c

「第二次大戦別館」トップ・ページへ

「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ   サイト・マップへ

◆◆◆◆◆爆弾類
<◆◆◆◆◆攻爆撃
<◆◆◆◆航空機
<◆◆◆装備
<◆◆航空 目次
<◆太平洋・インド洋方面 目次
<第二次世界大戦FAQ


 【link】

「2ch.軍事板」◆(2003/03/11〜) 風船爆弾について語ろうよヽ(`Д´)ノ
 レス回収済

朝目新聞」●風船爆弾の心臓部「高度維持装置」 国立科学博物館に寄贈へ  (of アルファルファモザイク)

『風船爆弾 純国産兵器『ふ号』の記録』(吉野興一著,朝日新聞社,2000/10)

 開発・生産体制のことが詳しく載っていて,面白いことは面白いんだけど,最後のほうにある,アメリカの風船爆弾の犠牲者,それに対する謝罪の記述が,いかにも朝日新聞的でウンザリします.

------------軍事板,2001/01/26(金)

 【質問】
 インターステートTDR-1とは?

 【回答】
 『異形機入門 究極の機体徹底研究』(飯山幸伸著,光人社NF文庫,2004.6)p.385によれば,アメリカでは1938年から無線誘導式の攻撃用無人機(アソールト・ドローン)の研究開発が行われていたが,参戦後に実戦運用を目指して作業が本格化.飛行特性や様々な機器類の整合性などのテストを受け,TDR-1は実戦で使用される事になります.
(なお,テスト飛行や前線までの回送は有人で行っている)
 作戦行動時にはコクピットなどは撤去し,代わりに電波送受信用のアンテナを複数取り付けます.
 誘導電波に従って離陸(離陸後は三車輪式の膠着装置を投棄),随伴機のグラマン・アベンジャー雷撃機からコントロール・プレーン・パイロットが無線誘導で長躯飛行.
 TDRの機首に取り付けられたテレビカメラが標的を捕らえると送信してくる画像を,モニタリングしていたドローン・コントロール・パイロットが誘導を引継ぎ,画像をにらみながらTDRを標的へ向けて誘導し突入させます.
 …これは湾岸戦争やイラク戦争の話ではなく,60年以上昔の話です.

要目:ライカミングO-435-2(200馬力)×2 全幅15.24m 全長10.97m 最大速度225km/h 武装907kg爆弾または航空魚雷

 TDR-1はソロモン諸島北部やラバウルに投入され,船団攻撃の時には11km離れた所からコントロールしたとか.1944年9月27日から10月26日かけてブーゲンビルやラバウルを目標にした作戦では46機中34機が突入に成功したそうです.
(9機は故障や電波障害の為,攻撃断念)

 ほぼ同時期,日本は比島決戦を戦っており,1944年10月17日に海軍特別攻撃隊の編成命令がくだり,25日敷島隊が出撃,突入しています.

 日本でも戦前に94式水上偵察機に遠隔操縦装置を装備した無人機が開発されていますが,コストがかかりすぎる,という理由で実用化されていません.
 本書では,これが実用化され,低廉化されてたら…としていますが,個人的に当時の日本の技術力を考えると…ちょっと….
 一方では十分な距離をとった所からテレビカメラで確認しながら誘導し,一方では命中するまで人間が操縦し…
 なにも言えなくなりました.

グンジ in mixi,2008年09月15日17:52
青文字:加筆改修部分

TDR-1
faq01b04.jpg
faq01b04b.jpg


 【質問】
 日本に「フリッツX」のような誘導爆弾は存在したのでしょうか?
 また,それは実用可能な性能を持っていたのでしょうか?

 【回答】
 大戦末期陸海軍ではいくつかの誘導弾の開発が行われていた.
 B-29を撃墜することを目的とし,地上から敵機に照射されたレーダービームを感知し自ら進路を修正しながら飛ぶ地対空誘導弾「奮竜」
 飛行機から投下され,赤外線感知機で進路を修正して海上の熱源(敵艦)に向かって無動力で落下する誘導弾ケ(○にケと書く)
 飛行機から発射され,ロケット推進で母機の無線誘導で敵艦に突入する空対地誘導弾三菱イ号一型甲および川崎イ号一型乙.
 イ号一型甲はジャイロ安定装置や搭載無線機器の調整が難しく,満足な結果は得られなかった.
 イ号一型乙は実用可能の評価が下されているけど,ドイツのフリッツに比べると,見劣りする.
 なお,このイ号一型乙は,熱海沖で行われた試験中に誘導不能となり,よりによって温泉旅館の女湯に突入するという事故をおこした.
 このためエロ爆弾などというあだ名がついたとも.

