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●書籍

『終わらざる夏』(浅田次郎)<「MURAJIの戯れ言so-net blog版」◆(2010/07/14)

「そっと××」◆(2010/08/29)姜尚中氏の『終わらざる夏』の書評が間違っているような〜 占守島守備隊が国家反逆者!?〜


 【質問】
 アメリカは原爆を2発も落としてまで,ロシアを威圧して日本の統治権を独占しようとしたのに,何故ヤルタ会談でソ連に対日参戦を求めたのでしょう?
 どうも矛盾してるような気がするのですが・・・

 【回答】
 ヤルタ会談の時点で原子爆弾はまだ出来ていない.
 無いモノに頼るワケにはいかない.
 んで,アメだけで日本を追いつめるのは効率が悪いので,会談でソ連に参戦を頼んだ.

 45年に入り,アメは原子爆弾を完成,アメはソ連の力なしで日本を降伏に導くことが出来るようになった.
 この時点で,日本を単独占領できるアメにとって,ソ連の参戦は邪魔となったが,ヤルタ会談で対日参戦を頼んだので,今さらヤメロとも言えない.

 アメはこんな感じに考えていた.

 原爆投下直後日本が降伏した結果,
スターリン 「日本の北半分占領したい」
トルーマン 「ダメ」
スターリン 「じゃせめて北海道占領したい」
トルーマン 「ダメ」
スターリン 「日本占領軍に入れてくれ」
トルーマン 「将校10人までに限る」
スターリン 「くそ!覚えてろ」
トルーマン 「腕ずくでくるなら,こっちには原爆があるぞ」
スターリン 「そんなもん,すぐにぱくってやるわい」

 で,冷戦へまっしぐらの展開となった.


 【質問】
 ヤルタ会談戦後の日ソ外交交渉は,どのようなものだったのか?

 【回答】
 1944年後半.
 既にソ連はドイツを圧迫してポーランドを占領し,左翼は長駆してユーゴスラヴィアにまで進出します.
 同じ頃,日本も米国に押される一方で,サイパン,グアムを放棄して退勢覆うべくもありませんでした.
 ドイツではヒトラー暗殺未遂事件があり,日本では東条内閣の総辞職が避けられない状況になってきました.
 従って,日本が特使を派遣するとの申入れをした際にも,既にソ連に内情を見透かされており,最早ソ連にとって日本は重視すべき国ではなくなりつつあります.

 11月6日,ソ連革命記念日のスターリンの演説は,それを如実に示すものとなりました.
 この演説の要点は以下の通りです.

――――――
 連合国の勝利は,何ら疑いの無い所である.
 しかし対独戦の勝利は,尚将来の強固な平和及び安全保障の確保を意味しない.
 我々の任務は,永遠とまで行かなくとも,少なくとも長期間に於て新たな侵略行為と戦争発生とを不可能ならしめるにある.
 ドイツの敗北後,ドイツが経済的政治的に無力化されることは当然であるが,これを以てドイツが再び侵略をしないと考えることは幼稚である.
 ドイツの首魁達が既に,新しい戦争を準備していることは周知の事実であるが,歴史は20年乃至30年の短期間を以てドイツが敗戦からその力を回復する為に充分とすることを物語っている.
 侵略阻止の為,或いは,尚且つ侵略が発生する場合大戦争に発展しない為,その初期に於てこれを鎮圧するには,どの様な手段を執るべきであろうか.
 侵略国が,戦争に興味を持たない平和愛好国よりも良く準備する事は,歴史の示す所である.
 今次戦争開始前,侵略国は「侵略軍」を準備したのに対し,平和愛好国は「動員を擁護する為の軍隊」さえも持っていなかった.
 侵略国たる日本が,平和政策を固執する米英より良く戦争準備をしていた時,真珠湾の事件,フィリピンその他の太平洋諸島の喪失,香港・シンガポールの喪失の如き不愉快な事実の発生したことは偶然とは考えられない.
 ドイツが侵略国として,平和愛好国であるソ連より,よりよく準備していた時,対独戦大1年に於けるウクライナ,白ロシア,沿バルトの喪失の如き不愉快な事実の発生も,又偶然では無い.
 これを日本人或いはドイツ人固有の性質として,または米英ソ連人に対する彼らの優越性,或いは先見の明として説明するのは幼稚である.
 問題は,人間としての固有の性質では無く,新しい戦争に興味を持つ侵略国が,平和愛好国に比較してより良く準備し,その為に力を結集していたことである.
 それは歴史上の法則であって,これを考慮に入れないことは危険であろう.
 従って,もし侵略阻止の手段を今から講じなければ,将来平和愛好国が再び突如として侵略に遭遇することは否定し得ない.
 ドイツ側寄りの新しい侵略を防止する為,そして尚且つ侵略の発生する場合には,これを初期に於て鎮圧し,大戦争に発展させない為には,如何なる手段があろうか.
 この為には侵略諸国の完全武装解除の他,ただ一つの手段がある.
 即ち平和維持及び安全保障の特別機構の設置,並びにその機構の指導機関の設置に加えて,最小限度必要量の武力を持たせることである
 (後略)
――――――

 これは全世界に向けて放送され,BBCも特に演説のこの部分を忠実に伝えました.
 これは,1944年8月乃至10月に行われた,ダンバートン・オークスの,世界安全保障機構に関する会議に対応するものだったからです.

 11月17日,佐藤大使がモロトフと会合を持ちます.
 佐藤大使は,ソ連領内に予想される米国の基地問題についての質問を発しただけの会合でしたが,モロトフは自らこのスターリン演説に言及してきました.
 その演説では,日本について何ら言及していないものであり,ソ連の政策はそれによっても明らかであると述べ,更にその演説には過去及び将来について述べているが,現下のモメントについては何ら言及していないと言います.

