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(画像掲示板より引用)


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「神保町系オタオタ日記」■(2006/05/24) [トンデモ][出版] 桜澤如一と関根康喜(関根喜太郎)(その1)

「神保町系オタオタ日記」■(2006-06-23) [出版] 八木敏夫と関根康喜(関根喜太郎)

「神保町系オタオタ日記」■(2006-10-05)[柳田國男] 新聞学の小野秀雄に関する噂
>昭和21年9月6日 「東京日日」のための新聞用紙配給が否決されたことについては,まだいろいろ折衝が続いてゐる.

「神保町系オタオタ日記」■(2007-05-15)[出版] 国策出版社だったか,第一書房

「神保町系オタオタ日記」■(2007-05-16)[出版] 第一書房の廃業に振り回された社員たち

「神保町系オタオタ日記」■(2007-05-27)[出版][文藝] 第一書房の二人の社員

「神保町系オタオタ日記」■(2007-05-28)[出版] 日本読書新聞社に送り込まれた刺客,関根康喜

「神保町系オタオタ日記」■(2007-05-29)[図書館] 戦時読書運動と関係はあったか市橋善之助

「神保町系オタオタ日記」■(2007-06-02)[出版] 甲鳥書林の鈴木さん
 昭和16年

「神保町系オタオタ日記」■(2007-06-06)[出版][文藝]甲鳥書林の土橋利彦
 昭和17年

「神保町系オタオタ日記」■(2009-07-16)報知新聞南方調査会

「神保町系オタオタ日記」■(2010-02-17)[図書館]東大附属図書館司書増田七郎は増田義一の養子だった

「神保町系オタオタ日記」■(2010-02-27)[図書館]ニコライ堂の図書館

「神保町系オタオタ日記」■(2010-03-26)[図書館][満洲]檀一雄と藤山一雄・山崎末治郎

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「神保町系オタオタ日記」■(2010/04/27)[出版]昭和2年における雑誌の発行状況

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>陸軍情報部の鈴木庫三少佐と,その一味の手で,日本の出版界は完全に牛耳られていた

「神保町系オタオタ日記」■(2011-03-28)売文社社員で満洲映画協会常務理事の茂木久平の経歴

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「神保町系オタオタ日記」■(2011-07-06)里見とん『愛と智と』-事前検閲の顛末-

「神保町系オタオタ日記」■(2011-07-08)政界往来社時代の難波英夫

「神保町系オタオタ日記」■(2011-07-09)ポテトウプロダクシヨンの久米正雄とは?
 昭和初期の映画社

「神保町系オタオタ日記」■(2011-07-14)政界往来社の木舎幾三郎と難波英夫
>政界往来社は,戦後いわゆる「G項該当言論報道団体」に指定

「神保町系オタオタ日記」■(2011-07-22)[谷崎潤一郎]「谷崎潤一郎訳『源氏物語』を発禁にしろ」と,小川平吉

「神保町系オタオタ日記」■(2012-12-28) ニコニコしてない検閲事務官

「神保町系オタオタ日記」■(2013-03-11) [図書館]台北帝国大学附属図書館の蔵書票

「もちつけblog(仮)」◆(2011/02/06)昭和二十年お前が言うな大賞 「新聞社様各社」  -有山輝雄『占領期メディア史研究 自由と統制・1945年』(1)

「もちつけblog(仮)」◆(2011/03/23)実は微妙にゆるかった言語空間 -エガシラさんと占領期初期の検閲状況- 有山輝雄『占領期メディア史研究』(2)

●書籍

『嫌われた日本 戦時ジャーナリズム』(高島秀之著,創成社新書,2006.8)

『姿なき尖兵 日中ラジオ戦史』(福田敏之著,丸山学芸図書,1993.3)

 中国戦線において行われたプロパガンダ・宣撫放送の歴史を,自身も軍報道部,中国放送協会に勤めた著者が記したもの.
 組織構成や各地の放送局,その設備の変遷のほか,南京入城式の録音取材の様子や人気番組など色々なエピソードが書かれている.
 当時の上海の電波事情なんかも解説されている.

 いくつか資料や書籍が引用されてるんだが,昭和15年発行の本で,
「(中国人の女性アナウンサーが)日本人に頭を下げる度に,その美しい顔に暗い翳のさすのを見逃せなかった
 (中略)
 今日,支那人の顔を仔細にみたら,あるひはみんなこういう顔をしているのかもしれない」
なんて書いてるのには,(現代の感覚かもしれないが)少し驚いた.

――――――軍事板,2010/09/18(土)

『戦争と広告』(馬場マコト著,白水社,2010.9)

 資生堂の山名文夫を中心に,森永の新井静一郎や,大政翼賛会の花森安治らを描いた群像で,文字通り,プロパガンダという視点から戦争というものを描こうとしている.
 著者も,東京都のエイズキャンペーンや,「はじめてのアコム」シリーズを制作した広告マンで,広告の持つ特質や,無記名性などを熟知しており,その意味からも何故,戦後,彼らが罪悪感を持つことなく仕事をし続けたのか,文筆や画家等に比べて,なぜ,批判にさらされなかったのかと言う事も,きちんと触れている.

――――――眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板,2010/10/29(金)

『満洲出版史』(岡村敬二著,吉川弘文館,2012/12/14)

『モダン・ライフと戦争 ―スクリーンのなかの女性たち―』(宜野座菜央見著,吉川弘文館,2013/2/20)

『ラジオの戦争責任』(坂本慎一著,PHP新書,2008.3)


 【質問】
 大戦後半の日本国内のメディアや国民感情はどのようなものだったのでしょうか?

 【回答】
 マスメディアについては,政府の完全統制下にあった関係上,敗戦まで大日本帝国まんせーな記事を書き飛ばしています.戦況などに関しては軍以外にソースはありませんし.
 もちろん勇気ある言論人がいなかった訳ではありませんが,則逮捕,発禁ということになるので,事実上存在しないのと同じでした.

 一般の国民感情については,本音と建て前の使い分けとか結構あったようで,誰かのところに赤紙が来ると,昼間,祝いの言葉を述べた人が,夜になるとお悔やみを言いに来たとかいった類の手記は,よく見かけます.

 さらに末期になると,電車の車内や,街角などで,半ば公然と軍や政府を非難する声も聞かれるようになったと,憲兵隊や警察の資料にあります.


 【質問】
 
発禁本の世界を教えてください.

 【回答】

 さて,今日は発禁本について.
 と言っても,例の条例の話ではなく(多分に皮肉は含んでいますが),戦前の発禁本の話.

 以前,米国の検閲制度の話を書きましたが,あちらはそんなにきつく縛るものではなく,記者や出版社の良識に任せると言うもの.
 余計な締め付けは,寧ろ逆効果だと言うのを悟っており,軍が規制を強めようとしていたのに対し,大戦中を通して緩やかな統制を維持しています.

 一方,日本は戦前からより厳格な検閲が行われていました.
 一般的に,戦前の出版でも発禁と言えば,「春本」とか思想関係の本とかをイメージするのですが,それだけでなく,それこそ有りと有らゆるジャンルに及んでいます.
 単行本や雑誌類の出版統制は,内務省警保局を主務官庁に,1893年4月公布された「出版法」を根拠法令に行われました.
 出版法は1909年5月公布の新聞紙法と共に,言論,出版取締諸法規の筆頭として悪名高く,1945年のGHQ指令で根拠を失うまで,ほぼ半世紀に亘って日本の出版界に重しを載せ続けました.

 出版法を要約すると,以下の様になります.

1. あらゆる出版物はこの法律に依らなければならない.
(一応,届出制の体裁は採っていますが,実際は御上の許可を得なければ非合法出版となる仕組みです.)
2. 出版物の発売・頒布に当たっては,その3日前に見本2分を,出版届と共に内務省に提出すること.(3条)
3. 安寧秩序妨害,風俗壊乱などの禁止事項に違反したものは,発売・頒布の禁止,刻版・印本の差し押さえをすることが可能(19条).
4. 3条の手続きと禁止事項(皇室の尊厳冒涜,安寧,風俗)に違反した発行者,著作者,印刷社は5円以上50円以下の罰金(22条)もしくは2ヶ月以下の禁固と20円以上200円以下の罰金(26条),11日以上6ヶ月以下の禁固又は10円以上100円以下の罰金に処す(27条).

と,真に厳しいものでした.

 届け出た単行本や雑誌と言った出版物は,内務省警保局図書課(1940年以後は検閲課と改称),または各地方庁警察部特高課検閲係(東京は警視庁特高課検閲係,後に検閲課に昇格)のルートに沿った検閲を受け,その結果で発売・頒布の可否が決まる様になっていました.
 勿論,不許可は即発禁となります.

 因みに,検閲と取締には憲兵司令部も手を出していましたし,内閣情報部を改組拡充し,格上げした情報局も担っていましたが,言論・出版統制の中心は,以後も内務省が行っていました.

 内務省による出版物検閲は,「検閲標準」と称される一定の基準に沿って行われました.
 その特徴は,何と言っても「事後検閲」,つまり,原稿段階での「事前検閲」でなく,完成した出版物を対象とした点にあります.
 これが何故効果的か,と言えば,刷り上がり,後は店頭に並べるばかりになっていた完成本が発禁処分を受けると,発売あるいは頒布出来なくなるのは元より,完成本も刻版も総て没収されてしまう点にあります.
 出版社にとって,相当額の投資をして刻版を作り,完成させた本を没収されてしまうと,後はその投資だけが債務として残り,それを回収する術はありません.
 従って,体力のある出版社ならともかく,体力のない中小出版社でそうした発禁が頻発してしまえば,それは倒産への道に繋がっていく訳です.
 よって,そうした「検閲標準」をクリアしようと思えば,権力体制に阿る無難な本しか出せない事になります.
 こうした仕組みは,世界でも殆ど例が無く,ナチス・ドイツの言論抑圧を凌ぐほど,強力なツールとして機能した訳です.

 その「検閲標準」には,「安寧」と「風俗」の2種類があり,前者に引っかかった場合は「安寧禁止」,後者の場合は「風俗禁止」となり,更に両方にほぼ共通する「特殊標準」があって,厳しく篩に掛けられました.

○安寧紊乱出版物検閲基準
1. 皇室の尊厳を冒涜する事項
2. 君主制を否定する事項
3. 共産主義,無政府主義などの理念乃至戦略,戦術を宣伝し,若しくはその運動の実行を扇動し,又はこの種の革命団体を支持する事項
4. 法律,裁判所など国家権力作用の階級制を高調し,その他甚だしくこれを曲説する事項
5. テロ,直接行動,大衆暴動などを扇動する事項
6. 植民地の独立運動を扇動する事項
7. 非合法的に議会制度を否認する事項
8. 国軍存立の基礎を動揺せしむる事項
9. 外国の君主,大統領,又は帝国に派遣せられたる外国使節の名誉を毀損し,之が為に国交上重大なる支障を来す事項
10. 軍事外交上重大なる支障を来す事項
11. 犯罪を扇動若しくは曲庇し,又は犯罪人,刑事被告品を賞恤救護する事項
12. 重大犯人の捜査上甚大なる支障を生じ其の不検挙に依り社会の不安を惹起するが如き事項
13. 財界を攪乱し,その他著しく社会の不安を惹起する事項

○風俗壊乱出版物検閲基準
1. 猥褻なる事項
 イ. 春画淫本
 ロ. 性,性欲又は性愛などに関係する記述にして淫猥,羞恥の情を起こさしめ社会の風教を害する事項
 ハ. 陰部を露出せざるも醜悪,挑発的な表現をせられたる裸体写真,絵画,絵葉書の類
2.~3.略
4. 残忍なる事項
5. 遊里,魔窟などの紹介にして扇情的に亘り又は好奇心を挑発する事項
とまぁ,これら何処かで見た様な事項がずらずらと並んでいる訳です.
しかも,これらの解釈は総て内務省のお役人の価値観に基づくものであり,幾らでも恣意的な解釈が出来てしまいます.

