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◆◆仏印進駐以降
<◆通史
アジア&太平洋方面・目次
<第2次世界大戦FAQ


 【質問】
 1940年の北部仏印進駐の段階で,日本にはどういう選択肢があったのか?

 【回答】
 3つの選択肢があったと考えられる.

1.北進して,ソ連に攻め込み,ドイツを支援すること.

 当時,ノモンハンの問題もあり,国境紛争が全面戦争になるという考えもあったし,松岡外務大臣などは,北進を強硬に主張,昭和天皇に対し,単独上奏まで行っている.

2.南進して,インドネシアの資源を手に入れることにより,自給体制を整えること.

 とくに,南印には石油が埋まっていた.
 日蘭会商で,一応平時に必要な石油のほとんどは確保できる試算はあったが,軍需には到底足りないと考えていたのもある.
 ただ,これは「戦争のため」に石油が足りないと言うに等しいとは思うが・・・まぁ,中国問題が解決できないんだから「平時」では既にないな.

3.東進して,アメリカと戦争すること.

 3つの中で最も危険な選択肢であるし,当時の人々のほとんどはそう考えていたはず.

 まぁ,東條秀樹も首相になる前は,開戦強硬派だったが・・・.
 海軍では,永野修身(いねむり総長)あたりが,開戦強硬派か・・・.

 いずれにしても,無茶・無理・無謀な選択だが.

 日本は最終的に2.と3.を実行した,1941年12月8日に,真珠湾攻撃と,インドネシア・フィリピンに対して侵攻した.
 真珠湾攻撃の目的は,アメリカ太平洋艦隊に南進作戦の邪魔をさせないためで,インドネシア侵攻は,石油資源獲得が目的,
 フィリピンは資源輸送を邪魔されないために必須という戦略.

 ただ,山本五十六と日本政府は,真珠湾攻撃でアメリカの厭戦気分を引き出し,早期講和の材料にしようと考えていたようだが・・・まぁ,博打好きの五十六らしいと言えばらしいかな.

 北進に関しては,独ソ戦で,ソ連を現実的な脅威とみなさなくなっていた.

 アメリカの考えとして,以下にナイ教授の文章を引用

「アメリカは日本への石油禁輸措置によって日本の南進を阻止しようとした.『アメリカは日本の首に手綱をかけて,時々締め上げてやる』と,ローズヴェルト大統領は言ったものである.
 当時,ディーン・アチソン国務次官補も,戦争には至らない,なぜならば『日本人が合理的なら,アメリカへの攻撃は日本の破滅以外の何者でもないこpとは明らかだからだ』と言ったと伝えられる.
 しかし日本人は戦争をしなければ,どの道最後には敗北に至ると考えていた.
 日本は石油の90%を輸入に依存していたので,輸入が絶たれれば,海軍は一年も持つまいと計算していた.
 したがって,戦争を始めるほうが,徐々に絞め殺されるよりもましだ,と日本は決断したのである」

 私見だが,おそらく「北部仏印進駐」後での「仏印中立化案」を呑んでいれば,「石油の禁輸」はなかっただろう.
 なにせ,野村-ルーズベルトの会談上でも南仏進駐は,石油の禁輸を招くと警告している.
 それに,チャーチル-ルーズベルトの大西洋会談でも,南部仏印進駐の話は通している.

 日本政府はこれにまともに取り合わず,ルーズベルトは面目丸つぶれとなった.

 あとは,中国大陸からの撤兵要求だが,これも日本側からすると受け入れられない選択肢だったんだろう.
 中国からの撤兵は,経済的な後背地からの遮断だと当時の日本人は信じていた.

 まぁ,この辺りの細かい話をしだすとキリがないので,この辺にしておく.

 詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授「国際紛争」(有斐閣,2005.4)第4章を参照されたし.

ますたーあじあ in mixi


 【質問】
 なぜ日本は南部仏印進駐を行ったのか?

 【回答】
 その主目的は日華事変の処理にあったが,米英に対して攻勢防御の体制をとる狙いもあった.
 しかし,この攻勢防御の思想の底には,南部仏印は南方進出のための足場であるとの考えが潜んでいた事は否定できない.

 また,資源確保の狙いもあったという.

 まず,攻勢防御については,御田重宝が次のように述べている.

 参謀本部ロシヤ課長や阿南陸相秘書官などを務めたことのある林三郎氏の「太平洋戦争陸戦概史」は,陸軍内部から見た興味ある大東亜戦争史であるが,その中で次のように「南部仏印進駐」の位置を説明している.

