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◆軍事組織全般
アジア・太平洋方面 目次
<第2次世界大戦


 【質問】
 統帥権って何?

 【回答】
 統帥権というものは軍隊の作戦,指揮,用兵に関しての権限のことです.
 これを軍令と言いますが,これは帝国憲法11条によって国務大臣の補弼事項の外にありました(統帥権の独立)
 .対し憲法17条によって軍の編成,常備兵額は内閣の補弼事項でした.
 これを軍政と言いますが,その軍令と軍政の区分が必ずしも明確ではありませんでしたので,内閣と軍部で権限争いが頻発したわけです.

 たとえば満州事変の際にも,独走する軍部の行動を内閣が制限しようとしたのに対し,軍部が
「軍令は統帥権の独立によって内閣の補弼事項ではない,
 よって内閣の指図はうける必要はない」
と統帥権の独立を持ち出して反発したという経緯があります.

in mixi
(レス者不明のため,連絡不能のまま掲載しています)


 【質問】
 満州事変以後大日本帝国降伏以前において,天皇が大元帥として奉勅命令をだして陸海軍を統帥する場合の手続きを教えて下さい.
 また,どのような場合に奉勅命令が必要だったのでしょうか?

 【回答】
 天皇の統帥権には,
国防計画に関する事項,
作戦計画に関する事項,
平時に於ける陸海軍兵力の使用に関する事項,
戦時に於ける陸海軍兵力の使用,即ち,作戦・運用に関する事項,
軍隊及び軍人の訓練・懲罰・内部組織に関する事項
が含まれます.

 これらの統帥権を行使するのは,帷幄の機関,即ち,参謀総長,軍令部総長,陸海軍大臣の上奏に基づき行なわれるものとされています.
 上奏を行なうのは,あくまでも,「事の軍機軍令に係り奏上するもの」で,これらは,「陸軍大臣,海軍大臣より内閣総理大臣に報告すべきもの」なのですが,屡々,この部分は忘れ去られています.

 帷幄上奏に基づき勅定されるのが軍令で,手続き的には,参謀本部,軍令部,または陸海軍省で作成したものを,参謀総長,軍令部総長,陸海軍大臣が天皇に上奏し,天皇が親署の後,御璽をツし,主任の陸軍大臣,海軍大臣が年月日を記入し,これに副署します.
 これで成立する訳です.

 本来は,これを公布する際には,内閣総理大臣への報告が必要ですが,先述のように屡々無視されています.

 また,公布は,公示を必要としない場合もありますが,公示が必要な場合は,上諭を付し,官報に記載します.

 ちなみに,2.26事件の様なクーデター等で行なわれた戒厳大権,戦時,内乱勃発時に行なわれる非常大権については,これは統帥権の埒外になります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板

親署と御璽

 ちなみに,こんな話も.
http://www02.so-net.ne.jp/~muraji/gunji/ikariage.htm
より.

 終戦直後の8月17日に,海上護衛司令部参謀の大井篤が,麾下の海上護衛部隊にアメリカ軍への降伏電報を打った後に,軍令部作戦部員の柴勝男にいちゃもんを付けられた時の会話.

柴:「大井君,あんな電報を打つとは何だッ.まだ負けとらん」
大井:「いや,天皇陛下はちゃんと詔書を出された」
柴:「天皇陛下は,あいつは臆病だから出したけど,われわれの上には大元帥閣下がいるんだ!」
大井:「違う! 大元帥閣下は天皇陛下の家来なんだ!」

 ……ちなみに,天皇陛下と大元帥閣下は,役職名が違うだけで同一人物です(苦笑)

生活板

 【質問】
 家永教授の説に
「奉勅命令は,国務大臣の副署がなく,天皇は統帥権の行使に関しては無答責でなく,その責任は免れない」
という趣旨のものがあると,引用で見たのですが,誤りでしょうか?

 【回答】
 そのあたりについては近年,研究の進展が著しく,家永説はすでにいささか古くなりつつあります.
 新しい動向を知りたい場合には,

青年君主昭和天皇と元老西園寺』(永井和)京都大学学術出版会, 2003.7
天皇の政治史―睦仁・嘉仁・裕仁の時代』(安田 浩)青木書店, 1998.5
昭和天皇とその時代』(升味準之輔)山川出版社, 1998.5

などがあります.
 特に永井の著書には,家永説に対する批判が収められていたと記憶しています.

軍事板

 【質問】
 「平時における兵力の使用」とはなんでしょうか? 見ようによっては,論理矛盾なんですが・・・

 【回答】
 これは,
・国内の反乱に対する場合,
・徒党を組み兵器により国家に反抗する場合,
・国外に於ける国家または国民の利益を防衛するために必要な場合,
・戒厳の場合
が挙げられます.

 米騒動の時や関東大震災の時の軍隊出動などが,これに当たります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2他 in 軍事板


 【質問】
 天皇は軍の最高司令官というのは,第2次大戦当時,名目上だけのことだったの?

 【回答】
 明治憲法に

第4条 天皇は国の元首にして統治権を総攬し此の憲法の条規に依り之を行う
第11条 天皇は陸海軍を統帥す
第13条 天皇は戦を宣し和を講し及諸般の条約を締結す

といった記載があるのだから,天皇は部外者になれるわけはありません.

 また,天皇の位置づけ上,内務大臣は天皇に戦況などを逐一上奏していたし,陸海軍を統帥する天皇がそれに対して意見を述べるのもありふれたことで,天皇は内政及び外交それに戦争遂行に密接に関わっていました.
 それに
「祚 天祐ヲ保有シ万世一系ノ皇祚ヲ践メル大日本帝国天皇ハ……」
に始まる開戦の詔勅は現代語しか理解できない人には難文でも,現代語に直されたものを読むと天皇の身勝手さが透けて見えてきます.

資料は
http://dokushin.hp.infoseek.co.jp/ten-6.htm
にありますが,前半部は以下のようになっています.

--------------------------
 神霊の加護を受けて,万世一系の皇位を受け継いでいる大日本帝国の天皇であるわたしは,はっきりと忠誠勇武なお前たち臣民に告げる.

 わたしは今ここに米国と英国に対して宣戦を布告する.わたしの陸海将兵は全力を奮って戦争に従事し,わたしの役人たちは職務に精励して奉公の実を尽くし,わたしの臣民たちは一億一心となって戦争の目的を達成するのに後悔が残らないように励んでほしい.
 そもそも東アジアの安定を確保して世界平和に貢献することは偉大な明治天皇,その後継者の大正天皇がお作りになった深い計りごとであって,わたしが常に心掛けているところであり,そして列国との交際を大切にし,すべての国と共に繁栄を享受することは,わが国が常に他国との交際における重要なこととしてきたところである.
 今不幸にして米英両国と戦端をひらくことになったについては誠に止むを得ないものがあったのである.
 どうしてこれがわたしの志に根ざすものであろうか.
--------------------------

完全変態 in mixi

 もっとも,天皇自身が戦争遂行への自己の影響力を最小限に留めようとしていた様子は伺える.
 天皇機関説事件の際,天皇が本庄繁侍従武官長に言った
「美濃部説の通りではないか.自分は天皇機関説で良い」
という言葉も伝わっている.
 戦争期間中,天皇が自己の意思を貫徹したのはただ一度,終戦を決断したときであるという説もある.

 なお,天皇問題は見解が分かれ易く,本項も折りに触れて修正・追記される可能性があるので,その点は留意されたし.


 【質問】
 昭和の旧日本軍への文民統制は行われていたの?

 【回答】
 現役の将校が陸海大臣をしていたことを見てもNOだと思う.

 しかし,戦前の天皇は基本的には「君臨せど統治せず」であった.
 軍権についても戦後思われているほど神聖不可侵というわけではなかった,現に大正時代には大規模な軍縮も行われた.

 それが昭和に入り,軍縮条約に反対な海軍が憲法を持ち出し,統帥権の不可侵を訴え,それに野党の政友会が乗って政権転覆を図った.
 それを見ていた陸軍が以後,統帥権を武器にして自分たちに都合の良いよう政権をコントロールした.

 要するに,ガキどもがゲームをしていたと.
 その内の目端の利く奴が,ルールの抜け穴を見つけて,勝利したと.
 誰もがズルイと思ってて,非難はする.
 ところが,次のゲームでは,別のガキもルールを尊重しようとしない.
 もっとあざとく抜け穴を突き,勝利を収める.
 これと変わらんわけですな.

 天皇を誰より機関扱いしていたのは当の青年将校な訳で,で,他の連中が機関扱いしようとすると,
「貴様,神聖不可侵のお上を機関扱いするとは何事だ!!」とやったわけ.

 ちなみに,憲法施行時から統帥権に問題があることは分かっていたらしいが,明治・大正の軍人はそれを利用しようとは思わなかった.
 彼らは,陸軍だ海軍だ以上に日本というものがあることを理解していた.
 目の前にロシアという強大な敵があり仲間割れしている場合ではないことが分かっていた.

 結局,昭和の軍人との差はそこなんだな〜.

軍事板


 【質問】
 戦前の日本の軍事費の,国家予算に占める割合は?

 【回答】
1887年 28.3%
  88  28%
  89  29.6%

1890  31.3%
  91  28.3%
  92  31.0%
  93  27.0% 文武官俸給10分の1削減,建艦費に転用
  94  69.2% 日清戦争
  95  65.2% 日清戦争
  96  43.5% 海軍拡張10年計画成立
  97  49.2%
  98  51.5%
  99  45.0%

1900  45.5% 北清事変
   1  38.4%
   2  29.6% 日英同盟締結
   3  47.6% 海軍第二次拡張10年計画成立
   4  81.8% 日露戦争
   5  82.3% 日露戦争
   6  54.3%
   7  34.8%
   8  33.5%
   9  32.9%

1910  32.2% 朝鮮併合
  11  34.7%
  12  33.6%
  13  33.4%
  14  49.2% 第一次世界大戦勃発
  15  39.7%
  16年 42.8%
  17  44.8% 海軍八四艦隊予算成立
  18  58.0% シベリア出兵,海軍八六艦隊予算成立
  19  65.0%

1920  46.8% 海軍八八艦隊予算成立
  21  41.9% 日英同盟破棄
  22  45.5% ワシントン海軍軍縮条約成立
  23  34.1%
  24  30.0%
  25  29.3% 宇垣軍縮
  26  27.7%
  27  28.0%
  28  28.5%
  29  27.1%

1930  28.5% ロンドン海軍軍縮条約成立
  31  31.2% 満州事変
  32  35.9% 
  33  37.9% 国際連盟脱退
  34  44.0%
  35  46.1%
  36  47.7% 海軍軍縮条約失効
  37  69.0% 日華事変
  38  76.8% 
  39  73.4% ノモンハン事変

1940  72.5%
  41  75.7% 太平洋戦争勃発
  42  77.0%
  43  78.5%
  44  85.5%
  45  44.8%

 以上「新訂 世界の国防制度」より引用しました.

名無し四等兵 ◆clHeRHeRHo in 軍事板

 大正初期〜昭和初期の一般会計歳出及び軍事費

   年 一般会計歳出額 一般会計軍事費 歳出額に
占める
軍事費の
割合(%)
    年 一般会計歳出額 一般会計軍事費 割合(%)
1915(大正 4)   583,269  182,168 31.2 1926(昭和 1) 1,578,826   434,248 27.5
1916(大正 5)   590,795  211,438 35.8 1927(昭和 2) 1,765,723   491,639 27.8
1917(大正 6)   735,024  285,871 38.9 1928(昭和 3) 1,814,855   517,237 28.5
1918(大正 7) 1,017,035  367,985 36.2 1929(昭和 4) 1,736,317   494,920 28.5
1919(大正 8) 1,172,328  536,687 45.8 1930(昭和 5) 1,557,863   442,859 28.4
1920(大正 9) 1,359,978  649,758 47.8 1931(昭和 6) 1,476,875   454,616 30.8
1921(大正10) 1,489,855  730,568 49.0 1932(昭和 7) 1,950,140   686,384 35.2
1922(大正11) 1,429,689  604,801 42.3 1933(昭和 8) 2,254,662   872,620 38.7
1923(大正12) 1,521,050  499,071 32.8 1934(昭和 9) 2,163,003   941,881 43.6
1924(大正13) 1,625,024  455,192 28.0 1935(昭和10) 2,206,477 1,032,936  46.8
1925(大正14) 1,524,988  443,808 29.1 1936(昭和11) 2,282,175 1,078,169 47.2

単位は千円

山田朗著『軍備拡張の近代史』(吉川弘文館,1997.6)


 【質問】
 戦前・戦中の臨時軍事費特別会計の内訳がどうなっていたか,教えてください.

 【回答】
 臨時軍事費特別会計の1943年度予算は以下の通りです.

公債金:17,163,802千円
借入金: 3,300,000千円
他会計よりの繰り入れ:4,916,203千円
 (一般会計:4,336,469千円
  関東局:71,799千円
  通信事業:64,000千円
  帝国鉄道;116,000千円
  朝鮮総督府:203,058千円
  台湾総督府:102,703千円
  樺太庁:22,173千円)
北支事変特別税:290千円
軍事費献納:18,809千円
物品払い下げ代金他雑収入:1,600,894千円
歳入合計:27,000,000千円

 これに対する歳出項目は,陸軍関係で
部隊の派遣維持,
時局応急の兵備改善,
作戦資材の応急整備,
航空要員急速補充,
造兵設備増強,
占領鉄道の管理改良
等が挙げられ,海軍関係は,
艦船部隊の派遣維持,
艦船航空兵力および軍需品の急速充実,
工作通信補給,
各種施設の急速整備
などに関する諸経費並びに,南方物資の取得に関する経費があります.
 残念ながら,金額までは不明でした.