 そして,いずれも,
奮竜は実用型の発射試験前日に終戦,
イ号は戦局の悪化で生産中止,
などの事情で,実用化されたものは存在しなかった.

 なお,誘導弾ケの開発には,当時,中島飛行機設計室にいた糸川英夫も関わっている.

軍事板,2004/10/15
青文字:加筆改修部分

 ちなみに,永井荷風の日記から,1944年12月6日の条

「終日細雪執筆.午後警報発令ありたるもB29一機帝都上空を東南へ通過せるのみにて直ちに解除となる.
 夕刻蒸気療法に行く,
 風説に依れば,神田は美土代町より鎌倉河岸まで焼け抜けたる由なり,
 本日夕刻より雨となる,
 昨日の熱海火事は,玉の井旅館の由にて何か飛行機が落ちたのだ,との噂専らなり」

 …エロ爆弾の話ですね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi支隊


 【質問】
 ケ号吸着爆弾
 イ号一型甲・乙
を,それぞれ試験した結果をあちこちのWebサイトで見かけますが,試験成績良好とか最悪とかてんでバラバラです.
 有名なエロ爆弾のエピソードについても,サイトごとに該当する誘導弾がまったく異なる始末です.
 いいかげんな孫引き・曾孫引きの末に,こんな無茶苦茶になっているんでしょうが,それぞれの実際の成績はどうだったのでしょうか?

 【回答】
 ケ号については資料がないので判らないですが,イ号一型甲無線誘導弾,一型乙無線誘導弾は,航空技術研究所大森技術中佐の担当で,機体を甲型は三菱,乙型は川崎が担当し,ロケット動力は三菱担当となっていました.
 甲型は四式重爆撃機を母機とし,弾頭に海軍用800kg桜弾用弾頭搭載の大型で,四式重爆撃機の胴体下に懸吊し,目標から約11km離れた高度700〜900mより投下,0.5秒後に安定装置作動,1.5秒後にロケットを点火,加速し,母機は目標4km手前まで追尾しながら無線操縦して目標に命中させると言うコンセプトの兵器でした.
 この開発担当主務者は,四式重爆撃機の小沢久乃丞技師で,1944年8月試作開始.
 10月に一号機,11月に試作10機を製造し,以後は日本車輌で数機を製造しました.

 この試作機や生産機を用いて投下試験を行いましたが,ジャイロ安定装置,操舵装置に調整項目が多く,実際の使用に至らず,しかも,米軍との戦闘の戦訓から,敵機動部隊の4kmを敵戦闘機の攻撃を回避しつつ誘導するなどど言う芸当は生還が不可能であると言う結論に至り,敗戦に至る前に実験研究は打ち切られています.

 乙型は300kgタ弾を弾頭にした小型版で,九九式双発軽爆撃機,キ−102を母機にしています.
 発進と誘導は甲型と同じ方式です.
 こちらは,北野純技師を開発担当主務者に,陸軍航空技術研究所の黒田技師(キ93の設計者)の応援を得て,7月設計に着手.
 10月に滑空試験用原型機を完成し,以後滑空型と動力型の増加試作機30機を製造し,11月から茨城県阿字ヶ浦海岸,次いで神奈川県真鶴海岸で投下試験を繰り返し,横安定不足その他の対策が実施された結果,実用可能な線までに至り,予想命中率は敵戦艦,空母に対して75%となりました.

 この間,1945年2月に電波高度計を取り付けて舵面と連動して一定高度(最終状態で7m)を維持する試験を実施中,網代上空から真鶴海岸に向けて発射した一発が,無線操縦装置故障によって,伊豆山にある観測陣の目の前で方向を変え,熱海市にの玉の井旅館に突入して,女中と旅客を殺傷し,旅館を全焼させる事故を起こしています.

 以後,試験は滋賀県琵琶湖に移され,白石を目標として7月まで行われました.
 生産は川崎の明石工場で6月まで行われましたが,6月下旬から7月にかけての明石工場を目標とした空襲で工場が壊滅し,生産は中止されました.
 但し,生産中止については,甲型と同じく,母機が輪形陣内4kmまで突入し,生還することは不可能であること,また,最終突入速度が550km/hと零戦並みで,容易に撃墜される可能性があったことが上げられています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/05/30(月)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 日本が開発していたロケット爆弾についてご存知の方,教えてください.
 25番と50番の2種類があったと聞いた記憶があるのですが.

