m
◆◆マッカーサー統治
<◆通史
<アジア・太平洋方面 目次
<第2次世界大戦FAQ

「寄星座」:白洲次郎は,GHQと交渉するようです
「寄星座」:吉田茂も,GHQと交渉するようです
「寄星座」■吉田と白洲はGHQと交渉するようです
>今回は嘘9割
とのこと
【質問】
"War Guilt Information Program"ていうのは何ですか?
google検索しても日本のページばかりがヒットして,英文のページもなんだか小林よしのりとか新しい教科書をつくる会について書かれてるような感じです.
日本のページもそれらの受け売りっぽいことしか書かれていないような感じなので,もう少し別の角度からみた情報がほしいです.
【回答】
単純に言うと,その用語は小林よしのりだの同類の連中だのがそう主張しているだけの話で,当時そういう呼称の政策があったわけではないのです.
だから検索してもヒットはしませんし,その連中の主張にしか登場しないのも当然.
その内容や概念はその種の手合いの考えや認識であり,軍事板にはそぐわない話です.
「新しい歴史教科書」関連のページでしか,"War
Guilt Information Program"なる単語が見つからない意味を良く考えてみよう.
参考文献
メディアリテラシとは─意味・解説:IT用語辞典
【珍説】
日本はドイツと違い,「有条件降伏」なのだ.
その〔ポツダム宣言の〕主旨はあくまでも全日本国軍の無条件降伏なのであって,つまり日本軍が武装解除すれば,それでよかったわけである.日本の国家体制まで好きに変えていいとは書いていない!
それなのにアメリカは昭和27年まで7年間勝手に日本に居座ってGHQを置き,占領政策を始めた.
日本人の精神改造に乗り出したのである.
アメリカは東京裁判を進めながら,「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」という,日本人に「戦争をしたことへの罪悪感」を植え付ける洗脳プログラムを,マスコミ・教育を使って実践した.
その結果,
「日本が起こした戦争は全て悪で,アメリカの起こす戦争は全て善」
という刷り込みが,日本人の中にできあがってしまった.
(小林よしのり「戦争論」3,p.56-57,太字は原文ママ)
【事実】
拡大視による論理すり替え.
日本の降伏が宥条件降伏かどうかについては,別項参照.
さて,国家というものは国民の生命,安全を保証する(守る)義務があると共に,軍を統制(コントロール)する義務を負っている.
日本国は,その組織として保有する日本軍を完全に無条件降伏させる義務を有すに足る存在として認められたわけであり,その義務を遂行する組織として,降伏文書調印後も存在した.
もし義務を果たすべき力を自ら放棄し,降伏したとなれば,日本国は日本軍を無条件降伏させる義務を放棄したということになり,日本国がポツダム宣言・降伏文書を呑んだ理由の法理論的な説明が出来なくなる.
別の言い方をすると,日本国が連合国に対して降伏したという主張は,日本国が,日本軍の連合国に対する無条件降伏を約束したポツダム宣言&降伏文書を履行することが出来ない存在となる事を意味するわけで,こちらもまた法理論的に重大な欠陥を有する.
従って日本軍の降伏=大日本帝国の降伏ということは出来ない.
ただ,慣習的に日本軍の降伏=大日本帝国の降伏という論理が成立してしまっているのもまた事実であり,最大公約数的には,日本軍の降伏≒大日本帝国の降伏でも完全な間違いとはいえない.
しかし厳密な議論を展開したいのであれば,日本軍の降伏と大日本帝国の降伏を同一に扱うことは避けるべきであろう.
しかし,ここで問題なのは,小林は無条件降伏した主体が軍であることを実際以上に拡大視し,論理のすり替えを図る道具として使っている部分である.
「日本国は降伏していない」という主張は正しい.
「無条件降伏したのは日本軍だけ」という主張も正しい.
しかしそれを以て
「日本の主権に連合国が介入したのはおかしい」
ということは出来ない.
なぜなら,ポツダム宣言・降伏文書は,日本軍の無条件降伏を求め,日本国の降伏は求めてはいないが,日本の主権を連合国の制限下に置くことを求めているからである.
(軍事板)
ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(と一部から呼ばれているもの)は,軍国主義賛美・現人神天皇思想・神国思想・聖戦思想などへの規制ですから,天皇神国思想教育や大本営発表で洗脳されていた日本人への対応としては,占領側の立場からは普通かと思われます.
これのおかげで,はじめて日本人は満州事変は自作自演だったことや,ミッドウェイから負けていたのに騙されていたことを知ったのですから.
原爆報道規制は不満ですが,いわゆる左系が原爆非難を繰り返してました.
アメリカはドイツでもナチス洗脳を消すための対応を行ってますよね.
![]() ヴェトナム反戦バッジ |
また,「『アメリカの起こす戦争は全て善』という刷り込みが,日本人の中にできあがってしまった」という事実もありません.
ベトナム戦争において,過半数の日本人は反米の立場でした.
(日本史板)
ちなみに,どんなに日本人が天皇神国思想教育や大本営発表に洗脳されていたかについては,こんな話があります.
天皇を絶対的存在者として批判を許さず,この矛盾をかりつつ敢然と学問的体系をつけようとした愚かしい御用学者が,かつての日本には存在したのである.
〔終戦後〕捕虜達の中にも,まだまだこんな考えを持っている者が相当数あった.
だから,この考えを破壊しようと試みた者は,次々と夜間に暴徒の襲撃を受け,天皇を批判した人々は,自ら生命の危険を感じて,米軍当局に生命の保護を申し出た.
米軍当局者は万一を慮って,入院させて帰国させた.
(森田正覚「ロスバニオス刑場の流星群」,芙蓉書房,1981/9/25, p.89)
脱洗脳教育が必要であったことは,この事例からも明白だと思うのですが.
それともなんですかね? 小林は,人々が「日本は天皇を中心とする神の国だ」みたいな考えをずっと持ち続けるべきだったとでも言うんですかね?
【珍説】
日本国民に極端な大本営発表に洗脳された人がいるのは事実ではあるが
【マッカーサーによる三十項目の検閲方針】
(説明・で禁止した事を以下に綴る.)
1.SCAP---連合国最高司令官(司令部)に対する批判
2.極東軍事裁判(東京裁判)の批判
3.SCAPが憲法を起草した事についての言及と批判
4.検閲が行われている事に関する言及と批判
5.合衆国に対する批判
6.ロシア(ソ連邦) に対する批判
7.英国に対する批判
8.朝鮮人に対する批判(以下長いので略,あとは自分で調べてチョーダイ)
これ(以下に続く検閲も含む)を見るとどちらも極端な気がする.
これだけ権利を手にすれば何をやっているのかなど分からないだろ.
日本の悪は表に出しておいてGHQの悪は一切出さない.これでは日本国民が洗脳されるのも無理はない.
また,占領側の立場としては当然〜と言っているが,それは占領側が何をしようが容認する様な事ではないか.
【事実】
例えば1946年5月27日・毎日新聞は世論調査を掲載している.