 こうした標準に抵触すると見做された出版物は,次の様な段階で処分を受けました.
 先ず,「次版改訂」と言う警告.
 次いで,問題とされた箇所或いは全部の切り取りを求められる「削除」処分.
 一番重いのが,完成本と刻版の差し押さえとなる「発売・頒布の禁止」,つまりこれが「発禁」です.

 何れの場合でも,原型のままでは発売・頒布が認められないと言う見解であり,特に発禁となると永久に出版が認められないと言う,出版業者にとっては過酷な運命となるものでした.

 ところで,山岳雑誌でもこうした発禁処分を受けたものがありました.
 その最初は,1932年5月に起きた『山と旅』の「裸体運動号」の発禁です.
 「裸体」と言う言葉が入っているだけでも,風俗壊乱出版物として断罪されるのを連想するのですが,これは第1次大戦後,ドイツで盛んになった裸体での日光浴運動の話です.
 これに掲載されたドイツ雑誌から転載した,「日光浴実施参考」と銘打った30数葉の写真が,「猥褻図画」と見做され,発禁を食らったのでした.
 この発禁が致命傷になったのか,我が国最初の山岳雑誌であった『山と旅』はその後,半年して廃刊に追い込まれています.

 それから7年後,1939年3月には,『山小屋』,それに『関西山小屋』が,相次いで発禁一歩手前の「削除処分」の憂き目に遭いました.

 『山小屋』は山岳書専門出版社が版元になった,戦前を代表する山岳雑誌であり,『関西山小屋』はその姉妹誌として関西で発刊された雑誌です.
 両方とも,この月の発売号では,「山と戦争」と言う特集を組み,山を背景に鉄兜を被り銃を肩にした兵士と,空飛ぶ軍用機が表紙に配され,本文にも銃を担った兵士の岩登り姿や,雪中に機関銃を構える兵士の写真,これらはいずれもドイツの山岳兵と思われるのですが,そう言ったものが配されています.
 時代背景からして,当然こうした特集は,時節に適ったものと考えて,彼らは記事を作ったのですが,あに図らんや,「安寧秩序紊乱出版物」としてズタズタに切り裂かれてしまうのでした.

 この様に,権力にすり寄った出版物でも,有無を言わさず削除の憂き目に遭うのも当時の出版の実相でした.

 因みに日中戦争を期に,権力の忌諱に触れるものは総て発禁とされていきます.

 既存の出版法や新聞紙法だけでは飽きたらず,1936年6月には不穏文書臨時取締法が制定され,1938年5月に施行された悪名高い「国家総動員法」には,20条に言論・出版統制条項を加え,1941年12月になると,屋上屋を重ねる形で,「言論・出版・結社臨時取締法」が制定されていきます.
 また,「出版法」自体も1934年に改訂,「治安維持法」も1941年に改訂されましたし,「軍機保護法」や「要塞地帯法」,「軍用資源秘密保護法」等々,軍機関連法令も恣意的な出版統制に利用されています.

 そう考えると,今回の「東京都青少年の健全な育成に関する条例」と言うのは,出版法の再来と言っても良いのではないか,と思いますけどね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/02/04 23:51
青文字:加筆改修部分

 さて,先日は発禁の実相について書いたのですが,何の変哲もない記事も削除の対象とされている訳で.

 当局に迎合した記事を載せていたはずの『山小屋』と『関西山小屋』が,何故削除を食らったのかを見ていきます.
 この号は両方とも,全体で僅か80ページほどの雑誌です.

 最初の12ページまでは別段異常はありません.
 しかし,13ページ,14ページが抜けて15ページに飛んでいます.
 これは乱丁ではなく,この部分の記事が削除させられたのです.
 続いて,47~52ページの6ページ分,更に,『山小屋』では75~76ページの2ページ分,『関西山小屋』は75~77ページの3ページ分がばっさりやられています.
 他にも,「○○」とか「××」,と言う伏せ字も多数見受けられます.

 この部分,
最初の13ページから2ページ分は,「事変下の山-私の場合」と題する随想,
47ページからの6ページ分は「大陸より」と言う,中国の山岳人からの手紙,
最後に75ページ以降のものは,「出征山岳人の手紙」で,『山岳人』は3名分,『関西山岳人』では6名分の手紙を紹介している箇所でした.

 例えば,「出征山岳人の手紙」など,戦地の出征兵士から送られてきた葉書などは,現地所属部隊や憲兵隊の厳重な検閲を受けて出されているはずですから,これをそのまま掲載しても何ら問題はないはずです.
 しかし,内務省の手に掛ると,例え軍の検閲を通り抜けたものであっても,それは正当な検閲とは見做されず,自分たちの手で判断すると言う事になり,軍の検閲よりも厳しく査定される訳です.
 これらの削除理由は「安寧秩序違反」です.

 「事変下の山-私の場合」と言う随想は,東京農大山岳部OBで,1973年に日本山岳会副会長を務めた食糧問題の専門家,織内信彦氏の書いたものです.
 この随想は全部で4ページ,登山者として日中戦争をどう受け止め,どう行動したのかを書いたもので,主に,戦死した2名の岳人との交友の思い出に費やしています.
 このうち1名は,菅原梅吉と言う陸軍大尉で,戦後,国産埋め込みボルトの強度実験を行った事で知られる,陸軍戸山学校のクライミング用コンクリート製人工壁の製作者であることを記して,その死を悼んでいます.
 その後半部分の2,700文字が,「安寧秩序違反」として削除を食らったのです.

 実際,織内氏は大したことを書いていないとして,1941年に再度これを加除訂正を施した,「事変下の山」を自著の中に納めています.
 こちらは,検閲が更に厳しくなった時代にも関わらず,それなりに著者が苦心したからなのか,すんなり通っています.

 因みに織内氏は,北千島関係の研究論文を,1937年に刊行された『東京農業大学山岳部報告』に寄せていたのですが,これも軍の検閲で北千島の山岳の総数,高度,周辺海域の水深,気象情報と言った部分について,実質削除の処分を食らっていました.
 既にこの頃には,北千島に関する地誌に関する記事は,掲載を見合わせる様に指導が入っていたことが判ります.

 更に余談ながら,1930~32年に掛けて改造社から発行された『日本地理体系』全19巻は,発刊後15年も経った1944年8月,「軍機保護」を理由に図書館での閲覧が禁止されています.

 また,別の例を挙げてみたり.

 浦松佐美太郎と言う人がいます.
 この人は,文明批評家としても有名ですが,最も代表的な仕事は,1865年7月14日にマッターホルンを初制覇したE・ウィンパーの『アルプス登攀記』を1936年に翻訳し,紹介したことです.
 また,戦後の1956年にはW・ノイスの『エヴェレスト その人間的記録』と言う本も翻訳し,紹介しています.
 何れの訳も名訳の誉れが高いもので,特に前者は未だに岩波文庫に収められ版を重ねていますから,翻訳家としての方が有名かも知れません.

 また,浦松氏は東京商科大学(今の一橋大学)を卒業後,1925年から欧州に留学し,1927年からは欧州の山を制覇した登山家としても有名でした.
 1927年8月には,アイガー東山稜下部ルートを開拓したり,ツムット稜からマッターホルンに登頂し,プロモントワールから,ラ・メイジュを縦走,プティ・シャルモ,グレポンを登攀しましたし,1928年8月にはブライトホルン,メンヒ,ユングフラウを縦走し,ウェッターホルンの西山稜初登攀に成功したりもし,滞欧中に40余の山を制覇しました.

 そんな浦松氏は,1941年6月に,自身のアルプス体験と国内での登山活動を元に,1929年に帰国後,『改造』『文藝春秋』『中央公論』などの雑誌に発表したエッセイや紀行文をまとめて,文藝春秋社から『たった一人の山』と題した本を出しました.
 ロマンに満ちた薫り高い作品群は,戦時下と言う異常な状況にあったが故に,大きな反響を呼び,10月までの僅か4ヶ月で3刷を重ね,1942年6月に4刷を発行するほどベストセラーとなったのでした.
 因みに,1946年にこの本は文藝春秋新社から抄録として『山日 アルプス回想』が再出版され,河出文庫,文春文庫と幾多の版を重ねていたりもします.

 ところが,この本が事実上発禁処分となります.
 文藝春秋の元編集長だった池島信平氏は,当時の事情をこう書き残しています.
「当時の情報局当事者によって,『たった一人の山』とは極めて個人主義的な,怪しからぬ名前であると非難された」

 先にも見た様に,1940年に内閣情報局が設置され,文化・芸術・言論・スポーツ関係など,広範囲の分野の統制と検閲が強化されました.
 その中で,ある銀行出身の情報局文芸課長が事件の立役者でした.
 当時屡々行われた,内務省を中心とする検閲当局と出版各社との「懇談会」の席上,この文芸課長が屁理屈を付けました.

――――――
 滅私奉公を要求される聖戦下に,『たった一人の山』とは何事か.
 欧米的個人主義に毒された,こんな本は抹殺すべきだ.
 こんな本の為に,貴重な用紙を回す必要は無い!
――――――

こうして,用紙の割当ストップを恐れて萎縮した文藝春秋は,その版を事実上自主的絶版にしたのです.

 この出来事に対し,浦松氏は後にこう述べて怒りをぶちまけています.

――――――
 馬鹿馬鹿しくも情けない話だ.
 その文芸課長などと言う男は,虎の威を借る猫だか狐だか知らないが,他人の本にケチを付けて嬉しくて仕方がないという風だった.
 内容もへったくれも無いのに,題名が個人主義的で,総力戦体制に相応しくないなんて攻撃するんだから,何とも滑稽な理屈というほかない.
――――――

 勿論,その小役人は,今まで散々此処で取上げてきた,井上司朗です.
 井上は,その話なんぞはおくびにも出さず,1984年に書いた回想録でこう書いています.

――――――
 日本文学報国会,大日本言論報国会,音楽文化協会,日本山岳聯盟,少国民文化協会も…みな情報局文芸課所管だ.
 こんなにどっさり報国会を作ったのだから,戦後,私が追放令G項該当となるのも当然だろう.
――――――

 まさに,反省を知らない小役人の言いぐさではありますな.

