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◆国力
アジア・太平洋方面 目次
<第2次世界大戦

木炭バス


◆◆工業力


 【質問】
 日本の技術力って,当時そんなに劣っていたんですか?

 【回答】
 「技術力」の格差を実感するには,本を何冊も読むより,日本工業大学にある工業博物館にいってみるのがいいと思います.
 当時の工作機械がずらっと展示されてるんですが,国産のものと米・独製では作りが雲泥の差です.
 国産工作機械は部品の合わせ目がいい加減で,やすりで削って無理やり噛み合わせた跡だらけです...
 技術者にいわせると,技術ってのは要するに精度だということですから,巨大な「技術力」格差があったわけです.

 うちの親父は航空自衛隊で整備整備やってたけど(’50〜’60年代),工具ひとつ取っても工業水準の差はものすごかったらしい.
 米軍はPROTOの工具を一定期間が過ぎると廃棄してたそうな.
 メッキのしっかりしたまだまだ使えるものだったため,米軍が廃棄したものを拾ってきて自分用の工具にしていたそうな.
 特攻隊の記念館で見た日本製の工具は,錆びてるとはいえかなりお粗末なものでした.
 勝てるわけ無いなぁと思いました.

 電線もひどいもんだったからねぇ
 方やアメさんはゴム被覆の打ち出し縒り線.
 此方日本は金槌で叩き出した単線紙巻き.

軍事板

▼ 以下は,「金属加工のマジシャン」と呼ばれる,世界的にも技術力を認められている企業の代表のお言葉.

――――――

「1個,2個は誰でもできるんです.
 でも何千万個,何億個と同じものができなかったら,できたという意味に入らないんだよ.
 スタートから何十億個目まで全部同じ規格じゃなかったら,できたうちに入らない」

――――――岡野雅行(岡野工業代表社員) in 『カンブリア宮殿』(村上龍著,日本経済新聞出版社,2007.5.25),p.113


 【質問】
 日米では,戦時の女性就労について,どんなところに差があったのか?

 【回答】
 米国も女性労働者を採用しています.

 例えばDouglasの場合,1941年当時,1300名の女性のうち,生産現場にいた女性は24名に過ぎませんでした.

 しかし米国も,太平洋戦争勃発後,生産現場から熟練,半熟練工が徴兵され,労働力不足が懸念されました.
 例えば,Californiaに於いて,1942年1年間で15000名の航空機産業従事者が徴兵され,それは,技術者の37%,機械工の24%,検査工の23%に上っていて,航空機工場側は軍部に「代替不可能な労働者」に対する徴兵猶予を求め,陸海軍は,30日〜6ヶ月の徴兵猶予を決めますが,一時しのぎにしかなっていません.
 つまり,米国も日本と同様の状況になっています.

 最初は航空機産業側も,軍事機密保持の関係上,身元の確かな人を採用する傾向にありましたが,生産が拡大強化されるにつれて,そんなことよりも量を重視することとなり,働ける者は誰でも採用するようになっています.
 LosAngelesでは,1942年末に航空機産業従事者の36%が女性です.
 前述のDouglasでは,1943年末の時点で,女性の航空機生産従事者が3万6千人強に達しています.
 また,未成年者についても,16〜18歳の男子を対象としたSchool Work Programが行われ,例えばLockheedでは,1943年2月以降,4500名の未成年者を雇用しています.
 彼等は,4週間Full timeで航空機工場で働き,次の4週間高校へ通学する「4-4Plan」,あるいは,4時間働き,4時間学校に通い,週末と休暇中は1日8時間工場で働くと言う形態を取ることもあり,一部では学校工場もありました.

 これら米国で生産活動に従事した女性は,どちらかというと,航空機産業に職を求めてやってきた人々で,彼等は職場を良くしようという気概があり,工場におけるQC活動が奨励され,女性側からも積極的な生産活動に対する能率向上活動があり,このことは,当初懐疑的だった航空機産業の経営者も認め,女性の更なる積極的な雇用に繋がっています.

 一方の日本の場合は,統制力の強い雇用が行われ,不要不急産業,とりわけ紡績産業をリストラした女性や,若年労働者を個別に徴用という手段で航空機産業に従事させるもので,極めて強制力が強く,労働の士気という面では米国よりも劣るものでした.
 例外は,近江絹糸(今のオーミケンシ)から転換した近江航空機で,元々の女工がそのまま産業転換して残り,30名の男性工員を名古屋の三菱重工に派遣し,航空機生産技術を習得,彼等が帰還後,1ヶ月掛けてSkill Transferを実施し,女工に航空機生産技術を教えた上,紡績産業時代の生産設備を活用して,絹糸紡績の流れ作業を航空機生産に応用することで,高い生産性を維持したそうです.

 品質管理という面では,米国の場合は,自動車産業の充実があげられます.
 例えば,1942年4月に,西海岸に配置された主要航空機メーカー8社で,West Coast Aircraft War Production Councilが設置され,戦闘機や爆撃機などの主要機種の生産に関して互いに協議し,部品の標準化,互換性の向上を図っています.
 1942年10月には東部の航空機メーカーも同様の協議会を設置し,1943年4月にNational Aircraft War Production Councilが両者の統合で誕生しています.
 この協議会では,各社の企業秘密である生産技術,経営管理技法を積極的に公開し,航空機メーカーによる情報交換を行い,主要機種の生産についての生産提携,機種限定による生産集中が討議されています.
 例えば,この結果として,BoeingB-17は1944年末までの1万機のうち,Douglas Long Beachで2000機,Lockheed Vegaで2000機が生産分担されています.
 そして,機種限定,生産部品の標準化が図られると,自動車産業の組立ラインを本格的に航空機に応用され始め,Consolidated Valteeの工場に初めてこの設備が導入,これによって,半年のうちに,最終組立に要する時間が75%,コストを40%削減することが実証され,各社がこうしたラインを導入することになります.
 これらのラインにも様々な補助的な機械が導入されており,生産性の向上に寄与しています.

 一方の日本では,工程管理のノウハウが十分に習得出来て居らず,経営者はこうした専門家の養成にも積極的ではありませんでした.
 航空機メーカーは,生産機数のノルマ達成にのみ目が向き,調達資金は工場の拡張にのみ費やされ,生産ライン改善に目を向けた企業はほぼ皆無でした.
 また,熟練工がこうした機械化に抵抗し,工作機械も熟練工向けの(質の低い)万能工作機械ばかりで,非熟練工でも容易に扱える単能工作機械が不足してしまったこともあげられます.
 また,陸海軍の仲の悪さに加え,戦時中の日本では,海軍の基本機種は53,サブタイプが112,陸軍でも基本機種37,サブタイプが52もあり,部品の互換性が非常に低かったこと,更に航空機産業に限らず兵器産業は部品集成産業で,下請工場の部品を最終組立するのですが,この下請工場の多くが小規模町工場で,技術水準が低く,本社工場が品質の管理を十分行えなかったと言う面もあげられるでしょう.

眠い人 ◆gQikaJHtf2

 今読んでいる本は,軍需産業に於ける女性労働を扱ったものなのですが,資料をしっかり読み込んでいる感じを受けます.
 この本は,航空機産業に於ける,日本と米国の女性労働を,米国西海岸の航空機メーカー(Boeing,Douglas,Lockheedなど)と,群馬県の航空機メーカー(言わずと知れた中島飛行機太田工場)とを対比させて,戦時期に於ける女性労働力の活用から起こして,その労働力をどの様な産業に配分するか,そして配分された女性労働力をどの様に企業が活用したのか,と言ったことを日米で比較しながら論じている秀作です.

 女性の役割については,類型化されたものとして,まず,枢軸国の女性に対しては,労働力としての女性の役割は限定的で,戦時下で国家の母としての役割が第一義として割り当てられ,伝統的家父長制の維持,国家のために身を捧げる兵士を産み育てるのが女性の任務であり,産業,国防の局面での女性の役割は可成り限定され,労務動員でも未婚の若い女性がその対象となり,職場でも母性保護が求められ,役割には制約が多く,国家が女性を労働力として最大限に活用しなかったのが,枢軸国が大戦に敗れた一つの遠因としています.

 一方の連合国の女性は,大規模に軍需産業に動員されて生産に大いに貢献し,あまつさえ女性兵士の存在が有るように,これを以て連合国は民主主義的で男女平等であると言うもので,第二次大戦中,女性を労働者として活用した数は,英国で800万人,米国で600万人,対して,日独共に僅かに300万人に過ぎないという事からもそれが言えるであろうとされてきました.