「第3次近衛内閣が成立して間もなく,日本,仏印共同防衛協定が成立した(7/26).
 当時,この協定の成立を必要ならしめたのには,次の2つの理由があった.

 すなわち1つは,その頃タイは表面においては日本に好意を示していたが,裏面においては英米と友好関係を保持するにきゅうきゅうとしていたから,日本軍の南部仏印進駐によって,タイをして日本に対し好意的中立に立たしめ,仏印,タイ,ビルマを一帯にして重慶(蒋介石政権)の背後遮断を更に強化せんとすることであった.

 もう一つは米英蘭華の政治的,経済的,軍事的な対日包囲態勢に対する,消極的な対応措置(食糧問題の見地から,特にタイに睨みを利かす)をとる必要があったことである.
 すなわち,もし米英がタイに強圧を加えれば,タイはもちろんのこと,仏印なかんずく南部仏印は米英側の陣営に入り,その結果,日華事変(日中戦争)の処理は不可能となり,日本は全面的に後退を余儀なくされる危険性があったからである.

 このように,南部仏印進駐の主目的は日華事変の処理にあったが,米英に対しては攻勢防御の体制をとったわけである.
 しかし,この攻勢防御の思想の底には,南部仏印は南方進出のための足場であるとの考えが潜んでいた事は否定できない.

 南部仏印進駐に伴う国際的な反響は,非常に大きかった.日米関係はとみに悪化し,アメリカはこうした情勢の下では,日米交渉継続の基礎がないと日本側に通告すると共に,直ちに日本の資産を凍結し,続いて8月1日に対日航空用ガソリンの禁輸をも断行した.

 陸海軍首脳部は南部仏印進駐に伴う国際的な反響を予め深刻に検討しなかった.もともと平和は不可分にして,部分的には存在しない.南部仏印進駐は単なる日本対仏印の問題に留まることなく,枢軸国対反枢軸国の世界政策の問題として,全世界に強く響くとの感覚が鈍かった.

 かくて南部仏印進駐の結果,日米交渉は全く暗礁に乗り上げてしまったので,日本は9月6日の御前会議の決定に基づき,対米英戦争準備を,概ね10月下旬に終わることを目途として,本格的に進めるに到った」

 軍部の国際感覚のなさが,南部仏印進駐という新たな国際緊張の種を播いたのである.

(「バターン戦」,現代史出版会/徳間書店,1978/6/10, p.,抜粋要約)

 また,資源確保の狙いもあったという.
 以下引用.

 波多野澄雄・筑波大教授は著書でこう書く.
「海軍軍務局の藤井茂(軍務二課員)は,石井(秋穂・陸軍省軍務課員)に,南部仏印に進駐すれば,米,鈴,ゴムなどを確実に握ることができ,また,蘭印に睨みを利かせることによって,やがて蘭印の態度は好転し,油も入ってくるだろう,と語り,石井も同感であったという」(「幕僚たちの真珠湾」朝日選書)

 当時の富岡定俊・海軍軍令部作戦課長は,戦後,自著「開戦と終戦」(毎日新聞社)で,
「進駐すれば……万が一オランダが石油をよこすかもしれないというバクチ的な望みがあったことは事実である」
と記している.

 近衛内閣は41年6月11日,蘭印との買油交渉を打ち切った.
 そして仏印政府を半ば威嚇する形で7月23日,南部仏印進駐に関する協定を締結した.

読売新聞 2005/12/22


 【珍説】
 仏印進駐は,日本政府とフランス政府の合意に基づいての進駐.

 ドイツに敗れたフランスには本国から遥か遠く離れた仏印を単独で防衛する力はなかった.
 そこで,ドイツに日本を懐柔してくれるよう頼んだり,アメリカに武器の供給を要請したりしたのであるが,結局,断られてしまった.
 やむを得ず,フランスは日本の要求を認めた.9月,日本軍はトンキンを流れる紅河の北側に進駐する(北部仏印進駐).
 そして,翌年7月には,フランスは仏印南部への日本軍の進駐をも認めることになる(南部仏印進駐).
 さらに,こうした進駐の動きと前後して,日仏両政府間・両現地軍間での協議を通じて得られた合意に基づいて,軍事と経済の両面で仏印における日仏協力体制が形成されていった.

http://www.bk.dfma.or.jp/~senshi/00-09.htm

 【事実】
 そのフランス政府ってドイツの傀儡であるヴィシー政権なんですが.
 「合意」ってのも,重巡から空母まで繰り出すような示威をさんざん繰り返した後に,強引に呑ませた「合意」.

