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降伏する兵士

【質問】
「NHKアーカイブス」見て思った質問。
日本軍では「生きて虜囚の汚辱を受けるべからす」と指導されてきたが、実際にはそういう状況で自決した奴は余りいないって聞いたけど,それ本当?
【回答】
戦陣訓は存在として知ってはいても、読んだことがないっていう軍人もいた。
昇進試験にでるのは軍人勅諭であり戦陣訓なんて『幹部候補生検定問題』くらいにしか出ないし。
とある戦車兵は,
「一大臣ごときが道徳を制定するなど、神にでもなったつもりか」
と,この戦陣訓を批判している。
軍事板
また,火野葦平にも,それを裏付けるような記述がある.
私たちが兵隊になつて,戰場に送り出されたときには,
「どんなことがあつても捕虜になるな.捕虜になるくらゐなら,舌噛み切つて死ね」
と訓誡された.
そして,戰爭中,敗戰によつて眞相が暴露されるまで,日本兵には一人も捕虜がゐない,といふことがまことしやかに宣傳されたのである.
しかし,兵隊として各地を轉戰した私は,多くの戰友が捕虜となつて敵軍中にゐることを知つて居り,戰場では捕虜たるべき状態は不可抗力であることも知つてゐた.
(「バタアン死の行進」,小説朝日社,1952/10/5,P.24)
特攻生き残りのつまり海軍航空兵だったおじいさん(エンジントラブルで着水⇒漁師に助けられる⇒終戦)に聞いたら,曰く,当時は読んだことはなかったが,それでみな死んでいったわけではない.
戦陣訓によらず,国や家族を護るためならば死を厭わないというのは普通の考えであったし,それが侍だと思っていた,ということでした.
もっとも,「戦陣訓」が全く影響を与えなかったというわけではなく,例えば1空事件のような悲劇も起きている.
【質問】
捕虜になることは恥ずべきことという風潮、捕虜になった者の家族が社会的制裁を受けるという状況は,戦陣訓に関係なくあったんじゃなかったっけ?
【回答】
別項目にもあるように,日露戦争の頃には既に「捕虜になるのは恥」という概念自体は日本に存在した模様.
でなければ,アッツ,ニューギニア,南洋島嶼や硫黄島,沖縄で,あれほど死者は出ませんよ…….
戦争末期,歩けない負傷者の処分が行われたこと.
島嶼防衛戦の最後に,自殺的攻撃が行われる場合が多いこと.
捕虜の多くが,日本軍の組織的戦闘が終わった後か,人事不省の際に捕虜になったこと.
日本軍が集団で投降した事例が極めて少ないこと.
(赤十字の調査によると)日本軍の捕虜の数は,オーストラリアの半分以下,ハンガリーよりも少ないこと.
一方,召集兵なんかにはそういう「捕虜は恥」意識は希薄だった,という話を,うちの死んだジジイ(乙幹で終戦時准尉)に聞いたことがある.
ソースが貧弱ですまんけど.
【質問】
満州事変で捕虜になった人達は停戦後に帰還できたようですが,支那事変の初年に捕虜になった人は,終戦までおよそ8年間,捕虜収容所に居たのですか?
【回答】
日支事変(日中戦争)における両軍捕虜の処遇は非常に複雑でしてなかなか簡単にはまとめられません。
ですが開戦の年・1937年に限って言えば比較的状況はシンプルであります
●捕虜になった中国軍(国民党軍・八路軍)兵
日本陸軍は日支事変を戦争とは見なしておらず、従って捕虜の処遇については
「(捕らえられた)支那軍人は法律上これを俘虜と解していない」
との見解を、海軍に対して回答しています(1937年8月5日陸軍省法務局)。
このためかどうか解りかねる部分もあるのですが、陸軍に捕虜となった中国兵は,
「その場で武装解除・解放」
「銃剣・軍刀などの試し切りで殺された」
「荷物運搬等の使役」
などなど,処遇一つ取ってもまちまちでした。
ただし海軍は事変勃発時に,戦時国際法に乗っ取った捕虜処遇を行うとした「第三艦隊俘虜取扱規程」を制定し,46名と少数ながら捕虜の管理も行っています。
彼等がどのような処遇を受けたかはぼくの手持ちの資料では追跡できませんでした。
陸軍捕虜からは汪政権軍への編入も募られていたようですので、一部は汪政権軍へ参加した可能性もありますが、おそらくは終戦時まで解放されなかったのではないでしょうか?
●捕虜になった日本兵
当時の国民党軍は敵軍への投降を禁じており,督戦隊も投入されていました。
そのこともあって、戦争初期に捕虜になった日本兵は,大多数が殺害されています。
1937年の段階では,海軍航空兵を中心とした数十名程度しか捕虜を獲得できなかったことからも、捕らえられた日本兵の殺害は裏付けられています。
なお、国民党軍は一応「俘虜処理規則」において,捕らえた日本兵は
「我国軍民と同等に看待し且つ其人格名誉を尊重すべし」
「俘虜に対し陵虐、恐嚇、詐欺手段を持って所属国の各項軍情の報告を誘迫するを得ず」
と定めています(37年10月15日)。
一方,八路軍は「三大規律」「八項注意」というスローガンを持って組織を維持していましたが、うち八項注意には捕虜虐待を禁ずる一項がありまして、事変初期から捕虜獲得に積極的だったようです(主にプロパガンダ目的だったと思われます)。
が、1937年に置いては、獲得した捕虜の数はけっして多くはありませんでした。
さて、1937年に捕虜となった日本兵の数は、国民党軍約20から50人。八路軍は不明ですが1938年5月の時点で124人ですから,これよりは当然少なくなるでしょう。
国民党軍が捕虜にした20〜50名は,西安の捕虜収容所へ収容され,1940年,宝鶏の収容所へ移送、そこで終戦を迎えています。
良く解らないのは八路軍に捕虜になった人たちです。
八路軍は
「捕虜が希望するなら原隊への復帰を認める」
との政策をとっていまして、実際に日本軍へ捕虜を送り返しています。
日本側がこれを確認したのは1939年後半で、初期に捕虜になった人たちの中にも,こうして送還された人たちが少なからずいたものと思われます.
【質問】
太平洋戦争時の陸軍捕虜第1号は?
【回答】
極めて難しい質問です。
1941年12月の時点で,華中では日本兵捕虜を獲得する事を目的とした遊撃戦を、八路軍が展開しておりまして,同時多発的に拉致された兵士が多数いました(広い戦線を小部隊編成で守備していたためか、たとえば歩哨時などに拉致される兵士が後を絶ちませんでした).
八路軍を「1941年12月の日本側宣戦布告」とともに連合軍下に入ったと見なすならば、彼等拉致された兵士の中に「太平洋戦争時の陸軍捕虜第1号」がいた事になりますが、ご質問はこういった捕虜の事を問うたものではないと考えます。
さて、かれら支那戦線での捕虜を別とすると、いわゆる太平洋戦争の緒戦において発生した陸軍捕虜は、日本軍が進撃を続けていた事もあって,さほど多くありません。
開戦直後シンガポールに赴任・6週間後インドへ脱出した英軍の情報将校リチャード・ストーリー大尉の手記によると,(ストーリー大尉が脱出する以前に)英軍が確保した日本兵捕虜は,マレーで12人・ビルマで6人でした。
ビルマで捕虜になった6人は,ラングーンに潜入していた陸軍情報少尉や,航空偵察時に撃墜された陸軍航空兵などでしたが、彼等が捕虜になった日時を確認できる資料は見つかりませんでした。
一方,マレーで捕虜になった12人は,その後スマトラへ移送され,侵攻してきた日本軍に救出されていますが、うち詳細がはっきりしているのは,42年1月19日南マレー・バッパハト上空の空戦で撃墜され捕虜になった長尾中尉(飛行第59戦隊)、41年12月23日百式司偵に搭乗していて故障のためカハンに不時着し捕らえられた児山中尉と桑田中尉(飛行第81戦隊)の三名です。
彼等三人の捕虜になった状況を考えると、陸軍捕虜第1号はマレーでの空戦で捕虜になった陸軍搭乗員か、ビルマやシンガポールに潜入していて開戦直後捕らえられた情報将校かのどちらかにいるものと思われますが、
個人名を特定するまでは資料を絞り込めませんでした。
より詳しい資料をお持ちの方の回答をお待ちください。
【質問】
日中戦争中の中国軍捕虜の扱いってどうしてたんですか?
日本に送って捕虜収容所へ? 延々と1945年まで収容してたんですか?
相当多数の捕虜がいたはずですが.
【回答】
日本と中国との間に紛争状態ではあっても,外交的に戦争状態にはありません.
更に汪兆銘政権誕生後,日本はこれを承認しますが,汪政権は中華民国国民政府の正統な政権であると言うことから,敵対関係も成立しません.
……と言うことで,中国軍兵士で日本軍に捕まった場合は,捕虜としての待遇ではなく,極端な場合は,便衣兵としての扱いで死刑.
それ以外の場合は,武装解除の上,必要に応じて軍律法廷で裁判を行った上で徒刑となったり,捕虜となるとそのまま,日本軍に軍夫として使役,更に運が良ければ,説諭の上,解放される場合もあります.
また,一部の将校になると,中華民国国民政府軍に寝返るなどしています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2
【質問】
第二次大戦時に,中国側の捕虜になった日本兵の扱いはどの様な物だったんでしょうか?
小林よしのりの戦争論には恐ろしい絵が載っていたのですが・・・.
