnumber/te108.htm
【再反論】
じゃあ,その特殊任務が,「新型爆弾」投下だって分かるのかよ.
上の方で指摘されてるのはそういうことだろ.
「活動中」だけじゃ,意味の無い情報だよ.
大体,爆弾ひとつとっても,イギリスには地震爆弾のような,大型の通常爆弾だってあるわけだし,
それでドイツのダムが破壊されたんだろ.
日本だって当時からダムはあるよ.
工場の敷地に落としたって意味があるだろうしな.
ドイツの場合と違って,操車場だって終戦の日まで狙われることは無かった.
また,やってたかどうか知らんが,敵だって偽電くらい流してくることを考えにゃいかん.
或いは,「やるなブライト」のシーンではないが,同時に幾つかの小編隊を飛ばして引っ掛けるとかね.
少なくとも,どれが本物かと言うのは,超能力でも無いと分からんな.
F13に見せ掛けて(たか知らんがそう勘違いした人もいた筈),史実のように通り魔的にやる方法もあるし.
後知恵のおかげで,俺等は敵の取っていた行動が分かる.
でも当時の目線で見たら,入手できる範囲内の可能性挙げてったらきりがないし,見当違いの方向にリソースを突っ込んで失敗もしている.
リソースそのものも足りない.
勿論,原爆投下を阻止できなかったことは,新たな失敗例となったが,末期的な状況を考えれば,安易な批判は出来ないなぁ.
軍事板,2011/08/07(日)
青文字:加筆改修部分
【質問】
広島への原爆投下って,エノラ・ゲイの単機侵入?
【回答】
広島上空に侵入したのは
爆弾投下機:エノラ・ゲィ
記録・観測機:グレートアーティスト
記録・写真撮影機:ネセサリー・エビル
の3機.
この投下編隊に先行して,先行気象観測隊の3機,
ヒロシマ偵察担当:ストレート・フラッシュ
コクラ偵察担当:ジャビットⅢ
ナガサキ偵察担当:フル・ハウス
が各投下候補都市の先駆偵察を行なった.
また,先行偵察隊の予備機として「トップ・シークレット」(機体のニックネーム)が硫黄島へ向かい,硫黄島で待機した.
【質問】
エノラ・ゲイの乗組員は被曝しなかったんですか?
【回答】
原子爆弾を投下する任務に先立って,模型の原子爆弾を投下してから全力で離脱する訓練を繰り返しました.
ですから殆ど被曝がしなかったようです,
また,被曝以前に閃光と爆風に巻き込まれたりすると,最悪の場合墜落する訳ですから,可能な限り距離を取るように,と作戦計画は練られました.
三等自営業 ◆LiXVy0DO8s in 軍事板
青文字:加筆改修部分
また,高田純『核爆発災害』によれば,
---
広島や長崎の二〇キロトン級核兵器の場合,初期核放射の線量は,
ゼロ地点から三キロメートル地点では無視できるぐらいに低い.
---
さらに,ここからは推測になるが,エノラ・ゲイは十分に高高度であり,きのこ雲を観測できる程度に距離をとっていたことを考えるなら,放射性降下物をかぶった可能性も低い.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
広島に原爆が投下された時には,空襲警報は出されていなかったのですか?
また,長崎の場合はどうでしょうか?
【回答】
空襲警報ではなくて警戒警報がいったん出されましたが,投下前に解除されています.
原爆投下までの流れ
*八月五日
21:27 空襲警報発令
23:55 空襲警報解除
*八月六日
00:25 空襲警報発令
02:10 空襲警報解除
07:09 警戒警報発令
07:31 警戒警報解除
08:06 松永監視哨,B29×3機(「エノラ・ゲイ」を含む)発見
08:15 原爆投下
07:09の警戒警報は,「エノラ・ゲイ」に先立って侵入した天候偵察機「ストレート・フラッシュ」 に対して出されたものです.
「ストレート・フラッシュ」が離脱したため警戒警報は解除されましたが,再びB29が侵入したのに気が付いた時はすでに遅く,警戒警報を出す時間も無く原爆が投下されました.