 1937〜1945年のトータルならば,支出は以下の通りです.(単位は百万円)

陸軍                    海軍
 人件費: 9,370              俸給賞与:4,519
 物件費:60,872              庁  費:  133
 機密費:  756              雑給雑費: 972
 一時賜金: 240              衣料費:  4,738
 臨時家族手当:105           軍港要港費: 291
 俘虜収容費: 119            艦営費:   390
 軍政費:    114            水路費:  3,646
 物資購入特別諸費: 4,664      造船造兵修理費: 32,454
                        研究費:    282
                        受託造修費: 136
                        船舶費:   1,377
                        営繕費:  11,721
                        臨時特別給与品費: 270
                        物資特別購入諸費:1,853
                        艦艇製造費: 2,214

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板


 【質問】
 戦前は陸軍省と海軍省とで分かれていたけど,このことによるメリット,デメリットは何ですか?
 また,なぜ兵部省は陸軍省,海軍省に分かれたのですか?

 【回答】
 まず,分かれた経緯については別項参照

 そのメリットは「専門化」
 当然,陸海軍では装備も違えば,人員の訓練体系も異なる.
 軍政を司る部署がそれぞれの専門的所見に従い,装備計画,人員計画やそれらの背後に必要な財政計画などを策定し,運用した方が良好な結果が期待できる.
 陸海軍の組織がそれぞれ巨大化すれば,統一された部署で統制することも難しくなるわけで,兵部省が分割されたのも,近代化を効率的に推進するためだった.

 だが,なかなかそう上手くいくもんじゃない.

 デメリットは「不能率」と不要の「政治化」
 上述の「専門化」のメリットはあるとしても,国防体系は陸軍だけ,海軍だけで成り立っているわけではない.
 総合的な見地で上位に立ってこれを取りまとめる者がいないと,要らぬ不能率を起こすことがある.
 戦前の日本の場合は,ライセンスの二重払いだとか,陸軍が海軍同様の船舶装備を持つだとか,そういう問題が多々あった.

 しかも,政戦略レベルでの不統一も引き起こした.
 北進−南進の方針がまとまりが付かず,陸軍はロシア−ソ連を仮想敵国とし,中国を主戦場として予算を要求し,海軍はアメリカを仮想敵国として,太平洋上を主戦場として予算を要求する.
 どっちつかずの悪循環が生じた.

 その上,お互い自分の組織を守ろうとした挙句に,軍部の言い分を政治的に通そうする.陸海軍がそれぞれで.
 戦前の日本の場合は,閣議が全会一致制で,重要案件の閣議不一致となれば,内閣が倒れることさえある.
 陸軍大臣なり,海軍大臣なりが,閣議不一致を匂わせたら,文民の内閣にはどうしようもない.

軍事板


 【質問】
 第二次世界大戦時の日本の陸軍と海軍の仲が悪いとは良く聞きますが,それがどれくらい現実に影響していたんでしょうか?
 個人的にはどこの国でも多かれ少なかれあることで,特に日本の場合,陸軍と海軍が別々の国を師匠としていたそうなので,仕方ないことだと思っているのですが.

 【回答】
・ライセンスの二重払い@Daimler-Benz&Lorraine

・貧弱なインフラ,資本での二重投資@中島,三菱のエンジン工場,機体工場

・陸軍が大型船やら潜水艦なんかを造る.
(これには,「指揮系統の違いに起因するものであって,不仲に起因するわけではない」という意見もあるが,陸軍潜水艦は当初海軍には秘密とされていたことを考えると,少なくとも仲良い組織のすることじゃない)

 ただでさえ,貧弱な資源と資本を二重に出すほど非効率なものはなし.
 しかも,陸海の生産現場での技術交流は殆どないし.

眠い人 ◆gQikaJHtf2他 in 軍事板

 かなりの分野で基礎技術の研究分野まで縦割りだったと思うのですけど,日本陸海軍の兵器開発は. 海軍の艦政本部や空技廠と陸軍の造兵廠の研究部門ではやってる事がかなり重複するし,殖産政策で民間企業が育ってる分野でも,内部では陸軍担当と海軍担当に分かれて全く交流が無かったって話を,良く聞く からです.

 昭和18年に「これじゃいかん」って事で「陸海軍技術運用委員会」が発足,陸と海の大臣が交互に委員長になってパイプ通しをしたんですけど(少しは気にしてたのね^^;),ただ「成果上がらず」って評価なのですよ,これが(しかも18年になってから).
 おまけに肝心の航空技術が,この委員会の研究テーマからは外れているんです.

 もうちっとなんとかならんかなぁ・・・って今さらながら思います.

(軍事板)


 【質問】
 日本の陸軍と海軍の仲は,なぜに用語の統一を嫌がるほどになったのですか?

 【回答】
 「用語」と言われても広範囲に渡り,「零式vs百式」程度のたわいないものから「動員vs出師準備」みたいな意思疎通不能のものまで様々ですが….

 機器や物資の呼称が陸海軍で食い違う原因の一つに「陸海軍御用達」の会社の存在があります.
 たとえば陸軍寄りの川崎航空と海軍寄りの愛知航空,海軍寄りの三菱造船と陸軍寄りの三井造船,それぞれ陸海軍の要求に応えられるだけの大企業なので,海外企業と提携することも多く,コンセプトは同じでも呼称や仕組みが異なる機器が各企業でも生まれたりもします.
 そんな企業に対し,退役陸海軍将校が役員として天下りしてくるので,そのぶん軍と企業の癒着は強まり,陸軍専用会社・海軍専用会社の壁はますます厚くなり,技術交流も進めづらくなって,企業同士の意思疎通もうまくいかず,名が異なる同じ機構が陸海軍に採用されるという悪循環が起きもするわけですが.

鷂 ◆Kr61cmWkkQ


 【質問】
 軍部内に派閥はあったのか?

 【回答】
 派閥同士の対立は何処でも同じです.

 特に山梨軍縮,宇垣軍縮の時の陸軍内部の対立は,山県有朋から連綿と続く長州閥の占める陸軍中枢と,それに対抗するそれ以外の極端な保守派が対立していますが,この保守派の中には,薩摩閥を多く抱えていました.

 ちなみに,薩摩閥,長州閥の優遇というのは日露戦争以後,山県有朋の隠棲後は表向き影を潜め,士官学校出の様々な出身地の人々が徐々に増えていっています.

 海軍については,薩摩閥が多かったですが,こちらは西郷従道など薩摩出身者が部内の融和に勤しんだため,対立が極端になるといったことは少なかったようです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板


 【質問】
 日本の軍人の宗教への入信について教えてください.
 迷信や宗教は軍人に広まっていたのですか?

 渡辺洋二の本で,
・昔の源田実のライバル柴田中佐が,終戦前に「お光様」という新興宗教に入信したこと,
・それが新鋭機・秋水の開発にも陰に陽に影響を及ぼし,秋水の開発が失敗に終わったこと
を知りました.
 この渡辺本の内容が事実かどうか知りたいし,こうした「戦時中の軍人による(新興)宗教の事例」か,もしくは
そうした問題を取り扱った参考文献を教えてください.

 【回答】
 いくつか手掛かりになりそうなものをあげておきます.

 まずは田中智学の創設した「国柱会」です.
 ここは日蓮宗系の宗教団体で,宮沢賢治が入信していたことで知られていますが,田中智学は国家主義的思想が強く,石原莞爾に代表される陸軍内の強硬派の信仰を集め,多大な影響を与えています.
 ちなみに田中智学は「八紘一宇」という造語の創作者であることで知られています.

 次に,竹内巨麿の創設した「天津教」があります.
 いわゆる「竹内文書」によってオカルトファンには有名ですが,最盛期には荒木貞夫大将や真崎甚三郎大将といった錚々たる面々が信奉者として名を連ねています.
 最終的に天津教は,天皇家の紋章である菊花紋を使ったという罪で不敬罪に問われ,竹内巨麿は逮捕されましたが,終戦で不敬罪が消滅したことで無罪になっています.

 その他に,治安維持法違反で検挙された大本教にも軍人のシンパは多かったとか.

 この時期の新興宗教は,軍人を引き入れるのに熱心でした.
 これは,教祖側が官憲の弾圧に対する抑止力として軍人の力を欲したことや,軍人の中に国枠主義者が多く,教義的に受け入れやすかったことなどがありました.

名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE in 軍事板

 メジャー宗教においては,大日本回教協会の初代会長は林銑十郎陸軍大将.
 また,1938年,日本側の寄付によって建てられた東京モスクの落成式には,頭山満・松井岩根陸軍大将・山本英輔海軍大将が列席しておる.

 もっとも彼らのイスラーム指向は宗教的なものというよりも,当時,満州国にかなり存在した回教徒に対する対策的意味合いが強い.
 そもそも林大将は皇道主義者であり,現人神を信じる皇道主義と,多神教を憎悪する(原理的な意味において)イスラームとは合い入れないものであるはずなのだが,なぜか当時の(今も少なからずの)日本人はそういう矛盾を感じなかったらしい.

 さらに笑えるのは,日本イスラームのパイオニア有賀文八郎(民間人)の著した「日本イスラム教の道徳概要」で,これは「但し」「但し」「但し」の連発によりて飲酒,豚食,喫煙を肯定してしまっておる.
 これではイスラームではなく,イスラーム神道と呼んだほうがよいかもしれぬ(笑).

 戦前は日本と中東の距離が地理的にも精神的にも遠く,お互いにファンタジーじみた「中東」理解,ファンタジーじみた「日本」理解(例えば中東での日露戦争礼賛がそれである)で事足りたのであろう.

 しかし,これほど情報化が進展した世界においては,もはやそのような牧歌的な関係は,望んでも得られぬであろう.残念なことだが.

イラン前国防相 ◆2ahDXUlKbw in 軍事板

 なお,以下のように日本政府によるイスラーム支援が行われたが,それは国家戦略に基づくものであって,宗教的な動機によるものではなかったという.

 日本は30年代の初めから,シナの回教徒を蒋介石の影響から解き放とうと画策していた.満州には回教徒協会が,シナには回教徒連合がモスレム自身のフォーラムとして設立され,南京政府を支援することが期待されていた.
 真珠湾後,回教及猶太問題委員会は,日本が英国を敵とするアラブの民族運動を支援し,パレスチナ人の問題にも関心を強めて来たので,その地位が高まる.

H. E. マウル著「日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか」
(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.80-81


 【質問】
 日本軍って第2次大戦当時,世界最強だったの?

 【回答】
 陸軍が世界最強だった瞬間は一瞬たりともないが,海軍の第一航空艦隊は一時は世界最強だった.

 少なくとも当時の機動部隊は,航空機の質・搭乗員の質共に世界最強だったのは間違いない.
 ただし大量生産のできない工業レベルの低さ・資源の無さ・補充の効かない人員は長期戦において勝ち目が全くなかったといっていいと思う.

 ぶっちゃけた話,開戦当時なら一回のみの海戦限定なら世界最強の海軍であったと言っても過言ではないのでは.
 そのくらい零戦と97艦攻は当時優れた機体だったし,艦爆搭乗員の技量は素晴らしかった.
 江草隆繁など間違いなく世界最高の艦爆搭乗員であり,艦爆隊指揮官だった.

軍事板


 【質問】
 日本軍の作戦の特質は?

 【回答】
(1)物質の欠如を補おうとする極端な精神主義
(2)総合性・ネットワークの欠如

 そして(2)について言えば,日本の軍隊には,戦争に必要な様々な要素を有効に結びつける発想が足りなかった.
 海軍で言えば,戦艦・基地航空戦力・海上航空戦力・巡洋艦・駆逐艦・潜水艦といったそれぞれのブロックが,それぞれに高度に名人芸的に専門分化して独自の戦い方を持っており,一回きりの艦隊決戦という特定のシナリオに基づいた役割を分担していたが,あくまでも戦艦による決戦を勝ち抜くための単一目標のための役割分担であり,時と場合に応じて,それらの力を総合して柔軟に運用する発想がなかった.

 発想がないということは,総合指揮できる人間がいないということでもある.
 つまり,日本海軍は大艦巨砲主義=空母軽視だったから負けたのではなく,戦艦と空母を有効に結び付けられなかったから敗れたのである.

 様々な軍事的単位を結びつけて総合力で戦おうという発想に欠けるため,通信や輸送など,各単位を結びつける分野は軽視され,結果としてその種の装備・兵器(レーダー・航空無線・対潜兵器など)の開発も立ち遅れたり,偏ったりした.
 また,装備・兵器が劣悪だから,いっそうネットワークが構成できない,という悪循環が生じた.

 兵器は,その国の軍事思想を正直に反映する.
 兵器の後進性は,経済力・技術力に規定されるだけでなく,必要度の認識や着想の欠如といった思想的な面にも起因するのである.

 なぜそのようなことになったのか?
 それは戦前期日本の軍事力が,海軍は大艦巨砲・艦隊決戦主義(反主流派としての航空主兵論),陸軍は歩兵中心・白兵主義という軍事思想に基づく,強固な作戦シナリオを長く保持したために,海軍なら戦艦,陸軍なら歩兵部隊を主役とし,他の艦種・兵種は脇役として,主役を支援する役割を分担した.
 したがって,既成シナリオ通りに戦争が進まないと,総合性・ネットワークの欠如した,極めて効率の悪い軍事力と化したのである.

詳しくは,山田朗著軍備拡張の近代史』(吉川弘文館,1997.6),p.225-231を参照されたし.

 それにしても,
「ある時代に作られたシナリオが,その後何十年も通用するわけじゃないよ」
という論理的意見がなぜ主流にならなかったのか,不可解でならない.


 【質問】
 決戦主義に異議を唱えた人物は,まったく存在しなかったのか?

 【回答】
 いなかったわけではない.
 たとえば貴族院議員・大河内正敏は欧州視察後,次の戦争は決戦で勝敗が決まるのではなく,国力で決まる旨,述べ,科学技術をもって生産性を高めることを提言している.

 以下引用.

 〔貴族院議員・大河内正敏は〕第1次大戦後にヨーロッパの財政経済視察の名目で派遣され,帰国報告した際には,兵士は百万でも2百万でもいくらでも召集することはできても,工業が甚だしく立ち遅れているから,このような大戦が再び起こり,我が国が参加したら,軍需品の自給自足がとうていおぼつかなく,国防が危ないと力説した.