 これに対し,佐藤大使は次の様に述べます.

――――――
 11月6日のスターリン元帥の演説中には,日本を目して侵略国としている.
 従来の数あるソ連側発表には,ソ連側は慎重な注意を払い,総て欧州問題に限定されていた.
 テヘラン会議の発表の如きはまさにそうであった.
 ところが今回は前例の範囲を超えて,日本に関して明確に言及する所があった為,各方面の注目を引いた.
 殊に去る9月16日モロトフ氏と面談の際,日ソ関係は正常状態にあり,且つ良い方向に向かっていると言われたが,その後1ヶ月半で今回の演説となり,自分も些か奇異に感じた次第である.
 尤も演説中のこの部分は,戦後の安全保障体制に関して為されたもので,事実を事実として挙げようとした考えの範囲を出るものでは無いと考える.
 即ち,演説の目的とする所は,日本を非難し若しくは日本を侵略国として取扱い,又は侵略国呼ばわりしようとするものでは無いと考えられるが,この見解に誤りが無ければ日本も満足するであろう.
――――――

 これに対しモロトフは,大使の解釈に対して全く同感であると述べ,スターリン元帥の批判は理論的見地から為されたもので,過去の歴史に関するものに過ぎない.
 即ち,過去に於ける諸種の事実を事実として認めたに過ぎない.
 それは3年前の事実で,その後多くの出来事があり,戦争は急速に進展しており,それについて戦争の過去の段階に関し,理論的見地から引証したものとみるべきで有ると答えています.

 佐藤大使は,この言葉の裏をどうやら見抜けなかった様で,モロトフ氏の説明は,この問題が実際上今後何ら政治的影響を及ぼすものでは無いとする見解に,保障を与えられたものと諒解出来れば幸いであると述べ,モロトフも,その通りであって,演説中に書いてあることは,書いてある以上に解釈されるべきものでは無いと答えています.

 こうしてソ連は微妙な軌道修正を掛けていきます.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/08/16 22:45
青文字:加筆改修部分

 さて,1945年1月1日,東部戦線の独ソの前線は,北はリトアニアのメーメルから南はユーゴスラヴィアのサライェヴォに及び,ワルシャワもブダ=ペシュトも,その線内または線上にある状態になっています.
 太平洋戦線では,米軍は既にルソン島に上陸を開始し,日本海軍の海上兵力は蕩尽され尽されていました.
 この様な状況で,2月3日,ルーズヴェルト大統領は飛行機に乗り,5機の戦闘機に護衛されてクリミアのサキ飛行場に着陸しました.
 相前後して,チャーチルも飛行機で到着し,此処クリミア半島にて4日から11日に亘って連合国3首脳は会談を持ちます.
 後にヤルタ会談と言われる首脳会議により,第2次世界大戦の帰結とその後の世界の枠組みが決まった訳です.

 この会議では,ソ連の対日参戦が明確に取り決められました…勿論,これは秘密協定の類で,日本には何ら知らされることはありませんでしたが.

 会議が終わって10日余り経った2月22日,佐藤大使はモロトフを訪問して,ヤルタ会談が極東問題に触れたかどうかを質しました.
 これに対しモロトフは,ヤルタの会談はコミュニケに発表の通りであり,極東に於ける日ソは中立関係にあるとの以前からの立場を崩しません.

 そこで佐藤大使は,ソ連政府が外交独自性を堅持しているものとすれば,ソ連政府の態度に於て,中立条約も変更無いものと思われるが,その中立条約には4月25日という条約の廃棄についての意思を,通告しうる期日があるので,日本政府としては同条約の重要性に鑑み,その存続を希望するものであり,此の点に関するソ連政府の態度を承知したい旨申し入れます.
 しかし,モロトフはヤルタ密約で対日参戦を約束したばかりであり,此の点に関しては心中困惑したことであろうが,日本政府の態度を多とするも,中立条約の存続については多忙の為に未だ研究していないので,追って話をすると冷静に回答しています.
 佐藤大使としては,中立条約に触れることにより,ソ連側に対し無言の注意喚起をしたつもりなのですが,モロトフは逃げ口上に徹した形で,結局会談はそれ以上深く突っ込まれませんでした.

 その後1ヶ月経っても,モロトフからその延長についての返事は有りませんでした.
 そこで,3月22日,佐藤大使はモロトフに会見を申入れ,その意向と質そうとします.
 しかし,モロトフは最近多客の為面会不可能であると返事を返してきただけで,ロゾフスキー代理と会談して貰いたいとの殊でした.

 3月24日,佐藤大使はロゾフスキー代理と会談して,先ず中立条約の存続問題について至急モロトフに面会したい旨を述べます.
 これに対しロゾフスキーは,目下の所モロトフは多忙の為,ここ数日中には会見が覚束無いと思われるが,モロトフが大使に会見すべき事は勿論なので,本職からも伝達しておくと答えます.
 佐藤大使は,重ねて中立条約に関する日本政府の以降は明瞭であり,日本政府はこの条約の維持に異存ないばかりで無く,寧ろこれを希望し,又ソ連政府も同様にその維持を希望されることを期待するものなので,速やかにソ連側の決定を承知したい旨,モロトフに伝達する様依頼しました.

 …貧すれば鈍すると言うべきか,もう少し日本が諜報活動に重きを置き,自国の状況を冷静に判断していたら,その後,どういった展開が為されるかがある程度予想が付くと思ったりしたのですが….

 4月5日,モロトフは漸く佐藤大使と会見します.
 その席上,モロトフは,次の様に覚書を読み上げました.

