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(画像掲示板より引用)
『異端の空』(渡辺洋二著,文春文庫,2000/7)
古本屋で文庫版を偶然見て(レジ横で店主が分類中だった)面白そう,と購入しました.
零観や,研三,震電の話が特に印象深かったなあ.
そういや,研三がプラモデルになるらしいです….
ビックリ.
------------ ハス ◆yPF68LQs :軍事板,2002/07/19
青文字:加筆改修部分
『軍用機開発物語 設計者が語る秘められたプロセス』(土井武夫他著,光人社NF文庫,2007/08)
読了.
昭和30年代の「丸」の記事を一冊の文庫にしたものだけど,設計者の生の声が書かれていて面白かった.
土井武夫(キ61),本庄季郎(一式陸攻),曽根嘉年(烈風),佐野栄太郎(零観),内藤子生(彩雲),足立栄三郎(二式大艇)が執筆している.
土井氏と佐野氏,内藤氏の手記は面白かったが,本庄氏の手記はちょっと引っかかった(ワンショットライターへの批判の反論めいた部分).
ま,いずれにしろコンパクトに纏められていて,結構お勧めなり.
------------眠い人 ◆ikaJHtf2 : 軍事板,2002/01/11
『航空戦士のこころ さまざまな思いで闘う空』(渡辺 洋二著,潮書房光人社NF文庫,2013.7)
『航研機』(富塚清著,三樹書房,1998.11[改訂版])
オススメです.
当事者の書いた大変貴重な記録本で,読みやすく,それなのに書いてある事は非常に高度.
難しい事をわかりやすく教えてくれるお手本で,大変面白く,一気に読めてしまいました.
前半はWW1~WW2の大戦間の時代の空気を,よく表現できていると思います.
航研機に興味が無い人でも,本の前半部分は大正時代の日本航空史という感じで書かれていますので,読む価値があると思います.
「技術者は技術で悩むのではなく,対人関係で悩む」というのが印象的でした.
全般的になんとも日本人的というか,航研機という物は実は誰もやりたかった事ではなく,前所長が予算を獲得してしまった為に,新所長になってからその予算を返すわけにもいかず,予算消化的意味合い,でも失敗は許されないという状況で,やらざるを得なくなったというのは知りませんでした.
長距離飛行の実験機計画の実行は反対者が多かったようですが,一旦やると決まればみな熱心に設計されたようです.
最新技術よりも,どちらかというと枯れた技術で進めて行ってます.
また,「主翼は単桁とする」と仕様書で決めてしまっていたので,主翼設計者は複雑な構造の「確かに単桁だけど,実際は(略」という物を作ります.
他にもこういう類の話ばかりです.
著者としては,昭和の初めの一番大事な時期だったのだから,民間受けする世界記録機を作るよりも,ジェットエンジンでも研究していれば・・・と.
後から考えるなら,そうだったかも知れません.
なお,航研機についてもお約束の「陸海軍の対立」というのがありますので,陸海軍対立マニアにもオススメです.
――――――軍事板,2009/11/05(木)
青文字:加筆改修部分
『異なる爆音 日本軍用機のさまざまな空』(渡辺洋二著,光人社NF文庫,2012/4/30)
斜め読み完了.
「航空ファン」誌に掲載された記事を纏めた一冊.
シンガポールに輸送された零戦六三型丙の話や,わずか2機しか製造されなかった制式機九七式艦上偵察機,一式戦の硫黄島での活動など,陸海軍機のいろいろな話があります.
個人的には,護衛空母に乗って船団護衛にあたり,護衛空母が動けなくなって船団護衛ができなくなった沖縄戦では,夜間雷撃を行った第九三一航空隊の話が興味深かったり.
特に旧式機装備だからという理由で,特攻隊編成の相談を受けた分隊長が,これを突っぱね,
「雷撃訓練を受け,夜間飛行が可能な我が隊は,戦況次第で最後の雷撃隊に変身できる」
と部下搭乗員に説明して
「もし特攻隊にならざるを得ない時期が来たなら,そのときこそ潔く散ってもらおう.
それまで分隊長は,お前たちの生命を預かる」
と締めくくったのは,素直に凄いと思ったり.
-------------グンジ in mixi,2012年04月30日22:03
「海鷹」搭載から,夜間雷撃へと移行した艦攻隊の話が良かったです.
予学13期で,空母から作戦した搭乗員がいたとは.
------------軍事板,2012/04/28(土)
簡単な感想.
タイトル通り,収録された機に統一性はなく地味な機の活躍(零戦vsスピットは別だが)を渋く取り上げてある.
やはり,零戦vsスピットで,零戦側に軍配を上げた記事が,一番興味深かったけど,634空瑞雲水爆の,労多く功少ない,地味な夜間爆撃の記事も面白かった.
------------軍事板,2012/05/10(木)
『最後の飛行艇 海軍飛行艇栄光の記録』(日辻 常雄著,潮書房光人社NF文庫,2013.11)
『写真集 日本陸海軍航空機ハンドブック』(多賀一史著,PHP文庫,2002)
2002年6月17日第一版第一刷だから,ホントについ最近の本だな.
文庫本を念頭に置いた潔い情報量の編集に好感を持ったよ.
入門者向きに仕上がってると思うけど,入門者じゃなくても結構楽しめるんじゃないの?
------------軍事板,2002/06/22
青文字:加筆改修部分
『世界の傑作機 No.136 海軍零式観測機』(文林堂,2010.1)
すごい出来ですよ.
写真も半分以上,未発表なものなのでは?
特に試作時や生産時の写真など.
図面も文章も素晴らしいの一言.
今後も超える物が無い,決定版でしょうな.
――――――軍事板,2009/12/02(水)
『空の技術 設計・生産・戦場の最前線に立つ』(渡辺洋二著,光人社NF文庫,2010.3)
今日買って参りますた.
「航空ファン」と「丸」に掲載されていた短編の収録だそうな.
しかし,後書きに
「著者の人生設計上,航空関係の著作をなるべく早い時期に出し終えようと決めたためだ」
と書いてあるのが気になります.
渡辺さん,次はどの世界に転身するんでしょうか.
――――――眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板,2010/02/20(土)
かつては翻訳本も出されているから,新たな取材先がなくなったなら,そっちの方向に進んでもらえたら嬉しかったのですが,航空関係からも出てしまわれるおつもりなのか.
「世界の傑作機」でも,関わるのはこれが最後になるだろうとの,異例のあとがきで驚いたし.
数少ない信頼できる書き手なのに・・・
―――――軍事板,2010/02/20(土)
青文字:加筆改修部分
大戦中の日本の航空機産業や最前線での設計,生産,整備に関する話に,日本の航空機による対潜哨戒作戦,大戦中の各国の偵察機の比較,夜戦型ヘルキャットの記録,の戦史三篇を纏めた一冊.
大戦中に航空機設計チームを率いたチーフデザイナーに取材した時の話の中で,(かなり悪い意味で)衝撃を受けた所を.
●川崎航空機の土井武夫氏を取材した時,試作機や生産過程を写した多数のガラス原板(写真は岐阜空襲時に焼失していた)をみせて貰ったが,何枚かは割れてセロハンテープで繋いであった.
以前に借りていった者が,薄いガラス板を郵便で送り返した為,割れてしまった.
●やはり川崎航空機の井町勇氏を取材した時,キ四五関係の写真を希望したところ,出してくれたアルバムはどのページも無残に剥がされ,誌面に使いにくい,さえない画像の物がごくわずかに残っていただけだった.
以前に借りていった者が持っていったまま,返却しなかったんだとか.
剥がされた写真を掲載した,六〇年代の雑誌や,日本機をメーカーごとに纏めたそう書(変換できなかった…),その写真を所持し,各所に有償貸与している人物の名が頭に浮かんだので,取り返しましょうか,と尋ねたが,物への執着心が薄れたのか理由は不明だが,熱意ある依頼は返ってこなかったとか.
(ていうか,これって,窃盗とかにあたるんじゃないのか?昔はこういった事がまかり通っていたのだろうか?)
――――――グンジ in mixi,2010年02月26日23:22
『太平洋戦争は勝てる戦争だった 文系支配が敗戦をもたらした』(山口九郎右衛門著,草思社,2009.8)
やっと図書館で順番が来た.
すげぇ順番待ちの人気本.
飛燕凄いな,100オクタンで計器速度640出るぞ.
人造石油で燃料問題なんか解決だ.
日本の技術は凄いぞ,寿エンジンの純国産化は昭和12年だ.
こんな時期に国産でエンジン作れる国は殆どないぞ.
92式重爆とか早々に純国産しているんだ.巨大機を純国産で作れる日本の技術は凄いなぁ.
昭和6年生まれの著者が,戦時中の日本機を再設計.すごい高性能機にしてくれているぞ.
この人がもっと早く生まれていたら,日本は勝ったね.
まだ,半分しか読んでないけど,目から鱗が落ちる本だね(棒読み)
でも,目に鱗が飛び込んだのと,落ちたのは文系の俺ではどう違うかわからねーや.
とにかく軍用機(主に戦闘機)至上主義です.
他の武器は関係なし.
