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<第2次世界大戦

【質問】
昭和以降の米価の変動状況を教えてください.
【回答】
以下のサイトを参照してください.
400年の米価(昭和の巻)
http://www.shizuoka.info.maff.go.jp/nousei/syokuryo/data/bekasyo.htm
400年の米価(平成の巻)
http://www.shizuoka.info.maff.go.jp/nousei/syokuryo/data/bekahei.htm
【珍説】
食糧不足になってたってということは終戦時にはなく,事実に反しているので,説得力がありません.
食料が深刻化したのは戦後しばらくたってからです.
紙幣の価値の低下が顕在化したのは翌昭和21年に入ってからで,それまでは普通に物が買えました.
【事実】
戦時中は食料が配給制だった事は無視かな?
米の配給量は一人あたり一日二合程.これではおなかいっぱいにはならん.
そもそも米を買うには米穀通帳が必要だったわけだが.
終戦後に食料不足に拍車がかかったのは事実だが.
>紙幣の価値の低下が顕在化したのは,翌昭和21年に入ってからで,
>それまでは,普通に物が買えました.
買えねえ.
米以外の食料を買うのには食料切符が,衣料品を買うには衣料切符が必要で,それも不足しがちだったわけだが.
昭和18年末にはほとんどの生活物資が配給制となった.
紙幣の価値が下がっていないように思うのは,価格統制が行われていたから.
【珍説】
実際,当時の体験者から,食糧不足の話聞かないんだよな.
食糧不足のソースもあてにならんな.
【事実】
そりゃ,技能を持ってたり,資本や工場を持ってたりする人々と,それが無い人々との生活の差は戦時下には結構ありますが,一概には言えんでしょう.
例えば,父方の曾祖父は医者でしたから,開業医として近隣の農家の人々を診ていました.
なので,その御礼というか,薬代代わりに食料を得ることも可能ですし,元居た会社から,部下や世話をした
人が南方からの土産品として,バナナとか甘味料を持ってきてくれ,それを近隣の農家に分けて,代わりに食料を補填してましたし.
母方の方は会社が重要会社だったので,その辺から手を回して,配給だけは途切れさせなかったですし.
その後,大阪近郊で空襲に遭い,焼け出されたのだが,経営していた会社からの支援があったので,路頭に迷うことが無かった.
それらが無い,または無くなった人々は大変な生活になっているのではないか,と思いますよ.
ちなみに,当時の西宮は阪急から北についてはほぼ農業地帯だったので,食料は十分にありました.
但し,うちの曾祖父は,贅沢三昧が祟り,配給では食っていけなくなったので,結核を患い,敗戦の翌年には亡くなっています.
例によって蛇足ですが,戦略爆撃調査団の調査で,「個人的に戦争継続を望まなかった理由」の中に,「消費物資欠乏のため」を言う回答選択肢があります.
この回答では,大規模な爆撃で高度に破壊された大都市の住民の場合,14%の人がその選択肢を選択しています.
同じように破壊された中小都市ではこの比率は11%,軽度に破壊された中小都市で9%,意外に,東京が8%と低く,小規模爆撃があったか,爆撃を受けなかった都市では13%,田園共同体で19%,都市疎開者では14%となっています.
このアンケートを見る限り,東京の住民は消費物資の欠乏に苦しめられてた感じではなかったりします.
東京は首都であり,交通の結節点であり,統制経済の中心であることから,意外に物資の集積が行われたのではないか,と言う話もあります.
一方で,田園共同体,即ち,田舎の方では物資を都会に供出したことで,相当物資不足に苦しんだと言う話もあります.
例えば,子供に対する加配はなく,学校給食もないので,子供一人当たりの配給量は一日当たり米一合ほど東京より少なく,油,酒の配給は東京の1/3,魚,海苔,豆腐の配給はなく,況や,薪炭の配給もないと言う話もあったりします.
後,清沢洌の暗黒日記(3巻P.164〜東京大空襲の件)
甥の笠原貞夫は出征しており,その妻が三人の子供を抱えて焼け出されたのは先にも書いたが,修司が区役所に行くと,
「縁故疎開の外はどうにもならぬ」
と一向に受け付けない.
貰ったのが,五日分の食料切符と汽車無賃乗車券のみである.
仕方がないから丸ビルの地下室に連れてきて,信州に送るという.
布団二枚を自転車に積んで連れてきた.
国家の羅災者救助というのは,五日分の米と醤油だけだ.
これが東京の状況.
神戸や大阪も同様だったかと思います.
後,流言・投書の太平洋戦争の第五章辺り興味深いですよ.