「憲法草案への世論調査」
・象徴天皇制(=主権を天皇から国民に移す)→支持85%:不支持13%
・戦争放棄の明記→支持70%:不支持28%
・2院制(=貴族院の廃止)→支持79%:不支持17%
・国会議決に対する政府または天皇の拒否権→必要なし52%:必要あり47%
1,世論調査が許可されている
2,実質的国体変革・戦争放棄には国民の圧倒的な賛意があった(この頃は,天皇は,カリスマ性があったにもかかわらず.君主制廃止の共産党は,この点では,あまり支持を得られていなかった)
3,「拒否権を政府や天皇にもたすかどうか」の件では,率直に賛否が分かれてる
4,賛否が分かれた記事が,この時期に出ていると言うことから,必ずしも,完璧な情報操作や,洗脳が行われていたとは言いがたい
GHQは,意識改革を迫った.それは,それが最高の統治策だったから.
日本人はイラク人と違って,天皇・支配者層が率先して占領軍に従った.特に,皇統断絶の危機に際して天皇がとった絶対恭順の姿勢が与えた影響は大きい.フセインや金正日が絶対恭順を国民に指示するようなもの.
意識改革は,北朝鮮崩壊後に,韓国や国連が行うだろう事と同じ事.
「天皇を中心とした神の国」なんてカルト宗教チックな考えをそのままにしておく,なんてことは,日本の国際社会復帰を目指す上で到底,好ましいとは思えませんが.
(日本史板他)
【珍説】
日本がアメリカに「解放」してもらったから,豊かになったと思い込んで,公の場で発言する知識人がいる.
彼らは物心ついたら日本が負け戦の物資不足の状態に入っていて,日本の歴史の中では,ほんの一時期の戦後の困窮生活に耐えた者達である.
戦前の日本の豊かさを知らない者達が,
「アメリカの占領政策のおかげで,日本は豊かになった」
と言っている.
「日本は豊かになったからアメリカの占領政策を受け入れたんだ」
などと言っている.
歴史に無知なだけである.
アメリカの占領政策を日本が受け入れたのは,豊かになったからではない.
日本人がアメリカの占領政策によって洗脳されたからだ!
敗戦によって落胆し,失望し,価値観を見失い,疲弊した精神状態に,
「アメリカの民主主義は素晴らしい」
という呪文が刷り込まれてしまっただけである.
洗脳された文化人は,多くは進歩的文化人となり,アメリカから戴いた憲法を聖書のごとく崇め奉る守旧派となった.
「あらゆる戦争は反対」と言い,日本を守るための戦争にすら反対と唱える自滅主義者になった.
(小林よしのり「戦争論」3,p.69)
【事実】
まず,説得力ある「戦前日本は豊かだった」「日本人は洗脳された」説論証をして見せてから,出直してきてください.
まあ,「戦前日本は豊かだった」を「立証」できるとしたら,それは歴史の「歪曲・捏造」になってしまうわけですが.
で,「日本がアメリカに「解放」してもらったから,豊かになったと思い込んで,公の場で発言する知識人」とは誰の事? 本当に実在するの?
本書でもあちこちで実名を挙げて批判しているのに,こういうところでは実名を出していないのが,メチャメチャ不自然なんですが.
【珍説】
WGIPを知らないバカはまずここ読め
http://members.at.infoseek.co.jp/WGIP/
んで,江藤淳の著作を読め.
とにかく徹底的な検閲で日本=悪にされた.
今でもアメポチは,原爆を投下されたことすら仕方ないと考えている.どうしようもない,あんな非道な戦時国際法違反の行為を非難も出来ない.
立派なWGIPの被害者です,バカポチ一同は.
【事実】
資料として江藤を出してくるのは,何かのギャグですか?
その江藤淳なんですが,「閉された言語空間」(文春文庫),P261-P264において,
この「プログラム」が,以後正確に戦犯容疑者の逮捕や,戦犯裁判の節目々々に時期を合せて展開されて行ったという事実は,軽々に看過すことができない.
つまりそれは,日本の敗北を,「一時的かつ一過性のものとしか受け取っていない」大方の国民感情に対する,執拗な挑戦であった.
と言っている一方,こんなことも書いています.
前掲のCI&E文書の昭和二十三年(1948)二月六日という日付は,それにもかかわらずCCDの収集した情報によれば,この時期になってもなお,依然として日本人の心に,占領者の望むようなかたちで「ウォー・ギルト」が定着していなかったことを示す,有力な証拠といわなければならない.
江藤淳は48年の段階に置いてなお洗脳されてなかったと明言してるんですが?
しかもご提出のHPをみれば,48年以降WIGPによる活動はほとんど記されてないですね.
>今でもアメポチは原爆を投下されたことすら仕方ないと考えている
それは君の脳内にある妄想の人ですから,そんなの罵られても・・・
ところで,いっちゃあ何だけど,小林にとってWGIPってなんなんだろうね?
正直,戦勝国が敗戦国に検閲や旧体制の一掃をおこなうのは,ある意味当然だろうな.
東欧に押し付けたソビエトの共産主義教育のほうが100倍恐ろしいぞ.
負けた国にいったいどのような選択肢があったのか,ご教授願いたいものだな.
もちろん日本人としてはこの件に関していい感情はいだけないが,正直100パーセント悪いことだともいえない.
このプログラムによって日本は大本営発表の嘘などが国民に伝えられた部分もある.
というか,日本神話を学校で教えなかったり,戦争の言葉を言い換えたら洗脳できる人種なのか?,日本人という奴は.
……ああ,その程度でも「洗脳できる」と思っているから,「日本は何一つ悪くなかったんだ」というトンデモ史観を小林は押しつけようとしてるのか(笑)
人間や国家のやることに絶対善なんざありえないので,その時点で小林の嘘は明らかなんですが.
【珍説】
〔ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムについての"怪"説に続けて〕
洗脳されたのは
日本の戦争犯罪を
必死で追及する反戦
サヨクだけではない.
日清・日露戦争までは良かったが,
アメリカと戦うきっかけになった
シナ事変(日中戦争というのは正確ではない)
あたりから,日本は
魔法がかかったように悪になった.
軍部が暴走した.
アメリカと戦ったのは
完全に失敗だった.
これが司馬遼太郎が唱えた
いわゆる「司馬史観」だが,
こういう歴史認識を受け入れている
保守派の者たちは実に多い.
アメリカと戦ったことへの
罪悪感は
やはりとけていないのだ.
(小林よしのり「戦争論」3,P.57)
【事実】
司馬がコヴァに叩かれるとしたら,「昭和という国家」のこんな記述かねえ…
(以下,引用)
「日本という国の森に,大正末年,昭和元年ぐらいから敗戦まで,魔法使いが杖をポンとたたいたのではないでしょうか.その森全体を魔法の森にしてしまった.
発想された政策,戦略,あるいは国内の締めつけ,これらは全部変な,いびつなものでした.
魔法の森からノモンハンが現れ,中国侵略も現れ,太平洋戦争も現れた」
まぁ,いびつというか集団ヒステリー状態だったのは事実だからなぁ.
小林よしのり氏が司馬遼太郎に触れる前に"司馬史観"と言ったのは,「新しい歴史教科書をつくる会」の藤岡信勝氏だったでしょうか.
