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(画像掲示板より引用)


 【link】

「神保町系オタオタ日記」■(2008-04-26)[文藝] 戦時下の極楽とんぼ(その3)
> 戦争中の食生活というと,一升瓶で米をつくシーンを思い浮かべてしまうが,勿論そういう貧しい人ばかりではなかった.

『稲の大東亜共栄圏 帝国日本の〈緑の革命〉』(藤原辰史著,吉川弘文館,2012/08/21)

『戦下のレシピ 太平洋戦争下の食を知る』(斎藤美奈子著,岩波現代文庫,2015)

 太平洋戦争中,いわゆる銃後ではどんなモノが食べられていたのか?
 婦人雑誌に掲載されていたレシピを紹介したり,その料理を再現したりした一冊です.
 代用食や,国策炊き,川原に生えてるあんなもんや,こんなもんも食べてたと云うエピソードが綴られており,戦時下の生活の苦しさが良くわかります.

 読み終え,あの時代に生まれなくて良かったと思う事,請け合いです(^^;

------------ ベタ藤原 ◆MNjfnp0E :軍事板,2002/08/20
青文字:加筆改修部分

『戦後食糧行政の起源 戦中・戦後の食糧危機をめぐる政治と行政』(小田義幸著,慶應義塾大学出版会,2012/12/20)


 【質問】
 昭和以降の米価の変動状況を教えてください.

 【回答】
400年の米価(昭和の巻)
を参照されたし.


 【質問】
 皇居の水田はいつごろからあるのか? 

 【回答】
 赤坂離宮のある東宮御所で昭和天皇が田んぼを始めたのは,意外に歴史は新しく1935年頃の事だそうです.
 畑は渋沢栄一の指導で,後の昭憲皇太后が皇居で養蚕を始めているので,相当古くから桑畑があったりします.

 ちなみに,皇居の木々に関しては昭和天皇のご意向で,吹上御所内の植物は一切手入れせず,自然の儘にしているそうです.
 剪定とか草抜きとかしようものなら,大騒ぎになったとか.
 今の天皇陛下になってからどうなのかは存じませんが.

 林業と言うには程遠い状態ではありますが,皇居には盆栽を管理している部署があります.
 良く,デパートなんかの盆栽展で宮中からの出品とかがありますが,これはそうした部署で管理しているものだそうで.
 盆栽園については,徳川将軍家以来の銘品が並んでいて,例えば,家光遺愛の五葉松なんてのが然りげ無く置かれているとか.
 また,江戸期に成立した温室である大坂室と言うのが数軒軒を連ねています.
 温室と言っても,ガラスやらビニールで囲われた様なものではなく,木造平屋で土間造りの建物で,土間に植物を置き,風のない昼ならその南側を大きく開け放って日光を入れ,風があれば障子を立てて風を遮ると共に,紙越しに日差しを入れ,晩には戸を立てて寒ければ火鉢で暖を取ると言うもの.
 元々は,大坂で冬越え用に考案されたものが江戸に上ったらしく,小石川植物園にも遺構があります.

 盆栽と言えば,大宮にも盆栽町と言う町がありましたね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2008/05/13 23:13


 【質問】
 戦時中でも海からは魚が獲れただろうから,漁村はそれほど食糧に困らなかったんじゃないの?

 【回答】
 戦中は漁村も悲惨だったようだ.
 エンジン付き漁船は,大きいのは軍に乗組員ごと徴用され,太平洋上で哨戒をした.
 それで,かなりの数の漁船が沈んでいる.
 残った船も燃料の配給を貰えず,仕方なく小舟で近海で漁をしたりしてたけど,末期は潜水艦や敵機が出没して,機銃掃射食らうので,それが怖くて船を出せなくなった・・・との事.

 ただ戦後は,食糧増産で優先的に燃料を貰えたし,漁場の魚群も豊富で,ずいぶんと潤ったみたいだね.


873 :名無し三等兵:04/03/18 06:31 ID:???

 そーいえば,うちのじいさん家,めちゃ金持ちなんだけど,昔,漁村の網元してて,戦後の混乱期のときに大儲けして,財産築いたって言ってたな.
 なんでも,4畳半の部屋が,投げ入れた札束の山で埋まったそうな.

 多分,戦時中は労働力不足と,燃料不足で魚獲ってなくて増えていて,しかも農作物と違って,すぐに収穫できて,おまけに農地解放にも無関係だったから,儲かったんだろうな.

軍事板,2004/03/18
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 戦前の北洋漁業について教えてください.

 【回答】
 日露戦争で日本が獲得した権益の中に,樺太やカムチャツカ水域での漁業権と言うのがありました.
 その維持の為に,旧式なれど海軍の駆逐艦が出張っていったり,専用の漁業保護艦として,占守型海防艦が建造されたりと言うのは有名な話だったりする訳です.

 会社組織になる前は,小林多喜二の「蟹工船」の世界さながらの話があったのですが,日本水産などの会社組織がこうした漁場を取り仕切ってからはそうした話は減っていきました.
 とは言え,その労働は現在の目から見ると厳しかったりするのですが,当時は,農家の次男坊,三男坊が手配師によって集められ,工船や現地工場で働いている話を聞くと,兵隊と同じく毎日白米の飯が食べられて楽しかった,と言う答えが返ってきて,翌年も出稼ぎに出る人が多かった様です.

 こうした現地工場へは4月から船団を組んで北上した工船で労働者を送り込み,工場では川で獲れたり沿岸で獲った鮭や鱒などを加工し,工船では沖合で獲った鮭や鱒を加工します.
 工場で加工した製品は,仲積船と言う船で工船に届け,工船は何回かの航海で加工した製品を,北海道の港に陸揚げします.
 そして,こうした漁を何度か続け,9月になると現地工場で働いていた労働者を引揚げると言う形態を取っていました.

 ちなみに,1937年の漁獲は沖捕りで578万尾,沿岸と川では181万尾を獲っています.
 当然,こうした漁獲は乱獲に繋がり,段々と先細りになっていった訳です.

 その戦前の日本では,塩鮭と言えば銀鮭の事だったそうです.
 今は塩鮭と言えば紅鮭なので意外な話.
 でもって,紅鮭の方は国内市場で見向きもされなかったので,こちらは缶詰に加工して輸出していました.
 その国内で売られていた鮭缶の中身は,実はピンクサーモンと言う名前の鱒の缶詰だったそうな.

 一方,北洋漁業で鮭・鱒と共に主力となったのが,小林多喜二の小説に出て来た「蟹」です.
 こうした蟹漁は船団方式で漁に出ます.
 中心となるのは,蟹工船.
 この蟹工船には両舷に「川崎船」と言う搭載漁船を8〜10隻吊し,母港から漁場まで運びます.
 この「川崎船」は和船型の木造漁船で,日本沿岸で帆や櫓を用いて漁業に用いられてきました.
 流石に北洋まで出張る航洋性は無いので,母船で運ばれた訳です.
 こうした「川崎船」は,長さ13m,幅3m,排水量10t前後で,20数馬力のエンジンと,漁網を揚げる設備と蟹を貯める漁倉を持っていました.
 これらには8〜10人が乗り,漁網を引揚げて蟹を収穫するのが仕事です.
 ちなみに,蟹工船には救命ボートが装備されていません.
 代りに救命ボートになったのがこうした「川崎船」でした.

 この川崎船は漁網を引揚げるのが任務ですが,この漁網を仕掛けるのが,独航船と言い,母船に3〜5隻付属していました.
 独航船は,排水量45〜80t,200馬力前後の発動機を有し,漁労長など10数人を乗せて蟹工船より4〜5日早く出港し,蟹の居場所を探し,網を仕掛けます.
 この独航船は航洋性を重視し,母船よりは速力が遅かったそうです.

 こうして,蟹工船が数隻の船団となると補給や荷物運搬用の仲積船まで含めると100隻を超す船団で3000人を超す人々が働いていました.
 この蟹漁は,独航船が仕掛けた刺し網を蟹工船から降ろした川崎船が引揚げ,川崎船の中では船倉に広げた網の畚に網から外した蟹を入れ,網は畳んで再び使用できる様にします.
 一度網を揚げて蟹を取り外すと,川崎船は母船に戻り畚を母船のクレーンで引揚げ,再び別の網を揚げに戻る様になります.
 それを何往復か繰り返すと,夜になって川崎船は母船の舷側に引揚げられます.
 引揚げられた蟹は,蟹工船の後甲板に降ろされ,此処で甲羅を剥がす作業が総員で行われます.
 甲羅を剥がした蟹は再び畚に入れて,海中に投入し,その畚を船首方向に送り,クレーンでつり上げて,前部船倉に設置されたタンクで蒸気を用いて煮ます.
 煮終わった蟹は,再び海中に浸して冷却し,10分で引揚げると台に乗せて脚を刃物や小槌で開いて肉を出し,中甲板で缶詰にされました.
 缶詰作業は繊細な技が要求され,少年が主に担当した作業だとか.

 この缶詰は,箱詰めにされて母港に戻した後,日本からの輸出品として欧州を中心とした海外に輸出されたそうです.
 当時,蟹缶は貴重品で,国内では滅多に手に入らないものでした.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年04月26日22:31


 【質問】
 第2次大戦までの,八重山諸島の水産加工業について教えられたし.

 【回答】
 さて,八重山諸島に来たのは,農業をしに来た人々だけではありません.
 周辺は豊かな漁場なので,当然のことながら,漁民達も多くやって来ています.
 その多くは糸満漁民で,彼らは,別名を「海の遊牧民」と呼ばれていました.

 八重山に於ける,糸満漁民の移住は1882年に親子2人の漁民が借家に来て漁労販売をしたのが始まりで,それから,糸満の人口が増えてそこでの漁労で食えなくなった人々が,新たな漁場を求め,サバニに乗って八重山にやって来ました.
 彼らの多くは,まず囲い込み漁を行っていましたが,次第に海人草と呼ばれる回虫駆除の煎じ薬の原料の海草類や,夜光貝や高瀬貝と言った貝類の素潜り漁に移行して行きます.

 夜光貝はそのうち乱獲で数が減り,それだけでは食べられないので,家族を呼び寄せ,男衆が漁場に出て捕ってきた魚を,女衆が町に売りに行くという役割分担が出来,石垣島で定住していきました.
 夜光貝に次いで,海人草,海鼠の海参,鱶の鰭や鯣烏賊など多様化していきますが,20世紀に入ると,鰹に注目が集まりました.

 1905年から1907年にかけて,糸満の漁船が進出し,釣り竿鰹漁が開始されたのが始まりです.
 1907年に八重山に於ける漁民数は411名,戸数269戸で,鰹漁船は12艘,サバニと呼ばれる刳船が411艘でした.
 当時,沖縄全体での鰹漁船の数は71艘ですから,八重山の鰹漁船の数は結構な比率になります.

 1908年には,噂を聞きつけて,宮崎の漁船もやって来ました.
 宮崎は目の前の日向灘が黒潮の本流であり,早くから鰹漁業が栄えていました.
 そして,明治になると黒潮を遡る南方漁業にも早くから進出しており,八重山はその延長線上にありました.
 1910年になると,八重山に鰹節製造業者が進出し,その半数近くは宮崎出身者になっています.
 そして,7〜11月までの鰹節製造は,10万1,522斤に達しました.

 漁船も1909年に,照屋林顕が補助機関付漁船の「照島丸」を建造したのを皮切りに,次々と近代的な新造船が進水し,照屋は石垣島の字登野城に造船所を構えました.
 1912年の鰹漁船は25艘,うち汽船が1艘,帆船10艘,石油発動機船14艘という状態でした.
 鰹節の製造は,宮崎組が18,000斤,坂田組30,000斤,玉城組15,000斤,元見組13,000斤で,八重山の鰹節生産合計は28万2,283斤となり,沖縄全体の25%を占めています.
 しかし,水揚げは増えたものの,生産が追いつかなかったり,品質の低下が見られた為,字新川に鰹節削り伝習所が設置され,15〜30歳の男女を対象に半年の研修を実施したりもしています.