------------------
 日ソ中立条約は,独ソ戦争及び日本の対米英戦争勃発前である1941年4月13日に調印されたものであるが,爾来自体は根本的に変化し,日本はその同盟国であるドイツの対ソ戦争遂行を援助し,且つソ連の同盟国である米英と交戦中である.
 掛る事態に於ては,日ソ中立条約はその異議を喪失し,その存続は不可能となった.
 よって同条約第3条の規定に基づき,ソ連政府は此処に,日ソ中立条約は明年4月期限満了後,延長しない意向である旨を宣言する.
------------------

 この通告は,ソ連が戦争中にとり続けた態度をかなぐり捨てたものであり,日本がドイツの対ソ戦遂行を援助していると難ずる点で,重大な警告でもありました.
 しかし後段では,条約の規定に基づき明年4月期限満了後,延長しないとしているので,その点を明瞭にする必要がありました.

 即ち佐藤大使は先ず,本年4月25日から明年条約の期限満了までの間に対するソ連の態度を質問しました.
 それに対しモロトフは,ソ連の態度は今後は事実上中立条約以前の態度に戻ると答えます.
 そこで,佐藤大使は,日本政府の見解では,締約国は期限満了1年前に条約廃棄通告の権利を有するも,その廃棄通告に関わらず,同条約は尚1年間効力を有するものと見做されるが,それはどうかと尋ねました.
 これに対してモロトフは,5年の有効期間満了時に於て元の状態に戻るもので,それは1年後のことであることは明らかである旨を回答しました.

 此処で,佐藤大使は,ソ連政府の声明を如何とする旨述べると共に,日本政府としてはソ連政府が条約破棄通告後の期間に対しても,日ソ関係をこれまでの如く維持し且つ更新していく様希望するものであり,またソ連政府の条約廃棄通告後に於ても,極東の平和が従来の如く変化無い事を期待するものであると述べました.

 これに関連してモロトフは,ソ連政府の声明は完全に条約の規定に則している,と答え,それに加えて中立条約締結後に至って独ソ戦争が勃発し,日本はソ連の同盟国である米英と開戦するに至ったのであるから,条約破棄の措置に出たソ連政府の動機はその声明中に明らかであると付け加えました.
 更にソ連政府は中立条約の権利を行使したに過ぎず,しかし条約の期間は尚終了したものでは無いので,ソ連政府の態度はそれによって律せられるであろうと述べ,そして,それ以後の将来については,現下の国際関係が甚だ複雑であり,それは極東及び西欧に関しても同様で,将来のことについてもお話得べく,日本政府の意見をも拝承することとすると言う主旨の回答を述べています.

 これを受けて佐藤大使も,ソ連政府の声明及びモロトフ氏の追加的説明は,これを本国政府に伝達すべく,将来のことについては東西とも状勢複雑であることはお話の通りであるが,平和維持の重要なことはソ連に於ても同感であろうし,東京からの回訓を得た上で再び参上したいと述べて会見を終了しました.

 因みに,ソ連側資料に於ては,この出来事を以下の様に書いています.

------------------
 ソ連の通告は,侵略戦争を中止せねばならないとするもので,日本の支配者に対する重大な警告であった.
 この意味はソ連外務人民委員からも,在東京ソ連大使からも,日本の外交官等との会談で充分明瞭に強調されたことであった.
 例えば,1945年4月27日,ソ連外務人民委員は佐藤との会談で,日本は極東で何時まで戦争するつもりかとの質問を幾度か発した.
 佐藤は回答を逸らそうとするので,外務人民委員は,≪極東の戦争は非常に長引いている.ソ連は交戦国では無い.ソ連の主要な任務は恒久平和を確立することである≫と述べた.
 日本の支配者は,ソ連の警告を依然として聞き流していた.
 彼らは策略と反ファッショ連合諸国間の矛盾を利用することによって,侵略の結果獲得した領土の一部を,我が主柱に残しうる様な講話の成立を期待したのであった.
------------------

 ソ連の資料では対日警告が為されたとしていますが,今まで見た様に,モロトフの説明でも,4月7日に鈴木内閣が成立した際の外交官接見の際に,マリクソ連大使に対して東郷外相がソ連の中立義務についての注意を喚起したりもしていますが,その時のソ連の態度は曖昧なものに終始し,とても警告をしたとは言えなかったりします.

 ところで,ソ連が対日参戦を本格的に画策している時,日本は未だソ連の袖に縋ろうという人々が蠢いていたのでした.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/08/17 22:50


 【質問】
 WW2で,いつまでに降伏していれば,南樺太と千島列島をソ連に侵略されずに済んだんですか?

 【回答】
 ソ連が侵攻する前に降伏文書に調印していなくてはならないので,8/9直前では遅すぎる.
 原爆完成前,ドイツ降伏前,日ソ中立条約破棄前などタイミングはあれど,ヤルタでのアメリカの言質をなかったことにするのが一番

 何よりアメリカの言質の有無は大きい.
 ソ連は言質の取り扱い方をよく心得ている.
 一旦アメリカの言質を取ってしまえすれば,たとえ日本が早期に降伏しても,8/7の満州侵攻であったように数十名の空挺部隊を南樺太や千島に派遣して既成事実を作り,和平交渉においてそれをカードに占領の正当性を主張するであろう
(現に満州侵攻においては,日本軍の大部隊がまだ存在する満州の各都市に空てい部隊を派遣して,既成事実を着実に構築している)

 一旦それを認めてしまったアメリカが,後からそれを覆すのは難しい.
 1945年2月以前なら極東ソ連軍も大した数はいないので,満州防衛は無理であろうが,南樺太,千島の防衛の可能性は大いにある.
 それ以後は,政治的に非常に難しい.