「ストレート・フラッシュ」は豊後水道方面から侵入し,気象情報と見られる電報を発信していたため,陸海軍は後続機があるものとして同方面を警戒していました.
しかし「エノラ・ゲイ」らは四国東南部より侵入したため,発見が遅れたようです.
長崎に関しては証言に食い違いがあるようです.
http://www.nagasaki-np.co.jp/peace/2004/kikaku/kikaku4/02.html
名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE :軍事板,2005/08/07(日)
青文字:加筆改修部分
ちなみに米軍は,少数機を原爆投下候補地へ頻繁に飛ばして,いちいち騒がれないように「下準備」をしていた,という話を読んだ記憶がある.
【質問】
騒がれないように事前工作って言うより,原爆投下の予行演習じゃなかったのか?
【回答】
第509混成群の戦闘任務をみる限り,広島や呉に対する事前の爆撃訓練ソーティは1件もありませんね.
広島に関する爆撃訓練としては,愛媛,山口に各1回ずつ(計5ソーティ)実施されてます.
【質問】
リトルボーイの中に入っていた60kgのウランが,全て核反応を起こしていたとすれば,どれくらいの威力になっていたのでしょうか?
【回答】
ウラン235が1g核分裂を起こすと,8.21*10^4MJのエネルギーが放出される.
つまり 60kg=6*10^4 gでは,
(8.21*10^4)*(6*10^4) ≒ 4.92*10^9MJ
次に,メガジュールをTNT換算する.
TNT火薬1tが持つ爆発エネルギーが3.87*10^3MJ.
こいつでウランのエネルギーを割ると,
(4.92*10^9)/(3.87*10^3) ≒ 1.27*10^6
= 1270000t = 1270キロトン
ちょっと誤差があるかもしれないけど,計算そのものはあってると思う.
実際には,この1.2%(約15キロトン)しかエネルギーは放出されていない.
リトルボーイは最初期型の原爆で,おまけにガンバレル方式だから効率が悪いのね.
【質問】
原爆で地面に人影が焼きつけられたというのは本当ですか?
【回答】
「人影が焼き付けられた」と言われている石は,旧住友銀行広島支店の正面玄関石段(花崗岩)に残っていました.
現在,石段部分は保存され 広島の原爆資料館に展示されています.
ちなみに,影を残した女性は,投下数分前に現場を通った知人(生存)に目撃され,ほぼ氏名が確認されています.被爆後運んで行かれる姿も目撃されています(NHK)
また 最近の学術調査で,影の成分が石の成分変化でなく,炭素系物質であることが確認され,「影」ではなく人体の溶融物ではないかと考えられています.
【質問】
ヒロシマ・ナガサキ原爆の体験談を読んでると,被爆者がやたら水を欲しがって,水を飲ませるとすぐ死んだという話が多いのですが,なんで水を飲ませると死ぬのですか?
また,もしも同じような状況になったとしたら,全身ヤケドの人には水を飲ませたほうがいいのですか?
飲ませないほうがいいのですか?
体験談では,兵士などから「水を飲ませてはいけない」と固く言われたけど,どうせ死ぬのなら飲ませてやればよかった,と後悔してる人も多いようです.
【回答】
え~っと,全身ヤケドの際には飲ませようが飲ませまいが,多分結果は同じです.
こっから先はちょっと難しい話になるのですが,全身ヤケド(熱傷)の時には,血管の中の血液の血漿成分(水分)が組織内にダダ漏れとなります.
血管の中には血球成分(赤血球とか白血球とか)だけが残り,血管内脱水と言う血液が足らない状態になります.
血液が足らなくなるとショック状態なり死んでしまいますから,現在ではジャンジャン点滴して補います.
ところが点滴で入れた水分もダダ漏れで,さっぱり血管内脱水が良くなりません.
そこでもっともっと点滴で水分を入れます.
時と場合によっては,一日で数リットル以上の点滴をする事もあります.
ですから全身ヤケドの際には,(血管内)脱水状態で水を欲しがる訳ですが,多少飲ませたから何とかなる,と言う事には残念ながらなりません.
飲ませても飲ませなくとも,当時の医療水準では救命は不可能ですから,結果は同じで亡くなられるでしょう.
