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 【Link】

『本土決戦』(学研,2007.9)

「戦争は,それを終わらせるにも犠牲を求める恐ろしい行為なのである.」(P.137)
 太平洋戦争末期,米軍の本土上陸を迎え撃つ為,残された戦力と国力を根こそぎ動員して策定された「決号作戦」.
 陸海軍の作戦準備とその間おこなわれた終戦工作,そして当時の日本の国力や「大東亜共栄圏」に関する考察などを纏めた一冊.

 興味深い話が多くて面白いのですが,読んでて夢も希望も無くなる話でもありまして.(「虚構戦記研究読本」とタメを張れます)

 P.122に陸軍の特殊攻撃機「剣」のイラストと,TBMアベンジャーをベースにした早期警戒機とボルティモア級重巡,九州で小銃の代替品として民間人に配布した木製のボウガンの写真が,一緒に紹介されてるのですが,もうねなんというかね.
「鹵獲ウォッカか機械洗浄用エタノール持って来い! オットー満タンだ!」
 わははははははははははははは(壊笑).

 戦争末期の実態や終戦工作の実態,戦争を終わらせる事の難しさを知ることのできる,お勧めの一冊です.

―――グンジ in mixi,2007年12月31日14:30

 【質問】
 よく外国人(特にドイツ人とイギリス人)に,
「なんで日本は本土決戦やらなかったの?」と怪訝そうに聞かれるのですが,私もよく分かりません.なぜでしょう?
 聞いてくる向こう側にも悪意はなさそうなんですが,
「有史来,本土に敵を一兵も上陸させぬまま無条件降伏したのは日本だけだ.
 カミカゼまでやっておいて,あんなあっけない降参の仕方は理解できない」
と言われます.

 【回答】
 ポツダム宣言受諾による戦争の終結に関しては,いろいろと複雑な要素が絡んでくるんですが,幾つかかいつまんで話すと
*B-29その他の爆撃と潜水艦による海上封鎖で,日本国内は流通が麻痺し,軍事物資や食料などほとんどの生産活動が停止寸前だったこと.
(つまり,本土決戦は非常に困難で,45年秋には餓死者すら出る可能性があった)
*東条英機の失脚により,早期講和による天皇制の維持を主体に考える勢力が台頭し始めたこと.
*ソ連が日ソ中立条約を破棄して満州に侵攻したこと.

 特に,ソ連参戦は非常に大きなファクターになります.
 サイパン陥落による絶対国防圏崩壊の後,政府内では国体護持(天皇制維持)がプライマリーな命題になりますが,陸軍中央にはソ連を仲介とした和平工作案があり,これによる条件付きの講和を考えていました.
 しかし,ソ連参戦よりすべての工作は無に帰し,陸軍強硬派も折れることになって,ポツダム宣言受諾やむなしとして降伏を決定したわけです.

 外国の人には,この「天皇制維持が最重要課題であった」ということは理解しにくいかもしれませんね.

 そもそも第一次世界大戦において,ドイツは自国内を戦場にしないまま降伏しています.
 よって,本土決戦をやらずに降伏した国は有史以来日本だけ,などということはないのではないか,と思います.

 もちろん「無条件降伏」は,基本的には第二次世界大戦における降伏の形態ですから,この用語と「有史以来」という言い方はなかなか両立させにくい部分もあると思います.

 本国領土を戦場とせずに敗北した国家ということであれば,ベトナム戦争のアメリカ,アフガン戦争のソ連などなど枚挙にいとまがありません.

軍事板,2005/06/08(水)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 太平洋戦争でどうしてアメリカは,日本の希望通りの一億総玉砕をさせなかったんですか?

 【回答】
>日本の希望通り

 まずこれが間違い.
 戦争末期の日本の上層部の意図は有条件降伏を勝ち得るまでの継戦派と,無条件降伏を呑んでも終戦にしたい講和派に分かれていた.
 が,両派とも可能ならば有条件の方が望ましかったのはいうまでもない.
 それが可能だったかどうかは別として.

 一方,アメリカの上層部は政治的にも自由が利く無条件降伏を強いる方針で,ほぼ固まっていたといってよい.
 アメリカにとってみれば日本の敗北は必至だったので,わざわざ妥協してもメリットがなかった訳だ.

 で,アメリカとしては勝ちが決まっている以上,余計な消耗や政治的な負い目を背負いたくない.
 民族浄化が目的の戦争だった訳でも無し,もし日本が無条件降伏してくれる事になったなら,それ以上の戦いは無意味でしかないからな.

 また,本土での地上戦になれば,連合軍側にも多大な死傷者が出ることが予想されたからでしょう.
 米軍で多くの死傷者が出れば,大統領選挙にも影響するでしょうし.
 少なくとも政権を吹っ飛ばす程度に世論が沸騰する危険は十分にある.
 なんだかんだ言ってもホワイトハウスだってわが身が一番可愛い.

 さらに,戦後の米ソ対立をすでに視野に入れており,日本を懐柔して共産勢力への防壁,つまり衛星国家にしようとしていた.

 他に,
*アメリカも財政的に苦しい状況になっていた
*ソビエトも日本本土に上陸して,ソビエトの領域を確保される恐れがあった
*仮に本土決戦の結果日本の政体が崩壊した場合,ソビエトが主導した共産主義革命が起きる可能性がある
という恐れもあった.

軍事板


 【質問】
 もし日本がその時に降伏しないで本土決戦の道を選んでいたら,もっと有利な条件で講和ができたのでは?
 理由は
 日本は更なる原爆投下を恐れてたけど,実際には3発目の原爆はまだ無かった.
 シナ大陸には100万を超える帝国陸軍がいたので,本土に退却して戦えた.
 ソ連の参戦については最強の関東軍がいたので殲滅できる.
 実際に占守島ではソ連軍を殲滅して上陸を許さなかった.
 日本本土については来たる本土決戦に備えて各地で要塞化して陣地を築いてた.
 近衛師団などの最精鋭部隊も無傷で残ってた.
 国民の戦争に対する士気も高かった.

 【回答】
 近衛師団は一部をフィリピンへ送っている.
 関東軍も,中核部隊と装備は本土と南方へ送ってしまっていたので,戦闘力は形骸化していた.
 実際問題,満州戦ではごく一部の部隊以外,一日で蹴散らされて終わっている.
 日本本土の要塞化も,資材不足,時間不足で不十分だった.
 多くの本土防衛部隊は,根こそぎ動員で集めたロートルなどで,装備も劣悪だった.
 国民にも,食糧その他の不足から厭戦ムードは高まっていた.

 もし本土決戦を行っていたら,米軍には莫大な損害を与えられたかもしれない.
 その代わり,それは九州や関東等の失陥と引き換えだ.
 北海道は最善でも半分はソビエト占領域になっているだろうし,それこそ京都も含めて日本からは「都市」は全て消滅しているだろう.
 既に原爆の3発目は用意されてるし,残りも生産中で,数ヶ月でかなりの原爆がそろう公算だった.
 原爆が落ちなくても,首都とその周辺は瓦礫とクレーターの原っぱと化してるだろうし,何より「国民」のうちどれくらいが生き残っているやら・・・と言う状況になる.
 工業地帯と商業地域はほぼ消滅し,農地も荒れ果てて塩も自前では作れない.
 はたしてそんな国が講和に成功したところで,その後どうなるのか?

 君が戦後の日本の繁栄を肯定するなら,上記のような様相をどう考える?

 「日本本土決戦はなかった.
 なくて幸いだった.
 もしあったのなら,あなたも私も今ここにいなかったかもしれない」

「本土決戦はなかった
なくて幸せだった
もし起きていたら
私もそしてあなたもいなかったかもしれない…」

 −小林源文−

軍事板
k in FAQ BBS(黄文字部分)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 日本本土上陸作戦実行上のリスクは?

 【回答】
 昨日の日記で兵站の重要性について書きましたが,もう一つ本土上陸作戦のリスクについて書いてみようと思います.
 太平洋戦争末期に沖縄と硫黄島を占領した米軍は,最後の総仕上げとして日本本土侵攻作戦「ダウンフォール作戦」を計画しました.
 既に日本海軍の連合艦隊はほぼ全滅し,日本近辺の航空優勢と海上優勢を得た米軍ですが,結局は実行される事はありませんでした.
ダウンフォール作戦 - Wikipedia
日本殲滅作戦 Downfall:Untitled Document

 作戦としては鹿児島と宮崎に空母42隻,戦艦24隻,400隻以上の駆逐艦と,1200機の航空機,14個師団の地上部隊の投入によるオリンピック作戦と,湘南海岸に30万人,九十九里海岸に24万人,予備兵力合わせて107万人の兵士と1,900機の航空機という,ノルマンディー上陸作戦をはるかに凌ぐ規模の兵力が,投入される予定であったコロネット作戦が予定されていました.
 オリンピック作戦の目的は,関東や関西攻撃用の基地確保のためであり,コロネット作戦の目的は東京制圧でした.

 しかし日本軍も桜花や回天,震洋などの陸上と海上の特別攻撃部隊や,その3倍の兵力,さらには数百万人の民間人や退役軍人による民間防衛部隊などを擁しており,これらが戦闘に加われば,米軍史上最大の損害が出るのは明らかでした.
 また,鹿児島は明治維新の志士を輩出した地方で,県民もその事を誇りに思っている上に,鹿児島特有の「薩摩隼人」気質もあったので,上陸したら軍人のみならず,住民によるパルチザン(占領地区でのゲリラ)を結成してゲリラ戦を行ったでしょう.
 宮崎にしても,皇室の祖先の高天原が近い地域とあって,住民のゲリラによる抵抗が予想されます.
 また,鹿児島と宮崎の県境には霧島山があり,ここは活火山で一部地区では火山ガスが噴出しており,天然の化学兵器の要塞でもあり,ゲリラ戦を行うには格好の場所となっています.
 ですから戦闘では,米軍は苦戦するのが予想される上に,航空基地を建設してもゲリラや特別攻撃部隊で破壊される可能性もあります.
 制圧されてない福岡,熊本や大分からの出撃が可能なのですから,そういう損害が予想されます.

 コロネット作戦も同様です.
 むしろこちらは静岡や茨城,栃木,群馬からの攻撃が可能になる上に,大本営が松代に移転してしまえば,東京を制圧しても意味がなく,むしろベルリンより効率的な市街戦を日本軍が行う可能性があります.

 また,日本軍は圧倒的兵力を持っていることから,包囲も可能です.
 確かに千葉県の九十九里浜や湘南海岸は,上陸作戦に適当な砂浜ですが,日本軍も当然上陸してきた敵を包囲したり,住民による民間防衛部隊によるゲリラ戦が可能になります.
 私事で申し訳ありませんが,私が通っていた母校の近くは,田園に丘陵の森が多く茂っており,運動場と校舎には段差がありました.
 場所は千葉県船橋市の奥にあり,近くにはかつて旧陸軍習志野練兵場がありました.
 こんな場所ならゲリラも可能です.

 田園の突破は戦車ならともかく,歩兵にとってはまさに地獄の環境です.
 ヒルやら虫,マムシやヤマカカシなどの被害も予想されます.
 ベトナム戦争では,それによる兵士の負傷が相次ぎました.
 また,湘南海岸には江の島,九十九里浜には千葉県の聖地である(心霊スポットというありがたくもない名称も付いてますが)地蔵ヶ原や,八幡の藪知らずなどがあります.
 心霊現象はともかく,この地にM4シャーマン戦車やM1カービンで武装した兵士が通過したらどうなりますか.
 地元住民は聖地が蹂躙されたとして激怒して,士気の高いゲリラとなるでしょう.