(眠い人◆gQikaJHtf2)
http://www.f4.dion.ne.jp/~eisan/koushuueiyou.htm
・戦後の混乱期は食料不足に苦しんだが,当時は食料を生産する農村のほうが,都市に比べて食料の入手に恵まれており,栄養水準は上位にあった.
・終戦直後は食料生産の低下や外地からの引揚げ等による人口増により,全国的に飢餓と栄養失調が蔓延し,極めて深刻な食料不足になった.
公衆栄養学という学問で教えている「歴史」ね.
また,戦中の都市生活,疎開生活,戦後の都市生活を経験した人のハナシは
http://homepage2.nifty.com/shokuiku/subkatei0209.htm
参照.
6月に横浜に戻ったころの献立を見ると,戦争中より食糧事情の悪いのが分かります.終戦直後はもっと大変だったようです.
主食の配給はありましたが,お米ではなく,大豆から油を絞ったカス,麦,ざらめ(砂糖),さつま芋(水に浸かってスカスカの味のないようなものまであった),
カロリー換算して配給していたのでしょうか.闇市があちこちに出来,なんでも売っていました.
でも預金は封鎖され,毎月下ろせるお金は限られていました.
仕方なく,着物などを持っていって食料と交換したりして,みな飢えを凌いでいました.
お店で何か売り出すとみんな行列して買いました.
何の行列か分からなくてもとりあえず並ぶという,大変な時代でした.
小麦は精米所で粉と取替え,パン屋さんに粉をもって言ってパンと交換しました.
これ↓は誰か気合で判別してくれ,細かくてよく読めない.
http://eiyotoryori.jp/keyword/k/key_k028.html
(ふみ)
体験談ね↓
http://www.kamitv.ne.jp/~kiyomizumai/page8-005.html
神戸が昭和20年3月17日に空襲を受け,半強制的にまだ燻り続ける焦土の中を逃げるように,岡山県の小さな町へ学童疎開をしました.
勿論疎開先でもご多分にもれず食糧不足で,
大井篤氏の『海上護衛戦』(学研M文庫,2001.2)第八章-30「空腹・降伏」より引用.
戦前から,日本内地は食料所要量(国民一人当たり2165カロリー平均として)の約八割を国内生産でまかなうことができただけで,残りの二割の分は海外からの輸入に依存していた.
ところが戦時中の船舶の損失によって,輸入食料は減少の一途をたどった.
(ここで表,一部のみ書く.
食料輸入量
14・4〜15・3:2793
18・4〜19・3:1871
19・4〜20・3:1188
以上1000kg単位)
この輸入減を国内生産の増加によってまかなうなどという事は,もちろん,出来るはずも無い.
戦争中の食糧生産量は次のB表(省略)の通りで,昭和十九年までは,大きな減少もないが,増加もなかった.
(中略)
輸入減によって減らされる部分は,食料の生産者で無い都会地の住民に多くかぶってくる.
日本の食料統制はドイツやイギリスに比べると拙劣だったから,それが闇を刺激し,それからそれへと悪循環を生んだ.
(中略)
われわれの記憶に新しいように,食糧事情は昭和十八年の夏には相当既に悪化していた.
翌十九年には闇が深刻化してきた.
十九年の全国食糧消費から計算すると,国民一人一日当たりのカロリー摂取量は1900平均に落ちていた(p411-412)
七月上旬の閣議で,主食の一割減配が議論された.
食料輸入の前途は真っ暗どころか,壁に突き当たった格好だ.
オガクズやモミガラで粉食をつくって食べねばならぬところまで来ている(p419-420)
軍事板
山口正二著『聞書き五代目古今亭今輔』(青蛙房(せいあぼう),2003/7/5)より.
----------------
「8月15日に戦争が終わったんで,学校へ電話をかけて,
『終戦になったから,農村慰問には行かなくってもいいんでしょう』
ッて話したら,
『いや,まだ当分向こうにいますから,農家からお米を分けてもらわねばなりません.
ですから,やっぱり行ってください』
ッて,校長先生に言われたんで,福島県の西山温泉へ行ったんです.
越後に近い所で,郡山から若松へ抜けて,若松から行くんです.
で,そこの村役場の所在地区に宿を取って,これを本拠にして,そこから1里半(6km)歩いて農家へ行くと,そこに次男や何かが疎開しているんです.
山奥ですよ.
それで,先生が付いて,その晩,一人で落語をやると,ドブロクなんかを飲ましてくれる.
東京から芸人が来るッて土地の人が話しても,疎開している人たちは,
『今輔が来るだなんて,嘘だろう』
ッて言って信用しない.
