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(画像掲示板より引用)
「Togetter」◆(2010/11/21)今,改めて天皇機関説事件をおおざっぱに振り返ってみた
「大阪大学」◆総合地理研究会と皇戦会―初期地政学グループの活動
http://www.let.osaka-u.ac.jp/geography/gaihouzu/newsletter5/pdf/n5_s5_2.pdf
「神保町系オタオタ日記」■(2006/03/13) [トンデモ][古本] 大川周明とトンデモ本の世界(その11)
「神保町系オタオタ日記」■(2006-03-18) [トンデモ]
エスペランチスト藤澤親雄とその時代(その1)
>戦前の竹内文献の信奉者として著名な藤澤親雄
「神保町系オタオタ日記」■(2006-03-28) [トンデモ]
エスペランチスト藤澤親雄とその時代(その2)
>藤澤と北一輝が関係があったとは,ゾクゾクするなあ
「神保町系オタオタ日記」■(2006/03/14) [トンデモ] 『戦前日本人の対ドイツ意識』(岩村正史著.平成17年3月刊)にぶんなぐられる.
「神保町系オタオタ日記」■(2006/03/15) [トンデモ][文藝] 櫻澤如一の解けない謎
「神保町系オタオタ日記」■(2006-03-29) [柳田國男][トンデモ] エスペランチスト藤澤親雄とその時代(その3)
「神保町系オタオタ日記」■(2006-04-02) [トンデモ] 南博『日本人論』でおなじみの人達に出会う
「神保町系オタオタ日記」■(2006-04-03) エスペランチスト藤澤親雄とその時代(その5)
「神保町系オタオタ日記」■(2006-04-04) エスペランチスト藤澤親雄とその時代(その6)
エスペラント報国同盟関連
「神保町系オタオタ日記」■(2006-04-04) [トンデモ][文藝]
武林無想庵と黒田礼二
ベルリン反帝グループ関連
「神保町系オタオタ日記」■(2006-09-25)[スメラ学塾][出版]
未來社創業者西谷能雄の謎(その1)
「神保町系オタオタ日記」■(2006-09-26)[スメラ学塾][出版]
未來社創業者西谷能雄の謎(その2)
「神保町系オタオタ日記」■(2006-09-28)[トンデモ]
水野梅暁本を狙う
「神保町系オタオタ日記」■(2006-09-29)[トンデモ]
水野梅暁本を狙う(その2)
戦前の「酷使様」
「神保町系オタオタ日記」■(2006-10-13)[スメラ学塾] 西田幾多郎教授の総回診
「神保町系オタオタ日記」■(2006-10-17)[スメラ学塾] 京都学派と弘文堂
「神保町系オタオタ日記」■(2006-10-18)[スメラ学塾] 後藤象二郎の孫とメディアの支配者
「神保町系オタオタ日記」■(2006-10-26)[スメラ学塾] スメラ学塾より筑摩書房編集顧問を選んだ唐木順三
「神保町系オタオタ日記」■(2006-10-28)[スメラ学塾]
“永遠の処女”原節子は汚れていたか?
「神保町系オタオタ日記」■(2006-12-28)[スメラ学塾]
“永遠の処女”原節子は汚れていたか?(その2)
「神保町系オタオタ日記」■(2006-11-01)[スメラ学塾] 小林一三日記にスメラ学塾の戦後を見る
「神保町系オタオタ日記」■(2006-11-04)[スメラ学塾] 戦前の雑誌「戦争文化」って,どこかに落ちていないか
「神保町系オタオタ日記」■(2006-11-10)[スメラ学塾] ナチス叢書の書誌はありやなしや
「神保町系オタオタ日記」■(2006-11-27)[宮本常一][亀井貫一郎]
旅する巨人宮本常一が寄り道した聖戦技術協会
「神保町系オタオタ日記」■(2006-11-30)[亀井貫一郎][宮本常一]
旅する巨人宮本常一が寄り道した聖戦技術協会(その2)
「神保町系オタオタ日記」■(2006-12-14)[トンデモ] 戦時下に偽書『上記』を読む西田幾多郎先生
「神保町系オタオタ日記」■(2007-02-16)[トンデモ]
拝啓 『契丹古伝』様
> 「日本資本主義の父」,渋沢栄一は数多くの株式会社を作っていただけではなく,偽史運動とも多少関係があったようだ.
「神保町系オタオタ日記」■(2007-03-11)■[トンデモ]
建国大学講師としての藤澤親雄
> 昭和17年5月1日 藤澤講師,この日から後期一年に対し「皇道政治」論の講義を行い,8日離京.
「神保町系オタオタ日記」■(2007-03-12)[文藝][トンデモ]
東洋精神研究所と諸岡存
戦前右翼団体関連
「神保町系オタオタ日記」■(2007-03-13)
これが芦部信喜だ!
> 1等賞受賞作の一つに「真実の自覚に生きよ」という作品がある.
>「日本人としての自覚.
> 私はこれが国民に徹底してゐるか否かを心から疑ふ者の一人である」
「神保町系オタオタ日記」■(2007-03-26)[トンデモ] 国家主義者赤神良譲と藤澤親雄
「神保町系オタオタ日記」■(2007-03-27)[トンデモ]国家主義者赤神良譲と藤澤親雄(その2)
「神保町系オタオタ日記」■(2007-03-29)[トンデモ] 国家主義者赤神良譲と藤澤親雄(その3)
「神保町系オタオタ日記」■(2007-04-01)[スメラ学塾] スメラ学塾誕生の秘密
「神保町系オタオタ日記」■(2007-04-04)[トンデモ] 黒田礼二(岡上守道)とカール・ハウスホーファーの接触
「神保町系オタオタ日記」■(2007-04-03)[トンデモ] 国民精神文化研究所の所長以上に恐れられた藤澤親雄
「神保町系オタオタ日記」■(2007-04-09)[スメラ学塾] 大東亜ト学としての市河彦太郎
「神保町系オタオタ日記」■(2007-04-13)[トンデモ] 皇道世界政治研究所と藤澤親雄
「神保町系オタオタ日記」■(2007-04-13)[トンデモ][出版][スメラ学塾] ここにも市河彦太郎の影が・・・
「神保町系オタオタ日記」■(2007-05-12)[トンデモ][展覧会] トンデモ系人物のレファ本
「神保町系オタオタ日記」■(2007-06-02)[トンデモ]
「茗和協会」と「大直会」
昭和19年
「神保町系オタオタ日記」■(2007-06-02)[トンデモ] 黎明期の大東亜トンデモ学
「神保町系オタオタ日記」■(2007-06-05)[スメラ学塾][谷崎潤一郎]
古川ロッパと麻雀をする市河彦太郎
昭和18年
「神保町系オタオタ日記」■(2007-06-03)[スメラ学塾]
スメラ学塾再び
「神保町系オタオタ日記」■(2007-07-06)[トンデモ]
玄洋社々員横山雄偉
>横山は,1882年福岡県生れ.
>国粋主義的な政治結社として名高い玄洋社の社員となり,右翼の巨頭頭山満や後に外相,首相となる広田弘毅らの知遇を得,広田とは「親友で二人で腰弁をさげて福岡から上京をした」という(井上博之氏談話).
「神保町系オタオタ日記」■(2012-06-17)五百木瓢亭ではなく,五百木飄亭なのだ
戦前右翼関連
「神保町系オタオタ日記」■(2007-05-09)[文藝][トンデモ]
星製薬の謎(その1)
「神保町系オタオタ日記」■(2007-05-10)[文藝][トンデモ]
星製薬の謎(その2)
星製薬の右翼人脈
「神保町系オタオタ日記」■(2007-04-23)[出版]
食養会と関根喜太郎(関根康喜)
>『右翼事典』(双葉社)の巻末の「右翼・民族派運動年表」に謎の記述
「神保町系オタオタ日記」■(2007-06-13)[トンデモ] 大直会とはいったいどんな団体だったのだろうか
「神保町系オタオタ日記」■(2007-07-01)[スメラ学塾] 世界創造社と弘文堂の統合
「神保町系オタオタ日記」■(2007-07-07)[トンデモ][文藝]
高見順と玄洋社々員横山雄偉
>横山は帝国ホテルに個人事務所を構え,旧知の広田などを通じて外務省やドイツ大使館から情報を入手したほか,陸軍の憲兵隊や特務機関とも密接な関係を持っていたので,ブラウンや『ジャパン・アドヴァタイザー』にとって有用な存在であったにちがいない.
>前掲書によれば,横山は昭和21年1月戦犯容疑(A級戦犯)で逮捕,22年12月釈放,37年没.戦後も高見は横山との交流を続けている.
「神保町系オタオタ日記」■(2007-07-10)[文藝]
星新一もぼけていたか!?
頭山満の死について
「神保町系オタオタ日記」■(2007-07-17)
高松宮が隠したかった秘密研究
>おそらく敗戦後,切り取ったと思われる部分に書かれていた「研究」とは,細菌兵器か,原爆か,何なのだろう?
「神保町系オタオタ日記」■(2007-08-02)[図書館][民族学] 東亜研究所の金森徳次郎
「神保町系オタオタ日記」■(2007-08-08)[トンデモ][サンカ]
昭和最大の怪物矢次一夫と清水精一
矢次一夫(やつぎかずお)は戦前,大蔵公望らと共に国策研究会を創設した人物.
「神保町系オタオタ日記」■(2007-08-10)[スメラ学塾] スメラ学塾の機関紙「スメラ文庫」
「神保町系オタオタ日記」■(2007-08-11)[トンデモ][スメラ学塾] 戦時下のトンデモ狩り
「神保町系オタオタ日記」■(2007-08-14)[トンデモ] 日本における「ムー大陸」受容史
「神保町系オタオタ日記」■(2007-08-16)[スメラ学塾] アジア復興レオナルド・ダ・ヴィンチ展
「神保町系オタオタ日記」■(2007-09-26)[スメラ学塾] 皇戦会理事長中岡彌高の対ソ連工作
「神保町系オタオタ日記」■(2007-09-27)[スメラ学塾] 国民精神文化研究所とスメラ学塾・皇戦会の関係
「神保町系オタオタ日記」■(2007-10-30)[スメラ学塾][文藝] 市河彦太郎と女流作家
「神保町系オタオタ日記」■(2007-11-02)[スメラ学塾] 福永武彦とスメラ学塾
「神保町系オタオタ日記」■(2007-12-27)[スメラ学塾] 堀一郎と偽史運動(その1)
「神保町系オタオタ日記」■(2007-12-28)[スメラ学塾] 堀一郎と偽史運動(その2)
「神保町系オタオタ日記」■(2007-12-29)■[スメラ学塾] 堀一郎と偽史運動(その3)
「神保町系オタオタ日記」■(2008-01-05)■[スメラ学塾] 市河彦太郎の変節
「神保町系オタオタ日記」■(2008-01-06)■[スメラ学塾]スメラ学塾と日の御子文化
>このアメリカが侵略せる太平洋は嘗てマヤ文化やインカ帝国の発展してゐた「陽の御子文化圏」と呼ばれてゐる地域であり,いはば日本の一分身であつた.
「神保町系オタオタ日記」■(2008-01-11)[トンデモ] チャーチワードの女助手フローレンス・ウェルス救出作戦(その1)
「神保町系オタオタ日記」■(2008-01-12)[トンデモ] チャーチワードの女助手フローレンス・ウェルス救出作戦(その2)
「神保町系オタオタ日記」■(2008-01-31)日本法理研究会にも注目
「神保町系オタオタ日記」■(2008-02-16)[トンデモ] 戦時下早稲田のトンデモ科外講義
「神保町系オタオタ日記」■(2008-02-17)[文藝][柳田國男] 岸田國士大政翼賛会文化部長を激励する会
「神保町系オタオタ日記」■(2008-02-20)[文藝][トンデモ]
宮本百合子と黒田礼二
昭和2年.黒田は朝日新聞ベルリン特派員
「神保町系オタオタ日記」■(2008-03-11)[文藝] 国策研究会と辰野隆
「神保町系オタオタ日記」■(2008-03-27)[出版] バハイ教徒アグネス・アレキサンダーとその時代
いわゆる「中村屋サロン」の一人
「神保町系オタオタ日記」■(2008-04-10)[トンデモ][催眠術] ヒトラー総統との交信に成功
「神保町系オタオタ日記」■(2008-04-18)[トンデモ] 戦前の神代文字論者
「神保町系オタオタ日記」■(2008-04-20)[トンデモ] 大川周明と楢崎皐月
「神保町系オタオタ日記」■(2008-04-27)[文藝]
漢口会の田中軍吉
> 昭和神聖会事件(第二次大本事件のことか)に関与していたらしい.
> 昭和23年 1月 「300人斬り」の戦犯として南京で刑死
「神保町系オタオタ日記」■(2008-04-29)[スメラ学塾] 由良哲次と小島威彦
「神保町系オタオタ日記」■(2008-05-25)[トンデモ][図書館]
反国語国字改良運動家の戦後
>戦前小島威彦や藤澤親雄と闘ったトンデモバスター島田も,戦後は苦労したようだ
「神保町系オタオタ日記」■(2008-06-04)[図書館][トンデモ] 日記から読み解く大東亜図書館学
「神保町系オタオタ日記」■(2008-06-12) 日本国語会創立発起人
昭和17年
「神保町系オタオタ日記」■(2008-07-12)[トンデモ] 楢崎皐月の経歴
「カタカムナ文明」の人
「神保町系オタオタ日記」■(2008-07-14)[柳田國男][トンデモ] 柳田國男と「偽史」関係者織田善雄
「神保町系オタオタ日記」■(2008-07-24)[民族学] 民族研究所の設立メンバー
「神保町系オタオタ日記」■(2008-07-29)[トンデモ]
藤澤親雄と三浦関造
>藤澤親雄「「すめら世界」興国の理論」(『実業之世界』39巻4号,昭和17年4月)で面白発見.
