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『石油技術者たちの太平洋戦争 戦争は石油に始まり石油に終わった』(石井正紀著,光人社NF文庫,2008.2)

 戦時中のパレンバンにおける製油事業の実態を,占領のための空挺作戦や各人のエピソード,そして日本の燃料事情全般を交えつつ記述した本.
 ちなみに1991年単行本出版,97年文庫化,
 俺が持っているのは,2008年の新装版.

 まあ,なんというか,例によって着想は大変いいのだが,その後を考えていなかったために酷いことになる,石油生産・輸送のお話が載っている.
 海軍と陸軍が石油を取り合い,パレンバンにアポなしで入ってきた,海戦直前の海軍のタンカーに懇願され,割り当てを無視して石油をあげたら,上から怒られたという話とかも載っている.
 変わったところで,はミッドウェー海戦における膨大な燃料消費は,海戦の敗北と同様に海軍を驚愕させ,以降,燃料によって作戦が制限されて,全体として十分に実力を発揮できないという,本末転倒な状態になっていたという指摘があり,興味深かった.

 大戦後半になると,パレンバンに来るタンカーはほとんど無くなり,政府は泥縄式に国内油田の強化を決定する.
 それに従い,阿波丸に乗り込んで海の藻屑になったり,あるいは空襲から気合で復旧してまで精製した石油製品を,貯蔵タンクが満杯で毎日燃やしていたりした,
 精鋭の石油技師たちの無念は.いかばかりであろう….

 また,空襲こそあれ,戦火が及ばず,比較的平穏だったパレンバンにおける生活や,軍人と石油技師などの徴員との軋轢についても描かれている.
 ただ,俺には軍属と徴員の違いがよくわからなかった.

「日本は石油で戦争をはじめ,石油が無かったから負けた」
と,よく言われるが,実際のところ,その「石油」事情はどのようなものだったのかを知るためには,いい本だと思う.

------------軍事板,2012/01/26(木)

 【質問】
 WW2当時の世界の石油生産量は?

 【回答】
 国際連盟の調査によれば,昭和15年分で以下の通り.

国名 年産量
(単位:万kl)
比率
(%)
アメリカ 19'500 63.5
日本 30 0.1
中南米 ベネズエラ 4'200 14.0
メキシコ
コロンビア
アルゼンチン
ペルー
中近東 エジプト 1'300 5.0
イラン
イラク
ドイツ圏 ドイツ 740 3.0
ルーマニア
ハンガリー
カナダ 120 0.4
蘭領印度 800 3.0
ソ連 3'200 11.0
合計 29'890 100.0

(from 「1億人の昭和史 日本の戦史」8,毎日新聞社,1978/12/25, p.139)


 【質問】
 日本の石油はどこから賄われていたのか?

 【回答】
 主にアメリカ.
 そのため,パレンバン石油に目をつけることになったという.
 以下引用.

 日本の石油生産量は年間40万t以下.
 約500万tの需要に対し,自給率は1割にも満たなかった.
 37年には「人造石油7ヵ年計画」を策定し,ドイツと同じように開発したが,生産量は全く期待できない状態だった.
 石油の不足分は海外からの輸入に依存せざるをえず,しかも,最大の輸入相手国は米国だった.石油の対米輸入量は35年(昭和10年)時点で年間231万t.輸入全体の67%を占めた.
 日中戦争の泥沼化で石油の需要はさらに拡大し,39年には対米輸入量は全体の90%に達した.
 つまり,日本は第1次大戦後,米国をソ連と並ぶ仮想敵国と見なしながら,最重要の軍事物資である石油を,米国に決定的に依存していたのだった.

 この矛盾を解消できる可能性が40年(昭和15年)夏,突如,降って沸いた.
 もたらしたのはナチス・ドイツだった.ドイツは39年9月の第2次大戦開戦直後,欧州大陸で快進撃を続けた.40年5月にはオランダを占領,翌6月にはフランスを降伏させた.
 オランダが植民地としていた蘭領東インド(蘭印,現在のインドネシア)には,アジア随一の産油量を誇るパレンバン油田があった.
 この油田は米国とオランダの資本により開発された.
 石油生産量は年間470万t.増産に務めれば,この油田だけで日本の年間需要を賄えるほどだった.
 仏領インドシナ(仏印=現在のベトナム,カンボジア,ラオス)と共に,「無主の地」になりそうなこの地域を手に入れることができれば,米国依存経済から脱却できる――軍部も政府も,南方進出という「悪魔に見入られた思索」(作家・土門周平氏)にとらわれたのである.

読売新聞 2005/12/22


 【質問】
 太平洋戦争前の日本は何故,軍艦や軍用機の燃料だけは,アメリカの石油資本に任せていたんですか??

 【回答】
 当時は中東の油田は殆ど発見されておらず,米国が世界最大の産油国で,世界2位の産油国インドネシアを支配していたのは,オランダと英国の合弁のシェルだった.

 満州には石油があったが,日本はそれを探し当てることが殆どできなくて,日本石油が新潟で極僅か生産していたにすぎない.

 とはいえ,石油炊きボイラにくらべ,石炭炊きボイラは同じ重さで蒸発量=出力が2/3以下で,当時は人力給炭に近い状態だったので,軍艦は石油炊きしか選択の余地がなかった.

 仕方ないのでインドネシアを占領と石炭液化の二本立てで考えたが,後者は技術や材料の問題でドイツでは成功したが,日本は失敗した.


 【質問】
 WW2までの日本の石油自給の状況は?

 【回答】
 1933年時点で,日本の石油自給率は20%弱に過ぎません…
 まぁ,現在よりは遙かにマシかも知れませんが.
 1910〜45年に掛けての産油動向では,1915年の47万キロリットルが最高で,1918年には約40万キロリットルに落ち込み,以後は年間平均すると20〜30万キロリットルの間をウロチョロするくらいしかありませんでした.

 日本海軍の軍艦はこの時期,一大革新を迫られていました.
 日露戦争頃までは,艦船の燃料は石炭であり,カロリーの低い点にさえ目を瞑れば,国産石炭で自給出来ました.
 ところが,重油への転換が大海軍国である英国から始まると,それに追随すべく,研究が開始されています.
 海軍で重油が艦船燃料として正式に登場するのは1906年,横須賀に6,000トン重油タンク1基が建設されてからのことです.
 しかし,重油への転換は,第1次大戦後の物価急上昇,油槽船の極端な不足などで海軍による国内重油の入手は困難を極めます.

 そこで,海軍は1918年1月に「軍用石油需要の根本策覚」を作成し,増大する石油需要を満たす為には,国内石油事業の官営化,国内石油会社の一体化,海軍製油所の創設を掲げて内閣に提出しましたが,国の燃料政策を揺るがす根幹を含んでいた為,閣議決定には至りませんでした.
 その代り,時の海相加藤友三郎は「軍事上の必要に基づく石油政策」を立案させ,政府部内に回覧することで,要路への燃料政策の浸透を図っています.

 ところで,日本と言う土地は前にも触れた様に,ダイヤモンド以外の全ての鉱物を採取出来る恵まれた土地です.
 ただ,少量多品種と言うレベルなので,商業生産には中々乗りにくいのが現状であり,現在稼働している鉱山は,殆どが石灰や石くらいなものです.

 石油も勿論産出します.
 日本の伝統的な産油地域は新潟と秋田,これに北海道が続きます.
 日本に於ける近代石油業の始めは,1871年に石坂周造と言う人物が新修長野に長野石炭油会社を興し,1873年に外国人技師を招いて,米国式掘削機で信州善光寺と越後尼瀬で試掘を行ったのが始まりです.

 その後,新潟には西山,新津,東山,大面,尼瀬,高町に主要油田が作られました.
 西山油田は長岡市を中心とする中越平野の西の西山山脈地帯にあり,比較的多量の揮発油を含有しています.
 高町地区は,この西山油田の一部で,1928〜30年の産油量増加は,この地区の生産に負うことが大でした.
 東山油田は長岡市から東方8kmの地域に位置し,また,大面油田は南蒲原郡にあり,1916年には日産5,000石に達したこともありました.
 新津油田は旧新津町の平地と山岳地帯にあり,質の良い潤滑油が得られました.
 尼瀬油田は三島郡の西部海岸地域にあり,石油工業発祥の地でもありました.

 明治から大正に掛けては,新潟の油田が日本の産油量を支えていましたが,その生産量は年々減少の一途を辿り,1908年には180万石と日本の産油量のほぼ全量を産出していたのが,1920年代にはその生産割合は約半分にまで落ち込んでいます.
 1928年以降は,高町地区の開発に成功し,再びシェアを高めることになりました.

 その新潟に代わってシェアを伸ばしたのが秋田で,秋田には黒川,濁川,由利,旭川,豊川,道川,院内,小国,響,雄物川,八橋などの油田があります.
 特に秋田市の北16kmにある黒川油田は,1914年にロータリー式掘削機を導入した第5号井が日産1万石を記録し,黒川の大噴油としてマスコミに取上げられた為,石油株が大暴騰しました.
 時の海相加藤友三郎は,「秋田に1万石噴出の油井を得たのは,数万トンの軍艦の一時に加わりたるよりも強い」と語るほど,その期待は高かったりします.
 しかし,この油田も1924〜25年をピークに噴出量は減少し,他の豊川,旭川,濁川,由利油田も次第に減産となっていきました.

 その油田に代わって登場したのが,院内,雄物川,八橋の各油田開発で,1934年秋から院内と雄物川油田の開発が急進展し,国内産油量はこれらの油田の増産に伴い,1921年以来,久しぶりに35万キロリットルにまで回復しています.
 院内油田は1932年の綱式による第1号井掘削成功に始まり,1934年ごろから各坑井が日産100〜300石の成績を収めています.
 八橋油田は1934年に上総掘りによる浅層での採油が開始され,翌年から綱式を導入して深度200mで大噴出を見ました.

 北海道は厚真もしくは石狩の両油田での採油です.
 厚真は1928年に生産開始,石狩は明治後半に開始されていましたが,何れも秋田や新潟ほど生産量は多くありません.
 この他,国内では静岡,長野,山形で生産が行われていますが,その産油量は微々たるもので,年産100石程度しか有りませんでした.

 石油の利用は当初は灯心用の灯油が主な用途でした.
 しかし,1907年頃には電灯が主に都市部を中心に普及した為に後退し,その代りとして内燃機関の発達に伴う揮発油や重油の消費量が急激に増えていきました.
 揮発油の供給量は,1916年までは2万キロリットルまででしたが,以後漸増し,1920年代半ばから急増して1924年には19万キロリットル,25年に21.5万キロリットル,26年に28.6万キロリットルへと増えていきます.
 この急増は国内製油所の揮発油精製能力と,輸入量増大によって補われ,揮発油の輸入量は1930年の34万キロリットルから1936年には65.5万キロリットルへと倍に増えました.
 その後は輸入停止で伸び悩み,1941年以降は輸入が途絶して,殆ど輸入出来なくなっています.

 精製能力は,1930年に日産2.6万バレルでしたが,1941年には約3倍に拡大しています.

 こうした輸入原油の利用に先鞭を付けたのは,南北石油社長だった浅野総一郎であり,1908年,彼は南北石油を興して神奈川県程ヶ谷に製油所を設置しました.
 次いでライジングサン石油が1910年に,九州西戸崎(福岡県糟屋郡)に製油所を設け,ボルネオ産原油で製油を開始しました.
 その後,1920年代に入ると第一次大戦後の世界不況と石油の過剰生産によるダブつき解消のため,外国石油資本は発展途上地域への進出を積極的に図っていきます.

 1921年設立の旭石油は,ライジングサン石油の手を経て南方石油を輸入し,軽油と潤滑油の生産を開始しました.
 また,秋田の油田開発を行っていた帝国石油は,山口県徳山に製油所を建設し,アングロ・ペルシャン石油から原油を購入し,小倉石油も石油の輸入に踏み切りました.
 従来から国内石油に大きく依存していた日本石油も,その流れに抗えず,1922年,鶴見に製油所を建設し,輸入原油で精製を開始しました.
 この様な動きは三菱財閥にも飛び火し,三菱は1924年に液体燃料研究会を設置して,外国原油の輸入研究に取りかかり,三井物産は米国のゼネラル石油と提携して重油輸入に従事する様になっていきます.

 この時期,自動車は1916年に約1,000台だったものが,1924年には2万台を超え,1931年には10万台に達し,航空機は1921年に22機だった民間機は,1927年には100機を越え,1931年には147機に増加しました.
 飛行距離も1921年の6.5万キロから,1931年には36倍の235万キロへと驚異的に延びています.

 これによる揮発油の消費量は1925〜30年御間に3.6倍に達しましたが,この内,国内原油での精製で得られた揮発油は14%,輸入原油では27%とほぼ倍,更に揮発油の輸入量は59%に達しました.
 灯油は減っては居ますが,60%は輸入灯油,15%が国内原油からの精製,25%は輸入原油からの精製となっています.
 軽油は1928年以降,意外にも徐々に減っています.
 これは従来発動機船が軽油を燃料としていたものから,大型化して重油を使うことになったからです.
 この生産は,軽油そのものの輸入は無く,輸入原油が55%,国産原油からが45%の生産となっています.
 潤滑油は工業の発展に伴い消費量が増え,1925〜30年の間に30%の増加を見ています.
 但し,輸入潤滑油は半減し,国産潤滑油のシェアが伸びています.
 重油は,最も消費量の多い石油製品であり,1925〜30年の間に3.4倍の伸びを記録しました.
 これはディーゼル機関の普及と,工業用燃料の需要の伸びから来ており,特に比重0.907以下の猟銃油は免税の規程があり,更に石油価格下落に押されて輸入量が増加しました.
 1931年の重油輸入量は1925年の4.3倍に達し,重油の輸入依存度は90%強に達していたりします.

