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<◆太平洋・インド洋方面 目次
<第二次世界大戦FAQ


(画像掲示板より引用)


 【質問】
 戦後直後,米海軍の代行をさせられた日本の気象台の活動の内実は?

 【回答】
 米軍の気象観測網は,戦時中に太平洋と大西洋に20隻以上の定点観測船を置き,全世界の気象情報を把握すると共に,暴風による兵力の損失,気象を利用した作戦の立案に活用されていました.
 戦後,米空軍が独立すると,その機能は空軍に引き継がれ,1946年末,米空軍の在日気象隊は中央気象台に対し,日本近海での定点観測計画の案提出を求めました.
 日本近海の定点観測を,日本の気象台に代行させようとした訳です.

 中央気象台からの定点観測計画案は,1947年1月10日に提出され,19日にはそれに使用する観測船として,米海軍の管理下にあった海軍艦艇の中から13隻の借用をGHQに申請しています.
 7月22日,中央気象台はGHQから,その計画の承認を受けると共に,新南,生名,竹生,鵜来の4隻を貸与すると認められました.

 この計画の承認は,即時実施とされ,4隻の海防艦を利用する前に気象台の凌風丸(太平洋戦争では海軍に徴用され,海軍の海洋観測に用いられたが,末期にはシンガポールとマニラ往復の特攻輸送船団に編入され,高雄で潜水艦に狙われるも辛くも逃げ切り,東京大空襲では焼夷弾を被弾したり,硫黄島のP-51の機銃掃射も受けたが,辛くも生き延びた)を使用せよとされ,航空路保安上から北緯39度,東経153度の北方定点の観測が優先されました.
 この辺,ソ連との冷戦の絡みもあったかも知れません.

 その後,急激な物価上昇によって,燃料その他の宛行が不可能となり,一時は頓挫しかけましたが,GHQの再要請に伴い,政府としても行わざるを得なくなり,予備金を支出して夫れに充てています.
 因みに,米空軍としては,気象観測のみ成らず,ラジオビーコンの発信業務も考えていた様です.

 兎にも角にも,1947年10月16日,凌風丸が東京港を出港しました.
 他の海防艦の整備も進められましたが,横須賀の長浦港に係留されていたそれらの艦は,錆だらけで係留されており,鵜来はカムシャフト故障,生名はシリンダー漏洩により,相当な整備が必要となっていました.
 また,海防艦は無線機の出力が150wと小さく,昼間に北方定点から通信しても,銚子の通信所まで電波が届く保証がありませんでした.
 しかし,米空軍第2143気象隊からは,「無線の出力不足で昼間送達が不可能ならば,夜間送達しても良い.高層観測が不可能ならば海上気象観測だけでも良い.何れしても海防艦1隻を,11月1日までに出航させよ」と言う命令が出されていました.

 取り敢ず,これらの艦の中で未だマシな新南に,気象観測室を増設するなどの改造を行い,11月1日に新南丸として,長浦港を出港させています.
 以後,各艦も順次観測施設が装備され,北方定点に送り込まれました.
 とは言え,物資不足の世の中,塩検瓶は進駐軍が飲み干したビール瓶をかき集めて木箱に入れたものを流用した為,海水を満たすと重くて,食糧の十分でない身体には応えたらしいです.

 ラジオビーコンは1948年8月6日から北方定点での発射を開始しています.
 その年の8月30日には初めて南方定点として,北緯29度,東経135度に竹生丸が派遣され,台風観測に当っています.
 これとは別に,1947年から中央気象台は,八丈島と父島の間にある鳥島での気象観測を再開しています.
 南方定点は,付近に島が無く,また航路帯からも外れていた為に,気象の空白地帯でもありました.
 しかし,此の付近は台風が日本に上陸する際の通り道に当り,此処への定点観測船派遣は,重要な任務でした.

 これら定点観測船の任務は,以下のようなものです.
 1. 海上気象観測…毎時間,無線による通報は3時間毎.
 2. ラジオゾンデ観測…グリニッジ標準時で0時,12時の2回,通報は観測毎.
 3. 測風気球観測…0,6,12,18時の各4回,通報は観測毎.
 4. 海洋観測…往航に約10点,定点では1日おき.
 5. 通信作業…船舶通信,気象通報,気象無線放送の受信
 6. 予報作業…船体の保安及び船体の定点位置修正に必要な作業.
 7. ビーコン業務…毎15分毎に5分づつ電波発射
とまぁ,盛り沢山なのですが,鵜来型海防艦を用いたことで,格別の苦労を強いられることになりました.

 先ず,武器弾薬や戦闘員を多数積み込むことを前提とした設計なので,武器弾薬を撤去すると吃水が上がり,安定度が悪くローリングが激しい事が挙げられています.
 これはバラストを積めば良いと言う話ではなく,バラストを搭載しても,安定性がよいのはまっすぐ進む時だけだったそうです.
 次いで,艦本式ディーゼル機関の出力は2,400馬力と充分だったものの,1,000トン足らずの船に此の馬力は大きすぎ,行き帰りの速度は速いものの(凌風丸が交代船だと交代までに時間が掛かったりしますが),定点では音が五月蠅かった.
 三点目,戦時急造型であるので,部屋は大部屋化,簡素化されており,長時間の生活には不向きであった.
 四点目,船に暖房設備が無いので,冬場の北方定点では凍えながらの作業だった.
 最後に,外板は簡易化,量産化の為,7mmの鋼板が用いられるなど,船の材質が良くなく,施工工事も適当であったことから,定点観測を続けることで,腐食,湾曲,歪みや劣化が目立つ様になり,一航海が済んでドック入りすると,船底から水が滝のように噴出した(船底に穴の空いた船で航海を続けていた)と言う話もあったりする.

 1953年秋にこの北方定点観測の廃止が決まったのですが,この頃になると,報告書には,「これらの船を本業務の如き長期の激越なる航海を繰り返す仕事に就航させることは,非常なる不安を感ずる段階に来ている」と書かれる程になっていました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/08/30 21:57

 台風に飛び込むと言うのは勇気の要る話で,ある意味,戦争に行くのと同じくらいの覚悟が迫られました.

 1944年10月1日,南方哨戒と気象観測の要務を帯びて横須賀を出航した海軍水路局の海洋観測船,第四海洋丸は,6日にサイパン島の東海上に発生し北上した台風に巻き込まれました.
 そして,22時30分から25分間,北緯24度50分,東経135度19分で台風の目に入り,898hPaを観測しています.
 当時,台風は900hPa以下に発達することはないとされていましたが,僅か200トンの船による,この決死の観測で,台風は900hPa以下に発達することが確認されました.
 因みに,この第四海洋丸,船体の一部破損,流出,無線通信機使用不能などの被害を被りましたが,何とかこの貴重な資料を持ち帰っています.

 同様に米軍ではB29を気象観測機に仕立て上げて,台風に突っ込ませる任務に就かせました.
 私事ですが,うちの親戚の1人が,このパイロットと結婚して米国に渡っています.
 因みにこのパイロットの旦那は,朝鮮戦争で半島の気象観測に向かい,撃墜され行方不明(戦死)しています.

 1948年8月30日,GHQから南方定点観測の命令が下ります.

 9月17日のアイオン台風上陸の日に,南方定点観測船第1船として,竹生丸が東京を出港し,アイオン台風が通過した直後の南方定点海域で観測を開始しました.

 10月1日には早くもリビィ台風が定点の南方海上を西進,沖縄付近でUターンして6日には定点の北方海上を北東進すると言う台風の洗礼を受けています.
 竹生丸は,中央気象台予報課から送られてきた台風指示報の台風位置に比べ,うねりや波が異常に高いこと,入電したアメリカの台風観測機からの実測値から見て,台風が観測点の極近くまで来ているとして,船長と観測長が危険と判断し,一旦,鹿児島港に避難しました.
 もう一つ,生鮮野菜が暑さの為に腐ってしまったので,この補給,更に高層気象観測の為の水素の補給も兼ねていました.
 北方定点観測の鵜来丸も同時に避難したのですが,これらの行為が問題となりました.

 東京港に観測船が戻ると,観測長が米軍に呼び出され,許可無く定点を離れた事に対して厳重注意を受け,以後,定点観測船は米軍の許可無くして定点を離れてはならないと言う命令が出されました.
 因みに,この命令は国際法違反の命令.
 とは言え,敗戦国の悲しさ,こんな命令でもハイハイと受けなければ成らなかった訳です.

 此の命令の為,避難許可が出た時は台風が過ぎ去った後と言う事も多く,船長は逃げるに逃げられない状況下で,台風の進路を考えながら高度な操船技術で自己防衛をしながら,観測を続ける事を余儀なくされます.
 10月9日には第2船として凌風丸が観測点に向かい,11月4日まで観測を行ってこの年の観測を終了しました.

 因みに竹生丸は,10月20日に北方定点で観測をしていますが,28日に濃霧の中で10kts/h以上の速度を出してきた米国の7,000トンの貨物船に追突されました.
 衝突場所が舳先だったから良かったものの,中央部だったら60数名の乗員諸共あの世行きとなるところでした.
 取り敢ず自力航行は可能でしたが,東京港に向かう間,前部居住区の乗員達は損傷部から入る海水を一所懸命くみ出し続けていたそうです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/08/31 21:46

そして今日の気象台
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 GHQ指令による,地図作成関連作業について教えられたし.

 【回答】
 さて,1946年1月10日,GHQからSCAPIN,No.575と言う日本政府宛の命令が出されました.
 この命令の正式名称は,「日本測地基準点標石調査及復旧に関する件」として,大凡次の内容でした.
1. 九州,四国,本州,北海道に於ける測地基準点の調査及びそれらの標石が亡失,破損の場合は復旧せよ.
2. これらの基準点を調査した後は,それを日本語で明細カードにせよ.
3. 完成期日は名古屋と関東圏は3月末まで,他地区は1948年末まで.
4. この作業の監督部門はGHQ技術部とする.

 測地水準点とは,精密水準測量により設置された水準点の全部,及び三等以上の精度を有する三角点の全部の事を指します.
 その数,全国に三角点38,468箇所,水準点9,581箇所ありました.

 現在,国土地理院の国家基準点は,全国約13万箇所に達する「三角点・水準点」がありますが,これはその分精密な国土測定や地図作りが為されてきたことを表わします.

 日本経緯度原点は,1892年に設置されたもので,東京都港区麻布台2-2-1,国土交通省狸穴分室構内にあり,経度139度44分28秒8759,緯度北緯35度39分29秒1572,方位角30度20分44秒756と刻まれた石碑が設置されています.
 因みに,2001年に世界測地系を採用した事で,全体的に経緯度がずれることになりました.
 この影響で,地球33番地とされた四国高知市の東経133度33分33秒,北緯33度33分33秒の地点が300mほど南東にずれたりしています.

 一等三角点の第一点は皇居富士見櫓,三角測量の基線は本所相生町通り(現在の墨田区両国2丁目,回向院の辺り)で,三角点は見通しの良い山頂を中心に約1.5km間隔で設置され,現在全国に約10万点設置されています.

 日本水準原点は東京都千代田区永田町1-1,憲政記念館構内にあり,水準点は全国の主な国道や主要地方道に沿って約2km間隔で設置されており,現在約22,000点が設置されています.

 現在はGPSを利用した電子基準点の時代となり,その数は2006年3月末現在で1,231箇所に達しています.

 余談はさておき,その標石調査開始に当っては,1946年5月24日,GHQから「測地基準点の空中写真上刺針の件」と言う命令が出されました.
 要は,「GHQから航空写真を送付するから,現在調査している測量基準点を,空中写真上に表示せよ」と言うものでした.
 この結果,1946~50年に掛けて,35,127点の刺針(プリッキング)作業が行われました.
 航空写真は日本国土の沿岸部のみ成らず,内陸部は南北に細長く,6~5マイル間隔で約4万分の1の写真上に刺針していくと言う作業でした.

 元々,陸軍陸地測量部はドイツ式の測量方法を採用していましたが,こうした作業により,資料の蒐集,整理方式,空中写真の徹底した利用や地図作製方法に,米国式が採り入れられるようになっていきました.

 この指令以後,GHQは
「日本本土の大縮尺測図用資料調査の件」
「日本本土の鉄道及び高圧線調査の件」
など,次々に日本政府に指令を飛ばしていきます.

 これを実行したのは,件の地理調査所でした.
 地理調査所では現地調査作業に対処する為,新規雇用や復員社を含めて100名程度増員し,事務方は野外労働に堪える為の食糧として米や味噌,炊事用薪炭,作業用地下足袋,夜間作業用蝋燭など物資不足の中,その調達に奔走しました.
 1948年後半からは,GHQも作業効率向上の為,ジープ4台,上陸用舟艇3隻の貸与と燃料などの現物補給を行い,作業関係者が連合軍専用列車に乗って自由移動出来るよう,パスを発行するなど便宜を図っていました.
 因みに,この作業結果は日本政府にも使用を許されていた為,戦後復興に非常に役に立ったと言います.

 こうした作業が増えた結果,1948年7月に内務省から建設省に移管された時には,人員549名の大所帯となりました.
 GHQの作業も,
「地図複製に関する件」
「南洋諸島測量」
「全国地名調査と地図資料調査に関する件」
「天然資源局の土地利用作製作業」
「日本本土大梯尺測図様地図資料調査に関する件」
「東京横浜地区半厳密集成図作製に関する件」
などの指令が発せられていきましたが,1950年にGHQから指令は終了しました.

 地理調査所だけでなく,民間の地図作製会社にも,GHQは特注と言う名の地図作製命令を発しています.
 と言っても当時,民間の地図作製会社は日本地図株式会社のみだったのですが….

