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 【link】

『「最後の特攻隊」の真相 消された偵察機「彩雲」』(太佐順著,学研パブリッシング,2011.7)

 半分まで読み進んだが,これ,今年のWW2航空物のベストかも知れない.
 思わせぶりな題名よりも,「彩雲隊戦記」と割り切って書いた方が良かったのでは.

 「死闘の水偵隊」の安永氏,「彩雲のかなたへ」の田中氏に続く,第3の彩雲本としてまとまって・・・はいないが,なかなか読ませる内容です.
 末期の偵察機隊の微妙な空気を,よく書けていると思います.
「特攻隊が神様なら,日々未帰還になる彩雲隊の我々は何様か」
 うーむ,なるほど.

 宇垣本としても,なかなか痛烈.
 鹿屋放棄や肝属川計画など,ふむふむ.

――――――軍事板,2011/07/06(水)

「陸軍カ号観測機―幻のオートジャイロ開発物語」玉手 栄治 (著)


 【質問】
 下の写真の飛行機は,どういう機種で,何のために使われていたのか,教えていただけませんでしょうか?
報國第六十九号(共同漁業号)

 【回答】
 中島九○式二号水上偵察機二型です.
 米国製 Vought O2U Corsair 水上観測機の製造権を中島が購入,エンジンを中島Jupiter発動機に換装して国産化したものです.
 基本的な任務は,近距離用の偵察,観測ですが,急降下爆撃等もしていました.
 上海事変~日華事変初期に掛けて艦隊に配備されました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/10/29(土)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 日本の水偵乗りの空戦記でお勧めのやつってありますか?
 『零式水偵空戦記』と『海軍下駄ばき空戦記』は読んだんですが,こちらは空爆と偵察が主で,敵機との戦闘とかそういう求めていたものと違っていたので.

 【回答】
 渡辺洋二著『大空のエピソード』に収録されてる「南太平洋の零観たち」
 水偵じゃないけど,渡辺洋二著『大空の攻防戦』に収録されてる「本土上空「強風」行動記録」とかコンパクトにまとまってて読みやすかったけど,両方ともソノラマだからなぁ…
 図書館か古本屋で探してね.

 二式水戦乗りとかで本人が書いた戦記なら,基本的にはないのでは.
 調査して断片的に書かれてるものはあるけど.
 後は「死闘の水偵隊」(現在はサムライ索敵機)は大変な名著です.

 水上機での空戦模様について書かれているのは「奇跡の飛行艇」で,アンボンの水上戦闘機隊が詳細に書かれていますが,やや過剰戦果気味です.

 二式水戦でフロートが脱落した池田大尉,超エース的扱いの河口飛曹長って,実際はどうだったのかどなたか追跡調査した方はいないんでしょうか.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 WW2におけるアジア・太平洋地域での日本海軍水上機の活躍はどれほどだったのでしょうか?

 Wikipediaによると二式水戦を開発した理由に,中国戦線における水上偵察機の意外な活躍があり,対米戦で敵機を落とした二式水戦も少数ながらあったとのことですが,これらの
"中国戦線における水上偵察機の意外な活躍"

"対米戦で敵機を落とした二式水戦"
ついて具体的なエピソードなどを知っている方,いましたら教えてください.

迫撃砲弾 in 「軍事板常見問題 mixi支隊」

 【回答】
 昭和12年8月に上海にて,95式水偵2機が敵機2機を撃墜してたりします.
 遭遇戦でもなんでもなく,"空中警戒任務に就いていた"という記述で,普通に戦闘機代わりに使用していたご様子.
 無理な注文に見えるのは私だけでしょうか・・・.

 詳細は「海軍航空隊,発進」(源田 實 著). 

 また,NAL氏(あってるかな?)のサイトである「辺境の人々」に,「海軍水上戦闘機隊」というコンテンツがあります.
http://www2.cty-net.ne.jp/~purejwp/

Pekonen/Suzuki 626 in 「軍事板常見問題 mixi支隊」


 【質問】
 九七式司令部偵察機って何?