 大正に入ると,船主,漁業者,餌取,節製造と分業化が進み,1916年,船主は八重山鰹漁業同業組合を結成してそれに20名が参加しました.
 ここでは,一旦解雇した漁夫や機関士,製造人を雇用する時は,前雇用主の承諾を得る事や,職人や漁民の裏での奪い合い防止,漁夫の賃金のカルテルの締結などが行われました.
 それに対し,漁民達も1917年に八重山鰹漁組合を結成し,漁夫が複数の船主と契約したりしないよう「カツオ漁従事者手帳」を発行するなどして,従事者の利益を計るようになります.
 当時は第一次大戦時の好景気でもあり,節削り工が船主と雇用契約を交わしたのに,台湾の景気が良いと言って,一方的に契約を破棄するなどの事もあり,業者間の競争が激しくなってきたのもあります.

 しかし八重山の鰹節製造は,産業としては大きく発展しているにも関わらず,それから受ける利益は微々たるもので,殆どが島外に持ち出されていると言う,植民地的な収奪問題がありました.
 台湾で失敗した人々や県外から来た人間が,あたかも八重山を占領地や植民地と同じように,「ふんだくり主義」を発揮していると言うのが,島内の人々の意識にあったりします.

 それが最も現れたのが,与那国島で発覚した,発田鰹節企業による「私造金券発行事件」でした.
 これは与那国島の久部良で,鰹節製造を大々的に営んでいた,宮崎県出身の発田定彦と言う人物が,金額記入の切符を発行して,紙幣類似証券取締法違反に問われた事件です.

 この事件は,1932年7月17日の与那国村議会で村政改革派の仲里義市議員が,
「与那国島で発田鰹節企業が『私幣』を作って,働いている人たちの労賃として配っていると聞くが,事実か?」
と質問.
 これに対し,村当局がその事実を認め,
「税金に入ってきたので,受け付けられないと現金に換えさせた」
と答弁し,仲里議員が「これは村民の経済生活を脅かす重大事件だ.適当な方法を講じて貰いたい」と要望.
 八重山署も取り調べを開始し,驚いた発田鰹節企業は,8月にその金券を全て現金に換えたと言うものです.

 「金券」とされたものは10円が160枚,20円が70枚,100円が20枚の合計5,000円分で,税金として村役所に流入した事,紙幣同様に使われている事,商品購買券として流通している事が判明し,八重山署では紙幣類似証券取締法違反として県へ詳細報告をしています.

 因みに,この発田と言う人物は,八重山水産業界の立志伝中の人物で,宮崎から八重山に来て,鰹節製造を始め,久部良の工場には大きな煙突を持つ鰹節工場や大きな倉庫などがあり,それらは「東洋一」とさえ言われており,「日向丸」と名付けた鰹船を1〜22号まで所有していた八重山の大立者でした.

 この頃から本土の恐慌がこの辺りに押し寄せ,1924年に60艘あった鰹漁船は1932年には32艘にまで減っています.
 鰹節の相場は3分の1に下落し,販売力の減退に加え,この頃から値段の安い南洋節が出回るようになり,日本産は売れずに,大量の在庫が京阪地方の倉庫に山積みされています.

 この原因として,鰹漁業者が経営資金を高利貸に頼って経営悪化を招いている事,餌を稚魚の時から捕獲しているので,水産資源が年々減少している事,他府県の大型漁船が近隣漁場に進出して,根こそぎ水産資源を捕ってしまう事,不況の影響,南洋節による生産過剰が挙げられます.

 一旦,1938年頃には42艘にまで持ち直しますが,日中戦争の輸入規制で資材の購入に支障を来し,応召兵の増加による労働力の確保が難しくなり,更に太平洋戦争になると,「水産報国」の名の下で鰹節を軍に安価な価格で納品する事が義務づけられ,経営が更に圧迫されます.
 その上,漁船の多くは徴用され,戦災で失われました.
 戦後は県外から来ていた船主や漁業者が本土に引揚げた為,再び地元民の手に戻りますが,結局,1983年頃に全て廃業してしまいました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/10/27 21:45


 【質問】
 八重山諸島におけるパイナップル栽培の始まりは?

 【回答】
 さて,八重山諸島の経済に大きな寄与をしたのは,明治時代は砂糖,明治末から大正に掛けては鰹節,大正期から戦時中になると石炭,そして,戦後はパイナップルが主力になっていきます.

 八重山諸島にパイナップルを導入したのは台湾からの移民でした.
 1935年,名蔵平野に台湾中部の南投県員林地方から栽培農家50戸,330名が入植したのが集団的な生産の開始ですが,それより前に個人的にやって来た台湾からの入植者もいました.
 その中の1人,員林出身でパイン栽培の経験を持つ曹清権が,1933年に嵩田に入植し,偶々その地にパインを試植した跡を見つけ,種苗60本を嵩田に移植した所,発育が良く,八重山でのパイン栽培が有望ではないかと考えました.
 そして,曹清権は員林のパイン業界に報告して,調査団を派遣するよう呼びかけます.

 これに応えて八重山にやって来たのが,員林地方でパイン生産を行っていた大同パイングループでした.
 当時,台湾には大小75カ所ものパイン工場が乱立し,全盛期ではありましたが,過当競争が厳しく,乱売競争から品質低下を招き,問題化していました.
 その為,台湾総督府は75ある工場を1社に統合すべく,合併を進めていきます.
 当時の台湾は,統制経済の実験地として,数々の施策が進められましたが,パイン工場も例外ではなく,統合が強引に進められたのです.

 合併で工場を失った工場主達は,新たなパイン栽培地を求め,台湾を飛び出そうとしていました.
 一つには,中国南部や海南島への流れがありましたが,そうした中で,曹清権から員林の業界に,八重山でのパイン生産の可能性を告げる情報がもたらされたのです.
 情報を受けた大同パインでは,謝元徳,林発,誉益候の3名を視察の為,1935年7月に八重山に送りました.

 謝元徳達は,馬で1週間掛けてつぶさに各地を視察しました.
 その結果,同地の気候が台中に似ている事,地質も良好であり,台風が懸念されるも,抵抗力が強いパインなら栽培が可能であるという見方に達しました.
 但し,当時,車の走れる道路は石垣〜白保間のみで,後は馬車の通れる道しか有りませんでした.
 しかし,この問題も,沖縄振興計画に基づき,産業道路が石垣から嵩田,名蔵に建設中と判明し,大同パインは八重山への進出を決断しました.

 10月5日,入植開墾地を嵩田一帯とし,嵩田耕地組合の町村有地150町歩,この他,八重山茶業組合,中台公司の土地を全部引き受け,大同拓殖株式会社が資本金20万円で発足します.
 事務所を石垣に置き,社長に謝元徳,常務に林発,誉益候,取締役に大坪亀彦,曹清権等2名などで発足しました.
 入植開墾地の嵩田耕地組合は,沖縄振興15カ年計画に基づいて1929年に寄留商人の大坪亀彦が中心になって,県の補助で茶の栽培を進めていたものですが,台風やマラリアで事業を中断し,台湾から農民を呼び寄せて事業を再開しようとしていました.
 それに応じたのが曹清権等で,1933年に中台公司を設立して,水牛30頭を台湾から導入して嵩田農地の開墾に当たっていたのですが,資本不足で事業中断に追い込まれていました.
 丁度その時に,大同パインが進出してきたので,大坪も渡りに船だった訳です.

 大同拓殖の計画では,直営農場を設置してパインの種苗20万本を台湾から取り寄せて繁殖させ,これを農家に繁殖させる事から始めました.
 ただ,パイン専業はやはりリスクがあるので,この他黒糖製造,製茶業,バナナや亜熱帯植物の栽培などの多角経営を目論んでいました.
 会社としては,3万箱のパイン缶詰を製造するには,5年の歳月を要すると見ていました.
 この為,当初から多角化を図っていたのです.

 労働者は,始め石垣の街で雇い入れた日雇いで,彼らを直営農場の農業労働者に充当していましたが,効率が上がらないので小作方式に改め,台湾から55戸,330名を呼び寄せる事にします.
 契約期間は原則10年とし,パインの種苗と肥料資金を貸し付け,住宅には当時の金で50円を補助しました.
 その住宅は,猪の被害や作業効率を考慮して,割り当てられた耕地内に,会社が指定した場所に建てさせており,通常の八重山の集落形態とは趣を異にしていました.

 1936年には40馬力発動機と60トン二重圧搾機で新川,石垣,登野城,平得から甘蔗を畑現場で1,000斤4円50銭で買い取り,1,000挺の黒糖を生産する工場を建設します.
 ところが製茶事業は,夏から秋にかけての台風や冬場の季節風の影響で,良質の茶が得られず,事業は中断.
 黒糖製造も新開地では,糖度が上がらず,日産120樽の生産能力を持ちながらも,3級品や等外品ばかり生産し,売り物にならず事業は中止し,遂にパインに全てを掛けるしか無くなる所にまで追い込まれました.

 その台湾の農民は,水牛を扱う事に長け,1頭の水牛を操って数町歩を開墾しました.
 その頃の八重山の水田耕作は,殆ど人力で鋤を用いて耕し,整地も珊瑚礁の石を葛に括り付けて黒牛や馬に牽かせると言うもので,台湾からの入植者達の農業は,八重山の農民達にとって大きな刺激であり,模範でもありました.
 台湾人農民も,地元農家に稲の改良種子を提供したり,水牛耕作の方法を伝授したりしていました.

 ところが地元農民は,台湾人農民の持ち込んだ新兵器,水牛の威力に恐れ戦き,その新兵器が跋扈すれば,いずれこの土地は台湾人に占拠されてしまう……近年も何処かの国であった話ですが……というので,水牛の台湾からの移入阻止に動き,それに地元の新聞が加わり,移入阻止の一大キャンペーンが張られました.
 当時の『沖縄日報』には,
「台湾人四百人,水牛と共に石垣島を占領す」
などと,刺激的な見出しが出されたりもしています.

 その当時,八重山諸島の牛にはピロプラズマ病と言う病気が流行っており,1934年9月から1935年に掛けて,700頭余の牛が死亡しています.
 畜産農家は神経を尖らせており,それを口実に貿易法違反として水牛の移入阻止に動きました.
 大同拓殖側は,同じ日本の統治下にある台湾で検疫をパスしているので,違法性はないと反論しますが,検疫所のない石垣島では,県知事の許可がなければ受容れがたいとしたのです.
 結局,大同拓殖が大喜丸に積み込んできた水牛60頭は,陸揚げを断念して台湾に送り返され,運賃の代償として哀れにも肉用として,基隆郊外で屠殺されてしまいました.

 更に,水牛反対運動は,パイン種苗持込みにも波及します.
 八重山には植物防疫検査所の施設がなかったので,基隆で消毒し,検査済証を付して搬入したのですが,これも無検査で搬入したと騒ぎだし,県庁に通報されます.
 県庁では搬入した20万本のパイン種苗を全て焼却処分とし,責任者を処分する,との命令を出し,県防疫係官の塚田技師を派遣してきました.
 大同拓殖では緊急役員会を開き,万一,焼却処分があれば会社の解散も止むなしと言う空気になりました.

 来島した塚田技師は,台湾の検査証があっても,沖縄県の検査を経なければ不法搬入に当たるとして,厳しく追及し,翌日から実地調査に入りました.
 試植の苗60本,植付け6ヶ月のパイン畑2町歩,植付けられる予定の数万本の苗などを見て回り,塚田技師は,植付けられている苗の生育が良好で,病害虫の被害も殆ど無い事に気づき,パインの習性や有用性について質問してきました.