「神保町系オタオタ日記」■(2008-08-02)[図書館] 戦時下の衛藤利夫の一日
>「大政翼賛会の練成会か何か」に出るため上京した際の歓迎会に衛藤が出席している.
「神保町系オタオタ日記」■(2008-08-08)[スメラ学塾] 藤澤親雄と大日本言論報国会
「神保町系オタオタ日記」■(2008-08-14)[トンデモ] 甘粕正彦と謎の心霊研究協会
「神保町系オタオタ日記」■(2008-08-15)[図書館][トンデモ] もう一つの皇道主義図書館
「神保町系オタオタ日記」■(2008-08-17)[トンデモ][催眠術] 宮崎滔天と太霊道
「神保町系オタオタ日記」■(2008-08-18)[トンデモ] 藤澤親雄と大本教
「神保町系オタオタ日記」■(2008-08-20)[トンデモ] 日本国語会に結集した人達
「神保町系オタオタ日記」■(2008-08-22)[トンデモ][出版] 神政書院の巌本善治と三浦関造
「神保町系オタオタ日記」■(2008-08-25)[トンデモ] 猫猫先生の天敵だった岡田道一博士
「神保町系オタオタ日記」■(2008-09-24)[トンデモ] その後の島津治子
「神保町系オタオタ日記」■(2008-09-30)[トンデモ]神乃日本社に結集したトンデモない人達
「神保町系オタオタ日記」■(2008-10-02)[トンデモ]上海に渡る前の三浦関造の動向
「神保町系オタオタ日記」■(2008-10-09)[トンデモ] 「銀シャツ党」首領ペリーと古賀政男の弟古賀治朗
「神保町系オタオタ日記」■(2008-10-04)思想戦士ガンダム
>大日本同志会については,岩村正史『戦前日本人の対ドイツ意識』に詳しい
「神保町系オタオタ日記」■(2008-11-12)聖戦技術協会と下山事件
「神保町系オタオタ日記」■(2008-11-14)[トンデモ]金?学院講師の伊藤武雄
「神保町系オタオタ日記」■(2008-11-21)[トンデモ]森銑三の身近にいた竹内文献拝観者
「神保町系オタオタ日記」■(2008-11-26)皇國運動聯盟に集う神代文字肯定論者と否定論者
「神保町系オタオタ日記」■(2008-12-08)加藤周一と辰野隆
>大声一番,「ぼくは大東亜戦争大賛成だ」
「神保町系オタオタ日記」■(2008-12-16)[文藝]戦時下の里見とん再び
大日本報国学会
「神保町系オタオタ日記」■(2008-12-29)大アジア主義とアニー・ベサント
「神保町系オタオタ日記」■(2009-01-16)[スメラ学塾](戦前の外交官)市河彦太郎とシカゴ
「神保町系オタオタ日記」■(2009-01-20)[トンデモ]高窪喜八郎と神代文化研究会
>昭和十年七月頃「神代文化研究会」を結成
「神保町系オタオタ日記」■(2009-03-27)太田英茂−本郷教会から食養会経由東方社へ−
「神保町系オタオタ日記」■(2009-05-17)大アジア主義者としての波多野春房
「神保町系オタオタ日記」■(2009-05-19)[出版]松宮春一郎と黒龍会
「神保町系オタオタ日記」■(2009-05-20)イブラヒムと波多野烏峰
「神保町系オタオタ日記」■(2009-06-18)大アジア主義者と神智学徒
「神保町系オタオタ日記」■(2009-06-25)[スメラ学塾]セルパン・皇国地政学・ムー大陸
「神保町系オタオタ日記」■(2009-06-27)ニ十世紀の神話と亜細亜義会
「神保町系オタオタ日記」■(2009-07-08)[図書館]石川県立図書館主席司書牧太喜松
新興仏教青年同盟関連
「神保町系オタオタ日記」■(2009-07-12)大日本回教協会の評議員
「神保町系オタオタ日記」■(2009-07-28)歴史のカゲに大本教あり
>戦前のトンデモない人達はたいてい,大本教か天津教かのどちらかに,
>いや,しばしば両者につらなっている.
「神保町系オタオタ日記」■(2009-07-30)[トンデモ]廣田弘毅の私設顧問だった増田正雄
「神保町系オタオタ日記」■(2009-08-09)原武史『松本清張の「遺言」』への疑問
天津教関連
「神保町系オタオタ日記」■(2009-08-10)増田正雄と宮内省怪文書事件
「神保町系オタオタ日記」■(2009-08-15)[トンデモ]『フォーチュン』にも登場していた藤澤親雄『神国日本の使命』
「神保町系オタオタ日記」■(2009-09-24)女皇道主義者川上初枝
「神保町系オタオタ日記」■(2009-09-04)八紘一宇の藤澤親雄
「神保町系オタオタ日記」■(2010-09-11)戦前の河童忌と田端の天然自笑軒
「神保町系オタオタ日記」■(2009-10-27)世界紅卍字会後援会の設立前後
「神保町系オタオタ日記」■(2009-10-29)呉清源と世界紅卍字会後援会
「神保町系オタオタ日記」■(2009-11-20)小田秀人=小田皓通?
小田秀人は,世界紅卍字会後援会主事
「神保町系オタオタ日記」■(2009-11-29)鈴木芳郎=日高輝忠=日高一輝の戦前・戦後
戦前の宗教関連
「神保町系オタオタ日記」■(2009-12-03)大日本興亜同盟に加盟していた世界紅卍字会後援会
「神保町系オタオタ日記」■(2010-03-09)[トンデモ]酒井勝軍のエピゴーネン石河光哉
「神保町系オタオタ日記」■(2010-03-20)[トンデモ]酒井勝軍とハルマゲドン
「神保町系オタオタ日記」■(2010-04-24)『団体総覧』に見る戦前のおもしろ特種団体
「神保町系オタオタ日記」■(2010-06-30)[図書館]日本主義者の読書倶楽部
「神保町系オタオタ日記」■(2010-08-26)原武史『松本清張の「遺言」』への疑問(その2)
>皇道日月団
「神保町系オタオタ日記」■(2010-10-09)[図書館]日経文化面に「変わる国会図書館」の記事
>戦前では神武天皇聖跡から肇国遺跡へと国家による歴史の偽造が進展し,
>肇国遺跡では偽書を根拠に,天皇制の歴史を千年も万年も,
>限りなく過去へさかのぼらせようとしたことがわかった.
>この手のトンデモ本が,政府の最高機関や軍人,高官,帝国議会議員にまで深く浸蝕していた
「神保町系オタオタ日記」■(2011-01-26)[展覧会]千代田区立千代田図書館で「戦前の出版検閲を語る資料展」
「神保町系オタオタ日記」■(2011-02-15)篁白陽のすめら連邦構想
「神保町系オタオタ日記」■(2011-02-16)虹色の名取洋之助と大川周明
「神保町系オタオタ日記」■(2011-02-17)長岡良子(璽光尊)の名も『大川周明日記』に登場
「神保町系オタオタ日記」■(2011-02-25)増田正雄と満川亀太郎
>『満川亀太郎日記』には,多くの国家主義者が出てくるが,増田正雄もその一人である.
「神保町系オタオタ日記」■(2011-03-03)[図書館]興亜院時代の志智嘉九郎と呉清源・小田秀人の世界紅卍字会訪問
「神保町系オタオタ日記」■(2011-04-20)[トンデモ]藤野七穂により解かれた『失われたムー大陸』中のキリスト日本渡来説の謎
「神保町系オタオタ日記」■(2011-05-05)戦時下世界紅卍字会の暗躍
「神保町系オタオタ日記」■(2011-05-10)[トンデモ]真崎甚三郎と中山忠直
「神保町系オタオタ日記」■(2011-05-19)大正期日本のバハイ教徒
「神保町系オタオタ日記」■(2011-05-21)[スメラ学塾]スメラ学塾対真崎甚三郎
「神保町系オタオタ日記」■(2011-05-27)[カフェー]神戸におけるバハイ教徒と箱木一郎
「神保町系オタオタ日記」■(2011-05-28)日本文学報国会事務局長久米正雄が起こした現人神事件
「神保町系オタオタ日記」■(2011-06-05)和田博文『資生堂という文化装置 1872−1945』(岩波書店)への補足
「神保町系オタオタ日記」■(2011-06-07)[トンデモ][出版]小谷部全一郎『日本及日本国民之起原』が発行10年後に発禁処分になった理由
「神保町系オタオタ日記」■(2011-06-30)吉田巌が読んでもトンデモ本だった小谷部全一郎『日本及日本国民之起原』
「神保町系オタオタ日記」■(2011-07-10)[トンデモ]国際人藤澤親雄がトンデモに至る道
「神保町系オタオタ日記」■(2011-07-15)世界紅卍字会後援会でポルターガイスト現象
「神保町系オタオタ日記」■(2011-07-20)黒光会と里見とん
「神保町系オタオタ日記」■(2011-07-26)『二十世紀の神話』を訳した独文学者吹田順助
「神保町系オタオタ日記」■(2011-07-27)『真崎甚三郎日記』にも出てきた篁白陽
「神保町系オタオタ日記」■(2011-08-06)世界紅卍字会員の今小路了円
「神保町系オタオタ日記」■(2011-08-10)カール・ハウスホーファーと太平洋地政学
「神保町系オタオタ日記」■(2011-08-12)民族研究会幹事内藤順太郎の経歴
>国家主義系団体
「神保町系オタオタ日記」■(2011-08-17)[出版]日本青年外交協会と理事長原勝
「神保町系オタオタ日記」■(2011-08-23)小野忠重が勤めた南洋団体連合会
「神保町系オタオタ日記」■(2011-08-25)松原至文と高楠順次郎
「神保町系オタオタ日記」■(2011-08-27)[トンデモ]天津教と安江仙弘
「神保町系オタオタ日記」■(2011-09-05)鳴海四郎こと林田茂雄と詩集社の井上英子
「神保町系オタオタ日記」■(2011-09-07)[出版]アナーキスト林政雄につぶされた聚芳閣
「神保町系オタオタ日記」■(2011-10-07)[トンデモ][スメラ学塾]トンデモだった戦争文化研究所と『戦争文化』
「神保町系オタオタ日記」■(2012-02-01)中野與之助年譜
中野は三五教の開祖
『共同研究 転向3』(思想の科学研究会編,平凡社東洋文庫,2012/8/12)
>1937年以降の日中戦争の拡大に伴う翼賛体制を,なしくずし的「集団転向」と捉える視座を提供
『昭和戦前期初等歴史教育実践史研究』(福田喜彦著,風間書房,2012/12/25)
『スメラ学塾講座 第一期』(世界創造社,昭和15)
『日中戦争とイスラーム』(坂本勉編,慶應義塾大学出版会,2008.3)
日本に於ける対イスラーム政策を俯瞰するのであれば,最も充実していると思います.
坂本さんからして近代イスラーム社会史,トルコ民族史を専攻している研究者ですし,他の執筆者としても
東洋史,イスラーム文献学の国立国会図書館主題情報部主査の白岩一彦氏,
日本=トルコ関係史,トルコ民族史のメルトハン・デュンダル氏,
トルコ民族史の松長昭氏,
南方イスラームを研究している倉沢愛子氏
が出て来ています.
最近,この辺の史料が多く出て来て,パン・イスラーム主義とオスマーン,日本,中央アジアの関係を論じた本も出て来ていますね.
当初はロシアとの関係を考えて,ロシアの勢力範囲だった中央アジア方面の民族問題を扇動しようと,中国浪人を中心に活動していたのが最初,一旦下火になって,1920年代に於けるロシアの混乱と中華民国の迷走を見た陸軍が中心になって活動して,満州事変後は,陸軍,外務省,後に大東亜省が独自に勢力を扶植しようとした訳で.
大日本回教協会の初代会長が林銑十郎だったと言う点でも,とても陸軍の少数派とは言えないのではないかな,と思ってみたりして.
尤も,日本の構想が,皇室の様なカリフ制の復活※であったのが日本の限界で,その復活を危険視したトルコとの関係を危うくし,結果的に日本政府はトルコを採った訳ですが.※ 田中逸平に至っては,イスラームと古神道を習合し,大東亜共栄圏=ウンマ(イスラーム共同体)とする無茶な構想だった.――――――眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板,2010/07/24(土)
『イスラーム世界と拓殖大学』参照.
青文字:加筆改修部分
【質問】
「大東亜戦争当時の日本国民は 神国日本は負けない.平等で低価格の医療がすぐ手に入る.といった実現不可能な妄想を本気で信じていた.
大本営発表を鵜呑みにして,都合の悪い現実を理解しなかった」
てのは,どの程度本当ですか?
【回答】
人それぞれ.
玉音放送を聴いて「まさか」と思った人も居れば,その前から「こりゃやばい」と思った人も居る.
ただし,「日本が負けるかも」なんてことは,人前で大っぴらに言えることではなかった.
当時,「日本は負けない」って思ってたわけじゃなくて,
「この戦争は何が何でも負けるわけにはいかない」
って決意してた人も多い.
ソースは徳川夢声やら斉藤茂吉やら,無数にあるといってもいいぐらいな.
有名人の戦中日記.
少なくともおれが読んだ80冊(100冊?)以上な中では例外はない.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
戦時中,どのような精神主義が日本に蔓延していたのか?
【回答】
例えば以下のような事例がある.
[quote]
〔略〕
96式陸攻から1式陸攻,そして「銀河」に至るまでの一連の機体では,その使用全期間に渡って,機体下面に灰色塗装が施されたことは(あるいは,それが顧慮されたことも)殆どなかったと判断している.
〔略〕
以下は余談である.
機体下面の無塗装化がどんどん進められていく反面,機体上面の暗緑色塗装だけは,最後まで継承された.
