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◆◆◆◆◆B-29
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<◆太平洋・インド洋方面 目次
<第2次世界大戦FAQ

※ B-29の運用については,こちらを参照されたし.


(画像掲示板より引用)


 【link】

ja2iko & B29 Museum(B29概史 &細部写真)

「ワレYouTube発見セリ」:B-29s and P-51s over Japan


 【質問】
 B-29開発は何故始まったか?

 【回答】
 ヒトラーの脅威が,開発を後押しした.

 ヒトラーがオーストリアやズデーデン地方を併合したとき,ルーズベルト大統領は,ヒトラーがドイツ空軍を政治的恐喝の道具として使用したことに注目し,米国の空軍力を強化する決意を固めた.
 ミュンヘン会談当時,米陸軍航空隊の保有奇数は総計,約1800機に達していたが,その3分の1は,時代遅れの旧式機だった.
 第2次大戦が始まったときは,米軍保有の軍用機の中で最新型の爆撃機は,唯一B-17だけだった.
 1932年設計で,340km/hのマーチンB-10B爆撃機は,真珠湾攻撃の頃,まだAAF(米陸軍航空軍)の各航空隊で使用されていた.

 1938年9月下旬,彼は,米国の軍備増強の最初の措置の一つとして,国内航空産業の実情調査を命じた.1年に1万5千機の航空機を製作させるため,その生産能力を拡大できるかどうかを決定するためだった.
 彼は米空軍力を,いかなる侵略国,または侵略国の集団の脅威に対し,米国と西半球を防衛できる線まで増強する意向だった.

 当時,米陸軍航空隊司令官代理だったアーノルド少将(当時)の語るところによると,この問題についてホワイトハウスで彼は相談を受けた.
 その席上,ルーズベルト大統領は,
「空軍こそヒトラーが米国の力を理解する唯一のものである」
という確信を表明したという.

 1939/1/4,ルーズベルト大統領は議会教書の中で,なぜ米国の航空兵力を増強する必要があるか,を説明し,「陸軍に数種の形式の飛行機を購入するため」,3億ドルの歳出予算を要請した.それは最低限3000機の飛行機を増強するものだった.
 議会内の孤立主義者達とのだらだらとした論争が続いたが,チェコスロバキアをヒトラーが完全併合したことが論争の膠着を破った.
 1939/4/3,議会は予算を承認.その後,議会の歳出予算委員会が供与した予算は,陸軍航空隊がB-29の設計・製作に着手するための必要経費を含んでいた.
 1939/6/30,G.W.キルナー准将(委員長),カール・スパッツ中佐,E. L. ネイデン中佐,A.J.ライオン少佐,そして,大西洋無着陸横断飛行のチャールズ・A・リンドバーク大佐から成る特別委員会は,広範な報告書を作成.これは,1944年までに進歩した航空機・兵器・装備などを入手するため,航空隊がまず着手すべき新計画の概要を説明したものだった.そしてこの勧告の一つに,VLR(最長距離爆撃機)開発が含まれていた.

 1939/9/1,ドイツはポーランドへ侵攻.
 同年11/10,アーノルド将軍は,VLR研究のために民間航空機会社と契約する事を,陸軍当局に要請.
 12/2,要請は承認.
 1940/1/29,軍が必要とする,VLRの性能の仕様書が完成し,各航空機会社に送付.
 多くの航空機会社が1ヵ月以内に入札したが,その頃,欧州での戦訓から,「多くの米軍機は,危険なくらい旧式で時代遅れである」と判明,その戦訓から各社は技術設計情報の再提出を求められる.これが4/4.

 同月,ドイツはデンマークとノルウェーを占領.
 5月中に,再提出された資料が審査され,ロッキード案とボーイング案とが競争的合格者に決定.
 このボーイング案がXB-29となる.