国民党軍と共産軍とで,捕虜に対する扱いの違いはあったんでしょうか?
【回答】
捕まった場合,虫の居所が悪い指揮官に当たれば,命はありません.
ただ,国民党,共産党共に,技術者,医者と言った専門家は,結構厚遇されています.
徴兵された一般人の場合も大体同様(但し,待遇は専門家よりは落ちるので,自活の為に苦力的な仕事に就かねばならない場合もある).
一番悲惨を極めたのは,士官以上の職業軍人でしょうか.
彼等の場合は,民衆の憤懣が集中する場合もあり,中には命を落とすこともありました.
特に共産党軍の捕虜の場合は,定期的な教育,啓蒙活動が繰り広げられ,延安にいた野坂参三が校長を勤めた「労農学校」に送り込まれて思想改造を受け,後に反戦同盟延安支部を結成,
これは更に,日本人民解放連盟に発展し,彼等は,在華日本軍兵士に対する宣撫活動を行うことになります.
眠い人◆gQikaJHtf2
あまり,戦史には書かれてないのですが,中国戦線で共産党に降伏した日本兵が,強要されて八路軍の兵士となるケースもあったようです.
その場合は,八路軍が日本軍を攻める尖兵として使用されたみたいです.
onom in mixi支隊
+
【質問】
日本側の捕虜当局機関は?
【回答】
太平洋戦争の間に、POW を扱った機関は二つある。俘虜情報局(Prisoner
of War Information Bureau)と陸軍省俘虜管理部(Prisoner
of War Management Office)である。
以下,ソース.
●俘虜情報局
1941(昭和16)年12月27日、「俘虜情報局官制」(勅令第1246号)によって設。「陸戦の法規慣例に関する条約」(ハーグ条約,明治45年1月13日批准公布)は、交戦国に俘虜情報局の設置を義務づけていた。
この俘虜情報局は、陸軍大臣の管理に属する臨時官衙がである。
任務は、捕虜に関する状況を調査し、その結果をジュネーブにある赤十字国際委員会や敵国の利益代表をとおし、捕虜の本国に捕虜情報を通報する義務を負っていた。具体的には、銘々票とよばれるカードを捕虜一人一人に作成し、これに捕虜の名前、年齢、国籍、身分、階級、所属部隊、捕獲場所および収容場所と年月日、移動、解放、交換、死亡などを記入した。捕虜の情況の通信、死亡者の遺言、遺留品の保管なども俘虜情報局の任務であった。
しかし実際には、捕虜のほんの僅かのパーセンテージしかこうした手続きがとられていなかった。
別紙資料「ラーチ報告書」Major Genenral A.L. Lerch, “Japanese Handling of American Prisoners of War” によると、俘虜情報局は、1944年以前には、系統的に捕虜全体の名前をリストアップする試みが何もなされていなかった。
捕虜のアルファベット順のインデックスは残っているが、一人一人をただちに確認できるマスターインデックスは出来なかった。
俘虜情報局には近代的な設備も機材もなかった。まったくもって非能率だった。
1944年1月になって、俘虜情報局の高田少佐が中央カードファイル・システムを確立した。そのカードに先のような捕虜情報が書き込まれたのである。[1]
アメリカは1943年2月まで、1942年第1・4半期の間に日本軍の手に落ちたかなりの数のアメリカ人捕虜の名前を受け取っていない。アメリカに送った情報は完全ではなかった。ほかの連合軍も似たりよったりの状況だった。
こうした事態が起こった要因として、先の「ラーチ報告書」は、捕虜問題への日本人の関心の低さ、1944年までシステムが出来ていなかったこと、職員の恒常的な不足、そして俘虜情報局の運営が非効率で正確さを欠いていたこと、規則で要求されている捕虜の名前を報告することを現地軍司令官が怠ったことなどを指摘している。
1946年2月に、俘虜情報局がまとめた「俘虜情報局ノ業務ニ就テ」によると、こうした業務を担当する俘虜情報局の編制人員は、50人内外であった。発足時には長官1名、事務官4名など合計25人である。
長官は、戦争の間に3人が就任している。
なお、俘虜情報局の任務は1952年8月に終了し、1957年8月1日に廃止された。
| 俘虜情報局長官 | 在任期間 |
| 上村幹男中将 | 1941年12月29日〜1943年3月11日 |
| 浜田平少(中)将 | 1943年3月11日〜1944年11月22日 |
| 田村浩(少)中将 | 1944年11月22日〜1946年5月31日 |
俘虜情報局の職員数は戦争初期にはほとんど増えていないが、1944年後半から45年に増加。敗戦真近い1945年8月5日現在では117名を数えた。
連合国からPOWに関する問い合わせ件数は、42年52件、43年112件、44年340件、45年122件、46年122件となっていることから、これへの調査・回答のために増員されたものと思われる。[4]
戦後、俘虜情報局がまとめた俘虜に関する抗議とその回答集には、83件の連合国からの抗議とそれに対する俘虜情報局からの回答が収録されている。
抗議は44年31件、45年27件と,この二年に58件が集中している。[5]
俘虜情報局職員が急増したのは敗戦直後である。
俘虜管理部長をして「吾人ノ予想外トスルト所ナリ」といわせしめるほど、連合国が日本の捕虜業務に関心をもっていたことから、情報局業務の重要性が認識されたことによるだろう。[6]
1945年9月には、「俘虜関係調査委員会」(委員長陸軍次官若松只一中将)が設置され、俘虜情報局の業務の重要性が増した。
このため、1945年10月3日、東京で俘虜収容所長合同が開かれた。
田村長官は、今後、俘虜の取り扱いに関する連合国の査問はますます厳しくなることを予測し、残務整理の大綱を示している。
俘虜情報局業務の重要性が増した理由として次の点が考えられる。[7]
1. 戦争中の残務は、遅くとも講和条約までには完了するように要求されたこと。
2. 連合国側からの捕虜情報の請求が集中したこと。
3. 捕虜業務の処理の適否が外交関係においても大きな影響を及ぼしたこと。
4. 俘虜収容所保管の書類が敗戦後ほとんど焼却されたこと。また、俘虜収容所長以下職員の大部分が戦争犯罪者として巣鴨に収容されたため、捕虜に 関しては俘虜情報局に調査が依頼されたこと。
5. 捕虜関係の諸資料の大部分は俘虜情報局が持っていたこと。
●俘虜管理部
1942年3月31日に、POW 取り扱いのもう一つの組織である陸軍省俘虜管理部が設立された。戦場が広大であり、捕虜数が膨大に上ったため、陸軍軍務局の一部局として俘虜管理部が設立されたのである。
取り扱い業務を迅速にする目的であった。
陸軍省の一部局である俘虜管理部の部長は捕虜管理に関する計画・政策の発布と俘虜収容所の監督の両方に責任をもっていた。[8] だが、俘虜管理部の職員は全員、俘虜情報局職員と兼務している状態であった。組織は二つだが、一人の職員が二つの部局をかけもちするといった実態だったのである。途中までかけもちでなかったのは、保田治雄中佐のみだった。[9]
俘虜管理部の仕事の内容は、次のようなものである。
1. 捕虜の収容、取締り、交換、解放、利用(労役、宣伝等)懲罰待遇など、捕虜取扱上の一般的計画に関する事項
2. 捕虜の労役に関する事項
3. 捕虜の通信に関する事項
4. 捕虜の懲罰に関する事項など
捕虜数が多く、業務内容が多岐にわたるにもかかわらず、陸軍省内で俘虜管理部は軽視されていた。山崎茂大佐(俘虜情報局・俘虜管理部の高級部員)の東京裁判における証言によると、俘虜情報局と俘虜管理部は、
「軍務局の指令下において仕事を続けました」
「俘虜情報局並びに管理部の部長に決裁権を与えられることは、あまり重要でない事柄であって、極めて重要なる事柄は、悉く軍務局の指令を仰がねばならんことになっておりました」
と証言している。[10]
しかも、陸軍省の伝統である軍務局万能主義が横行したため、管理部が「実質的には独立性」を失い、あたかも「軍務局の一付属事務室たるの奇現象」を生じたため、管理部は「自主溌剌たる活動をなし得さりき」といった状態であった。
俘虜管理部は上村幹男中将、軍務局長は武藤章中将のちに佐藤賢了少将である。
東京裁判の席上、清瀬一郎弁護人は階級の上の人に命令を与えることは日本の陸軍組織ではありえないことであると証人に迫っている。
だが、山崎証人は
「階級上からいうと、軍紀上そういうことは成り立たないのでありますが、仕事の上では軍務局長は大臣の参謀格として、指令を伝えておったように思います」
と述べている。
また、陸軍大臣に直属していた俘虜情報局も,
「仕事の実際の上では、軍務局長を経すしては仕事はできない状態にありました」
と反論、軍務局長が俘虜情報局・俘虜管理部に、事実上の命令をあたえていたと証言したのである。
捕虜問題は「軍務局に照会するのが慣例」だったのである。[11]
俘虜管理部には、俘虜収容所に直接命令を下す権限もなかった。
改善すべき点があった場合は、陸軍省の責任ある局に通報し、各局がこれを陸軍大臣に報告し、大臣から各軍司令官に命令し、各軍司令官がこれを俘虜収容所長に命令することになっている。[12]
俘虜管理部が発足し、業務の範囲が通牒された4月9日には、すでに20万近くの捕虜がいた。捕虜に関する事項が、俘虜管理部にのしかかってきたが、権限はほとんどなかったのである。
経理、衛生、法務等の専門事項は、軍務局の各担当部局が掌握していた。
衛生に関しては医務局、経理は経理局などがそれぞれ委任されていた。
捕虜の扱いに関して俘虜管理部はなんの権限ももっていないことになる。官制上はそう書いてないが、実質にそうしていたというのである。[13]
捕虜は、現地の軍司令官・独立の師団長が直接の指揮管理にあたっている。
それに対する命令は、参謀本部を通さねばならなかった。
俘虜管理部の権限は極めて限られていた。俘虜管理部は、陸軍省内で発言力がなかったどころか、はじめのうちは、捕虜に対して正しい取り扱いをしていろいろなことを良好にすると、陸軍省のなかで悪く言われる様な状態だったと保田中佐は述べている。
俘虜管理部からの通報で収容所が改善されるのは戦争後期である。
俘虜収容所もまた、軍官僚機構のなかで
「一方に於ては軍部側より継子扱いにせられ,他方に於ては、一般人民より白眼視せられ其職員は実に苦しき立場に在りたるは事実なり」
とその心中を吐露したくなるような立場であった。[14]
戦後、俘虜収容所関係者、なかでも下級将校が戦犯となった。これに対し、小田島情報局高級所員は、POWの扱いは「政府の責任」だと主張している。収容所は国内法に則って運営されていたのであり、それが国際法に違反しているとして裁かれるのは、俘虜取り扱いの関係者にとっては迷惑だと述べている。
(内海愛子,恵泉女学園大学教授,「POWを扱った日 12;軍の機関とその資料」,
抜粋要約)
【質問】
日本軍における,捕虜の管理責任はどこにあったのか?