100オクタン燃料と飛燕70機があれば,700機のグラマンでも壊滅できるそうです.
著者近影の面構えも,たた者ではありません.
ちなみに理系の技術官僚だって,統制経済を支持してた.
自分達の地位向上を認めない既存官僚への憎さがある分,軍部への接近,現状打破の機運も激しかった.
大淀昇一『技術官僚の政治参画』(中公新書 1997) など参照.
文系優位だから日本は駄目だ,という主張自体,所詮は暴論.
著者について;
昭和6年神奈川県生れ.
昭和29年早大商学部卒業.昭和石油に入社.
昭和37年から昭和39年までテキサス大学(統計学専攻)に留学,修士課程修了.
昭和40年,家業の飼料商を継ぐ.
草思社というのは,野球経験皆無でプロ選手に対し技術論展開する,小関先生の本を出しているので,こういうのが好きなのではないかな.
――――――軍事板,2009/10/13(火)
要するに,僕の再設計した旧軍機は,こんな高性能になるよという話.
技術考証を少しは考えている架空戦記と思えばよろしい.
飛行機生産と人造石油だけでアメリカに勝てるという,結論はおかしいが,局所的には,なるほどと思う部分も無いではない.
自分の主張の根拠を示す努力もしている.
一時期地元の図書館で大人気の予約殺到本だった.
著者近影の面構えが只者じゃない.
――――――軍事板,2010/06/11(金)
『二式大艇空戦記』(長峰五郎著,光人社NF文庫,2007.1)
海軍801空に所属し,二式大艇のパイロットとして昭和20年3月の,神風特攻隊梓隊のウルシー環礁攻撃に参加した著者が,その体験を中心に,自身の戦闘体験を語る一冊.
著者は飛行時間2千時間ほどの,ちょうどベテランの域に達したパイロットで,それゆえの腕自慢や,自身の腕を過信したが故の事故など,鼻っ柱の強いパイロットならではの体験が,興味を引く.
その他に,わざと戦闘哨戒区域を外れて飛行して,のうのうと生き残ったA少尉や,著者にウルシー環礁到達後に,潜水艦による救助かメレヨン島不時着を指示しておきながら,実際には何の手立ても講じていなかった司令部など,怒りどころが多数.
――――――軍事板,2011/03/10(木)
名著だよな.
特にメレヨン関係はかなり読み応えがある.
梓特攻隊に続いて突入しようかという所から,奇跡の生還.
しかし不時着した島は,決して安住の地ではなかった・・・
飛行艇好きに限らず,物語もじっくり読める本だよな.
――――――軍事板,2011/03/10(木)
『日本軍試作機計画機 (超精密「3DCG」シリーズデラックス)』(保坂宗雄他,双葉社,2006.9)
『日本海軍航空隊戦場写真集 増補版』(大日本絵画,2013/10)
『日本鹵獲機秘録』(押尾一彦&野原茂編,光人社,2002/04)
なかなかネタの宝庫でした.
陸軍64戦隊加藤中佐の私用機がホーカーハリケーンだったり,ノモンハンのエースで「操縦の神様」と呼ばれた加藤敏夫少将の愛機がバファローだったりと,「鬼畜米英」などと言ってた割には,舶来品を多く使用してたみたいですね.
貴重な写真も色々あって,(日の丸付けたF6Fとか),なかなかお勧めです.
------------眠い人 ◆ikaJHtf2 :軍事板,2002/04/28
青文字:加筆改修部分
私も本屋で見つけて即座に購入しました.
捕獲機についての日本側の調査結果・評価についての記述が物足りないものの,著者が序文で述べている様に,終戦で公式記録の殆どが失われ,調査に当たった当事者の多くも殆ど他界してしまっている現状では,まずは残された資料でここまで纏めためただけでも労作と言えると思います.
今後,新たに資料が発掘されたら,続編や改訂増補版を望みます.
まずは日本でも敵を知る事に全く無頓着なわけではなかった事は,この本で分かるでしょう.
------------軍オタ君 :軍事板,2002/05/01
青文字:加筆改修部分
『遙かなる俊翼 日本軍用機空戦記録』(渡辺洋二著,文春文庫,2002.7)
この人の本のテーマは重い.
重いけど,裏をきっちり取っているから,読み応えがある.
「重い飛行機雲」,「異端の空」,「死闘の本土上空」.
このシリーズは泣ける話のオンパレードです.
------------眠い人 ◆ikaJHtf2 : 軍事板,2002/07/09
青文字:加筆改修部分
『部外秘 99式旋回機関銃取り扱いの参考(テ四)』(川勝少佐口述,水戸陸軍飛行学校,昭和15年3月)
「用済み後焼却,他人に譲渡を禁ず」とある,部外秘のこの冊子は,武装班第三分隊の参考綴りとして保管されていた模様である.
実際にも教程で使用されていたらしく,かなりの書き込みがあり,中にはメモとして
――――――
27日 テ四 取り扱い
1.概念主要緒元2.分解・結合3.構造機能4.故障排除5.射撃前後の点検手入れ6.弾倉の取り扱い
学科(教育規定)射撃修正 関連移動修正 原理
――――――
などと書かれた紙が挟んであったりするので,こんな感じで現物を目の前にして教育が行われていたのだろうと推測する.
冊子としては,98式旋回機銃,99式旋回機銃,テ一旋回機銃,武装工作法教程,98式直協偵察機武装法,弾痕による銃身廃兵器検定要領,おまけ程度で100式油圧系統だとか,発動機重要緒元などが閉じこんであったりする.
どれも目次は似通っていて,古い写真や図版を用いて,総説,構造,機能,分解及び結合 取扱法,手入れ,格納及び検査の順で記されているが,かなりの説明を「89式旋回機銃ト同一ナリ」で済ませているのには閉口.
89式の取り扱いはここにないので,何だかよくわからん.
取り扱い説明なので仕方ないのかも知れないが,「ボルト」「ナット」「スパナ」「スパナ」「ナット」「ボルト」と,呪文のようにしつこい.
こういう冊子の雰囲気を味わうためには,配管工事だとか電気工事だとか,本当にスパナを回したり,鉄を体で知っている人でないと無理だろうと思われる.
――――――名無しの愉しみ:軍事板,2011/04/24(日)
『山本五十六と海軍航空 海軍機関大佐の回想とアルバムから』(本多伊吉著,大日本絵画,2012.1)
個人アルバムの出版.
キャプションは1~2行で少なめ,
読む側に知識が,必要登場人物の説明もあまりできていない.
ただ,珍しい写真は多い.
捕獲米軍機,B-17のハリボテ,
そして九九式飛行艇(九七大艇や二式ではなく,双発の九九式)の非常にクリアーかつデティールがわかる写真.
これは貴重な一枚だろう.
まあ,マニアなら見て損はない.
------------軍事板,2012/02/04(土)
『甦った空』(岩崎嘉秋著,文春文庫,2008.12)
久々に会心の名著に出会った.
砲術(陸奥)→整備→搭乗員って経歴にも驚いたが,文章が非常に読みやすく,引き込まれるわ
飛行機への夢が忘れられず,砲術学校に合格してるのにもかかわらず,整備員への道を目指すが,整備員として配属された先で,泥酔した搭乗員に殴られた挙句,土下座させられ,
「それならパイロットになってやる!」
「なれるものならなってみろ」
と言われて,本当になってしまった話.
陸奥の砲術員から整備練習生へ鞍替えする時には,
「海軍のよさは志望どおり進める事だ! 思い切って励め」
と送り出されたけど,整備員になってから搭乗員に行くときには,
「整備科を冒涜している」
と言われてボコボコだったみたい.
なった後も大変.
すごい本でした(笑)
――――――軍事板
【質問】
古書店にて「日本航空機総集」I~V巻セット\13K
亀甲縛りで中身が見られんのですが,セットで買いでしょうか?
只今,柳田邦男著『零戦燃ゆ』を読んでいるので,その参考資料になるのであればと思っております.
【回答】
内容は「買い」.
値段は・・・まあお財布と相談してください.
ただしそれ,全8巻セットです.
んで残り3冊,特に8巻がほんっと手に入らない・・・
ゆうか ◆9a1boPv5wk in 軍事板
青文字:加筆改修部分
う~ん,編者が野沢正さんなので,それなりに買いだとは思いますが,最後がVIだった筈なので,完全セットではないかと.
正直微妙.
因みに,モデルアートの増刊『日本航空機辞典 明治43年~昭和20年』(モデルアート社,1989)が一冊有れば事足りるレベルです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
外国機の情報は,一般の日本人はどの程度知り得たの?
【回答】
戦中に出版された,『世界の翼』(昭和17年7月発行/航空朝日編纂)という航空機写真集があります.
これは,内外の最新軍事航空機について紹介した写真集で枢軸3ヵ国以外に連合国側やソビエトまで載っていますが,日独伊は秘匿からかあまり載っておらず戦闘機ならドイツはBf109やHe113,イタリアはMC200止まりでフォッケやフォルゴレは存在すら公表されていません.
日本も零戦や隼より96式艦戦や97式戦の方が主力機の様に紹介されていてがっかりでしたが,意外だったのは連合軍機がタイムラグ無しに紹介されている点.