それが本当に来たんですから,忽(たちま)ち評判になって,あっちでも,こっちでも,『来てくれ』,『噺してくれ』ッて引っ張り凧でしてね,役場の所在地から1里半歩いて行って,その晩,一人で3席か4席やって,そこに泊まって,あくる朝1里半歩いて帰って,その日の内に,また新しい所へ1里半歩いて行く.
だから,毎日3里ずつ歩いて,ドブロクを飲んだり,御飯を食べたりするから,適当に運動がついて,御馳走を食べる.
それで太って,18貫(67kg)になっちゃった.
兵隊検査の頃は12貫500(47kg)だったのが,13貫500(51kg)になって,それからずうッと変わらなかったんです.
ところが戦争が始まって,配給になって,お米を食べなくなってから,11貫500(45kg)までに下がっちゃったんです.
栄養失調で,もう半年戦争が続いていたら,私は死んでたかもしれません.
妙なもんですねえ,あの栄養失調ッてのは.
昼間は下らないんです.
夕飯食べると,とたんに夜通し下る.
ですから,3度(たび)も4度(たび)も便所に通って,朝飯が済むと,ピタッと止まっちゃう.
それが3年くらい続いて,昭和17年から痩せ始めたんです.
身体の具合はちっとも悪くないけど,食べ物がないんですから.唐茄子と,じゃが芋と,さつま芋ばっかりですからねえ.
子供が大勢だから,闇米は買えませんよ.お金はないしね.
だって,そうでしょう.
晒(さらし)が1反1800円くらい,米は1升180円くらいでしたよ.
その頃,田舎へ行ったって,1日千五百円くらいにしかならない.
ですから,あの頃のわたしは,苦労のどん底にいたんです」
(p.204-206)
▼ 以下は漫画家・杉浦茂(当時,東京市在住)の証言.
[quote]
この時分〔昭和17年晩秋〕,菓子らしきものは全くなく,ただ,茶だけをガブガブと飲んだ.
当時,菓子店では,砂糖を全く使わない,赤い着色した寒天製のものを,それも時間を限って売っていた.
米は早くから配給制であったが,飲食店には米の配給はなかった.
その頃,我が家に田舎から親戚が一人来たが,昼時に,家人が親戚の持参した米を寿司屋に持参して,握ってもらったものを出したことがあった.
〔略〕
昭和19年から20年へかけて,酒好きな男たちは,ときたま開かれる,夕方6時からの「国民酒場」へ駆けつけるのであった.
酒のときは,コップ1杯,ビールのときは中ジョッキ1杯と限られており,むろん,金は払う.
いつも長い行列だが,量に限りがあるので,尽きると終わりで,ありつけなかった人たちは,地面を蹴りながら散るのであった.
家庭用としては,これもときたまだが,満25歳以上の男子に限り,わずかな酒が配給された.
そんなとき,酒場へかけつけることなどめったにできない私は,大切に2晩かけて,これを飲んだりしたものだ.
[/quote]
―――杉浦茂他著『杉浦茂 自伝と回想』(筑摩書房,2002/4/25),p.46-48
▲
ちなみに,野坂昭如は飢えがひどくて,犬まで殺して食ったらしい.
軍事板
そんな野坂さんに鍋物進呈.

【質問】
戦前の北洋漁業について教えてください.
【回答】
日露戦争で日本が獲得した権益の中に,樺太やカムチャツカ水域での漁業権と言うのがありました.
その維持の為に,旧式なれど海軍の駆逐艦が出張っていったり,専用の漁業保護艦として,占守型海防艦が建造されたりと言うのは有名な話だったりする訳です.
会社組織になる前は,小林多喜二の「蟹工船」の世界さながらの話があったのですが,日本水産などの会社組織がこうした漁場を取り仕切ってからはそうした話は減っていきました.
とは言え,その労働は現在の目から見ると厳しかったりするのですが,当時は,農家の次男坊,三男坊が手配師によって集められ,工船や現地工場で働いている話を聞くと,兵隊と同じく毎日白米の飯が食べられて楽しかった,と言う答えが返ってきて,翌年も出稼ぎに出る人が多かった様です.
こうした現地工場へは4月から船団を組んで北上した工船で労働者を送り込み,工場では川で獲れたり沿岸で獲った鮭や鱒などを加工し,工船では沖合で獲った鮭や鱒を加工します.
工場で加工した製品は,仲積船と言う船で工船に届け,工船は何回かの航海で加工した製品を,北海道の港に陸揚げします.