 【回答】
 戦争の進展で急降下爆撃の戦果が挙げられにくくなって居たため,開発されたもので,実際に製作されたものは3式25番4号と50番4号の二種類です.
 これらは250kgまたは500kgのロケット推進の徹甲爆弾でした.
 しかしながら,ロケット着火のタイミングが難しく,50番4号は試作と試験のみ,25番4号爆弾が100発程度製造されて,部隊に供給されましたが,実際には使用されずに終わったみたいです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 投稿日:2007/04/22(日)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 「桜花」について,3行で教えてください.

 【回答】
 MXY7「桜花」は,日本海軍が1944年に開発した一人乗りのロケット航空機であり,機首部に大型徹甲爆弾を搭載し,敵艦に体当たりしようという特攻兵器.
 陸上攻撃機に吊るされて目標付近まで運ばれ,そこで母機から分離,発射されて,パイロットが自ら誘導して目標に体当たりする,という代物.
 実際には,母機が敵艦近くまで近づけるチャンスは少ないため,殆ど戦果は挙がらず(駆逐艦一隻撃沈,数隻損傷),人命(430人)と資材の無駄使いに終わっている.

 当たって嬉しいのは,桜花賞だけで十分.

 【参考ページ】
http://www.biwa.ne.jp/~yamato/plane.htm
http://www.geocities.jp/torikai007/1945/kaiten.html
http://www.nhk.or.jp/shogenarchives/special/vol4.html

三面図
(こちらより引用)

ペーパー・クラフト
(画像掲示板より引用)

【ぐんじさんぎょう】, 2013/07/05 20:00
を加筆改修


 【質問】
 桜花を大型化して,射程を延ばせなかったんでしょうか?

 【回答】
 何のために長射程化させるのでしょう?
 運動性の悪い母機ごと落とされるなら,迎撃できない速度で飛ぶ桜花を長射程かさせようと言う事ですか?
 その桜花はレーダー等の装備を積まず,一人乗りの機体にして高速を実現させている面があります.
 高速のまま一人で敵艦隊の策敵なんかやってられません.
 目視線が通る以上の射程は不必要なので,その辺りは母機に任せている訳です.

 また,ロケットエンジンは燃料を大量に食います.
 長射程化すると,燃料を食って機体が軽くなるまで,燃料の重量を加速するための推力が必要になります.
 母機の搭載上限まで桜花に燃料を積んでも,そんなに射程は延びないように思います.

軍事板

 ただ,当時の精神的にも物理的にも末期的症状を呈していた海軍に,上記のような正論が通じる余地は非常に少なく,質問者が言うような,航続距離を延ばしたタイプの「桜花」も,実際に計画された.

 一つは「桜花」二二型と呼ばれ,ロケットに換えて,モーター・ジェットを搭載したもの.
 もう一つは「桜花」四三型と呼ばれ,ロケットに換えてジェット・エンジンを搭載し,機首の爆弾重量も600kgに減らすことにより,200km近い航続距離を得ようとしたもの.
 こちらは,陸上からカタパルトで発進する予定だった.

 前者は試験段階,後者はモックアップ段階で終戦を迎えているのは,不幸中の幸いか.

「桜花」四三型
(画像掲示板より引用)


◆◆◆◆◆風船爆弾


 【質問】
 風船爆弾とは?

 【回答】
 爆弾を搭載した風船をジェット気流に乗せてアメリカ本土まで飛ばし,爆撃しようとした兵器.
 以下,抜粋要約.

--------------
 戦前の研究で,強いジェット気流が西に向かって吹くことがわかっていたので,これに乗せてアメリカ西海岸に向けて飛ばそうという爆弾.50〜60時間かかって西海岸に到達する計算だった.
 正式呼称は「富号試験」だが,機密保持目的で「ふ号作戦」という秘匿名で呼ばれた.
 開発担当は,東京郊外,登戸にあった第9陸軍技術研究所.ここは通例「登戸」「9研」と呼ばれた.

 この爆弾で,太平洋岸に山火事を発生させようというものだが,アメリカとカナダにおける人心撹乱という狙いも秘められていた.
「効果はあまりなかったが,着想は実に素晴らしい」
という表現が,アメリカ側の文献に見えている.