 因みに,『たった一人の山』は,1946年8月に『文藝春秋』の復刊と同時期に出版部の復活が為され,その単行本第1号として,出版が計画されました.
 しかし,既に情報局文芸課等という小役人の巣窟は姿を消し,戦前の様な検閲も姿を消していた(尤も,GHQの検閲はありますが)のに,何を恐れたのか,この復刊本は『山日 アルプス回想』を改題して復刊されています.
 その間の事情は不明ですが,戦時中に改題して復刊しようとしたものの,浦松氏が最初の「たった一人の山」に拘った為,再度の権力介入を恐れてお蔵入りになったのを,再度戦後にそっくりそのまま出したのかも知れません.

 東京都青少年の健全な育成に関する条例でも,本の選定には役人が介入します.
 そんな風潮を見ていると,またぞろ,第2の井上司朗が,鎌首を擡げてくるのではないかと思ってみたりする訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/02/05 22:50


 【質問】
 1930年代の言論統制の時代,なぜ新聞・雑誌は抵抗できなかったのか?

 【回答】
 佐藤卓己著「言論統制」(中公新書)によれば,「サラリーマンだったから」.
 逆に言えば,明治の自由民権運動などでジャーナリストが権力に抵抗できたのは,ジャーナリストが安定した職業ではなかったから.

 明治時代まで,新聞記者や雑誌編集者などの職業は,まともに大学を卒業した人達が就職先として考える対象ではなかった.
 政治家になるステップか,さもなければ,文士では飯が食えないための副業だった.

 それが昭和恐慌以後になると,安定した生活のため,学卒者が目指す就職の対象となり,その中で言論の質もまた,変わっていった.
 新聞記者にしろ,雑誌記者にしろ,サラリーマンであれば自社の利益に敏感になり,また,社内での抵抗さえ容易ではなくなる.

 また,合資会社だった毎日新聞社,朝日新聞社が株式会社となったのは1919年頃だが,言論機関の株式会社化により,メディア(広告媒体)そのものの商品化も加速した.
 1925年にはラジオ放送も開始される.
 「言論と言う商品」を買ってもらわないといけないし,買ってもらうためには,読者(消費者)の声には敏感に反応せざるを得なくなる.
 そのため,右から左まで幅広い読者に読んでもらいたいという経営方針となり,そうなれば,政治的な言論統制に抵抗できないのが必然となる.
 そして「戦争」という情報は,広告媒体であるマスメディアにとって,とても魅力的な商品なのである.

 この経営方針には,1918年の「白虹(はっこう)事件」においてメディアが権力に屈した経験も,大きく影響している.
 白虹(はっこう)事件とは,1918年の富山の米騒動に関する記事で,大阪朝日新聞が,「白虹日を貫けり」と表現した筆禍事件である.
 この表現は中国の故事で革命を意味しており,朝日は発禁処分になり,社主他,社員数人も右翼から危害を加えられた.
 この事件を反省する社告を朝日は出すが,その中で同社が掲げたのが「不偏不党」という言葉である.
 今日でも「不偏不党」に,ある種の客観報道のようなものを読み込む立場も存在するが,これは明らかな誤読である.
 不偏不党であるということは,政治的に偏らないという意味ではなく,右から左まで幅広い読者に読んでもらいたいという自己宣伝だった.
 朝日新聞社の「不偏不党」は,毎日新聞社の「新聞商品主義」と共に,新聞企業の近代化を支えた資本主義イデオロギーだったのである.

 さらに,1930年代前半,左翼に言論統制が加えられたとき,自由主義者の多くが傍観し,逆にその後,1935年に天皇機関説事件が起こり,自由主義者への言論弾圧が始まったときに,今度は転向した左翼が,右翼と一緒になって,自由主義を批判した.

 まあ,メディアを過信しないほうがいいのは,今も昔も変わりがないようですね.
 現代のほうが,記者はもっとサラリーマン化しているわけですから.


 【質問】
 大本営発表とは?

 【回答】
 1941年12月8日に於ける,真珠湾攻撃と日米開戦を報じたのが,第一号の戦局発表で,最初は陸軍報道部,海軍報道部が別個に行っていたのですが,1942年1月15日からは個別発表を大本営発表として統合する事になりました.
 組織的にはそれでも,陸軍と海軍が別々にあったのですが,敗戦間近の1945年5月22日に至って漸く,大本営内での陸海軍報道部統一が決定されます.
 因みに大本営発表の最後は,1945年8月14日の第840号でした.

 その大本営発表の中心を担った陸海軍部の報道部は,1937年に新設された部門であり,其の目的は,「戦争遂行に必要なる対内,対外並に対敵国宣伝報道に関する計画及び実施」をする事とされていました.
 彼等報道部の要員は,各新聞の編集局の仕事まで行い,部員の中には新聞記者達から「大編集長」と言うニックネームを貰った者や,発表に力瘤を入れすぎ,見出しの活字の大きさとか何段抜きにするか,まで注文を出す者も居て,彼は危うく「整理部長」の渾名を付けられる所だったとか.

 また,『改造』発禁事件に見る様に,用紙の配給統制権を握っていたために,検閲の権利が無くとも,検閲と同等の事を起こす事が出来るほど,報道部の意向は強いものでした.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/06/13 23:05

(画像掲示板より引用)

 【質問】
 大本営発表は最初から過大な戦果を発表していたのか?

 【回答】
 大本営発表は,誇大広告の権化みたいに言われる事が多いですが,その傾向が出てきたのは戦争が進んでからの事で,1942年後半のソロモン海での海戦までは,そこそこ冷静な発表が行われていました.
 珊瑚海海戦での空母の撃沈数とかが実数と違うとか,ソロモン海海戦での戦果の拡大発表は,意図したものではなく,前者は米軍のダメコン能力を過小評価していた事や,航空機からの観測で艦種を間違えた事から起きた誤認であり
(日本の空母なら先ず喪失認定される様な損害を与えているのに,米国の空母はそれでも基地に辿り着き応急修理を受けている),
後者は主に海戦が夜間に行われた事から,閃光や火災から戦果を判断する事になったので,誤認が発生したものです.

 これが変質してきて,意図的な捏造報道が行われ出したのは,1943年11月の第1次ブーゲンビル島沖海戦で,此の戦いで戦果として発表されたのは,当時の常識からしても有り得ない内容で,大本営海軍部の願望が一人歩きした意図的な戦果拡大報告であると言えるでしょう.
 何しろ,14機しか辿り着かない海軍機が放った魚雷で,6隻の戦果…
 マレー沖海戦の魚雷命中率が43%とすると,5本半で6隻を撃沈した事になって,辻褄が合わない訳で.

 とは言え,報道部が意図的にこうした捏造の主導権を握っていた訳ではなく,ただの陸海軍参謀達の「スピーカー」と言う存在でしかなかったという現実もあります.
 これら捏造を行ったのは,作戦部の判断だったりする訳です.
 現実を報道するのは,国民の戦意を阻喪すると言い,過大な戦果報告については,その報告を訂正し,減らす事を作戦部が絶対に容認しなかった事が主因.

 大本営報道部がこれですから,内閣情報局の国民向けの情報発信も,全てこうした動きの中に組込まれてしまっています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/06/13 23:05

▼ この件については,佐藤守も富永謙吾海軍中佐の著書を引用しつつ,次のように述べている.

――――――
元大本営報道部員だった富永謙吾海軍中佐は,著書「大本営発表の真相史」の中で,「戦局と発表の正確度」について
「最初の6ヶ月間は,戦果,被害共に極めて正確に近いものであった.
 次の9ヶ月――珊瑚海海戦からイサベル島沖海戦まで――の期間は,戦果が誇張され始めた時期である.
 このうちミッドウェー海戦が損害を発表しなかった.
 ガダルカナル島争奪戦を巡って,発表そのものに現れない莫大な損害が,累積して行ったことも見逃すことは出来ない」
「マリアナ沖海戦以後は,誇大の戦果に損害のひた隠しが加わって,見せかけの勝報が相ついだ.
 フィリッピン沖海戦でその頂点に達した.
 そして,日本海軍は既に潰滅していたにもかかわらず,軍艦マーチだけが空虚な勝利を奏でていた.
 この状態は,最後の戦闘である沖縄戦の終結――二十年六月末まで続いたのであった.
 すばらしい大戦果として,当時全国民を狂喜させ,連合艦隊の次の作戦まで狂わせてしまった台湾沖航空戦の発表は,おそらく『デマ戦果』の横綱格であろう」
と書いている.

http://d.hatena.ne.jp/satoumamoru/20071008
――――――


 【質問】
 戦前・戦中の国策スローガンについて教えられたし.

 【回答】
 『帝國ニッポン標語集』という本があります.
 只一向,戦前から戦中に掛けて公的機関や新聞社などが作った標語4,237句が羅列されているだけ,というもので,興味のない人には思いっきり退屈な本なのですが,その時代時代を映したものが鋭く切り取られているものとなっています.

 この本の種本は,情報局第5部が作成した『国策標語年鑑』と言うもので,その項408頁に亘る大著で,1941年10月に初版が,1942年10月に追加版,そして,太平洋戦争もたけなわの1944年1月10日に昭和18年版が出ていたものです.
 これに収録されているものを体裁だけ変えただけで,全部収録したもの.
 御陰で,戦争プロパガンダとしての価値ある資料となっています.
 尤も,この種本が編纂された目的は,標語選出をする担当の選者が,過去のものかどうかを確認する為のもので,408頁の内,34頁分は白紙で,今後新たに選出された標語を書き留める為のものだったりします.

 因みに,この本の末尾には,「備考」として,「焼き直し類型」と言う項目があります.
 これは,スローガンを考える人たちが,それを簡単に確認出来るようにする為のアンチョコです.

 例えば,「○○へ」に続ける言葉は,「民一億の」,「大和心の」,「○○一致の」何れかを入れて,最後に「総進軍」,「力瘤」,「体当たり」,「総動員」,「勢揃ひ」を附ければ一丁上がり.

 これを,今回のテポドン騒ぎに当て嵌めるとこうなります.
「テポドンへ 民一億の 体当たり」
何か標語らしくなったでしょ?

 「○○○○」に繋げるのは,「伸びゆく」「明るい」「輝く」「揺るがぬ」の何れかを入れて,最後に「銃後」「日本」「東亜」「亜細亜」を入れてみる.
 「神国日本 伸びゆく 東亜」とか….

 「○○に」の次に,「活かせ」「示せ」,と来て「八日の」,そして,「あの決意」「心意気」.
「テポドンに 示せ八日の 心意気」

 「○○は」の次に,「銃後に」「職場に」「我家に」と来て,「挙げる」か「挙がる」と繋げ,最後に「大戦果」「殊勲甲」「○○○」.
「防諜は 職場に挙げる 殊勲甲」.

 他にもこんなものが….

 「○○○○」の次に「銃後の」或いは「興亜の」と来て,「護り」或いは「固め」.
 「○○へ」の次に,「我も一役」か「一人一人が」と来て,「御奉公」.
 「○○は」,「○○で」か「誰にも」と来て「出来る御奉公」.

 以下は韻を踏む形の類型.