 1つは,1946年1月に特注されたTOKYO CITY MAPです.
 これは戦前,地形社と言う会社の植野録男氏が作製した大東京区分図(35区)の英文翻訳版で,主要地名のみは日本語の儘,町名,主要建物,駅名をローマ字に直して促成した物でした.
 この地図の欄外には,次の文言が印刷されていました.
「聯合軍以外ノ使用ヲ禁ズ」
 つまりGHQ特注品で,一般販売は行われませんでした.

 その後,日本地図株式会社はこの版を使って,一般向けに東京都区分詳細図を発行しましたが,戦前のものだけに,華族の邸宅が克明に表記されていたりします.

 もう1つ,5月3日までに納品せよと言われた地図がありました.
 これは,極東軍事裁判の開廷日に間に合わせる為で,横3.2m,縦2.5mの大きな壁掛け用の日本とその周辺を描いた地図であり,上下には丈夫な木製の軸が取付けられています.
 納品されてから,この地図は法廷の壁に掛けられ,様々な写真に載ることになりました.

 こうした物言わぬ証人も,日本人の手で製作されていた訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/08/12 22:34


 【質問】
 終戦直後,占領軍が羽田空港周辺の住民に対して,48時間以内の退去を命じたことがあったそうですが,これって国際法的には合法なんでしょうか?

 【回答】
 とりあえず,戦時中,防火帯建設のために,まともに建っている家に対し,3日以内の退去を命じ,それに従って無くとも期限が来たら,強制的に家を潰すと言うことが出来ています.
 戦時中の関連法規を廃止した訳ではなく(ましてや戦後直ぐの時は),多分,国内法で対処可能となるでしょう.
 別に国際法上,どうとかと言う話ではないと思いますよ.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2006/04/25(火)
Álmos ember ◆gQikaJHtf2 :"2 csatornás" katonai BBS, 2006/04/25 (kedd)

青文字:加筆改修部分
Kék karaktert: retusált vagy átalakított rész


 【質問】
 小笠原諸島を巡る,第二次大戦中の米国側の構想について教えられたし.

 【回答】
 先日のG8で,麻生首相がロシアのメドベージェフ大統領に,北方領土の話で歯牙にも掛けられなかった話題が報道されていました.
 北方領土は日本の固有領土で不正に占領されているのだから,返せと言う動きをしたのがどうも先方のお気に召さなかったようです.

 実は南の方でも,長らく占領が行われていました.
 1946年7月11日付,米国の統合参謀本部が,国務・陸軍・海軍三省調整委員会に出した覚書にはこうあります.

――――――
 現在,米国は太平洋地域に戦略的支配体制を布いている.それは莫大な犠牲を払ってこの地域を制圧したという正当な理由に基づくものである.
 この支配を放棄する,弱める,もしくは危険に晒すことは,米国の安全保障を犠牲にすることを意味する.
――――――

 取り敢ず1970年にはこれらの地は帰ってきたのですが,下手をすればこれまた同じ様に南方領土問題と言うものになりかねなかったりします.

 1939年9月,第二次世界大戦が勃発した後の1939年末,ハル国務長官は戦後世界の平和及び再建問題を研究する機構を設立し,領土や経済,軍事,政治に関わる諸問題を分析させることを許可します.
 日本が対米戦をするやらしないやらで揉めていた1940年1月,既に米国はこの大戦の戦後世界を構築する為に,動いていた訳です.
 こうして出来たのがAdvisory Committee on Problems of Foreign Relations(外交関係諮問委員会)と言う研究機構で,3つの小委員会から構成されていました.
 但し,未だ本格的に活動するには予算や人員が不足していた為,概して鈍い活動しか出来ませんでした.

 これが本格的に活動を開始したのは,太平洋戦争が勃発してからで,真珠湾攻撃から3週間後,ルーズヴェルト大統領が,大統領と政府全体の諮問委員会として,Advisory Committee on Postwar Foreign Policy(戦後対外政策諮問委員会)の設立に同意してからです.
 1942年2月12日に発足したこの委員会のメンバーには,こうした委員会の性格から,国務省のみならずCouncil on Foreign Relations(外交問題評議会),軍部や非政府機関からも出されています.
 その頃,真珠湾の次に何をしようなんて考えていた日本とは大違いです.

 その下部には色々な委員会が設けられていますが,その中の一つがTerritorial Subcommittee(領土小委員会,略称TS)で,委員長には外交問題評議会のメンバーで当時ジョン・ホプキンス大学学長のボーマンが選任されました.
 この中で領土小委員会は,「領土」と言う言葉の定義を次の2つに解釈しました.
 1つは,「人々が住む土地」と言う解釈で,個々の文脈では国境は無視出来ないとしていました.
 もう1つの解釈は,「領土」がある国家や地域で歴史的に形成されてきた経済,社会,政治状況を意味するというものです.
 小委員会では,国内及び国家間の平和,安定の必要条件について注目した訳です.

 日本の領土処理に関する検討は,この小委員会の管轄事項とされました.
 しかし,Security Subcommittee(安全保障小委員会)やウェルズ国務次官を長とするPolitical Subcommittee(政治小委員会)も,この小委員会の検討結果に関心を寄せました.
 因みに,政治小委員会は,日本が「暴力によって」獲得した領土を確定する作業を進める上で,日本の領土拡張の歴史を検討しています.
 その結果,小笠原諸島は,日本の主権下に残すべきであるとの結論に傾きますが,これは安全保障小委員会が戦略的理由から小笠原を日本の主権下に残すべきではないと言う議論が提示されないと言う保留付でのものでした.

 その安全保障小委員会での議論は,1942年8月21日に取上げられています.
 メンバーで日本語を解するストロング少将は,グアムに近接している小笠原諸島とマリアナ諸島の帰属は,日本の主権に置くべきではなく,日本の暴力に対する「交番」として位置づけるのが良いと主張しました.
 一方,委員長でロンドン,ジュネーブ軍縮会議の米国側全権を勤めたデーヴィスは,小笠原が非武装化され,平和条約が日本の再軍備の禁止と適切な査察を義務づけるならば,小笠原を日本から切り離すメリットは内のではないか,と反駁します.
 メンバーの中では,小笠原の帰属よりも,日本の武装放棄をどうするかが問題であると,デーヴィスの方に賛同する者もいました.

 因みに,極東問題特別顧問で,親中・反日派として知られるホーンベックでさえ,太平洋地域に平和と安定を齎す為には,日本から必要以上に領土や経済的機会を奪わない事が重要であるとの見解を述べています.
 日本から過剰に領土や漁業権を取上げると,日本はそれを口実に再び戦争を起こすに違いないと言う論旨です.
 これも一定の支持を得ており,安全保障小委員会での結論を出すことは出来ず,Joint Chiefs of Staff(統合参謀本部;略称JCS)の見解を問うことにしました.

 リーヒ統合参謀本部議長は,9月15日付で回答が寄せられ,18日の委員会で回覧に供されました.
 それにはこうありました.

――――――
 太平洋及び西太平洋地域の海上及び航空ルートを,日本に支配させないことが不可欠である.
 言い換えれば,米国がそのルートを支配しなければならない.
 これは即ち,北緯30度以南の全ての島を日本から取上げる必要を示すものである.
 小笠原諸島やマリアナ諸島はその中に含まれる.
 (中略)
 統合参謀本部は,戦後世界情勢が定まるまでは,日本の領有する太平洋諸島の内海軍,空軍基地に適した島の処遇について如何なる約束もすべきではないと考える.
――――――

 この見解は,安全保障小委員会の勧告に反映され,22日に政治小委員会に回付されます.
 そして,10月1日,政治小委員会は,戦略的に重要な地域はInternational control(国際管理)の下に置かれるべきであるとの暫定的結論を纏めましたが,この時点ではInternational controlが何を指すのか,明らかではありませんでした.

 一方の領土小委員会の動きはと言えば,1943年春までは欧州問題が中心で,5月25日に漸く小笠原諸島に関する研究を終えています.
 「T-323:南方諸島(小笠原諸島と他の島々),日本」と題した6頁の報告書では,戦後日本の領土を確定する際には,南方諸島の一部又は全てを日本本土から切り離す可能性を考慮に入れることになろうとしています.

 日本が南方諸島で玉砕を繰り広げている頃,米国はこうした考えを持っていた訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/07/12 19:00

 1943年の時点で,既に米国は戦後処理を見越し,日本をどの様に占領,統治していくかのグランドデザインを描いていました.
 その結果纏められたT-323文書では,南方諸島を,日本の行政区の一部を構成しており,歴史的にも人種的にも大日本帝国に帰属していると認めていました.
 しかし,一方で安全保障上の懸念点も無視出来ないとして,南方の諸島に関しては4つの案を示しています.

――――――
1. Retention by Japan(日本の主権下に残す)
 この方法は,南方諸島が歴史的に日本領土であり,南方諸島が日本本土との間に文化的,行政的,経済的紐帯を有していることを認めようとするものである.
 南方諸島の南部にある委任統治領を日本から切り離すと共に,日本を武装解除し,日本周辺の島々を非武装化するならば,南方諸島が周辺諸国の安全保障にとって脅威となることはない.
 太平洋地域全体を包含する安全保障体制が構築されれば,尚更南方諸島を日本の主権下に残しても問題はない.

2. Partial Retention by Japan(部分的に日本の主権下に残す)
 安全保障上の要請に基づき,父島やその他海空軍の使用に適した島を日本から切り離すが,残りの島々は日本の主権下に維持する.
 日本から切り離された島は,North Pacific Council(仮称北太平洋委員会)若しくはこの地域の委任統治領を管轄する目的で設立されるその他の国際機関の管轄下に置かれることになろう.
 実際の統治は,太平洋地域の他の戦略的要衝を管轄する為の枠組みに倣って行われるであろう.
 国際管理の下に置かれる島と日本との経済関係を継続する為の取り決めが作られることになろう.

3. Detachment of Ogasawara and Kazan Islands and Marcus Island(小笠原群島,火山列島,南鳥島切り離し)
 安全保障上の要請に基づき,北緯30度以南の全ての島を全て日本から切り離す.
 これが実施されれば,小笠原群島,火山列島,南鳥島は日本から切り離されることになるが,孀婦岩(北緯29度49分)以外の伊豆諸島全域は日本政府の領有と成る.
 この方法では,切り離される島の処遇が問題と成る.
 North Pacific Council(仮称北太平洋委員会)若しくはその他の国際機関が設立されれば,その管轄下に置かれることになろう.
 太平洋地域の他の戦略的要衝と同じ方式で統治が行われる事になろう.
 国際管理の主たる目的は,日本がこれらの島々を軍事目的で使用するのを阻止することにあるのだから,統治は監視する程度に限定されるであろう.
 従って,統治の実子に際して日本人の島民を利用する事も可能である.
 また,日本本土と切り離される諸島との経済関係を継続する取り決めも作られることになろう.

4. Conditional Relation by Japan(日本の条件付領有継続を認める)
 南方諸島を日本の主権下に残すのであれば,この諸島の全ての軍事施設,防護設備を解体し,正当な商業用必要な施設の軍事転用を防ぐ為に,適当な期間,定期的に国際機関による査察を行う体制を作ることになろう.
――――――

 以上4つの案を作成したのは,スタンフォード大学教授で,政治学,国際政治学を専門とするマスランドです.
 彼は,1943年からDivision of Special Research(特別調査部)のFar East Unit(極東班)に参加していましたが,この文書では勧告までには至らず,複数の選択肢を示すに留めました.

 1943年夏までにはそれまでの議論がより具体的な政策的提言の基礎と成る様な文書として纏められ,このまとめを以て第2委員会は解散し,新たにPost-War Programs Council(戦後計画委員会/略称:PWC)が設置されます.
 このPWCには,State,War,Navy Coordinating Committee(国務・陸海軍省三省調整委員会/略称:SWNCC)が発足する1944年11月までの間に,66回もの会議を開催しています.
 PWCのメンバーは,国務省幹部が名を連ね,議長にはハル国務長官自身が就任しました.
 つまり,PWCが打ちだした勧告は,そのまま国務省の政策となり,軍部との調整を必要としない限り,大統領の承認が得られれば,それは米国政府の政策となりました.

 その背骨になったのが,Country and Area Committees(国と地域の小委員会/略称:CAC)で,その1つで極東地域を担当したのが,1943年10月に発足したInter-Divisional Area Committee on the Far East(部局間極東地域委員会/略称:IDACFE)です.
 小笠原を含む南部島嶼地域はこの委員会で詳細に検討され,具体的な極東政策として反映されていきました.
 IDACFEの議長は,特別調査部の極東班でも班長を務めた極東史かつ極東国際関係の権威であるブレイクスリー博士でした.
 書記はコロンビア大学の日本専門家で,1930年代に日本で宣教師活動をした経験もあるボートンでした.

 さて,小笠原が取上げられたのは,1944年10月6日で,奇しくもニミッツとキングが硫黄島侵攻作戦を決定した週でした.
 CAC-304と題された草案では,以前の結論と同様に,民族的,文化的,経済的,行政的に日本本土に属している事から,この地域は日本が領有する権利を有していることを認めていました.
 また,この地域が武装解除され,太平洋の委任統治領と台湾が日本から切り離されるならば,日本が国際社会にとって脅威に成ることはないであろうとも論じました.
 但し,小笠原諸島の戦略的価値が大きく変化し,その戦略的位置や海空軍基地としての安定性が極めて重要であると指摘している事も指摘しています.
 その上で,同諸島に設置される基地の少なくとも1つは,太平洋地域の全般的安全保障体制の一環として,国連に提供することが望ましいとしました.
 基地の管轄については,国際組織の直接の管理下に置くか,或いは,基地をある1国,例えば米国に委任又は貸与し,その国が国際組織の監督の下で基地を管轄する方法が考えられており,国連に加盟する他の国もこの基地の使用は認められるとしています.