 同月,ドイツはオランダ・ベルギー占領し,フランスへ侵攻.
 5/16,ルーズベルト大統領は,年間5万機の軍用機の生産を求めた教書を,議会へ送付.
 ちなみに,それまでの過去35年間に米国が生産した軍用機は総計4万足らず.
 いかにアメリカがドイツを脅威と見ていたかは,8/4の,議会における新任陸軍長官,ヘンリー L. スチムソンの委員会証言からも分かる.
「我々は今,重大危機のさなかにある.空軍力を強大にするには,あまりにも時間が足りない」
 6/4,連合軍がダンケルクに追い詰められている頃,ロッキード,ボーイング両社に対し,試作契約承認.
 8/24,ボーイング社,風洞実験完了.
 9/6,XB-29,試作契約承認.
 一方,ロッキード社は戦闘機製作専念のため,VLR放棄を決定.
 陸軍では,ロッキードに代わり,第3の入札者だったコンソリデーテッドと契約.XB-32と命名される.しかしXB-32は量産に入らず,15機が実戦参加したのみだった.

 1941年5月,ワシントンからボーイング本社へ,B-29,250機を購入する意向であると通告.同時に当局は同社に対し,B-29生産のための治具,鋳型,備品,戦用物資を調達するよう指示.
 これを受け,同社は直ちに作業人員・生産施設拡張開始.
 1941/6/24,同社はカンザス州ウィチタにて新工場建設に着手.
 9/6,正式な発注契約調印.これについて,物資調達本部のケニス B. ウルフ准将は後日,まだ第1回の試験飛行もしていない飛行機に対する「30億ドルの大博打」とコメントしている.
 しかし,真珠湾攻撃により,B-29に対する発注は,500機に急増.
 1942/2/10には,陸軍航空軍と航空機産業と戦時生産本部(WPB)などの代表者による会議で,B-29を4つの工場で1600機生産する事を決定.

 1942/9/9,XB-29は滑走試験開始.続いて9/15に離陸試験.
 そして9/21,75分間の初飛行に成功する.それは,4/18のドーリットルの東京空襲から,約5ヶ月後のことだった.

 詳しくは,Carl Berger著 「B-29」(サンケイ新聞社出版局,1971/3/5,)P.12-46を参照されたし.

 駆け込みセーフ.


 【質問】
 旧日本軍ってB-29の存在・性能をいつから知ってたんですか?
 知った上で絶対国防圏を設定したり,サイパン防衛を考えたりしてたんですか?

 【回答】
 B-29の存在そのものは,別に秘密にされていたわけではないので,開発当初から,アメリカの新聞には普通に載ってました.
 日本の情報機関も馬鹿ばかりではないので,中立国を経由するなどして,アメリカのマスメディアのチェックぐらいはやってます.
 したがって,日本がB-29の存在を知ったのは,「日米開戦前」です.

 B-29の生産体制については,1943年12月にはほぼ正確な数字を掴んでおり,具体的な性能についても,1944年の3月までには情報を入手しています.

 ただし,絶対国防圏の策定がなされたのは1943年の9月ですので,これの決定にB-29の性能を考慮に入れる余裕はなかったはずです.


 【質問】
 B-29の技術的特徴は?

 【回答】
 (1) 10mの巨大フラップ
 要求された航空性能を実現するため,翼面30平方cmあたりの過荷重が,B17の2倍に増やされた.
 これは非常に高速の着陸速度を生み出す.
 そこでそれを抑えるため,多くの戦闘機の翼面積よりも大きいフラップが考案された.
 そうすれば,フラップを使って主翼面積と浮揚力を増し,緩速で着陸できるからである.
 こうして,細長く空気抵抗の少ない主翼が生まれた.
 そしてこれが,B-29の優れた性能を生む大きな要素となった.

 (2) 航空力学的に機体を洗練させるための諸努力
 機体や翼の外板を止めるのに沈頭鋲を使ったり,繋ぎ目を重ね合わさないで溶接したり,車輪を完全引き込み式にしたりした.
 主脚は巨大な飛行機の重量を支えるため,従来のものより遥かに頑丈な支点を必要とした.
 そこで,支点となる主翼の桁は,これまでの伝統的な橋桁型の構造をやめ,蜘蛛の巣型の構造を採用した.
 それは板金の平らな横木より成る翼を用い,その剛性を強化するために,上向きに曲げた凸縁をつけた.