これは,地上駐機時に空中から視認を困難にさせるという見地から,省くわけにはいかなかったのだと思うが,それだけで事足りたと言えるのだろうか?
太平洋戦争,とりわけ中期以降の戦史を眺めていくと,内地から到着した機体が,整然と並べられたところを,米軍機の不意討ちを受け,一度に百機,二百機という形でごそっと失われた例が,一再ならず起きている.
これでは,地上での隠蔽を目的として施された塗装でありながら,何の役にも立っていないことになるのではないだろうか?
確かに,迷彩塗装は軍用機にとっては不可欠であろうが,それだけでは充分とは言えず,やはり,偽装や掩体壕といったものと複合して初めて効果を発揮するものではないだろうか.
極論すれば,堅固な掩体壕があれば,機体が派手な塗装で塗られていても,機体自体は守ることができる.
それを,飛行機に並べたところをむざむざ一纏めに失ってしまうのであれば,暗緑色塗装すら廃止してしまっても,大勢に影響がなかったのではとさえ思える.
〔略〕
本来,迷彩塗装とはいえ,全てに万能ではなく,一局面,すなわち,バックの色相と機体迷彩色の色相とが合致した瞬間にだけ,その効果が生きるに過ぎない.
各国の迷彩の研究も,なるべく多くの局面で迷彩効果を発揮するようにとの前提に立って,色の選定,塗装パターン,塗装様式が決定されるものだ.
金科玉条のごとく暗緑色塗装に固執した海軍の塗装に,遂に敗戦に至るまで捨てきれなかった,大艦巨砲主義に代表される形式主義,そして,精神主義の一端を垣間見る思いがしてならない.
[/quote]
―――(黒木一実『再考・日本海軍機の塗装とマーキング』 vol.7 in 『航空ファン』 '00 Mar.)
このような精神主義は別に軍部に限った話ではなく,民間でも例えば以下のような事例があった.
[quote]
〔略〕
〔アメリカからの帰国子女の佐藤さんが〕もんぺを作る裂地がなくて,やむなく古いスカートを着て,電車に乗っていると,「この非国民,今の時局をなんと心得るか」と,見知らぬ男に大声で説教されたりした.
とにかく戦時下は説教ばかりで,車内で学校の英語の教科書を広げていて,「敵性語を勉強するとは何事か,その閑があったら千人針を縫え」と怒られたりした.
〔略〕
[/quote]
―――(深田祐介 「われら海を渡る」,文春文庫)
他にも,この面では笑えない笑い話が多い.
【質問】
神州思想というのは,元はどこから来てるの?
【回答】
神功皇后の故事のなかの新羅王の言葉に由来し,「日本書紀」仲哀天皇9年10月の条
「吾聞く,東に神国あり,日本という.また聖王あり,天皇という.必ず其の国の神兵ならむ」
平安期末の末法思想の興隆期には衰退するものの,「元寇」の前後に鎌倉新仏教に取り入れられ,「神皇正統記」の
「大日本は神国なり.天祖はじめ其をひらき,日神ながく統を伝えたまう.我が国のみこの事あり,異朝にはその類なし.この故に神国と言うなり.」
と神州思想は完成し,その後対外緊張の高まるたび強調される事となるのです.
【質問】
国家神道のルーツについて教えられたし.
【回答】
インドで発祥した仏教は,各地で教徒を獲得しながら,ついには極東の辺境である日本に至ります.
しかし,各種の宗教が犇めく発祥の地,インドは元より,中国や朝鮮でも様々な迫害が為されました.
中国ではその仏教弾圧は,「三武一宗の法難」と言う言葉で語られます.
今ではそれに中国共産党と言うのも加わりますが…まぁそれは置いておいて.
三武一宗と言うのは,極端な廃仏を実行した皇帝達のことで,その第1は北魏の太武帝,第2が北周の武帝,第3が等の武宗帝,そして第4が後周の世宗です.
このうち,北魏の太武帝の弾圧が最も強いものでした.
太武帝は8歳で即位し,幼帝だったので政治については司徒崔浩が補佐しました.
彼は道教の信徒で,帝が国事を訊ねる度に,仏教は嘘偽りの教えで,民衆の為に害となっている.
それに対して黄老の学は素晴らしく,国教の中心になると吹き込みます.
当時,嵩岳に道士寇謙之と言う者がおり,北魏始光元年(424年),『道教』を老子から授けられたと帝に奏上し,崔浩は上書して幼帝を丸め込んで,遂に勅命で嵩岳に道教の「玄都壇」を建立して,「静輪天宮」を起こし,寇謙之を諸王公の上に位させ,大家の子弟120余名を選んで道士とします.
寇謙之は帝に祝福だと言い,しかも老子に授けられたとして,元号を太平真君と改元し,更に帝は詔して長安の僧侶を誅殺し,仏像を焼き払い,寺院を焼き払いました.
太平真君5年(444年)になると,また詔を下して王公より以下庶民に至るまで僧の養育を禁じ,2月15日を限って僧侶を出頭させ,期日を過ぎれば僧は死罪,出頭を止めた者は一族皆殺しとし,太平真君7年(446年)3月には,詔によって仏教全寺院を壊し,仏像仏具教典を一切焼き捨て,僧侶は全員穴埋めにして殺害してしまいます.
それが仏の怒りに触れたのか,翌年の太平真君8年に帝は雷に打たれて傷害し,11年になると疫病に罹ります.
そんな中でも,崔浩自らは国史を編纂して石にこれを刻もうとしていましたが,群臣の中から皇帝に注進する者がおり,帝は初めて自分が利用されていたことに気づき,立腹して崔浩を始め一族120余名を殺害してしまいます.
それでも仏の怒りは解けず,13年2月には帝は癩病に罹って死んだと言います.
それから110年の後,今度は北周の武帝が廃仏を行います.
武帝は『讖緯』と言う未来を予言する書を固く信じ,その書に「黒相ある者は正に天下を得べし」とあったので,大変黒色を忌み嫌い,僧侶は全て黒衣を捨てて黄衣を着用させた程です.
しかし,道士の張賓と言う人物が,黄衣は黄老,つまり道教のもので,仏教のものではないと暴言した上,帝に大して仏教は国家の不祥であり,道教は吉祥であると説き,遂に帝もこれを信じるようになり,仏教を廃して道教を建てようと考えるに至ります.
そして,道教の道家と仏教の僧侶との間に争論をさせ,それを調停する名目で,建徳2年(574年)2月6日に詔して,仏道2教ともこれを廃して,これを纏めてしまう「通道観」を設立し,これを纏める為に通道観学士120名を仏教と道教の双方から選びます.
一見,公平な措置に見えますが,その学士の服装は衣冠杓履を着用させます.
この衣冠杓履は,日本の神職の衣装と同じもので,これは実は道士の服装であり,所作も道教の所作をしなければなりませんでした.
つまり,仏教を知的に排除した訳です.
因みに,実は日本でもこれと同じ事を明治政府が行っています.
やがて,武帝は寺塔を取り上げて王公の邸宅に宛て,仏像教典を焼き捨て,僧尼300余万人を強制的に還俗させ,仏教弾圧をより明確にしますが,宣政元年(578)に仏罰が下ったのか,武帝は体中に悪性の腫瘍が出来て死にました.
更に260年が下ると,唐の15代皇帝である武宗が廃仏を行いました.
これも,道教の道士趙帰真に唆されて,破仏の思想を幼少から植え付けられました.
因みに,その弟である宣宗は即位前から禅僧となったほどの崇仏家でしたが,逆に武宗は道士に教育されていました.
そして,会昌5年(845年)に詔して,天下の寺院4,600余カ所を壊し,僧尼26万500人を還俗させ,仏像はこれを破棄して,銭や農具などに改鋳させました.
最後の後周の世宗は,更にそれから110年.
即位後間もなくの顕徳2年(955年)4月に詔して僧尼の私度を禁じて国家統制下に置き,勅額の無い寺院33,036カ所は全て廃毀させました.
更に9月には再び詔して仏像仏具を壊して銭を鋳造しましたが,こうして出来た銭を周通銭と呼んでいます.
しかしこれまた,仏罰が当たったのか,北征を行っていた途上の顕徳6年(959年)に胸に悪性の腫瘍が出来て死んでしまいました.
これらを称して,三武一宗の法難と言います.
その後の中華人民共和国の文化大革命による廃仏も大概だと思いますけどね.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/10/08 22:16
日本の仏教排斥の話と言えば,仏教伝来初期の物部尾輿による排仏運動がありましたが,これはどちらかと言えば,神祇崇拝と仏教が調和するかどうかと言う点に論点があり,其の実は,仏教を支持する勢力であった蘇我稲目との権力闘争だったので,本格的な仏教排斥とは少し違います.
その権力闘争を経た後は,日本国内に古来からある八百万の神々を信奉する古神道と,仏教とは時に啀み合うことは有りましたが,概ねうまく共存しあってきました.
しかし,その関係に変化の兆しが現れるのは,江戸時代になって朱子学の泰斗となった山崎闇斎からです.
山崎闇斎は,晩年,幕府の神道方となった吉川惟足に神道を学び,自らの朱子学と組み合わせて「垂加神道」なる神道を新たに興しました.
そこで,山崎闇斎は,唐の韓愈などの儒教的な言葉を借りて,仏教を異端邪説と非難するのです.
つまり,仏教は夷狄の宗教であり邪説であって,神祇忠孝の人倫の道に反するものであるから,神国日本の奉ずべきものではないと主張しました.
ところで,儒教にしろ,朱子学にしろ,中国と言う夷狄の学問なのですが,それは無視ですかそうですか….
ま,往々にして,新しい宗教と言うものは,過激にしなければ信者を獲得できませんからねぇ.
兎に角,これが日本における排仏思想の始まりです.
江戸中期になると,国学と言う学問が盛んになります.
これは,古典の研究を通じて,我が国固有の道を明らかにしようと言う学問ですが,例えば,神道で皇典だと称している『古事記』『日本書紀』『古語拾遺』なるものは,儒者でも仏教者でも誰でも読んで構わないものであり,宗教的なものでなければ,神秘的なものではありません.
元々は下記に見るように,歌道として発展してきたのが国学になる訳で,江戸時代の後期に出てきた国学はそれとは全く異質な学問,寧ろ奇形児と言っても過言ではありません.
そもそもの国学の興りと言うのは,時代の推移とともに古い言葉が解らなくなり,歌を詠むすべも乱れ,遂には『万葉集』ですら読むことが出来なくなったことに始まります.
951年に村上天皇が和歌所の寄人であった清原元輔,紀時文,大中臣能宣,坂上望城,源順と言った「梨壺の五人」に命じて,『万葉集』に訓点を加えさせたことが最初で,鎌倉期には仙覚法印と言う僧が国学を発展させます.
この間,全く神道の人間は出て来なかったりします.
その仙覚と言う僧は,元々天台宗の人で,悉曇,つまりインド語学を学び,音韻に通じて,権律師に任ぜられます.
更に仙覚は生来和歌を嗜み,1215年からは特に万葉集を研究して,1246年,45歳の時に鎌倉比企谷新釈迦堂に於いて万葉集の無点歌152首に注釈を加え,それを1253年12月に後嵯峨上皇へ『仙覚奏覧状』として奉り,仙覚は,上皇から万葉得業と言う僧階を授かりました.
そして,仙覚の歌は『続古今集』に収められ,更に1269年には67歳で,『万葉集註釈』全10巻を撰する等,国学の基礎作りに大活躍しています.
つまり,国学の基本は,仏教の僧侶が作り上げたものだった訳です.
その後,鎌倉幕府の瓦解,南北朝の争乱,応仁の乱等が相次いで起きると,誰も日本の古語等見向きもしなくなりましたが,江戸期に入ると再びそうした古語に目を向ける余力が出てきて,契沖阿闍梨が『万葉集』の講釈を始めました.
この人は大坂で僧侶として勤めた人で,仙覚同様悉曇に通じ,仏典の研究の傍ら,『万葉集』の古典注釈研究に没頭し,1688年頃に『万葉代匠記』20巻,惣釈1巻を著し,水戸の徳川光圀に奉呈しています.
更に,万葉代匠記は1690年には精選本49巻になり,これも光圀に奉呈されました.
何れも,この研究は水戸徳川家から資金が出ていたものですが,その学風は,実証的かつ帰納的なもので,国学の考え方の祖となるべきものでした.
この人の後に,弟子として荷田春満が出て来て,荷田春満の弟子として賀茂真淵が出て,国学は益々発展し,賀茂真淵が江戸で講義をすることにより,更に関西だけでなく,江戸でも国学が盛んになっていきます.
賀茂真淵の考えは自然の感情を理想とするものであり,その思想は,弟子である本居宣長や加藤千蔭に引き継がれていきます.
本居宣長等は,仏教を排斥する思想の持ち主とよく言われますが,元々は国学の研究に勤しみ,純粋に古典を調査して,歌道を復興させた人々であり,『古事記伝』では,『古事記』の神代の巻の神々を仏典による仏や菩薩の様に解釈して,一種の神の道を作っていたりするものの,自身は浄土宗の信者であり,排仏思想は微塵もありませんでした.
この辺,本居宣長が神代思想を吹聴したとされたのは,実はもっと後の時代,近代に至ってからだったり.
この国学が大きく変質していくのは,江戸末期,日本が諸外国に開国を迫られてからです.
1854年,日米和親条約締結により,世論を顧みずに国を売った幕閣に,天下の有志が挙って立ち上がり,国是問題が持ち上がります.
当然,こうした状態では排他国思想とともに愛国心が芽生えることとなり,幕閣は対応に苦慮することになります.
但し,この時期でも,討幕論或いは攘夷論であって,廃仏論ではありません.