 対応した常務の林発は,塚田技師に向かって,ここぞとばかり,諄々と話しました.

――――――
 パインは台風や干魃,潮害にも強い.
 八重山にとってこんなに良い作物はない.
 我々はパイン栽培の経験者であり,調査を重ねてパイン産業振興の為にこの島に来た.
 もし,法を楯に植付けたものまで焼却するというのであれば,我々は解散して引揚げるしかない.
 我々は大陸に渡れば何とかなるだろうが,その代わり沖縄には二度とパイン業者は現れないであろう.
 そうなれば,損をするのは我々よりも沖縄の方が大きいだろう.
 二,三男の土地が少なくなる事だけを心配して,有望作物導入の有利さを忘れている.
 誠に残念である.
 パイン産業の育成に協力して豊かな生活を築くか,それとも一時の感情に溺れて悔いを千載に残すか,あなたの思慮一つで決められる.
――――――

 大きく頷いた塚田技師は,

――――――
 苗には病害虫はいない.
 将来は有望作物になる.
 沖縄の産業育成の見地から,出来る限りの協力を惜しまない.
 しかし,この問題は地元住民と県庁の関係もあり,有耶無耶には出来ない.
 双方が納得しうる,良い方法があれば教えてほしい.
――――――

と逆に尋ねたのです.

 そこで林発が思いついたのが,1931年に八重山支庁が県庁からパインの苗600本の配布を受け,植付けた事でした.

――――――
 既に畑に植付けてあるパイン種苗は,かつて県庁から配布されたパインの種苗が繁殖したものである.
 今度移入したものは,植付け畑が整地できていないので,まだ植付けていない.
 もし,焼却処分が避けられないのなら,まだ植付けていない種苗だけにして貰いたい.
――――――

 塚田技師もこれに同意し,嵩田の農場で,県庁職員,新聞記者等を集め,みんなの見ている前で仮植えのパイン苗に石油を掛けて焼却処分し,新聞はこれを大きく報道し,塚田技師も焼却処分を写真付で本庁に報告しました.

 塚田技師の職を賭した,一世一代の大芝居により,パイン産業の全滅は免れました.
 しかし,裁判所からは呼び出されて20万円の罰金を科せられましたが,その後,全面的に支援してくれた塚田技師の助力により,直ちに台湾から新たな種苗10万本が移入され,その不足を補う事が出来,以後は那覇経由で移入されるようになりました.
 ただ,台湾と那覇で2回燻蒸消毒を受けた種苗の発芽率は,30%にまで落ち込んだそうです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/10/29 23:55

 さて,台湾からの移民に対する風当たりは,一旦収まりますが,今度は大同拓殖内で騒ぎが起きました.

 社長の謝元徳が製茶や黒糖製造の失敗,県庁や地元の非協力に嫌気が差し,会社を解散して入植者全員を台湾に引揚げさせると共に,自分は上海に渡って別の事業を興す,と言い始めたのです.
 役員会では林発が反対した為,結局,会社の解散は止めて,社長の保有株20万円は林発が引き取り,役員の誉益候や林有材に分け,西表島の宇多良で丸三炭坑の社長をしていた野田小一郎に10万円を出資して貰って,謝元徳は社長を辞任して上海に渡っていきました.

 この様な困難を乗り越え,1938年夏には初めて八重山産パインの缶詰が出荷されました.
 1935年に植えたパインの苗が実ったのです.
 製茶,製糖工場をパイン工場に改造し,パイン缶詰製造機器1ラインを設置します.
 初めての生果は1町歩,40トンしか有りませんでしたが,兎にも角にも,パイン缶詰1,000箱が生産されて,大阪の堀井商店に7,500円で引き取られました.
 会社も小作農達も,これに勇気づけられ,生産に拍車が掛かりました.
 また,新たに10町歩のパインを植付け,農民の自給の為に陸稲や養豚,養鶏も開始されました.

 しかし,台湾農民達の開墾は,新たな問題を引き起こします.
 彼らの開墾方法は,一種の焼畑農耕で,伐採した樹木を1ヶ月その場に放置して乾燥させ,これを焼却して耕し,作物を植付けると言うもので,伐採された樹木を巡って地元民とトラブルが絶えませんでした.
 地元では薪にする為に,その雑木を欲しがったのです.
 どうせ焼いて灰にするのであれば,自分たちにくれ,と言う訳です.
 ところが,この樹木を焼いた灰が土壌に積み重なって養分となるので,台湾人達は後の作業に支障を来してしまいますから,それを断ります.
 一方,地元住民は町役場の発行した薪取り許可証を楯に搬出を譲らず,時には大浜集落の青年達が集団で押しかけ,口笛を鳴らして威圧し,強引に搬出しようとした事もありました.

 そして1939年,遂に石垣の町方の人々との間で乱闘騒ぎとなり,傷害事件を起こすまでになり,石垣町民が数百人の集団で,台湾人入植者が避難している大同拓殖の工場を取り囲み,一触即発の事態にまで悪化しました.

 林発は,集団の中に在郷軍人会の潮平寛保副会長を見つけ,説得を申し出ました.
 林発は,潮平副会長に傷害事件のお詫びをし,事件の関係者4名の警察引き渡し,治療や慰謝料の負担,事件の再発防止を約束した後,こう述べています.

――――――
 台湾人と雖も,陛下の赤子であり,今や日本国民南進政策により,台湾を南進基地として,本土は勿論,当八重山からも数多くの人が行っており,台湾人,沖縄人とも同胞である.
 国民が一体となって,外的に当たるべきこの時に,当八重山において,多数の民衆が善悪を問わず,紛争する事は国民のみならず,世界中の人々から笑いものにされる.
 それに万一,八重山に於ける台湾人に危害を加え,死に至らしめる事が不幸にして起こったとすれば,その家族が台湾に在住している沖縄人に対し,同様な報復手段を執らない共限らない.
 全力を以て事件を阻止すべきである.
――――――

 この迫力に,潮平副会長は民衆に向かって,
「私が全責任を持って,警察と共に善処する」
と述べて,「解散」を命じ,何とか両住民の乱闘騒ぎは回避できました.

 その後,林発も,自らが会長となって「台友会」を設立し,入植者全員に日本語や礼儀作法を教えたり,他方,町役所や学校関係,名蔵周辺の地元指導者にパイン事業や台湾人入植者の営農技術を説明して,共に協力しようと訴えて回りました.
 この努力が実り,次第に日本人と台湾人の蟠りは収まっていきます.

 1940年になると,収穫面積は15町歩に広がり,3号缶3ダース入り6,000箱分の豊作に恵まれました.
 ところが時代は戦時体制下で,物資統制法により空き缶も配給制となり,入手が極めて困難となります.
 その缶の入手の為には,軍需に頼る他途は無しと判断した大同拓殖は,伝手を頼って東京の海軍糧秣廠に直訴して,5,000箱分の空き缶を確保し,海軍への納入についても便宜を図って貰う事に成功します.

 これで,何とか一息ついたのも束の間.
 1941年には日米関係が悪化すると共に,海上輸送船も軍に徴用されて,海上輸送が困難になってきます.
 この年,パインの植え付け面積は60町歩に達し,収穫面積20町歩,800トンの収穫が見込まれていましたが,空き缶の入手が出来ず,これらの収穫は缶詰に出来ませんでした.
 生果は止むなく,砂糖漬の乾燥パインに加工して切り抜けようとしましたが,それも収穫の20%ほどで,残りは腐敗したので中止せざるを得ませんでした.

 それでも何とかパインを継続するつもりでしたが,陸軍大臣令によりパイン栽培を速やかに中止して,食糧増産に励むべしと言う命令が来てしまいます.
 入植者達は悲憤慷慨し,声を上げて嘆きましたが,時代がパインの生産を許さないのであれば,止むなしと入植者を集めて説得し,陸稲や甘藷の植え付けに入りました.
 この頃,台湾人入植者の数は嵩田に58戸,名蔵に28戸の計86戸,450名が暮らしていましたが,食糧増産は目覚ましいものがありました.

 当時入植地の嵩田には高崎大隊が駐屯し,大同拓殖の工場に1個小隊と,食料品倉庫5棟がありました.
 また近くの白水には街の住民達の山中避難の小屋が幾つも建てられ,集落を形成していた程でした.
 しかも衛生状態も悪く,医薬品の入手も困難となり,マラリアは爆発的に流行しています.
 更に,駐屯軍の人数が増えて食糧不足も急速になっていきました.
 大同拓殖は,軍や八重山支庁から依頼されて,台湾からの食料調達に奔走し,1943年以降は,八重山から子供や婦女子,老人の台湾疎開が始まりました.
 入植者の中にも,地元に戻る人も出始めました.
 林発等大同拓殖の役員達も,地元民の避難手続きの為に台湾に渡り,混沌の内に敗戦を迎えた訳です.

 1946年2月,台湾に疎開した人々と共に,林発は八重山に戻ってきました.
 戦争によりパイン工場は解体され,建物は軍の宿舎と慰安所にされており,機械は行方不明,畑は荒れ放題で,大同拓殖は自然消滅してしまいました.
 林発達は呆然としましたが,戦争により,日本はパインの主生産地であった台湾を失い,日本国内で唯一のパイン産地は沖縄になった事が有利になる,と考え,再びこの地で再起を図る事にしました.

 戦後のパイン栽培の再興は,1936年に台中から八重山に移住して大同拓殖に入社した廖見福が中心になります.
 廖見福は1946年,嵩田の圃場に散らばっていたパインの苗をかき集めて,約1万本の苗を3反歩に植え,翌年にはこれを2反歩に増やし,更に翌年,5反歩にまで拡げていきました.
 此の後,廖見福の苗は広がり,八重山のパイン栽培の8割が彼の植えた苗から分かれたものと言われています.

 林発は,廖見福と,川原集落に戦前から入植している大城満英と協議して,パイン再興の夢を実現しようと積極的に動き始めました.
 大城は豊見城村出身の元ハワイ移民で,ハワイでパイン栽培をした経験がありました.
 こうして3人が共同して,種苗を嵩田地区,バラビドー地区の農民に配布し,パイン栽培の協力を求めました.

 植付けた苗が漸く収穫できるようになると,青果のままでは売れない為,何とか缶詰に加工しようとして,林発は石垣市大川に林農産加工所を設立して,缶詰を試みました.
 空き缶は日本本土との間の交易が未だに行われていない為,米軍が放置していたビールの空き缶を再生して製造が行われました.
 これは,缶のふたを手押しで1つ1つ蓋をする家内工業でしたが,兎に角,僅か300ケースでもパイン缶詰が戦後初めて生産されたのでした.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/10/30 23:02

 さて,1951年に日本本土と沖縄との貿易が許可されたので,林農産加工所は取引関係のある南海商会を通じて空き缶を600ケース取り寄せ,本土市場に出荷しました.
 これが戦後始めての本土向け輸出となります.
 続いて,大城満栄も川原の直営農場にパイン加工場を造り,廖見福も嵩田にパイン加工場を造って生産に乗り出します.
 そして,地元の農民にパインが有望作物である事を呼びかけ,経験豊かな廖見福が指導に駆け回りました.

 1953年に台湾からパイン缶詰やバナナなどを輸入している本土の商社,東京老達利の牟田哲治が,八重山のパインを聞きつけて来島,名蔵一帯のパイン畑を視察に訪れました.
 調査の結果,八重山がパインの適地である事,今後十分に発達する余地がある事等を確認し,林農産加工所の全品を買い上げる事を約束し,八重山のパイン産業振興の為に全面的な協力を申し出ます.

