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(画像掲示板より引用)
「Togetter」◆(2011.7.15)旧海軍の後継機問題・熟練労働者を必要とした航空機産業
『さらば空中戦艦富嶽』(碇義朗著,光人社NF文庫,2002/01)
帝国の回天をになう必勝戦策! 超重爆撃機Z機! 大型攻撃機富嶽! 合衆国を阿鼻叫喚の火炎地獄に叩き落とせ!
…などという内容ではもちろんありません,
碇さんの本ですから.
じゃあなんなのよ,というと「中島知久平の伝記」というのが正解.
富嶽の話は,そのなかの(大きくはありますが)一エピソードという位置づけ.
二式大艇や紫電改の本を上梓している碇さんらしく,中島一辺倒の内容ではなくて,川西清兵衛がわの視点もきちんと載っており,その点でも安心.
また,航空技術に造詣の深かった中島知久平が,戦争の真っ最中に実現し難そうな大型機計画を建てたのは何故か?についての推察も記されています.
このあたり,資料を並べただけの無味乾燥な書籍とは,一線を画す碇本の面目躍如.
知久平幼少期のムチャなエピソード(泥棒にむかって槍を振り回した,とか,親の売上金を懐にいれて東京へ家出,とか)なども楽しめる愉快さも備えた一冊.
有名でありながら意外と知られていない,中島知久平を知るための最初の一歩として,定価619円+税(おれの持ってる版の値段ね)はコスパにも優れており,WW2における日本の一面を知るためには押さえておいて損はない,と判じます.
------------軍事板,2012/03/25(日)
『戦時期航空機工業と生産技術形成 三菱航空機エンジンと深尾淳二』(前田裕子著,東京大学出版会,2001年)
【質問】
従来,日本の兵器生産は軍工廠中心に行われていたのに,なぜ航空機生産は民間主体で行われたのか?
【回答】
予算に縛らるる官営工場からは新鋭機は現れないので,民間でやろうとしたこと.
日本における軍用機生産の開始期が,建艦競争時代の真っ只中にあったことにより,海軍が独自の航空機生産設備を拡充する余裕を全く持たなかったこと.
の2つが理由.
以下,ソース.
先ず第1に,中島知久平が自ら航空機生産に乗り出す際に語ったように,
欧米飛行機の日進月歩は,その基礎を民営の競争におく.
年1回の予算に縛らるる官営工場からは新鋭機は絶対にあらわれず(池田清「日本の海軍」下,p.159-160)
ということである.
第2に,さらに決定的な要因として,日本における軍用機生産の開始期が,まさに史上空前の建艦競争時代の真っ只中にあったことにより,海軍が独自の航空機生産設備を拡充する余裕を全く持たなかったことである.
よって1915年,海軍は将来の航空兵力拡充に備えるため,民間の航空機製造能力を育成培養すべきである,との部内意見を採用,翌16年よりエンジンの民間発注を開始した(三菱神戸造船所).
そして1919年には,機体・エンジンとも生産は主として民間工場に,修理は全部海軍工廠で行う方針を決定するのである.
(山田朗「軍備拡張の近代史」,吉川弘文館,1997/6/1,p.138-139,抜粋要約)
【質問】
近江航空工業について教えられたし.
【回答】
さて,太平洋戦争末期,滋賀県には多くの飛行機会社が軒を連ねていました.
元々,この辺りは紡績工業地帯だったのですが,戦争の激化と共に紡績は不要不急産業となり,軍需工業に転換しなければなりませんでした.
昨日取上げた東洋レーヨン石山工場も,本来は人絹の工場なのに,その頃は魚雷を生産していましたね.
彦根には,随分昔に取上げた様な気もしますが,近江航空工業がありました.
この会社は元々,1943年に紡績業の近江絹糸(今のオーミケンシ)が設立したもので,本社に附属する西馬場工場の他,彦根市外町にあった朝日(敷島)紡績(今のシキボウ)の工場(元を辿れば,近江帆布)を転用して発足しました.
第1課は紡績と繊維を生産する従来の業務形態ですが,落下傘の生産も行っていました.
第2課が航空機関係で翼の製作,第3課は機械部品製作と分かれています.
当初は,第2課が中心と成って,三菱名古屋航空機製作所の航空機部品や尾翼や水平安定板などの翼関係の部品を生産していましたが,後に,戦闘機の最終組立を行うまでに技術力を向上させています.
