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「VOR」◆(2012/08/27)日本人グループ訪朝 戦没者の遺骨探しに
「厚生労働省」◆海外での戦没者の死亡状況について,帰還した元上官らから聴き取りした資料について
【質問】
旧軍将校の装備,主に軍服について質問です.
昔から世界的に将校の装備は自腹だったそうで,その為独軍の将校の制服などはカスタム仕様が多く,細かく見るとバラバラですが,旧軍ではどうだったのでしょう?
できれば昭和初期から終戦の範囲で,どうだったか教えていただければと思います.
自分が調べた感じではカスタマイズは普通と言う意見と,規律が厳しかったのであり得ないという意見に別れていてよくわかりません.
(物資の枯渇も原因?)
海軍は元々派手だからやらないかなあ…とか,実は素材や裏地など高校生ばりにこそこそカスタマイズしてたかも,等想像が止まりません.
よろしくお願いします.
【回答】
将校の衣服は基本的に私費特誂品で,材質と仕立が官給品とは差がありました.
生地は夏服は綿地,冬服はウール地で,フォーメーションは兵服と同様です.
しかし,布地は若干将校の方が青味が掛かっています.
(但し,戦訓から第一線の将校は官給品である兵服を着用し,階級章を外すケースも多かったとのこと)
短袴も同様に,冬はウール地,夏は綿地ですが,時代が下る毎に,混紡,化繊地となっていきます.
長靴は黒又は茶色牛革ですが,第一線の将校は兵と同じく編上靴となりました.
特に南方では皮の手入れが大変なので,長靴より布製ゲートル,革靴より地下足袋が好まれています.
下着の襦袢と袴下は白い綿地ですが,これは私物が多く,偕行社で購入したお仕着せ品が多く,褌は私物で酒保にて購入するケースが多かった様です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
日本で「自分は〜であります」みたいな軍隊口調って,いつ頃から使われ始めたのですか?
【回答】
明治33年に出版された「国民必携 陸軍一斑」(いわゆる軍隊マニュアル本)の中で既に,軍隊内独自の言い回し”兵語”についての記述が存在する.(岩波「日本の軍隊」より)
かなり早い時期に成立していたのは確かなようだが,正確な成立年代は不明.
テレビもラジオも無い社会の中で全国的な組織を作っていく過程で,独自の用語や言い回しが成立・発展していったらしい
【質問】
銃剣道について質問ですが,元はフランス人が戸山学校に講師?として指導したのが始まり,というのを聞いたのですが,ホントでしょうか?
【回答】
剣道4段の俺が答えてやる.
銃剣道は,日本の槍術を源流とした武道です.
フランス人が教えたというのは,「甲野善紀」のなんかの本の影響.
銃剣がフランス経由できたからそういうって話.その場合は「銃剣術」
陸軍は当初フランスをお手本にしてたので,銃剣術もフランス式だった.
だが,西南戦争なんかやってみると,これがあまり役に立たない.
戸山学校などでは,こっそり日本の槍術を取り入れた日本式銃剣術を研究.陸軍のお手本がドイツに変ったのを機に,これが採用された.
軍では「銃剣術」であったが,学校等では武道「銃剣道」として広がり,戦後はこの武道としての銃剣道が残った,ということ.
銃剣道は槍術と考えた方がいいでしょう.異論はあるかもしれませんが.
小噺になるが,銃剣道と銃剣術の違いには因縁がある.
陸軍内で,剣道と銃剣術の最強論議が起こり,京都武徳会道場で陸軍主催の異種格闘技戦が行われた.
20戦くらいして,結果は銃剣術の圧勝.
其の時の銃剣術代表者は,槍術を嗜んでる人が多く(ここまでソースはある),「道」として日本文化として取り込みプライドを保ったと見られる(推測).
打突部位からして一緒だから,槍術の一種として考えて問題ないかと.
【質問】
ラグビーって戦前の日本軍では人気あったの?
【回答】
闘球のことかな.
日本軍では人気のあるスポーツとは言えないと思います.
日本国内で行われた闘球大会は,関東大学試合が早大,慶大,東大,立大,明大の五校でしか行われていません.
他に全国専門学校大会があり,これには明大専門,松山高商,函館水産,神戸商船,台北高商,慶大予科,西南学院,東北大医専,同高商,天理外語の9校しか試合をしていません.
うち,神戸商船は不戦敗になっています(1943年).
全国中等学校大会では,松坂商,脇町中,函館商,崇徳中,同志社中,福岡中,慶応普通科,神戸二中,天王寺中の9校とこちらも少なく,社会人に至っては,東西一般人対抗しかありませんから,競技人口は今に比べても恐ろしく少ないと思います.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2)
ただ,陸軍軍人であった秩父宮様は,ことのほかラグビーがお好きで,戦前からラグビー観戦を楽しまれることが度々でした.
秩父宮様のラグビー好きに由来して,秩父宮の名を冠したラグビー場が造営されたましたが,この土地は元々青山練兵場の跡地の一部です.
陸軍自体がラグビーに熱心であったとは思えませんが,まんざらラグビーと無縁という訳ではありません
【質問】
兵士などに対する保険は掛ける事ができたのでしょうか?
【回答】
徴兵保険,戦争死亡傷害保険というのはありました.
http://www13.ocn.ne.jp/~seiroku/hoken.html
徴兵保険でボロ儲けした,富国生命という会社もあります.
ちなみに同社は,靖国神社にある日露戦役戦勝記念のレリーフのスポンサー.
また,太平洋戦争中徴用された船舶が喪失した場合,海上危険(衝突,座礁,沈没など)の要因によっては,保険金が支払われる場合がありました.
敵国に撃沈されたと明確に判断の付く場合(これを戦争危険と言い,乗組員の証言,同行船舶乗組員の証言などで判断)は,保険が掛けてあっても,保険金ではなく,軍から補償金が支払われます.
一方,単独行動中に行方不明になったとか,操舵員のミスで座礁したとか,衝突したなどといった場合,保険会社が調査の上,海軍当局と協議し,潜水艦などに依るか否かと判断して,それが敵の軍事行動による滅失の場合は,軍当局から補償金が,普通海上危難の場合は,保険会社から保険金が支払われます.
これは徴用船舶,民間船舶でも同じでしたが,民間船舶の場合は軍が補償金を支払うケースは余りありませんでした(海軍の護衛下で船団航行中に喪われた場合がこれに相当する).
また,海軍徴用船舶の場合は,普通海上危険によっても分損の場合の修繕費用は海軍が負担したのに対し,陸軍徴用船舶の場合は,分損,全損とも普通海上危険では保険会社の支払いとなりました.
但し,軍の補償金は保険金額よりも一般的に低く,普通海上危険にして貰おうと画策した船主もいたようです.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2)
【質問】
日本軍も暇なときは昼寝とか遊びにいったりとかしてたの?
【回答】
暇なときというのがどのような時を指しているのかが不明だが,平時においては週番で無い限り休日はあるので,昼寝したり遊びに行くことも可能.
時には部隊祭を催すこともあった.
戦時ではさすがに制限があるが,後方の主計将校なんかだと,早めに仕事を終えてちょっと寄り道して帰ることもあったとか.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
日本とアメリカの軍人の戦死者ってそれぞれ何人いるのでしょうか?(民間人のぞく)
日本の方が圧倒的に多そうですけど・・・
【回答】
日本軍の戦死者数は約120万,米軍の戦死者数は約9万.
もっとも,日本軍は「戦死」とはされていても病死,及び食料の不足から来る餓死者が大半を占める.
補足しておくと日本軍の戦死者に「軍属」(軍隊で働いてるけど軍人ではない人)の戦死者数はカウントされてない.
靖国神社に祀られている戦死者の数は,約230万人となっている,
あ,でも靖国神社の数には日中戦争の戦死者やシベリア抑留で死んだ人も含まれてるから・・・.
太平洋戦争のみ,ということにすると靖国に合祀された「英霊」は215万人くらいだったと思う.
確かに日本はアメリカに比べると二桁違う戦死者数を出しているが,その大半は重軽傷者が医薬品や医療体制の不足から助からなかったものであり,また補給が途絶えたために飢餓で死んだ人達.
純粋な意味での「戦闘死亡者」は,「戦死者」とされている人の半数以下.
なので,アメリカの一方的虐殺・・・というよりは日本の自滅.
【質問】
太平洋戦争で米軍の死者は30万人出たそうですが,これは当時の国力比からしたら,日本は善戦したほうなんでしょうか?
【回答】
30万人でも少ないとも言えるし,30万人だと多いと言えるし,立場,状況などによって何とでも言えます.
1944年の島嶼戦では,例えばサイパン島では日本側3万人戦死に対し,米軍側4500名,テニアン島では日本側1万名に対し,米軍側400名,グァム島では日本側1万7000名に対し,米軍側2000名,パラオ島では日本側2万名に対し,米軍側1500名の戦死.
1945年の戦線だと,例えば硫黄島でやっと日本側2万8500名の戦死に対し,米軍側5500名,沖縄戦でも日本側11万名に対し,米軍側7500名と,常に米軍側の戦死者の方が少なかったりします.
加えて,輸送中に喪った人員なんかも米軍より日本軍の方が膨大になります.
そもそも,輸送船で輸送するのに,全員分の救命胴衣が確保出来ないから代わりに丸太を積むみたいなお粗末な話ですが.
人を重要な資源と考えた米国と,人を使い捨ての資源と考えた日本の違いかな,と.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板
【質問】
アメリカは無理に地上戦を行わず,持久戦に持ち込み,無制限潜水艦戦,高高度爆撃を繰り返したら,正規兵死者1万人以下で日本に勝てたと言っていた人がいましたが,実際それは可能だったのでしょうか?
【回答】
1944年の時点(極端に言うならば1942年の時点)で,日本が手を挙げていればその程度で済んだかも知れませんが,より確実に日本を締め上げるならば,例えば北海道や日本海側にも隈無く爆撃をしたり,潜水艦を配置したりしなければなりませんので,本土に近い何処かに基地を設ける必要があります.
米軍の上陸作戦の要諦は,戦闘機が離発着できる飛行場を設け,其処を拠点に制空権を確保して,その行動半径の範囲内で次の拠点を陥落させると言うものですので,どうしても島嶼戦を行わなければ成りません.
日本本土に接近するのであれば,それなりの犠牲は伴いますので,1945年以降なら難しいでしょうね.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板
【質問】
太平洋戦争で戦死した皇族軍人は何人いるのでしょうか?
【回答】
ゼロ.
一人だけ事故死がいるけど.
▼http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa1212706.html
>昭和15年に中国で北白川宮永久王が,演習中の事故により戦死しています.▲
「皇族が戦死」したら上官達の責任問題になっちまうから,司令部付きとか後方勤務に回していたんだ.
軍事板
▼ たとえばノモンハン事変のとき,戦況が悪化してきたから,皇族士官を急いで転属させた例がある.
本人は残ると言い張ったのを,
「転属は命令なんですから従ってください」
と連隊長が諭したと.
まあ,連隊長の内心は,さっさと逃げてくれよ足手まといのボンボンが,といったあたりなんだろう.
また例えば,第43師団長はサイパン派遣前に,賀陽宮恒憲王中将から斎藤義次中将に替わっている.
昭和19年4月6日 賀陽宮恒憲王中将が近衛第3師団に転補,後任に斎藤義次中将が親補
昭和19年4月7日 軍令陸甲第39号により動員下令,大陸命第984号により第31軍戦闘序列に編入(サイパンに派遣)
臣籍降下した者を含めるなら,海軍で2人戦死している.