ですから水を飲ませてあげれば良かった,と言うのはある面間違いではなかったと思います.
なお,広範なヤケド(熱傷)の治療自体,ごく最近(せいぜい10~20年前)くらいにようやく確立されたようなものです.
現在でも全身ヤケドの治療は非常に難しく,集中治療室で専門医がよってたかってやって,ようやく助かるか?と言った所です.
蛇足ながら付け足し.
全身ヤケドの人に水を与えると死ぬというのは,渇望していた水を飲むことによって緊張が解けてしまうからだ,という説があります.
学術的証明をしようのない仮説ですが(実験も定量化も無理),ヤケドに水という組み合わせに限らず,瀕死の人間が
「ほっと一息ついたと思ったら,そのまますぐに死亡してしまった」
という例は多数存在しているので,ありえない話ではないと思われます.
だからといって,水を与えなければ死なないというわけではなく,「ほっと一息ついた」だけで死んでしまうような状態なら,水の有無に関係なくいずれ死亡してしまうでしょう.
余芸の関係で,原爆で被災した子供に目の前で死なれた多くの母親たちの手記を見ていますが,「どうせ死ぬのなら思い切り飲ませてやればよかった」という悔いを残した人が多いです.
医師として考えても,水を飲むこと自体が死を招くとは思えませんし,仮に水を飲んで楽になったために,気がゆるんで意識を失い,そのまま死んだとしても,そのような状態では飲まずに苦しみ続けてもやはり死ぬでしょう.
飲ませてやればいいと思いますよ.
905 :名無し三等兵:2007/06/26(火) 13:45:34 ID:???
「将校の義務だ.楽にしてやれ」
【質問 kérdés】
原爆で被爆死した欧米人はいたの?
Voltak a nyugatiak, akik meghaltak az atombombázás után?
【回答 válasz】
約20人の捕虜が被爆死したと推定されている.
呉軍港空襲中の1945.7.28に撃墜された米軍機搭乗員の内,12人が広島原爆投下当時,中国憲兵隊司令部に拘留されており,10人が投下当日に死亡.
残る二人も8/19,放射線障害により死亡した.
長崎では爆心地から1.7kmの場所に捕虜収容(福岡14分所-三菱重工長崎造船分所)があり,200人が被爆.
オランダ兵捕虜7人,英兵捕虜1人が死亡した.
これらの事実を米英政府は長い間認めようとせず,アメリカ政府は1983年に初めて「10人死亡」と認めるまでは,
「被爆したアメリカ人はいない」
と言い続けていた.
他に,広島には他に日系アメリカ人が多数在住しており,彼らも被爆した.
戦前,広島からは多くのアメリカ移民が出ており,開戦以前に親戚への訪問や日本国内への進学を理由として来広し,開戦によりそのまま帰米不能となった日系アメリカ人が存在していた.
米国広島・長崎原爆被爆者協会(ASA)によれば,アメリカにはおよそ1000人の被爆者がおり,その多くが西海岸とハワイに暮らしているという.
死者数は,google検索した範囲では不明.
さらに,広島では白系ロシア人6家族11人も被爆.
彼らはロシア革命によって日本へ亡命してきた者達だが,そのうち2人が即死あるいは数日内に死亡.
10月に神戸の病院で1人が死亡したという….
【参考ページ Referencia Oldal】
森重昭 『原爆で死んだ米兵秘史』(光人社,2008)
http://powresearch.jp/news/wp-content/uploads/hibaku-amerikahei-horyo.pdf
https://t.co/cnSaA8zUXG
https://t.co/rXssuEadpa
https://t.co/3Sy2ikvwZT
http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=1507
mixi, 2018.9.1
【質問】
北韓(北朝鮮)に被爆者は存在するか?
【回答】
以下の報道によれば,全くいないか,仮にいたとしても極少数と思われる.
------------
北朝鮮は戦後,
「わが国に被爆者はいない」
と繰り返していた.
ところが,日本政府が韓国被爆者に約40億円を拠出したのを知るや,平成13年に政府調査団が訪朝した際,
「被爆者総数は1353人,うち生存者が928人で,まだ増える可能性がある」
と北韓は一転して表明.