しかし,世の中が乱れてくると,庶民は生きることが精一杯で,生活のみが重視されるようになります.
そうなると,仏教の価値が薄れ,仏教は贅沢不必要なものであるとされ,更に仏教は外来の異国神を祀るものであり,百害あって一利なし,寺院や僧侶は無用のものであると言う過激な思想が現れ始めます.
それに拍車を掛けたのが,儒学や国学に刺激された,「日本は神国であるから神の道で事足りる」と言う考え方です.
そして,伊勢外宮の御師達は,そうした風潮を利用して庶民を扇動し,「御蔭参り」を実施します.
これは群衆が伊勢神宮に集団で参拝すると言うもので,伊勢の御札が天から降ってきたと言う噂で,民衆が挙って伊勢神宮に殺到し,道中では無料で宿泊や食物の施しを受けたりしました.
因みに,御蔭参りはこの時だけの現象ではなく,1650年頃から50〜60年周期で発生しているもので,民衆の不満をそらすために実施したと言う説もあります.
その御蔭参りの絶頂期が,1867年に発生した『ええじゃないか』です.
これも,討幕派や廃仏派が社会不安を増大させるために起こしたものではないかと言う説があります.
討幕と廃仏論が結びついたのは,1640年に家光が寺請制度を作ったためです.
これは国民全てを何処かの寺院の檀家とさせる制度で,それを登録する宗門人別帳を作成し,宗門改役がこれを検査すると言うものであり,この台帳に於ては,武士も名主も神主も町人も農民も,全て仏教徒として扱われました.
いわば,現在の戸籍です.
寺は,他にも旅に出るときの通行手形発行に必要な書類を整えたり,埋葬に必要な手続きを行ったりする役場的な存在でもありました.
従って,討幕を行って民衆を握るためには,寺院にある人別帳を提出させる必要がありました.
それにより,幕府の財源や生産力を手に入れることが必要で,その為には,寺院を打ち壊して,人別を奪うのが,討幕派にとっては必要条件となった訳です.
それに乗じて暗躍したのが,国粋主義の一派でした.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/10/11 22:00
さて,国学をねじ曲げた張本人のお話.
山崎闇斎が垂加神道と言うものを作り上げて,仏教を攻撃しましたが,それは一過性のもので,全国に広がることはありませんでした.
しかし幕末には,庶民にそうした廃仏思想を受け入れる余地があり,明治維新とともに爆発した訳です.
元々,国学と言う学問は,先述の通り,僧侶によって主導され,歌の道を究めるための学問として発展してきました.
それをねじ曲げて神代学と唱え,神道説を唱えたのが,平田篤胤と言う人物です.
平田篤胤も,山崎闇斎同様,神道を作り上げ,これを復古神道と名付けました.
本居宣長が,『古事記伝』で神の道を説いたのですが,排仏思想は一切無かったのに対し,平田篤胤は自派の勢力拡大の為に本居宣長の名を用い,その中に都合の良いような理屈を付け,過激な主張をして,世の耳目を集めようとしたに過ぎなかったりします.
そう言う意味では,彼は後の世に出てくる,オウム真理教の教祖と何ら変わらなかったりします.
確かに復古神道を創設し,惟神の道の教祖の様に崇められているのですが,例えば,彼の理論は天地の根源神として天御中主神をあげています.
ところが,この神様,『古事記』の冒頭に名前だけ出てくる神であり,この神を祀った社も無し,個性も明らかではない,相当怪しい神だったりするのであり,『古事記』を読み込んでの理論構築ではなかったりする訳です.
因みに平田篤胤自身は,本居宣長の正統を継ぐ国学者として一生を通していますが,実際には本居宣長は1801年9月29日に72歳で没した後,その後2年たった1803年まで,平田篤胤は本居宣長の著作は勿論のこと,その名前すら知らなかったのです.
1803年に,平田篤胤は処女作である『呵妄書』を著しています.
この著作は,本居宣長の立場から,儒者である太宰春台の『弁道書』を批判した内容になっていますが,この書では本居宣長はいますが,平田篤胤は出て来ません.
ところが,この著作が出て来た1803年と言えば,すでに本居宣長は此の世にいなかったりします.
更に,平田篤胤が本居宣長の書に接したのは更に後で,1807年3月16日付の大友直枝宛の書簡に,篤胤自身が,
「小生事は,故翁(本居宣長のこと)御没故は一昨年と申す年に,初めて御名をさえに承わり,かつ,古典も読み始め候ことにござ候えば(以下略)」
と白状しており,平田篤胤は,自身が披瀝しているように,本居宣長に合ったこともなければ,その名さえも知らず,1803年頃にやっとその名を知った訳です.
その上,本居宣長の嫡子である本居春庭に宛てた平田篤胤の入門願いには,
「世にましまし候間に御名も存ぜず,同じ年代に生まれ合ひ候ふ身の御弟子の数に入りはべらざりしこと,本意無くうらめしく,実に悲痛に堪えず存知つづけたてまつり候ふところ,去春不思議にも翁に見え候ひて夢ながら師弟の御契約申し上げ候」
等と,要は夢の中に本居宣長が出て来て,私と師弟の契りを結んだのだ,等とぬけぬけと書いています.
殆ど誇大妄想な世界で,オウム真理教の教祖に非常に似ているような感じ.
で,その夢を盾にして,自分こそが本居宣長の正当後継者だと言い張っている訳です.
勿論,嫡子である本居春庭には,全くその事はおくびにも出さないのですが….
1823年には,宣長の養子で,学問の後継者である本居大平を和歌山に訪ね,宣長の仏壇に飾ってあった宣長手作りの笏のようなものを譲り受けて,自分こそ後継者なのである…などと,まぁ誇大妄想の常軌を逸している危ないおっさんだった訳で,その後の所行を考えると,本居宣長こそ好い迷惑です.
話を戻して,平田篤胤は,どのような手管を用いたか,本居春庭の門弟となることに成功します.
本居春庭は中年に失明してしまったので,真剣度を見抜けなかったのかもしれません.
その後,平田篤胤は,『新鬼論』『古道大意』『俗神道大意』『西籍概論』『出定笑語』『歌道大意』『志都能岩屋』『気吹於呂志』『玉だすき』『霊能真柱』等の稿本を多数書き,世に出ようと努力します.
しかし,江戸ではそれに共鳴してもらえる事はなく,失意の篤胤は,1823年6月に江戸を起って上京し,仁孝天皇や光格上皇等に自著を献上したり,先述のように,本居宗家を訪ねたり,宣長の墓所に参ったりとパフォーマンスを繰り広げ,上京の途中には,神道の絶対的権威である吉田家を訪問したりもしています.
しかも臆面もなく,前には徹底的に批判していた吉田神道を擁護する,『吉田家系譜伝』を著してヨイショに励み,やっと念願叶って,12月には吉田家から神職教授を委嘱されました.
こうして,自分の野心の第一歩が叶った篤胤は,1825年以来,御三家の一つである尾張家に仕官運動を続け,1831年にやっと尾張家より3人扶持を宛がわれましたが,あくまでも仮就職であり,正式仕官は認められません.
また,水戸家にも出入りを願い出ますが,認められませんでした.
そうこうしているうちに,幕府では篤胤の書が荒唐無稽の出鱈目で,その節に取留めが無く,考えに拠所がないことに疑念を抱き,1834年6月,時の大学頭である林衝が篤胤の学問などについて幕府の諮問に答え,見解書を提出しました.
その状況を見た尾張家は,11月に彼の禄を召し上げてしまい,結局尾張家から放逐されます.
諦めきれない篤胤は,同じ月に水戸家の藤田東湖に願書を送り,水戸家の史館出仕を願い出ましたが,これも許されませんでした.
性懲りもなく,1835年正月には名前を偽称した上,名高い国学者だった屋代弘賢の名前で,史館出仕推挙の口上書を送りましたが,これもまた願いが叶いませんでした.
藤田東湖は,彰考館総裁であった相沢安宛の書簡で,篤胤を評して「怪妄浮誕」の人物,つまり,とりとめのないでたらめな人物として切って捨てています.
その後,篤胤は1837年に書いた『天朝無窮暦』が問題となり,1839年には幕府から尋問を受け,6月には出身である秋田佐竹家に照会があり,1841年には著述の禁止を幕府から申し渡された上に,国元の秋田に退去帰国を命じられました.
以後,篤胤は種々の伝手を頼って宥免の運動をしましたが,果たし得ず,1843年9月11日に没しました.
こうした誇大妄想のおっさんが死んだだけであれば良かったのですが,彼の過激主張に共鳴するシンパが既に553名もいて,彼らが養子である平田銕胤を中心に結束し,平田神道を奉じて,仏教を排撃していったのでした.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/10/12 22:36
篤胤は唯一神道や垂加神道と言った,仏教や儒教の思想を取入れた神道を俗神道として排撃したばかりでなく,極力仏教を罵倒し続けました.
例えば,『出定笑語』『巫学談叢』『古今妖魅考』『悟道弁』なんて言う著作がそれです.
こうした書を著す篤胤のことを,本居学派の城戸千楯は,「大山師」とか「大嘘つき」と言って,厳しく篤胤が偽物であることを批判しています.
『出定笑語』と言うのは,大坂の思想家で,反仏教などの論陣を張った富永仲基の『出定後語』を模したものですが,富永仲基は,仏教を深く学び,儒教に通じ,更に神道をも極めた結果,極めて科学的な立場から仏教を批判した訳ですが,元々アジテーター気質しか持たない篤胤は,そんな深くまで考えません.
と言うわけで,釈迦を攻撃するにしても,
「なんと妻を三人持って,子も三人生ませりや,随分沢山なことで,子福者といってもよい程のことでござる.
但しこれは,仏本行経,五夢経,十二遊経などいふ類の慥かなる仏経に記し有って争はれぬことでござる」
と述べていますが,却ってこれが,見るべくしてみた人から見れば,その知識の浅はかな事が透けて見えるわけです.
例えば,『五夢経』等という教典は此の世に存在しないものですし,釈迦に3人の妻がいたと言うのは,『十二遊経』に出てくる3人の女官と勘違いしたと考えられますし,これも『本行経』にはありません.
因みに,釈迦の夫人とされるのは耶輸多羅のみです.
ついでに,篤胤は26歳で石橋織瀬と結婚しますが,36歳で妻を失い,43歳で再婚するも1年と続かず,更に離縁から4ヶ月後に,山崎篤利の養女と再々婚するので,都合3人の妻を持ったことになります.
何のことはない,自分の自慢を釈迦に託しただけですな.
他にも,
「釈迦は刹帝利の家に生れは致したなれども,自分の物ずきで王とはならず,二十五の時に家を出て婆羅門と同じやうに人を導き教へ,釈迦以前にはとんと無かったことの新趣向を立て(以下略)」
とか
「悉達は王の太子で有りながら,この出たる度々にかかる不浄の者など見る所を以ても,漢土の王などの如く立派なことではなく,今御国でいはうならば,村々の大庄屋を見たやうな物なることを知るがよいでござる」
など言いたい放題書いています.
その上,日本には昔から文字があり,儒教や仏経が入ってくる以前に既に文字があったのだ!(な,なんだってーAAryなどと言って,その文字までを創作しています.
其の昔,神の手と呼ばれて彼方此方で旧石器時代の石器が出土したことがありましたが,まぁこれよりひどい話です.
要は,自分が気に入ったものは徹底的に擁護し,自分の気に入らないものや人は,徹底的に排撃すると言うもので,今の世の中にも通じる物があります.
幸い,今の世の中には,江戸期と違って,多元的な情報入手が可能ですから,変なことを書くと徹底的に排撃されるのは自分たちなのですが…
最近は,多元的な物の考え方自体が出来なくなりつつあるからなぁ.
しかし,こうした平田篤胤の歯切れの良い物言いは,平俗であり,面白可笑しい語り口で,民衆に受け入れられたのも確かです.
江戸も後期になると,文化文政の町人文化が最高潮を迎えます.
ちょうど,篤胤の本がその頃の時代のニーズにマッチした訳です.
ところで,江戸期に花開いた庶民文化と言えば,歌舞伎や狂言などもそうですが,落とし噺,現在の落語もそうです.
最初に落とし噺を始めたとされるのが,京都誓願寺竹林院の住持であった安楽庵策伝です.
策伝は浄土宗の説教僧で,様々な階層の人々を相手に,説教を面白可笑しく行う人でした.
策伝が京都所司代板倉重宗の所望で,1628年に著した『醒睡笑』は,今日古典落語の元ネタとなっていますが,元々は策伝和尚の説教話材のメモ書き集大成であり,一種の仏書としての性格も有していました.
次いで落とし噺の世界に登場するのが,現在,上方落語の祖とされる露の五郎兵衛で,この人は辻談義の名人であり,元々日蓮宗の僧侶でした.
五郎兵衞は露休と言う僧名も持ち,僧形で話し続けて評判になったと言います.
以後,落とし噺を生業にする者は,全て五郎兵衞の形を真似て,僧形で語る者が多く現れるようになった訳です.
落とし噺の出だしがそれだった為に,古典落語と呼ばれるものには多く仏経説話的な内容が見られます.
中でも,「阿弥陀池」「お血脈」「御座参り」「御文様」「御印文」「小言念仏」「地獄八景亡者戯」「七度狐」「十八檀林」「寿限無」「百万遍」と言ったものには,浄土宗系の説教の影響が見られます.
例えば,有名な「寿限無」は『無量寿経』に発する珍名の命名に関する噺であり,「十八檀林」は関東にある浄土宗の18カ所の学問所を順次照会するもので,江戸時代,「山号寺号」と同じように庶民に親しまれたものでした.
上方落語で,旅ネタと称する道中噺の代表作で,往年の米朝師匠が十八番としていた「地獄八景亡者戯」も,説教と深い関わりを持っています.