アリソンエンジンながらP51BムスタングやP47Bサンダーボルト,F4Uコルセアなどを割合正確に写真入りで照会していました.
爆撃機もB17はもちろんB25,B26からランカスターまで載っており,この辺は『圖解科學』と同様に,中立国やソビエトを経て入手した軍事情報の,意外な多さに驚かされます.
こちらは同書にあった大平洋戦域に展開する連合軍機.
この辺の情報もまだ当時はオープンだった様です.
さて,海軍系なら戦後も発行された『海と空』があります.
今回入手したのは昭和18年10月号で,中には下の様な米軍機の性能表まであり,P39やP38,F4Fの最大速度を見ても640km/h,650km/h,531km/hとあります.
P39が過大評価でF4Fが過少評価?
まあ,連合軍側から故意に流された偽情報を,そのまま掲載している可能性はありますが,いずれにしてもこういった資料が当時,本屋で入手出来たというのが一驚です.
実は戦時中の日本は,最後の2年を除くと,我々が思っていたほど情報が閉じられた世界でも無かったのでは?,と思わされますがどうでしょうか.
よしぞうmaro' in mixi,2007年06月13日14:56
【質問】
【すごいぞ日本】ファイルII 重厚長大健闘中
【やばいぞ日本】シリーズの次は【すごいぞ日本】シリーズですか,産経・・・
まぁいいですけどね.
>戦前は数々の戦闘機を開発し航空王国といわれたが
イタリアが一時期,航空王国と呼ばれた事は知っていますが,日本が言われた事ってあったっけ?
JSF
▼ 【回答】
当時の航空技師で,三次元製図ができる者はいなかったと,佐貫氏が著作で書いています.
だから設計は,やっと機体設計等,一部が追いついた程度では?(可変ピッチプロペラ等,
最後まで国産化できなかった物も多い)
さらに,工作機械では,アメリカ,ドイツに大きく水を開けられていました.
戦後,Jeepを国産化するときも,デファレンシャルギアの表面結晶焼付けができず,3~4年かかったと記憶しているのですが.
ワイルドギース in 軍事板
青文字:加筆改修部分
▲
ハ,_,ハ :::| どうせイカロスあたりの変な本でもパラ読みしたモサリね
.,;゛'A` '; .::::| 所詮は主観評価なので気にしないモサリ
 ̄ f`,,.、0,,_,J. ̄\ さてVaRTMは尾翼への適用しか決まってないモサリね
. .\ この記事の書き方では,まるで主翼までVaRTMを適用すると勘違いさせるモサリ
. \ 787にさっぱり触れてないのもどうかと思うモサリが
モッサー=ハルゼー
うーん……寡聞にして聞いた事がありませんね>日本が航空王国と呼ばれた.
そもそも,航空王国ならもっと大馬力のえんじ……おや,誰か来たようだ.
MIB@生物兵器
>航空王国
つ 発動機
つ 防弾
つ 稼働率
あれ? 誰だろうこんな時間に
島の人
所詮パイロットの技量が最も重視されるレベルで,何が航空王こk・・・・
ん? こんな夜更けに,だれかな?
EF63-24
>航空王国
つ 製造技術・工作精度
つ 燃料・潤滑油の品質
つ パイロットの訓練システム
つ 飛行場の建設能力
…うわー,なにをするきさま(ry
井上@Kojii.net
松根油を根拠にバイオ燃料先進国とでも言ってくれたほうが面白いのに.
ヨシフ
戦前はコピー機か,他国戦闘機のライセンス生産が多かったようですし,航空王国はちと大袈裟なんでしょうね.
もぐら怪獣モングラー
まぁ,航空機を設計製造できる国そのものが数えるほどしかなかったわけだし,せめて航空藩国くらいで手を打ちませんか.
Tono
>航空王国
~/ ´ω)コククウズモウ<だれか「航空王」とか呼ばれた人でもいるんでしょうか?(笑)
~/ ´・ω)ミ
――――――
アフガニスタンで生まれた「アフガン航空相撲」は,その驚異的な破壊力ゆえに世界の注目を浴びた.
当然,日本にもその情報は伝わり,数多くの力士達がこれを物にせんとアフガンへ渡った.
その修行は過酷であり,大半の力士が命を落とした.
しかし,生き残った僅かな力士が日本へと帰国し,後に「SUMOU」へ統合される「航空相撲」を日本へ持ち込んだ.
その一人が雷電竜右衛門である.
彼は航空力士界でも無双を誇り,「航空王」とも評された.
彼の強さはその圧倒的な上昇・下降力であり,これを生かした「重力落し」を受けて倒れなかった力士は極僅かである.
その僅かな力士も,その時の重力落しが全力全開状態でなかったためであり,受けた後はまともに立つことすらできなかったと言われている.
また,海軍の局地戦闘機「雷電」は雷電竜右衛門にあやかった名前であり,上昇力と火力を追求した本機にぴったりの名である.
―――――民明書房『SUMOU ~隠された力士達~』より抜粋
ヘリックス
>航空王
う~ん~,中島知久平でも十万石の大名ぐらいか?
島の人
それじゃあ,航空公国とか.
ゆきかぜまる
航空王国・・・ちょっととっかえて,王国航空にすればつじつまがあわないでもない.
ひずまじぇすてぃーずえあらいん・・・
だめだこれじゃ英国のにおいがっ
Pekonen/Suzuki
王立の航空機屋……
「なるほど,航続距離とスピードを両立させて,さらに格闘戦にも強くしろと」
「無理ですか,やはり」
「無理というのは簡単ですが,それじゃあ航空王国の名折れだ.ようござんす,引き受けましょう」
そんな,どこかの仕立屋が脳内に.
寄星蟲
>航空王国
「亜細亜の」「白人以外の」とか前置詞をつければ,どうにかなりませんでしょうか.
(フォローになってない)
…「鉄道王国」というフレーズでも同じことになりそうですが
orz
あっとさせぼ
枕詞に「ムツゴロウの」とつければ,なんとかなるのではないかと.
消印所沢
「ムツゴロウの航空王国」
ムツゴロウさんが零戦に頬ずりしてノックアウトします.
「ムツゴロウの鉄道王国」
ムツゴロウさんがD51形に頬ずりし(ry
あっとさせぼ
「ムッソリーニの航空王国」
空中艦隊構想を進めている途中までは王国なのですが,予算が無くなり次第,終了です.
「ムッソリーニの鉄道王国」
イタリアの鉄道の電化を成し遂げたドゥーチェは,次にイタリアの列車を正確に運行させる事に成功した.
正に奇跡,
ラテンのノリを乗り越えて,イタリアが鉄道王国となった瞬間であった.
JSF
>ムツゴロウさんが零戦に頬ずりしてノックアウトします.
「プロペラがすごい唸りを上げて回ってますけどねぇ,怒ってる訳ではないんですよぉ.
わーしゃっしゃっしゃ(と言って高速回転するペラに近づくムツry)
」
肥後守
「一式陸攻物語」撮影で,幼い陸攻を米軍機の群れに放す黒ムツさん
zen
>雷電
博学な人のことだと思ってました.
ムツゴロウさんを,こう,肩に乗せてですね…(以下略)
ポポフ
雷電 Rydeen は乗るものではなくて聴くものです.なんて,おっさん丸出しなことを書いてみたり.
井上@Kojii.net
両肩に高出力レーザーを搭載したロボットの事じゃなかったんですか?
肥後守
~/ ´・ω)エキサイティングNEOGEO<雷電つーたら,シューティングの雷電シリーズか,餓狼シリーズのライデン,と言うのはオールドアーケードゲーマーですかそうですか(笑)
~/ ´・ω)ミ
え~,ジオン軍の少佐殿ではなかったの?
鉄底海峡
>雷電
バーチャロンのライデンではないのですかい?
CRS@空挺軍
ここまでのまとめ
「ムツゴロウさんは雷電に乗ってイタリア機を七面鳥撃ちしていた」
丼炒飯
【質問】
戦後,日本機が米軍に接収されて,「日本の最優秀戦闘機は疾風云々~」って評価は,よく関連本のなかで目にしますが,連合国に接収された独機の評価と比べてどうだったのでしょうか?
【回答】
終戦時に連合軍が躍起になってかき集めたのは,日本ではなくドイツの航空技術(ジェット,ロケット含む)です.
そして戦後に多大の影響を与えたのも,ドイツ側の航空技術です.
私はドイツ礼賛者でもなければ自虐的に書く訳でもないですが,接収された日本機の評価に関しては,主に日本側で「あちらのテストでは優秀だった」と自画自賛的に引用されているだけで,あちらではほとんど評価されて
いません
(特に戦後は,接収してもほとんど飛ばしていない)
日本で引用されているのは主に,戦時中に捕獲した機体のテスト結果です.
戦後はあの「震電」ですら飛ばしていません.
手元に資料がないので記憶モードですが,戦後テストされたのは「紫電改」.
(あれは国内でしか使われていませんから)
「雷電」も戦後だった(筈)
他に「二式大艇」「連山」「キ-83」は戦後に接収して飛ばしています.