しかし,東京基督教大の西岡力教授によると,朝鮮半島出身の被爆者は広島で多かったが,9割以上が現在の韓国・慶尚南道出身.
西岡は
「(北朝鮮に戻った)被爆者はいても一人か二人」
と話している.
一方,元在日朝鮮人の脱北者らは,
「原爆の被爆者はいないが,北朝鮮の核関連施設による被曝(ひばく)者はたくさんいる」
と証言しており,西岡は
「安易な支援は北朝鮮の核開発を手伝うことになる」
と指摘している.
------------(産経新聞 2004/07/28)
【質問】
日本政府,軍部が,広島,長崎に投下された物は原子爆弾だったと認識したのはいつ頃ですか?
【回答】
最初に事態を把握したのは海軍省です.
六日午前8時30分には呉鎮守府より広島壊滅の第一報が届いており,正午頃には調査団の派遣を決定しています.
陸軍が事態を把握したのは広島の通信網が破壊されたためにかなり遅くなっています.
陸軍省から内閣に広島の第一報が届いたのが午後も遅くなってから.
同じころに天皇も蓮沼侍従武官長より報告を受け取っています.
翌七日早朝にはアメリカのラジオ放送が一斉に,日本に対して"Atomic Bomb"を使用した事を報じており,この中でトルーマン大統領の声明として,日本が降伏に応じない場合,さらに他の都市にも原爆を投下する旨を伝えています.
同日には呉鎮守府より多数の技術士官を含む調査団が広島に到着しており,「新型爆弾」が原子爆弾であることを確認しました.
午後3時30分,大本営はラジオを通じて広島がB29少数機の攻撃により相当の被害を出したこと, および同攻撃には「新型爆弾」が使用されたことを国民に簡潔に伝えています.
名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE :軍事板,2005/03/05
青文字:加筆改修部分
こんなページめっけたんで参考にしとくれ.
http://www.kyoto-seika.ac.jp/nakao/class/journalism_2002_01/journalism_02.html
軍事板,2005/03/05
青文字:加筆改修部分
【質問】
原爆投下に対する日本側調査は,どのように行われたのか?
【回答】
有末精三中将を団長とする調査団が,ニ号研究に従事していた仁科芳雄を伴い,1945/8/8夕刻には飛行機で現地に飛び,8/9にはF号研究に従事していた荒勝文策も,やはり現地に飛んでいる.
彼らは断定こそしなかったものの,原爆以外の可能性は考えられないとし,また,彼らは爆心地で石や瓦などを採取,研究室へ送っている.
以下引用.
------------------------------------
〔1945/8/7,〕直ちに広島で調査を行うというので,随行を求められ,陸軍機で飛び立つため所沢飛行場に赴いたとき,仁科は調査団長の有末精三中将に,
「広島に落ちたのは原爆ですよ」
とはっきり言った.
が,陸軍機はエンジンが故障していったん所沢に引き返し,ひとまず解散となった.
翌朝,仁科は深刻な表情で,
「今度は生きて帰れないかもしれない」
と言い残して出発していった.
そして改めて所沢に集まって輸送機に乗り,夕方,広島の上空に達した.
機中の人々は食い入るように下界を見下ろした.
それは異様な光景であった.
普通の爆撃でやられた市街とは,まるで様子が違っていた.
飛行場に降りたあと,有末は現地の軍人たちに投下前後の模様を聞き,直ちに大本営宛てに,
<これは特殊爆弾である>
と第一電を打った.
第一日の夜は宇品の旅館に泊まった.
電燈がついていることが,仁科には不思議なことに思われ,その口から,
「しまった.電源が健在ならガイガー・カウンターを持ってくるんだった」
の言葉が漏れた.
翌朝から酸鼻の現場で精力的な調査が開始された.
爆心は細工町19番地,爆源はその真上約580mである,ガイガー管がないので放射性物質は直接測定することができないが,赤十字病院にあった写真乾板が現像の結果,黒くなったところから,エックス線,ガンマー線のような放射線が照射されたことは間違いなく,これは原子爆弾以外ではありえないことである,と推定された.