『長阿含経』『観仏三昧経』『雑阿含経』『地蔵菩薩本願経』『十王経』と言った経典に描かれている地獄の様が,源信の『往生要集』や存覚の『浄土見聞集』を通して,説教の世界で様々な形で口演され,それが噺となっていったものです.
また,「高野違い」,弘法大師の登場する「杵大師」「大師の馬」は真言宗系の落語であり,「景清」「お神酒徳利」「船徳」「野崎詣り」には観音信仰が語られています.
更に,「法華長屋」「甲府い」は日蓮宗についての落とし噺で,「甲府い」は別名を「法華豆腐」と言ったりしていますし,身延山詣りの旅人がお題目の御陰で一命が助かると言う「鰍沢」も日蓮宗系の落とし噺ですね.
「松山鏡」「野晒し」「蒟蒻問答」は,禅的要素が詰まっている落とし噺です.
これらの落とし噺は,教化遊行僧の説教が原型であり,仏典の『百喩経』から来ているものも多かったりします.
江戸期の寺院は,今と違って信仰の場と言うだけでなく,人々の集まる遊技場としての機能も持っていました.
その為,その中では屡々能や狂言,農村歌舞伎と言ったイベントが催されたほか,噺の会が催されて,落とし噺名人がその席上で,人々に面白可笑しく落とし噺を語った訳です.
お寺を舞台とした場合,当然面白く脚色を施した説話的落とし噺も語られたのですが,納涼の会として,因果応報や輪廻転生を語る様な怪異談も語られました.
それが現在残っている,「怪談牡丹灯籠」や「真景累ヶ淵」の様な怪談噺となっていった訳です.
こうした落とし噺の流行は,仏教の世界を庶民に身近にさせた反面,これを茶化す様な考えが人々の中に広める事にもなりました.
それに乗っかったのが,篤胤の「惟神の道」と言うものです.
その大元は,こうした落とし噺にあった訳です.
丁度この頃は,跡見光海の『排仏論』,斉藤高寿の『儒仏論』,丹羽貴明の『因果可笑論』と言った排仏書が世上に流布されており,廃仏は一種のブームにもなって行きました.
因みに,明治以降は更に説教色が薄れ,廃仏毀釈の流れで,古典落語の中にある「小言念仏」などは変質してしまい,説教本来の意味どころか,念仏者を憎悪する話へと変わってしまいました.
明治以降の落語になると,僧侶の失態や小僧の茶化し,寺院の荒廃が出るようになっていきます.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/10/13 22:52
1872年に明治政府が太陰暦から太陽暦に改暦するに当たり,記紀神話が伝える神武天皇即位の年を元年とする天皇紀元,所謂,皇紀となるものを作り出しました.
これは釈迦誕生を元年とする仏暦や,キリスト紀元を世界暦とするものに対抗してのものだったりします.
神武天皇の即位日は1月29日と定めて,例年その日には全国の各神社で祭典を行う事が布告されました.
これによって,現在の宮崎神宮,当時の神武天皇社は時流に乗る事が出来たのですが,1873年6月になると,政府は「神武天皇御即位日ヲ紀元節ト被称候事」と言う太政官達を発して,なぜか10月には2月11日を紀元節とする事になります.
紀元節は,『日本書紀』に神武天皇が「辛酉年春庚申朔」に即位されたと記されているのを根拠としているのですが,これは辛酉が古代中国の陰陽五行説で言う所の変革の年である事から,人皇第一代の天皇即位を,五行説に則って,辛酉年春としたもので,暦史的な根拠となる事実ではありません.
当初,即位日を1月29日としたのは,新暦の1月29日がたまたま旧暦の元旦であったと言うだけのことで,その後,神武天皇当時の暦(元よりそのようなものは存在しない)に基づいて計算したとして,2月11日に改められました.
しかし,この様な計算自体が成立しない物であり,暦の換算根拠も一切公表されないまま,国民は2月11日を紀元節として祝ってきました.
戦争が終わっても,その祭日は連綿と引き継がれ,現在でも建国記念の日となっています.
日本自体が古い国であるのは確かなのですが,明治時代に創始された,全く根拠のない日にちが未だに建国記念日となっているのは,それはそれで,国を蔑ろにしている様な気がしてしょうがありません.
考えてみると,明治時代に創始されたのにも関わらず,今や古くから有る様に人々に思われているものは,たくさんあります.
奈良にある様な古くからの原始神社は兎も角,凡そ現代で神道と呼ばれるものは,古代から連綿と続いていた訳でなく,明治時代に儀式を整えた,新興宗教が殆どで,その原型は全て他の宗教からの借り物だったりします.
神社の伽藍造りも明治時代からですし,祭神にしても地方の自然発生的に作られた神社では,名も無き神々は全て,夫婦神なら伊弉諾と伊邪那美,天神は菅原道真,山の神は大山祇神とされて,それに官幣,国幣,府県幣,郷村弊と差別化し,出費も国家が行いましたがその費用も差別化されました.
本来,古代の神社のご神体とは,三輪明神に見られる様に,山そのものが神であり,川しかり,老木古樹しかり,実体のないもので,そうした自然に対する畏敬から,人々はそれらを拝んでいたのであって,現在の様に拝殿が作られていた訳ではないのです.
また,近代神道には宗教的教義がありません.
近代の神道では,あるとすれば,「惟神」と言うもののみで,これは1945年まで言われていた「国体」そのものでしかありません.
その天皇ですら,江戸が終わるまでは敬虔な仏教徒であり,明治天皇も「即位式を仏教の大元帥の法によって出来なかった事である」と悔いていました.
仏壇も,685年3月,天武天皇が諸国に命じて家毎に仏舎を作らしめた勅令があってから始まった風習で,神棚を祀るのは明治期になってからです.
結婚式でも,神前結婚式で花嫁がつける角隠しは,浄土真宗の教義内容から来たもので,これは,「罪悪生死の凡夫としての自覚に立って,鬼の様な浅ましい私を嫁として頂いてありがとうございます」と言う意味が込められているものです.
神前結婚式の始まりも,1901年の神宮奉斎会の東京大神宮で行われたのが最初であり,元々は仏式が主流でした.
その結婚式に流れる雅楽も,1897年1月18日に社寺局通達で仏教から奪い取ったもので,元々はインド仏教の釈迦誕生日会に伎楽を奏する風習があったものが560年に日本に入ってきて,612年になると百済からの帰化人が呉楽をもたらしています.
これが元々の雅楽渡来の最初で,701年には遣唐使粟田道麻呂が,唐楽を持ち込みました.
752年の東大寺大仏開眼供養では,唐楽は伎楽,高麗楽と共に演奏され,809年には雅楽寮の楽師が定められています.
それが,1897年のたった一枚の通達で仏教から引きはがし,古文献の仏教儀式の諸「会」を全て神式の「祭」に改竄して,神嘗祭や新嘗祭と銘打ち,神社神道のものであるかの様にしてしまっています.
神社につきものの鳥居も,元は仏教から来たものです.
稲荷鳥居,山王鳥居,両部鳥居の様に台座(丸い輪)のあるものは,明らかに仏教式で,本来はその台座の中に納骨する為のものでした.
また,鳥居を表わすのに,「華表」と言う字を充てる場合がありますが,これは仏・菩薩示現の聖域を示すもので,極楽への門になっています.
四天王寺の鳥居には「釈迦如来天法輪所 当極楽土東門中心」と書かれてあると『法然上人行状画図』にありますし,吉野にある蔵王権現堂の日本最古の鉄の鳥居には,「吉野なる鉄の鳥居に手をかけて弥陀の浄土に入るぞうれしき」と記されています.
密教では,護摩壇の門を鳥居又は表木と言い,表木も華表の表を取ったものです.
地方に行くと,古くからの葬場や棺廓の四方に鳥居を建てて,額を掛けて,これを「四門の額」と言い,発心・修行・菩提・涅槃の仏道求道の四転を示すものです.
これまた近代神道では,鳥居は神社のシンボルとして,汚れのある者は鳥居をくぐってはならぬと言う迷信を加え,肉親の死に会った者は穢れているので49日神社の鳥居をくぐってはならぬとか,僧侶は不浄の者なのでくぐってはならぬとか,部落差別の道具にもされ,本来の仏教的意義は失われてしまいました.
ついでに,神社の拍手も仏教から来たものであり,仏教では「歓喜拍掌」と言って,3回するのが正式ですが,今では掌が手になって,意味がぼやけ,3回が2回になると言ったぞんざいな状況になっています.
ちなみに,「かしわで」は「拍手」であって「柏手」ではありません.
とまぁ,こんな感じで,日本人の宗教観が好い加減になったのは,この廃仏毀釈の所為ではないだろうかとも思ってみたりする訳です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/10/22 23:56
江戸期まで,公式文書には,お寺と神社の順番は,「寺社」となっていました.
奉行の職制でも,「寺社奉行」と言う風になっていますが,明治期に廃仏毀釈が行われると,その地位は逆転して,「社寺」となります.
神社は,従来,寺と共に共存共栄してきたのですが,王政復古の大号令と共に,全て天皇の名の下に寺院から引きはがして,惟神神道を国の宗教と位置づけようとした訳です.
まさに心の問題に,国家が関わってくる始めでした.
更に,先に見た様に元々寺院のものだったものは全て神社の創始とされ,国民は誤った知識を植え付けられる事になりました.
そう言う意味で,修身を復活させろと言う動きや国家神道を国の基に据えろと言う要求に対して,政府が取っている態度は方向としては間違ってはいません.
4月と9月には春分の日,秋分の日があります.
これは国家の祭日になっていますが,この大元は,春の彼岸,秋の彼岸として,中日を中心として7日間,仏教法事を営み修する事を彼岸会とした事から始まっています.
彼岸会は仏教行事ですが,日本独特の行事であり,他国にはありません.
これは聖徳太子が四天王寺を建立して以後広まる考え方で,中日には太陽が真東から昇り,真西に沈んで,昼夜の長さが同じであると言う現象の中,生死輪廻の此の岸(此の世)から涅槃常楽の彼の岸(極楽浄土)を欣求し,併せて現実界を浄化すると言う意義を持ちます.
記録としては,741年に「諸国の国分寺の僧に,春と秋の7日間剛般若経を読ませた」と有る様に,既に奈良時代には定着しているものでした.
これは,1878年6月以後,彼岸という行事は廃され,春季皇霊祭,秋季皇霊祭としてしまいました.
良く靖国の参拝が話題になりますが,既に見た様に,これも比較的最近の行事なのです.
流石に戦後は,春分の日は「自然を称え,生物を慈しむ日」であり,秋分の日は「祖先を敬い,亡くなった人々を偲ぶ日」と定義付けが再編されています.
さて,更にお盆も同様に,古くから有る日本人の年中行事の最たるものの一つです.
お盆は,?lambanaと言うインドの古典語であり,「一切の苦しみを救う」と言う意味を持ちます.
お盆会は『仏説盂蘭盆経』によって行われる,仏教行事の一つで,657年7月15日に,須弥山の形を飛鳥寺の西に造り,天皇親修の下にお盆会が営なまれたのが,国家的な行事としてのお盆会の始まりです.
この時の天皇は,皇極天皇の重祚である斉明天皇で,以後,お盆という行事は日本国民の行事となっています.
この行事だけは,神道論者もどうしようもありませんでした.
中には,お盆行事を一切しないと言う地域もありますが,神職がお盆のお祓いと称して氏子宅を回るのは,全く滑稽な話になります.
しかも,夏の神祭として7月15日や8月15日にお盆行事を神社の祭りと為したのは,殆ど笑止千万な出来事です.
因みに,冬の神祭は仏教の報恩講を真似たものです.
「先祖の供養」と言う様に,供養というのは,「仏・法・僧の三宝を資け養う」為に,香・花・灯明・飲食・資材等を供え奉る事を言い,純然たる仏教行事です.
その儀式作法は二種供養,三種供養,四種供養,五種供養,六種供養,十種供養などがありますが,標準的な五種供養の場合,1には塗香,2には花,3には焼香,4には飲食,5には灯明の5種を供えての儀式作用が中心で,少なくとも必須な供養の基底なのは,香・花・灯明の3種類であり,これらを総括して利供養と呼びます.
また,口に経典を誦し,称名念仏して仏徳を讃嘆恭敬するのを敬供養と言います.
この利供養,敬供養が相まって,初めて真の供養は成就できます.
『無量寿経』では阿弥陀仏の四十八願が示される中,第二十三の願に諸仏供養の願が掲げられています.
この様に,供養と仏教は切っても切れないものです.
この行事も,国家神道では神社の儀式に組み込みました.
良く,ニュースで人形供養とか針供養,筆供養として神社で行っている供養行事を見かけますが,これは本来の供養の意味からすると噴飯ものの行事です.
例えば,針供養.
『歳時記』では,「針を遣うのを慎む日」とされており,更に,
「関東では2月8日,関西・九州では12月8日,この日は針仕事を休み,一年中に遣った針の折れたのを淡島神社に納めに行き,神前に置いてある豆腐に刺す」
とあるだけで,万物,つまり,針に対する感謝の気持ちや報恩の誠意は全くそこにありません.
2月8日と言うのは,『荊楚歳時記』では釈迦の誕生日のことを指し,12月8日は成道会と言って,釈迦の悟りを完成させた日を祝う日で,何れも仏教に関する法会です.
淡島神社も,元々は弁才天を祀る仏教の社であり,廃仏毀釈前までは仏式で本当の意味の針供養が行われていました.
しかし廃仏毀釈により,強制的に神社として独立させてしまうと,それまでの針供養の位置づけが出来なくなったので,「針を遣うのを忌み嫌う日」と言う名目をでっち上げ,現在では形骸化してしまいました.