 それに,思いっきり間違ってますよ,その引用文.
 史実では進駐をめぐる交渉で相当な反発を食っております.

>北部仏印進駐

 最初の西原・カトルー会談では当初好意的だったものの,交渉過程で態度が硬化してゆき,日本軍の仏印進駐は事実上占領と同義なので,英米関係の上からも認められない,という回答が返ってきてます.
 そのカトルーは,独断での援蒋ルート閉鎖と日本監視団受け入れ決定で本国から更迭され――つまり本国も日本の行動に好意的ではなかったことを示している――,後任のドクーはさらに進駐に対し拒絶的姿勢を見せます.

>日本軍はトンキンを流れる紅河の北側に進駐する

 協定だと「日本軍の行動地域は紅河以北に限定.ハノイには入るな」となってます.
 引用文だと,仏印側が好意的に進駐を受け入れたように読めますが,史実とは異なってます.

 ちなみにこの北部進駐,最後は現地軍が成立した協定を無視し独走して勝手に武力で進駐しちゃったというオチつき.

>南部仏印進駐

 これもフランス側は露骨に拒否する姿勢を見せていました.
 日本は,ドイツから手を回してヴィシー政権に圧力をかけさせるものの,フランスは,なかなか日本の要求を受け入れようとせず,あまつさえ北部仏印進駐の件で日本に抗議までしています.
 で,この交渉過程では威圧のために,陸海軍揃って航空機や艦船をジャンジャン繰り出しての威圧を重ね,しまいには二航戦まで南下させる計画があったくらい.
 その結果,最後はフランスが屈服したというものであり,

「そして,翌年7月には,フランスは仏印南部への日本軍の進駐をも認めることになる(南部仏印進駐).
 さらに,こうした進駐の動きと前後して,日仏両政府間・両現地軍間での協議を通じて得られた合意に基づいて,軍事と経済の両面で仏印における日仏協力体制が形成されていった」
なんていう御気楽なもんではありません.

 ついでに補足.
 南部仏印進駐は日米和平交渉の真っ最中,それも米側が提案に対する日本側の回答を待っているところに行われた行動.
 そのために米側を刺激して禁輸措置を招いた.

(名無し四等兵@トリップ忘れ in コヴァ板)

 【珍説】
 なるほど仏印進駐当初は,いくつか行き違いが有ったかも知れない.だが日仏が協力関係だったのも事実.
 以下,参照のこと.
「日本陸海軍は日本とフランスが合意した協定の許す範囲内で,仏印に進駐していたのである.
 それはあくまでも駐屯であって,主権の委譲や消滅などを伴う占領ではなかった.日本軍が特定の飛行場や港湾を含む仏印領内の基地を使用して戦争を遂行することができたのは,軍事力を背景とした交渉を通じて,フランスから許可を得ていたからにほかならない.

 フランスが日本に対してはかった便宜は基地施設の提供だけではなかった.日本軍が駐屯に必要とする費用の負担,仏印に足止めされていたフランスの民間船舶を徴用(有償)したいという日本からの要求への同意,中国軍や連合国軍の潜水艦,飛行機など敵の行動,及び伝染病の発生などの衛生面や気象に関する情報の提供,サイゴン放送局の使用許可,機雷に触れたり攻撃を受けたりして航行できなくなった日本の艦船の曳航と修繕のための仏印海軍施設の使用許可など,仏印におけるフランスの対日協力は多方面にわたった.
 また,経済面でも対日貿易割当量を拡大したり,関税率を引き下げたりするなどの便宜をはかった.
(詳しくは拙著「第二次世界大戦とフランス領インドシナ――「日仏協力」の研究――」彩流社を参照).
「太平洋戦争(大東亜戦争)の影に日仏協力あり」
(SECURITARIAN 2000年9月号より) 
防衛研究所 戦史部 主任研究官 立川 京一
 【事実】
 で,どういう経緯で「協力関係」に至ったんでしょうかね.
 フランス側の自主的な好意だったんでしょうか?

(名無し四等兵@トリップ忘れ in コヴァ板)

 【珍説】
 確かに日本側の都合も有るよ.双方の言い分も,目論みも有るに決まってる.
 でも日仏は協力関係になったの.
 日仏間の少々のいざこざは,大東亜戦争を戦い抜いて,親日・親米になった,今の日米関係の激変に比べたら些細なこと..

>これでアメリカが黙ってるわけ無い.