 しかし,プロパガンダを廃した視点から見ると,両陣営とも女性労働に対するアプローチは非常に類似した形を取っています.
 ただ,米国の場合は,動員が思うように進まず,女性徴用という形態も終戦までに結局実現することなく(Rooseveltが実は非常に懐疑的だった)終わっていて,女性の労働力としての大量動員は企業努力の結果,女性が働き口を求めてこういった軍需産業に就職しに行く形態が多いのが意外な所.

 日本の場合は,中央集権的な強制徴用を主に行っていますが,これも,兵士に農業などの第一次産業従事者が取られた為に,軍需産業への徴募が非常にきつくなっていたりする事実がありました.

 で,日本の女子徴用の形態は,3つに分けられます.

 1つ目は最も多い形態で,女学校単位で結成された卒業生の挺身隊,これは学校長,同窓会が中心となり,上級学校進学,家庭の問題が無い限り,挺身隊に参加,末期には卒業式直後に学校生活そのままに挺身隊に組織するケースがあり,1944年3月までに全国で23,581名の既卒者,121,563名の新卒者が学校単位の女子挺身隊に参加していました.

 2つ目は,こういった網から漏れた家事手伝い,家業従事,無職の女性で,地域の女子青年団,大日本婦人会支部,隣組などを通じて割り当てられた人数を確保する形で編成された地域別挺身隊で,1944年3月までに146,996名の女性が参加していましたが,大都市では就職先が多いために,挺身隊に参加させられない様にさっさと就職するケースがあったり,地方都市や農村部では,貴重な労働力であって,かつ,農業従事者はこの動員から免除されていたため,次第に組織率が低下し,また,動員先とのミスマッチもあって,出勤率は平均54%に過ぎませんでした.

 3つ目は,小規模でしたが,官庁や会社,銀行などの不急産業に従事していた女性を挺身隊に組織する,職域別挺身隊というものです.
 これは,警視総監から各職場の長に命令を下し,それぞれの職場に人数を割当て,割り当てた人数は挺身隊を組織し,1年間軍需工場で働くと言うものです.
 例えば,朝日新聞東京本社では300名程度の女子社員のうち15名が「朝日挺身隊」として東芝大井工場に出勤し,赤坂や芳町の芸者衆が「芸者挺身隊」を結成して,航空機部品,電波兵器組立工場に派遣されたりしました.
 これらの人数は,敗戦までに472,573名に上り,1944年3月時点では,201,487名の挺身隊員のうち,45,881名が軍の作業に派遣され,民間では機械工場に47,636名,航空機,その関連部品工場が46,237名が動員されていました.

 労務的には,これらの人々は通勤可能範囲で動員されていましたが,重点産業の工場などは大都市や工業都市に集中していて地方では職場が見つからず,長野県の様に,20の学校挺身隊が編成されたものの,地元工場で働けたのは僅か8隊,その他は愛知県豊川の海軍工廠や,東京の中島飛行機,川崎の富士電機に派遣されたり,唯一編成された地域別挺身隊も,川崎の東芝に派遣されたりしています.

 さて,日米ともに,航空機生産は手作業が多く,熟練作業によってその生産が支えられてきました.
 ちなみに,1930年代末期,米国で作られた航空機は,軍用,民間問わず,6,000機程度でした.
 第二次大戦が勃発してRooseveltは,航空機生産目標を5万機に設定しますが,1940年の時点で,まだ12,804機,41年に19,433機,42年にやっとその目標に近づき,49,445機となり,43年に更に倍,92,196機に達し,44年に100,752機になりピークを迎えます.

 この時期,英国は1941年に20,100機,42年に23,600機,43年に26,200機,44年には余り変わらず26,500機であり,生産が限界に達していたのか生産量は変わっていません.
 また,ドイツは,1941年で11,766機,42年に15,556機,43年にシュペーアの登場で生産力が増強されて,25,527機,それでも,英国と良い勝負に過ぎないのですが,44年に英国を抜いて39,807機に達しています.

 で,我が日本はと言うと,1941年の段階で5,088機,42年に8,861機,43年にこれも航空主兵政策で,生産が一気に増え,16,691機と倍増し,44年には28,180機と意外にも英国を抜いていたりします.

 米国の航空機生産の立ち上がりが意外に遅かったりしますが,これは,一つは生産設備の問題で,第一次大戦に米国が参戦した際,その生産設備の拡張は各企業の自己資金で賄われていましたが,拡張直後に戦争が終結してRecessionが発生してしまい,多数の航空機メーカーが倒産を余儀なくされた記憶が新しかった事と,もう一つは,熟練工による生産が行われていたので,労働力確保が難しいと言う側面があったから.
 前者は,その設備をRFCによる資金援助や政府がDPCを通して購入した生産設備を軍需産業にリースしたり,減価償却の年限を軍需工場の生産設備に対し,5年とすることで対応しますが,熟練工については,他の軍需関連産業と奪い合いをすることとなり,生産に支障を来すようになっています.
 其処で考えられたのが,部品の標準化と大量生産方式の導入で,意外にも,第二次大戦が始まって暫くしての導入な訳です.
 で,大統領直属の国防諮問委員会を作り,この委員長にはGM社長のヌードセンを充てた訳で. つまり,自動車産業の大量生産,部品標準化方式を航空機業界に当てはめようとしたのですな.

 こうして,非熟練労働者による航空機生産方式が模索されたのですが,航空機の組立についても,都市部の本工場で最終組立を行いますが,この工場の半径200マイル内の地価の安い郊外に,Feeder Plantと言う200〜500名程度で運用する小規模工場を多数設けて,此処で生産した部分品を本工場に持ってきて最終組立を行う方式が採用されています.
 この施策は,郊外に住む人々に対して都市部への通勤を回避(実際,燃料統制でバスの本数が減らされるなど問題があった)出来,しかも,家の近くに工場があることで,主婦層の就業を促すことも可能,また,都市部では家賃が高く,住宅が不足しがちだったのに,郊外では家賃も安く住宅も建設しやすいことから,他地区から流入してきた非熟練労働者に対しても歓迎されることになりました.
 また,Feeder Plantを多数設けることによって,生産を分散化出来たので,国防上も有利になりましたし,同じ部品をいくつもの工場で生産することで,小ロット生産とか小規模改造の部品を容易く製造出来るようになっています.

 日本も思想的には同じような事をしていた筈なのですが,日本の場合は,Feeder Plantの設置よりも先に,自社の設備拡張に主眼が置かれました. 集中生産方式を採って,周辺の土地に進出していく形です.
 これは交通網の貧弱さと言うものに依拠したのかもしれません.

 これが改められ,分散化し出したのが,1943年から.
 航空主兵政策の実施による航空機生産拡張と,空襲対策の強化にほぼ一致し,例えば,中島飛行機では,太田製作所(陸軍機製造),小泉製作所(海軍機製造),前橋工場(精密機械加工,部品製造)が太平洋戦争前までに整備されていましたが,この年から亀岡工場(板金部品の太田への供給)を始めとして,不要不急産業である衣料工場が産業転換で中島の部品製造,製品組立工場となっていきます.
 1945年には,生品工場が設置されて疾風が月産150機,堤ヶ岡工場では同じく疾風が月産100機製造することになっていました.
(ちなみに,その頃の疾風は中島だけで600機の月産生産割当があった)

 しかしながら,製造という面から見ると,米国がFeeder Plantで行っていたような,面的な結節をしていた訳では必ずしも無く,機体の組立,部品の製造を各所でバラバラに行っていたのが殆どでした.
 一方,部品メーカーについては,現代の系列取引のように,垂直型関係が築かれていきます.

 理想論から言えば,垂直型で裾野を広げれば,親工場の新設,拡張をすることなく,部品の生産数は多くなり,従って最終製品の生産が増えるはずでしたが,熟練工が徴兵されたり,或いは高賃金を得るために熟練工が本社工場に転職したりと言った事例が多く見られ,労働力不足が深刻化し,遊休労働力である,主婦層や学生などが動員された訳です.
 都市近郊では,「家庭工場」「隣組工場」が作られ,主婦労働力が活用され出しました.
 例えば,立川では1942年12月から,隣組を利用した協力工場が43カ所造られ立川飛行機の下請となり,其処では800名の主婦が「鵬翼工作隊」として活動していました.
 一応,これらは一種のFeeder Plantに近い性格のものでしたが,規模は小さく,生産方式は原始的,加えて,本社からの技術指導も品質管理もなく,我流で作っていたので,生産性は極めて低かったりしていたので,軍用機生産には大きく貢献することはなかったのでした.