 【回答】
 キ15・九七式司令部偵察機は,三菱重工で作られた,日本陸軍の偵察機で,連合軍のコードネームはBabs.
 陸軍初の司令部偵察機として,支那事変初期から投入されていたが,基本性能が優れていたことから,後継の一〇〇式司令部偵察機デビュー後も並行して実戦で使われ,大戦中盤の1943年頃まで第一線にありつづけた.
 また,本機の試作2号機は,ジョージ6世の戴冠式奉祝の名のもと,朝日新聞社の亜欧連絡飛行計画のために払い下げられて,「神風号」となり,1937年(昭和12年)にロンドンへ飛んだことで知られている.

 【参考ページ】
http://www.k2.dion.ne.jp/~bobcat/HTMLmemo/1W-kamikaze.html
http://mmsdf.sakura.ne.jp/public/glossary/pukiwiki.php?%B6%E5%BC%B7%BC%B0%BB%CA%CE%E1%C9%F4%C4%E5%BB%A1%B5%A1
http://ww31.tiki.ne.jp/~isao-o/ja-model-2.htm
http://minkara.carview.co.jp/userid/122372/blog/3692113/
http://www13.ocn.ne.jp/~miriken/Aircraft/Reconnaissance/Japan_007.htm

【ぐんじさんぎょう】,2011/04/26 20:20
を加筆改修

昭和12年朝日新聞発行のグラフ誌,「神風画報」第一号と二号

 内容は,飯沼飛行士と塚越機関士による神風号のアジア~ヨーロッパ飛行の記録ですが,大判写真もさる事ながらグラフィック的にも見ごたえが在りました.
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq110422ys4.jpg

 また,当時使われ出したばかりの電送写真(左ページ)も,クリアで驚きます.

よしぞうmaro' in mixi,2007年11月20日01:44


 【質問】
 「神風号」の亜欧連絡飛行について教えてください.

 【回答】
 朝日新聞社が主催し,英国皇帝ジョージ六世の戴冠式を祝福する親善飛行として計画されたもの.
 同社はキ15試作2号機の提供を得て,飯沼正明飛行士・塚越賢爾機関士を乗組ませ,1937年4月6日午前2時12分,立川飛行場を離陸.
 台北・ハノイ・ビエンチャン・カルカッタ・カラチ・バスラ・バグダッド・アテネ・ローマ・パリを経由して,給油・仮眠を除いた実飛行時間51時間19分23秒にて,ロンドンに到着した.

 【参考ページ】
http://homepage2.nifty.com/nakagen29/02.html
http://www.geocities.jp/rxp05513/jyo-kyo001_088.htm
http://www.shipboard.info/blog/archives/2011/04/post_2328.html
http://blog.goo.ne.jp/sat-kamikaze/e/7beeb911a1eb59cdf9b6143fd6448457
http://www.h6.dion.ne.jp/~art-toyo/iinuma/iinuma.html

【ぐんじさんぎょう】,2011/04/27 20:00
を加筆改修

 昭和12年朝日新聞発行のグラフ誌「神風画報」より.
 この雑誌の為に製作された,各企業広告も面白い.
 キッコー○ンなど,今見ても秀逸です.

 また,こういう~音頭をすぐに作り上げるのは,日本人の“血”ですかね(^^;

よしぞうmaro' in mixi,2007年11月20日01:44


 【質問】
 飯沼正明(いいぬま・まさあき)と塚越賢爾(つかごし・けんじ)について教えてください.

 【回答】
●飯沼正明
 「神風号」のパイロットで,大正元年8月1日,長野県南穂高村(現・安曇野市)生まれ.当時26歳.
 小学校5年生の時,郷土出身の民間飛行家が行った郷土訪問飛行を見て,飛行家を志し,昭和6年,第11回逓信省委託操縦学生
(逓信省航空局が陸軍に委託して開いた民間操縦士の養成機関)を受けるべく上京.
 志願者2百余名中,採用は4人という超難関を突破し,埼玉県所沢の陸軍飛行学校に入学し,8ヶ月の飛行訓練を受けた.
 卒業と同時に2等操縦士の免状を取得後,飛行学校にて臨時教官として勤務.
 昭和7年10月,1等操縦士試験に合格し,11月に朝日新聞社入社.
 以後,北京への親善飛行,台湾大震災の原稿フィルム空輸,ベルリン五輪速報競争などに活躍していた.