 (3) 搭乗員室の与圧装置の設置.
 ボーイング社では既に,世界最初の気密室を備えた商業用輸送機「ストラトライナー」を製作していた.
 が,B-29では,2つの大きな爆弾倉の開閉しなければならない.
 設計技師達はこの問題を,
・前部の操縦室と,機体後部にある機関砲射手室とを気密化して気圧を正常に保つこと,
・この両室を,直径85cmの管で繋ぐこと
で解決した.この連結管は,ちょうど乗務員一人が這って通れるほどの大きさだった.

 (4) 新設計の兵装システム
 GE設計によるこのシステムは,小型電子計算機により,航続距離,高度,気温,対気速度を自動修正するものだった.
 また,射撃管制装置を備えていて,遠隔操作によって全ての銃砲を自由に発射できた.
 ただし,この導入が決定されたのは,1941年末になってからだった.B-29開発が非常に進んでから後になされたため,試作機の最初の試験飛行が数ヶ月も遅れることになった.

 詳しくは,Carl Berger著 「B-29」(サンケイ新聞社出版局,1971/3/5,)P.42-43を参照されたし.


 【質問】
 B-29開発過程で問題は起きなかったのか?

 【回答】
 エンジンが問題だった.一時は失敗を度々重ねたので,B-29の全計画をダメにする恐れもあった.

 1941年6月,陸軍航空隊は,B-29のエンジンとしてライト発動機を正式採用した.
 しかしこの当時,R3350型は僅か1台しか入手できず,量産型1番機が生産の流れ作業から出始めてきたときも,このエンジンはまだ完全に開発されていなかった.

 1942年9月上旬から試作機の初期テストが開始されたが,ライト・エンジンは1時間も働かない内に不良状態になることが明らかになった.
 発動機は度々交換されたが,10月までに使用可能な発動機は,30台もなかった.

 試験飛行開始後も,エンジン・トラブルに度々見舞われた.
 例えば12/28の22回目の飛行のときには,1番エンジンが停止,飛行機は引き返した.地上の点検では,2番エンジンも故障していたことが判明.2台とも交換された.
 12/30,XB-29,2号機の処女飛行では,エンジンが火を吹き,テスト飛行は中止された.
 1943/2/18,2号機の1番エンジン室に火災発生.これは消火したものの,帰還しようとしたときに,2番エンジン室も火を吹き,火は主翼に広がった.飛行機は滑走路脇の建物に衝突して爆発.全乗員11名.建物の中の19名,消防士1名が死亡した.

 上院に調査委員会が設けられた.エンジンが量産性を強調される余り,質も完成後の点検も不充分だったことが指摘されたが,その後もトラブルは続いた.
 5/29,試作3号機は配線ミスのために暴走.あやうく破壊されかけた.
 1943年2月~1944年9月までの間に,少なくとも19機のB-29の事故が,発動機の火災によるものだった.
 改修対策が当然とられたが,R-3350エンジンは,飛行機が海外に派遣されるという段階になってもまだ,「戦闘に支障なし」とはならなかったのである.

 詳しくは,Carl Berger著 「B-29」(サンケイ新聞社出版局,1971/3/5,)P.43-49を参照されたし.

 もし,試作1号機や3号機の事故がもう少し重大なものになっていたなら,あるいは,その時点でB-29の存在は消滅していたかもしれない…….


 【質問】
 「カンザスの電光」とは?

 【回答】
 行き詰まっていたB-29の生産を促進し,4月中旬までに同機を中国・ビルマ・インド戦域に展開しようという,狂気のような活動.「カンザスの戦い」とも呼ばれる.

 B-29は,「それ自体の画期的新しさに起因する」(合同航空委員会および陸軍航空軍の調査報告)生産遅延が起こっていた.それはB-29生産計画を最優先扱いしても,生産速度は少しも早くならないということだった.

 1944年1月中旬までに完成したB-29は97機だったが,飛行可能なものは16機だけで,残りは改修を必要とした.
 改修計画は全く大混乱を来たしていた.アーノルド将軍の言葉によると,
「組織もなければ,管理も指導もない」
という状況だった.
 サリナ基地の誰一人として,不足している部品や装備品が,いつ来るのか,本当に来るのかどうか,知らないのだった.