 ブレイクスリーは,他の諸国も同諸島の海空軍基地を使用する事が出来ると言う条件で,同諸島の1つ又は複数の島に対する主権を米国に移管することが可能であると考えていました.

 とは言え,ブレイクスリーは幾つかの理由から米国が小笠原諸島に対する主権を獲得することに対する反対意見があることに注意を喚起していました.
 第1は,その主権獲得が,領土不拡大原則を掲げた大西洋憲章や1943年のカイロ宣言に反する恐れがあることであり,
第2は同諸島に対して信託統治制度を適用することは,敵国が「強奪」した領土の独立を支援すると言う,本来の信託統治制度の原則を損ねる可能性があること,
第3に,米国は主権を獲得することによって相当の代償を支払わねばならないのではないかと考えられた事でした.
 つまり,日本固有の領土という認識がある小笠原諸島を領有する事は,南太平洋地域に対する覇権を追求する豪州やニュージーランドのナショナリズムを呼び起こす可能性が懸念された訳です.
 そして,最後は日本に例え平和的な政府が建設されたとしても,日本は近接地域に存在する外国の基地を軍事的脅威と見做すであろうと考えられた事でした.

 その事から,ブレイクスリーとしては,小笠原諸島の非武装化を条件に,同諸島に関する主権は日本に残すべきだと勧告すると共に,安全保障上の観点から小笠原諸島の一定の地域を日本から取上げることを公式の議題にすることになれば,米国は慎重に可能性を検討するべきだとも述べました.

 数週間後,ブレイクスリーとボートンは海軍側と会合を持ち,海軍側の考えを確かめることにしました.
 10月18日の会議では,統合参謀本部作製の地図が提示され,彼等は,小笠原諸島に「青色基地」が設置される事になっていることを知らされます.

 「青色基地」とは,国際機関(後の国連)の下で共同管理するものでは無く,米国が排他的に管理する基地のことです.
 Office of Naval Intelligence(海軍情報局/略称:ONI)のトレイン局長は,基地は父島に建設されるだろうこと,その場合,全島が基地化されることになり,小笠原の基地を機能させるのであれば,諸島全域を米国の支配にする事が必要であると述べています.
 その頃には,その地に住んでいる島民は殆ど戦闘で死亡するか,戦闘を逃れて避難しているであろうから,同諸島は日本の旧委任統治領諸島に統合されるべきであり,従って米国の統治下に置かれるべきである,と論じていました.

 下手をしたら,小笠原諸島は長期間米国の支配下に置かれたどころか,米国の信託統治領になって,今頃は別の国として独立していたかも知れません.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/07/13 22:27

 1944年12月28日,IDACFEで小笠原問題が再度討議されました.
 海軍は,「青色基地」として少なくとも父島を完全占領する方針を示していますが,国務省としては米国が小笠原の主権を獲得する事に反対する方針を再確認すると共に,その見解が,外交問題評議会の安全保障部会や,1937~41年までグルー駐日大使の下で参事官を務めていた日本専門家であるドゥーマンの支持を得た事を確認しました.
 これにより,ブレイクスリーは日本が恒久的に小笠原諸島に対する主権を維持することが出来る様にする草案を起案し,1人を除いて委員会の同意を得る事に成功します.

 主権問題はこうして片付きましたが,基地問題は難関でした.

 複数の国が使用する,若しくはその目的で米国が建設するInternational Baseとするのか,米国が単独で使用するExclusive use baseとするのか,更にその基地は,temporary use,即ち一時的な使用なのか,permanent use,永続的な使用なのかが問題でした.
 メンバーの内2名は,基地の使用は占領期間後の一定の管理期間に限定すべきだと論じ,他の2名は占領が終わって一定の期間以上長く使用するのが良いが,恒久的に使用すべきではないと主張し,1名は恒久的使用が望ましいとして,残る1名は小笠原に如何なる基地を建設することに反対すると述べました.

 最終的に,主権問題については,条件が整えば将来的には小笠原を日本に返還するとして,4対3で辛うじて支持が得られました.
 他方,基地の形態については,一時的使用に供する国際基地を建設するべきとの意見で纏まりました.

 同じ問題は1945年1月4日の会議でも蒸し返され,米国が排他的に利用する基地を小笠原諸島に建設すると言う提案が為されて,7対2で否決されました.
 代わりに,委員会では小笠原諸島を国際機関の管轄下に置いて施政権者に米国を指定すると共に,米国には基地に対する排他的権限を与えるのが良いと言う勧告をすることになりました.
 この案では,設置する基地は,米国専用の基地となるものの他国の使用も可能であり,国際機関の管轄下に置くことで,日本の小笠原諸島に対する主権が侵害されることもないだろうと考えられました.

 続いて1月9日の会議では,小笠原諸島の主権を日本が自ら国際機関の直轄とするか,日本が主要な勝利国に一旦この地域を引渡し,その国々が小笠原諸島を国際機関の管理下に置くかを中心に議論しました.
 問題は,主権がどうなるのか,国際機関の直轄という行為が,日本から主権を取上げたことを意味するのかと言うものでした.
 結局,帰属問題は結論が出ず,1月11日,IDACFEは米国が基地区域より大きな周辺領域に対して排他的権限を有すると勧告することに決しました.
 ドゥーマンはこの時,太平洋諸島の占領に成功次第行政を確立せよと言う国務省の要請を紹介しましたが,IDACFEでは,そうした行為は問題を紛糾させ,米国が既に諸島を獲得したと言う印象を与えかねないとして一旦否定され,17日に再び検討が行われました.
 この時は,米国の影響力,威信に悪影響を及ぼすかが検討され,統一見解は形成されなかったものの,米国が小笠原を併合すれば,「米国が極東で帝国主義的な政策を採ろうとしているのではないかと言う疑いを生じさせるであろう.事実,極東の人々に米国が帝国主義的であると信じさせる様な宣伝を有効なものとしてしまうかもしれない」と言う文案を作成することで解散と成ります.

 1月23日には,適切な信託統治機能を持たない国際機関が創設された場合には米国は如何なる対応を採るべきかが検討されました.
 その場合,小笠原諸島には他の地位を与える様,国務省が勧告しなければならないであろうと考えられ,小笠原諸島に対しては,日本の委任統治領に関する勧告に可能な限り沿った勧告を示す事が決定されました.
 それは以下のものでした.

――――――
1. 日本は小笠原群島,火山列島,南鳥島に対する全ての権利を,主たる勝者である米国,英国,中国,ソ連(但し対日参戦すれば)に放棄することが義務づけられるとする.
2. これらの大国は,米国に以下の権利を与える条項を含む取り決めによって,以上の諸島を国際機関の信託統治下に置くものとする.
 ア.恒久的な施政権の保有者
 イ.米国が決定する地点に,何時でも,自由に安全保障上の目的で基地を建設する権利.
   また,その基地の安全保障に関わる問題に対する排他的権限.
――――――

 こうして,小笠原問題をIDACFEが検討した結果を受けて,Secretary's Staff Committee(国務長官スタッフ会議:略称:SC)では,国務省の最終的立場の確定に向けて動き始めました.

 1945年4月17日には,「日本が主権を行使する,又は管轄下に置く諸島の処理」と題する文書が作成されます.
 このうち,小笠原関係にはこうした勧告が書かれて居ます.

――――――
1. 日本は小笠原群島,火山列島,南鳥島に対する全ての権利を,主たる勝者である米国,英国,中国,ソ連(但し対日参戦すれば)に放棄することが義務づけられるとする.
2. これらの大国は,米国に以下の権利を与える条項を含む取り決めによって,以上の諸島を国際機関の信託統治下に置くものとする.
 ア.恒久的な施政権の保有者
 イ.米国が決定する地点に,何時でも,自由に安全保障上の目的で基地を建設する権利.
   また,その基地の安全保障に関わる問題に対する排他的権限.
3. 米国政府は,他の主要国が上記の行動に同意する様交渉を開始すべきである.
4. 国務省は,この勧告が最終的に政府の政策として決定される前に統合参謀本部の検討を求めなければならない.
5. 他の主要国が,敵国から奪った戦略的要衝を国際機関の管轄下に置くことを拒否した場合,米国は小笠原群島,火山列島,南鳥島の処理問題を再検討すべきである.
――――――

 一方で,SWNCCも,領土の調整について検討を開始していました.
 1945年3月13日,SWNCCのSubcommittee on the Far East(極東小委員会:SFE)では,「日本の主権から切り離されるべき地域の処理」と題する文書を作成し,提出します.

 この中で,SFEは領土問題の調整については,今後,火山列島を含む小笠原諸島といった大日本帝国のある地域の将来の地位に米国が有する政治上,安全保障上の利益を検討しなければならない,と指摘し,SWNCCは国務省にこの問題に関する報告を準備させる様に勧告しました.

 ところが,1945年8月15日,日本は慌ただしく連合国に無条件降伏をしてしまいます.
 更に,領土問題の調整そのものは平和条約締結時に行われるのが常であることもあり,その上国際連合の下での信託統治制度そのものが未だ固まっていなかったことなど種々の原因が重なって,国務省の勧告は大幅に遅れ,1946年6月になってからでした.

 一方,統合参謀本部では,1943年3月段階での研究を基盤に,必要な全般的な基地の要請や日本領土の支配に関する研究を進め,ハワイの西からフィリピンに掛けての太平洋地域に於て海空軍基地の一線を選択し,装備を施し,要塞化すべきであるとしていました.
 その中で小笠原は,極東に於ける米国の地位の防衛に不可欠であると同時に,国際安全保障上の目的を達成する上でも有効な存在であると位置づけられています.

 因みに,1945年8月6日,トルーマン大統領は以下の様な声明を発していました.

――――――
 米国はこの戦争から如何なる領土も自己利益も欲しない.
 しかし,我々の利益や世界平和を守る為に必要な軍事基地は維持するであろう.
 但し,米国は,国連憲章に合致する協定によってそうした基地を獲得する.
――――――

 また,海軍記念日である10月27日の声明でもこう話しています.

――――――
 米国は過去に何度も国際社会に対して約束してきた.
 そして私はもう一度確認しよう.
 米国は世界の如何なる場所に於ても,1インチの領土も求めるものでは無い.
 米国の防衛に必要な基地を建設する権利以外には,他の国家に属する領土を求めることはない.
――――――

 更に追加して,1946年1月5日の声明でも,

――――――
 米軍が征服し,米国の安全保障に死活的重要性を持つと見做される太平洋の旧日本領について,米国は唯一の信託統治地域管理国となるであろう.
 しかし,現在は米軍が占領しているものの,安全保障上の重要性を持たない島々については,国連の信託統治下に置き,国連が指名する他の国によって統治されることと成る.
――――――

と話しています.

 とは言え,海軍は太平洋地域での基地の必要性に最も敏感だったりします.
 ヘンセル海軍次官補は,日本降伏直後の会見の席で,海軍が太平洋地域に於て必要な基地が最低限どれだけあるかを検討中であると述べ,硫黄島は米国が太平洋で維持すべき地域の一つであり,防衛が容易な島の一つであるとされ,過去の戦争を念頭に置きながら,更に新たに敵と成ったソ連との戦争を念頭に置きつつ,米国が因り多くの基地を維持する必要が有ると勧告する積りであるとも述べています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/07/14 22:23


 【質問】
 小笠原諸島を巡る戦後処理について教えられたし.

 【回答】
 米海軍は小笠原諸島の保持に執心していました.
 ソ連との戦争を行うのであれば,フィリピンや中国との交通路を確保するのに,日本南方の太平洋が重要となっていたからです.

 1945年9月,統合参謀本部は「軍事基地の必要性と権利に関する全般的検討」(JCS570/34,後に修正版でJCS570/40となる)を検討しますが,その中で小笠原群島と火山列島は「第2基地地域」に分類され,全ての日本の委任統治領と小笠原,琉球を含む中部太平洋の島々は,日本から切り離され,米国の排他的な戦略的支配の下に置かれるものとしています.
 「第2基地地域」と言うのは,主要基地を防衛すると共に,それへのアクセスや軍事作戦への遂行に不可欠な基地を言いますが,10月25日にJCS570/40が承認されると,IDACFEを通じて国務省に外交チャンネルと通じての必要な国際協定を成立する様に要請しsm明日.
 その際,包括的な基地体制は,国連機構が平和を維持するのに失敗した場合に,米国の安全保障を確保数るために不可避的に必要と成るだけでなく,こうした基地体制を準備しておくことは,国連の平和維持機能の降下を実質的なものとすることに貢献する,と言う名目上の説明が加わっています.

 1946年1月17日,バーンズ国務長官の要請を受けた統合参謀本部が,Joint Strategic Survey Committee(統合戦略調査委員会:JSSC)に対して,信託統治を規定した国連憲章第82条を参考に,南西諸島と南方諸島に対する戦略的支配のあり方を検討することになり,1月21日にJCS570/50が採択されました.
 この中で統合参謀本部は国務長官に対し,次の回答を返しています.

 統合参謀本部は,米国が主権を完全に行使すると言う形で,日本の委任統治領に対して戦略的支配を確立することが,米国の国防上不可欠であると考える.
 南西諸島,南方諸島,南鳥島については,これらの諸島を戦略的地域に指定する信託統治協定を通じて,米国が戦略的支配を確立することが必要である.
 この文書は,22日にSWNCC249/1の文書名を割り当てられました.
 再三再四,トルーマンが我が国は領土的野心を持たないと表明している裏でこの様な出来事が進行していた訳ですね.