戦争・国防板,2009/08/06(木)〜08/07(金)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 日本は,広田・マリク会談近衛特使など,ソ連に和平仲介工作をしてますが,なんでソ連に頼んだんですか?
 むざむざ反故にされて……,

 こんなアホなことしてなかったら,原爆投下もソ連参戦もシベリア抑留も北方領土問題もなかったかと思うと,いてもたってもいられません.

 【回答】
 1,開戦前から講和の仲介はソ連かローマ法王と考えていた.この安心感で昭和天皇は,御前会議で英米協調派から開戦派へ変身したといわれている.

 2,ソ連がヤルタ密約で対日参戦をアメリカから要請を受け,合意してたのを知らなかった.天皇・内閣・外務省は,なぜかソ連信頼派が多かった.松岡の不可侵条約締結のインパクトが幻を生んでいたのではないかと思う.
 一部に,ソ連対日参戦可能性ありとの情報も入ったらしいが,最上部まで届かなかったらしい.
 大国で,頼める国が他になかったのも大きい理由のひとつ.法王は非現実的だし,スイスなどではちょっと力不足.それに,満州からすぐ行けるのも大きい.

 3,ソ連も,日本の提案は具体的でないとか,近衛特使の使命が不明確とか時間稼ぎをしていて,日本に気を持たせていた.

 4,軍部・政策決定上層部の,情報不足が致命傷.しっかり,諜報して分析していれば,ソ連はアメリカ側についてると分かったはず.
 和平交渉時点では,太平洋戦争に参加してないソ連とするとアジアで米などが東アジアで主導権を握るのは好まないから,均衡策から日本のことでアメリカを牽制するんじゃないか,っていう甘い見通しがあった
 どうも,当時の軍や上層部は思い込みが激しい.ドイツ勝利の確信とか(以下略.

 5,ソ連への仲介工作がなくとも,原爆・ソ連参戦・千島占拠はあったと思います.
 対日参戦と見返りとしての千島確保のヤルタ密約は45年2月,和平仲介交渉は45年の6〜7月.
 シベリア抑留は,関東軍参謀が助かるために抑留を内諾してたとかしてないとか言われててわかりませんが.

 なお,ソ連が講和斡旋してくれた場合の日本の手土産は,以下のとおり.
・南樺太返還
・漁業権解消
・津軽海峡開放
・北部満州諸鉄道譲渡
・内蒙におけるソ連の勢力範囲
・旅順と大連の租借
・北千島割譲
・満州国中立化(6月に追加)
(朝鮮は留保と満州帝国は独立維持)
 以上,1945年5月14日の最高戦争指導会議にて.

 関東軍特別演習等,ずっと敵視政策をしてきたソ連に頼るという観点が,甘えの構造を感じさせる.

日本史板,2003/07/02
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 満州居留民がソ連軍侵攻の予兆に気付くことは不可能だったのか?

 【回答】
 気付いた人のケースもある.
 以下引用.

 1943年に,母は関東軍に配属されていた父のもとに3歳の私と,2歳と1歳に満たない弟2人を連れて満州牡丹江に渡りますが,敗戦前の1945年4月に,「自分で判断する」母は独力で,5歳,4歳,2歳になった私たち,それに生まれたばかりの乳飲み子の妹を連れて日本に引き揚げて来ました.
 小学校の先生まで信じなかった母のことですから,大本営の発表などなおさら信用せず,赤トンボのように飛んでいた飛行機がぱったり見えなくなったこと,お酒類の配給が急に増えたことなどで戦局に変化が生じたことを悟ったといいます.

原不二子著「通訳ブースから見る世界」(ジャパンタイムズ,2004.12.5),p.22


 【質問】
 ソ連の対日宣戦布告はどのように行われたの?

 【回答】
 駐ソ大使佐藤尚武がクレムリンに呼びつけられたのがモスクワ時間八月八日午後五時すぎ.
(日本時間午後十一時過ぎ)
 面会したソ連大使モロトフは,その場で対日宣戦布告文を朗読して佐藤大使に手渡してます.
 その内容は
「日本がポツダム宣言受諾を拒否したことでソ連の和平仲介は意味を失った.
 ソ連政府は,連合軍諸国の要請するところに従い,無条件降伏を拒否したことでドイツ国民が味わった危険と破壊から,日本国民を回避させるために,日本と戦争状態に入る」
と言った主旨のものです.

 佐藤大使は即この内容を東京に打電しようとしますが,大使館の電話回線はすべて切断されており,無線機すらGPUに没収されていました.
 このため,通常の国際電報を使用して東京に打電することになってしましました.

 総指揮官ワシレフスキー元帥が全軍に命令を出したのは,(日本時間)八月九日午前零時過ぎでした.

名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE :軍事板,2005/09/03(土)
青文字:加筆改修部分

 【関連リンク】
「militaryphotos.net」:Russo-Japanese War (videos)
(第二次世界大戦時のソビエト軍による満州・北方領土侵攻作戦を特集したドキュメンタリー 英語)


 【質問】
 ソ連参戦後の状況は?

 【回答】
 さて,極東時間1945年8月9日午前0時10分,ザバイカル正面軍先遣部隊がソ満国境を突破します.
 そして,主力が国境を越えたのが,午前4時30分の事でした.

 元々,ソ連軍最高司令部がヤルタ会談の前から立てていた対日戦計画では,その戦闘の為に必要な兵力は,ドイツ敗北後4ヶ月を要すると見ていたのですが,実際にはその期間は遙かに短縮されています.
 ソ連軍最高司令部から各正面軍に,本格的攻勢準備の命令が発せられたのは,1945年6月28日のこと.
 既述のように,その頃,日本は必死で満洲の放棄とかを提示して,休戦を模索していた頃だったりします.