 昭和16年12月11日,プノンペンにて,陸軍九八式直接協同偵察機のプロペラにはねられて死亡した.
 その死因については朝日新聞社内にて緘口令が敷かれ,「血染めの操縦桿」という作り話が捏造されて,美談として戦時中の教科書にも載ったという.

●塚越賢爾
 「神風号」の機関士兼通信士で,明治33年11月8日,英国人を母として,東京市麹町区に生まれる.当時38歳.
 日本自動車学校航空科卒業後,第1航空学校にて3等操縦士の免状を取得.
 大正13年,第1回逓信省航空局委託機関学生に合格し,2年間,委託先の東京府立工芸学校にて,飛行機の構造全般を習熟.
 昭和2年,朝日新聞社に入社.
 台湾大地震の原稿フィルム空輸にて,初めて飯塚とコンビを組むなどして活躍していた.

 その後,社の整備係主任の要職についていたが,昭和18年7月7日,A-26長距離飛行試験機によるドイツ無着陸連絡飛行に,機関士として乗り組み,以後,消息を絶った.

 【参考ページ】
http://blog.goo.ne.jp/sat-kamikaze/e/d6ac94b425811f05f5b76eda3afd7bb0
http://blog.goo.ne.jp/sat-kamikaze/e/1d5895a5174221e77e7711e80538c019
http://blog.goo.ne.jp/sat-kamikaze/e/9a8539984ce47f062b57a4aa33fec1ef

【ぐんじさんぎょう】,2011/05/01 20:30
を加筆改修

 昭和12年朝日新聞発行のグラフ誌「神風画報」より.
 こんなスーツ姿の,珍しいゲーリングとのツーショットも.
 右は独駐在海軍武官の小島中佐でしょうか.

 さらに興味深いのは,飯沼・塚越両氏が,NSKKの様な制服を支給されている事!
 欧米風の顔だちの塚越氏は,似合い過ぎ!!
 この辺は,南安曇野にある飯沼飛行士記念館に展示されている写真と同じですね.
faq110422ys8.jpg

 これらグラフ誌を,前回の閲覧でその存在を初めて知り,古書ネットで入手しました.
 こういう事があるので,知らない本を直接見るのは大事です.

よしぞうmaro' in mixi,2007年11月20日01:44


 【質問】
 九九式軍偵察機の排気管に消炎装置がつけられたのは何故か?

 【回答】
 昭和19年に入ってからは,中国大陸でも米戦闘機を避けて夕刻~未明に作戦飛行が行われたが,その際,排気炎が対空火器の良い的になりやすかったため.
 当初,九九式双軽爆撃機のものと同型の,集合排気管排出口に直接装着する二重構造の筒形のものが支給されたが,出力は低下するわ,筒が高熱化し,翼根の燃料タンクを爆発させる恐れがあったりという代物だったので,44戦隊において敵機の廃棄エンジンの排気管を使って単排気管式の物を自作したという.
 その後,各種航空機が単排気管化されたが,それが44戦隊の情報によるものかどうかは定かではない.

 詳しくは「航空ファン」 2006年4月号,p.84-85(渡辺洋二著述)を参照されたし.


 【質問】
 九九式軍偵察機にあった防弾装備は,どんなものだったか?

 【回答】
・機首下面の一部と操縦者の座席に6mmの鋼鈑,
・燃料タンクにゴム被膜

 詳しくは「航空ファン」 2006年4月号,p.81(渡辺洋二著述)を参照されたし.


 【質問】
 百式司偵に改造を施して三座にしたものがあるというのはホントですか?

 【回答】
 百式司令部偵察機の練習機型がそれです.
 中央部の燃料タンクを取り外して,教官席を設けました.