------------(吉田一彦〔第二次大戦情報戦史家〕 from 「疫病最終戦争」,ビジネス社,2001/12/20,p.61,)

▼ 計画は次のようなものだった.

-------------------------
大本営命令(昭和19年)

 気球連隊は米本土に対し,気球をもってする攻撃を開始すべし.
 実施期間は十一月初頭より明春三月頃までと予定するも,状況により之が終了期間を更に延長することあり.
 攻撃開始は概ね十一月一日とす.
 但し十一月以前に於ても,気象観測の目的を以て試射を実施することを得.
 試射に当りては実弾を装着することを得.
 投下物料は爆弾及び焼夷弾とし,その概数次の如し.
十五瓩爆弾 約 7500個,
五瓩焼夷弾 約30000個,
十二瓩焼夷弾 約7500個
 放球数は約15000個とし,月別放球標準概ね左の如し.
11月 約500個とし,五日頃までの気球数を努めて大ならしむ.
12月 約3500個,
1 月 約4500個,
2 月 約4500個,
3 月 約2000個
 放球数は更に約1000個増加することあり.
 放球実施に当りては,気象判断を適正ならしめ以て帝國領土並びに「ソ領」への落下を防止すると共に,米穀本土到着率を大ならしむるに努む.
(中略)
今次特殊攻撃を「富号試験」と呼称す.
-------------------------

軍事板,2003/03/11
青文字:加筆改修部分

 尚,風船爆弾は非常に巧妙な制御装置を用いています.
 これにはアメリカ人も舌を巻きました.
 テストが実質行なえないにも関わらず,日本からアメリカ本土まで正確に風船を飛ばした,この制御装置の成功は,日本の気象学のレベルの高さを表しているとおもいます.

 また,コンニャク和紙製風船爆弾は,ネバダ砂漠のど真ん中のプルトニウム製造用原子力のある秘密研究所への送電線を切断し,1日程度停電にして機能停止させたそうな.

 ある意味,すごい兵器です.

軍事板,2000/09/07(木)
青文字:加筆改修部分

 先日,櫻井誠子さんが書かれた「風船爆弾秘話」と言う本を読んでいました.
 元々は,学徒動員で風船爆弾を作っていた共立学園の女子生徒のことを書こうと取材を進めていくうち,風船爆弾そのものに研究の対象が移り,その全貌を解き明かそうとした力作です.

 当初,陸軍は大陸からシベリアに向けての宣伝ビラ配布のため,海軍は1943年に中央気象台に勤めていた人から持ち込まれたアイデアで,大洋横断の気球爆弾の開発のため,其其別々に開発を進め(例によって何時ものパターン),その後,珍しく両者の利害が一致して,海軍案が陸軍案に吸収される形で実用化に漕ぎ着けたものです.

 陸軍の気球は,和紙を蒟蒻糊で球形にしたもの,
 海軍は羽二重にゴム引きで,後者の方が当然性能は良かったのですが,物資不足の折から,量産化に際しては前者の方が勝っていたため,陸軍の風船が採用された訳です.

 その和紙は,当初,埼玉県小川町で作られ,当初は一日200枚,後に500〜1000枚に上り,最初の頃は出来るだけ薄く,だった要求も,大きさや厚さについては余りとやかく言われることは無くなったとか.
 一つの気球に使われたのは,600枚の和紙で,一枚6尺×2尺2寸の紙に別に漉いた2尺2寸四方の紙を3枚並べて貼り,二層にした物.
 その接着は蒟蒻糊で,群馬県下仁田の産.
 これを蒟蒻1に対し水25の割合で混ぜて糊状にしたものを20数回塗り重ねたそうな.

 その後,いわきの遠野和紙,福井の越前和紙,関東の小田原和紙など,日本全国の和紙生産地が総動員され,瞬く間に障子紙や蒟蒻が店頭から姿を消しました.
 当初は手漉き和紙を用いていたのが,1944年末から機械漉きの和紙が開発され,量産体制に入り,米軍は緊張の度を増したと言われています.

 また,航法装置も,当初は高度計と砂袋を連動させて,放球されてから一定の高度に達した後,夜になって高度が下がると,予め決められた高度で,火薬に点火して砂袋を落として高度を戻す方式だったのが,火薬の量を減らしたいとか,ギミックの複雑さによる動作不良の可能性が指摘され,砂箱に入れた砂を,一定高度まで下がると一定量捨てる方式に改めたりして,風船爆弾そのものも進化を遂げています.