 ソ連の満洲攻略作戦計画は,西は内蒙古方面,東は沿海州方面の両面から満洲を挟撃するものでした.
 この為,3つの正面軍が組織されました.
 このうち,ザバイカル正面軍は内蒙古から満洲里,海拉爾に進出して長春を目指し,第1極東正面軍は沿海州から牡丹江・吉林方面を突き,第2極東正面軍は満州東北部の黒竜江を越えて進撃しました.
 他方,南樺太と千島,そして朝鮮半島北部にも海上や陸上からソ連軍は進撃してきました.

 日本では8月14日,米英中ソ4カ国に対し,その共同宣言の受諾を通告する詔書が発せられ,4カ国政府へそれぞれ伝達の措置が執られました.
 しかし,ソ連軍総司令部は8月16日,日本の天皇が軍隊に対して戦闘行為中止の命令を発し,その命令が実行された場合に初めて日本軍が降伏したものと認めうるので,それまでは対日攻撃作戦を継続するとの命令を発しました.

 8月17日,山田関東軍司令官は,ワシレフスキー極東ソ連軍総司令官に対して戦闘行為の中止を申し出て,全軍にもその命令を伝えました.
 8月19日,泰総参謀長が宮川哈爾浜総領事と共にワシレフスキー総司令官と会見して,軍隊の武装解除,治安維持,在留民の保護などについて話します.
 満洲以外の北鮮,南樺太及び千島でも,日本軍はそれぞれ武装を解除し,戦闘行為を中止しました.
 但し,その戦闘中止は,大陸方面よりも数日後のことでした.

 それに先立つ8月16日,スターリンはトルーマンに対し,親展秘密書簡を送ります.
 それには,次の2項目が書かれていました.

------------------
1. 三大国のクリミヤ決定に従ってソ連の領有に移されるべき千島諸島全部を,日本軍がソ連軍に降伏すべき区域中に含めること

2. 樺太と北海道との中間にある宗谷海峡に北面する北海道島の北半を,日本軍がソ連軍に降伏すべき区域中に含めること.
 北海道島の北半と南半の境界線は,島東岸の釧路市から島西岸の留萌市に至る線によるものとし,右両市は北半に含めること.
 この後半の提議は,ロシア世論にとって特別の異議を有する.
 周知の通り,日本人は1919〜21年に於て,ソ連領全極東を自国軍隊によって占領し続けた.
 もしロシア軍が,日本本土の何処かに占領区域を有しないならば,ロシア世論は甚だしく憤慨することであろう.
------------------

  もし,ソ連に共感を抱いていたルーズヴェルトが生きていれば,この要求は受容れられていたかも知れません.
 そうなると,北海道を舞台に,下手をすれば朝鮮戦争と同様の泥沼が繰返されたかも知れません.

 しかしソ連の提案は,千島に関する部分を除いては,米国側の同意する所となりませんでした.
 なお,米国は千島列島の中の1つの島に,自国の航空基地を設ける事を希望しましたが,今度はソ連側が激しく反対します.
 それに対しては米国側も反駁し,トルーマンは次のように述べています.

------------------
 私は,ソ連の何れかの領土について言っているのでは無い.
 私の言っているのは,千島諸島についてであり,平和解決の場合に問題が決定されるべき,日本の領土についてである.
 私の前任者が平和解決の場合,ソ連側によるこれら諸島の獲得を支持することに同意したことを,私は知っている.
 私がこの協定を確認するようにとの貴方の依頼を,私は侮辱的とは考えなかった.
 もし貴方が,千島全島を恒久的に領有しようとする貴方の希望を,我が方から支持することを期待されるならば,私としては,これら諸島中の一島だけに,飛行機の着陸の為の権利の提供を求める依頼を検討するよう,貴方に依頼したとて,何故に貴下がこれを侮辱的と見做すのであるか解し得ない.
------------------

 結局,基地が設けられることはなく,千島が中々帰ってこない状態になった訳ですが.

 1945年9月12日,ソ連各紙は,一斉に8月の戦闘でソ連が日本に対して与えた打撃を報道しました.

------------------
 極東に於て我が陸海軍は,本年8月9日から9月9日までの間に,敵に対して次の人員と兵器の損害を与えた.
 鹵獲した飛行機925,戦車369,装甲車35,自走砲を含む野砲1,226,迫撃砲1,340,機関銃4,836,小銃約30万,無線電信台133,自動車2,300,トラクター及び牽引自動車125,馬匹17,497,弾薬武器装備及び食糧倉庫742.
 日本兵及び将校594,000余名並びに将官148が我が軍に降伏した.
 その内約20,000は負傷者であった.
 日本兵及び将校の戦死は80,000である.
 かくて,日本軍の人的損害は沈没艦船の乗組員の戦死者を除いて,将兵の捕虜・戦死は674,000以上になる.
 この間,太平洋艦隊の艦船及び部隊によって撃沈されたものは,駆逐艦2,輸送船28,油送船3,内火艇5,艀及び小船12である.
 極東に於ける我が方の損害は,戦死8,219及び負傷者22,204である.
------------------

 1945年9月2日,ミズーリ艦上で降伏文書の調印が行われた日,モスクワの空には対日戦勝の花火が打ち上げられ,スターリンの戦勝演説が放送されました.