 このときのアーノルド将軍の激怒ぶりを見ていた航空技術勤務部隊司令部付将校,I. W. ステファンソン大佐は,後にこう書いている.
「将軍は入ってきて,
『いったいどうなってるんだ.誰がこれを監督してるんだ』
と尋ねた.
『誰もやらんのなら俺がやる!』と怒鳴った.そして,『翌朝までに,不足なものの全部のリストを作れ!,工場にそれがあるのか,いつそれが渡されるのか』」

 彼は参謀長B. E. マイヤー少将を特別計画調整官に任命,この計画の全権を委ねる.
 工場の工員は未熟練工員ばかりだったので,航空機メーカーに必死に頼んで熟練工と交換.
 部品などのメーカーは,B-29に不足している備品や部品類を納入するまでは,他の一切のものを中止するよう命令された.
 そしてとうとう,4/15までに150機をカンザスから発進させることができたのである.

 詳しくは,Carl Berger著 「B-29」(サンケイ新聞社出版局,1971/3/5),P.67-77を参照されたし.


 【質問】
 B-29の機上レーダーは地形走査ができたのでしょうか?

 【回答】
 B-29は基本的にレーダーのみで爆撃を行っています.
 搭載したAN-APQ-13レーダーは航行用ではありましたが,爆撃照準にも使用されています.
 東京大空襲では,投弾機の2/3がレーダーのみで爆撃を行ったとか.残りの機体もレーダー情報に推測航法を加味したか,先導機にしたがって爆弾を投下したか,いずれかです.

名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE :軍事板,2006/05/15(月)
Névtelen őrmester ◆Sgt/Z4fqbE : "2 csatornás" katonai BBS, 2006/05/15 (hétfő)

青文字:加筆改修部分
Kék karaktert: retusált vagy átalakított rész


 【質問】
 夜襲型のB-29は,通常型とどう異なっていたのか?

 【回答】
 爆撃専用に設計されたレーダー,AN-APQ-7を装備し,尾部機関砲以外の機銃を撤去して爆弾搭載量を増加させていた.同レーダーは,航行用レーダー,APQ-13の10倍の解像力があった.
 このB-29は,第315航空団に配備され,専ら「石油作戦(石油施設爆撃(6/26~)」に用いられた.

 詳しくは,奥住喜重著「中小都市空襲」(三省堂,1988/7/15),p.48を参照されたし.


 【質問】
 博物館に展示されてるエノラゲイ(B-29)はポリッシュ仕上げですが,戦場でもB-29は無塗装のポリッシュ仕上げだったんですか?

 【回答】
 B-29は実戦投入されたものは無塗装が基本.
 夜間爆撃をするようになると下面を黒く塗るようになる.

 が,日本側の迎撃体制が貧弱なので,迷彩塗装の必要はないとされ,全面無塗装なのが普通になった.
 1945年の初夏にはほとんどが全面無塗装にしている.

 ただ,エノラ・ゲィ号は博物館展示用に特に気合をいれて磨いて仕上げてあり,実戦参加した機は単に無塗装でポリッシュ仕上げ,というほどには磨かれていない.


 【質問】
 「B-29の弱点は翼の付け根」というのは本当ですか?

 【回答】
 B-29に限らず,あらゆる固定翼機の主翼の付け根は,機体全体でもっとも大きな力がかかっているため,弱点と言えます.
 また,そこには燃料関係の配管が集中しており,外れてもコクピットや内側のエンジンなどに当たる可能性が高いということもあります.
 特にB-29のような大型機の場合,日本機が胴体にいくら撃ち込んでもなかなか致命傷を与えることができませんが,主翼を支える梁に20mm弾が直撃すれば,そこから一気に構造が破断,主翼脱落で撃墜できる可能性があります.
 B-29は酸素タンクが機体中央部にあるという設計上の理由もあるでしょうが,特に付根が弱かったというより,日本機が有効にダメージを与えるには,航空機の部分でもっとも弱いこの部分を狙う他なかったというほうが適切かと.