 この事もあって,ダウンフォール作戦は統合参謀本部議長のレービ元帥や,陸軍航空隊総司令官アーノルド元帥からも強く反対されましたが,ダグラス・マッカーサー元帥やニミッツ元帥は強く主張,承認はされたものの,原爆開発の成功やソ連参戦により作戦は中止されました.

 上陸作戦のリスクはここにあると言えるでしょう.
 北海道が欲しかったソ連軍ですら,北海道侵攻計画では,留萌と釧路を結ぶラインを限度としていました.
 日本分割計画では,ソ連軍は北海道と東北地方の占領を担当していましたが,兵站では当時のソ連労農赤軍の海軍力では,この地域の占領は難しく,米海軍に依頼せねばならなかったでしょう.
 あの計画は,ソ連に日本本土侵攻を断念させるためのアメリカの嫌がらせだった,というのは私の考え過ぎでしょうか.
 なにしろアメリカは,青森県の三沢基地の確保を予定していたぐらいですから.
日本の分割統治計画 - Wikipedia

バルセロニスタの一人 in mixi,2010年11月02日09:29

 【反論】
 ==批判^^;==

 ちょっといくらなんでも,,,
 ネタですか?
 違いますよね^^;

==引用==

しかし日本軍も桜花や回天,震洋などの陸上と海上の特別攻撃部隊
や,その3倍の兵力,さらには数百万人の民間人や退役軍人による民間>防衛部隊などを擁しており,これらが戦闘に加われば,米軍史上最大の損害が出るのは明らかでした.
 また,鹿児島は明治維新の志士を輩出した地方で,県民もその事を誇りに思っている上に,鹿児島特有の「薩摩隼人」気質もあったので,上陸したら軍人のみならず,住民によるパルチザン(占領地区でのゲリラ)を結成してゲリラ戦を行ったでしょう.
 宮崎にしても,皇室の祖先の高天原が近い地域とあって,住民のゲリラによる抵抗が予想されます.
ういう損害が予想されます.

==引用終り==

 軍板の本土決戦スレッドハンドルネーム「打通」を思い起こさせるんですけど.
 銃でさえいきわたらず 単発銃や弓矢 熊手で装備してる高齢者や婦女子の群れがいかほど打撃を与えられるでしょう?
 沖縄・硫黄島・ペリリューなどとは,防衛側の質が劣悪ですし.

==引用==

 田園の突破は戦車ならともかく,歩兵にとってはまさに地獄の環境です.
 ヒルやら虫,マムシやヤマカカシなどの被害も予想されます.
 ベトナム戦争では,それによる兵士の負傷が相次ぎました.
 また,湘南海岸には江の島,九十九里浜には千葉県の聖地である(心霊スポットというありがたくもない名称も付いてますが)地蔵ヶ原や,八幡の藪知らずなどがあります.
 心霊現象はともかく,この地にM4シャーマン戦車やM1カービンで武装した兵士が通過したらどうなりますか.
 地元住民は聖地が蹂躙されたとして激怒して,士気の高いゲリラとなるでしょう.

==引用終り==

 ここら辺になると正直怒りを覚えます.
 だつおとおなじ次元じゃないですか?
 ニューギニアや硫黄島の劣悪な環境は,盾にならなかったでしょ?

 正直この回答採用するなら だつおレベルのおちゃらけた部分削除すべきですね.

 あれですね たとえば...
「連合軍側は 日本がかなり軍事的 経済的に窮乏していることは承知していたが,当然 ペリリュー 硫黄島 沖縄くらいの戦備と兵員が待ち構えていると想定していた.
 まさか歩兵銃さえいきわたらず 竹光や単発銃 弓矢や熊手などで 婦女子や高齢者 徴兵不適格者などが,蛸壺程度の陣地で待ち構えているとは思わなかった...」
とか追加すればいいんじゃないでしょうか.

閻魔さくや in FAQ BBS,2011/1/22(土) 9:5
青文字:加筆改修部分

 これは,閻魔さくや氏に同意.
 自分は,全文削除を推奨.

 例えば,
> 宮崎にしても,皇室の祖先の高天原が近い地域とあって,住民のゲリラによる抵抗が予想されます.
> 地元住民は聖地が蹂躙されたとして激怒して,士気の高いゲリラとなるでしょう.

「それで,当事の沖縄県民はどうなりましたか?」
で,FAです.
 聖地どころか村も市外も燃やされて,疎開民からも餓死者が多数出ました.
 武器も食料も補給も無いゲリラは,殲滅されて終わりです.

> 田園の突破は戦車ならともかく,歩兵にとってはまさに地獄の環境です.
> ヒルやら虫,マムシやヤマカカシなどの被害も予想されます.

 九州上陸作戦は11月,関東上陸作戦は3月1日なんで,田んぼに水は入ってないですね.
 過酷も何も,ただの平地ですね.

 あと,沖縄戦は梅雨の時期に行われましたが,その期間で苦労しながらも米軍は,首里防衛線を突破し,本島南部において日本軍を殲滅しました.
 動物からの被害については,ハブやマラリアのいた沖縄で,米軍ではそれらによる被害は,ほとんど報告されていませんが,日本軍兵士や疎開住民がマラリアなどの被害を受けていますね.

 沖縄戦を考えると,雨と動物被害は,日本軍の戦力低下には寄与するでしょうが,米軍にはさしたる効果は無いといえますね.

極東の名無し三等兵 in FAQ BBS,2011/1/23(日)
青文字:加筆改修部分

 閻魔さくや氏に同意.

 100歩譲って,日本軍が米軍の侵攻を止めて膠着状態に持ち込んだとしても,そもそも日本側は食糧自給すら怪しい状況なのですから,飢えた住民が米軍側に投降したり,住民と軍で食糧の奪い合いが発生するのがオチではないかと.

季節労働者 in FAQ BBS,2011/1/23(日) 21:23
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 大東亜戦争の硫黄島の戦いで甚大な被害を出したアメリカですが,もし,日本が最後まで降伏せず,日本全決戦やったら,アメリカはどれぐらいの戦死者を出すことになったのでしょうか?
 ベトナム戦争のように途中で,アメリカ国民が反旗を翻したりしますかね?

 【回答】
 オリンピック作戦=九州上陸作戦が実施された場合,連合軍の損害は戦死9万4千人,負傷23万4千人という推定をしていた.
 その後のコロネット作戦=関東上陸作戦が実施され,それでも日本軍が降伏しないで最後まで抵抗を続けた最悪の場合には,損害が死傷者累計100万人まで膨らむ可能性があると推定されていた.

 ただし,上の推定は過大な損害推定だろうという見方が今は出てる.
 予想で言えば,17,500からトルーマン大統領の100万まで,予想に開きがある.
 でも,まあ,当初計画で投入されるのは10個師団程度だから,4〜5万人くらいじゃないだろうか?
 とはいえ,10個師団の1/2〜1/3が死傷するような事態になれば,米軍も作戦自体考え直して空爆主体に切り替えるだろうから,戦死で10万以上は考えにくい.

 なお,日本側の損害は戦死だけで1千万超えて,昭和20年冬には早くも大量の餓死者が出た可能性が高い.

 アメリカ国民が反旗を翻す可能性があったかはわからん.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 太平洋戦争の末期についてですが,もし日本が降伏しなかったら,九州に侵攻した後,東京に侵攻すると聞きました.
 ではなんで中国・関西・東海地方はスルーされることになったのでしょうか?
 それなりに戦略的価値はあったと思うのですが・・・
 素人の意見ですが,沖縄攻略後すぐに横浜に上陸したり,ソ連の影響力を削ぐために北海道を攻撃してもいいんじゃないのかな?と思いました.

 【回答】
 九州の助攻として数個師団を以て,四国高知に上陸する計画はありました.
 高知平野を平定し,其処に飛行場を建設してしまえば,中国,関西地方は元より,次に実施される関東上陸作戦での戦闘でも充分にエアカバーが利用出来ますから.
 中国・関西地方は内海ですから,海峡の出口を封鎖し,交通網を破壊してしまえば,物資の輸送が滞り,干上がります.
 東海地方については,足がかりとなる地区が余り無い事も原因と思われます.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板
青文字:加筆改修部分

▼ そもそも南九州上上陸作戦も来るべき関東上陸作戦用の地上支援用航空基地確保のためで,九州中央部付近まで占領後は侵攻を止める事になっていました.
 四国には,陽動として上陸する用意があったようですが,関東を抑えれば済む作戦に,他のところに侵攻して無駄な犠牲を許容できるだけの余裕は,米軍にありませんでした.

 米軍がラバウル放置したのと同じ.
 必要なら,どんな犠牲を払っても確保するが,日本軍がそこそこに防御を固めていて,かつ,それほど必要とされないところに兵力を出し惜しんだだけ.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 日本の軍部や政治家は,「日本本土決戦」をどのように捉えていたのでしょうか?

 とにかくただひたすら抵抗して,「大日本帝國」が一日でも1秒でも長く続けばいいと思っていたのか,それとも,本土に上陸させた米軍(とソ連軍?)に莫大な損害を与えて,ある程度のところで講和する時に,すこしでも条件をよくする為の材料にしようと思っていたのか,どちらなのでしょうか?

 それと,関東地方が制圧されたら,長野の松代もそんなに安全な所ではないと思うのですが,関東陥落の後には大本営はまた疎開したのでしょうか?
 とりあえず,昭和21年の夏になっても,中部地方と近畿地方,それに北陸地方はかろうじて占領はされてなさげですが(市街地は何もなくなっているでしょうけれども・・・).

 【回答】
 「大日本帝國」が一日でも1秒でも長く続けばいいと思っていた人,
講和の際,国体=天皇の地位の保証を得るため,連合国軍に損害を与えたかった人,
とりあえずなんか前動続行の人など,色々居たかと思われます.
 これらの合計が,講和を考えていた人よりも多かった,という感じかと.

 また,1945年6月までに,
・軍令を司る方面軍司令部
・軍政を司る軍管区司令部
・行政を司る地方総監府
がそれぞれ設置されまして,中央からの命令が途絶した後も抗戦を継続できるようになっていましたので,よしんば大本営はなくてもどうにかなったかも知れませんです.

unknown

 前段については後者です.
 全世界の中で日本だけが戦っている,しかも,本土で米軍は大損害を与えられていると言う状態を作ることによって,米国の中の人たちに厭戦気分を蔓延させ(実際,硫黄島の戦いや沖縄戦でそうなりかけた),講和に持って行こうとしています.
 勿論,国体は護持するというのが絶対条件です.

 後者は,最後は建前上,一億玉砕ですから,この地が事実上最後の抵抗線になった可能性があります.
 但し,玉座自体はほかにも日光に皇太子がおりますので,更に抵抗を行う可能性はあるかもしれません.

 ただ,首都より地方の方が厭戦気分が強いので,その辺がどう作用するかわかりませんが.

眠い人@出張先 ◆gQikaJHtf2,2006/11/14(火)


 【質問】
 本土決戦では日本軍は,どんな作戦を立てていたのか?