爆心で拾った瓦や石や馬の骨を,直ちに東京の理研に送った.
1日遅れて京都から荒勝を中心とする調査団が,汽車で広島に到着していたことが分かり,10日,比治山にある陸軍兵器廠で現地陸海軍関係者と合同会議が開かれた.
丘一つへだてた向こう側では雀一匹,生物の影もないのに,裏側のここでは,絶え間なく蝉の声が聞こえるというのが不思議なことのように思われた.
むろん仁科,荒勝は科学者であるから,完全な証明が行われるまでは,原爆であると断定はしえない.
しかし,原爆以外の可能性はないと判断せざるを得なかった.
これに対して,通常の火薬による爆弾でもありうると主張する海軍兵学校教官があって,しかし,一笑に付された.
このあと,仁科は引き続いて長崎に落とされたプルトニウム爆弾の調査に加わり,仁科研究室における不在は長期に渡った.
東京では,9日に長岡半太郎が技術院に呼ばれ,意見を徴されて,原爆ではあるまいと答えた.
長岡は,この原爆騒ぎは政府が和平工作に利用するつもりではないか,と疑っていた.
このころまで,仁科研究室の武谷三男は,検事の取り調べのために連日,練馬警察署に通っていた.
19年5月に再逮捕された彼は,仁科ら研究室の人々が心配して色々働きかけ,9月10日にはいったん釈放されていた.
しかし,特高の監視下にあって理研には行けず,また疎開もできず,20年7月20日からは取り調べがはじまっていたのである.
その最後の日は,検事局が巣鴨拘置所に疎開していたので,そこへ訪ねた.
朝,新型爆弾が広島に落とされたというニュースが新聞に出ていた.
武谷はかねがね,自分がやっているのは原子爆弾の研究で,アメリカに先を越された場合は東京は一挙に吹き飛んでしまうであろうと説いていたので,これで私の言ったことが正しいでしょうと言うと,検事はさっそく他の検事を集め,黒板を前にして原子爆弾とは何かについて講義させ,すぐに理研に帰って研究を続けるよう申し渡した.
理研に行くと,広島の仁科から瓦や石が送られてきた.
まさしく相当の放射能を示しており,原子爆弾が落とされたことは疑いなかった.
〔略〕
武見〔太郎〕の疎開先には焼け出された牧野伸顕伯が彼を頼って疎開しており,重臣たちの出入りが慌しく,牧野を通して彼は次第に政界の動きをキャッチできるようになっていた.
彼は仁科研究室に外務省極秘文書のトルーマン声明,アトリー声明を持参して見せ,その迫力に研究員たちは激しい衝撃を受けた.
長崎の原爆投下,ソ連参戦も第一報は武見からもたらされた.
------------------宮田親平著『科学者たちの自由な楽園』(文藝春秋,1983/7/15),p.258-262
【質問】
太平洋戦争で米国が広島につづいて長崎にまで原爆を落とした戦略的な理由はあったのでしょうか.?
一発おとせば十分だったと思うんですけど.
【回答】
本当は小倉に落とすつもりだったんだけど,前日爆撃された八幡製鉄所の火災の煙と雲で投下地点が確認できず,第二目標の長崎に落とした.
それもやはり雲で投下地点がよく確認できず,雲の切れ間から適当に落とした,というのが真相だったり.
米軍の計画だと,日本が降伏しない限り原爆は投下しつづける計画だったが,広島に落とされたウラニウム型,長崎に落とされたプルトニウム型の二つの形式は,最低でも各一発ずつは実際に落として威力等を比較する予定だったので,どう情勢が動いても最低二発は原爆が日本のどこかに落ちたと思われる.
▼ 2発連続で落としたのは,1発だけだとその1発しかないと思われるから.
実際,日本陸軍要人の中には,広島原爆の一報を聞いて,
「これ1発だけしかないはずだから,降伏する必要はない」
と主張した人もいた.
間髪をおかず2発連続で落とすことによって,原爆をたくさん持っていると思わせることができる.
これは日本に対してだけではなく,特にソ連を威嚇する意味もある.