 【質問】
 B-29は補助燃料タンクは使用したのか?

 【回答】
 B-29は,爆弾倉内部に補助燃料タンクを積み込むことができたが,爆弾の搭載量を減らさないために,第2期以降は使われないことが多かった.
 第1期戦略爆撃では,燃料を余分に消費する高高度での飛行が行われたが,中小都市爆撃では比較的低い高度,平均3500mで飛行していたからである.

 詳しくは,奥住喜重著「中小都市空襲」(三省堂,1988/7/15),p.99-103を参照されたし.


 【質問】
 B-29での洋上飛行は,どのように行われたのか?

 【回答】
 電波航法と天測航法が併用されたという.
 以下引用.

 洋上の飛行には,硫黄島と沖縄から送られる電波によるロラン航法のような電波航法以外にも,B‐29の前部気密室の後方天井には天測窓があって,天測航法も行った.
 日本本土に接近してからの,AN-APQ-13レーダーによるレーダー航法のためには,日本列島沿岸の小島や屈曲した海岸線を充分に活用して,爆撃航程(爆撃コース)の始点IPに到達できるように航路が選んであった.

奥住喜重著「中小都市空襲」(三省堂,1988/7/15),p.103


 【質問】
 B-29ってサイパンじゃなしに,硫黄島から飛べばよくないですか?

 【回答】
 硫黄島ってサイパンとかと比べると明らかに手狭で,滑走路が短く,B-29が離着陸出来るだけの強度を持っていない.
 これは,拡張工事すれば何とかなるかもしれない.
 しかし,B-29のような重爆を何百機も駐機させておくスペースが無いし,積むための爆弾や燃料,整備用の予備部品を保管しておくスペースも無い.

 結論を言うと,硫黄島から飛ばす事はできるかもしれないが,運用する事はまず不可能.


 【質問】
 日本の都市爆撃に使われた爆弾には,どんなものがあったのか?

 【回答】
 奥住喜重著『中小都市空襲』(三省堂,1988/7/15),p.87-94 & 106-107の記述から纏めると,次のようになる.

分類 弾種 名称(1米ポンド=約0.5kg) 投下弾量
(米t)
焼夷弾類 I.B.
(Incendiary Bomb,
焼夷爆弾)
焼夷効果と同時に
爆風効果も併せ持つ
大型焼夷弾
AN-M47A2
100ポンドI.B.(100ポンドは公称重量.
正味重量70ポンド.以下同)
小型の油脂(ナパーム)焼夷爆弾
T19アダプタ(集束器)で6発束ねて
投下.
1万6472.8
AN-M47A3
100ポンドI.B.(70)
A2との違いは不明だが,
桑名空襲と銚子空襲で
投下されており,タイピング・
ミスとは考えられない.
AN-M47A2
100ポンドW.P.(125)
白燐弾.
人員殺傷,消火活動妨害用.
AN-M76
500ポンドI.B.(480)
ナパーム・マグネシウム焼夷爆弾.
マグネシウムから極めて強力な
火焔を発する.
I.C.
(Incendiary Cluster,
集束焼夷弾)
I.C.一発の中には多数の
小型I.B.が詰め込まれている.
AN-M17A1
500ポンドI.C.(465)
AN-M50 4ポンドI.B.(直径約5cm,
長さ約35cmの六角棒状のテルミット・
マグネシウム焼夷弾)を110本
集束されて内蔵.
9814.0
E28
500ポンドI.C.(350)
M69 6ポンドI.B.を集束.
集束数不明.
E36
500ポンドI.C.(360)
M69 6ポンドI.B.を集束.
集束数不明.
E46(後にM19と改称)
500ポンドI.C.(425)
AN-M69 I.6ポンドI.B.を48発集束.
AN-M69は直径約8cm,長さ約50cmの
小型ナパーム焼夷弾.六角断面の
鉄板製の缶の中にナパームを詰めた
もの.E46から弾き出されると,麻布製の
リボンの尾を引きながら落下.
そのため落下速度が遅くて貫通力が
弱く,日本家屋焼却に最適.
対日戦のために用意.
2万3360.2
E48
500ポンドI.C.(515)
AN-M74 10ポンドW.P.(ナパーム・
黄燐焼夷弾)を38発集束.
2092.0
一般目的
爆弾類
G.P.
(General Purpose,
一般目的弾)
主として航空機工場,
兵器廠,飛行場への爆撃用.
市街地爆撃には混投用として
使用.
AN-M64
500ポンドG.P.
TNTタイプは正味重量535ポンド.
混合弾は正味重量550ポンド.
L.C.
(Light Cluster,軽筒爆弾)
AN-M56
4000ポンドL.C.(4355)
なるべく多量の爆薬を詰め,しかも
爆発を完全にさせる一方,重量は2tに
押さえようとして,容器を兼ねた弾筒に
特別な工夫があったと考えられる.
破片爆弾類 F.C.
(Fragment Cluster,
破片集束弾)
爆発して多数の鋼鉄片を
飛散させる爆弾.
飛行場攻撃などに用いられたが,
中小都市空襲にも混投された.
T4E4
500ポンドF.C.(425)
照明弾類 空中で燃え尽きるものであるため,
攻撃側ではこの弾種に限り,
投下重量に加えなかった.
AN-M46
正味重量52ポンド.