(「二式大艇」が接収した中で最も評価の高い日本機かな)
超長距離機の「キ-77」は輸送中に空母から海へ投棄(悪天候の為)
水爆の「晴嵐」,エンテの「震電」は特徴のある機体ですが,倉庫に放り込まれてそのままお蔵入りです.
確か「銀河」も飛行試験は行わなかった筈です.
これらは日本側が終戦時に,自ら残った機体や試作機の多くを焼いてしまった事情もあるにはあります.
世界的な視野で見れば,「戦後に接収された日本機の評価を目にしたことがありません」ってのが正しいのです.
日本機の場合は,戦争が終われば賞賛どころか値打ちすらなかった・・・ってレベルです^^;
今は絶版となった,サンケイ出版の第二次大戦ブックス「フオッケウルフFW190」の巻頭の文で,戦後ドイツと日本に派遣された調査団が,
「ドイツからは色々と学ぶ事が多かったが日本からは,ほとんど得るものがなかった.
日本機で最高点の評価を与えられるのは二式飛行艇だけである.」
とコメントしたと書いてありましたが,それが全てを言い表しているでしょう.
【質問】
日本海軍航空戦力の推移は?
【回答】
1941.12.1 1942.4.1 1943.4.1 1944.4.1 1945.4.1 1945.8.15
戦闘機 660 → 676(+316, -300)→
833(+1747, -1590)→ 1854(+5074, -4150)→
2778(+1343, -2420)→ 1701(+1343, -2420)
艦爆&艦攻 330 → 307(+123, -146)→ 10(+465,
-762) → 639(+1820, -1191) → 904(+2415,
-2150) → 424(+456, -936)
陸攻 240 → 277(+219, -182)→
486(+674, -465) → 291(+774, -969) →
516(+1661, -1436) → 218(+342, -640)
偵察機 10 → 10(+0, -0) →
9(+0, -1) → 24(+27, -12)
→ 177(+334, -181) → 252(+225, -150)
輸送機 45 → 43(+18, -20) →
85(+99, -57) → 99(+78, -64)
→ 100(+179, -178) → 47(;39, -92)
水偵 270 → 241(+64, -93) →
296(+500, -445) → 849(+1045, -492)
→ 830(+851, -870) → 305(+85, -610)
飛行艇 55 → 62(+29, -22) →
113(+96,-45) → 153(+87, -68)
→ 84(+57, -105) → 12(+2, -74)
練習機 510 → 630(+212, -92) →
1148(+862, -344) → 2710(+2257, -695)
→ 4290(+2840, -1260) → 3668(+348, -970)
保有量のほぼ4分の1が保管機.
その内7割が修理機,1割強が完成直後の機体,残りは旧式機.
ソロモンの激戦のためか,43年4月時点で艦爆・艦攻の保有量がわずか10機まで落ち込んでいるという,驚くべき数字が残されています.
出典は「連合艦隊」だったと思う.
東宝「映画 連合艦隊」公開絡みで出版された本.
ゆうか ◆9a1boPv5wk in FAQ BBS
青文字:加筆改修部分
【質問】
大戦中の海軍機の損耗状況は?
【回答】
戦闘機 艦爆・艦攻
陸攻 偵察機 輸送機 水偵 飛行艇
練習機 合計
41年12月 44+ 32 19+ 24 25+ 18 0+ 0 0+ 4 2+11 1+ 5 0+ 18 91+112
42年1月 35+ 34 11+ 23 11+ 21 0+ 0 0+ 5 15+ 9 0+ 5 0+ 21 72+118
42年2月 31+ 38 15+ 26 40+ 25 0+ 0 0+ 5 13+15 0+ 6 0+ 27 99+142
42年3月 26+ 60 8+ 20 5+ 37 0+ 0 0+ 6 13+15 1+ 4 0+ 26 53+168
42年4月 36+ 35 19+ 10 11+ 14 0+ 0 3+ 2 6+10 1+ 2 0+ 24 76+ 97
42年5月 57+ 47 90+ 8 21+ 16 0+ 0 0+ 2 38+13 1+ 1 0+ 20 207+107
42年6月 137+ 70 189+ 12 9+ 18 0+ 0 2+ 4 11+14 2+ 0 0+ 21 350+139
42年7月 103+ 95 49+ 11 42+ 10 0+ 0 1+ 3 34+17 0+ 4 0+ 22 229+162
42年8月 104+ 61 23+ 12 46+ 16 0+ 0 2+ 3 32+17 11+ 2 0+ 27 214+138
42年9月 36+ 54 13+ 8 24+ 14 0+ 0 1+ 4 39+14 0+ 2 0+ 27 113+123
42年10月 120+ 57 103+ 12 25+ 13 0+ 0 1+ 4 39+17 0+ 2 0+ 30 288+135
42年11月 84+ 66 58+ 12 30+ 17 0+ 0 3+ 3 26+13 1+ 2 0+ 30 202+143
42年12月 48+ 70 10+ 10 18+ 15 0+ 0 1+ 4 7+12 0+ 0 0+ 30 84+141
43年1月 47+ 64 7+ 9 23+ 13 1+ 0 1+ 3 10+13 0+ 3 0+ 36 89+141
43年2月 25+ 73 38+ 15 21+ 16 0+ 0 3+ 3 13+16 2+ 4 2+ 34 104+161
43年3月 25+ 76 32+ 12 21+ 12 0+ 0 2+ 2 20+14 2+ 3 2+ 39 104+158
43年4月 65+ 95 13+ 15 8+ 27 0+ 0 4+ 3 15+19 2+ 3 1+ 30 108+192
43年5月 40+101 23+ 25 26+ 36 0+ 0 1+ 2 25+21 0+ 0 3+ 45 118+230
43年6月 73+114 26+ 41 28+ 57 0+ 0 0+ 3 9+17 1+ 5 1+ 50 138+287
43年7月 93+132 30+ 48 20+ 51 1+ 3 2+ 4 15+32 2+ 5 0+ 40 163+315
43年8月 108+113 30+ 71 15+ 51 0+ 2 3+ 1 17+24 2+ 4 0+ 33 175+299
43年9月 134+125 60+ 82 30+ 41 0+ 0 2+ 4 16+22 3+ 5 0+ 60 245+339
43年10月 112+184 40+ 36 24+ 78 1+ 3 2+ 3 12+36 1+ 4 0+ 55 192+459
43年11月 149+155 70+ 81 52+ 58 0+ 2 4+ 4 15+32 3+ 3 0+ 61 293+396
43年12月 124+130 25+ 77 20+ 64 0+ 0 3+ 3 5+32 1+ 5 0+ 67 178+378
44年1月 80+183 10+ 86 23+ 81 0+ 0 2+ 4 8+27 0+ 5 0+ 72 123+458
44年2月 102+154 22+121 40+ 53 0+ 0 2+ 5 15+32 4+ 5 0+ 80 185+450
44年3月 90+187 18+ 81 20+ 66 0+ 0 0+ 3 12+34 0+ 5 0+ 97 140+473
44年4月 50+123 20+ 72 25+ 85 2+ 3 4+ 8 15+16 2+ 3 0+ 70 118+380
44年5月 60+206 60+190 25+ 70 5+ 6 8+ 6 32+67 7+ 5 0+ 80 197+632
44年6月 370+165 220+105 98+ 44 12+ 8 5+ 9 70+28 14+ 5 0+ 85 789+449
44年7月 46+ 86 20+131 25+ 75 4+ 9 4+10 15+32 1+ 2 0+ 82 115+427
44年8月 34+190 40+135 14+ 70 4+ 6 6+ 7 20+31 2+ 3 0+100 120+542
44年9月 70+220 30+104 44+ 80 6+ 8 3+ 8 21+47 4+ 8 0+100 178+575
44年10月 210+275 120+ 80 91+ 60 19+ 9 14+ 7 35+59 8+ 5 25+110 522+605
44年11月 295+297 100+160 80+ 72 16+ 8 10+ 4 76+47 9+ 5 15+105 601+690
44年12月 110+340 50+115 44+ 80 8+ 6 16+ 6 25+27 3+ 3 10+ 87 266+664
45年1月 95+230 20+ 95 26+ 90 7+ 8 7+ 5 28+32 1+ 3 7+100 191+563
45年2月 85+200 33+100 24+ 77 5+ 6 8+ 5 15+58 2+ 2 15+ 95 187+543
45年3月 146+245 80+ 70 49+ 88 9+ 7 9+ 7 22+52 4+ 4 50+124 371+597
45年4月 335+260 105+ 95 40+ 75 18+11 12+ 7 20+76 4+ 9 80+110 614+643
45年5月 175+220 35+100 30+ 50 13+16 11+ 6 24+76 3+ 8 60+100 351+576
45年6月 140+230 81+110 45+ 90 8+14 14+ 7 35+80 4+10 70+110 397+651
45年7月 180+320 40+120 60+ 90 11+15 7+10 56+90 7+11 120+140 481+796
45年8月 160+400 50+200 50+110 15+29 8+10 64+89 8+10 80+100 435+948
損耗は 戦闘消耗+自然消耗 です.
ちなみに,生産工場~前線までのフェリー中の消耗は,大戦全般を通じて概ね3~5%でした.
