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「textlib @ ウィキ」◆(2010/08/21) 熱田のクランクシャフトの異常磨耗と彗星ネタ

『真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝』(淵田美津雄著,中田整一編・解説,講談社文庫,2010.11)

『神雷部隊始末記 人間爆弾「桜花」特攻全記録』(加藤浩著,学研パブリッシング,2009.11)

 桜花部隊の本なのです.
 ペラペラめくって図面と写真チェックだけしましたが,これは良い本ですわ.
 未見の写真の数は数知れず.
 第一級の資料だと思います.

 なぜかモデラー向けの塗装図も完備.
 零戦や零式練戦,零式輸送機など機種も豊富です.
 零式輸送機の各部分のクローズアップ写真など珍しいのでは?
 桜花は守備範囲外なのですが,これはオススメですー.

 読み物としても面白そうで,ぶあっつーい本なので,読破は正月までかかりそうです.

――――――軍事板,2009/12/26(土)

『彗星夜襲隊 特攻拒否の異色集団』(渡辺洋二著,光人社NF文庫,2008.3)

 買ってから3年ばかり本棚の主と化していたものを読み始める.
 まだ読んでる最中だが,何よりまず文章が読みやすい(最近,翻訳ものばかり読んでたせいもあるだろうけど).
 それぞれの戦域の概略や,個人の経歴・兵器の解説も,簡潔かつ分かりやすく記述されていて,主役である彗星の開発から実際の運用も,設計陣・技術者・搭乗員や整備兵のコメントを丁寧に纏めてある.
 しかし,いくら不人気な機体とはいえ,昭和19年末という時期に,当時でも一級の性能を誇る機体が,100機以上も稼働可能な状態で,あちこちの基地で余ってるってのは,なんというか……

――――――軍事板,2011/02/20(日)
青文字:加筆改修部分

『天空からの拳 艦爆の神様・江草隆繁の生涯』(ピーター・スミス著,PHP研究所,2009.9)

 立ち読みしてきました.
 内容は艦爆隊の江草隊長についての本.
 帯に「日本海軍の勝利あるところ,いつも江草がいた」みたいな文章でググッと.

 外国人が日本人についての本を書くというのは,どうなんだろうと思ったが,至って普通に戦前,開戦直後のエピソードがまとまっていて,まぁミッドウェー辺りから急に19年に話が飛んだりはするが,不自然な記述は特になく,良い本だと思った.

――――――軍事板,2009/09/18(金)

『日本海軍艦上爆撃機彗星 愛機とともに 写真とイラストで追う装備部隊』(吉野泰貴著,大日本絵画,2012.5)

『必中への急降下』(渡辺洋二著,文春文庫,2009.7)

 内容は雑誌の再録が中心なので,雑誌を読んでいない人はどうぞ.
 芙蓉部隊についても新作が載ってます.

 毎回面白いのがあとがき.
 今回はさすがにお疲れなのか,
 普通ならもう定年だし,WW2体験者の新規の話もほとんど聞けなくなって,精神面の活気が,停滞から衰退に・・・と書いてあってドキリとする.

 以前なら記事を発表すれば,それに続いて証言者や反論者が出てきたものだが,最近は何を書いても,戦中世代からは反応がなくなってしまったそうな.
 ガックリされておられる.

 戦中派がどんどん退場してゆくこれからは,イラクに先遣隊長で行った佐藤一佐の本みたいに,PKOで派遣された自衛官の手記が増えるのかな?
 他に可能性があるとすれば,遺族が陣中日誌とかを出版するくらいだろうなぁ.

 ただ,昭和30~50年に発行された戦記で,現在流通してない物は多いから,そういった物を地道に再刊していったり,戦友会編の物を発行したり(最近は伊呂波会のが出たね),あとは海外のいろんな戦記を翻訳をやっていけばいいんじゃないかな.

――――――軍事板,2009/07/25(土)

『雷撃機電信員の死闘 「ト連送」で始まった太平洋戦争』(松田憲雄著,光人社NF文庫,2000.11)

 「忘れ得ぬ『ト連送』」の文庫版.
 著者の松田憲雄さんは,ご両親を亡くされてから,自立のために海軍に入ったとの由.

 文章はわりとフラットな感じ.
 海軍に入ってから数年は殴られ通しだったらしく,そこだけすこし恨み節.

 内容で面白かった点:
・真珠湾に向かう途上,北太平洋で赤城・加賀の飛行甲板には
 艦爆・艦攻・艦戦3機ずつ待機させてた(露天繋止してる)
・このときの零戦も濃緑色迷彩との証言(さすがに記憶違いかな?)
・艦攻専修のときの教官が友永さん.寡黙な人柄だったとのこと
・真珠湾前の雷撃高度は100mくらいとの証言
・戦果確認は高度1000mで水平直線飛行をするとのこと.怖いね
・不時着水したとき,3分ほどで97艦攻が沈んだらしい.
 ただ,著者は機体無傷だったといってるけど,実際は被弾していたんじゃないかと.
・陸軍の4式重爆隊に出向.飛竜をベタ褒め.銀河より良いと評価.
・電信文の略符(でいいのかな)がちょっと載っています.
 海軍でも至急電はウナ電.URをウナとしたのは官民どっちが先なんですかね.

 全体的にはNF文庫らしい個人の体験手記.
 ただ,パイロットじゃなくて電信員の手記なので,その点ではユニーク.
 電信員はけっこう忙しい.
 また,機上での会話だとか,基地内での生活なんかも載っているので,エピソード好きな人にはおススメ.

------軍事板,2012/01/29(日)
青文字:加筆改修部分

『ラバウル航空隊の最後 陸攻隊整備兵の見た航空戦始末』(渡辺紀三夫著,光人社NF文庫,2008.6)

 著者は751空,251空で従軍した整備兵.
 基本的には一般的な戦記であり,訓練から配属,実戦,戦場での様子という描写が続く.
 特に著者は,航空機(部隊では一式陸攻)の整備兵であり,エンジン始動や計器動作などの確認をする部門に所属していたため,一式陸攻の始動手順等が細かく描写されている.

 後半,果てしなき消耗戦に敗れたラバウルが孤立し,航空機の大半が引き上げると,以降は空襲を警戒しつつの自給自足生活が始まる.
 この中で著者が,陸軍の日頃からの倹約を賞賛している.
 日頃から配給量を抑えることで,補給が途絶えてもできるだけ長く食料・嗜好品をもたせることができるのである.
 また,著者の描写を見る限りでは,ラバウルの自給自足は,ニューギニアなどよりは悲惨ではなかったようだ.
 終戦後に進駐してきたオーストラリア軍の,
「たくさんの数を数えられない」
といった描写も興味深い.

 付録として,同郷の佐藤輝雄氏が,100式司偵によるラバウル周辺での航空戦記を書いている.
 簡単なものではあるが,いくつかの偵察飛行の例が記されており,こちらはこちらで興味深い.
 また,彼はラバウル孤立後も,部品を組み合わせて何とか飛行可能にした100式司偵とともに,ラバウルにとどまっていたようだ.

――――――軍事板,2011/07/09(土)

 【質問】
 「甦った空」という,陸攻乗りの文春文庫を読んで感動したんだが,同じ著者名で光人社NF文庫から「われレパルスに投弾命中せり」で出ている.
 併売されている珍しい例?

 【回答】
 同じ内容じゃなくて,「甦った空」が再構成本のようですね.
 平成20年付けのご本人のあとがきがありますし.

 光人社の方を読んでいないから,相違点がわかりませんが,渡辺洋二氏の推薦文も巻末にあります.
 戦前戦中の努力,戦後,再び大空に戻った後の活躍もまた素晴らしい.

 著者も優秀.
 投弾命中ってタイトルの割に,成功したあの作戦にもあった瑕疵を,冷静に指摘しています.
 俺は別に,日本軍のすることだからと言って何でもくさすクチではないですが,国を問わず,良くある只の自己満戦記に比べて好感が持てます.

軍事板,2010/09/27(月)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 陸攻が長大な航続距離を要求されたのは,陸攻はアウトレンジ戦法の一方の柱だからだったからですか?