そして,こうした漁を何度か続け,9月になると現地工場で働いていた労働者を引揚げると言う形態を取っていました.
ちなみに,1937年の漁獲は沖捕りで578万尾,沿岸と川では181万尾を獲っています.
当然,こうした漁獲は乱獲に繋がり,段々と先細りになっていった訳です.
その戦前の日本では,塩鮭と言えば銀鮭の事だったそうです.
今は塩鮭と言えば紅鮭なので意外な話.
でもって,紅鮭の方は国内市場で見向きもされなかったので,こちらは缶詰に加工して輸出していました.
その国内で売られていた鮭缶の中身は,実はピンクサーモンと言う名前の鱒の缶詰だったそうな.
一方,北洋漁業で鮭・鱒と共に主力となったのが,小林多喜二の小説に出て来た「蟹」です.
こうした蟹漁は船団方式で漁に出ます.
中心となるのは,蟹工船.
この蟹工船には両舷に「川崎船」と言う搭載漁船を8〜10隻吊し,母港から漁場まで運びます.
この「川崎船」は和船型の木造漁船で,日本沿岸で帆や櫓を用いて漁業に用いられてきました.
流石に北洋まで出張る航洋性は無いので,母船で運ばれた訳です.
こうした「川崎船」は,長さ13m,幅3m,排水量10t前後で,20数馬力のエンジンと,漁網を揚げる設備と蟹を貯める漁倉を持っていました.
これらには8〜10人が乗り,漁網を引揚げて蟹を収穫するのが仕事です.
ちなみに,蟹工船には救命ボートが装備されていません.
代りに救命ボートになったのがこうした「川崎船」でした.
この川崎船は漁網を引揚げるのが任務ですが,この漁網を仕掛けるのが,独航船と言い,母船に3〜5隻付属していました.
独航船は,排水量45〜80t,200馬力前後の発動機を有し,漁労長など10数人を乗せて蟹工船より4〜5日早く出港し,蟹の居場所を探し,網を仕掛けます.
この独航船は航洋性を重視し,母船よりは速力が遅かったそうです.
こうして,蟹工船が数隻の船団となると補給や荷物運搬用の仲積船まで含めると100隻を超す船団で3000人を超す人々が働いていました.
この蟹漁は,独航船が仕掛けた刺し網を蟹工船から降ろした川崎船が引揚げ,川崎船の中では船倉に広げた網の畚に網から外した蟹を入れ,網は畳んで再び使用できる様にします.
一度網を揚げて蟹を取り外すと,川崎船は母船に戻り畚を母船のクレーンで引揚げ,再び別の網を揚げに戻る様になります.
それを何往復か繰り返すと,夜になって川崎船は母船の舷側に引揚げられます.
引揚げられた蟹は,蟹工船の後甲板に降ろされ,此処で甲羅を剥がす作業が総員で行われます.
甲羅を剥がした蟹は再び畚に入れて,海中に投入し,その畚を船首方向に送り,クレーンでつり上げて,前部船倉に設置されたタンクで蒸気を用いて煮ます.
煮終わった蟹は,再び海中に浸して冷却し,10分で引揚げると台に乗せて脚を刃物や小槌で開いて肉を出し,中甲板で缶詰にされました.
缶詰作業は繊細な技が要求され,少年が主に担当した作業だとか.
この缶詰は,箱詰めにされて母港に戻した後,日本からの輸出品として欧州を中心とした海外に輸出されたそうです.
当時,蟹缶は貴重品で,国内では滅多に手に入らないものでした.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年04月26日22:31
【質問】
戦争直前〜戦時中の米の自給率は?
【回答】
1940年の時点では,米の年間消費量1200万トン.
一人当たり約152kg,一日に換算すると一日約450g(三合)となります.
この頃の日本人はエネルギーの7〜8割,蛋白質の3割を米から摂取していました.
都市部では,一人一日約500g(三合半)の米を食べていました.
ちなみに現在では,年間僅かに65kg.それだけ,食が多様化したと言えるでしょうか.
当時は「白米ブーム」で,「日の丸弁当」が質素な生活の象徴となったのも,白米が潤沢にあったから.
しかし,1940年の年間消費量1200万トン,対して,国内総生産量は900万トン,つまり,差し引き300万トンは不足し,タイやインドからの輸入,朝鮮,台湾からの移入で賄っていました.※
外米輸入に必要な貨物船は,1万総トン級(今は10万総トンとかありますが,当時はこれくらいの規模が最大級)のものでも,単純計算で300隻必要になります.