藤岡氏と仲が悪くなった小林氏が,司馬遼太郎のエッセイか何かを数行引用し,
「日露以後,特に第一次大戦以後の日本を否定している」
と罵倒したのが,氏が”司馬史観”なるモノを罵倒した始まりです.
また,司馬遼太郎と一口で言っても,
1,エンタ小説を書いていた時期,
2,耽々とした歴史小説を書いていた時期,
3,「小田実は現代の坂本竜馬」なる妄言を吐いていた"サヨク"期,
4,晩年の憂国論調
に分かれますので,3のみを取り出して司馬を罵倒した小林氏は,司馬遼太郎をシッカリと認識できなかったか,論敵の藤岡氏を司馬史観もろとも貶めるために,わざと3の部分のみを持ち出し,"司馬史観"なるものを悪魔化したものと思われます.
もちろん,3と4では矛盾するではないかと言われればその通りですが,昭和40年代から,昭和末〜平成期という時代の変化は無視できません.
顧みて小林よしのり自身は,最近10年でコロコロと論調や立場を変えていますので,そもそも貴方に司馬氏を批判する資格が有るのかと聞きたい程です.
「自分は構わないが,他人はダメ」
と言うのは,ゴーマンというより理不尽でしょう.
なお,司馬氏の立場の変遷については,宮崎正弘氏のメルマガの記述を参考にしました.
宮崎氏自身は司馬遼太郎氏の戦略眼や人格については終始懐疑的ですが,同じ文章の中で,4の時期に書かれた台湾紀行などを高く評価しています.
小林よしのり氏の場合,無知だったのか,相手を貶めるために故意のトリミングをしたのか判断できませんが,結果的に公平を欠く記述となり,「司馬氏について無知にも関わらず,司馬氏や司馬氏の著作に対してアグレッシブになれる類の人間」を大量発生させました.
彼の著作のみを読むと,公正な判断が不能になるという好例でしょう.
ちなみに,宮崎氏は親台湾な中国ウオッチャーで,大東亜戦争肯定論者でもありますが,太平洋戦争までの国家政策の失敗は認めています.
ただし,軍事に関しては発展途上で,ノモンハン勝利説を持ち上げたりもしていますので,彼のメルマガや著作を読む時は,その部分には留意してください.
その宮崎氏の小林よしのり氏に対する評価ですが,台湾論に絡んでのモノ以外,殆どゼロに等しいようです.
最近とみに酷くなってきた支離滅裂な論調に関しては,明らかにマイナスと評価しています.
ちなみに,司馬史観なるものを「批判」している人物には,小林以外には以下のような人物がいます.
問題語は,役人用語に限らず,言葉の使い方にもあります.
一例は「戦争」という単語です.
アジアの広大な地域を近代日本が侵略したことは,もはや極右とか藤岡信勝「教授」というような,まともな論理では相手にできぬクリーチャーたちを除けば,認めざるをえない事実でしょう.
ところが,その侵略を「悪いこと」と認識している人々でさえ,侵略という単語の代わりに「戦争」を使う.
日本の全マスコミをこの視点で見ると,例えば投稿欄など興味深いものがあります.「戦争が悪い」「二度と戦争を起こすまい」といった反省のしかたです.
これだとケンカ両成敗,強盗も被害者も々責任,悪いのは「侵略した側」ではなくて「戦争そのもの」(ケンカそのもの)ということでしょう.
〔略〕
こういう枠組の日本的情況の中にあっては,東京大学の藤岡信勝「教授」が破廉恥な"転向"を遂げる大きな動機となった司馬遼太郎史観が,主流日本人や主流マスコミに絶賛され続けるのも当然至極,まことによく理解できるのであります.
(本多勝一「無差別テロと無差別戦争 貧困なる精神P集」,
朝日新聞社,2002/1/5,p.149-150)
【質問】
戦後,占領軍が英語を公用語にしようとしたのって本当ですか?
【回答】
戦後,GHQには赤から奇人変人まで変な米軍人がたくさんやってきて,日本が軍国化した理由と,再度そうならないためにはどうすればいいか,彼らなりに頭を絞って考えてくれたわけだ.
(余計なお世話と見るか,感謝すべきと見るかは人それぞれだろう).
その中に
「日本語が難しすぎて新聞読める人間が少ない」から簡単に思想統制できたんだ,
という勘違いした人間もいて,英語公用語化を進めようとしただけ.
GHQ全体で政策として推進したことはない.
【質問】
なんでマッカーサーは二ノ宮金次郎の銅像を嫌ったの?
【回答】
占領政策上
「日本の軍国主義的な思考の根源の一つ」
として二宮尊徳像の撤去が行なわれた様ですが,別にマッカーサー個人が二宮尊徳を嫌っていた訳ではありません.
あくまで占領政策の一環です.
【珍説】
彼ら〔マッカーサーと連合軍〕は,ドイツに対しては憲法にも教育にも手をつけなかった.
しかし日本は徹底的に改造した.
「未開の人種」と思っていたからである!
(小林よしのり「戦争論」3,p.252)
【事実】
→彼らはドイツに対しては憲法にも教育にも手をつけなかった。
はい,ここダウト.
ドイツ基本法がいつ,どのようにしてできたのか,調べてから出直してください.
【珍説】
「アメリカン・リベラリズム」は,「社会福祉」に関しては政府が積極的に干渉するが,他の分野では市民の「自由」を拡大していく「進歩派」である.
「自由主義」だが,抑圧からの自由であるので,「社民系」というか,ソフト・ソーシャリズムの路線になる.
日本の占領政策は,アメリカでのニューディール政策で失敗した,このソフト・ソーシャリスト(サヨク)達が行ったので,日本社会党,共産党から日本自由党・日本民主党(後に合同して自由民主党)まで全部,このアメリカの民主党リベラルの理念と大差ないものになってしまった.
日本には,アメリカの共和党のような保守政党の理念は入ってこなかった.
保守の思想とは何かを政治家も知識人も,よく分かっていないのである.
(小林よしのり「戦争論」3, p.72-73)
【事実】
嘘ですね。
確かにGS(民生局)はニューディーラーに牛耳られていました。
しかし、GHQはGSだけではありませんよ。
一方では,反共主義者の巣窟だったGII(参謀第二部)が影響力を発揮していました。
あまりに容共リベラルなGSとGIIは仲が悪く、GSのケーディス次長はGIIによって失脚させられたりしてます。
さらに日本の保守派は戦時中、右翼と軍部によって脇に追いやられていたわけですね。
復活後、軍部の暴走と敗北によって無茶苦茶になってしまった日本を、GHQによる無秩序な改革から,良いものだけを取捨選択すべく頑張ってましたよ。
吉田茂などは、GSとGIIの争いを利用もしていました。
こちらから先制奇襲したにも関わらず完敗し、全土を占領下に置かれるという、今より格段に悪い立場だったにも関わらず,タフに交渉した祖先を、あまり見損なうもんじゃないですよ。
サンフランシスコ平和条約に対する反応で、ニューディーラーに毒された(あるいはアカと繋がっていた)日本の政治家はだいたい分かりますよ。
彼らは命脈を保ったが、主流にはなれなかった。
【珍説】
例えGHQの指導がなくったって,日本は自力で農地改革を成し遂げてたはずだ!(劣化林間)
【事実】
うろ覚えだが,確か戦前の革新官僚も農地改革を考えてたりしたらしい.
