c

「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ戻る

◆◆◆児童文化
◆◆社会風俗
<◆総記
太平洋・インド洋方面 目次
<第2次世界大戦

『写真週報』より

 遊園地の模擬戦車写真.
 これは電気カーでしょうか?
 初めて見るものですが,当時は普通に在る“平和な”光景だったのでしょうね.

よしぞうmaro' in mixi,2007年08月13日22:54


 【link】

『国民学校物語 焼却をのがれた学校文書から』(戸田金一著,文芸社,2012.5)

『『少女の友』とその時代』(遠藤寛子著,本の泉社,2004.1)

『戦争の時代ですよ! 若者たちと見る国策紙芝居の世界』(鈴木常勝著,大修館書店,2009.6)

 積読山漁ったら,また面白いのがあったから,さくっと読んで紹介.

 大学での講義録のまとめみたいな感じ.
 国策紙芝居の絵(白黒図版)とシナリオを,そのまんま収録している部分と,その国策紙芝居を実際に見た,(当時)20前後の大学生の感想文で成り立っている.
 現代の若者(not軍ヲタ)が,戦中のプロパガンダを見て,どう感じているのかという点も面白い.

 あと,「国策紙芝居の戦後改変」という章で,戦時プロパガンダに使用されていた作品の一部を改変して,戦後使っていたという事実があるのは,非常に面白いところ.
 童謡「兵隊さんの汽車(汽車ポッポ)」とか,「われは海の子」,「お山の杉の子」なんかでも,「軍事に関係ある単語を外して再利用」ということがあったが,紙芝居においても同様のことがあったという指摘は,面白いなあと.
 しかもその中には,
「戦後の復刻版で戦中のプロパ部分をカットして,
『戦争に関係のない,自由で平和で個性的な作品が出ていた』,
『歴史的事実として示しておきたい』
と,解説でのたまう作品」
なんて,余りにも酷い隠蔽があったことにも触れられている.
 戦後のプロパ隠蔽の実例として,この点が一番興味深く思った.

 この本に不満があるとすれば,載っている紙芝居の量が少ないところか.
 全編載せられてるのは,実は5作品しかない.
 国策紙芝居について触れている資料ってあんまり無いから,著者にはもっとこの辺を掘り下げてもらいたいと思った.
 どのような作品があったのか,それはどのような状況下で作られたのかという点を掘り下げるだけでも,良い研究になると思うな.

――――――軍事板,2011/02/01(火)

『ボクらの村にも戦争があった 学校日誌でみる昭和の戦争時代』(田中仁著,文理閣,2012.8)

『われ等の陸海軍』(大日本雄弁会講談社,1932)

 少年向け啓蒙&軍事解説本.
 カラー図解で陸海軍の記章や階級章を解説したり,兵器の紹介も実に細かく描かれていて驚かされました.

 下のページの様に,各ページに多くの写真が入っており,今見ても中々楽しめます.
 しかも,文章がまたアジテーション溢れる書き方で,凄いものがあります.
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq110117ad.jpg
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq110117ad02.jpg

 そう言えば,先日の絵本も講談社発行でしたが,同社の少年向け軍事本はまだまだ発見がありますね.

――――――よしぞうmaro' in mixi,2007年11月08日02:25

 【質問】
 戦時中,軍は小学校教育に対してどのように干渉したのか?

 【回答】
 所謂,第5期国定教科書は,日本の戦争が本格化して行く1941年に編纂されました.
 国定教科書は,第1期が1904年から6年間,第2期が1910年から8年間,第3期が1918年から15年間,第4期は1933年から8年間とこの最後の第5期を含め5回の改訂を経ています.

 国語読本で言えば,第3期は「ハナ ハト マメ マス」,それが第4期では,「サイタ サイタ サクラガ サイタ」になり,最後の第5期が,「アカイ アカイ アサヒ アサヒ」となりました.

 1941年3月1日からは尋常小学校と言う名称は,国民学校に改められ,教科自体も,低学年では,修身,国語,算術,体操,唱歌,中学年以上ではこれに図画,理科,裁縫(女子のみ),国史,地理が順次加わる形だったのに,修身と国語,国史,地理を統合して,国民科,算術(算数)と理科を統合して理数科,体育と武道を統合して鍛錬科,唱歌(音楽)と国語の一部だった習字,図画,工作,裁縫(女子のみ),家事(高等科女子のみ)を統合した芸能科とされました.