【回答】
捕虜の置かれている状況により,所管がその都度変わった,と内海愛子(恵泉女学園大学教授)は述べる.
日本軍では、捕虜とは陸軍大臣管轄下の正規の俘虜収容所に収容されて、はじめて「俘虜取扱細則」による「正式な俘虜」になり、捕虜の待遇を定めた条約の「準用」の対象となる。
すなわち,俘虜収容所に責任をもつ陸軍大臣(軍政機関の責任者)は、その管理する収容所における事件の責任は負う。
だが、収容所までの過程での出来事は陸軍大臣の所管ではないということになる。
東京裁判での武藤章証言によると、まず、戦場で捕虜を得た陸海軍指揮者が、捕虜を取り調べ捕虜名簿を作成して大本営に報告する。この段階では軍令の捕虜である。
これに対して、陸軍大臣は収容所の位置および収容人員を大本営に示す。
大本営は陸軍大臣の示す収容所に捕虜を輸送する。
捕虜の輸送が終わり、収容所に収容されてはじめて,先に述べたように陸軍大臣の管理下の捕虜、すなわち軍政が管理する捕虜となる。
日本軍の捕虜取り扱いの二元性は、俘虜情報局がアメリカのラーチ憲兵司令官一行の調査でも強調した点である。[15]
したがって俘虜収容所に輸送するまでの捕虜の取り扱いは、すべて作戦軍の事項として参謀部の責任であり、最終的には参謀総長にその責任は属する。[16]
例えば、船舶輸送中の事件でも参謀部の責任となる。
俘虜情報局・陸軍省俘虜管理部ともに軍政機構であり、それ以前の作戦軍のもつPOW (軍令のPOW)については管理の権限も責任もない。時には情報すら入っていない。
(内海愛子,恵泉女学園大学教授,「POWを扱った日 12;軍の機関とその資料」,
抜粋要約)
【質問】
日本軍の俘虜収容所の法的根拠は?
【回答】
「俘虜収容所令」(昭和16年12月23日勅令1182号)による。俘虜収容所は陸軍の管轄に属し、陸軍大臣の定めるところにより軍司令官または衛戍司令官が管理し、陸軍大臣がこれを統括した。
以下,抜粋要約.
捕虜の取り扱いの法令としては,捕虜の処遇のために、陸軍は明治37年の「俘虜取扱規則」を改正し、「俘虜取扱細則」「俘虜罰則法」を制定するなど、一連の基本法令を整えている。
なかでも1943年3月9日に改正公布された「俘虜処罰法」は、12条にわたり俘虜の犯した罪にたいする罰則を規定している。
これには,捕虜監視員への抵抗や不服従、侮辱が処罰の対象になることが定められていた。
1942年6月27日には、泰(タイ)、馬来(マレイ)、比島(フィリピン)、爪哇(ジャワ)、ボルネオ俘虜収容所の「臨時編成要領」が定められ、南方各地に残っていた捕虜(軍令捕虜)を収容するために俘虜収容所が設立された〔6月21日軍令陸甲第45号〕。
開戦から半年が過ぎて、占領地の捕虜の収容がようやく決定した。俘虜情報局の規定による「正式俘虜」(軍政捕虜)となったのである。
収容所は、各軍司令官の管理下で捕虜の管理を担当することになるが、警備にあたる朝鮮人・台湾人軍属の到着を待って,現地軍から捕虜を受領することになった。
(内海愛子,恵泉女学園大学教授,「POWを扱った日 12;軍の機関とその資料」)
【質問】
日本において,捕虜を労働力として活用することが決められたのは,いつからか?
【回答】
1942年4月下旬、陸軍省内の局長会同ではじめて捕虜の処遇が論議され、5月には「俘虜処理要領」で捕虜の収容の方針が決まった。白人捕虜は払底する労働力を補充する要員と見なされたのである。
昭南島(現・シンガポール)から、朝鮮や台湾に白人捕虜が引き渡された。残された当面、労務のあてのない捕虜は、現地に俘虜収容所を開設してそこに収容することになった。(「南方ニ於ケル俘虜ノ処理要領ノ件」[兵総34、昭和17年5月5日])。
東条英機陸軍大臣は1942年5月30日に善通寺師団を視察したときに、POWの扱いについて
「一日ト雖モ無為徒食セシムコトナク其ノ労力、特技ヲ我ガ生産拡充ニ活用スル」
との訓示をしている。
上村俘虜管理部長がこの東条訓示をふまえ,関係部隊へ
「一人ト雖モ無為徒食ヲ許ササル我国現下ノ実状ト俘虜ノ健康保持等トニ鑑ミ之等(俘虜将校のこと―引用者)ニ対シテモ其身分、識能、体力等ニ応シ自発的ニ労役ニ就カシメ度キ中央ノ方針」
を通牒していた。[17]
将校を労働させることは、「俘虜労役規則」(明治37年9月10日)で禁止されていた。ハーグ条約でも許可されていなかった。
将校労働の違法性は日本側も考えていたからこそ、「自発的」に労働を希望するようにし向けたのである。
時には食料を減少することで「自発的」に労働を願い出るという形を取るなどしている。
だが、俘虜管理部事務官の中には、当時捕虜将校たちが「放埓な生活」をしていたので、それが国民に与える影響が面白くないため、この「空気を緩和改善」するためだったと証言している者もいる。[18]
詳しくは
内海愛子,恵泉女学園大学教授,「POWを扱った日 12;軍の機関とその資料」
を参照されたし.
【質問】
どのような俘虜収容所を日本軍は設けていたか?
【回答】
| 収容所名 | 捕虜数 | 所員編制 傭人数 | 差し出し部隊 |
| 泰俘虜収容所 所長佐々誠少将 |
約2万人 | 所長・通訳など63人 傭人朝鮮人800人 |
東部軍と朝鮮軍 |
| 馬来俘虜収容所 所長福栄真平少将 |
約2万人 | 所長・通訳など63人 傭人朝鮮人800人 |
東部軍と朝鮮軍 |
| 比島俘虜収容所 所長森本伊市郎少将 |
約15,000人 | 所長・通訳官など 傭人台湾人600人 |
中部軍と台湾軍 |
| 爪哇俘虜収容所 所長斎藤正鋭少将 |
約35,000人 | 所長・通訳など110人 朝鮮人1,400人 |
中部軍と朝鮮軍 |
| 「ボルネオ」俘虜収容所 所長菅辰次少佐 |
約5,000人 | 所長・通訳など12人 台湾人200人 |
中部軍と台湾軍 |
(内海愛子,恵泉女学園大学教授,「POWを扱った日 12;軍の機関とその資料」,抜粋要約)
【質問】
日本軍俘虜収容所の所員には,どの程度の国際法知識があったか?
【回答】
新任の俘虜収容所長と高級所員は,集められて訓示を受け、必要な法令集や指示が与えられている。
内容は善通寺師団での訓示とほぼ同じである。上村俘虜情報局長官が東条の意向にそって捕虜の取り扱いを指示したのである。
収容所長に必要な情報と国際法の知識は一応、与えられている。資料も配布されている。
問題は当事者がこれをどこまで理解していたかであろう。
また、規則に従ってPOW を扱う力が日本軍にあったのか、POW
を軽視した日本軍の考え方がどこまで変えられたのかも問題である。
国際法に従った処遇を指示しながらも、日本軍のPOW
の扱いの最大の目的は、「労務動員」であった。
「POWは戦力なり、これを最大に活用すべし」
との方針は、POWキャンプの監視員まで徹底されていた。
一方、国際法については、その存在すら POWの下級将校や監視員には教えられていなかった。[19]
詳しくは
内海愛子,恵泉女学園大学教授,「POWを扱った日 12;軍の機関とその資料」
を参照されたし.