 本土への出荷の見通しが立った八重山では,種苗の拡大と過当競争を避ける為の工場の合併を急ぎました.
 種苗は,琉球石油社長の稲嶺一郎氏が牟田社長と懇意である事から,10万B円を立て替え,これによって3万3千本の苗を台湾から購入して,これを伊野田の移民地の人たちに貸し付けて,納入して貰う事にしました.
 この貸し付けは,移民地でも換金作物として歓迎されます.
 また,工場の方は林農産加工所,大城パイン工場,廖パイン加工場,山元パイン工場が合併して,琉球缶詰株式会社となり,社長に大城満栄が就任し,常務に林発,廖見福が入り,生産者450名を擁する工場となります.

 この動きに琉球政府も注目しました.
 その結果,1955年から始まった第1次経済振興計画に基づき,第1次パイン増殖5カ年計画を策定して,新規開墾地,加工施設に対して財政援助に乗り出しました.
 折しも,本土では1956年に特定物資輸入臨時措置法により,外国産のパイン缶詰に特別輸入差益金が課せられる事になりましたが,沖縄産パイン缶詰は,その適用から外れた為,輸入制限や関税,差益金の免除と言う「特恵措置」を受ける事になった事もあり,沖縄でのパイン生産に拍車が掛かった訳です.

 こうして,パイン熱は全琉球に広がり,特に八重山では政府の作付け計画を遙かに超え,1957年度には計画初年度の1955年度に比べると,10倍を超えるものとなりました.
 この頃は,農民ばかりでなく,勤め人や教員,医者までもパイン栽培に走り,まさにパインバブルとも言うべき状態になります.
 しかし,過剰栽培の結果,工場の処理能力を超えて生果を処理しきれずに放置して腐敗させる現象も起きました.

 1958年になると,沖縄の通貨がB円から米ドルに切り替えられました.
 これが外資導入の気運を高め,沖縄での商権確保を狙っていた本土商社によって,陸続とパイン工場が新設されます.
 これらのパイン工場は日琉合弁事業の体裁を取っており,八重山だけで8工場28ライン,沖縄全体では21工場59ラインにまで膨れ上がり,工場過多となって,今度は生果の奪い合いが起きたりしています.

 一時隆盛だったパイン缶詰産業も,1972年に沖縄が本土に復帰し,輸入関税の特恵措置が無くなると旨味が消え,缶詰産業は急速に姿を消していきます.
 ただ,現在は流通機構が改善され,生果でも本土に輸送できるようになったので,食用パインとして各地で栽培され,命脈を保ち続けています.

 ところで,これほどまでに八重山のパイン産業に貢献をした台湾人移住者とその子孫達は,戦後,非常に多くの苦労を重ねました.
 移住者達は,敗戦と共に日本から放り出され,外国人扱いとなり,在留許可証の携帯が義務づけられ,公民権は失われました.
 市民税や県民税を支払わねばなりませんでしたが,選挙権はなく,金融公庫の資金も借りる事が出来ませんでした.
 そればかりでなく,2世達の進学や就職にも大きな影を落としています.

 廖見福の子供である島田長政は,八重山農林高等学校在学中に幾度も本土への派遣の声が掛かりましたが,その度に台湾からのパスポートが取れずに没になりました.
 このため,廖見福は一日も早く帰化を,と台湾に働きかけますが,国民党政府は国籍離脱証明書の発行を拒否して実現できませんでした.

 皮肉にも,台湾政府がこの国籍離脱証明書の発行を認めたのは,1971年10月の中華人民共和国の国連総会への出席許可と,中華民国の資格喪失が切っ掛けでした.
 この事件により,日本との国交断絶が確定した台湾は,このまま在日台湾人を放置しておけば,彼らが中華人民共和国国民に編入される可能性が高いとして,急遽,国籍離脱証明書の発行を認めたからです.
 こうして,台湾人移民達の2世は,続々と帰化していきました.
 林発の孫の中には,現在外交官となっている人もいるそうです.

 現在,大同拓殖は跡形もありませんが,廖見福の息子達は,現在も嵩田に農場や嵩田植物園を経営しています.
 そして,その植物園の東の路線バスのバス停は,「大同」.
 未だに大同拓殖の心は脈々と受け継がれているようです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/10/31 22:17


 【質問】
 戦争直前〜戦時中の米の自給率は?

 【回答】
 1940年の時点では,米の年間消費量1200万トン.
 一人当たり約152kg,一日に換算すると一日約450g(三合)となります.
 この頃の日本人はエネルギーの7〜8割,蛋白質の3割を米から摂取していました.
 都市部では,一人一日約500g(三合半)の米を食べていました.
 ちなみに現在では,年間僅かに65kg.それだけ,食が多様化したと言えるでしょうか.

 当時は「白米ブーム」で,「日の丸弁当」が質素な生活の象徴となったのも,白米が潤沢にあったから.
 しかし,1940年の年間消費量1200万トン,対して,国内総生産量は900万トン,つまり,差し引き300万トンは不足し,タイやインドからの輸入,朝鮮,台湾からの移入で賄っていました.※

 外米輸入に必要な貨物船は,1万総トン級(今は10万総トンとかありますが,当時はこれくらいの規模が最大級)のものでも,単純計算で300隻必要になります.
 この分をボーキサイト輸入に充てれば,飛行機2500機分,鉄鉱石なら,巡洋艦100隻分の鉄を作る分だけの量が運べます.

 そんなわけで,米の消費量を減らすため,政府は統制に乗り出します.
 まず1939年11月より,買い占めや売り惜しみを防ぐ為として,政府が強制的に農家から米を買い上げます.これは公定価格で国民に払い下げる統制品としました.
 これが発展して,1942年に食糧管理法となり,以後1995年までこれが長いこと日本の農政を支配したわけで.
 1941年4月から更に六大都市で配給制度を開始,これは程なく全国に広がり,国民に対して主食である白米の量を制限すると共に,米の平等な配当を実現して行きます.
 配給制度では,米は11〜60歳までは1人1日330g(二合三勺)と約25%少なくなりました.

 これと共に,「栄養所要量」の元祖,「国民食栄養基準」が定められました.
 これによると,中程度の労働をする成人男子で,1日に必要なエネルギー量は,2400kcal(女子はその8割,2000kcal)で,蛋白質は80g必要とされており,現在の基準,栄養所要量の数値は2300〜2650kcal,蛋白質70〜85gとそう変わらなかったりします.
 しかし,程なく戦争に突入して,エネルギー,蛋白質の所要量を満たすことが出来なくなったのが悲劇の始まりだったりするのでした.

 1945年には米の備蓄量は僅か3.8日分まで落ち込んでいます.
 これは移送に使用する船が悉く撃沈されたためでもあります.
 日本人の主食とされた米の生産は,1936〜40年の五カ年平均(1,098万トン)を100とした場合,45年には60(660万トン)に下がり,この傾向は他の農産物でも同じでした.

 ちなみに,主要蛋白源である水産物(鮮魚,塩乾魚)にしても45年には39年の65%(198万トン)まで落ち込んでいます.
 これは,それを捕る漁船が海軍に徴用され尽くしたところにもありましたが.

 余談ですが,宮沢賢治の詩の中に「一日ニ玄米三合ヲ食ベ」とあるくだり,あれはオリジナルでは
「一日ニ玄米四合ヲ食ベ…」
でした.
 しかし戦後の食糧不足の折,「いくらなんでもこれは多すぎる」として,「一日ニ玄米三合」に変更されてしまった訳で….

眠い人 ◆gQikaJHtf2

▼ 「一日ニ玄米三合」〜〜について,

----------
 要するに,国家は「ある定った」価格で農家から米を買い上げた上で,消費者に分配する.これが配給制度でもある.
 本来これは米の消費に関しては,国家が全責任を持つことを意味している.
 しかし,戦時中から戦後にかけて,この責任は全く果たされなかった.

 「アメニモマケズ」のなかで賢治は,「一日玄米四合ト,味噌ト少シノ野菜ヲタベ」と書くが,国家はとても一人一日四合などの配給を保証できないので,この作品が当時の国語の教科書に載せられるとき,この部分をせめて「三合」に改めようという議論があったほどである.
 「三合」でも,実態からは程遠い有様で,山口判事という方が,法律家として法律を守って,配給だけで生活をした挙句に餓死された,という惨憺たる状況であった.
 つまり法律外の供給(それが「闇米」である)に頼る以外にはなく(だから私が今生きているのも,両親が法律を破って,工面した米をある程度は食べていたおかげである),一方農家は,国家よりもはるかに高く売れる「闇市場」に当然のことのように米を流していた.
 また都会の人々は「物々交換」ということで,高価な帯や和服などを持って近郊の農家を訪れ,米と交換する.
 といっても当時の米は「売り手市場」の最たるものだから,農家が渡す米の量は,正当な交換価値からは程遠い実に微々たるものであった.
 (少なくとも一部の)農家の強欲ぶりは当時目に余った.
 もっとも都会人が「百姓仕事」などと言って,日頃農業を軽視してきたことへの復讐でもあったのだろうが.
 そうした事態を表現するのに,「たけのこ生活」というフレーズもできた.
 「着ているものが次々にはがれていく」という謂である.

-------- 村上陽一郎・エッセイ「ごまめのはぎしり」  第25回 2007年5月10日

Fabius (KT) in 「軍事板常見問題 mixi支隊」

 ※主要農産物自給率は昭和5-9年の平均値で,

砂糖 12%
豆類 45%
玉蜀黍 40%
小麦 63%
84%

http://www.meti.go.jp/hakusho/tsusyo/soron/S24/H05-01.htm

 なお,以下の記述からも,
・大正時代にはすでに日本本土で生産される米だけでは自給できず,不足分は朝鮮半島からの移入で賄っていた
・昭和12年には,支那事変勃発によりすでに米不足が起きていた
ことが分かる.

 以下引用.

--------------------------------

 昭和12年,日中事変の勃発は,様々な面でいっそう大河内コンツェルンの発展を有利に導いた.

 合成酒は,前年まで米の余剰のため伸び悩みが続いたが,事変によって朝鮮米は軍用米に転用され,内地への移入がばったり杜絶えて,たちまち米不足に様変わりしてしまった.

 鈴木梅太郎,大河内が予見していた,米不足が起こるという食糧問題は一挙に露呈して,全国各地の酒造家から特許実施の希望が殺到し,理研酒販売株式会社は,やや鈴木の意見に近く,理研の一手酒造でなく特許権を分与し,技術を指導して各業者に作らせた.

宮田親平著『科学者たちの自由な楽園』(文藝春秋,1983/7/15),p.213

 〔合成酒の〕発想は,大正8年秋頃,鈴木の脳中で具体化したとされているが,このアイデアも彼の生涯のテーマであった「米」の上に浮かんでいる.
 動機は大正7年の米騒動で,
「毎年人口が増加していては将来,必ず食料が不足するときが来る.
 それなのに日本人は主食物の米を毎年400万トンも酒に変えている.
 今のうちに米以外のものから作る酒の研究をやろう」
というものだった.

 アルコールはデンプンや糖蜜から醗酵させて作るとして,しかし,いかにして酒の風味を出せばよいか.
 このテーマは,池田〔菊苗〕の「うまみ」研究にも似て,はるかに難しかった.

 〔略〕

 一方で,米は不足するどころか,一見過剰に悩まされているように見えた.
 もっとも,これは朝鮮産米の移入という,植民地政策によって息がつがれているのだということの意味を,人々が深く知っていたかどうか.

同,p.98 & 100

▼ 昭和16年6月発行の「同盟グラフ」誌上の広告から.

>「節米にポテトサラダ」
 “パンが食べれないならケーキをお食べ”ではないでしょうが,ポテトサラダでお腹を一杯にするのはちょっと辛いです.
 でもこの当時から,ポテトサラダにはマヨネーズと相場が決まっていた事が,やや驚きでした.

よしぞう(maro') in mixi,2006年07月03日01:21
〜2006年07月07日 23:42


 【質問】
 戦前は麦飯って貴重だったのでしょうか?