そう言う意味では,何でも「我が国のものニダ」などと言う隣国と,国家神道のメンタリティは大して変わらないものがあったりする訳です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/10/23 21:24
【質問】
大和魂って何ですか?
【回答】
時代によって意味が変化している.
「天皇制国家を支える国体観念の淵源」としての大和魂が登場するのは,明治になってからである.
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文献のうえで〈やまとだましい〉が登場するのは《源氏物語》乙女の巻.
光源氏は,12歳になった長男の夕霧に元服の式をあげさせ,周囲の反対を押し切って大学へ入れる.
その際,
〈才(ざえ)を本(もと)としてこそ,大和魂(やまとだましい)の世に用ひらるゝ方(かた)も,強う侍らめ〉
と述べている.
ここでは
(1)大和魂は才(漢学の素養,漢才(からざえ))と反対の概念をなしていること,
(2)本(もと)が才であり,したがって,末に位置するものが大和魂であること,
(3)大和魂の属性として〈世に用ひらるゝ方〉すなわち処世的手腕・功利主義的判断能力が考えられていたこと,
この三つの特性が認められる.
従来の源氏注釈家たちは,〈大和魂〉について,世才,良識,先天的に備わった気ばたらき,融通のきく常識的政治判断,世渡りの才能,交際上手,如才なさ,実人生に対する理解力,などの解釈を与えている.
次に登場するのは,《大鏡》巻二の左大臣時平の伝である.
藤原時平は菅原道真を讒訴(ざんそ)したとして後世悪名が高く,時平が短命であり,その子孫らもすぐに絶えたのは道真の怨霊によるものとされた.
〈あさましき悪事を申しをこなひたまへりし罪により,このおとゞの御末はおはせぬなり.さるは,やまとだましひなどはいみじくおはしましたるものを〉
と述べたあと,三つのエピソードを紹介している.
(1)奢侈(しやし)禁止令がすこしも実行されなかったとき,時平は醍醐帝としめしあわせ,わざと華美な服装をしてお叱りを受け,1ヵ月謹慎し,禁令の徹底を図った.
(2)時平には度外れた笑い癖があり,政務の途中で下僚の放屁を聞いて笑い出し,帰邸してしまった.
(3)道真が北野天神にまつられてのち,清涼殿に猛烈な落雷があったが,時平は太刀を抜いて,
〈あなたは存命中でもわたしの次席だったではないか.たとえ神となっても,この世では遠慮すべきだ〉
と,空を睨んだところ,雷は静まった.
――こうしてみると,《大鏡》成立当時,平安後期ころの〈やまとだましい〉の属性には,政治技術としてのトリック,明朗なる笑いの精神,咄嗟(とつさ)のさいの機知,頭の回転の早さ,などが含まれていたと考えてよいだろう.
第3の例は《今昔物語集》巻第二十九に載る話で,貧乏学者清原善澄の家に強盗が入ったとき,善澄はいったんは板敷(すのこ)の下へ逃げ隠れたが,あまりに口惜しかったので泥棒が門を出て行ったあとを追って行き,
〈耶(や),己等(おのれら),シャ顔共皆見ツ.夜明ケムマヽニ検非違使(けびいし)
ノ別当ニ申シテ片端ヨリ捕ヘサセテム〉
と叫んだところ,盗人どもは引き返し,とうとう殺されてしまった,とあり,末尾で
〈善澄才(ざえ)(漢学)ハ微妙(いみじ) カリケレドモ,露(つゆ),和魂(やまとだましい)无(な)カリケル者ニテ,此(かか)
ル心幼キ事ヲ云テ死ヌル也トゾ〉
と批評されている.
ここでは,〈やまとだましい〉の属性として,
(1)周囲状況を判断して臨機応変の思考や行動をとり得る能力,
(2)子どもっぽい幼稚未熟な精神とは正反対の世慣れた考え方,劫役(こうろう)
を経た人柄,思慮分別などが挙げられる.
清原善澄は実在の人物で,《御堂関白記》寛弘4年(1007)5月30日条によると,諸道論義の席上で,狂人の形相を呈してきたために〈追立事了〉(退場させられた)という.
そのことを併せ考えると,
(3)激しても理性や正気を失わない態度,奇行や非常識な発言を自制する
ことも,〈やまとだましい〉の属性に含めてよいかもしれない.
第4の例は関白藤原忠実の談話を,中原師元が筆録した《中外抄》の久安1年(1145)8月11日条で,父の師通(もろみち)が幼少年時代の忠実を,いい子だが学問をしたがらないのが残念だ,といったとき,大江匡房が,摂政関白になるには必ずしも漢学の才能がなくてもよろしい,〈やまとだましい〉さえすぐれていれば天下を治めることは可能です,と答えたという記事である.
藤原忠実が藤原の氏長者(うじのちようじや)として,白河院を中心とする勢力に対抗し,摂関家の威信を高めようとしてその結果,保元の乱が起こったことなどをも考えあわせると,〈やまとだましい〉とは,皇室をも敵に回して対峙する摂関家の政治的能力の属性でもあったともいえよう.
第5の例は《愚管抄》巻四で,著者慈円は摂関家の家筋でもない藤原公実が,ただ鳥羽帝の外舅であるとの理由だけで摂政になりたがったことを非難し,公実が和漢の才に富み,知足院殿(藤原忠実)よりも人柄や〈やまとだましい〉がまさっていて,見識ある人からも賢者といわれた藤原実資などのように思われることもあったのだろうか,と述べている.
〈やまとだましい〉が摂関家に固有の精神的属性という面のあったことがうかがわれる.
第6の例は,時代がずっとくだった南北朝ころかと思われる《詠百寮和歌(えいひやくりようわか)》である.
この百首和歌は,官職の名を題にして詠まれたもので,その中に〈文章博士〉と題して
〈新しき 文を見るにも くらからじ 読開(よみひら)きぬる 大和と玉しゐ〉
の一首がある.
作者は不明であるが,すでに実体も制度も空無に帰した中世の宮廷文化を眼前にしたある知識人が,かつての摂関政治文化の盛時に思慕と憧憬の思いをはせての作と解し得るのではなかろうか.
以上,古代・中世の文献にあらわれた〈やまとだましい〉の用例をみてきたが,こののち,中世末から近世初頭にかけて,三つ四つの語釈書に引かれたことを例外とすれば,表だって〈やまとだましい〉の語が問題に据えられたことはなかった.
なお,〈やまとだましい〉と同じ意味で,〈やまとごころ〉という語もあり,〈漢意(からごころ)〉に対応するものであった.
近世も半ばを過ぎ,賀茂真淵および本居宣長によって改めて〈やまとだましい〉(やまとごころ)が取り上げられるようになる.
それは,人間の自然の心情のままにすなおでやさしく,めめしくもある心映えであり,宣長の
〈敷島の やまとごころを 人問はば 朝日ににほふ 山桜花〉
の歌も,みやびで純一な民族性を詠んだものであった.
しかしこの歌はやがて,桜花の散るいさぎよさが強調して解釈されるようになる.
幕末に尊王攘夷論が勢力を得ていく過程において,〈やまとだましい〉は,しだいに武断的な国粋思想に利用されはじめ,誤った〈和魂漢才〉説まで創案されるに至るのである.
明治から昭和の敗戦に至る間,日本国民は,〈やまとだましい〉といえば,天皇制国家を支える国体観念の淵源であると教えられた.
戦場に赴けば,果敢にたたかって死ぬことで武士道の極致をきわめよ,と教えられ,〈やまとだましい〉が至上の精神価値と見なされたのである.
日本史板,2005/06/14(火)
青文字:加筆改修部分
【質問】
武士道も,時代によって中身が異なるって本当ですか?
戦時中に軍部に敷衍していた武士道は,戦国時代の武士の実態とは似ても似つかないものだ,というのは本当ですか?
【回答】
wikipediaでは「作られた古典」の典型,と述べている.
以下引用.
武士道(ぶしどう)とは,近世日本の武士が従うべきとされた規範をさす.
通常の概念では,君に忠,親に孝,自らを節すること厳しく,下位の者に仁慈を以てし,敵には憐みをかけ,私欲を忌み,公正を尊び,富貴よりも名誉を以て貴しとなす態度であるとされることが多い.さらにこれに,常在戦場を以て心構えとした武士の意識を重視して,日本特有の「死の美学」を付けくわえることもある.
ただし,上記のような典型的な武士道観念は,明治以降に近世の武士の倫理観・美意識を再編・再解釈されたものであるか,もしくは本来の武士道と明治期の再解釈があいまいなままに混同されているものを指す場合が多く,「作られた古典」の典型的な例である.
私見を書かせて頂ければ,現在云われる武士道とは,新渡戸稲造の【武士道】にその源流を見ることが出来るのではないでしょうか.
けれども彼が生み出した武士道とは,所謂外国に対する宣伝書としての武士道でした.
かなり違いますが【地球の歩き方】のようなものです(笑).
彼は,日本人というものを海外に紹介するにあたって,【武士道】を記しました.
しかし,彼は日本文化に通暁していたわけではありませんでした.
というのも,彼は海外での静養中にそれを書き上げたといわれていますが,彼が参考にしたのは,所謂【騎士道】精神の表れた西洋の英雄たち.
つまり,彼の現した【武士道】は,騎士道を下敷きとして書かれたものなのです.
それ自体は別段おかしなことではないかも知れません.なぜならば,最初に申し上げた通り,「海外に対する宣伝書」であるのですから(確か,最初に発行されたのは海外であると思います.)
海の向こうの異文化の人々に受け入れられようとしたならば,当然彼らの受け入れ易い状態――つまりは彼らの文化の素地を含んだものを出しても不思議ではないからです.
(それが意識的か無意識的か,それはわかりませんが.)
ちなみに彼が日本に疎かった例としては,武士道という言葉は
「彼自身が創作するまで存在しなかったと認識していた」
という点に端的に現れているのではないでしょうか.
事実としては,明治初期においてはまだ「武士道」という言葉そのものの認知度は低かったものの,武士道を標榜する書物を発行した人物はいました.
ただ,歴史的視点から見て,それらの書物には間違いが多かったとも指摘されています.
今の私たちが一般的に共有しうる【武士道】というものが,新渡戸稲造を底流としているかは分かりませんが,もしそうであるとして,海外の人間たちが羨望するというのも,実は自然なものであるのかも知れません.
そもそも武士道そのものの源流は,東国武士における様式にその源流を見ることが出来る,といわれます.
不勉強にしてどういうものかは覚えてないのですが,少なくとも今からお話する武士道は,新渡戸稲造のものとは全く別とお考え下さい.
源平期から戦功の奪い合い――これは「武士道の精神史」という本に記されていますが,戦功の証である首を強奪しようとする行為があったといいます――,戦国期に入りますれば,所謂朝倉宗滴に代表される「犬畜生となりても勝つことが本分なり」,同族朝倉孝景の申した「名刀一振りより,鑓百本が欲しい」などと,まさに「勝利」を目的とした武士たちが大勢表れます.
その頃の術策権謀やその戦いぶりについては,詳しい方も多いでしょうから省くとして,血なまぐさい「武士道」があったことは想像に難くないと思います.
やがて戦国期が終わり,江戸期に入りますと,多くの漢学者――荻生徂徠だか山鹿素行だか忘れましたが――が,人の上に立つものの規範としての「士道」を作り上げます.
これは彼等自身がそう(士道と)名乗っていたと記憶していますが,これは全く「武士」としての生き方であるというよりは,中国の朱子学(儒学)に多大な影響を受けた「人としての徳」を追求したところにありました.
彼らが作り上げた士道に,漢籍が多大な影響を及ぼしたという事実は,彼等が幼いころから漢籍講読をしていたというところからも想像できます.
彼らの著書が政策に影響したのか,政策の影響で彼らの著書が生まれたのか,いずれかは浅学にして知りませんが,少なくとも幕府は,朱子学の導入により,「武士」たちを「士」として教育し,秩序の安寧を図りました.
我々が武士道といって想像することもある江戸期武士について,遜色が無かったとしても,それは先に申し上げた「士道」の存在の通り,
いずれも朱子学がその根底であるという点において,なんら不思議ではないのです.
やがて明治期において新たな「武士道」が標榜されるに至り,色々な人物が出現してくるのですが,それは前述の通りであり,歴史的に裏打ちされたというよりは,寧ろ彼らの主張したいことを「武士道」となぞらえた,と言って差し支えないものだったのであります.
こうして見ると,我々が想う「武士道」とは,その様々な変遷(また概念上存在しないこともあった)があり,伝統的であるか否かという点においては疑問点を持たざるを得ません.
少なくとも,「日本人」が形成されたのが近代にあるという点においては,伝統である,といっても間違いではないとも思ってしまうのですが…
まあ,自分の悪い頭ではこれが精一杯ですw
ちなみに,上記2レスに関しては,色々と武士道系の書物を読んだ記憶を掘り返して,それこそ思い違いやうろ覚えが多々あるとも思われます…
その点に関しては先に謝っておきます.すみませんorz
(名無し民兵@中村 in 軍事板<武道板から転載されたもの>)
後もう一つ,やっかいなことがある.
新渡戸稲造の時代の後に,「武士道とは死ぬことと見つけたり」で有名な山本定朝の「葉隠」が『発掘』(これは比喩です.書が表された当時,世間に何の影響もない駄文でしかなかった)されてしまったことなんだな.
こいつと新渡戸の主張が融合した結果,昭和初期の観念武士道と言う怪物が誕生したのではないかと思うが,どうか?
この「葉隠」は,今でも武士道のテキストとして読まれていて,なおかつ,戦時中には軍に於ける副読本として扱われていたという過去がある.