 【回答】
 戦争前の構想では,「アウトレンジ」って考え方はない.
 九六中攻や一式陸攻の開発要求の仕様書のどこに,「アウトレンジ戦法が可能であること」なんて書いてない.
 日本海軍が用いた「アウトレンジ戦法」の定義は,「敵空母艦隊の搭載機の行動範囲外から,自軍の艦載機を発進させ,一方的に攻撃する」ものだ.

 一方,海軍が中攻に求めたのは,
「陸上基地より発進し,長躯洋上の艦隊決戦に参加,敵主力艦を雷爆撃にて損傷せしめ,味方主力艦を優位に導く」
であって,つまり空飛ぶ水雷戦隊なんだよな.
 固定の戦略目標や地上部隊の要請に基づいて爆撃するわけじゃないから,海軍用の陸上爆撃機は「的を見つける」って仕事も任務に含まざる得ない.
 しかも「主力艦を撃沈せしめ」じゃない,補助的役割.
 アウトレンジ関係ない.

軍事板,2009/07/09(木)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 日本海軍は日本近海で敵を迎え撃つというドクトリンだった為に,戦闘艦の航続力は他国のそれと比較して低めに抑えられ,その変わりに武装,特に雷装が充実していました.
 太平洋戦争ではそれが裏目に出て,航続距離が不足気味だったわけです.
 しかし,海軍機の航続距離は他国と比較して抜き出ているスペックです.

 此処で疑問なのですが,重慶爆撃を視野に入れていた零戦は兎も角,艦攻や艦爆は従来の戦闘ドクトリン(日本近海で迎撃)に合わせて,航続距離は短くても武装・防弾に優れた機を造るはずになると思うのですが・・・
 どういうきっかけで,日本海軍は艦攻や艦爆も航続距離が長い機を,開発することになったんでしょうか?

 【回答】
 ワシントン海軍軍縮条約によって,日本の主力艦保有量は対欧米6割とされています.
 これを受けた,1923年の帝国国防方針の第二次改訂により,所謂「邀撃」作戦構想は,艦隊決戦主義を採るものの,修正を余儀なくされます.
 従来は,在東洋兵力の早期撃滅と封鎖,それに伴い本国艦隊が進出してくれば,日本近海での全戦力を集中しての艦隊決戦と言う考え方でしたが,ワシントン海軍軍縮条約の制限の結果,敵の主力艦が優勢な状態では,全兵力を 挙げても結局は討ち果たされる可能性が高くなります.

 そこで出て来た考え方が,所謂「漸減」作戦構想です.
 明確に現われたのが1918年からですが,艦隊決戦の方式も全兵力投入による丁半博打ではなく,索敵段階→漸減段階→決戦段階と3つの段階に分けました.

 此処で重要視されたのが,主力艦を温存しつつ,敵の主力艦を削減する為に,一等巡洋艦を中心とした補助艦と潜水艦の役割です.
 索敵段階では,ハワイから出撃する米国艦隊を,予めハワイ周辺に配置しておいた潜水艦部隊で索敵し,機を 見ながら魚雷攻撃を行います.
 そして漸減段階では,進攻予想海面に配置した巡洋艦中心の前進部隊で波状的に夜襲を行って,決戦海面 (日本近海)に到達する米国艦隊の主力艦を,我が方とほぼ同数にするのを目的としていました.

 ところが,漸減段階で利用する予定だった補助艦もロンドン条約で対米6割に抑えられた為,新たな漸減実施 の手段が求められます.
 丁度,世界では1921年にミッチェルが対艦爆撃実験をするなど,航空攻撃に関心が高まっていたので,これを 利用する事で,補助艦の代わりにしようとした訳です.
 日本でも,1924年に廃艦石見を標的に爆撃実験を行い,僅かに240kg爆弾3発の命中で撃沈されてしまいます.
 となると,これを活用しない手はない.
 と言う事で,漸減作戦に利用するならば,主力艦隊と行動を共にするより,ハワイと日本近海での中間で,敵戦艦群が届かない遠い場所から航空機を飛ばして,主力艦に突入させる必要が生じ,艦上爆撃機にも長い航続距離が求められた訳です.
 また,そもそも艦上攻撃機に関しては,偵察機としての機能も求められており,これまた必然的に足の長い機体が求められています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 旧海軍の艦上攻撃機で,水平尾翼に偏流測定線が書かれている機体がありますが,あの線で何をどの様に測定するのですか?

 【回答】
 飛行機が何も目印のない洋上を飛行する場合,自分の居場所を速度・時間・方角から知ります.

 しかし,まっすぐに飛んでいる「つもりの」飛行機は横風に流されます.
 これが偏流.
 偏流で流された分を補正しないと,流された飛行機は目標にたどりつけません.
 よって,こまめに偏流を測定しないといけません.

 この偏流の測定は,専用の偏流測定器や爆撃照準器などで海面の浮遊物の動きを見る事で行います.
 海面に浮遊物がない場合,アルミの白い粉などの入った物(航法目標弾と言ったか?)を目印に落としたりする事もあるそうです.

 さて,偏流測定線はどう使うのかと申しますと,
「目標物を落として真上を通過し,その後どの線の延長線上に目標物が現れるか」
を見る事で流され具合を測るのに使います.
 平面図で偏流測定線を延ばしてみると分かりますが,あれは航法操作を担当する人の席で交差します.
 なお,偏流測定線は主翼(つまり前方)に描かれる事もあったそうです.

 蛇足ですが,偏流測定線は5度間隔だそうな.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 大戦後半に日本機が米空母に夜間攻撃しようとしても,昼間同様,戦闘機に迎撃されて終わりでしょうか?

 【回答】
 まだ夜間戦闘での艦隊防空そのものが暗中模索だったもんで,完全に有効だったわけじゃない.

・夜間戦闘任務群(TF38.5)そのものがエンタープライズとインデペンデンスの2隻という実験的な存在から始まった.
・一部日本軍機は電波高度計を装備してレーダー覆域よりも低空を少数機で侵攻してきた.
・艦隊の防空火力が強烈でレーダー管制なんかされてないもんだから,同士撃ちを恐れて近距離迎撃はできなかった.
・まだ早期警戒機が無かったんで,有効な遠距離迎撃管制が行えなかった.

てなもんで,昼間同様に迎撃できたわけじゃない.

 沖縄戦なんかだと,日本軍機の進路上にP61を待ち伏せさせておいた方が効果的なくらい.
 なので日本側も芙蓉部隊とか,夜間通常攻撃で付け入る隙がまだあった.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 日本海軍における急降下爆撃機の始まりは?

 【回答】

 1920年代末期,米国海軍で急降下爆撃という戦法が編み出されます.
 これは,爆弾を抱えた飛行機が急角度で降下し,ある一定高度で爆弾を放つもの.
 放たれた爆弾は,正確に目標を捉え,しかも急降下のエネルギーが加わって,貫通力や威力が増すのでは無いかと考えられた訳です.

 これを実践するために,米国海軍はカーチスやチャンス・ボートに急降下爆撃機の試作を命じ,実際にカーチスがヘルダイバー(初代),チャンス・ボートはコルセア(初代)を生み出していきます.

 この飛行を見たドイツのウーデットが急降下爆撃機熱に取り憑かれ,Hs123やJu-87を経て,Ju-88やJu-188などの双発機にまで急降下爆撃能力を求めた話は有名です.

 勿論,米国を仮想敵国と見做していた日本が,この戦法を取入れない訳がありません.
 1930年に米国を視察してきた海軍軍人の中に,この戦法に着目した人がいて,1931年,海軍は中島に対し日本最初の急降下爆撃機である六試艦上特殊爆撃機の試作を命じました.

 ただ,中島もお手本が無いのでは飛行機の設計が出来ません.
 そこで,カーチスやチャンス・ボートを視察した海軍技術研究所航空機部の長畑順一郎技師が基礎設計を行います.
 この機体は複葉,複座単発の機体で,脚にはスパッツが取り付けられ,爆弾は中心線上に懸架されました.
 特徴としては,下翼が上翼よりも僅かに前に置かれ,下翼は逆ガル翼で胴体と支柱で補強すると言う変わった構造を採っていました.
 基礎設計を基に,中島の山本良造技師が細部設計を担当し,1932年11月に試作1号機,やや遅れて2号機がロールアウトしました.