 このうち,国民科には非常に重点が置かれました.

 初等科国語教師用の手引書には斯うあります.

 国民学校は,「皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為スヲ以テ」その目的とする.
 国民科はこの目的を全うする為に設けられた教材の一つであって,特に国体の精華を明らかにし,国民精神を涵養し,皇国の使命を自覚せしめる点に於いて重要な任務を有する」

 ところが,この方針に敢然と抵抗したのは,意外にも,文部省図書局や監修官達だったりします.

 要は学校教育と言うのはAcademicなものであって,「皇国の道に帰一する」というような理念的なものとは相容れない.
 従って,皇国の道と言う根本方針には大きな疑念を持っていた訳です.

 で,国民科の教科書の編纂に於いて,編集方針が出来上がると,陸軍の教育総監本部長から文部省図書局に対し,数百項目に上る教材細目を送りつけて来ました.
 それを詳細に分析すると,国語読本の部分に関する細目が非常に多く,此の儘では国民学校の教科書が軍事教育中心になってしまうと図書局の官僚や監察官は考えました.

 其処で,彼らは抵抗を決め,監察官合意と言う会議の形で,「この要求は技術上到底実現しうる見込みなし」と言う結論を陸軍教育総監部に送り返しました.

 コケにされた陸軍教育総監部の若手将校は当然,熱り立ち,中には,文部省に斬込むと言う者もいました.
 当時,教育総監部長は今村均大将でした.
 彼は,若い部下達を宥め,「技術上難しいというのであれば,軍から出かけて協力しようじゃないか」と説得.
 斯うして,教育総監部付の佐官数名が,嘱託と言う名目で文部省図書局に出向し,積極的に「協力」し始めます.

 しかし,文部省側も教育総監部の若手将校達の狙いが国語読本であることを見抜いており,彼らは「嘱託」達に対し,「国語の教材は,低学年では童謡,童話,児童の遊戯生活の表現が中心である事,上級に進むに従って,文学でなければならぬと言う事を説きます.
 この方針は或程度成功を収めました.
 と言うのも,陸軍軍人が一番苦手であり,軽蔑していたのがその辺りだった為,官僚にコンプレックスを逆手に取られてしまった訳で,教科書に,「そもそも総力戦とは…」と言う様な軍事教材を掲載する事は無くなりました.
 オマケに,意気揚々と乗り込んできた「嘱託」達も次第に感化され,教育総監部全体が軟化してしまい,陸軍各方面からの攻撃に対する障壁として活躍して呉れる様にすらなりました.

 ところが,海軍の方は笈田光吉の「絶対音感教育」に感化され,それを軍内部でやってみると,国防上大いに役に立つから,国民学校の音楽教育を「絶対音感教育」に改めるべし,と捩じ込んできます.
 これは,長い間文部省上層部と海軍省との間で交渉を持ってきたのですが,交渉の末,戦争直前に図書局に問題が移ってきました.

 軍側からは海軍の将校,陸軍防空部隊の将校と図書局側の会談が持たれたのですが,当時文部省の音楽教科書委員だった,作曲家の小松耕輔氏がちょっと質問すると,海軍の将校に散々面罵され,非国民呼ばわりされた上,当面尾行が付いたそうです.

 取り敢ず,この動きはこれまでだったのですが,戦局が激化すると英語禁止の流れの中で,メートル法は尺貫法になるとか,ドレミ音階はイロハ音階になるなど,様々な干渉を受け,更に東条内閣の文部大臣だった岡部長景自身が教科書行政に介入するに至り,文部官僚もそれ以上の抵抗が出来なくなり,惰性に任せた教科書改訂が繰り返される様になりました.

 今の文部行政でも,理科と社会を統合して生活科にするとか,総合学習を作るとか,色々制度を弄っていますが,先達が,「この要求は技術上到底実現しうる見込みなし」としているのを無視してやって行くのを見るにつけ,官僚の矜持今何処と思ってしまいますねぇ.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年07月03日22:05


 【質問】
 戦時中の「子供の科学」について教えてください.