だが,それを実行する政治力が無くて,結局戦後GHQの力でようやく農地改革がなされたって話だそうな.
あと,占領終了後には農地改革で土地を安くで買い上げられた地主に対しては,国庫から補償する法案が国会で通ってたりする.
この辺りから見るに,地主の政治力は当時はすごく強かったんだなー,と.
そういう「抵抗勢力」を排除して農地改革を進めることが戦前にできたのか?,かなり疑問な訳で,場合によってはフィリピン辺りのようなグタグタになったおそれも排除できない.
実際,史実の農地改革なんて本気で廃案にされかけましたからねえ.
GHQ指令が降りた後ですら難航したくらい.
内容も,抵抗圧力の前に後退.
地主の「一町五反」を限度としてそれ以上の土地を譲渡,という案(当初案)
↓
「3町歩」
↓
「五町歩」
……となり,ここまで譲歩してもなお議会で集中砲火を浴び,GHQが「農地改革に関する覚書」を出さなければ廃案になるところまでいきましたとさ.
【質問】
終戦直後,占領軍が羽田空港周辺の住民に対して,48時間以内の退去を命じたことがあったそうですが,これって国際法的には合法なんでしょうか?
【回答】
とりあえず,戦時中,防火帯建設のために,まともに建っている家に対し,3日以内の退去を命じ,それに従って無くとも期限が来たら,強制的に家を潰すと言うことが出来ています.
戦時中の関連法規を廃止した訳ではなく(ましてや戦後直ぐの時は),多分,国内法で対処可能となるでしょう.
別に国際法上,どうとかと言う話ではないと思いますよ.
眠い人 ◆gQikaJHtf2
【質問】
マッカーサーは非武装なんていう妄想憲法を押し付けて、どうやって日本防衛をするつもりだったのですか?
永続的に日本を占領するわけじゃあるまいし。
【回答】
非武装・戦争放棄の提案に関しては,憲法制定以前のマッカーサー・幣原会談が発端と言われており、そのイニシアティブをとったのがいずれであったのかは,現状でも判明していません。
(幣原というのが最近の説のようです)
また、憲法改正当時は米英中ソ4大国協調+国際連合による国際安全保障というのが,現実味のある提案として語られていました(特に米国において)。
アジアにおいては米中(中華民国)が共同で地域の安全保障を担うはずでした。
そのような国際情勢においてなら、日本の戦争・軍備放棄も可能と考えられていたわけです。
この辺が急変して再軍備が促されることになるのも、アメリカがパートナーとして期待していた中国が共産化し、更に冷戦が構造化してかつての構想の一切が不可能となった状況変化によるものでした。
櫻井よし子は,アメリカは「日本がずっと憲法改正しないなどとは想像さえしなかったようです」と述べています.
以下,引用.
53年12月に来日したニクソン副大統領(当時)は公式スピーチで,
「私は合衆国が1946年に誤りを犯したことを認めます」
と語り,非武装化を定めた憲法は誤りだったと認めました.
それ以後も,米国政府は折に触れて憲法改正を示唆してきました.
最近では,クリントン大統領政権下の2000年にアーミテージ現国務副長官らが発表したアーミテージ・リポートも,21世紀の日米関係は日英関係に学ぶべきだ,日本は集団的自衛権を行使せよと指摘しています.
( from SAPIO 2003/10/22号,小学館,p.8)
また,松野頼三は,「昔の議員は皆,改憲論者だったが,実現の可能性がなかったので,言わなくなった」と証言しています.
以下引用.
私が吉田茂首相の秘書官を経て衆議院に初当選したのは,新憲法公布の翌年(1947年,当時30歳)だが,議会はGHQ,すなわち占領軍の意向を逐一聞かなければ法案なんてできなかった.
往々にして護憲論者は,民意を反映したというが,そんなものは嘘っぱちだ.
当時,心有る代議士はみな,いつか自主憲法を作りたいという気持ちを持っていたんだ.
思想的に偏向していた政党は別.
日本社会党(51年に左右両派に分裂し,55年に再統一)は現憲法に反対した.衆議院で投票のときは反対投票をした.
これはアメリカの憲法だ,言葉が大体冗漫だ,英語で書いたのを翻訳しただけだと,社会党は大反対した.
日本共産党はもちろん反対,自分たちは共産憲法を作るといって,この憲法に反対した.
社会党はその後,護憲のほうに入った.大変な変節をしたんだ.
その点,自民党では皆が自主憲法を作りたがっていた,殊に,鳩山一郎・吉田茂の保守合同の際,政策綱領に合同の目的は,自主憲法を作るとした.
結党の精神なんだ.
それをすっかり忘れてしまって,現行憲法のままこれを当然だと思って,今日まできてしまった.
〔略〕
吉田〔茂〕さんはサンフランシスコ講和条約(1951年)に調印したとき,憲法改正をしたかった.
しかし,衆議院で憲法改正発議に必要な3分の2の議席が取れなかった.
それで憲法改正を現実に政治に載せられなかった.
戦後最大のタイミングだったけど,駄目だった.
私が総務庁長官や労相として入閣した岸信介さんも心中ずっと憲法改正.
皆そうなんです.私と初当選同期の中曽根康弘も憲法改正論者,しかし残念だけど力が足らないものだから,憲法改正を言っても駄目ということで,とうとう言わなくなった.
だから若い議員は,それを当たり前だと思っている.
( from SAPIO 2003/10/22号,小学館,p.14)
【質問】
何故,アメリカは日本の軍事組織を潰してしまったのでしょうか?
日本の軍事力を利用して,冷戦で優位に立とうとする考えはなかったんですか?
【回答】
なかった.
と言うか,アメリカが日本の軍事組織を潰してしまったのが太平洋戦争だとするなら,そもそも1945年時点で共産主義国家との間で「冷戦」という状況に立ち至るという状況が予見できていなかった.
戦後の占領下で法的に「潰した」と言いたいのなら,「日本の軍事組織」は戦争末期に既に壊滅状態であり,朝鮮戦争の勃発を見て大慌てで方向転換している.
終戦直後は冷戦構造は確定していない.
見たことも聞いたこともない物を予測するのは概ね不可能.
その対処法もまた然り.
しかし冷戦時代,日本の自衛隊は米の補完戦力以外の何物でもなかった.
そもそも警察予備隊は,朝鮮戦争で不在になった在日米軍の代わりに日本を共産勢力から守るという名目で結成されたし,マッカーサーはそれを直接,朝鮮に,そして中国に投入する計画だった.
時代は下って,海自のイージス艦導入だって当初は米空母護衛が目的だったのは公然の秘密だ.
その後,いろんな経緯があって変質したけどな.
【質問】
敗戦後に解体された旧軍に変わって設立された第一,第二復員省の旧軍人は,どのような身分だったのでしょうか?