 しかし,11月26日,中島のテスト・パイロットだった藤巻恒男一等操縦士が操縦試験中,急降下姿勢からの引き起こしが不可能となり,尾島町の畑に激突.
 機体は地中約2mに埋まり,藤巻操縦士が殉職すると言う大事故を起こします.
 結果,2号機の審査も中止となってしまいました.

 ただ,これで諦めるような日本海軍ではありません.
 再び,長畑技師と山本技師は,協同で六試艦上特殊爆撃機を再設計した七試特殊爆撃機を製作します.
 こちらの方はきちんと飛行し,試験もされたのですが,性能的に物足りなさが残ります.
 特に操縦性に難があり,急降下時に於ける安定性の不足と言う致命的な欠点があって,不採用となりました.
 この為,更に次の八試特殊爆撃機へと進みます.

 八試特殊爆撃機は,海軍技術研究所航空機部と中島の共同設計機と,愛知の競作となりました.
 前者は,前回に引き続き長畑技師と山本技師がコンビを組み,長畑技師が設計主務となり,製作を中島で山本技師の下で行い,1934年に2機が試作されます.

 この機体は,七試特殊爆撃機に比べると主翼面積が増し,主翼支持法や脚支柱構造などに全面改良が加えられ,より洗練された機体となりました.
 しかし,これまた安定性が不十分との判定が下り,不採用となってしまいました.

 因みに,愛知はドイツのハインケル社と技術提携を行っており,ハインケルが当時,ドイツ海軍向けの急降下爆撃機として開発をしていたHe-50を基礎に,日本向けに仕様を変更した機体を1機発注します.
 1934年,その機体はHe-66と名付けられますが,その動力を中島の「寿」に換装し,主翼に5度の後退角を与え,僅かに小型軽量化を行った機体を,愛知では五明得一郎技師を主務者,小林喜道技師等を補佐にして製作しました.
 これが,愛知八試特殊爆撃機です.

 この愛知八試特殊爆撃機は,基がドイツの急降下爆撃機として製作されていた機体だけに,特に安定性が良好で,実用性,信頼性の高い機体として海軍側に評価され,1934年12月,九四式艦上軽爆撃機として採用されることになりました.

 生産機は加賀や龍驤に搭載されて実用試験に供され,稼働率が良好であることから,九四式艦上爆撃機と命名されて本格生産に入ります.
 複葉複座単発で,金属製骨組みに羽布張り構造,上翼と下翼間は翼間支柱や張線が多い旧式な構造ながら,その性能は安定しており,1937年に勃発した日華事変では,特定の目標に対する精密爆撃に目覚ましい戦果を挙げ,報国号としても多数献納される機体となっています.
 最終的に1934~1937年に162機が生産されました.

 1935年,九四式艦上爆撃機の量産が開始された直後に,これを基に,動力強化と座席の改修を主とする改造案が作られ,五明得一郎技師が主務者となって1936年秋に試作機が完成します.

 これは九四式艦上爆撃機に準じた構造外形をしていましたが,発動機には強力な「光」が採用され,カウリングと座席風防が大きくなり,脚にはスパッツが付くなど,細部に亘って改修を施したもので,その結果,性能も著しく向上して1936年11月に九六式艦上爆撃機として採用され,1940年までに量産が為されて428機が製作されました.

 九九式艦上爆撃機の出現後は,九四式艦上爆撃機の後継機として,1941年12月に練習爆撃機に改造され,九六式練習用爆撃機と命名されています.

 なお,このハインケル系列とは別に,愛知では五明得一郎技師を主務に,引込脚式の複葉爆撃機AB-11を設計しています.
 この機体は,当時,米海軍が採用していたグラマンFF-1やカーチスSBC-1と同様に,胴体側面下部に脚を収納する方式の引込脚を持ち,NACAカウリングを採用して空力的に洗練するとともに,密閉式風防を採用したかなり近代的な機体だったのですが,海軍の方針により製作中止となり,近代的な構造の急降下爆撃機は,十一試艦上爆撃機の試作まで待つ事になりました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2016/03/24 23:19
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 日本海軍における全金属製急降下爆撃機開発の始まりは?

 【回答】

 最初は中島が試作していた急降下爆撃機ですが,ハインケルの技術を取入れた愛知が九四式艦上爆撃機を製作します.
 その完成度は高く,改良型の九六式艦上爆撃機を含め,折柄の日中戦争もあってかなりの数が生産されました.

 しかし,世の中は複葉から単葉へと移っていきます.

 そんな中,1933年に海軍が米国から輸入したのが,その革新的な性能で,各国から注目されていたNorthrop 2E Gammaでした.
 この機体は高速郵便機として有名なNorthrop Gammaを軍用化した機体で,日本最初の低翼単葉爆撃機であり,1機種で偵察・水平爆撃・急降下爆撃の各任務をこなすと言う触れ込みでした.

 これを試験した海軍は衝撃を受けます.
 と言うのも,当時の海軍は相変わらず鋼管羽布張り複葉,木製固定ピッチプロペラで,乗員も吹き曝し状態の開放座席に座ると言う居住性の悪い艦上機を使っていたからです.
 この中では艦上攻撃機が最も遅れており,八九式艦上攻撃機は長い試作期間を経ながらも,実用性については更改対象の一三式艦上攻撃機よりも劣る機体でした.

 Gammaは,脚こそ固定脚でしたが,その脚は剥き出しでは無く,スマートな金属製ズボン型スパッツに覆われており,平滑かつ軽量で強度十分な全金属製応力外皮構造,また,内外翼の結合方法もシンプルかつ堅牢で,エンジンの振動を軽減する防振支持法,更に可変ピッチ2枚プロペラを装着,今の機体では当たり前ですがスプリット・フラップが日本で初めて装備され,前後の座席間は透明な密閉式風防で覆われています.
 また,最大速度は326km/hと当時の九〇式艦上戦闘機よりも優れていました.

 この機体が海軍当局に与えた衝撃は計り知れず,後年のB-29に匹敵する,否それ以上のものだったと言います.

 なお,この後,1937年にはその発達型で中華民国空軍も採用していた2F Gammaを輸入します.
 これは米国陸軍に提案されて不採用となったXA-16攻撃機の輸出型で,2Eに比べるとエンジンが強化され,その馬力を吸収するために可変ピッチプロペラは2枚から3枚に増え,一般性能が向上しました.
 この頃には日本海軍もそれなりに使える機体を試作していましたが,それでもその量産性を重視した構造は注目され,三菱と中島の十試艦上攻撃機(後の九七式艦上攻撃機)の設計時の参考にされたと言います.

 翌年,設計試作が進んでいた十一試艦上爆撃機の後継機として,愛知が製作権とサンプル機を輸入し,海軍に供したのが,He-118の試作4号機です.
 この機体は国産化する予定と言われており,愛知はハインケルに技術員を派遣し,研修まで行っていたものです.

 元々は,Ju-87と競争試作された機体で,武骨なJu-87に比べ,液冷倒立V型のDB600単発の流麗な機体で,以前輸入され,陸海軍のテストパイロット達が挙って賞賛したHe-70の系譜を引き,ハインケルお得意の楕円で構成された主尾翼を持っていました.
 また,Ju-87が固定脚だったのに対し,油圧式外側翼内引込脚となっており,その性能も期待できるものでした.

 ところが,所詮は試作に負けた機体で試作4機に終わった機体です.
 期待に反して鈍重で,急降下爆撃機としての安定性も悪く,艦上機製作は素人のハインケルが製作した機体だけに,艦上機としては大きすぎるという致命的な欠点がありました.

 その上,1938年7月上旬の海軍でのテスト飛行中,急降下試験で水平尾翼が空中分解し,操縦していた小松兵曹長が殉職すると言う事故を起こしました.
 これにより,この機体の国産化は中止となり,海軍ではこれ以上の発展は有りませんでした.
 しかし,これら国産化のための資料は,九九式艦上爆撃機の後継機として開発された空技廠の艦上爆撃機「彗星」の参考資料として大いに活用されたりしています.