宮田親平著『科学者たちの自由な楽園』(文藝春秋,1983/7/15),p.64-65

 大将4年,彼が貴族院で初めて演説したときには,戦争が起こったら日本の工業力では軍需品の調達が不可能であるとだけ主張していた.
 ところが,彼が理研所長に就任する前年,大正9年の貴族院本会議で行った「国防に関する質問演説」では,欧州大戦ではソンムの戦い一つで,我が国の年間製造能力でカバーできる砲弾の6倍の量が消費された.
 我が国の工業力は寒心に耐えないと説きつつも,さらに,
「有事の際には,我が国軍の要求するところの軍需品,国民の生活に必要なる諸物資は,外国からの援助に期待できない」
と述べている.
 そして,兵器のような直接の軍需品ばかりでなく,「国民の生活に必要なる諸物資」の自給自足まで計画してこそ,真の国防計画であると説いているのだ.

 のちにはやはり国会演説で,これからの戦争は日露戦争のときのように日本海海戦や奉天会戦で勝てば終わるような,そんな戦争ではない,現代の戦争は武力戦ではなく総力戦である,とまで言い切っている.

 兵器だけでない,あらゆる必要物資の自給自足を可能にするには諸産業を興し,生産性を高めねばならぬ.
 それを行いうるのは科学技術以外にない…….
 こうして,物理,化学の基礎科学振興から,発明,工業化を経て国防にまで到達する,技術至上の合理主義で貫かれた彼の壮大な思想は完成しようとしていた.
 もちろん,それを国是として施策するのが,どこまでも「政治」でなければならないのは当然だ.
 となれば彼にとって政治は,もはや友人,武者小路公共が評したような「余技」ではなくなっていたであろう.

宮田親平著『科学者たちの自由な楽園』(文藝春秋,1983/7/15),p.73-74

彼〔ファラデー〕が発見した電磁誘導は,マクスウェルの電磁波理論を生んだ.
 このこと自体は一見,実用とは無関係な物理学の基礎中の基礎の研究だったが,19世紀末葉には早くもマルコーニの無線通信が現れている.
 日本海海戦の勝利の一因も,信濃丸の第一報とされているから,科学の下瀬火薬と並んで,物理が日露戦争の勝利を呼んだということになるかもしれない.

宮田親平著『科学者たちの自由な楽園』(文藝春秋,1983/7/15),p.44

 ところが日露戦争が終わってみると,下瀬火薬や無線電信の功績は忘れ去られ,乃木大将や広瀬中佐の忠勇譚ばかりが人々の間に残った.
 慢心のあげくは戦争は精神力で勝てるという迷信≠ワでもちあがりはじめ,やがてこのことはついにはこの国を破局に導くのであり,どうやら事態は大河内の思想とは反対に,負の方向へ逆行していったのだ.
 そして肝心の正の方向では,政府は第1次大戦に触発されて科学技術を育てるべき理化学研究所を形式的に作ってみせただけで,この研究所に苦難の道を歩ませていた…….

同,p.74


 【質問】
http://www.bekkoame.ne.jp/~bandaru/deta01m.htm
 マハンの理論が,戦前の日本で熱狂的に受け入れられた理由は何なんですか?
 海軍はともかく,陸軍にも受け入れられるとは・・・

 【回答】
・わかりやすい.
・地政学上,いわゆるリムランドに位置する海洋国家である日本には受け入れやすい.
・決戦主義的な色彩が所々に看取され,陸海軍いずれの気質にも合っていた.
・陸上戦におけるいわゆる内戦戦略に基づく戦略を組立てており,
 大陸と南洋,両方面に仮想敵国を設定しなければならない日本の戦略条件にも合うものと考えられた.

軍事板


 【質問】
 なぜ日本軍はロジスティックスが貧弱だったのか?

 【回答】
 これこそ,まさしく国力の不足以外のなにものでもないわけですね.
 例えば太平洋戦争中の我が国の最大のネックは,石油以上に粗鋼生産力の低さにありました.鉄は産業の米といわれます通り,あらゆる産業にとって無くてはならない存在ですが,何しろ当時の我が国は法律によって製鉄会社が規制されるという状況にあり,戦争の必要によって粗鋼生産能力を急速に向上させる事が不可能な状態にありました.
 なにしろ,鉄鋼会社の管轄は商工省であって,陸海軍省は指一本触れる事ができなかったのですから.
 例えば貨物船を必要数作ろうにも,年間600万トンの鉄を巡って,あらゆる陸海軍を含めたあらゆる部局が奪い合いをしていたわけであり,そうした状況を調整するための最終的な権限を有する存在がいなかったのです.

 日本軍が抱えていた問題とは,簡単に言うならば行政権の最終的な責任者が存在せず,それぞれの役所の長の寄り合いが妥協で政治を行っていた,というその点にこそあり,それは日本軍だけの問題ではないわけです.
 つまり,当時の日本に必要であったのは,まさしく行政権を統合して執行できるようにするための政治改革であり,経済を官僚が統制するその非効率性を打破する行政改革であり,大陸経済との結びつきが強すぎたために,大陸の混乱状況が即日本の政治や経済に影響を与えるという状況から脱却するための構造改革であるわけです.

 つまるところ,通説による日本軍批判では,2ch.軍事板の構成員に理解し得るような形での説明は成立し得ないのではないかと,私は考えるわけですが,いかがでしょうか?

(名無しロサ・カニーナ ◆cDIj6u5gc from 週刊オブイェクト〔転載〕,2005/11/8)


 【質問】
 旧軍には,失敗をフィードバックして再発を防ぐ体制はあったの?

 【事実】
 フィードバックの体制そのものはなくもなかったのですが,不正確にだったり,不完全だったり,遅すぎたり…….

 例えば,建艦計画であるマル5計画の修正と改マル5計画の策定は,ミッドウェイのボロ負けを鑑みての昭和17年6月30日
 「昭和17年度補充計画」に戦備体系の再構築と戦力構造の再編を目指して,優先順位を
『1,航空機  2,空母  3,潜水艦 対潜水艦戦力』
としていたりもします.(こんなことはできて当たり前の話なんだけど)

 もっとも,
「連合艦隊の編成が航空母艦中心のものに根本的に編成替えさせられたのは,実に昭和19年になってからだった」(「日本海軍の戦略発想」 プレジデント社 千早正隆)
と述べる人も居ます.

 事実,開戦時に有った「南雲艦隊」正式名称・第一航空艦隊は,空母だけの編成で,随伴艦は,第一艦隊及び第二艦隊からの「借り物」.極端なコトを言えば「烏合の衆」.
 とてもじゃありませんが,「本格的な空母機動部隊」と呼べるシロモノじゃありませんでした.

 で,ミッドウェイ海戦でボロ負け後,さすがに,空母だけの編成じゃマズイだろうと,高速戦艦や重巡洋艦,駆逐戦隊を編入し,新たに「第三艦隊」を編成.
 でも,この時点で,まだ戦艦主力の第一艦隊,重巡洋艦主力の第二艦隊は,依然として残っていたわけで.
 それに,第三艦隊編成まで,高速戦艦4隻は第三戦隊に集約されていたのを,「第三戦隊」と「第一一戦隊」に2隻ずつ分割し,第一一戦隊だけを空母部隊に編入するというセコイ事をやっています.
 どーせなら,もとの第三戦隊4隻を,そのまま全部編入すれば良かっただろうに.
 更に踏み込んで言えば,この時点で第二艦隊を廃止し,重巡洋艦と駆逐戦隊を第三艦隊に編入しても良かったでしょう.
 この辺りにも,海軍上層部が,カビの生えた「艦隊決戦構想」をまだ完全に捨てきれないで居るコトが表れています.
 提督たちのポストを減らしたくなかったのかもしれませんが(笑)

 で,「実に昭和19年に」なってから,第一艦隊を廃止し,第二艦隊,第三艦隊を統合した「第一機動艦隊」がようやく編成されました.
 これでようやく「連合艦隊の編成が航空母艦中心のものに根本的に編成替えさせられた」わけですね.

 また例えば,酸素魚雷では当初魚雷自爆問題がありました.
 これは,信管が鋭敏すぎたこと,また,魚雷先端部の形状に問題が有り,これが為に航走中に魚雷先端部に真空が生じ,そのキャビテーションに起因する振動が原因でした.
 しかし,昭和14年に解決策が見出され,昭和15年から改良型の生産が始められました.
 しかし海戦までに全艦艇に行き渡らずに,改修前の旧型がスラバヤ沖海戦で問題を起しています(後のソロモン諸島の海戦ではそういった問題は起こっていません).

 でも,控えめに見ても,生産開始の昭和10年から昭和15年までの五年間,「三分の一が自爆する欠陥兵器」を「海軍期待の決戦兵器」としていたわけで.しかも解決策というのも,よりによってヘタリア海軍の高速魚雷の構造をパクって,なんとかツジツマ合わせたというもの.

 ……なんで旧日本軍は,こういう笑えない話が多いんだろう?

 一方,陸軍では例えば,機械化自動車化の必要性が,ノモンハン事件の時点で陸軍の一部――全部,ではない.例えば,東条英機が「機械化自動車化の必要性」を「理解」していたようには見えない――は理解しましたが, 国力の不足もあって,それに沿った機甲部隊の整備の目処が立ったのは,なんと昭和19年以降です.

 そもそも,「失敗をフィードバックして再発を防ぐ体制」ってのは,まず,軍上層部が,自らの失敗をキチンと認めるコトが前提.
 旧日本陸海軍の場合,自らの失敗を認めたがらないケースの方が,はるかに多かったと思われます.

※ ただ,マル5計画の戦艦建造中止は開戦前の11月に既に決まっていたようです.
 マル4計画の戦艦(110号艦「信濃」と111号艦)も,太平洋戦争開始と同時に建造中止.

極東板の名無し三等兵 ◆5cYGBbCsjQ,キルロイ,夏光華(シア・クァンファ) in FAQ BBS
& JSF in 「軍事板常見問題・mixi支隊」(青文字)


 【質問】
 旧軍では,第1〜といういわゆる頭号部隊の長は,エリートのポストですか?

 【回答】
 そうとは限りません.
 確かに第1師団や第1海軍区は首都防衛のために最初に設置されたものですが,第1師団とほかの常設師団の格は同じで全員天皇の拝謁を許されますし,第1海軍区を統括する横鎮長官は次期海軍大臣候補筆頭ではありますが,日露戦争まで呉鎮の装備がずば抜けて多かった,という時期もあります.

 近衛第1師団は伝統あるエリート部隊ではなく,近衛第2師団が本家ですから,同格とはいえ,近衛第1師団は近衛第2師団より年季が格段に違います.

 第1艦隊は迎撃艦隊,第2艦隊は攻撃艦隊なので,見た目は戦艦が勢揃いする第1艦隊が立派ですが,戦時に最も活躍するのは第2艦隊です.
 先兵となる第2水雷戦隊(第2艦隊)は新品の駆逐艦があてがわれ,第1水雷戦隊(第1艦隊)の駆逐艦は2水戦を追い出された型落ちの駆逐艦が集まってます.

 結論を言えば,単なる整理番号です.「1」に「最高級」のニュアンスはありません.

鷂 ◆Kr61cmWkkQ in 軍事板


 【質問】
 太平洋戦争までに沖縄や北方領土が要塞化されていなかったのは何故ですか?

 【回答】
 サイパンを含むミクロネシアの非武装化については,1919年のパリ講和会議で決定されていますす.

 沖縄についてはワシントン海軍軍縮条約の第19条です.
 ワシントン海軍軍縮条約の第19条では,太平洋防備制限事項として
イギリスは香港に
アメリカはフィリピン・グアム・アリューシャン列島に
日本は千島・小笠原・奄美大島・沖縄・台湾・澎湖諸島に
新たな根拠地や要塞を建設しないとの協定が交わされました.

軍事板

ソ連軍海軍歩兵,北方領土に侵攻す!の図
(『ロシア海軍歩兵設立300周年記念本 大祖国戦争の海軍歩兵』より)


CRS@空挺軍 in mixi,2008年03月30日18:15


+

 【質問】
 陸軍士官学校,海軍兵学校ではどのような入試が行われていたのですか?
 科目,問題形式,難易度,面接内容など知りたいです.

 【回答】
 陸士の場合…
身体検査:身長145cm以上,視力裸眼で0.6以上(実質的なボーダーは1.0だったとか)
学科試験:国語,漢文,作文,外国語,数学,理科,歴史,地理(昭和13年度)
出題形式は○×式でなく,記述式ばかり.
問題の内容は文章の解釈,書き取り,朝鮮・シベリアの地理等々(一例).
面接(内容不明)

 海兵の場合…
身体検査:身長152cm,体重45Kg以上,視力裸眼で1.0以上
学科試験:英語,国漢,国史,代数,幾何,物理
出題形式は陸士と同様.
内容は手元の資料にはなかった.
口頭試験:海兵を志願した理由など

 難易度は一高,陸士,海兵と並び称されていた位高かった.

 【参考文献】
「陸士よもやま物語」(村上兵衛著)
「士官学校よもやま物語」(比留間弘著)
「蒼空の器」(豊田穣著)


 【質問】
 昔は東大に行くより士官学校や軍の経理学校のほうが難しかったというのは本当ですか?

 【回答】
 経理学校,士官学校は高等学校卒業レベルですので,東大よりは…と言うのは違います.

 難しかったのは陸軍大学校の方で,これは陸士卒業の1割と正にエリートになります.
 例えば,同期で入隊しても,大尉で1年,少佐で3年,中佐で4年,大佐で6年と進級に凄く差が付きます.
 また,陸大出は,常に省部にあり,それ以外は部隊勤務と待遇でも差が出ます.

 花形かどうかと言う問いについては,大正期は肩身が狭かったです.
 昭和初期の場合は,「大学は出たけれど」という言葉に象徴されるように,会社勤めするにも大変で,軍人に人気が出ました

眠い人◆gQikaJHtf2


 【質問】
 大日本帝国時代の軍医の位置づけはどんなものなのでしょうか?
 戦前に,軍医になりたいと言う人はどうしてたんでしょうか?
 何歳くらいで医者になれたんでしょうか?
 今でも代々医者の家系と言う人はいるでしょうか?