 【回答】
 糧食のひとつ,
炭水化物の供給源のひとつ,
ビタミンB1の供給源のひとつ,
としてなら貴重であったとしかいえなでしょうね.

 しかし,ウチのおじいさんは私の知る限り,どんなに腹が空いても,どんなに他に食べるものがなくても,麦飯だけは絶対に食いません.
 もうウンザリなんだそうです.
 いっしょに牛タン屋に行って牛タンごちそうしたときも,麦飯だけは手をつけようとしませんでした.
 ガンコです.

軍事板
青文字:加筆改修部分

(引用元:朝目新聞)


 【質問】
 戦前日本の貧富の差は大きかったそうですが,食べ物にも違いは出ていたのですか?

 【回答】
 特権層と庶民,都市部と農村部に,凄い落差があった.
「麦飯(7:3)とコーコ(漬け物),
 あとはせいぜい,味噌汁か野菜煮付けが夕食に付く.
 魚は田植え期や収穫期だけ」
が,岡山某地区の農家の,戦前の標準的な食事.
 野菜もカボチャならカボチャ,大根なら大根が毎日続く.
 これでも中農以上で,7:3麦飯は近隣の村より贅沢と言われていたそうだ.

 陸海軍士官の手記など読むと,
「国家が本当に自分達を大切にしてくれていると感じた」
という類の記述を見かけるが,地方中農の食事がこれなら理解出来る.

 市井の細民や農村の小作出身者にとっては,軍隊の食事は御馳走の連続だったそうで,
「こちらでは三度三度お米の飯で,牛肉なども頂いております」
とは,明治時代のとある農村出身陸軍兵士の,故郷への手紙.
 麦飯というなかれ.
 米の比率が過半なだけで嬉しかったのだよ,彼は.
 戦前の小作農家は,酷く厳しい食生活だったから,その出身者にとっては,毎日コメが食べられる軍隊給食は,夢のような食事だったらしいね.

 また,戦艦武蔵に乗ったとある水兵が,小作人のせがれで,上水(だったか?)に,初めてカレーを目にした驚きと,食べて旨かった時の喜びを語ったとか.

 ……ご馳走って言うより,栄養価があるものって言ったほうが妥当かな.
 今時,ご馳走と言うと,キャビアや松茸などって感じだからね.
 肉・野菜なども,等級では中か中の下レベルだろう.
 だだ,軍隊では計画的に発注・納品されてるので,鮮度は良いと思われる.
 調理人の腕が悪くない限り,それなりに美味いだろう.

軍事板,2003/12/10〜12/19
青文字:加筆改修部分

(引用元:朝目新聞)


 【質問】
 戦時中の農村の栄養状況は?

 【回答】
 戦時中〜戦後すぐの栄養状態は
漁村部>>都市部>農村部

 農村部は米は豊富だったが,米偏食で栄養の偏りが著しく,貧しく乏しい雑穀食の都市部より,栄養状態が劣った.

 岩手県の山間部の話だが,戦中戦後の混乱期の方が,昭和9年の大凶作の頃より大変だったという記述を,何かの本で読んだ記憶がある.
 供出があったうえ,働き手を戦地に取られたためだそうだ.

 ちなみに歴史的に見ても,飢饉で内陸部が死者累々でも,沿岸部では被害が少なくて済むらしい.

軍事板,2004/03/18
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 「蛍の墓」を見ていて,百姓が足元を見て,ほんのちょっとの野菜を清田に10円で売ろうとしていましたが,実際にこのようなことはあったのでしょうか?

 【回答】
 祖母に聞くと
「そんな事をして,恨まれて火をつけられた農家もいた,
 だから,みんな,ちょっと位の野菜だったらあげてたし,少し位盗まれたりしても,みんな見て見ぬふりをしていた」
と言っていました.

軍事板

▼ 戦時中にもありました.
 縁故がない,あっても薄い都会の人間は,かなりつらかったようです.
 旧家の伝来の花嫁衣裳が,わずかな芋や米になったとか,『暮らしの手帳』から出てる,戦時体験者の記録集や都会生活者の体験談にはよく出てきます.

 戦後はもういわずもがな.
 積んだ札の高さが尺に達する度に行う尺祭り等の,一部農家の伝説じみたエピソードまで伝えられています.

 もちろんそれらは一部で,大部分の農家は働き手を召集でとられ,農作物の供出に終われて大変だったわけですが,まぁいずれにしろ,これは農家にとっても後ろめたいことなので,子孫に語り継ぐはずはないでしょう.

閻魔さくや,2009年08月03日 13:57

>尺祭りした農家

 まぁ,そういった大地主や豪農は,戦後の農地改革で,多くの土地を二束三文で手放さざる終えなくなりました.
 うちの祖母も,大きな農家の生まれだったんで,いまだに愚痴が聞きます.

極東の名無し三等兵,2009年08月04日 23:40

 友人の祖父は逆に,
「GHQのおかげで土地がもらえて,やっと人並みの生活が出来るようになった」
と言ってたそうです.
 悲喜こもごもですね.

HASU,2009年08月04日 23:56

 食料買出しでの農家との交渉は,1960年頃まで戦後を舞台にしたドラマの定番シーンでしたが,いつの間にか見かけなくなりました.
 戦中・戦後とも農家から直接食糧を買うのは闇取引になるので,買出しの帰りの列車が警察の手入れを受けて,食料を没収されることもたびたびありました.

 私の母の実家は米屋でしたが,かなりの田圃を所有していて,農地改革でそっくり失っています.
 戦中はまだ地主だったわけですが,小作人の農家に買出しに行くときは現金プラス・アルファが必要だったそうです.

 また,食料は統制されていたので,理屈では闇取引される食料は,農家の自家消費分を節約して売っていたことになります.
 しかし祖母の話では,戦前申告されていた反当りの米の収穫量と,戦後のそれには劇的な差があったそうです.
 まあ,モチベーションの差ということもありましょうが.それにこういう話は都市圏でのことで,地方の農村ではまた違っていたことと思います.

東部戦線,2009年08月05日 02:02

以上,「軍事板常見問題 mixi支隊」より
青文字:加筆改修部分

 参考文献としてあげるなら
http://www.kurashi-no-techo.co.jp/index.php/books/b_1021.html

 直接そのような記述があるかどうかは別にして,物々交換等,体験談が一部に見られますので一応,ご一読を.
(編集部の方針は判断できませんので念のため:
 設問のような極端な例がカットされたか無かったかまでは判断不能)
(町中で拾ったカボチャの種でカボチャ作っていたら未熟な家に盗まれ,最後はツルまで空襲後の炊き出しに使い尽くした話も載ってます)
(現金より物々交換の方が良いような話も出ていたかと)

bugaisha in FAQ BBS,2009年8月4日(火) 9時35分
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 太平洋戦争中,日本統治下の朝鮮半島や,台湾の食糧事情はどうだったんでしょうか?

 【回答】
 少なくとも邦人に関しては,それなりの生活が出来ています.
 食料事情も内地よりは豊かでした.

 例えば台湾の場合,日本の内地では余り見かけなくなった砂糖がふんだんにあったりしますね.
 朝鮮の米事情に関しては,1939年の凶作の影響で,余り良くなかったと言う点はありましたが,それ以外はまずまずと言えるかもしれません.

 詳しくは生活板辺りでお尋ねになった方が良いかもしれませんが.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板


 【質問】
 太平洋戦争中,葡萄から採取される酒石酸から電探などに用いるロッシェル塩を作っていたそうだが,日本の葡萄栽培はいつ頃から始まっていたのか?

 【回答】
 太平洋戦争中は,そのこともありますが,醸造用に大々的に栽培される様になったのは戦後のことだったりします.

 元々,葡萄はコーカサス山脈南麓一帯が原産地とされ,それがペルシャ,ギリシャやフェニキア,ローマを経てフランス,ドイツ,英国に伝播していきました.
 俗にヨーロッパ系葡萄と呼ばれる,Vitis viniferaは,醸造原料として利用される葡萄で,ワインの原料となっています.
 因みに,イタリアやポルトガル以外の葡萄栽培法は,株仕立てあるいは垣根式の栽培が主となっていて,日本の葡萄畑のそれとも景観が違います.

 元来,葡萄は蔓性の植物ですから,何かに絡ませて伸びる様にしていました.
 葡萄棚は,元々,そうした原始的な栽培方法だったりします.
 剪定が行われる様になって初めて,収量が安定する様になった訳です.
 この様な栽培方法は,イタリア,ポルトガル,それに南米のアルゼンチン,チリなんかでも同じように行われています.

 西に行ったものとは別に,東に向かった葡萄もありました.
 こちらはシルクロードを経て中国,そして,一部は海を渡って日本に達した訳です.
 その後も栽培が続けられ,宮崎安貞と言う実践的農学者が,江戸時代の1697年に編んだ『農業全書』にも
「ぶだう,是も色々あり.水晶葡萄とて白くすきわたりてきれいなるあり.是殊に味もよし.又紫,白,黒の三色,大小,甘き酸きあり.ゑらびてうゆべし…」
と紹介されており,江戸時代でも何種類かの葡萄が栽培されている記録があります.
 また,1695年の人見必大著『本朝食鑑』,寺島良安が著わした1715年の『和漢三才図会』には,葡萄の産地として,甲州,駿州,京師及び洛外,武州八王子,河州富田林などが挙がっていて,日本各地で栽培されていた様な記録があるのですが,時代は下って1896年,欧州で果樹栽培を学んだ福羽逸人と言う人が書いた『果樹栽培全書』では,
「本邦在来ノ葡萄樹ニハ種類甚ダ多カラズ.
 従来京都ニ聚楽葡萄ト称スルモノアリ.
 其性質ハ甲州葡萄ト仝一ニシテ敢テ異ル所ナシ.
 唯其果皮黒色ヲ呈シ白粉を被ルノ差アリ.
 故ニ此種ハ甲州葡萄ノ一分種トシテ可ナリ.
 サレバ本邦ニハ以上二種ノ園生アルノミ.
 予ハ此他ニ未ダ異種ヲ見聞シタルコトアラズ」
と書いています.
 多数有ったとされた在来の葡萄は,甲州の特産品であった甲州種を除き全滅したのか,それとも山葡萄の類なのかは判っては居ません.

 因みに聚楽葡萄は,中国の葡萄品種「竜眼」とされ,現在は善光寺葡萄と言う名称で,長野市周辺で栽培されているそうです.

 さて,福場逸人と言う人は,欧州留学に行く直前まで,農商務省農務局が直轄していた「播州葡萄園」の園長心得の職にありました.
 此の施設は,殖産興業の一環として設けられた施設で,ワイン醸造を目的とした葡萄農業の育成をする為に作られた施設で,この施設では欧米から多数の葡萄品種が集められ,日本の土に好適な品種の選抜,苗木の生産と配布,それにワインの試験醸造が行われていました.

 何故,明治政府が当時としてはハイカラなワインに目をつけたかと言えば,開墾地での果樹農業を振興する構想が目的の一つ,そして,もう一つの目的は,飯米を確保する為にも,それを原料とする清酒の生産を抑え,それに変る酒類の生産を行うことが挙げられていました.

 こうした葡萄酒の生産に際し,日本在来の甲州種などの品種は,所謂,「水菓子」の類であり,ワイン材料に不適との思い込みがありました.

 その為に100種類以上の葡萄が世界各地から集められます.

 この中には,ニューヨーク州一帯を原産地とするVitis labruscaと言う種に属する葡萄も多数含まれていました.
 このVitis labruscaに代表される米国系葡萄は,欧州系葡萄に比べて芳香が強く,醸造すると極めてアロマの高いワインとなり,食卓で料理と一緒に供するには相性が極めて限られるものであり,ジュースの原料にはなり得るのですが,ワイン原料にはそんなに向いていませんでした.
 それでも,そんなことを知るよしもない明治政府は,せっせとこうした葡萄の苗木を輸入しました.