 米国としては,「こうした木箱の中に人が潜んで,本土上陸をすることで内陸部でゲリラ戦を展開されたら?」とか,細菌兵器や毒ガスなどの散布を非常に恐れ,徹底的に生産工場や放球施設を叩く様にしていました.
 実験レベルでは,牛の病気である牛疫の菌を散布する所まで行ってた訳で.
 実際には,余りに戦果が報道されないので,大本営は熱意を喪っていた訳ですが….

 しかし,末期の混乱した情勢では,誰も製作を中止する命令を下さず,敗戦まで,小倉などでは製作を続けていたそうです.
 もしかしたら,第二の原爆投下目標が長崎でなく,小倉が第一目標とされたのは,小倉の造兵廠が風船爆弾の生産工場だったことが原因かもしれません.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 2007年03月22日21:39

(画像掲示板より引用)


 【質問】
 風船爆弾の戦果は?

 【回答】
 アメリカ本土に到達した風船爆弾の数が,
ワシントン 25
北ダコタ 2
オレゴン 40
南ダコタ 8
カリフォルニア 22
ネブラスカ 5
ネバダ 6
アイオワ 3
アイダホ 8
カンザス 1
モンタナ 32
テキサス 3
ワイオミング 8
ミシガン 2
ユタ 5
アリゾナ 2
コロラド 3
カナダ 78
アラスカ 24
計 277

 結構遠くまで飛んでるのな.
 参考地図
http://homepage.mac.com/furup/map-j.htm

 純国産兵器「ふ号」の記録 だったかな?によると,ジェット気流を発見したのは日本人が最初.
 でも機密とされる.
 そのあと,日本を爆撃にきたB-29が発見,戦後アメリカの大学が実証.

 4500個とばして,約3割が到達したものとアメリカは推定.
 原価は1個1万円.
 4500個で4500万円.
 アメリカがこれを防ぐのに4500万ドル(うろおぼえ)を費やしたとのこと.
 当時のドル価値を考えると大したもんです.

 俺はこの本を読んで,風船爆弾のファンになった.

軍事板,2003/03/11-05/11
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 米軍の風船爆弾対策は?

 【回答】
 米軍は風船爆弾が細菌作戦に利用されることを恐れ,多数の戦闘機パイロットを迎撃要員として米国国内に配置せねばならなかった.
 以下,抜粋要約.

 アメリカは,日本が細菌爆弾を完成させている事を察知していたため,この風船爆弾が細菌作戦の一環として利用されることに恐怖した.

 そこで発動されたのが稲妻作戦(Lightening Project)である.
 公衆衛生関係者に通達が出され,人間・動物・植物に不自然な病気の発生があった場合,即刻報告することが求められた.
 もし病気の発生が見られた場合,それに対処するための部隊編成も行われた.
 また,厳重な報道管制が敷かれ,情報がマスコミで報じられることもなかった.パニック発生を極度に恐れたためである.

 他に,沖縄作戦に向けて訓練中だった戦闘機部隊が,数中隊ほど風船爆弾迎撃任務に転用された.
 また,多数の陸海軍・海兵隊パイロットが,いつ来るとも知れぬ風船爆弾の迎撃要員に充当され,国内に留まった.
 風船爆弾が発見されると,スクランブルをかけた戦闘機が発進したが,風任せの相手だけに,撃墜は一苦労だったという記録が残されている.

(吉田一彦〔第二次大戦情報戦史家〕 from 「疫病最終戦争」,
ビジネス社,2001/12/20,p.61-62)

(画像掲示板より引用)


 【質問】
 風船爆弾の発射位置を,米軍はどうやって突きとめたの?

 【回答】
 風船爆弾ではバラストに砂を使用していました.
 米軍はその砂を分析し,砂を構成している鉱物の種類により,場所を九十九里浜と特定しています.

名無しさんダーバード in 軍事板・改

爆撃対策のため,偽装された風船爆弾
(うそ)


 【質問】
 どこまで馬鹿なの?
 3発目の原爆はもう無かったんだよ.
 その間に日本が原子爆弾を完成させて風船爆弾に載せてアメリカ本土に落とせたかもしれないだろ?

 【回答】
 史実の風船爆弾は直径10メートルで総重量200kg,爆弾搭載量が25kgだから,仮に体積と搭載量が比例した場合,5000kg(初期の原爆はこのくらい)を載せるには,直径59メートルが必要.
 飛行船の場合,大型化すると総重量あたりの積載量が増える傾向があるので,もう少し小さく出来るかも.
 総重量20トンで積載量5トンが得られるなら,直径46メートルでいい.