【質問】
アメリカと開戦したときに、アメリカから、ジュネーブ条約守らないと、こっちも守らないぞと言われて、批准してないけど守るってやりとりがあったと聞いたことがあるのですが、事実でしょうか?
【回答】
日本は1929年の「俘虜の待遇に関するジュネーブ条約」(ジュネーブ条約とよばれるものは,国際人道法の分野に限ってもたくさんありますが,この場合はこれ)に調印したものの、軍部や枢密院の反対により批准はしていません。
このため、開戦後に、米国が、スイス公使を通して、間接的に、条約を相互的に適用することを希望する旨通達しました。
また、同じ時期に英連邦諸国からも同様の通達が間接的に行われています。
このとき、日本は条約を「準用」する旨回答しています。
詳しくはこちら(,というか,ここを参考にした)
http://ajrp.awm.gov.au/ajrp/AJRP2.nsf/Japanese/A69527B1B521DB71CA256BC00020145C
【質問】
ジュネーブ条約に対する日本の態度は,どのように変化していったか?
【回答】
捕虜の処遇に関する国際法は、日本が批准をしていた「陸戦の法規慣例に関する条約」(ハーグ条約、1911年11月6日批准、1912年1月13日公布)と、これをさらに充実させた「俘虜の待遇に関する条約」(ジュネーブ条約、1929年7月27日、ジュネーブで署名)がある。
日本は、ジュネーブ条約に署名はしたが陸軍・海軍・枢密院の反対で批准はしていなかった。
開戦後の12月27日、アメリカは利益代表国スイスの在京公使をとおして、条約を「相互的に適用」することを希望する旨伝えてきた。
翌年1月には在京アルゼンチン代理大使が、イギリス、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド政府の意向を受けて、同じく条約の遵守を日本に求めてきた。
外務省は「回答案」を作成し、俘虜情報局、陸軍省兵務局、内務省警保局、拓務省を集めて、1942年1月21日に検討会議を開いている。
外務省案には
「日本ノ権内ニアル○○国人タル俘虜ニ対シテハ能フ限リ同条約ノ規定ヲ準用スヘシ。俘虜ノ被服食糧ニ付テハ相互条件ノ下ニ俘虜ノ国民的人種的風習ヲ考慮スヘシ」
とあった。
捕虜問題に関して、外務省案でだいたい異議のないことが確認された。
外務省案の線でまとまったが、木村兵太郎陸軍次官は西春彦外務次官に
「条約ノ遵守ヲ声明シ得サルモ 俘虜待遇上之ニ準シテ措置スルコトニハ異存無キ旨通告スルニ止ムルヲ適当トスヘシ」
と回答している。[20]
「之ニ準シテ措置」するとはどのような意味なのか、陸軍次官の回答も曖昧である。政府内の意見には微妙な差異があったが、東郷茂徳外務大臣の1942年1月29日付けスイス公使宛の回答は次のようになっている。[21]
1. 日本帝国政府ハ千九百二十九年七月二十七日ノ寿府赤十字条約ノ締結国トシテ同条約ヲ厳重ニ遵守シ居レリ
2. 日本帝国政府ハ俘虜ノ待遇ニ関スル千九百二十九年ノ国際条約ヲ批准セス 従ツテ何等同条約ノ拘束ヲ受ケサル次第ナルモ日本ノ権内ニアル「アメリカ」人タル俘虜ニ対シテハ同条約ノ規定ヲ準用スヘシ
同様な回答をイギリス連邦諸国にも送付している。 批准していない条約を「準用」する、これが日本政府の回答である。
当然「準用」の解釈が問題となる。
起案文には「準用」の文字に傍点が付され、欄外に「apply
mutates mutandis」と書き込まれている。東条英機陸軍大臣はじめ陸軍が
「自国の国内法規及び現実の事態に即応するように寿府条約に定むるところに必要なる修正を加へて適用する」
と考えていたことをうかがわせる。[22]
外務省の松本俊一条約局長〔当時〕は、
「日本は俘虜の取扱ひに付ては事情の許す限り、即ちその適用を実際上不能ならしむるが如き支障なき限り、寿府条約の規定を適用せんとする意向であった」
が、条約の規定を厳格に適用することには大きな困難を伴うことが予想されたので、「準用」の回答に止めたと、その経緯を説明している。[23]
「準用」というのは、その精神を守る「意志」があることを、アメリカなどに「通知しただけです」というのが日本側の態度であった。それは「意志」の表明にすぎなかった。
そのため、スイスに批准書を寄託したり、加入の手続きを行ったことはなかった。国内手続きをとることもなかったので、条約と抵触する国内法、陸軍刑法、海軍刑法などの改正など、法的措置は一切とられていない。
自国の国内法規および現実に即応するように「ジュネーブ条約」に必要な修正を加えて適用すること、これが日本政府内部で合意された「準用」解釈だったのである。[24]
国際検察局は、「準用」回答により、ジュネーブ条約は日本に拘束力をもつと解釈した。[25] 捕虜の処遇に関する条約の解釈は、日本と連合国とではくちがっていた。「準用」は最後まで問題となっている。日本の態度が次第に変化していることも、連合国は抗議している。
1942年の回答では、東郷外務大臣、松本条約局長が「重大な支障のない時は国内法の規定と抵触するときは条約が優先される」と回答していた。
だが、1943年には、ジュネーブ条約の「禁止労働」32条を考えて、捕虜は「危険ならざる労働」に使役されていると回答、(1943年2月28日外務省回答)。
これが、1944年3月のスイスの抗議には、「日本は1929年の俘虜に関する条約の拘束を受けるものではない」と回答している。
2月26日には、国内法上適用し難いジュネーブ条約の条項に関する細目全部を重光外務大臣に要求したのに、
「今やそれは日本側は右条約を日本側の適当と思ふ時に且適当と思う程度に適用する事を意味するに至りました」
と変わってきている。
この「準用」回答の変化が「虚偽の約束」であったと受け取られたのである。[26]
詳しくは
内海愛子,恵泉女学園大学教授,「POWを扱った日 12;軍の機関とその資料」
を参照されたし.
また,「日本人捕虜〜白村江からシベリア抑留まで〜」(秦郁彦著・原書房)上巻136ページにも,類似の記述がある.
さて開戦の時点で日本と連合国の間には、1907年のヘーグ条約が生きていた。
1941年末から翌年1月にかけ、アメリカ、英連邦諸国は、利益代表国または国際赤十字委員会を通じて、日本が調印はしたが批准していない1929年のジュネーブ条約(俘虜の待遇に関する条約)を守る意志があるか否かを照会してきた。
これに対して、関係機関の間でどんな論議が交わされたかははっきりしないが、外務省は
「日本帝国政府は俘虜の待遇に関する1929年の国際条約を批准せず、従って何ら同条約の拘束を受けざる次第なるも、日本の権内にある俘虜に対しては同条約を準用すべし」
と回答した。
また条約上の取り決めがない抑留非戦闘員についても
「(1929年条約を)相互条件の下に於いて能ふ限り準用すべし。ただし交戦国が本人の自由意志に反し労役に服せしめざる事を条件とす」
と答えている。
「準用」(apply mutatis mutandis)を、日本側では
「必要の条項を修正して適用する趣旨と解し尊重するとは申していない」
と弁明したが、前記の対連合国回答の前段に
「帝国政府は……同条約を厳重に遵守し居れり」
と述べていることと,条約が国内法に抵触する場合、条約が優先するとの立場から、連合国は「批准」と同等の効力を持つものと解釈した。
【珍説】
大阪俘虜収容所では捕虜にも日本兵と同じ3000calの食事を与えていた.
日本軍は,不倶戴天の恨みてもあまりある敵の将兵に,妻子に与える2倍の量を供給し続けたのだ.
(三好誠著「戦争プロパガンダの嘘を暴く」,展転社,
2005/4/1,p.119-120,抜粋要約)
【事実】
レスター・デニー著「バターン 遠い道のりのさきに」によれば,書類上の話(三好のソースがこれです)と現実とはかなりかけ離れていたようです.
とにかく食事が少ないので,生き延びるためにあれこれ知恵を働かせる様が,同書では描写されています.
・オイル・タンクに異物を入れて,モーターを止めるサボタージュ.
・後遺症が残らないよう,上手に骨を折ってくれる「骨折り屋」
・沃素入りタバコを吸うと,肺炎に似た影がレントゲンに写ることを利用して,結核の仮病をする捕虜(ただし,隔離病棟で本物の結核患者にうつされて,本当に結核になってしまうことも)
・「潰瘍」詐病作戦.
・小量の腐らせた飯を使い,新しい弁当を詐取する作戦.
それらの手口はどれも具体的であり,デニーの想像の産物とは思えません.
【質問】
旧日本軍の収容所で捕虜が死亡した場合,その遺体・遺品はどのような措置が執られたのですか?
また,葬儀・慰霊祭に相当するものは行なわれたのですか?
【回答】
捕虜が死亡した場合は,火葬され,捕虜収容所(もしくは分所)近くの寺院に遺骨を納める場合が多かった様です.
遺品に関しては,殆ど残ってません.
と言うか,衣服にしても,元々着ていたものと,作業服,手拭い,軍手,地下足袋が支給されますが,戦争が進むと衣料品の欠乏も申告で,結局その支給すらありませんので,私物などは殆ど持ち込めていません.
礼拝については,収容所によって違うとしか言えませんね.
一応,捕虜の自由で,捕虜で牧師役になる人もいますけれども.