 【回答】
 「子供の科学」は,1923年の創刊から現在まで続いている,息の長い雑誌だが,当時の世情に戦時色が強まるにつれ,兵器関係の記事が増えていった.
 諸外国の新兵器の解説記事は,現役の軍人が執筆する場合もあった.
 戦中は兵器関係を扱って発行を続けたが,戦局悪化と共に紙質が低下,頁数も減っていき,戦後も1945年末ぐらいまでそんな状態が続いた.

 【参考ページ】
http://syasinsyuu.cool.ne.jp/okashi/okashi.htm
http://www.city.minoh.lg.jp/~data/E-MACHI/kyoudo/senji.html
http://www2.ttcn.ne.jp/heikiseikatsu/HAJIME.html
http://www.asahi-net.or.jp/~pu4I-aok/biblodata/memoirs/middlej.htm
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%90%E4%BE%9B%E3%81%AE%E7%A7%91%E5%AD%A6

【ぐんじさんぎょう】,2010/03/22 21:00
を加筆改修

6 :東工大生 :04/09/12 18:24:19

 ガキの頃読んでた.
 それみて電子工作したり,なんとかアイディアコンテストに応募したら掲載されりした.

 先日,本屋で数年ぶりに見た.
 なつかしいな.


10 :Nanashi_et_al. :04/09/17 18:39:07

 今月号で創刊80周年記念ですよ.
 俺は20数年ぶりに買いました.
 競技用紙飛行機の型紙が,ずっと続いていたことに,懐かしさと驚きを覚えた.


20 :Nanashi_et_al. :04/09/27 02:31:49

 最近,子供達の理科離れが時々話題になるけど,子供向け科学雑誌や漫画に恵まれていた世代は幸せだったのかも.
 自然の事柄について「なぜ,」とか「おもしろい」という感情を沸き立たせてくれたなあ.

 今の楽しいことはゲームやネットやアニメだろうけど,もう一歩すすんで,「何でテレビは映るのだろう?」とか,単純でいいから好奇心を育てて欲しい,
 といっても,電気があるから,とかスイッチ押したから,ぐらいの部分で興味失せるのかなあ.


21 :Nanashi_et_al. :04/09/27 20:23:22

 高坊ですが,小中学生のとき読んでました.
 ペットボトルロケットを作ったり,紙飛行機作ったりして充実してたなあ.
 んで,巻末の広告に乗っていた電子工作キットを見て,実際に製作.
 おお,面白いじゃないか!
 それで工学に目覚めて,今はトランジスタ技術を購読中.
 夢は回路設計者!


39 :Nanashi_et_al. :2005/08/18(木) 02:19:58

 子供の科学…懐かしいな.紙ヒコーキ飛ばして遊んでたっけ.
 俺も小学高学年の頃から高坊の頃まで読んでた.定期購読で.
 今はNewtonとNationalGeographicなんかを読んでる.大学付属図書館で(笑)
 そんな俺も現在大学4回.
 京都大学大学院に内定貰えた.

 てか,英語の問題に昔のNewtonか子科か学研の科学かで読んだ,ニュートンの反射式望遠鏡の事がそのまんま出てた.
 ホント,ラッキーだった.


50 :Nanashi_et_al. :2005/10/18(火) 01:07:27

 Q&Aコーナーの質問している子供の問いに答えられる大人が,どれだけいるのやら.
 正直,儂は自信が無し.


56 :Nanashi_et_al. :2005/10/31(月) 01:10:22

 この本は,分野が偏ってないトコが良いです.
 また,大人が読んでも十分に読み応えがあると思う.
 あと,「大人の工作読本」という,同社が販売している工作本も面白いですよ.


69 :Nanashi_et_al. :2005/11/16(水) 01:47:12

 そういや,創刊60周年でバッヂもらった(歳がばれる).
 創刊当時の記事とか紹介されてたな.

 戦時中のやつ見てみたいな.
 原爆情報なんかも,一般人は落とされて初めて知ったのが多かったが,子科読者には可能性としてとっくに話題になってた様だし.

「2ch理系全般板」◆貴様等の中で「子供の科学」読んでたヤツ出て来い
(no.174までチェック済み)

 真ん中らへんに袋とじみたいな,変わった製本になってた発明のコーナーが,街の名物マッドサイエンティスト小中学生だらけでおもしろかった.