大戦前半は遠隔地までの輸送であるため,大戦後半は搭乗員の練度低下のためです.
出典は「連合艦隊」だったと思う.
東宝「映画 連合艦隊」公開絡みで出版された本.
ゆうか ◆9a1boPv5wk in FAQ BBS
青文字:加筆改修部分
【質問】
航空機の主要損失要因は?
【回答】
主として非戦闘要因.
以下引用.
太平洋戦争の特徴の一つは,非戦闘要因で破壊された航空機が多いことだ.
戦争全体を通して見ると,敵前の行動で失われた航空機は,たったの25%にすぎない.
残りの原因は天候不順,空母からの発着艦ミス,急造滑空路による事故と,熱帯性気候による航空機の損傷だった.こうした太平洋独特の状況のため,航空機のロスは欧州戦線などよりはるかに高かった.
アリューシャン作戦では,なんと87%が非戦闘要因による損害だった.
たしかにアラスカには熱帯性の気候はなかったが,北極の悪天候が航空機の寿命を大幅に短縮したのである.
「第二次世界大戦 あんな話こんな話」 ジェイムズ・F・ダニガン
アルバート・A・ノーフィ 大貫昇=訳 文春文庫,P295
また,ダニガンは,
「日本軍は航空機輸送での損失が不可解なほど多い」
とも書いている(ソースは失念).
日本陸軍機損失23,835機中,輸送中の損失は2,015機.
日本海軍は輸送中の損失は区別されて無いが,でもまあ常識的に考えて陸軍より比率が高いだろう.
海軍機の統計は,損失27,120機中,作戦消耗10,370機,自然消耗16,750機.
ちなみに,彼がデザインしたゲーム「WarInThePacific」<SPI/HJ>では10機単位で航空機を管理しており,4週間ごとに作戦配備してある航空機の10%,輸送を行った航空機の20%を損耗する.
比率はなぜか?日米共通となっている.
【質問】
戦争末期の日本本土における保有機数は?
【回答】
陸軍航空総軍
第一航空軍 特攻機×600 +その他×500(本州東)
第六航空軍 特攻機×1000+その他×400(本州西)
第五航空軍 特攻機×500 +その他×200(朝鮮・満州)
※ その他8月までに特攻機500~1000機整備予定
海軍 5225機
ただし海軍の2500機は中練,400機は白菊.
確か戦史叢書から引っ張ったもの.
ゆうか ◆9a1boPv5wk in FAQ BBS
青文字:加筆改修部分
特攻機「剣」
(画像掲示板より引用)
【質問】
第二次世界大戦時の日本軍(特に陸軍)の整備システムについて,より知りたくなりました.
図書館の戦史叢書のめぼしい巻を読んでみたところ,航空廠,野戦整備廠,独立整備隊や飛行場大隊,飛行戦隊整備隊等,各級整備組織が記載されておりました.
そこで,この組織たちの住み分けというか,どの段階の整備をどこで行うかについて,詳しく知りたくなったのですが,お勧めの本があれば教えて下さい.
【回答】
残念ながら,戦史叢書の「陸軍航空の基盤1・2」だったかが一番まとまってると思う.
飛行場大隊は中間整備で云々みたいなことが,いくらか書いてあったでしょ.
多少とも体系化された資料としては,下手すりゃ唯一なんでは.
おそらくもっと知りたければ,一次資料を漁るしかないと思う.
自分で防衛図書館に潜って,戦史叢書の参考文献にあたったり,整備員の従軍記類から事象を拾って,自分で体系化したり.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
開戦から終戦までずっと活躍できた飛行機は,日本にはあったの?
【回答】
原型は零戦・隼とほぼ同時期の百式司偵は,終戦最期まで輝きを失せなかった.
三型では630km/hに達し,さらに後期量産(改造)型は12km/hの増加となった.
P-47とP-51のみいくらか優速であったが,上昇追跡となることが多いため,振り切られる場合が多かったといわれている.
百式司偵に関して言えば,エンジンを高性能な物にとっかえひっかえすれば,よほどのことが無い限り,ずっと使い続けられるていうのは,ごく普通のことだと思います.
1型でハ26-1公称875HPを,3型ではハー112公称1350HPに換装し,さらに風防の改設計など機体構造にまで手を入れてれますし……
例えば,Bf109は1935年に初飛行の機体を1945年まで10年間使い倒してます.
スピットファイアに至っては,1936年に初飛行なのに,最終生産機がロールアウトしたのは1948年,実に12年間後のことで,さらには1955年まで実戦的な任務についています.
(これは空母用ジェット機の開発が遅れてたせいもあります)
当然,これらはエンジンや機体構造など,改良に改良を重ねた結果ですが,百式司偵にしたってエンジンと機体設計を変えてるので,立場は一緒です.
まともなエンジンさえあれば,機体設計などどうにでもなるという好例だと思います.
あと,偵察機も含めるのであれば,零式三座水上偵察機のことも忘れないでやってください.
昭和15年に採用されてから終戦まで,海軍の目として飛び続けました.
奇襲直前の真珠湾の偵察をはじめ,偵察や連絡,一部では船団護衛や魚雷艇攻撃,対潜哨戒など幅広い任務につき,百式司偵に勝るとも劣らない活躍をしています.
スペックが平凡だからこそ,あまり気付かれないんです.特にスペックばっかり見てる人たちには.
極東の名無し三等兵◆5cYGBbCsjQ in FAQ BBS
百式司令部偵察機
戦後も緑十字の連絡機としてつかわれたもの
(画像掲示板より引用)
【質問】
旧日本軍の試作機はみんな赤色(ダイダイ色?)なんでしょうか?
【回答】
海軍の国産機だけです.
但し,太平洋戦争末期になると,黄橙色を全面塗装する形にならず,上側面は実戦機と同じ,濃緑色に塗装して,下面のみ黄橙色に塗装することが多くなり,戦争最末期は,それすら除いて無塗装か,実戦機と同じ塗装になる事が多かった訳で.
陸軍は試作機であっても,実戦機と同じ塗装でした.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板
▼ オレンジ塗装(橙黄色)の試作機は実は海軍のみです.
陸軍機は試作機でも実戦機と同じ灰緑色単色で,後に銀色無塗装に変更されています.
(前者はキ‐43,後者はキ‐61・キ‐84等)
これに対し海軍機は,12試艦戦では明灰白色(灰緑色)に塗装されており,14試局戦(雷電)では当初は同じく明灰白色塗装でしたが,後に橙黄色に塗りなおされています.
これより後,昭和18年以降の海軍試作機は橙黄色で統一されています.
名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE in 軍事板
青文字:加筆改修部分
▲
【質問】
第二次大戦の日本の飛行機で日の丸ではなく十文字のマークをつけている写真を何枚か見たことがあるのですが,あれはどこの国のマークですか?
当時,日本には輸出する余裕なんてあったんですか?
【回答】
白一色の機体に緑の十文字のマークは,ポツダム宣言受諾後の日本機の連合軍指定塗装.
軍使を乗せた連絡用途の機体等は,このマーキングにすることを求められていた.
例えばこれがそうで,この塗装の一式陸攻は,降伏宣言調印準備の要員を沖縄の伊江島に運んだ有名な機体.
軍事板
青文字:加筆改修部分
カラー写真
十字のマークが緑がかっているのがお分かりだろうか?
(画像掲示板より引用)
【質問】
フクちゃんノーズアートとは?
【回答】
ノーズアートとは飛行機の機首部分に,グラマラスな女性やコミックのキャラクターなどをペイントしたもので,主に連合軍の爆撃隊の中で流行したものです.
機体の守り神,機体への愛着心を発露として生まれたもののようで,単なる落書きとは違い,芸術として評価する声も高まってきてます.
一方,旧日本陸海軍ではどうだったかというと,兵器全ては天皇陛下から下賜された大切なものという考えがあったため,畏れおおいという理由からノーズアートの類は比較的低調に終わりました.
ただし特攻機は例外で,今でも各自思い思いの超度派手な塗装で出撃する特攻機の写真が残っています.
そんな中でも異色だったのが,ジャワ島のバンドン飛行場で捕獲されたB17-Eの機首に描かれた当時の人気漫画「フクちゃん」です).
しかもこれを書いたのは当時,軍属の報道班員として派遣されていた当の「フクちゃん」の作者本人である横山隆一氏の手によるものというから驚きです.
その後も横井氏は,当時バンドン飛行場に駐留していた陸軍飛行第75戦隊の,99式双軽の機種にも同様のものを描き,隊員に大好評を得たそうであります.
手元の資料によれば,その後も内地の飛行244戦隊(東京都調布),「明野教導飛行師団」(三重県明野)でも,フクちゃんの描かれた機体が存在したそーなんです.
だれかこの飛行244戦隊,明野教導飛行師団でフクちゃんの描かれた機体画像をお持ちではないでしょうかね?
ほっけは一度も見たことがないのですが・・・
ところで,実はこの人気漫画をノーズアートとして描くという風習は,今の日本でも脈々と受け継がれていたりするのであります.
http://meteors.blog85.fc2.com/blog-entry-65.html
個人的には永野護氏のノーズアートが,それっぽくてセンスを感じさせますね.