 余談ですが,例によって仲の悪い陸軍と海軍.
 陸軍は川崎に命じて3号機を購入し,3月に岐阜で組み立てて飛行試験に供しています.

 更に海軍は1938年,,九九式艦上爆撃機試作時に,参考資料として米国Douglas社からDB-19を輸入しています.
 この機体は,元々Northropが開発し,米海軍が採用していたBT-1です.
 これの輸出型を海軍が購入したのですが,Northropは直前にDouglasに吸収合併されており,名称がDB-19と改称されました.

 胴体はGamma系列なのですが,この時期になると流石に固定脚では無く,翼下に覆いを付けた半引込式構造.
 脚が故障した場合は,脚を引込んだまま緊急着陸が可能な工夫が為されていました.
 また,主翼後縁のフラップには小さな丸穴が多数開けてあり,乱流を発生させて抗力を増加し,急降下時には上下に開き,着陸時には下面のみ下げる構造になっていました.

 因みに,この機体の構造を更に強化し,エンジンを換装した上,完全引込脚に改造された型が,後に米国海軍の急降下爆撃の主力として活躍したSBDだったりします.

 この後,米国との関係が悪化し,米国は航空機禁輸に踏み切ると,以後,日本への飛行機の輸入は,ドイツから封鎖突破船に搭載され,連合軍の哨戒線を突破して日本に上手く辿り着いたもの以外はありませんでした.
 その中には流石に急降下爆撃機は無かったりします.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2016/04/07 23:30
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 中島DB急降下爆撃試作機について教えられたし.

 【回答】

 海軍が九六式艦上爆撃機の後継として,近代化した単葉急降下爆撃機の試作要求を出した際,これに応じたのが,九六式艦上爆撃機を生産していた愛知,九六式陸上攻撃機や九六式艦上戦闘機を生産して単葉艦載機に十分なノウハウを持っていた三菱,そして,急降下爆撃機を最初に開発していた中島の3社です.

 三菱のそれは,堀越技師を主務に宮原,長谷川技師を補佐として設計を進めましたが,業務多忙で設計に必要な人的資源が確保出来ず,予定期日までに試作機を製作出来る目途が立たなかったので,1937年夏にモックアップ段階で辞退しました.
 こうして残ったのは2社.

 愛知は,社内名AM-17と呼ばれる機体を試作します.
 試作機は五明技師を主務に1936年11月から設計を開始したのですが,補佐としてハインケル社で研鑽を積んだ尾崎,森両技師が付いた為に,主尾翼の平面形,胴体の側面形,モノコック構造が同時期に輸入し,各方面から高い評価を受けていたハインケルHe-70輸送機の影響が大きく,試作1号機は翼付根後縁はHe-70同様に曲線的に前方に切込んでいました.

 愛知の試作1号機は,中島の光1型を装備して1937年12月25日に完成し,1938年1月6日に初飛行しました.
 その後,エンジンを光から三菱の金星3型に変更し,主翼をより大きくして内翼後縁が左右一直線に変更し,後縁フラップとフィレットも加わると言う改良が施され,自重も増えた試作2号機が加わり,以後はこの系統が改良を重ねて制式採用に邁進する事になり,1939年12月にやっとモノになって九九式艦上爆撃機と命名されて制式採用されました.

 同様に,試作機製作にまで漕ぎ着けたのが中島です.
 中島は社内名DBと呼ばれる機体を設計しました.
 こちらは山本技師を主務とし,Northrop2Eを参考に,その後試作された10試艦偵,10試艦攻のデータを加味してモックアップ完成は愛知よりも早い時点で行われました.

 形式は引込脚式の低翼単葉機で,その引込み脚はCurtiss P-36/P-40などのように,脚柱を回転させて主車輪を後方に引込む形式でした.
 そして,この引込み脚は急降下時にエアブレーキの代わりに下ろし,車輪を横に90度回転させることで抵抗を増すと言う独特の機軸が特徴でした.

 ところが,中島を不幸が襲います.
 設計が完了して試作機の製作に移った頃に突然,海軍の仕様が変更になり,急降下して爆弾を投下する最終速度が240kt/hから200kt/hへと実に40kt/h(74km/h)も低くなったのです.
 愛知の機体は元々固定脚で奇をてらった構造では無く(と言ってもそこに行き着くまでには紆余曲折がありましたが),エアブレーキは別に装備しました.
 一方,元々,240kt/hを前提に考えていたDBはそう言う訳に行かず,抵抗版面積が不足したことから慌てて再検討を行った結果,愛知機同様にエアブレーキを装備する事になりました.
 しかし,この間完全に時間を空費してしまい,試作機製作では先行していたのに,実際の試作機完成は1938年3月になってしまいました.
 この頃,愛知機は既に試作機2機が完成し,種々の試験を開始していましたので,かなり出遅れたことになります.

 ただ,愛知機も当初は飛行機として未完成な部分が多く,実験と改修を繰返していました.
 もし,この時点で中島機が優秀な性能だったら採用は引っ繰り返ったかも知れませんが,残念なことに団栗の背比べと言った完成度で,特に愛知機が1号機のみで見捨てた同社の光1型を後生大事に1939年初めの2号機,秋の3号機にも装備したため馬力不足に悩まされ,1939年12月に至り遂に海軍は同機を不採用としました.

 なお,これら試作機は民間に払い下げられた訳では無く,中島飛行機の社有機として,エンジンテストベッドに用いられ,栄21型,護,誉と言ったエンジンを装備して,空中試験に用いられました.
 試作エンジンを装備して色々な飛行を行った割には,事故は皆無だったようです.

 この他,1941年春と11月には,日本初の推力式単排気管の実験にも使用されています.

 こうした実験に用いられたことから,実戦に出ることも無く,縁の下の力持ちとして中島飛行機を支えていました.
 因みに,これらの機体,1942年に主車輪収容部にカバーが付けられた他は特に大きな改造も無く,敗戦まで健在で各種実験を行っていました.

 ただ,残念なことに敗戦の日まで長寿を誇った割には,現存している写真は全く無く,ただ風洞模型の不鮮明な写真が1枚だけ残っているだけです.
 縁の下の力持ち故に,目立たない機体だったからでしょうか.
 御陰で,非常に謎の多い機体ともなっています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2016/06/01 22:36
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 九六式艦上攻撃機って何?

 【回答】
 八九式艦上攻撃機,九二式艦上攻撃機がいずれも不満足なものであったことから,昭和9年から,中島,三菱,空技廠が競う形で開発が始まった艦上攻撃機.
 結局,空技廠設計のものが昭和11年に制式採用された.
 しかし当時,すでに各国の主力艦攻は低翼単葉機へ推移しており,翌年には九七艦攻が開発されたため,本機の生産は約200機にとどまった.

 太平洋戦争勃発時には,既に第一線を退いていたが,ミッドウェイ海戦において,飛龍が大破したまま漂流しているのを発見・撮影したのが,鳳翔から索敵に出た,この九六式艦攻だったという……

 【参考ページ】
http://military.sakura.ne.jp/ac/b4y.htm
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/3853/jnrs/jnrsC223c.htm
http://en.wikipedia.org/wiki/Yokosuka_B4Y
http://en.valka.cz/viewtopic.php/t/28737
http://www.aviastar.org/air/japan/yokosuka_b4y.php

3面図
http://en.valka.cz/viewtopic.php/t/28737より引用)

空母「加賀」搭載機 1938年
http://en.valka.cz/viewtopic.php/t/28737より引用)

写真
(画像掲示板より採取したものだが,http://military.sakura.ne.jp/ac/b4y.htmからの引用だったと思われる)

【ぐんじさんぎょう】,2011/11/07 20:30
を加筆改修


 【質問】
 九六式陸上攻撃機開発は,どのように行われたのか?