 この原因は,信託統治制度そのものについて,米国政府,特に軍部が,それによる米国の戦略的利益の擁護に繋がるのか疑問視する姿勢を示していたからです.
 一方で,国務省の中には,平和条約後に日本の領土を米国の管理下に置くのは,米国が領土獲得を追求している様な印象を与えるので賢明ではないとする人々も居ました.
 結局,この議論は1947年まで持ち越され,1947年4月2日の信託統治協定が成立すると,米国政府は日本の委任統治領に関しては米国を唯一の施政権者として戦略的信託統治を適用する様要請をしますが,南方諸島と南西諸島は信託統治制度の適用を求めようとはしませんでした.
 もし,この段階で信託統治制度の適用を求めていたのならば,今頃,沖縄と小笠原は日本から切り離されていたかも知れません.

 ただ,軍部は依然として小笠原群島を戦略的重要地域と見做していました.
 JSSCの報告書『太平洋地域に於ける戦略的地域と信託統治』では,南西諸島及び南方諸島は,将来の潜在的敵国に渡してはならない重要地域として指定されています.

 1946年5月24日付の統合参謀本部とJSSCの協同報告書では,以上の考え方を次の様に説明しています.

――――――
11. JCS570/40で承認された様に,太平洋地域に於ける米国の基地体制全体の要石は,日本の委任統治領若しくは日本が主権を行使していた太平洋の島々全て(台湾及び千島列島を除く)を,米国の排他的支配下に置くという形で建設される.
 その様な戦略的支配体制は,米国が主権を獲得するか,或いはこれらの諸島を全体として,若しくは個別に,米国を唯一の施政権者とする国連の信託統治地域に指定することによって実現することが出来る.

12. 米国が太平洋の諸島に対して戦略的支配を確立する目的としては,以下の2点が挙げられる.
 (1) 米国の安全保障に必要だと考えられる軍事基地の建設を準備すること.
 (2) この領域が他国の軍事利用に供されるのを阻止すること.
 この2つの目的を満足する最も積極的な手段は,大将と成島に対する主権を米国が獲得することであろう.
 しかし,米国は国連の原則を推進する立場にある.
 従って,信託統治制度が適用可能で,尚かつ米国の安全保障に深刻な影響を与えない旧日本領については,信託統治制度を適用すべきである.
――――――

 更に,南方諸島に関しては以下の様に書かれています.

――――――
 軍事的観点から言えば,火山諸島を含む小笠原諸島を,米国を唯一の施政権者とする戦略地域に指定するのが望ましい.
 硫黄島だけを戦略的地域に指定することも可能である.
 伊豆諸島,更に南部の孀婦岩を含む地域については,これらの諸島が永久に非武装化されるのであれば,日本の主権下に置かれても問題はない.
 無人島で,現在知られている限りに於ては経済的価値もない南鳥島は,米国の完全な主権下に置かれるべきである.
 (中略)
 小笠原諸島は,JCS570/40に於て第2基地に指定されている.
 しかし,対空警戒装置を除けば,軍事基地として考えられるのは南端にある硫黄島だけである.
 硫黄島は,マリアナ諸島の主要基地を防衛する機能を持つ.
 南方諸島の内,小笠原諸島には,捕鯨基地であった時代に移住してきた英国系,米国系,ハワイ系の住民が僅かに暮らしているに過ぎない.
 一方,北端の伊豆諸島には日本人が居住している.
 硫黄島以外の島は,上記の段落12に挙げた2つの目的の内,第1の目的しか達成され得ない.
 小笠原諸島には英国系,米国系の住民が暮らしていることから,米国の行政が彼等との間で問題を生じる可能性は無いと思われる.
 また,そもそも人口が少ない所から,彼等が近い将来に独立を考える可能性もない.
 従って,南方諸島に対して米国を施政権者とする信託統治を確立し,その内,火山列島を含む小笠原諸島を戦略的地域に指定することは,軍事的見地から言って望ましい解決策であると考える.
 必要であれば,戦略的地域は硫黄島のみに限定しても良い.
 また,伊豆諸島については,米国は軍事的利益を有しないし,地理的,文化的に日本に近い.
 従って,日本の統治下で非武装化して置くのが望ましい様であればその様に処理することは可能である.
――――――

 この報告,JCS1619/4は若干の修正を加えた後,6月27日に承認されました.

 もう1つ,国務省は「日本が支配していた委任統治領やその他小さな島々に対する信託統治,若しくは他の処理に関する方法」と題した文書,SWNCC59/1を作成しています.
 この中では,以下の様に結論づけられています.

――――――
 日本の委任統治領の島々及び南鳥島,小笠原群島,火山列島は,可能な限り早期に,米国を施政権者とする国連の信託統治の下に置かれるべきである.
 そして,委任統治領の島々を一括りに,南鳥島,小笠原群島,火山列島をもう一括りにして,信託統治協定を締結する準備をすべきである.
――――――

 更に国務省は次の様に勧告しました.

――――――
 これらの島々には日本の完璧な主権を認めるべきである.
 軍事占領者としての米国は,信託統治協定の条項を起草すると共に,日本の降伏を共に受理した英国,ソ連,中国,フランス,オーストラリア,ニュージーランド,オランダと協議すべきである.
 こうした諸国の戦争への貢献や,この地域に有する安全保障上の利益を考慮しなければならない.
 米国はこれらの諸国から信託統治への同意を得なければならない.
 そして,国連憲章第79条の言う,「直接の関係国」に可能な限り狭義の解釈を施し,出来れば米国一国に限定することについても同意を得なければならない.
 対日平和条約交渉が始まる前に信託統治協定の締結を目指すのであれば,これらの諸国の同意を確保することが取分け重要である.
――――――

 こうした国務省の勧告について,統合参謀本部は南方諸島の処理については満足しましたが,南西諸島は国務省案では日本に残すとしていましたし,委任統治領は戦略的信託統治地域に指定するものの米国に主権を与える事を想定していませんでした.
 この為,国務省・陸軍省・海軍省の三省調整委員会の下に信託統治協定に関する暫定委員会が設置され,7月から秋にかけて各者の討議が繰り広げられました.

 国務省に対する制服組の言い分は,主にこんな感じのものでした.

――――――
 日本の旧委任統治領に対して米国が戦略的支配権を確立したことにより,琉球諸島や南方諸島,南鳥島を支配する必要性が低下するものでは無い.
 逆にこれらの諸島を支配しなければ,委任統治領に於ける我々の立場が損なわれるであろう.
 委任統治領にのける米国の安全保障上の地位は極めて重要である..
 従って,将来の戦争に於ては一層重要と成ろう,起こりうる危険との間の緩衝と距離のスペースを確保しようと考えるのであれば,前線基地によってこの地域を守らねばならない.
――――――

 最終的に,「日本の委任統治領諸島に対する信託統治協定草案」が発表された時,トルーマン大統領は,
「米国は,米国を施政権者とする信託統治の下に日本の委任統治領諸島や他の島々を置く用意がある.
 それは第二次世界大戦の結果として生じた責任を負うことを意味する」
との声明を発表しています.

 けれども,米国政府は,委任統治領諸島については信託統治協定の締結を進めたものの,南西諸島と南方諸島とについては最終的な処理の方針をこの段階で明らかにしませんでした.
 この地域は,古くからの日本の領土という認識が為されていた為,それを取上げて,信託統治地域とするのは無理筋と考えたからだったりします.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/07/16 22:18

▼ さて,日本の敗戦という形で平和が来ても,南方諸島の元住民に平和が来ることはありませんでした.
 1945年11月7日,SWNCC240/1で規定された通達により,1944年に日本軍によって本土に避難させられた元島民の帰還を禁止する決定が下されたからです.
 これは,現地の島民の生活を支えないことと,小笠原群島や火山列島を無制限に軍事利用する事を優先したものであり,12月1日,SWNCCはこの決定を太平洋軍司令官に送り,太平洋軍司令官は12月12日付の指令の中で,小笠原に対する海軍軍政方針として発表されています.

 1946年1月29日,連合国軍最高司令官は,日本政府の行政範囲を日本本土と周辺の諸小島に限定すること,沖縄,奄美諸島,伊豆諸島,小笠原諸島は米国の直接軍政下に置くことを,SCAPIN677として指令しました.
 SCAPIN677は,「大日本帝国政府(未だ新憲法発布は為されていない)は,行政的権力を日本以外の地域及びその地域の政府関係者や住民に行使することを停止するものとされる」としています.

 この措置は,旧島民に非常な衝撃を与えました.
 元々,日本軍によって強制的に引揚げさせられた(この措置自体は当時に於ては妥当なものではあった)のにも関わらず,何の保障も無いばかりか,従来の島民が各々の島に帰島することが認められなかったからです.
 1946年春には早くも母島出身者を中心に,本土の生活の困難を理由に,約150名の日系旧島民の帰島を求める要望書を政府やGHQに提出しました.
 しかし,その返事は来ることはなく,更に追い打ちを掛ける様に,父島の欧米系島民については,1946年10月に帰島が認められると言う知らせが入ってきた事でした.
 この措置は,何の音沙汰もない日系旧島民を怒らせはしましたが,その欧米系島民に続いて我々も近い将来帰れるのではないかと言う希望も与えていました.
 ところが,実際には住民が帰島を許されることもなく歳月が流れ,結局彼等が再び小笠原の地を踏んだのは,実に20年以上経過してからの事でしたし,硫黄島については,現在も帰島がかなえられることは有りません.

 ところで,この頃,日本政府内部では外務省調査局が,内外の歴史書を参照しつつ,小笠原諸島をどの様にして日本の領土になったのかを明らかにする報告を纏めていました.
 この報告書は,敗戦後2ヶ月余りで始まった平和条約研究の一部であり,外務省は平和条約,平和条約交渉で問題と成る重要な課題についての研究を主導しており,その一つが領土問題でした.

 日本政府は,旧植民地や委任統治領の喪失は覚悟していましたが,日本固有の領土については維持することを希望…と言うか想定していました.
 その為,外務省は日本の領土について如何なる方針が適用されるのか,米国や他の連合国の過去の声明を慎重に検討した訳です.
 1945年11月には外務省内にて平和条約問題研究幹事会を設置することになり,1946年からは1年余を掛けて問題別に検討作業が行われました.
 しかし,外務省は総司令部や連合国が日本政府の領土に関する見解にどれだけ理解があるのか確信が持てずにいます.
 その結果,調査局に領土問題に関する研究を行わせ,その成果を総司令部に提出することによって様子を見ようとしました.
 吉田茂は,次の様に回想しています.

――――――
 日本の主張の代弁者と成って貰う為には,充分な資料を米側に与えなければならず,且つその資料は,実地に日本を見ている総司令部向きのものよりも,日本の事情に比較的疎い米本国政府向きのものでなければならない.
 領土問題に関する資料は,我々は最も力を入れた資料の一つであった.
 沖縄,小笠原などの地域につき歴史的,地理的,民族的のあらゆる見地から,これらが如何に日本と不可分の領土であるかを詳細に陳述した.
 領土問題だけでも7冊の資料と成ったのである.
――――――

 この文書はどう言う訳か未だに非公開ですが,1946年には米国側に提示されています.

 もう一つ,外務次官の岡崎勝男が1947年7月中に作成した覚書があります.
 これは,連合国に小笠原諸島を日本領土として認める様求める一方で,これらの諸島が安全保障上必要であると見做されるのであれば,「便法」を結ぶことを提案していました.

――――――
 これらの島嶼については従来の歴史的,経済的な関係を考慮し矢張り日本領土にされることを期待する次第で,沖縄群島の場合の如く連合国が戦略的見地から必要とせられる部分については同様に適当のアレンヂメントが造り得るものと信ずる.
――――――

 更に,

――――――
もし連合国として戦略的見地からして必要である場合は,その必要を満たすアレンヂメントは十分日本政府との間に行えるものと考える.
 日本側の希望は住民に対する普通の行政,即ち教育,経済,文化等を担当する様な便法を考えたいと言うにあり,これは人種的,歴史的の理由から自然な措置であろうと思う次第である.
――――――

 岡崎メモでは,小笠原についても沖縄諸島や先島諸島と同様の措置を執り,小笠原諸島に対する主権及び施政権を保持しつつ,連合国に小笠原の基地や施設の使用を認める協定を結ぶことでした.
 この覚書が米国政府に提示されることはありませんでしたが,沖縄や小笠原問題に関しては米国国務省の考え方に近かったと言われています.

 1947年3月17日の日本外国特派員協会でマッカーサーが発言したことを受けて,国務省はワシントンで平和条約会議を開催することを発表しました.
 そこで,日本政府は,平和条約に関する日本政府の要望を文書に纏めて米国政府や連合国に伝える事を決定しました.
 これが「芦田メモ」と呼ばれるもので,7月24日に完成し,マッカーサーの政治顧問であったアチソンやホイットニー民政局長に手渡されています.

 この文書には,先ず「平和条約は国際法の原則,大西洋憲章の精神,ポツダム宣言を基礎に作成して欲しい」とし,領土問題については,「ポツダム宣言に言う『我らの決定する諸小島』を決めるに際しては本土とこれら諸島の間に存する歴史的・人種的・経済的・文化的その他の関係を十分に考慮に入れて欲しい」としていました.
 …まぁ,敗戦から2年程度しか経っていない時に,こんな見解を出すのもどうよ,って感じですが….