眠い人◆gQikaJHtf2 in mixi


 【質問】
 現在の日本はベアリングで世界の3分の1のシェアを持ち,品質にも定評がありますが,大戦中の国産ベアリングの品質はどうだったのですか?
 google検索したところ,1916年に国産第一号が生産され,1944年には3500万個を生産したとありましたが,品質についての言及が見当たりませんでしたので.

 【回答】
 欧州SKS製のそれに比べると凡そ10倍も精度が悪いものでした.
 SKS製が表面の凸凹が0.002mm以内.対して,国産のものは,1940年のもので,表面の凸凹が0.012〜0.015mmもあったりします.
 但し,キ61生産の際には,真円度0.002〜0.003mmのものを選別して使っています.

 後,ローラーベアリングの場合は,表面硬化法で処理されていましたが,表面はBenz製と同様な硬度でしたが,その厚みは1mmしかなく(本来は1.5mm以上は必要),滲炭部の組織を見ると,Benzのものはmartensite組織ですが,国産のものはmartensiteにtroostiteが析出され,製鋼法にも問題があったそうです.

眠い人◆gQikaJHtf2


 【質問】
 戦前にも工業規格はあったの?

 【回答】
 戦前の工業規格についてですが,19世紀後半に英・米・仏がそれぞれ独自の規格を策定し,本国と影響圏で標準化を進めています.
 その後英米は両者の規格統一化を部分的に進め(ようとし)たユニバーサル規格を,仏は欧州諸国を巻き込んで現在のISO規格へと発展していきます.

 戦前の日本では尺貫法等も含めた種々の規格が混在していましたが,ISOをベースとして1921年に日本標準規格JESを策定し標準化を図ります.
 戦前の経済状況もあって,基本的にこれは官調達向け規格の性格が強かったのですが,現在で言う自動車の形式認定や建築の確認申請等,民間にも直接規制がかかる分野もありました.

 しかしながらJESへの一本化は中々進まず,JES自体もISOだけではなくユニバーサルや米式規格も入れて並存を認めるようになり,工業規格の一本化という理念は大幅に後退してしまいます.

 やがて戦時経済化と経済混乱の下,規格を大幅に緩めた臨時JESが1939年に制定されます.
 その他にも,民生品レベルでは町工場レベルで規格外の代物も作られていました.
 この他の軍規格や航空機規格等は基本的にJESベースだったのですが,元のJES自体が混在を認めていたのですから共通性は言わずもがな‥

 なお,JESについてはこちらも参照してください.

http://www.ndl.go.jp/jp/data/theme/theme_honbun_400112

http://www.horagai.com/www/moji/nihon/hosetu1.htm


 【質問】
 「系列」会社というものは何故できたのか?

 【回答】
 1938年の総動員体制では,今の日本に繋がる様々な制度や考えが作られています.
 昨今話題の年金制度とか,健康保険制度とか,月給制,終身雇用制と言った事もありますが,経済界では,部品メーカーの囲い込み,即ち「系列」取引の形態が出現しました.

 1937年の日中戦争勃発以降,資源の輸入が困難となり,商工省は重要資材の割当制を行い始めます.
 1938年だけでも,輸出入品等臨時措置法の関係省令が30も出されています.
 3月1日の綿糸配給統制規則に始まり,
揮発油及重油販売取締規則,
臨時輸出入許可規則,
銑鉄鋳物ノ製造制限ニ関スル件,
綿糸販売取締規則,
需給調整協議会規則,
「ステープルファイバー(スフ)」及「ステープルファイバー」糸販売価格取締規則,
鉄鋼配給統制規則,
繊維製品販売価格取締規則…其の他綿製品,
皮革の製造・加工・販売制限,
鋼製品の製造制限,
鉛・亜鉛・錫等使用制限,
米松(船材に使用)販売制限,
「ゴム」並びにそれを使用した製品(ゴム靴とか)の使用・販売制限,
工作機械供給制限,
人造絹糸販売価格制限,
綿製品加工の許可制,
石炭の配給制度,
鉄鋼配給制度
などなど.

 こうした制限物資を入手出来るのは極限られた企業か,あるいは各企業が共同出資して作った統制組合でしかなく,中規模以下の企業では,独立してやっていこうにもそもそも資源が手に入らなくなってしまっていました.
 勢い,こうした状態ではにっちもさっちも行かない訳で,統制組合の影響下に入るか,大企業の系列に入るしか無くなる訳です.

 その資源は,物動計画を検討するに当たり,商工省で製品の原材料単位を設定しました.
 そうして割当てられた資源や工業機械は,必要とされる工業分野に優先的に配分されました.
 1938〜40年まで,この優先配分先の第1位は自動車産業でした.
 しかも当時,この優先配分先たる自動車製造許可会社は,トヨタと日産の2社しかありません.
 商工省は,両社に物動計画から自動車資材の配給を優先的に受ける統制組織として,日本自動車製造工業組合を設立させ,ここで算定した資源の必要量を基に,自動車の生産量を掛けた分を原材料の統制組合から渡す調整を行っていました.

 自動車の場合,原単位計算は,1台の自動車製造に要する原材料の単位とされ,例えば鋼材の場合,乗用車では1台当たり,普通鋼0.216t,特殊鋼0.136tの計0.352t,小型トラックの場合は,普通鋼0.070t,特殊鋼0.184tの計0.254tとして,それに必要台数分を掛けて鋼材量を算出した訳です.
 でもって,生産の効率性は,その原単位計算と実績の差を出す事で可視化出来ます.

 この原単位計算,基は日産がグラハム・ページ社の設備一式を購入し,大量生産体制を技術指導する際に同社の技術者によって技術指導されたのが最初で,これが両社が幹事会社となっていた日本自動車製造工業組合によって採用され,トヨタもこれを取入れたと言う経緯があります.

 ところが此処で問題になったのが,購買価格の不統一とその未発達さでした.
 つまり鋼材や部品などの規格が統一されていなかった為,それを基にした購買規格が設定出来なかった訳です.
 これを解決する為,トヨタ,日産,東京自動車(後のいすゞ)の自動車許可会社3社,陸軍,商工省が集まって,鋼材規格と部品規格の統一とその標準化を2年間掛けて行っています.

 と言うのも,トヨタの工場ではドイツ製の機械を大量に使用していた為,その単位計算はメトリックで行っていたのに対し,日産の工場では先述の様に,米国のグラハム・ページ社の設備一式を導入した為,米国式のインチ・システムとなっており,その調整に手間取った為です.
 結局,日産が折れ,日産側はインチをメトリックに換算して原単位計算を行う事になりました.

 こうした動きは,自動車製造工業組合が最初に取組み,物資の合理的要求を行う事となり,資源割当に対して大きなアドバンテージとなります.
 この為,他の工業分野にも大きな影響を齎し,各工業の統制会でも同じ様な原単位計算の設定を為す事になりました.

 こうして,厳密な原単位計算の設定に基づく資材の割当制度が,更に部品メーカーの系列化に拍車を掛けました.
 部品メーカー側も原単位計算により,コスト管理を求められます.
 従来の丼勘定では,何より儲けが出ませんから….

 ある程度の技術力を有している部品メーカーなら,トヨタか日産,いすゞのいずれかの系列に入る事で,少なくとも資材と一定量の注文を確保出来ます.
 とは言え,トヨタはメトリック・システム,日産はインチ・システムであるので,両方に軸足を置くと言うのは余力が無い限り,不可能.
 結果として,トヨタ系列,日産系列と言った形での垂直統合に成らざるを得なかった訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi, 2008年01月26日21:07

▼ さて,時代は下って1942年.

 太平洋戦争勃発に伴い,戦時体制に流れていく訳ですが,当初検討されていた物動計画は,其の後の米軍による通商破壊作戦と海軍に引き摺られた島嶼戦への船幅投入により,還送計画がどんどん崩れ,南方からの還送資源不足による計画達成困難から,年度計画だったものが四半期毎の策定に縮小します.
 そもそも南方還送資源を潤沢に用いて,拡大再生産を行う予定だったのが,結果的に縮小再生産に代わってしまった訳です.
 1944年になると,普通鋼は1942年の7割程度,ガソリンは半分以下に低下します.

 こうした物資が本国に送られたとしても,供給力が低下する事で,結果として軍需に最優先で回され,民需を圧迫します.
 更に,これらの原料を用いて生産された資材は,超重点主義に基づく傾斜生産方式として大量生産システムを発達させ,系列取引の一段の強化が図られた訳です.

 1942年当時の陸軍軍需動員計画では,南方平定作戦に26,000台のトラックを必要としました.
 当時,陸軍部に於ける計画は,太平洋戦争では,火砲15,000門,戦車3,000輌,自動車70,000台を使用するとし,その燃料としては7ヶ月分を確保するとしていました.