 【回答】

 1930年代初頭から,世界的に引込脚,応力外皮構造,低翼単葉,流線型構造の胴体など近代的な構造を採用した機体が出現し,米国ではマーチンB-10やボーイングB-9が,複葉が主流だった戦闘機の速度を凌ぐ事から,「戦闘機より速い爆撃機」と言って喧伝しました.
 また,旅客機の分野でも米国はダグラスがDC-1やDC-2と言った高速引込脚旅客機が出現しています.

 一方,日本でも,ロールバッハ飛行艇の国産化から全金属製単葉機の技術を身につけ,徐々に技術を進歩させてきたのですが,その技術を更に昇華させ,米国のB-9やB-10に匹敵する機体を製作することになります.
 1933年,逸速く海軍が,従来の大型飛行艇に代わる高速長距離偵察機の名目で,三菱に開発を発注したのが八試特殊偵察機です.

 この機体は,本庄季郎技師が主務となり,久保富夫,日下部信彦,加藤定彦技師等が協力し,これまで三菱が技術習得をしてきたロールバッハ,ユンカース,ブラックバーンと言った各社の技術資料を参考に設計していきます.
 そうして,世界の潮流に乗った全金属製単葉で日本最初の引込脚,スペリー式自動操縦装置,ユンカース式二重翼式補助翼,平滑化を企図しての沈頭鋲を採用して,1934年4月18日に完成しました.
 5月から飛行テストを行いましたが,海軍側の試験でも安定性と操縦性は良好との結果を得ています.

 なお,エンジンだけは従来の技術の延長線上にある広海軍工廠製の九一式水冷W型12気筒500馬力で,プロペラは全金属製可変ピッチプロペラでは無く,木製の固定ピッチ2枚が採用されています.
 主翼はロールバッハから発展したワグナー式の桁構造,補助翼の他,各部にはユンカースの影響を受けた箇所が随所にありました.

 武装はありませんでしたが,後に胴体前方と後方に7.7mm機関銃が1挺ずつ装備され,1934年2月に偵察機から中型攻撃機へと任務替えが為されています.

 とは言え,日本最初の機体,更に若手技師の意欲作ですから,重心計算に失敗してその位置が37.8%と前代未聞の後位置となり,機首にバラストを搭載して重心位置を補正したり,自重も予定の3,820kgを大幅に上回る4,230kgに達した上,操縦系統の剛性が不足して所望舵角が取れず,飛行中に補助翼が跳ね上がるというトラブルも起きました.

 しかしながら,巡航速度110ノットは九五式艦上戦闘機並の速度を誇り,最高速度の143.4ノットは,他の大型機の追随を許しませんでした.
 更に航続距離は正規状態で4,408km,過荷状態では6,056kmであり,やろうと思えば24時間滞空も可能な数値であり,一方で操縦性は抜群,安定性も申し分なし,軽快さは戦闘機並で引込脚は挙げれば途端に10ノット増となると絶賛され,更に自動操縦装置の便利さは海軍の操縦士達を魅了しました.

 この八試特殊偵察機は1機しか製作されなかったのですが,1936年にエンジンを「震天」950馬力に換装して更に最高速度を158ノットへと性能向上させ,高速連絡機として利用されました.
 ですが,五島列島沖で惜しくも事故のために水没してしまいました.

 それはともあれ,この性能に気をよくした海軍は,この機体を基にした九試中攻の開発を指示し,再び本庄季郎技師を主務に設計を行って,1935年6月に完成に漕ぎ着けました.
 八試特殊偵察機の経験と失敗を活かし,最新の空力理論を忠実に守って設計する限りは,設計時の推測計算値と実際の飛行結果とは良く一致し,寧ろ実際の値の方が上回ることが判ったので,彼等は自信を持って作業を行います.

 ユンカースの影響を受けて八試特殊偵察機では残していた波形板は廃止されて全平滑板を採用し,胴体は若干太くなって縦列式の操縦席は乗員の連絡を考慮して並列式に改められ,前方,後方,下方に銃座が設けられ,それぞれ7.7m機関銃が1挺ずつ取り付けられ,爆弾若しくは魚雷が装備できるように懸吊装置が取り付けられました.

 爆撃機として開発されたことから流石に戦闘機にも匹敵する軽快な運動性は損なわれましたが,最高速度は八試特殊偵察機をも上回る170ノット,航続距離も正規状態で5,000kmとなり,世界の同級機の水準を遙かに凌ぐ高性能機となっていました.

 最初の1,2,5,6号機は九一式水冷W型12気筒の馬力強化型で600馬力としたものを装備し,木製4枚プロペラを回し,フラップがありません.
 一方,3号機は三菱が開発した「金星」2型空冷星形14気筒680馬力を装備し,プロペラは同じく木製4枚,4号機は「金星」3型790馬力を装備し,金属製ハミルトン・スタンダード製可変ピッチ3枚プロペラを装着していました.

 また,7~21号機は機首に偵察員席と銃塔を付けたもので,エンジンとプロペラは3号機と同じで,今迄の機体は下方銃座と言っても昇降口を開いてそこから腹這いで射撃する形式だったのですが,欧米で流行りだした引込式の上部,垂下式の下部銃塔を設けています.

 但し,装備エンジンが低回転では具合が良くないこと,地上滑走で尾輪がシミーを起こすこと,ブレーキの過熱,補助翼フラッターの発生と言った問題もありました.
 この内,尾輪のシミーはゴム製のダンパーを用いる事で解決し,フラッターもマスバランス追加で解決に至りましたが,地上誘導のやりにくさは終始付き纏った欠点でした.

 結局,乗員配置については,指揮官や機長の立場からすれば前者が良いと言い,他の乗員の立場からすれば,前方に機銃射界の大きな死角になるのは困ると甲論乙駁.
 これが原因で中々生産が決定せず,1936年5月にやっと試作1~6号機の乗員配置に4号機で採用された「金星」3型,金属製ハミルトン・スタンダード製可変ピッチ3枚プロペラを採用した型が採用されました.
 これが後の九六式陸上攻撃機へと繋がっていくのです.

 因みに,採用された乗員配置については航法士や通信士が作業しやすくなり,大編隊の指揮官が僚機を指揮するのにも好都合でしたが,1940年以降の中国軍機や太平洋戦争中の連合軍機は,死角となる前方からの反抗戦を試みてきたため,かなりの犠牲を払うことになります.
 この為,現地部隊では操縦席後方の胴体側面に張り出し銃架を仮設し,胴体とプロペラの間を透かして前方を射撃するという苦肉の策を講じたりしています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2016/03/03 23:32
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 一式陸上攻撃機のヴァリエーションを教えてください.

 【回答】
・一一型(G4M1)
 火星一一型を搭載した最初の量産型

・仮称一三型(G4M1)
 高高度性能を向上させた火星一五型に換装した型

・二二型(G4M2)
 エンジンを火星二一型に換装,胴体と主翼も再設計した全面改修型

・二二甲型(G4M2a)
 胴体側方旋回機銃を20mmに変更し,H-6型捜索レーダーを追加

・二二乙型(G4M2b)
 二二甲型の上部旋回20mm旋回機銃を,短銃身の九九式一号銃から長銃身の九九式二号銃に変更

・二四型(G4M2A)
 エンジンを火星二五型に換装.