------------------
 同志・男女同胞等よ,本日9月2日,日本の国民及び軍部の代表者等は無条件降伏文書に署名した.
 連合諸国の武力によって,海陸に於て撃砕され四方から包囲された日本は,自己の敗者たることを認めて矛を収めた.
 今次世界大戦の前夜には,世界的ファシズムと世界侵略の2つの火元が形成されていた.
 即ち,西にドイツあり東に日本があった.
 彼らこそ,第2次世界戦争を起こした者である.
 彼らこそ,人類とその文明を破滅の瀬戸際に立たせた者である.
 西に於ける世界侵略の火元は,ドイツが降伏を余儀なくされたことで4ヶ月前に除かれた.
 その後ドイツの主要同盟国たる日本も又,降伏文書に署名するの止むなきに至り,4ヶ月を経て東に於ける世界侵略の火元は,此処に除かれた.
 それは第2次世界戦争の終わりが到来したことを意味する.
 我々は今や,世界の平和に欠くべからざる条件が遂に獲得されたと言う事が出来る.
 日本の侵略者達は,独り我国の同盟国である中国,米国及び英国だけに損害を与えたものでは無いことを指摘しなければならない.
 彼らは我国に対しても又甚大な損害を与えた.
 従って我々は,日本に対して特別の勘定を有する.

 日本の侵略行為は1904年,日露戦争当時から始まっている.
 周知の通り,1904年2月,日魯間に交渉が尚継続中,日本はロシア帝政政府の弱体に付け込み,突如且つ背信的に宣戦を布告することなく攻撃を加え,若干のロシア艦隊を無き者にして自国に有利な態勢を作る為,旅順港方面に於てロシア艦隊を撃砕した.
 日本は実際に,3隻の第1級軍艦を喪失させた.
 その後37年を経て,日本は1941年真珠湾に於ける米国海軍根拠地を攻撃し,同国の幾多の戦艦を喪失せしめたが,その時日本が嘗てと同じ背信的手口をそのまま米国に対して繰返したことは,特徴的なことである.

 周知の通り,ロシアは日本との戦争に於て当時敗北した.
 日本はロシアから南樺太を割き取り,千島諸島に定着し,斯くて東方に於て,我国の大要へのあらゆる出口を封鎖し,以てソ領カムチャツカ及びチュコトカの諸港に至るあらゆる出口をも封鎖する為,帝政ロシアの敗北を利用したのである.
 日本がロシアから,その全極東を割き取る事を目的としたのは明瞭であった.

 しかし日本の我国に対する侵略行為は,単にそれだけに留まるものでは無い.
 1918年我国に於てソヴィエト機構が確立した時,日本は米英仏がソヴィエト国家に対して当時尚敵愾的だった関係を利用し,これに依拠しつつ再び我国を攻撃し,極東を占領して4年間我が国民を迫害し,ソ連の極東を掠奪した.
 しかし,これも総てでは無い.
 1938年,日本はウラジオストクに近いハサン湖方面に於て更に我国を攻撃した.
 翌年日本はソヴィエト領に突入し,シベリア鉄道を切断し,極東をロシアから分割しようとするあらゆる目的を以て,ハルヒン・ゴール(ノモンハンの事)付近のモンゴル人民共和国方面で,その攻撃を反復した.

 ハサン湖及びハルヒン・ゴール方面に於ける日本の攻撃は,ソヴィエト軍の為に日本人の一大屈辱を以て終局を余儀なくされたのが事実であった.
 同様に,1918年乃至1922年の日本の軍事干渉も又首尾良く排除されて,日本占領軍は我が極東方面から駆逐された.
 しかし,1904年に於ける日露戦争当時の敗北は,国民の意識の中に悲痛な記憶を残した.
 その敗北は,我国に汚点を止めた.
 我が国民は日本が撃破され,汚点が拭われる日之到来を信じて待っていたのである.

 40年間,吾等の古い世代の人々はその日を待った.
 遂に,その日は到来した.
 今日,日本は自己の敗者たるを認めて,無条件降伏文書に署名したのである.

 此の事は南樺太と千島とがソ連に移り,今後両者が大洋からソ連を隔離する具となる事はなく,又我が極東に対する日本の攻撃基地の役割を為す事無く,ソ連邦の大洋に至る直接の連絡路となり,日本の侵略に対する我国の防衛基地の役割を果たす事を意味する.

 我がソヴィエト国民は,勝利の為にあらゆる努力を惜しまなかった.
 吾等は苦難の月日を体験した.
 しかし今や,吾等各人は,我勝てりと言う事が出来る.
 今こそ我々は,我が祖国が西に於てドイツ侵略の脅威から,東に於て日本侵略の脅威から救われたと見做す事が出来る.
 全世界国民の為に,長き待望の平和が齎された(以下略).
------------------

 この演説を見ると,正に,外交に於て真の友好関係と言うのは存在しないと言うのがよく判ります.
 外交とは最悪の事を考えて,冷徹に事を進めるものであり,そこには一切の温情の入る余地がないのでは無いかと思います.
 …と言っても,今の日本の外交は,1945年当時と同じ過ちを繰返しているような気がしますけどね.
 そのうち,水に落ちた犬となって,其処此処から叩かれる羽目になるのでは無いか,と思ってしまいます.
 既にその徴候は出て来ていますし.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/08/24 23:35
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 終戦前後の満州の混乱状況は,どのようなものだったのか?

 【回答】
 以下の記述によれば,流言蜚語が飛び交い,皆が死を予感していた模様.

[quote]

 大連はてえと,やっぱり〔新京と〕同じで,町じゅう蜂の巣をつっついたようなさわぎで,日本もとうとうダメだ,男てえ男は全部斬り死にで,女てえ女は全部青酸カリで自殺するんだ,てんでそりゃァ手がつけられません.
 顔色なんぞありゃァしない.

 いや,実にどうも,いろんなウワサが乱れ飛びましてね,いい話なんぞ一つもない.
 でもあたしゃァ,そのとき,みんなデマに違いねえと思いましてね,
(べらぼうめ,日本がそうたやすくお手上げになるもんか.負けてたまるけえ!)
と,タカをくくってましたよ.