 6月には,参謀本部が重慶攻略作戦,俗に言う「51号作戦」を策定します.
 この為には,5,000台の自動車で装備される部隊を主力にした電撃戦を計画しますが,南方からの燃料還送計画の遅れと船舶輸送力不足の為,自動車や航空機の燃料が不足しており,結果的にこの作戦は中断されました.

 ところで,従来から自動車産業は,軍部の必要性から資材割当が第1優先とされ,それに基づいて生産計画を立て,工場設備を整備していました.
 1943年に策定された昭和18年度物動計画に於ても,鉄鋼,船舶,石炭,軽金属,電力,非鉄金属,石油,硫安,工作機械と重要機械,鉄道車輌と自動車,ソーダ,セメントの12産業を重要産業に指定します.
 しかし実際に配分された資源は,南方からの還送量不足の為,例えば,ヂーゼル自動車工業と日野重工業の場合,1942年度の鋼材配当量43t(17,000輌分)に対し,1943年度は38t(14,000輌分)などとなり,生産力と設備能力との間に約30%の余力を生じせしめてしまいます.

 この余力を,「航空の生産増強に充当する事」とされ,余剰整備能力は,先ず航空工業への転換協力を第一義とし,次いで海軍資材の整備促進を図る事,として,特殊艇(○ゆ艇),高速艇,大発に用いる各種エンジンの生産を命じられました.

 そもそも,自動車製造事業法の制定理由の一つが,自動車製造技術を応用した航空機エンジンの製造でもあり,自動車産業から航空機産業への転換を促す事も十分可能だった訳です.

 1943年9月には絶対国防圏が設定されます.

 この影響で,陸軍の戦力整備の主眼は陸戦兵器から航空兵器へと移ります.
 地上兵器の軍需工業を整備圧縮する順位としては,1.戦車(装軌車),2.地上弾薬,3.航空爆弾,4.自動車,5.地上武器,6.機械,7.衣糧・衛生・獣医材料などとなりました.
 このうち,戦車(装軌車)類に関しては更に,装甲兵車,軽戦車,中戦車の整備を極力抑制する代りに,自走砲車体と牽引車は,関連部門の需要に応じて整備量を規制するとしています.
 また,乗用車関係では,乗用車と側車整備を一時中止,その他は現行整備比を基礎に圧縮します.

 其の上,折角系列化した部品産業も,航空用部品に転換する会社が相次ぎます.
 これは,ボルトやナット,ネジ類,気化器,鋳鍛造品,アルミ製品と言った部品技術の応用が利く上に,軍需の航空分野での買上げ価格が高く,即ち,利潤が自動車産業のそれよりも遙かに高くなってきた影響もあります.
 自動車産業では,系列業者引き留めの為に部品代を引上げざるを得なくなり,従来の価格体系を乱されてしまうという影響がありました.

 こうして済し崩し的に自動車産業の余剰設備を活用すると言う名目の下,日産は東京人絹の静岡県吉原町にある工場を買収し,その地で日立航空機立川工場で生産を予定していた練習機用エンジンハ47の生産を命じられ,本体たる横浜工場でも航空機エンジンの生産を開始し,1944年3月から1945年8月までの生産台数は1,612台,月産200台程度でした.
 一方,トヨタも液冷のハ40生産を命じられ,子会社の東海航空工業を設立して,その生産準備を行いますが,実際に生産したのは,挙母工場,刈谷工場でハ13甲を151〜160台生産したに留まりました.
 因みに,東海航空工業は現在のアイシン精機です.

 更に,末期になるとトラック用エンジンは,特攻艇用エンジンに転用され,10,000基がそれに充てられる事となり,其の分,自動車生産は落ち込みます.
 トラックの生産を維持する為,大阪造兵廠を中心に,代燃装置の増産を計画し,現在の代燃装置よりも更に簡易な装置を試作して,全国に普及させるつもりでしたが,結局,この計画は敗戦までに終わらず,空襲などで日本の工業は止めを刺された訳です.

 しかし,歩兵にとって最も重要な戦車を蔑ろにせざるを得ないと言うのは,みんなビンボが悪いんやじゃないですが,陸式としては本末転倒な気がしますね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2008年01月27日21:35


 【質問】
 KS磁石鋼とは?

 【回答】
 本多光太郎の金属材料研究所が開発した特殊鋼.
 当時,世界最強磁石鋼だったという.

 以下引用.

――――――――――――――――

 本多〔光太郎〕の鉄鋼,合金の研究は,艦船,大砲など,軍事的用途に直結するので着目され,住友金属が後援して,まず第1次大戦中,東北帝大に設立された「臨時理科学研究所」第2部から発足し,彼の部門は鉄鋼研究所,さらに金属材料研究所へと発展する.
 ここから登場したのが,まず大正5年のKS磁石鋼である.
 タングステン,クローム,コバルト,炭素を含む特殊合金で,世界最強の磁石鋼として国際的に注目され,ジーメンス,GEなどが相次いで特許使用権を購入して,住友財閥の投資を稔らせた.

 金属材料研究所は日本の冶金工学の中心となり,陸海軍や民間産業からの研究者も受け入れた大研究所に発展した.

―――――――――宮田親平著『科学者たちの自由な楽園』(文藝春秋,1983/7/15),p.115

 ちなみに,これが永久磁石の研究開発の始まり.


◆◆資源


 【質問】
 戦前日本は南方資源地帯の獲得に動きますが,昭和初期から終戦までの期間,鉱産物の自給率はどの程度だったのでしょうか?
 戦時中,無茶な資源採掘を行ったのは知ってますが,それでどの程度賄えたのか気になりまして.

鉄鉱石87%
石油75%
高オクタン価燃料についてはほぼ100%輸入
石炭11%
生ゴム100%

以上数値は昭和5-9年の平均値
http://www.meti.go.jp/hakusho/tsusyo/soron/S24/H05-01.htm


 【質問】
 日本の資源輸入は戦争にどう影響を受けたのか?

 【回答】
 戦前日本も負のスパイラル状態でした.

 自動車工業に於ては,1936年に自動車製造事業法が公布され,トヨタ自動車や日産自動車などの許可会社は,大衆車を月産1,500台生産する計画で,工場の建設に取りかかり,資材や工作機械,特殊鋼,電装品などを欧米に発注しました.
 ところが,1937年7月7日,盧溝橋から日本と中国の宣戦布告無き戦争が勃発し,臨時輸入に充当していた30億円は,軍関係の戦備に充てられます.
 一方で,満洲の産業開発は進捗せず,資源開発も儘ならず,結局,重要戦略物資を欧米から輸入する足枷の中,更に日中戦争拡大の泥沼により,欧米からの輸入資源は徐々に絞られ始め,結局,民需よりも軍需に偏った,
 しかし一方で重要戦略物資を輸入に頼ると言う,いびつな経済となっていきます.

 1938年の昭和13年物動計画の重要7品目のうち,航空ガソリンの67%,アルミニウム49%,電気銅40%,車輌向けガソリン34%と4品目が輸入主体でした.
 このほか,屑鉄と粘結炭は鉄鋼メーカーに納品されて,製鉄原料となっています.

 ところが,輸入資源が禁輸措置などで減少に転じると,重要産業の生産力は低下していきます.
 普通鋼の場合は,米国を中心とした輸入材が1939年に30万トン入っており,これを含めて510万トンの生産額でした.
 これが翌年の屑鉄禁輸になると,輸入額は7万トン低下し,普通鋼生産の合計は480万トンに低下,元々,1938年当時の物動計画では年度計画で472万トンだったのに対し,輸入鋼が暫時減少し,1941年にはその計画を10%割り込む441万トンに低下していきます.
 特殊鋼でも事情は同じで,1939年に輸入は3.3万トン余で,合計48万トンの生産だったのですが,1941年には普通鋼より更に低下が著しく,35万トンにまで生産が落ち込みました.

 ガソリンは以前にも触れましたがもっと深刻で,1938年の物動計画では石油製品53万klの輸入を予定し,国内精製で101万klを生産予定だったのですが,日米通商条約破棄の影響で,27万klに落ち込み,1939〜40年に米国による実質上の禁輸で,1941年には7.8万klまで輸入が低下,国内精製も基となる石油がないので,42万klまで落ち込みます.