「ガッチリ○○ ドッシリ○○」
「挙って○○ 揃って○○」
「○には○○ それには○○」
「進む○○ 後押す○○」
「小さな○○ 大きな○○」
「正しい○○ 明るい○○」
「捨身で○○ 親身で○○」
「決死で○○ 必死で○○」
「○○は 街にも 家にも 職場にも」
「○○は 何時でも 何所でも 誰にでも」
「○○へ 来たぞ ○○の 動員令」
「征けぬ身は ○○○で 御奉公」
「この○○ この○○が ○○○」
「その日 その日が ○○○」
「弾運ぶ 心で○○ ○○○」
「戸毎○毎 ○○○○」
「汗の鉢巻 ○○の襷」
「今日も一日 ○○○」
「○○に休日無し」
「○○三百六十五日」
「○○は ○○訓の 第一条」
「一億が 銃とる心で ○○○」
「○○が 一目で分かる ○○○」
「○○で,敵の○○と 一騎打ち」
「大東亜 築く○○だ ○○○」

 これ以外には,『荒物屋』と称する以下の型を用います.
 「空気 太陽 水 バナナ」や「電気 水道 瓦斯 ラジオ」がその好例.

 また,3つの語句を合せた「三羽烏」と称する型の場合は,下の様な感じ.
「この子 強い子 興亜の子」,「精出せ 汗出せ 力出せ」,「黒い手 太い手 働き手」,「撃つ麻,勝つ麻,殖やせ麻」.

 上の句を附けると「冠り三羽」となり,例えば,こんな感じ.
「造り出せ 撃つ船 勝つ船 築く船」とか「柏手を 打つ手 強い手 興亜の手」.

 今の標語とか,番組宣伝句なんかにも多いですよね,こうした類型.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/04/05 22:48


 【質問】
 戦時中の日本のメディアは,全て「鬼畜米英」一辺倒だったのか?

 【回答】
 冷静な記事が出ている雑誌もありました.

 例えば,昭和19年の「科学朝日」を手に入れたとかで見せて貰ったことがあるのですが,基地建設関係の特集号で,機械力で基地を建設するのに必要な建設機械の一覧とか(当時の日本では,そんな機械は全然開発できなかった),連合国の揚陸戦の全貌とか,連合軍による上陸戦,そして基地設営能力の記事とかが,赤裸々に載っていました.
 特に,海軍広報部の将校と現場の設営隊の隊長などを交えた座談会で,米軍の侵攻経路と手法について語っているのですが,ガダルカナルに上陸して占領後,速やかに航空機基地を建設し,その援護下に,次の拠点を占領,また航空機基地を建設して,その援護下に,次の拠点を占領すると言う手法で,彼らの航空機基地建設は,滑走路の代わりに鉄板を敷いて,大規模な建設機械部隊(海蜂という名前で紹介されています)を入れて,わずか2週間で完了するとか,この手法で南洋諸島を経てフィリピンに至り,中国と連絡して,日本のシーレーンを切断する,と言う話をしてるんですよね.
 よくこの話が検閲に掛からずに掲載できたものだ,と言う驚きと共に,此処まで先を見通せているならもう少し何とかならなかったのか,と言う感を受けてみたり.

 ちなみに,同じ号に,米国の航空機生産時間が10分の1に短縮されたと言う海外電の記事なんかも掲載されていました.
 片や,「英国では罷業が絶えない」と言う記事もあったりして.

 「鬼畜米英」,「撃ちてしやまん」など,新聞などではあれだけ国民を煽っておいて,一方ではこんな冷静な記事が民間向けの雑誌に出てた訳で…なんだかなぁです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2


 【質問】
 戦中の報道管制はどれほどのものだったのですか?
 小中学校での戦争教育で新聞やラジオは,常に国家万歳で悪い情報は一切流さないものだと思っていたのですが,山田風太郎の『戦中派不戦日記』を読むと,わりと情報はオープンのように思えます.
 当時の国民はどれくらい戦局を理解していたのですか?
 また,イタリアやドイツの同盟国の敗北を新聞やラジオはどのように伝えたのですか?

 【回答】
 戦況に関しては,大本営発表をそのまま掲載.
 大本営発表も,負け戦もそれなりに伝えているから, 気の回る人だったら戦局は理解していたでしょうね.

 1944年の年鑑類でも,きちんとイタリア降伏は書かれています.
 但し,我らがDuceは北イタリアにおわし,健在.北イタリアの政府が南のバドリオ傀儡政権に対し圧迫を加えつつあると言う報道が成されていますね.

 同様に,1945年のドイツ降伏もきちんと伝えています.
 これから我々はどうしていくべきか,なんて論調もあります.
 また,ドイツ降伏の影響についても新聞は報道してます.


 『流言・飛語の太平洋戦争』という本を読むと,そのへんの事情が書いてあって面白い.
 イタリアなんて降伏した途端
「哀れな奴らよ,負け犬達よ」
と,評価をころっと変え(それまでは頼もしい友邦扱い),
「日本はドイツイタリアを恃んで戦争を始めたわけではないから,大勢に影響はない」
とか庶民が言い出してる.
 裏を返せば,ひしひしと劣勢を感じているように読める.

眠い人 ◆gQikaJHtf2(青文字)

▼ 大学図書館にあった新聞の縮刷版は俺にとって宝の山だった.
 日本の情報についてはプロパガンダ満載だけど,欧州の戦局に関しては意外と客観的で驚いた記憶がある.
 ファレーズの敗戦もちゃんと報道されてたし,時期を追って読んでいくと,東西の両戦線が徐々に押し込まれていく様が,ちゃんと分かる.

二人兄弟の墓 ◆z8d8W/sbaQ in 軍事板
青文字:加筆改修部分

▼ 昭和12年4月発行の「帝国海軍」(帝国海軍社)と,松岡外相が表紙の,昭和16年6月発行の「同盟グラフ」(同盟通信社).
faq06j03m.jpg
 「同盟グラフ」では,ドイツ,イタリアを訪問して日ソ中立条約を結び,帰国した松岡外相の動向を特集した記事がありましたが,その中でムッソリーニの印象を,
「親分タイプで上野の西郷像に似ている」
と評した一文が(笑.

よしぞう(maro') in mixi,2006年07月03日01:21


 【質問】
 終戦までの日本の戦局報道は,どの程度正確だったのか?

 【回答】
 日中戦争までは,戦局報道は,例えばNomonhanなどの負け戦を除けば,概ね正確に戦局を報道していました.
 ただ,戦線が膠着して,国民生活に様々な影響が出てきた1939年以降は,国民に対して生活状況の悪化に対する一層の理解を求める様になります.
 また,軍事技術の報道に関しては,陸海軍とも航空機や航空兵力に対する国民の関心を喚起しようという狙いが見られます.
 技術に関しても,誇張や虚偽は含まれておらず,説明も国民に対し,陸海軍の認識を理解しやすい様に説明しようという姿勢が見られました.

 1941年12月8日以降になると,日中戦争の大陸戦線は脇にやられ,南方各地の戦線に関する報道が主となります.
 内閣情報局の国民向けプロパガンダ誌である写真週報は,12月24日発行の号の表紙に零式艦上戦闘機が掲載され,以後,1942年1月28発行の号までの5冊は,表紙には軍艦,戦車,兵士,破壊された敵の基地や兵器が使われていました.

 最初の12月24日発行の号では戦場写真が掲載されたのは,上海攻略のみであり,真珠湾攻撃とかマレー沖海戦に関しては,戦場絵画で代用されています.
 記事は,真珠湾攻撃,マレー沖海戦始め,香港攻略,フィリピン上陸,南方の島々の攻略と言った開戦劈頭に行われた作戦をほぼ網羅したものとなっており,その地域を理解させるため,「新戦場辞典」と題するコーナーで,地理,気候,風土,社会を紹介する様にしています.

 1942年に入っても,シンガポール攻略,フィリピン陥落と言った出来事が記事を飾ります.
 特に前者は,欧米からの植民地解放と言った意義を強調するものとして,頻繁に特集記事が組まれています.
 この頃は,主に海軍の戦勝報道が度々紙面を賑わし,スラバヤ沖海戦のExeter撃沈,セイロン島沖海戦のHermes,Dorsetshire,Cornwall撃沈,珊瑚海海戦でのLexington大破炎上の様子など,海軍部隊の撮影した写真を用いて派手に戦果を宣伝していました.
 因みにExeter撃沈に関しては,「Admiral Graf Speeの敵」として報じています.

 とは言え,記事の中身に関しては,判官贔屓のもので,損傷を受けた艦に対し,「悲壮にも又健気な姿」とし,沈没の際にも,「最後まで戦闘旗をマストに掲げながら海底に姿を没した」と同艦の戦闘姿勢を賞賛しています.

 更に1942年3月11日発行の号では,日本海軍潜水艦による米国本土砲撃の様子も大きく取り上げています.
 実際に3回行った攻撃の内,2月の攻撃だけですが,これで国民の士気を挙げようとした事が伺えます.

 そんな日本に冷や水を浴びせたのが,4月18日のドーリットルによる日本本土空襲ですが,これについては4月29日発売の号では,被害軽微として,「敵の空襲企図全く失敗に帰す」と言う記事を掲げていますが,反面,市街地への爆撃や国民学校への機銃掃射は,大きく取り上げ,
「鬼畜にも劣る彼等の正体を暴露したもので,八つ裂きにしても尚飽き足らないものがある」
と言い切っています.
 これにしても,国民の敵愾心を煽る事に腐心している事が伺えます.

 装備に関しては,今まで秘密扱いだった陸軍空挺部隊が,「空の神兵」として1942年2月25日発行の号に紹介されたのを始め,一式陸上攻撃機は,1942年4月14日発行の号に「海軍新鋭攻撃機」として紹介しており,この記事の中では,
「神風号に似た陸軍偵察機や,ニッポン号によく似た海軍陸上攻撃機との活躍ぶりが次々,新聞紙上を賑わして,これらの大飛行が実戦のための試験飛行で有った様な気がしたのである」
と書いており,ニッポン号や神風号を軍用機に転用している事を明らかにし,日本製航空機の優秀性を然りげ無く,国民に示す事を企図して書かれた記事である様です.

 一方,連合国の兵器に関しては,航空戦力については,1942年1月14日発行の号で,「我が荒鷲の好餌」と書いている反面,航空母艦については同じ号で「日本本土を空襲しうる」としており,後のShangri-laからの爆撃を予言しているかの如き記事を掲載していたりします.
 また,米英の潜水艦についても,「潜水艦戦術と米英の勢力」と言う記事で,日本軍の攻撃を免れた米性の潜水艦について言及し,ドーリットル空襲の際にも,すかさず,「来襲敵機ノース・アメリカンB-二五の正体」と言う記事を掲載して,国民に対する注意喚起を行っていました.
 更に,珊瑚海海戦後は,「蠢動の機を窺う残存米英海軍戦力」として,日本軍の把握する米英海軍の残存主力艦一覧を写真入りで紹介しています.