 【質問】
 親戚の家の本棚にあった昭和26年に発売された「大東亜戦争写真集」という本を読んでいる時に,燃え盛る建物の写真があり,「米軍が投下したエレクトロン爆弾が爆発」というコメントが書かれていました.
 で,質問なのですが,このエレクトロン爆弾とはいったいどのような種類の爆弾なのでしょうか?
 日本に落とされた爆弾の大部分は焼夷弾やナパーム弾だと思ったもので…….

 【回答】
 エレクトロン爆弾は焼夷弾の一種です.B-29などの爆撃機からコンテナで投下され,ある一定の高度に達すると,そのコンテナから子爆弾として2kg,5kg,10kg,20kg,50kg,60kg,100kgといった中に詰められた各弾子が飛び出し,それが燃えながら家屋の屋根を突き破って,家屋に火を放つものです.
 ちなみに,日本の都市空襲で多く使われたのは,2,5,10kgのもの.

 エレクトロン焼夷弾とはマグネシウム96%とアルミニウム4%の割合で作った合金(これをエレクトロンと言います)の筒の中に,テルミット(酸化鉄粉76%+アルミニウム粉24%の混合物)を詰めたもので,発火すると,外側の筒は2000度,テルミットは3000度の熱を発しながら燃えます.
 この高温は発火後20秒から1分くらい発生し,以後は燃え尽きるまで10~15分発火し続けます.
 また,発火時に0.5~2mくらいの火を噴き,火花は14畳程度の広さまで飛び散ります.

 日本の空襲で使用されたテルミット焼夷弾は,AN-M17A1と言う500lb集束焼夷弾に入っており,日本に投下された焼夷弾の4分の1がこれです.
 AN-M17A1は,1発の中にAN-M50,4lbテルミット,マグネシウム焼夷弾(直径5cm,長さ35cmの六角棒状のもの)を合計110発詰め込んだもので,貫徹力が強く,濃密な火点を得られるため,先導機が良く搭載していたようです.

 ナパーム弾も都市空襲では使われています.しかも,都市空襲で使われた3分の2の焼夷弾がこれです.
 集束焼夷弾AN-M19と言う500lb焼夷弾では,中にAN-M69と言う6lb焼夷弾が48発詰め込まれていました.
 AN-M69は,直径約8cm,長さ約50cmの六角棒状の鉄製筒の中に,ナパーム剤が詰め込まれています.
 そして,AN-M19は投下後,リボンを棚引かせながら減速,1500mの高度で解束散開するようになっています.
 AN-M69はAN-M19の他,E48(AN-M47油脂焼夷弾,10lb黄燐焼夷弾,ナパームなど38発集束),E28,E36に詰め込まれていました.
 E48は焼夷弾の全体の約10%を占めます.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2)



 【質問】
 それは油脂焼夷弾であって,普通に言うナパーム弾とは違うのでは?
 【回答】
 まぁ,用語の問題であろうが….
 油脂焼夷弾と言うのは,一般的にパラフィンとベンジンを混ぜて固めた油脂を,中一杯に詰めて,それにテルミットを少し混ぜているものです.テルミット点火薬によりテルミットに点火された炎が油脂に燃え移り,炎を激しく吹き上げながら,油脂が流れ出て一帯に燃え広がります.