軍人では無い以上は軍法は適応されず,ただの公務員だったのでしょうか?
【回答】
武官に関しては,例えば陸軍省が廃止される際には,全員を予備役編入扱いとして,第一復員省に引き続き勤務する者は,1945年12月1日付で召集という形式を踏んでいます.
そして,第一復員省が廃止されると復員と言うことになっており,つまりは,軍人の身分のままと言えます.
これは第二復員省でも同じです.
眠い人◆gQikaJHtf2
【質問】
米陸軍第27歩兵連隊と日本の孤児との交流は,どのようにして始まったのですか?
【回答】
太平洋戦争終結後,日本は米軍を中心とする連合国軍によって占領されます.
大阪にも勿論,米軍が入ってきています.
さて,そんな大阪に進駐した部隊の一つが,米陸軍第27歩兵連隊.
通称,"Wolfhounds".
この連隊は,Guadalcanalを皮切りに各地を転戦した歴戦の精鋭部隊でした.
1948年,そんな部隊に一人の男が配属されました.
Hugh O'Reilly軍曹.
彼は1914年にNew Yorkで生まれ,大恐慌の真っ最中の1932年に18歳で陸軍に志願して,Hawaiiで部隊勤務の後,New
Yorkに戻って退役しました.
ところが,平和な生活を満喫する暇もなく,1ヶ月後に太平洋戦争が勃発.
一度軍務に就いた彼は,今度は海兵隊に身を投じ,高射砲部隊に配属されてNew
Caledonia,Guadalcanal,Guamと言った激戦地を転戦していました.
結局,1945年12月まで彼は海兵隊で任務に就くことになり,やっと退役の日を迎えることが出来ました.
しかし,娑婆での生活が性に合わなくなっていたのでしょう.
1948年8月,誕生日を前に再び陸軍に志願し,1949年7月,希望していた日本の地を踏むことになりました.
これが第27歩兵連隊で,当時は堺に駐屯していました.
1949年のChristmasのことです.
彼は戦友やコックを連れ,赤十字からの物資を携えて,部隊近くの戦災孤児の為の施設,「聖家族の家」を訪れます.
施設から戻った彼は,その余りに貧弱な状況にショックを受け,仲間と語らい,次の給料日にみんなでお金を出し合って,143ドルを集めて,1950年の新年にこの施設に寄付しました.
次の給料日も,その次の給料日にも彼は寄付を続け,次第にその活動は部隊のみんなに知られる様になりました.
いつしかその活動の輪は広がり,寄付金も多くなり,施設の修理をする活動も始められ,その中心に立つ彼は,子供達から慕われました.
そんな平和な日々も,朝鮮戦争勃発で突如暗転.
第27歩兵連隊は先遣部隊として朝鮮半島に送られることになります.
しかし,彼は塹壕の中でもヘルメットを回して寄付金を集め,施設に送り続けました.
そうした活動が本国のマスコミに知られるようになり,1955年,彼と施設の話は,"Three
Stripes in the Sun"と言う映画にもなり,日本でも「やさしい狼犬部隊」として公開されました.
軍曹は朝鮮半島からNew Jerseyの基地に移り,West
Pointを経て,再び部隊が移駐していたHawaiiに移りますが,今度は其処で施設の子供達をホームステイで受入れ始めます.
勿論,施設に対しての寄付は怠りません.
毎年のように続けた寄付は,総額2億円にもなるそうです.
彼はこの6月23日,91歳でその生涯を閉じました.
しかし,彼と施設との関係は確実に次世代に受け継がれ,第27歩兵連隊はこの施設との交流を今後も続けることを言明したそうです.
今〔2005年当時〕,イラクの人達のために自衛隊が活動しています.
敗戦直後の日本と,彼の国とでは比較することは出来ないでしょうが,サマワの人々にとって,自衛隊が良い思い出になってくれると良いな,とこういう記事を見て思ったことです.
"I don't think you can emphasize enough
about the greatness in these men,"
「戦災孤児の父」元米軍軍曹逝く 大阪の施設を長年支援
Isle soldier began 27th Infantry's relationship
with orphanage
眠い人◆gQikaJHtf2 in mixi
【質問】
漫画『はだしのゲン』で,ゲンが道端に武装解除された日本軍の南部拳銃甲式を拾いに行く場面がありましたが,当時は武装解除された兵器があんな道端に転がっていたんですか?
【回答】
道端ではなく,武装解除された日本軍の武器集積場からだったと思う.
進駐軍が旧日本軍の武器をまとめて管理するまでは,いわば野放し状態で,一般国民はそんなものより食料や衣服を欲しがったのだが,ヤクザや三国人暴徒に流れた武器もかなりあり,終戦直後の抗争には必ず登場していた.
また,ヤクザでなくとも一般市民が旧軍の銃を隠匿していた例もある.
愛新覚羅溥傑の長女,慧生が,天城山で大学の同級生の青年と心中したとき,使われたのは南部十四年式拳銃だった.
俺の親父も子供の頃,武装解除された兵器が海岸に埋めてあったので,掘り起こしていじってたって言ってたよ
.
◆◆◆交通
【質問】
GHQは自動車を生産禁止にしたの?
【回答】
GHQも四輪車全部の生産禁止をしてはいませんよ.
とは言え,占領当初は方針が不明確だったので,トヨタは豊田自動織機の生産再開,北海道稚内で竹輪の生産,泥鰌の養殖,瀬戸物生産と,コンクリート製プレハブ住宅建設を手がけ,刈谷ではアイロン,電気コンロを作り,その他の金属生産工場ではスプーン,フォーク,琺瑯鉄器,印刷機械の製作を,工場付属病院でも,神経痛の薬を作ってみたり.
日産も練炭会社を買収して練炭の製造に進出したり,会社の敷地内にあった木材を焼いて炭にしたり,炭を燃料に,目の前の海水から塩を作ったり.
GHQは9月25日に,トラックやバスの生産を日産,トヨタなどに認め,生産が再開されています.
日野が手持ち資材を用いて,戦車改造トラクターとか,トレーラートラック,トレーラーバスとかを製作し,トヨタ,日産などでも戦時急造型トラックを元に生産を始めています.
但し,民間に売られるものは大多数がまだ代燃車でした.
1947年には年産300台で乗用車の生産が認められ,トヨタはSA型を新規開発し,日産は戦前の発展系であるダットサン・トラック,次いでダットサンDAの生産を開始しています.
ちなみに,1950年代日銀総裁は,「日本はトラックだけ作っていれば良い,自動車は輸入すればいい」と言っていたり.
しかし通産省は,日本の輸出産業の一つにするため,通産省主導で外国企業との提携を進めさせ,日産は英国のAustin,日野がRenault,三菱がWillisとKaiser,いすゞがRootsグループと提携することで,その生産技術を学び取っていきます.
トヨタ,プリンスの場合は,国産技術を基にしていますが,トヨタのエンジンはGMのChevroletそのもの,プリンスは前身の立川飛行機の傘下にオオタ自動車があったことから,その技術が導入され(暫くはオオタ自動車も生きていますが),富士精密のエンジンはPeugeotを参考にしています.