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq01j99.jpg
ほっけ = うるふ in mixi,2007年07月22日19:44
「フクちゃん」ノーズアート
(画像掲示板より引用)
【質問】
太平洋戦争末期の日本陸海軍のジェット機のまとめお願いします.
【回答】
陸軍
キ201「火龍」(参考:Me-262/試作中に飛行せず) ジェット戦闘機
キ200「秋水」(参考:Me-163/8月10日,滑空試験に失敗,飛行できず) ロケット戦闘機
キ148(参考:無し/イ号一型甲ならびに乙/試作・生産) 誘導弾
キ48(九九式双発軽爆撃機/エンジンテストベッド) 試験機
海軍
「橘花」(参考:Me-262/8月7日,飛行試験成功,試作のみ) ジェット有人特攻機
MXY7「桜花」22型(参考:C.C.2+桜花11型/8月12日,飛行試験失敗,生産中) ジェット有人爆弾
P1Y1「銀河」試作機(参考:なし/エンジンテストベッド) 試験機
J8M1「秋水」(参考:Me-163/7月7日,飛行試験に失敗,試作のみ) ロケット戦闘機
MXY7「桜花」(参考:なし/実用化) ロケット有人爆弾
技研「奮龍」(参考:なし/試作実験直前に敗戦,試作のみ) 対空ミサイル
以後,計画機
桜花43型(参考:桜花22型)
震電改(参考:震電)
景雲改(参考:景雲)
銀河改(参考:銀河)
眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2004/11/14
青文字:加筆改修部分
【質問】
日本の飛行艇乗りの人の戦記って,案外ないんだよな.
結構探してるが,日辻さんとかの本位しか見当たらない.
【回答】
結構ありますよ.
有名どころでは北出大太「奇蹟の飛行艇」
97大艇ひと筋に歩んだ奇蹟の機長.
空戦も軽々,97大艇でグラマンも撃墜.
この人でないと成功しなかったのでは,という救出作戦も複数.
他にも長峰五郎「二式大艇空戦記」
こちらは若い操縦士,ウルシー特攻誘導機です.
以下は検索にて発見.
『炎の翼「二式大艇」に生きる 飛行艇空戦記 証言昭和の戦争リバイバル戦記コレクション』
(木下悦朗,光人社,1990.10)
軍事板,2010/05/21(金)
青文字:加筆改修部分
【質問】
家の倉庫から,こんな写真が出てきたんだが,〔略〕詳細を教えてくだちい><
【回答】
90式一号飛行艇.
軍事板,2011/06/20(月)
青文字:加筆改修部分
広廠 九〇式一号飛行艇 H3H1 は,日本人が設計した初の全金属製大型飛行艇.
陸軍の超大型重爆開発計画に刺激された海軍が,金属製航空機の設計に造詣の深かった広海軍工廠航空機部に開発を命じたもの.
1929(昭和5)年に試作機が完成し,翌年,初飛行したが,試験飛行を繰り返した結果,安定性,操縦性,エンジンの冷却不良が指摘された.
数度の改修がなされたが,にも関わらず問題点は解決しなかったため.制式採用されることなく,試作機1機が製造されただけに終わった.
【参考ページ】
http://military.sakura.ne.jp/ac/h3h.htm
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/3853/jnrs/jnrsC226c.htm
【ぐんじさんぎょう】,2011/07/16 20:20
を加筆改修
【質問】
九七式輸送機とは?
【回答】
中島が国産化したDC-2は中島飛行機の製作機に多大な影響を与えました.
その最大の成果の1つが一式戦闘機「隼」ですが,それよりも中島悲願の大型機として,海軍向けのLB-2,陸軍向けのキ19が試作されています.
しかし,何れも制式採用には至りませんでした.
唯一,中島の大型機として量産されたのが,今回取り上げる中島AT-2旅客機です.
これは元々,DC-2の国産化に携わった明川清技師が設計主務となり,AT-1は計画のみに終わりましたが,計画を再検討し,満州航空が要求した,定期便に使用出来る,DC-2と被らない規模の機体で,乗客8名を乗せ,「寿」双発で運行速度300km/h,特に満州の冬期に於ける40km/hに達する西風を考慮してもこの速度が出せる性能を持つ中型輸送機として設計されました.
最初,この飛行機の名称は,Nakajima Aerial Transport(NAT)とか,Nakajima Commercial(NC)などが考えられましたが,「N」の文字自体が社名と重複するとして斥けられ,設計主務者の名前を取ったAkegawa
Transport,略称ATが採用されました.
この機体,主翼の内翼はダグラス式,外翼は海軍が輸入したノースロップガンマ2E攻撃機のそれを参考にしたノースロップ式となっていましたが,其処此処に独自の方式を取入れています.
例えば,胴体は角形断面として主翼との干渉抵抗を少なくし,フィレットを小さく,また尾翼形状も考慮されて静安定を小さく,減衰を大きくする様に考慮されていました.
更に翼形は比較的薄翼を採用しました.
こうした配慮も相俟って試作は順調に進み,1936年9月12日に初飛行しましたが,原型機から殆ど何の改造も行わないまま量産に入り,操縦士にも安定性,操縦性共に極めて好評だったと言います.
その胴体,特に機首と風防まわりは非常に特徴的で,機首は操縦席からやや下向きになっており,これは地上滑走時に前方視界を妨げない工夫となっていました.
風防の方は,普通の飛行機が「/」になっているのに対し,逆方向の「\」となっています.
これは気流が風防側面を滑らかに流れることを狙ったとされています.
実際,冬期の満州に於いて,吹雪の中飛行しても風防に雪が付かず,夏期には風防側面窓を開けてもDC-2よりも風が吹き込まなかったと言います.
1号機は試験飛行の後,満州に送られ,彼の地で国光号と命名されて満州航空の路線に投入されました.
続いて,中島では1937~1940年にかけて,民間機として33機生産して,満州航空の他,日本航空輸送,中華航空,逓信省航空局乗員養成所に引き渡されました.
因みに,日本航空輸送では初期の機体には「浅間」,「鹿島」,「箱崎」など,後期の機体には「熊野」,「北野」,「出雲」などの景勝地の名前が愛称として付けられています.
初期の機体は「寿」2型改1に故障が多く,また尾輪は小直径のソリッドタイヤだったので,地上角が大きくてグラウンド・ループを起こしやすい欠点がありました.
また初期の機体は,弁ロッドのカバーが付いたイボ付きカウリングを装備しており,スタイリングとしても少し野暮ったいものがありました.
これらの欠点の内,故障の多いエンジンは「寿」41型に換装されて,信頼性を増し,尾輪も直径の大きなドーナツ・タイヤとなって地上操縦性も改善されました.
更に後期型からはNACA式カウリングに変更されています.
そして,この機体は,中島で初めて軍に採用された大型機となりました.
元々,陸軍は無線航法練習機として使用することを計画していましたが,陸軍航空本部兵器研究方針で輸送機の開発が取り上げられたため,輸送機として再検討を行いました.
この方針では,輸送機として,主として整備員の輸送に供する,搭乗員を含む乗員10名の機体で航続距離は1,500kmを要求しており,改修で燃料補給や器材輸送にも利用出来るよう求めていました.
1937年,陸軍はAT-2をキ34として審査することにし,11月に審査を完了しました.
その結果,航続距離は標準状態で1,300kmと要求に満たなかったものの,DC-2の欠点である操縦性能の悪さや離着陸時の偏向は殆ど無く,その上,運航性は良好で,針路保持も殆ど容易だったので,無線航法練習機を改造したものとしては概ね適当とされ,九七式輸送機として採用が決定しました.
中島では1940年までに19機が製作され,陸軍に納品されたほか,海軍にも中島式双発輸送機として少数機が生産され,納品されています.
これらの機体は,ペイロードこそ少なかったものの,幹部輸送や連絡用として好適な機体であり,航空軍や飛行師団司令部,飛行団本部に配属され,司令部付輸送機として活躍した他,落下傘部隊用に改造された機体が一定数ありました.
とは言え,落下傘部隊用に改造された機体はペイロードが少ないので,専ら訓練用でしかありませんでしたが.
こうして見ると結構な数が生産されたように思えますが,中島飛行機で生産されたのは民間型33機と陸海軍向け19機の52機しかありません.
残りの大部分の機体は,中島から製作権を譲受けた立川飛行機が生産したもので,1938年10月から1942年7月にかけて280機が引き渡されており,日本陸軍航空部隊と共に各地で活躍したほか,敗戦後は中華民国空軍,更には紅軍航空隊でも利用されている息の長い機体となっていました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2016/03/15 22:58
青文字:加筆改修部分
【質問】
この写真,説明には韓国語で,2次大戦中日本軍輸送?と書いてあるらしいのですが,この機体(ロッキード
F14WG3)は日本軍の物でしょうか?
【回答】
ロ式輸送機として,陸軍が1938年にLockheedから30機を輸入し,後に立川飛行機で製造権購入の上,国産化されたものです.
1940年から生産を始めますが,当時はグラウンドループと低速時の安定性不良の問題を抱えており,翼端固定スロットを追加しています.