なお,今日,やたらと武士道精神であるとか歴史感覚といった単語を連発している者の1人に,小林よしのりがあるが,まあ小林の言うものは,まさに主体思想と呼ぶにふさわしい,小林にとって実に都合よいロジックだし,武士道といっても,上述のように戦国時代のリアリズム武士道と江戸時代の儒教武士道と太平洋戦争直前の観念武士道とではけっこう乖離があるんだが,小林は武士道のどういう部分というのを明確にしてないから,いつでも自分勝手なロジックを振り回すことが可能.
戦国時代のリアリズム武士道なんて,それ以前の社会から続く,身も蓋もない実力主義と,当時の流行語「傾(かぶ)く」に代表される悪目立ちの固まりだから,今の彼とは合いそうにない.
だいたい,歴史感覚でいったら,武士道が常識ではない時代もたくさんあったわけで.
であるから小林信者にとっては時として齟齬が出る.なぜって小林の使っている武士道がコロコロ変わりやすい代物だから.
そんなわけで齟齬が出ないようにするには,小林と信者の精神がまったく同一にシンクロしないと無理.
エヴァンゲリオンのパイロットやるより難しいぞ,きっと.
ところで,その小林のブレインの座に現在ある西部邁は,数年前に「「日本人と武士道」(スティーブン・ナッシュ著・角川春樹事務所)なんて本を翻訳してる.
もっとも,この「スティーブン・ナッシュ」なる日本通のアメリカ人哲学者が,実在の人物かどうかは不明.
イニシャルは「S・N」で西部邁と同じだし,イザヤ・ベンダサン流の外人詐称の日本文化論かも知れない.
西部の英語力が怪しいのは池田信夫も指摘している通りだし.
まあ小林の武士道云々の入れ知恵元も,お里が知れるってことで.
俺は,現代に武士道を取り入れるなら,日本人の軍事的・政治的才能が頂点に達していた戦国武士道(後はもう下り坂),その勝者達のエッセンスを選ぶべきだと思います.
先週末からずっと,あるスポーツの外国人監督の取材に連日行ってまして,そこで興味深い話だったのが,
1.「チームワークと『和の精神』は全くの別物である.『和の精神』に拘る限り,日本人チームは強くなれない」
2.「何故日本人は,チームワークとリーダーシップを別個に考えるのか? 両者は車の両輪である」
3.「強いリーダー無くして強いチーム無し」(ここで言うリーダーとは,選手キャプテンの事である.決して監督ではない)
4.「過去の良いリーダーは,時として我を押し通す暴君的側面も持っているものであるが,何故か日本人は嫌悪する」
5.「自分の価値を,自分の実力より所属チームのブランドに頼る奴が多すぎる」
と言う話でした.
長くなるんで,「1」だけに限って言います.
その監督が言うには,その本質はともかく,現場で言われる『和の精神』とは「温情の馴れ合い」と「責任の拡散による無責任化」に過ぎないとバッサリ.
欧米のチームならば試合後のミーティングで,チームメイトのミスを罵倒し合い,鬱憤が晴れたところで,
「じゃあ次は失敗しないようにするにはどうすべきか?」
を真剣に話し合ったりするんだが.日本人はとにかく相手を気遣い,「場の雰囲気」を乱さない事に終始して,
「お前のここが駄目だ.使えない」
とズバリ言わない.
しかし,ズバリ言われて傷付くような軟弱モンはプロには要らない,だそうで.結局,自分がアレやコレやと言うから「嫌われ者」になる.
選手同士が何でも「なぁなぁ」で済ましている限り,強くはナレンそうです.
まぁ,聖徳太子の言った『和の精神』と,21世紀の現場で言う『和の精神』とは,大きく乖離している,と自分は解釈してますが.「セクハラ」の意味が本家アメリカとは全然違うモンになってしまうのが,この国の特性ですから.
今さら「武士道」と言ったところで,都合の良いように解釈して,過去の諸「武士道」とは本質も内容も全然違う「平成武士道」になってまうんじゃなかろうか.
それを「保守」と言うのは,ちゃうだろう,と.
馬鹿タリバンが古典イスラム世界の保守再建と言いつつ,アフガンをキリングフィールドにしたような事になるんじゃなかろうか,と危惧するのです.
【関連文献】
新渡戸稲造著「武士道」
山本常朝著「葉隠」
山鹿素行著「山鹿語類」
井沢蟠龍著「武士訓」
大道寺友山著「武道初心集」
宮本武蔵著「五輪書」
【余談】
池波正太郎の小説に「剣客商売」というシリーズがある.
主人公の名を秋山小兵衛という.
隠居した剣豪だが,陽気で,くったくがない.
それでいて,正義感があり,常盤新平が解説の中で述べるようにダンディズムを備えている.
こうした新しい武士像こそ,窮屈ではなく,それでいて卑屈になることもなく,現代人に合っているのではないかと愚考する.
秋山小兵衛の剣術の流儀の名を,無外流という.
21世紀型の武士道として,「無外流武士道」を推したい.
【質問】
最近佐藤優さんが解説出してる,大川周明さんの『米英東亜侵略史』は,見る所の無いトンデモなの?
それとも割りと論理的には見るところはあるものなの?
ま,見る所はあるといっても,「この一文だけ」とか「一割程度」とか幅はあるだろうけど,或いは当時のインテリの考えとしてという意味でとか?
【回答】
「入手困難で高額な希少本」というわけでもないんだから,興味があるなら自分で読んでみれば?
ヒントだけちょっと書いておくと,佐藤優がよく使う「内在的論理をつかむ」という言葉.
当時の日本の知識層の「内在的論理」を知る上で,情報源の一つとしては読む価値があると思う.
そんなの面倒で,ただ大東亜戦争は侵略だったのか解放だったのか,みたいな「白か黒かの結論」だけ知りたい人には不向き.
自分の頭で判断する代わりに「○○は読む価値ありますか?」とか,結論だけ他人に求める人には,周明よりも隆法でも読んでれば?
軍事板,2010/04/19(月)
青文字:加筆改修部分
【関連リンク】
『日米開戦の真実 大川周明著「米英東亜侵略史」を読み解く』(佐藤優著,小学館,2006.7)
『大川周明「獄中」日記 米英東亜侵略史の底流』(大川周明著,毎日ワンズ,2009.4)
【質問】
戦時下の日本について質問.
長谷川町子がキリスト教徒だったことを知ってふと疑問に思ったのですが.仏教徒,キ教徒などは不殺の教えと戦争についてどんな立場を取っていたのでしょう?
特にキリスト教は敵の宗教として風当たりが強そうな気がするのですが,それらの宗教は社会的にどのような扱いを受けたのでしょう?
良心的兵役拒否など通るわけないでしょうが,断固拒否した場合公的にはどんなペナルティを課せられたのでしょう?
【回答】
最近,仏教徒の宗派にしろ,基督教の宗派にしろ,太平洋戦争に於ける国家への戦争協力を反省する文章が出てた筈です.
例えば,賀川豊彦門下のキリスト教徒が,国家総動員体制の一翼を積極的に担ったりしています.
また,太平洋戦争では,宗教団体戦時中央委員会と言うのが結成され,戦時活動実施の要目として,教化活動の強化,宗教施設活用,報国団の整備拡充を申し合わせています.
仏教徒は,大東亜仏教青年会連盟を結成し,大東亜諸地域に於ける仏教徒の総力を結集するとしていました.
基督教では,日本基督教団が,各宗派の大同団結の下に結成され,ラテン語の賛美歌を日本語化する活動を行い,新日曜学校賛美歌集と言う日本独自の作詞作曲で作られたものを1943年以降使っています.
建前上,日本は宗教に関してはどれも同じ扱いとしていましたが,国家神道は別格扱いでした(とは言え,その神道を管轄していた内務省内では三等局扱いだったそうですが).
民間レベルでは,特にその教義から基督教は敵視され,徴兵に於いても,生きて帰ってきても何度も徴兵を受ける人もいました(うちなんか仏教徒なのに,基督教系の学校で先生やってたから,祖父は三回も徴兵されたし).
眠い人 ◆gQikaJHtf2
▼ 森達也(映像作家)によれば,具体的には以下のような状況だったという.
-----------------------------
第2次世界大戦時に浄土真宗本願寺派は,
「罪悪人を膺懲(ようちょう)し,救済せんがためには,殺生も亦(また),時にその方法として採用せらるべき」(『仏教と戦争』 1937年8月,本願寺計画課発行)
との布告を門徒たちに伝え,聖戦として位置づけたこの戦争に積極的に協力した.
つまり,悪い連合国側の人たちを,救済のために殺生してあげましょうとのレトリックだ.
本願寺派だけではない.
浄土真宗大谷派も強力に戦争を推進した.
浄土真宗だけでもない.
当時の仏教界における殆どの宗派は,基本的には戦争に大いに協力した.
仏教だけではない.
日本基督教団などのキリスト教各宗派も,やはり戦争には積極的に協力した.
----------------------------- 『宗教と現代がわかる本 2010』(平凡社,2010.3.4),p.41-42
▲
>良心的兵役拒否など通るわけないでしょうが,
>断固拒否した場合公的にはどんなペナルティを課せられたのでしょう?
兵役は国民の義務であり,断固拒否すれば脱税と同様犯罪です.
公的なペナルティよりも,非国民として扱われる社会的ペナルティのほうが大きいでしょう.
良心的兵役拒否は認められませんが,神職や僧侶等は非戦闘職種への配置が行われたようです.
私の祖父,曾祖父は代々神職でしたが,衛生兵として従軍しています.親父の代で神職は途絶え,俺は戦車兵でしたが.
【質問】
終戦までの日本における,キリスト教徒の状況は?
【回答】
さて,戦前の日本に於いては仏教を始め各種の宗教があったのですが,神社神道は全く例外とされていました.
これは行政府の所管にも如実に表れており,神社神道は内務省管轄ですが,教派神道,仏教,そしてキリスト教などの宗教は,文部省だったりします.
ホーリネスの中田重治は,
「基督教を西洋人関係として外務省に移せば,それで宗教で無くなると思うか」
などと痛烈に皮肉を浴びせていますが,実際にはこの理屈で当時の教会は翻弄された訳です.
因みに,何故か(と言うか当然ながら),靖国神社は陸軍大臣,海軍大臣の共同管掌です.
1937年の日中戦争勃発以降,文部省は宗教への関与,特にキリスト教への統制を強化し,興亜奉公日設定,銃後後援強化週間実施などの文部次官通達を毎週の様に教会に送りつけるようになり,その仕上げが先述の宗教団体法として結実します.
そして,宗教団体法の成立以後は,文部省は「認可」を盾に,教会の規模や教義にも口出しするようになりました.
とは言え,文部省は悪意だけを以て教会を統括しようとしたのではなく,信者の官僚もいて,彼らが教会に対し,親身になって認可の為のアドバイスをしたと言う事実も否めません.
但し,認可を容易にする為のアドバイスと言うのは,それが善意から出たものであれ,政府によるキリスト教統轄の線に沿うものでした.
こうして,1941年になるとキリスト教教団の統一機構として,日本基督教団が成立し,「認可」された教団規則には,「皇国の道に従いて信仰に徹し各其の分を尽くして皇運を扶翼し奉るべし」と記されました.
結果的に,公権力や天皇制に依っての教会を守ってもらう事で,キリストの主権を蔑ろにしたと言うことになります.
もう1つ,治安維持法による宗教の弾圧と言うのがあります.
元々,治安維持法は共産主義勢力の伸張に対抗する為の法律だったのですが,この効果は覿面で,共産主義の力を確実に削ぎ落としてしまいました.
この威力を目の当たりにした国家権力は,戦争に反対する勢力を封印する為,自由人や宗教を取り締まる対象に広げ,1941年にこれらの弾圧を効果的に実施する事を目的に,治安維持法の全面改正を実施します.
この時の改正にて,「国体の変革」「国体の否定」と言う,極めて曖昧に解釈出来る容疑で,人の内面を国家統制の対象にする事が出来る様になります.
この改正の基軸は,当然のことながら,「国体」,つまり,天皇制の維持であり,イエスを絶対唯一のキリスト神に仰ぐキリスト教は,居場所どころか存在さえも許さない力を持っており,「国体の否定」に繋がりかねない危険な思想と見做されてもおかしくありません.
特にホーリネスに関しては,その教義に再臨信仰を持っており,弾圧の対象となりました.
そして,牧師達に「天皇か,キリストか」を詰問すると言う禅問答的な尋問を行ったりしています.
ところが日本基督教団の幹部達は,そのホーリネス弾圧が起きた時,その弾圧に抗議するどころか,教団から不純物を取り除いた当局の英断を絶賛し,ひたすらホーリネスとの違いを強調して自分たちの身を守ろうとしました.
この段階でも,教会は公権力と天皇制にすり寄りましたが,これはホーリネスでも同じで,弾圧によって死者が出る状況でも,幹部達は保身に汲々としていた訳です.
ホーリネスの再臨信仰は,治安維持法に抵触するとして,裁判にかけられます.
その裁判で無罪を主張しましたが,その裁判戦略は法律論よりも,天皇を崇敬し,神社参拝もする日本人だから無罪であると言う信仰論の上に,神社参拝容認と言う偶像礼拝と結びついた信仰論での無罪の主張だったりします.
全く,教会としての戦う姿勢は何処へやらと言う感じです.
宗教弾圧の暴力装置として,内務省の特高警察の他,憲兵隊と言うものが利用されました.
1940年には,救世軍スパイ事件,賀川豊彦の検挙などで既に宗教弾圧の第一線に登場しましたが,その救世軍スパイ事件については,それまで難航していた教会合同協議が進展する契機になったと言われるほどの影響があっただけでなく,救世軍に名称を変更させる等の宗教行政に口出しする位でした.
それより前の1938年には,早くも大阪憲兵隊特高課長が,13項目の諮問事項を教会に送りつけています.
これは教会の神観,国体観を質すものですが,この送達には何ら法的根拠がなかったりします.
非常時体制が確立しつつある中で,早くも憲兵隊と言う弾圧装置が暴走を始めた訳です.