従って,略儀的な葬儀はあったと言えるでしょう.
眠い人@規制中
【質問】
今日,郵便局に行ったときに目にしたのですが,戦争捕虜郵便についての条項が郵便法に制定されたようです.
この捕虜郵便に関する規定は,戦前に存在したものが復活したのでしょうか?
【回答】
ほれ.
http://www.soumu.go.jp/s-news/2005/051124_1.html
>万国郵便条約の改正に伴
うものやね.
ちなみに戦前の日本では俘虜郵便ってのがあった.
で,これらが具体的に何かというと,
第71条
捕虜に対しては,手紙及び葉書を送付し,及び受領することを許さなければならない.
抑留国が各捕虜の発送する手紙及び葉書の数を制限することを必要と認めた場合には,その数は,毎月,手紙二通及び葉書(第七十条に定める通知票を除く.)四通より少いものであってはならない.
それらの手紙及び葉書は,できる限りこの条約の附属のひな型と同様の形式のものでなければならない.
その他の制限は,抑留国が必要な検閲の実施上有能な翻訳者を充分に得ることができないために翻訳に困難をきたし,従って,当該制限を課することが捕虜の利益であると利益保護国が認める場合に限り,課することができる.
捕虜にあてた通信が制限されなければならない場合には,その制限は,通常抑留国の要請に基いて,捕虜が属する国のみが命ずることができる.
前記の手紙及び葉書は,抑留国が用いることができる最もすみやかな方法で送付するものとし,懲戒の理由で,遅延させ,又は留置してはならない.
長期にわたり家族から消息を得ない捕虜又は家族との間で通常の郵便路線により相互に消息を伝えることができない捕虜及び家族から著しく遠い場所にいる捕虜に対しては,電報を発信することを許さなければならない.
その料金は,抑留国における捕虜の勘定に借記し,又は捕虜が処分することができる通貨で支払うものとする.
捕虜は,緊急の場合にも,この措置による利益を受けるものとする.
捕虜の通信には,原則として,母国語で書かなければならない.
紛争当事国は,その他の言語で通信することを許すことができる.
捕虜の郵便を入れる郵袋は,確実に封印し,且つ,その内容を明示する札を附した上で,名あて郵便局に送付しなければならない.
「捕虜の待遇に関する1949年8月12日のジュネーヴ条約」より
【質問】
第二次世界大戦で日本軍が集団投降した戦いってあったんですか?
【回答】
表だって公表されているものとしては東部ニューギニア.
有名なものとしては,昭和20年5月3日に第41師団歩兵第239聯隊第2大隊(大隊長中佐以下将校4名,下士官兵37名)がアポレンガ付近で豪州軍に投降.
なお,この大隊長は元山砲兵第41聯隊の大隊長.砲兵聯隊は火砲を全部失ったため,昭和19年9月に解体され,人員は各歩兵聯隊に編入されていた.
そのほか,豪陸軍公刊戦史によれば,昭和20年8月10日に大尉以下12名が,同11日に大尉以下16名が投降したとの記録がある.
【質問】
『戦争体験の真実』(滝口岩夫著・第三書館)という本に,著者が戦後ラバウルの捕虜収容所にいたときに,『ライフ』と記憶する写真雑誌で,ガダルカナルで捕虜になって鎖につながれた大勢の日本兵を,米軍戦車がひき殺している写真を見たとの話があるのですが,この話は本当でしょうか?
【回答】
旧軍内では米軍の残虐性を強調するエピソードとして,似たような話が広く流布されていたらしい.
それは「捕虜になって鎖につながれた大勢の日本兵を地ならし用ローラーでひき殺した」という内容だ.
ただ,日本兵捕虜を尋問したオーティス・ケーリが事実誤認だとして反論している.
要約すると
「そのような事実は絶対にないと断言できる.
推測するに,米軍は衛生観念が高いため,死体処理部隊がブルドーザーで大きな穴を掘り,遺棄された日本兵の遺体をひとまとめにして投げ入れ,一挙に埋葬した可能性はある.
それを飛行機からか,遠巻きに見ていた敗残兵が見間違えたのではないか」
(「日本兵捕虜は何をしゃべったか」山本武利著,文春新書85ページ)
ライフの写真というのは,例の頭蓋骨の話と混同したのではないかと思われますが.
【質問】
ポツダム宣言受諾後,連合軍捕虜はどのように引き渡されたか?
【回答】
1945年8月14日、「ポツダム宣言」の受諾を回答した日本軍は、河辺虎四郎大将を命令受領のためにマニラに派遣した。
河辺に対し、連合国側は9月2日の降伏文書調印までに捕虜情報の提出を求めた。
その後も,日本軍が当惑するほど捕虜に関する矢継ぎ早の要求が出された。
日本軍が1944年に出した
「情勢激変ノ際ニ於ケル俘虜及軍抑留ノ取扱ニ関スル件」(昭和19年9月11日陸亜密電1633)
や
「情勢ノ推移ニ応スル俘虜ノ処理要領ニ関スル件」(昭和20年3月17日陸亜密電2257)
が、
「俘虜等ニ対シ自衛上真ニ巳ムヲ得ス非常措置(俘虜取扱規則第6条)ヲ採ル」
ことを通牒していた。
連合国は日本軍による捕虜の殺戮を警戒していたと思われる。[27]
8月16日、俘虜情報局長官は、各収容所長あてに、捕虜を
「敵側に引渡すまで完全に保護し,且つ其の給養衛生に注意すべきこと」
「強制労務を直ちに中止せしめらるるも支障なし」
「糧秣は3、4ヶ月分を確保すること」
「被服は在庫を残置する必要はないので全部交換すること」
「救恤或いは慰問の為に送付された被服、医薬品、食料品も全部支給して差し支えないこと」
「遺骨、遺品などを鄭重に整理すること、遺骨箱が見苦しいものは新調し悪感情を抱かれないようにすること」
「不要書類の焼却を完全に行うこと」
などと細かく指示している。[28]
8月21日には、俘虜管理部長から内地各俘虜収容所長・内地各軍管区、台湾軍参謀長あてに
「俘虜収容所ノ標識ニ関スル件」
を出し、
・8月24日18時までに俘虜収容所の位置に20呎(フィート)のPWの文字を黒字に黄色で描き、南より北に向って読むように表示すること、
・連合国軍部隊は8月25日6時を期して、偵察飛行を行う、給養品の投下を行うこと、
・国籍別俘虜連名簿、同死亡者連名簿を8月30日までに俘虜管理部に到着するよう送付すること
を通牒した。[29]
陸軍次官が、俘虜の引渡しに関して特に注目していることは「寧ロ吾人ノ想像外トスル所ナリ」(8月22日)と述べるほど、連合国は捕虜の身柄の安全な引き渡しを急いだ。
9月2日、「降伏文書竝一般命令第一号」には、
「現に日本国の支配下にある一切の連合国俘虜及被抑留者を,直に解放すること竝に其の保護、手当、給養及指示せられたる場所への即時輸送の為の措置を執ることを命ず」
とある。また、
「完全なる情報を提供すべし」
ともある。
9月20日には「俘虜関係調査委員会」が設置され、24日には、GHQが俘虜収容所に勤務した職員名簿の提出を指令している(フィリピンの場合は19日である)。
9月中頃から捕虜取り扱い関係者の事情聴取・取り調べが始まった。その調査概況は別紙資料で一部明らかにしたとおりである。
俘虜情報局と陸軍省俘虜管理部の関係者は、長官から末端の軍属まで、戦争中は重きを置かれなかったにもかかわらず、戦後は捕虜虐待の責任が問われた。
捕虜問題に関する日本と欧米とでは、職員の数にとどまらず、その経験も問題への認識においても「天地」のひらきがあったのである。
詳しくは
内海愛子,恵泉女学園大学教授,「POWを扱った日 12;軍の機関とその資料」
を参照されたし.
【質問】
第2次大戦が終了して日本本土に連合軍がやってくるまでの間,日本本土に捕らわれていた連合軍捕虜は
,どこで何をしていたのでしょうか?
連合軍が来てくれるまで収容所暮らしのままでしょうか? もちろん,終戦後は労働作業は無いでしょうけど.
【回答】
正式に降伏調印がおわり,連合軍の係官に引き継がれるまで,収容所暮らしです.
軍事板
1945年8月15日の日本降伏に伴い,米軍は,日本政府に対して各地の捕虜収容所の屋根に「PW」と表記することを要求します.
また,捕虜の引揚げは各地に分屯している捕虜たちを数カ所に集めることとなりますが,その間,30日と見積もられた捕虜還送日程から,捕虜に対する救恤品が不足すると言うことで,日本側から提出を受けた捕虜収容所のリストを元に,169カ所の捕虜収容所に,B-29または艦載機を用いて,8月27日から9月20日に掛けて69,000名に対して30日分の補給物資を用意し,補給品は3日分,7日分,10日分単位のいずれかを投下して,彼等の糊口を凌ぐことになっていました.
その後,捕虜達は長崎,静岡県新居町,横浜,東京都大森,北海道千歳など,主な収容所に交通機関を使って移動し,9月1日の降伏文書調印後は,連合国軍総司令官の命令の下,直ちに係官を集合地に派遣して,捕虜を受取,9月中に沖縄,マニラ経由で本国に帰還を果たしました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2
【質問】
1945年の8月15日から,米軍が進駐してくる間の日本国内の捕虜収容所は,どの様な状況だったんでしょうか? 連合軍捕虜が看守を拘束して,逆に捕虜にしたりしたんでしょうか?