立川では1942年まで45機,川崎が1940~41年に掛けて55機が生産されました.
陸軍は要人輸送とか空挺隊用の輸送機として主に使われています.
後に,積載量を増す為に胴体を延長し,離着陸時の安定性不良を改善し,貨物輸送用にした一式貨物輸送機が川崎によって開発されていますが,偶然にもLockheedも同じ思想でLockheed18を開発しています.
【質問】
MXY5(16試特殊輸送機)について教えてください!
空挺部隊用の輸送機で,単発・兵員11名の輸送が可能なスペックというのはわかったのですが,具体的な性能(要求性能)とか,じっさいに試作されたのかとか,よくわかりません.
(毛無し珍毛ボー&bow ◆nCOdVecG1w)
【回答】
製作機数
MXY5:9機
MXY5a:3機
仕様
高翼単葉,木金混合骨組,外板は積層合板および羽布張り
全幅:18m,全長:12.5m,全高:3.57m
自重:1,400~1,600kg,搭載量:1,100kg
MXY5は無動力のグライダーだから,「単発」ってのは間違いだと思うが
軍事板,2005/10/10(月)
青文字:加筆改修部分
例によって蛇足ですが.
空技廠の山本晴之技師を主務者に,日本飛行機の手で試作し,1942年2月~1945年7月までに12機を製作しています.
設計要求は,乗員1名,兵員11名を輸送し,九六式陸攻か一式陸攻1機で2機を曳航出来るもので,離陸滑走距離は800m以内.
風防と胴体の扉は着陸後速やかに開放されて,兵員の進出を容易にすることを考慮しろ,と言うものでした.
主翼はジュラルミン2桁式で小骨は木製.
木金の接着はビニール性溶剤を用い,外面は合板または羽布張りで,フラップ,スポイラー装備.
操縦装置は並列複座で,曳航機と電話連絡が可能な装置を備え,降着装置は離陸滑走時は車輪(実戦時は投下式),練習用は引込式になっていました.
試作機,増加試作機は,霞ヶ浦,木更津で実験が重ねられていましたが,滑空機の奇襲作戦研究が遅れたために実戦には出ずに終わっています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/10/10(月)
青文字:加筆改修部分
【質問】
陸軍で患者輸送機として使われたDH「プスモス」について教えてください.
英国では単距離離着陸性能を活かして連絡機として使われていたようですが,日本ではそんな話を聞きません.三式指揮連絡機を開発するよりも,これをコピーすれば手っ取り早くて良かっただろうに,とか思うのですが,性能の方に問題でもあったのでしょうか?
【回答】
プスモスは,民間では朝日新聞が4機,満州航空が10機,蜂須賀侯爵の自家用機として1機輸入しています.
この他,陸軍が連絡機として5機(愛國64~68号)使用し,後に蜂須賀侯爵の機体も愛國114号として献納されました.
ちなみに,満州航空と陸軍の蜂須賀家を除く献納機は,奉天航空工廠で製造されたもので,在満州官民の献金で献納されたものです.
と言った訳で,一応,陸軍が連絡機に用いていますが,その機数は少ないです.恐らく,軽飛行機関係には余り資金が回らなかったってことでしょうか.
それと,Puss-Mothは荒天に弱く,朝日新聞社機が1932年9月15日に遭難,2名死亡という事件がありましたし,キャビンの狭い2~3名乗りの機体は過小に過ぎたと言うことでもありましょう.
患者輸送機として使われたのは,Puss-Mothではなく,複葉のFox-Mothです.
この機体は室内にキャビンを持つもので,胴体内部に担架を搭載できると言う利点が買われ,輸入機を大阪薬種製薬が2機(愛國95~96号),陸軍軍医団が1機(愛國106号)を献納しています.
また,満州国警察で1機が使用され,残り1機は東京瓦斯電気工業(今のいすゞとか日野の前身)が,購入し,これを研究した結果,国産のKR-1/KR-2小型旅客機を製造し,これらは海軍の連絡輸送機としても用いられています.
De Havillandの機体は,瓦斯電の機体にかなりの影響を与えたと見て良いでしょうね.
眠い人 ◆gQikaJHtf2
▼ 他に患者輸送機としては,フォッカー・・ユニヴァーサル輸送機が,全日本看護婦団から2機(愛国268,269号),その他各種団体からもドルニエ・メルクール(愛国2号),KKY-2など中小の患者輸送機が陸軍に献納されている.
フォッカー・ユニファーサル改造の患者輸送機
(画像掲示板より引用)
消印所沢
▲
【質問】
1926年に行われた国産旅客輸送機競争試作について教えられたし.
【回答】
1926年,逓信省航空局の提唱で,国産旅客輸送機の競争試作が行われました.
新たに民間航空を興す会社に,国産機を使って貰おうと言う事で,愛知時計電機,三菱内燃機製造,中島飛行機製作所の3社が名乗りを上げて,1928年4~5月に完成しました.
愛知はドイツのハインケル社から導入した木製機製作技術を駆使して,最初の国産旅客機として,三木鉄夫技師が設計し(実質はハインケルの手が可成り入っていると言われている),AB-1と言う名称で試作されました.
此の機体は,水上輸送機として1等賞,陸上輸送機として2等賞を獲得した優秀なものでしたが,1929年に設立された日本航空輸送では,実用性に問題有りとして,結局,陸上機として短期間使用されただけで終わってしまい,主力機としては,米国でライセンス生産されていたフォッカースーパーユニバーサルを輸入し,これは後に中島飛行機で国産化される事になります.
このAB-1輸送機は,その後,相羽有氏が経営する東京航空輸送社に売却され,この会社で羽田~下田のローカル輸送に水上機として使用されました.
東京航空輸送は,大正時代,蒲田に設立した日本飛行学校と言う操縦士養成機関を母体に,そのサイドビジネスとして,1929年に定期航空輸送事業に乗り出した会社です.
当時は鈴ヶ森と下田を結ぶ1往復の便で,大人1名15円,所要時間1時間25分の路線でしたが,その頃は未だ羽田が無かったからです.
1930年から東京航空輸送と名を変え,1931年には羽田と下田を結ぶ路線を清水まで延長します.
東京と清水の間は2時間40分,大人1名25円でした.
この東京航空輸送,日本で初めて「エアガール」(今風に言えばキャビンアテンダント)を採用した事で有名な会社です.
ただ,エアガールを乗せると,AB-1輸送機の定員は4名ですからお客は3名に減らさねばなりません.
また通路がある訳ではないので,機内を立っての甲斐甲斐しいサービスではなく,今のバスガイドみたく,観光案内をするだけの存在だったようです.
それでも,3名の募集に対して141名の応募があったと言う事ですから,相当注目された職場だったみたいですね.
中島が製作したのは,フランスのブレゲー28型輸送機を元に,それを金属製骨組みにしたようなN-36旅客機でした.
1928年5月に1号機,1929年4月に2号機が完成しますが,1号機は5月3日に初飛行を実施し,翌日,満載状態での試験をするため,加藤寛一郎飛行士の操縦で,工員7名を乗せて尾島飛行場を離陸し,高度100mに達した頃,突如真っ逆さまに墜落して,爆発,全員が死亡すると言う惨事を引き起こしました.
この為,2号機は各部に改造を加えられて1929年5月以降,日本航空輸送の実験機として立川飛行場と羽田飛行場をベースに,主に貨物輸送と乗員訓練にに利用されました.
三菱が製作したのは,英国人スミス技師が設計し,好成績を収めた一三式艦上攻撃機の主尾翼を流用し,それに木製骨組みの客室の付いた胴体を取り付けたMC-1旅客機でした.
これは1928年4月に完成し,6月から1929年4月まで朝日新聞社東西定期航空会の定期航空便に使用され,その後,1929年6月から1930年5月まで,日本航空輸送に機材が譲渡されて,福岡と蔚山を結ぶ定期航空便に使用されました.
で,その後,MC-1はどうなったか,と言えば,1931年7月に山陰は城崎(あの温泉で有名な観光地)に設立された日本海航空と言う航空会社が購入し,水上機として木津川と城崎(円山川)を結ぶ路線に投入されています.
当時は,山陰本線には蒸気機関車がエッチラオッチラ走っている時代で,城崎まで来るのは1日仕事でした.
それでなくとも,城崎は1924年に震災があって壊滅的な被害を被っており,それから漸く復興して,日帰り観光の需要を喚起したいと言う狙いがあったのかも知れません.
社長には城崎町の元町長が就任しました.
勿論,毎日此の路線を運航すると赤字を垂れ流すことになりますから,運航は土日限定1往復,また8月1日から10月1日の夏季限定路線でした.
大阪と城崎の間の所要時間は90分で,運賃は大人12円.
米10kgが当時2円だと言う事を考えると,当時でも決して安いものではありません.
しかし,何だかんだ言っても,それなりに需要はあったそうです.
定期航空の合間にはチャーター便として,城崎遊覧飛行(1回5円),城崎と天橋立の不定期路線(片道10円,往復15円)と言う観光地輸送も行っていました.
その後,この航空輸送は好調だったのか,それとも城崎までの路線では不便だったのか,松江まで延長されています.