その暴走の例が以下の様なものです.
1941年夏,小山宗祐牧師補が東京聖書学校から函館本町教会に赴任します.
その小山牧師補は,1942年1月に函館憲兵分隊に拘引され,すぐに起訴されますが,3月には拘置所で「自殺」しました.
ところが,その身体には無数の傷がついていたことから,憲兵隊による拷問による死亡が疑われています.
因みに彼の拘引理由は,隣組で輪番制となっていた護国神社参拝を拒否した為とされていましたが,実際には隣組にもこうした取り決めはなく,「敵国宗教」視していた他宗教関係者の密告の疑いが高いとされています.
この「自殺」問題に関するもう1つの問題は,拘引の法的根拠が明らかになっていないと言うものです.
唯一見出されるのは,「陸軍刑法違反」なのですが,この法律そのものは陸軍軍人の犯罪に適用されるものであり,民間人にその陸軍刑法が適用されるのは流言飛語くらいです.
しかし,小山牧師補に流言飛語の事実はありません.
また,神社問題についても,陸軍刑法では神社の「じ」の字も出てこない訳で,小山牧師補は法的妥当性すらない言いがかり程度で拘引され,命を落としたわけです.
一方で,基督教団についても問題がありました.
開国以来,プロテスタントが多く流入していきますが,次第に背景や指導者によって様々な教派に分かれていきます.
教派には多様性はありますが,共通していたのは,「イエスは主」であると言う信仰告白です.
もう1つ,日本のキリスト教界で酷似していたのは天皇観でした.
日本基督教団成立時,合同協議はかなり難航しました.
それぞれの教派が,自己同一性に関わる部分に拘ったからで,これ自体は健全な動きです.
この統一の流れが一気に進んだのは,宗教団体法の成立,救世軍スパイ事件などの公権力介入,更に皇紀二六〇〇年奉祝基督教信徒大会での
「吾等は全基督教会合同の完成を期す」
とした宣言等で,諸派の内的要因はかき消されて,日本基督教団成立に至ったわけです.
日本基督教団は,諸教派がその「教派性」を棄てた結果成立したもので,教団統理者となった富田満は,伊勢神宮(!)にて教団発足の報告と発展祈願をし,太平洋戦争勃発後は,教団は
「国体の本義に徹し大東亜戦争の目的完遂に邁進すべし」
と綱領に定め,ホーリネス弾圧事件では,教会解散や牧師職辞任の強要と言った恰も文部省の下部機関な振る舞いを行い,国体やら教団成立やら戦争の意義と言った,「日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書翰」を,「現代的使徒書翰」として,アジア各地の教会に送りつけました.
これより以前に,日本独自のキリスト教信仰を目指すとの形で,彼らは海外との高誼も絶っています.
因みに,敗戦により宗教団体法が廃棄されると,日本基督教団からは多くの教派が離脱し,往事の勢いは無くなり,寧ろ福音派が隆盛となっていきます.
日本基督教団は,その後,賀川豊彦が中心になって盛り立てを図りますが,教派を超えての統一と言うのは戦争期の苦い経験があって,未だに成されないままとなっています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/09/20 21:55
【質問】
http://d.hatena.ne.jp/sfx76077/20100617
内の引用文中にて言及されている,桜沢如一著『健康戦線の第一線に立ちて』(1941.6.1)は,どんな本なのか?
【回答】
1) 本書の概要
本書の内容を,非常に乱暴にまとめて言えば,以下の通り.
「アメリカもドイツも英国も日本も,国民の健康はどんどん失われていっている.
俺の『無双原理』に耳を貸すべきだ.
その中で,不十分ながらも俺の理論を取り入れたドイツは偉い」
2) ヒトラー礼賛論が展開されているのか?
疑問の余地がある.
(1)にて述べたように,「俺の理論を取り入れたドイツは偉い」と言っているもので,これを礼賛と呼んでいいかどうかは,ちょっと疑問.
-------------------------------
前に(=これ以前のページで,の意味.編者注)私は日本民族健康戦線の總崩れの報告を數字をもつて示しましたが,ドーシテこの健康戰線をもり返すかについては多くを申上げませんでした.
それは『戰爭に勝つ食物』,『病氣の治る食物』,『食物だけで病氣の治る新食養療法』,『自然醫學』などにおいて健康を獲得する方法を明らかにしておいたからであります.
私は十分の自信と,十分の責任をもつてこの神ながらの道を,最も簡單明確なホントーニ生きる方法として推奬するのであります.
(中略)
私はこの神ながらの道がナチス・ドイツ農食糧大臣ダレーによつて不完全ながら,ナチス・ドイツに取り入れられ,ヒトラァ總統によつて國策にまで取り上げられてゐるのに,日本ではまだ國策に取り上げられないのを殘念千萬だと思ひます.
(それで私はダレの「血と土」を黒田禮二君に頼んで譯して貰ひ出版したのであります)
私はヒトラァ總統に他の人々と全く違つた意味の尊敬を拂ふものです.
すなはちヒトラァ總統は全民族の健康(生命)の指導者たる責任を自覺し,その生命が髮の認識,宇宙の秩序の體得,世界觀の樹立にあること,人類の精神革命にあることを主張してゐるからであります.
-------------------------------p.102-103
ただしもちろん,当時の日本社会に横溢していた親ドイツ的な傾向は,本書においても否定はできない.
たとえば,ドイツの「健康戦線」の問題点を指摘している第1部第2章
>悲壯ナチス・ドイツ健康戰線崩る
の冒頭には,こんな一文も.
-------------------------------
しかしこんな本(反ナチであるマーチン・グンペール博士の『餓死萬歳!』.本書は『餓死萬歳』の中の統計を用ひてゐる.編者注)を手引にすることはドイツが今具さになめてゐる辛苦と,ドイツ民族の底力の大きさと,それを存分に發揮させる指導者ヒトラァの超人的な力を示すことにこそなれ,決してドイツをゆがめることにはならないでせう.
-------------------------------p.26
なお,ナチス政権が本当に桜沢の主張を取り入れたのかどうかは,浅学にして不明.
3) 1941年6月に出版された本書に,「既に負色濃いドイツでは食料の配給に事欠くようになって、」などと,本当に書かれているのか?
「敗色濃い」とも,もちろん「負色濃い」とも書かれていない.
上述のように,本書は反ナチであるグンペール博士の執筆した本の統計を利用している.
本書に紹介されているところによれば,グンペール博士の主張の主旨は,
「ヒトラーが政権をとった後,ドイツ国民の食生活が改善されたかのように喧伝されているが,統計を見れば分かるようにそれはまやかしである」
ということである模様.
それに対して桜沢は,
「彼(ヒトラァ)は神の恩寵の名醫のごとく,我らに健康への道を示してくれます」(p.106)
と,極めて好意的(独善的?)に当時のドイツの状況を解釈している.
以下引用.
-----------------------------
ドイツには食糧が不足してゐます.
グンペール博士はそれをさも憎憎しげに冷笑をもつて指摘してゐます――
『最近の統計によれば,ドイツでは肉の一人當たり平均消費量が1937年の52.2キログラムから1938年の78.5キログラムに増加してゐるが,これはマツカな僞りである.
これはある特別な階級の肉の消費量の増加であつて,一般の増加ではない』
と云つてその證據を上げてゐます.
何と云ふありがたいことでせう.
これは二重の喜びを私に與へます.
それはドイツでさへ肉食はウントへらしても,或はヒトラァの樣に全く廢止しても差支へないと云ふ事實を示して,私の云ふ「身土不二の原則」による健康法の廣範圍性について大きな證明を與へてくれ,同時に菜食を主とする食生活によつてナチス・ドイツのネバリ強さ,持續力,耐久力を増進しつつあることを知らせてくれるからです.
(ヒトラァ總統が肉食を取らないことは周知の事實です)
また,『ドイツ國民は今や僅かに平均2413カロリーと云ふ半飢餓状態で生きてゐると云ふみじめさである』と云ふグンペール博士の言葉も私をいたくよろこばせるのです.
「少食,少眠,少慾」は貝原益軒の養生訓の眼目であり,「汁一椀以外を食はす」とは農聖二宮尊徳74年間の一生をつらぬいた健全幸福生活法指導原理であつたのです.
それは今日の日本では抹殺されてゐますのにナチス・ドイツでは實行され,國策として行はれ,それによつてドイツ國民の志氣はふるつてゐるのですもの.
『ドイツは今やヒトラァ時代となつてからその食品に困つてゐる――
鷄肉,玉子,ラード,マルガリン,バレイショ,ライ麥粉,大豆,エンドウ豆,カリフラワア,キャベージ,トマト,ホーレン草,レタス,梨,梅,桃,そしてあらゆる南國のクダモノ……』
あゝ! 何と云ふ幸せなことでせう.
ハイル! ヒトラァ!
無双原理から見ればこれらは大部分なくともいゝもので,いや,むしろ,ない方がありがたいものばかり(ことにトマト,ホーレン草,梨,桃あらゆるクダモノ)であります.
バレイショの不足はありがたい.
それが國民の90%の偏平足,筋骨薄弱を救つてくれます.
ヒトラァ萬歳!を私は絶叫する!
ヒトラァ總統と彼を信ずる民族には神樣がついてゐられるのです.
-----------------------------p.106-108
※数字は半角英数に直した.
なお,ナチス・ドイツ政権下の食糧事情というのは,それ自体は興味深いテーマであるので,機会があればそちらも調べを進めたいところ.
4)
>なみのベジタリアンすら彼の前ではひれ伏すしかない。
>「農作物を食うな、雑草を食え」と、青物市場のゴミ捨て場から
>クズ野菜を拾ってきて食っていた、という先生である。
というのは本当か?
本書の2つの記述を混同している可能性が高い.
まず,著者はただ「雑草を食え」と言っているのではない.
畑に生えている野菜なんてニセモノだ,本物の野菜は「野」に生えているものを言うのだ,というのが主旨.
以下引用.
-------------------------------
まあ一度私共の毎日頂いてゐるのを味つて下さい.
それにはトクベツな技術が入用なワケでもないのです.
古くから日本人がやつて來たことなのです.
ふつうの野菜やホントーの野菜,野にある菜,根,つまり野の幸で神樣がお手づからおつくりになつたもの!(今の野菜はみな畑菜! 人が利益のためにつくつたもの)をおいしくいたゞくのです.
神樣のお手づくりの山のサチ,海のサチ,野のサチ,川のサチを我々の遠つみおやの神々のごとくいたゞくのであります.
「君がため春の野に出て若菜つむ」生活,「セリなづな,おぎょう,ハコベラ,ほとけのざ,すゞな,すゞしろ」ヨメナ,タンポヽなど,よもやまのやはらかい,やさしい草々をいたゞく生活であります.
-------------------------------p.97
一方,クズ野菜の話は,パリで著者が留学生活をしていた頃の,貧乏生活ぶりの回想の中に出てくるのであって,「ホントーの野菜」推奨とは時系列が明らかに異なる.
-------------------------------
私は始め安いヤサイとパンで生きてゐたが,それでも時々食へないやうな日もあつた.
そこで私はパリにおける最低生活を試みる決心をした.
日曜毎に私は郊外へ1週間分の雜草を取りに行つた.
米はワレ米,荷こぼれ米を鳥の餌を賣る店から買つて來た.
その他には鹽と油を買ふだけだ.
或る日ソルボンヌ大學のコロイド研究室を出て歸るさ,ある市場の表を通りかけた私は釘付にされてしまつた.
私は寶の山を目の前にアリアリと發見したのである.
市場が終つて,掃除人夫が掃き出してゐる棄てられた大根やキャベツの葉の山を見たのである! ビタミンの山!
私は急いで,コソコソ大根の葉や人參の葉をかきあつめてかばんの中へギユウギユウ押しこんだ.
十分ほどの間に私は1週間分のビタミンや無機塩類を拾ふことが出來た.
屋根の下の巣に歸ると私は室に繩を張り廻してそれらの葉をかけて干葉を作ることにした.
これで郊外へ雜草を取りに行く1週1回の地下鐵賃金が節約できた.
-------------------------------p.120-121
その後に上手いオチまでついていて,ネタトークとしては出来もいいほうの貧乏譚であって,この部分に限って言えば,トンデモとは無縁.
また,このクズ野菜拾いを本書執筆当時には推奨などしていないことは,本書p.89に「ビタミン説など化学の拙劣な利用」と断じていることからも分かる.
そもそもこれは「付録」の章に入っている記述であって,普通の人なら本論と混同などしないと思うのだが.
5) その他
本書のトンデモとしての真価は,「ヒトラァ万歳」な第2部よりもむしろ,第1部のほうにあるといってよい.
この第1部で著者は,データを様々出しては,
「アメリカでは年に何万人も疾病で死んでいる!
アメリカは『健康戦線』において敗北しつつあるのである!」
「ドイツでは数十%もの偏平足の青年が存在する!
ドイツは『健康戦線』において敗北しつつあるのである!」
「日本では何万人もの乳幼児が栄養不良状態となっている!
日本は『健康戦線』において敗北しつつあるのである!」
といった論理で,とにかく万の単位で病気その他の問題があれば,「健康戦線」にて敗れたり,と決め付ける.
唐沢俊一氏は,
>僕をトンデモ本の世界に引き込んでくれた本でもある。
としている割には,その肝心な部分を紹介していない――そして,特にトンデモとは言えない部分をトンデモとして紹介――のだから,不可解と言うしかない.
【ぐんじさんぎょう】,待機稿
>ドイツ國民は今や僅かに平均2413カロリーと云ふ半飢餓状態で生き
>てゐると云ふみじめさである
結局、終戦直前までこの水準を守れたみたいよ.
一方日本は……
ベタ藤原 in mixi,2010年07月22日 02:53
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