他の企業は大抵が三輪車から入って,その延長線上に四輪車(東洋工業とダイハツを除く)に進んでいっていますね.
眠い人 ◆gQikaJHtf2
【質問】
米軍占領軍のために敷かれた鉄道があるそうだが?
【回答】
現在,練馬区にある光が丘団地,此処には元々旧陸軍の板橋飛行場がありましたが,戦後,占領軍が進駐してくると接収され,後に米軍によって,家族住宅1,200戸が建設されました.
俗に言う「グラントハイツ」の始まりです.
此処への交通として,後にはバス路線が設定されましたが,バスの数が未だ足りない時代は,東上線上板橋駅からグラントハイツまで分岐する枝線が,米軍命令で緊急に敷設されました.
国鉄から専用車としてガソリンカー10両を借り入れ,グラントハイツと東上線池袋の間を運転しましたが,旅客輸送は1年足らずで中止され,最終的に1957年8月に廃止されました.
ちなみに,この専用線は「啓志線」という名称で呼ばれていました.
これは,運輸省への届出上,路線名を付ける必要があったのですが,緊急工事であった事もあって,名称を決める手間を惜しみ,グラントハイツ管理の総責任者である「ケーシー」中尉の名前を取ったそうです.
昭和30年代のバス写真集を見てて発見した小ネタです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi支隊
【質問】
戦後直後の鉄道事情について教えてください.
【回答】
戦後,各地の鉄道は自動車交通が発達していなかった事もあって盛況を迎え…と言うか最後の光芒を放っていた訳ですが,北海道では更に道路の発達が遅れ,専ら鉄路に頼る事になります.
そんな中,内務省主導,戦後は北海道庁主導で運行されたのが,「拓殖鉄道」と言う鉄道でした.
その路線は,国鉄の駅に接続しており,其処から入植地に向かって延びていました.
動力は,馬,牛,人力から,やがてガソリン機関が入り,ディーゼル化されていきます.
ただ,輸送量の少ない拓殖鉄道は,最後まで馬や牛が牽く事が多かったようです.
戦後の燃料事情はと言えば,旧軍部保有燃料以外は,乏しいGARIOA(Government
Appropriation for Relief in Occupied Area
Found)資金(米国占領地救済政府資金と呼ばれ,米軍軍事予算内から支出され,日本には1946〜51年に他の資金と共に18億ドルが援助(うち13億ドルは贈与)されている)の枠内から輸入され,軽油は農地開拓(食糧増産)用ブルドーザー,産業復興用トラック,逼迫していた都市交通回復用の都市部バスなどに優先的に配給され,鉄道は除外されています.
このため,戦後も長らく非電化私鉄では代燃装置を取り付けて運行されていたり,石炭の高騰に耐えかねて電化したりしています.
戦後直ぐにディーゼル化した私鉄は,江若鉄道(今の湖西線を走っていた京阪系の非電化私鉄)が最初で1948年2月に申請し,当局は7月に認可しましたが,これは米軍キャンプ地関連輸送を名目にごり押しした結果だったり.
他の会社は,1950年以降の認可で,それも代燃によるもの.
とは言え,闇での軽油入手も容易になり,代燃炉装着で認可を受け,実際には100%ディーゼルカーとして就役し,燃料の安定供給が為され,規制が解かれてから,代燃炉廃止の届けを出すという,「官」の顔を立て乍ら,実際は知らぬ顔の半兵衛を決め込む図太い生活感溢れることをしていたりしています.
閑話休題.
今,日本の最東端の鉄道駅と言えば,根室の一つ先の東根室になっていますが,この駅は全く何もなかったりします.
木製のホームが一本有って,その端に「日本最東端の駅」と言う朽ちかけた柱が立っていただけでした.
しかし,実は根室から先,歯舞村まで根室拓殖鉄道と言う拓殖鉄道の路線がありました.
ここも御多分に洩れず,北海道なのに石炭高騰に苦しみ,しかも従来運行してきた蒸気機関車の老朽化もあって,乏しい中から代燃車2両の製造を行います.
1948年に北海道の田井自動車工業というバスボディーや特装車製造の会社に発注します.
何故,名だたるメーカーに発注しなかったのかは不明ですが.
1両はキハ2.
バスボディーや札幌市電を参考にした車体は旧軍の残存物資であるジュラルミンが一部に用いられ,エンジンは日産180型トラックのそれが用いられていました.
これの価格は118万円.
もう1両は貨物専用の気動車で,キ1とされ,キハ2と同じエンジンを用い,これも車体はジュラルミンで製作され,荷台は木製で荷重僅か0.5t.
当初はキャブオーバースタイルで登場し,価格は87万円.
しかし,1953年以降になるとトラックの普及が始まり,国鉄の根室駅に接続していない拓殖鉄道では,競争にならず,この珍奇な貨物気動車は改造され,荷台を撤去し,木製の客室を取り付けます.
更に重心位置を合わせるために,シャシー前部を延長してボンネットを取付,キャブと客室の間には窓を取り付けて連絡が出来る様にしました.
ただ,素人工作なのか,客室車体は右側がキャブより若干出っ張り,左側が面一と言う不細工な造りになっています.
流石にこんな車輌でバスに対抗するには貧弱すぎ,結局,この鉄道は1959年に廃止され,根室拓殖鉄道もバス会社に転換していきました.
もう一つ,九州にも愉快な改造気動車がある訳ですが,これはまたの機会に.
キ1

キハ2

〔どちらも昆虫っぽくて可愛い〕
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年04月21日21:43
【質問】
戦後直後のバス交通事情について教えてください.
【回答】
敗戦後,日本のバスは空襲による被災と戦時中の酷使により,故障や焼失が続出し,更に燃料不足が重なって,輸送力は極度に低下し,惨憺たる有様でした.
そこで急場凌ぎに稼働するトラックを動員.
初めは荷台に人を乗せていましたが,やがて荷台に幌を掛け,更に荷台に箱形の小屋状の簡易車体を積んで人を運ぶ様になりました.
1946年になると,運輸省は簡易車体の規格を策定し,帝国自動車工業(後の日野車体工業),刈谷車体(後のトヨタ車体),M.A.Iボディ,横浜製作所,日本自動車工業の五社に簡易車体の製作を命じます.
こうしてバスボディの車体製作先を確保した上で,占領軍に軍用車の払い下げを依頼.
それらはガソリン特別配給付きで払下げられます.
それに最初は荷台に幌掛け,後に簡易車体を架装してバスとをして使用しました.
その車内には必ず
「この車輌は進駐軍の好意により提供…」
と言う掲示が義務付けられていたそうです.
払下げ車には,主にGMCの2.5t積軍用トラックが充当されましたが,中には水陸両用のDUKWも混じっており,これは結構車高が高かったので,架装に往生したらしい.
この2車種は主に大型バスとして用いられ,中小型のバスにはDodgeのWeapon
Careerを大型化した1.5t積のDodgeトラックが用いられました.