 案の定,このKYなメモについては,アチソン,ホイットニー両者とも,連合国に依然として日本に対する敵愾心が残っている段階で,日本政府がこんな要望を提出すれば,連合国の怒りを招くことになるかも知れない,として返却されてしまいました.

 此の後,領土問題に関して米国政府が日本政府の懸念に耳を傾けるのは更に3年半が掛かることになります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/07/17 23:27

 昨日は日本側の平和条約研究を取上げましたが,米国側も1947年8月に早期平和会議に向けて平和条約の草案を準備していました.
 8月5日にボートンが起草した草案が完成し,国務省の各部局や軍部に回覧され,意見が求められています.
 その準備に極東局は1年を費やしたのですが,統合参謀本部の影響が相当ありました.
 1946年11月の記録には次の様にあります.

――――――
 先頃発表された委任統治領の処理に関する決定を考慮すれば,孀婦岩を最南端とする伊豆諸島は非武装化して日本の主権下に置いても良いが,これを除く南方諸島(小笠原群島及び火山列島)と南鳥島を国連信託統治体制の下に置き,戦略的地域として米国を唯一の施政権者に指定すべきだとする統合参謀本部の勧告に国務省が反対する正当な理由は見あたらない.
 また,この決定は,早い内に適当な機会を捉えて発表すべきである.
――――――

 実際に,1947年3月半ばの平和条約草案では,小笠原諸島は日本から切り離されることになっていました.
 8月の講和会議に備えて準備された草案でも,琉球に対する主権は日本が維持するとされたのに対し,小笠原諸島並びに孀婦岩より南の島々は日本から切り離されるものとされました.

 実際には,1947年8月の講和会議は諸処の事情から開催されず,その内に,ケナンを長とする政策企画室と軍部による米国の対日政策見直しが開始されました.

 12月に入ると,国務省法務局が重要な問題を提起しました.
 米国は対日平和条約を結ばずに,どの程度対日政策の目的を達成出来るのかと言う問題です.
 法律専門家で極東問題にも携わった事のあるベーコンは,米国を施政権者とする戦略的信託統治を実現する為に,火山列島を含む小笠原諸島を日本から切り離すという目標を,直接的に達成することは難しいとしていました.

> この目標を間接的手段でもって実質的に達成することは可能であろう.

但し,彼は次の様にも述べています.

――――――
 平和条約を締結する以前の段階で,これらの諸島を日本から切り離す,或いは米国が信託統治化を求めることは法的に出来ない.
 しかし,問題と成る諸島は現在,米国極東軍司令官が占領している.
 そして,米軍が占領を継続する事は可能である.又,米国政府はこれらの諸島を支配下に置くという意思を明らかにする為の措置を執ることは可能である.
――――――

 諸々の事情から,小笠原諸島の処遇は,最終的に平和条約の締結まで凍結することが国家安全保障会議で,NSC13として決定されます.
 とは言え,主に米国国務省と軍部の対立が原因で,平和条約は数年先送りされてしまいました.

 1950年春,トルーマン大統領は,対日平和条約について超党派の支持を確保する為に,共和党の外交専門家であるダレスをアチソン国務長官の顧問に指名し,間もなく特使に任命しました.
 その夏,ダレスは来日し,国務省と軍部との間に対日平和条約の促進に関する合意を形成し,9月4日には対日平和条約に関する一般的な原則を纏めます.
 その1項目は領土問題を扱っており,「琉球諸島及び小笠原諸島については,米国を施政権者とする国連の信託統治の下に置くことに日本政府は同意する」とされ,これらの原則は9月14日に「対日平和条約7原則」として発表して連合国に提示しました.

 アチソン国務長官とジョンソン国防長官の共同覚書「対日平和条約」(NSC60/1)は,9月7日,トルーマン大統領に提出され,8日,大統領の承認を得ました.
 その領土問題の部分は以下の様になっていました.

――――――
 太平洋の旧日本委任統治領の島々に米国を施政国とする信託統治制度を拡大するという国連安全保障理事会の1947年4月2日の決定に日本が同意する.
 米国は又,国際連合に対して北緯29度以南の琉球諸島と,西ノ島を含む小笠原群島,火山列島,沖ノ鳥島,南鳥島を,米国を施政国とする国連の信託統治制度の下に置くことを提案し,そうした提案についての確固たる行動が執られるまで,米国はこれらの諸島に対して,行政,立法及び司法上の全ての権利を持つ.
――――――

 ダレスと補佐役のアリソンはこの案を基礎に連合国各国との折衝を開始します.
 1951年1月にはこの草案を日本政府にも提示しました.
 しかし,この条項には極東局内部で危惧を覚える者も多く,GHQ内部の外交局でも不安を覚えていました.
 例えば,GHQのシーボルド外交局長は次の様に論じています.

――――――
 当外交局は,琉球諸島,小笠原諸島,そして千島列島などの領土の割譲に対して日本国民の間の根強い反対が広範囲に存在することは,対日講和条約問題に対処する際に無視出来ない最も重要な政治的要因である,と見ている.
 より具体的に言えば,我々はこの要因の長期的重要性により,戦略適用性を満たす有効な支配をしながら,日本が領土を保有することを認める領土条項の可能性を丁寧に模索する義務が米国及び連合国にあると考えている.
 これによって,相当な,かつおそらくは危険な領土回復主義を伴うことになる主権の分離という事態を避けることが出来るであろう.
――――――

 国務省内にもこれに同調するものも多く,最終的にはアチソンも,「琉球と小笠原は,軍事安全保障協定に関する条項が日本本土と同様にこの地域に適用されるならば,日本に返還される」として領土条項の内,琉球と小笠原に関する部分の見直しを支持しました.

 ただ,11月18日に統合参謀本部がマッカーサーの見解を質した処,こうした返答が帰ってきて事態は混乱します.

――――――
 軍事的観点から言えば,琉球諸島と小笠原諸島を日本の主権下に残しておくことは全く容認しがたい.
 日本は戦争を仕掛けた代償としてこの地域を失うことを完全に覚悟している.
 これらの島々は,米国の横の防衛線(lateral defense line)の最重要部分を構成しており,この地域の支配が実際に確立されている.
 これは国際的に認知された事実である.
 米国の手によって要塞化されたこの地域に対する支配を諦め,使用権を放棄し,日本政府の管理下に置くことを定めた協定に服する等,論外である.
 それはただ,道徳的,法的根拠等殆ど無いままに,米国の強さを弱さに転換しようとする試みに他ならない.
――――――

 この回答に勇気を得た統合参謀本部は,国務省に強硬な反対を伝えます.

――――――
 日本に譲歩する理由は全く見あたらない.
 平時に於ても有事に於ても米国が太平洋に関与し,政策を展開し,或いは軍事作戦を遂行することが出来る様に,これらの諸島には米国の排他的な戦略的支配体制を布かねばならない.
 だから,国務省の提案は全く受容れられない.
 NSC60/1として表明された米国の政策の最低限の要請を断固として追求する
――――――

 1947年1月3日の会合でも,ブラッドレー統合参謀本部議長は,琉球諸島及び小笠原諸島は米国の戦略的支配の下に置かれるべきであり,日本政府の主権が回復されるべきではないと主張し,「それが国防総省の立場であるのなら,国務省としてはこれを達成する為に努力を惜しまないであろう.」と国務省にその主張の受け入れを迫りました.

 結局,国務省はこれを飲んでしまいますが,シーボルドは,なお,「琉球と小笠原に対して必要な支配を布くことには同意する.だが,過度に日本の世論の反感を買ったりすることなく,或いはこれらの諸島に対して有効な戦略的支配を行う一方で,あからさまで変更の利かない譲渡の表明も避けうる方法に訴えるという,領土不拡大を考慮した以前の公の約束を放棄する事無しにこの目的を達成することは出来るだろう」と考えていました.

 こうして,事態はダレスと吉田茂,そしてその側近で裏で動いた白洲次郎に掛かってきました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/07/18 21:24

 さて,日本では「芦田メモ」,米国ではNSC60/1が提示されて,日本と米国との間で平和条約の交渉が開始されました.

 米国側の責任者はダレス,日本側は吉田茂です.
 ダレスは1951年1月25日に東京に到着し,交渉を開始しましたが,その2日前,吉田茂の腹心である白洲次郎は,ダレスの露払いとして到着していたフィアリーと会談し,琉球諸島と小笠原諸島に対する主権を日本から奪うのは,平和条約の齎す効果を減じる深刻な過ちと成る,と述べ,更に続けて,日本政府は領諸島に於ける軍事的権利を必要な限り米国に与える用意があるのだから,何故日本が平和的に獲得し,日本人が居住する両諸島を奪われなければならないのか理解出来ない.そうした行為は,大衆ばかりでなく,白洲を始めとした知識人層にとっても,米国に対する敵意の源泉となり続けるであろうと警告しています.

 勿論,フィアリーもそれは心得ていました.
 実際,フィアリーは,米国の安全保障上の利益は,両諸島に対する主権の獲得よりも軍事基地などの協定によって十分に満たされるものであると勧告してきたからです.
 この予備会談の結果,日本政府は米国に駐留する権利を与える事によって,日本は両諸島に対する主権を維持出来ると考えていたことが伺えます.
 因みに,外務省が1950年12月28日に吉田茂に送った文書では以下の様に分析していました.

――――――
2. 領土問題
 沖縄,小笠原諸島は,覚書3(所謂「7原則」の第3条)に因れば,米国の信託統治の下に置かれることが提案されている.
 我々は米国の軍事上の必要については十分にこれを理解し,如何様にでもその要求に応じる必要が有る.
 しかしながら,これら諸島が日本から分離される事は国民感情の耐え難い所である.
 この点再考されんことを希望する.

 以上(1)(領土問題の前項に掲げられている安全保障問題を示す)及び(2)に述べた点は,今後,両国の緊密な関係を樹立していく上に重大な関係を持つ事項であり,その解決如何によっては,この緊密な関係の樹立を阻害する為の好個の口実を共産主義陣営に与える事になるであろう.
 この様な点から考慮すれば,覚書3及び4は日本国民の意思を無視して日本国内に駐留し,又は,沖縄及び小笠原諸島の帰属を決定する趣旨ではないことを出来るだけ早い機会に宣明せられることが極めて望ましい.
――――――

 更に吉田茂の意見を反映した1951年1月5日付の文書では,
「もし信託統治に付せざるを得ざる場合に於ては,その地域を軍事上必要とせらるる最小限に留め,日本を共同施政者とし,又,信託統治を必要とする事態の解消する時はこれらの諸島が再び日本に復帰せしめるべき事を何らかの形に於て明らかにせらるる様希望する」
と言う一文が加えられています.

 更に,この文書の改訂版には,本文とは別に「米国が沖縄,小笠原諸島の信託統治に固執する場合の措置」と題する文書が付記されています.
 それは長いものですが,以下の様な対応策を日本側が考えていた事を物語っています.

――――――
 沖縄及び小笠原諸島が信託統治にされる場合,国民感情を最も刺戟する点は,これら諸島が永久に日本の手を離れるのではないかと言う点である.
 これを緩和する為には左の措置が考えられる.

1. 信託統治に期限を付すること.
 実例として旧伊太利植民地ソマリランドの信託統治期間は10年とされ,その後は独立する事になっている.
 かように当地信託に年限を付ける事が一番望ましい.
 それが難しい場合には,「これらの諸島を信託統治にすることを必要ならしめる事態が存続する期間」信託統治に付する事とし,掛かる必要の解消した場合には,憲章第76条(信託統治の基本目的を定めている)(ろ)の規定に従って,「住民の自由に表明した意思」に従ってこれら諸島の最終的地位を決定すべき事を信託統治協定に於て明白にする.
 これは,憲章の規定に合致する所であって,法理上の困難はない.
 これに加えて,信託統治にする必要の解消したる暁には合衆国がこれらの諸島を日本に返還する考えであるとの保障を協定外の文書で取り付けられれば,万全である.

2. 日本を共同施政者とすること.
 信託統治地域に対して共同施政者を設けている実例は,ナウル島に対する英国,豪州,ニュージーランドの共同施政がある.
 又,旧敵国を施政者とした例は,伊のソマリランドに対する施政がある.
 日本が合衆国と共にこれらの諸島の共同施政者と成れば,諸島の帰属についても,諸島の行政についても,島民に対する機能についても,合衆国と同島の地位に立つことになり,我が国民感情を満足せしむるに足ろう(共同施政者という概念は,国務省係官が普及した事実がある).
 なお,島民の国籍については,憲章に定める信託統治制度の関係から,施政国の国籍も取得せず,どの国の国籍もない特殊の地位にあって(先例によると信託統治地域の市民権を有するとされている),施政国が地域外に於て外交上及び事実上の保護を与える事になっている.
 従って,これらの諸島の住民に対する日本国籍の保有を要請することは困難である.

 上述の2点の他,信託統治に関して左記の事項について考慮を求むべきである.

1. これらの諸島と日本本土との関係を出来るだけ従来通りとすること.
 就中,双方住民の交通移住は自由とし,関税上も日本の一部として認められること.

2. 従来小笠原群島,硫黄島の住民であって,戦争中(日本によって)及び終戦後(米国によって)日本本土に引揚げさせられているものについて,原島に復帰を許されること.
――――――

 これが完成したのは1月26日,吉田茂はこの見解を更に推敲させ英訳して,1月30日に"Suggested Agenda"(「我が方見解」)と言う覚書の形でダレスに提示しました.
 この内,領土に関する部分は以下の様に記されています.