 海軍からすれば,「ガソリン一滴は血の一滴」ならぬ,「重油一滴は血の一滴」と言う状態だった訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/10/14 22:32


 【質問】
 燃料戦備について,詳しく教えられたし.

 【回答】

海軍が

 内地
 原油 143.5万トン,重油 362.4万トン,
 航空揮発油 477.5キロリットル
 イソオクタン 26.926キロリットル
 航空潤滑油 6.470キロリットル
 普通潤滑油 13.6キロリットル
 エチルフルード 61キロリットル
 各種合計 5583.557キロリットル

 内地以外
 推定91.6万キロリットル

陸軍
 約120万キロリットル

民間
 約70万キロリットル


 実際の需給実績は
取得
昭和17年 国産26.5(25),人造石油24.0(30),南方油還送148.9(30),合計199.2(85)
昭和18年 国産27.4(20),人造石油27.4(40),南方油還送264.6(200),合計319.4(260)
昭和19年 国産25.4(30),人造石油21.9(50),南方油還送106.0(450),合計153.3(530)
昭和20年 国産16.0,人造石油4.5,南方油還送0.0,合計20.5

消費
昭和17年 陸軍91.5(100),海軍485.4(280),民間248.2(140),合計825.2(520)
昭和18年 陸軍81.2(90),海軍428.2(270),民間152.6(140),合計661.9(500)
昭和19年 陸軍67.3(85),海軍317.5(250),民間83.7(140),合計468.5(475)
昭和20年 陸軍14.5,海軍56.9,民間8.5,合計79.9

単位 万キロリットル,実績(見通)


 南方の原油生産実績は

昭和17年 387.7
昭和18年 743.9
昭和19年 497.4
昭和20年 132.7

 以上は「海軍軍戦備(2)」に記載がありますよ.

ゆうか ◆9a1boPv5wk in FAQ BBS
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 大東亜戦争当時は,燃料については
(1)南方の油田で原油を掘り出す
(2)分留して使える成分を取り出す
(3)部隊へ
だと思いますが,(2)は南方に設備を作って行ったんですか?
 それとも本土や根拠地まで運んで行ったんですか?

 【回答】
 南方のパレンバンや,パリクパパンの製油施設も第1段作戦で押さえて,昭和18年くらいには損傷の復旧も終わり,原油の精製を再開しています.
 同地にはは元々精油所があり,それを利用しました.
 パレンバンではそのために空挺攻撃よる占領が行われ,「空の神兵」として有名になりました.
 実際には冷や汗ものの勝利でしたが.

 油田と精油所が近いので,本土では石油が枯渇していても,南方では比較的入手が容易,という状況も生まれました.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 戦時中,南方から日本が実際に本土へ送った原油の量は?

 【回答】
 石井正紀「陸軍燃料廠 太平洋戦争を支えた石油技術者たちの戦い」(光人社NF文庫)P.203〜210によれば,日本軍が太平洋戦争緒戦で確保した南方の油田から原油を日本に輸送していたが,戦局悪化に伴い,ついには途絶.
1942年 南方油田の総生産量 約2594万バレル      
      南方消費分(輸送中の海上喪失分を含む) 約1542万バレル
      日本への還送量   約1052万バレル

1943年 総生産量   約4963万バレル
      南方消費分 約3513万バレル
      還送量    約1450万バレル

1944年 総生産量   約3693万バレル
      南方消費分 約3195万バレル
      還送量    約498万バレル

1945年 総生産量   約655万バレル
      南方消費量 約541万バレル
      還送量    約114万バレル

 これにより日本は石油政策を「国内石油産業の復活措置」と「石油代替計画の実施」へと転換.
 国内石油産業の復活については,この為に南方へ送られていた石油採掘技術者約五百人を帰国させようとしたものの,乗船していた阿波丸が45年4月1日に台湾海峡で撃沈され,全員死亡した為,頓挫.

グンジ in mixi,2009年05月30日14:41


 【質問】
 日本の人造石油開発は,どの程度進んでいたのか?

 【回答】
 最高27万tで,約500万tの需要どころか,生産目標である年400万tにも遠く及ばなかったという.
 以下引用.

 人造石油 天然石油の代用燃料として,石炭を加工し,液体化したもの.
 第1次世界大戦の際,国内に油田を持たない英国,ドイツを中心に開発が進んだ.
 日本海軍は1918年(大正7年)以降,満鉄などと研究開発に取り組んだ.
 38年施行した人造石油製造事業法は,
(1)高温高圧で水素と石炭を化合させる「直接液化法」
(2)一酸化炭素と水素を反応させる「合成法(フィッシャー法)」
(3)石炭を乾留,精製する「低温乾留法」
を指定した.
 40年12月に決定した第2次人造石油製造振興計画では,45年度の生産目標を年400万tに掲げていたが,実際の生産実績は最高27万t(43年度)に留まった.

読売新聞 2005/12/22

▼ 油母頁岩は,これを乾溜して精製することで得られる代用燃料で,その精製品は天然石油と遜色なく,蝋分が高い為,潤滑油として最適であり,潜水艦用燃料としても最適なものとされていました.

 その撫順炭砿の油母頁岩層は,全鉱区の上層部に位置しており,最も厚い部分は180mに達し,総量は54億トンでした.
 露天掘の場合,この部分は不要なので,今の用語で言うところの非常にエコだったりするのですが,含油量は上層3分の2の平均は僅か6%,全層での平均含有率は5.4%に過ぎず,製品化するにはコストの掛かりすぎる代物でした.
 生産エネルギーと消費エネルギーの比で出す,エネルギー利益率換算では,当時の技術では油母頁岩は0.5でした.

 つまり,油母頁岩から1の人造石油を産出する為に必要なエネルギー(油母頁岩,石炭,電力,資機材)は2が必要で,到底黒字化は難しかったりします.
 因みに,1980年代に行った日本の実証実験用プラントで,油母頁岩を人造石油にする場合,石油がBarrel当り35〜40ドルになると採算が取れると推計されました.
 その当時は,石油増産で価格が大幅低下していたので,結局このプロジェクトは放棄されたそうですが.

 この油母頁岩精製は,最初英国のスコットランドで行われましたが,1980年代と同様に,米国油田の開発で石油のコストが安くなって断念され,欧米の研究もスウェーデンやエストニアで成果を上げた以外は余り芳しくありませんでした.

 とは言え,精製して石油に近い品質のものが得られるのは魅力的で,資源貧国の日本では代用石油として注目され,日本海軍の要望もあって,1925年から企業化を企図します.
 当時の国産石油は年産35万トンで,全てを海軍に回してもその需要の10%しか賄えるに過ぎず,それを補完する資源として注目された為です.

 当初はスコットランド方式を導入して乾溜しましたが,これでは技術的に難易度が高く,更に採算も合わなかった為,内熱式乾溜法と言う自社技術開発に成功し,1930年から撫順炭砿西製油工場として操業を開始しました.

 この工場では,年間に粗油7万トン,重油5.3万トンの他,硫安1.8万トン,粗蝋9,400トン,コークス4,800トンを得ることが出来ました.

 1936年には工場が拡張され,粗油14万トン,揮発油2万立方メートル,硫安2.6万トンの増産が可能となり,粗油の精製法を改善し,石油需給が逼迫した1941年には,粗油30万トン拡張工事が,日中戦争による資材払底の中完成します.

 更に1939年に粗油50万トン生産計画に伴い,東製油工場の生産を計画,着工しますが,翌年資金資材不足で結局打ち切ります.
 とは言え,太平洋戦争勃発によるエネルギー需給逼迫は益々強くなり,日本政府の要請により東製油工場を再開し,粗油生産19.3万トン,各種製品生産可能な工場として竣工した直後に敗戦となりました.

 この時点で東西製油工場の能力は,合わせて50万トンに達し,日本の石油生産を凌駕していました.
 尤も,この時点で日本に石油を運ぶ術はない訳ですが….

 東製油工場用には東露天掘による油母頁岩採掘が行われますが,こちらは表土層を12〜18m剥離し,頁岩面露出の後,頁岩のみを採掘する方法を採ると言う手間やコストの掛かりすぎるものでした.

 斯うした製油工場建設により,1944年度には赤字に転落しますが,それまでは製油工場も黒字基調で推移しています.

 このほか,撫順炭砿では無尽蔵にある石炭を液化して石油を得る,石炭液化事業も行っています.

 1933年に徳山海軍燃料廠での研究委嘱と,自社中央研究所の研究の結果,1936年に事業化することとなり,1939年に大部分完成し,良質な石炭液化一次原油を製出する事に成功します.
 主にこれらは,自動車用揮発油として使われ,零下環境に於ける走行試験にも成功しました.

 しかし,軍部が要求する高オクタン価航空燃料の生産までには至らず,陸軍燃料廠の委託加工品として,陸軍供給のナフサに水添加鉛することで94オクタンのガソリンを生産するに留まります.

 このほか,満洲には液化燃料事業の発展を図る目的で,吉林人造石油という官業の会社がありましたが,原料炭の不足や技術力の不足で結局破綻し,満州国政府が満鉄に対し,この会社を引き取ってくれる様に泣きつきました.
 この為,1943年に吉林人造石油と撫順液化工場を合併して,満洲人造石油という子会社を設立します.

 採算が徹底的に合わない吉林工場は,年産3万トンのメタノール生産工場に転用する計画で,1945年完成予定でしたが,これまた資材が集まらず,60%の進捗で敗戦を迎え,ソ連にこの設備は全て持ち去られました.

 序でに,満鉄では人造ゴムの研究をしています.
 満鉄では松花江の水力発電を利用し,吉林を電気化学工業の一大基地とする計画を立て,その最初の段階として,カーバイドの生産を始めました.

 撫順炭鉱化学工業所では,このカーバイドを当てにして,アセチレンから合成ゴムを生産し,更に自社製カーボンブラックを混入したゴム製品まで作り上げていました.

 こうした技術自体がきちんと確立されていれば,日本の戦争はもう少しマシになっていたかも知れません.
(今となっては負けて良かったのでしょうけど)

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年07月23日23:00


 【質問】
 日本による北樺太油田開発の経過について教えられたし.

 【回答】
 日本が北樺太の油田を知ったのは,日露戦争終結直後です.
 日露戦争の最終局面で日本は樺太を占領しますが,その国境画定の際,日本側委員長である大島健一陸軍少将の元にロイヤル・ダッチの依頼で北樺太の油田探査に赴いたクレイが訪れ,北樺太の油田が有望である事を説きました.
 この時は聞き置くという程度でしたが,1909年に樺太庁の竹内事務官が欧州出張中に,英国人著述による北樺太調査書を発見し,有望な油田があることを確信するに至りました.

 日本国内でも,ロンドンからの情報が伝えられ,大隈重信,押川方義,桜井彦一郎などが石油事業の重要性を認識し,北樺太の有望性を説いて回ります.
 因みに,この情報源は,ロシア企業イワン・スタヘーエフ商会の総支配人バトゥーリンでした.
 彼は,1918年迄に英国企業に与えた北樺太油田鉱区の権利が切れる事を捉え,5月に来日し,大隈重信に日露合弁石油事業の設立を申し出ました.

 大隈重信はこの機を捉え,この申し出を久原鉱業社長の久原房之助に仲介し,両者の間に合弁事業に関する契約覚書を交わしています.
 その内容は以下の通りでした.

1. スタヘーエフは自己資金にて北樺太の石油特許権か石油鉱区を獲得する.
2. 久原鉱業はスタヘーエフが獲得した石油特許権或いは石油鉱区の試掘を自費で実施する.
3. その結果が良ければ,共同で株式会社を設立する

 この協議に基づき,スタヘーエフは北樺太の試掘鉱区請願を行いますが,革命後のドサクサで鉱業法発布に至らず,久原は2年間待ちぼうけを食わされました.

 1918年,取り敢ず久原は予備調査として,成富道正,地質技師日下部全隆,測量技師内藤梅太郎,通訳木梨拓臣から成る北樺太第1回調査隊を組織し,東海岸のナビリからピリトゥンに至る油田地帯を調査しました.
 その結果と1918年10月にオハ油田を調査した宮本機関中佐の調査結果と突き合わせ,北樺太の油田は有望であるという結論が下された訳です.

 此処に至り,軍部も乗り出してきます.
 ただ,軍部としては北樺太の油田開発を久原鉱業だけに任せるのはリスクが大きすぎるとして,民間の有力企業を集めた組合により,事業を促進する事をが適当であるとして,1919年5月1日付で北辰会と言う組織を設立させました.
 久原鉱業としても,当時シベリアに支配権を持っていたコルチャーク提督のオムスク政府が1919年2月7日,試掘,採掘に関する新たな出願を禁止し,ロシア帝国の法律では閣議で許可されない限り外国人が北樺太に於ける石油鉱業会社の株主にはなれないと言う方針を打ち出していた為,投資を行うのに躊躇しており,政府の方針は渡りに船でした.