・伏見宮博英王(海軍少佐)@セレベス島方面で輸送機が撃墜され戦死.
・朝香宮正彦王(海軍少佐)@クェゼリンで玉砕.
この2人は,昭和11年に臣籍降下してる.
そもそも太平洋戦争頃に皇族軍人だったのは約10人程度.
臣籍降下した者を含めても,20人もいない.
軍事板,2008/10/26(日)
青文字:加筆改修部分
▲
【質問】
朝鮮王族の戦死者がいるそうだが?
【回答】
李[金禺](りぐう)殿下
第二総軍司令部教育参謀 陸軍中佐 原爆死
8月6日朝、広島城の司令部に出勤途中被爆,全身火傷で翌日薨去。
たまたま出勤に同行できず,難を逃れた侍従武官,吉成弘中佐は、通夜を済ませ,8日朝、出棺を見送った後、責任を取って自決。
その後、殿下の遺体は故国の京城に運ばれ、葬儀は陸軍葬として8月15日、玉音放送が流れた後、
午後1時から東大門運動場で阿部信行総督以下、各界要人が参列してとり行われた。
戦後もずっと,殿下と中佐の両未亡人の間に,深いきずなで結ばれた親交が続いているというテレビ報道を見たことがあります.
ttp://homepage2.nifty.com/nishidah/m_royal.htm
(軍事板)
【質問】
大東亜戦争において,戦地で生き残る方法は?
【回答】
以下を参考にして,智恵を巡らせてください.
・親父の師匠で戦地で上官に
「私はあなたをお守りしなければなりません.死ぬまであなたをお守りします!」と言って死を逃れた人がいる.
勿論,その地にいた他の人たちは全員戦死したそうな.
ちなみに,その人はクラブ遊びをしたお陰で,ホテルニュージャパンの火災からも助かってる.ホテルに帰ったらテレビのあの場面だったそうな.
・近所の旧家のじいさんは,家に伝来してる中で一番の備前長船長光の名刀を,軍刀に仕立てて戦地に持っていったところ,その刀のことを知った連隊長が,
「このような名刀を失うのは惜しい」
と言って,その人をずっと司令部付にしてくれた.
おかげで,最前線に出て行った人たちがほぼ全滅してる中,その人は助かった.
まあその名刀も,内地帰還した時にたまたま東京に居たせいで,東京大空襲で焼けちゃったそうだけど.
・中学時代の部活仲間の,その祖父さんの話.
徴兵で軍に入り,前線(サイパンだったかなあ…)に行ったが,上官が次々と戦死して,
1〜2年くらいで小隊長格を任されてしまったそうだ.
そのお爺さんが銃の射ち方を教えてくれるには,
「いいか,塹壕に入ったらな,手だけ出して撃つんだ」
「それじゃ当たらないんじゃ……」
「馬鹿野郎.顔出したら死ぬだろうが」
なんか,妙にほのぼのしたのを覚えている.
・古参兵に幽霊話を聞かされた翌日の夜,衛兵勤務中にぬかるみに足を突っ込んで
「幽霊が足掴んだ!」
と勘違い.
パニック起こして全力で兵舎の窓に飛び込んで,ガラスで大怪我し,そのまま病院送り.
我が祖父だ,
生活板
青文字:加筆改修部分
【質問】
太平洋戦争中の旧日本軍の場合,戦死者の遺体はどうしていたんですか?
【回答】
可能ならば,戦友が荼毘に付して,お骨にして返します.
戦場掃除といって戦闘後に部隊で集めて,焼くのが基本でした.
戦況の悪化に応じて,全身→手首→指とだんだん焼く部位が減って,残りは現地に土葬.
最終的には,自分で穴を掘っておかないと放置されるまま,野垂れ死んでは白骨街道,
家に帰るは,お骨がわりの石ころ一個という具合になりました.
師団1個送って,全部輸送船と兵器と物資もまとめて海に沈められたり,
ニューギニアに上陸したけど連隊で二千人近くいて生還は数名とか,
そんなのばっかりです.
そんな軍隊と,たとえば米海兵隊の一回上陸作戦をやったら,後方に引き上げて休養と人員補充と
再編,訓練とやって,また次の作戦に投入するってのができる軍隊とは,色々と話が違います.
山本七平の話だと,本土と連絡がとれている頃のフィリピンならば一応,部隊で遺族に渡す白木の箱にいれる何かを送り返せていたようです.
フィリピンあたりだと,民間人や捕虜の内地移送の時に,船底の方には大量の骨壷が積まれていた例もあります.
洪思翊中将の処刑につながった捕虜船沈没でも,数千柱の遺骨も海没したようです.
しかし,米軍が上陸してくるとそれも不可能で,山の中をさすらう話になります.
敵上陸はないけど孤立してしまった小島などでは,空襲による戦死者や病死者が出ると,焼いて骨壷に収めて貯めておいたところもあります.
骨壷だらけの部屋があって,その隣には「出る」という怪談も.
986: 名無し三等兵 :2009/12/14(月) 23:31:13 ID:???
遺体は,スタッフがあとで美味しくいただきました.
軍事板,2009/12/14(月)
青文字:加筆改修部分
【質問】
除隊後に訓練・戦闘が原因による死亡は,公務死扱いでしょうか?
それとも司法判断によるのですか?
また,彼らは靖国神社に合祀されたのですか?
【回答】
死亡の原因が当該訓練・戦闘による受傷・罹病であれば公務死亡です.
基本的には恩給・弔慰金等を遺族が請求する段になって,それまでの記録や死亡診断書の記載等から裁定することになります.
公務死と認められなかった場合に不服があれば司法の場に出ることもあるでしょうが.
靖国合祀については,昭和30年代くらいまでは,行政機関が戦没者と認定した者(死亡を公務によるものと認めた者)について,名簿を靖国神社に提供していた事実があった,とされています.
これらの者は基本的に合祀されたと思われます.
現在では,公務死による恩給・弔慰金等の支給を認める行政機関からの通知を遺族が示す等すれば,靖国神社が合祀してくれるのではないでしょうか.
軍事板
【質問】
訓練中の事故・死亡は戦時・平時問わずに「公務」扱いでしょうか?
【回答】
基本的には軍人・軍属等の勤務に関連する受傷・罹病による死亡は,公務死亡と見なすとか同視する,という制度に,少なくとも戦没者遺族援護行政の運用ではなっています.
(当時は公務とされなかったものでも,戦後の法改正で戦没者として見なされたりするようになっているものがあります)
軍事板
【質問】
俺の曾祖父が戦争で死んで,遺族が毎年4万くらいお金を貰えたらしいけど,こんなものなの?
詳しく分からなくてさ.何てお金になるの?
【回答】
軍人恩給だね.
遺族給付額に付いては,恩給法第75条を参照して下さい.
―――――
第75条 扶助料ノ年額ハ之ヲ受クル者ノ人員ニ拘ラス左ノ各号ニ依ル
1.第2号及第3号ニ特ニ規定スル場合ノ外ハ公務員ニ給セラルル普通恩給年額ノ10分ノ5ニ相当スル金額
2.公務員公務ニ因ル傷痍疾病ノ為死亡シタルトキハ前号ノ規定ニ依ル金額ニ退職当時ノ俸給年額ニ依リ定メタル別表第4号表ノ率ヲ乗ジタル金額
3.増加恩給ヲ併給セラルル者公務ニ起因スル傷痍疾病ニ因ラズシテ死亡シタルトキハ第1号ノ規定ニ依ル金額ニ退職当時ノ俸給年額ニ依リ定メタル
別表第5号表ノ率ヲ乗ジタル金額2 前項第2号及第3号ニ規定スル場合ニ於テ扶助料ヲ受クル者ニ扶養遺族 アルトキハ其ノ中2人迄ニ付テハ1人ニ付72,000円ニ調整改定率ヲ乗ジテ得タル額(其ノ額ニ50円未満ノ端数ヲ 生ジタルトキハ之ヲ切捨テ50円以上100円未満ノ端数ヲ生ジタルトキハ之ヲ100円トス)其ノ他ノ扶養遺族ニ付テ ハ1人ニ付36,000円ニ調整改定率ヲ乗ジテ得タル額(其ノ額ニ50円未満ノ端数ヲ生ジタルトキハ之ヲ切捨テ50円 以上100円未満ノ端数ヲ生ジタルトキハ之ヲ100円トス)ヲ扶助料ノ年額ニ加給ス《改正》平13法016
《改正》平19法0133 前項ノ扶養遺族トハ扶助料ヲ受クル者ニ依リ生計ヲ維持シ又ハ之ト生計ヲ共ニスル公務員ノ祖父母,父母,未成年ノ子又ハ重度障害ノ状態ニシテ生活資料ヲ得ルノ途ナキ成年ノ子ニシテ扶助料ヲ受クベキ要件ヲ具フルモノヲ謂フ
――――――
シチュー砲 ◆STEW.ibjrE in 軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
軍人さんが亡くなった場合,遺族に恩給が出ますが,
それは,亡くなってすぐに出るものなんでしょうか?
戦争中に恩給をもらって生活するということはあったのでしょうか?
【回答】
該当者の死亡確定後,1942年までは地方長官,1942年11月以降は市町村長への申請によって,
・在職三年以上ならば,遺族に扶助料として,公務中の死亡なら普通恩給の10分の8,
・それ以外なら10分の5
が支給されますが,その在職年限に達せざるに死亡した場合は,一時扶助料となります.
その金額は一時恩給と同額,即ち,死亡当時の棒給月額に在職数を乗じた額が一度だけ支給されます.
このほか,徴兵保険というのがあり,死亡の場合は保険会社から掛け金が支給されるものもあります.
今の富国生命が,その徴兵保険で大きくなった会社です.
いずれにしても,1942年までは地方長官決裁ですから,申請してもその支給までは暫く掛りますし,恩給だけで生活するのは,半農半漁の自給自足が可能な人なら何とかなるでしょうが,それ以外の人は,家族の為に再婚するか,自分自身が働きに出るかしないといけませんでした.
一時扶助料は文字通り一時金だけですしね.
眠い人◆gQikaJHtf2
【質問】
『在郷軍人会』(藤井忠俊著,岩波書店,2009.11)
読んだ.
田中義一に対する認識とか,そもそも在郷軍人会に対して抱いてた先入観とか,いろいろ見直したくなる本だったが,他にもお勧めの「在郷軍人会」の通史,みたいなもんはないかな?
本書中にも頻出した帝国在郷軍人会30年史,ってのは今でも入手可能なものかしらん?
ちなみにこの本は,岩波っぽいかな,っていうのはたしかに感じたけれども,通史として在郷軍人会を捉えた本を読んだことがなかったので,たいへん勉強になりましたね.
在郷軍人会,歴史の時々にぽこっと浮上するけど,連続体としてみたら,内部でのせめぎ合いが相当あったんだなぁ,ってのが,当たり前と言えば当たり前なんだけど,目からウロコな事実だった.ステレオタイプに毒されすぎてたって思い知らされました.
【回答】
『せめぎあう地域と軍隊 「末端」「周辺」軍都・高田の模索』
,岩波書店 ,河西英通
あたりも在郷軍人会と地域社会の構成,将校団との関わりに触れていて面白い.
というか,戦前の段階で軍を迷惑施設とみる視点があったことや,平時の軍は地域にとって消費者であり,歓迎すべきものだが,戦時になると地域に何の恩恵ももたらさない(部隊が外地に展開すると地域に金を落とさず,むしろ消費者や生産者を減少させる)なんてのは
非常に納得できる.