この分をボーキサイト輸入に充てれば,飛行機2500機分,鉄鉱石なら,巡洋艦100隻分の鉄を作る分だけの量が運べます.
そんなわけで,米の消費量を減らすため,政府は統制に乗り出します.
まず1939年11月より,買い占めや売り惜しみを防ぐ為として,政府が強制的に農家から米を買い上げます.これは公定価格で国民に払い下げる統制品としました.
これが発展して,1942年に食糧管理法となり,以後1995年までこれが長いこと日本の農政を支配したわけで.
1941年4月から更に六大都市で配給制度を開始,これは程なく全国に広がり,国民に対して主食である白米の量を制限すると共に,米の平等な配当を実現して行きます.
配給制度では,米は11〜60歳までは1人1日330g(二合三勺)と約25%少なくなりました.
これと共に,「栄養所要量」の元祖,「国民食栄養基準」が定められました.
これによると,中程度の労働をする成人男子で,1日に必要なエネルギー量は,2400kcal(女子はその8割,2000kcal)で,蛋白質は80g必要とされており,現在の基準,栄養所要量の数値は2300〜2650kcal,蛋白質70〜85gとそう変わらなかったりします.
しかし,程なく戦争に突入して,エネルギー,蛋白質の所要量を満たすことが出来なくなったのが悲劇の始まりだったりするのでした.
1945年には米の備蓄量は僅か3.8日分まで落ち込んでいます.
これは移送に使用する船が悉く撃沈されたためでもあります.
日本人の主食とされた米の生産は,1936〜40年の五カ年平均(1,098万トン)を100とした場合,45年には60(660万トン)に下がり,この傾向は他の農産物でも同じでした.
ちなみに,主要蛋白源である水産物(鮮魚,塩乾魚)にしても45年には39年の65%(198万トン)まで落ち込んでいます.
これは,それを捕る漁船が海軍に徴用され尽くしたところにもありましたが.
余談ですが,宮沢賢治の詩の中に「一日ニ玄米三合ヲ食ベ」とあるくだり,あれはオリジナルでは
「一日ニ玄米四合ヲ食ベ…」
でした.
しかし戦後の食糧不足の折,「いくらなんでもこれは多すぎる」として,「一日ニ玄米三合」に変更されてしまった訳で….
眠い人 ◆gQikaJHtf2
※主要農産物自給率は昭和5-9年の平均値で,
| 砂糖 | 12% |
| 豆類 | 45% |
| 玉蜀黍 | 40% |
| 小麦 | 63% |
| 米 | 84% |
http://www.meti.go.jp/hakusho/tsusyo/soron/S24/H05-01.htm
なお,以下の記述からも,
・大正時代にはすでに日本本土で生産される米だけでは自給できず,不足分は朝鮮半島からの移入で賄っていた
・昭和12年には,支那事変勃発によりすでに米不足が起きていた
ことが分かる.
以下引用.
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昭和12年,日中事変の勃発は,様々な面でいっそう大河内コンツェルンの発展を有利に導いた.
合成酒は,前年まで米の余剰のため伸び悩みが続いたが,事変によって朝鮮米は軍用米に転用され,内地への移入がばったり杜絶えて,たちまち米不足に様変わりしてしまった.
鈴木梅太郎,大河内が予見していた,米不足が起こるという食糧問題は一挙に露呈して,全国各地の酒造家から特許実施の希望が殺到し,理研酒販売株式会社は,やや鈴木の意見に近く,理研の一手酒造でなく特許権を分与し,技術を指導して各業者に作らせた.
宮田親平著『科学者たちの自由な楽園』(文藝春秋,1983/7/15),p.213
〔合成酒の〕発想は,大正8年秋頃,鈴木の脳中で具体化したとされているが,このアイデアも彼の生涯のテーマであった「米」の上に浮かんでいる.
動機は大正7年の米騒動で,
「毎年人口が増加していては将来,必ず食料が不足するときが来る.
それなのに日本人は主食物の米を毎年400万トンも酒に変えている.
今のうちに米以外のものから作る酒の研究をやろう」
というものだった.
アルコールはデンプンや糖蜜から醗酵させて作るとして,しかし,いかにして酒の風味を出せばよいか.
このテーマは,池田〔菊苗〕の「うまみ」研究にも似て,はるかに難しかった.
〔略〕
一方で,米は不足するどころか,一見過剰に悩まされているように見えた.
もっとも,これは朝鮮産米の移入という,植民地政策によって息がつがれているのだということの意味を,人々が深く知っていたかどうか.
同,p.98 & 100
▼ 昭和16年6月発行の「同盟グラフ」誌上の広告から.