 蛇足ですが,後,4座以上の一種際物の現地改造もありました.
 南方から連絡業務のために百式司偵で飛行をしてきたのですが,台湾でエンジンが故障して不時着.
その不時着機を修理する為の交換条件として,不時着した飛行場にいた整備士も一緒に故国に帰らせて欲しいと言うのがあって,操縦士が,
「自分で場所を作れれば乗せて帰ってやる」
と言う条件を付けたら,放置されていた百式司偵の壊れたのを持ってきて,中央の燃料タンクを取り外して,人が乗れる空間を作って,台湾から九州の飛行場まで6人乗せて帰って来たという話があります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2006/05/05(金)
Álmos ember ◆gQikaJHtf2 : "2 csatornás" katonai BBS, 2006/05/05 (péntek)

青文字:加筆改修部分
Kék karaktert: retusált vagy átalakított rész


 【質問】
 百式司偵の試作,四型は平均700km/hを出したそうですが,なぜ可能だったのですか?

 【回答】
 正確には,百式司偵の1機が,昭和20年2月に北京・東京間を3時間15分で飛行したという記録があり,この時の平均速度が「700km/h」だったというコトですが.
 何故こんなに速く飛べたのかというと,「追い風に乗った」からです(笑)

 ちなみに,百式司偵四型(キ46-IV)は,排気タービン付きの「ハ112-IIル」発動機搭載型であり,この発動機の出力は三型と同じ(公称1350hp)です.
 あくまでも高々度性能の向上を計ったタイプであり,速度の大幅アップを狙ったわけではない.

シア・クァンファ in FAQ BBS


 【質問】
 零式小型水上偵察機について,3行で教えてください.

 【回答】
 零式小型水上偵察機(E14Y1)は,潜水艦搭載・カタパルト発艦の可能な小型偵察機として,海軍航空技術廠で開発設計されたもので、1941年から1943年にかけて125機が量産された。
 機体骨組みは鋼管溶接、機体前部はアルミ軽合金だが、翼は木材桁に帆布張りで,潜水艦搭載時には,フロートと主翼を分解し,密閉格納筒に収納された.
 アメリカ本土を爆撃した唯一の日本軍機としても知られる.

 【参考ページ】
http://www.wetwing.com/documents/to_oregon/e14y1spec.html
http://military.sakura.ne.jp/ac/e14y.htm

三面図
(画像掲示板より引用)

写真
(こちらより引用)

【ぐんじさんぎょう】, 2013/07/10 21:00
を加筆改修


 【質問】
 「彩雲」偵察機について,3行で教えてください.

 【回答】
 広大な洋上において高速偵察を行える艦上偵察機の必要性を感じた日本海軍が,1942年,中島飛行機に試作発注したのがC6N「彩雲」.
 1944年6月から量産機が運用開始されているが,高速性を発揮し,戦争末期には「彩雲」だけが,米艦隊に対して強行偵察を行える唯一の機体であった.
 他方で,工作精度の低下と,エンジンの信頼性の問題から,故障が続出し,「彩雲」の稼働率は20%前後に過ぎなかったという.

 【参考ページ】
http://www.ne.jp/asahi/airplane/museum/cl-pln/saiun.html
http://www.din.or.jp/~tuyu/saiun/sa1.html
http://www.kojii.net/opinion/col050124.html

三面図
(画像掲示板より引用)

【ぐんじさんぎょう】,2013/08/06 20:00
を加筆改修


 【質問】
 雷装「彩雲」は実在したの?

 【回答】
 彩雲 魚雷 で検索すれば,彩雲の雷撃部隊,723空さえ実在するが分かるはずです.
 当時,いろんな偵察機を雷装可能に改造していて,100機以上が雷撃隊として待機していました.
 他には零水偵も雷撃可能になっています.

軍事板,2011/10/03(月)
青文字:加筆改修部分

 元中島の彩雲性能課長の内藤子生は,「設計当初から攻撃機転用を意識していた」と記し(本当かどうかは知らん),同じく元中島の設計部の大屋圭吉は,彩雲の雷撃型の改設計を実際に行って,改造内容も細かく記録してる.

 「丸メカニック 彩雲」には,設計初期段階から雷装を計画していたことを示唆する図面がある.
 魚雷のクリアランスを示す図が掲載されてる.

 昭和30年代頃の航空雑誌の記事にも,雷撃型が終戦時に進められていたことは,記述がある.
 例えば昭和32年の「世界の航空機」第73号とかね.
 執筆者は秋本実氏だから,氏のその後の著述にも当然,類似の記述がある.