・二四甲型(G4M2Aa)
 二二甲型と同じ改修

・二四乙型(G4M2Ab)
 二二乙型と同じ改修

・二四丙型(G4M2Ac)
 二四乙型の機首前方機銃を7.7mmから13mmに変更し,空中レーダーを搭載

・二四丁型(G4M2E)
 桜花一一型懸吊母機型

・二五型(G4M2B)
 高高度性能を向上させた火星二七型に換装
 試作のみ

・二六型(G4M2C)
 燃料噴射装置を追加した火星二五乙型に換装
 試作のみ

・二七型(G4M2D)
 排気タービン過給器付きの火星二五乙型に換装した高高度型
 試作のみ

・三四型(G4M3)
 インテグラルタンクを廃止して防弾タンクを装備し,尾部銃座形状変更,水平尾翼への上反角追加等を改修

・三四甲型(G4M3B)
 輸送/対潜哨戒型

・三四乙型(G4M3a)
 上方旋回20mm機銃を長銃身の九九式二号銃に変更

・三四丙型(G4M3a)
 機首前方機銃を13mmに変更

・十二試陸上攻撃機改(G6M1)
 陸攻編隊の外縁に位置し,強力な防御火器で編隊を守る目的で開発された,所謂「翼端援護機」

・一式大型陸上練習機一一型
  構想失敗と分かった十二試陸上攻撃機改を練習機に転用

・一式大型陸上輸送機(G6M1-L2)
 構想失敗と分かった十二試陸上攻撃機改を輸送機に転用

 【参考ページ】
http://ktymtskz.my.coocan.jp/J/JP/attack5.htm
http://mmsdf.sakura.ne.jp/public/glossary/pukiwiki.php?%B0%EC%BC%B0%CE%A6%BE%E5%B9%B6%B7%E2%B5%A1
http://www.geocities.jp/harunask17/zero2/71g11.htm

mixi, 2016.8.13


 【質問】
 一式陸上攻撃機は,「一式ライター」「ワンショット・ライター」と揶揄されるほど発火墜落する機が多かったそうですが,それはなぜですか?

 【回答】
 直接的には,燃料タンクの構造上,効果的な防弾が難しかったこと,
 間接的には,予算制約の問題と,防弾よりも性能を優先したこと,そして戦訓が活かされなかったことによる.
 ただし,同世代の他国の攻撃機に比べて撃墜されやすいかと言えば,必ずしもそうとは言えないようだ.
 以下,ソース.

◇   ◇   ◇

「陸上雷撃機に必要不可欠な特性は,長大な航続距離と運動性である.洋上遠く飛行し,根気よく目標を捜索する能力,そして,いったん目標を発見したら,軽快な操作で望ましい接近コースに乗り,所定の姿勢で突入し,目標に照準する.
 このため,優れた操縦応答性が必要になる.
 武装は魚雷1本が最低条件だが,この他に防御火器が必要である.
 これだけの機能を持つ機体を選ぶのに,何基の発動機が必要かである.単発では絶対に駄目である.双発,全金属製機体,引っ込み脚として,戦闘機並みの速度と運動性を与え,必要な防御火器を備え,旅客機並みの航続距離を持たせなければならない.
 海軍の中攻〔中型攻撃機〕はこのために防弾鋼板を省略して燃料を搭載したのである.まさに攻撃手段のみで,残存性無視の攻撃機であった」

(航空ジャーナリスト是永明彦,「丸」 '02 Mar.)

 したがって,発火墜落し易いのは一式だけでなく,96式にも共通の特徴で,
「昭和12年のシナ事変の勃発以降,大陸で〔96式陸攻は〕作戦参加することになるが,爆撃中,敵戦闘機の要撃による損失が予想を越えていたのである.世界に類例のない高性能機が,寄せ集めの敵戦闘機に思うままに痛めつけられ,大損害を受けることは,全く予想していなかったと思われる.
 原因ははっきりしていた.防御火器の欠陥と貧弱な防弾装置にあった」
「96陸攻の防弾能力についても,被弾すれば必ずといっていいほど発火墜落する機が多く,残存性を高める処置が緊急に求められているにも関わらず,対策を採られることは殆どなかった.
 防御火器も,第1次大戦並みの7.7mmでは敵戦闘機は平気で接近してくるので,13mm機関銃に代えてほしいという要望も取り上げられなかった」(同)
 一式の場合,
「三菱の設計主務者,本庄季郎氏から,
『計画要求書から判断して,双発機で長大な航続力と高速性能を実現するのは無理で,防弾装備を備えた4発機にしてはどうか?』
との提案がなされたが,海軍は4発機にする考えはないとして提案を拒否したという.(学習研究社『帝国海軍 一式陸攻』によれば,『予算と生産能力がまず立ちはだかり,さらに技術的問題によって,海軍航空隊の主攻撃力は双発の中攻によって構成せざるをえなくなった』ことが,4発化に頑として海軍が応じなかった理由であるという)
 機体構成上,最初に決める必要があるのは,6000リットルの燃料タンクで,爆弾倉や上方銃座との兼ね合いから,非常手段として主翼内のインテグラル・タンクとなった.すなわち主翼構造を水密にして,そこをそのまま燃料タンクとする方式だった.
 結局これが本気の致命的弱点となり,被撃墜数を増やす原因となるのだった」

(同)

 このインテグラル・タンクは,
「通常の燃料タンクよりも主翼内部の容積を効率良く利用できる他,主翼強度も向上する一挙両得の着想だったが,翼外板が燃料タンクの上下面を兼ねるため,既存の方式の防弾タンクとすることができない上,被弾損傷時の燃料タンク交換が不可能で,修理そのものも非常に困難という欠陥を併せ持っていた.
 インテグラル・タンクの燃料漏洩と修理の困難さは,昭和13年6月の計画一般審査の段階で,既に問題視されていたが,他に計画要求を達成する方法がないと判断され,燃料漏洩問題研究のための供試体の製作と,各タンクへ人の入りうる作業口を設けることなどが決められている」(『帝国海軍 一式陸攻』,学習研究社)
 そのため,インテグラル・タンクへの防弾ゴム装着は,最初の生産型である11型では前後左右の壁面に限られ,上下面は無防備であり,被弾による火災の危険性が高かった.(同)

 更に,海軍航空本部技術会議の「十二試陸攻計画要求に関する件」議事摘録を読むと,昭和11年海軍採用の20mm機銃が,海軍にとって「もはや対抗不能の究極の機関銃として扱われている様子が見て取れる.
『20mm機銃を持つ敵戦闘機に遭えば,防御も単なる気休めとなる』
という発言は,それをよく表しているだろう.自軍が導入しつつあった大威力の新兵器の性能に見合った防御を見積もったが,その必要重量の大きさが,当時の常識を越えてしまい,防弾装備自体を諦めつつある様子が見られる」

(『帝国海軍 一式陸攻』,学習研究社)

 その後,昭和18年以降,防弾ゴムを追加可能な主翼下面に対して防弾ゴム貼付けと,戦闘前に機関席からバルブを操作して,燃料タンク前後の機密区画に二酸化炭素を充填する応急消火装置の装備が実施される.防弾ゴム貼付けは確かに効果を挙げ,被弾時燃料漏洩を最小限に留め,火災防止にも役立ったが,空力的犠牲が大きく,速度低下と航続距離短縮といったデメリットも目立つものだった.
 更に同年春からは,火災発生を電気的に感知すると,自動的に二酸化炭素噴射が瞬時に行われる,自動消火装置が装備され始める.
 G4M2(制式名称2型)では,カネビヤン皮膜の内袋式防弾タンクが導入予定だったが,耐油性のカネビヤンに材質的な問題があって,これは量産は行われずに終わり,防弾装備が後期の11型の水準と全く変わらない22型は,第一線部隊からは,
「飛行機の性能,特に火力及び防御力(主として火災防止)に於いて甚だしく劣る」
と厳しい評価が下されている.

 続くG4M3(34型)は,遂にインテグラル・タンクと決別して主翼を単桁構造とした.これは,主翼の翼型をG4M2で採用した層流翼型のまま,構造だけを変更し,その内部に防弾タンクを装備するためで,一式陸攻の,飛行機として持っていた構造上の利点を捨てる改造だった.
 しかし,カネビヤン・タンクは開発が間に合わず,外装式防弾タンクを装備.
 結果,G4M3は防弾は強化されたが,一方,タンク増設によって「急所」の面積はかなり増大してしまう結果となっている.

(同,要約抜粋)

 中村友男海軍中佐の評価によれば,以下のようだったという.