 だってそりゃァそうでしょう.
 あたしらのガキの時分,日清,日露の2つの戦争があって,あんな大きな国を相手にしたって勝ったんです.
 日露戦争がすんで乃木さん,大山さん,黒木さんなんてえらい将軍が,馬車かなんかに乗って凱旋して来たときなんぞ,あたしゃァまだはなし家になる前だったが,日の丸の旗ァちぎれるばかりにふって「バンザーイ,バンザーイッ」って,気違いみてえに叫んだのをいまだに覚えてるんです.
(日本ぐれえ強い国は,世界に二つたァねえだろう.ありがてえな,どうも……)
って思ったそのときのことが頭にあるし,その前だってあとだって,日本は只の一度だって負けたことなんぞありゃァしない.〔原文ママ〕
 今は,そりゃァ少しは苦しいかもしれないが,そのうちにきっと勝つだろう……と信じて,降参するなんてえことは夢にも思わなかったですよ.

 ところが,どっこい,本当に負けたとわかったときのくやしさ,なさけなさなんてえものは,とてもとても言葉の外です.
 内地にいればいくらか自由も利くだろうが,負けた上に敵さんの土地だてえんですから,生かすも殺すも向こうさんの気持ち次第,泣こうにも涙も出ねえてえ心境でしたよ.

 ソ連兵の顔ォ見ない前は,シナ人だの朝鮮人だのってえ,今まで日本人の味方だったのが,ガラッと手のひら返したようにいばり始めたのは,よけいくやしい思いでした.
 でも,どうすることもできやしません.
 ただもう,歯ァ食いしばって我慢するよりほかはありません.

 〔略〕
 そんな空気の中で,あたしたち〔志ん生師匠と円生師匠〕は「二人会」をやったんですよ.
 ソ連が進駐して来るてえその前の晩のことなんです.

 こんなお国の一大事のときに落語の会どころじゃァなかろうと思ったが,向こうは前もって日ィきめてあることだし,会場も用意してあるんだから,今更やめるわけにはいかねえというから,そいじゃァ行くだけ行ってみようよ,てえんで,円生と2人でそこの映画館へ出かけてみるてえと,誰も来ないだろうと思いのほか,80人ばかりの客がちゃんとゼニィ払って来ているんですよ.
 どういうノンキな人たちだろうと思って,
「あしたァソ連の兵隊が来て,みんな死んじまおうというのに,よくまァ,あんたたち,落語なんぞききに来る気持ちになれますねえ」
って,あたしがきくてえと,
「いやァ,どうせ死んじまうんだもの,せめて思いっきり笑って死にたいと思いましてねェ……」
と,みんな案外おちついたものです.

 〔略〕

 そういうわけで,戦争に負けてからもあっちこっちから慰問たのまれたんですが,乃木町てえとこのデパートでやったときなんぞおどろきましたね.
 会場の正面に明治陛下の大きな額がかかっていて,その写真をあした焼くというんです.
 係の人が来て,
「陛下に対して,まことに申しわけないことになりました.どうかおゆるしください」
てえから,会場の人がみんな泣き出しちゃった.
 そうしといてあたしに,
「では師匠,一席お願いします」
てえことになったから,これじゃァいくらなんでもやれっこないですよ.まるでお通夜よりもっとひどい.

 でも,しょうがねえから,円生が先ィ上がって,
「ええ,お笑いを一席申し上げます……」
ってえと,ワーッと泣き出しちまう.
 少し間ァおいて,なんかしゃべるてえと,またワーッとくるんです.
 笑ってもらおうとおしゃべりをするおに,その都度泣かれたんじゃァ,こりゃァ手ェつけられません.
 あんな弱った高座ァない.
 とうとう,あたしゃァなんにもやらずに下りちゃった.

 あのときの,あの空気を知ってるかたでなゃァわからんでしょうが,無理もないですよ.
 みんな集まるってえと,
「天皇陛下が切腹されたそうだ」
「皇太子さまは,25年間の人質で,アメリカへ連れて行かれたそうだ」
「東京では,若い娘なんぞ,みんなアメリカ兵に犯されて,処女なんてひとりもいなくなったそうだ」
「男はみんなタマァ抜かれたそうだ」
なんてえことを,ヒソヒソと話し合ってるときですからねえ.

[/quote]
---------『びんぼう自慢』(古今亭志ん生著/小島貞二編,立風書房,1981/2/10),p.220-225

 こうなるてえと,普段から政府やメディアが正確な情報を伝えることを怠ってきた大戦末期のメディア状況が,たたってきますわな.

 ただし,同書巻末の解説や,矢野誠一著『志ん生のいる風景』(文春文庫,1987.12)によれば,同書には記憶違いのある箇所も見られるそうなので,その点は留意されたし.

自決用青酸カリ
(うそ)

(画像掲示板より引用)


 【質問】
 満州はソ連軍に占領されたのに,今はなんで中国領なんですか?
 スターリンが一度占領した地域を返したなんて,シンジラレナサス…

 【回答】
 そもそも満州は中国領.
 清朝とロシア帝国の間で基本的に国境画定が終わって,満州は中国領となっていました.
 それを日本が日露戦争の結果,獲得しました.
 連合国は日本の中国侵略を批判してその一切の正当性を否定したのですから,それを日本の代わりにソ連が領土化するのは筋が通りません.

 スターリンが返還するなんて信じられないと言ってますが,その程度の理性は持ち合わせていたという事です.
 スターリンだって一応生物学上は人間の筈.
 併合なんかすれば米英中を敵に回して勝ち目がありません.
 米国は唯一の核保有国でしたし.

 東欧だって全部占領しましたけど,形としては独立させていますよね?
 併合しないで衛星国化したほうが,波風が立たなくていいのです.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ソ連による「日ソ中立条約破り(破棄通告後も1年は有効なはずなのに……)」について,東京裁判では
「日本は関特演などで軍事的にソ連を挑発しており,条約の信義に欠ける行動をとっていた.だからソ連側にも条約を遵守する義務はなくなっていた」
と解釈されていることを知りました.
 これは国際的に認知されている解釈なのでしょうか?
 日本がソ連を「中立条約を破った」と責める権利は無いのでしょうか?