岩波的な雰囲気は,それなりにあるけどね.
軍事板,2010/10/17(日)
青文字:加筆改修部分
【質問】
「ホタルの墓」を観て疑問に思ったのですが,海軍高官の子息・子女が遺族補償もなく,野垂れ死にというシチュエーションはありえたのでしょうか?
13歳や4歳の子どもに,父の名を使って,軍に救援を仰ごうという合理的な判断は難しいかもしれませんが.
【回答】
それこそまさに「創作だから」としか.
一般的にはありえんと思います.
海軍大佐というのは,国家の海洋戦略の屋台骨となる様な艦船の艦長だったり,将の直下でとある部署や機関を統括する重要人物だったりするのが普通です.
多くの部下を擁し,経験豊富で,相応の実力を示さないとなれません.
中央に勤務していても,将軍達から一目置かれる地位として扱われますし,相応の実力と働きぶりを求められます.
いわば現場の超一流か中央の一流で,佐官の最上級であり,すぐ上は将軍閣下であり,一般の兵にとっては雲の上の存在です.
自宅には多くの部下や関係者が通ってたのが普通ですし,軍組織のみならず地元でも立派な名士として扱われる程の立場です.
というか,そこらの地元の名士では頭が上がりません.
wikipediaには,原作との相違も含めて詳しく書かれています.
軍事板
青文字:加筆改修部分
▼ また,旧海軍士官が戦死した場合,恩給や海軍義済会があり,残された遺族には,保護があたえらる.
大佐級の人間が戦死した場合でも.同期の人間,または,出入りしてた後輩などにより保護される,
ちなみに,宮崎駿も同作品について,
「軍は遺族に対する補助がしっかりしていたから,ありえない話だ」
と文句を言っている.
さらには,母親が貯金してた金額が7000円だったそうだが,戦時中の7000円って,子供が簡単に使いきれる金額でない.
7000円あれば当時は家が建つ時代.
月給換算で,大将でさえ156円でしかない.
軍事板,2008/08/26(火)
青文字:加筆改修部分
▲
▼ 【余談】
児童書のコーナーに実写映画となった「火垂るの墓」の絵本があったので,後世に残すために買ってきましたよ.
巻末に映画を見た小学生の感想文が載っています.
食べ物がなくて死ぬのが可哀想だったとか書かれています.
この子達に沖縄戦の民間人,特に若い母親と赤ん坊の運命なんか聞かせたら卒倒するでしょうね.
火垂るの墓は確かに優れた体験文学ですが,あの程度のもので戦争を理解した気になってもらっては困ります.
ZII ◆RPvijAGt7k in 軍事板
青文字:加筆改修部分
▲
【質問】
戦前昭和期の軍人恩給って大体いくらですか?
【回答】
△普通恩給
… 一定年限に達して退職した軍人と准軍人に賜る一般的な恩給。
准士官以上は在職13年以上14年未満に対し、退職前棒給年額の150分の50に相当する金額。
14年以上は、1年増す毎に退職前の棒給年額の150分の1に相当する金額を加算。
下士官以下は、在職12年以上13年未満に対し、退職前棒給年額の150分の50に相当する金額。
13年以上は、1年増す毎に下士官は7円、兵は6円を加算。
△増加恩給
… 公務中に傷病を受け、不具廃疾となった場合に軍人、准軍人に加算。
なお、准軍人とは、陸軍の見習士官、海軍の海軍候補生など。
△傷病年金
… 公務中に永続性の傷痍、疾病罹患により、不具廃疾に至らなくとも、これが原因で3年以内に退職
した者、または下士官以下退職後3年以内にこれがため一種以上の兵役を免ぜられた時に支給。
△傷病賜金
… 下士官以下公傷、病にて傷病年金を受ける程度でなくても、これが為退職、または退職後1年以内に
これがため一種以上の兵役を免ぜられた時に支給。
支給額は最大660円、最低120円で16項目に区分される。
△一時恩給
… 在職准士官以下3年、下士官2年以上で恩給を受ける年限に達せずして退職した者に支給され、金額
は退職当時の棒給月額に在職数を乗じた額。
△扶助料
… 戦闘または戦闘に準ずべき公務で死亡した者の遺族には、普通恩給の金額、普通公務にて死亡した者
の遺族には、普通恩給の10分の8、その他は10分の5を支給。
△一時扶助料
… 在職3年以上で恩給を受ける年限に達せずして在職中死亡した者の遺族に支給され、支給基準は一時恩給と同様。
ちなみに1943年当時の士官、准士官の年棒は以下の通り。
大将:6600円、中将:5800円、少将5000円
大佐:4150円、中佐:3220円、少佐:2330円
大尉:一等(海軍は一級以下同じ):1900円、二等:1650円、三等1470円
陸軍軍楽大尉:一等:2150円、二等:1900円、三等:1750円
海軍特務大尉:一級:2070円、二級:1191円
中尉:一等(海軍は一級以下同じ)1130円、二等:1020円
陸軍軍楽中尉:一等:1540円、二等:1390円
海軍特務中尉:一級:1740円、二級:1630円
少尉:850円
陸軍軍楽少尉:一等:1240円、二等:1130円
海軍特務少尉:一級:1470円、二級:1368円
海軍各科少尉候補生:670
准士官(陸軍):一等960円、二等:900円
准士官(海軍):一級:1220円、二級:1150円、三級:1043円、四級:930円
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板
蛇足.
恩給法における公務扶助料は,軍人等が戦病死した場合に,その軍人等によって生計を維持し,または生計をともにしていた配偶者を先順位者として,続いて未成年の子,父母等の順序で支給されることになっています.
従って支給額は個々によって違います.
その他には金杯と,知事から労いの紙切れ一枚.
シチュー砲 ◆STEW.ibjrE in 軍事板
【質問】
「戦傷病者戦没者遺族等援護法」って何?
【回答】
軍人を含めて同法による弔慰金の支給対象となった戦没者等について
公務扶助料・遺族年金等の戦没者等の公務死を支給理由とする年金給付を受ける者がない場合
(単純に言えば,戦没者の妻,父母(祖父母),未成年の子がない場合),
その他の戦没者等の三親等以内の親族に給付された,「戦没者等の遺族に対する特別弔慰金」.
ちなみに支給時期と額は,
S40 3万円(通称・特別弔慰金い号)
S50 20万円(通称・第2回特別弔慰金)
S60 30万円(通称・第4回特別弔慰金)
H7 40万円(通称・第6回特別弔慰金)
H17 40万円(通称・第8回特別弔慰金)
となっており,このほか各回の支給時点で年金権者がいたために対象とならなかったが,その後に死亡等で年金権者が失権した戦没者の遺族との均衡をはかるため,
S47 3万円(通称・特別弔慰金ろ号)
S54 12万円(通称・第3回特別弔慰金)
H1 18万円(通称・第5回特別弔慰金)
H11 24万円(通称・第7回特別弔慰金)
の特例給付がある.
本則の特別弔慰金(い号及び偶数回)は10年償還の国債をもって給付される.
特例給付のほうは,ろ号特弔は10年償還の国債,奇数回のは前回の本則の特弔の償還期限とあわせた年数(6年償還)の国債をもって給付される.
軍事板
【質問】
日本での傷痍軍人対策は?
【回答】
さて,パリには廃兵院と言う施設があります.
近代国家を築き始めた日本でも,戦闘や公務による傷害を負った兵士を収容する施設を,どうしていくかが課題となっていました.
ただ,日清戦争までは,そう大規模な負傷兵が出なかったので,その問題は先送りされていました.
しかし,日露戦争により多数の兵士が動員され,一方で,多数の兵士が戦闘で傷つき,病気になったことから,彼等の療養施設をどうするかがクローズアップされていきました.
1906年4月,廃兵院法と言う法律が公布され,廃兵院と言う施設が設立されました.
廃兵院は陸軍省に属し,日露戦争にて四肢の欠損や脊椎損傷等の重傷を負い,社会復帰の出来ない者,所謂,廃兵の内,家族など身寄りのない者を収容する施設として誕生します.
この廃兵院は全国に3箇所が設置される予定でしたが,入院希望者数の見通しが立たず,当分の間,東京に開設されることになりました.
正式名称を「東京廃兵院」と称し,定員は200名でしたが,この定員は開院当初から1941年の傷痍軍人箱根療養所開設まで一度もありませんでした.
と言うのも,廃兵院と言う施設の名称が,当時一般に蔑視を受けていた貧困者や障碍者の収容施設と同一視されていたこと,また,廃兵院が陸軍省の配下にあった為,軍の規律をそのまま持ち込んだ窮屈な施設だと思われたことが挙げられます.
以後,入院者は50〜100名の間で推移していきました.
東京廃兵院は,当初東京予備病院渋谷分院(現在,広尾にある日赤医療センターの前身)内に置かれていましたが,1906年12月に東京府北多摩郡巣鴨町6丁目(現在の東京都豊島区巣鴨)にあった宍戸子爵別邸約19,000坪の土地が陸軍省に寄付され,1908年6月にこの地に移転しました.
廃兵院では,衣食住全てが国家によって保障されると言う安定した生活を送り,有り余る時間は書画,彫刻,裁縫,刺繍などの趣味に充てられたり,師範学校に通って教員資格を取得したり,靖国神社の遊就館の解説員になった者も出て来ました.
その後,趣味活動は,彼等の社会的自立を促す職業訓練に変化していき,以後,この方針は日中戦争から太平洋戦争に掛けての軍人援護事業にも活かされる様になります.
また,東京廃兵院の敷地内には,後に財団法人同潤啓成社が設立されています.
この同潤啓成社は,同潤会アパートの建築で有名な同潤会の一部門であり,関東大震災に於て,身体に障碍を負った人々に義肢の製造供給を行うと共に,職業訓練などの事業も行っていました.
同潤啓成社と東京廃兵院は,連携して障碍者に対する職業訓練教育を行っていた可能性も指摘されています.
何と言っても,同じ敷地内にあった訳ですから….
因みに,乃木希典は,学習院院長として皇族華族の子弟教育に余生を捧げた傍ら,各地に建立された忠魂碑の揮毫を生き甲斐にしていました.
もう一つの生き甲斐…と言うか罪滅ぼし的な何かかも知れませんが…が,廃兵院慰問で,夫妻で度々廃兵院を訪れて兵士達を慰めたり,揮毫の謝礼として各地から送られた物品や食物を廃兵院に送り届けたりしています.
後に乃木が殉死した後の葬列では,多くの廃兵が涙を流しつつ,その葬列を見送ったと伝えられています.
1923年に廃兵院法が改正され,所管が陸軍省から内務省に移されることになりました.
これは,軍事救護法による傷病兵及びその家族や遺族達の保護事業を内務省で行っていた為,行政の効率化という観点からも内務省が所管するのが望ましいとされた為でした.
また,昭和に入ると「廃兵」と言う言葉は,「名誉の負傷をした兵士」に対して好ましくないと言う理由で,「傷兵」と言う呼び方に代わり,1931年から公式用語として「傷痍軍人」と言う言葉が採用されました.
1934年9月には廃兵院法は傷兵院法と名称変更されますが,これ以後は貧困者救済の趣旨から,重症者にして収容し,保護する必要のある者を入院させると言う事になり,従来,傷痍軍人で身寄りのない者が誰でも入れる施設だったのを限定してしまいました.