 しかし……
 そんなB29並の図体のものが浮いてたら,すぐに発見されるだろうな.
 あと,アメリカに到達する割合は1割もないから,原爆を何十発も作る必要がある(笑)
 コースを逸れた風船爆弾は,無関係の国で次々にキノコ雲を上げる.
 まさに人類の敵,大日本帝国!(笑)

軍事板
青文字:加筆改修部分

 そもそも当時の日本で,原子爆弾を完成させるには相当長期間かかると,仁科研では見積もられていたわけですが.


 【質問】
 風船爆弾に対するアメリカ当局の,報道管制状況は?

 【回答】
 1945年5月18日,3歳のPatは電線の上に赤い風船が引っかかっていたのを見て,興奮して母親にまくし立てます.
「赤い風船に触っちゃ駄目! 爆発して私もお母さんも死んでしまうかも知れない」
「それは空に浮かんでいて…爆発したら音がする.」
 丁度その時,彼女の側で車のバックファイアが起きました.
 すると,彼女は,
「風船が爆発した!」
と叫びながら家に帰っていきました.

 彼女の奇妙な行動を見て不思議に思った家族は,Minnesota州の地方紙Pioneer Press and Despatchの地方版編集部に電話し,彼女の奇妙な言動を述べました.

 …当時,こうした奇妙な風船に関する心配を電話してきた人々の数は,この地方紙だけでも3ダースは集まっています.

 実は編集長は,この奇妙な噂の正体を知っていました.
 検閲局長Priceは,1944年11月4日に,California州San Pedroで最初に目撃された日本製風船爆弾の公表をしない様,1月に全ての編集者,放送者に注意を促していたからです.

 その風船の件は,1944年12月にMontana州で二度目に目撃された後に,手短に発表されました.
 2人の樵夫が,日本の文字で書かれた落下傘らしきものと,それに付けられていた爆弾状のものを発見し,12月11日に,彼らはそれを郵便配達人に届け出て,その知らせはMontana州のFBI事務局に達しました.
 FBIの係員達は,風船と不発弾を車庫に引取りましたが,12月15日にはMontana州西部の各新聞社がその記事の掲載を申請し始めました.
 この種の話は,「戦時実務規程」の諜報関係の節の対象だった為に,検閲局は適切な権威が必要と判断し,その権威の在処を巡って3日にわたって,FBIと陸軍が協議した結果,12月18日にFBIが手を引きました.

 他の政府機関はそれに反対しませんでしたから,検閲局は陸軍が認めた事を理由に,各報道機関にそのニュースを解放しました.

 しかし,風船に関する情報は不確実で,人を運んでいたと言う示唆をしたメディアもありました.
 2週間後,3つの風船が相次いで発見され,その打ち上げは日本の潜水艦が行っていると言う情報を,報道機関はほのめかしていたりします.

 政府も混乱していました.
 それがスパイの攻撃なのか否かを,容易に判断つきかねたからです.

 その頃,FBIは最初に捕獲した風船を解体し,その中に書かれていた日本語を翻訳していましたが,その中に,風船製造工場の作業シフトに関する詳細が含まれていました.
 更に多くの風船が到着すると,調査官達はその謎を解明し,風船爆弾は本州沿岸から放球され,森林火災と米国民士気低下を狙ったものだと言う事が判ってきました.
 しかし,森林火災については,放球に適した気象条件である冬〜春は,森林が湿っていて容易に燃える状況ではなく,余り効果的なものではなかった様です.

 12月6日にWyoming州に着地した風船は,爆発しました.
 実際には被害がありませんでしたが,この爆発が報道されると,民間では,
「森林に火災が大きく拡がっている」
とか,
「風船の釣籠に乗って破壊工作員が潜入した」
と言った噂が現れる様になります.
 この事件を切っ掛けに,風船爆弾に関する報道は規制の対象となり,1945年1月1日からその報道は差し止められました.

 1月4日,検閲局はそのニュースに関する権威は陸軍である事を認め,その認定に対応して,陸軍西部防衛司令部は,風船や釣籠などの一部を発見したり,目撃が確認できた場合は,検閲局に予め知らせる事で合意しました.
 5月12日までに,こうした発見件数は,最終的に全打上数の3%に当たる285件に上り,場所もAlaska準州からMexicoのSonora州に至るまで,各所で発見されています.