【回答】
レスター・デニー著「バターン 遠い道のりのさきに」(梨の木舎,2003.3)によれば,「お礼参り」しようにも看守は終戦と共に逃亡してしまっていたそうです.
捕虜は収容所から自由に外出でき,著者らは日本の民間人の車を勝手に接収して,進駐軍のいる基地まで乗っていったとか.
消印所沢
【質問】
日本軍の捕虜関連文書は現在,どれだけ残存しているか?
【回答】
連合国が追求する日本軍の戦争犯罪の大きな柱の一つが捕虜虐待であった。
当然、この関連資料は徹底的に焼却された。
だが、焼却されたのは陸軍のもつ資料であった。
俘虜情報局には、戦争中の捕虜関係の資料が大部分保存されていた。
情報局は,「国内法」にのっとってPOWを取り扱うために大きな努力をはらってきたと考えていた。
これを戦争裁判でも立証するためには、資料をもとに日本軍のPOW管理のシステムや資料をGHQに積極局的に明らかにしている。尋問にも応じている。
これらの資料は国際検察局によるPOW虐待の立証にも使用された。
POWの関連文書のうち、国際検察局によって押収され、東京裁判で証拠文書として提出されたものは、現在、マイクロフィルム化され、国会図書館で公開されている。
また、アメリカが押収した太平洋戦争期の資料は、日本に返却されているが、その全体像−すなわち文書量とすべてが日本で公開されいるか−についてははっきりしない。
公開分の資料については国立公文書館や防衛研究所で閲覧できる。
詳しくは
内海愛子,恵泉女学園大学教授,「POWを扱った日 12;軍の機関とその資料」
を参照されたし.
【質問】
戦後,日本兵捕虜に対する連合軍の扱い方が酷いところもあったそうだが?
【回答】
ソ連に抑留された日本兵に対する処遇は結構有名ですが、英国も結構嫌らしく、南方で抑留された日本兵は、「捕虜」ではなく、「降伏軍人」という扱いになっています。
「捕虜」とするとジュネーブ捕虜条約の規定に従わなければなりません。
また、自軍による監視など経済的負担も可成りのものになります。
このため、東南アジア連合軍(SEAC)のScott参謀長は、彼らをP.O.W.ではなく、降伏日本軍人(Japanese
Surrendered Personal(JSP))と規定し、国際法で定める捕虜待遇から外します。
また、45年12月31日には「日本軍人は極限まで使役すべし」という命令が出されます。
これにより、ポツダム宣言第九条(捕虜の武装解除後の即時帰還)を無視し、彼らのうち10万人を「作業隊」として、1日12時間労働、素手による地面掘削、休憩・飲料水接種・用便の不許可、談話・喫煙の厳禁、作業現場までの片道15kmの往復駆け足、広場での長時間正座、駆け足移動に遅れれば殴打、疲労で倒れると強制的に立たされ、それでも倒れると放置されるなど、凡そ捕虜条約の規定では厳禁となっているものを全て無視することが出来た訳です。
また、作業中、休業中の暴行も茶飯事で、言葉が通じないとてまごついていると、命令不服従として、炎天下に広場を1時間走らせたり、食事の量を減らすなどの罰則がありました。
作業内容は、無意味なモノのほかに、汚水処理場、糞尿処理場での糞尿処理、ゴミ集荷、炭塵の立ちこめる船倉内での石炭積載作業、100kg入り米袋、岩塩袋の運搬などがあり、休日は1946年10月までは1日も与えられていません。
また、明らかに国際法に違反する作業、軍港においてのインドネシア軍との戦闘用に用いる弾薬の積み卸し作業、Guerrilla鎮圧も行なわれています。
ついでに、「捕虜」であれば、使役中の労賃は払われますが、「降伏軍人」では支払わなくても良いと。
民間人が使役した場合も、日本側には支払わず、英軍側に支払う形が取られました。
労賃は、1947年5月まで支払われず、それも現地支給ではなく、6月以降の賃金を日本政府が支払うと言う形になりました。
その労賃たるや、残業、手当は一切無し、熟練職が1時間1.5ペンス、非熟練職が0.75ペンスで、これは英本国の賃金水準の僅か32分の1に過ぎません。
給養についても同等。
SEACの支給は1600〜1700calの支給で、特に認めた場合は50%増しでしたが、Kレーションは3300calなので、英軍の半分の食料。
例えば、マラヤでは46年に米が一日分茶碗2杯強、昼食はビスケット6枚と小判型の魚の缶詰を5人で1缶。これはインド兵の64%の量でしか有りません。
衣服、寝具、日用品の支給は皆無、住居も掘立小屋。
当然、伝染病が蔓延しますが、英軍は毎日の作業隊内の患者最高率を提示し、それ以上は認めませんでした。最高率は各地区で異なりますが、1〜3%程度。
こうして、1947年10月10日までに、全体で8,971名が死亡、負傷者は延べ20,084名に上りました。
あ、片手落ちにならない為に補足しておきますと、日本軍上層部も「捕虜」の扱いではなく、相当の名誉と待遇を要求していた点もあり、「捕虜」に課せられる強制労働を嫌って、「降伏軍人」という扱いに同意した、と言うお馬鹿で脳天気な点も見逃せませんがね。
(眠い人 ◆gQikaJHtf2)
なお,「日本軍も不名誉な作業を断固拒否すれば通った可能性がある」という見方もある.
以下引用.
英軍は,日本降伏軍人に対してだけでなく,降伏インド国民軍軍人に対しても,復讐のため,糞尿くみとりのような不名誉な作業を科そうとしたが,この種作業をインド国民軍は拒否し通したのに対し,日本軍はしぶしぶながら受け入れて実施した.
インド国民軍の作業拒否が通ってしまったことからすれば,日本軍も断固拒否すれば通った可能性がある(事実関係は,36〜37,141頁による.)
ちなみに,日本の士官はすべての作業が免除されていた(208頁)が,英軍は,インド国民軍の士官には作業を科そうとした(141頁).
(日本軍と違ってインド国民軍は英軍捕虜「虐待」を行ったわけではないが,英帝国に対する反逆罪を犯したことになる.英軍から見れば,どっちもどっちだ.)
【質問】
「アーロン収容所」における,英国人が日本人等のアジア人を「家畜」視しているという会田の主張は正しいのか?
【回答】
太田述正によれば,根拠に乏しいという.
以下引用.
英国人が,日本人等のアジア人を「家畜」視しているという会田の主張は,俗耳に入りやすけれど,会田自身の論理に照らしても,極めて説得力に乏しいと言わざるをえません.
会田は,
「ビルマの農業は日本とちがって有畜農業である.牛,水牛,豚,山羊などの飼育数は相当なものである.牛や水牛なども耕作に利用するだけではない.交通運搬にも食用にもつかわれる.だからかれらは家畜の屠殺に馴れているといえよう」(183頁)
と指摘し,ビルマ人の(日本人から見た)残虐性(180〜181頁)を説明しようとしています.
そして同様の論理で,会田は,(英国を含むところの)西欧において有畜農業度が高いこと・・すなわち,
「日本人は一般に家畜の屠殺ということに無経験な珍らしい民族なのである.
同じアジア人でも,中国人やビルマ人は屠殺に馴れている.それ以上にヨーロッパ人は馴れている」(58頁)
ことを,西欧人のアジア人の家畜視とその「家畜」的扱いの巧みさ,及び(日本人から見た)西欧人の残虐さの根拠にしようとしています.
しかし会田は,支那やビルマの有畜度を具体的に示していないので,一体有畜度において,支那やビルマが日本等とともに,アジアとして一括りにできるのか,それとも日本(だけ?)を蚊帳の外にして,西欧とアジアを一括りにできるのか,定かではありません.
仮に後者が正しいとすると,会田の論理は成り立たないことになります.
それに,有畜度から言ったら,モンゴル等の遊牧民は100%近い有畜度のはずですが,そうである以上,遊牧民こそ,他の民族を家畜視する最たる者であり,かつ他の民族の「家畜」的扱いに最も巧みであり,その上,(日本人から見て)モンゴル人は最も残虐な人々,ということになるはずであるところ,モンゴル帝国/元朝による積極的な他民族の登用ぶりを見るにつけ,モンゴル人が自分達以外の民族を家畜視していた(いる)とは到底思えません.
会田の主張の説得力の乏しさをお感じになりませんか.
(3)各論1:排泄・性羞恥心の希薄さ
もう少し具体的に見ていきましょう.
英軍の女兵の日本兵を人とも思わぬような態度や,英軍の男兵の日本兵を前にした公然セックスの場面は,一般の日本人読者にとってはショッキングでしょうし,欧米滞在経験がなかった当時の会田はさぞかしショックを受けたことであろうと同情を禁じ得ません.
しかし,会田の受け止め方は誤解に基づく間違いです.
私が1974年に米スタンフォード大学に留学した際,最初の夏は寮生活をしたのですが,その折,カルチャーショックを受けたことが三つありました.
一つは,大学の近くの映画館でハードコアのポルノ映画を見たことですが,当時の日本でも,「観客参加」型のストリップがあったこと等に照らし,これはそれほど大きな「ショック」ではありませんでした.
強烈なショックを受けたのは,次の二点です.
第一に,トイレが男女別々にはなっていたけれど,大便器の置いてある「個室」に間仕切りはあっても,ドアがついていなかったことです.