この頃,既に廃兵院の建物は老朽化しており,かつ,巣鴨の地は都市化が進み,入院者が静かに余生を送る環境ではなくなってきました.
其所で,施設を移転することになり,移転先候補地として,相模湾を臨む風光明媚の地であり,温暖で閑静な環境,更に箱根湯本温泉が至近で,引き湯による温泉治療も可能であることから,神奈川県足柄下郡大窪村大字風祭字宮脇(現在の小田原市風祭)が選定され,1934年6月に移転決定,1935年7月から本館と療舎の工事開始,1936年3月に一部を除き工事が竣工し,6月から業務が開始されました.
9月には残りの御影奉安所(奉安殿),娯楽室,講堂が完成して全部の施設が完成します.
敷地面積は約25,000坪で,3つの谷を含む南向きの急傾斜地であり,元々は蜜柑栽培が行われていました.
その斜面を雛壇状に削平して平坦地を造成し,建物を建築しており,建物面積は約1,800坪,延べ床面積約2,200坪,棟数33棟を数えています.
中央には療舎6棟と本館・講堂・娯楽室などの主要建築物が建ち並び,西側には伝染病患者収容施設としての特別療舎1棟,東側には職員官舎があり,丘陵によって施設の間を区画する様に工夫されていました.
療舎の配置は地形の勾配を利用して階段状に配置し,2階部分にも外部から車椅子の儘,直接出入りできるようになっています.
現在この地は独立行政法人国立病院機構箱根病院となりましたが,長いこと旧本館以下4棟の建物があり,旧本館の裏側にあった旧御影奉安所も残っていました.
この旧御影奉安所は,銅板葺き屋根とコンクリート壁の頑丈な建物で,神社の社殿建築に似ています.
正面には観音開きの鉄製扉があり,その扉は黒に塗られていました.
敗戦後は使用されなくなりましたが,暫くは劇薬保管庫となっていました.
温泉は,箱根湯本の旅館清光園から引いており,湯本から風祭まで遠距離の引き湯が行われていました.
ただ,1956年9月以降は経費節減の為沸かし湯になってしまい,引き湯は中止されています.
因みに,沸かし湯は温泉に比べると身体の芯まで温まる事は無かったそうです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/06/20 21:32
1937年7月7日に盧溝橋事件が勃発し,日中全面戦争となると,多くの戦死者と負傷者を生み出す事になります.
この為,政府は軍人援護事業の一層の強化を図ることになり,11月1日,先ず内務省社会局内に臨時軍事援護部を設置しました.
それでも追いつかず,1938年1月には一層の事業強化を行うことになり,内務省から厚生省が分離独立することになります.
そして4月にはその外局として傷兵保護院が設置される事になり,初代総裁に本庄繁大将が就任しました.
傷兵保護院の基本業務は傷痍軍人の援護ですが,それ以外の軍人遺家族と帰郷軍人の扶助は厚生省社会局臨時軍事援護部に残されています.
ただ,こうした傷痍軍人援護と軍人遺家族・帰郷軍人援護とが分かれるのは非効率な為,1939年7月,傷兵保護院と臨時軍事援護部を統合して,軍事保護院が創設され,一元化されることになりました.
軍事保護院は,温泉療養所と結核療養所を傷兵保護院から引継ぎ,その整備・拡充に努めました.
また,更に3箇所の特殊療養所が新設されました.
1つは精神疾患の為に設けられた武蔵療養所で,従来はこうした精神疾患は精神病院への収容となっていました.
しかし,精神病院の収容は,現在もそうですが根強い差別と偏見に晒されたので,傷痍軍人専門の療養所が必要とされた訳です.
2つ目は,同様な理由で,頭部戦傷者の為に設けられた下総療養所で,最後が箱根療養所です.
傷痍軍人箱根療養所は,1940年6月,傷兵院内に設けられました.
この療養所は,当時戦傷の中でも最も重症とされた,重度脊椎損傷患者の治療を専門としていました.
但し,傷兵院は存続したので,書類上は併設として,施設をそのまま箱根療養所に移行すると言う形を採っています.
箱根療養所が傷兵院に併設されたのは,傷兵院が当時ほぼ遊休化していた事と,陸軍の重症患者治療の最終的施設だった臨時東京第一陸軍病院と陸軍軍医学校からの患者移送の便を考え,なるべく脊椎損傷患者の長距離移送を避ける配慮が為された事が挙げられます.
因みに1941年当時,傷兵院以来の入所者で残留していたのは,日露戦争の傷兵が3名,もう1人は1902年1月に起きた八甲田山事件最後の生き残りである小原忠三郎の4名で,それ以外でも2〜3名に過ぎませんでした.
1944年後半にはもう少し増えましたが,それでも在所者は50名程度でした.
箱根療養所の施設は基本的に傷兵院と同一ですが,和室にもベッドが入っています.
独身者は3〜4名に1名の割合で介護人が付き,家族との同居も可能でした.
傷兵院は家族の同居は黙認でしたが,療養所では精神的療養と称して家族の同居を公認していました.
この結果,子供もこの施設に起居することとなり,1942年4月から幼稚舎が設けられました.
此処での療養は,傷病に対する治療が一応終了した患者に対して,車椅子での乗り降りなど身の回りの最低限の用事を時分で処理することが出来る様,訓練することが目的で,現在のリハビリテーションそのものでした.
こうした訓練を補助する目的で,温泉療法,按摩や電気マッサージなど当時最高水準の医療を受けることが出来たのでした.
その他,大日本傷痍軍人会制定の「傷痍軍人五訓」の実践(療養日記指導)や,趣味・娯楽の奨励もありました.
具体的には,ラジオ・読書・撞球(ビリヤード)・囲碁・将棋・慰問演芸・見学旅行・竹彫刻があった他,外部講師を招いて創作手芸・生花・習字・茶道・和洋裁の指導なども行われました.
慰問演芸については周辺地域の園児,児童,生徒,婦人会,青年団,女子青年団の素人演芸が主でした.
また,地元の行事や学校などへ「白衣の勇士」として招かれることが多かったりします.
因みに,戦後は傷痍軍人恩給支給がGHQによって停止されましたが,その時,生活費を捻出する為に竹彫刻の技術を用いて竹工芸品を製作販売して,生活費の一部に充てたりするのにも役立ちました.
1942年6月頃の入所者の記録がありますが,それによると入所者は44名,16〜17名が妻帯者で,その内入所後に結婚したのが3名で,入所者の子供が12名いました.
入所者の為に月に1度精神講話が行われ,月2回県立小田原中学校教師による歴史講話が開かれていました.
ただ,外に向かって開かれた部分はほんの一部で,実際の彼等の心境がどうだったのか,窺い知ることは出来ません.
療養所は,確かに療養やリハビリテーションの場でしたが,もう1つの隠された側面は,重症患者の悲惨な姿を一般国民の目から隠すことで,戦意昂揚の妨げにならない様にすることでした.
即ち,「隔離」であり,実際,全国から脊椎損傷患者を箱根に集めており,そうした側面があったのは隠せない事実でもありました.
戦争が進むにつれて,前にも触れましたが,小田原地方は本土決戦の第一線地域として指定されています.
1945年春以降,箱根療養所一帯の丘陵地帯には第12方面軍第53軍に属する陸軍部隊が陣地構築に励んでいました.
療養所の向い側にある石垣山には高射砲陣地や横穴陣地が建築中でしたし,尾根続きの長興山には小田原海岸を砲撃する重砲陣地が建設されていました.
療養所自体も,本土決戦準備態勢の一環として,その病院としての機能を活用される予定で,1945年4月20日付で陸軍大臣から「陸密第一八九〇号 傷痍軍人療養所ノ軍衛生勤務幇助ニ関スル通達」が出され,箱根療養所は,武蔵療養所や下総療養所と共に東部軍管区司令官下に配属され,同軍管区内の陸軍病院に属して軍の衛生勤務を援助することが定められていました.
もし,本土決戦が発令された場合は,傷痍軍人は内陸方面に疎開させられ,療養所職員は野戦病院に編入された筈と言われています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/06/21 21:21
【質問】
戦後,傷痍軍人はどうなったのか?
【回答】
さて,敗戦後,「白衣の勇士」と崇められた彼等入院患者は一転して苦しい生活に置かれています.
敗戦に伴い,陸海軍病院や傷痍軍人療養所は,占領軍の進駐と共にその監督下に置かれました.
政府は執拗にその返還を占領軍に求め,その結果,占領軍より,所管を一般市民の医療に責任を有する厚生省に移管すること,それらの施設に於て行う入院医療は傷痍軍人及びその家族に限定しないことなどを条件とする覚書を提示されました.
要は,軍人専用病院はまかり成らんと言う事です.
政府は,その覚書を受けて,これらの146箇所に上る陸海軍病院や53箇所の傷痍軍人療養所を国立病院または国立療養所として国民一般に開放すると共に,引き続き傷病兵の治療と引揚げ患者の収容に充当することにしました.
現在はその大半が独立行政法人国立病院機構の配下にあります.
傷痍軍人箱根療養所は,1945年12月1日付で軍事保護院の管轄下から厚生省外局の医療局に移管され,国立箱根療養所となり,1946年5月13日には傷兵院法廃止に伴い,傷兵院が閉鎖され,所管財産は国立箱根療養所が引き継ぎました.
但し,閉鎖されたとか移管されたと言っても,元傷痍軍人達はそのまま住むことが出来ました.
とは言え,彼等の生活は過酷なものでした.
1945年11月24日,連合国軍最高司令官総司令部,所謂GHQは,軍人などに対する恩給及び賜金の支払停止命令を出し,それに基づいて政府は1946年2月1日,勅令として軍人恩給停止を公布しました.
大半の元軍人にとっては,代替の生活手段を見つけられるので停止した所で何とも無かったのですが,脊椎損傷の様な重度障害を負った元傷痍軍人達に取ってみれば,それは正に青天の霹靂とも言うものでした.
と言うのも,国立療養所の元傷痍軍人は,戦傷中最も重度の脊椎損傷患者と言う事で,恩給法で手厚い経済的保障の増加恩給を受けていたからです.
増加恩給は,戦傷の程度に依って特別項症から第七項症の8段階に区分されており,療養所に入所していた元傷痍軍人は殆どが特別項症に該当する認定患者でした.
つまり,他に生計の宛のない彼等にとっては,この増加恩給こそ唯一の収入源であり,この停止命令は,最大の経済的打撃を受けた訳です.
また,GHQの療養所への対応では,元傷痍軍人達を療養所から退所させ,一般患者の入所を促進する様にとか,付き添い家族の退所要求など,理不尽な要求が多数出されました.
これに療養所の職員は身体を張って抗議すると共に,厚生省との交渉で元傷痍軍人の入所料負担軽減を図ったり,小田原市に対し生活保護を申請し,その適用を実現させたりしました.
更に,元傷痍軍人の本籍地の市町村へ費用の一部負担を依頼するなど,本人負担の軽減に様々な努力をしました.
とは言え,敗戦後の食糧難やインフレによる生活苦など当時の社会全般の状況は,元傷痍軍人にも否応なく迫ってきました.
国立箱根療養所には1953年の段階で,元傷痍軍人69名,付き添い家族47名,合計116名が住んでおり,生きて行く為の現金収入の方法として考え出されたのが,1941年頃からリハビリと趣味の両方を兼ねたものとして導入された竹細工でした.
これは指導の先生が三越デパートと交渉してくれて委託販売を実現させたり,付き添い家族が箱根や熱海などの周辺温泉地に持って行って現地の土産店に置いて貰ったり,噂を聞きつけて遠く四国から商人が買付に来たりなどして貴重な現金収入となりました.