 何れにしても,連合国の兵器に関して,航空機や艦船を写真入りで報じると共に,その性能諸元も国民向けの雑誌であっても非常に正確に伝えていました.
 更に,航空母艦について分析した記事では,現存空母の分析を行った後,Hornetの竣工が間近であること,更にEssex級空母が4隻建造中で,更に7隻の建造が予定されている事まできちんと伝え,その航空戦力の整備状況の凄まじさについて,国民に注意を呼びかけるなど,日本海軍が米海軍の動向を非常に注視し,正確な分析を行っていた事が窺えます.

 この時期の戦局報道は,日中戦争時に引き続き,まずは正確であり,ビジュアルな写真や図版を多用して,国民に対する日本軍の優勢が実感出来る様に企図されていました.
 しかも,これらの写真の殆どは,重要な部分を除き修正加工が行われておらず,誇大報道が全くなかったのも特徴で,其の上,敵戦力に関する正確な分析報道が為されていたのも特徴的です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/06/14 21:02

 さて,1942年6月5~6日に行われたミッドウェー海戦では,日本海軍は正規空母4隻と艦載機300機とベテラン搭乗員達を一挙に失いました.
 これにより,日本軍の攻勢は頓挫し,戦局は膠着状態となります.
 そのミッドウェー海戦そのものの日本国内での報道は,政府のプロパガンダ誌である「写真週報」では,6月24日発行版に於て,「大東亜戦争日誌」と言うコーナーに大本営発表と同文が示されたのみで,損害その他は見事に隠蔽されています.
 一方で,支作戦であったアリューシャン列島攻略戦については,大きな誌面を割き,7月8日発行版に於て,「ゆきの濃霧地帯へも」と題した攻略戦詳報が掲載されています.

 戦局は,南太平洋周辺での艦隊の潰し合いに発展しました.
 これについては,第一次ソロモン海戦について,1942年9月2日発行版で「ソロモン海戦 舷舷相摩す暗夜の奇襲」と題して報道し,第二次ソロモン海戦については,11月11日発行版で「反抗の敵艦隊を撃滅」と題する記事を報じています.
 11月25日,12月23日発行版では,南太平洋海戦が取り上げられています.
 この南太平洋海戦の詳報では,空母Hornetへの海軍雷撃機隊の攻撃が写真入りで紹介されました.
 因みに海戦の写真掲載は,これが最後となります.

 ところで,この間,サボ島沖海戦,第三次ソロモン海戦があったのですが,これについてはミッドウェー海戦と同様に,「大東亜戦争日誌」で大本営発表と同文がちょこっと触れられているだけ.

 第一次,第二次ソロモン海戦や南太平洋海戦では,敵巡洋艦とか空母の撃沈と言った派手な戦果がありますが,サボ島沖海戦では,青葉を喪失し,衣笠大破と言う一方的敗北,第三次ソロモン海戦も比叡,霧島と言った戦艦の喪失ですから,敗北は殆ど表沙汰にしなかった訳です.

 1942年9月26日発行版に於ては,加藤建夫少将戦死詳報が特集となっています.
 この記事が,「反攻」と言う言葉を用いた最初の記事で,この段階で,政府や軍部は,日本軍の攻勢が頓挫した事を認識していたものと考えられています.
 また,この号では,「我に幾倍の新鋭空母あり」と題する記事が掲載されています.
この辺りから軍部の「~だったら良いなぁ」願望の記事が出だします.
使われている写真は,既に喪失している赤城や飛龍のものが使われ,記事中には「新鋭空母」の実態については一切触れられていません.
 因みに,これに先立つ7月20日には,大本営海軍部報道課長平出英夫大佐が,ミッドウェー海戦については,「日本軍の大勝利」とラジオ放送を行っており,海軍部の隠蔽意図が確認出来ます.
 この放送に関して,平出大佐は後に回想して,「恥の上塗りの放送」と書いていますが….

 この後,ガダルカナル島を巡る戦闘が激化します.
 この戦闘で,海軍は多数の艦船と航空機が喪失しますが,それを受けて,1942年12月発行の号では,「ソロモン戦闘の性格」と言う記事が掲出され,此処では米国が「緒戦の惨敗から立ち直った」として,米軍反攻が本格化した事,
「敵は兵力に於ても我に数倍し,最新の機械化装備を完全に整えている」
として,戦局が極めて困難である事を仄聞しています.
 そして,陸海空の日本軍の大戦果を報じてはいるものの,
「尚も執拗に反攻の手を緩めない敵の戦意と戦力には,誠に侮りがたいものがある」
とその苦境に素直に言及していたりします.
 で,その結果として,ソロモン諸島での一連の戦闘を,「太平洋全戦局前途を決定的なものとする」と位置づけ,その要諦は,制海権の争奪とそれに先立つ制空権の確保であるとして,生産増進による海空戦力の充実を呼びかけ,特に,米軍の補給能力の増大に対抗するため,「制空権の確保こそ近代戦最大の必須条件」と述べ,航空戦力拡充を主張しています.

 これを受け,1943年に入って,1月20日発行版では,「空の戦力増強」特集を組み,国民に対し,航空機の増産とパイロットなどの要員の養成を一層強化する様に求めています.
 更に,南方の喪失により,日本本土に対する爆撃機の空襲が懸念される様になり,同じ号では,
「敵機は虎視眈々と我が本土を窺っている」
と題した記事を掲載し,米陸軍の爆撃機を紹介すると共に,各拠点からの距離を示した地図を掲載していますが,既に艦載機による奇襲的な空襲ではなく,陸上機による本格的な本土空襲が懸念される事を国民に知らせており,極めて興味深かったりします.

 2月3日発行版では,ソロモン諸島やニューギニアに於ける激戦が続いている,として,「死闘」と言う言葉が見出し語で初めて掲出されます.
 また,「銃後も第一線」として,国民により一層の奮起を促す内容となり,生活の引き締めを開始しました.
 丁度,この発行時期は,ガダルカナル島撤収作戦が展開中でした.

 この時期の報道に関しては,既に日本の連戦連勝ではなくなり,「反攻」,「死闘」と日本軍が苦戦する状況が窺える内容の記事も出始めています.
 とは言え,緒戦期に比べると客観的な損害報道も,特に海軍側からの情報提供が出なくなり,そろそろ国民に対する瞞着が始まってくるのもこの頃です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/06/15 21:28

 さて,1943年2月以降,日本は撤退に次ぐ撤退を行います.
 特にソロモン諸島の戦闘で喪った戦力を日本軍は回復する事が出来ず,戦力格差は益々広がります.

 5月29日,アリューシャン列島のアッツ島守備隊が全滅しました.
これを受けて,政府のプロパガンダ誌「写真週報」の6月16日号は,「アッツ島に玉砕す」と言う記事と,「我ら一億英魂に応えん」と題する記事が掲載されました.
 玉砕報道に併せ,国民各層の復仇や一層の戦争協力を誓う談話を掲載するなど,国民の戦意昂揚を意図した編集内容でした.

 以後,マキン・タラワの玉砕,サイパン玉砕,テニアン・グアム玉砕と玉砕報道が相次ぎました.
 特にサイパン玉砕については,7月12日号と7月26日号と2号続けて特集を組み,その玉砕の報に接して,復仇のために増産を誓う労働者の写真等を掲載し,
「戦況を知るのに,もう地図を見る必要がなくなりました.
 国内即ち私共の身の回りが,既に戦場なのです」
として,一層の国内引き締めと,戦意昂揚を図っています.
 こうした玉砕報道については,現地写真は全く掲載されず(運ぶ人がいないので当たり前),守備隊司令官の肖像写真,肖像画,過去に撮影された現地や守備隊の写真,現地に於ける戦闘の想像図が掲載されるに止まっています.

 また,この玉砕の周辺では,反攻上陸中の米軍に対する日本軍の航空攻撃が屡々行われました.
 既にこの頃には絶対的な航空優勢は望むべくもなく,多くの部隊が甚大な損害を出したにも関わらず,こうした戦いは「航空戦」として報道され,例えば11月24日号では,「続け決戦の大空へ」と題して,これらの航空戦の大戦果として,ブーゲンビル島沖航空戦を報じています.
 この記事では,4次にわたって行った攻撃により,敵戦艦・空母を中心に,轟沈14隻,撃沈23隻,撃破32乃至33隻,撃墜400機以上と報じています.
実際には,6次に渡る航空戦を行い,米軍側の損害は,僅かに駆逐艦1隻の撃沈,軽巡2隻,駆逐艦1隻,輸送船2隻の損傷と言った損害でした.

更にこうした航空戦の苛烈さを表現して国民の戦意を鼓舞する為か,1944年5月24日号には「必殺,海鷲魂を此処に見る」と題する海軍機の写真が掲載されています.
これは米軍側が撮影した写真をスイスの雑誌経由で入手したもので,左翼の折れた一式陸攻が炎上していま正に海に墜落せんとする写真ですが,これのキャプションには,「被弾に傷つき炎上しつつ,墜落寸前尚魚雷を発射して自爆した海鷲の壮烈な最後」などと書かれています.

実際に,写真の機体の状況からは,そんな余裕もない事が見て取れますし,キャプションの明らかな捏造は,国民の戦意昂揚を図っている訳ですが,その自軍の現況を伝えるのに外国誌から写真を転載せざるを得ない所に,戦況が逼迫した可能性を読み取る事が出来ます.

とは言え,戦局の悪化にも関わらず,相変わらず大本営発表などは,日本軍の大戦果を報じていました.
しかし,実際の戦局とは相容れない事から,この時期は,戦局の解説記事が圧倒的に多くなります.
初期の頃は,これについて,最後は「敵の圧倒的な物資補給に抗すべく,国民一層の生産増進を促す」という感じだったのですが,相次ぐ重要拠点の失陥に対して,日本軍の苦境を露わにする様な記事が目立ち始めます.
例えば,「写真週報」の1944年2月16日号には,「マーシャル諸島の激闘」と言う記事に於て,同方面に於て日本軍が,「開戦以来最大の試練に直面している事実」を前に,「儼乎たる必勝の信念や」や「神州不滅の信念」の堅持を国民に求めるほどになっています.

また,1944年4月26日号では,「焦る敵の機動戦略」と題する記事が掲載されています.
この記事に於ては,連合国が採っている所謂「飛び石作戦」を評して,「敵ながらよく考えた」と評価し,また,エセックス級空母とインディペンデンス級軽空母の就役状況を,その諸元を明らかにしつつ述べています.
その記事自体は,こうした反攻作戦を,「調子に乗り,ひた押しに攻めてきた」などと揶揄をしては居ますが,「時を藉すまいと,速攻に次ぐ速攻を以てする作戦を今後も試みる」事を予測し,これを阻止出来ない現状を垣間見せても居ます.
その一方で,「敵に出撃の意志の有る限り,我らは敵撃滅の機会が多くなる」と海軍に配慮した虚勢を張っていたりします.