ドイツ降伏後,米ソはヨーロッパの戦後処理,特にポーランド問題で鋭く対立していた.
アメリカの目は,極東よりヨーロッパを向いていたと思う.
広島型と長崎型で種類が違うのは,ウラン濃縮には非常な時間がかかるため.
ウラン型は広島に落としたリトルボーイ1発しかなかった.
リトルボーイは爆弾の構造が簡単なため,爆発実験を行わず,広島で実戦に投入した.
プルトニウム型は原料の入手は容易だが,爆発の構造が複雑なため,ニューメキシコで爆発実験をしたあと,長崎に投下された.
実験実験というが,新兵器を初めて実戦に使うときは,データを集めて効果を確認するのは当たり前のことで,どこの国でもやってること.
▲
▼ 「日本陸軍要人」というのは阿南陸軍大臣のことですね.
8月9日の戦争指導会議で同趣旨の発言をした直後に,長崎に2発目が投下されたとの報せがもたらされたそうです.
それと8月上旬の時点で,投下可能な原爆は2発しか完成していなかったはずです.
これも2発落とされた(2発しか落とされなかった)理由になると思います.
アメリカもはったりかましてるんですよね.
▲
【質問】
長崎の原爆で長崎駅に近い福済寺と本蓮寺は全焼したのに,隣の聖福寺は無傷で現存している.
目と鼻の先なのに,こんなことってあるの?
【回答】
・たまたま爆風の影響を受けにくい地形だっため,倒壊を免れた
・たまたま近くの建造物が,お寺への熱線を遮ったため,炎上を免れた
幸運としか言いようがない.
言われてみれば,本蓮寺・福済寺・聖福寺は丘陵地の斜面の湾曲したカーブ沿いに弓なりに並んでいる.
爆心地である浦上から長崎駅まで,浦上川に沿って爆風と熱線が南下したとして,浦上からの爆風の向きに平行している本蓮寺や福済寺はまともに影響を受けたが,丘陵のカーブで隠れていた聖福寺は助かった,ということだろう.
近くの諏訪神社もカーブの先にあるから,山が爆風を遮って無事だったたらしい.
【質問】
稀に見掛ける話ですが,
「広島原爆と長崎原爆を両方食らった,とてつもなく運の悪い人」
ってのは,実在するのでしょうか?
【回答】
実在する.
約160人.
主に負傷者の救護活動や遺体処理などにあたった軍人や看護師.
以下ソース.
広島・長崎で2度被爆,約160人 広島祈念館が調査
広島,長崎への原爆投下後,両市で2度被爆した可能性のある人が少なくとも約160人にのぼることが,国立広島原爆死没者追悼平和祈念館(広島市)の調査で明らかになった.広島か長崎で被爆後,間もなくどちらかの市に立ち入った例が多く,残留放射能を浴びた人もいたとみられる.
祈念館は今春,広島,長崎両市で被爆したという広島市在住の女性から体験記の寄贈を受けた.
これを機に「二重被爆」に注目し,これまでに寄せられた被爆体験記や原爆死没者の遺影など延べ約13万人分のデータを調べ直した.
その結果,広島,長崎両市で被爆したと申告している人が約160人いたことが判明.男女別では男性約130人,女性約30人だった.
体験記の記述などから,投下後に両市へ立ち入ったのは,負傷者の救護活動や遺体処理などにあたった軍人や看護師らが目立った.
原爆の放射線や爆風を直接受けたという人も,両市に工場があった造船所関係者らが複数いたという.
祈念館の前田耕一郎館長は「二重被爆の人数はまだ十分に精査されておらず,重複して数えている可能性もある.今後も被爆の実態解明に努めていきたい」と話している.
厚生労働省の統計によると,3月末の被爆者健康手帳の発行数は26万6598人.これまで二重被爆について調査されたことはなく,実態は分かっていない.
【参考サイト】
http://www.nijyuu-hibaku.com/
【質問】
原爆の3発目はあったの?
【回答】
ありました.
核兵器の定番スレ,
http://nuclearweaponarchive.org/Nwfaq/Nfaq8.html#nfaq8.1.5
によると,ファットマンタイプの弾体はすでにティニアン島に存在し,使用する核分裂物質は8月13日には準備されており,遅くとも8月20日には使用することができた,とあります.