更に地域の支援もありました.
例えば,脊椎損傷患者は寝たきりの為,おむつが必要だったのですが,これが知れ渡ると県下の各地区婦人会から約3,000枚に達する大量の木綿衣料の寄付があったりします.
当時は貧乏だし,物不足の時代です.
それでも,困った人を助ける為に,乏しい生活物資の中から貴重な木綿の布地を供出してくれた訳です.
他にも入所者の家族や郷里から,食糧の寄付や送金があったと言います.
こうした困難の時代は数年間続きました.
1951年5月1日号の『毎日グラフ』には見開き2頁に8枚の写真と簡単な解説が掲載されています.
タイトルは「けれども生きてゆく」となっており,そこにはこの様な記事が書かれています.
――――――
此処には重度脊椎損傷患者約90名が収容されている.
その内73名は戦争犠牲者.残りの17名は交通事故や,工場での事故による人達である.
(中略)
此処の患者の殆どは生活保護法により,平均6,000円の入院費で,衣,食,治療費等を賄われている.
患者の中の50名は家族持ちだが,一家の大黒柱が廃木となって,その家族達も1ヶ月1,200円の保護額を受けているが,それで充分である訳ではない.
手先仕事の出来る三分の二の患者は,家族と一緒に編物や,竹細工の内職で,家計の不足を補っている.
一生,一人歩きの出来ない人達のひたむきな仕事を見ていると,ふっと涙がこみ上げてくる.
――――――
講和条約を間近に控えたこの頃から,戦争犠牲者の救済問題が表面化し,1951年11月,告解に於て「戦傷病者の援護に関する決議」及び「戦没者遺族援護に関する決議」が行われました.
1952年4月になると「戦傷病者戦没者遺族等援護法」が成立して,軍人恩給の復活に一歩を踏み出します.
1952年4月には講和条約が発効し,日本は再独立を果たします.
これによりGHQが廃止され,恩給停止を決めた勅令が廃止されることになりました.
そして,総理府内に設置された恩給法特例審議会の半年に渡る審議を経て,1953年8月に軍人恩給は復活しました.
最後に,戦後,彼等の戦争観や,再軍備の動きについてはどうだったか.
1955年の療養所内の機関誌に綴られた記事から見てみますとこうあります.
一人は太平洋戦争についてこう綴っています.
――――――
中味のない○○精神が幅を利かして,軍事中心の国家主義に走り,遂に八紘一宇とかの大理想?を掲げて,全世界相手の戦争,そして敗戦にまで猪突する羽目になった
―――――――
また,別の一人は同じ戦争をこう綴っています.
――――――
当時の軍は,天皇の御心に反し,皇軍の本質から遠く遊離していた.
大東亜戦争の真の目的『アジア人のアジア』たらしめんとしての戦いだった.
――――――
戦争に対しては,片や否定的,片や肯定的だったりするのですが,何れにしても皇軍のあり方を痛烈に批判する点では共通しています.
再軍備に関しては,こう綴っています.
――――――
もう二度と再び戦争はして貰いたくはありません.
しかし軍隊のない独立国は存在しません.
――――――
戦争に対する拒否反応と共に,されど現実は…と言う苦悩が見て取れる様な気がします.
因みに,今から4年前の2005年,箱根療養所の元傷痍軍人はただ1名だけとなっていました.
戦傷後,「3年保てば…」,と言われていた方ですが,豈図らんや,頑健な体質だったのが幸いしたようです.
今はもう,お亡くなりになったかも知れませんが….
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/06/22 22:48
【質問】
旧日本軍の将官クラスと下士官クラスの恩給と遺族年金って,どのくらい差があったのですか?
【回答】
恩給は,在職年数とその間の俸給額によって支給額が決まる,現在の厚生年金に近いシステムになっています.
ですから,階級によらず個人の経歴によって額は違います,というのが建前ですが,今日では軍人恩給については,在職年数と俸給額から算出される支給額が最低保障額を下回るために,最低保障額までゲタを履かせて支給されている例が大半のようです.
この最低保障額は階級によって決められているようで,最新のデータが手元にないのですが,2004年度末では,大佐が年額300万程度,兵が60万程度のようです.
将官はみんな死んでしまいました.
軍事板
【質問】
3年ぐらい前の国会答弁の一節で,
「現在,軍人恩給を受け取っている生存者のうち最高階級は大佐である」
という話が出たそうですが,この話は本当ですか?
【回答】
事実.
国会会議録の該当部分は以下の通り.
平成17年3月16日 参議院予算委員会
○又市征治君(社民党)
(前略)
そこで,まず実務的な問題で事務方にお伺いしますが,一つは,拉致被害者に対する給付金は月額幾らか.
二つ目に,残留孤児は一回限りの支度金になっていますけれども,これは幾らになっているのか.
三つ目に,軍人恩給の最高の階級と最低の階級のこの支給額はどういうことになっているのか.
この三つをお伺いします.
[政府参考人の答弁2人分 略]
○政府参考人(総務省人事・恩給局長)
恩給の関係につきまして,私の方から御報告いたします.
平成十六年三月末現在で軍人の,旧軍人の普通恩給で,一番高いグレードで現存されておる大佐の方でございます.
これが,平均の年額で二百八十五万余ということでございます.一番低い平均年額といいますと,当然,兵になるわけでございますが,兵の場合は五十九万三千円余という形の数字になっております.
なお,この大佐が「誰か」ということは公開されていない.
軍事板
【質問】
徴兵期間を終了し,戦地に招集されることなく定年を迎えた兵卒には,何らかの退職金なり恩給なりが支払われたのでしょうか?
【回答】
在職期間が12年以上13年未満ならば,普通恩給として,退職前の俸給年額の150分の50に相当する金額を,
13年以上は1年増す毎に,兵は6円を加えた金額が支給されます.
それ以外は兵卒には恩給はありません.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
うちのじいさんは伍長で兵役期間に満たず軍人恩給がもらえなかったらしいですが,こういうことはありうるんですか?
【回答】
戦争末期なら昇進に加速度がついていたのでありうる.「ポツダム伍長」の可能性もあるし.
軍恩欠格者連盟(内部対立で分裂を繰り返したので類似団体多数)の会長ら幹部も伍長,上等兵出身だったと思う.
普通恩給の場合;
軍人恩給の支給条件に一定の年数以上勤務していた場合に支給される(兵・下士官の場合12年以上).
一時恩給の場合;
引き続き一定年数以上(軍人軍属実在職年3年以上)勤務し,最短恩給年限に達しないで退職した場合に一時金として支給される.
恩給の受給資格を得るための勤務年限には,実在職年数だけじゃなくて戦地勤務なんかの加算年数もあるから注意が必要だね.
(戦地だと実在職1月に加算がついて3月に換算,とかよくある)
だから実際に12年お勤めする必要はないんだが,足りないってことはよくある.
解散するんだかしたんだか忘れたが,独法の「平和記念事業特別基金」で恩欠者に銀杯配る事業もやってるくらい,恩給もらえない例はいくらでもある.
参考:宮城県のHP
http://www.pref.miyagi.jp/syahuku/engo/onnkyuu.htm
【質問】
第2次大戦中・後,日本では本当は戦死していない将兵の家族に対し,その将兵の戦死通知が届けられてしまう事態が何件かあったと聞きます.
それに関して質問なのですが,誰がどう間違えて,どの様な手違いで死亡確認していない人の戦死通知を出してしまう事になったのでしょうか?
確実に死亡したと確認できない人はずっと行方不明扱いにままで,行方不明者が死亡認定されるには何年も待たなければならないはずだったと思いましたが.
【回答】
日本はアメリカ側から通知されない限り,戦陣訓の「生きて虜囚の辱めを受けず」からも分かるとおり,原則として捕虜になることは認められません.
ですから玉砕した島嶼は言うに及ばず,撃沈された船の乗員などで行方不明になった,あるいは捕虜になった将兵は,戦死認定がなされます.
また,戦陣訓から分かるとおり,捕虜となった日本人もまた捕虜として生きていることを日本の家族に知られたくありませんでした.
そのため偽名を使うことも多く,多くの人が戦後,復員船に乗って帰っています.
ですから,何件ではなく数千件の単位でそのような誤った戦死通知が届いています.
おそらくあなたの親族の方に聞けばそのような話があったと聞くことができるのではないでしょうか?
【質問】
戦死していたと思われていた兵士の生存確認された場合,その間に支給された遺族年金や弔慰金などは返還しなければならないのでしょうか?
【回答】
本来は支給される理由のないものですから,不当利得として返還するのが「原則」です.
しかし,恩給は詳しく知りませんが,援護法(及び特別弔慰金支給法)による遺族年金・弔慰金・特別弔慰金については,遅滞なく届け出る限りにおいて,返還を免除することができる規定があります.
軍事板
【質問】
太平洋戦争時,米軍が日本兵の頭蓋骨をお土産にしたそうですが,祟りや呪いについてはどう考えていたんでしょう?
日本兵は米国兵の頭蓋骨をお土産にしたりはしなかったんですか?
【回答】
テキサスにあるサープラスショップのオヤジの自慢は,ジイチャンが大平洋戦争のおみやげに買ってきた(広島かどうか不明)日本兵のドクロ.店の看板になってる.
呪いなど,考えたこともないだろう.
1944.5.24付のLife誌には,「頭蓋骨を眺めながら前線のボーイフレンドに手紙を書く若い女性」と言うキャプションの付いた写真が掲載されたり(送り主は,海軍大尉,受取人はアリゾナ州に住むナタリーという20歳の女性だったそうな),ウォルター上院議員が大統領に贈った贈り物の中に,日本兵の脚の骨で作ったペーパーナイフを送ったという記事が新聞に掲載されたりしましたが,前者には非難の投書が殺到したそうです.
ちなみに,南方戦線から帰還する際,Hawaiiの税関では,人骨を持っていないかどうかのチェックを行なっています.
日本兵の場合は,お土産というか,食糧ですな.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2他)
【質問】
日本軍内部の「業界用語」について教えられたし.
【回答】
司馬遼太郎著『歴史と視点』(新潮文庫,1992)によれば,以下のようなものがあった.
突撃一番:避妊用のゴム製品
柄付螺廻し(エツキラマワシ):ドライバー(ねじ回し).
物干場(ブッカンバ):洗濯物を乾かす場所.
噴射旋盤:アクセラレータ(アクセルのことな.)
【質問】
太平洋戦争末期,高学歴の学徒動員兵を,低学歴の馬鹿な古参兵が苛めることって日常茶飯事だったんですか?
【回答】
末期でなくても,新兵は古参兵にいじめられた.
まずもって旧軍では先に入隊した奴が偉い(というか偉そうにできる)という空気があった.
なので高学歴をネタにイビる奴が居たとしても不思議はないが,それが日常茶飯事かというと結局先任者の人格とその他人間関係に影響されるので,そうだとは言い切れない.
てか,学歴なんぞ軍隊というか,多くの兵隊にはなんの役にも飾りにもならん.
「頭のよさ」を何らかの形で役立てるような才覚のある奴なら,同僚にも上官にもそこそこ評価されたりすることはあるが.
それがイビりかどうかわからないが,
「学歴なんぞ軍隊じゃ意味ねえんだよ,シャバの空気と同じに思うな」
ってことを叩き込むのは,何処の軍隊でも必須の初心者洗礼でもあるし
(自分は高学歴だ,だから低学歴の奴と同じに扱うな,という勘違い野郎がいても困る)
運動部,体育会系も年功序列だけかと思いきや,実力主義でもあるし.