 航空ガソリンは車両用よりも高品質のガソリンであり,1938年の物動計画では輸入10万kl,国内精製5万klと輸入品が主となっていました.
 この為,陸海軍とも燃料廠を建設して国内精製の増強を図り,1939年には輸入実績5万klに対し,国内精製7万klに達します.
 しかし,1941年には輸入4万kl,国内精製は6万klと低下していきます.

 更に輸入資源が減少する一方で,軍需用の物資は増大の一途を辿り,普通鋼は1938年で25%程度の軍需で残りは民需だったのですが,1941年には46%に急伸し,特殊鋼は1938年の23%から1941年は66%,電気銅は50%,航空ガソリンは90%の軍需占有率で,普通のガソリンでも1939年14%だったのが,1941年には29%に急増しています.
 結果的に,国民生活に直結する部分の生産力は低下し,国民生活の質は低下する一方だった訳です.

 こんな首根っこ掴まれた状態で,よく戦争を決断したものだと後世の我々は思ったりする訳ですが….

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2008年01月24日21:30


 【質問】
 日本が戦争中にさまざまな資源が輸入できなくなりましたが,鉱物資源の場合,必要量に対して日本国内や大陸,台湾,朝鮮半島でコストを度外視して採掘しても戦前の必要量すら確保できなかったのでしょうか?
 日本の鉱物資源は種類が豊富で量が少ないのは知ってますが,大陸や半島でどれだけの資源を調達できたのか,コストを度外視しても調達できなかった資源,ある程度は確保できた資源を知りたいです.

 【回答】
 石炭,鉄鉱石など連合国の通商破壊で日本本土への輸入が叶わなくなった資源の場合,本当に採算を度外視して,鉱脈があれば人的資源を投入して採掘を行ないました.

 しかしながら,重要な問題として,当時の日本は重工業における生産の為の機械を,ほとんど自前で用意できませんでした.ぶっちゃけ後進国に毛が生えたレベルでしたから.

 その結果,その鉱山開発に必要な採掘機械生産への投資や,資源配分が行なわれなかったため,既存の鉱山から採掘機械を転用するなどして,本来,重要鉱山(例えば,室蘭の鉄,常磐,筑豊の炭坑など)で使用すればもっと生産が上がったであろうものまで影響を受けており,そうした資源開発をすることは反って生産効率を落とすことになっています.

 そして,石油は開戦時の日本の領土領域からは絶対に必要量が確保できないものでした.
 たとえその後になって油田が発見された土地でも,その当時では採掘する技術や石油が産出する,という調査資料がありませんでしたので.

 そもそも, コストを度外視したら,国家経済が破綻してしまいます.
 そうなったら戦争どころではなくなるかと・・・.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2他)


 【質問】
 ww2当時,日本はどうやって飛行機や戦車に使う鉄,服の繊維,銃の火薬を調達していたのですか?

 【回答】
 鉄鉱石は中国から輸入,コークスも中国から輸入(日本のは北海道のものを除いて品質が低くてお話にならない),但し,日本の技術で鉄鋼を作るのには,屑鉄が必要でしたから,これは米国から輸入していました.
 米国の輸出停止で,どうしようも無くなり,国内で金属回収運動ということで,寺の梵鐘からビルに設置されていたエレベーターのゲージまで回収してそれに充てますが,更にそれが消耗すると,金属加工で出た金属屑を回収して屑鉄の代わりにしています.

 服の繊維は,綿糸や羊毛の輸入は途絶しますので,麻を中心に,更に化学繊維としてスフの増産が奨励され,民需向けには綿糸,羊毛にはスフが混入されるようになりますが,羊毛に関しては,軍需向けのものもあり,こちらは,ある程度保護されています.
 化学繊維としては,木材パルプを用いたスフとレーヨンが増産されます.スフは羊毛の代用品,レーヨンはエジプト綿の代用品です.
 絹糸は未だ自給が可能なので,一定量は残されます.

 しかし,大戦が進展するにつれて,こういった産業は不要不急産業(輸出が出来ないから外貨獲得源としての価値がない)として,軍需産業に転身させられています.
 一番大きいのは,航空機の部品製造への転身で,工場の女工ごとその製造に入ったケースが多いです.

 火薬は,TNTの主原料のトルオールが,石炭乾留工程の副産物ですので,製鉄所で生産出来ます.
 その他の原料も或程度は国産化出来ますので,一応の自給は可能でした.
 但し,大量生産出来るかと言うと,少し疑問符が付きますが.

眠い人 ◆gQikaJHtf2


 【質問】
 戦時中,なぜマグネシウムを日本は自給できたのか?

 【回答】
 理研で,食塩のニガリからマグネシウムを製造する方法を開発し,工業化に成功していたため.

 以下引用.

 ピストンリングと共に大河内研究室が創案した金属マグネシウム工業化にあたっては,資金が足らず,最初,商工省に工業奨励金を申請した.
 理化学興業の創業時代で失敗も多く,まだ経営は軌道に乗っておらず,あちこちずいぶん赤字を出して,理研の第2の危機と評する声も出た.
 この工業化計画そのものを冷眼視する技術者もあって,計画の縮小を忠告する者もいたが,彼は断固強い確信をもって予定通り作業を進めた.

 世の中は,深刻な不景気のさなかであった.

 工業化の見通しがつくと,屑ゴム再生法なども併せて,さらに大蔵省預金部から融資を受けようと猛運動した.
 が,緊縮財政方式をとっていた井上準之助によって最終的に否決された.

 やむをえず,小坂順造の信濃電気の資本と提携して,直江津の工場を一部利用し,余剰電力とここの施設によって工業化に着手し,昭和7年,理研マグネシウム株式会社を設立した.

 しかし,より大規模な工場が欲しい.
 山口県の宇部は電力供給にも恵まれ,原料のニガリも供給し易いので予定地としたら,たまたまマグネサイト鉱から金属マグネシウムを精錬する技術を開発中だった満鉄が接近してきて,その結果,満鉄が資本金を50%引き受けて筆頭株主となった,日満マグネシウム株式会社が設立されて,大きな工場が建てられた.
 生産開始1年後には上海事変が起こり,以後,航空機の発達によって加速度的に需要は増え,大河内の先見の明のおかげで,太平洋戦争が終わるまで,当初,輸入に頼りきりだった,ジュラルミンに必要なマグネシウムに関して我が国が不自由することはなかった.

 田中〔角栄〕は,
<私は……山口県宇部の日満マグネシウム工場の仕事まで,あらゆる工場の事業計画と工場設置計画に参画させてもらったので,今でもそれらの工場の中に配置された主要機械の配置まで覚えている>
と書いている.

宮田親平著『科学者たちの自由な楽園』(文藝春秋,1983/7/15),p.209-210

 それにしても,たった1年前というきわどいタイミングではある.


 【質問】
 戦争に備え,平時から希少金属を硬貨にして国内に置いておいて,戦争が始まった際それを回収して使用したという話を以前見たのですが,何の金属ですか?

 【回答】
 十銭・五銭硬貨がそうです
 昭和8年に十銭・五銭白銅貨を改正し,材質をニッケルに変更しました.これは軍需資材に必要なニッケルを備蓄する為であったと言われています.
 わが国でほとんど産出しないニッケルは,砲身や砲弾に使われる金属だったからです.
 昭和12年には支那事変から日中戦争へと戦時下となりました.
昭和15年には十銭・五銭がアルミ貨になり,
昭和16年にはアルミ一銭貨がさらに小さくなりました.
 しかし戦局は悪化の一途を辿り,遂にはアルミニウムも使えなくなってしまいました.
 昭和19年には占領下のマレーから大量の錫を移入したので,貨幣も素材をアルミから錫に替えました

 戦争末期には金属不足になったことから,陶器のお金を作って・・・という計画もありました.

 なお,アメリカの5セントニッケル硬貨についても,そういう伝説がありますが(日本語版Wikipediaの「ニッケル」の項目等),
「戦争のために硬貨に」
していたという事実はありません.

 ただし,第二次世界大戦中に米国の硬貨のニッケルの比率が変えられたのは事実で,米国以外の国でもWWII中には,ニッケル硬貨の合金比率が変わっている例があります.


 【質問】
 物資不足によって作られた陶製代用品には,陶貨や陶製手榴弾の他に何かありますか?

 【回答】
 画像は戦時中に作られた,陶器製鏡餅……

「なにもそこまでして,正月を祝わなくても〜」
とか
「陶器より餅の方が高かったのか!」
とか,思わなくもありません.



ベタ藤原 in mixi支隊


◆◆◆石油

 【質問】
 WW2当時の世界の石油生産量は?

 【回答】
 国際連盟の調査によれば,昭和15年分で以下の通り.