2 空戦時の性能
 貧弱な火力と脆弱な防御力

 支那事変緒戦から大東亜戦争末期まで中攻に搭乗し,各時代各地での空戦を体験して来た自分としては,中攻は対戦闘機空戦にはきわめて脆弱な機種であったと言わざるを得ない.
 そのの原因の最たるものは,日本海軍の伝統的な思想とは言え,如何にも防御が脆弱であり,敵をして「ワンショットライター」と言わしめるほど火災を起こしやすかった点であった.
 次の弱点は搭載の主力機銃が七・七mmと第一次戦末期並みの性能であり,支那事変緒戦から十三mm搭載の戦闘機によって手痛い被害をうけた戦訓を持ちながら,機銃の改装が遅れ,八年間の空戦体験の最後まで十三mm機銃が装備されなかったことである.
(中略)
 ガソリンを噴出する機や編隊両翼端機を集中され,引火自爆機を生ずることが多かった.
 ガ島攻防戦の中頃に防弾ゴムを装備し炭酸ガス自動消火装置を装備した機体が来たが,これとても比較的効果は薄かった.

海空会編『海鷲の航跡』,原書房,1982/10,P82-83

 一方,それほど脆いとは言えない説の根拠としては,
・ガダルカナル島作戦時での一式陸攻の損失率は,1出撃当たり8~10%で,バトル・オブ・ブリテンにおけるドイツ軍爆撃機の10~14%より高いこと,
・ガ島展開の海兵隊戦闘機隊パイロットの中には,一式陸攻の高高度性能と防御火力が優秀であったことを,苦々しく回想している者も数多いこと,
・自動消火装置装備などで,一式陸攻の防御上の欠点がある程度改善されたこと
がある.

 本機が脆いという印象を持たれたのは,
 ・連合軍側から見れば緒戦の,1942年2月20日,ラバウル沖の第11機動部隊(空母部隊)への攻撃で,大多数が撃墜されたこと,
 ・その後も,例えば珊瑚海海戦における第44機動部隊(巡洋艦部隊)への攻撃等,対艦攻撃時にも多数が撃墜されたこと,
 ・ガダルカナルやダーウィン上空において,米戦闘機隊が過大な戦果を報告し続けたこと,
 ・分母となる航空部隊の元々の機数が少ないため,1出撃当たりの損失数が少数でも,損失が継続した場合には,戦力が著しく減少し,また,対艦攻撃時などで一度でも大損害を蒙ると,飛行隊が即時閉隊となるような状況であったこと,
 ・1943年後半以降になると,敵戦闘機の性能が護衛機,零戦に優るようになり,加えて高高度域での性能が向上,敵戦闘機数が日本軍攻撃隊の数を圧倒するようになった結果,高高度進攻でも大きな損失が出るようになったため,
が要因であると考えられる.

 第44機動部隊への攻撃は,近接対空火器が充実した艦艇に対し,大型機で雷撃を行うこと自体が自殺行為に等しいことを示す警鐘となったが,この戦訓は活かされることなく終わり,ガダルカナル島争奪戦では「一式陸攻の墓場」と称されるほど,対艦攻撃で陸攻隊は大損害を蒙っている.第3次ソロモン海戦では,ラバウルの陸攻隊が一時的に壊滅したほどである.

(同,抜粋要約)

一式陸攻最終型(嘘)
(画像掲示板より引用)



 【質問】
 カネビアン・タンクはどんな評価をされていたのか?

 【回答】
 不完全なもので,比較的効果は薄かったという.
 以下引用.
 私〔本庄季郎技師技師〕はこのカネビアン内袋による防弾タンクは不完全なもので,全然無防備のものより,発火までに敵弾の発射数が多少多くなる程度のものではなかったかと思う.

海空会編『海鷲の航跡』,原書房,1982/10,P58

中村友男海軍中佐の評価

 ガ島攻防戦の中頃に防弾ゴムを装備し炭酸ガス自動消火装置を装備した機体が来たが,これとても比較的効果は薄かった.

同,P82-83


 【質問】
 一式陸上攻撃機は最初,編隊擁護機の道を探って寄り道したために,正式採用されるのが遅れたと聞いたのですが,実際に機銃を多数装備した編隊擁護機などは実投入されたのでしょうか?

 【回答】
 実用化され,30機ほどが使用されています.
 しかし重量過大,鈍重で操縦性が悪く,防弾でタンク容量の25%が減っていたので,戦果が挙がらず,結果的に練習機に改造され,最後は降下部隊用の輸送機に改造されてしまいました,

眠い人 ◆gQikaJHtf2
青文字:加筆改修部分

 ちなみにアメリカも,第二次大戦ではB17改造の編隊護衛機,ベトナム戦争ではCH47改造機を実戦に試験投入して,多大な被害を出している.
 歴史に学ばなかった典型例だな.

青文字:加筆改修部分


 【質問】
 「瑞雲」について教えてください.

 【回答】
 航空兵力で劣勢となってきた日本海軍が,急降下爆撃機としても使える水上偵察機を作ろうという目的で開発させたのが,この飛行機.
(どんな水上偵察機でも,急降下爆撃機として使えるわけではないのだ)
 1940年2月,愛知航空機に対して試作指示が出されたものの,強度とのバランス対策に長い道のりを要し,ようやく1942年3月に試作1号機が完成.
 瑞雲11型 E16A1として制式採用されたときは,1943年8月になっていた.
 総生産数は約220.
 実際には艦載爆撃機として使われる機会は殆どなかったが,本機が配備された第634航空隊は,フィリピン・沖縄方面において,特攻に依らない通常攻撃で一定の戦果を挙げた,数少ない航空隊の一つとなった.

 【参考ページ】
http://www.ne.jp/asahi/airplane/museum/cl-pln5/zuiun.html
http://www2u.biglobe.ne.jp/~surplus/tokushu17.htm
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/3853/jnrs/jnrsC232g.htm
http://military.sakura.ne.jp/ac/paul.htm

二面図
(こちらより引用)

戦後,米軍に接収された「瑞雲」
(画像掲示板より引用)

【ぐんじさんぎょう】,2013/07/29 20:00
を加筆改修


 【質問】
 「南山」とは,潜水艦搭載用水上攻撃機「晴嵐」の陸上機型につけられた名称?

 【回答】
 「南山」は,「晴嵐」より前の,最初に予定されていた名称である可能性が高い.
 以下ソース.

------------
 1944年11月20日付の「航空機ノ名称」では,実験機の項に試製晴嵐と試製晴嵐改の二つの名称が掲げられている.
 試製晴嵐の欄の内容は,1944年4月7日付の「航空機ノ名称」のものと同じく,「特殊機(潜水艦用)(AE1P装備)」と記されている.
 一方,試製晴嵐改については記事の欄に,「試製晴嵐ヲ陸上用トナセルモノ」と記されている.

 また,1945年4月に航空本部が作成した「海軍飛行機略符号一覧表」でも,水上機型が試製晴嵐(M6A1),陸上機型が試製晴嵐改(M6A1-K)となっている.

 ところで晴嵐は,昭和17-19年度「実用機試製計画」の最初の案では含まれていなかったが,伊400型計画具体化により,1942年(昭和17年)6月12日付の案では,愛知17試特攻として盛込まれており,一般的には17試特殊攻撃機と呼ばれているが,例えば陸上機型の計画説明書など,開発段階の文書では単に「17試攻撃機」と記されている.

 当時,愛知飛行機に勤務しておられた方などの証言によると,南山は最初,この17試攻撃機に予定されていた名称である可能性が強い.

------------秋本実「第二次大戦 日本陸海軍飛行部隊史42」,航空ファン '99年2月号

 どのような経緯で,それが晴嵐に変更されたのかは,データ不足につき編者には不明.

晴嵐
faq01k05s.jpg
faq01k05s02.jpg
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 「銀河」について3行で教えてください.
Kérem, mondja el "Ginga (Galaktika)"a három sorban.

 【回答】
 陸上爆撃機「銀河」(P1Y)は,零戦と同じくらい速く,一式陸攻と同じくらい長い距離を飛び,水平爆撃と急降下爆撃ができ,雷撃もでき…という,歌って踊れるマルチタレントのような性能を要求された爆撃機.
 1940年,空技廠にて開発が始まったが,海軍のオーダーが上述のように無茶だったので開発は難航し,戦争末期の1944年にようやく制式採用.
 高性能を追及し過ぎて機体や発動機の構造が複雑になり,生産性・整備性は芳しくなかったが,一部の部隊では急降下爆撃で空母「フランクリン」に廃艦寸前の大ダメージを与えたり,夜間戦闘機に改造された機体(通称「極光」)がB-29相手に奮戦するなどした.