 【回答】
 『本土決戦』(学研,2007.9)によれば,決号作戦において,それぞれ
●陸軍:
 水際防御を放棄して,沿岸部の丘陵地帯に主抵抗陣地を設けて砲爆撃を凌ぎ,内陸進出を阻みながら重砲による砲撃で,敵の消耗と上陸拠点の設定を妨害(橋頭堡破壊射撃).
 この間に背後の攻勢準備築城地帯に,砲兵を伴う打撃部隊を結集.
 砲兵の支援の下,一気に海岸に突入する.
●海軍:
 全ての戦闘を特攻で行うことを基本とし,実用機のみならず練習機や特攻専用機による特攻攻撃で,上陸船団や機動部隊を攻撃.
 さらに洋上では,潜水艦部隊による攻撃(人間魚雷「回天」による攻撃を含む)や,泊地では特殊潜航艇や震洋,伏龍などの特攻戦隊による特攻攻撃および軽快艦艇による夜襲.
 陸上戦力としては陸戦隊を増強.
 他に護衛総隊は,日本海の対潜哨戒や掃海に重点を置き,航路保護に全力を尽くす.
とあります.

 が,陸軍では
・劣悪な道路事情(打撃部隊の速やかな集結が望めない)
・砲兵の劣勢(観測通信能力が低く,射撃に効果が望めない)
・沖縄戦などの戦訓(上陸されてしまえば航空観測と長距離重砲によって全縦深が制圧される.決号作戦は硫黄島,沖縄戦の前に策定された)
などの理由で,結局は水際防御に回帰してしまいます.
(水際防御なら,歩兵同士の戦いに持ち込める可能性が無くも無い)

 また海軍は海軍で,特攻戦隊の指揮官同士で装備を奪い合っており,そもそも上層部が終戦工作に関わっており,決戦準備も「表向きのポーズ」でしかありませんでした.

 さらに陸海軍ともに軍紀・風紀の低下が凄まじく,それが水際防御への回帰の理由(部隊へのカンフル剤)や徹底抗戦派への説得材料になっています.(P.20〜31,84〜106)

グンジ in mixi,2007年12月31日14:30


 【質問】
 日本本土決戦のための陸地測量について教えられたし.

 【回答】
 さて,1944年10月,大本営第二部参謀(後の兵要地誌担当)に渡辺正少佐が任命されます.
 その後,1945年4月に,「本土決戦を間近にして必勝の戦略・戦術」を練り,戦局打開の糸口を見出す為,兵要地理調査研究会が組織されました.
 これは遅ればせながら,陸地測量部内で学者の協力を得て,軍・民一体の総力戦を行う為に渡辺参謀が発案したもので,特に米軍上陸がどの地点になるかを予想して作戦を立てる事が重要な課題となっていた為です.

 大本営の中でも本土作戦研究委員会の検討では,千葉県九十九里浜を予想していました.
 そして,陸軍と海軍はこの期に及んで漸く協力して作戦用の地図を作製します.
 例えば,千葉県九十九里浜に上陸した場合,東京湾から進攻してきた場合,北海道網走の海岸線に上陸してきた場合等,多種多様な可能性に備えて地形図と海図を組み合わせた作戦用地図を作製した訳です.
 勿論,この地図は「軍事機密・軍事極秘」として一般に出回るような物ではありませんでした.

 しかし,軍関係者だけの視点では,我が国存亡に関わる問題で意見が分かれていては,作戦に齟齬を来すと考えた渡辺参謀は,学者を含めた専門家集団に於ける地理学的見地からの研究が必要と考えたのです.
 その為,渡辺参謀は東京帝大の多田文男助教授に声を掛け,彼を介して同じく東京帝大の辻村太郎教授に話を通し,次に東京文理科大学の田中啓爾教授に呼びかけ,こうして,総勢10数名に上る各大学の地理学者の推薦を受ける事に成功しました.

 そのメンバーは交通の関係から,東京にいる人々を選出します.
 第1回の会合に参集したメンバーは,
陸軍予科士官学校新井浩教授,
東亜研究所伊藤隆吉所員,
東京帝大理学部木内信蔵助手,
同理学部大学院特別研究室佐藤久研究員,
内務省国土局計画課酉水牧郎,
東京帝大理学部助教授で資源研究所所員でもある多田文男理学博士,
同理学部教授で日本地理学会副会長でもある辻村太郎理学博士,
東京高等師範花井重次教授,
東京文理大学三野興吉助教授,
陸軍気象部矢澤大二陸軍少佐,
東京帝大文学部和田清教授,
東大吉川虎雄助手,
学習院村松繁樹教授,
文部省国民教育局渡辺光氏,
東京文理大田中啓爾教授
と多様な方面からの人材で,その研究対象は,食糧自活,工業立地,地下施設,資源分布,軍需生産,海岸より内陸の道路,鉄道,敵本土上陸企画判断(含気象),敵の本土分断構想,築城,対戦車地形,航空基地等々の主担任分担の決定でした.

 米軍上陸についての事項は,このメンバーの内,多田文男助教授が担当しました.
 そして,大本営本土作戦研究委員会が千葉県九十九里浜を上陸地と予想したのに対し,兵要地理調査研究会では相模湾上陸との予想を出しました.
 実際には米軍は最初に相模湾に上陸する事になっていましたが,この点では兵要地理調査研究会の方が当っていたことになります.
 因みに,この結果を踏まえて,1945年8月,茅ヶ崎に10cm榴弾砲部隊が増強された訳です.
 まぁ,鉄の暴風の前には糠に釘ではあったかも知れませんが.

 連合軍側の研究では,千葉県九十九里浜,銚子に上陸した場合,首都東京に進軍するのに,利根川,江戸川,荒川と言った河川や手賀沼,牛久沼と言った湖沼や田んぼ,山林が多く,これらは何れも機械化された部隊の進軍に障害となるものでした.
 その点,相模湾では地形的に障害が少なく,首都東京への進軍が極めて効率的であると言う考えであったそうです.
 上陸しやすいのは九十九里浜でしょうが,その後の地形,植生などの条件を詳細に詰めていくと相模湾になります.

 因みに,1945年8月17日付で米軍が,25万分の1日本地図を作製しています.
 それは北海道南部から九州までを網羅しており,47シートに分割されています.
 そしてその詳細図には,戦車や軍用トラックの走行に支障となる河川や湖沼と言った地形は水色で強調されて,極めて実戦的に作られています.
 戦時中,米国はワシントンに優秀な地理学者約100名を集めて,研究と地図作製に携わらしていました.

 一方,日本ではそう言ったことは結果的に,1945年のこの研究会発足まで行われず,不充分な地図で敗退して行ったのがガダルカナルであり,リンガエン湾だった訳です.

 リンガエン湾は参謀本部が敵上陸予想地帯とした場所で,それを阻止する為に,リンガエン湾の敵上陸予想地帯の交通網破壊作業の準備が命ぜられ,旭兵団と盟兵団の2つの兵団に上陸阻止任務が割り当てられました.
 その任務は,リンガエン湾を臨む山岳地帯に堅固な陣地を築き,上陸してきた米軍を撃退するものでしたが,その陣地を築く場所として指定されていたのは,「カバルアン丘」と言う丘でした.
 当時の25万分の1の比島図ではこれは丘になっていましたが,実際の現地は平地であり,雑木林,藪,田畠,小川,小部落があり,実際の陣地を構築するのであれば,もっと後方の山にすべきでした.

 実際に部隊の将校はこの地形を見て,これでは湾からの艦砲射撃や航空爆撃には堪えられない丸見え陣地であり,一溜まりもないと参謀本部に抗議しますが,Tと言う高級参謀が譲らず,そのままの地点に陣地を構築しなければ抗命であると息巻き,結局この地に陣地を構築しました.
 果たして,リンガエン湾に押し寄せた米海軍の艦船から無数の艦砲射撃や航空爆撃を受けた兵団は壊滅し,最後の斬込みで綺麗さっぱり玉砕してしまいました.
 …結局,この地での上陸阻止と言う任務は果たせなかった訳です.

 この1点だけでも,如何に地図というものが戦闘に重要なものであるかが判ります.

 ところで,この研究会は分科会はいくらか開かれましたが,戦局の悪化から総会合は2度と開かれませんでした.
 しかし,この時培った人脈を駆使して,渡辺参謀は,有ることを実行します.
 それは敗戦後,参謀本部にあった外邦図等地図の持ち出しでした.
 何れ,参謀本部は解体され,そこに所蔵されていた資料類,特に兵要地誌類の没収も予想されました.
 この時,東北帝大理学部地理学教室の田中館秀三教授を中心に,後の北海道教育大学の教授となる岡本次郎氏,海保で明神礁の調査中に遭難死した三田亮一氏の2名が,これらの地図類を参謀本部からリアカーに積んで運び出しました.
 運搬の全体指揮は,陸軍気象部の土居喜久一氏が行い,その運搬費用は田中館秀三教授が私費を投じたそうです.
 しかも田中館教授は,東北帝大の事だけでなく,日本全体のことを考慮していました.
 と言うのも,同じ地図は数枚ずつ運び出し,後に国土地理院や他大学にも寄贈したことでも判ります.

 ともあれ,東北大学には外邦図や地形図が多く残されることになりました.
 例えば,100万分の1東亜興地図を始め,5万,10万,50万と言った千島,樺太,日本列島,朝鮮,満州,中国,台湾などが揃っています.

 この田中館教授のルートの他,多田文男助教授が資源科学研究所に運び込んだものもあります.
 これは,戦後財団法人化し,1970年に解散する際に,お茶の水女子大学の浅井辰雄教授が各方面と折衝に折衝を重ねて入手し,保管されています.
 また,多田文男助教授自身も手許に保管し,それが各大学に拡散していきました.
 多田助教授は駒澤大学地歴科を創設した人ですが,勿論,此処にも保管されていますし,他にも法政大学,明治大学,立正大学,関西の大阪大学や京都大学にも分けられ,そこで大切に保管されています.

 こうした外邦図を手許に保管するだけでなく,全体をデータ化して,相互に利用し,研究や教育に役立てる動きが最近始まりました.
 作製当時に此等の地域の地理,地形,植生などの変化を現在と比べてみたり,環境対策や,教育にとっても貴重な資料で,これらの資料は他のアジア諸国からも注目を浴びています.
 とは言え,例によって,お国が冷淡なので苦労しているみたいですが.

 バラマキ政策より,こうした部分にお金を掛ける方が,地域の緊張緩和になって良いと思うのですがねぇ.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/08/08 22:13


 【質問】
 天皇の首都脱出用地下トンネルは実在したのか?

 【回答】
 しません.
 かつて郵便地下鉄があったトンネルが,噂などによって誤って伝えられたと思われます.

***

 2007年は地下鉄開業80周年でした.
 ところが,日本最初の地下鉄は,それより遡る事12年前に存在していたりします.
 尤も,人を運ぶものではありませんでしたが.

 1908年から,首都に相応しい玄関口として建設が開始された東京駅は,1914年12月20日に開業しました.
 その東京駅に運ばれてくる郵便物は,今の東京中央郵便局の中にかつて存在していた東京鉄道郵便局で扱われることになっていた為,東京駅と東京鉄道郵便局構内を結ぶ地下鉄道を,1914年8月に建設開始し,1915年5月23日に開通させた訳です.