国名 年産量
(単位:万kl)
比率
(%)
アメリカ 19'500 63.5
日本 30 0.1
中南米 ベネズエラ 4'200 14.0
メキシコ
コロンビア
アルゼンチン
ペルー
中近東 エジプト 1'300 5.0
イラン
イラク
ドイツ圏 ドイツ 740 3.0
ルーマニア
ハンガリー
カナダ 120 0.4
蘭領印度 800 3.0
ソ連 3'200 11.0
合計 29'890 100.0

(from 「1億人の昭和史 日本の戦史」8,毎日新聞社,1978/12/25, p.139)


 【質問】
 日本の石油はどこから賄われていたのか?

 【回答】
 主にアメリカ.
 そのため,パレンバン石油に目をつけることになったという.
 以下引用.

 日本の石油生産量は年間40万t以下.
 約500万tの需要に対し,自給率は1割にも満たなかった.
 37年には「人造石油7ヵ年計画」を策定し,ドイツと同じように開発したが,生産量は全く期待できない状態だった.
 石油の不足分は海外からの輸入に依存せざるをえず,しかも,最大の輸入相手国は米国だった.石油の対米輸入量は35年(昭和10年)時点で年間231万t.輸入全体の67%を占めた.
 日中戦争の泥沼化で石油の需要はさらに拡大し,39年には対米輸入量は全体の90%に達した.
 つまり,日本は第1次大戦後,米国をソ連と並ぶ仮想敵国と見なしながら,最重要の軍事物資である石油を,米国に決定的に依存していたのだった.

 この矛盾を解消できる可能性が40年(昭和15年)夏,突如,降って沸いた.
 もたらしたのはナチス・ドイツだった.ドイツは39年9月の第2次大戦開戦直後,欧州大陸で快進撃を続けた.40年5月にはオランダを占領,翌6月にはフランスを降伏させた.
 オランダが植民地としていた蘭領東インド(蘭印,現在のインドネシア)には,アジア随一の産油量を誇るパレンバン油田があった.
 この油田は米国とオランダの資本により開発された.
 石油生産量は年間470万t.増産に務めれば,この油田だけで日本の年間需要を賄えるほどだった.
 仏領インドシナ(仏印=現在のベトナム,カンボジア,ラオス)と共に,「無主の地」になりそうなこの地域を手に入れることができれば,米国依存経済から脱却できる――軍部も政府も,南方進出という「悪魔に見入られた思索」(作家・土門周平氏)にとらわれたのである.

読売新聞 2005/12/22


 【質問】
 日本の人造石油開発は,どの程度進んでいたのか?

 【回答】
 最高27万tで,約500万tの需要どころか,生産目標である年400万tにも遠く及ばなかったという.
 以下引用.

 人造石油 天然石油の代用燃料として,石炭を加工し,液体化したもの.
 第1次世界大戦の際,国内に油田を持たない英国,ドイツを中心に開発が進んだ.
 日本海軍は1918年(大正7年)以降,満鉄などと研究開発に取り組んだ.
 38年施行した人造石油製造事業法は,
(1)高温高圧で水素と石炭を化合させる「直接液化法」
(2)一酸化炭素と水素を反応させる「合成法(フィッシャー法)」
(3)石炭を乾留,精製する「低温乾留法」
を指定した.
 40年12月に決定した第2次人造石油製造振興計画では,45年度の生産目標を年400万tに掲げていたが,実際の生産実績は最高27万t(43年度)に留まった.

読売新聞 2005/12/22

▼ 油母頁岩は,これを乾溜して精製することで得られる代用燃料で,その精製品は天然石油と遜色なく,蝋分が高い為,潤滑油として最適であり,潜水艦用燃料としても最適なものとされていました.

 その撫順炭砿の油母頁岩層は,全鉱区の上層部に位置しており,最も厚い部分は180mに達し,総量は54億トンでした.
 露天掘の場合,この部分は不要なので,今の用語で言うところの非常にエコだったりするのですが,含油量は上層3分の2の平均は僅か6%,全層での平均含有率は5.4%に過ぎず,製品化するにはコストの掛かりすぎる代物でした.
 生産エネルギーと消費エネルギーの比で出す,エネルギー利益率換算では,当時の技術では油母頁岩は0.5でした.

 つまり,油母頁岩から1の人造石油を産出する為に必要なエネルギー(油母頁岩,石炭,電力,資機材)は2が必要で,到底黒字化は難しかったりします.
 因みに,1980年代に行った日本の実証実験用プラントで,油母頁岩を人造石油にする場合,石油がBarrel当り35〜40ドルになると採算が取れると推計されました.
 その当時は,石油増産で価格が大幅低下していたので,結局このプロジェクトは放棄されたそうですが.

 この油母頁岩精製は,最初英国のスコットランドで行われましたが,1980年代と同様に,米国油田の開発で石油のコストが安くなって断念され,欧米の研究もスウェーデンやエストニアで成果を上げた以外は余り芳しくありませんでした.

 とは言え,精製して石油に近い品質のものが得られるのは魅力的で,資源貧国の日本では代用石油として注目され,日本海軍の要望もあって,1925年から企業化を企図します.
 当時の国産石油は年産35万トンで,全てを海軍に回してもその需要の10%しか賄えるに過ぎず,それを補完する資源として注目された為です.

 当初はスコットランド方式を導入して乾溜しましたが,これでは技術的に難易度が高く,更に採算も合わなかった為,内熱式乾溜法と言う自社技術開発に成功し,1930年から撫順炭砿西製油工場として操業を開始しました.

 この工場では,年間に粗油7万トン,重油5.3万トンの他,硫安1.8万トン,粗蝋9,400トン,コークス4,800トンを得ることが出来ました.

 1936年には工場が拡張され,粗油14万トン,揮発油2万立方メートル,硫安2.6万トンの増産が可能となり,粗油の精製法を改善し,石油需給が逼迫した1941年には,粗油30万トン拡張工事が,日中戦争による資材払底の中完成します.

 更に1939年に粗油50万トン生産計画に伴い,東製油工場の生産を計画,着工しますが,翌年資金資材不足で結局打ち切ります.
 とは言え,太平洋戦争勃発によるエネルギー需給逼迫は益々強くなり,日本政府の要請により東製油工場を再開し,粗油生産19.3万トン,各種製品生産可能な工場として竣工した直後に敗戦となりました.

 この時点で東西製油工場の能力は,合わせて50万トンに達し,日本の石油生産を凌駕していました.
 尤も,この時点で日本に石油を運ぶ術はない訳ですが….

 東製油工場用には東露天掘による油母頁岩採掘が行われますが,こちらは表土層を12〜18m剥離し,頁岩面露出の後,頁岩のみを採掘する方法を採ると言う手間やコストの掛かりすぎるものでした.

 斯うした製油工場建設により,1944年度には赤字に転落しますが,それまでは製油工場も黒字基調で推移しています.

 このほか,撫順炭砿では無尽蔵にある石炭を液化して石油を得る,石炭液化事業も行っています.

 1933年に徳山海軍燃料廠での研究委嘱と,自社中央研究所の研究の結果,1936年に事業化することとなり,1939年に大部分完成し,良質な石炭液化一次原油を製出する事に成功します.
 主にこれらは,自動車用揮発油として使われ,零下環境に於ける走行試験にも成功しました.

 しかし,軍部が要求する高オクタン価航空燃料の生産までには至らず,陸軍燃料廠の委託加工品として,陸軍供給のナフサに水添加鉛することで94オクタンのガソリンを生産するに留まります.

 このほか,満洲には液化燃料事業の発展を図る目的で,吉林人造石油という官業の会社がありましたが,原料炭の不足や技術力の不足で結局破綻し,満州国政府が満鉄に対し,この会社を引き取ってくれる様に泣きつきました.
 この為,1943年に吉林人造石油と撫順液化工場を合併して,満洲人造石油という子会社を設立します.

 採算が徹底的に合わない吉林工場は,年産3万トンのメタノール生産工場に転用する計画で,1945年完成予定でしたが,これまた資材が集まらず,60%の進捗で敗戦を迎え,ソ連にこの設備は全て持ち去られました.

 序でに,満鉄では人造ゴムの研究をしています.
 満鉄では松花江の水力発電を利用し,吉林を電気化学工業の一大基地とする計画を立て,その最初の段階として,カーバイドの生産を始めました.

 撫順炭鉱化学工業所では,このカーバイドを当てにして,アセチレンから合成ゴムを生産し,更に自社製カーボンブラックを混入したゴム製品まで作り上げていました.