 これには海軍省の意向が強く働いていました.
 従来,軍艦の燃料は石炭でしたが,エネルギー効率が低く,大量に消費する上にその割に航続力が低い,更に作業環境も劣悪,煤煙が目標に成りやすいなどのマイナス面が多く,世界の趨勢からも,重油せ艦艇を動かす方向にあったためです.
 また,仮想敵国の米国から重油の供給を受けていましたが,出来れば自国近くに自前の油田を保有したいと言う願いがありました.

 1919年4月1日の閣議決定では,北樺太の石油及び石炭開発が艦艇,航空機,自動車,漁船などの燃料供給源として絶対必要であるとし,外国資本を締め出すためにも,日本が結束して組合を組織し,対応する方針を示しています.

 ところが,1920年,尼港事件が起き,北樺太は風雲急を告げます.
 スタヘーエフは鉱区の試掘許可を得ていませんでしたが,地方当局の了解を得て,1919年6月から従業員200名を北樺太東海岸のチャイウォとヌイウォ地区に派遣し,それぞれ1箇所の綱堀式機械による掘削作業に着手していました.
 海軍省も,北辰会作業を支援すべく,5班の調査隊を派遣していました.
 其所へ,パルチザンがニコラエフスクを占領し,大量の日本人を虐殺する事件を起こします.
 更に余勢を駆ったパルチザンは,1月14日,対岸にある北樺太のアレクサンドロフスクを占領しました.
 成富一行は,アレクサンドロフスクから急を告げる電信を受け取ると,熟慮の末東海岸を南下し,日本領散江を目指して一旦引上げる決断をしました.

 1月22日,厳冬期の樺太で,先発隊319名とボアシタンを出発した従業員200名は,人里離れた東海岸100ヴェルスタ(106.7km)を徒歩で20数日を掛けて踏破し,2月21日に南樺太の散江に到着しました.
 4月22日,多門尼港救援隊がアレクサンドロフスクを占領後,成富はソヴィエト当局の鉱務署長を説き,スタヘーエフ出願の試掘鉱区535鉱区中394鉱区の開発許可を4月26日付で取り付けました.
 また,残る141鉱区は既に極東工業株式会社の試掘期間が終了していましたが,公示されていなかったため直ぐに許可が下りず,交渉の結果5月1日に認められました.

 これで,いよいよ北辰会による油田試掘の体制が整えられていきます.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/10/10 21:17

 さて,海軍の主導で,久原鉱業から北樺太の石油利権を引き継ぐ為に作られたのが北辰会と言う組織です.
 この組織は,久原鉱業と三菱鉱業が25%ずつ,残り50%を日本石油,宝田石油(1921年,日本石油と合併),大倉鉱業の3社で均等分していました.
 但し,三菱鉱業の持ち分権利は当面久原鉱業が代行することになっています.

 北辰会は,久原鉱業の事業を引継ぎ,北樺太東海岸のボアタシンとノグリキの2箇所で試掘に着手しましたが,軍部の北樺太保障占領後は,軍政の管理下にて試掘作業を実施しました.
 更に開発を急ぐ日本海軍は,緩やかな組合組織だった北辰会を会社組織に改める事とし,1921年5月30日に会社定款を定め,7月18日に登記するに至りました.
 営業目的は石油その他の鉱物採取,精製,販売,関連化学工業と付帯業務で,資本金は500万円,株式は1株50円で10万株が発行されました.
 取締役会長には,日本石油の橋本圭三郎が,取締役は日本石油の中野鉄平,津下紋太郎,久原鉱業の田辺勉吉,三菱鉱業の島村金治郎,大倉鉱業の林幾太郎の各氏が就任しました.

 これとは別に,鈴木商店と高田商会が政府に対し,オハ方面の開発を1921年夏に請願していますが,日本政府はこれを撤回させ,北辰会に加入させるように仕向けています.
 高田商会は請願を撤回しましたが,当時,石油開発事業に関心を持っていた三井鉱山を勧誘し,鈴木商店と共に新たに北辰会の株主になりました.

 石油探査には多額の資金が必要であり,北辰会は会社組織とは別に,政府の支援を得る事に成功しました.
 1920年7月には,先ず臨時軍事費油田調査費として政府は60万円を計上しました.
 既に久原鉱業が行っていた1919年度の事業を引き続き実施すると共に,1920年度にはボアタシンとノグリキで各1坑井の掘削に着手すること,鉱区の措置は海軍次官の主宰する関係各省局長会議で決定することが定められました.
 更に,試掘事業は海軍の直営事業とし,工事の施工のみ北辰会に請負わせると言う形を採ります.

 尼港事件による中断後は,1921年9月以降に試掘を再開することになりますが,スタヘーエフが保有する鉱区以外でも試掘は困難を極めました.
 1923年になってやっと試掘に成功し,日産150〜200石の石油を産出するようになり,自家消費分を賄えるようになりました.
 1924年以降は日本に輸送することが出来るようになり,安定していきます.

 北樺太東海岸の石油鉱床は,総て第三紀層で構成され,この第三紀層は上部と下部に分けられます.
 上部は砂岩及び礫岩,下部は頁岩とそれを挟む砂岩から成立しています.
 第三紀層は南北に層向を持ち,この方向に延びている背斜層,向斜層を形成しています.
 南のナンピ川付近から北のオハまで7条の背斜軸が走っており,北からオハ,エハビ,ポロマイ,クイドゥラニ,ヌトウォ,ウイニイ,カタングリ,コンギの各背斜軸を形成しています.
 この背斜軸に沿って石油が埋蔵しており,北樺太の石油鉱床は北からオハ,エハビ,ポロマイ,クイドゥラニ,ピリトゥン,ヌトウォ,ボアタシン,ウイニイ,ヌイウォ,カタングリ,コンギなどです.

 日本としては先ずこれらの鉱床にある石油を開発し,それを本土に安定供給することを目論んでいました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/10/11 22:04

 江畑謙介氏の御冥福をお祈り致します.
 しかし,まともな人は早くに亡くなってどうでも良い人は生き残るのよね.
 イチローは大丈夫だろうか.

 〔略〕

 さて,そんなこんなでノリの悪い今日この頃.
 北辰会が試掘を重ねた地域での石油採掘状況について.

 1つ目はオハ石油鉱床です.
 オハ背斜軸はウルクト湖の北西に位置し,オハ川本流の北方に向けて延長4kmに拡がっており,面積は925デシャチーナ(約10km^2)で,この部分は砂質頁岩と暗灰色頁岩層で,その中に砂岩と礫岩を挟んでいます.
 これは1880年以来イワノフ,そしてゾートフの支那石油会社が掘削したものの成功せず,1921年に北辰会が3本の上総掘り井で挑戦しました.

 1921年6月14日,上総掘り1号井を背斜軸の西翼に掘削し,深さ20間5尺に進んだ所で8月8日に完了しました.
 此処からは,日産20〜30プード(2.4〜3.6バレル)の重質油が採油出来ています.
 上総掘り2号井は同時期の掘削で51間まで掘り進み,日産100プード(25バレル)の重質油を採油しましたが,1925年2月には掃除をしなかった為,穴が塞がれ,50プードと採油量は半減しています.

 上総掘り3号井は1,2号井の掘削の後,8月25日に掘削を開始し,9月14日に15間2尺まで掘って一旦完了しました.
 その後,砂岩に向かって掘り下げられ,1925年2月9日には57間1尺に達しました.
 含油層は14間2尺,38間1尺,54間4尺,57間1尺で発見され,1921年の日産は100プードで,1925年からの噴出量は50プードになっています.
 採掘は,当初14間の場所で行われ,後にポンプ汲出しによる57間の場所に推移しています.

 上総掘り4号井は1922年8月1日に掘削を開始し,10月10日に30間3尺で完了しました.
 含油層は21間3尺〜23間で発見されています.

 流石に,江戸期以降の技術である上総掘りでは限界に達した為,1923年以降は綱式掘削に変更されています.
 綱式は1昼夜当りの掘削速度が1〜3間と上総掘りよりも早く,深く掘れた為です.

 綱式1号井は1923年8月8日から開始し,12月28日に167間に達した所で終了しました.
 この掘削では25馬力の蒸気動力が用いられています.
 油兆は48〜167間までの間に7層で見られましたが,108間2尺〜120間の第4層で水が出現し,採掘が一時中止されました.
 石油は,水侵入前までは日産1,200プード(300バレル)の噴出が見られました.
 綱式2号井は8月25日から掘削を開始し,1924年1月18日に103間1尺まで掘削して終了しました.
 この場所では水の侵入が顕著で,時には坑井の入口にまで達し,セメントモルタルで塞ぐ試みが行われていましたが,成功しませんでした.
 綱式3号井は9月27日から掘削を開始し,1924年3月26日に完了しました.
 こちらも水の噴出が見られましたが,石油の噴出もまた1,500プード(375バレル)に達しています.
 綱式4号井は1924年5月29日に開始,9月4日に131間5尺で完了しました.
 こちらも水の噴出に苦しめられました.

 結局,綱式の坑井は水との戦いに苦しめられています.

 上総掘り,綱式と来て,次に試みられたのがロータリー式です.
 ロータリー式の掘削速度は1昼夜当り25間と,綱式の8倍の速度を誇っています.

 1922年9月15日からロータリー式1号井の掘削が開始され,10月13日に完了しました.
 1923年4月1日から越冬が完了して試験採油が行われ,掘削が更に進みました.
 30馬力の掘削機械が使われましたが,実際の掘削に1ヶ月,停止が4.5ヶ月,試験採油1ヶ月,ボーリングパイプの引上げと引下げに17ヶ月掛かりました.
 ロータリー式2号井は1号井の実験結果から1924年4月4日に掘削開始し,9月20日に完了しました.
 こちらは500間5尺掘削されましたが,222間以降は如何なる油兆も認められませんでした.

 原油の生産は,1923年より先ずロータリー式1号井で年間6.1万プード(15,250バレル)の生産が行われました.
 しかし,その殆どは自家消費に回っています.
 1924年からは綱式坑井が加わり,年産74万プード(185,000バレル)に達しましたが,綱式の水との戦いによる度々の生産中止で,1925年は年産41万プード(102,500バレル)に落ちています.

 幾つかの試掘井から生産井に移行したのは,綱式1号井,2号井,5号井,ロータリー式1号井の4本でした.

 綱式1号井は1924年1月に生産を開始し,日産噴出量は1,200プードに達しましたが,9月以降水が混じり,9月から翌年2月までは水と共に汲上げられた石油は日産700プードにまで低下しました.
 坑井は86間にポンプが設置され,坑井を維持する為にセメント注入法が採用されています.

 綱式2号井では,セメント注入が行われ,1924年2月〜4月の日産は500プードに低下しました.
 坑井の清掃後は水を若干含んでいたものの日産1,500プードにまで回復しますが,5月1日以降徐々に水が増えるようになり,含水分が20〜30%に達しています.

 綱式5号井は水の侵入を防ぐ為,セメントを注入してから1924年10月6日より生産に移行しました.
 日産噴出量は600プード(150バレル)ですが,再び含水分が増加した為,セメントを注入しました.
 この時,2番目の油層が塞がれてしまい,日産は160プード(40バレル)に低下しました.

 ロータリー式1号井が最も効率が高く,採掘開始後1ヶ月で日産2,000プード(500バレル)の生産が行われ,その後一旦生産量は落ちましたが,1923年8月以降新たなポンプが導入されてからは日産970プードの石油が生産されています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/10/12 22:08

 さて,昨日はオハ鉱区の話でしたが,今日は残りの鉱区の話を一気に書いてみたり.

 北辰会はオハの他に7箇所の鉱区で試掘を行っています.

 2つ目に手がけたのはエハビ石油鉱床.
 面積が592デシャチーナ(約6.45km^2)で,ウルクト湾南方13kmのエハビ湾海岸から4km内外に位置します.
 油槽は砂岩を挟む暗灰色頁岩層であり,背斜軸に並行して両翼に2条の断層がありました.
 北辰会以前は1889年にロシアのバツェヴィチ調査隊が初めて訪れた場所であり,以後も各調査隊が足を運びました.
 北辰会は3本の上総掘りで背斜軸の軸上と西翼に3本の試掘井を掘りましたが,少量の出油を見たものの,鉱業採掘に移行するには不充分と見て取り,より深部を掘り進める必要が有りましたが,これは断念しています.

 3つ目はピリトゥン石油鉱床です.
 面積が444デジャチーナ(約4.84km^2)で,ピリトゥン湾から13kmのピリトゥン川上流にあり,ポロマイ及びクイドゥラニ石油鉱床に隣接した鉱区です.
 この鉱床は砂質頁岩と暗灰色頁岩であり,今までどの調査隊も試掘していませんでした.
 北辰会は,背斜軸の西翼にダイヤモンド式1本,上総掘り2本で試掘を進めました.
 前者はダイヤモンド機による掘削が壊れやすい砂質頁岩のような岩石に適していないことが判明して中止され,残りの上総掘りでも,油兆は見られたものの,肯定的な結果が得られなかったので,この鉱床も断念しました.