 この地下鉄道は,郵袋を搭載した三輪車を貨車に直接載せ,電気機関車の牽引によって運んだものです.
 線路は複線,架線集電による本格的な設備を整えた電気鉄道でした.

 機関車の数は5両で,1号車〜5号車と名前が振られており,集電は4号機だけパンタグラフ,残りの機関車はビューゲルに似た:装置が取付けられていました.

 この郵便地下鉄は,画期的な設備だったのですが,その設備を軍需に転用する為,1940年に廃止し,施設を撤去してしまいました.

 しかし,このトンネルの一部区間,丸の内南口から八重洲南口の手前までの区間は,今でも駅職員専用通路若しくは車椅子利用者の専用通路として整備,利用されています.
 この部分は,通称「赤煉瓦通路」と呼ばれ,高さ,幅とも5m,イギリス積で作られた蒲鉾形断面煉瓦のトンネルで,東京駅の真下に位置しています.
 残念ながら,赤煉瓦駅舎の丸の内南口から東京中央郵便局の地下区間や,東京中央郵便局の地下に設けられたプラットフォームは完全に埋められ,痕跡が無くなっています.

 この地下鉄道の存在が,後に様々な憶測を呼び,未だに天皇の脱出用経路だとか,ソ連並みの秘密の地下鉄があるとか言われている訳です.
 因みに,東京中央郵便局の地下ホームについては,埋められたと言われているだけで,本当にそうなのかは実は良く判っていなかったりするのですがね.

 だからって,陰謀論,イクナイ

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2008年01月12日20:57


 【質問】
 松代大本営計画の始まりは?

 【回答】
 別項では宮内省側からの玉体御動座の計画について触れた訳ですが,松代大本営計画の出発点は,これとは全く違う,軍の視点で考えられた計画でした.

 1942年以後,「絶対国防圏」が設定され,其処を突破されたら,東京を含む大都市への空襲は避けられない情勢になります.

 1944年,陸軍省軍事課予算班にいた井田正孝陸軍少佐は,熟考の挙げ句,東京への空襲が始まると大本営は真っ先に狙われるであろう,指揮系統を守る為には,大本営を安全な所に移すのが一番であると言う結論に達し,陸軍次官,富永恭次の所に建言書を持って行きました.

 陸軍省の軍事課予算班と言う部署は,軍事予算の大綱を立案する部署ですが,同時に軍事施設の計画立案も担当している所でもありました.
 大本営の安全確保は,彼の職掌でありましたので,彼が建言書を認めた訳です.
 但し大本営の移転と言う事は,同時に天皇陛下の御動座も行われるという事になります.
 それ故,彼は熟考を繰り返したと言います.

 彼の建言書には,大本営の移転場所としては,八王子もしくは浅川方面が適当とされていました.
 彼の考えでは,この辺りは山がちで,地下施設も造りやすく,東京に近いと言う理由での選択でした.

 こうして彼の苦心の作は,富永次官に説明する機会を与えられたのですが,「考えておこう」の一言で,其の儘捨て置かれ,長く留め置かれています.

 漸く彼の提案が受容れられたのは,冬が来て,春が去り,夏に懸ろうという5月のこと.
 戦局が緊迫化すると共に,彼の建言書は日の目を見て,大本営移転計画の採用が決まりました.
 但し,井田少佐の提案した,八王子,浅川方面案については,富永次官は却下します.
 八王子は山の中には違いないが土地が狭い.大本営の機能を全て収納するのであれば,もっと広い用地,例えば信州辺りが適当ではないか,と言う訳です.

 富永次官は,命令系統を飛ばして直接井田少佐に極秘命令を与え,信州での適地捜しを行わせる事にしました.

 井田少佐は参謀本部の地図を出すと,適地の検討を行いました.
 本来,こうした仕事は築城本部が担当する仕事ですが,彼等は,前線,特に島嶼部に派遣され,要塞や防御陣地造りに当っており,築城本部に有為の人材は全くと言っていい程居なかったので,結局,築城本部は宛てにならず,井田少佐は,兵務局防衛課の黒崎貞明少佐と,兵務局建築課の鎌田隆男建技中佐の2名に協力を求める事になります.

 黒崎少佐は,井田少佐の同期(陸士45期)であり,防衛課の職務は国内防衛が主任務で,非常事態の際は戒厳令を発令する部署です.
 また,防衛課は憲兵隊の人事行政権にも関与しており,防諜上からも有利でした.
 更に,井田少佐と黒崎少佐は親友だった事もあります.
 一方の鎌田建技中佐は,東大工学部出身の建築の専門家であり,部内の信用も厚く,口も堅いと言う事で仲間に引き入れる事にしたもの.

 彼等三人は信州の地図を詳細に検討しますが,地誌が実際に判らないと言う事で,隠密に現地視察をすることとなります.
 当然,軍服は脱いで,地方人の格好をし,混雑する三等車に乗り,長野に向かいます.
 長野で下車した三人は,憲兵隊に顔が利く,黒崎少佐の地位を利用して,長野憲兵隊に赴き,その隊長を誤魔化して木炭車を1台借り受け,移転地捜しを本格的に行う事になります.

 当時考えられていた大本営の最低限の条件は以下の様なものでした.

 1. 大本営は,宮殿も含め,空襲に備え地下に設ける必要がある. 
即ち,岩盤の固い所が望ましい.
 2. 大本営には連絡の為に,鉄道と通信施設が必要だが,これらが空襲で分断されても良い様に,付近に飛行場を確保する必要がある.
 既設のものがあれば,それを流用するが,無ければ用地の確保が必要となる.
 3. 本土空襲による建設物資供給の停滞や輸送路の途絶などが予想され,工事の進行をスムースに行う必要があるので,難工事となって時間を掛けるのは許されない.
 4. 天皇陛下の御動座が必要なので,周辺の環境にも配慮を払う必要がある.
彼等は,諏訪盆地から天龍川に沿って南下し,飯田まで下っていな地方を駆け巡り,今度は松本から上高地まで足を伸ばします.

 上高地は適地ではあったのですが,用地確保と地理的に不便すぎ,物資の輸送に困難を来すと言う理由で不採用となり,1週間の予定もどんどん日が過ぎていきました.
 善光寺付近は市街地に近すぎて,機密保持の観点から難点を抱えました.

 そして,万策尽きたかと思った際に,彼等が思い出したのが,戦国時代戦略の要衝であった川中島でした.
 彼等は,その川中島周辺に最後の望みを繋げ,松代に向かいました.
 そこで,彼等が見たのは,松代町南西に聳える象山であり,此処に露出する岩の状態も申し分ない.
 彼等は,期待を掛けて,更に地誌を検討する事になります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/08/12 23:46

 3人は,長野の松代に大本営の移転地を見つけた訳ですが,象山を中心にして,大本営と政府機関を其処に,行在所を隣の白鳥山に,又は皆神山に,通信隊を何処に置くかなど種々検討しました.
 実際に大本営が移るとすれば,大本営,参謀本部要員,天皇陛下と皇族方,宮内省の要員,政府関係者,天皇御動座ならば,近衛師団も移転.
 そうなると,人員は1万人を越える.
 単身で移る人も少ないから,家族用の住居も必要.
 それに食糧や武器弾薬を保管する設備,通信設備,航空隊の基地…
 揃えるものは一杯ありましたが,それを報告書にして井田少佐は,富永次官に報告しました.
 富永次官は,引き続き,彼等に調査を命じます.

 陸軍築城本部は開店休業の状態で,1944年12月には解散となっていた為,それに代わって地質調査などや建築見積もりを行ったのが,トンネル工事に通じていた運輸通信省鉄道総局でした.
 彼等は戦前から戦中のある一時期まで,東京〜下関に弾丸列車を走らせる計画を持っており,それによって蓄積したノウハウが大きなものになっていた為です.

 移転計画は,陸軍省から運輸通信省に内密に持ち込まれ,担当になった鉄道監稲葉通彦氏が,井田少佐,鎌田建技中佐の案内で,1944年夏,現地に避暑客を装って調査を行います.
 その結果,象山は岩質は固く,掘りにくい.
 その代わり頑丈なものが出来ると言うお墨付きを得る事が出来ました.

 こうして,計画は計画段階から実行段階に移りました.
 陸軍省建築課の鎌田建技中佐と,伊藤節三建技少佐などの面々が,地方人に化して,長野に向かいました.
 伊藤節三建技少佐は,東大工学部の後輩で,彼等を中心に設計作業に当る事になりました.
 間もなく,鎌田建技中佐は,課長代理に昇進し,業務多忙となった為,設計は伊藤建技少佐を中心に行われる事になります.

 7月中旬,伊藤建技少佐は,設計書を完成させ,兵務局長に提出しました.
 兵務局長は,大本営の移転に関わる事だからと,陸相にお伺いを立てる事になりました.

 その陸相,メモ魔,上等兵などと陰口をたたかれていた東条英機です.

 元々の井田少佐の構想では,大本営と政府機関を象山に,行在所を皆神山に造ることになっていました.
 しかし設計段階では,象山の地質が固く,工事が難航することが予想されたことから,大本営は皆神山に,象山は政府機関だけとし,それも掘削するトンネルは2本だけなので,最小限の政府機能だけを移転させる事にして,大本営の移転を優先し,政府機関は,大本営移転後にゆっくり考えようとします.

 これに東条はカチンと来ました.

 君,これはどう言うことなんだ?
 今度の計画は単に軍の移転を目的としたものじゃない!
 日本の政府が東京から松代へ移すことを目的としたものだ.
 我が国は軍政下に有る訳ではない.政府も一緒に移るのだ!
 大本営や行在所は書いてあるが,政府が無いじゃないか.直ぐ書き直し給え!
 丁度,時期はサイパン島の失陥があり,東条総理が約束していた絶対国防圏が崩壊し,重臣の間で東条打倒の動きが活発化.
 東条総理への国民の人気もいよいよ下降線を辿っていました.
 こうした中で,出て来た大本営移転案.
 これに政府機関がないのが,更に火に油を注いだ訳です.

 結局,伊藤建技少佐は再設計を余儀なくされたのですが,その数日後,やり直しを命じた当の東条英機は失脚してしまいました.

 もう少し待っていれば,松代大本営の姿は変っていたのかも知れません.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/08/13 23:38


 【質問】
 松代大本営って,施設は文字通りオール地下ですか?
 地上部分は一切なし?

 【回答】
 地上施設もたくさんあった.
 天皇陛下はじめ皇族の居住区は,普段は地上にあった.

軍事板

▼ 戦後の1947年10月12〜14日,昭和天皇は長野県を巡幸されました.
 この時,善光寺裏の展望台に立たれた陛下は,当時の長野県知事林虎雄に,「戦争中,この付近に『ムダ穴』を掘ったそうだが…」とご下問になったとか.
 『ムダ穴』と言うのは,陸軍が,海軍や内務省,宮内省はおろか,天皇陛下にも極秘で進めた「マ計画」,つまり,松代大本営の事です.

 その建設に関しては,労務動員の話の後で追々触れていくとして,1945年8月15日現在,象山の地下壕は90%完成していました.
 大本営の移転は,当初計画では7月15日から徐々に移転し,8月15日移転完了の予定でした.
 1945年4月中旬から陸軍大臣と参謀総長が殆ど同時に大本営移転準備命令を出し,これに応じて物資を長野に移集積すると共に,各部署でも移転が準備されることになりました.
 この為に,国土防衛軍の組織変更を行った際,各地の師団は師管区司令部となっていたのが,長野だけ新たに師管区司令部が設置されることになりました.