この他,転用工場として日清紡能登川工場買収計画もあり,能登川の内湖干拓と関連して,この地に飛行場を建設する予定で,飛行場が完成した場合,草津の高砂鉄工で部品を製作し,近江航空が組立する予定で,この工場を買収する計画でしたが,陸軍がこの工場買収に反対し,計画は頓挫しました.
と言うのも,近江航空で製作するのは海軍の零戦だったからです.
当初は部品生産だけでしたので,交通の便が良い彦根に工場を設置しましたが,戦局の悪化と空襲の頻発で,名古屋への部品輸送もままならなくなり,遂に1944年からは零戦の組立を検討,従業員の教育を行い,1945年から最終組立を開始しました.
元々,完成機生産を予定していなかったので,当初は琵琶湖の湖上を大津の際川基地まで完成機を1機ずつ曳航したりしていましたが,1945年6月には工場から南東6kmにある犬神郡多賀町の久徳,木曽地区に海軍飛行場を建設し,此処から完成機を送る様に計画していました.
実際には,基地はほぼ完成状態だったものの,殆ど利用されなかった様です.
この工場は,紡績業からの転換でした.
つまり,殆どの工員は女工さん,つまり女性だった訳です.
1943年初頭に本社工場稼働の祝辞を述べる為にやって来た三菱重工の工場長(深尾さんか?)が,余りの女子従業員の多さに驚き,祝辞の中で思わず,
「こんな女子ばかりでは,飛行機は出来るものではありません」
と言ってしまったと言うエピソードもあったりします(それも社史に記載されていたり…).
当時は男子工員が常識だったのですが,1944年以後に大量動員される女子労働力の有効利用の先駆けとも言うべき存在で,1944年6月7日午後には,東条英機首相が訪れています.
この時,東条首相は,
「道は歩くものと思うな,夜は寝るものと思うな,米は食うものと思うな,
…(中略)…
この心がけがあってこそ,銃後と前線は一体となり,如何なる困難をも克服して光栄ある最後の勝利を獲得する事が出来るのである!」
と,よく判らない訓示を垂れたそうです.
この頃には,国民学校(彦根の旭森国民学校と言われる)の生徒もこの工場に勤労奉仕に来ていたらしく,東条首相は引き続き,
「なお,此処には沢山国民学校の児童が勤労奉仕しているそうであるが,誠に感謝感激に堪えない所である.
工場は即ち学校である.
此処でもしっかり日本人としての修行をして頂きたい」
と訓示に付け加えました.
因みに,学徒動員の年齢が中等学校1~2年生とか国民学校高等科に引き下げられるのは7月からですが,既にこの会社では低学年の「勤労即教育」と言うものが実践されていました.
序でに,東条首相の視察の際は,何時も御飯1杯に蛹の御汁と言う従業員の食事が,この日だけは赤飯だったそうです.
近江航空には,1944年に入ると,各地から女子挺身隊が集められましたが,沖縄からも第1次女子勤労挺身隊が組織されました.
彼女たちは,那覇や首里を中心に新聞などの募集で集められた人々で,募集定員150名.
与那原,南風原女子青年団から50名近く,第二高女,積徳高女,首里高女から数名の卒業年次の学徒や卒業生,残りは首里青年団から志願(実際には仕事のない者は強制的な参加だったと言う)し,合計72名が集められたそうです.
彼女たちは集団生活の合宿訓練の後,1944年2月に船で沖縄を出港し,鹿児島に上陸,列車で彦根に向かいました.
これは,近江航空(と言うか前身の近江絹糸)で働いていた人々に沖縄県出身者が多かった為で,指導者や監督になっていた人も主に沖縄出身の女工さんだったと言います.
その後,1944年3月初めに第2次が明石の川崎航空機明石工場,3月25日に第3次が姫路の龍田工業,3月30日には第4次が岡山県倉敷市にあった倉敷紡績工場を転用した万寿航空機製作所に配置されました.
4月以降は,学徒勤労動員の通年動員開始と連動した形で,国民学校高等科と国民学校卒業生が対象となった産業報国隊が本土に送られていきますが,10月の那覇空襲以後,高等女学校の女子学徒は看護実習が義務づけられ,女子挺身隊の送り出しも停止されました.
近江航空では,先述の様に航空機の尾翼と水平安定板,補助翼やフラップなどの舵面が生産の中心で,彼女たち挺身隊員は半年は見習研修で,7月1日にやっと辞令が出されました.