 4つ目がヌトウォ石油鉱床で,面積925デジャチーナ(約10.08km^2)と他の鉱床よりも広大な面積を持ち,湾から4kmのヌトウォ川とマールイ・ゴロマイ川の間に位置します.
 石油鉱床はヌトウォ背斜軸とその東の小背斜軸に沿って2箇所あり,これらは砂岩礫岩層と砂質頁岩層で構成され,ヌトウォ背斜軸の西翼に於て45度西方,東翼では40〜70度東方に傾斜しています.
 この石油鉱床には,強いガスを含んだ軽質油が埋蔵されていると長らく言われており,支那石油会社が掘削機2基で先ず挑戦しました.
 手掘り1号井は背斜軸の東側に位置し,深さ36間(216尺),深部100尺で12時間に約1石の石油が得られました.
 同じく手掘り2号井はその東側約40間に位置し,深さ332尺に達しましたが,途中228尺で大量の出油を見たものの,以降は少量しか湧出していません.

 北辰会はこの支那石油会社の掘削機の近くにあるキール池に2本の上総掘りと背斜軸の西側にロータリー式1本を掘削しました.
 上総掘り1号井は1921年8月2日から9月22日まで掘られ,深さ32間2尺,深部7間で油兆が見られました.
 同じく上総掘り2号井は,同じ陽に開始し,8月22日には完了しました.
 こちらは55間2尺掘削し,深部12〜14間で油兆が見つかったものの,42〜45間で出水してしまいました.

 ロータリー式1号井は1922年8月25日に開始され,1923年9月27日に終了しました.
 油層は深部500間2尺にあり,ロータリー式と綱式で掘削されて,石油は深部5〜16間,84〜117間,175〜181間,293間,322〜336間,409間,482〜487間に見られました.

 このヌトウォ石油鉱床はオハ鉱区に次いで有望と見られています.

 5つ目はボアタシン石油鉱区で,面積444デジャチーナ(約4.84km^2)です.
 こちらはボアタシン川上流に位置し,チャイウォ湾から約4km西方に位置しています.
 この地域はペテルブルクの会社が1坑井,支那石油会社が3坑井を得ており,北辰会も綱式で1坑井,ロータリー式で1坑井を掘る予定でした.
 しかし,この地域で起きたパルチザン侵入事件の為停止し,ロータリー式は直ぐに撤収し,綱式は試掘だけで終わりました.

 6つ目はヌイウォ石油鉱床です.
 この石油鉱床は,カタングリ背斜軸の北端に位置するノグリキ川とウイグレクトゥイ川に跨る地域で,上総掘りと綱式の2つの坑井で掘られました.
 上総掘りの方は重質油を発見しましたが,綱式は169間3尺掘って,油層は35〜42間の1層だけという結果に終わりました.

 7つ目はそのウイグレクトゥイ川側に位置するウイグレクトゥイ石油鉱床で,手掘りとダイヤモンド掘りの2本が使われました.
 手掘りの方は1922年9月1日から22日にかけて掘削され,20〜23間の層で油兆が見られました.
 一方,ダイヤモンド掘りの方は,1922年7月20日に開始し,10月12日まで98間5尺を掘って終了しました.
 これも掘削機械の購入先であるスウェーデンから技師を招くなど本格的に挑戦したのですが,結果は芳しくなく,以後,掘削機としてこの形式は導入しないことになりました.

 8つ目はカタングリ石油鉱床です.
 こちらは,カタングリ湖から西方1kmにあり,総面積は592デジャチーナ(約6.45km^2).
 ロータリー式2坑井と手掘り3坑井が掘削されました.
 ロータリー式1号井は1922年7月20日から1923年6月5日まで11ヶ月に亘って行われましたが,その内12月5日から4月20日までは強いマロースの為,蒸気ボイラーと掘削用の水が無くなった為,停止されています.
 実質5ヶ月の稼働中,362間3尺の掘削を行いました.
 上総掘り1号井は工業採掘に必要な水が得られず,しかも否定的な結果しか得られなかった為に中止となり,2号井は僅か4間5尺の掘削に留まりました.
 3号井も半月の掘削を行っていましたが,データは残っていません.
 只,この上総掘り2本の掘削井では,ポンプで日産50プード(6バレル)の石油が汲上げられた為,この石油は蒸気ボイラーの加熱用に用いられています.

 こうして,幾つも石油の試掘を進めていますが,まともに採算が取れそうなのはオハ地域だけになりそうでした.
 確かにカタングリ鉱床は有望そうでしたが,此処でも日本のお家芸「みんなビンボが悪いんや」が出て資金不足となり,採掘鉱区に編入しては居ますが,開発は中々進んでいきません.
 その代り,オハ地域に隣接する北オハ地域を採掘鉱区に編入し,開発を進めていくことにします.
因みに,この「みんなビンボが悪いんや」と言うのは,無理からぬところで,元々がソ連との交渉の結果,不利な契約条件を呑まされた上,固定資産は年限が来れば,総てソ連側に引き渡す事になっていましたので,それを担保とした融資が受けられなかったのも原因の一つですし,政府が中々融資をしなかったのも原因です.

 今も昔も,石油開発には莫大な投資が必要です.
 その莫大な投資に堪えて初めて,石油という果実を得る事が出来る訳ですが,今も昔も日本はこの開発投資が殆ど出来ず,各地で敗退を重ねているのが現状です.

 北樺太の石油生産なんかの事例をきちんと分析すれば,つい最近のサウジアラビアでの鉱区失効とかイラン油田権益の失効なんかが無かったと思うのですが.

 これだって立派な安全保障ですが,この辺り,日本の政治屋は何れも無視してきていますわな.
 日本の地位が低下している状況で,資源外交が上手くいくかどうか,今,日本は瀬戸際に立たされているんとちゃいますかね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/10/13 22:48


 【質問】
 北樺太利権解消問題とは?

 【回答】
 さて,1941年,日ソ中立条約の調印当時,当事者であった松岡外相が,モロトフ外務人民委員に宛てて,内閣の意向も組まずに勝手に半公信として,中立条約に関連し通商条約と漁業条約を速やかに締結する事と,北樺太に日本がもっていた各種利権の解消を数ヶ月以内に行う様,和解と相互融通の精神を以て努力すべき事を通報した上,松岡外相は更に,建川大使を通じてモロトフに,
「北樺太利権解消問題は,約束した日から幾ら遅れても半年以内に必ず解決する決意である」
と見栄を切ったのが,所謂,利権解消問題の発端です.

 以前にもここで触れた様に,北樺太利権とは,日本が日露戦争時に占領した北樺太で,石油利権などの鉱物探査と,採掘権を確保したのが始まりです.
 その石油資源は,米国原油を絶たれた場合,日本海軍にとって命綱とも言える様なものであり,その利権を保護し,採掘を実施してきたのも海軍でした.

 ところが松岡外相はこれを,いとも簡単に手放すと宣言したのです.
 しかも半公信とは言え,ソ連側に明瞭な約言を与えてしまいました.

 実際には此の後,突如として独ソ戦が勃発した為に,日本側は独ソ戦局の推移と睨み合わせて交渉を進めようと画策します.
 一方,松岡の言質を得ているソ連側は,執拗にその利権問題解決を迫ってきました.

 1942年1月,松岡から代わった東郷外相が先ずスメターニン駐日ソ連大使からジャブを見舞われます.
 松岡書簡は,松岡外相が中立条約の付帯条件として行ったものであり,日本側も一旦約束したものは遵守しなければならないと主張してきました.
 また,建川大使に代わった佐藤大使が赴任した際にも,モロトフは松岡書簡に言及し,ソ連は自己の義務を履行するのであるから,日本も同様に履行すべきであると,迫っています.

 この松岡書簡はその後,日本政府で店晒し状態になっていたのですが,1943年6月4日に,覚書を以て利権の解消とソ連船の抑留問題を組み合わせ,厳重な要望と抗議を申し出てきます.
 日本側としては利権問題だけでなく,通商条約と漁業条約を締結した上で,それに関連して利権の解消を約束したのであり,しかしながら,漁業条約は未だに締結されていないではないか,と反論しました.

 しかし,更にモロトフはその問題についての回答を督促してきたので,佐藤大使としては,松岡書簡なるものは,あくまで私信の範囲を出ないので,中立条約の条件を為すものではない,中立条約は正式の批准を以て何ら付帯条件なしで発効していると反論し,ただ,松岡書簡の存在を完全に日本政府は否定した訳ではなく,事態変更の結果,結果実施を延引しているに過ぎないと説きました.
 しかしモロトフは,松岡書簡があって初めて中立条約は成立し得たとして,両者の関連性を指摘しつつ,日本側の回答を督促してきました.

 こうなると,日本政府としても,この問題を解決しなければ,日ソ国交調整の支障となる事を考慮し,ソ連をして中立条約を厳守させる為にも,問題を解決する事が必要であると考えざるを得ません.
 かくして,1943年6月18日の大本営政府連絡会議に於て,北樺太石油・石炭利権を松岡書簡の精神に則って,ソ連側有償譲渡する方針を固めました.
 7月3日,佐藤大使はこの政府の方針を体して,モロトフに面会した上,利権解消問題交渉を近く開始する事を告げ,その際,利権解消の補償問題に関する主義上の問題はモスクワで交渉し,補償金の決定は東京で行い,その決定を待って正式に調印の運びとする事,同時に漁業条約も主要事項だけでも仮調印に持って行きたい事を告げました.
 更に,7月8日に佐藤大使はモロトフと面会し,利権解消と共に中立条約の確認を行う事も希望し,同時に利権問題と漁業問題との同時審議を要望しますが,モロトフは中立条約問題と利権問題との関連性は,先ず日本側が義務を履行すべきであると原則論を代えず,ただ漁業問題と利権問題の並行審議は同意しています.
 ただ,この交渉に関しては,重大戦局を理由に,モロトフ当人ではなく,ロゾフスキー外務人民委員代理が行う事を申し出てきました.

 佐藤大使は利権解消に当たって,石油・石炭両会社の現地施設と会社解散に伴う諸経費に対する適当な補償,経営権委譲の日から利権期間満了(1970年と設定されていた)までの日本側権利の補償,前二項の補償金額を日本側の希望する物資で弁済する事,ソ連政府は利権解消後一定期間の北樺太石油・石炭の一定量を公正な価格で日本側に売却する事を申し入れています.
 これに対し,モロトフは1970年までの権利に関する補償は,限界のない要望に等しいと拒絶し,この解消については,松岡書簡に倣って,交渉期間を決めたいと反論しました.

 その後,7月15日,23日,8月8日の3回,佐藤大使とロゾフスキー外務人民委員代理の交渉が実施されましたが,交渉の進展が見られませんでした.
 その間,北樺太の利権現場では,ソ連側の圧力が強化され,日本国内での採掘物資調達が困難になってきた事と相まって,日本側の利権事業も縮小しなくてはならなくなってきました.

 結局,日本政府も利権解消を決定し,ソ連側に伝えたのですが,今度はソ連側がそれに余り関心を示さなくなってしまい,時ばかりが過ぎてしまいました.

 やっと11月に入って利権解消の申し入れが受理され,交渉が開始されたのですが,左記に日本側が示した申し入れに対し,ソ連側は,石油・石炭両会社の現地施設と会社解散に伴う諸経費に対する補償は,経営不振の結果生じた日本会社の負担を,ソ連が引き受ける筋合いはない,将来の権利放棄に対する補償については,将来の権利放棄に対する保障を求める根拠はない,補償の物資払いは日ソ間で決定するという点については,物資がいかなる点になるのか日本側から回答が欲しいと述べ,最後の一定量の公正価格での供給は全く言及されません.

 その後,ソ連側は現地施設の評価の総括的金額について問い合わせてきた為,日本側は預金・有価証券の295万円と売却済の貯油を除き,9,906万円と回答し,将来の権利放棄に伴う補償額は追って提示すると回答します.
 また,日本側からは一定量供給すべき石油は5年で年20万トン,石炭は毎年10万トンを要求する旨回答すると共に,将来の権利の賠償額は42,506,490円を請求すると提示しました.
 ソ連側からは,石油と石炭の供給を求める日本側に対し,戦争物資の供給を相互主義に依るべきであるとして,生ゴムの供給を希望しますが,日本側はこれを受入れませんでした.

 ソ連側も,会社の欠損負担に難色を示し,会社の行った配当はソ連の関知しない事であり,将来の権利は全然支払う意図の無い事を述べ,ソ連側の関心があるのは,現地に於ける施設の実在価値のみであるとして,全く日本側の説明に耳を貸そうとしませんでした.
 既に1944年,日本の退勢は明らかですから,強硬な姿勢に転ずるのも宜なるかなです.

 1944年1月7日の会議でも,ソ連側は金銭補償に反対し,石油の供給は戦後5年間に毎年5万トンを供給すると逆提案を行います.
 対して日本は,1月11日に利権解消の時点から5カ年間毎年15万トンを供給する案を提示しますが,ソ連がこれを受入れません.
 のみならず,1月21日にはソ連側は日本側の主張する補償要求額を上回る様な石油・石炭両会社に対する罰金賦課を持ち出し,金銭補償は全く応じないと回答してきました.

 1月25日のモロトフと佐藤大使との会談でも,交渉は不調に終わりますが,26日にロゾフスキー外務人民委員代理は,モロトフの提案を撤回し,ソ連政府は日本政府に対して500万ルーブル(当時の邦貨換算では100円に付き124ルーブル)を提供する,ソ連政府は戦後5カ年に渡り,毎年5万トンの石油を提供すると提案してきました.

 結局,逼迫しつつある日本政府はこれを受入れる他無く,妥協案を受入れる事となり,3月10日に仮調印され,30日に利権及び並行して漁業の両議定書が調印されました.