 ナパーム剤は,ご存知かと思いますが,ナフサネートと,亜鉛,パーム油,ガソリンを混ぜ,ゼリー状にしたものですから,油脂とは微妙に異なります.
 ちなみに,AN-M76焼夷弾は正味重量480lbの焼夷弾で,中にナパーム剤とマグネシウムが充填されています.

 も一つ,ついでに.
 日本の防空において,焼夷弾の対策として以下の様にしなさいと….

 1. 防空従事者は速やかに防火に当ると共に,近隣に大声で知らせる.
 2. 防火は最初の一分間が大切で,周囲の燃えやすいものに水を掛けるのが第一であるが,エレクトロン焼夷弾には筵類を濡らして掛けるか,砂袋を投げつける.
 油脂焼夷弾も筵類を濡らして掛けるか,水を掛けるか,バケツやシャベルで砂や土をかけて火焔を消す.
 黄燐焼夷弾も塊って燃えるのは油脂と同様にし,飛び散った黄燐は,水で濡らした火叩きで叩き消すか,水を掛けて消す.
 3. 焼夷弾が天井裏や屋根裏に留まったら,鳶口か長棒で突き落とす.防火に不便な場合も,これで移動する.小火焔や火の粉は火叩きで叩き消す.
 4. 黄燐は長く燃え,一旦消しても再燃するから安全な所で燃焼させる.
 5. 焼夷弾は何処に落ちてくるか分らない.天井,押入,物置,床下に注意する.

 …… _| ̄|○

(眠い人 ◆gQikaJHtf2)


 【質問】
 P-51が護衛につくようになってから,中高度で飛来するB-29は,爆弾搭載量を増やすために機銃を廃止したんですか?

 【回答】
 別に,P-51云々の前から前上方の2挺は廃止されています.

 最初は高々度精密爆撃に加え,戦闘機の脅威などが考えられていますが,その後の調査で,夜間の場合は2個程度の戦隊しか夜戦能力が無いとされた為,東京空襲では弾薬無しで行い,以後の空襲では探照灯攻撃(対空火器を無力化するのに必要な手段)のために尾部銃にだけ弾薬200発を準備することになりました.
 後に,地上と低高度目標の為に,下層を飛ぶ爆撃機には,下面の砲塔に若干の弾薬を装備しています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2


 【質問】
http://ultrabigban.cocolog-nifty.com/ultra/cat2839679/
に,
>その上逃げ惑う市民には超低空のB-29から機銃掃射が浴びせられたのである.
という記述がありますが,B-29が機銃掃射したというのは本当なんでしょうか?

 【回答】
 そこに書いてあるのは何かの誤解だと思うが,飛来してきたB-29にサーチライトを照射したら,機銃で撃ち返されたって話は結構ある.
 かなりの損害も出ている.
 大概20mm機関砲によるものらしい.
 あと日本本土東方の太平洋上で警戒中の哨戒艇で,損傷して低空飛行しているB-29を狙って撃ったら,撃ち返されて自分が沈んだ,という例が数件.

 これも何回も紹介しておるが,英軍のランカスターも爆撃を終えた後,地上銃撃を実施している.
 また,爆弾搭載量を増やすため,防御火器をおろしたのは,B-29の一部(本土空襲参加機の30%から半分程度)にすぎない.
 何より,戦争体験者の多数(おれの一族含む)が,B-29の銃撃について証言しており,いくらなんでも全員が小型単発の艦載機と,当時では超大型のB-29を混同するわけがない.
 さらにいうなら,B-29は機雷布設任務のため,日本周辺で超低空飛行を日常的に行なっていた.
 B-29の銃撃は紛れもない事実だよ.


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