そして,サイパン陥落.
1944年8月9日号では,「直視せよ!敵の全面攻勢」と題した記事で,マリアナ諸島の陥落により,「B29の性能を以てすれば,(日本本土・フィリピン)その何れに対しても爆撃は可能である」として,絶対国防圏の崩壊と,本土空襲の不可避を説いています.
この間に,マリアナ沖海戦があった訳ですが,日本軍の迎撃により,「世界海空戦史上に見られない大戦果」を得たにも関わらず,戦局が日本軍有利に展開しなかったのは,日米航空兵力の格差が縮まらなかった為であり,「最近は我が方の損害も比較的大きくなりつつある」と損害が増大している事を認めざるを得なくなっています.
但し,軍部の責任は棚に上げ,国民に対しては,「一機でも多く」,「精良なもの」を送り出す様求めているのは今までと変り有りません.

その代り,大々的に取り上げられていたのは,ビルマ戦線や中国戦線であり,例えば,アキャブでの戦闘で,英印軍のビルマ侵攻を阻止したのは,1943年4月21日号で「ビルマ奪回の夢破る」として大々的に報じ,このアキャブ方面の勝利の意義を,援蒋ビルマルート復活の阻止,インドへの圧力,英軍のビルマでの反攻拠点化阻止の三点から力説しています.
当時,アキャブ戦線では,未だ日本軍が優勢で,英印軍は1個旅団が壊滅するなどの打撃を与えていたので,この解説は概ね妥当な内容でした.

中国戦線では,衝陽攻略が1944年8月23日号で第一報が報じられ,9月6日号で詳報が,「衝陽攻略と在支米空軍」と題して掲載されました.
 この記事に於ては,衝陽陥落を,「単なる一航空基地及び兵站基地の喪失に止まらず,東南支那航空基地全部の実質的喪失をも意味する」と高く評価しています.
 但し,実際にはマリアナ諸島を確保した連合軍は,本土空襲の場を中国本土からマリアナ諸島へと移し,衝陽の陥落は余り連合国側にインパクトを与えなかった訳ですが.

 この時期,国民に知らされなかったのが,海のトラック大空襲と陸のインパール作戦です.
 前者は,「週間点描」と言う小コラムに目立たぬ様に空襲の事実のみ報じられ,実態が知らされなかったものでした.
 実際には,トラック島は根拠地としての機能を完全に失う状態だった訳ですが.

 後者は作戦当初,日本軍が優勢に作戦を進めていた時期には,1944年4月17日号に「インパールヘ!! 印度進撃快調」,5月3日号には「印度作戦の全貌」と言った景気の良い報道,解説記事が掲載されていたのですが,終わってみれば,8.6万投入された兵力の内,生還したのは1.8万に過ぎない大失敗作戦でした.
 これにより,日本軍は壊滅的打撃を受け,以後,英印軍のビルマ侵攻を阻止出来ず,ビルマの対日離反を招いた訳です.
 結局,これだけ力を入れて報道された割には,その最後は触れられていません.

 その逆で,大敗北にも関わらず,世界中から嘲られたのが,「台湾沖航空戦」です.
1944年10月25日号では,「戦勢転換の神機至る」と題する解説記事で,大本営発表と同文の戦果を伝えています.
 その戦果発表は,航空母艦11隻,戦艦2隻を含む17隻の撃沈と,航空母艦7隻,戦艦2隻を含む25隻の撃破,160機以上の航空機撃墜というものでした.
実際には,航空母艦2隻を含む7隻の損傷だけであり,一方で,海軍機を中心に700機の航空機を喪失したのは,ご存じの通りです.

 この結果を盲信して,比島決戦では,マニラ近郊の集中防衛からルソン島での迎撃に変更する戦略的失敗を犯しました.
 比島決戦を報じた後の11月1日号では,この台湾沖航空戦の大戦果を受け,「驕敵を撃つは今」と題した記事を掲載し,フィリピン迎撃作戦の解説をしていますが,
「ルーズヴェルトがその人気取りの方策に,遮二無二戦局を推し進めんとする野望」
から,フィリピン方面での米軍反攻が迫っており,米軍は,「非常に短期決戦を焦っている」と書いています.

 で,レイテ沖海戦へと繋がるのですが,11月8日号では,「勝機確保の追撃戦」と書かれているそれは,海軍の機能をほぼ喪失する大敗北が実態でした.

 結局,この時期の報道は全く実態を反映しない内容となり,架空の大戦果報道と損害の隠蔽,極小化が激しくなると共に,戦力の不足を,国民の努力不足へと責任を転嫁する内容が目立つ様になっています.
 人間,追い込まれると,此処まで理性を喪失するものか,と愕然としますね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/06/16 22:14

戦前のプロパガンダ・グラフ誌「写真週報」(内閣印刷局)の昭和16年1月15日号
 娘さん達が持つ変わり羽子板が,時代を物語っていますが,出身国通りでしょうか(^^;

 因に「写真週報」の奥付には,
「表紙:近衛さんにはウルズラさん,ムッソリーニには明子さん,ヒトラーにはフランチェスカさん.枢軸羽子板と枢軸令嬢の組合せに新春の庭は微笑ましく,うららかだ」
と在りました.

 という事で,上がドイツ娘さん,下がイタリア娘さんという事で決定!

よしぞうmaro' in mixi,2007年06月05日00:45
~06月09日 09:54


 【質問】
 第2次大戦中,欧州戦線の状況が日本に伝わるまで,どのくらいのタイムラグがあったの?

 【回答】
 昭和15年10月,将校用にのみ配布された「偕行社特報」にあった,“独軍突撃徽章の制定に就て”.
 既に同年(1940年)制定の歩兵突撃章を図解入り(写真)で説明しており,ちゃんと銀色を「異なる日の突撃戦闘に3回以上参加した歩兵師団か山岳師団の歩兵用」,青銅色を「機械化歩兵連隊の将兵用」と説明しています.

 恐るべし.

 これ一つを見ても,当時は思っている以上にタイムラグ無しに情報が伝わっていた様です.
 ヨーロッパ戦線近況を伝える写真の幾つかは,当時最新式の電送写真で送られたものだと判りました.

よしぞう(maro') in mixi,2007年01月21日02:12


 【質問】
 戦前のマスメディアの報道について色々批判が多いですが,その中でも朝日新聞に対する批判が特に厳しいのは何故なのでしょうか?
 言論統制で軍マンセーな風潮は,どこの新聞社も同じだったはずですが.

 【回答】
 朝日新聞は,その言論統制が始まる前から軍に報道協力をを行なってきました.
 満州事変での石原莞爾の報道戦略にも一枚噛んでいます.
 そして,戦勝報道や愛国的な扇動報道によるによる売上の増加に味をしめ,軍が求めた以上に率先して戦争を煽りまくりました.
 終いには,それが日本の外交戦略や軍事戦略を捻じ曲げる域まで達してしまいした.

 また,戦時中に主筆であった緒方竹虎などは,情報局総裁として言論統制に積極的に協力しています.
 言論人でありながら言論統制に協力すると言った姿勢が批判されるのは当然でしょう.

 そして,戦時の社長や会長と言った主要幹部は責任を取って辞任するどころか,政界に転出したり社に残ってその後も順調に出世しています.
 新聞自体の論調もあっさり掌叛して,「軍国主義批判/民主主義万歳」にいち早く回りました.
 結局,誰も戦時報道の責任を取らず,戦前からの無責任体質を維持し続けている事が批判の対象なのでしょう.

 詳しくは『朝日新聞の戦争責任』(安田将三著,1995.8)をご覧になると良いでしょう.
 本書は,朝日新聞が著作権侵害を盾に闇に葬り去ろうとしたほどの曰く付きの一冊です.

画像掲示板より引用
クロスチェック未実施につき,信頼するかどうかは自己責任で



 【反論 kifogás】
 開戦前夜の新聞社は,ちょっもでも不味い事を書いた奴には赤紙が来てたから,残ってるメンバーはそりゃイケイケばっかりなのは仕方がないよ.
 当時は朝日新聞なんて,開戦中情報局幹部に潜りこんだようなのが社長やってたしな.

 【再反論 Surrebuttal】
 なつかしい新聞側にだけ都合のいい話を久しぶりに見たな.
 今は当時の各新聞社の各人の動きや,和平交渉をする政府への批判の動きなんかが明らかになってるから,そういう都合がいい言い訳は通用しないだろう.
 仮にその言い訳を全面的にやっても,当時煽ってた新聞だけの免罪符にはならないし.
 多くの市民や兵隊にも難しい時代だったなら分かるが,他は悪質となじるが,新聞だけ仕方ない・問題ない・扇動した責任はないみたいな理屈には到底ならない.
 むしろ市民を騙した一端を担ってた謝罪をしなきゃならん立場.

 朝日社長一族の村山長挙なんか戦後,進駐軍に追放されて一時期大人しくしてただけで,戦前も戦後も社主,かつ戦前戦後も権力闘争に明け暮れ,パージやって体制固めてた元気っぷりだよ?
 中国方面では逆に停戦派だったが,これも戦前戦中で別に変わってない.
 人が違うからオッケーって言い訳はなんだったんだ?と.
 むしろ自分の息がかってる朝日の人材を,政府の要職に送り込んだり,競うように自分で要職についてただろう?,彼らは.
 緒方と村山が問題なしとか,突然すげ替えられたとか,無理ありすぎる.

 このように朝日を含め,戦後はその時の時流派がそのまんま各新聞社重鎮に居座ったまんまやったもんだから,その当時の貴重な資料はかなり隠匿されてしまっている.

漫画板,2017/09/08(金)
"2 Csatorna" Képregény BBS, 2017/09/08(péntek)

青文字:加筆改修部分



 【反論 kifogás】
 新聞社に戦争責任はあるのは否定しないし,積極的に荷担したモンもいたのも否定しないし,ろくでもないモンがいたのも否定しないが,当時も良識ある新聞社の人間はいたけど,赤紙がきてひどい目におうてる.
 因みに新聞社自体も戦前は1208社あったが,軍部から見て問題あるとされた新聞社は統廃合されて,55社しか戦後は残らんかった.
 情報局が紙の配給を握ってたし,検閲があったから出せんようになったのね.
 だから
「新聞社が全く抵抗しなかった,積極的に荷担した」
という部分だけを強調されると違和感がある.

 当時は教育も経済もどれも似たようなもんやったんやないかなあ.
 良識ある人間はみな赤紙がきて引っ張られ,戦時教育やら国家総動員やら国家神道やら,どこのジャンルでも戦争推進派ばっかりやったんやからさ.

 今の新聞社も当時の事を自己弁護したらあかんし,それどころか自己批判しなきゃならんのはその通りやろけどな.

 【再反論 Surrebuttal】
 誰も抵抗しなかったなんて言ってないが,
「少なくとも言いなりだったとか,当時の人間は戦後や戦前より前とは違う,なんてわけではないよ」
と突っ込まれてる話だよ.
 現社主もあのおっさんの長女だし,脈々とだよ.

 ちなみに,国会で日本の戦争法規違反者以外の人権復員を許可したのも,色々な派閥の人間がA級戦犯容疑者として公職追放されたりしてた絡みがある.
 日中戦争は色々な意見があったが,対米開戦は知米日本派や昭和天皇以外はむしろ開戦を望んでたせいで,GHQにこってり絞られたからね.
 お仲間だったんだよ.