 Oregon州の中西部に漂着した風船は,5月5日,米国本土で敵の攻撃を受けて死亡した唯一の犠牲者を齎しました.
 その犠牲者は11〜15歳までの日曜学校の子供達5名と,牧師の妊娠中の妻の6名でした.

 その風船爆弾は長い間地上にありましたが,子供の1人が風船の一部を引張った時に信管が作動して,対人爆弾が破裂した事が原因で,起きたものです.
 残りの焼夷弾4発は信管を安全に外されました.

 この事件も,戦時中と言う事で,「発生源未詳の」爆発という事で報道されたに留まりましたが,5月中旬には,風船の目撃と共に,デマが樵夫やキャンパーに拡がっていきます.

 陸軍諜報部G-2では,こうしたデマを打ち消すには,風船の殆ど全部を目撃されているMississippi川の西方にある学校,市民クラブ,その他の集会で,風船に関する短い声明を読んで聞かせる事だと判断し,5月6〜15日の間に密かに開始されました.
 その声明書では,風船攻撃について警告し,学童達には見慣れぬものを拾わない様に説き,新聞と放送は公表を差し控える事に同意していたと述べていました.

 ところが,陸軍はこれを事前に検閲局に知らせていませんでした.
 彼らがこの陸軍の活動を知った時,静かに情報を広め,国民の神経を静める代りに,学童が不完全な記憶を元に,親や友達,近所にそれを伝えた為,事実が歪められ,伝言ゲーム状態となりました.
 それが繰り返し,繰り返し伝えられる事で,事実が歪められ,訳がわからなくなり,遂には,こんな話になってしまいます.

[quote]
 西海岸が酷くやられた.
 San Franciscoの一部が破壊され,North Dakotaの幾つかの地域も破壊された.
 Minnesota州では大勢の人が死んだ.
 風船には毒ガスが詰まっていて,それが放たれると付近の人がみな死ぬ,いや,風船には高性能爆薬が詰まっていて,ロボットが爆弾を落としている!
[/quote]

 冒頭のPatの恐怖も,この話から来ていた訳です.

 陸軍の意図とは違う方にどんどん事態が進んでいき,検閲局がその事実を知った頃には,既に手が付けられず,新聞やラジオのニュース報道を禁止するのは難しい情勢だったりします.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年10月27日21:43

 さて,先日書いた風船爆弾騒ぎの続きですが…そう言えば,「俺にはal Qaedaの友人が居る!」と自慢したおっさんが居ましたっけ.
 何だか,A倍内閣の不適材不適所閣僚が居座っているのに,良く福田さんも我慢できるよなぁ,と思ってみたり.

 話を戻して….

 先日,風船爆弾の事実を表沙汰にしない為に,陸軍が取った奇妙な方法で,西部の各州の住人がパニックに陥りました.
 検閲局は,報道機関のニュース報道禁止の措置を続けるのは難しいだろうと考えましたが,その想像は果たして大当たりで,報道禁止の所為でデマが流れ続けるのだから,今すぐそのばかげた命令を撤回して欲しいと言う要望が,様々な報道機関から検閲局に殺到しました.

 検閲局長Priceは,1945年5月15日,陸軍諜報部の部長で,前任者と違って協調関係を築いていたBissell大将に文句を付けに行きました.
 PriceはBissell大将に,陸軍が風船に関する公式発表を行うか,PriceがG-2の教育活動を明らかにするかを迫ります.
 Priceは,誤報とも言うべき情報が,既に合衆国の半分に拡がっていると言うのに,報道機関のジャーナリストにそれを無視しろとは言えないと述べました.

 Bissell大将も,その辺十分に弁えていて,PriceをG-2スタッフの前に連れて行き,同じ事を彼らの前で繰り返させました.
 散々議論をした末,彼らは,日本に有益となる情報を明かすことなく,風船の存在を発表する陸軍公式声明の草案を書く事で合意に至りました.

 これには,
「これらの攻撃は余りにも拡散していて当てがないので,軍事的脅威にならない.
 …ある場所に落ちる確率は100万分の1でしかない」
とあり,主に誤報に戦く国民を安堵させる為の声明でした.

 そして,その草案はG-2内部で3日間に渡って検討されますが,その影には,海軍が中西部に到達した風船攻撃の報道発表を頑なに拒み,阻止しようとする動きがありました.
 その間,ジャーナリストの自主検閲には徐々に亀裂が入り始め,Chicago TribuneやNew York Daily Newsなどの各紙が,中西部の日本製風船に関する報道を掲載する動きを見せ始めました.