 寝ると電源が切れるラジオと,お湯がたまると止まる風呂が,二大メジャーテーマ.

udon in mixi,2010年03月22日 01:02

 どうやら戦前は普通の少年向け科学雑誌だった様ですが,何しろ昭和17年10月発行なので,軍事記事一色(笑

 何と言っても,表紙の“僕らの戦場は学校”が響きます.
 どちらかと言うと,雑誌「機械化」のややソフト版といった感じですが,中には船舶工兵の渋い演習記事までありました.

よしぞうmaro' in mixi,2007年09月09日00:43


 【質問】
 昔社会の教科書に載ってた戦時中のいろはカルタについて教えてください.

 【回答】
 「はてな」によれば,アサヒグラフ1942年12月30日号,1月6日合併号に載っている「決戦イロハかるた」のことだという.
 ほぼ日刊肥さんニュース&お便り紹介!によれば,その内容は以下の通り.

イ・・・一億火の玉 
ロ・・・論より実行
ハ・・・花嫁のもんぺ 
二・・・二年目も勝ち抜くぞ
ホ・・・豊年ぢゃ満作ぢゃ
ヘ・・・ヘイタイサンアリガタウ
ト・・・とんで火に入る敵機ども
チ・・・地図は変る
リ・・・利己心は敵だっ
ヌ・・・ぬかるな女房
ル・・・ルーズベルトそはそは
ヲ・・・女なりゃこそ千人針
ワ・・・笑って売り買ひ
カ・・・買はう債券
ヨ・・・よろこんで転業
タ・・・足らぬ足らぬと米と英
レ・・・歴史は今,作られてゐる
ソ・・・そっくりやられた真珠湾
ツ・・・つとめて倹約
ネ・・・ねらって必中
ナ・・・なにがなんでも五人産む
ラ・・・ラジオは叫ぶ大戦果
ム・・・胸を張って歩け
ウ・・・産めよ育てよ
ヰ・・・ゐもん袋にコドモの絵
ノ・・・のるなデマ
オ・・・奥様にくわ
ク・・・くらやみで待機
ヤ・・・大和魂世界一
マ・・・毎日決戦
ケ・・・今日も献金
フ・・・風呂屋で学会
コ・・・ここも戦場
エ・・・えんはいなもの慰問文
テ・・・手をあげて助かる
ア・・・あすも奉仕
サ・・・猿も持ってる日章旗
キ・・・気はやさしくて力もち
ユ・・・夢にも増産
メ・・・めざすはニューヨーク
ミ・・・みんな働け
シ・・・社長の陣頭指揮
ヱ・・・絵にも描けない負けっぷり
ヒ・・・日の丸の旗南へ北へ
モ・・・物と頭は使ひやう
セ・・・戦地をしのんで
ス・・・すきあらば来るぞ

 これとは別に,愛国イロハカルタというものも存在したという.
 当時の子供向けに「日本小國民文化協會」が制定し,昭和18年12月,「日本玩具統制協會」が発行.

  ロバタデキク センゾノハナシ
  「ハイ」デハジマル ゴホウコウ
  ニッポンバレノ,テンチョウセツ
  リクワシ ウミワシ ボクラモツヅク 
  トウアヲムスブ,アイウエオ
  チヒサイコトカラ オホキナハツメイ
  ヌグフアセミヅ キンラウホウシ
  ラッパデ シングン ヘイタイゴッコ
  タダシイケイレイ タダシイココロ
  ナカヨシコドモノ トナリグミ
  ヰモンブクロニ テガミヲイレテ
  コトバハタダシク ハッキリト
  エイレイシヅマル ヤスクニジンジャ
  テツ セキタン アルミ ヒカウキ フネ ヒリャウ
  アサヒニ カシハデ
  キミガヨウタフ アサノガッコウ
  シュッセイカゾクヘ オテツダヒ
  エイレイシヅマル ヤスクニジンジャ
  ヒナダンニ ヒトエダ モモノハナ
  センセイニホメラレタ チョキンバコ
  スグレタクニガラ セカイガアフグ

・テツ セキタン アルミ ヒカウキ フネ ヒリャウ
・ヰモンブクロニ テガミ ヲ イレテ
・ヒナダン ニ ヒトエダ モモノハナ
・チヒサイコトカラ オホキナ ハツメイ
・センセイ ニ ホメラレタ チョキンバコ
・ヌグフ アセミヅ キンラウ ホウシ
・タダシイ ケイレイ タダシイ ココロ

・ラッパデ シングン ヘイタイゴッコ
・リクワシ ウミワシ ボクラモツヅク

 他に愛國百人一首というのもあったとか.