 しかし検疫と言う概念は当時有りませんから,米国系葡萄に寄生しているフィロキセラと言う害虫がいることも知らなかった訳です.
 そのフィロキセラは,1860〜80年代に掛けて欧州で猛威を振い,欧州の葡萄園はその為に壊滅の危機に瀕したほどでした.
 そして1885年,日本でもそのフィロキセラが発見され,瞬く間に日本の葡萄を壊滅させました.
 当然,「播州葡萄園」の葡萄も例外ではなく,ワイン醸造の夢は破れ去ります.

 以後,日本の葡萄農業は,フィロキセラに耐性のある米国系葡萄の生食用栽培で発展してきました.
 欧州の葡萄園では,アメリカに野生していた免疫性の高い葡萄を台木にして醸造好適品種をこれに接ぎ木して復活させました.
 太平洋戦争中は,その葡萄から採取される酒石酸から電探などに用いるロッシェル塩を作る為に大量に栽培されたこともありますが,醸造用に大々的に栽培される様になったのは戦後のことだったりします.

 余談ですが,明治初期にコレラが猖獗を極めたことがあります.
 その際,大阪では神農さんの張子の虎と共に,コレラ予防に効くとして,葡萄酒が持て囃された事があったそうです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/05/27 21:48


 【質問】
 第2次大戦までの「味の素」について教えられたし.

 【回答】
 味覚の中で,旨味というのは,甘味9,酸味63,塩味23,苦味4の混合された刺激による総合の味で,これにリボヌクレオチドを少量加えることにより,更に各項目の単独で刺激した時の応答量の和より,旨味が増すとされています.

 これは化学的に解明されている訳でなく,化学者的にはこれを相乗効果と苦し紛れに弁明している訳です.
 また,旨味の曖昧さについては「旨い」と言う感覚と,「旨味がある」と言う感覚は同一ではなく,前者は心理的なもの,後者は化学者が研究の対象にするものとされ,欧米人に対しては,旨味と言うものと言うのは理解され難いものでした.

 1908年,池田菊苗博士が昆布の旨味成分の本体を分離して,L-グルタミン酸を発見します.
 翌年,これを工業化したのが,三代目鈴木三郎助と忠治の兄弟が経営する鈴木商店で,彼らは偶々昆布からヨードの分離を事業としていたのが転じて,池田菊苗の研究成果を「味の素」として製品化することに成功します.

 しかし,旨味と言うのは感覚的なもので,「味」に対して対価を支払う顧客を創造する事は非常に難しく,経理担当の弟,忠治は,
「幾度か工場を建設した鈴木六郎と,刺違えて死のうかと思った」
と述懐していましたし,営業を担当した鈴木三郎助も,
「味の素は血と涙の結晶で,つらい,苦しいことばかり」
と述懐しています.

 こんな状態に有りながら,味の素は徐々に販路を拡大し,味の素本舗鈴木商店も一息つくことになります.
 一方で,第1次大戦の好景気で,色々な会社では投機をして,業容を拡大した会社もありますが,味の素本舗鈴木商店はそれなりに堅実な経営をして,徐々に発展を遂げていきました.
 とは言え,鈴木商店も味の素だけに頼るのも,何かあった時に困ると考え,塩素酸カリを生産する為に,東信電気という会社を1916年に設立します.

 この東信電気は,名前の通り,長野県東部の水資源を利用して小規模な電気化学工業を興す目的で設立し,その電気化学工業が軌道に乗った後は,水力電力事業に注力し,余剰電力の販売を行って採算を取るものとして計画され,株式は鈴木一族が53.3%と過半数を占め,他に長野電燈とその関係会社19.1%,川崎銀行系17.2%を出資して,鈴木三郎助が社長に就任します.

 彼は,千曲川上流に発電所を建設しますが,その責任者に,沃土と沃土派生商品の長年の取引先であり,先頃破産した総房水産から,常務の森矗昶を引き取って据えることにしました.

 総房水産は東信電気に吸収され,それにより水産部門を作ります.
 森矗昶は,地元有力者の後援を得て,本業の水力発電所を,千曲川沿いに4カ所次々に完成させ,小海に塩素酸カリの工場を建設しました.

 こうして7〜8年で,東信電気は日本有数の発電会社となり,森矗昶は,その功によって,1925年に東信電気の株式を4%強所有すると共に,独立して,東信電気の水産部門と小海の化学工場を譲渡され,森興業を設立するに至ります.

 一方,東信電気の安定した経営は,味の素本舗鈴木商店の強力なバックボーンとなり,自家の安全確保の為の投資先として捉えていました.
 とは言え,初代社長鈴木三郎助は,1920年の恐慌により,株式投機に失敗して経営危機を招いたりしていますが,これは自己の株式の一部を東京電燈に譲渡し,東京電燈傘下に成ることで危機を切り抜けました.

 ところが,1928年には電力業界の過当競争から,東京電燈は東信電気の売電分の引取停止を申し入れ,余剰電力を消費する為に,東信電気は再び電気化学工業への進出を余儀なくされます.
 こうして,昭和肥料を設立して,石灰窒素と硫安の生産を開始しますが,1931年以降は軍需産業の拡大により,余剰電力が急速に縮小し,鈴木家の目論見は外れてしまいました.

 一方で,味の素の生産は,原料の米国産硬質小麦粉の輸入が1937年1月から割当制となり,1931年の1.9万トンとピークに生産額は落ちていきます.
 小麦粉の代替品として使用が開始された満州産脱脂大豆も,次第に入手が困難となり,塩酸も原料の食塩が入手困難になりました.
 味の素の生産高は,1936〜39年には3,000トン台に低迷し,1940年に遂に2,000トン台になり,1943年末,とうとう味の素の生産は停止されるに至ります.
 此の後の味の素本舗鈴木商店は,生き残る為に軍需産業に転身せざるを得ませんでした.

 因みに,戦前の味の素は,1929年以来,金属缶が使われていましたが,1941年には金属入手難から段ボール製の缶になっています.

 一方で,発電事業は国家統制により日本発送電に吸収され,抜け殻となった東信電気は,昭和肥料,日本電気工業との3社合併によって,昭和電工となり,1939年に消滅してしまいます.
 この時,森矗昶は3社合併後の新会社の社長に就任し,森コンツェルンを形成しますが,1940年には実権を無くし,結局,森コンツェルンは,安田銀行を始めとする金融集団と,鈴木一族の中に埋没してしまいます.

 今,味の素と言えば,小麦粉からではなく,砂糖黍から作られています.
 その製法は,味噌と同じく発酵法です.
 しかし,ブラジルのエタノール生産などが原因で,その砂糖黍も徐々に逼迫してきているようです.
 またも歴史は繰り返されるんでしょうか.
 もしかしたら,そのうち人工味の素が出来るかも知れませんね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年09月28日22:31
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 今日〔2008/09/14〕の「平成教育学院」で
「日本でコンビーフが作られるようになったのは昭和23年から」
と言っていたのですが,元海軍主計中佐・瀬間喬氏の著書では,コンビーフをソーフ(甲板洗い用のブラシ)扱いして毛嫌いしていた……という記述があります.
 戦前からあったのか,戦後の産物なのか…どっちなんでしょう?

 【回答】
 牛肉100%のコンビーフは戦前からあった(米国製).
 輸入物はそこそこ食べられていた.

 戦地でルーズベルト給与のコンビーフを手に入れた日本兵は,ちゃんとコンビーフと認識してる.
 贅沢な海軍主計士官は不味いと思ったかもしれんが,前線の陸軍将兵にとってはご馳走.

 まあ,捕虜収容所で散々食わされて,うんざりしたって話もあるが.

 国産は昭和23年=1948年からと,野崎コンビーフは言っている.
http://www.kawasho-foods.co.jp/business/index.html

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 戦前,農林省などが養豚普及に熱心だったのは何故か?

 【回答】
 農民の生活向上,および国防上の観点から.

***

 日本の食料自給率は40%未満と言います.
 魚でも60%程度しかありませんし,肉類も牛や羊肉などはほぼ輸入です.
 しかし豚肉に関しては,意外にも国産で殆ど賄われています.

 そう言えば昔,私が一部上場の鉄鋼メーカーに出入りしていた時,其処の本社地下には何故かハムの売場がありました.
 今は本社屋が取り壊されて跡形もなく,その本社も大手町の新開発ビル群に収容されてしまっていますので,今でも売っているかどうかは不明ですが….

 話を戻すと,豚肉はそのままの形で生肉やミンチとして売られる他,食肉加工製品としても売られています.

 家畜そのものは屠殺して直ぐには利用出来ません.
 食用となる骨格筋の中の蛋白質が,死後硬直と言う名の1回限りの収縮を起こすからで,筋が硬直を解除し,保水性を回復し,風味を出して食肉となる為には,一定の時間を要します.
 従って,生肉の解体にしても食肉加工の一定の知識や技術が必要です.

 その食肉加工製品ですが,大きく分けて肉を塊の儘加工する製品(これは所謂ハム・ベーコンとなります)と,肉を細かく切ったり磨り潰して加工する製品(所謂ソーセージやサラミ)に分けられます.

 ハムの中で,基本となるのが骨付きハム.
 豚足は小さく,全身を支える腿の部分が発達していますから,腿肉を骨付きの大きな塊の儘塩漬,燻煙した製品です.
 これから骨を抜いたのがボンレスハムで,今日では骨付きハムから骨を抜く方法と最初から骨を抜いて造る方法の2種類に分かれます.
 ボンレスハムは,別名を巻ハムとも言います.
 これは,骨を抜いて肉を巻く様に造ることからこう言われ,高級食材のハムでは,スライスした断面が渦巻きを巻いている様に見えるそうです.

 このハムの加工は,本来の加工では以下の様になります.
 1. 豚の腿肉を塩漬液(香辛料・塩析剤等を煮沸したピックル)を入れて3日漬込む.
 2. 漬け込んだものを水に浸し,押し付けて血抜きする.
   漬込みは皮の薄い脂肪の少ないもので2日,大きければ20〜50日掛かります.
   この間,別の容器を用意して1〜2日置きに肉を詰め替えます.
 3. これを26日漬け置いて肉を熟成させてから骨を抜き(ボンレスの場合),塩抜きの為水洗い.
 4. 糸を巻き70度程度の温度を保つ薪ストーブに入れて4時間燻煙します.
   この燻煙時は釜の端の部分から火を付けて中央にだけ火力が集中しない様調整します.
 5. 燻煙後,水煮(ボイル)を行います.
   これは3段階で行い,最初は70度くらいの温度で1時間,次いで80度で2時間,最後に90度で20分.
   なお,4と5の段階はボンレスハムのみの工程です.
 6. ボイル後,室外に出して室温でゆっくり乾かし,翌日に冷蔵庫に入れて冷やす.

 手間だけでこれだけ掛かりますが,現在は生産工程短縮の為,漬込みの段階で液を肉塊に注射する方法があり,燻煙もおざなりなものが殆どだそうです.

 ハムに使われるのは腿肉の他,肩肉を用いるショルダーハム,胴の部分を使うとロースハムと呼びます.
 ロースハムは日本の生産量の約2分の1に達しており,本来の作り方はボンレスハムと同じです.
 しかし,これも2週間掛けるくらいの漬込みを短縮する為に,ハムの為のピックル液に加え,動物蛋白質,卵の白身,大豆蛋白,小麦(グルテン)を溶かして肉の中に注入して増量すると共に,漬込みを3日程度に短縮しています.
 これを浸透させる為に,注射後タンブラーと言う機械に放り込んで5分内部で回転させ,55分冷却します.
 肉塊が0.5〜1.0tだとこれですが,小さいとマッサージャーと言う機械で文字通りマッサージします.
 此の儘だと水分が多くなりすぎるので,63〜70度で水煮します.
 そうすれば,卵の白身で堅くなると言う寸法.
 よく,ハムで野菜を巻くと言う食べ方がありますが,本式のハムでこれは出来ません.
 こうした機械製造のハムだからこそ出来る技です.