>「節米にポテトサラダ」
“パンが食べれないならケーキをお食べ”ではないでしょうが,ポテトサラダでお腹を一杯にするのはちょっと辛いです.
でもこの当時から,ポテトサラダにはマヨネーズと相場が決まっていた事が,やや驚きでした.
よしぞう(maro') in mixi,2006年07月03日01:21
〜2006年07月07日 23:42▲
【質問】
戦時中,「炊き増えする炊飯法」というものが行われたそうだけど,どんな方法?
【回答】
「国策炊き」
大釜に水2升を入れて火にかけ,沸騰したところで米一升を研がぬまま入れてよくかき混ぜる.
浮いてきたゴミは丹念に掬い,蓋をする.
再度沸き立って吹きこぼれたら,ガスならば「蛍火」,炭ならば豆炭二つくらいの火力にして,50分そのまま炊き続ける.
この炊飯で,普通の方法より三割も量が増えるという.
「楠公飯」
楠木正成が発明したという炊き方.
まず米一升をあらかじめ煎っておき,これを三升炊きの釜に入れて,水2升を加え,蓋をして一晩放置.翌日水を吸って膨れた米に水五合をさして普通に炊く.
一升の米が三升釜一杯に増えるという.
これらの炊き方,増えるのは体積だけで栄養も比例して増えるわけではない.
腹持ちも味も悪かったろう.
しかし見た目だけでも増えるのは大きな魅力であった.
【質問】
戦時中に作られたという代用調味料について教えてください.
【回答】
太平洋戦争が勃発し,物資不足が更に進むと,調味料の流通量が少なくなります.
砂糖は既に配給停止,一日当たりの配給量は,塩は小さじ八分目,味噌は小さじ二杯半,醤油大さじ一杯半,食用油は小さじ一杯程度にもなっています.
これ,どっかのレシピじゃありません.一日に配給された調味料の量です.
其処で,代用調味料を自分で作ることになります.
まず,塩,これは海水を10分煮立てて,二枚重ねの清潔な布巾で漉し,天日で2〜3日干し,出来た濃厚食塩水を醤油差しに入れて使います.
醤油は,濃厚食塩水でわかめ,ひじきなどの海藻類を気長に似ることで,似たようなものができあがります.
更に炒り大豆を加えて煮たものを配給醤油に混ぜると,高級な醤油もどきができあがります.
味噌も倍増させることが出来ます.
配給の味噌と同量の漉し芋(甘藷を使うと甘みがあり,美味しく出来る)を混ぜて,370gの味噌に対して50〜70gの塩を混ぜてかき混ぜ,これを湯たんぽの上に載せて毛布か布団でくるみ,二日ほどその状態で保温すると,あら不思議,味噌は倍になります.
砂糖は,配給は無いので完全代用.
人参,カボチャのわた,甘藷をおろし,笊に布巾を巻いた上に広げて天日干しした後,焙烙かフライパンで焦げない程度に炒ると甘みのある粉が出来ます.
マヨネーズ…は,何でもかんでも食べなければ成らない時代,大抵は,食べられたものではないものを兎に角,濃い味を付けて,とりあえず食べさせると言うことで,マヨネーズとかトマトソース,バターなどの代用品が推奨されています.
で,代用マヨネーズは,小麦粉または生大豆粉か食用粉で糊を作り,塩,酢1に対して食用油10の割合で加えてかき混ぜる,これに溶き芥子を入れるとなお美味.
油も卵も無い場合は,馬鈴薯,甘藷を煮て突き潰し,塩,胡椒を振りかけて酢で伸ばすとか.
代用バターになると,炒り大豆を磨り潰し,塩と油を少々落として摺り上げるとピーナッツバターの代用品.
更に,味噌の増量は他に小麦粉を混ぜる,塩の代わりに漬物の汁を使う,酢が足りなければ,柑橘類の汁を使うなど,色々工夫をしています.
しかし,暖衣飽食の今ではとてもじゃないけど,やる人は少ないでしょうね.
特に,海水の塩作りは都市部ではやらない方がいいですよ(やる人はいないか).
眠い人 ◆gQikaJHtf2
【質問】
戦時中の配給の中身はどんなものだったの?
【回答】
例えば1945年6月.