 こうした技術自体がきちんと確立されていれば,日本の戦争はもう少しマシになっていたかも知れません.
(今となっては負けて良かったのでしょうけど)

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年07月23日23:00


 【質問】
 戦後,旧満州で石油が発見されたそうですが,戦前の日本の技術では発見できなかったのですか?

 【回答】
新風舎文庫「石油はどこにあったか」ISBN:4797491760

 “歴史上のイフ”では,なぜ日本の技術者がかつての植民地旧満州で大慶油田を見つけることができなかったかを考察.
 石油会社に勤務して世界各国での石油探査・開発・生産に従事した著者しか書くことのできない,貴重な実用書.
豊富な写真,図版,データを用いてわかりやすく解説している.
大人はもちろん,石油の未来を日本の子どもたちにも読んでもらいたい必読の一冊.

 てか,満州に石油が埋蔵されていること自体は当時もすでに知られていた
 ただ常温ではアスファルト状になる超重質油なので,当時の精製技術では利用不可能だった.

軍事板

 例によって蛇足ですが….
 当時の地質学者の学説として,
「石油とは,かつて海であった底に泥と共に堆積した藻類やプランクトンの遺骸中の有機物が重合して出来た,油母という複雑な高分子が,地熱の作用を受けて分解して出来たものであり,油母は地殻変動で地層が波状に撓んで出来る,背斜と呼ばれる波状の突き上げたところに限って溜まる」とされていました.

 その結果,
「石油は南の島の第三期層背斜構造にしか存在せず,中国大陸には存在しない」
と言うのが地質学者の常識となっていました.
 尤も,石油採鉱の講座が東京帝大に作られたのが,1920年頃で,日本の学会においては,1922年に東北帝大の高橋純一助教授(後の理学部長,信州大学長)によって提唱された,「海成腐泥起源説」が有力でした.

 関東軍も1932年に石油の専門家だった榎本隆一郎中将などの重鎮が石油探査を行いましたが,これとて,
「石油の気(油徴)は認めるが,石炭,油頁岩を重視すべきである」
との結論を出して,石炭液化の方向性を指し示すに止まります.

 しかし,1917年に日本銀行調査局が編んだ「支那の鉱山」には,
「黒竜江省安達県ゴルロス後旗バルガソムで,石油井二杭を発見した」
と記しておりました(此処で指し示す地域は,正に大慶油田のあった地区です)が,結局それは顧みることなく終わっています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板


 【質問】
 石油施設関係者の徴用の実態はどんなだったのか?

 【回答】
 それについては,『石油技術者たちの太平洋戦争』(石井正紀著,光人社NF文庫,1998.1)という本があります.
 戦時中,日本の重要な石油供給源の一つであったパレンバンにて,石油技術者や女子事務員の視線から,占領から復旧・操業,そして敗戦までを見た一冊です.

 以前に同じ著者の『陸軍燃料廠』(光人社NF文庫,2003.5)が面白かったので,購入,したはず.
 〔略〕

 パレンバンの占領計画の策定や女子事務員の募集に応じた女性の話など興味深い話が多いのですが,日本軍の駄目な部分に目が行ってしまったり,それを紹介してしまう私の性分はどうしたものか.

●軍人と徴員の格差
「『人の上に人を作り,人の下に人を作る体質は,牢固として消し難いものがあったのである』」(191頁)
 ・命令に従わない,との理由で叱責する
 ・命令が無いのに勝手に作業したとして叱責する
 ・電話中に混線したら,混線先から「鳥(月給「取り」.つまり徴員)の電話などブッタ切れ」と露骨にいわれる
(いや,電話が混線してる事自体が問題なんじゃ…)
 ・禁煙が原則の製油所内で煙草を吸っている下士官に徴員が注意すると下士官が暴力を振るう
 ・徴員は高給取り(陸軍伍長の月給は20円.判任官(下士官クラス)のそれは80〜120円)との事で,公然と小遣いを強請る兵隊がいる(それって犯罪じゃ…)

 余りの酷さに,徴員の勤務状況を視察した調査団が,待遇改善を訴えた報告書を提出したり,陸軍省勤務の技術将校が会議で意見具申しています.
 もっとも報告書の内容を受け入れず,意見具申は「座が白けただけだった」というのが日本軍くおりてぃ.
(「人の上に〜」は,意見具申した高橋健夫中尉が著作の中で,会議の顛末をこの様に結んだ言葉)

グンジ in mixi,2007年09月17日19:53


◆◆版図


 【質問】
 大日本帝国の最大版図って何km2か分かりますでしょうか?
 内地・外地・準外地(満州・東南アジア等の支配地域)が分けてあるようなものだと,幸せ炸裂.

 【回答】
 まず,日本の正式領土は,
内地,
小笠原島(文久元年幕府回収),
沖縄(明治5年琉球藩王としたときに日本領土を確認),
千島(明治8年領土確定),
大東島(明治18年沖縄編入),
硫黄島(明治24年東京府編入),
魚釣島(明治28年日本領確認),
南鳥島(明治31年東京府編入),
沖大東島(明治33年沖縄県編入),
竹島(明治38年島根県編入),
沖ノ鳥島(昭和6年東京府編入).

 内地が総計で382,309平方キロメートル.

 これに加え,
朝鮮が明治43年条約により日本領土になり,
台湾と澎湖島は明治28年条約により日本領土が確定し,
新南群島(現在の南沙群島)は昭和13年に高雄市に編入.
樺太は明治38年条約により日本領土に編入.

朝鮮が220,741平方キロメートル,
台湾が35,846平方キロメートル,
澎湖島が127平方キロメートル,
樺太は36,090平方キロメートル.

 日本領土の外地合計で,675,1113平方キロメートル.

 租借地は明治39年に獲得した関東州であり,これが3,462平方キロメートル.
 なお,租借地は他に,膠州湾が大正9年〜11年まで存在.

 委任統治区域はVersailles条約の結果獲得した南洋群島で,2,149平方キロメートル.

 一部統治区域は,明治39年に獲得した南満州鉄道付属地帯で,これは290平方キロメートル.
 但し,これは,昭和12年に満州国に返還しています.

 日本の法的に認められた支配地域は,以上の681,013平方キロメートルです.

 一時占領地域とか大東亜共栄圏の支配地域としては,以下の通り.

満州国(1,303,143平方キロメートル),
中華民国(全土で10,361,604平方キロメートル.但し,支配地域が必ずしも明確ではないので,面積としての算出は不可能.概算では北支,中支が占領地なので,2,150,000平方キロメートルは含む)),
蒙古連合自治政府(450,000平方キロメートル),
アンダマン諸島(6,496平方キロメートル),
ニコバル諸島(1,645平方キロメートル),
英領ビルマ(603,200平方キロメートル),
英領マレー(137,776.2平方キロメートル),
香港(1,013平方キロメートル),
英領ボルネオ(211,258平方キロメートル),
仏領インドシナ(740,400平方キロメートル),
広州湾(842平方キロメートル),
伊領天津租借地(0.5平方キロメートル),
蘭領インド(1,900,151平方キロメートル),
ポルトガル領チモール諸島(18,990平方キロメートル),
澳門(16平方キロメートル),
米領フィリピン群島(296,295平方キロメートル),
グアム島(534平方キロメートル),
英・豪領ソロモン諸島(72,496平方キロメートル),
ギルバート諸島(430平方キロメートル),
エリース諸島(36平方キロメートル)などなど.

 後は足し算よろしく.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2)


 【質問】
 日本にとって樺太と台湾とでは,どっちのほうが重要度が高かったの?

 【回答】
 どちらかというと,台湾でしょうね.
 台湾の植民地としての歴史は,1894年以来なのに対し,樺太は1905年以来ですから,
 しかも,製糖を始めとする投資額は前者の方が多いわけです.

 また,台湾を統べる台湾総督の権限は,大正初期まで陸海軍大中将が任じられ,民政と共に陸海軍を指揮して,台湾防衛をする権限を与えられていました.
 但し,台湾の場合は,台湾総督は拓務大臣の配下に属し,上奏する場合は,拓務大臣を通じて内閣総理大臣経由で行うとか,貨幣,銀行,専売,関税は大蔵大臣,郵便電信は逓信大臣の監督を受けることになっており,権限としては極めて弱いものでしかありません.
 総督の命令である律令,総督府令を発する権限はありますが,制約の多いものでした.
 ちなみに,総督の補佐として,総務長官(旧称民政長官,後藤新平が就いていた)が置かれ,これには,内地の知事クラスが就任しています.