こうした車輌の供与総数は,混乱期でもあって不明――一応,DUKWは440台供与されたらしいし,東京都交通局向けキャブオーバーバスとして富士産業(中島飛行機の後身)が90台納入している――なのですが,運輸省陸運監理局によって,これらトラックの日本語「取扱便覧」が製作されていたそうです.
中小のバス会社でも1〜10数台は入っていたので,相当数に上ったのではないでしょうか.
さて,世の中が落ち着いてくると次第に代用バスは姿を消し,ガソリン駆動で不経済なため,ディーゼルバスが普及した東京なんかでは短期間で姿を消したのですが,大阪市交通局にあったGMC改造バスは結構長く使われ,1953年に漸く廃車となりました.
普通,こうした車輌はさっさと解体するのですが,これに目を付けた私鉄がありました.
熊本北部に山鹿と言う盆地の温泉地があります.
鹿児島本線の植木と言う駅から山鹿まで,湯治客を運ぶ鉄道として,山鹿温泉鉄道と言う小さな鉄道がありました.
この会社も,戦後の特需景気でそれなりに潤い,更に社業を拡大しようと熊本まで乗入れる為に,国鉄に準拠した大型ディーゼルカーを発注していましたが,1953年の大水害で橋梁や築堤崩壊で大損害を出し,結局その2両の車輌はキャンセルせざるを得なくなり,新車の投入のアテが無くなりました.
そこで目を付けたのが,大阪市交通局の廃車.
これを国鉄鹿児島工場に持込み,後輪を1軸として四輪気動車に改造した訳で.
当然,ボンネット型ですから終点で転回する必要がありますが,車体に油圧ジャッキを取付,後部の補助輪を接地して,ジャッキで車体を持ち上げ,補助輪を接地させてぐるりと回すと言う代物でキハ101と名付けられました.
流石にこんなゲテモノはこの一作だけでしたが,もう一両の方は,国鉄鹿児島工場での改造費が勿体なかったのか,自社で施行しています.
キハ102と呼ばれたこちらは,古バス車体2つの尻を両端にして切断結合して1台のキャブオーバー車とし,後部車軸1軸の撤去や転回する構造は同じ手法を踏襲しました.
1954年にキハ101,1955年にキハ102が竣工しますが,ブレーキ構造はGMCそのまま,ハンドブレーキも流用しています.
ちなみに,最高速度は72km/hとなっていますが,これはトラックとしての最高速度だったりします.
この鉄道は1957年に再度大規模水害に遭遇し,国鉄との接続が絶たれ,12月に休止,1965年に廃止されました.
これらのゲテモノは僅か2年くらいの命だった訳で,放置された車体は完全に朽ち果ててしまいました.
まさか,GMCのトラックも,こんな流転の生活で異境の地で朽ち果てることになるとは思わなかったのではないでしょうか.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年04月22日21:15
【質問】
占領時代のアマチュア無線事情は?
【回答】
アマチュア無線は,戦時中から戦後までしばらくの間禁止されてたのですが,戦後日本のコールサインは進駐軍兵士の免許に使用されてました.
コールサインのプリフィックスはJ一文字から割り当てが減らされてJAとかJDとか二文字になっています.(JY1は先代のヨルダン国王のコールサインでした)
その後日本人へのアマチュア無線業務が解禁になると,在日米軍向けのコールサインのプリフィクスはJのかわりにKを用いるようになりました.
在日米軍の隊員の連絡用に,アメリカが割り当てられていたプリフィクスで存続させたのです.
アメリカではアマチュア無線と公衆電話回線の接続に関する規制が緩かったので,アメリカ本土までアマチュア無線でバイパスする事で国際電話の高い通話料を回避できたのです.
これは免許制度の硬い日本では認められず,90年代中ごろようやく解禁となったのですが,電話に出る相手がアマチュア無線の免許を持っていなければならない・電話回線への機器接続に認可が要るという縛りがあり,あまり普及せず今に至ります.
アメリカ式の免許制度を取り入れていれば,携帯電話やIP電話の普及は遅れたかもしれません.
琉球政府発足後の沖縄では,本土復帰までKR6というプリフィクスを使っています.
Rは琉球のRですが,頭文字がKなのは電波行政を米軍に牛耳られていたのでしょう.
こちらは日本人(現地居住者)も免許を受けており,KR6AA平安氏をはじめとした日本人局は返還時にJR6AAというように変更となり今に至ります.
なお,戦前のアマチュア無線のコールサインは,J1AAというふうに,「J」が日本,「1」が地域(以上プリフィックス),「AA」が通し番号(サフィックス)になっていました.
戦後はJA1AYOというふうに,「JA」が日本(他にJD,JRなどあります),「1」が地域(1は関東),AYOがサフィックスとなっています.
80年代終わりより,無線局の数があまりに増えすぎた(日本だけでそれ以外の国のアマチュア無線人口を超えてしまうくらい)ために,Jxコールでは足りなくなり,関東地域に対して「7N1」など,数字の7で始まるコールサインを割り振っています.
日本アマチュア無線連盟(JARL)のコールブックを見れば,無線局の常設場所=住所もわかってしまいますので,無茶苦茶なことを言いたい方はコールサインをアドレスに使ってはいけません.
戦前,アマチュア無線が禁止されるとき,
「軍部の情報収集の助けになるので受信設備だけでも残して欲しい」
と無線家たちが役所に働きかけたそうですが,結局受信も禁止されてしまったそうです.
CQ Hamradioの記述を元に書き起こしていますが,間違ってたら(受信を禁じる規定が無いなど)ご教示いただければ幸いです.
▼ 上述中にも記載されていますように,在日米軍のアマチュア局はKのプリフィクスが指定されたわけですが,ここで電波法のアマチュア局に対する規定「日本国籍を有するもの」がひっかかってきます.
つまり在日米軍人は日本国籍を有しないため,アマチュア局を開設できないのです.
そこでK局は,米軍業務の補助無線局として開設を認めるということになりました.
で,K局は電波法上はアマチュア局ではないため,日本のアマチュア局は
「K局とは交信してはいけない」(電波法によりアマチュア局の交信相手は,アマチュア局でなくてはならないことになっている)
ということになりました.
私がアマチュア局を開設した頃(30年も前の話),JARL(日本アマチュア無線連盟)の会誌などで盛んに
「K局はアマチュア局ではありません.交信してはいけません」
と記されていたのを覚えています.
なお,相互運用協定があるので,この問題は解決したのではないかと(もうこの関係から離れて久しいのでよくわからないが)思われます.
(まあアマチュア無線自体,衰退著しいのであれですな.)
◆◆◆天皇の動向
「人間天皇」ファミリー
【質問】
戦後に昭和天皇が、マッカーサーに
「私の身はどうなってもいいから、国民を助けて欲しい」
と言った、というのは本当ですか?
【回答】
どうも通訳の記録などから嘘のようです。
マッカーサー自伝は事実でないことが多いので,史料になりません。
【質問】
天皇は何故,敗戦の責任を取って退位しなかったの?
【回答】
昭和天皇のことだけれど,戦争に負けるという「悪い成績を残したから」辞めろという話はあった.