また,いわゆる私的制裁というのは,軍の規則に反して勝手に「私的」にやるもので類型化しづらいものとはいえ,それでも総体としては,むしろその逆が実情に近かったといえる.
社会でも底辺にいるような人物は,軍隊でも底辺にいて,そういう人物は初年兵を集めて,ちゃんと論理的な筋道の通った説教をして,かつ制裁を加えるなどという能力はもって無かった.
反面制裁の主役になるような権力者は,極一部の選抜や選任の上等兵であって,軍隊では最も優秀な兵であり,社会でももある程度知的で能力があり,行動力もあって,絶対に底辺にはいなさそうな人物ばかりだったということ.
特に学歴もあり能力もあり,兵の中でも特別扱いされるようなエリートであればあるほど,残虐であったりしたという.
学校でも勉強ができ,周囲から一目置かれるような奴が苛められる例というのは少ないわけで,勉強もできず何やらしても駄目な人物こそ最も良くいじめられるパターン.
それと同様に,軍隊にいても目をつけられて,集中的に制裁されるのは往々にして後者.
低学歴が高学歴を狙っていじめたと通説で言われるのは,おそらく
「高学歴で優秀であればそんな野蛮な事はしない」
という学歴主義的な固定観念と,制裁される側として,恨み言を文章にして発表したりできるのは,勉強のできる学歴のある人物なわけで,そればかり目に付きやすいというのが影響していると思われる.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
旧日本軍の場合,人種差別反対を掲げてアジア開放を謳っていたこともあり,軍隊内部でも身分差別はなく,武家出身者も非差別部落出身者も区別することなく,同じ部隊に配属され
「武士もエタもここでは同じだ!同じ戦友だ!」
と教えていたと思っていたのですが,これは間違いなのでしょうか?
それとも本当なのでしょうか?
他板でこのことを主張すると,左翼な人達からバカ呼ばわりされました・・・
【回答】
例外はあるかもしれないが,おおむね平等に扱われる.
というのも,下手に差別したり陰湿な嫌がらせしたりすると,戦闘中に後ろから弾が飛んでくるから.
朝鮮出身者も,正規軍人であれば平等に扱われたようだ.
(ただ,反乱の可能性があるとして,労働力として軍属で連れて行った朝鮮人労働者をひとまとめにして隔離した事例はある)
「身分差別など,星の数とメシの数にくらべたら,ずっと小さかった」
とするのが正しい言い方か.
これらは軍隊という組織の性格に起因することであって
「人種差別反対を掲げてアジア解放を謳っていた」
ことに理由を持ってくるのは間違いだと思う.
軍事板
▼ 以下は台湾出身兵の証言.
これも「日本軍に人種差別はなかった」というニュアンスである.
――――――
とにかく軍隊の中では嫌な思い出は一つとしてなかった.
台湾出身だからといじめを受けたことも,嫌がらせを受けたこともない.
逆に中隊長から他の人より可愛がられた記憶が強い.
――――――李登輝 in 『SAPIO』 2005/8/24-9/27号,p.8
▲
▼ ただし,被差別部落の旧軍兵士に関して,彼らが部隊内で結束・団結し,私的制裁などに報復したこと,旧軍でも彼らを警戒監視していたことなどは,下記の体験記に載っています.
『モリトシの兵隊物語』(森利著,青村出版社,1988.4)
†さくや† in 「軍事板常見問題 mixi支隊」
青文字:加筆改修部分
▲
※なお,本サイトは軍事関連分野を考察するサイトであってその必要上,上記表現をしているものであり,差別する意図をもって上記表現を用いているのではないことを,あらかじめお断りしておきます.
【質問】
恩賜(おんし)のタバコって何?
【回答】
天皇から配られる記念タバコ.
約8cm四方のケースに入っており,ケースには「御賜」と印刷されている.戦後は「賜」のみ.
タバコは7cmほどで,その一本一本に菊紋が印刷されている.
1934年から,兵士や勲章受章者,皇居を清掃する勤労奉仕団などに配られるようになった.
ただし明治時代の1877年には,西南戦争の傷病兵に対し,皇后らがタバコを支給した事実もある.
戦時中には前線の兵士に配布.
年間1000万本以上が作られ,1944年には製造数2800万本.(占領地インドネシアはタバコの産地でもあるから,そのせいもあるのかも)
戦後も叙勲者,皇室警備や清掃奉仕者,地方訪問の関係者らに,配布.
また,天皇誕生日には宮内庁職員らにタバコ20本と酒1本,おつまみが配られていたが,喫煙率の低下によって「タバコを貰っても嬉しくない」という人が増えたため,,2000年からたばことおつまみの代わりに,菊紋を焼き付けたお菓子に変更された.
ただし接待用としては製造は続いている模様.
なお,
「恩賜の煙草は,喫煙率を拡大させ,日露戦争調達のためのタバコ税収入増加を狙って始められた」
という説もネットには見られるが,上記のような時系列から考えると,その可能性は低いのではないかと.
消印所沢
▼
俺ももらったよ.恩賜のタバコ.
警視庁行った時(捕まったんじゃないよ)に,案内してくれた捜査員からなんだけど.
警視庁内部の売店で売ってるという話もあるよ.
中身はセブンスターで,まだもう一箱あるよ.
自衛隊も災害出動から帰ると,支給されるって聞いた事あるけど・・・・どうなんでしょ?
以前,恩賜のタバコを吸う機会がございましたので,吸った感想を.
ウィキペディアでは「非常に辛口」とありましたが,私の感想は「非常に不思議な味」.同じく吸ったことのある知合いに聞いても同じ感想でした.
(以下,「ソースは2ちゃん(軍事板?)」で,かつ過去ログも調べられなかったので聞き流して頂ければ)
どうやら恩賜のタバコは国内産の葉のみを使用し,賜った方々がある程度保存して吸うことができるようにするために,香料などの混ぜ物は一才入っていないため,そのような味になるのだとのこと.
ぎんなんそう in 「軍事板常見問題 mixi支隊」
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恩賜の煙草
(うそ)
【質問】
旧軍の軍人って「一般的に」もてましたか?
【回答】
時期や所属による.
明治の頃は軍の士官といえば上流で,お見合いなどでも医者や学者のようなステータスがあり,また,日露戦争直後の戦勝ブームに沸いた頃は軍人は大もてしたそうだが,時代が下って大正デモクラシーのころには軍人は白眼視されたそうだ.
「軍人にだけは娘をやるな」
という風潮もあったそうで.
また,軍縮の影響による予算削減で俸給が削られ続け,昭和に入るころには,士官が連隊裏に学生のような安下宿をするのが当たり前のようになり,
「貧乏少尉のヤリクリ中尉のヤットコ大尉で百十四円,嫁ももらえん」
と自嘲されるほどきびしかった.
また,ぶっちゃけ陸軍<海軍で,海軍の第二種軍装が大いに目を引いたのと対照的に,垢抜けない軍装の陸軍将校は野暮天扱いだった.
前に田嶋陽子が何かの番組で
「海軍はジェントルマンだから女にもてる」
と,旧海軍を肯定するような事を言ったのは驚きだった.
海軍も軍装をラフなものに変える話が持ち上がったことがあったが,東郷平八郎が
「この軍服で日本海海戦に勝ったんじゃ」
と断固反対し,そのままになったとのこと.
まさか結婚対策だったとは,先見性凄いな.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
旧軍において,下士官兵は田舎の農家の次男,三男が多かったと聞きましたが,彼らは配属先は往々にして地元とは遠い場所ですよね.特に海軍は.
当時は,地元以外では知り合いも少なそうだし,ましてや軍なんていう閉鎖的な場所にいると,女性と知り合う機会も非常に少ないような気がします.
旧軍の軍人は,
(1)どうやって女性と知り合っていたんですか?(地元の親や親戚の紹介以外で)
(2)ナンパで知り合った娘さんと結婚したつわものもいたんですか?
(3)結婚する時期や相手は,軍の意向に沿った人でないといけなかったんですか?
【回答】
次男,三男というのは,徴兵制導入の初期に,世帯主および長男だと徴兵が免除されたから.
のちに改正され,その制限がなくなったので,次男三男が多いというのは,うそ.
また,旧軍は郷土連隊方式だから,下士官・兵なら「地元とは遠い場所」に配属されるとは限らない.
旧軍の場合も結婚は許可制.
ナンパで知り合った女性なんてな当時は存在しえないが(野合というのはある),まぁそんな女性とは結婚の許可は下りない.
休日に外出して立ち寄ったカフェや茶屋の女給さんと,仲良くなるということはあった.
連隊の衛戍地だと,店が門前市をなす状態も珍しく無い.
後はその人の身元保証をする人が居れば,結婚は可能.
それと,当時の結婚は見合いがほとんどなので,下士官兵でも下手すれば,本人が知らない間に結婚の届けとかが終わっていて,休暇をもらって帰郷したら,そのまま結婚式だったという例もあった.
軍事板,2008/12/20(土)
青文字:加筆改修部分
【質問】
先の大戦では,作戦行動中,死ぬほど眠くなったらどうしたの?
なんかいいクスリとか飲んだんですか?
【回答】
先の大戦において,旧陸軍に限らず,旧海軍の軍人,軍需工場に勤務の作業員,あるいは対空監視員などなどが,「特殊製剤」と称する各種ビタミン剤,覚せい剤(麻薬と区別)を投与されていました.
たとえば,「疲労回復」「集中力」のためには覚醒剤が投与されましたが,これは有名な物に
「ヒロポン」(主剤は塩酸フェニルメチルアミノプロパン)がありました.
名前の由来は飲むと,疲労がポンと消えるというもの.
勤務前1時間に服用することなど,使用回数や限度が定められていましたが,頻度が重なるにつれその副作用に苦しむようになったのでした.
「夜目が効く」効果を狙ったものでは,「み号剤」があります.
これは魚から抽出したビタミンB2を主剤としており,使用前24時間に服用とされていました.
軍事板,2009/07/12(日)
青文字:加筆改修部分
◆◆◆食事関連
【質問】
旧日本軍経験者の手記では,兵隊は軍の給食だけでは物足りず,いつも腹をすかせていたように書いてありました.大戦中のあらゆるものが不足していた時期でなく,大正から昭和初期の平和な時代でも同様に兵は腹をすかせていたようです.
「一膳飯とは情けなや,仏様じゃあるまいし・・・」
みたいな愚痴が書かれてありました.
そこで質問なのですが,平和な時代においても給食が充分な量でなかったのは何故でしょうか?
平時からすでに食糧難だったのか,それとも兵のハングリー精神を養う為にあえて飢えさせていたのか.
単なる食糧難かと思いましたが,農村から徴兵された兵の
「農村にいた時は質はともかくとして,量が不足した事は無く腹一杯食べられた.兵隊になって食料の少なさに驚いた」
みたいな意見もあったのでどうなんだろうと思いました.
【回答】
「軍隊調理法」というテキストがあり,太平洋戦争以前はなら一定以上の食料水準が確保されていたらしい.
それによると米は一人一日六合,一汁一菜が基本とあります.これが維持されていたようです.
一食につき米は二合となり,これは大きめの茶碗一杯半ですから,当時の地方の食事よりは量が多いです.
カロリーの目安として,4400K(海軍)というのもありますし,現代人が普通に生活してたら太るくらいの量はあった筈です.