 【回答】
 それについては,『石油技術者たちの太平洋戦争』(石井正紀著,光人社NF文庫,1998.1)という本が,町田保著『横観戦記ー一軍医による南方見聞録』(共栄書房,1985.10)から引用していて,軍医には
・大学在学中から軍籍にあり,卒業と同時に軍医として教育を受けた「現役の軍医将校」
・大卒後,徴兵検査を経て軍医教育を受け,満期除隊する「短期現役の軍医」
(但し軍医不足から除隊と同時に召集される)
・軍医予備員志願者として兵卒の基礎訓練,そして速成軍医教育を受けて衛生軍曹になり満期除隊する「軍医予備員出身」
(但し軍医不足から除隊と同時に召集,曹長として見習士官になり数ヶ月後に軍医に)
と三種類があったそうです.
(これらのコース出身者以外は実務に長けてても一兵卒)

 で,医者としての腕は軍医予備員出身が良い場合が多かったようですが,「見習士官だから」との理由で執刀が許されず,未熟な現役軍医将校の手にかかって落命する者もいたそうです.

グンジ in mixi,2007年09月17日19:53

 陸軍の場合,軍医は衛生部に属しています.
 衛生部というのは,医者,薬剤師,歯科医などが属しており,獣医は獣医部に属しています.
 彼等は,兵科には属していませんので,尉官以上は将校相当官と呼ばれます.ただし,陸軍は昭和12年に相当官から将校になっています.

 大学卒は,二等軍医または二等薬剤官,専門学校卒は三等軍医または三等薬剤官に任官します.
 この将校相当官になる人は,大学医学部,医学専門学校,大学薬学科,薬学専門学校卒業生を見習医官,見習薬剤官に採用し,陸軍軍医学校で教育します(あくまでも卒業生の教育であって,この段階では,軍が医師を養成する訳ではありません).

 陸軍軍医学校は,軍陣医学,薬学,看護に関しての教育を行なうもので,甲種は乙種修了の大中尉に一年,乙種は初任中少尉(大学,専門学校卒の医師,薬剤師)に一年,丙種は少尉候補者(看護)に一年,丁種は下士官(看護)に三ヶ月,他に幹部候補生対象の11ヶ月の教育がありました.
 歯科医は,1940年に新設されたものです.
 乙種学生の課程を経る者の大部分は,医学校在学中には医学校在学中に依託学生(大学)・生徒(専門学校)に志願して採用され,大正末からは在学中から毎年3週間程度の教育を3年に亘り行い,卒業後に見習医官・見習薬剤官となり,歩兵連隊で二ヶ月間教育を受けた後に任官して軍医学校で教育を受けました.

 また,1933年には軍医候補生というのが新設され,医師免許のある志願者を軍医候補生として,一ヶ月歩兵連隊と陸軍病院で教育し,大学卒は二等軍医に任じ,二年間現役,後予備役とする制度です.

 1937年には軍部隊の拡大に伴い,医師が不足した為,医師免許を持つ者は強制的に軍医予備員とし(軍医予備員を志願しなければ,応召では一兵卒として扱われます),短期教育で,予備役衛生軍曹,召集で部隊編入時に,予備役見習士官としています.

 太平洋戦争中は,前線に医師が払底した為,本来は軍医の召集年限を上げたかったのですが,それでは苦しいことがバレバレだからというので,全兵科の召集年限を上げたりしています.

 海軍は,官制としては,軍医科,薬剤科(後に歯科医科,看護科が追加となる)からなっています.
 陸軍と違うのは,軍医科は士官のみであること,大学,専門学校卒の志願者から選び,大学卒は中尉に,専門学校卒は少尉に任ぜられます(1942年以降は二ヶ月の見習尉官を経ます).
 予備役将校相当官というものはなく,短期現役士官制度,現役士官制度という制度を1924年作り,二年現役後,予備役に編入されます.

 海軍の軍医学校は,医師,薬剤師資格を持つ者が対象で,高等科学生(大尉に一年),普通科学生(新任尉官に六ヶ月),選科,専修学生(看護兵曹長で特務士官要員)の制度がありました.

 ちなみに,医者になるのは,初等教育(6年),中学校(5年)あるいは高等女学校(5年)を出た後,高等学校,あるいは大学予科(3年)から大学(3年)に進んで医者になる場合と,中学校,高等女学校卒業後,専門学校(3年以上)を卒業して医者になる場合がありました.
 専門学校は昭和の初めには,東京,岩手,九州,昭和,東京女子,大阪高等,大阪女子高等の各医学専門学校の他,日大専門部医科,帝国女子医学薬学専門学校がありました.

 1939年以降は軍医不足になった為,全帝国大学医学部と医科大学に臨時付属医学専門部が併設され,単独校として,官立の樺太,青森,前橋,松本,米子,秋田県立,徳島県立,和歌山県立,奈良県立,広島県立,県立鹿児島,山梨県立,三重県立,兵庫県立,山口県立,横浜市立,大阪市立,名古屋市立女子,福島県立女子,岐阜県立女子,私立順天堂の医学専門学校と,官立東京,福岡県立の医学歯学専門学校が設けられました.
 これらは,戦後,順次大学になっています.

 歯科医は全て専門学校で養成され,大学教育としては行なっていません.
 修業年限は3〜4年.
 官立は東京高等歯科医学校(前述の東京医学歯学専門学校)のみで,私立として,日大専門部歯科,日本,東京,大阪,九州(これは前述の福岡県立となる),東洋女子,日本女子に各歯科医学専門学校が設けられています.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2
陸軍軍医へのハローワーク・自衛隊医官の養成と,陸軍軍医の養成とを比較してみよう.
「軍医サンよもやま物語」関亮)

 じいちゃんが軍医だった.
 ある日,腕が皮一枚で繋がってる人が来たので,腕を取って窓の外にぽいって投げたら,外でバッターン!と大きな音が.
 何事かと見てみたら,偉い人が倒れていた.たまたま窓の下を通り掛かったら,いきなり腕が降ってきたので卒倒したらしい.
 ばあちゃんが大笑いしながら教えてくれた.

(生活板)


 【質問】
 戦前の日本には「陸軍病院」や「海軍病院」という施設はあったのですか?
 あったのであれば,所在地は何処だったのでしょうか?
 海軍病院ならば横須賀と呉にありそうな感じですが・・・.

 それと,それらの病院があったとしたら,今の防衛医大のように,一般人や軍人の家族も利用できたのでしょうか?

 【回答】
 陸軍病院も海軍病院もありました.
 海軍病院は横須賀,呉,佐世保,舞鶴の他,大湊要港・鎮海要港・馬公要港にもあり,それぞれは略称では横病,呉病,佐病,舞病……と呼ばれていました.略すると病気の名称にも読めてしまいますが‥

 独立行政法人国立病院機構を検索してみてはいかがでしょう.
 たいていの国立病院は,陸病・海病を継承していますから.

 また,潜水艦要員の湯治のために熱海温泉・別府温泉・嬉野温泉・山中温泉にもありました.
 ほかにも航空隊所在地や特攻隊演習基地にも設けられています.

(鷂 ◆Kr61cmWkkQ他)


 【質問】
 主計係というのが軍隊にはあると聞きました.
 旧日本軍にも会計帳簿はあったのですか?
 あるとするなら,発射した弾薬,敵の攻撃による被害は会計上,どの様に処理するのですか?

 【回答】
 当然,陸軍,海軍とも軍隊は官僚組織で,兵に現金を支給する必要がありますし,物品がなければ,兵器は動かせませんから,こういった部署もあります.

 日本陸軍の場合経理部と言い,兵科の中将に相当する主計総監がトップです.
 経理部は陸軍の経理,被服,建築を担当します.
 経理部に対する事務処理面での陸軍部内の信頼はかなり厚かったようです.
 この経理部に配属される将校相当官となったのは,兵科将校の内,不健康者,当該兵科に不満を持つ者,あるいは,大学法経学部,建築学科卒業生,専門学校卒のいずれかが充当されています.

 日本海軍の場合は,主計科と言い,庶務,会計,給与,被服,糧食,厨業を担当します.この主計士官は,視力の低い海軍志望者の憧れの的でした.
 士官担当官教育は,,経理学校で行ないますが,その教育科目は,軍制,庶務,兵学,衛生学,精神科学,法律学,経済学,財政学,会計経理,会計学,理化学及数学,文学(国漢・歴史・地理・仏独英語のうちから一つ)でした.

 いずれにしても,帳簿はあります.
 が,一般的に言って,弾薬やら損害やらを扱う訳ではなく,あくまでも兵士の給与や糧食の管理が主な仕事ですから,その内容は推して知るべしか,と.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板

海軍主計士官時代の中曽根康弘


 【質問】
 旧軍での軍楽隊はどうやって選抜していたんですか?
 志願したりもできたんですか?教えてください.

 【回答】
 陸軍の場合は,元々は管弦楽もやっていたので,音楽学校卒業生を主に採用していました.
 しかし,1931年からは,管弦楽の研究演奏を中止し,吹奏楽一本槍となっていますので,明示的に音楽学校卒業生を採用することは無くなり,陸軍戸山学校で,2年間学んで配属されることになっています.

 海軍の場合は,横須賀海兵団練習部で適性を見られ,新兵から配属されます.
 軍楽術練習生として,1年,その後,軍楽術候補生教育を行い,その後,軍楽下士官兵となった者の中で優秀な者は選抜され,特修科軍楽術練習生となり,更に技術秀逸且つ,音楽上の理論を修めるのに適当で,将来管楽,弦楽の教員に充てまたは,各種奏楽指揮の職に適すと認める者を選抜して,2年の教育を行います.

 軍楽練習生は管楽として,楽器奏法・合奏,理論として,音楽通論・楽譜書法,唱歌として,音階・音程,外国語として,独文綴字・音楽上用語読法を,特修科軍楽練習生は管楽・弦楽楽器奏法・合奏・奏楽指揮法・各種楽器教授法・和声論・音階・音程を教授しています.
 なお,特修科は,官立音楽学校(東京音楽学校,今の東京芸大)委託修業の方法もありました.

眠い人◆gQikaJHtf2


 【質問】
 旧日本軍でも演習や基地などの一般公開は行われていたのでしょうか?
 また,現在ある「自衛隊まつり」のような,軍と一般市民との交流行事などはあったのでしょうか?

 【回答】
 軍旗祭などと称する営戍地(駐屯地)の一般公開や,軍艦の公開なども,時折行われていました.
 現在と比べるとかなり制限されていますが,それなりの交流は行われていたようです.
 むしろ徴兵制のおかげで,大多数の国民又はその家族は軍隊と関わりを持っていましたから,ある面では現在以上に身近だったかも.

軍事板

 一方,少なくとも要塞に関しては法律で厳しく秘密保持が徹底されてて,近くの海で泳いだり漁をしたりもだめだったりといろいろ厳しかったみたいです.
 地図なんかも要塞の周辺は白紙みたいですよ.

ポ◆AH4kD1XSgw in 軍事板


 【質問】
 1930〜1940年代の日本軍において,素手での格闘の訓練は行われていたのでしょうか?
 訓練には相撲や柔術が含まれていたのでしょうか?

 【回答】
 陸軍士官学校,海軍兵学校等の軍学校では柔道をやってました.
 海軍では水兵の間でも柔道が盛んで,海兵団や各艦に柔道部があり,対抗戦なども行われました.

 一方陸軍は柔道にあまり興味を示さず,兵卒への訓練は行っていません.
 ただ軍刀,銃剣,短剣術の教範である剣術教範には,「付録」として接近格闘という項目がほんの数手ですがあり,これは銃剣格闘の類ですが,蹴り技,当身技が入っています.
 戸山学校は柔術,柔道の軍用化も研究してはいたようですが,実現には至っていません.

 もっとも1931年から中学で柔・剣道が必修になっているので,男子の何割かは柔道の経験があったといえます.
 当時,少なからずいた小学卒で終わった者などはこれも無いわけですが,戦前はどの小学校にも土俵があった,というほど相撲が盛んでしたから,日本男児なら投技の一手くらいは身に着けていたでしょう.

 この流れから相撲は陸,海軍共に盛んで相撲大会などはよく行われていたようです.

軍事板


 【質問】
 旧軍にもドイツみたいな「肉弾戦車撃破記章」とか「歩兵突撃記章」とかあったのですか?

 【回答】
 日本陸軍に於いて,軍人も受けることが出来る勲等は,大勲位菊花章頸飾から勲八等宝冠章まであります.
 このほかに,軍人のみが授与される功一級〜七級までを金鵄勲章と言います.

 将官は功一級〜三級,
佐官は功二級〜四級,
尉官は功三級〜五級,
准士官は功四〜六級,
下士官は功五級〜六級,
兵は功六級〜七級が授けられます.これらには終身年金も付いていました(1941年には一時金となる).

 これら金鵄勲章は,武功抜群の陸海軍将兵と軍属に賜るもので,ドイツ軍の様な戦車を破壊したから功績章を授与するとか,そう言う性格のものではありません.

 また,記章類としては,従軍或いは戦役,事変に関係した軍人,軍属,民間人に拝受される従軍記章,皇室,国家の典儀,大事業を記念すべき表章として制定された,記念章があるだけです.

 金鵄勲章は昭和17年以降,戦死者でなければ授与されない勲章になってしまいましたので,海軍では,生存者を対象に前線の航空艦隊司令長官や艦長の裁量により,司令賞の授与や特別善行賞一線付与などが行われました。
 また,逐次感状(表彰状)や短刀の授与も行われています。
 感状の授与は陸海軍感状授与規程に基づいて行われました。
 ただし,これらには記章等は与えられていません.