ですから,他の学生から自分がいきんでいる姿が性器も含めて丸見えで,最初のうちは生きた心地がしませんでした.
もちろんトイレ掃除の人にも丸見えです.トイレ掃除をやっていた人が男性だったか女性だったかまではしかと覚えていませんが,女性だったような気がします.
第二に,二人部屋の寮の個室の壁がうすく深夜になると決まって隣室から,大音声のよがり声が聞こえてきたことです.
しかも,その声は長時間にわたって延々と続くのです.
何という羞恥心のなさ,何というタフさか,と閉口しつつ,私は目が冴えて眠れなくなってしまうのだけれど,同室の米国人の学生はいつも平気で高いびきをかいていました.
このようなことは,単なる生活習慣の違いであって,他人を家畜視しているとかしていないといったことと何の関係もないことは申し上げるまでもありません.
「アーロン収容所」に出てくる似たようなくだりについても同じことがいえます.
私自身,しばらくすると,トイレに入って腰掛けて,たとえ掃除の人が入ってこようと平常心を保てるようになりましたし,寮の個室で,いつも熟睡できるようになったものです.
(注13)英軍の女兵士は,自分が全裸でいる部屋に日本兵が入っても気にしなかったが,「入って来たのがもし白人だったら,女たちはかなきり声をあげた大変な騒ぎになったことと思われる」(39頁)というくだりは,会田の勝手な思いこみに過ぎない.
私は,入ってきたのが降伏ドイツ兵であっても,彼女たちは気にしなかったと確信しているし,仮に入ってきたのが英軍兵士であったとしても気にしなかった可能性があるとさえ思うのだが,そんなことは,会田が帰国後,文献等にあたれば,分かったはずだ.
「と思われる」としたまま,「アーロン収容所」を上梓した会田は社会科学者として怠慢である,と改めて言わせていただこう.
ただし,太田による批判には,論理展開が強引と思われる部分も少なくない.
本サイトでは,彼の批判論の内,論拠がある部分のみを拾い上げてある.
【質問】
「ホンチョー」とは?
【回答】
海外でも通じることにびっくりしてしまう日本語ランキング
このランキングには入っていませんが,アメリカで通じる日本語の一つに,
「Honcho」(班長)
があります.
何でも太平洋戦争中に捕虜になった日本兵が,捕虜の中でグループを作ったときに,その中でリーダーになった人物が必ず「班長」と呼ばれていたのを面白がった米兵の間から広まったとかで,日本語の意味と同じくリーダーとかボスの意味で使われるそうです.
先日読んだ『不屈の鉄十字エース 撃墜王エーリッヒ・ハルトマンの半生』(R.F.トリヴァー他著,学研,2008.1)という文庫本で,この”ホンチョー”という言葉が登場して一瞬唖然としたことがあります.
部下のパイロットたちを引き連れて飛ぶ編隊長,という意味合いで使われた言葉でしたが,まさかこんなところで
日本語が語源になった単語に出くわすとは思いませんでしたよ.
「ツナミ」や「モッタイナイ」のような,最近広まった日本語もありますが,わりと昔から使われた日本語語源の単語があるということは,ちょっと覚えておいてもいいかなと.
ナオ in mixi,2008年06月04日13:44
【質問】
戦後の東南アジア,中国からの軍人の引き上げは,何年ぐらいまで行っていたのでしょうか?
【回答】
東南アジアでは1947年10月頃,中国は1952年頃まで行っています.
前者は,捕虜ではなく,「降伏軍人」という扱いの下,Geneva条約の保護下に置かれず,
現地ゲリラとの戦闘から弾薬輸送に至る国際法違反の仕事に従事した他,英本国の32分の1の賃金(これも1947年6月から僅かの期間というひどさ)で,各種労働を行わせています.
しかも,米一人1日茶碗2杯強,ビスケット6枚,魚の缶詰5人に1缶で,インド兵の64%のカロリーしか補充されませんでした.
後者も同様に戦闘任務に就いたケースもありますし,満州の陸軍兵士の様に,新生中国の空軍要員養成を行ったケースもあります.
大抵は,すぐに帰れましたが,中には朝鮮戦争に義勇軍の一員として参加した人も居ます.
眠い人 ◆gQikaJHtf2
【質問】
太平洋戦争後,外地の兵が復員してくるのに2,3年掛かってていたようですが,なぜ,そんなに時間が掛かったのでしょうか?輸送船がなかったからとか?
また,復員待ちの人たちは,外地でどんな境遇にいたのでしょうか? 捕虜(難民)収容所行き?
【回答】
2,3年どころか,シベリア抑留の人々は10年帰って来れませんでした.
日本以外の外地には多数の人々が残されていました.
それに対し,日本の大型船舶は悉く,撃沈,損傷の憂き目に遭っているので,引き揚げるための足がありませんでした.
もう一つ,日本の敗戦と共に,中国,インドネシアを始めとして各地で内戦が勃発し,その戦乱の為に帰ってくることが出来ませんでした.
でもって,ソ連の場合は,捕虜条約を批准していないので,強制労働に従事させられました.
一方,英国植民地で抑留された場合は,彼らは,「戦時捕虜」ではなく,「降伏軍人」であって,その扱いは捕虜条約の対象外となり,英軍側は彼らに対する使役を自由に出来ました.
その他の地域でも,捕虜収容所に収容されましたが,その場所も病気が蔓延する地域に作られたので,今まで島嶼で元気に暮らしていた兵士も,多数死亡しています.これは,オーストラリア軍に捕虜になった人々の話.
(眠い人◆ gQikaJHtf2)
【小林主体思想】(別名:マルチ・スタンダード)
1943年の米軍の調査では,米兵の半数が日本民族を根絶すべきと考えていた.
その狂気はそのまま戦場に持ち込まれた.
従軍記者エドガー・L・ジョーンズは次のように書いた.
我々は捕虜を容赦なく撃ち殺し,病院を破壊し,救命ボートを機銃掃射し,傷ついた敵兵を殺し,まだ息のある者を他の死体と共に穴に投げ入れ,死体を煮て頭蓋骨を取り分け,それで置き物を作るとか,または他の骨でペーパー・ナイフを作るとかしてきた.
(小林よしのり「戦争論3」,p.238)
【ツッコミ】
その「1943年の米軍調査」データの出典は何なんですかね?
小林の他の事例から観て,歪曲引用していることも多いので,ぜひとも出典を明らかにして疑念を晴らして欲しいものですな.
また,捕虜に対する残虐行為ですが,そんなもの米軍に限ったわけではなく,各国軍に普通に発生しうる戦場の狂気の例でしかありません.
小林は,この記述を,「アメリカは日本人を人間扱いしていない」の一例としたいようですが,見当外れですね.
逆に,日本兵捕虜が寛大な扱いを受けた例も数々あります.
沖縄戦の日本兵捕虜の手記(なんと阪神の松木選手だ)では食い物たっぷりくれるし、シャワーやらトイレやらの設備もちゃんとしてるし、退屈で暇をもあましてるようだと用具や景品を支給して野球大会やなんかのレクリエーションもしてくれるし、労働力として使役する時はちゃんと代価を払ってくれるし、脱走を試みて捕まっても殴ったり蹴ったりされるわけじゃなし。
みんな暇をもてあまして支給された煙草(収容所内ではこれが通貨代わり)を賭け,カブや麻雀したり。
印象に残ってるのが,彼が使役された時にアメリカ将校から直接言われた言葉で,
「自分はドイツ兵捕虜の収容所にも勤務した経験があるが、ドイツ兵は文句ばかり言ってちっとも働かないのには閉口した。
日本兵は文句も言わずによく働いてくれるが,コソ泥を働くのには困ったものだ」
なにせ日本軍では,他の自軍部隊から盗んで
「員数を合わせる(装備の定数を確保すること.足りていないと班長にブン殴られる)」
ことには慣れてるし、コソ泥やっても米軍は追求甘いから滅多に捕まらないし、捕まっても大して厳しい処分されるわけじゃなし。
ことに,釈放されて日本へ帰国する日が近づくと土産品調達のため,泥棒は一層盛大になったそうで。
米兵の腕時計なんかは格好の標的で、それをチェックを潜り抜けて持ち出す手口なんかも紹介されています。
逆に日本が優勢だった頃の米兵捕虜の扱いも,小林が引用している例に負けず劣らずです,
いわゆる「バタアン死の行進」では,移送中の捕虜が些細なことで監視の日本兵に斬られたり,殺害されたりしており,倒れた重病の兵はそのまま路傍に放置されています.
また,日本本土では,捕虜収容所へと移送されている米兵捕虜を見た一人の婦人が
「おかわいそうに」
と言ったのを、運悪く憲兵に聞きつけられて、拷問こそされなかったものの,婦人はこっぴどく怒られた上に、翌日の大新聞には
「鬼畜米兵におかわいさうにとは何事か!」
「大和撫子の風上にも置けぬ」
等などの大袈裟な見出しが踊り、婦人の家族は街にもいづらくなって引越ししたとかしなかったとか・・・・・
ちなみに、その婦人をそこまで追い詰めた大新聞とやらは某朝日.
ソースは、当時新兵として徴兵されて内地にいたお人の手記です。(著者はのちに台湾に派兵されている。思想的にはノンポリ)
(エセ保守監視小屋),加筆
物事の一面だけを書き立て,都合の悪い部分は無視するというのは,中共なんかがよく行うプロパガンダ手法ですな.
◆◆◆シベリア抑留
【質問】
元巨人軍の水原はシベリア抑留時代はアクチブで,そのおかげで人より早く帰国できた,と聞いたが?