 他に有名どころでは,「日本航空機総集」の中島巻にも,雷撃機型が計画されていたという記述があるので,野沢氏もソースがあったのか,秋本氏などの記述信頼に足ものと思っていたのだろうね.

 あと,古い「丸」で雷装彩雲の実戦記を読んだ記憶があるんだが見つけられないので,もしも知っていたら教えて欲しいかな.

 そもそも当時の艦偵の性能標準には,「800キロ魚雷か500キロ爆弾の搭載」が明記されてる.
 性能標準は,学研がどっかの本に掲載されてるのがあったはず.
http://www.warbirds.jp/ansq/1/A2001442.html

軍事板,2011/10/04(火)~10/06(木)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 旧日本軍の偵察機にヘリのようなものってあったの?

 【回答】
 オートジャイロは,萱場製作所(現カヤバ)が開発した萱場式オートジャイロ(陸軍カ式観測機)というのがあった.
 ヘリコプターは横浜高等工業専門学校(現横浜国大)で「特殊蝶番レ号」という名称で双ローターのヘリが開発されていたが,開発中に終戦をむかえている.
 実物写真及び上記についての詳細はここ
http://www2g.biglobe.ne.jp/~aviation/jpnhistory.html

軍事板

 「特殊蝶番レ号」と言うのは,日本初のヘリコプターになるはずだった機体です.
 日本の垂直離着陸可能な機体で有名なのは,オートジャイロのカ号観測機ですが,こちらは純粋のヘリコプターでした.
 これは,横浜高等工業専門学校(今の横浜大学)航空科の広津万里教授を中心に,教え子40余名が協力して1942~45年にかけて設計,試作,実験したものです.
 機体の製作は横浜高等高専の校庭にある作業小屋で行われました.
 木製枠組み式の単座の機体に,発動機は,高速機関工業(後のオオタ自動車)のKO-60空冷倒立直列4気筒エンジン55馬力を2基で直径の違う4枚羽根の双ローターを前後に配置し,それを回転させることで浮揚する事を狙ったものでした.

 因みに,特殊蝶番とは,ローター・ブレードの「羽ばたきヒンジ周期ピッチ制御装置」を,レ号の「レ」は「連翅蝶番機構」を表していました.

 戦時中にも関わらず,興味を持った陸海軍の資金や技術援助があり,更に重要部品の製作には萱場製作所が協力して,1944年7月に試作機の地上試運転が行われます.
 ところが,第一機は試運転中に僅かに浮揚したと思ったら,突風が吹いて機体は横転し破壊されてしまいました.

 広津教授はそれにもめげず,2号機を製作します.
 これは初号機の反省を踏まえ,機構的には前作を踏襲しますが,鋼管枠組み式の機体に,石川島IK-2A空冷式倒立直列4気筒エンジン100馬力を同じく2基搭載し,ローターを3枚羽根に換えたものとなりました.
 しかし,時は戦争末期.
 資材不足と空襲などが重なって製作は遅々として進まず,結局時間切れで敗戦になってしまいました.

 戦後,航空空白期を経て,最初に作られたヘリコプターは,これまた個人で試作したものでした.
 1952年に東京に設立された自由航空研究所に於て,荻原久雄技師の設計により,2枚羽根ローターの先端にパルスジェットを取り付けたJHX-1も一人乗りヘリコプターでした.
 しかし,点火が困難で,始動後には爆音が大きすぎて結局テスト中に中止,先端のパルスジェットをラムジェットに変更したヘリコプターを相次いで開発します.

 1958年にJHX-4を漸く高度7mに上昇させることに成功しますが,ローターの過回転で事故を起こし,結局モノになることはありませんでした.

 同じパルスジェット方式のチップジェット・ヘリコプターは,1954年に福島県の池田明氏によって開発されましたが,こちらは複座でした.
 こちらもテストのみで終わっています.