 陸軍では感状の他には昭和19年に陸軍武功徽章(甲・乙)が制定され,金鵄勲章に匹敵する生存者授章勲章として軍司令官以上の高級司令官によって授与されました。
 武功徽章は楯を縦横に重ねて十字形にしたデザインで,中央に「武功」の文字が書かれています.
 甲章は個人の武勲に対して,乙章は部隊の武勲に対して授与されたものでした.
 海軍には同様の勲章は存在せず,陸軍のみの独自の勲章でした.

眠い人 ◆gQikaJHtf2他 in 軍事板

 【質問】
 軍部による対外宣伝機関はあったの?

 【回答】
 ありました.

 第1次上海事変でH・S・ウォンが撮影したとされる「爆撃された上海南駅で泣く子供」,ヤラセではありましたが,反日プロパガンダに一役買った写真が配信されますと,対抗して「日本の主張を国際的に配信すべきである」との見解から,上海日本大使館,総領事館,海軍・陸軍の広報関係者,在中日本人有力者の手で,「プレス・ユニオン」なる,英文ニュースの配布機構が作られました.
 実際は相当に軍部の息がかかった報道機関ではありましたが,ドイツ・ウルシュタイン通信社,アメリカ「ライフ」誌やブラックスター通信社など,海外にも広く写真を配信していました.

 「フロント」という海外向けプレス誌も軍部は出していました.
 「FRONT」は「東方社」の出版という名目でしたが,実際には陸軍参謀本部の「御用雑誌」ではありました.
 しかし,カメラマンで木村伊兵衛氏がスタッフであったなど良質の写真を使っていた上,印刷技術には優れたものがあり,さらには97式中戦車の演習の写真で「貼り込み」で台数を増やすなど,当の発行者は認めていないにせよ,モンタージュ技術の上手さでも定評がありました.

(軍事板)

 さらに,PFPという団体も存在しています.
 例えばアマチュア写真家,桑原甲子雄氏は,「FRONT」を出していた「東方社」に誘われ,健康上の問題があるからと断っていたのですが,そのあと「太平洋通信社(PFP)」,外務省の外郭団体に入社しています.
 PFPは主として大東亜共栄圏の国々に日本の実情を伝えるのが目的で,風景や風物など観光写真に近いものを配信しており,東方社ほど国策宣伝色の強い通信社ではありませんでした.

 いずれにせよ,写真家にとって「白紙か赤紙か」,新聞記者や文化人の徴用令状は白紙,一般国民の召集令状は赤紙,国家総動員法による「徴用」として(建前でも)尉官待遇の軍属になるか,召集令状で一兵卒として徴兵されるかは,いわば「死活問題」でした.
 このため,通信社や新聞社にとどまるカメラマンは少なくなかったのですが,濱谷浩氏のように「東方社」に入社しても上層部と対立して1年で退社,徴兵されたカメラマンもおられます.

 なお,開戦と同時に新型カメラの輸入は止まっていましたが,「東方社」には日本に輸入されていなかった,最新型のライカも上海経由で入っており,加えて一般には入手不可能だったフィルムも,新聞社や通信社にいる限り不自由しなかったとか.

 上記の出典は,
・ワールドフォトプレス「カメラスタイル」17号連載記事「カメラは時の氏神」第7回
・朝日新聞社「アサヒカメラ」2005年8月号特集記事「写真家と戦争」
からです.

(某スレ86 in FAQ BBS)

 さらにまた,雑誌「NIPPON」というものもあった.
 同誌は昭和9年(1934)10月20日創刊.
 四六四倍判・総アート紙・64ページからなる豪華グラフ誌だった.
 文章は英・仏・独・スペイン語併用.
 国内版定価は1円50銭,「週刊朝日」が一冊20銭の時代だから,その豪華さは自明だろう.
 「NIPPON」は年4回の季刊誌として,敗戦までに計36冊発行された.

 出版元は日本工房.ドイツ留学から帰国した名取洋之助が組織した会社である.
 鐘紡や,外務省の外郭財団法人・国際文化振興会が,これを援助.国際的な孤立を深めるなかで,官民ともに危機意識が強かったためである.

 詳しくは
「グラフィックデザインは戦争が作った」
を参照されたし.

 【質問】
 WW2当時,日本ではカメラは「兵器」扱いだったって本当?

 【回答】
 昭和14年の「アサヒカメラ」によりますと,
コンタックス ゾナーF1・5つき 1700円
コンタックス ゾナーF2つき   1280円
ライカVa  ズマールF2つき  1040円
ロボット テッサーF3・5つき  480円
 つまり,地価が安かったこともありますが,「外国製カメラ1台=家1軒」は大げさではありませんでした.

 ただ,日本では高価なライカやコンタックスも,香港や大連など当時の自由貿易都市では,免税で安く買い求めることができ,この恩恵に浴した高級軍人や航空機搭乗員は少なくありませんでした.

 しかし,昭和15年の「奢侈品等製造販売制限規則」「経済新体制確立要綱」により,高額のカメラが販売を禁止され,それ以外のカメラも高額の物品税が課されたり,フィルムや感光材料に価格統制が実施されますと,カメラはアマチュアの手を離れ,軍需や体制翼賛目的にのみ供されていきます.

 昭和17年にはほとんどのカメラ・感光材料メーカーの工場が軍部の管理下に置かれ,徴用令によって生産スタッフは全員,現地徴用となりました.
 「写真兵器」と位置づけられたカメラや感光材料はれっきとした兵器の扱いになり,民間にはごくごく僅かな量しか,流通することはありませんでした.
 この頃には写真雑誌も全て廃刊,写真師も「全国写真撮影業統制組合」を通じてしか,民需用の感光材料を入手できなかったのですが,その主な仕事は出征兵士の留守家族に対する撮影奉仕でした.

 撮影した写真に関しては,新聞社の従軍報道員が撮ったものなどは厳重な検閲下に置かれ,民間,あるいはそもそも高価なカメラを持つことのできた高級将校や航空機搭乗員が撮影したものでさえ,日本に送ろうと思えば,検閲の網から逃れることは至難の業でした.


 【質問】
 当時の日本の写真機の性能は,どんなものだったの?

 【回答】
 JTBから昔出ていた写真集で,「ジュラ電からSL終焉まで」と言う一連の作品があります.
 この本は1947年〜1970年代までの鉄道写真を掲載しているのですが,写真器材も此処に出てきます.
 フィルムなどは,映写フィルムの缶の様なものに,20枚入りフィルムが入っている様なものですし,フィルムも円筒形の容器にきちんと収まっているのは稀で,軍のフィルムを用いて撮影する場合もあったようですが,偵察機用のカメラのフィルムは,高感度,中粒子,コントラストの強いもので,これを暗室でばらして,ロールに巻き付けたりしてたそうです.
 ちなみに,ブローニコダックなんかの性能は,今の写ルンですより酷いで性能だったみたいですね.

 この要因は「物資不足」,これにつきます.
 定着液,現像液の入手も難しいですし,現像技術についてもちょっと,と言う面がありました.
 カメラ,特に国産カメラそのものの性能も貧弱だったので,なかなか保存に耐えうる写真は撮れなかったりします.

眠い人 ◆gQikaJHtf2

 個人で艦艇写真を撮りためてた堀元美氏は,『写真集連合艦隊』(朝日ソノラマ文庫,1986.11)のエッセイで,当時の写真機材(レンズとフィルム)は,戦後から振り返ってみると非常に貧弱だったと書いている.
 場合によっては「写っていれば御の字」なんていう状況だった模様.


 【小林主体思想】(別名:マルチ・スタンダード)

 日露戦争以来くすぶりつづけた,日本に対する白人の悪意は〔日米交渉から第2次大戦中において〕こうして爆発した.

 〔以下,8ページに渡り,『いかに米国が日本を黄色い猿扱いしていたか』の記述が続く〕

小林よしのり著『戦争論』,p.234

 【ツッコミ】
◆残虐行為,差別:
 日本,枢軸側もやってる事だし.
 自分に都合のいい情報しか出さない,不都合な情報はカット,ってのは,小林が批判していた,南京虐殺問題や従軍慰安婦問題などでの左巻きの連中の手法そのまんまなんだけど.
 質量共,日本のほうが過大評価されているんじゃないか?とか,大陸や半島の主張は捏造水増しとかでアレだから,という点は私も同意できる所があるが.

◆米はWW2で,黒人だけで構成された第15航空軍・第99飛行隊というのが有って,終戦まで北アフリカ,ヨーロッパで活躍した.
 日本陸海軍が,「(国籍は)日本人」の大陸や半島系の人種たちでそのような部隊を作るとは思えん. 高砂族等の僅かな例外があるくらい.
 満州国軍なんざ,終始日本軍から軽く見られていたり.
 ※まあロスケやシナの迫害(自国民含む)は,アメ公欧州日本の非じゃないよな.

 そもそも単一民族に近い日本(というと,左巻きの連中はグダグダ言うだろうが無視)と,インディアン奴隷だった黒人その他多種の民族を抱えるアメリカを単純に比べるのはどうだか.

◆小林自体,日本の戦争は,宗主国の欧米と戦い虐げられた同胞のアジア人を解放して大東亜共(以下略)という考えだろうが
『欧米列強に歯向かったアジア人は日本人が初めて』
という嘘で他のアジア人を蔑視してるように読めるがな.
 絵も他のアジア人種はボロボロな描き方だしな.
(でそ,ういったアジア人種よりも欧米列強の人間のほうを立派に描くんだよな)

(キルロイ ◆dtIofpVHHg in 軍事板出張スレッド ,コヴァ板)


 【質問】
 戦闘要報と戦闘詳報,陣中日誌は異なるものですか?

 【回答】

○陣中日誌

 中隊以上の部隊・高等司令部の各部課で作成し,「甲」と「乙」の2種類がある.
 「甲」は戦史の資料とするもので,各部隊の経歴・遭遇した実況・所見等を記載する.
 「乙」は将来の改善の資料とするもので,編制装備・補給・衛生・資材等に関する軍事の経験を記載する.

○戦闘要報
 一部の戦闘が終わったとき(又は当日その局を結ぶに至らなかったとき),日没後速やかに,各部隊隊長が当面の戦闘経過概要,彼我の態勢,敵情判断及びこれに対する自己の企図,
 彼我の損害概数,弾薬燃料の残余と消費量概数などを報告するもの

○戦闘詳報
 一方面の戦闘終了後,各級指揮官が,戦闘の詳細を記録して提出する報告文書
 主要記載事項は,戦闘前の彼我態勢の概要,各時期における戦闘経過,関係部隊の動作.彼我の交戦兵力,敵の団隊号・将帥の氏名・編制・装備・戦法,戦闘後における彼我の形勢概要,戦訓など

軍事板


 【質問】
 太平洋戦争中,乗機や乗艦船がやられて,そのあと無人島で暮らして,その後救助という例はあるのでしょうか?
 漂着するまえにサメの餌食になったの人も多いと思うけど.

 【回答】
 例えばジョン.F.ケネディ.
 ケネディ中尉が率いる魚雷艇,PT-109は,1943年8月2日にソロモン諸島の近くのニュージョージアの西を哨戒していた時に,大日本帝国海軍の駆逐艦「天霧」との偶発的な接触事故によって船体を引き裂かれた.
 彼は痛めていた背中からデッキにたたきつけられたが,負傷者を命綱で結びつけ3マイル遠泳して,なんとか小さな島にたどり着いた.
 友軍による数日の探索後に島民2人に出会い,ココナッツに刻んだメッセージが元で救助された(このココナッツは後年,ホワイトハウスの執務室に暗殺の日まで置かれていたという).
 これらの行動について,ハルゼー海軍提督からの感謝状,名誉負傷章,海軍メダルおよび海兵隊メダルを受章した.
 しかしながら背中の傷はボートの上にぶつけた際に悪化し,さらにマラリアにかかり,1945年前半,終戦の数か月前に名誉除隊をした.

 あ,無人島じゃないや.

軍事板

 渡辺洋二の著作に出てくる話.
 サイパン進出中の海軍の「月光」がエンジン不調で鳥島周辺の無人島に不時着.
 アホウドリの死骸やらなんやらだけで20日間以上粘って,偶然吹き流されてきた漁船にようやく救出された.

軍事板


◆◆地位・階級


 【質問】
 旧日本軍の陸・海軍大臣は誰が選出してるの?
 確か首相には任命権or指名権がないんですよね.
 天皇が任命してるってのはわかりますが,実際に天皇が選んでるってわけじゃないでしょ?

 【回答】
 陸軍の場合は,大正13年,後任陸軍大臣は三長官(陸軍大臣・参謀総長・教育総監)一致の推薦を必要とすると言う,「陸軍省参謀本部教育総監部業務担任規程」という内部規定に基づき,大臣を選出します.
 ちなみに,大臣がその職を執行し得ない時(敗戦時の東久邇宮内閣)は,次官が三長官会議に参加します.
 ただ,この時は,土肥原教育総監を陸軍大臣に推しますが,首相の意志で,下村定北支那方面軍司令官になりました.

 三長官の意向と言っても,無統制時代(1930年代)には,内部的に省部(陸軍省・参謀本部)中堅将校の意向・人気・鼻息に左右されていますし,それ以外の時代でも,陸軍次官,人事局長の進言,情報,軍の長老である,皇族,元帥,軍事参議官などの大将クラスの意向も無関係ではありません.
 ちなみに,東条陸相の場合は,陸軍次官と参謀次長の談合で決定しています.

 海軍の場合は,前任海軍大臣の専権事項です.
 但し,1932年以降は,伏見宮博恭海軍軍令部長の同意,1941年の辞任後も元帥たる彼の同意を得なければ,海軍大臣の推挙は出来ませんでした.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板


 【質問】
 「3長官」とは?

 【回答】
 陸海軍省それぞれの最高ポスト.
 以下引用.