2日 小麦粉(1貫500匁) 2円46銭
3日 米(20kg) 7円
4日 野菜 12銭/マッチ半箱 3銭
5日 髪油(2瓶)7円50銭/塩(25匁)
7日 煙草(金鵄57本) 2円
8日 キャベツ(小1つ) 20銭
10日 乾燥野菜 キャベツ(500匁) 10円
12日 棒昆布(20匁)6銭/小松菜(280匁)28銭
14日 大根(320匁/人)32銭
15日 大豆(7kg)2円14銭
16日 米(15kg)5円58銭/干ニシン,干アミ各1本 1円85銭
煙草(光2箱,刻み1)7円86銭
18日 漬菜,小松菜
19日 数の子 36銭
22日 漬菜,小松菜
26日 煙草(朝日バラ10本)/佃煮昆布24銭/
乾饂飩(4束)76銭
28日 干ニシン 78銭
29日 大豆(9kg)2円88銭
30日 米(6kg)2円11銭/小松菜 18銭
これは,東京都に住んでいた一家4人の配給状況です.
ちなみに,米20kg配給と言っても,5分突きから東条内閣末期には玄米となっているので,精米してしまうとナンボも残らない状態です.
これらは主に食料切符や米穀通帳などによって記録されていますが,これに掛ける労力は2時間から4時間半並んで手に入れる様なもので,非常な時間の損失になっています.
配給制度確立当初は,主食の米を基準に配給が行われていましたが,1942年以降は,そんなことも言っていられなくなり,米1日当り成人の配給量330gに換えて,乾麺や小麦粉が配給されました.
乾麺なら1把(375g),小麦粉なら350gという換算になります.
魚は此の月は干物が多かったのですが,他の月には,烏賊,春先には貝の剥き身が多く,偶に鮫が配給されました.
本来このほかに,砂糖は1人0.6斤(12g),マッチ2ヶ月に小箱1箱,食用油3ヶ月当り5合,卵2人当り1個,菓子は乳児なら2袋,3歳以上もビスケットなどが配給されるはずですし,塩は1ヶ月当り1人200gが配給されるべきですが,この中ではマッチがようよう配給されただけ.
しかもマッチも末期には,「附木」と称する木片に硫黄を塗ったものが配給される状態になります.
菓子なんかは,薩摩芋,南瓜を使ってペーストにした和菓子風のもの.
お萩も餅米の代りに米と里芋で,乾饂飩は花林糖になったり,蒟蒻を利用した餅(蒟蒻畑と発想は同じ!)になったり.
更には米ぬかを炒って狐色にしたものをチョコレートの代用にまでしたり.
婦人雑誌(未だこの頃でも発売していた!)の料理コーナーは,この頃,既にレシピから計量が消え,何はなくともすいとんとカレー風味の何かが盛んに書かれています.
得体の知れないものでも,取り敢えず,団子にしてしまうか,きつい臭いを付けてしまえば,食べられると言う焼けのやんぱち精神だったりする訳ですね.
眠い人◆gQikaJHtf2 in mixi
【質問】
戦争末期〜戦後直後の日本の食糧配給状況を教えてください.
【回答】
今日のサイエンスアイは,エコ社会実現に向けての色々な方策についてやってました.
…いあ,眞鍋かをりに釣られて見てる訳ですが….
〔略〕
そんなことはさておき,玉蜀黍のプラスチックを番組中で紹介していました.
これが進んで,玉蜀黍プラスチックが主力になったら,それを主食にしている人はどうなるんだろう,と思ってしまいましたが(日本向け猫缶を作るのに,Thaiではその缶詰の中身の鮪だか南だか何だかの魚を捕獲するため,現地住民の主食となっていた小魚を根こそぎ獲ってと言う話もありましたっけ),番組中では,その原料となる乳糖を作成するのに,生ゴミとか建築廃材とか,玉蜀黍の代替になる,要は繊維質を持つ自然原料からそれを作る研究をしているみたいです.
生ゴミだったら,そんなに他人様に迷惑を掛けるわけで無いと思うのですが….
で,話は強引に配給の話へ.
戦時中の東京都に於ける配給では,米が100%配給されたのが1942年9月まで.
10月以降,1943年7月までは大体95%前後となり,8月以後年内には更に減って80%台前半,1944年1月には正月と言うこともあって一旦92%に回復しますが,4月までには85%前後となり,6月に一度80%に減り,10〜11月は一気に66〜67%,12月には72%に回復します.
意外なことに,1945年1〜5月は,80〜90%をうろちょろしてますね.
ところが,制海権の無くなった1945年6月からガクッと下がって,40〜50%になり,これが年内一杯続くわけです.
しかも,これでもマシな方で,翌年以降その比率は深刻になります.