 因みに,この件に関するソ連側資料ではこうなっています.

――――――
 北樺太の日本利権は,利権契約の有効期間満了の26年前に解約された.
 これは疑いもなく,ソヴィエト外交の勝利であった.
――――――

 スタンドプレーに走った挙げ句,結局は日本の国益にならない形での問題解決と言うのは,70年前も現在も然程代わっていない様です.
 ホントに,政府の人間と言うのは学習すると言う事が無いのでしょうか.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/11/18 23:10


 【質問】
 新潟での油田開発の始まりは?

 【回答】
 私の学生時代,朝の10時半とか11時頃や昼の15時とか16時頃には,海外ドラマの再放送が結構放映されていました.
 未だに衛星放送でもやってますが,『奥さまは魔女』とか『かわいい魔女ジニー』とか,『じゃじゃ馬億万長者』が大体ローテーションされていた気がします…あ,『世界の料理ショー』があったな,トニー.
 その中で,『じゃじゃ馬億万長者』は田舎の一家が石油を掘り当て,忽ちの内に大金持ちになった一家のホームコメディだったかと記憶しています.

 アメリカらしいスケールの大きな話ではありますが,日本でも似たような事を考えた人がいたりします.

 新潟県に西山油田と言う油田がありました.
 この地域は古くから「燃える水」,つまり石油の産出地として地元では知られていました.
 1874年,長野石炭油株式会社は,尼瀬丘陵にある諏訪神社境内に米国から輸入した綱堀機を据え付けて掘削を試みましたが,この時に雇った米国人が食わせ物のずぶの素人で,失敗に終わりました.

 翌1875年,尼瀬に小さな製油所を開いた加藤直重と言う地元商人は,妙法寺や赤田方面から原油を買ってきて精製し,町内に販売していました.

 その頃,北海道開拓使庁の依頼で来日し,北海道の炭田などを調査していた米国人B.S.ライマンが,1876年頃に内務省,後には工部省の依頼で各地の油田を調査しました.
 新潟にはその頃,東山油田や比礼,浦瀬に油井がありましたが,彼の調査では日本の油田の規模は小さく,米国の油井2つ程度だという悲観的な報告を行いました.
 そんなことはないと言う工部卿井上馨とライマンとは意見が対立し,1877年に彼は解雇されてしまいます.
 実際のところ,ライマンは石炭の専門家で,石油は専門外だったのが悲劇だったりする訳です.

 初期の油田は手掘りでの掘削でした.
 1874年,金津で手掘りによる初めての油田が開発されました.
 頸城で1877年に,牧では1879年に同様に手掘りでの油田が開発されました.

 尼瀬では,1880年頃に直重が手掘りの経験があった妙法寺の広川勘平を招き,自宅の庭で手掘りを始めました.
 この場所は砂地だった為,当初は水が出て苦労しましたが,井篭を組んで水止めする「打ち上げ法」を南部信近と共同で開発し,採油に成功しました.
 その後,直重は組合員13名の魁井舎を結成し,数カ所で手掘り油井を掘削しました.
 当時の手掘り井戸は1m四方で深さ100〜180mであり,日産50〜72リットル程度のものでしたが,翌年以降,この地では手掘りブームとも言うべき現象が起き,小規模製油所も多数設立されました.
 この中から,新津恒吉が後年に昭和石油へ,早山与三郎が後に早山石油と言う大資本の石油会社に発展しています.

 そのブームを見て,石油に関心を持ったのが内藤久寛と言う人です.
 彼は西山町の旧家に生まれた人ですが,親交のあった農商務省参事官を通じて米国の石油事業について分析し,石油事業に将来性を見出し,出資者を募るべく東奔西走しますが,中々理解が得られず,一旦は頓挫します.
 しかし,殖産協会の会合で,彼が相談していた県会議員の山口権三郎が石油会社の設立について話をしたら,あれよあれよと話が進み,1888年に会社設立となって彼が経営を託されました.
 これが,日本石油の始まりになります.

 当初,この会社は尼瀬に進出しようとしましたが,既に陸上には手掘り井戸が林立しており,新参の業者が入る余地がありません.
 そこで彼は考えます.
 陸上でこれだけ石油が出てくるのであれば,油脈は海底にも有るに違いない…こう考えて海底の借地を願い出て許され,埋め立て工事の上,1888年7月から手掘りで3坑を掘り始めました.
 彼の考えは見事に的中し,3坑とも石油の掘削に成功しました.
 そして,続いて13坑を掘って10坑から石油が出て年産282キロリットルを産出しました.

 ところで,その頃,県会議員の山口権三郎は,その成功をより確実なものにすべく,米国へ油田調査に出かけました.
 そして,1889年に綱式掘削機一式を1万円で購入して帰って来ました.
 当時の1万円をポンと出してくるのですから,相当この人も肝が据わっていた人かも知れません.
 掘削機は11月に到着し,手掘り井戸の上に据え付けられて,深度110mで日産7.2キロリットルの石油を産出することに成功しました.
 更に海底油田として1894年までに14坑を掘削し,年産約9,044キロリットルを記録しています.

 この尼瀬の油田は,その後採油量が減り,閉鎖された最後の年である1951年には僅か年産16キロリットルだったりします.
 正に強者どもが夢の跡ですが,その尼瀬油田が現在の新日本石油を生み出した基だったりする訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/11/13 22:55

 さて,昨日は日本石油の草創期を取り上げた訳ですが,今日は東山油田を取り上げてみたり.

 東山油田は,1873年に浦瀬の腐沢で手掘り油田の掘削を試みたのが最初です.
 金津,頸城の玄藤寺,牧,尼瀬,東山の各油田は,ある程度油徴地があって油層が地表近くに出ていたことがあげられます.
 このため,早くから掘削の動きが出ていた訳です.
 反面,西山油田の方は,丘陵地で油層がやや深かった為,それなりの設備が必要でした.

 1873年の失敗後,暫く東山は放置されていましたが,他地域での油田掘削の動きが出てくるにつれて,東山で再挑戦の動きが出て来ます.
 1887年,尼瀬での掘削が開始されたと同時期に,小坂松五郎と言う人が,殖栗辰蔵の案内で腐沢を検分し,翌年,新潟の倉田久三郎と共に小坂松五郎は北越石油を設立し,腐沢で手掘りにて116m掘削して採油に成功,それを見た殖栗順平は石動油坑社を,山田又七,殖栗順平,関矢吾吉は山本油坑社を設立しましたが,こちらはガス爆発事故を起こして11名の死傷者を出してしまいました.
 1890年に石動油坑社,山本油坑社は合流して,長岡石油が設立されています.

 この頃の新潟は石油ブームで,日本石油を筆頭に,北越石油,長岡石油とも順調に成長し高配当を行った為,それを見た有象無象が石油会社を設立し,200社以上の石油会社が郡立しています.
 1892年になると山田又七は比礼鉱区の隣の鉱区を取得して掘削に成功し,1893年,新たに宝田石油を設立しています.

 山田又七と言う人は,農家の七男として生まれた人で苦労人です.
 後述の様に,彼は企業買収を繰り返して宝田石油を大きく育てていきますが,自分が成功した後は,それを社会に還元すべく,様々な事業を行っています.
 特に自分が若い頃苦労した経験から,地域に技術教育を受ける場をと,1907年には長岡に高等工業学校の設置を誓願し,色々と運動した結果が実り,彼の死後ではありますが,1920年に長岡高等工業学校(現在の新潟大学工学部)の設置認可が下り,1923年に開校しました.
 彼は憲政本党の衆議院議員でもありますが,今の政治家は教育や科学政策を理解していない様ですね.

 このほか,1893年神保新蔵の太平石油は加津保3号井を手掘りで掘削していましたが,180m掘ったところで石油が大量湧出して井戸に充満し,坑夫がそれに飲まれて溺死する事件を起こしています.
 因みに,この坑夫は2年後にやっと収容されました.

 手掘りからの転換は1895年に太平石油が綱式掘削機一式を導入したのが最初で,その後宝田石油もそれを導入しました.
 これは今までの手掘りでは対応出来ないほど油脈が深くなってきた為でもあります.
 また運送手段も比礼〜長岡の間に油送管が敷設され,1896年には浦瀬〜比礼の間の道路も開通しました.

 ところで,これらの油井から掘削された石油は小製油所に運ばれて精製されていましたが,その品質は粗悪でばらつきがあったので評判が悪かった為,1899年,宝田石油は長岡製油所を子会社として設立しました.
 その社長には六十九銀行(今の北越銀行)の岸宇吉が就任しています.
 1900年の段階で,宝田石油は浦瀬,加津保,比礼で機械掘り128坑,手掘り123坑を掘削し,そのうち約半分の129坑が採掘に成功しています.

 1901年,新潟の油田活況を見て米国のインターナショナル石油が進出し,直江津に近代製油所を設立しました.
 当時,新潟では憲政本党が優勢でしたが,憲政党党首だった大隈重信はこの米企業の進出を憂い,長岡を訪れて石油会社の大合同論を演説しています.
 これを受けて1902年,宝田石油は第1次買収にて群小石油会社30社を増資自社株と相手資産との交換で合併させています.
 これには六十九銀行の融資だけでは足りず,渋沢栄一の後援ももらっていました.
 1904年には更に第2次買収を行い18社を,1906年に第3次買収で33社,1907〜08年には第4〜6次買収で28社と規模を拡大し,1912年の宝田石油は,生産量年間4万トンに達する規模になっています.
 この宝田石油は,さらなる発展を目指し,1921年に日本石油と対等合併をしています.

 そう言えば,新潟トランシスと言う会社は,元を辿れば,日本石油の子会社でした.
 日本石油の掘削用具や運搬用具を生産する為に,1895年に新潟に造ったのが新潟トランシスの前身である新潟鐵工所です.
 この会社では,1895年に可搬式軽便掘削機を製造して,これを西山油田や新津油田に供給したり,1899年には日本初のタンク貨車を製造しました.
 1902年には長岡,新津,柏崎,直江津に分工場を造り,1908年には僅か94トンの鉄鋼帆走船ですが,日本初のタンカー宝国丸を建造しています.
 その後,1910年に日本石油から独立し,独自の道を歩み始めましたが,石油業界と縁が切れた訳ではなく,1913年には国産初のロータリー式掘削機を製造したりしています.

 このほか宝田石油は,1906年に自社の掘削機の修理,製造のため長岡鉄工所を造っています.
 1910年には長岡だけで鉄工所や鉄工組合が67もありました.
 時代はずっと下りますが,1935年には山田又七の親戚筋である山田多計治が大阪機械(今の倉敷機械)が造られ,日本重工業(今のオーエム製作所)が設立されています.
 その後,1937年に津上製作所(今のツガミ),1940年に大原鉄工所,北越メタル,長岡製作所が次々に設立されて長岡は一大工業都市に変貌していきました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/11/14 21:32

▼ さて,話は前後しますが,1872年,明治維新を経て,列強に付け入られない様に富国強兵を図る日本は,その豊かな鉱産資源を開発すべく,日本鉱山心得を出し,更にそれは,翌年に日本坑法と改められました.
 新潟では石油産業を殖産させようと,新潟県令楠本正隆が,県下の主な鉱業者を新津に集めて,石油掘削の奨励を行いましたが,新津での新規参入業者は少なく,江戸期から作業していた真柄家と中野家の独占が続いていました.
 新たに新規参入を目論んだ燃水社では,朝日,塩谷,金津で手掘りを試みますが,砂層にぶち当たって失敗,他に新潟の製油業者だった倉田久三郎,新津の企業家である和気省吾,長岡の鈴木鉄蔵,小坂松五郎なども粗朶山,小口,鎌倉で試掘しましたが失敗しました.

 1874年に中野家の中野貫一が金津で手掘りを始め,2号井で日産54リットルの出油に成功します.
 これにより彼は10数坑を手掘りしましたが,井戸が崩壊するなど中々軌道に乗りませんでした.
 それでも1875年には小製油所を設立して,軽油,重油,潤滑油の販売を始めています.
 更に塩谷,高谷,朝日へと拡大しましたが,後に1886年,時の新潟県令である篠崎五郎は,坑法違反により,彼らが塩谷に有する共同坑の没収と言う行為を行い,彼は最後まで県令を相手に賠償と土地の返還を求めて余計なエネルギーを費やすことになります.

 1893年,上野昌治が上総掘りを倉田久三郎の興野鉱区に導入しました.
 この鉱区では失敗しましたが,鹿島太吉の技術援助の結果,2号井を草生津の煮坪付近で掘り,これは日産1.2キロリットルの出油を見ました.
 上総掘りは,経費が安いので小規模業者でも容易に手が出せ,しかも手掘りよりも効率がよいので,徐々に新津でも広がっていきます.

 日本石油は熊沢地区に導入し,中野貫一も金津地区での再開発で上総掘りを導入して,後者は170mの掘削に成功しました.
 当時,重油燃焼法が実用化されて,金津で産出していた灯油分の少ない石油でも需要が生まれました.

 これにより,新津地区には彼方此方に会社や組合が設立されていきます.

 当時,鉱区所有者との共同井事業(下請けのこと)の契約金は,1坑につき,東島,朝日は200〜300円,熊沢と滝沢は700〜800円を相場としています.
 熊沢方面は成功率が高いためか契約金が高く,田家方面は10円しかありませんでした.