漫画板,2017/09/08(金)
"2 Csatorna" Képregény BBS, 2017/09/08(péntek)

青文字:加筆改修部分


 【質問】
 「中国進出を煽った一部メディア,特に朝日の責任は大きいな」などと聞きますが,なんで他の新聞,読売新聞とかは名前を挙げられないのですか? 

 【回答】
 戦前の読売は今の産経か東京新聞みたいな存在で,影響力皆無だったのさ.
 ▼戦後,正力のオッサンが務台に野球と電波つー武器を与えて,初めて部数面での快進撃が始まった.
 で,昭和の読売人は猛烈な朝日コンプレックスで有名だったんだよ.

 それが今じゃ朝日である事が恥だもんなぁ.
 国会で「朝日かよ(笑)」とか野次られる始末.

軍事板

▼※ 猪野健治によれば,快進撃が始まったのは戦前のことだという.
 以下引用.

――――――
 正力〔松太郎〕が社長に就任した1924年(大正13年)当時,読売は発行部数わずか3万5千部の小新聞に過ぎなかった.
 正力は販売に全力を挙げ,瞬く間に朝日,東日(現毎日)を追い抜き,41年(昭和16年)には150万部の東京一の部数を誇る大新聞にのし上げた.
 正力が部数増の有力な武器としたのがイベントだった.

――――――『興行界の顔役』(猪野健治著,ちくま文庫,2004.9.10),p.498-499

 影響力はどうだったのか?については記述なく,不明.▲


 【質問】
 「○○グラフ」系の雑誌には,広告などは載っているのでしょうか?

クラレンス in mixi,2006年07月04日 18:05

 【回答】
 広告は一杯載ってますよー.
 こういう戦前の日本の広告類も面白いですね.

 取りあえず「同盟グラフ」誌上の広告から,お馴染みのブランドを幾つかアップしておきます.
faq06j04m.jpg
faq06j04k.jpg

よしぞう(maro') in mixi,2006年07月05日 04:23


 【質問】
 戦前日本のラジオ放送の状況は?

 【回答】

 さて,帝国のラジオ三大綱領は,報道,慰安,教養の3つとなっています.
 政府はこの三大綱領を使命として,各放送局が実践する事を主旨としました.
 とは言え,この三大綱領自体は明確な方針だったのですが,細部方針は統一されているものではありませんでした.
 これは各放送局に任され,その地の人情,風俗,文化などの事情によって編成方針は左右されていました.
 この為,各地の放送局はそれぞれの特色を発揮した訳です.

 しかし,きちんとこの三大綱領を実践出来たのは,東京,大阪,名古屋の各放送局だけあり,京城などの放送局の方針,体制,編成には東京放送局のそれが基準となっていました.
 但し,これら地方の放送局は,東京,大阪の中継プログラムを基礎に自局の聴取区域本位に編成する自由を有していました.

 つまり,主要放送局と地方放送局は,「全国を目標とする中継プログラム」と,各放送局の聴取者を目標とする「ローカルプログラム」の総合編集によって放送された訳です.
 ここで言う「全国」という表現は,日本国内だけでなく,朝鮮や台湾の様な植民地,そして,関東州や満洲と言った勢力圏内に至るまでの権網を意味します.
 これは「日本」ではなく,「大日本帝国」の電波網の事を言うのです.

 ところで,報道放送の分野については,飛躍的な発展が期待される分野でした.
 初期放送実験でも各新聞社が積極的に介入した理由は,報道放送の為でした.
 戦後,民放が許されると,新聞社が挙ってテレビやラジオ放送に参入したのも,それが理由です.
 これは,印刷媒体である新聞に比べると,電波に乗せる報道放送はその速度が格段に違う訳ですから,新聞に代る新たな媒体として将来的に有望だったりします.

 しかし,初期の放送では新聞社の記事をそのまま読み上げる形態でしたし,その原稿も検閲を通す必要があった為,現在のリアルタイム放送とは少し違っていました.
 ラジオは読まれたものが即,聴取者に届くので,新聞,雑誌,映画の検閲に比べて事後検閲が難しい部分がある為,演劇とかと同じく,事前検閲の対象になります.
 その為,出演者の名前,経歴を先ず放送局所在地の逓信局長に放送前日までに届けるのが義務となっています.

 報道放送では,ニュース,経済市況,産業ニュース,気象,布施(報時),公知事項及び告知事項,スポーツ,行事及び実況中継などに分類されていました.
 ニュースは全国ニュースと地方ニュースに区別されますが,各放送局はその地方新聞社や通信社からニュースソースの提供を受けて放送し,冒頭ではそのニュースの出処を明らかにしていました.

 東京放送局では,各地方から出たニュースを統合,編集して全国中継放送の役目を担当しました.
 これが全国ニュースと呼ばれるものであり,1930年10月1日から実施される様になります.
 ニュースの内容は,時事問題,政治,軍事,外交,経済及び社会方面で起こった事でした.

 それぞれの内容を細分化していくと,官庁ニュースは地方官庁で公示事項があった場合,それを東京放送局に投稿する事で各地方の新規施設,法令改廃,統計及び調査事項などを放送しました.
 時報は時間を知らせる放送として,現在も定時になれば放送されています.

 そして時報と同じく,日常生活に重要なものに気象通報があります.
 これは全国気象を概括する全国気象概況と地方気象予報,業業気象,山岳気象などがあります.
 暦放送も重要な報道の1つで,日の出及び日の入り時間,月が昇る時間,旧暦日付,満潮と干潮の時間,星座,二十四節季を報道します.

 市況放送は株式市場,綿花,米,砂糖,生糸などの重要商品の騰落を放送し,日用商品価格放送は主婦達を対象にした放送で,経済常識,日用品常識に関した事項,更には暴利や不正を犯した商人の情報,そして生活必需品の価格などを提供していました.

 最後に,危急信号放送(SOS)は海上で遭難に遭った船舶などに関する状況を知らせたり,救助活動が可能な他の船舶に情報を提供する放送です.

 慰安放送は,「マイクロフォン芸術」と称されるもので,音楽,演劇,芸能に細分され,新しい慰安放送の標準を作り上げました.
 マイクロフォン芸術を通じてラジオドラマ,落語,浪花節などの音声による娯楽ものを放送しました.
 また,それと同様に各放送局は音響効果に関して専門的な研究を独自に進めていました.

 教育放送は,ラジオを通じて国民教育をするという主旨で作られました.
 教育放送は,大別して学校式教育放送と言うラジオ学校と称する組織的,体系的,長期連続的な教育放送,もう1つが社会人として不断の教育と常識の涵養を目的にした社会教育的な放送に分けられます.

 これらの中で取り分け重要なのが講演でした.
 講演は一般社会人を対象とし常識と教養を提供する目的で,著名人が担当していました.
 例えば,国際講座として海外名士の講演,国務大臣講演,祝日記念講演,修養講座,趣味講座,運動講座,芸術講座,医学講座,科学講座,産業講座,時事問題講座,家庭講座,奥さん講座,家庭大学講座,外国語講座などがあります.

 この様に教育放送は専門家が中心になった番組で,各分野の専門家は,大衆の教化を狙いとした権力者側の人物が多く就いていました.
 これは当然,植民地でも同様であり,その傾向はより強くなっていったのです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/10/30 22:47
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 戦後日本の「自主検閲」の歴史を教えられたし.

 【回答】

 CFなんかでは,その商品を色々と印象づける為に,様々なキャッチコピーを付けるのですが,そのキャッチコピーそのものの表現に「問題」があった所為で,たった数本の電話で,結構な制作費を掛けて作ったCFがお蔵入りします.

 袋に詰め込まれて頭だけ出した所ジョージがのたうち回る,
三洋のコードレスホン(手足のない人を差別している),
小林稔持と安達祐実のコンビで,「ぐ・ぐ・ぐ・具が大きい」と言うコピーのハウスのカレー(吃音者を差別している),
二人羽織で送るアメリカンファミリーの介護年金(重度障碍者の動きを馬鹿にしている…今,ペヤングソース焼きそばはその二人羽織のCFをしているが),
週刊文春のラジオCMにあった「虎キチ」(キチガイは不可…なので,阪神ファンに差し替え),
ショッピングモールのCFでの海辺の西瓜割りで間違えて人の頭をポカリ(盲人を馬鹿にしている)….

 ホンマにアホか…ですな.
 こうした動きは西高東低で,関西のテレビ局は腫れ物に触るような扱いをします.

 後,「足切り」も足が不自由な人への差別に繋がるとして,使用禁止,「二段階選抜」へと言い換えられました.

 其の手の話で,小説の世界で有名なのが,1960年に読売新聞で長期連載された松本清張の『砂の器』です.
 つい最近もドラマ化されましたが,この小説は,本来,癩病患者を父親に持つ子供が,戸籍を偽造し過去を抹消した上で作曲家として成功,大臣の娘と結婚する矢先に過去を知る恩人と出会い,身元が発覚するのを恐れて殺人を犯す男の物語です.

 因みに,1960年の時点で,既に癩病は不治の病でなく,伝染性は極めて弱い事が判っていました.
 松本清張氏自身が,当時その事実を知っていて敢えてそうしたプロットを作ったのか,知りながらも確信が持てずに,従来の固定的な見方で小説のプロットを描いたのか,本人が逝去した今となっては判らないのですが….

 文庫化,単行本化される時には,患者団体の申し入れで,不十分ながら解説が付いたのですが,其の儘出版されました.

 これが映画化された時,患者団体の申し入れで話し合いの結果,映画本編のラストに字幕を入れる事で妥協しました.
 ただ,これでも不十分として,1977年にフジテレビがテレビドラマ化する時には,1975年以降の各団体の様々な申し入れがあった事に意を強くし,字幕の挿入を拒んでいます.
 結果的に,父親の設定は「支那事変で負傷して帰還後,精神異常を来し廃人同様となった人物」と変わってしまいます.
 テレビ朝日が1991年にドラマ化した際には,更に精神異常も問題があるということで,父親の設定は,「過去に殺人を犯した人物」に変えてしまいました.

 結局,『砂の器』のプロットで,主人公が何が何でも殺人を犯さざるを得ないと言う状況に追い込まれたと言う状況は,何とも安易な設定の変更によって,説得力のないものになってしまった訳です.
 今回のドラマを見ていませんが,多分同じ様なプロットになったのでしょうね.

 一方,今も執筆刊行が続く大河ヒロイックファンタジーである『グイン・サーガ』シリーズには,幻の1巻があります.
 1979年9月に刊行された第1巻『豹頭の仮面』初版本の第2話は,「癩伯爵の砦」という題名でした.
 この回の狂言回し役は,癩病に侵されたヴァーノン伯爵という人物で,彼は捕虜にしたパロ王国の双子姉弟に対して次の様な台詞を言わせています.