1946年は1〜2月こそ本来の軍需分を回したからか,一度80〜90%になりますが,3月に72%,4月に68%とジリ貧状態となり,5月44%,そして,6月には凶作の影響で18%に一気に下がり,7月は遂に4%,8月には2%と,何処に米があるの状態で,9月は回復しても5%.10月に早稲の収穫がある所為か29%に回復し,11月に89%に戻り,以後は70〜90%を推移しますが,1947年5月から再び低下し,9月に再び4%に陥ります.
そうなると,配給の中身は代替物になりますが,主力は芋または南瓜,麦は未だマシな方で,1945年6月頃には,脱脂大豆,食用粉,そして大豆が底を突き,乾燥玉蜀黍,高梁,団栗に変っていきます.
ちなみに,食用粉という代物,原料は不明で,配給当初は麦と麩など雑穀と脱脂大豆,または麦と麩など雑穀と乾燥玉蜀黍を粉にした二種類があり,未だ団栗は出てきてませんが,8月になると団栗や得体の知れない海草も粉にして配給されるようになります.
そして,1946年の危機的状況の時には,「新興麺」というのが配給されていますが,これは海草(昆布)粉末,芋,玉蜀黍の茎や実を取った芯などの粉末で作った代用麺.
これは,乾燥麺なのですが,戻すのに2時間かかり,しかも栄養価ゼロ,ただ,腹を膨らすだけのものだったり.
他に「母乳素」と言う妖しげなものもあり,これは大豆を適度に加熱し微粉とし,妊婦の保健または産婦母乳の分泌を促すと言うもの.
また,甘藷澱粉の配給もありましたが,これは玉蜀黍粉と共にパンにして食べると言うものです.
そのためのパン焼き器というのも乏しい資材から作られていたりするのですが,これは電気を食うので,電力事情の逼迫しているときは屡々目の敵にされていました.
ちなみに,この甘藷澱粉の質は最悪で,
「多少の砂が混じっているので,一度水に溶かして上水を取り,沈殿物を捨てること」
と言う注意書きまで付されていたり.
食べる楽しみが無くなって,ただ生きるためだけに栄養を補給しているというのはさぞかし味気ない生活だろうなぁと思いますが,そんなことを思いやる余裕は無かったんでしょうね.
それにしても,今の子供達の食生活の貧弱さは,どうなんでしょう.
新興麺なんてのも,ああいった子供達には食べられるものかもしれませんが.
眠い人◆gQikaJHtf2 in mixi
なお,以下の記述を見るに,戦後直後は地方のほうが食料事情はマシだった模様.
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〔3代目・三遊亭円右師匠の談話〕
〔略〕
「食糧難時代ですから,定席に行ったって,お米を買うだけの何はないけど,端席を歩いていれば,その間には地方の仕事が来るわけですね.
浅草の,今の稲荷町から清島町あたりですね,あそこいらに芸能社がたくさんあって,そこから連絡が来るわけです.
「長野県のほうでこういう仕事がある.お金はあんまり出ないけど,米が出るよ」
「ああ,行きましょう」
みんな喜んで集まりましたねえ」
〔略〕
――山口正二著『聞書き五代目古今亭今輔』(青蛙房(せいあぼう),2003/7/5),p.246
【質問】
援農学徒とは?
【回答】
太平洋戦争中,食糧増産を目的として,出征で人手不足となった農家を支援するため,全国の青年層が「北海道援農部隊」を組織させられ,1943〜45年までに約500団体,約20万人が同地で農作業に従事させられたもの.
1945年5月には大政翼賛会が,働きうる者は一人残らず「援農」に従事させるという「農繁期国民皆労運動綱領」なる計画を立て,
7月には学徒の草刈り大動員,
8月には「農村労力非常対策綱領」決定により,学徒の通年農業動員体制を確立した.
『植木等伝「わかっちゃいるけど,やめられない!」』(戸井十月著,小学館,2007/12/25),p.50-51によれば,当時,東洋大学の学生だった植木等も,1945年5月から伊達紋別へ狩り出され,玉音放送も同地で聴いたという.
動員された学童生徒からは概ね不評で,農学校の生徒さえ,「思い出したくない」「2度と行きたくない」と言うような制度だったという.
腕力がないことなどがネックだった模様.
考えてみれば,大人に比べて体力で劣り,しかも食糧事情も決してよくなかった戦争末期の15,16歳くらいの生徒なんぞは,腕力などなくて当たり前.
終戦後もしばらくこの制度は続き,函館市史によれば11月まで続いた例もあるという.
前述の植木等も,曰く,
「戦争は終わったのに,いつまで百姓の手伝いしなくちゃいけないんだって,みんな文句たらたらでね」(上掲書,p.54)