 【参考ページ】
http://karen.saiin.net/~buraha/P1Y.html
http://military.sakura.ne.jp/ac/frances.htm
http://rikukaigunki.nobody.jp/kai-seisiki/ginga.html
『丸メカニック No.23 陸上爆撃機「銀河」』(潮書房,1980)

 【関連リンク】
http://igaiga-50arashi.at.webry.info/201309/article_3.html

【ぐんじさんぎょう】,2016/08/15 20:00
を加筆改修


 【質問】
 「銀河」の派生型を教えてください.
Kérem, mondja el a "Ginga" variációja.

 【回答】
 以下の通り.
 仮称とある場合は,良くて試作止まり.

・十五試陸上爆撃機 (P1Y1)
 試作型.
 「誉」一一型発動機(離昇1,825馬力)を搭載
 試作機は増加試作機を含め,十数機作られたが,どれも細部はかなり異なる
 1~3号機は集合排気管
 増加試作の4号機以降は推力式単排気管

・一一型(P1Y1)
 最初の生産型.
 「誉」一一型,または高高度性能を向上させた「誉」一二型を搭載
 試作機では引き込み式だった尾輪を固定式に変更

・一一型(P1Y1)後期生産型
 風防形状を変更し,H-6型レーダーを追加
 細部は数次にわたり改修されている

・一一甲型(P1Y1a)
 一一型の後上方機銃を二式13mmリ旋回銃に換装

・仮称一一乙型(P1Y1b)
 一一型の後上方機銃を動力式の仮称四式13mm連装銃に換装

・仮称一一丙型(P1Y1c)
 一一型の前方機銃を二式13mm旋回銃に換装
 電探を装備

・仮称一一型改丙戦
 「極光」の別名

・仮称一二型(P1Y4)
 「誉」二三型(離昇2,000hp)搭載
 未領収

・仮称一三型(P1Y4)
 「誉」二一型(公称1,860hp)搭載
(試作3号機の胴体下面にツ-11型ジェット・エンジンを搭載したエンジン・テスト機を仮称一三型とする資料もあり)

・仮称一四型(P1Y5)
 「ハ43」一一型(離昇2,200hp)搭載
 未完成

・仮称一五型(P1Y2)
 「火星」二五甲型(離昇1,850hp)搭載

・仮称一六型 (P1Y2)
 夜間戦闘機としては性能が不足していたため,試製極光を再改修して爆撃機に戻したもの
 発動機を火星二五型に変更

・仮称一六甲型(P1Y2a)
 一一甲型に「火星」二五甲型を搭載

・仮称一六乙型(P1Y2b)
 仮称一一乙型に「火星」二五甲型を搭載

・仮称一六丙型(P1Y2c)
 仮称一一丙型に「火星」二五甲型を搭載

・仮称一七型(P1Y6)
 「火星」二五乙型(離昇1,850hp)搭載
 未領収

・仮称二一型 (P1Y1-S)
 一一型の夜間戦闘機型
 「白光」とも称す

・仮称二六型
 「極光」の別名

・仮称三三型 (P1Y3)
 発動機を誉二一型(離昇1,990馬力)に変更,主翼をやや大型化し,胴体を太くして副操縦員席を追加した性能向上型
 設計中に終戦

・銀河改
 一一型の発動機を「ハ」11型に換装し,一部を鋼製化

・試製極光 (P1Y2-S)
 夜間戦闘機型
 火星二五型を搭載し,20mm斜銃2挺を追加

・試製白光 (P1Y2-S)
 仮称二一型の別名

・多銃型
 B-29基地攻撃用に,胴体内に下向きに20mm機銃20丁を装備した特殊機

 【参考ページ】
http://military.sakura.ne.jp/ac/frances.htm
http://www.amigo2.ne.jp/~ms06s/j9.html
『丸メカニック No.23 陸上爆撃機「銀河」』(潮書房,1980)

mixi, 2016.8.15


 【質問】
 深山は大戦中は輸送機として使われていたそうですが,一体どの期間,どの地域で運用されていたのでしょうか?

 【回答】
 1943年に6機中4機が輸送機として改造(LX)され,1021航空隊に配属,南方地域の航空艦隊へ兵器や部品の補給輸送に使用されています.
 ことに長大な爆弾倉には魚雷2本が格納出来たため,深山は魚雷運搬機の異名を付けられていたそうです.
 しかし,1945年に入ると,敵機動部隊の跳梁で飛ぶに飛べず,入れる格納庫もないため,野ざらし状態で,囮として利用されています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2007/01/21(日)

 「戦史叢書 中部太平洋方面陸軍作戦<1マリアナ玉砕まで」には,昭和19年6月中旬におけるテニアン島所在の第1021航空隊(第1航空艦隊所属)兵力として,遠爆(深山)1,陸攻2,ダグラス6との記述があります.
 1000番代の航空隊は輸送機部隊ですので,深山の試作機が輸送機として使用されていたと思われます.

 また,記憶モードですが,朝日新聞社の『航空70年史』下巻によれば,深山はその大きさをいかして,魚雷の輸送に用いられたと書いてありました.

青文字:加筆改修部分


 【質問】
 過給器付「彗星」について教えられたし.

 【回答】
 これは「彗星」12型を改造した排気タービン過給器型で,12戊型(夜間戦闘機型)の強化を目指すもの.
 改造は空技廠/第1技術廠の飛行部と発動機部が担当.
 排気管から,爆弾倉内に置いたタービンへ排気を送るためのダクトや,翼根部に新設された過給器用空気吸入口などがとりつけられた.
 写真では,横須賀航空隊の「ヨ-257」号機が確認できる.
 実験準備中に敗戦を迎えたという.

 改造の効果などは現在も不明だが,渡辺洋二は,
>ターボ過給の技術自体が未熟な日本で,腺病質的な傾向のアツタ32型に試みても,
>成功したとは思われない
と述べている.

 詳しくは『世界の傑作機69 海軍艦上爆撃機「彗星」』(文林堂,1998.3.1),p.20,33を参照されたし.


 【質問】
 晴嵐の性能って,当時の水準から言ってどうなの?
 実戦に参加してないせいか,他国の水上機より優れていたor劣っていたという話を聞いたことがありません.
 実戦に参加してなくても試験はしてるはず.
 その際の評価はどうだったの?
 また,日本が苦手な液冷エンジンを搭載してますが,故障頻度とははどうだったの?
 あと晴嵐改(南山)はどうだったの?

 【回答】
 少数生産機なので,液冷の整備の難しさは特に問題視されてません.
 1機1機丁寧に整備すればよいということで.
 彗星も最初はそうだったんですよ.
 空母用だけの予定だったから.
 陸上でも使うことになって大量産が図られたことから,整備性が問題になったんです.

 性能のほうは,はっきりいって同時代の他国機と比べて図抜けてます.
 急降下爆撃や雷撃できる水上機ってのは,ものすごく特異ですよ.
 単純に搭載量1トン近いってのも他に例がありません.
 ただね,他国はこんな方向に水上機を進化させる意図そのものを持ってなかったわけで.


 【質問】
 万能攻撃機「流星」が戦果を挙げれなかったのは機体の性能のせいではなく,乗りこなせるベテランパイロットの不足のせいだったからなんでしょうか?

 【回答】
 登場した時期が遅すぎた上に,もはや航空攻撃で戦果を挙げうる状況になかったからです.

 流星は生産機数も少なく(111機),装備部隊も横須賀空と攻撃第5飛行隊くらいです.
 しかも攻五が流星に改編を始めたのが,昭和20年の3月に入ってからで,本土決戦のために温存されたこともあって,7月末まで出撃はしていません.
 攻五は7月25日,英空母フォーミダブルに薄暮雷撃を敢行したのを皮切りに,8月9・13・15日に敵機動部隊攻撃に出撃しました.
 しかし,いずれも戦闘機の援護無しで出撃を行ったために,戦果もなく,出撃機のほとんどが未帰還に終わり,特攻攻撃として扱われています.

名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE in 軍事板
青文字:加筆改修部分


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