月給は30円,物価手当6円,給食事手当が10円でしたが,強制的な国債や貯蓄などで手取りは僅かに5円しかありませんでした.
近江航空でも挺身隊員の脱走や自殺は屡々ありました.
しかし,沖縄県出身者としての差別は余り目立たなかったようです.
例えば,膳所の山添発条という会社では差別が激しく,
「沖縄人は耳が汚い」
とか
「襟が汚い.不潔.顔も見たくない」
と言った発言に対し,沖縄出身の挺身隊員や出稼ぎ者が憤慨し,中頭方面の出稼ぎ者の呼びかけで30名余りが結束してストライキを敢行しています.
結局,このストライキは沖縄県出身の守衛の説得で,3時間で幕を閉じましたが….
1944年秋からは挺身隊の他,学徒動員が本格化し,1945年2~3月にかけては,空襲と東海地震で壊滅的な打撃を受けた,三菱の名古屋道徳工場が富山に疎開した関係で,近江航空でも航空機の生産が企図されたので,相当数の学徒が追加されました.
6月からは元々は軍足を作っていた,長浜市の近江絹糸七条工場が近江航空七条工場となり,三菱から直接機械が搬入され,三菱の工員が指導に入り,航空機部品生産が開始されます.
この段階では生産量だけが求められ,不良品であってもどんどん出荷されました.
燃料管のニップルの不良品が多く出て,心配した検査担当の工員が上司に相談した時のこと,
「いいよ,敵(のいる場所)に着けば良いんだから」
と言われたそうです.
こんな飛行機で戦争を戦わなければならない国の兵士達も,可哀想なものです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/08/10 22:47
【質問】
中島飛行機が1944年2月に設立した合弁企業,「朝鮮航空機工業株式会社」について調べたいのですが,何か詳しい文献はありませんでしょうか?
【回答】
基本的には,戦時中の文書は焼却されたのと,敗戦後の混乱によって,消滅しています.
国内の呉羽航空機や,王子航空機なども余り研究されていません.
なお,中島飛行機の関連会社のうち,「親子関係にあるもの」,「密接協力関係にあるもの」,
「同系会社」については,東洋経済新報社の『東洋経済新報』第2200号(1945.12.1)に掲載されています.
この中に朝鮮航空機工業株式会社と言う会社は出て来ません.
となると,関係会社の67社か,融資会社124社のどれかかもしれませんが,甚だしい場合は,単なる民家や小さな町工場でも,「中島飛行機株式会社協力工場」と言う看板を掲げて操業しているものもあったりするので,規模的にどんなものなのか,不明です.
上記記事に名称がないので,それこそ数十万円規模の小さな会社だった可能性があります.
後は,近年のものであれば,専修大学の麻島昭一氏が,『経営史学』第20巻第3号(1985.10.)に掲載された「戦時体制期の中島飛行機」と言う論文があります.
この参考文献を当たっては如何か,と思います.
【質問】
戦前の中島飛行機は,日本の航空機産業のどの程度のシェアを占めていたのでしょうか?
【回答】
1927~1936年の統計では,三菱20.6%,中島24.7%,立川11.2%,川崎24.3%,愛知8.0%,川西7.1%,九州4.7%のシェアとなっています.
1937~1945年になると,三菱20.6%,中島30.3%,立川11.8%,川崎12.3%,愛知6.1%,川西3.1%,以下,日本国際,九州,日飛,日立,富士,昭和が残りを分け合うと言う感じです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2006/08/01(火)
【質問】
太平洋戦争中に中島が生産した航空機数を教えられたし.