 8月15日には,昭和天皇も松代の地に御動座申上げる予定だったそうです.
 まぁ,昭和天皇にはその意志が無かったと言われ,だからこそ,冒頭の『ムダ穴』発言に繋がったのですが.

 結局,7月15日の移転準備は直前に中止されました.
 大本営だけが東京を棄て,信州の山の中に逃げ込む訳にいかないと言う至極まっとうな判断.

 5月中旬,東部軍経理部長の渦川正義中将が用地買収や地元民の全面協力を求める為,松代を訪れた際,ごく少数の地元有力者,即ち,町長,警察署長,郵便局長などに,
「松代の地下壕には『尊いお方』が来られ,松代は『大本営町』と町名が変り,警察は『大本営警察署』,郵便局は『大本営郵便局』になる」
と説明が為されました.

 6月16日には,阿南惟幾陸軍大臣が,陸軍省軍事課長荒尾大佐,建築課長吉田大佐を伴って飛行機で長野入りし,長野市管区司令官平林盛人中将と共に松代を訪れています.
 その際,平林中将は,硫黄島で玉砕した栗林忠通大将の出身地について話します.
 奇しくも栗林忠通大将の出身地と言うのは,その松代大本営が築かれた埴科郡西条村宇欠にあります.
 この時,阿南陸相は,感慨深げにその風景を見入った後,
「栗林君は松代の出身と聞いたが,あの部隊長がどうやって自決したのだろう.
 ピストルか,それとも自刃だろうかね」
と独りごちたそうな.
 そして,視察が終わって洞窟から出て来た時,
「平林君,陛下がこの大本営や御座所を使用なさることなく戦争が終われば結構だがね.
 そのとき,私共はかくまで準備しました,と言って,一度陛下の行幸をお願いすることですね」
と言われたと言う.

 前者の言葉と言い,後者の言葉と言い,非常に意味深な言葉だった様な気がします.

 更にもう一度,敗戦直前に阿南陸相は松代を訪れています.
 但し,敗戦の混乱で正確な時期は判っていません.
 ただ,8月に入って4日か5日頃と言われています.
 今度も上田まで空路で入りますが,今回はお忍びの視察だったので,出迎えは建設部隊責任者の加藤建技少佐だけ.
 阿南陸相の服装も,国民服に赤い長靴を履き,真っ白なハンチングを被っていたそうな.
 彼は上田から松代まで木炭車に乗って行きますが,その際,阿南陸相は加藤少佐に,
「諸君には大変御苦労を掛けたが,どうやら松代のこの施設は,使用する必要が無くなるかも知れないね」
と述べたと言います.

 徹底抗戦派と言われていた彼が,こんな言葉を述べるのは,実は彼は非戦派だったと言えるのではないかと思ってみたり.
 その言葉を裏付ける様に,8月12日,政府機関の移転に関する最終打ち合わせが松代で行われることになっていましたが,その会議は急遽中止となります.
 そして15日には玉音放送,6月に「ピストルか自刃か」と言っていた阿南陸相は自刃を選び,初期の混乱を除けば,何事もなく日本は降伏することになりました.

 長野に進駐した進駐軍は逸速く松代大本営を抑えますが,この施設は既に集積した物資と共に人っ子一人とてなく,「皇居」とて例外ではなく,調度品や建具は持ち去られ,廃屋同然の施設と化していました.
 その建設の為に二束三文で借り上げた土地や建物には借り上げ料が支払われ,強制的に買い取られた土地や建物に関しては,買い上げ値段の45〜55%で払い下げられました.
 しかし筒井地区の4軒だけは,既に建物が跡形もなく取り壊されたので,戻ることが出来ませんでした.
 また,強制的に買い取られた家も,屋根だけ残して中は随分手が入れられていたそうです.

 一方,半島から徴募されてきた朝鮮人労務者は2,000人程いました.
 工事を担当した西松組は,彼等を一刻も早く帰そうと県庁始め官庁の間を奔走しますが,一向に埒があかず,遂には職員を新潟,下関,博多に派遣,漁船から何から使えそうな船をヤミ船として手配し,冬までに帰国させる手筈を整えます.
 因みに彼等には,1年間の労働手当の他,250円ずつを帰国支度金と言う名目で支払ったそうですが,実際に支払われたのかは記録が残っていません.
 こうした誠意が伝わったのか,松代では日本人労務者達と朝鮮人労務者は互いに手を握り合いながら,
「良い時代になったらまた松代で会おう」
と言って別れ,トラブル一つ無く残務処理が終わったと言います.
 ただ100人程は,戦前から日本に渡り,既に帰国する場所とて無かったので,残留しています.

 この松代大本営が国民の前に公表されたのは,1945年10月26日,信濃毎日新聞の報道に依るもので,27日には読売報知が全国紙として報道しました.
 当時は2頁のタブロイドなのに,その1面半分を使ったスクープ記事でした.
 この記事は,海を渡って海外でも反響を呼び,各国の東京特派員は挙ってその記事を配信,Matsushiroの名は世界に響き渡りました.

 こうして国民の前に姿を現した松代大本営ですが,戦後,大蔵省はその扱いに苦慮しました.
 それこそ「ムダ穴」だったからです.

 最初に松代に駆けつけた米軍将校曰く,「マッシュルームの栽培に適している」と言ったそうな.

 その頃,屋代中学で教員をしていた長谷川五作と言う人がいました.
 彼は,長野師範卒業後に小学校教員となり,小学校時代には蚕や野菜を材料にメンデルの法則を証明したり,玉蜀黍,鷺苔,卯木などの交配で突然変異の研究に勤しんだりしました.
 その後,中学校教員の免許を取得し,中学の先生となります.
 そして,鳩,狸,山椒魚,馬などの動物のメンデリズムの研究や超電波の生物細胞に及ぼす研究などを行い,1923年からは茸の人工栽培に取りかかり,1931年に榎茸の瓶栽培に成功するも,農民達には冷笑され,軍部からは睨まれる有様でした.

 しかし敗戦後,彼は松代大本営の「ムダ穴」に着目します.
 これは榎茸栽培に理想的な場所で,早速村民を説得し,この地下壕暗室で松代,西条などの農民を指導しました.
 その甲斐あって,長野県特産課もこれに着目,農家の副業として積極的に栽培を奨励,指導し,1953年には23トンの榎茸を産出し,これは冬の農閑期での現金収入の道を見出すものとして,奥信濃の飯山,中野地方の農民に歓迎されました.
 10年後には500トンの生産を挙げ,冬期の出稼ぎを一掃しました.
 因みにこの榎茸,最初は「なめたけ」と呼ばれていましたが,長野県特産課長の清水雅敏が「えのきだけ」と命名して売り出しました.
 正にこの榎茸,大本営の落とし子だったりします.

 もう一つ,大本営の落とし子がありました.

 当時長野測候所長の北沢貞雄が,この施設を知り,地震観測所として活用することを中央気象台長の藤原咲平に進言したのです.

 藤原咲平は,諏訪の出身で松代の事情にも詳しく,松代が本州中央部に位置し,太平洋や日本海からも遠く,鉄道,自動車,工場などの雑新藤も少なく,地球物理学的な精密観測を行うのに適していると判断,更に山頂から100m下の地下に東西南北縦横に刳貫いた地下坑道は,絶好の観測場所と考えました.
 彼は,「日本はもとより,他国の為に役立ち,戦争で全世界から『村八分』にされている日本が再び国際社会の一員として見直して貰えることになるかも知れない」と考え,松代に調査団を派遣しました.

 1946年4月25日,調査団一行は松代に向かいました.
 中央気象台地震課長の鷺坂清信,地殻物理研究室長井上宇胤と職員諏訪彰の3人の調査団は,北沢と共に西条村役場を訪れ,地元関係者の案内で地下坑道や坑外のT号室など皇居予定地を見て回りました.
 この調査の結果,松代の坑道は坑道壁が堅固で崩れにくく,湧水も乏しく,一年を通じて乾燥し,ほぼ恒温恒湿であると条件を満たしており,藤原台長と,総務部長の和達清天は,監督官庁の運輸省を説得し,大蔵省と掛け合って,1947年5月1日,大本営跡は「中央気象台松代分室」となり,1949年6月に「地震観測所」となりました.

 当初はウィーヘルト地震計,ガリチン地震計,1トン長周期地震計,短周期上下動地震計と地殻変動測器で観測が行われていましたが,1957年,地球観測年と言う事で,ペニオフ地震計が設けられました.
 これにより一躍,松代は国際級の地震観測所としてクローズアップされ,米国は1965年,沿岸測地局の世界標準地震計(WWSS)を松代に設置し,日本唯一の国際協力地震観測点として歪地震計の観測も開始されました.
 こうして松代の地は,国内はもとより,海外の小さな地震でも観測出来る能力を持ち,折からの地下核実験の地震波探知にも成果を上げています.

 一方,この地は1965年8月3日から「松代群発地震」の震源地として有名になりました.

 1980年までにこの観測拠点では,723,188回の地震を隈無く観測し,地震予知の原動力ともなりました.

 当時の松代町長中村兼治カは,
「物,金より地震の学問,研究が欲しい」
と言って,中央の陳情のたびに力説.
 当時も今も,地方自治体の首長は政府から金やハコモノを持ってくるのが仕事と言われているのに,こうした姿勢は中央でも支持を呼び,また,当時の佐藤栄作首相の胸に響き,1967年2月6日,地震観測所内の旧大本営宮内省舎予定地だったV号舎に松代地震センターが設置されました.

 戦時中の「ムダ穴」は,戦後,様々な成果を上げた訳です.
 今の「ムダ穴」ならぬ,無駄な「ハコモノ」は一体どんな成果を挙げているのでしょうか?

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/08/06 21:55

 そう言えば,松代大本営の仮行在所の建築に携わったのは,陸軍工兵なんかだったのですが,その中心に居たのは何と一等兵だったそうです.
 その一等兵,当時,東京大学工学部助教授を務めていた人で,1943年に二等兵として召集を受け,近衛工兵第2部隊に配属されたのですが,珍しく「鉄砲担がせるより専門分野で使った方が国の為」として,硫黄島進出前に外されて靖国神社地下宮建設工事の担当になったそうです.

 でもって,松代に配属されたのですが,其処の工事主任の大尉は東大の6年後輩で,答案の採点をした学生で,着任当日から大尉に「先生,先生」と呼ばれ,彼を中心に建設工事が回っていたそうな.

 適材適所なのか何なのかわかんなくなりますね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/08/06 22:05


 【質問】
 松代大本営の工事は,どのように行われたのか?

 【回答】
 前に東条「陸相」に突き返された結果,再設計を実施し,松代大本営案は,東条内閣辞職後1ヶ月後に,杉山陸相に再提出することになりました.
 その概要は,当初案に比べると相当規模が大きくなります.