 日清戦争後には石油ブームがやって来て,例えば1895年に中蒲石油会社の募集株式数1,000株に対し,応募は実に10万株に達したそうです.
 この株100株を1口として,証拠金毎日100円ずつで実に100万円が集まりましたが,預ける銀行が無かったそうです.
 また,町中に株を買い漁る人々が跋扈し,人々はマネーゲームに狂奔します.
 当時,男の仲買人に混じって,女性の仲買人と言うのも多数いたそうです.

 このブームは正にブームに終わり,これらの会社が大きく成長するには更に上総掘りから機械掘りの技術を導入するだけの資本力を持たなければなりませんでした.
 大多数の石油会社は,精々1つか2つの油井の維持に手一杯で,株で得た利益を使い果たす者も多数に上りました.
 また,小規模業者は日本石油,宝田石油,中野興業に次々と買収されたり,淘汰されたりしていきます.

 1893年に日本石油が熊沢地区で上総掘りを導入し,1896年には鷲田種徳が小口地区で上総掘りを始めました.
 鷲田種徳の掘削は失敗続きでしたが,15坑目でやっと成功し,日産1.38キロリットルの出油をしました.
 更に中野興業では綱堀りを導入しますが,この地区の油層は深いため,ロータリー式掘削機を投入するまで開発を待たなければなりませんでした.

 1899年には日本石油がスター式掘削機で熊沢地区に掘った1号井が成功し,日産22キロリットルを記録します.
 2号井も成功したため,ブームを生き延び,機械を導入出来る体力のある中小の組合,会社も挙って熊沢地区に群がり,機械掘りを始める様になります.

 1903年,新津恒吉がその製油所を新津の滝谷に移し,同じ年,中野貫一は綱式掘削機を米国から購入し,中央石油会社を設立して,朝日,柄目木でも掘削に成功しました.
 1906年には,日本石油に次いで,宝田石油も成長を続けます.
 小口,東島,柄目木,滝谷に広大な鉱区を有し,活発に採掘を進めて,柄目木では機械掘り10坑中2坑,上総掘り26坑の内23坑が成功して日産10キロリットルを記録します.
 1907年には日本石油の製油所が滝谷に誕生しました.

 そして,1910年4月29日,大塚半兵衛等の北宝共同組合の上総掘り2号井では,深度200mで油脈に当たり噴油.
 同じく宝田石油の綱式滝谷39号井も大噴油して日産216キロリットルに達します.
 中野合資会社ではスター式1号井が,深度213mでガスと石油が大噴油して,日産150キロリットルを記録し,5月10日に更に掘り下げたところ,堀具を30〜40mの高さまで噴上げる大噴油が起き,日産224キロリットルとなりました.
 8月23日になると,日本石油の機械掘り3号井が深度300mで大噴油して,日産250キロリットルと,大油田の掘削成功が相次ぎます.

 こうなると,滝谷には群小の石油会社が群がり,最盛期には坑井の間隔が14mと言う状況になったりします.
 当然,こうなれば濫掘状態は避けられず,結局1年だけの徒花に終わりました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/11/20 22:49
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 1930年代の新潟における油田の状況は?

 【回答】
 日本は戦時統制下に入っていき,その逆に石油の輸入はきつくなっていきます.
 その為,新潟や秋田の石油には増産が期待されていました.
 そこで登場したのが,石油の坑道堀りです.
 普通,石油と言うのは手掘りにしろ上総掘りにしろ,それ以降の機械掘りにしろ,ドリルで穴を穿って,下に掘り進めていきます.
 坑道堀りは,石油技術者にとっては禁じ手で,経費はかかる,引火の危険性があるなど短所ばかりが目につくものなのですが,背に腹は代えられず,戦時増産の為,その禁じ手を使うことにしました.

 日本石油は桂沢で準備を進め,1939年より坑道堀りを開始し,1941年は日産13キロリットル,それ以降も13〜15キロリットルの生産量を上げています.
 日本石油はその後,統制により,国策会社である帝国石油に統合され,1942年以降は帝国石油の手により作業が行われました.
 戦後も石油確保の点から増産が要請されており,坑道堀りは温存されました.
 桂沢では1960年に梅雨時期の集中豪雨で発生した水害により,坑道が水没した為に廃坑となりました.

 新潟で坑道堀りが成功したのは,偶々東山油田の北西部で背斜構造の西翼構造が垂直に近く,構造と地形が一致していた為だと考えられています.
 この坑道は,傾斜14度と16度の2本の斜坑で掘り進め,油層に当った後は100分の1の勾配で2本の坑道を掘り進めて行きました.
 坑道の高さは2m,幅は2.5〜2.8mで,落盤を防ぐ為に松丸太の支持坑枠を打ち込みながら掘っています.
 また,通気を良くする為に2本の斜坑を目抜き坑道にて繋いでいました.
 この斜坑は3つの油層にぶち当たりましたが,油層に当った後は各油層に沿って坑道を展開していきました.
 600m進んだところで,1936年に掘削した手掘り縦坑にぶち当たりましたが,これは排気口として使用されています.
 こうして,坑道の総延長は10.5kmに達しました.

 坑道各所では上方に向けて火災防止の為に削岩機で30〜50mほどボーリングしていましたが,その数は750本に達しました.
 石油は坑道やボーリングの穴から滲み出していましたが,これと湧出した水とは坑底に掘った中溝に集め,ポンプで汲上げて集油所にあるタンクへと導いています.

 この桂沢坑道は既述の様に一旦廃止されましたが,1990年代に一度再開され,1997年に再度長い眠りについています.
 この坑道が三度日の目を見ることはあるのでしょうかね?

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/11/15 21:46


 【質問】
 戦後,旧満州で石油が発見されたそうですが,戦前の日本の技術では発見できなかったのですか?

 【回答】
新風舎文庫「石油はどこにあったか」ISBN:4797491760

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 “歴史上のイフ”では,なぜ日本の技術者がかつての植民地旧満州で大慶油田を見つけることができなかったかを考察.
 石油会社に勤務して世界各国での石油探査・開発・生産に従事した著者しか書くことのできない,貴重な実用書.
豊富な写真,図版,データを用いてわかりやすく解説している.
大人はもちろん,石油の未来を日本の子どもたちにも読んでもらいたい必読の一冊.
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 てか,満州に石油が埋蔵されていること自体は当時もすでに知られていた
 ただ常温ではアスファルト状になる超重質油なので,当時の精製技術では利用不可能だった.

軍事板,2005/08/22(月)
青文字:加筆改修部分

 例によって蛇足ですが….
 当時の地質学者の学説として,
「石油とは,かつて海であった底に泥と共に堆積した藻類やプランクトンの遺骸中の有機物が重合して出来た,油母という複雑な高分子が,地熱の作用を受けて分解して出来たものであり,油母は地殻変動で地層が波状に撓んで出来る,背斜と呼ばれる波状の突き上げたところに限って溜まる」とされていました.

 その結果,
「石油は南の島の第三期層背斜構造にしか存在せず,中国大陸には存在しない」
と言うのが地質学者の常識となっていました.
 尤も,石油採鉱の講座が東京帝大に作られたのが,1920年頃で,日本の学会においては,1922年に東北帝大の高橋純一助教授(後の理学部長,信州大学長)によって提唱された,「海成腐泥起源説」が有力でした.

 関東軍も1932年に石油の専門家だった榎本隆一郎中将などの重鎮が石油探査を行いましたが,これとて,
「石油の気(油徴)は認めるが,石炭,油頁岩を重視すべきである」
との結論を出して,石炭液化の方向性を指し示すに止まります.

 しかし,1917年に日本銀行調査局が編んだ「支那の鉱山」には,
「黒竜江省安達県ゴルロス後旗バルガソムで,石油井二杭を発見した」
と記しておりました(此処で指し示す地域は,正に大慶油田のあった地区です)が,結局それは顧みることなく終わっています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/08/22(月)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 満州における頁岩油開発について教えられたし.

 【回答】
 日本が資源小国なのは昔も今も変わり有りません.
 戦前は特に石油の輸入が停止されたことから,無謀な太平洋戦争に打って出た訳で,当初こそ蘭印を抑えて,石油を自由に出来たのですが,直ぐに連合軍の反攻が開始され,米軍を中心とした海軍力と空軍力による通商破壊戦の結果,南方からの石油輸送のルートが遮断された事により,開戦以前に増して,石油に飢えることになりました.
 以前にも書きましたが,この結果,新潟や秋田の国内産石油の生産拡大に加え,松根油やアルコールと言った代用燃料が生産されますが,数百万キロリットルに上る膨大な燃料消費に対し,これらの生産は焼け石に水でした.
 その中で,満州で生産されていた頁岩油は最大年産約30万キロリットルに達し,その膨大な燃料消費の一翼を担うものとして貴重な存在になりました.
 特に,この頁岩油はディーゼル燃料に適していることから,特に潜水艦に回されています.

 以前にも書いた覚えがありますが,当時の石油の備蓄・消費・生産は,陸海軍の軍需と民需の3種類に分かれています.
 ところが,戦争が始まってみると,海軍の消費量が格段に大きく,陸軍の5倍,民間の2倍程度に達しました.
 開戦時の備蓄量は陸軍120万トン,海軍650万トン,民間70万トンの合計840万トンですが,1942年の生産量は国産27万トン,人造石油24万トン,南方還送油149万トンの合計200万トンに対し,消費量は825万トンに達します.
 翌年の生産量は南方還送油265万トンを含む319万トン,それに対する消費量は662万トンと,開戦2年後でほぼ国内備蓄分は食いつぶす形になってしまっています.
 1944年度になると,南方還送油が107万トンと激減し,生産量合計でも154万トンになっていますが,一方で消費量は469万トンです.
 1945年度は,南方還送油がゼロ,人造石油も5万トンと生産量は僅か21万トン,それでも消費量は80万トンとなっていて,本当にタンクの底を浚える程の燃料備蓄状況になっているのがよく分ります.

 国内に石油資源を持たないのは,ドイツも同じです.
 こちらは「ドイツの化学は世界一ぃ〜〜〜」なので,以前から石炭液化技術に関心が向けられており,イー・ゲー・ファルベンを筆頭に第2次大戦中には生産が軌道に乗っていて,年産100万トン以上の人造石油が生産されています.
 ただ,ドイツでも,これだけで国内の全ての石油需要を賄えるものではなく,独ソ戦前はソ連の,その後はルーマニアの油田から産出される原油がこの国の快進撃を支えている形になっていました.

 油母頁岩から石油を得る方法と言うのは,19世紀半ばからスコットランドやエストニアと言った油母頁岩資源に恵まれている地域で発達していました.
 スコットランドやエストニアの油母頁岩は,含油量は20%を上回るもので,石油が大量採掘される様になる時点で影が薄くは成りましたが,石油の代替資源として,第2次世界大戦終結まで生産されています.
 特に,第1次世界大戦当時,ドイツの無制限潜水艦戦で,英国の通商が封鎖された時,スコットランドの頁岩油工場は年間20万トンの生産が行われ,英国の石油不足を補いました.

 日本の油母頁岩からの頁岩油採取は,主に満州の撫順炭鉱で行われました.
 この地域の油母頁岩は,スコットランドやエストニアと違って,含油量の最高は8%,製油の対象と成る鉱石の平均は僅かに5〜6%しかありませんでした.
 こうした貧鉱から頁岩油を取出したのですが,幸いなことに,撫順炭鉱での油母頁岩採取は,油母頁岩の層が石炭層の上に重なっており,石炭採掘の為にはこれを取り除かねば成らず,わざわざ作業する手間ではなく,捨てる部分から採油が出来ると言う利点がありました.

 その油母頁岩は,海軍の支援の下,開発が行われました.
 そして,以前書いた様に幾つかの工夫が為されたことから,貧鉱であるにも関わらず,かなりの生産量を得ることが出来ました.
 生産された頁岩油は,海軍によってほぼ全量が購入され,その価格も企業として採算が取れる金額に設定されていました.
 戦時色が強くなった1939年以降は,最新鋭の大型工場である東製油工場を建設した上に,石炭採掘を狙いとせず,油母頁岩の採掘を目的として大規模な露天掘,東露天掘を新たに掘削する事になりました.
 撫順の炭層は東に行くほど炭層が薄いので,東露天掘は採炭には不利な条件でしたが,油母頁岩の採掘には適しており,戦争と言うのもあって,採掘が行われています.

 この様にして得られた頁岩油は,艦船向けディーゼル機関燃料,特に潜水艦向けディーゼル機関燃料として採用され,海龍など小型潜水艇の燃料として用いられていた様です.
 戦争の最終段階になると,大連まで鉄道によって運ばれた頁岩油を,潜水艦を使って呉まで輸送するという非常手段を使って,潜水艦の燃料を確保したと言われています.

 元々,撫順炭田は100mを超える厚さの炭層を持っています.
 これは第三紀の頃,この一帯がアマゾン河流域に見られる様な熱帯性気候で,深い沼地を形成しており,上流から流れ着いた流木は湖底に逐次蓄積していくと共に,湖底が沈降していったことから,世界にも例のない程の厚みを持った炭層が形成されていきました.
 そして,堆積する土砂の中に淡水性の藻類など植物が混入し,後に500度程度の地熱によって変成して油母を生じたものとして説明されています.
 これは石油とほぼ同じ成因で出来たものですが,大部分の石油資源が,有機物質が熱変性を受けて生じた気体と液体とが,近くないの背斜構造によって捉えられたものであり,多くの場合ほぼ飽和した炭化水素から出来ているのに対し,油母頁岩の油母は,一般に更に複雑な化学構造を持つ有機物から成っています.
これを乾溜することで初めて複雑な組成を持つ可燃性の気体と液体とが得られる訳です.