使用されたファットマンはティニアン島に到着した3発の弾体のうちの一つを使用したもので,
あと2発使用することが可能でした.
もっともプルトニウムコアは届いておらず, それが前記の8月13日に米本土で準備されたものです.
これをティニアンに運んで弾体に組み込めば使用可能となったわけです.
弾体もプルトニウムコアもカートランド基地からティニアンに空輸されたのは書いてあるとおりです.
【神話】
3発目の原爆は重巡「インディアナポリス」によってテニアンへの輸送中,「インディアナポリス」が伊58潜に沈められたため失われた.
【事実】
インディアナポリスが積んでいたのはリトルボーイ用のターゲット側ウラニウム.
そして沈められたのはティニアンに配達した後の帰り道.
3発目とは関係ありません.
極秘任務だったから撃沈されたことがすぐに分からず,同艦からの脱出に成功した乗員900名のうち,救助されたのは314名.
それ以外はサメに食べられた.
映画「ジョーズ」の中で語られているのは,この事件.
【質問】
広島,長崎に続き,3発目の原爆が用意されていたそうですが,それ以上作って戦局に間に合わせる能力はアメリカにはあったのですか?
当時の状況を考えると,4発目完成の前に日本本土上陸作戦が成功してたのでは?
【回答】
1945年春には,アメリカのプルトニウム生産能力は毎月3発分に達していた.
(3基の原子炉で毎月20kg弱)
兵器級ウランの生産量はそれには及ばず,1945年には年1発分相当程度だった.
とはいえ,プルトニウム爆弾の方が製作難度が高いことを考えても,がんばれば毎月1発,少なくとも数ヶ月に1発のペースで,原爆を落とし続けることは十分できたと思われる.
軍事板
青文字:加筆改修部分
蛇足ではありますが,1944年末の軍事政務委員会では,ウラン235の供給は,1946年1月1日までに最悪の場合約60kg,最善で85kg.
プルトニウム239は,同日までに約90kgの供給が可能と報告されていました.
1945年8月時点で,米国の公刊戦史では
「8月1日時点で,利用出来る核分裂物質は2発だけだったが,その生産は急カーブを描いて上昇していた」
としています.
また,1945年7月23日のスチムソン陸軍長官の問い合せに対し,暫定委員会副議長のハリソンは,
「実験された型(ウラン235爆弾)の第1号は8月6日頃,太平洋基地で準備が整う.
第2号は8月22日頃,準備が整う.
9月には多分3発,12月には7発乃至それ以上になると期待される.
1ヶ月に3発以上の割合で進めるには,グローブスが確実と考えている設計に変更を加える必要がある」
と報告しています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
「原爆投下は捏造」を主張する団体があるというのは本当か?
【回答】
以下の記述によれば,中国系の在米政治団体が,そのような主張を展開している模様.
――――――
鳴霞
去年,中国民主正義党という政治団体のアメリカ支部が,ホームページに掲載した
『アメリカは広島,長崎に原爆を投下しなかった』
というレポートはご存じですか.
その政治団体は天安門事件で弾圧され,反共と民主化を標榜しているんですが,日本に対しては反日なんです.
井沢〔元彦〕
ええ,知っています.
「原爆投下直後の激しい衝撃の中で,誰が街の様子を撮影できるだろうか」
「科学者は原爆を投下された土地は何百年も植物すら生存できず,人間が生活するのは非常に危険だと言っているのに,広島,長崎が復興したのはおかしい」
……といったいくつもの疑問点を並べ,
「アメリカは日本に原爆を投下しなかった.
アメリカは,投下したという偽情報を流し,日本を心理的に追いこむ情報戦,心理戦を仕掛け,日本はそれに騙されて降伏した」
と結論付けているレポートですね.
――――――『SAPIO』 2005/8/24-9/27号,p.14
上記引用文を読めば分かるように,荒唐無稽な陰謀論のたぐいであり,大した影響力はないだろうと思われるが,それにしても…….
「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ サイト・マップへ