――――――
1. 琉球及び小笠原諸島は,合衆国を施政権者とする国際連合の信託統治の下に置かれることが,7原則の第3で提案されている.
 日本は,米国の軍事上の要求について如何様にでも応じ,バーミュダ方式(99年間の基地租借方式)による租借をも辞さない用意があるが,我々は日米両国間の永遠の友好関係の為,この提案を再考されんことを切に望みたい.

2. 信託統治がどうしても必要であるならば,我々は次の点を考慮される様願いたい.
 ア,信託統治の必要が解消した暁には,これらの諸島を日本に返還される様希望する.
 イ,住民は日本国籍を保有することを許される.
 ウ,日本は合衆国と並んで共同施政権者にされる.
 エ,(省略)
 オ,小笠原諸島及び硫黄島の住民であって,戦争中日本の官憲により又は終戦後米国の官憲によって日本
   本土へ引揚げさせられた者約8,000名は各原島へ復帰することを許される.
――――――

 吉田-ダレス会談の第1回目は1月29日,第2回は31日に行われました.

 ダレスは30日に開催した米側スタッフ会議で,米国政府が日本の領有していた諸島の処遇を見直す可能性はあるけれども,それは米国の理由に基づいてそうするのであって,日本政府からこの問題を持ち出すことは許されない.
日本はその領土を本土と連合国の決定した諸小島に限定するという降伏条項に同意している為である,と告げました.
 更に,ダレスは,吉田には沖縄と小笠原諸島に関しては議論の対象としないと告げるつもりで有ることも付け加えています.

 しかし,この時,ダレス自身も日本が従来から主権者となっていた地域,特に沖縄を信託統治地域に含めるべきか否か確信が持てずにいました.
 この為,この会議の席上でダレスは,米国側としては沖縄については返還出来ることを検討すべきだと述べますが,その問題については我々より上のレベルでの検討であり,ワシントンが考える問題として,日本側が我々に決断を迫るべき問題ではないと述べています.

 31日午後の第2回会談では,ダレスは吉田茂に対し,日本が沖縄や小笠原諸島返還を求めるのは望ましくないと強調しました.
 この説明に対し吉田茂は反論をしませんでしたが,2月1日の米国側スタッフ会議でダレスが述べた様に,吉田茂は米国の立場を理解した訳ではなく,米国側の強い姿勢に余りにも衝撃を受けたからでした.
 ただ,日本側が示した琉球と小笠原諸島の返還については,米国側に強い印象を与えています.

 ダレスが日本を発った後,日本の毎日新聞が領土問題に関して世論調査を実施しています.
「米国は琉球諸島と小笠原諸島を国連の信託統治の下に置くであろうという報告についてどう思うか」
と言う設問に,
「両諸島が日本に即時返還されることを希望する」としたのが43%,
「止むを得ないが,一定期間後に日本に返還されることを希望する」としたのが42%,
大多数の国民が即時又は一定期間後の返還を望んでいる現状は,国務省が注目していた日本の国民感情を裏付けるものでした.
 更に,6月2日には衆参両院で諸島の返還を要求する決議を採択しました.
 ダレス来日時,会見した各党の党首達は何れも琉球,小笠原の返還を懇請していましたが,それが具体的に行動と成って噴出した訳です.

 ただ,ダレスは難しい立場に置かれていました.
 日本側の要請や国務省,米国議会の意見(米国が帝国主義とのレッテルを貼られるのではないかと危惧する議員がいた),軍部の戦略的要請に加え,他の連合国の意向も無視出来ません.
 連合国は総じて日本に対する不信感を拭えずにいました.
 特にニュージーランドはその先鋒で,日本が琉球や小笠原,火山列島,南鳥島に対する主権を放棄すべしと言う立場でした.
 一方,ソ連は太平洋地域に於て米国が安全保障上の地位を強化し,日本の旧領を信託統治化する取り組みに確実に反対であると考えられていました.

 こうして,先ずは英連邦諸国を御する為に,英国と軌を一にすべきだと考えたダレスは,アリソンを英国に派遣し,英国外務省と交渉を開始した訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/07/19 18:01

 さて,1週間インターバルを置きましたが,南方領土問題の話に舞い戻る.

 ダレスと吉田茂との最初の会談は物別れに終わりました.
 吉田茂は小笠原諸島と琉球の返還に強い意志を示し,ダレスはあくまでも米国の施政権の下に置くことを主張したからです.
 とは言え,米国側も弱みがありました.
 特に,そうした強い姿勢を見せ続けることは,世界に対して,米国が未だに帝国主義の旗を掲げていると言う,特にソ連の宣伝に利用されるのではないか,と言う危惧です.

 こうした危惧から先ず米国は盟友である英国の意向を伺うべく,アリソンを英国に送り込みます.
 アリソンは,英国外務省の官僚達に対し,米国は琉球や小笠原の併合までは考えていないと述べ,しかしながら米国にとっては国連の信託統治制度が頭痛の種であることを率直に訴えました.
 更に,アリソンは米国政府は将来的には日本に主権を返還する事を考えており,平和条約草案では,「米国政府は信託統治化を提案することが出来る」とされているのだ,と述べました.

 この草案は以下の文言になっています.

――――――
 合衆国は,北緯29度以南の琉球諸島,西ノ島を含む小笠原群島,火山列島,沖ノ鳥島及び南鳥島を,合衆国を施政権者とする信託統治制度の下に置くことを国際連合に対し提案することが出来る.
 日本国はこの様な提案に同意する.
 この様な提案が為され,且つ,これを確認する行動が執られるまでの間は,合衆国は,領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して,行政,立法及び司法上の一切の権力及び如何なる権力をも行使する権利を有する.
――――――

 米国草案を検討したスコット英国外務次官は,アリソンに対して日本との間に摩擦を生じさせる様な問題を残すことに反対するが,日本を信用しすぎることにも反対すると述べ,日本に対する不信感を露わにしています.

 英連邦諸国の見解を反映した米英共同草案は,4月に完成しました.
 最終的に採択された平和条約に極めて近い内容を持つこの草案では,米国草案にあった「米国政府は信託統治化を提案することが出来る」との記述は削除され,代わりに「米国を唯一の施政権者とする信託統治の下に置く為に米国が国連に提案することに対しては,日本政府は同意する」とされました.
 英国や英連邦諸国は,日本はこれらの地に対する主権を放棄すべきだとの考えを崩していませんでしたが,英国政府は本質的には米国の問題であるとしてこれ以上の拘りは持たず,他の重要な問題について利益を追求することを選びました.

 この草案では,朝鮮や台湾,満洲,委任統治領諸島や千島列島とは異なり,南西諸島と南方諸島の主権を放棄する様求められていないことに日本政府も気がつきました.
 マッカーサー罷免を受けて4月に来日したダレスもこの点を強調し,6月に来日したアリソンからも,ダレスがロンドンでの英国との協議で,非懲罰的,自由主義的な条約の実現に向けて奮闘している事,更にそれが成功しつつあることを知らされ,吉田茂は非常に喜んだと言います.

 因みに,この頃吉田茂は米国に対し,島民の国籍への配慮を要請する決意を持っていました.
 6月27日,吉田茂は外務次官の井口貞夫に,信託統治領域(此処では南西諸島と南方諸島を指す)において,島民が日本国籍を維持出来る(=参政権を維持することになる)様にしたいと述べ,覚書を作成する様指示しました.
 6月28日に会談したアリソンに対しては,島民が日本国籍を維持すると共に,日本本土との間に強固な経済関係を保つことが許される様求めたいと述べています.
 これに対し,アリソンは,琉球や小笠原の処遇問題は,連合国が決めるべき問題ではあるけれども,米国政府は実際に派生する様々な問題については日本政府の意見を参照したいと考えており,日本政府の見解を聞いておきたいと回答しました.
 そこですかさず吉田茂は,アリソンの出発までに覚書を届けさせることを約束しました.
 こうして,7月1日,外務省の事務当局は吉田茂に覚書を届けます.
 吉田茂が僅かに修正を加えた覚書においては,奄美大島と琉球諸島の住民の記述について大半が割かれていますが,小笠原についても言及しています.

――――――
 以下に陳述する所は,平和条約案に定められている原則に修正を要請しようとするものでは無い.
 提案されている原則の実施される場合を考えて,出来るだけ円滑に行われる様との希望から出た要請を述べたものである.
 合衆国政府に於て考慮に入れられれば幸甚である.

 南西諸島,小笠原諸島,その他の諸島は,元来,日本本土と不可分の一体を成し,住民があらゆる面で日本本土住民と同じ住民である点において,第二次大戦後信託統治の下に置かれた他地域と根本的に異なる性格を有している.
 故に合衆国において右の諸島に信託統治制を適用されるに当っては,この特殊性を念頭に置かれて,次に要請されている様なことの実現を将来に亘って封ずる様な規定が,信託統治条項を含む基本的な関係諸文書に含まれない様考慮されたい.

1. 住民のステイタス
 現に当該諸島に住所を有する者の数は,約90万に達する.
 これらの殆ど全ては,日本国籍の保有を欲している(その為には日本本土に住所を移すことも辞さない気持ちの者が青年層に多いと言われている).
 故に,日本はこれらの人々を日本人として取り扱っていきたい.
 現に,日本国土に住所を有する当該諸島出身者は,約30万に達する.
 そのうち10万は,戸籍が本土にある.
 これら約30万の者が終戦後与えられた帰島の機会を利用することなく踏み止まっているのは,日本人として残ることを希望しているからに他ならない.
 現に,当該諸島出身者であって第三国に居住する者は,約5万に上ると推定される.
 これらの者は,元来日本人として渡航していった者であるのみならず,大部分が引き続き日本人であることを希望していると聞いている.

2. 経済関係
 これらの諸島と日本本土に従前存在していた経済関係は,人為的に切断されぬ様に致したい.
 これが為,当該諸島と日本本土の貿易は所謂国境貿易的なものとし,相互に何らの関税を課さないこととしたい.
 日本に関する限り既に1951年5月1日施行の法律(関税定率法の一部を改正する法律の附則4…「南西諸島の生産に掛かる物品で,制令を以て定める原産地証明書を添付する者の輸入税は,当分の間免除する.この場合において南西諸島とは,関税定率法第12条の規定によって外国と見做される北緯30度以南の南西諸島を言う」)によってその様に措置している.
 また,その他の貿易統制城の制限をも原則として課さないこととする他,資金の交流についても出来る限り自由にされたい.
 また,沿岸漁業に従事する者は,相互に沿岸漁業基地を利用する事を認めると共に,相互間の人,船舶の往復についても原則として自由とされたい.

3. 文化関係
 現在当該諸島に於ける子弟の教育は,将来に於ける日本本土高等諸学校へ進学する場合の便宜を顧慮し,学制,教材等日本本土に準じて施行することを許されている.
 信託統治制実施後においても,掛かる教育方針を継続されると共に,当該諸島と日本本土の相応する学校の修業または卒業資格及び公の各種資格試験を,相互に進学及び就職上承認し合う様にしたい.

4. 小笠原,硫黄島住民の原島復帰
 小笠原,硫黄島等の住民で戦争中或いは戦後日本内地に強制的に引揚げさせられた者は約8,000名に上り,これらの者の原島復帰は未だ許されていない.
 彼等は一日も早く祖先の墳墓の地である原島復帰を望んでいるので,最も早い機会に希望の者の実現方配慮有りたい.
――――――

 アリソンはこの覚書をダレスに回付し,検討を依頼しました.

 その頃,ダレスはワシントンに戻ってマーシャル国防長官を訪れていました.
 日本が琉球や小笠原に対する主権を維持することについて国防総省の理解を得る為でした.
 統合参謀本部は,米英草案について,
「国家安全保障上の要請に基づき,米国は旧日本領の諸島に対して排他的な支配を確保すべきである.
 少なくとも,米国を施政権者とする戦略的信託統治を実現する為に国連が必要な行動を執るまでは」
と要求して,琉球や小笠原に於ける戦略的利益を改めて強調していました.
 軍事基地などの協定によって安全保障上の要請は満たされることを説得する為,ダレスは,米国が行政,立法,司法に関するあらゆる権限を行使する権利を与えられるという条文の表現は,米国に排他的な戦略的支配を補償するものだと説明し,最終的に統合参謀本部も同意しましたが,軍部はその後も南西諸島と南方諸島に於ける現状を維持する為に,あらゆる手段に訴える事になります.

 こうして,国防総省を説き伏せた(と思った)事で,ダレスと国務省は,これらの諸島を名目上のみならず実質においても日本に残すことが出来る様に成ったのではないかと言う期待を抱いていました.
 平和会議前後の国務省の見解について,ダレスがシーボルドに送った電報では,これら諸島の処遇については柔軟な協定や解釈が可能であること,また,最終的な協定については恐らく平和条約が批准されるまでの間に,諸島やその統治のあり方を検討した上で米国が考える事になるだろうとして,それらを吉田に説明する様に指示し,且つ,最終的な平和条約草案では,平和条約が日本に琉球,小笠原などに対する主権の放棄を迫るべきではないと言う吉田の願いを聞き入れたものであることを強調する様に指示しています.

 その頃,日本国内では,7月10日に公表された条約草案を巡って,世論や野党勢力の大反対の声がわき起こっていました.
 8月中旬に吉田茂が臨時国会で声明を発表することになっていた為,ダレスの電報は正に時宜を得たものでした.
 と言うのも,外地や千島に次いで,琉球や小笠原が日本領土から失われるのではないかと言う国民の恐怖や怒りが相当あった為でした.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/08/03 23:06

 さて,ダレスから来た電報は,吉田首相を安堵させるものでした.
 吉田首相は南西諸島及び南方諸島の主権維持を米国が許さないのではないか,と懸念していたからです.
 この電報を受けて,吉田首相の演説予定稿は,外務省にて英訳され,GHQ外交局のフィンに提出されました.
 そして,シーボルドによってダレスに送られ,ダレスから予定稿の修正要求が来ると,外交局は外務省の演説草案の修正作業に協力しています.