「マッカーサーが
『いてもいい,辞めさせるべきではない』
といっていたけれど,でもあなたの仕事で日本の兵隊はたくさん死に,国民もたくさん死んだ.
遺族たちはあなたがまだ天皇をやっている事を見てどう思うだろうか.憎むのではないだろうか.
だから,あなたは『日本の国民に対して責任をとる』意味で,辞めて皇太子(今の天皇陛下)に位を譲るべきではないだろうか…」
お付きの人や,親戚からこんなことを言われた.
昭和天皇はひどく気にして,国じゅうを回ることにした.
国はどのくらいメチャクチャになっているのか,国民は今どんなくらしをしているのか,自分をどう思っているのか,そして,自分はこれから何をすればいいのか,それを確かめるため…
昭和天皇は,(自分を憎むものがいるのは当たり前だから)
「石でもぶつけられればいいんだ」
とお付きの人にいった.
石どころか,殺そうという人だって当然いたはず.
覚悟をしていたんだ.
でも,どこへいっても,そんなことにはならなかった.
行く先々で大歓迎を受けた.
中には死んだ息子の写真を胸に
「天皇陛下がお見舞いに来て下さいましたよ」
と泣く母親もいた.
もしここで辞めたら,泣いて歓迎してくれた国民の気持ちを裏切る事になる.
辞めることは国と国民の心を受け止めることを放棄したという,君主が一番やってはいけないことなんだ.
苦しむ心を受け止めるのは辛い.一生やらなくてはならないのか?
辛い,辛すぎる.
でも,辞められるわけがない.それが戦争をやって,そして負けた君主としての責任の取り方なんだ…
昭和天皇はそう気付いた.
だから辞めなかった.
あと,GHQ側も当初は廃止予定(昭和天皇退位→靖国神社の神主計画もあったようだし)だったけど,調査の結果戦後統治に使えるとして,天皇制を残したと言う経緯もある.歴史上,日本の統治に極めて有用な象徴である,と.
アメリカ側も天皇を処刑するなんてことは計画してない.
葉山離宮に軟禁するという話はあったらしいがね.
実際にはそれすらもされなかったのは史実の通り.
ティキ◆LStfMiPE.w from 軍事板暫定移転スレッド in コヴァ板
なお,以下の記事によれば,終戦から講和までの間に,天皇は退位を決意したことが3度もあるという.
以下引用.
最初は終戦間もない20年8月29日.
当時側近だった木戸幸一内大臣の「木戸日記」によれば,
「戦争責任者を引き渡すは真に苦痛にして忍び難きところなるが,自分一人引き受けて退位でもして納める訳にはいかないだろうかとの思召あり」
と書かれている.
だが,木戸内大臣は陛下が責任を認めれば,かえって逆効果になりかねないと押し留めた.
1ヵ月後にマ元帥との初会談がある訳だが,当時の陛下の心境を思うと,
「自分はどうなってもいい」
という発言は,あながち後からマ元帥が誇張したものとも思えない.
2度目は昭和23年の秋のことである.
21年から始まった極東軍事裁判の審理がその年の春に終わり,A級戦犯25名の判決が11月12日と予定されていた.
退位論議が急に高まったのは5月頃だった.
「A級戦犯の判決が近付いて,判決を機に天皇は退位する事を考えています.
その明白な資料が23年11月12日付で,マッカーサーに当てた田島道治宮内庁長官の手紙です」
と,先の秦郁彦氏は話す.
この親書は「退位せず」の決意を伝えるものだが,あえて親書を出さなければならないほど陛下は退位を心に決めていた証拠だという.
「マッカーサーは占領遂行に天皇の影響力が不可欠と考えていましたから,退位の決意を知って慌てて吉田首相を通じて説得させたわけです.
その説得に応じたという報告が,この書簡だったわけですよ」
皇族や閣僚の中には,退位に賛同する者も多かったというが,マッカーサー元帥の占領政策のために,ご自分の意志を通せなかった.
3度目の決意を阻んだのは吉田茂首相だったと見られる.
時期は講和条約発効を控えた26年10月から11月にかけてのこと.
前出の「木戸日記」の未刊行部分にその時の経緯が書かれている.
巣鴨プリズンに入っていた木戸幸一が,人を介して陛下に講和条約発効を機に退位を進言した.
その結果について,11月28日の日記にはこう記されている.
「御退位の御希望は陛下自身にもあり,又田島長官も松平康昌式部長官も同じ意見なるが,只吉田首相は至て此の問題について無関心な様子なので苦慮して居る.
陛下は8月15日前後に其御意向を吉田首相にお伝へになつた様に思ふとのことであつた」
陛下も退位の希望を持ち,宮内庁幹部も同意したが,吉田首相だけは同意を示さなかったというのである.
天皇退位となれば,内閣総辞職は当然のことだろう.
当時,政界では講和を花道に吉田首相勇退論が強く出されていた.
政権を維持するには退位していただいては困る.吉田首相の無関心には,そうした思惑があったからではないのか.
from 「週刊新潮」,2006/3/16号,p.73
▼ ただし以下のページによれば,昭和天皇は稲田周一侍従長に「退位すると言ったことはない」とはっきりいっているらしいです.
http://www5f.biglobe.ne.jp/~kokumin-shinbun/H11/1101/110100showa.html
もっとも,上記ページは政治主張が強いものにつき,バイアスがかかっている可能性を考慮して,可能ならば各自クロスチェックされたし.▲
【質問】
かなり前に,元日本兵の人が,「ニューギニアで死線を彷徨って多くの戦友が死に,自分も指をなくしたのは,無謀な命令をした最高責任者,つまり天皇に責任がある!
しかし天皇は絶対に処罰されない,
だから俺が裁く!」
という理屈で,天皇にパチンコで狙撃して捕まりましたが,この人に賛同した元日本兵の人は,多かったんでしょうか?
【回答】
常識で考えよう.
「神軍平等兵」は特殊の極北.
詳しいことは,奥崎謙三でぐぐってみるといいよ.
「ゆきゆきて神軍」で有名な人.
この映画はなんとDVD化もされている!(ただし未見).
ついでながら,「神様愛い奴」(これも未見)ではSMの女王様も出てくるそうで・・・
ただ,例えば「はだしのゲンという漫画には,片目を軍隊で失った元日本兵が
「天皇が責任を取ってくれましたか! 自分だけのうのうと生き残って!」
と話している場面が出てくる.
軍事板
& 名無し in FAQ BBS(青文字)
【質問】
ホーマー・シンプソンと「神軍平等兵」はどう違うの?
【回答】
後者は確信犯だが,前者はただのアホ.
以下引用.
ホーマーは国技館に相撲を観に行って,天覧に来ていた天皇を投げ飛ばしちゃったのだ.
「裸の銃を持つ男」でエリザベス女王やホメイニ師をボコボコにしていたアメリカ人にとってはどうってことないギャグだけど,投げられた天皇は汚れた廻しの山に頭から突っ込むわ,それ見てホーマーはガッツ・ポーズするわ,
町山智浩著「アメリカ横断TVガイド」(洋泉社,2000.9),p.165
ホーマー・シンプソンの脳