 5月21日,Priceは,海軍省で反対しているR.S.Edwards提督を訪ねます.
 PriceはEdwards提督に反対の理由を聞くと,その報道発表の内容が日本を刺激し,より多くの風船爆弾を放球する動きに繋がり,より多くのアメリカ人を殺すものだ,と考えていた為でした.
 最終的に,この件はKing提督の判断を仰ぐ事となり,King提督は公開を決断.
 5月22日午後3時に漸く,陸海軍共同声明は日の目を見る事になります.

 但し,風船の目撃場所や数など日本が知りうる事で,狙いを定めるのを助長する情報は極力抑えられると共に,風船による死亡者はOregon州に於て6名あったと発表しますが,その犠牲者名や場所の詳細は発表されませんでした.
 こうして1週間の間,検閲局はOregon州の死者と陸海軍の報道発表を結びつけない様報道機関を制御する事に腐心しますが,陸海軍の様々な発表は,逆に6名の死亡事故が起きた場所を隠しおおせるのは不可能と判断し,事件の大まかな発生場所と犠牲者の名前,被害者の夫の談話の発表を解禁しました.

 8月15日,対日戦が終わると,検閲は終了し,風船爆弾による被害報道が一斉に開始される事になりました.
 この報道禁止の一連の動きは,米国の日本に対する情報戦の勝利でした.

 日本軍は風船爆弾の効果を知る事が出来ず,半年の間,疑心暗鬼になりながらその放球を続け,結果として本土決戦用の精密兵器の生産に使うべき資源を,こうした風船爆弾に注ぎ込んだ訳ですから.

 こうした記事の差し止めは,他にも行われました.
 例えば,熱帯に於けるマラリア治療薬のニュースや,ドイツに対してはV1やV2の着弾地に関するニュースなどです.
 後者も風船爆弾同様,ドイツがその効力の程度について判らない状態に置く事が出来ました.

 一方で,プロパガンダや人種間対立に利用されかねないニュース,例えば,1942年冬に出された検閲局の「連合軍捕虜に対する日本軍の残虐行為に関する記事」は,余りにセンセーショナルな報道が為されると,日系人を更なる窮地に陥れかねない事,それにより,日本軍の捕虜虐待の正当性の口実を与えかねない事が懸念され,報道不可とされました.

 また,日系人の強制収容に関する報道は,敵国人の抑留ではなく,日本人の祖先を持つ米国市民の連邦政府による収容であり,それは捕虜扱い(捕虜扱いだと検閲規定に引っかかる)ではない事から,自由に報道出来るとしています.

 更に1942年11月27日に発生した,白人憲兵と黒人兵士との間の銃撃戦,1942年12月28日にCalifornia州で発生した,黒人兵と白人兵の暴動についての報道も,其の儘許可しています.
 これも人種間対立を拡大させない為の方策として取られたものです.

 米国の検閲制度は,この様に,柔軟に対応する事で,保安上潜在的な危険を認識し,大衆の好奇心を食い止める戦略を確立していたと言えるのでしょうね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年10月30日22:25


 【質問】
 何で日本は,風船爆弾による攻撃を止めてしまったんでしょうか?
 それなりに効果はあったみたいですが.

 【回答】
 風船爆弾は,秋から冬に吹く「ジェット気流」に乗せて,アメリカ本土へ爆弾を飛ばします.
 昭和19年の11月から翌年の3月まで飛ばしましたが,次のシーズンには戦争は終わってました.

 あと,効果についてはアメリカが報道管制を敷いたため,日本では戦時中は確認できなかったといわれています.
 あの辺りは森林の自然発火が日常茶飯事なんで,たとえ風船爆弾の効果でも「山火事です」と報道すれば,地元民なら「ああまたか」で納得しちゃいます.
 ピクニック中の小学生1学級ぶんを死傷させた実績があるので,米軍は山火事だと捏造することにしました.
 で,中立国経由の情報や民間ラジオの受信で情報収集してた日本は,効果ナシとして判断してしまいました.

 工場も空襲でやられましたし,次の年の夏に降伏しちゃったからそれっきりです.

鷂 ◆exxupUqotM(黄文字部分)他 in 軍事板,2007/06/27(水)


目次へ

「第二次大戦別館」トップ・ページへ

「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ   サイト・マップへ