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 わしにとりついた業病は,空気に触れてひろまるので,わしは決して肌の一部さえも外気に触れさせない
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 この鎧の下は包帯をまきたてた膿だらけの身体~業病の為に生命ある腐肉の塊と化したこのからだに,抱きしめられ,口に口を重ねられるとしたら
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 この様な形で,患者団体が調べた所,20カ所にも及ぶ問題描写がありました.
 1982年3月,患者団体は早川書房と栗本薫氏に,お詫びと訂正文の謝罪を要求することになります.
 この記述其の物を残して,お詫びと訂正文を掲載するのか否かを,早川書房の今岡清氏(栗本薫の旦那),栗本薫氏と患者団体とが真摯に話し合った結果,1983年1月に,『豹頭の仮面』は全面改訂され,件の伯爵の称号は黒伯爵とし,設定は「黒死病に侵されたモンゴールの黒伯爵」となりました.
 黒死病自体は空気感染する代物ですし,感染力も非常に強く,かつ,脳を侵す病気である為,癩病の設定を其の儘,使う事が出来て,作品に不整合な部分は感じられません.
 この例の場合は,栗本氏も無知を認め,患者団体側も穏やか且つ冷静な話し合いが持たれたのです.

 筒井康隆氏と癲癇の患者団体との話し合いは結構こじれ,1993年に彼は「断筆宣言」を出して,世間に言論の自由に関する様々な話題を提供しました.
 彼の作品,『無人警察』が癲癇差別を助長しているとして,癲癇の患者団体が抗議を出し,それに対して,筒井氏が断筆宣言を出して沈黙したという事件です.
 この断筆は3年3ヶ月続きました.

 その間,様々な論議を呼びましたが,1995年に新潮社が筒井氏側にアプローチし,1996年12月の時点で,新潮社,文藝春秋社,角川書店が,筒井氏と覚書を結んで,彼は作家活動を再開させた訳です.
 この覚書の骨子は3点から成っています.
1. 出版社は従来通り,筒井氏の意に反した用語の改変は行わない.
2. 作品の用語に関して抗議があった場合,その対処権と責任は著述者(筒井氏)側にあり,出版社にも責任がある.
 その為,出版社が用語に関して抗議を受けた場合は,著述者と協議し,意思を十分尊重の上,対処する.
3. 筒井氏が抗議に対処する上で,文書の往復や直接討論が必要となった際には,出版社が責任を持って仲介し,その内容を発表する.

 つまり,この覚書では,出版社による勝手な問題の処理と自主規制を廃し,著述者にも責任を負うと言うのが目新しく,また,密室的な解決,吊し上げの解決は不可として,抗議者は,「当事者である個人又は団体」に限定し,公開の場で堂々と主張し合おうと言う事にしています.
 「当事者である個人又は団体」と言う部分は,即ち,支援団体や第三者の抗議は受けないと言う姿勢を明確にした訳です.
 何所の馬の骨とも判らない人間の電話数本で,語句を変えないと言う事ですね.

 筒井氏はその後,噂の真相とか中央公論とも交わしています.

 一方で,癲癇の患者団体である日本てんかん協会とも書簡の往復で交渉を行い,1994年11月に合意に漕ぎ着けました.
 その骨子は,以下の3点.
 1. 将来の作品で問題が有れば,協会は物理的な圧力を含まない公開の言論活動で「批判」する.
 2. その場合,要求は削除や書き直しではなく,「新たな表現による弁明」とし,結論は筒井氏の判断に任せる.
 3. 以上の事は,筒井氏だけでなく,全ての表現者に適用される.

 つまり,被差別団体側が編集者や作家を名指しで非難し,彼らを呼びつけた上で何時間も大勢で取り囲み,メディア,作家,発言者側が一方的に謝罪し,要求を受容れさせると言う,硬直した解決方法を明確に否定したのが画期的な合意になっています.

 この合意に一番反発したのが,こうした手法を得意としていた部落解放同盟の糾弾路線を支持する人々だったりします.
 そりゃ,自らの武器が封じられる事になったのですから,これに反発するのは当然だったり.

 しかし,今やこの手法も通じなくなってきた様な気がします.
 特に,被差別関係の団体には色々痛撃が相次いでいますし.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年10月24日21:54
青文字:加筆改修部分

 先日,本屋さんを徘徊していると,『世界屠畜紀行』と言う本を見かけました.
 要は,世界の様々な国の屠畜場を回って,その実情をルポした本です.

 「屠畜」なんて言葉は,一昔前は出版業界では絶対的にタブーでした.
 それから考えると,今は時代が動いて居るんだなぁと言う感がありますね.

 1989年にTBSのニュース23で,筑紫哲也氏がビートたけし氏との対談で,うっかり,
「ニューヨークの街は麻薬の値段をつり上げたら屠殺場になる」
と言ってしまい,それから1年間,筑紫氏も含め,TBSは「糾弾」に晒される事になります.
 結局,1990年11月にTBSは関係団体にお詫び文書を提出し,筑紫氏も関係者にお詫びして1年掛けてやっとTBS糾弾は止みました.

 この「問題」を受け,1990年代に,全芝浦屠場労組は,文庫本を中心に大衆的な図書の一斉点検を始めました.
 その結果,1991年春までに,新潮社など11社の14件を「摘発」し,早川書房を除く,10社の担当者と,東京都,横浜市の行政も参加して,「集団確認会」を開催しました.
 その後,各社と個別に交渉した屠場労組は,1993年3月に100人以上に及ぶ労組員を動員して糾弾会を招集します.
 これには更に1992年に事件を起こした文藝春秋社も含め11社が参加しますが,これまた早川書房は参加しませんでした.

 何が問題になったかというと,「屠場」「屠殺場」「屠所の羊」と言う様な表現を使う事が上げられています.
 屡々,これらの表現は比喩とか差別に使われる事で,当事者が過敏になった訳ですが,普通名詞や固有名詞で「屠殺場」を使っただけで糾弾されたり,「屠所の羊」でも糾弾されると言う,過激な話もあります.
 元々,「屠所の羊」と言う言葉は,差別を意味するものではなく,『大乗本生心地観経』と言う仏経典から出た古い仏教用語で,平治物語にも使われている様なものです.
 明らかにこれは行き過ぎ….

 例えば,1984年に新潮社が文庫化した灰谷健次郎の名作である『兎の目』.
 これは,「おさなきゴリラ」の章で,野犬狩にあった愛犬を知恵を使って取り戻そうとする鉄ツンたち子供達の描写が出て来るが,此処に
「キチと一緒にと殺場行きじゃ」
と言う表現があり,これが
「屠場は怖いと言う差別意識を利用したもの」
と糾弾され,新潮社はあっさりこの部分をカットしてしまいました.
 因みに,この『兎の目』には他にもゴミ屋,バタ屋,クズ屋,犬とり,肉屋のオッサン,ちえおくれなどの部分もありますが,削除は此処だけです.

 1982年に新潮社が文庫化した,クライブ・カッスラーの『マンハッタン特急を探せ』.
 実は,初版本を私は持っているのですが,初版には英国秘密諜報部の元機関員に,カナダのテロリストが襲いかかるシーンに,
「その顔は,肉牛に近づく屠殺者の様に無表情だった」
と言う記述がありました.
 これが
「冷酷な殺人者の例えとして描かれている」
とされ,以後の版では文章差し替えとなっています.

 1987年の山口洋子氏の『夜の底に生きる』,1988年の加賀乙彦氏の『湿原』,1990年の景山民夫氏の『虎口からの脱出』では,新潮社は変更を拒否したまま,今でも発行を続けています.
 何れも屠所とか屠畜人の記述,屠場の描写に問題有りとされましたが….

 1992年のネルソン・デミル氏の『誓約』は文春文庫ですが,
「屠殺場を戦場の比喩として扱っている」
として,初版を回収,記述を訂正しました.

 名著,レイモンド・チャンドラーの『ながのお別れ』も槍玉に挙がりました.
 フィリップ・マーローをロス市警殺人課のグレゴリウス課長が殴りつけた後の言葉.
「昔は手荒な事をしたが,もう年齢を取った.
 これ以上は殴らん.
 市の留置所には屠殺場で働く方が良い様な連中がうようよしている」

 この「屠殺場で働く」と言うのが差別表現だとした訳ですが,早川書房側は,
「グレゴリウスという登場人物が主人公を脅しつける為に吐いた台詞であって,客観的な事実としての叙述でも,作者の思想でもない」
と反論しました.
 但し,「屠殺場」の元の言葉は"Stockyard"で有る為,1991年5月再版分から「屠殺場」を「ストックヤード」に変更しています.

 この早川書房は,こうした圧力に対し,事勿れで即座に訂正する姿勢ではなく,あくまで公開の場に於ての話し合いを求め,しかも,
「話し合いは1回限り,時間は2~3時間とする.
 出席者は双方10名以内で,弁護士が同席する」
と言う条件を屠畜労組側に提示しました.
 結果的に,吊し上げをしたい屠畜労組側には受容れられず,それを理由に早川書房はこうした会合への出席を行っていません.

 因みに,早川書房は,K.ウォルフレンが書いた『日本/権力構造の謎』でも部落解放同盟に糾弾されましたが,その圧力に屈せず,結局公開討論会を開催させています.
 そう言う意味では,糾弾をする圧力団体に対する新しい動きになっています.

 こうした屠殺組合による吊し上げの源流は,1982年に俳優座の公演で,ブレヒトが書いた演劇『屠殺場の聖ヨハンナ』を彼らが差別演劇と糾弾した事から始まっています.
 この動きが余りに厳しかったので,各出版社が「屠殺場」を中心にした作品や記事を敬遠し,更に彼らの要求に屈して,字句の修正を余儀なくされた訳です.

 早川の動きと共に,段々と新しい動きも出ています.
 2000年度に新潮新人賞を受賞した佐川光晴氏の作品『生活の設計』では,主人公が出版社の編集者という職をなげうって屠畜場に就職した話を,日常的な饒舌体で書いているものです.
 しかし,これは新潮社としても未だ及び腰で,初出時の巻末にわざわざ
「作者の意図を尊重して表現は原稿通りとしました」
と書いています.
 主人公其の物が屠殺場の作業員なので,これを別の語に置換えると,その作品が死んでしまいます.

 因みに,「屠殺」「屠場」と言う言葉の言い換え(最近は「屠」を「と」に置換える様な動き)について,佐川光晴氏はこう述べています.

[quote]
 それらの書き換えがいずれも完全に無意味であるのは,その「と」が「屠」であることが前提として共有されていない限り全く意味が通じないからだし,音として口にする場合,「と」は「屠」の意識を持って発音せざるを得ないからだ.
 更に「とさつば」「とじょう」「とちくじょう」の中で最も一般的に通用するのが「とさつば」なのは確かであって,「とじょう」と言って通じなければ,「とさつば」と言い直すしかないのである.
 その他にも,「食肉処理場」といった書き方が新聞でされていた事があったのだが,これは「売買春」を「援助交際」と言いくるめる程ではないにしろ,やはり肝心な行為自体を隠蔽する反動的な言い換えに過ぎず,それならば「性交」を「エッチ」に,「離婚」を「バツイチ」にと言った方が何処かその言葉の持つ過剰な重みから身をかわそうとするユーモアが感じられる分だけマシなのではないかと思われるものの,だからといって「解体業」と言う誤魔化しを使う訳にもゆかず,わたしは仕方なく「屠殺,屠殺」と言い続けてきた訳だ.
[/quote]

 …最近の報道の方が余程糾弾すべきではないかな,と思うのは私だけですかね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年10月25日22:05


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