 詳しくは「はてな」の該当項目を参照されたし.


 【質問】
 大東亜戦争中,なぜ小学生全員にゴム鞠(まり)が配られたのか?

 【回答】
 1942(昭和17)年に行われたこの行為,戦勝記念というのが表向きの理由だが,シンガポールを占領したところ,使いきれないほどの生ゴムを入手してしまい,使い道に困ってのことだという.
 掌に乗るような,直径10センチにも満たないゴムまりだったという.
 どうやら軟式テニスのゴムボールだったようだと推測されている.

 【参考ページ】
エキサイト・ニュース,2007年10月21日 00時00分

【ぐんじさんぎょう】,2009/8/26 21:00
に加筆


◆◆◆◆漫画


 【質問】
 昭和14年から終戦までの子供向けマンガの様子は?

 【回答】
 杉浦茂によれば,時流に合わせて「日本児童漫画家協会」を結成したり,軍人を招いて講演会を行ってもらうなどしたものの,戦時中には厳しい統制と用紙の不足で出版界は壊滅状態.
 漫画家のある者は応召されて戦場に向かい,ある者は軍属として住民宣撫などに従事.
 残った者も漫画では食えず,一時的な転職を余儀なくされたという.

 以下引用.

[quote]

 世は完全に軍国調になっていった.
 そして時局に合わせて自然発生的に相集い結成されたのが,「日本児童漫画家協会」であった.
 創立発会式は,昭和14年11月,場所は蔵前工業会館.
 このときの出席者は33名.
 会長は『団子串助漫遊記』の宮尾しげを以下,
『のらくろ』のわが田河水泡,
『冒険ダン吉』の島田啓三,
ほか中嶋菊夫,
小野寺秋風,
新関けんのすけ,
長崎抜天,
原やすお,
井元水明,
明石精一,
小川哲男,
大槻さだお,
山川哲,
沢井一三郎,
百合三郎,
佐次たかし,
芳垣青天,
小沢よね吉,
田代秀,
倉金良行,
桂たろ,
芳賀まさお,
安孫子つねじ,
石田栄助,
今村つとむ,
うがいまもる,
木村早起,
そして私杉浦茂などであった.

 また,当日の主な欠席者は
『コグマノコロスケ』の吉本三平,
『タンク・タンクロー』の阪本牙城,
『火星探検』の大城のぼる,
『ロボット三等兵』の前谷惟光,
『フクちゃん』の横山隆一,
ほかに謝花凡太郎,
井上一雄,
原一司,
岡けんじ,
広瀬しん平
などであった.

 〔略〕

 またこの頃,作家(少年物,少女物),挿絵家,童画家,マンガ家など大同団結して「新日本漫画家協会」が結成された.
 月1回,陸軍省,海軍省の報道部から佐官級の軍人を招いて,世界の軍事情勢の解説を聞く会を催したのであった.
 会場は九段の水交社(海軍,軍人のクラブ)などであった.
 海軍の軍人の態度はおおむね紳士的であったが,陸軍のそれはどこかしら横柄で荒っぽく,ある例会のとき,演壇の椅子にどっかと腰を_すや,開口一番
「お前ら,何を聞きたいんだっ?」
と大声で叫んだのにはびっくりした.

[/quote]
―――杉浦茂他著『杉浦茂 自伝と回想』(筑摩書房,2002/4/25),p.31 & 36
[quote]

 さて,それからほどなく〔昭和15年頃〕,倉金〔良行〕は自ら志願して,軍属として,仏印のサイゴンへ出発したのであった.
 仕事は現地民宣撫のための新聞編集であった.
 軍報道班員としては小野佐世男,横山隆一なども南方ジャワへ派遣されていた.

 昭和16年から17年にかけて,私は東横線の妙蓮寺に住んでいた.
 〔略〕
 石田英助と原一司は早くに応召し,芳賀まさおは郷里,青森へ引き揚げてしまっていた.
 その17年の晩秋,井上〔一雄〕の家に沢井一三郎と私の3人が,何の目的もなく集まったことがある.
 話題は,知己のマンガ家,田代秀の上海戦線における戦死についての話,そして17年に新たに結成された「日本漫画報公会」の入会者の少なさ,厳しい統制と用紙の不足で壊滅状態の出版界の様子などをボソボソと話し合ったのだ.