 物事の順番を間違えてるな.アメリカ側の中国に対する軍事支援と,その後の経済的圧力とが,日本を仏印進駐へ進ませ,更には戦争に追い込んでいった.
 追いつめられた日本のやむを得ない行動が,キミの言う「日本の都合」.

 【事実】
 自説に都合の悪い話は「些細なこと」か…….

>協力関係

 武力の威圧による,他国からおよそ認められないような不当な形の,ですがね.

 しかし,

>確かに日本側の都合も有るよ.双方の言い分も,目論みも有るに決まってる.
>でも日仏は協力関係になったの.

 これだとワルシャワ条約下でのソ連ーチェコ・ポーランド関係も平然と,「でも協力関係になった」で正当化できそう.

>中国に対する軍事支援

 もともと正当性・必要性があるとは言いがたい対中戦争を,日本が進めた結果,招いたアメリカの対中支援ですが.

 ついでに言うと,一時期アメリカの対中支援は先細りになって(重慶陥落ごろ),中国側も抗戦継続を諦めかけたんですが,日独伊三国同盟締結で日米関係が悪化した結果,それが吹っ飛んで抗戦続行と相成った経緯があります.

 それに,支那への軍事支援ならドイツもソ連もやっています.
 ドイツやソ連が日本を追い詰めたことになるのですかね?

(名無し四等兵@トリップ忘れ他 in コヴァ板)

 【珍説】
 なるほどアメリカが,日米和平交渉の真っ最中,それも米側が提案に対する日本側の回答を待っているところに行われた仏印進駐に「刺激された」のは事実だろう.
 しかし,独立した国同士の協力体制に,関係ない国が横から文句言うのもおかしな話.

 本当は枢軸国相手の戦争に向かう口実に使ったんだよ.

 【事実】
 当事者のかたっぽは独立してませんが.

 それに,日本が南部仏印に進駐し,基地を取得するとなると,米領フィリピンはもろに日本の軍事的脅威に晒されるわけで,関係ない訳ありません.

 もう一つ.
 日本はすでに1941年7月2日,正式に「南方進出の体制を強化す」と定め,「本号目的達成のため対英米戦を辞せず」としています.(「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」)
 つまり,米国の意図が仮に戦争誘発であったとしても,それはもはや関係ない訳で.

(名無し四等兵@トリップ忘れ in コヴァ板)

 【珍説】
 米側の都合はそうだろうね.でも日本とフランス側の都合もある.

 またこうした議論は,やはり「木を見て森を・・・」だろう.
 根本的にはアメリカ側の戦争への意図,その為の対日圧力とすれば,個々の事例で言ってても,あまり意味がない.

 それにまた,日本側が1941年に戦争への苦渋の決断をしたとしても,アメリカ側はもっと前から(おそらく1937年には既に)その方向へ進んでたんだから,
 日本の決断は遅すぎるくらい.

 【事実】
 自説に都合の悪い話は「些細なこと」「木を見て森を見ず」か…….

<日本の都合>
 ドイツの西方作戦の電撃的成功を見,欧州が植民地に構っていられなくなった内に,そこへ進出し,資源を獲得,日中戦争を一気に解決しよう…というもくろみ.
 
<フランスの都合>
 偏に日本のゴリ押し.出来ることなら進駐なぞ受け入れたくなかった.

 これでアメリカが黙ってるわけ無い.

 それと,「アメリカ側はもっと前から(おそらく1937年には既に)その方向へ進んでたんだから」の根拠はなんですか?

 1938年1月,ルーズベルトの覚書.
「私は,われわれが日本兵士の行動に対してドルで責任を追及できる基礎を作り始めるべきであると考えている.
 …アメリカには日本の膨大な資産があり,この資産を凍結するには外国人財産管理法というすばらしい先例があるということは事実である.これだけ言えば充分だろう」

 1940年半ば,真珠湾へ艦隊をとどめておくことに対する海軍作戦部長スタークの説明
「日本がオランダ領東インド諸島を攻撃したときに,アメリカが行動を起こす準備にはならないにせよ,一定の抑止力としては役立つだろう.
 アメリカの意図が不明確であることだけでも,日本を引き止めるのには役立つであろう」

 1941年7月1日,ルーズベルトからイッキーズ内務長官への話
「あなたも承知のとおり,太平洋における平和を維持することが大西洋を支配するために極めて重要なのである.
 私は回航する海軍を十分持っていない.
 太平洋で小さい事件でも生ずれば,その1つ1つが大西洋における艦艇を少なくすることを意味するのである」

 どう見ても対日戦争を推進しよう,という意図は見えませんが.