 ベーコンは,本来は豚の枝肉を塩漬けし,燻煙したものになります.
 その肉は,豚の肩肉,足の肉を取った残りの肋骨部分の脇腹肉,所謂「バラ」肉部分から肋骨を取り去って,長方形に成形し,燻煙したもので,肉と脂肪が層になっています.
 バラ肉はサイトベーコンと呼ばれていますが,ロース肉を使うとロースベーコン,肩肉を使うとショルダーベーコンとなります.

 大体,豚1頭から,骨付きハム又はボンレスハム2本,ロースハム4本,ベーコン2箇所が生産出来ます.

 残りの部分を用いて造られるのがソーセージです.
 それは,豚の臓器,胃,腸,食道,脳,耳,鼻,皮,舌,血液,脂肪層を挽肉にしたり磨り潰して,香辛料や調味料で調味し,容器に充填したものです.

 戦前の話になりますが,農村への豚飼育に情熱的に取り組んだ人がいました.
 その中には農林省のお役人,東大農学部の教授を筆頭に,ハム製造業者とかもいます.

 これは何故かと言えば,農村の所得向上の為の施策を検討したからです.
 豚は雑食性ですから,残飯さえ与えれば飼育が出来ます.
 しかも肉だけでなく,有りと有らゆる部分が利用出来ますし,加工をすれば保存食として利用出来ます.

 戦前,陸軍での食物の人気第一位は牛罐でした.
 しかし牛は農耕用,運搬用として使役出来る有益な家畜ですし,単価は高く,餌代も高く付きます.
 その上,加工後は缶に入れないと保管が出来ません.
 万一の戦時になると,缶を造る鉄だって貴重な金属になります.
 その点ソーセージなんかは,其の儘の形で保管出来ますし,ベーコンは少々黴びても,表面さえ削り取れば利用可能です.
 農民の生活向上,国防上の観点からもソーセージの採用を働きかけていた訳です.

 ただ,ソーセージの製造は難しいものがありました.

 大別してソーセージは,ドライソーセージ,ドメスティックソーセージの2種類に分けられます.
 ドメスティックソーセージは製法によって,生鮮肉に近く調味した練り肉を腸に詰めただけで,自分でボイルしたり焼いたりして食べるフレッシュソーセージ(米国の消費量の14%はこれだが,日本には馴染み無い),腸詰めの肉を燻煙したスモークドソーセージ,燻煙せず,腸詰めの後に直ちにボイルしたクックドソーセージに更に分かれます.

 他にも,ウィンナー,フランクフルト,ボローニャの各種があります.
 JAS規格上は,牛の腸に詰めたもの(又は製品直径36mm以上)がボローニャ,豚の腸に詰めたもの(又は製品直径20mm以上36mm未満)がフランクフルト,羊の腸に詰めたもの(又は製品直径20mm未満)がウィンナーとなり,原材料に15%未満の魚肉,澱粉,小麦粉と言った植物性材料を含んでもソーセージと名乗って良いことになっています.

 本来のウィンナーソーセージとは,豚赤肉,牛赤肉を使用し,塩漬けして細かく挽き,スパイスを溶いた水,肉の温度が上がると結着力の低下になるので,更に氷や冷水を加え両手で捏ねるか,サイレントカッターに掛けて水が肉の中に浸透した後,綿羊の小腸に詰め込み,詰めた口を糸で止め10cm程度で止めたり捻ったりし,燻煙室で短時間燻煙して冷水に浸すと完成です.
 本来のフランクフルトソーセージは,ウィンナーソーセージと製法はほぼ同じですが,肉類は30%程大きめに粗挽きし,豚の小腸に詰めるのが相違点で,熱燻した後30分ほどボイルします.
 更にボローニャソーセージの本来の製法は,粗挽きの肉に香辛料を加えてよく混ぜ,人工のケーシング(容器)に詰めてスモークせずボイルするのが特徴です.
 このケーシングの中に,赤身のブロック肉を入れるとシンケンと呼ばれます.

 常温で長く保存が可能なのがドライソーセージです.
 日本ではサラミソーセージが有名です.
 これは牛肉や豚赤肉に別々に食塩,硝石末を入れて2〜3昼夜もしくは1〜2週間漬け込むことから始め,豚脂肪を1夜漬したものを采の目に切ってブランデーで消毒し,練る時掻き混ぜ,熟成肉をチョッパーで粗挽きにして,2回目は中挽き,3回目は更に細かく牛肉,豚肉,豚脂肪の順に加えて挽いていき,胡椒等の調味料と共に練り合わせて,牛やら豚の直腸に成る可く堅く詰めて空気を出し,これを30〜60日自然乾燥室に吊す,場合によっては燻煙して完成です.

 他に肉類を原料とするのではなく,肩肉,豚舌,血液を用いたタンソーセージ,豚頭肉,心臓,舌,肩脂,血液を用いたブラッドソーセージ,更に肝臓を磨り潰して肉や脂肪とサイレントカッターでカッティングして豚小腸に詰めて,1時間水煮後,燻煙して造るレバーペーストやレバーソーセージもあります.

 因みに,『日本食肉名鑑99年版』では,牛はインドが2億900万頭で最も多く,2番目がブラジル,以下中国,米国の順番,豚は中国の4億6,800万頭が最も多く,2番目が米国の5,600万頭,以下ブラジル3,700万頭,ドイツ2,400万頭,ポーランド1,800万頭,ヴェトナム,インド,メキシコ,フランス,オランダ,カナダ,デンマークと続き,日本が900万8,000頭,鶏は中国が断トツで,以下米国,ブラジル,メキシコ,インド,日本の順番であり,日本は中国の20分の1の規模だそうです.

 とは言え,日本の鶏は,若鶏の場合は市場に出回りますが,廃鶏は肥料とされる事が多いそうな.
 成長した鶏の方が,煮炊きした場合の風味が良く,肉も加工技術者の指導があれば軟らかく出来るそうなので,これもまた有効利用すべきと言う専門家の意見もあるそうです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/01/02 15:35

(画像掲示板より引用)


 【質問】
 食肉加工業の戦中〜戦後直後の状況は?

 【回答】
 賀川豊彦と言う人がいます.
 この人,本来の仕事は伝道師ですが,日本の生活協同組合,農業協同組合の生みの親で,戦後は日本社会党の生みの親の一人でもあります.
 ついでに,私が通っていた保育園の生みの親も賀川豊彦だったり(ぉ.

 この人の演説能力は高く,戦前でも戦後でも,この人が応援した候補者はみんな当選する為,「代議士製造機」とすら呼ばれました.

 で,本人が代議士に出るかと言えば,そんな気は更々無かったそうです…
 と言っても,戦前は常に官憲の監視の下にあり,戦時中は特高警察に引っ張られたりもしていますから,当選したって議席が得られたかどうかは不明ですが….

 彼の基となっているのは,貧者救済であり,その為に工員達が共同で安くものを買える様にと作り上げた仕組みが,今の消費生活協同組合で,農民達が共同で肥料や種などを出来るだけ安く購入するのと,生産物を出来るだけ高く売る様にと作り上げた仕組みが農業協同組合です.
 尤も今,消費生活協同組合も,農業協同組合も,その殆どは肥大化しすぎて自己の利益追求に邁進し,組合員の幸福なんぞこれっぽっちも思っては居ませんが….

 こうした,特に農民の生活向上については,国も同じ様に動いており,昭和恐慌に伴う農村不況から農村を救貧する為,1927年から農林省に更正部が設けられ,副業課がその下に設置されています.
 この副業課では,農村工業推進と副業工場を建設する事が目的で,特に国策として豚肉の生産が考慮され,1931年に埼玉県主催,農林省後援で,「豚肉加工講習会」が開催されました.
 この内容は,
「豚の見分け方,解体,加工から製品販売そして,収支計算まで実践的に実施する」
というもので,解体や加工だけでなく,販売,収支計算までも包含して初めて農村工業が成立すると言う考え方だった訳です.

 埼玉県主催の講習会は本庄で行われ,これは45日間掛けて行われましたが,他にも,新潟,長野,大阪,東京,岩手,青森,愛知,滋賀などでも県主催,農林省後援の食肉加工講習会が1928〜29年に掛けて各地で開催されています.
 こうして,農村工業の芽が育まれて来たのですが,その殆どが数年で活動を停止してしまいました.
 これは時勢もありますが,人を得られなかったと言うのも大きい上,都市部と言う市場と余りに離れすぎ,運搬に時間が掛かりすぎると言う点もありました.

 この他,国内だけでなく,台湾総督府も同様に台湾畜産興業畜肉工場を建設して,現地の豚を用いてのハムやソーセージ生産に乗り出しています.

 唯一国内で成功した農村工業が群馬県です.
 群馬には群馬郡と勢多郡に養豚農家が多く,群馬郡農会は高崎市内に食肉販売所を設け,地元の陸軍歩兵第15聯隊に豚肉,鶏卵,野菜,漬物などを納品していました.
 其処へ勢多農林の畜産教師として,ソーセージ・ハム職人を経験した人が赴任して来たことから,県農務課が,群馬と勢多郡共同で食肉工場を作らないかと言う話を持ちかけてきた訳です.
 とは言え,農家の誰もがハムやソーセージというものがどんなものなのか判っていませんから,反応は今ひとつ.

 色々話し合いを経て,1937年10月1日に,群馬の1市34ヵ町村の産業組合組合長と産業組合が未設置の町村の農会長16名で,「群馬畜肉加工組合」が発足します.
 この組合に参加した戸数は5,604戸,飼育数は11,153頭で,ボンレスボイルドハム,骨付きハム,ベーコン,ソーセージ,ブラッドソーセージ,レバーソーセージ,サラミソーセージ,ラックスハム,焼豚などを生産し,東京やその周辺地域,更に軽井沢と言った避暑地での販売を計画しました.
 工場は1938年3月1日に着工し,5月下旬に外部工事が完成,機械が順次据え付けられていきます.
 時代は総動員体制に入る直前で,正に絶好のタイミングで発足した工場でした.

 技師には,当時日本随一の食肉加工工場だった横浜の大木ハムで修行した人が就任し,経営者には政治色が無く,国府村の産業組合を発展させ,蚕糸組合を成功に導いていた人を1年がかりで拝み倒し,専務に就任して貰いました.
 技師に当代一流の技術を持った人でも,経営者が名誉欲の強い人,政治的に野心の強い人であれば,無理な計画を強引に推し進め,結果的に農村工業が尻すぼみになっていくケースが多いので,それを避けた訳です.
 この群馬畜肉加工組合は,製糸経営で成功した人を持ってきたので,経営のノウハウをきちんと抑えていて,更にこの人には製品作りの理念がきちんとあった事も成功の原因の一つでした.

 現在でも,この群馬畜肉加工組合は「群馬県畜産加工販売農業協同組合連合会」として盛業中です.
 出資金12億6,810万円,従業員約720名,生産高年間800t,売上340億円の業界9番目のメーカーで,売上の半分が地元産の生肉,更にこの食肉工場は,全国に3箇所しかない対米輸出認定工場になっているくらい技術力が高く,此処でスライスした肉は,店頭に並べても他よりも変色が1〜2日遅いと言う評判です.
 ブランド名は「高崎ハム」で関東では恐らく有名だと思います.

 ところで,日本の軍隊では中々ハムやソーセージが認められませんでした.