 この為,天然産の石油と比較すると一般に不飽和性が強くて直鎖の炭化水素が少なく,逆に窒素・酸素・硫黄含有化合物が50%近く含まれていて,空気中で判定でなく,放置しておくと変質し沈殿物が生じたりします.
 従って,これを燃料にするには水素を添加するか,硫酸で洗滌するなどして安定化させる必要がありました.
 また,こうした複雑な組成の為,頁岩油は悪臭を放ち,少なからぬ毒性を有していて,人によっては屡々吐き気や頭痛の原因となりました.

 しかし,頁岩油は軽油の着火性を示す尺度であるセタン価が高く,ディーゼル機関用の燃料油に最適でした.
 また,起動時には発煙が少ない事から,潜水艦用の燃料にも適していました.
 一方,複雑な組成を示していることから,分留などを行う事により多種類の成分を得ることが出来,潤滑油や石蝋など多種類の用途に利用することが可能でしたが,ただ,揮発油としては一般にオクタン価が低く,自動車用としては使えても,航空機用のガソリンとしては利用出来ませんでした.

 てことで,頁岩油の話を再び続けてみたり.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/07/18 21:58

 さて,昨日に続いて油母頁岩の話.
 元々,撫順炭田では,これは掘削後に廃棄していたのですが,明治末年にこれから炎と煙を上げているのが発見された事から,その原因を探ると,これが既にスコットランドなどでよく知られていた油母頁岩と同じものであることが確認されました.
 1920年,組織的なボーリングを行った結果,多量の資源が埋まっていることが判明します.
 とは言え,石炭層に近い部分の含油率は低く,貧鉱であることが理由で,長く実用化が諦められていました.
 ところが,大規模開発の際に,広範囲のボーリングをしてみたら,炭層から離れて地表に近い部分の頁岩の含油率の方が反って高い事が判明し,再び関心が高まりました.

 この頁岩油を採油する試みは,先ず大連中央試験所によって,スコットランドなど外国に数百トンの頁岩試料を送って試験させることから始まりました.
 その結果は既に書いた様に,スコットランドなどのものに比べると,含油率は最高で8%,平均5%であり,スコットランドで採用されていた,油母頁岩を砕き入れた炉を石炭などで外部から加熱して油分を得る外熱式では頁岩油の純度では有利ですが,燃料費が高く付いて含油分の低い撫順の頁岩では採算性が悪い事が予想されました.

 この為,撫順の技術者達は,エストニアなどの状況を実地に見学した結果をも合わせ,乾溜部と熱発生部を分離するなど独自の工夫と改善を行い,油母頁岩の持つエネルギーを利用する内熱式を提案しました.
 これは油母頁岩自体を燃料とするので熱効率が良く,含油率の低い原料に適している反面,製品と成る頁岩油が頁岩に含まれている各種不純物によって汚染されてしまうと言う欠点がありました.

 この時期,最大の顧客である海軍は純度を重視し,外熱式を支持しており,撫順や中央試験所でも意見が分かれていました.
 1925年5月,社長以下炭鉱監部,それに実地の技術者達を交えた大規模な会議の末,内熱式を利用した日量10トン程度のパイロットプラントを撫順に建設することになり,その後,1927年に日量40トンの処理能力を持つ試験炉が建設され,この結果実用炉の運転条件を決定することが出来る様になります.

 こうして,頁岩油の生産は軌道に乗ったのですが,1932年,海軍から案の定,内熱式による採油では,固定残渣が出来てパイプに目詰まりが生じると言うクレームが発生しました.
 この問題は,中央試験所で硫酸を用いた洗滌で解消出来ることが判りましたが,その前に撫順の技術者達によって,加熱した空気を吹き込む事でほぼ除去が出来る事が分っていました.
 机上の研究と,実学との差という事になるのでしょうか.

 その後,西製油工場は1927年から1929年に掛けて本格的な建設に入り,拡張を続けて最終的に100トン炉80基,180トン炉60基で限界に達しました.
 この敷地は撫順西方の隣駅大官屯駅の南側にあり,敷地は東西1.6km,南北300m程度のものでした.
 更に,拡張が限界になった西製油工場の代わりに,撫順炭田の東端に東製油工場が建設されることになり,1939年から建設に着手されましたが,資材不足で工事が遅れ,敗戦時には約80%の完成度で終了しています.
 此処には,当初計画では200トン炉60基が設置され,西製油工場が拡張に拡張を重ねたので配置に無理があったのに対し,当初から拡張を見込んだ一貫設計が為されていました.
 この稼働により,年産50万トンの粗油生産を目標にしていたりします.
 ただ,相当無理を重ねた為,プラント稼働時の頁岩油のコストはそれまでの倍程度になることが予想されていました.

 この頁岩粗油(Crude Oil)は分留によって,石油と同様に,揮発油,灯油,軽油,重油に分けられます.
 その中の頁岩重油の組成は,その半分が炭化水素であり,鎖状のものがその大部分を占めていますが,多少の環状と芳香族(ベンゼン系)を含んでいます.
 他の半分は多種類の含窒素六員環化合物(ピリジン系)及び五員環化合物(ピロール系)などの窒化物,更に酸素系或いは硫黄化合物で構成されています.
 これは重油の例ですが,軽油や揮発油なども同じ様な構成であると考えられています.
 この中で特にアルカリ性を示すピロール系の化合物は,湿気を含んだ空気中では酸素と反応して重合,変色して沈殿物を作る原因となり,海軍の艦船でこれを用いた場合,沈殿物によるパイプの目詰まりが海軍のクレームに至った訳です.

 また,頁岩油の今ひとつの特徴としては,組成が複雑であるので多種類の有機化合物を含んでおり,若し適切な分離手段があれば,有用な化学物質の原料入手が可能になると言う可能性がありました.
 例えば,含窒素化合物や,分枝状の炭化水素などが挙げられます.

 ただ,頁岩油には透明で中性の成分と共に,黒色又は緑色のアルカリ性成分から成っています.
 此の内,前者は無害ですが,後者は前述の窒素を含む五員環或いは六員環を持つ化合物を含んでおり,特に五員環を持つピロール系の成分は空気と反応して固形物を形成したり特有の悪臭を放つだけでなく,人によっては嘔吐や頭痛の原因とも成りました.
 それだけでなく,接触すると皮膚にケロイド性の外傷を生じさせたり,或いは手指の痙攣的硬直やアチソン病と呼ばれる腎臓疾患を発症する事が明らかにされています.

 もし,今後石油が尽きて,頁岩油が前面に出て来たら,こうした健康被害に留意して使わないといけないようです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/07/19 22:10

▼ 多くの石油製品の生産工程と同じく,頁岩油の生産も,縦型かつ円筒型の炉を用いて,中に頁岩を入れ,加熱してガスを発生させる方式でした.
 初期の炉では,単純な円筒形のものが用いられていましたが,後に乾溜部と発熱部を分離する必要性が生じたので,中央部に括れを作る形態に変更されました.

 油母頁岩鉱石は,直径数十センチ程度の塊状に砕かれ,上部から連続的に投入されて炉全体を満たします.
 鉱石は加熱され下方に向けて移動する内に,中の揮発分や水分が失われていき,最後に灰分が残って回転式の取皿から外部に排出されます.
 上部の乾溜部は平均して400度程度の温度があり,気化した油成分は上部から気体として取出されます.
 炉の下部からは空気が送り込まれますが,これは下部の発生炉でほぼ消費し尽され,上部の乾溜筒部分は常に還元雰囲気となる様に制御されていました.

 こうして得たガスの内,メタンなど軽いガスは再び炉に戻して熱源として利用され,残りのガスは洗滌の後,採油塔或いは飽和塔を経由して粗油として取出されます.
 頁岩に含まれている窒素分は水素と反応してアンモニアとし,水中に溶解させて,後に硫酸と反応させて硫安として回収しました.

 炉の下部は発生炉となっていて,残りの油母頁岩を燃焼して発熱させますが,この部分の炉の温度は最高1,000度に達しています.
 油母頁岩は,ケロゲンや遊離炭素の形で石炭の数分の1程度の熱量を持っていますので,一旦反応を定常状態に持っていけば外部から燃料を加える必要は殆どありませんでした.
 下の灰皿は水で満たされ,炉に水蒸気を供給します.

 100トン炉では断面積は最狭部で7平方メートル程度となり,頁岩の平均落下速度は1時間0.3m程度と成ります.
 但し,中央と周辺部で落下の速度が変わるので,中央部の落下速度を抑える工夫が為されていました.
 原料は当初30cm程度に砕かれ,粉末は捨てていましたが,その後は粉末も利用できるように炉が改造されていました.
 こうした努力の結果,油母頁岩の化学分析結果では水分8%,油分6%,ガス5%,炭素数%が含有されていましたが,採油効率は油分の内80%を達成しています.

 この炉の数は,西製油工場では80基に達し,1943年の粗油生産高は26万キロリットルに達しました.
 これは当時の国内産油高とほぼ同程度で,1944年後期に南方産原油の入手が困難になると,貴重な石油資源になっています.

 頁岩油工業では頁岩油だけでなく,様々な副産物が生成されました.
 最大のものは先述の硫安で,これは肥料として販売されました.
 この為に必要な硫酸は,付設の工場で硫化鉄を燃焼して製作しています.

 頁岩油を蒸留の結果軽い留分を除いた後に残った黒い残渣は,破砕して頁岩コークスとして回収され,これは製油工場の近くにある満州軽金属の工場に送られました.
 ここでは頁岩コークスを,アルミニウムの電解析出の為の陽電極として使用しましたが,炭素電極は酸素の為に消耗が激しいので,製油工場があるのは有利であり,しかも,頁岩コークスは純度が高く,アルミニウム融液が汚染される心配がないので,この目的に適合していました.

 揮発油のダブス式蒸留装置は,米国Universal Oil Product(UOP)社製でした.
 基本的技術が,米国製なのが日本の弱点ですが,これもその口.
 高い塔を持った反応塔に於いて,頁岩から得られた粗油を高温に加熱して,クラッキングを実施した後,分留してガソリンを得る為の装置で,その調整は通常の原油と異なった性状を示したことから,容易に動作せず,技術者が1年の格闘の末,漸く機能したものでした.
 残念ながら,これで得られた揮発油はオクタン価が低く,航空機用ガソリンには利用し難いものでしたが,自動車用としての利用は可能で,後にソ連軍占領下に於いては,軍用車両用の燃料としての供出を強制されたりしています.
 他に,重くて融点が高い成分は,石蝋の生産に用いられています.

 更に,頁岩油から得られた重要製品として,過熱気筒油…高温度に堪えて使用する潤滑油で,蒸気機関車のピストンなどに用いられるもの…があります.
 米国は開戦に先立ち,この過熱気筒油を真っ先に輸出禁止にしましたが,大連中央試験所によって,この代替品が頁岩油から開発されました.
 これは,頁岩蝋を一旦塩化させて後縮合して重合させ,引火点の高い潤滑油を得る方法で,生産は奉天にある満州化学が行っていました.
 因みに,その塩化に用いる塩素ガスは,隣接する味の素から供給されたものです.

 この過熱気筒油は,満鉄のみならず,朝鮮鉄道や日本内地の鉄道にも供給され,戦時下の鉄道運行を支える重要なアイテムと成っていました.

 また,海軍燃料廠では頁岩油を加工して,海軍機用潤滑油として使用する試みが行われていました.
 この航空機用潤滑油は,高空から海面付近まで降下した場合の温度変化でも,粘性変化が許容範囲であることが求められるものです.
 この他,敗戦直前には陸軍が冬期に使用する低温用航空潤滑油の開発が指示されて,敗戦時には東製油工場にパイロットプラントが出来つつありました.

 乾溜炉の下部から回収された灰にも,使い道がありました.
 主に炭鉱での石炭採掘後の充填材料となったのですが,セメントとして利用される様にもなりました.
 この為に,液化工場の近くに系列会社である撫順セメントを設立し,此処でセメント生産を実施しています.
 このセメントは,石灰石を利用したポルトランドセメントに比べると,より低コスト化が可能で耐水性が高い利点がありました.

 因みに先述の石蝋は,頁岩油を加工した蝋分を含んだ重油を満州から輸出し,日本国内で加工しています.
 加工して蝋分を取り除いた重油は,海軍の徳山燃料廠に納入し,蝋分は精製した後に販売しました.
 この加工の為に1929年に設立されたのが日本精蝋と言う会社ですが,これは現在では撫順炭鉱を祖先に持つ唯一の会社となっています.
 本社こそ大連の満鉄本社内にありますが,工場は燃料廠に近い徳山湾に面する半島の突端にあった石油会社を買収して設置しましたが,その工場建設費用は,撫順の製油工場建設の凡そ2割に達しました.
 重油と蝋分を分離するのは,チェコスロヴァキアから機械を輸入し,再結晶と圧搾と言う機械的な方法で行いました.

 蝋分の多い重油を運搬するのは,温度が低くなると固形化するので普通の油槽船では行えず,加熱可能な船倉を持つ4,000総トンの専用船鳳城丸が建造されました.
 タンク車も特別製で,加熱を行って40〜50度に保つ必要がありました.
 この工場の生産能力は精蝋が年間6,000トン,重油も同量でした.
 当初は硫黄を含有した不純物などで,製品の蝋は黄色になってしまい,販売上不利でしたが,後に硫酸で洗滌して活性白土を通す方法で脱色が可能となりました.