【回答】
三波春夫もな.
収容所内で共産主義を称える歌を歌を作ってた.
「三波が大衆性を獲得したのは,シベリアのラーゲリーにおいてでしょう.
そこで彼は<分かりやすい歌>に目覚めたようです.
戦争に行ったときは浪曲師だった(たぶん普通の).引き上げ後,赤い浪曲師として大衆性を追求し,
広沢虎造に叱られたりもするけど,捕虜収容所の日常体験が三波の原点です」
http://plaza.harmonix.ne.jp/~fumi-t/kia_kia.htm#12
まあ,生き残るためにはしょうがない.
【質問】
帝国ホテルの料理長として有名だった村上さんが日本兵としてシベリアに抑留されていた時,瀕死の同僚に
「最後に何を食べたいか?」
と聞くと,
「パイナップルを食べたい」
と答えたが,シベリアにそんなものはない.
それでも,ありあわせの材料で偽パイナップルを作って食べさせた,という話を聞きました.
これは実話ですか? 実話だとすれば,何をどう調理して偽パイナップルを作ったのでしょうか?
【回答】
事実です.
作り方としては,まずリンゴの芯を抜いたものを輪切りにし,それに爪楊枝で筋を付けたものを甘く煮て作りました.
ちなみに,瀕死だったこの方はその後快復し,無事帰国されたそうです.
(丼炒飯 ◆HY/YgdSbHM)
【質問】
シベリアに抑留された日本兵って,具体的にどういう事業に投入されたのですか?
【回答】
石炭・石油・非鉄金属の採掘、木材伐採、兵舎・工場の建設、河川・港湾の整備、シベリア鉄道本線・支線の建設や補修、機関車や貨車の修理、石油精製工場や重機械工場での操業、農場での労働など多岐にわたっています。
例えば、バム鉄道の建設なんかもそうですね。
また、南方に於ける英国軍抑留者の処遇も似たようなものでした。
他にモンゴル抑留ってのもあって,体験者の胡桃沢耕史氏の黒パン俘虜記によると,都市建設のためのレンガ切り出しなどとなってますな。
(眠い人 ◆gQikaJHtf2)
【質問】
ソ連軍に抑留された日本兵捕虜が作った建物が,今も残っているそうだが?
【回答】
林茂雄によれば,いくつかが現存しているという.以下,引用.
例えば,カザフスタンの首都アルマアタの国家警察本部の建物がそう.この建物は,ソ連時代にはKGBカザフ本部だった.
また,ウズベキスタンの首都タシケントの中心にあるナボイ・オペラ劇場も,日本兵の手によって1947年に完成した.
しかし旧ソ連時代には,タシケントを代表するこの劇場を,日本兵が作ったという事実は公表されていなかった.事情を知るものも口を噤んだ.
このため,ソ連時代に発行された旅行案内には,この事情が説明されていない.
1966年,タシケントは直下型大地震に見舞われた.震源地は街の地下100km.最初の揺れで,建築物の9割が崩壊した.
その惨状の中,ナボイ劇場だけは無傷で残った.日本兵捕虜の中に優れた建築技師がいたらしい.タシケントには地震が起こることを知り,十分な耐震構造を彼は建物に採用したのだった.
(林茂雄「イスラムのシルクロード」,芙蓉書房出版,1997/1/25, P.49 & 62-63,抜粋要約)
【質問】
シベリアから朝鮮半島北部へ移送された捕虜は,どんな人達だったか?
【回答】
詳細は不明だが,強制労働に絶えられなくなった病弱者だったと見られる.
以下,ソース.
先月〔2005/3〕、移送者約2万7000人の名簿がロシア国立軍事古文書館から日本政府に提供されたが、 これまで詳しい消息はほとんど判明していなかった。
〔略〕
厚生労働省などによると、北朝鮮への移送は強制労働に耐えられなくなった病弱者らを対象に46年ごろに行われたとみられる。当時の朝鮮半島北部は北朝鮮建国前で、旧ソ連軍が支配していた。
〔略〕
外務省によると、国交のない北朝鮮での墓参や調査はこれまで行われことがない。
厚労省社会・援護局業務課は
「北朝鮮移送者に死者が出た公式記録はない。今回の名簿を分析し、他の資料に照合したい」
と話す。
◇半世紀が過ぎ氏名判別難航
朝鮮半島北部に移送された旧ソ連・シベリア抑留者は、強制労働に耐えられなくなった傷病者とみられているが、半世紀過ぎた今も謎に包まれている。
シベリア抑留者延べ326人の証言を集めた「捕虜体験記」(全8巻)を編集した東京都府中市の江口十四一(としかず)さん(80)は
「帰還しなかった人がどれだけいるのかも分かっていない。
民間人も被害者になった無法な拉致であるのに、いまだに目的もよく解明されていない。
日本政府やマスコミはロシア側に対して、調査や責任追及を徹底して求めるべきだ」
と訴える。
しかし、抑留者自身も平均で80代に達し、関係者は次々に亡くなり、証言も得にくい状態だ。
厚生労働省に今月中旬に届いた名簿のコピーは929ページ。氏名と生年、階級が記されているが、旧ソ連側の聞き取りで作られたとみられ、キリル文字で書かれた氏名の判別作業は難航し、
「他の資料と照合して、分析を進めたい」(厚労省)
という。
【質問】
朝鮮半島北部に移送された日本人捕虜は,どんな待遇だったか?
【回答】
環境劣悪で,移送直後から数千人規模の病死者が出ていたという.
以下は,毎日新聞に載った,関係者の証言である.
東京都杉並区の中川清さん(78)は46年6月ごろ、ナホトカから船で朝鮮半島に移送された。
現在の北朝鮮を半年間、転々と移動させられた後、47年1月に帰国した。
46年7〜8月ごろ滞在した半島東北部の古茂山(コムサン)では、医薬品がほとんどなく、伝染病のジフテリアで死者が続出した。
同年8〜10月ごろ滞在した平壌(ピョンヤン)郊外の三合里(サムハプニ)ではコレラが発生。
「一度に300人近くが死亡し、収容所から山中の墓地に遺体を運ぶため数百メートルの行列ができた。
約6000人いた収容者のうち1000人以上は死んだはずだ。悲しむ気力もなかった」
と語る。
46年6月ごろ、朝鮮半島北部に船で移送された世田谷区の橋爪正雄さん(80)は清津(チョンジン)郊外の小学校に収容された。小さな校庭に約1000人が詰め込まれた。
「病弱な人が地べたに寝かされ、毎日10人以上が死んだ。3カ月で全滅すると思った」
と話した。
校庭で約2週間過ごした。屋内に移ってからは死者は減ったという。
板橋区の野口富久三(ふくぞう)さん(80)は,古茂山に滞在した46年夏ごろについて
「薬がなかった。亡くなった人が出て、山の斜面に運んで埋めた」
と言う。
46年夏、現在の北朝鮮東北部・古茂山(コムサン)の収容所。ジフテリアが衰弱した人々を襲った。
赤レンガの長屋のような収容所の医務室は、患者が廊下まであふれた。
東京都杉並区の中川清さん(78)は当時19歳。船で知り合った同年配の男性を,横たわる人々の中に見つけた。目じりからウジが出入りした。見かねて小枝で取り除いた。
「しっかりしろ」と手を握ると、かすかに握り返してくれた気がした。
わきで衛生兵がつぶやいた。
「だめだよ。時間の問題だ」
男性は翌日冷たくなった。
名前は分からない。シベリア各地から病弱者が集められ、知らない人ばかりだった。
平壌郊外の三合里(サムハプニ)では、栄養が不足しカエルやヘビを捕まえて食べた。
夜になると、目が見えなくなる人々が続出した。
仲間の肩につかまって、闇夜の中をトイレに向かう人もいた。
薬もほとんどなかった。板橋区の野口富久三さん(80)は古茂山の収容所で、下痢をした人たちに衛生兵が炭をつぶして飲ませるのを見た。
「どれほど効果があったか」
ロシア兵から「ダモイ・トーキョー(東京の家へ)」と言われ、シベリア鉄道と船で送られた先が朝鮮半島北部……。絶望のまま半年を過ごした。
「松が見えたぞ」
46年7月ごろ。中川さんが乗った船の日本人たちは甲板に上がった。だが、様子がおかしい。
誰かが「朝鮮だ」とつぶやいた。清津(チョンジン)港だった。力が抜けるのを感じた。
野口さんは「2度捨てられた」と表情を変えて言う。1度はシベリアに送られた時。日本軍上層部も承知していたはずだと思っている。2度目は北朝鮮に送られた時。働けなくなった自分たちをソ連も相手にしなくなったにちがいない……。
手元には、ソ連崩壊後の93年にロシア政府から受け取った「労働証明書」がある。労働期間はナホトカ港を出た46年7月25日で終わっている。
シベリア抑留の体験記は数多く残っているが、2万7000人が移送されたはずの北朝鮮での抑留体験は、ごくわずかしかない。
「楽しいことならともかく、あんなことは」
野口さんは朝鮮半島のことを妻にもほとんど語ったことがない。
中川さんも「名誉なことではないし、気が重く、進んで話す気になれなかった」と言う。
昨年、大病を機に、孫に残そうと手記を書き始めた。
「シベリアより近い北朝鮮なら,いつか遺族の方が墓地に探しにいけるのでは」
と2万7000人の名簿の公表に期待する。