 一方の樺太は,樺太庁の管轄下にあり,最高権限者は,樺太庁長官です.
 樺太庁長官は,兵権を託されることもなく,法律に代わる命令を発する権限もありません.
 この体制は,1943年法律第85号樺太ニ関スル法律ノ特例ニ関スル件廃止により,法律上,内地に編入されることで,終焉を迎えます.
 つまり,内地の一地方官庁として,北海道庁と同列になります.
 但し,完全な地方自治体ではなく,議会を設けることもなく,樺太庁特別会計も,1945年まで継続されています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2


 【質問】
 以前ネットのどこかで
「タンネンベルク包囲戦の戦訓は,満州の鉄道網設置に影響を与えた」
というような記述を読みました.
 どうやら
「タンネンベルクでのドイツの勝因は,発達した鉄道網によって機動性を確保できたことにある」

「日本陸軍の仮想敵国はソ連なので,予想戦場である満州にドイツ同様の鉄道網を敷設する必要があった」
ということらしいのですが,それは本当なのでしょうか?
 もし本当であるならば,実際に満州鉄道網敷設にあたって満鉄などと交渉にあったた軍人が誰であるとか,どのような経緯でどのような影響があったかなどが知りたいのです.

(第101旅団 ◆fGVS7EgVVc)

 【回答】
 ざっと資料を眺めてみた限りに於いて,満鉄の鉄道網設置が日本陸軍の影響を受けたことはありません. 細かい枝線についてはもしかしたらあったかもしれませんが….

 そもそも,満州に於ける鉄道網は,ロシアがシベリア鉄道の枝線としてチタから哈爾浜を経てウラジオストクに敷設したものと,更に哈爾浜から南下して旅順,大連に敷設したものがあり,他に奉天から天津を経て北京に至る路線は,英国が敷設権を持って敷設したもの,日本が朝鮮半島から北上して南満州鉄道に接続するために敷設したものです.

 その後,日露戦争によって南満州鉄道を得ていますが,北部は長らく(1935年頃まで)ロシア,ソ連が運営しています.
 これに対して,日本が影響を及ぼすことは出来ません.

 また,第一次大戦後,日本の満州進出が露骨になるに従って,英米独の協力の下,張学良は中華民国との連携を図るため,日本の進出の基となっている南満州鉄道を潰すべく,中国東北鉄道委員会の「満鉄包囲網線」計画を推進しています.
 これが1928年のことで,その路線は満州地域を東西に貫き,錦州に至るものでした.
(ちなみに,敷設資金は英米が出し,錦州と南葫廬島には,1930年5月からドイツが大規模な港湾を建設し,満州地域の産品は大連を通すことなく,輸出が出来る様にする予定でした.
 この路線完成後,満鉄経営に甚大な影響を与えています.)

 満州国建国後,やっと,これらの満州国有鉄道線が満鉄に委託されていますので,これ一つからして,軍部の意向を反映するのは難しいのではないか,と思いますね.

 ついでに,満鉄はその経営については,関東軍の干渉を巧みにあしらい,彼らの影響を極力排除するのに,国家総動員体制が確立するまで避けています.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2)

 自分でも色々調べていたのですが,おっしゃるように満州事変以前に日本陸軍が満州の鉄道網全体に対して影響力を及ぼすことはほとんどありえなかったようですね.
 満州国建国後は陸軍の露骨な影響があったとする研究もあるようですが
原田勝正(元和光大学教授)
http://www.wako.ac.jp/souken/touzai99/tz9907.htm
それは陸軍が理想とした包囲殲滅戦思想の影響ではなく,単なる兵員輸送路の確保という目的のためだったことが伺えます.
 ただし,満鉄としては軍部による介入を快く思ってはおらず,少なからぬ抵抗があった,とも上記の論文では書かれています.
『満州国「政府」から鉄道経営を委託されている満鉄に対して,日本国「政府」からならともかく日本 「陸軍」が介入するなど筋違いだ』
というのが彼らの言い分だったようです.

(第101旅団 ◆fGVS7EgVVc)


 【質問】
 大東亜共栄圏とはどこからどこまでを想定していたのでしょうか?

 【回答】
 大東亜 の「大」っていうのは「印度を含めて」という意味がある.
 なので中東地域とシベリア以外の全アジア,オーストラリアとニュージーランド以外のオセアニア,という事になる.


 【質問】
 祖父が入っていたらしいのですが,大東亜練成院(拓南塾)の目的,教育内容,受験難易度について教えて下さい.
 配属将校の推薦が必要だったとか,陸軍大臣が開校式に来たとかいう話を聞きました.

 【回答】
 軍関係ではないと思われ.
 推定ですが,南洋植民地の統治官僚を養成するための学校だと思います.
 現在の拓殖大学が,台湾統治の為の人材を育成するための学校だったので,その南洋版と考えれば良いのではないか,と.

 当初は,拓務省配下の関係団体でしたが,後に大東亜省直轄の大東亜錬成院になっています.
 ちなみに,拓南塾は,東京都北多摩郡小平村(今の小平市)にあったようです.
 大東亜錬成院長は,1943年現在,幣原坦文学博士(大阪出身,台湾帝大名誉教授)で,台湾帝大初代総長,幣原喜重郎の兄で枢密顧問官も勤めた人.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2)


 【質問】
「日本は,風水で占領地の運気を下げる立地を選んだ施設なんてのを作ったりしてまして,設備の良し悪しはともかく,現地人には存在自体が迷惑極まりなく撤去資金を請求したいくらいの物もあったと思われます」
という話をたまに聞くのですが,本当なのですか?
 そんな当てにならない呪術的いやがらせの為に,貴重な資本や時間を使ったとは思えないのですが.

 【回答】
 ウソ.

 今の日本の「風水」(荒俣氏やDrコパのはまた別物)が成立したのは江戸末期〜明治中期にかけてのことで,流行を形成した後定着(「北玄関は避ける」「大安は吉日」とか)していきます.
 この「風水」は陰陽道の一分野である地理風水と古暦を元に,個人レベルでの土地・建物や日時方角の吉凶に関するマニュアル的な要素を強く打ち出したのが特徴で,柳沢照覚の「地理風水家相宝鑑図解」(明治42年)のように,ベストセラーとなって昭和初期に至るまで増補改訂版が続くものもありました.
 故に「戦前日本では風水は知られていない」は誤解です.

 但し「日本は,風水で占領地の運気を下げる立地を選んだ施設…」については,以下の理由から(少なくとも朝鮮半島では)意図的なものでは無いと考えられます.

 1: 西欧化・近代化の一環として,朝廷/日本政府は陰陽道・風水を放棄していた(1870年 陰陽寮の廃止)
 2: 日本の「風水」(民間レベル)は封建制や土縁社会を背景としたため,陰陽道や朝鮮風水の持つ「風水的な攻防」という視点が極めて希薄なこと.
 3: 朝鮮総督府は,植民地支配の円滑化といった観点から朝鮮風水に注目していたが,総督府自体は風水の呪術的な効能を信じていない.むしろ不完全ながら「朝鮮文化を尊重,風水を用いて朝鮮の発展を図る」といったポーズも取ろうとした
(1931年,総督府は「朝鮮の風水」という朝鮮風水研究の大著を刊行.前期の姿勢はこの本から読み取った個人的見解)
 4:既に朝鮮は日本の一部なので,朝鮮半島全体の運気を衰退させる動機が無い

 代表的な例としてよく紹介される,韓国での「戦前,日本の総督府が韓国隆盛の気の流れを断つために山に埋めた金属の棒」騒動(90年代半ばの話)があるが,これは測量基準点を著すためのものだった.
 韓国人の無知と迷信が生んだ珍騒動を,知能水準が大幅に低下した最近のニホンジンの特に若い世代が,何のためらいもなく受け入れただけ.

 ちなみにDr.コパ゚の本は風水的に見て,あきれるほどデタラメのオンパレ-ド.黄色が金運に直結するなんてのは代表的大嘘.
 「南に鏡を置くと幸運を呼ぶ」なんてなぁ,正統派風水からみると丸で逆.

(軍事板,陽剣刹 in FAQ BBS

 ちなみに,10年ほど前に「風水先生」だかという荒俣宏の本を読みました.
 世界でも指折りである風水師に,日本の大企業のビルを見せて,今後を予想するという内容でした.
 対象は,トヨタ,IBM,セガでした(他にも有ったと思う)
 批評では唯一良いのはセガで,他は全部ダメ(特にトヨタ)という感じでした.
 自分はコレ読んだ時点で「オカルトだな」と思いました.

 で,数ヶ月前にこの本が部屋から出てきて思い出して大笑い.

 風水なんてこんなモンでしょ.

(キルロイ in FAQ BBS)

 本,買ったんだ…….


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