 こうして,8月16日に吉田首相は国会で,以下の様な演説を行いました.

――――――
 第二章には,若干の領土の処分に関する規定がある.
 この点に関して,我々は日本国の主権が四つの主要な島および我々が決定する諸小島に限定されると規定した降伏の条件を,我が国が無条件に受諾したことを明記しなければならない.
 従って,我が国にとっては,これらの条件の変更を求める余地はない.
 しかしながら,私は次の事実について諸君の注意を喚起したい.
 即ち,日本は,第二条に挙げられた領域に対しては,全ての権利・権限及び請求権を放棄することになっているのに,南西諸島,南方諸島の処理を規定する第三条は,特にこの様に規定しては居ないと言う事である.
 この第三条の字句は,我が主権が残存するという点において,無意味のものと思われない.
 融通性のある第三条の規定は,我々が国際の平和と安全上の利益の為に米国が行う戦略的管理を条件として,本土との交通…住民の国籍上の地位その他の事項について,これら諸島の住民の希望に添う為に実際的な措置(practicable arrangements)が案出されるだろうと希望する余地を残すものである.
――――――

 この演説で国内の反対派を沈静化させるには至りませんでした.
 特に奄美大島では,日本復帰が出来ない事に対し,島民がハンガーストライキを実行すると言う事態まで引起し,ダレスを激怒させています.
 サンフランシスコ平和会議開会前夜にも,ダレスは吉田首相に対し,問題の諸島は日本の領土の一部であるとの見解が発表されているのにも関わらず,こうした事件が発生したのは不愉快であると抗議しています.
 そして,こう続けました.

――――――
 米国は,南西諸島を戦略的必要に基づいて管理しようとするのであって,米国の領土とするもので無い事は,貴方によく説明した通りである.
 主権も,日本に残ることも明らかにした.
 貴方から住民を日本人としておきたいとか,そのほか申し出られた希望をどうにか実現したいと思って居る所である.
 そこにハンガーストライキの様な示威運動をされることは,米国の立場を極めて困難にする.
 米国は日本の金塊も取らぬ事にした.
 海運その他の経済上の一切の制限も設けぬ事にした.
 米国が日本の為に色々計らっておりながら,それでも日本国民のデモンストレーションを受ける様では米国人は納得しない.
 今少し日本人の自制を望みたい.
――――――

 これに対し吉田首相は,日本代表は領土条項を理解し,受容れており,条約全体を支持することを明言しました.
 しかし,吉田首相は,同時に平和会議後に日米両国政府が「実際的措置」を締結する努力があることを求められることがいよいよ明らかになったとも述べています.

 サンフランシスコ平和会議の冒頭,ダレスは,対日平和条約は戦争,勝利,平和,戦争という悪循環を断ち切る為の一段階となるであろう,そして,サンフランシスコに集まった諸国は,復讐の平和ではなく正義の平和を実現するであろう,と格調高く宣言しました.
 そして,平和条約の逐条説明では,彼は第三条が日本に「潜在主権」を残したものであることを口頭で確認しています.
 第三条は以下の文面です.

――――――
 日本国は北緯29度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む),孀婦岩の南の南方諸島(小笠原群島,西ノ島及び火山列島を含む)並びに沖ノ鳥島及び南鳥島を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下に置くこととする国際連合に対する合衆国の如何なる提案にも同意する.
 この様な提案が行われ且つ可決されるまで,合衆国は,領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して,行政,立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする.
――――――

 これに対し,吉田首相は,平和条約の受諾演説の中で,平和条約は「和解の文書」であり,「公正且つ寛大」であると感謝の意を表わしましたが,同時に,日本国民としても,「若干の点について苦情と憂慮を感じることを否定出来ない」と指摘し,「敢えて数点に付き全権各位の注意を喚起せざるを得ないのは,我が国民に対する私の責務と存ずる」と述べることも忘れませんでした.
 その一つが領土の処遇であり,南方諸島と南西諸島が日本の潜在主権を認められたことに感謝しつつも,吉田首相は,「世界,特にアジアの平和と安定が速やかに確立され,これらの諸島が,一日も早く日本の行政の下に戻ることを期待する」と訴えています.

 平和条約は10月26日に衆議院で,11月18日に参議院で批准成立しました.
 これを以て,日本は7年間の占領状態から脱し,晴れて独立国に復帰しました.
 その数週間後,ダレスは中国問題の協議,端的に言えば,大陸に成立した共産主義の新中国ではなく,台湾に逃れた中華民国を承認する事を日本政府に求める為に来日します.

 このダレスの来日を利用して,外務省は条約対象の諸島に対する「実際的措置」案を作成しました.
 12月10日に完成したこの覚書は,13日にダレスの下に簡単な説明文と共に届けられました.
 先ず説明文では,
「平和条約が南西諸島を日本の領土として残したことを大いに感謝する.
 我々は米国がこれらの島々を統治しようと欲する理由が,極東の平和と安全を維持する為の軍事的必要性にあることを理解している.
 日本政府は,こうした軍事的必要性が許す範囲において住民の希望が顧慮されんことを願うものである」
としており,以下の文章が覚書として添えられていました.

――――――
1. 米国は,南方諸島が日本の主権の下に残り,従って住民の国籍に変更なきを確認する.
2. 米国は,日本本土と南方諸島の従前の関係を軍事上の必要なき限り回復させることを容認し,特に次の諸項については,南方諸島が日本国の一部として取り扱われることを承認する.
  移住,旅行,交易(関税を課さない),資金の交流,漁業,日本円を南方諸島の法貨とする.
3. 米国は,日本が第三国と締結する経済,社会及び文化上の条約において南方諸島を領土の一部として取り扱うことを認める.
  日本は第三国にある南方諸島の住民に対して保護権を行使し,今後第三国に渡航する住民については,南方諸島に設置されるべき日本政府のエイヂェンシイが旅券を発行する.
4. 米国政府は,終局的には統治者ではあるが,民政事項については原則としてこれらの諸島の自律(セルフ・ルール)を認める事とし,特に次の諸項については,完全なる自律を認める事を宣言する.
  現地住民間の民事及び刑事事件に関する裁判権,教育制度及びその実施.
5. 米国は,南方諸島にある日本本土在住日本人の私有財産権を容認し,且つ,これらの日本人が従前行っていた経済活動を再開することを容易ならしめるものとする.
6. 以上に関わらず,米国が現在統治することを軍事上必要としない諸島については,米国は,行政,立法及び司法上の権力を行使することを差控えて,日本によるその行使を認める.
――――――

 ダレス自身は,この提案を歓迎し,その提案を検討することを示唆しました.
 翌日の日本商工会議所での演説で,ダレスは,
「琉球や小笠原に対する潜在主権が日本に残されたのは,日本側の強い希望によるものである.
 我々は,これらの諸島に対する統治問題が,島民の希望と国際社会の平和と安全という要請とを合致させる様な,友好的な方法で解決されることを希望し,またそう信じるものである」
と述べています.
 外交局のシーボルドと彼のスタッフ,また極東軍司令官のリッジウェイでさえ,こうした日本の提案に賛成していました.

 ところが,統合参謀本部は極東軍司令官の見解を歯牙にも掛けませんでした.
 南西諸島と南方諸島の戦略的支配は,米国の安全保障上死活的な利益を構成していましたし,そうした戦略的支配の必要性が大陸での共産主義勢力の増大などで益々大きくなっている現状では,これからも米国によるこれら諸島の支配が利益であり続けるであろうと主張しました.
 そして統合参謀本部は,極東に安定の為の条件が確実に整うまで,これらの諸島に対する米国の政策に何ら変更を加えるべきではないと主張していました.

 これに対し国務省は1952年3月24日,アチソンは国務次官補に就任したアリソンに,以下の内容について関係部局の見解を確認する様に指示しました.

――――――
 米国は,琉球と小笠原に対する信託統治制度の適用を追求すべきではなく,二国間協定を締結し,統合参謀本部が必要と見做す軍事施設に対する支配は維持するという条件で,これらの諸島を日本に返還するのが良いのかどうか
――――――

 1週間後,アリソンは国務省の見解を次の様に纏めました.

――――――
 琉球諸島及び小笠原諸島についてそうした協定を結ぶことは,日米関係に於ける潜在的な阻害要因を取り除くだけでなく,日本と歴史的な繋がりを持ち,外見上も日本人に近い地域と人々に対する行政的,財政的責任から解放されることを意味する.
 同時に,協定は陸軍,海軍,空軍施設及び基地を米国が長期渡って保持することを可能とすることによって,これらの諸島に於ける米国の戦略的利益を保証するであろう.
 協定の条文は,日米安保条約の様に無制限なものでは無く列記主義とする.
 特に戦略的な性質を持つ機知が必要とする特殊な取り決めは,その中に明記されるものとする.
――――――

 数日後に国防総省で行われた会議では,アリソンとマーフィー,シーボルドが国務省を代表して出席しましたが,会議の結論は出ず,国務省と国防総省共同の作業部会設置だけで終わりました.
 その会議の殆どは琉球について述べていましたが,小笠原に関しては,フェックテラー海軍大将が小笠原の返還を求める日本世論の政治的圧力についてシーボルドに尋ねています.
 これに対し,シーボルドは奇妙なことに,その圧力は,
「圧力と言うほどのものではなく,心情的な性質のものだ」
と述べています.
 フェックテラー海軍大将が小笠原が海軍にとって極めて重要なのだと強調すると,国務長官顧問のコーエンが,海軍基地が島の全てに建設される訳ではあるまいと反論しました.

 すると,ブラッドレー統合参謀本部議長が,沖縄や奄美諸島,小笠原に関する統合参謀本部の懸念や,より全般的には平和条約後の日本に於ける米軍の地位に関する不安を要約し,更に国務省側に問いかけました.
「全ての地域を僅かの例外を残して日本に返還するのであれば,その残りについても,米国は返還を求める圧力に恒常的に曝されるのではないか」
と.

 国務省にとって,これは痛い所をつく指摘でした.
 結局,平和条約発効の4月28日までに国務省が統合参謀本部を説得出来ず,結局,国務省と国防総省との間で協議が開始されるのを待たなければなりませんでした.

 こうした些細なボタンの掛け違いこそ,後にこれら諸島に住む住民,元住民達の領土返還運動へのうねりへと繋がって行った訳であり,歴史にifはありませんが,もし,この時点で覚書の内容が発効されていたら,その後の沖縄などでの米軍に対する拒否反応は,もう少し違ったものになっていたかも知れません.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/08/04 23:06


 【質問】
 戦中・戦後の,欧米系小笠原諸島住民の状況は?

 【回答】
 戦後,地上戦の末に占領された南西諸島と違い,南方諸島は,硫黄島こそ戦闘が行われていたものの,戦時中または戦後に疎開や引揚げが行われ,占領が行われていたものの,沖縄の様に軍政が布かれていた訳でもなく,謂わば放って置かれたりしています.

 1944年にこの地の住民達の多くは,着の身着の儘で本土に送還されましたが,その地で彼等,特に白人系住民は相当辛酸を嘗めました.
 例えば,移民第1世代の代表だったセボリー家は,当初,横浜に滞在していましたが,空襲で彼等,避難民の住居も焼き払われてしまい,彼等は散り散りとなって,セボリー家は埼玉を経て日本海まで避難しています.
 また,彼等は日本国籍を持っていながら,姿形が白人であった為,農民達に食糧を与えて貰おうと思っても,何も売ってくれなかったと言います.

 また,その姿形から,空襲が頻繁に起きた頃には屡々殺され掛けたりしました.
 食糧を買い出しに田舎に行った時,その前日に米軍機が撃ち落とされ,乗員がパラシュートで脱出して逃亡中だったところに現われた為,住民は彼を逃亡した乗員と思い,彼を竹槍で刺して警察に引っ立てられ,警察が勤め先に問い合わせをするまでの2日間,拘置されたと言います.

 その上,彼等は日本語が得意ではなかったので,英語で喋ることもありました.
 当然,そうした行為は人目を惹き,屡々,特高警察官による尋問が行われました.
 しかし,「父島出身者」と言っても,田舎の警察だとその場所を知らない為か,失礼な態度で接することもあったそうです.
 彼等は,その度に地図帳を取出して,父島の場所を示し,警察もやっと納得して,以後,再び尋問されない様に白い腕輪を填めるよう指示したそうです.

 こうした報告は大量にありましたが,それでも歯を食いしばって彼等は日本の社会の片隅で働いていました.

 敗戦になると,彼等は2カ国語を話せると言う立場が幸いして,占領軍,病院,PX,派出所,墓地,基地,家政婦,店舗,遊戯施設などで働き口を得る事が出来る様になりました.
 しかし,本土で働いていても,彼等の心の奥底には,いつも故郷父島がありました.

 1945年後半,在日米国領事として新しく任命されたジョンソンに対し,欧米系住民の幾人かが,「米国市民であることを主張して」父島への帰島許可を求める請願書を提出しに来ていました.
 その請願書は,フレッド・セボリーによって起草されたもので,彼は原開拓者の1人であるナサニエル・セボリーの曾孫でした.
 ジョンソン領事は,欧風の名前を持っているのにも関わらず,第3世代が大半であり,既に日本人と結婚していたり,英語を話せない者が多く,米国との関係も希薄化していたことで,疑いを持ちながらも,マッカーサーにこの問題を取り次ぐことを約束しました.