[/quote]
―――杉浦茂他著『杉浦茂 自伝と回想』(筑摩書房,2002/4/25),p.38, 46-

▼ ただし紙不足は,漫画業界に限ったことではなく,出版界全体に及んでいたという.
 以下引用.

――――――
 その頃〔=戦時中〕,あらゆる物が不足する中で紙も例外ではなかった.
 紙質も悪く雑誌なども薄くなり,廃業する出版社も出てきた.
 文藝春秋誌も半分くらいの厚さになり,その分仕事も少なくなったようで,新入りの私など何もすることがなかった.

――――――『サザエさんの東京物語』(長谷川洋子著,朝日出版社,2008.4.30),p.45-46

講談社の絵本201「日ノ丸バンザイ」(昭和17年刊)

▼ この絵本から幾つかのページを複写したのでアップしておきます,ご覧下さい.
http://8917.teacup.com/fulmine1944/img/bbs/0000398.jpg
http://8917.teacup.com/fulmine1944/img/bbs/0000399.jpg
http://8917.teacup.com/fulmine1944/img/bbs/0000400.jpg
http://8917.teacup.com/fulmine1944/img/bbs/0000401.jpg

 チンサンは「シナノクニ」の田舎に住む少女で,明日日本軍がその村を通過すると聞いて日の丸旗を用意しようと思ったが,家には赤いインクも赤い布地も無い事に気付きました.
 そこで,白い布に穴を開け,そこから生の太陽を見せるというアーチスティックな発想の日の丸旗を作って,日本軍を迎える準備をしたというお話.

 ある意味シュールです….
 文章を読んでいると,そのマジなプロパガンダっぷりにクラクラします(^^;
「オチタ オチタ ホンコン マニラ シンガポール〜」

 太平洋戦争が始った頃,小学生低学年で一般的な軍国少年だった私の父もこういった絵本を読んでいたのか,今度聞いてみたいところです.

 この絵本の裏書きにある講談社の絵本シリーズ200の「センスイカン」や202の「大東亜戦争」も気になる所.
 今度,古書店で探してみましょうか.

 昭和17年ぐらいなら,陸軍海軍共に豪華な写真集を発行していますね.
 18年後半から一気に紙質も悪くなって,そういう本自体の発行が少なくなりますが.

よしぞう(maro') in mixi,2007年02月28日01:33


 【質問】
 のらくろの昇進が大尉止まりだったのは何故?

 【回答】
 戦後,作者の田河水泡先生がNHKの番組に出て語ったトコロによると,当初は,のらくろを少佐に昇進させるつもりだったのだが,陸軍から文句付けられて
(「あんなのが少佐などとは軍を愚弄するものだ」
云々と激しく言われたそうな)
それでやむなく大尉で除隊させ,「大陸へ冒険」というストーリーに変更したんだそうな.※1
(この番組が放送された時,私は小学6年生で,生で見たものさ)

 「のらくろ」を戦意高揚マンガだと思っている人も居るようだが,作者の意図はともかく,当の帝国陸軍には,そんな気は毛頭無かったわけだ.
 田河先生としては「帝国陸軍応援漫画」のつもりで描かれていたんだろうが,その気持ちは,全くと言って良いほど通じていなかったんだね.
(復刻版「のらくろ」を見た人は分かると思うが,作中で「帝国陸軍に慰問袋を送ろう」という話が有り,実際の送り先まで明記されていたよね)

夏光華(シア・クァンファ) in FAQ BBS

▼※1
 『のらくろ一代記 田河水泡自叙伝』(田河水泡/高見澤潤子著,講談社,1991/12/11)では以下のように説明されている.
 なお,この部分の記述は高見澤潤子によるもの.

[quote]

 「のらくろ」についても田河は困っていた.
 昭和13(1938)年にはのらくろも大尉になる.
 大尉は会社の課長級だからまだよいが,次に進級して少佐となると偉くなりすぎてしまう.
 漫画の中でへまをさせたりすると,軍当局が侮辱したといって怒りだすかもしれないからである.