 更に国産化の努力は続けられます.
 1953年には日本ヘリコプター研究会が設立され,国産ヘリコプターが開発されます.
 この日本ヘリコプター研究会には,大森丈夫,糸川英夫,堀越二郎ら航空技術者13名で構成され,資金は読売新聞社が450万円,通産省工業技術院が800万円の助成金を出しました.

 読売Y-1と命名された機体は,読売玉川飛行場で組立てられ,1954年11月から試験が始められました.
 しかし,共振が酷く浮上もままならない状態であり,1957年まで,実に3年間も改修が続けられました.
 やっと浮上する見通しが立ったのですが,この時には通産省も読売新聞も,この機体に対する興味は失せ,1957年に川崎航空機工業がベル47G3Bを独自に改設計したKH-4が開発されて,Y-1は潰えてしまいました.

 結局,日本のヘリコプターは外国機材のライセンス生産とその改設計が主になり,1979年になるまで(共同開発ですが)独自開発の国産機の道は閉ざされてしまいました.

 この点,YS-11なんかと通じるモノがありますね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年06月21日22:40


 【質問】
 旧日本軍に「カ号一型観測機」というオートジャイロ偵察機があったという話を聞いたので調べてるのですが,情報が少なくて困っています.
 カ号一型観測機は実際に実戦配備されていたのでしょうか?航続時間はどの程度なのか? 教えてください.よろしくお願いします

 【回答】
 日本のAutogyroは,英国のCierva(スペインのCiervaの英国現地法人)から,1932年に朝日新聞が輸入したC.19Mk.4が最初です.
 同時期に海軍も輸入しましたが,採用には至りませんでした.

 陸軍は,米国のKelletから陸軍学芸技術奨励寄付金によって,K-3を連絡機として愛國第81/82号の名称で購入し,下志津陸軍飛行学校で,研究機材として使用されました.
 このうち,82号は墜落,大破しましたが,代機として,Kelletから再びKD-1を購入しました.
 これも事故で破損しています.

 しかし,1939年のノモンハン事件で,砲兵観測用の繋留観測気球がソ連戦闘機に容易に撃墜された為,それに代るものとしてAutogyroを製造することになります.
 そして,陸軍技術本部第四部から萱場製作所に委嘱して製造したのが,カ号観測機です.
 但し,一号機は,前述の大破した,米国製Kellet KD-1をAutogyroを修理改造したものです.
 これを基準として,朝日や海軍が輸入したC.14の実績も加味し,エンジンを空冷星形のヤコブスから,ドイツのアルグスに換装して製造されました.

 元が米国の機体で実績がありますから,性能は優秀な部類に入るでしょうね.

<性能諸元>
最大速度:165km
実用上昇限度:4000m
航続距離:360km
航続時間:3時間

 ちなみにカ号のカは萱場製作所(現カヤバ工業株式会社)のカ.
 カヤバはいまでこそ油圧機器やバイクのショックアブソーバのメーカーとして有名だが,戦前・戦時中は空母の着艦装置や戦闘機の主脚油圧装置などを製造していた.
 また創立者の萱場資郎氏は発明家にして航空マニアであり,萱場では無尾翼機やジェットエンジンの研究まで行っていた.
 言ってみれば日本のホルテンかリピッシュみたいな人物である.

 なお,下記のような書籍が出版されている.
「陸軍カ号観測機―幻のオートジャイロ開発物語」玉手 栄治 (著)

(眠い人 ◆gQikaJHtf2他)

三面図
写真
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 旧日本陸軍が作ったカ号観測機,オートジャイロは,実際に戦場で使われたのでしょうか?
 遠くから丸見えでいい的になりそうなのですが・・
 また,あきつ丸にも搭載されたそうなんですが,実際に潜水艦撃沈などはあったのでしょうか?

 【回答】
 生産された98機の内の約半数,約50機程度が実戦に投入されました.
 弾着観測任務では,試作機が1942年のフィリピン攻略戦に投入されています.
 まぁ,自在に動ける分,観測気球よりはマシでしょう.

 対潜哨戒任務については,同じくフィリピン航路,近海航路,海峡で使用されています.
 しかし探知機も何もなく,目測で爆雷を落っことす程度しかできないので,撃沈などは余程の僥倖が無いと無理でした.
 結局戦果はありません.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板


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