 1920年に海軍と先述の大木ハムが仮契約を結び,ハムの納品が認められたのですが,練習艦隊が遠洋航海に出た時に外国で手土産にすると言うニーズがあって,ハムの品質は乾燥度が第一という方針であり,艦内の冷蔵庫のハムを見て大木ハムの経営者は,一言,「鰹節ハムですね」と皮肉を言ったと言うエピソードがあります.
 まぁ,外国船に納めたハムが航海して暫くした後,保存庫から取出して調理台に載せると,勝手に歩き出した(つまり,乾燥が不十分で内部に蛆が湧いて)と言うエピソードがあったくらい,日本のハムの品質が悪かった為に,海軍の疑心暗鬼は判らんでもないのですが.
 結局,大木ハムは横浜元町が拠点で,横須賀に出店がなかったのと,万一遠洋航海中に腐敗を起こしたら,練習生が死ぬかも知れないし,そうなった場合,将校の責任問題となると言う事で本契約にはなりませんでした.

 流石に大木ハム側でも腹に据えかねて,
「せめて遠洋航海に積んで持ち帰り,その結果で判断して貰いたい」
と交渉した結果,大木ハムを軍艦に積むことになり,1カ年経って横須賀軍港に戻った際に検査官立会いの下で2函開封して精密検査を行った結果,腐敗など異状は認められず,やっと合格となったのでした.

 1938年の事,台湾畜産興業より大量の凍結豚肉が横須賀に持ち込まれ,軍需部の冷凍庫に保管されました.
 海軍ではこれを各艦艇に配分する為,電動鋸で10kg,15kgと切断したのですが,切断面からどうも若干の秋期が残っている.
 これを受けて,海軍は大木ハムに連絡(台湾畜産興業は大木ハムの指導を受けていた)をし,大木ハムの経営者は海軍差し回しの飛行機で台湾に飛び,原因調査を行っています.
 20年近く経って,海軍は此処まで大木ハムに信頼を置いていたことが判ります.

 陸軍では,1940年,中支漢口岡村兵団では,英国資本の畜産工業に対抗する為,民族資本の畜産工業を興そうとしていました.
 そこで,地元でハムやソーセージの加工に適した豚を見つける為に,再び大木ハムに白羽の矢を立てました.
 ところが,中国の豚は中華料理には向くものの,脂肪分が多く皮が厚く足が太く体毛の強い,ハムには凡そ向かない豚で,これは輸出品に成り得ず,品種改良を諦め,揚子江の支流である漢水沿岸に,蒋介石の命令で品種改良されていた豚を見つけ,これを原料にハム・ソーセージの加工をする華中畜産興業株式会社を日本水産と共同で設立し,生肉の生産と加工,冷凍保存を開始しました.

 太平洋戦争中は,大木ハムの経営者は大佐級の軍属としてバリに渡り,台湾畜産興業が納入した塩蔵豚肉の処理に失敗した後始末を命じられます.
 また,ダバオの牛肉缶詰工場,セレベス島の畜産工場,海南島水巻缶詰工場の指導も同時に任じられ,それぞれの生産を指導した後,バリ島で塩蔵豚肉が腐敗して被害が甚大であったのを,肉を自然乾燥する方法で解決し,日産牛肉160頭,豚肉150頭の半乾肉と塩蔵作業を機動に載せた為,海軍軍政司令官から,「生産,目標の150%.日本海軍随一」と賞賛されたそうです.

 一方,国内では肉が入ってこなくなりますが,沖縄では1942年3月に船腹不足から,24,000頭の豚がダブついていました.
 結局,沖縄で,これらを屠殺して精肉として冷蔵し,薄塩を塗して砂糖樽に詰めて伝馬船で送る事として,36万円の剰余金を得たそうです.
 国内工場では,軍に納めるウインナーソーセージの缶詰を日産300個で作っていましたが,開戦後2年経つと材料が入らなくなり,代わりに鯨肉ハムとなり,更に1年後には海豚の肉でハムを作っていました.
 彼方此方伝手を探した所,盛岡にて地元で処理した残りの枝肉が100トンほど神奈川に届き,これを県内各地の食肉組合で配分していました.
 この枝肉は1日おきに100トン届きましたが,交通事情の悪化で,これも数週間後には止まってしまいました.
 その上,1944年2月にはソーセージやベーコンは贅沢品として生産量の40%を税金とする事になり,殆どの食肉加工業者が破産・倒産・転業へと追い込まれていきます.
 1944年の企業整理令で,全国に230あった食肉加工工場は70〜80工場にまで減りました.

 群馬畜肉加工組合は,産業組合組織だった事から,1942年に飼料の供給と肉豚預託,種豚無償交付を行い,1943〜44年には預託豚の数を増しています.
 加えて,原料生荷率に応じて生肉又は加工品を生産者に還元したり増殖奨励金を出すとか,堆肥や残骨を利用した燐酸肥料の農家への供給も行っています.
 しかし,生産部門の技術者が召集されるなどすると加工が出来なくなり,高崎の兵営や陸軍病院に生肉を卸したり,一般庶民へは饂飩粉や蒟蒻で増量した馬肉使用の肉団子を製造,販売するようになりました.

 そして豚や牛が不足していくと,綿羊を農家に貸与したり,兎の増殖奨励活動を農民だけでなく国民学校の学童に呼びかけて実施しています.
 兎の皮は軍の防寒資材用,肉は海軍のソーセージ原料として横須賀海軍軍需部に納品されました.
 取り敢ず,こうした軍関係の仕事で食いつなぎましたが,維持がやっとだったそうです.

 敗戦時,操業していた食肉加工工場は全国で45工場,豚の飼育頭数は戦前の8%にまで減っていました.

 ところが,食品は人々が生きる為に必要なものであり,他の工場が生産を中止したのにも関わらず,群馬畜肉加工組合の食肉加工工場は県の要請を受けて肉団子を生産し,高崎,前橋,桐生,渋川に中継配給して県民の糊口を凌ぐ様になります.
 しかも,それは戦時中よりもかえって活気を呈するほどになり,他の工場とは逆に夜業までするほどになりました.
 尤も,この活気は徒花で,1946年1月から豚肉が入らず,牛も入らず,3月には原料が殆ど手に入らない状態となってしまいましたが.

 正に,食は平和産業ですねぇ.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/01/03 16:40


 【質問】
 陸軍糧秣本廠協力の「牛もつ宣伝デー」について教えられたし.

 【回答】
 さて,現在ではすっかりポピュラーとなった感のある焼き鳥ですが,当初は,下手物扱いでした.
 しかし,工場が建ち並び,その労働者として,大量の農村住民が都市に出て来て下層民となっていくに従って,安価で美味な焼き鳥は,手軽な酒のつまみとなって,屡々関東でブームとなり,その度に購買層を拡大していきました.

 焼き鳥の材料は,食鳥の正肉,皮,心臓,肝,砂肝や軟骨もありましたが,他に家畜の内臓も用いられました.
 焼き鳥とは別に,こうした家畜,特に豚の内臓を「焼きとん」と称するところもありました.
 焼きとんには,ハツ(心臓),レバー,シロなどがあり,シロは腸を湯がいてから串に刺して焼いた物です.

 ところで,戦前期には,今と違って結核と脚気が多く,国民病とまで言われていました.
 これは栄養の偏りが原因でもありますから,栄養改善指導の必要性が認識されるようになり,栄養成分表の作成や,栄養必要量の設定など,栄養学に基づく食生活改善が提唱されました.
 特に,女性向けの雑誌に,食物の栄養に関する記事が屡々掲載され,鯖や穴子の肝を鳥目の特効薬として紹介したりしています.

 大正に入るとビタミンの研究も進み,1920年に内務省の付属機関として国立栄養研究所が設立され,栄養学の研究と栄養士の育成が進められました.
 こうした食品成分の研究が進むと,内臓,特に肝臓の栄養価が注目されるようになりました.
 1921年頃から,「生活改善」を掲げた料理講習会が盛んになり,1922年には栄養研究所が,安くて栄養価の高い食品を上手に利用した「経済栄養献立」を発表し,新聞各紙はこの献立を連載します.

 例えば,魚類の骨や内臓,鳥獣の内臓は,安くてビタミンを含む優れた食品として紹介され,1922年11月には御茶ノ水消費展の一環として,「牛もつ宣伝デー」を開催しています.
 これは,陸軍糧秣本廠の丸本主計正の講話と,吉田,矢部の2名の技手が本廠から出張して壇上にガス釜を設置し,内臓料理の調理実演をやって見せたものです.
 実演はまず,内臓肉に玉葱,生姜,人参などの細かく切ったものを混ぜ,豚の油で炒め,砂糖醤油で味付けし,1人前7銭くらいで立派な料理を拵えたとあり,内臓の処理方法として,料理の前に包丁目を付けて2〜3時間水に浸けて臭みを消すと良いと言う紹介まで懇切丁寧に指導しています.
 他に,シチューや揚げ物の実演もあり,2日間で330名の試食会を開催しましたが,全て満員の盛況だったそうです.

 とは言え,現在と違って,鶏が各家庭で飼育されているのは珍しくなく,遠来の客人をもてなす時とか,祭礼などのハレの日には御馳走として自家解体して用いられており,鳥の内臓は既によく知られた食材であった訳です.
 鶏に関しては,「とりは食うとも,どり食うな」と言う言い伝えがあるように,「どり」(肺)や胆嚢の部分は処分されましたが,その他の内臓は煮るなどして食されていました.
 愛知県安城市の記録では,食べるのは砂肝,肝,心臓,黄身卵,卵みち(輪卵管)で,肝と卵みちは煮付けにして食べ,骨ですら金槌で細かくなるまで叩いて,団子にして食べたと言います.

 内臓の総称としては,家畜の場合,臓物に由来する「もつ」が古くから広く使われ,関西から中国地方にかけてと長野では「ナカモン」「ナカノモノ」とも呼ばれました.
 変わったところでは,福岡では「ニゴ」,四日市では「ペケ」と呼ばれていましたが,「ニゴ」は精肉に対して「二号品」の意味,「ペケ」も同様にまともには売り物にならないと言う意味が込められていると考えられています.

 最近,こうした臓物をホルモンと称する事が多いのですが,1904年に動物体内の特定の腺で形成され,微量で特殊な影響を及ぼす物質を,「ホルモン」と呼ぶこととすると提唱されて以来,ホルモンの抽出や役割が解明される一方で,その頃から既にその成果を商業的に利用する様になり,ホルモンブームが起きていました.

 例えば,動物由来成分を含む万能薬である「六神丸」の効能書きでは,牛の牛黄,犀の犀角,ヒキガエルの蟾酥,熊の膽,麝香鹿の麝香を主な原料とする「特種動植物精膽(ホルモン)剤」と説明されています.
 他にも睾丸エキスを用いた若返り法に,ホルモン含有を売り物にした化粧品などが広く注目され,1934年には資生堂が,「全く新しい構想のクリーム」として女性ホルモンを含有した「資生堂ホルモリン」を発売します.
 この容器は大倉陶園製造の純白の磁器に,金或いは銀のカリグラフを施した高級感溢れるもので,他の化粧品会社も追随してホルモン効果を謳った製品を発売し,「ホルモンで肌の若返る」などと効果が宣伝され,一般の関心も高かったそうです.

 1936年には日本赤十字社が「ホルモン・ビタミン展覧会」を開催し,ビタミン料理と共に,チキン・レバライスや臓物鍋も紹介されたと言います.

 こうした「ホルモン」ブームを背景に,1930年代頃には既に内臓を用いた料理を,ホルモンと称する動きが生まれており,一説には昭和10年代に,大阪の洋食屋北極星が「ホルモン」の商標登録をしたと言われています.
 ただ,この北極星の商標登録に関しては詳細が不明です.

 但し,使用が一般的になってきたのは,戦後の事ですが,人口に膾炙する,即ち,広辞苑に取り上げられるのは,1983年の第3版にならないと出て来ず,1969年の第2版では,「もつ焼き」「もつ料理」となっています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/04/04 20:36


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