 そんなとき,拓務省の嘱託として,満蒙開拓青少年義勇軍の慰問と生活指導のため,満州に派遣されることになった.
 田河はそこでのらくろを大尉でやめさせ,民間人として大陸に渡って活躍させようと思いついた.
「日本は資源の乏しい国だから自分はこれ以上軍部で働くより,大陸で地下資源の開発に従事してお国の役に立ちたい」
とのらくろが連隊長に頼み,「依願免官」という形で,軍隊をやめさせることにしようと考えた.
 そして昭和14(1939)年から,「のらくろ大陸行」の連載が始まったのである.

[/quote]
―――,p.169

のらくろ


 【質問】
 なぜ「のらくろ」は連載中止になったのか?

 【回答】
 表向きは,「紙資源の不足」というコトだったが,ま,陸軍に潰されたといった辺りがホントのところだろうね.

 それにしても,ミッキーマウスやポパイを戦意高揚に利用していたアメリカとはエライ違いだね.
 こんなトコロにも,日本陸軍の硬直さが表れているよね.

夏光華(シア・クァンファ) in FAQ BBS

 以下は田河水泡夫人,高見澤潤子による,そのときの状況の詳細.

[quote]

 昭和13(1938)年に国家総動員法が公布されてから,各方面に厳しい統制が行われ,児童雑誌に対しても,懸賞,付録の禁止,俗悪な漫画の廃止を命じられた.
 しかし「のらくろ」は俗悪ではないと『少年倶楽部』の編集部でも頑張って,昭和14(1939)年には「のらくろ大陸行」を,昭和15(1940)年には「のらくろ探検隊」をずっと連載していた.

 しかし印刷用紙の不足から,15年には内閣に新聞雑誌統制委員会が出来て,さらに厳しい統制を実行した.
 月刊誌の場合,前月号の発行部数に応じて次の号の用紙を配給することになり,売れ行きの落ちた月があると,翌月から用紙を減らされた.
 ところが『少年倶楽部』は少しも発行部数が減らなかった.
 委員会では,何とか配給の神を減らそうと躍起になって,
「この非常時に,漫画のようなふざけたものを雑誌にのせて貴重な資源である用紙を費やすことは許さん.
 そんなくだらんものより軍国美談とか銃後美談をのせろ」
と強く命令したので,編集部もこれに従わざるを得ないと頭を抱えていた頃,田河も軍部の情報局から呼び出された.
「あんたの『のらくろ』の漫画をやめてもらいたいんだ.
 あんたが『のらくろ』を描かなければきっと『少年倶楽部』の売れ行きが落ちる.
 用紙の節約にもなる.
 商業主義なんかに協力しないで,もっと国策に協力するんだな.
 そのためには,『のらくろ』の連載をやめてほしいのだ」
と言われ,田河は,
「『のらくろ』は国策に協力しています」
とちょっと抗議をしてみたが,結局,内閣から「のらくろ」執筆禁止令が出たことになって,権力に抑圧されてしまったのである.
 田河は軍国主義どころか,軍部に弾圧され,軍部にやめさせられてしまったのである.
「戦争は国民を犠牲にするものです.
 戦争中はすべての人々が,様々な多くの犠牲を払いました.
 私ののらくろの執筆も,戦争の犠牲になったのです」
と田河はあとで書いている.

 昭和15(1940)年の新年号から連載していた「のらくろ探検隊」は,昭和16(1941)年,すでに発売ずみの10月号限りで尻切れとんぼのまま,忽然と消えてしまった.

 〔略〕
〔戦後,〕「のらくろ」の続編まで連載するようになったとき,田河はしみじみと言った.
「あのとき,情報部にも呼び出されず,戦争中も『のらくろ』を描きつづけていたら,のらくろは無理に戦争協力をさせられ,軍国主義にならざるを得なかったでしょう.
 そんなことになったら,どんなに人気があっても,戦後復活して,続編なんかとても描けなかったと思います」

[/quote]
―――『のらくろ一代記 田河水泡自叙伝』(講談社,1991/12/11),p.173-175

 ちなみに同書によれば,最初は当時の兵役制度に合わせて2年で満期除隊させ,そこで連載を終わらせる予定だったという.
 しかし人気があったので,連載延長が繰り返されてそんな長期連載になったという.