●三長官
 陸軍の三長官は参謀総長,陸軍大臣,教育総監,海軍の三長官は軍令部総長,海軍大臣,連合艦隊長官のことで,軍人となったからには誰でも渇望する軍の最高ポストであった.
 昭和一二年(一九三七)一月二十五日,組閣の待命を配した宇垣一成は,わずか五日で組閣を拝辞しなければならなかった.これは陸軍を代表する三長官が陸相を推薦しなかったからで,昭和一五年(一九四〇)七月一六日,宰相米内光政が総辞職に至ったのも畑俊六陛相の単独辞任と,その後任が得られなかったからで,これも陸軍三長宮の大きな影響力によるものであった.
 戦争末期,小磯国昭首相は戦争指導体制を強化するため,現役復帰と陸相兼任の希望を陸軍に申し入れたが,三長宮の拒絶拒絶により辞表を奉呈している.(中略)

 海軍では,ふつう次期海相の推薦は,海軍大臣が次官にも相談することなく推薦するのが恒例であったというが,東条内閣の海相推薦については,海相より次官に諮られ,次官,次長,軍務局長,人事局長,軍令部長らの協議によって豊田副武が推されたが,東條の強い反対にあって島田繁太郎を召すことになり,海相につづいて軍令部長が島田大将と会談してようやく受諾を得て決定したと言う.(後略)

北村恒信著「戦時用語の基礎知識」,光人社NF文庫


 【質問】
 旧陸海軍省の高級副官は,具体的に何をする職ですか? 今で言う官房長みたいなもの?

 【回答】
 大臣官房に於いては下の事務を掌る
一,機密に属する事項 
二,大臣の官印及び省印の管理に関する事項 
三,軍令の原本の保管に関する事項 
四,記録の編集及び翻訳に関する事項 
五,公文書類に関する事項 
六,図書保管に関する事項 
七,陸軍文庫に関する事項 
八,軍旗及び靖国神社に関する事項 
九,省属判任文官の人事に関する事項 
十,省内の風紀に関する事項 
十一,印刷に関する事項

http://imperialarmy.hp.infoseek.co.jp/rikugunsyou/mtop.html


 【質問】
 陸軍省や海軍省には,現代の防衛庁事務官のような文民官僚はいなかったのですか?

 【回答】
 陸軍省の場合,政務次官,参与官などの政務官を置いていました.但し,統帥事項には関与できません.
 また,大臣以下主要ポストは武官(法務中将が設置されるまでの法務局長を除く)です.

 とは言え,大臣,次官は文官の身分も持ちます.
 大臣は大将または中将,次官は中将(名目上少将でも可),局長は中将か少将,課長は大佐または中佐です.

 下っ端の方ですと,普通文官,教官,技術官(後に技術将校),法務官(後に法務部将校),監獄官,通訳官などがあります.

 海軍省の場合も同様に政務官がいますが,軍機軍令には関与出来ません.
 大臣以下の主要ポストは武官で,大臣,次官は文官の身分を同時に持ちます.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板


 【質問】
 現在,警察→防衛庁や防衛庁→警察のような出向がありますが,旧軍もそんな制度はあったんですか?

 【回答】
 省庁の官吏は文官任用令の拘束を受けます.
 従って,文官登用試験に合格していて,高等官待遇で,数年の経験があれば,別の官庁でその人を必要とする限りに於いて,別官庁,例えば内務省に出仕することは可能です.
 但し,あくまでも,これは陸軍省とか海軍省に勤務する官吏の話で,現役軍人がそのまま出向して別の職務に就くことは,2.26事件以後にならないと出て来なかったかと記憶しています.

 平時の場合は,普通の軍人がそのまま別官庁に出向することは,まず制度上出来ません.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板


 【質問】
 旧日本軍で,士官と将校の違いって何でしょうか?

 【回答】
 辞典的にはこういう意味.
・士官:国に武術的な面から仕える官吏
・将校:国家元首に代わって軍隊を指揮(将)し,国家元首に専門的な指導を与える(校)事を受け持つ者

 すなわち,
・士官は,少尉以上の階級を持つ軍人の総称.
・将校は,部隊のリーダーとして兵たちの指揮をとる士官を指す呼称.
 少尉以上なら士官.部下を持っていれば将校です(もちろん士官でもある).

 ただし,帝國海軍で「将校」と呼ばれるのは兵科と機関科の士官のみ.
 それ以外の科の士官は「将校相当官」と呼ばれた.
 例えば機関中尉と主計大尉であれば,機関中尉のほうが序列は上になる.
 機関科は大正4年から「将校」.
 もっとも指揮の優先権は階級にかかわらず兵科にあるけど.
 昭和17年に機関科が兵科に統合され,昭和19年の制度改正で,指揮権に関して表面上は兵科将校と変わらなくなってる.
 問題があったのは,長期間機関科将校としてのみ勤務してきた人達の中身.

 陸軍の場合も兵科が将校で,軍医,獣医,主計,軍楽などが将校相当官であり,彼らは士官.

 また,旧帝國海軍には「特務士官」という人達がいた.
 兵卒から叩き上げて尉官になった人達で,砲術や雷術などの特殊技能を持っている人達.
 この人達は,階級は尉官や佐官でも,指揮序列に組みこまれていないので指揮権がなく(例えば艦の生き残りが特務少佐と兵科中尉だった場合,兵科中尉にしか艦の指揮を代行する権利はない),特務士官は「士官」であっても「将校」ではない,ということになる.
 しかし昭和17年になると,必要あるときは将校・特務士官関係なしに階級の上下で指揮できる特例が認められている.
 さらに,昭和19年には一部の小型艦で同階級でも優先的に指揮できるという特例が認められた.

 なお,兵科士官でも部下を持っていない場合がある.飛行隊など士官ばかりで編成された部隊などでは,部下なしの士官が多かった.


 【質問】
http://homepage1.nifty.com/kitabatake/rikukaigun35.html
によると
「注・特務士官は昭和17年11月1日以後,特務の文字がとれる.」
と記されていますが,呼称等で実務面で真性士官と混同,語釈等の不都合はなかったのでしょうか?

 【回答】
 先ず,特務士官の数は,昭和の初めで1000名,太平洋戦争でも6000名程度しかいません.
(ちなみに,1930〜35年で所謂将校は5000名,1942年で17000名です.)

 連合軍もわざわざ待遇を分ける必要を認めていません.
 従って,少尉なら少尉の待遇を以て接します.

 ちなみに,ドイツ帝国海軍の場合も,機関将校は中流階級で尚かつ専門学校を出た者が殆どで,上流階級で高等教育を受けた士官とは明確に異なっていました.

 また,海軍部内では,特務士官は「将校」扱いではありませんので,混同することはありません.

 その進級は,准士官のうち,海兵・海軍機関学校・海軍軍医学校・海軍経理学校の選修科学生課程(1年半)を経た者,または准士官経験5年以上で技倆抜群の者から抜擢されます.
 正規の課程みたく,海兵・海軍機関学校を正規に卒業した訳ではありませんので,容易に見分けられます.
 大抵の場合,彼等の学歴は高等小学校卒業ですが,6年以上も現役士官から差を付けられています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2


 【質問】
 旧軍における技術士官は,「軍人ではあっても戦闘員」ではないと言う認識でOKですか?

 【回答】
 陸軍の場合は,砲工科技術将校を以て構成しています.
 即ち,彼等は兵科将校としての役割を持っています.
 従って,戦闘員の扱いになります.

 海軍の場合は,造船,造機,造兵の各科を統合したもので,彼等は,将校相当官に位置づけられます.
 従って,兵科将校ではありません.

眠い人◆gQikaJHtf2


 【質問】
 旧軍には「技官」という職種があったらしいのですが,技術士官との相違は何なのでしょうか?

 【回答】
 「技官」は,軍属で軍人ではありません.
 あくまでも,軍人以外で,本人の意思によって職業として陸海軍に勤務する者であり,文官,雇員,傭人に分けられますが,技術官は文官扱いです.
 その待遇はピンキリで,親任官待遇,つまり大将相当から,兵卒待遇まで様々ありました.

眠い人◆gQikaJHtf2


 【質問】
 日本軍には普通の階級の他に,技術少将とか造機少将とかがいたんでしょうか?

 【回答】
 いました.

 旧海軍の場合は,兵科と機関科に属する士官を将校と呼び,それ以外の科に属する士官は将校相当官と言う形になっており,兵科将校より一段低く見られていました.
 旧陸軍の技術少将と言った技術科の士官は,兵科に属するので,将校となります.
 陸軍でも兵科以外の経理部,衛生部,獣医部,軍楽部の士官は将校相当官と呼ばれており,厳密な意味での将校ではありません.

眠い人 ◆gQikaJHtf2

 帝国陸海軍では,少尉以上の階級について,「将校」と「将校相当官」の2つのカテゴリーに分けていました.
 軍隊の指揮については,将校相当官より将校が優先されるとか,服装や装具の細かな違いとか,待遇に関する細かい区別(むしろ差別)はいろいろあったのですが,ここには書ききれないので省略.
 詳しいことは軍制に関する本を調べてください.

 技術○○や造機○○というのは,将校相当官の階級です.
 もっとも海軍の場合,この両者が同時に存在したことはなく,もともと造兵科,造船科,造機科,水路科に別れていたものを,昭和17年11月1日の階級制度改定で,すべて技術科に統合したものです.

 陸軍には技術科はありましたが,造機科はありませんでした.
 また,陸軍が技術科の将校相当官を技術部将校に改めたのは,昭和15年の改正の時以降です.
 ただし,陸軍の技術部は兵科には含まれず,工兵,砲兵の一部が技術将校的役割を果たしていました.表向きは飽くまで砲兵○○,工兵○○です.

 なお,上記内容はかなり大雑把です.
 兵科将校以外については陸軍と海軍で制度が違う上,時代によってもかなりの変化があります.
 以下,海軍における変遷.

大正4年12月2日改正
 将校相当官の機関官は機関将校に

大正9年4月1日改正
・機関将校は機関科将校に改称

大正13年12月20日改定
・将官の機関○○は兵科と同様の海軍○○に改称

昭和17年11月1日改定
・兵科将校と機関科将校を併せて,単に将校と改称
・それを受けて佐官以下の機関○○も海軍○○に改称


 【質問】
 元帥について説明をお願いします.

 【回答】
 元帥とは,多くの軍隊では顕著な功績をあげた大将に与えられる称号とされていました.
 つまり,階級ではありません.
 日本においては,天皇の軍事上の最高諮問機関である「元帥府」に列せられた陸海軍大将に贈る称号でした.
 これは明治31年に制定された元帥府条例において規定されており,元帥佩刀と元帥徽章を特に授与され,副官2名を付属される特典が与えられました.

名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE他 in 軍事板
(「他」部分:青文字)


 【質問】
 「大将」「少将」は「将」を「しょう」って読むのに,「中将」だけは「ちゅうじょう」って濁って読むのはどうして?  「少将」の場合は連濁しないのに,「中将」の場合はどうして連濁するの?

 あと,軍隊の階級って,どうして「大」「中」「少」の3つなのでしょう?  「大」「中」「小」あるいは「多」「中」「少」なら分かるのですが.

 【回答】
 「大」「中」「少」なのは,明治の初めに日本式軍制を定めたとき,律令制度を手本にしたからです.
 特に近衛府の官職名がそのまま「大将」「中将」「少将」となっていますが,そのほかにも「大納言」と「少納言」,「大輔」と「少輔」など「大」と「少」が対になっているものは多いです.

 「ちゅうじょう」と読む理由については,日本史板か言語学板で聞くべき内容と思いますが,日本語の音読みで連濁が起こる場合は,一般的に直前の漢字がもともと鼻音([ng][n][m]のいずれか)で終わっていた場合です.
 「大将(たいしゃう)」「中将(ちゅうじゃう)」「少将(せうしゃう)」の「大」「中」「少」は,現代日本語の発音だといずれも母音で終わるように見えます.
 しかし,中国語や韓国語での発音を考えれば明らかなように,実は「中」だけはもともと音節末子音[ng]を伴っていました.
 そのため「中将」の場合だけ「将」が濁るのです.
・「大」:北京語[da4]・広東語[daai6]・韓国語[dae],
・「中」:北京語[zhong1]・広東語[jung1]・韓国語[jung],
・「少」:北京語[shao3]・広東語[siu2]・韓国語[so]

 なお,漢字音の音節末に来る3鼻音([ng][n][m])は,日本でも平安中期頃までは区別が意識されていました.
 この当時の3鼻音の仮名表記では,[-ng]は「〜う」または「〜い」,[-n]は「〜ぬ」または「〜に」,[-m]は「〜む」または「〜み」,となっているのが一般的です.
 しかし時代が下ると,[-ng]は普通の母音としての「〜う」「〜い」と区別がなくなり,また[-n]と[-m]も互いに発音上の区別が曖昧になって「〜ん」に統一されていきます.
 このためか,中世以後にできた比較的新しい単語だと,もともと鼻音で終わっていた漢字のあとでも連濁が起こっていない場合も出てきます.


 【質問】
 大佐」「大尉」の「大」は何と読むんですか? 「だい」? 「たい」?

 【回答】
 陸軍では「たいい」「たいさ」ですが,海軍では「だいい」「だいさ」と読みます.
 これは,明治維新の頃の日本においては言葉の壁の問題(方言)が非常に大きかったため,軍隊内で通じる言葉遣いを作り上げる必要があったからです.
(だから「〜であります」のような長州方言が残ったんですねぇ〜 )

 この「大尉」「大佐」の読み方も同様で,それまでみんながてんでバラバラに読んでいたのを,陸が「たい」,海が「だい」と統一した読み方を決めたわけです.

 陸軍と海軍で何で読み方が違うかは・・・
 はい,みなさんの想像通り例によって例のごとく対立してたんですねぇ〜  莫迦ですねぇ〜

軍事板

  たまたま「軍事研究」という専門雑誌の2007年1月号が送られてきたので目を通すと,「軍事用語のミニ知識」欄に,今月の用語として「海軍大佐,1等海佐」が解説されていた.
 詳しくは「軍事研究誌」をご一読願いたいが,「日本軍の階級呼称は合理的…陸海空ともに大佐(一佐)」とある.
「1870年(明治3年)に兵部省が定めた陸海軍軍人の同格の階級呼称は共通であり,たとえば陸海軍共に大将,中将,少将,大佐,中佐,少佐,大尉,中尉,少尉と呼ぶ.
 ただし発音が僅かに異なる部分があり,大尉の『大』は,陸軍では『たい』,海軍では『だい』である.
 正式には陸軍大佐,海軍大佐となるが,部隊勤務,社交などの場では大佐で通用する.
 いずれにせよ陸軍,海軍の階級呼称が全く異なる西欧の制度よりは,まことに合理的である」
とあるが確かにそう思える.