折角,軌道に乗りかけた日本海航空でしたが,残念ながら,1938年頃には交通調整で,日本航空輸送に吸収され,消滅してしまいました.
勿論,MC-1も耐用年数が来たのか,1938年を境に消えてしまいました.
今,但馬空港にはMC-1のレプリカが展示されているそうですが,それにはこの様な由来があった訳です.
静岡空港には…AB-1のレプリカ展示は無いでしょうね.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/10/08 22:47
【質問】
祖父から聞いた戦時中の話について質問させて下さい.
祖父は当時十代後半で,埼玉県の旧大宮市にあった軍需工場で働いていたそうです.木製飛行機の製造を行っていたとか.
そこで質問なのですが,木製機がどのようなものであったのか,お教えいただけませんでしょうか.
【回答】
木製機として代表的なものとしては,東京キ107練習機,国際キ86練習機,キ105輸送機,キ76連絡機,立川キ106戦闘機,満飛キ116戦闘機,空技廠の明星爆撃練習機があります.
このうち,東京航空は新潟,国際は東京,神奈川と京都に工場を持ち,満州飛行機も満州にあり,明星は,実際には大阪と滋賀の松下飛行機で製造されています.
大宮には中島飛行機の大宮工場がありますから,中島系の機体であるかもしれません.
とすると,立川ですが,キ106の生産は,岡山と苫小牧の王子航空,富山の呉羽紡績で生産されていますので,大宮には当てはまりません.
可能性としては,国際キ86かキ76の可能性が高いのではないでしょうか.
キ86は,四式初歩練習機として採用された陸軍の初等練習機で,元はドイツのビュッカーBu131ユングマン練習機です.
キ76は,三式指揮連絡機として採用された陸軍の連絡,哨戒機で,ドイツのフィーゼラーFi156の影響を強く受けた短距離離着陸の可能な機体です.
思いっきり外している可能性は非常にありますが….
眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/12/10(土)
青文字:加筆改修部分
【質問 kérdés】
中華民国空軍のイタリア機について教えてください.
【回答 válasz】
1930年代,日本の軍拡に対抗して中華民国は,様々な国から兵器を買い入れます.
残念ながら陸戦兵器と異なり,国産航空機産業の規模は日本に比してかなり小さかったので,輸入に頼らざるを得ませんでした.
それこそ手当たり次第と言う感じで,米国,英国,フランス,イタリア,ドイツ,ソ連,その上,仮想敵国の日本に至るまで購入先は様々です.
米国やソ連の飛行機とは異なり,いずれも少数機の導入となり,殆ど戦力として体を為していませんでした.
もっとも,中華民国と言っても,実態は中央政府の軍は少なく,地方軍閥の政府の軍も多数有って,政府同士の戦争の時には,兵器のリストを交換して,うちの方が弱いから降参!みたいな冗談のような戦争をやっていましたからね.
イタリアからはBreda Ba.27,Fiat C.R.32が輸入されました.
Ba.27はBoeing P-26に着想を得た低翼単葉固定脚の戦闘機です.
イタリア空軍に売り込みが図られましたが,イタリア空軍は小回りの利く複葉機優勢思考が幅を効かせており(何しろ,第2次世界大戦でもC.R.42を開発した国だし),不採用となりました.
そこでBredaは海外に活路を見出し,輸出用戦闘機として各国の軍隊に採用を働きかけます.
これに中国政府が引っかかり,18機のBa.27を発注しましたが,実際に引き渡されたのは11機のみでした.
これらの機体は第29中隊に配備され,江蘇省や広東省の基地に配置されていました.
日中戦争が勃発した1937年8月,これらの機体は統べて地上で破壊されてしまい,何等戦争には役に立ちませんでした.
C.R.32は,イタリアが誇る航空機設計者のCelestino Rosatelliが設計した中で最高の戦闘機です.
こちらは格闘戦が得意な複葉固定脚の機体として,イタリア空軍にも採用され,スペイン内戦でも活躍しました.
1935年,イタリア空軍の教官団が中国を訪問した際に,その教官団が操縦した同機の機動力に中国軍関係者は感銘を受け,9機を購入し,空軍第3大隊第8中隊に配備されます.
これらの機体は南京に配備され,首都防衛の第一線で使われました.
日中戦争勃発時から日本軍の爆撃機を相手に奮戦し,年末までに全機が失われたそうです.
大型機としては,Savoia Marchetti S.M.72が先ず導入されました.
これはイタリア伝統の3発高翼単葉固定脚機で,この機体は先ず最初に,Benito Mussoliniから蒋介石へのプレゼントとして,輸送機バージョンが1機引き渡され,蒋介石は専用機として用いました.
その後,爆撃機バージョンが6機,1935年にイタリアから引き渡され,南昌飛機製造廠で組み立てられます.
これらの機体は第8大隊第10中隊に配備され,日中戦争時には後方で貨物や人員輸送に用いられています.
次に,同じくSavoia Marchetti S.M.81Bが発注されました.
この機体は,イタリアでは3発低翼単葉固定脚の輸送爆撃機なのですが,輸出型は機首のエンジンは無くなり,空冷から液冷エンジン双発となっています.
この機体も6機が発注され,南昌飛機製造廠で組み立てられていたのですが,工場が爆撃に遭い,3機しか引き渡されませんでした.
これらは第13中隊に引き渡されたのですが,品質が悪かったのか,1938年2月までに宣昌で訓練期間中に全機が失われています.
眠い人 Álmos ember ◆gQikaJHtf2,2019-12-17
【質問 kérdés】
オランダ軍からオーストラリア軍に引き渡された航空機について教えられたし.
【回答 válasz】
1941年12月に太平洋戦争が始まります.
日本軍は南方を瞬く間に席巻し,連合国は多くの損害を出しました.
連合軍は豪州大陸にまで撤退し,反撃の態勢を整えますが,様々な連合国の機材が豪州に敗走しました.
特に,豪州に近い蘭印では,米国に発注していたMartin 139/166爆撃機が58機,Curtiss Hawk75A-7戦闘機24機,Curtiss Wright CW-21B戦闘機24機,Brewstor B.339O戦闘機59機を擁していたものの,シンガポール防衛用にHawk75A-7部隊を送り出したのと,広い国土を守るには不足し,1942年2月の撤退の時点では,B-339Oは27機,Martin 139/166は35機,Hawk75A-7は全機失われていました.
海軍航空隊としてはドイツとオランダで生産されたDo.24Kが37機,主力として配備されていたほか,PBYが36機,A-20が6機引き渡されていましたが,後者は間に合わず,1機が日本軍に鹵獲されています.
この他,本国で生産されたFokker T.4雷撃水上機11機,C.11W水上偵察機8機が配備されていましたが,日本軍の攻撃で大多数が失われ,連合国の領土に辿り着いたのは,セイロンに逃れた4機のPBY,豪州に逃れた6機のDo24KとPBYが5機のみでした.
1942年4月29日,Rathminesの基地で豪州空軍に引き渡され,A49となった6機のDo24Kは,総てドイツ製の機体で,1937年に生産されたものです.
ただ,かなり酷使されたため,オランダから引き渡された際には,金属部分がかなり腐蝕していたそうです.
しかし,連合国の航空機不足の為,これらの機体も修理しながら豪州大陸とニューギニア近辺で,物資輸送とか救難用に利用されました.
中でも6号機は,蘭領ニューギニアに於いて,亡命オランダ空軍での諜報員送り込み任務専用機として1943年10月に豪州空軍に引き渡されるまで用いられています.
5号機はDarwinに分遣されていましたが,1944年3月11日に港湾火災で沈没し,部品取りに転用されました.
それ以外の機体も1944年12月20日,部品が枯渇したために退役を余儀なくされました.
民間機としては,New Guinea Airwaysで3発のJunkers G.31が1機,単発のW.34が2機用いられていました.
これらの機体も,1942年1月30日,3月5日,3月24日に豪州空軍に引き渡され,何れもA44と命名されました.
元々,不整地滑走路からの離着陸に定評のある機体でしたから,民間航空時代同様にNew Guineaへの物資輸送に用いられましたが,G.31は1942年10月30日に事故を起こし,修理したものの1943年3月14日には耐空証明が切れて部品取りに転用され,W.34も1943年6月16日に部品取りに転用されてしまいます.
これらの機体はQueenslandからRathminesの基地に移され,解体されてしまいました.
眠い人 Álmos ember ◆gQikaJHtf2 : 2019/03/20 23:36
【質問】
タイに提供された日本機には,どんなものがあるのか?
【回答】
島千秋によれば,全93機.
以下の種類があるという.
1) タイ空軍
立川 | 98式直協(キ36) | 9 |
中島 | 1式戦2型(キ43) | 12 |
三菱 | 97式軽爆(キ30) | 9 |
三菱 | 97式重爆1型(キ21) | 9 |
中島 | 97式戦甲(キ27) | 12 |
満州 | 2式高練甲(キ79) | 12 |
2) タイ海軍
三菱 | 零式観測機(F1M2) | |
立川 | 95式中練(キ9) |
(別の資料では,95式水偵や零式3座水偵もあるとの説あり)
詳しくは
『航空ファン』2001年4月号
を参照されたし.
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