では何故か?と考えるに・・・
1)世代 現代でも学生くらいの世代はよく食う.
2)仕事 重労働で気も休まるひまがない
3)食事形態 落ちついて消化吸収が好く食える状態ではない.
4)柵の中なので,食い気に走り勝ち
これは心理的なものなのですが,核シェルター等に入れられてしまうと,ひたすら食い気に走る人が多いとか.プロスポーツ選手がキャンプ中は,食事が一番の楽しみと言うのとかに近いかも.
5)調理法が一般家庭と異なる
伝染病を恐れて,圧力釜等を多用する等一般家庭の調理法とは違う.
6)定量ではない
米と麦を半々にして炊くのだが,心情的に米を多くしてしまう.そのため麦が余り,検査の前日廃棄してたと某海軍出身者が書いてました(高橋猛「海軍めしたき物語」,新潮社).
定量から多少の誤差はあったはずです.
7)都会人と地方人との間の価値観の大きな差.
当時の農村は現代に比べ,流通が未発達であったため,おかずの種類が少なかった.
で,ビタミンを所要量摂取するために,大量の米を食べる必要があったわけです.(米には多種類のビタミンが含まれるが,微量なため) で,『一升飯』なんてことばがあったくらい,大量の米を食べてた人たちから見れば,ちょっとくらい茶碗が大きくても,軍隊の食事量は全然物足りないわけで.
もちろん,地方や農家によっても差はあります.
まあ一番大きいのは個人差かも.東北の貧農出身者にとっては,軍の食事は
「味はまあまあだけど,盛はよかったな」
と思えるくらいだった,という話もあります..
【質問】
旧軍においては,前線でも,将校と下士官兵とでは食事の内容は差別されていたんですか?
食い物の恨み,みたいな事件は多発しなかったんですか?
【回答】
陸軍では食事は基本的に将校も下士官も同じものを食う.
もちろん従兵に個人的に調達させたりもするので,全く同じだったとは言わないが.
海軍は将校と下士官兵では,明確に食事に違いがあったそうだ.
そこらへんの恨み節は坂井三郎の著作に出てくる.
(食事の質の差を恨んで士官搭乗員の飯をかっぱらったりしたとか)
戦時中から戦後直後にかけ,食糧などの物資の隠匿をしていたのは,戦場には出ない,もっと上層部の連中.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
脱線気味なこの流れなら聞ける…
グルメ板で聞こうか迷ったのですが…
旧軍の有名な牛飯を家でたまに作るのですが,味が染み易いサイズに葱や牛蒡を切ると,ご飯と混ぜたときにどうしても存在感が小さくなってしまいます.
具体的にいうと,ぐちゃーってなってしまい,見た目もしょぼくなります.
そこで質問なのですが,ご飯と混ぜた時にも,葱や牛蒡の存在感をしっかり残すには何センチ位でどれくらいの時間煮た方が良いのですか?
遠吠えするいぬ in 「軍事板常見問題 mixi支隊」
2009年06月21日 21:58
【回答】
「ミリメシ」に載っていた写真からの目測では,ネギの長さは,太さの1〜1.5倍程度でした.
その他注意する点として,
まず,ご飯は硬めに炊いてますか?
ご飯の水分が多いと,後でベチャッとなりますので,水を減らして硬くすると良いです.
牛の大和煮そのものも,水分を減らすと良いと思います.
あとたぶん,材料を最初から全部入れていませんか?
これだとネギを煮すぎてしまいます.
「ミリメシ」によれば,ネギを入れるのは牛肉と牛蒡を煮たあとの,一番最後です.
たぶん,ネギを煮過ぎずに味を染込ませるのは,無理だと思います.
濃い味が好きなら,さらに水を少なめにすると良いと思います.
あと,元が陸軍の飯なので,牛蒡やネギを煮る時間は,それほど長くないと思いますよ.
最終的に個人の嗜好の問題なので,がんばってみて下さい.
極東の名無し三等兵 in 「軍事板常見問題 mixi支隊」
2009年06月21日 23:22
青文字:加筆改修部分
【質問】
羊羹と日本軍の関わりは?
【回答】
大東亜戦争中,羊羹は民間では贅沢品とされ,あまり流通していなかった.
だが,軍向けには嗜好品として作られていた他,戦後も売られていた「ゴムの皮に包まれ,どこかを噛むとくるりと皮がむけて,一口で食べられる球状の羊羹」が,もともとは航空兵の飛行食として開発されたものであったため,優先的に原材料が回され,全体としてみれば,むしろ羊羹の生産は平時より盛んであった.
【質問】
旧海軍の話なのですが,兵士が自前の食料を基地内に持ち込む事は禁止だったようです.
ある兵士が,外出中にお菓子買ってそれをポケットに入れて持ち込もうとしたら,警衛所の兵に見つかってしかられたとか.
そこで質問なのですが,なぜ私物食料の持ち込みは禁止だったのでしょうか?
なまものなら食中毒予防かもしれないですが,保存の利くものもいけなかったみたいです.
また,私物食料持ち込み禁止されていたのは兵だけで,下士官・士官は持ち込んでも良かったのでしょうか?
【回答】
陸海軍を問わず,外部から食糧を持ち込むことは原則として禁止.
理由は仰るとおり,食中毒の発生及び病原菌の持ち込みを防止するため.
保存の利くものも禁止だったが,それも理由は同じ.
もっとも,当時の食品加工技術では保存が利くと言っても,たかが知れているとは思うが..
例外は家族が面会に来たときで,この時は家族のもってきた弁当などを面会所で食べることは黙認されていた(認められていたわけではない).
また,士官クラスになると多少は持ち込みをしていたようだが,保存設備があるわけではないので,持ち込んだその日のうちに消費できるものしか持ち込まなかった模様.
【質問】
先の大戦で,補給が途切れた皇軍は,しばしば畑を作ったりして自給自足を行っていましたが,作物は何を作ったり,獲物は何をとったりしていたんですか?
南方だとヤムイモ,タロ芋,キャッサバなんかを,アリューシャンではシロクマやアザラシを想像しますが.
【回答】
ソロモン,ニューギニア,ラバウル等の南洋の海軍部隊で過ごされた方の戦記等に目を通すと,最も植えられていたのは甘藷,つまりサツマイモです.
サツマイモは栽培が簡単で味もよく,しかもその蔓や葉でビタミン補給が出来たこともあり,海軍部隊では早くから主食として,その栽培と普及に努めていたようです.
カボチャもその育てやすさから,多く植えられていました.
その他に主食とされたのは高粱やキャッサバなどです.
また,栽培に余裕が出てくるとトマト,スイカ,キュウリ,トウモロコシなども植えられるようになっていきます.
ただし,大根等の根菜は南方では花が咲かず,全く栽培できなかったそうです.
名無し軍曹@携帯 ◆Sgt/Z4fqbE in 軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
日本軍は,大陸などに展開する師団の中に自活班を置いて糧食やらを自弁していたようですが,この自活班の編成にさいして,どんな用意がされてたのでしょうか?
南方に展開する部隊の兵隊向けに「ジャングルで食べられる野草」パンフレットが配布された,と聞いて,師団バラバラじゃなくて,じつはかなり大掛かりなものだったのかな,と疑問に感じました.
【回答】
情報に関しては,大本営陸軍部で編纂された所謂「戦訓報」,「戦訓速報」によって,各部隊の有効な経験を各方面の部隊に展開するようにしています.
例えば,「戦訓速報」第二号には,南方第一線から南方への転用部隊に対する教育訓練についての提言で,大まかな情報が寄せられていますし,戦訓報第十四号では,無煙竈の作り方について満州の部隊で研究した結果を公開しています.
また,「現地自活(衣糧)の勝利」と言うマニュアルが陸軍省経理局衣糧課で編纂されて各部隊に配布されました.
これは,随時追加,改訂が成されています.
これをベースに南方軍は独自に「南方地域現地自活教本」を編纂し主要部隊に配布しています.
但し,兵要地誌については,陸軍の研究は後手に回っており(本格研究は1943年以降),現地に行って初めて,これが必要とされるケースが多かったわけで.
眠い人◆gQikaJHtf2
自活班
(うそ)
【質問】
戦前のドイツ軍にはトサツ中隊なる食肉部隊があったそうですが,日本軍にもそういうのあったのでしょうか?
【回答】
ちょっと「あった」とも「なかった」とも断定できる資料が見つからなかったが,とりあえず日本陸軍の装備の中に屠殺用の屠獣器という解体用具一式はあった.
11名の作業員で1日に15頭の家畜を解体できたという.
また,戦争が激化すると,師団経理部の隷下に師団経理勤務隊が設けられ,「現地自活」として野菜などの栽培と共に養豚も行われた,
当然,育てた豚は解体して食糧にするのだから,師団経理勤務隊の中に屠殺の部隊(または班)はあったと思われる.
ただ,養豚自体が全ての師団で行われる正規の軍務ではないので,屠殺部隊もあくまで一時的・その師団だけの部隊と思われる.
大隊には大隊付きの炊事班がいて,大抵は初年兵か最下級の仕事.
食材が集まらないと近くに行って徴発.
トサツは基本的に先輩が教えてくれる.
気持ちは悪いが決して難しくはない.
日本のトサツ部隊というのは「生き物係に命じマース」ぐらいの臨時の話だと思う.
たぶんだけど,初年兵に回されたんだろうなと想像する.
嫌な仕事だし.炊事班同様ね.
ドイツにおいては屠殺は日本よりも身近なのもであり,農家などでは自分たちで豚を解体し,色々な種類のソーセージなどを作っている(日本人が魚をさばくのと似たような感覚か)
そういう文化の違いが屠殺部隊の常備の有無に繋がっているものと思われる.
軍事板
青文字:加筆改修部分
ソーセージと軍隊
【質問】
本当に日本軍は人肉を食べたのか?
【回答】
日本軍は人肉を食料としていたという逸話は各地に結構残ってる.
有名な「味方は食うな」という命令が出たのはニューギニア戦線で,1944年12月,第18軍司令官から
「連合軍の屍肉を食うことは許すが,友軍の屍肉の場合は処罰する」
旨の軍令が発せられ,違反した4名の兵が処刑されたというのが日本軍記録に残っており,1946.12.11の東京裁判でも有罪となった.
以下は体験談より.
[quote]
第2次世界大戦中,フィリピン戦線では約50万人の日本兵が戦死し,その多くは餓死だったと言われる.
〔ダイエー創業者の〕中内氏は,人肉食いの噂もつきまとうその地獄の戦場から奇跡的に生還した過去を持っている.
インタビューするたび,中内氏は国家への不信を語り,靖国神社には戦友に申し訳なくて近づくことができないと言って,怯えた表情を浮かべた.
統制経済に真っ向から刃向かい,価格決定権をメーカーの手から消費者側に奪い返す「流通革命」を呼号したのも,ロジスティックス(兵站)という発想をまったく欠いたまま,一兵卒の自分を戦場に丸裸のまま「棄民」した国家的なるものへの反逆だった.
〔略〕
10年前の阪神淡路大震災で,中内ダイエーはフェリー,タンクローリー,大型トラック,ヘリコプターなど,同社が持つロジスティックスのすべてを動員して,被災地神戸の救援に向かった.
手を拱(こまね)くばかりの日本政府の対応の遅さとは対照的な迅速さだった.
〔略〕
ダイエーの原点となったフィリピンの戦場について尋ねたとき,中内氏は奇妙な質問をして私を困惑させた.