※ 戦後になって,
「『のらくろ』は軍国主義を子供に吹き込む漫画だ!」
と田河を非難する阿呆がいたんだとさ.(同書,p.167)

 【質問】
 そもそも,「のらくろ」はどんな経緯で誕生したのか?

 【回答】
 田河水泡夫人,高見澤潤子によれば,昭和5年,「少年倶楽部」誌には連載漫画がなく,そのせいか売上が少し落ちてきたので,田川に軍隊経験があることを知っていた加藤謙一編集長は,
「犬に兵隊ごっこをやらせたらどうでしょう」
と田河に持ちかけたという.

[quote]

〔田河は,〕親がいなかった淋しい幼い自分の頃を思い,また雑誌も買ってもらえない貧しい子供たちより,もっと可哀想な野良犬を主人公にしようと考えた.
 身体が真っ黒で手足の先だけ白い犬は「四つ白」と言って昔から縁起が悪いとされ,生まれるとすぐ捨てられる運命を持っていた.
 そんな不幸な犬を主人公にしたのである.
 捨てられた不幸な可哀想な犬でも,陽気に元気に行き来と育っていく筋書きにすれば,世間の不幸な子供たちの励ましになるだろうと思ったのである.

 名前を「野良犬黒吉」,略して「のらくろ」とした.
 こうして昭和6(1931)年の『少年倶楽部』新年号から「のらくろ二等卒」の連載が始まった.

[/quote]
―――『のらくろ一代記 田河水泡自叙伝』(田河水泡/高見澤潤子著,講談社,1991/12/11),p.132

 もちろん「のらくろ」の生みの親は田河水泡であるが,加藤編集長は,生みの親の親は佐藤紅緑(こうろく)(当時の作家.『少年倶楽部』に「あヽ玉杯に花うけて」という少年小説を書いて人気があり,詩人サトウイチローの父)だと言っていた.
 ちょうど,「のらくろ」を始める前に加藤編集長は佐藤紅緑から,
「『少年倶楽部』には漫画が少ないようだが,いい漫画をたくさん入れるんだね.
 雑誌全体が明るくなるし,家中の人が楽しめるからね」
と,言われた.
 そこで加藤編集長は漫画ということに気がつき,面白い,よ_漫画を描く人はいないかとあれこれ物色し,田河を認め,「のらくろ」を誕生させたのである.

[/quote]
―――同,p.139-140

 以下は高見澤潤子の兄,小林秀雄(作家)の証言.
 上述文章の
>親がいなかった淋しい幼い自分の頃を思い,
のソースはこれだと思われる.

[quote]

「彼(著者注・田河のこと)とは,たまにあふと,酒を飲み,馬鹿話をするのが常だが,或る日,彼は私に,真面目な顔をして,かう述懐した.
『のらくろといふのは,実は,兄貴,ありや,みんな俺の事を書いたものだ.』
 私は,一種の感動を受けて,目が覚める想ひがした.
 彼は,自分の生ひ立ちについて,私に,くはしくは語つた事もなし,こちらから聞いた事もなかつたが,家庭にめぐまれぬ,苦労の多い,孤独な少年期を過したことは,知つてゐた.
 言つてみれば,小犬のやうに捨てられて,拾はれて育つた男だ.
 『のらくろ』といふのん気な漫画に,一種の哀愁が流れてゐる事は,私は前から感じてゐたが,彼の言葉を聞く前には,此の感じは形をとる事が出来なかつた.
 まさに,さういふ事であつたであらう.

[/quote]
―――同,p.165

 【質問】
 田河水泡というペンネームの由来は?

 【回答】
 本名のアナグラムによるものだという.
 以下引用.

[quote]

 本名・高見澤はローマ字で「TAKAMIZAWA」だが,「タカミズ・アワ」と分けて,そのあて字を「田河水泡」にして,「タカミズ・アワ」と読ませてペンネームにするつもりであった.
 しかしだれもそうは読んでくれずに,みな「タガワスイホウ」と読んでしまうのであきらめて,自分もそういう読み方にしてしまったのである.

[/quote]
―――『のらくろ一代記 田河水泡自叙伝』(田河水泡/高見澤潤子著,講談社,1991/12/11),p.128

目次へ

「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ戻る

軍事板FAQ
軍事FAQ
軍板FAQ
軍事まとめ