 工事地区としては「イ」〜「ト」まで7地区に分かれます.
 「イ地区」は,象山を中心とした所で,山に東西に20本の隧道(本坑)を掘削し,これを5本の連絡坑で結ぶものであり,この中には政府機関1万人を収容します.
 「ロ地区」は,象山の南東,白鳥山に3〜5本の本坑を南北に貫通させ,これを6本の連絡坑で結ぶもので,この中には大本営を収容し,本坑奥深くに御前会議用の部屋を作ります.
 行在所は東寄りの山腹にはめ込み式に設置し,その一部を露出させて3棟建築し,これらは何れも地下道で連絡させます.
 収容人員は,宮内省,大本営合わせて2,000人.
 「ハ地区」は白鳥山の東北方にある皆神山に東西2本の本坑を貫通させ,此処には皇族方をお迎えする.
 「ニ地区」「ホ地区」は,松城町から北東20kmの雁田山,鎌田山の山麓に設置し,この場所は燃料庫とする.
 「ヘ地区」には,雁田山,鎌田山と並ぶ臥竜山に軍通信隊の隧道を設ける.
 「ト地区」は象山の西2kmの妻女山に一般政府機関を含めた通信センターの為の隧道を設ける.

 この設計案が杉山陸相によって承認され,東部軍司令官藤江恵輔大将に施工命令が出され,計画が動き始めます.
 開始は1944年夏の終わり,工事総括は東部軍ですが,実施は地下施設と言う事で,鉄道トンネル工事にノウハウを持つ運輸通信省が担当する事となります.

 東部軍は,経理部が工事担当となり,部長の渦川正義中将が,現場責任者として加藤幸夫建技少佐を任命,運輸通信省は,地下建設本部を設置し,本部長は鉄道総局長官の堀木謙三が兼務,本部次長には稲葉通彦が就任し,新丹那トンネルを建設していた熱海中央施設部が,そっくり松代に派遣されることになります.

 先ず,用地買収の手続きに入り,9月初旬に現地に入り数日で,約100名の地主を招集して軍の言い値で買収を通告.
 これは3,000人に及ぶ建設労務者の為の飯場用地で,10月初旬から早くも工事に入ります.
 建設は,東部軍所属の2個中隊200名,これに大工,左官,鳶職で構成される勤労報国隊が支援しました.
 この飯場を短期間で,米軍の目に触れることなく,資材を出来るだけ少なくする,と言う3つの条件を満たす工法が考えられました.
 松代大本営を設計した伊藤節三が思い出したのが,1943年に彼が発表していた三角兵舎です.

 三角兵舎というのは,骨組みは2本の柱を合掌式に組み合わせ,接点をボルトで締め付けただけのもの.
 これを地面の上に何組も並べ,骨組みと骨組みとの間に板を張る.
 これで,板と壁が一瞬のうちに出来ると言う寸法.
 内部は,中央の地面を縦に掘り伸ばし,其処を通路とし,両側を居住区とするものです.
 この掘った土を其の儘屋根に被せることにより,適度なカムフラージュとなり,米軍機の目を誤魔化せる….
 しかも,信州の厳しい冬には,屋根に少しの隙間もないので,僅かな採暖で保温効果を上げることが出来るので,寒冷地に向く工法とされています.
 元々,この三角兵舎は原始時代の日本で培われていた「天地根元造」と言うのと考え方は同じで,アッツ島を占領した際に野戦用に使用し,関東軍兵舎に採用されたもので,伊藤はこの功績で,1943年に陸軍技術有効章を受けています.

 こうして,飯場建築は2個中隊により,2ヶ月の工期の予定が僅かに1ヶ月と言う短期間で作り上げられました.
 飯場は,白鳥山麓の西条村に78棟(6,750m^2),皆神山東南方の豊栄村に30棟(2,201m^2),象山西方の清野村に135棟(10,400m^2)が作られています.

 建設部隊は,鉄道総局熱海建設隊の技術部隊100名がそっくり振り向けられ,手足となる建設作業員は,大手建築会社で鉄道工事部門を持っている会社を統制する為に作られていた鉄道建設工業を通じて,西松組に大本営工事を割り当てました.
 西松組は,内務省からの受注工事であった岩手県猿ヶ石ダム工事の労務者を松代に振り向けることとなり,職員,作業場の組頭130人に,朝鮮人労務者約500名,その家族約50名が飯場に入りました.
 因みに,この朝鮮人労務者は,後の強制徴募ではなく,自ら進んで日本に来た人々で,工事のエキスパートとなっていた人々.
 それでも,この大工事に足りない為,朝鮮から徴用労務者を先ず,2,000人,最終的に7,000人に達する労務者を朝鮮半島から富山経由で,松代に送り込んでいます.
 よく問題になる朝鮮人労務者問題というのは,この徴用労務者が発端になります.
 元々は「募集」−「官斡旋」と言う形式で本人了承の上,送り込んでいたのですが,その頃になると,必要数には間に合わず,最終手段として「徴用令発動」を実施します.

 この人集めの手段として,寝込みを襲ったり,田畑で働いているのをトラックに乗せたりして集団を仕立て,内地に送り込んだのが問題となっている訳です.

 10月に作業員が飯場に入りますが,この地域には未だに電灯線すら来ておらず,電灯線が来たのは1月後の11月中旬で,中部配電が象山と妻目山の山間に仮変電所を設け,35,000ボルトの高圧線を引き込んで,全長4kmの送電線を飯場や工事現場に引き込んでやっと機械類が使える様になります.
 その機械についても,無尽蔵である訳が無く,しかも,極秘工事なので,内容が説明出来ず転用もままならない状況.
 それでも,100馬力級コンプレッサーを20台ばかりかき集めます.
 とは言え,これが全てメーカーが違う為,寸法が異なり,部品が間に合わず,パイプ類は直径が違うので其の儘連結出来ない…正に無い無い尽しな訳ですが,部品類は国鉄長野工機部に日参して何とか作り出して貰い,パイプ類は細いのを束にするなどの創意工夫でなんとか使用できるようにしました.

 こうして,コンプレッサーの他,削岩機306,送気送水管4,400m,オイルファーネス16,加熱炉1,ポンプ3,巻揚げ機4,枕木2万石….
 つまり,機材で山をぶち抜くのは不可能であり,そうなると人力に頼る他は無かったのです.

 1944年11月11日,松代大本営工事の発破第1号が掛けられ,想像を絶する工事がスタートしました.
 以後,1夜で数百発の発破が鳴り響き,牛は乳を出さなくなり,鶏は卵を産まず,周辺の住民も不眠に苦しみ,人家の壁や土蔵の壁には大音響で亀裂が生じる程だったそうです.
 この発破は直径7分(約20mm)のものを2〜8本繋いで爆破させたものだけに,その音は「ハラまで響く」ものでした.

眠い人 ◆gQikaJHtf2, 2008/08/18 21:14

 大本営工事ですが「イ」〜「ト」までの7地区の工事の内,「イ」「ロ」「ハ」の3地区の工事が優先的に行われました.
 作業員は,鉄道総局の松代建設隊と,西松組,朝鮮人労務者に加え,毎日,県内の勤労報国隊200人が参加し,総勢3,000名体制で行われました.
 作業は,3交代制を採り,1番方は7時から15時までの8時間,2番方は15時から23時,3番方は23時から翌日の7時まで….
 50年前の隣国や最近の某北方の隣国を笑えません.
 つい,63年前は日本でもこんな状態だったのですから.

 「イ」地区は,象山に掘削され,政府機関,NHK,電話交換センターが収容される予定でした.
 「ロ」地区は,白鳥山で,大本営を設置し,その奥に天皇の御座所を設ける.
 「ハ」地区は,皆神山で,当初計画では皇族方の住居となる予定でしたが,地盤が軟弱で食料庫に変更されました.

 作業員の割当としては,最も地盤が固く難工事が予想される「イ」地区に,総人員の60%を投入し,残りは,「ロ」地区に25%,「ハ」地区に15%を割り当てました.

 この山腹に穿たれたトンネルは,碁盤の目状に張り巡らされ,地図を持たずに中に入ると,先ず元の出入口に戻るのは不可能とされているほどの迷路でした.

 鉄道のトンネルと違うのは,鉄道のトンネルは入口があれば出口があるものですが,このトンネルは出口のないトンネルです.
 つまり,爆撃に遭って,入口に爆弾を落とされた場合,爆風が奥の壁に跳ね返って被害を拡大させる可能性がありました.
 そこで,その爆風を別の方向に逃がし,被害を最小限にさせる為に取られたのが,爆風坑の設置です.
 爆風坑は,山腹に弓形の半円を描いた様な穴を堀り,弓を握る部分から奥に向かって本坑を掘ると言うもので,片方の入口に爆弾が落ちても,その爆風は弓状に半円が描かれた爆風坑を通って,一方の口に吹き抜け,本坑に入ることは有りません.
 この爆風坑は全ての入口に設置されており,本坑の入口は,その中に入った所に作られていました.

 因みに,本土決戦で作られた様々な洞窟陣地も同じ様な工法が採られています.

 当初は,爆風坑を掘ってその後で本坑と言う工法でしたが,掘った岩石を運び出す上からも不便であり,結局,先ずは本坑を造り,本坑が出来上がった所で,爆風坑の外側の坑道部分を埋めてしまうと言う工法に切り替え,能率を上げることにしました.
 また,爆風坑からは,本坑が何本も放射状に穿たれ,本坑と本坑の間に連絡坑が掘られました.
 象山にはその入口だけで20カ所も掘られています.
 この中には政府機関が入る予定ですが,12省1院2局の政府機関を其の儘入れるのは不可能で,陸海軍省以外の10省を4省くらいまでに削減する行政改革の上,詰め込むことになっていました.

 本坑は20m間隔で東西に20本,本坑と本坑を結ぶ連絡坑は5m間隔で5本が掘られています.
 本坑の20本の内,16本は約200m,残り4本は約280mに及びます.
 本坑の幅は4m,天井は円弧形で,中央の一番高い所で2.7m,低い両端で2mもあり,小型車なら2台がすれ違うことが出来,総延長は約7,500mに達します.
 そして,その広さは約26,000m^2になり,大体東京ドーム2個くらいになるでしょうか.

 この工事を統括する為に,坑中には事務所が設置され,この場所から工事指令が流される様になります.
 また,工事進行後は,戻るのが大変なので,事務所内に宿泊施設が整えられました.

 象山だけではなく,白鳥山,皆神山合計では,本坑は31本で7,380m,連絡坑は17本で3,060m,爆風坑は15本で994m,後で埋められる捨導坑は31本で1,635m,総延長94本で16,069mに達します.
 大体,この長さだけでは,北陸線の北陸トンネルや上越線新清水トンネルに匹敵するくらいの長さです.
 北陸トンネルや大清水トンネルは,戦後のしかも,30〜40年くらい経った時点に開通したトンネルで,機械化も為されているのですが,完成までに2〜3年懸っています.
 しかし,松代のトンネル群は個々の長さは短いと言え,満足な機械力もなく,殆ど人海戦術で掘ったトンネルであり,これを10ヶ月で掘ったのは,正に,「苔の一念岩をも通す」でしょうか.

 その工事で掘り出した岩石は144,400m^3,有効床面積43,000m^2に達します.
 有効床面積というのは,天井上に被さっている土の厚さが30m以上の部分を指します.

 掘削工事は西松組が担当でした.
 しかし,1日平均1〜1.5mと言う掘削距離でした.