軍事板?


 【質問】
 日本語の軍隊の階級名で,准尉や准将があるのに「准佐」がないのは何故なんでしょうか?

 【回答】
 たしかに日本語だが,日本の軍隊の階級には准将はないからな.
 あくまでも訳語だ.英語のBrigadier General対応.
 准尉もWarrant Officerの訳語だな.
 したがって,准佐がないのは簡単.そんな階級は外国にもないから.

 さて,昔の軍隊では平民は下士官兵にすぎず,士官(少尉以上)は貴族しかなれなかった.
 そのため,平民出身者で功績があり士官に昇進させる必要があったときに,「尉官に准ずる」って意味で准尉という階級ができた.(英語では"Warrant Officer".「士官権限のある」くらいの意味)

 准将はちょっと意味が違って,「旅団長」という意味の"Brigadier"を訳したときに造られた言葉.
 旅団を率いるのだから佐官でもあるまいという程度のノリ.

 ちなみに自衛隊では,准尉は定年間近の古参陸曹が名誉的に昇任する階級.
 古株中の古株であり,経験豊富でなくてはならない存在なんだけど,士官になる事を選択しないで曹階級に留まっている人なんで,そういう扱いになる.

軍事板


 【質問】
 三等兵は実在しない階級なのでしょうか?
 それとも,二等兵がヘマをしたら三等兵に降格させられるのでしょうか?

 【回答】
 三等兵という階級は,陸軍では大正末か昭和初めの軍縮時代に廃止され,従来の一等兵が「上等兵」に,二等兵が「一等兵」に,三等兵が「二等兵」に変更されました.
 これは,当時の鉄道省が客車の「三等車」を廃止したことが引き金となって,劇場や映画館から次々に「三等席」が姿を消していたことが遠因と言われています.

 海軍では昭和17年11月の改正で「三等兵」「四等兵」が廃止され,陸軍と同じく二等兵からになりました.
 つまり,昭和17年10月までは海軍には「四等水兵」が居ました.

 ちなみに一昔前,「海軍四等水兵」の遺族から特別弔慰金の請求が出たが,受けた県庁に
「二等兵が一番下なんだから『四等水兵』なんているわけねえじゃん(嘲)」
って却下されて,いろいろあって厚生大臣宛てに手紙を書いたら,厚生省の担当課に回されて,担当課で調べるまで厚生省でも誰も「海軍四等水兵」なんてものが本当にいたと知らなかった,ってことがあったとかなかったとか.


 【質問】
 「兵卒」っていうのは,どこかの兵学校を卒業した兵士のことを言うんでしょうか?

 【回答】
 明治の終わり頃までの軍制では,兵の階級は,
上等兵〜一等卒〜二等卒
となっていました.
 つまり,「兵」と「卒」の総称で,「兵卒」です.

 もともとは古代中国の兵制からくる呼称で,卒は兵より1ランク下に位置づけられていたのです.


 【質問】
 軍での出世は,他の官庁・公共機関に比べて早いほうだったの? 遅いほうだったの?

 【回答】
 官等昇進は官吏や大学教授に比べるとずっと遅くなります.
 従って,同年齢で比較すると,甚だ低いことになります.

 例えば,同年齢で,官吏で課長(高等官三等で年収3,360円),大学教授(高等官五等で年収1,220円+ 職務棒800円以内)に対し,軍人は大尉(高等官六等で年収1,900円)です.
 特に陸士陸大(海大でも同じ)の人間からすると,東大卒高等文官試験合格者と同じくらい,もしくは頭脳優秀なのに,なぜ,という不満がありました.

 敗戦時の内閣書記官長だった迫水久常の回想で,
「敗戦時は内閣書記官長でしたが,内閣書記官長は中将相当官なんだ.
 ところが,私と同い年の人が陸軍では大佐.軍務局の軍事課長という陸軍の中枢の人が,『何だって君が中将で,俺が大佐なんだ』と言って非常に怒っていた」
という話があります.

 ちなみに軍人の場合は,満20歳で高等官である少尉になり,24歳で普通ならば中尉に任官します.
 官吏の場合は,24歳でも判任官が少なくありません.
 大学の場合も判任官(助手)が長かったりします.
 しかし官吏や大学教授は高等官に任官すると,それ以降昇進は急カーブとなり,軍人を忽ち追い抜くことになります.

 但し,文官の勅任官就任は,大卒高文合格者のうち,半分以下.
 軍人の勅任官就任は,陸大卒の場合は,80%に上ります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板


 【質問】
 日本軍では学校を出てないと出世できなかったの?

 【回答】
 海軍の場合,兵学校を出ていないと,どう頑張っても確か少佐止まり.
 しかも兵学校出とは,ガンルームへの出入りなんかで区別されたようです.

 陸軍の場合,兵卒から上級将校への道もあり,現に二等兵から大将まで上がった例もあるようです.

 一般的には海軍の方がリベラルだと思われがちかもしれませんが,英海軍の階級社会を持ちこんだような所もあり,そういった意味では陸軍の方がチャンスはあったようです.

軍事板


 【質問】
 大叔父はビルマで戦病死したのですが,大叔父の眠る町営墓地の戦死者の墓標には「判任官二等」となっています.
 他の人とは階級が違うので不思議に思うのですが,鉄道省で技師をしていたのと関係があるのでしょうか?

 【回答】
 判任官は,大権の委任に基づき,行政官庁に於いて任ずるものです.
 下士官も判任官ですし,警察官も警部,警部補,消防士は判任官です.
 このほかの官吏では,属,技手,考証官補,外務書記生,警務官補,神宮司庁伶人,裁判所書記,看守長,帝大助手,文部省直轄学校助教授,二等郵便局長などがあります.

 恐らく,判任官待遇として軍属で徴用され(可能性としては泰麺鉄道建設関係でしょうか),死亡したのであれば,その官名で墓誌が書かれる可能性がありますね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板

 「判任官」や「奏任官」というのは軍の階級ではなく,官吏としての身分の高さを示す職階です.
 これにより,階級制度が異なる組織の官吏の間でも,どちらが上級者か判断することができます.

 大叔父様のお墓に軍の階級が明記されていない理由は分かりませんし,あるいは終戦直後の混乱によるのかもしれません.
 ただ,もしかすると,大叔父様は正規の軍人としてではなく,軍に雇用された技師や通訳などの「軍属」として従軍されたのかも知れません.
 軍属も,軍での待遇を決定するために「判任官二等相当」などのランク付けを受けましたので,それが大叔父様の戦死後に誤って伝えられた可能性はあります.

 海軍軍人の場合,下のサイト
http://homepage2.nifty.com/nishidah/mr95.htm
によれば「上等兵曹」(下士官の上級者)が「判任官二等」に当たります.
 それによって陸軍の軍属の場合を推定すれば,おそらく「曹長」に相当されるランクの方かと思われます.


 【質問】
 旧陸海軍の予備役軍人(将官)の人がいますが,どのような生活をしていたのですか?
 政府や軍に関係しない人は,官位等が与えられ,恩給で悠々と生活していたんでしょうか?
 それとも民間企業とかで顧問等になっていたんでしょか?

 【回答】
 人生色々♪.

 将官まで勤め上げた人なら,余程のことがない限り,基本的には,何処かの軍需関係の企業や軍関係の外郭団体,その他でも地方公共団体が拾い上げてくれます.
 今の何処ぞの国の公務員と同じだと….

 例えば,55歳の大佐(兵科の場合)であれば,少将に進級することが無ければ,現役から退くことになります.
 現役のままでも,補職の命令がなければ待命となります.待命と言うのは,俸給は支払われますが,職がない状態です.
 待命期間は1年で,この間に補職が為されないと,休職となります.
 この間に就職活動とかする訳で.

 休職期間は2年で,これが過ぎると予備役に編入されます.
 そして,現役定限年齢に達した日の翌3月31日に後備役に編入されます.
 後備役の期間は6年で,それを過ぎると退役になります(1941年以降は予備役6年で後備役は無くなる).

 なお,待命〜休職は人によってまちまちで,この手続きを経ずに本人の願いによる場合,あるいは健康状態や,人事上の都合で,直接予備役編入という場合もありました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板


 【質問】
 地元の広報誌に記載されていた「むかし話」で,“尊敬されていた町医者の先生は軍医でもあったので,拝賀式などでは軍刀を下げて挨拶に立った”とありました.
 そこで疑問なのですが,兵役が終わり,除隊した人は,公式に軍服が着用できたのでしょうか?

 【回答】
 別に軍人を辞めるわけじゃありません.予備役に編入されるだけです.
 それに軍医なら士官な訳でして,予備役年限はなく終身服役です.

 旧日本軍の場合,下士官兵なら現役終了後,予備役・後備役・国民兵役ときて, これらが終了した後に御役ごめんとなって軍人としての身分を失います.

 准士官以上の場合は,現役終了後に予備役・後備役(後に廃止)の後に退役ですが,終身服役で不祥事を起こさない限り死ぬまで軍人としての身分を失うことはないので,現役軍人ではなくても一応軍人といえるとおもいますが,世間的に見ればよほどの有名人や郷里の英雄といったところでないと,やはり軍人ではないでしょう.
 ただし,元帥のみは死ぬまで現役でした.

 自衛隊ではこれらと大きく異なり,即応予備自衛官や予備自衛官は少し違うみたいですが, それ以外は元自衛官であっても自衛官であるとは到底言えず,制服を着て外出すると,趣味のコスプレ自衛官と同じ罪に問われるそうです.


 【質問】
 死んだら二階級特進になるという事ですが,たとえば陸軍大将など現時点(大東亜戦争)で最高位の人の場合,どうなるのですか?

 【回答】
 旧日本軍の場合,二階級特進は佐官までです.(アメリカは将官でもアリ)

 戦死したら特進というのは誤解で,卓越した武功を立て全軍布告に値すると認められた場合のみ適用されます.
 かの「爆弾三勇士」が二階級特進したのをキッカケに制度化され,時代が下って玉砕戦が始まると,二階級特進が多数適用されるようになりました.

 ということで,死んだら二階級特進というのは絶対のルールではないので,これを守るために階級を創設することもありません.

軍事板


 【質問】
 うちの爺さん,戦争が終わっても昇進しなかったんだけど……?

 【回答】
 「ポツダム昇進」というのは,終戦後(=ポツダム宣言受諾後)も復員せずに戦後処理をする旧軍の人間に,米軍が便宜的に部内限りでの権限を与えていたことを指している.
 別に終戦によって一律に昇級が行われた訳じゃありません.

 緒戦時に英軍からの鹵獲食糧を「チャーチル給養」と呼んだりしたのと同じ言い回し.

軍事板


◆◆中国軍


 【質問】
 中国軍は「チンピラ,ゴロツキに毛が生えた程度」と言う評価だったり,「ドイツ製装備と軍事顧問団により,かなりの精強を誇った」と言う評価だったりしますが,どちらが真実なのでしょうか?

 【回答】
 どちらも真実を表している.

 例として国府軍の場合だが,これは軍閥との連合軍でもあるので,その中に馬賊,匪賊が含まれていた.
 国府軍本体はドイツ製装備と軍事顧問団の指導により,第二次上海事変以前までは在支派遣軍より戦力が上だった.
 この軍事力という背景があったから,協定違反等で強気の態度に出ていた.

 ただ,輜重部隊が常設でないと言う致命的な欠点があった.
 兵站と言う概念が戦術レベルで欠けていた.その為,戦況が連合国側に傾くまで武器弾薬以前に ,食料の不足が問題になっていたくらい.軍閥の部隊によってはその支配領域から出ると 活動が不可能になるくらい.
 ソ連やアメリカからの支援があっても生かし切れず,終戦まで戦況を大きく覆すことができなかった.

 ただ,美式中国軍という,アメリカ軍流の訓練と装備を受けた中国軍は,日本軍を火力で圧倒することに成功している.

中華民国陸軍歩兵


 【質問】
 中国って日本の終戦前に独自の軍備を生産していたのですか?
 あと,日中戦争って中国の装備ってどんな風だったのでしょうか?

 【回答】
 中国で建造された軍艦は存在します.寧海級軽巡洋艦の二番艦「平海」がそれです.
 寧海級は中華民国海軍の艦艇として日本で設計が行われ,一番艦「寧海」は播磨造船所で建造されましたが,「平海」は播磨造船所から派遣された行員の指導の下,江南(上海)造船廠で1931年7月起工され,32年9月に進水しました.
 その後播磨造船所に回航され,儀装された後に36年6月竣工しています.
 この後37年に揚子江沿岸で日本海軍航空隊機の爆撃を受けて浸水擱座しますが,翌年日本軍が接収して浮揚し佐世保に回航し,しばらく放置された後,43年末、呉工廠で海防艦への改造工事に着手して,44年11月に二等巡洋艦「八十島」として再就役します.
 その直後フィリピン方面に出動し,11月25日 ルソン島西岸にて米軍機の爆撃を受け沈没しました.

(名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)

 自国の陸軍で使用するモーゼル小銃など小火器は国産化していました.
 また,150mmの中迫撃砲,240mmの重迫撃砲も確認されています.
 陸軍では上海工部局で1915年には急造ながら装甲車の製作を行なっています.
 なお,ヴィッカース6t戦車が「国産戦車」として内外に喧伝されたこともありますが,こちらは国産ではありません.
 航空機も海軍航空廠が上海にあり,1918年以来数種類の水上偵察機を製造しています.軽巡洋艦搭載用の偵察機は国産機です.
 空軍では広東省に飛行機工場があり,AP-1と言う軽爆撃機を製造しています.
 第二次大戦中は,Curtiss Hawk75(P-36の輸出簡易型)の製造を企画した他,Curtiss WrightのCW-21戦闘機の製造を行なおうとしていました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板


 【質問】
 南京政府軍について,その戦力規模,組織構成,使用した兵器,参加した戦闘及び戦果,敗戦後の経過について教えられたし.
 治安維持,及び河川哨戒規模で,軍隊とは呼べなかったのでは?と疑問に思っています.