 【回答】
 東京裁判もニュルンベルク裁判も勝者が敗者に責任を押し付ける場なので,公平な裁きなんて期待するだけ無駄,です.

 アメリカの思惑として,
1.ここで決定的にソ連の責任を追及するのは避けるべき
2.かといって共産陣営に傾いても困るので,日本の国力を奪うのは避けるべき
とかいう点で,ソ連の責任は追及せず,戦争責任は日本のトップに持たせるが,領土は割譲しないというように持ってたんじゃないでしょうか.

 少なくとも今の世界は,1945年迄の戦争とその講和条約で作られた世界体制であるので,次の戦乱とその講和条約で新体制が作られるまでは,WW2関連の決定は翻らないでしょう.
 その頃には,後の歴史化がこれは中立条約を破った裏切りであると言うことはできても,実際に,
「だから賠償をしろ,責任を負え」
などと言ったことまでは踏み込む力はないでしょう.

世界史板


 【質問】
 「日本本土決戦」について質問です.
 よく「日本本土決戦の結果,日本はアメリカとソビエトに分割される」というネタがありますが,アメリカはさておいて,当時のソビエトに日本に上陸することなんかできたのでしょうか?
 北海道に上陸して制圧することすら困難な気がするのですが・・・.

 【回答】
 少なくとも,北方領土や樺太には上陸していましたわな.

 それと,北海道にも上陸阻止用のトーチカ群を根室などに構築していますが,全部太平洋に向けて構築しており,オホーツク側は完全に無防備です.
 また,青函連絡船の殆どが沈められており,北海道は1945年8月時点でほぼ孤立した状態な上,北方防備の海軍基地がある大湊には,まともな海軍戦力はありません.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板,2007/08/25(土)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 「対日戦勝記念日」が存在することについての,ロシア側の論理は?

 【回答】

――――――
「対日戦勝記念日」への弁明 露の親日派議員に聞く

「たいへん率直に言えば,今日の日本はこうしたテクノロジーをもっている唯一の国ではない.
 韓国も中国もたいへんな進歩を遂げており,ロシアはこれらの国とたいへん集中的で,深い経済的協力をしている.
 日本はやや高慢に,ロシアなしでもやっていけると考えている.
 日本の多くの政治家と会ってきたが,ロシアに対する先見の明はあまり見えてこない」
――――――

 親日派議員にこんなこと言われちゃオシマイだな orz

 この「対日戦勝記念日」問題については上野俊彦先生も,反日的な意見ではなく,単なる第2次世界大戦の労苦をしのぶだけであるという見解をしている.
 法的に考えるならば,開戦の日があるのに,終戦の日がないというアンバランス状態を解消するだけであるという.
 また「対日戦勝記念日」という呼称は,極めて不正確であるとしている.
9月2日の「第2次世界大戦終結の日」について(PDFファイル)

――――――
 それ以外に,ロシアは2月の軍事ドクトリン改定で,「ロシアへの領土要求」を主要な軍事的脅威に掲げ,最近は極東での軍事演習で択捉島の演習場を使用した.
 日露関係を悪化させる要素を,いくつも挙げることができる.

――――――同上

 学習しないことで定評があるサンケイ(笑)ですな,本当に.
 モスクワ在住の軍事ライター・小泉悠氏が指摘しているように,新『軍事ドクトリン』においては,「領土要求」への優先順位は低下している事実がある.

 ・・・本当にモスクワ在住の記者なのか?
 そのくらい抑えておけよ.
 つか読んでいないだろう?
 いや,「そんなモノを読んでも意味がありません(キリッ」だと思ってそうだ.

CRS@空挺軍 in mixi,2010年08月22日10:39


 【珍説】
 ロシアでの対独戦勝60周年記念式典に,小泉首相が行くのはしょうがないとしても,日本は「日ソ中立条約」を破って,満州・樺太・千島にソ連が侵略したことを批判すべきではないか!
 それが北方領土返還の根拠じゃないか!
 〔略〕
 しかもソ連に侵略された東欧諸国の屈辱の日についても触れるべきだ.
 〔略〕
 中国は非常識な国だからしょうがない.勝手に反日やっとれ!

小林よしのり in SAPIO,2005年5月下旬発売の号

 【事実】
 外交と憂さ晴らしを間違えてはおりませんか.
 中国外交の反日偏向ぶりが,中国と関係が深い諸国の対中疑念を招いた事を思えば,首相が場違いな対ソ糾弾を打てば,日中は同類との印象を呼んだでしょうな.
 韓国のノムヒョンも,西欧歴訪時には日本の陰口叩きで大分顰蹙を買ったらしいですが,小泉がセレモニーでTPOわきまえない国内向け発言を全世界の首脳に向かって行えば,どうなったでしょうかね.

>しかもソ連に侵略された東欧諸国の屈辱の日についても触れるべきだ.

 ヤルタ体制に日本は絡めませんでしたので無意味です.
 東欧諸国がソ連体制に組み込まれないためには,枢軸陣営の勝利が必要でしたが,それはナチの勝利を意味します.
 連合陣営の西の主役だったアメリカが,東の主役たるソ連(ロシア)に主張するから意味が有るのであって,枢軸陣営の海の主役が主張しても,何の意味もございません.

>中国は非常識な国だからしょうがない.勝手に反日やっとれ!

 その非常識な国と,事も有ろうに靖国参拝と常任理事国入りをバーターしようと提案していた,先が見えない人は誰でしたか?

軍事板


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