(名無し四等兵@トリップ忘れ他 in コヴァ板)

 【珍説】
 アメリカは選挙の関係上,国民の支持を得られない限り表立って戦争への方向には行かないんだ.
 そのため,本当は戦争を決断してても,表向きは戦争反対を唱えてたりする.
 しかし自国防衛のためなら戦争の大義名分が立つから,日本を追いつめて,結果暴発してくれたら大助かり.
 合衆国は,孤立政策から脱却し,戦争の際には英仏の側に立って,積極的に介入する用意がある旨を道義的に確約する.[1,p143]
 1939年1月16日 ウィリアム・C・ブリット駐仏大使

『あなたがたの子供たちは,海外のいかなる戦争に送り込まれることもない』
 1940年10月30日,ルーズベルト大統領選挙前の演説

 このわずか2ヶ月後に,ルーズベルトは無二の親友であるハリー・ホプキンスを通じて,チャーチルに次のように伝えた.
『われわれが共同してこの戦争を勝ち抜くことを大統領は決意している.これを間違わないでいただきたい.大統領は,いかなる犠牲をはらっても,あらゆる手段を用いてイギリスを勝利達成まで援助する,ということをあなたに伝えるために,私をここに派遣した.
・・・大統領は,人事のすべてをつくす.』
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_2/jog096.html
 【事実】
『われわれが共同してこの戦争を勝ち抜くことを大統領は決意している.これを間違わないでいただきたい.大統領は,いかなる犠牲をはらっても,あらゆる手段を用いてイギリスを勝利達成まで援助する,ということをあなたに伝えるために,私をここに派遣した.・・・大統領は,人事のすべてをつくす.』
から,
「あなたも承知のとおり,太平洋における平和を維持することが大西洋を支配するために極めて重要なのである.
 私は回航する海軍を十分持っていない.太平洋で小さい事件でも生ずれば,その1つ1つが大西洋における艦艇を少なくすることを意味するのである」
ということになるわけなんですが.

>日本を追いつめて,結果暴発してくれたら大助かり

 しません.大西洋に回すリソース減るんで.
 つか,この意見ははどう見ても「日本を追いつめて,結果暴発してくれたら大助かり」という意見の根拠が伴っておりません.

(名無し四等兵@トリップ忘れ in コヴァ板)


 【質問】
 日本の南部仏印進駐を,なぜアメリカは重大視したのか?

 【回答】
 アメリカは大変な錯覚をしたのだ,と京都産業大学教授 ・須藤眞志は述べる.
「日本の南部佛印進駐は,大東亜共栄圏の思想に基づく東南アジア一帯を支配する第一歩であり,やがてその勢力は自国のテリトリーである,フィリピンにまで及ぶものと解釈した」のだという.
 以下引用.

 最も重要なのは日本の南部佛印進駐であった.
 昭和16年7月末,日本は北部佛印より南部に軍を移動させた.
 当時,日本軍は,佛印から中国雲南省に抜けるルートを通って蒋介石政府に物資が運ばれるのをなんとか遮断したかった.
 また,佛印のゴム,スズといった戦略物資を確保することも重要であったし,ヴィシー政権との交渉がはかどらなかったことも理由であった.
 日本の南部佛印進駐は戦術的・経済的な意味が強く,これを機会に東南アジア全体に覇権を確立しようなどという大それた計画はなかった.

 しかるにアメリカは大変な錯覚をした.
 日本の南部佛印進駐は,大東亜共栄圏の思想に基づく東南アジア一帯を支配する第一歩であり,やがてその勢力は自国のテリトリーである,フィリピンにまで及ぶものと解釈したのである.
 アメリカはそれまでの日米交渉の打切りを通告し,日本資産を凍結し,日本の最大の弱点であった石油,屑鉄といった重要な戦略物資の輸出を禁止した.

 日本は驚愕した. なぜ北から南に下がっただけでアメリカがこれほど激怒するのか理解できなかった.
 これはまさにパーセプション・ギャップ(認識の相違)であった. 南部佛印に対する日本とアメリカとの認識(パーセプション)が完全にずれていたのである.