 そこで,1945年3月以降,熱海の東京鉄道教習所の生徒130名を動員します.
 この鉄道教習所と言うのは国鉄技術陣の養成機関で,俗に「国鉄トンネル学校」と呼ばれており,属しているのは高等小学校を出て国鉄に入った15〜18歳までの少年達でした.
 西松組とは知恵も体力も熟練度も全く比較にならない訳ですが,彼等は自分たちの学業と実習が一気に体得出来ると大張り切り.
 その作業ぶりは,西松組の労務者をも上回り,1日平均4〜5mと言う工事箇所が続出しました.
 この能率の良さに,作業現場は目を見張り,生徒には生徒同士で作業をさせ,生徒対抗の掘削コンクールを実施して作業を鼓舞します.
 その結果,1等の組は何と1日の掘削距離が12〜13mと言う,正に破格の記録を樹立したのです.

 こうした彼等の奮闘の甲斐あって,第1期工事の地下壕掘削工事は,「イ」「ロ」「ハ」地区で4月にはほぼ完成します.
 その掘削総延長は,13,069m.
 僅か5ヶ月での掘削工事であり,この掘削工事に動員された労力は延べ36万人に達し,正に人海戦術の賜物でもありました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2, 2008/08/19 21:34

▼ さて,4月にトンネルが曲がりなりにも完成する1945年3月23日,杉山陸相の名前で,東部軍司令官田中静壱に対して,「陸亜密第二四七四号,松代倉庫新設工事」が命令されます.
 建設場所は白鳥山の「ロ」地区で,陸軍省の計画通り,
1.天皇・皇后両陛下,
2.皇太后,皇太子,内親王殿下,
3.秩父宮,高松宮,三笠宮
の三宮の宮殿を建てることになります.
 後に計画は変更され,1. 天皇,2. 皇后,3. 宮内省となりました.

 この「倉庫」,工事実施部隊から東部軍経理部に届けられた資材要求の命令書には,「倉庫一棟,但し,檜の柾」と記されていました.
 勿論,これは本当の「倉庫」ではなく,皇居であることは間違いなかったりします.
 問題の「倉庫」は,白鳥山の南麓に建てられるもので,3つの「倉庫」は片側を山腹に露出しているが,大部分は山の中にはめ込み,其処から地下道が山の中奥深くに延びている様にしています.
 その「倉庫」は,東から天皇・皇后両陛下の御座所,皇太后,皇太子,内親王の御座所,三宮家の御座所となっていました.
 この工事だけは,鉄道関係者や西松組の手を使わず,軍の直轄工事となり,加藤建技少佐を工事長として,以下198名が従事し,吉田栄一建技大尉が工事主任で,部隊は工事班と庶務班,経営班と作業中隊が2個と言う体制でした.

 当然,この工事は極秘中の極秘であり,本土決戦では天皇の御座所の場所を知られてはならない.
 と言う訳で,西条村の入組,筒井両地区の全村立ち退きが要請されました.
 知事を通じての村長への協力要請は4月4日,村長としては大本営を作ることまでは知っていましたが,天皇の御動座が計画されている事までは知りません.
 4月5日,村民を西条国民学校に集め,立ち退きを通告します.

 正に,この立ち退きは住民達にとって青天の霹靂とも言うべき話でした.
 その範囲は,西条村山林全部602町歩(約600ha)の立入禁止,田畑67町2反歩,宅地199坪(約657m^2),家屋は入組,筒井130世帯全部の立ち退き,筒井地区20戸は1週間以内の立ち退き,入組110戸は月末までに転出,なお,現状は其の儘とし,建物は勿論,庭木,庭石などは一切手を付けてはならぬ,と言うもの.

 翌日から村長以下全職員による両地区の立ち退き先斡旋に走り回りました.
 立ち退き対象者は,親戚を頼って村外に出て行くか,村内の農家に間借りをするほか有りません.
 全戸の空き部屋,離れのある家,蚕室の空いている家,それでも足りなければ,隣の松代町,清野村,豊栄村の協力を仰ぐしかありませんでした.

 更に翌日には軍経理部の担当者がやってきて家屋の買収査定を始めました.
 立ち退き民家については,家具,調度,一人当り畳3枚までの持ち出しが可能とされました.
 村民は,村長に詰め寄りますが,村長も迂闊なことは口に出せず,遂に諦めた村民達は,「栗林中将が硫黄島で玉砕し,村が立ち退き,これで日本も仕舞いだな」と言いつつ引揚げたそうです.
 因みに,栗林中将はこの西条村の出身で,20日前に硫黄島で玉砕していました.

 この支払いは西条国民学校に於て,現金にて支払われました.
 普通,こうした接収の場合は,国債などで支払うのが多いのですが,流石に生活のこともあるというので,現金の手渡しとなりました.
 これらの現金は,国庫から出され,三菱信託銀行を通じて,松代に運ばれました.
 大蔵省の要請で本店の職員が長野に赴き,支払事務に当ったそうです.
 これが縁で,三菱信託銀行は長野に支店を開設することになりますが,その開設日は,1945年8月20日で敗戦の5日後になります.

 因みに,その後,こうした不具合の無い様にと言うべきか,民有地に於ける軍事施設の建設,部隊の駐屯などを合法化するべく,3月27日に公布された軍事特別措置法が沿岸地域から日本全域に拡大されています.

 買収,立退き後,周辺は有刺鉄線を張り巡らし,入口には衛兵所を設置,銃剣付小銃を構えた衛兵を24時間張り付かせたりしています.
 気のせいか,軍は既に民衆を恐れているかの様でもあり….

 しかし,この地を通らなければ,更に奥地にある入組地区の桑畑へ行けません.
 其処は買収から免れた土地でした.
 交渉の結果,結局,この地に行く為に軍は鑑札を発行し,その鑑札を持つものだけが中の通行を許されることになります.
 とは言え,警戒は厳重を極め,風呂敷包みの中の雨具から,空になった弁当箱,大八車に積んだ桑の葉の中に至るまで,トコトン調べられたそうです.

 それにしても,本土決戦なんぞを叫ぶ軍が,民衆を味方に付けていない状況に陥っている時点で,本土決戦なんかがまともに出来たのでしょうかね.
 それとも,単なる壮大なフェイクだったのでしょうか.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/08/20 22:03

 住民を追い出したその土地に軍は何を作ったか,と言えば,完全に壊されたのは4棟だけで,残りの約100軒は,屋根だけ其の儘にして,内部だけそっくり改造しました.
 用途は,大本営幕僚達の宿舎です.
 建物を新しくしてしまうと,この場所に大規模な何かを作ろうとしている,と,連合軍が見抜いてしまうのを恐れての事でした.

「松代の山の中に何が出来るのか」.
 噂が噂を呼び,その度に尾鰭が付いて増幅されていきました.
 大本営だ,いや,学習院が来るらしい,いやいや,新兵器の爆弾貯蔵庫だ(実際,大糸線の中土〜小滝の未成区間は完成間際だったのがレールを取り外して,鉄橋も架台を残して撤去され,トンネル内には爆弾が貯蔵されていたそうな)….

 此処に何が出来るのか,長野県の憲兵隊ですら知りませんでした.
 其処で,工事現場に駆けつけ,工事主任の吉田建技大尉と直談判に及びました.
 しかし,これは軍極秘の工事であり,例え憲兵隊と雖も明かすことが出来ないと突っぱねます.
 すると,憲兵達は,
「労務者は工事現場に自由に出入りしているにも関わらず,我々憲兵隊が現場に入れない.
 どう言う理由で我々が入れないのか,その点はっきりさせて貰おう」
と凄みましたが,吉田建技大尉は,こんな言葉で憲兵の横槍を撥ね付けたそうです.

「労務者は出入り出来るが憲兵は入れないと言うが,当方では労務者は人間とは見ていない.
 言い方は悪いが,あれは『機械』に過ぎない.
 だが,憲兵は『人間』だ.
 人間は口を利く.
 だから言えないのだ」
 方便なら良いですけど,本音だったら空恐ろしい気がします.

 この計画は陸軍のほんの一部しか知りません.

 海軍がこの計画を知ったのは,1945年4月の事でした.
 軍令部次長の小澤治三郎中将は参謀本部次長の河辺虎四郎中将を訪ね,事実を正しました.
 河辺中将は,既に計画は進んでおり,海軍の部屋も出来ていると答えました.
 末期のこの期に及んでも,こんな状態で本土決戦が戦えるのか,と言う気がしますが…
 兎も角,小澤中将は憤慨し,「海軍は松代には入らない」と見得を切って帰りました.
 とは言いつつ,実際には狐と狸の化かし合い.
 沖縄玉砕と共に,本土決戦を考えざるを得なくなり,6月から第300設営隊を長野県に派遣して,長野西方の小市に1,000人収容の参謀本部壕の建設に入りました.
 こちらは100mほどトンネルを掘った所で敗戦になっています.
 なお,もう一つの候補地として,奈良の大和基地近辺が考慮されていたそうな.

 1945年5月25日,空襲の炎が皇居に延焼し,宮城,大宮御所などがB29の爆撃で焼失しました.
 この報を聞いた松代の工事現場では,最早完成まで間に合わないかも知れないと言う事で,急ぎ,西条村筒井の松代皇居の隣に,仮行在所を作ることになりました.
 工事は5月下旬から開始され,新築では間に合わない為,立ち退かせた個人宅を改築し,456m^2の瓦葺き平屋に新しく300m^2を増築して結びつけ,外装は大和板張りと言う昔の木造校舎か,村役場の様な外観でした.

 地元では菊の紋章の目撃談もあり,「学習院が移ってくる」と言う噂が流れました.
 もっけの幸いとばかり,軍当局者は肯定も否定もしませんでした.
 この建物はW号舎と呼ばれ,敗戦後は戦災孤児の収容所「恵愛学院」となり,その任を終えた後は養護施設として1979年まで使われていたそうです.
 更に,皇太子が来ていると言う噂も,8月11日(新聞に日光疎開中の皇太子殿下の写真が掲載された)まで根強く残っていました.

 時に,このW号舎,外観は完成したものの,内装工事で行き詰まります.
 軍の人間達は,現人神がどの様にお風呂に入られるのか,便所はどうされているのか,判らなかった為です.
 此処に至って漸く陸軍当局は宮内省にお伺いを立てました.
 それに依れば,風呂は普通の木桶だが焚口は付けないと言うもの(湯は別で沸かして,それを桶に汲入れる為),便所は少し広めでよいとのことでした.

 松代皇居の建物はT号舎からX号舎までありました.
 W号舎は仮行在所でしたが,
T号舎は天皇・侍従・侍従武官室,
U号舎は皇后室,
V号舎は天皇・皇后御在所・会議室,
X号舎が宮内省・事務室・会議室で,
W号舎は普通の家屋敷,V号舎が地下室,それ以外は半地下式の建物でした.

 T,U,X号舎は白鳥山の南麓の山腹に嵌め込む様に造られ,屋根は山の樹木に覆われていて,南に面した窓の部分のみ山の斜面に露出して,上空から見る限り,建物は一切判りませんでした.

 T号舎は筒井地区の一番奥の建物で,鉄筋コンクリート造りの平屋建て.長さ65m,幅8mで,広さは457m^2.
 当初は天皇,皇后両陛下用で設計されましたが,途中で天皇陛下のみの住居となりました.
 間取りは東から倉庫,二間続きの和室,洋間の書斎,拝謁の間などがあり,和室の奥の間は15畳で床の間と押し入れでこの部分が天皇陛下の寝室でした.
 天井は竿縁天井で,天井板は秋田杉を砂で磨いて木目を出したもの.
 襖は銀地に菊花模様を地紋で散らした鳥の子紙ですが,これは特製ではなく既製品だったそうです.
 廊下は山側に設けられ,部屋は窓際のみ.
 U号舎への階段と地下室を結ぶ階段の角の部屋は,侍従と侍従武官室に充てられています.