 太平洋戦争時は資材不足で目標量達成は困難となり,1945年5月に専用油槽船鳳城丸が関門海峡で触雷座礁して原料入手が不可能となり,遂に活動は停止してしまいます.

 戦後は,GHOから閉鎖機関に指定され,当時の社員は需要の多い蝋燭の生産と販売で糊口を凌いでいましたが,1951年に新会社として発足し,インドネシア原油を輸入して蝋の生産を続けています.
 因みに,蝋は照明や紙のコーティング材のほか,自動車タイヤの老化防止剤やワックスに用いられています.
 現在,日本精蝋は,日本唯一のワックス専門メーカーとして,年間約9万トンのワックス生産を行っているそうです.

 皆さんの自動車にも,満鉄の技術が脈々と受け継がれているものが使われているのかも知れませんね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/07/24 22:08


 【質問】
 石油施設関係者の徴用の実態はどんなだったのか?

 【回答】
 それについては,『石油技術者たちの太平洋戦争』(石井正紀著,光人社NF文庫,1998.1)という本があります.
 戦時中,日本の重要な石油供給源の一つであったパレンバンにて,石油技術者や女子事務員の視線から,占領から復旧・操業,そして敗戦までを見た一冊です.

 以前に同じ著者の『陸軍燃料廠』(光人社NF文庫,2003.5)が面白かったので,購入,したはず.
 〔略〕

 パレンバンの占領計画の策定や女子事務員の募集に応じた女性の話など興味深い話が多いのですが,日本軍の駄目な部分に目が行ってしまったり,それを紹介してしまう私の性分はどうしたものか.

●軍人と徴員の格差
「『人の上に人を作り,人の下に人を作る体質は,牢固として消し難いものがあったのである』」(191頁)
 ・命令に従わない,との理由で叱責する
 ・命令が無いのに勝手に作業したとして叱責する
 ・電話中に混線したら,混線先から「鳥(月給「取り」.つまり徴員)の電話などブッタ切れ」と露骨にいわれる
(いや,電話が混線してる事自体が問題なんじゃ…)
 ・禁煙が原則の製油所内で煙草を吸っている下士官に徴員が注意すると下士官が暴力を振るう
 ・徴員は高給取り(陸軍伍長の月給は20円.判任官(下士官クラス)のそれは80〜120円)との事で,公然と小遣いを強請る兵隊がいる(それって犯罪じゃ…)

 余りの酷さに,徴員の勤務状況を視察した調査団が,待遇改善を訴えた報告書を提出したり,陸軍省勤務の技術将校が会議で意見具申しています.
 もっとも報告書の内容を受け入れず,意見具申は「座が白けただけだった」というのが日本軍くおりてぃ.
(「人の上に〜」は,意見具申した高橋健夫中尉が著作の中で,会議の顛末をこの様に結んだ言葉)

グンジ in mixi,2007年09月17日19:53


 【質問】
 ア号燃料とは?

 【回答】
 アルコール燃料のことで,実際に使用されたという.
 その精製に動員された人は,以下のように語っている.

 〔略〕
実際に〔戦争に〕使用されたものにアルコールがある.
 海軍ではア号燃料と呼んでいた.陸軍でもそう呼んでいたのかどうかは知らない.
 ガソリンが逼迫していたのは海軍の方だから,先に使用したのは海軍であろう.
 松根油の採取を実行したのも海軍であ
る.

 ア号燃料が単独で使われたのか,ガソリンに混合して使ったのかは不明だが,実際に使用された事は当時の体験者から聞いているから間違いない.
 練習機によく使われ,その所為かエンジントラブルが多かったそうである.
 現在の自動車でも,アルコールを使用するエンジンには対策が必要だというから,当時の技術では充分と言えない点があったのかもしれない.

 原料は主としてサツマイモだったが,玉蜀黍を始め種々の雑穀類も使われた.
 サツマイモは大事な主食でもあるので,大量生産出来る品種が開発されていた.
 それまでのサツマイモと言えば「金時」の名で代表される品種の様に,皮は紅色で身は黄色,甘みの強い小型のものだったが,新しい品種は1本の重さが1キロ以上もあって皮も身も白っぽく甘味は少なかった.

 全国の酒造会社がア号燃料のメーカーになった.
 私も何回か地元の酒造会社に動員された.
 ナマのサツマイモを薄切りにしてそれを筵に並べて天日で乾かす.
 数時間毎に裏返して早く乾燥させる.
 乾いたものは纏めて工場に運ぶ.
 そういう作業を人海戦術で進めるのである.
 ナマのままでなく乾燥させたのは,少しでも澱粉質を多くする為だったのではなかろうか.

 日本酒の原料は米であるが,戦時中の米不足から昭和15年に酒税法を改正し,公然とアルコールが添加される様になった.
 オールアルコールの「合成清酒」の全盛期は寧ろ戦後で,清酒と言えば合成酒だった時代がある.今でも「純米酒」以外の酒には必ず醸造用アルコールがブレンドされている事は周知の通りで,私などにはこの方が口当たりが良い.

 食い物の話になると直ぐ脱線してしまうが,酒造会社の動員は楽しみだった.
 飛行場の土方作業に比べて楽な上に必ずオヤツが出るのだ.
 オヤツは大きな蒸しパンだった.
 ホンノリ酒粕の匂いがする蒸しパンは今でももう一度食べて見たいと思うほど素敵な食べ物だった印象があるが,よく考えてみると原料の雑穀や藷をもうこれ以上は何も出ないという位絞りに絞ったカスのカスで,今なら犬も食わないかもしれない.

「国民年金の花柳な生活」,2007/05/07
※おきらく軍事研究会に転載されたもの


 【質問】
 松根油とは?

 【回答】
 燃料が枯渇した大戦末期の日本が,航空燃料にしようとして松の根っこから採取した油.
 20万キロリットルを採取したという.
 以下引用.

 近頃良く話題に上るバイオ燃料だが,決して新しいものではなく,昔から日本にもあった.
 当時の日本の燃料事情は一般家庭が石油を消費する事は無く皆,軍用だった.
 民生用のバス,タクシー,トラックなどは背中や脇腹に大きな釜を抱えていた.木炭や薪を燃やして発生したガスをエンジンに供給する為のものである.
 私は物心ついた時からそんな車しか見た事がなかったので,戦後,ガソリンで走る自動車を見た時は,不思議なものを見る思いがした.

 〔略〕

 昭和20年になると松の木から油を採って航空燃料を作り始めた.
 ドイツでは既に使用しているという情報もあった.
 松は油脂分が多く,昔からタイマツとして利用されている.
 特に,幹を切倒した後の根ッコには油脂分が多い.
 松根は乾溜装置で松根粗油とし,精製工場で航空燃料とするのだ.
 幸い乾留技術は昔から日本にあったので,必要なのは松根を掘り出す労力だけである.
 もう使える男はいないので,動員されたのは家庭に残った女性であった.

 私の母や姉も何回か駆り出された.
 深く根を下ろした古株になると,掘り起こすのに2日も3日もかかる事があった.
 得られた松根油は20万キロリットルという記録が残っている.

「国民年金の花柳な生活」,2007/05/06 (日)
※おきらく軍事研究会に転載されたもの

 もっとも,
>折角生産した松根油も使用されない内に戦争は終って(同ブログ,2007/05/07)
しまったという.

 桜の根も代用コーヒーの原料とされたりするしで,木造船が軍艦の主力ではなくなった現代の戦争でも,樹木も決して無関係ではいられないというお話.


 【質問】
 松根油計画の詳細を教えられたし.

 【回答】
 石井正紀「陸軍燃料廠 太平洋戦争を支えた石油技術者たちの戦い」(光人社NF文庫)P.203〜210によれば,石油代替計画については戦前から石炭液化による人造石油技術開発が進められていたが戦争遂行には間に合わず,人造石油以外の石油代替計画を実施.
 ガソリンとアルコールの混合燃料,純アルコール燃料,生ゴムからの潤滑油精製,大豆・ひまの実などの植物油蒸留(そういや重油が不足した為,植物油を混ぜて使用し,エライ目にあった駆潜艇の話があったな)など多岐にわたった.

 その中で最も注目されたのが,松根油からの石油精製.
 松の根・樹皮を釜で乾留して得られた粗油をさらに蒸留すれば,揮発性の高い精油(ワニスやペイントの製造原料になる一種のテレビン油)が採取できる事は,古くから知られた技術で,これをさらに高温高圧下で接触水素添加すれば,高オクタン価の航空ガソリンを得る事が「理論上」は成り立つ.
 が,これは近代化学工学を駆使して机上実験とパイロットプラントによる実験が求められる,未知の世界の話であった.

 研究に先に着手したのは海軍で,44年3月にベルリン駐在武官から
「ドイツでは松から採取した油で航空機を飛ばしている」
という軍令部宛電報の内容に飛びつき,直ちに調査を開始.軍令部,海軍省軍需局,第一海軍燃料廠が結束し,さらに農商省山林局,林業試験場などが動員された結果,
「松根油からのガソリン生産計画は可能.
 松根の埋蔵量は全国で750万トン,そこからの採油量は概算で約100万キロリットルと推定される」
との結論を得られ,これを聞いた軍令部の一参謀は突然立ち上がり「松根油は神風だ」と叫んだとか.(100万キロリットル=約620万バレル,当時の本土での消費量三分の一に該当)
 海軍は本格的に松根油生産計画に取り組み,これに陸軍,農商省,内務省も参加.10月には最高戦争指導会議で計画が承認され,国を挙げての一大動員計画に.
 松根原油(粗油)生産目標は昭和19年度で9万リットル,昭和20年度で30万キロリットルを設定.
 銃後の老若男女に学生も動員した人海戦術で,山林や路傍の松の根を掘り出して採取し,粗油にするための乾留釜まで運搬.
 この為に乏しい鉄材から,乾留釜約3万7千釜が製造製造される
(但し製作が完了したのは終戦の二ヶ月前.
 モデルグラフィックス誌2009年6月号の日の丸船隊ギャラリーで,戦時標準船を生産していた東京造船が,三月の東京大空襲で壊滅し,さらに造船用の資材を松根油製造用の釜に回す事になったなった為,造船作業が終了した,という記述がある).
 製造された粗油は,第一次精製を担当する全国の製油所に送られて軽質油,重質油に分けられ,このうち軽質油を第二次精製を担当する海軍の燃料廠で,水素添加して航空ガソリンを製造.
 海軍の燃料廠は南方からの原油輸送が途絶していた事から,施設が休業状態だったので,受け入れ準備は万全に近かったが,原料が石油と松根油では勝手が大きく異なり,当然すぐに航空ガソリンの製造とは行かなかった.
 徳山の第三海軍燃料廠で生産された松根油からの航空ガソリンの量は,空襲で壊滅してしまった為に定かな数字的裏付けはないとしているが,500キロリットル程度だったとされており,それが航空機に使用されたという記録は残されていないとしている.
 航空ガソリンと称していても改質は不十分だったし,松根油の分子構造からみて高オクタン価は期待できず,また航空ガソリンして使用する為にはエンジンテストが必要だったはずで,何もかもが準備不足,というよりは計画そのものに無理があった,としている.

 陸軍燃料廠が松根油からの航空ガソリン製造の研究に着手したのは昭和19年末で,小規模な実験から中規模の装置を使用しての実験と拡大していき,昭和20年6月頃には試作品が完成.
 しかしこのガソリンでは自動車エンジンをスタートさせる事ができず,普通のガソリンでスタートさせて,動き始めてから松根油からのガソリンに切り替えるのがやっと.
 しかも燃料としての安定性に欠け,運転後には普通のガソリンで洗浄運転しないと,翌日エンジンが始動できない有様とか.
(そういや「海上護衛戦」で戦後米軍が松根揮発油を持ち帰り,ジープで試験したら,数日後にはジープのエンジンが腐ってしまった,という記述があったな)
 燃料工学専門の技術者達は,航空エンジンとしての使用は困難な状況というのが理解できるだけに,軍の命令はむなしく感じられたとか.

 当時の日本では原油の採掘,重油への製品化までは技術的に難しくはないが,そこから先の,例えば高オクタン価の航空ガソリンの製造の実用化のめどがたった所であり,そこへ研究すらしていなかった松根油からの航空ガソリン製造計画には,無理があった事は否めない,としている.

 石井は言う.

――――――
 松根を掘り出し,乾留して粗油にし,一次精製をしただけで(この段階で艦船を動かし得たかどうかは疑わしい),もう飛行機を飛ばせるかのような空騒ぎをしたところはいかにも日本的で,泥縄式の愚挙だった.
 こうして戦争と石油を考えたとき,いや,その他のあらゆる作戦でもそうであったが,日本軍の施策はいつのときも,現実にぶつかって初めて場当たり的な発想に基づく対応策を講じることが多く,そのために施策がことごとく後手ごてとなってしまい,結果としては愚挙に終わることが多かったといえる.
 石橋を渡る場合ですら,あらかじめあらゆるケースについて慎重に考慮してから結論をだすタイプのアメリカ軍とは,そこが大きな相違だった.

――――――(P.209)

グンジ in mixi,2009年05月30日14:41
青文字:加筆改修部分


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