 【回答】
 「もう一つの陸軍兵器史 知られざる鹵獲兵器と同盟軍の実態」(藤田昌雄著,光人社,2004.2) を買われると良いでしょう.

 南京政府軍は治安維持が主任務であり,昭和18年当時の総兵力は約40万人でした.
 装備はほぼ支那軍からの鹵獲品です.

 昭和18年における編成・配置は以下のとおりです.

警衛軍:首都警備
第一方面軍:中支
第二方面軍:中支北方
第一軍集団・第二軍集団:武漢方面
広州綏靖軍:南支方面
蘇豫邊區綏靖軍:北支〜中支
華北綏靖軍:北支

 また,南京政府海軍は警備舟艇を主力とした小規模な河川海軍で,河川の警備活動が主任務でした.

(名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)


 【質問】
 大戦時の中国戦線の国民党の米軍式陸軍は強かったのでしょうか?

 【回答】
 強かった.
 この,いわゆる「美式中国軍」はインパール作戦において,北部ビルマで日本軍を壊滅に追い込んでいます.
 装備は米軍のものだし,訓練は行き届いていて,武器弾薬は豊富だし,衛生管理,兵站がしっかしている.そして何より給料がしっかり出るで(笑)

 一方,通常の国府軍の場合は指揮官が給料をピンハネするので,雀の給料でやる気無しだったそうです.

 もっとも,最初のうちは蒋介石に自由な指揮権がない上に,在中米軍司令官のスティルウェルと彼の仲が超絶に悪かったので,1944年(昭和19年)10月にウェデマイヤーが後任にやって来るまで,支那大陸では活躍させてもらえませんでした.
 支那では自分の指揮下にない軍隊は,敵とほぼ同義なので.

軍事板


◆兵器総記


 【質問】
 2ch.ニュース速報板でこんなコピペを見たのですが,これってどれくらい正しいんですか?
 日本の軍事技術がそんなにすごいなら,あんなボロ負けはしなかったんじゃないかなあ・・・と,ちょっと疑問に想ったのでした.

----------------------------------------------------------------
 空母の傾斜煙突(飛行甲板の気流の乱れを防ぐ)→JFケネデイなど大型空母の煙突に採用.
 伊400潜水艦発射の航空機による爆撃→原子力潜水艦発射の誘導ミサイル.現在まで戦略原潜に引き継がれる潜水艦運用.
 有人爆弾「桜花」→特攻兵器として評判悪いが,無人誘導にしたものが巡航ミサイル.
 B29迎撃戦闘機,秋水→ロケットで超高空まで上昇して帰りは,グライダー式に滑空して帰還する方式が,スペースシャトルのヒントになったとNASAの計画指導者が証言.

 指向性の八木アンテナは,早くから連合国でも使用されてたが,日本ではその有効性を認めるのが遅かった.
 連合国に勝る技術も持っていたが,物量だけでなく,兵站の概念,戦略構想の不備から敗北した点も大きい.(信長,秀吉のような戦略家がいなくて,軍事官僚が戦争指導者だった.東條や山本もそのひとり.)
----------------------------------------------------------------

 【回答】
 一応目に付いた所だけ添削.

>空母の傾斜煙突→JFケネデイなど大型空母の煙突に採用.

 眉唾.
 現代の米空母は,着艦時にはアングルドデッキに沿って風が流れる様に航行するから,煙突の排煙はアイランドが起こす乱流ともども,着艦機の右手側をアングルドデッキと並行に流れる形になる.

>伊400潜水艦発射の航空機による爆撃→原子力潜水艦発射の誘導ミサイル.

 「弾道ミサイル」の間違いでは? トマホークの様な巡航ミサイルは「誘導ミサイル」とは少々毛色が違うし,「潜水艦が,何らかの経空的手段を用いて地上を攻撃」まで範囲を拡げると,伊-400がルーツであるとは言い難くなってしまう.

>現在まで戦略原潜に引き継がれる潜水艦運用.

 戦略原潜の意義は「先制核攻撃を無効化し,高い報復能力を保証する移動核ミサイル基地」.
 したがって,「敵地近傍まで隠密に進出し,搭載機により奇襲攻撃」の伊-400とはかなり異なるという気がする.

>有人爆弾「桜花」→無人誘導にしたものが巡航ミサイル.

 違います.桜花の発想は寧ろ滑空誘導爆弾に近いものです.
 巡航ミサイルとしてならドイツのV-1の方が近いと言えるでしょう.

>秋水→スペースシャトルの ヒント

 眉唾です.
 「上がって降りる」以外は行動の内容がまるで違いますし,シャトル以前の宇宙機でも帰還は無動力なのが当たり前ですから,殊更に秋水を参考にした訳ではないでしょう.
 そもそも秋水の運用形態のルーツはドイツのMe-163です.日本のオリジナルではありません.

>指向性の八木アンテナは,早くから 連合国でも使用されてたが,日本ではその有効性を認めるのが遅かった.

 これは概ね正しいと思います.

>信長,秀吉のような戦略家がいなくて,軍事官僚が戦争指導者だった

 「軍事官僚」と「戦略家」を分ける様な言い回しは少々おかしいです.
 「官僚」にして「戦略家」な人物も,世には存在しますから.


 【質問】
 日本の兵器の命名方法について質問です.
 よく目にするものとして,38式歩兵銃や零戦,一式陸攻,90式戦車などありますが,これらはたしか開発完了当時の年数にちなむものですよね?
 だとすると,それらの命名機縁年次が第二次大戦を区切りにして,皇紀から西暦にかわったのはわかるのですが,明治や大正といった元号から皇紀にうつりかわったいきさつなどは,どのような経緯があったのでしょうか?

個人的には
明治〜大正→元号
日中事変あたり〜第二次大戦→皇紀
第二次大戦以降→西暦
とおおざっぱにしか認識できていません…
 どなたかご存知でしたら,うまい線引きの仕方などお教え頂けませんか.

 【回答】
 明治初年の陸軍創設の頃は,兵器は海外からの輸入に頼っていたので,海外の輸入先である国の制定年度を呼称していました.
 明治13年からは,基幹兵器となる小銃が初めて国産化されたため,以後,採用年度が制定年度として各兵器に冠せられました.

 明治13年から大正15年(実際は大正14年)までは,元号を制定年度としています.
 本来は,「○○年式」という呼称が正しいのですが,明治31〜45年にかけては,その体裁が崩れ,三八式歩兵銃,四五式榴弾砲という形で,「年式」を省いた略称が喧伝されたケースもありました.

 昭和期に入ると,制定年度で呼称を付けるのは大正期と紛れやすくなるため,陸軍では皇紀の下二桁を冠することに切り替えました.
 それは,昭和元年の八六式から開始されています.
 皇紀は昭和15年に2600年となりますが,昭和15年制式のものを陸軍は一〇〇式,海軍は零式とし,以後は下一桁を以て兵器に冠しています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板


 【質問】
 坂井三郎氏の本によると20mm機銃は使えなかったということですが,事の真偽は置いておいて,現場の意見を反映された形跡がありません.
 7.7mm機銃を翼につけた零戦や米軍のダイブを追撃できる飛行機等,現場の意見を反映された兵器は太平洋戦争中にあったのでしょうか.
 また,当時,現場の意見を上に吸い上げる制度はあったのでしょうか?

 【回答】
 海軍に関して言えば,むしろ現場の意見を尊重した結果あのような航空機開発になっている.
 パイロットは大馬力の重戦闘機で一撃必殺をするより軽快な軽戦闘機で格闘戦をする事を好んだし,坂井三郎も
「確かに20mmは使えなかったけど,アメリカの重装甲航空機を落とすには機関砲が無ければダメだったと思う」
と言っている.

 あと,日本軍の場合兵器とは「陛下より下賜されたるもの」.
 頂いた側が文句を言う,なんて畏れ多い事は許されていない.


 【質問】
 兵器開発は日本陸海軍間でどの程度,協力が行われていたの?

 【回答】
 かなりの分野で,基礎技術の研究分野まで縦割りだったようです.
 海軍の艦政本部や空技廠と陸軍の造兵廠の研究部門ではやってる事がかなり重複するし,殖産政策で民間企業が育ってる分野でも内部では陸軍担当と海軍担当に分かれて,全く交流が無かったって話を良く聞くからです.

 昭和18年に「これじゃいかん」って事で「陸海軍技術運用委員会」が発足,陸と海の大臣さんが交互に委員長になってパイプ通しをしたんですけど(少しは気にしてたのね^^;),ただ「成果上がらず」って評価なのですよ,これが(しかも18年になってから),
 おまけに肝心の航空技術がこの委員会の研究テーマからは外れているんです.

 もうちっとなんとかならんかなぁ・・・って今さらながら思います.

軍事板


 【質問】
 日本軍のレーダーのディスプレイは,どんな形だったんですか?

 【回答】
 日本の電探の受信機のモニターは驚くことに5cm角のオシロスコープ型しかなかった.
 拡大鏡を付けてなんとか距離を読みとろうとしたが,電子管の映像を結ぶ画面の蛍光塗料の質が悪くて鬼のように暗く,ピーク波形を判別するには心眼が必要だった.

 送信機からの電波を受信するより早く,米軍機のIFF波がよく検出できたので,それを判別して敵機の有無を推定したらしい.

軍事板


 【質問】
 日本軍では鹵獲品の扱いはどうしていたのでしょうか?
 ドイツでは鹵獲バズーカを研究に回したり,仏戦車を自走砲にしたりしていますが,日本軍でもシナ戦線や対米戦での鹵獲品を利用したり,研究したりしたのでしょうか?

 【回答】
 鹵獲品をそのまま兵器として使用したり,
コピーして国産兵器にしたり,
技術を兵器開発の際の参考にしたり,
兵器の比較テストの際に使用したりなど,
火器,車両,航空機といったあらゆる分野で,実に様々な用途で役立てていますね.

 技術開発の面では,一例をあげれば一八試陸上攻撃機連山などは,B−17を解体して得られたデータを元にして開発されています.

 再利用の面では,M3スチュワートはビルマ方面で有効活用されました.
 宮崎繁三郎なんかも,鹵獲品を有効に活用して火器の充足率の低さを補うことで,多大な戦果をあげていますね.
 さらに,陸上自衛隊の幹部学校の教官を中心に執筆された『陸戦史集2 第二次世界大戦 マレー作戦』(陸戦史研究普及会編・原書房・S41)のP85にも,コタバル上陸戦に関する以下のような記述があります.

==引用==

戦果
主なろ獲品(ママ)

重(軽)機関銃七三 重(軽)迫撃砲 一五
高射砲 八 飛行機 七
爆弾 六,六三〇 装甲車,牽引車 三六
自動車 八四 機関車,貨車 三四
ガソリン 二三六罐 重油 三七七罐

捕虜 ハイデラバットの大隊長ヘンドリック中佐以下九〇名

 右のろ獲品(ママ)は,その後クワラクライの戦闘で獲得したものと併せ,以後,佗美支隊が上級部隊から一品の補給も受けなかったにもかかわらず,数百キロの機動作戦を行ない,迅速にカンタンを占領する上に大きな貢献をした.

==引用終わり==

 この本にはこの部分だけではなく,何カ所か,
「マレー作戦における機動戦の成功には,鹵獲品による燃料・食糧の確保の他火力の補完が大きな役割を果たした」
という記述があります.
 この本は当時の参謀レベルの人々への取材も豊富であり,信用が置ける本かと思います.

 さらにまた,旧軍資料の『差押軍需品に対する諸問題』には

 軍は戦場に於て我が軍の鹵獲若は押収せる敵対者の兵器,器材に対しては戦争法規の精神に則り当然我が軍の手に帰すべく旧所属との間に於ける債務関係等に就ては敢て我が軍の感知するところにあらざる
(中略)
 支那軍の使用又は保管しありたる兵器及其他軍需品は現場に於て監視し其散逸を防止することに勉めあり但右の内軍事上竝治安維持上又は貧民救済等の為必要已むを得ざるものに限り一部使用しあり

と,はっきり鹵獲品を使用する場合があることが記してあります.

 ただし念のため書いておきますが,鹵獲品の活用というのはマレー戦では軽火器が中心だったようです.
 特に訓練をしなくとも転用でき,鹵獲した弾薬も多かったからかと思われます.

 大陸方面でも,たとえば『「ソ」連製軽機関統鹵獲に関する件』(昭和15年)に,こんな記述が見られます.

発信者 戊集団参謀長

 二十日西山咀西方地区ニ於テ攻撃シ比較的新式ノ「ソ」連製「デグチャレフ」軽機関銃一挺ヲ鹵獲セリ
 「ソ」連製兵器ノ鹵獲ハ当軍ニ於テハ最初ニシテ近ク写真ニ依リ報告スルモ既ニ本軽機関銃ノ性能等判明シアルヲ以テ実物ハ当軍ニ於テ使用スル予定ナリ

 一方,海軍では鹵獲艦艇は兵装を日本式に(場合によっては機関も)改め,各地の工作部で整備の上,その多くを哨戒や護衛に活用しておりました.

軍事板


 【質問】
 ドイツが捕獲したステンを「安いし,構造も製造も簡単だ!」とコピー生産したように,連合国の捕獲兵器を日本がコピー生産したことはないのでしょうか?

 【回答】
 ぱっと思いついたところで.
つ ノルデン爆撃照準器(キ74などに搭載.されど何気に故障多し)
つ M1ガランド自動小銃(試作してみたけど弾が…)
つ ボフォース40mm機関砲(ラインメタル37mmのラインを閉鎖して作ったが少数生産)
つ コンチネンタル空冷星形エンジン(戦車用)のディーゼル版

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板


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