 U号舎は,長さ約100m,幅8mで,広さは731m^2.
 当初皇太后,皇太子,内親王用でしたが,皇后専用となりました.
 中央に日本間がありこの部分が皇后の寝室となっていました.
 因みに,皇太后は,皇居の松代移転後は善光寺温泉にお連れする予定だったりします.

 X号舎は,三宮家用でしたが,宮内省事務室,会議室となりました.
 構造は全く同じで,長さ75m,幅8mですが,山麓に沿って建てられた為,くの字型に曲がっていました.
 屈曲部は,地下坑道と結ぶ階段が造られ,西側に宮内大臣,内大臣,侍従長,侍従武官長の部屋が用意されました.

 警戒警報が発令されると,天皇陛下はT号舎から,皇后陛下はU号舎からそれぞれ階段を伝って地下式のV号舎に避難します.
 階段は途中で合流し,V号舎に通じていました.
 V号舎の天井は半円形で最高所で4.5m,幅9m,長さ45m,床面積約400m^2の建物.
 コンクリート造りですが,内部は秋田杉や檜材で内装しています.
 部屋は6室で,天皇,皇后両陛下が1室づつ用い,残りは会議室となっています.

 これらの造営工事には朝鮮人労務者は一切充てられず,200名の作業部隊,県下から集められた大工や左官,地元の女学生を交えた翼賛壮年団を中心とする勤労報国隊が充てられました.
 大工や左官から見れば,内装用として平時でも中々お目にかかれない貴重品の檜材,柾目の秋田杉などを目にすると,相当な貴人が入る場所であるとピンと来たそうです.
 T号舎の日本間には,床の間の他,付書院も設けられた書院造りで,欄間には彫刻が施されていたそうです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/08/21 22:39

▼ 松代大本営が宮中に伝わったのは,1945年4月頃の事,侍従武官と侍従が御文庫で雑談していた時に,その侍従武官がうっかり口を滑らせてしまった事が発端でした.
 この時,天皇陛下の耳には入らなかったものの,侍従から女官に伝わり,女官の間では誰一人としてその存在を知らない者は居ないと言う状態になっていました.

 侍従長の藤田尚徳の耳に入ったのが5月末のこと.
 彼はその話を女官から聞きました.
 因みに,その頃には天皇陛下はその話を御存知でした.
 女官から皇后陛下に伝わり,皇后陛下から天皇陛下に伝わったと言う訳です.

 一番情報の伝わるのが遅かったのが,藤田侍従長と松平宮相でした.
 松平宮相は,早速天皇陛下に奏上すると,「直ぐに現地を見てくる様に」と言われたそうです.
 当時,小磯内閣から鈴木貫太郎が首相となり,彼は木戸内大臣を通じて御上の意向を確かめ,陛下のお考えが,「帝都固守」であることを知ると,6月6日の最高戦闘指導会議で,本土決戦の基本要綱に「帝都固守」を盛り込もうとします.
 陸軍としては,その方針を是認されてしまうと,徹底抗戦が出来なくなる,ひいては帝都を退去して松代に籠もると言う作戦が不可能となる,と言う訳で,この方針に徹底的に反対します.
 この時,鈴木首相は一旦引き下がりますが,翌日の閣議で,再び「帝都固守」を持ち出し,閣議でこれを了承させ,「帝都固守」の大原則を決めてしまいました.

 陸軍が宮内省から松代視察を申し入れられたのは,丁度そんな折.
 分の悪い陸軍は,それを撥ね付ける訳にもいかず,仕方なしに了承する羽目になりました.

 6月13日,宮内省の加藤進総務課長と小倉康次侍従が,松代の生みの親とも言うべき大本営参謀井田中佐(1944年10月に第10方面軍に情報参謀として転出したが,5月末で大本営に再度栄転)と共に,松代の大本営を視察することになりました.
 一通り,この施設を廻った後,小倉侍従は一言,井田中佐に尋ねます.
「賢所はどちらに用意されたのですか?」

 基本的に天皇陛下の御動座の際には,三種の神器をも持ち出す必要があります.
 このうち,草薙剣,勾玉は天皇の寝所の側に置かねばなりません.
 一方,八咫鏡は賢所のご神体として奉安しなければならなかったのですが,宮内省の人間にとっては基本中の基本である事が,部外者である井田中佐には知る由もなく,井田中佐は狼狽したと言います.
 当然のことながら,賢所どころか,神殿,皇霊殿を含む宮中三殿の設置場所すら決めておらず,井田中佐は取り敢ず,内心の動揺を抑え,「近くの山に造ることになっております」と答えてその場を取り繕ったそうです.

 賢所の構造から何から,これは軍人の手には負えません.
 其処で,皇室関係の建築の本を東京から取り寄せ,設計に当ったのが,東大工学部助教授で日本建築史の権威者であるにも関わらず,何故か1943年に二等兵として召集を受けてしまった関野克と言う人です.
 彼は招集後,近衛工兵部隊に配属され,硫黄島に出動することになっていましたが,偶々,「鉄砲担がせるより専門分野で使った方が国のため」と,陸軍の中でも常識のある人の意見が通り,出航直前に要員から外され,靖国神社地下宮建設指揮を命じられました.
 1945年3月から,松代大本営のマ(三・二三)工事部隊に組込まれ,松代に赴くことになりますが,その後,昇進で一等兵になったものの,階級としてはただの一等兵です.

 しかし,工事主任の吉田栄一建技大尉は東大の6年後輩で,答案の採点までされた関係とあって,吉田建技大尉,そして,加藤幸夫建技少佐以下,工事部隊全員から「先生」と呼ばれ,尊敬され,しかも,工事が彼を中心に廻っていたと言う,何だかなぁ,状態になっていたりします.

 それは扨措き,関野「一等兵」は宮中三殿の設計に入ると共に,これらを収納するトンネル工事指導のため,東大の武藤清教授,梅村魁助教授を招聘し,意見を聞くことになりました.
 彼等の意見では,賢所にいくら爆風よけのトンネルを掘っても,何度も爆撃を受けると結局被害を受ける.
 これを防ぐには,ジグザグ型にトンネルを掘り,一番奥に賢所を設けるのがよいとされ,賢所の設置はX号舎の向かいにある弘法山中腹と決まり,7月始めに起工式が行われました.

 今まで大規模な起工式を執り行ったことのないこの工事ですが,此処で初めて起工式を本格的に執り行った訳です.
 作業は,軍,勤労報国隊など意見が色々出ましたが,最終的に熱海の鉄道教習所にいる生徒130名に任されることになりました.

 そして,工事開始.
 先ずは道路を山の中腹まで付ける工事を行い,これに20日余掛かりました.
 道路工事が完了して,山に発破を入れ,坑口を切付けた所で敗戦となり,工事は中止されました.

 こうして,この場所は幻の賢所となった訳です.

 もう一つ,政府,大本営の必要施設として,通信施設の建設があります.
 6月中旬,本土決戦に伴う総軍体制の中で編成された第4通信隊約1,000名が松代に移駐しました.
 普通の通信隊の規模は約300名程度なので,正にその3倍となる巨大な部隊でした.
 この部隊は軍の無線連絡だけでなく,政府やNHKと言った通信機関の連絡も統括する部隊です.
 軍の無線は,国内各地の各総軍との連絡だけでなく,海外のシンガポール,ラバウル,新京,北京,漢口と言った残存各部隊との連絡,更にドイツ(5月までは未だ生きていた)や欧州在外公館との連絡も可能な強力な通信機能が必要とされました.

 よって,受信所は象山の地下壕に設置し,アンテナは妻女山山麓に設置することとなり,5月10日には清野村妻女山地区の買収が行われました.
 送信所については,指揮命令系統の攪乱を狙って,真っ先に攻撃目標となる事が考慮されて,堅固な地下壕が必須であり,方々を探した結果,松代北東20kmにある須坂町の鎌田山に掘られていた燃料基地用の地下壕を流用し,此処に強力な送信機を備え,アンテナは鎌田山に設置することとなります.

 鎌田山の地下壕は,元々燃料基地用だったので,素掘りのものでした.
 そこで,通信隊自ら仕上げ工事を行い,送信機の設置が可能な様にしました.
 通信機は出力1kw,2kw,5kwのものが東京から運ばれ,須坂の農業倉庫で組立てたものを搬入しました.
 送信アンテナは,長距離の通信をする関係上,高さが4〜50mに達するものを4〜50本並べる必要がありました.
 山は丁度,松林で敵の目を誤魔化す事が出来る状況でした…が,方向探知器とかがあれば,一発でバレたでしょうね.
 通信隊ではアンテナの設置準備を進めていましたが,結局最後まで周波数の割当が無く,アンテナを屹立させることが出来ませんでした.

 また,既に触れましたが,有線ケーブルの設置も行う予定で工事予算を取得していました.

 この様に,象山を中心とする工事は可成りの進捗率まで進んだ訳ですが,当の天皇陛下自身,移られる気は毛頭無かったと言われています.
 8月15日,玉音放送が流れた後,この地を襲ったのは,統制の崩壊と言うものでした.

 長野に集積されていた軍の物資は,武装解除後に復員する将校や兵士達の手によって山分けにされ持ち去られます.
 建設労働者達も,残り物を巡って暗闘を繰り返し,2ヶ月後にこの地を訪れた人は,その荒廃ぶりに驚いたと言います.

 一体,こうまでして守りたかったのは何だったのか,虚しさだけが残ります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/08/22 22:13


 【質問】
「わかやま新報」◆(2010/07/08)和歌山大空襲から65年,忘れられたトンネルはいずこ/和歌山
という記事はどうでしょう?

 【回答】

 大阪〜和歌山間のトンネルとか(笑)
 かなり大規模なトンネルを掘っていたことと,大阪和歌山間が貫通したと兵士には大ホラを吹聴していたという意味では,興味深い話ですよね.

憑かれた大学隠棲 in 「軍事板常見問題 mixi別館」
2010年07月09日 18:48

 【反論】
 おそらく,記事文中にある
>上官に 『大阪からと和歌山からのトンネルが貫通した.
を誤解したのだと思いますが,和歌山県北部や大阪府南部の人には,和歌山県と大阪府の隣接する府県の間には和泉山脈があり,それらの山々が府県を隔てている境目であるのは常識です.
和泉山脈

 和歌山の新聞が書いた,「和歌山―大阪が(トンネルで)つながったとされる」は,大阪(市)と和歌山(市)がトンネルでつながるという文脈では無く,大阪(府)と和歌山(県)がトンネルでつながるという意味で書かれています.

 今でも南海本線あたりの県境は,鉄道を除いて峠道であり,自動車用トンネルはありません.
 戦中の日本軍が,和泉山脈の西側にトンネルの必要性を感じ,孝子峠あたりに作った可能性は否定できません.
 記事によれば貫通したとの事ですが,縦横幅2mでは平時には不便なので放棄されたと思われます.

舞鶴の質屋 ◆Wcnk3S8mG6 in FAQ BBS,2010/7/26(月)
青文字:加筆改修部分


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