「戦争でいちばん恐ろしいものは何だと思います?」
私は平和ボケを丸出しにして,「敵の鉄砲の弾じゃないんですか」と答えた.
すると中内氏は思わぬことを言った.
「いや,そうじゃない.隣の日本兵がいちばん恐ろしかった」
それを聞いた瞬間,人肉食いの噂が生々しいリアリティをもって迫ってきた.
中内氏はさらに率直に,
「眠るといつ隣の日本兵に殺されるかと思って,眠れなかった」
とも言った.
[/quote]
―――佐野眞一 in 『文藝春秋』2005年11月号,p.132
▼
[quote]
〔1945年1月下旬,〕やっとの思いでマニラに帰り,マニラ東方山地に逐次撤退したが,この日本軍に対しナパーム弾で焼土作戦〔原文ママ〕に出たため,日本軍は山岳地帯に追い込まれ,食糧が極度に不足し,ついには日本兵が日本兵を射殺して,その肉を食う光景を目撃した.
[/quote]
―――高橋馨 in 『比島に散った野戦自動車廠の記録』(比島派遣野戦自動車廠戦友会,開発社,1989/8/15),p.253
▲
▼『ニューギニア東部最前線』(石塚卓三著,叢文社,1981.8)
では正直に,「ニューギニア戦線で私は人肉食べました」と告白している.
一口目は吐いたが,2口3口と食べるうちに,世にもいえない美味に思えてきたとのこと.
また,その前には,人間の肉を食った兵隊を,現行犯で見つけている.
その兵は銃殺刑にされているが,そのときにその肉の色をみていたので,人肉であると気づいたとのこと.
軍事板,2011/01/27(木)
青文字:加筆改修部分
▲
【質問】
よく,旧日本軍の餓死の話を聞きますが,ぶっちゃけ人間は,水と塩があれば1月は生きますし,まわりは全部海でしょ?孤島
何であんなにアホみたいに餓死するのかよくわかりません.
なんで海水飲まないんですか?
ひょっとして知らなかった?
【回答】
人間は体内の塩分濃度を調節する能力に乏しいので,塩水を常飲して水分を補給すると体が耐えられない.
腎臓を始め内蔵に重大な疾患が出る.
また,餓えている時に塩分濃度の濃い水を飲むと,渇水感が酷くなる.
程度によっては発狂することも.
南方に取り残されて食糧と水の不足に苦しんだ人たちの中には,海水を煮詰めて塩を作り,蒸留して真水を作ることにチャレンジして,それで命をつないだ人もいたとか.
この質問者に賛成というわけでは有りませんが参考までに.
アラン・ボンバール本人が行った漂流実験の結果等から,水ないし魚(海)を搾った液体で海水を薄めた物でも健康で精神力さえしっかりしていれば,生き延びることが出来る可能性が有る事が示されていると思います.
http://homepage2.nifty.com/MLRI/new_page_6.htm
の6.もご覧ください.
なお,食糧不足な時点で,〔健康で,という〕前提条件が崩れてますよね.
反面,その手の海難事故が起こったとき,遭難者の90%は三日以内に死ぬって推定が出てます.
水や食料の欠乏ではなく,『絶望』が死因だそうです.
ソースは『大西洋漂流76日間』(スティーヴン・キャラハン著,早川書房,1999.5).
極東の名無し三等兵◆5cYGBbCsjQ in FAQ BBS
::::::::::::::::::|_!::lヽ:::::::::ハ::::::::::::::::::::::::::::::::i、::! ノ
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` ヽ 幺ク 亡 月 | ┼‐ .|] |]
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/ 小巴 三l三. ヽ_ノ / こ o o
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レ' ム-''´lヽ、 _,,./! ゙ヾ!__ヽ! ヽ´ヽ、ヽ
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ヽ l、
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ヽ、 | | ! l
【質問】
第一次大戦での日本で捕虜生活を送ったとドイツ兵捕虜によって,日本にパンケーキ等の西洋の食べ物が現代も其の味を伝えているように,日本兵が駐留した南方で,お寿司や赤飯,梅干等の日本的な食べ物遺産は,現地に残っているのでしょうか?
【回答】
たとえば,タイに駐留してた部隊の話
http://www.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1813822
が伝わっています.
あと,陸路でポートモレスビーを攻略すべく上陸した日本陸軍から鯖缶&ご飯を貰ったパプアニューギアでは,
「サバ缶ライス」として現地でごちそうとなっている,という新聞記事を読んだ覚えが.
皮肉にも,サバは目の前の海で採れるのに,缶詰工場がないため,日本から輸入しているそうで.サバ缶輸入の最大手国になったり.
軍事板
【質問】
旧軍は戦闘地域でも白米を主食にしていたと聞いたのですが,そこで餅とかの支給はなかったのでしょうか?
餅は保存性も利くし,火を通せば食べられるようになり,米を炊く時のように水も要らないし,少量でも満腹感があるので戦闘糧食としては理想的だと思うのですが,どうでしょう?
【回答】
増加食や加給品として「餅の素」が製作されています.
信州などで古くから食べられていた「氷餅」がルーツのインスタント粉末餅です.
氷餅とは,冬季,搗きたての餅を軒下にぶら下げて凍結・乾燥させたもの(高野豆腐と同じような製法)で,湯で戻して食べます.
もち米の粉を煮て型に流し固めたものを使う方法もあり,「餅の素」はこの製法だと思います.
民間で流通しているような餅は,祝い事のときなどでは支給される事もあったが,通常の糧食としては餅は使われない.
餅は内部に大量の水分を持っているため,かびやすく,炊飯前の米と比べて保存性が著しく劣るため.
また火を通さないと食べられないため,乾パンのような即応性がないし,乾燥して内部の水分が抜けると焼いても柔らかくならない.
簡単に言えば,
「買い置きしてるお米.
正月に飾った鏡餅.
日持ちするのはどっちでしょう?」
ということ.
まあ,今は真空パックとか色々加工された餅が主流なので,鏡餅がカラフルにカビることを知らない人が多いのでしょう.
そういう餅しか知らないと,「餅は保存が利く」と誤認識するのでしょう.
あれは現在の技術で色々しているからカビないのであって,餅は本来カビやすく,保存食には不向きです.
軍事板
【質問】
食糧不足解消のため,戦地にさつまいもの種を大量に送って自活させれば,兵士が飢えることもなかったのでは?
【回答】
サツマイモは確かに救荒食物ですが,どこでも適当に育てられるもんでもないです.
というか農作物作るのがそんなに簡単でないというのは,植生自体は割と豊かなインドやフィリピンが食糧自給に苦労したことを考えても分かるかと.
また,赤道直下の熱帯地域では,サツマイモやジャガイモは虫に食われてすぐに駄目になっちゃうんだよね.
タロイモ類は青酸化合物を含んでるから虫も食えないので生き残った.
タロイモを食用にできるのは人間だけ.
人間なら道具を使ってデンプンだけを取り出せるからね.
【質問】
せっかく日本人は刺身を食べられるのに,南方で補給が途絶えた部隊は,魚を釣らなかったの?
【回答】
魚を獲ったり釣ったりした人は沢山いた.
でも,日本とは全然生息してる魚の種類が違うので,どれが食べられる魚なのかよく解らず,毒のある魚に当たって死ぬ人が続出した.
手榴弾や砲弾を使ったバクダン漁(水中に爆発物を投げ込んで爆圧で気絶して浮いてくる魚を捕まえる)も熱心に行われたが,やっぱり「食べていい魚と駄目な魚」の区別がよくつかず,やっぱり当たって死ぬ人が続出した.
また,昼間海に出ると,よく通りすがりの米軍機に銃撃されることになった.
いわゆる飛び石作戦で,直接的な侵攻なしで放置された地域も,海岸沿いは,船舶による補給の遮断を目的とする哨戒が行われていて,発見されると攻撃されるので,海岸線にさえおちおち出ることが出来なかった場合があるという.
そういった哨戒や攻撃は,間断なく延々と継続したわけではないが,レーダー等で事前に確実に察知することができなかったのだから,当然,のんびり釣りとかをしているゆとりなど存在しないのが普通としか考えられない.
とある人の手記には,たった一つ残った手榴弾を巡って
「バクダン漁をするか自爆自決用に温存するか」
で揉めて殺し合いになった,という何とも言えない話がある.
まあ,軍艦で釣りは行われることがあるが
【質問】
何で旧日本軍は,自活用に「食べられる魚」図鑑や「食べられる植物」図鑑を用意できなかったんでしょうか?
あらかじめは無理としても,南方で3年も戦っていれば,こういうものの必要性とか分かるんじゃ?
【回答】
大量の将兵を自活させるためには,将兵の大半を漁労・採集などに従事させる必要がある.
軍隊の本来の目的は戦闘なのだから,自活のために多大な労力を割くのは本末転倒.
末期のラバウルは,畑を開墾したりして自給自足生活を送っているけれど, これは同地が連合軍から事実上無視されていて,戦闘らしい戦闘がなかったから可能だったことで.
現地で手に入る食料に関する研究をするくらいなら,内地から十分な食料を送る算段をする方が効果的.
史実の日本軍がどちらもできなかったのは,また別の問題.
さらにいうと,そんな本があっても30万人を超える兵力を養えるほど,魚や植物を現地で確保できるわけがない.
そんな物が都合良くあちこちに生えていているものではないし,生えていても,大人数ではすぐに食い尽くしてしまうのが落ち.
他のどこかに生えていても,密林ではまともに入り込めない.
そういった地域で,サツマイモの苗がもたらされて一息ついたという話はある.
ラバウルでの自活の状況を調べろ.
さらにまた,上述のように,釣りができるほど海岸が安全というわけでもなかった.
ただ,その辺は本土決戦に備えた「自活の方法」や「食糧不足を凌ぐ工夫」としてかえりみられることになり,
「これを全国民が実践することにならなくてよかった・・・」
ということになった.
今みたいにアウトドアがブームになる前の「災害・遭難時の手引き」みたいな本には,明らかにこの戦争末期の本土決戦に備えた自活法が元ネタになってるものが結構ある.
あと,日本陸軍はずっと満州でソビエト軍と戦うことだけを考えて軍を整備して来たので,南方で戦うことを戦争が始まるまでほとんど想定していなかった.
「携行糧食」の研究にしても,まず第一に求められたのは「凍らないこと」だったりしていて,南方は視界外想定外だったというのが本当のところ.
【質問】
先の大戦の末期,国民はかなり窮乏した食糧事情になっていましたが,国内の軍部隊に対しては,国民よりは少しはましな食糧が供されていたんですか?
【回答】
それこそ,経理部の腕の見せ所になります.
例えば,末期に編成された寄せ集め師団は,経理部が貧弱だった為,周辺の住民よりも食生活が貧弱で,何時も腹を空かせていたので,周辺の住民達が彼等を哀れんで,食物を恵んだと言う記録が残っています.
一方,従来からある古参師団の場合は,経理部にもそれなりの人物がいたので,八方手を尽くして,例えば,釜石に魚の干物があると聞けば飛んでいって仕入れてきたり,新潟に米が滞留していると聞けば,軍の特権を利用して,その米を輸送し,別の場所で売り捌いて,その場所で売っている食べ物を購入したり,あるいは南方に送る予定で,倉庫に眠っていた砂糖や醤油などを伝手を使って接収したりして,兵士に配給量以上の飯を食べさせたりしています.
因みに,この師団の経理部の部長さんは,戦後,渋谷のロシア料理店のオーナー経営者に収まったりしています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板
青文字:加筆改修部分
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