 はっきりした証拠はないが,このときにルーズベルト大統領は日米戦争を決意したのではないかと推察される.
 ここにもアメリカ人の持つ合理主義と日本人の非合理主義のギャップが存在した.
 日本の南部佛印進駐は大東亜共栄圏確立の第一歩という大戦略に基づいたものではなかったのだが,アメリカ側はこれを一種のドミノ理論と捉え,次々とドミノを倒すがごとき状況が展開され,やがて全東南アジアが日本の手に落ちることを危惧したのである.
 このアメリカ側の錯覚が日米戦争の最も重要な原因の一つになってしまったのである.
 戦後,アメリカがベトナム戦争に介入していったのと同じ理論であった.

(「『錯覚』この恐るべきもの」)


 【質問】
 南部仏印進駐が日米戦争を招くかどうかを,軍部はなぜ予想できなかったのか?

 【回答】
 日米開戦の時に軍務課長,開戦後軍務局長の要職にあった佐藤賢了少将(のち中将.戦後,A級戦犯となり無期懲役)の回想によれば,彼は
「南部仏印進駐は日米戦争にはならない」
と判断し,それが陸軍の一般的な考え方であったという.
 また,対米戦も何とかなるさ,という奢りがあったとする意見もある.

 以下引用.

「問題は,南部仏印進駐が日米戦争を招くかどうか,である.私は日米戦争にはならないと判断しておった.その理由は次の通りである.

 日本軍隊は既に北部仏印に進駐しており,それがただ南部に進むだけである.
 そして進駐はフランスのビシー政府との協定に基づいてやることであり,決して戦争でもなければ侵略でもない.また,そこは米国の領土でも植民地でもない.
 日本はフィリピンの安全は保障する.
 蘭印に脅威を与えるかもしれないが,そこは米国の領土ではない.蘭印が平和的手段による日本の経済的交渉に応じさえすれば,日本はこれを攻撃する意思はない.
 蘭印との平和交渉を妨げているのはオランダと米国である.
 南部仏印に僅かの日本軍隊が進駐したからといって,フィリピンや蘭印と米国との交通に脅威を感ずるよりも,ハワイに米国太平洋艦隊が駐留していることが,遥かに日本に脅威を与えている.
 だから南部仏印進駐によって米国が対日戦争をしかける理由はない」
 陸軍の「国際感覚のなさ」を物語ってあまりあると言えようか.

 参謀本部ロシヤ課長や阿南陸相秘書官などを務めたことのある林三郎氏は,陸軍の米英過小評価の原因を,次のように見ている.
「米英過小評価の原因は,人事行政と幼年学校の教育にあった.
 人事行政としては,米英留学の経歴を持つ上級将校が,親米派あるいは消極論者として,中央部には用いられなかったことである.
 この傾向は三国同盟成立後,特に目立った」 

(御田重宝「バターン戦」,現代史出版会/徳間書店,1978/6/10, p.15-16,抜粋要約)

 豊田貞次郎外相は,同月〔41年6月〕24日の政府大本営連絡会議で,米国の石油禁輸の可能性に言及した.
 その際,大本営陸軍部戦争指導班の「機密戦争日誌」(軍事史学会編,錦正社)はどう書いていたか.
「野村(吉三郎・駐米大使よりの電(報)『ヒステリック』なるに一驚せるならんか 当班不同意」
 その後も数日に渡り,
「当班全面禁輸とは見ず」(7月26日)
などの表現が続いている.

 〔略〕
 米国は,在米日本資産の凍結を発表したが,日本軍は予定通り進駐を開始.
 米国は8月1日,石油の対日全面禁輸に踏み切った.
 戦後,三輪〔宗弘・九大〕教授のインタビューに対して,当時の高田利種・海軍省軍務一課長は,
「南部仏印進駐までは米国は起こらないだろうという考えだった.それだけにびっくりした」
と語った.
 日本政府も軍部も,南部仏印までは大丈夫と見ていたのだった.日本は米国の出方を見誤った.
 元大本営参謀の瀬島竜三氏は,
「米国の対日全面禁輸はすなわち日米開戦を意味するからであり,それを承知のはずのルーズベルト大統領が,あえて進んでそのような措置を,このときとるとは判断し得なかった」
と述懐している(「大東亜戦争の実相」 PHP文庫).

読売新聞 2005/12/22

 日本は,北部仏印進駐で米国から屑鉄を止められ,南部仏印進駐で石油を止められたわけだが,日本国内で米国の出方について警鐘を鳴らしたのは少数で,威勢のいい者達がそんな事は考えもしないで行動していた.
 これまで不敗で来たのだから,対米戦も何とかなるさ,という奢りが,陸海軍共にあったということだろう.

土門周平(インタビュー) from 読売新聞 2005/12/22


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