 そうして,太平洋軍司令部から本国に伺いを立てたのですが,要求は拒否され,帰島は未定の儘に終わっています.

 しかし,この間,フレッド・セボリーは,父島事件の捜査を行っていたリキシー海兵隊大佐を支援する為に帰島することが出来ました.
 その後,戦争犯罪裁判の為,リキシーと共にグアムに渡っていきますが,その間,フレッド・セボリーは,島民の帰島についてリキシーを説得することに成功しました.
 その建議もあったからか,また,太平洋軍司令部やマッカーサーと本国政府関係者との協議の結果かは判りませんが,1946年3月19日,三省調整委員会は,先の決定を覆し,欧米系島民とその配偶者だけの帰島を許可しました.
 彼等欧米系島民は,本州への移住を強いられ,生計の手段や島での生活様式を失い,戦後間もなくの厳しい時期に於ける経済的困窮や社会的差別に苦しんでいました.
 3月29日,海軍作戦部長は,太平洋軍最高司令官に対し,彼等の帰島を許可する旨を伝えます.
 このニュースが新聞記事となって,グアムの新聞に掲載されると,フレッド・セボリーは,マリアナ諸島の米海軍司令官宛に手紙を書き,父島に帰ることを望んでいる他の93名の氏名と住所を同封しました.
 彼等は,生きて行くのに深刻な困難を生じる本州に,これ以上住むことを望みませんでしたし,必要ならば,帰島を待つ為にテニアンかサイパンに行くことを希望しているとも書いていました.

 この書簡は,マッカーサーの元に転送され,その意向を受けた国際赤十字が欧米系島民に接触して,帰島を希望している人達の名簿を作成し始めました.
 Life誌は当時,「少なくとも小笠原諸島の最終処置が決定されるまでに,日本の行政は撤廃され,ナサニエル・セボリーの子孫達は星条旗の元で生活することになるだろう」と言う記事を掲載しましたが,彼等は未だに米国の軍当局にとっても,"enemy nationals"…敵性国民として考えられていました.

 最終的に白人系島民だけでなく,日本人配偶者も同時に帰島することを許された為,その数は126名に達しました.
 帰還者達は浦賀港に集合し,引揚げ船で旧駆逐艦の「欅」に乗船して,10月17日に二見湾に到着しました.

 ただ,その島は既に荒れ果てていました.
 神社と同様にセントジョージ教会も空爆で破壊され,海兵隊は日本軍の施設を無力化する過程で,発電所や港湾施設を全て破壊してしまっていましたし,全ての動物は日本軍の食用として殺され尽していました.
 残っていたのは,ワシントン・セボリーとルーファス・セボリーの家だけでした.

 そこでサイパンの軍政府は,彼等の復興を手伝う為,人員と2ヶ月分の食糧を搭載した上陸用支援舟艇LCI(L)1067と駆潜艇PC1546をグアムからサイパン経由で先に送っていました.
 その船には小笠原諸島の担当将校としてサイパンの軍政府から任命されたヘーゲンバックル海軍中佐と,フレッド・セボリー等も乗船しており,彼等は「欅」に先立つ10月8日に到着しました.
 因みに,ヘーゲンバックル中佐は,多くの欧米系島民の祖先と同様にマサチューセッツ州出身者でした.

 本来,島民達は9日に到着の予定でしたが,予定が遅れた為,ヘーゲンバックル中佐達は,U.S.Military Government Detachment Bonins(米海軍軍政府ボニン群島分隊)を設置し,海兵隊が残した兵舎や残った建物の修繕,風呂やシャワーの建設,浜辺にある瓦礫の清掃と言った仕事に取りかかりました.
 また,軍医のポルカは,飲み水と衛生状況を確認しましたが,海兵隊の仕事が完璧だった為に,島には2軒の家と3つのコンクリート建造物が残されただけでした.
 その上,彼等が滞在している際に,台風の一つがやって来ています.

 17日に「欅」が到着し,欧米系島民が来ましたが,彼等の一部は栄養失調に陥っており,ポルカによる診察を受ける必要が有りました.
 ヘーゲンバックル中佐は,島民達と,父島を生活可能にする為の道路,建造物修復プログラムについて話し合いを行いましたが,海軍関係者は,米国,英国,ポルトガル,スペイン,ポリネシア,ハワイ,グアム,日本の血を引く人々の間に米国の特徴が未だにあることと,島の大人達の英会話能力に驚きました.

 最初の行動の一つは,自治行政府を設立する事でした.
 当初,米海軍は,この地の統治を一時的なものに過ぎないと考えていたからです.
 10月19日,選挙で5名の代表…それは戦前からの欧米系の有力な家族の代表ですが…が選ばれ,地方自治政府が発足しました.
 住宅建設と建造の責任者はリチャード・ワシントン,船などの修理に対する責任者にグロバー・ギリー,教育と福祉の責任者には叔父が教師であり牧師であったフランク・ゴンザレスで彼は結婚式も主宰しました.
 家畜と食糧生産の責任者は,ウィルソン・セボリー,ジェリー・セボリーとロデリック・ウェブはinspector,一種保安官の役割を果たすことになりました.

 1週間の内4日間が共同体活動,2日間が漁,畜産,果実や薪の採取,日曜日を休日とし,フランク・ゴンザレスの息子であるクラーク・ゴンザレスはBonin Island Council(島民代表委員会)の初代議長となり,若いメンバーも各々がassistant councilmen(准議員)として,島民代表委員会に参加することになりました.

 こうして制度が整えられ,初期修復プログラムが終了し,LCI(L)1067に掲げられていた米国旗が島民達に手渡されると共に,10月22日,海軍関係者は二見湾を後にしました.
 残された島民達は,再び1830年代に於ける彼等の祖先と同じ暮らしをしなければならなくなった訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/08/05 22:14

 1946年10月に白人系入植者とその家族が父島に帰ってきましたが,米軍政府はその後,思い出した様に再定住後1年間,海軍艦船を寄越して,基本的な医療・歯科サービスと生活必需品を持ってくるだけでした.
 それ以外は,彼等が外部との商業や通信を行う手段が全くなかった訳です.

 数年を経て,父島とグアムとの間の行き来が頻繁になると,揚陸艦や他の海軍艦船もそれなりに来る様になり,更に"Chichi bird"と名付けられたHU-16Dが3機,不定期に運航する様になりました.
 しかし,その飛行は,「5時間の退屈と数秒間の恐怖」と表現され,実際に1967年にはその内の1機が二見湾で墜落しています.

 島の状態は,2ヶ月後の12月21日に発生した南海地震による津波で,住居などが破壊されて再び悪化します.
 支援の為に,サイパンの旧捕虜キャンプから必要物資を転用し(なので,こうした物資にはPOWと書いてあったりしたそうですが),1947年1月に届けられました.
 その支援は3月にも行われています.
 因みに,1960年5月のチリ地震津波でも,島は大きな損害,特に発電機を失い,数日間,電気無しで生活しなければなりませんでした.

 島での生活は困難を極めました.
 しかし,此処から出る訳にも行かず,海兵隊の旧兵舎で数家族が共同生活をする事になりました.
 この兵舎には電気や水道は勿論,トイレすら有りませんでした.

 島の担当将校であるヘーゲンバックル中佐も,父島への援助の少なさに不満を覚えていました.
 1947年1月27日付の副軍政長官宛の手紙にはこう記しています.

――――――
 1946年10月28日以降,継続的に求められている,彼等が新生活を開始する為の充分な物資や備品が,未だ供給されていない.
 今までの援助は地域全体に対して充分とは言えない.
 小笠原島民は戦争の結果を受容れて,状況を緩和する為,あらゆる努力を行っている.
 彼等は戦争の数年前から,日本人によって疑念を持たれて居た.
 島民等は戦時中,口に出せない様な困難や非人道的な扱いに苦しんでいた.
 彼等は日本及び小笠原諸島で,我々占領軍にとって貴重な存在であった.
 彼等は特別な好意を求めているのではなく,又これまで受けた援助に対し深く感謝している.
 彼等は立派な人々であり,彼等に対し供給される何らかの援助は確かな投資であると間違いなく明らかになるであろう.
 基本的な必要物資と,水産物と畜産物を市場に出す機会を与え始めれば,この小笠原再定住計画は,高い成功を持つ見込みのある事業である事が証明されると堅く信じている.
――――――

 この時点で,米軍駐留部隊は未だ存在しておらず,軍政府は無く,間接統治が布かれていました.

 1947年春,ヘーゲンバックル中佐は父島に赴き,そこで数週間を過ごして島民の抱える問題を調査しました.
 南海地震による被害にも関わらず,自治機能は機能し始めており,学校を開いて4歳から14歳までの16人の生徒で授業が開始されていました.
 男性5名と女性2名は,教育,農業,酪農,看護の為にサイパンで研修を受けることになり,魚の干物は販売と物々交換用にサイパンに輸出されていて,平和な生活を構築しては居ましたが,生活水準は未だ未だ低水準でした.
 1年を経ても状況は変わっていません.
 サイパンにある海軍民政部門のウィルヘルムはヘーゲンバックル中佐に対し,以下の様に書き送っています.

――――――
 島側は果物や野菜の為の冷蔵船を必要としている.
 子供達の為の学校では,研修を受けていない年寄りの住民によって授業が行われている.
 娯楽設備,或いは何らかの文化的刺戟もなく,司祭や宣教師すら島を訪れたこともない.
 人々は日本志向であり,彼等をマリアナ諸島に縛っておく理由は何も無い.
 旧島民は帰島出来るはずだ,連合国軍総司令部或いは極東海軍司令官は戦後,日本人が帰島することを禁止したが,これは改訂されるべきである.
 小笠原諸島は,米国の信託統治の一部であると考えられるべきではない.
 輸入は輸出を50%上回っている.
 輸出の為の市場は日本にあるべきだ.
――――――

 1948年夏,パウナル海軍少将を載せた2万トン級の海軍輸送船ランダル号が突然,父島に停泊することになりました.
 パウナル海軍少将は,マリアナ諸島の米軍司令官及びグアム軍政府長官であり,小笠原諸島の副軍政長官で,太平洋艦隊司令官兼小笠原諸島軍政府長官のラムゼー海軍大将の部下でもあり,ペリー提督以来の高官の訪問でした.
 とは言え,島の人々にとっては正に青天の霹靂とも言うべき訪問だったりします.
 数日前に硫黄島を飛び立った飛行機から,通信筒が投下されていたのですが,それを受け取れなかったからです.

 島の視察の結果,問題点としては,二見湾に米軍の「正確無比な爆撃の結果」多くの沈没船や撃墜された航空機があり,大型船が入港出来ない事が判明しました.
 二見湾が機能出来なければ,発展や商業が始まり得ません.
 パウナル海軍少将は島民代表委員会と話し合い,島の設備を訪れて視察しました.
 その間,彼の幕僚達は,住民に必須の医薬品や,生活必需品を配達しました.
 また,パウナル海軍少将は,陸海軍の輸送機関が定期的に訪れ,生活必需品や新聞,郵便物を配達し,製品,魚,その他の品々を船に載せてグアムや他の市場に持って行く様に手配すると言う可能性を述べ,彼等の故郷であるマサチューセッツの人々との交流を発展させる事を望みました.

 パウナル海軍少将に同行した若いが経験豊富な従軍記者であったシェリダンは,1950年代半ばまでに父島を訪れた唯一のジャーナリストでした.
 シェリダンの記事はこう書いています.

――――――
 過去1年半の内に,厳選された入植地は経済安定への目覚ましい進歩を遂げていた.
 協同の観点から,健康で丈夫な男がそれぞれの割当てを持つという形で,Bonin Islands Trading Co.(小笠原諸島貿易会社)がサイパン軍政府関係者によって設立された.
 彼等は乾燥鮪や野菜の売り上げから,グアム銀行に10,000ドルの預金を得た.
 42人の創立メンバーの内訳は,セボリー家が15人,ワシントン家が11人,ウェブ家が5人,ギリー家が3人,ゴンザレス家が2人であった.
 彼等は自発的にアルコール飲料の輸入を禁止していた.
 父島の人々は,どんな米国本土の街よりも,確かに振舞が良く,警察も必要としていない.
 更に米海軍が代表者を置いていない為,彼等は,小さな共同体の自治の為の島民代表委員会を組織し,選挙を行った.
 これら簡素な生活者の多くは,プロテスタントであり,彼等は教会活動を指導する為に,1年又は2年間毎に1組の宣教師が居ることを望んでいる.
 彼等は未だに彼等のコミュニティーを『ヤンキータウン』と呼んでいて,数多くの田舎の米国人達と同様,Sears Roebuckのカタログから衣服や備品を注文しているのである.
――――――

 シェリダンは,島民の孤独,彼等が同胞である米国人達との結びつきを強めたいと言う事,更に米国の市民権を得たいという欧米系の島民等の願いをこうした記事に於て強調していました.
 そして,こう結んでいます.

――――――
 一つの問題が他の平和に溢れた未来を薄暗くしてしまう.
 彼等の地位と小笠原諸島の地位である.
 彼等は米国に対し,鎖を繋ぎ続ける事を望んでいる.
 島を日本に返還するのではなく,島民の殆どは米国市民になりたがっている.
 今までの処,米国政府は彼等がどうするかについて何ら指し示しては来なかったのである.
――――――

 これは,19世紀以後,屡々聴かれたテーマでもありました.
 彼等欧米系島民は,"forgotten Americans"と呼ばれ,日米の狭間で苦悩することになります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/08/07 20:33


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