【回答】
隼 鐘馗
疾風 九七戦 零戦 二式水戦
月光 天山
41年 1月 0機 0機 0機 38機 0機 0機 0機 0機
2月 0機 0機 0機 53機 0機 0機 0機 0機
3月 0機 0機 0機 32機 0機 0機 0機 0機
4月 3機 0機 0機 28機 0機 0機 0機 0機
5月 9機 0機 0機 38機 0機 0機 0機 0機
6月 23機 1機 0機 20機 0機 0機 0機 0機
7月 5機 4機 0機 39機 0機 0機 0機 0機
8月 20機 1機 0機 34機 0機 0機 0機 0機
9月 20機 0機 0機 36機 0機 0機 0機 0機
10月 5機 0機 0機 40機 0機 0機 0機 0機
11月 29機 0機 0機 33機 1機 0機 0機 0機
12月 43機 1機 0機 42機 6機 0機 0機 0機
九七艦攻 九六陸攻
呑竜 九七重爆 銀河 彩雲
零式輸 剣
41年 1月 12機 0機 0機 4機 0機 0機 0機 0機
2月 12機 0機 0機 4機 0機 0機 0機 0機
3月 12機 0機 0機 0機 0機 0機 0機 0機
4月 26機 7機 0機 0機 0機 0機 6機 0機
5月 27機 6機 0機 0機 0機 0機 5機 0機
6月 24機 6機 0機 0機 0機 0機 10機 0機
7月 10機 4機 0機 0機 0機 0機 3機 0機
8月 8機 6機 0機 0機 0機 0機 3機 0機
9月 0機 11機 5機 0機 0機 0機 6機 0機
10月 0機 13機 8機 0機 0機 0機 5機 0機
11月 0機 15機 7機 0機 0機 0機 5機 0機
12月 0機 28機 9機 0機 0機 0機 6機 0機
隼 鐘馗
疾風 九七戦 零戦 二式水戦
月光 天山
42年 1月 40機 1機 0機 20機 19機 0機 0機 0機
2月 26機 4機 0機 25機 22機 0機 0機 0機
3月 47機 4機 0機 40機 35機 0機 0機 0機
4月 61機 5機 0機 15機 22機 9機 0機 0機
5月 51機 7機 0機 31機 28機 8機 0機 0機
6月 57機 5機 0機 32機 29機 5機 1機 0機
7月 61機 3機 0機 23機 41機 11機 2機 0機
8月 37機 13機 0機 27機 52機 13機 1機 0機
9月 56機 12機 0機 26機 62機 13機 5機 0機
10月 55機 13機 0機 29機 72機 16機 2機 0機
11月 46機 34機 0機 21機 80機 19機 7機 0機
12月 79機 30機 0機 0機 96機 22機 8機 0機
九七艦攻 九六陸攻
呑竜 九七重爆 銀河 彩雲
零式輸 剣
42年 1月 0機 24機 10機 0機 0機 0機 1機 0機
2月 0機 27機 9機 0機 0機 0機 2機 0機
3月 0機 30機 10機 0機 0機 0機 2機 0機
4月 0機 28機 14機 0機 0機 0機 0機 0機
5月 0機 31機 12機 0機 0機 0機 1機 0機
6月 0機 17機 15機 0機 0機 0機 0機 0機
7月 0機 22機 13機 0機 0機 0機 1機 0機
8月 0機 20機 9機 0機 0機 0機 1機 0機
9月 0機 22機 14機 0機 0機 0機 2機 0機
10月 0機 22機 17機 0機 0機 0機 1機 0機
11月 0機 23機 27機 0機 0機 0機 1機 0機
12月 0機 27機 24機 0機 0機 0機 0機 0機
隼 鐘馗
疾風 九七戦 零戦 二式水戦
月光 天山
43年 1月 80機 30機 0機 0機 89機 21機 9機 1機
2月 77機 33機 0機 0機 100機 19機 9機 3機
3月 90機 42機 0機 0機 112機 21機 10機 6機
4月 96機 37機 0機 0機 120機 24機 10機 10機
5月 102機 37機 0機 0機 126機 22機 11機 14機
6月 105機 40機 0機 0機 132機 20機 12機 14機
7月 105機 30機 0機 0機 146機 7機 8機 17機
8月 120機 51機 1機 0機 156機 7機 7機 26機
9月 120機 51機 1機 0機 170機 3機 12機 26機
10月 138機 47機 3機 0機 182機 0機 18機 34機
11月 140機 56機 11機 0機 202機 0機 22機 39機
12月 174機 65機 8機 0機 225機 0機 22機 33機
九七艦攻 九六陸攻
呑竜 九七重爆 銀河 彩雲
零式輸 剣
43年 1月 0機 18機 24機 0機 0機 0機 0機 0機
2月 0機 5機 26機 0機 0機 0機 0機 0機
3月 0機 0機 30機 0機 0機 0機 0機 0機
4月 0機 0機 30機 0機 0機 0機 0機 0機
5月 0機 0機 31機 0機 0機 0機 0機 0機
6月 0機 0機 30機 0機 0機 0機 0機 0機
7月 0機 0機 29機 0機 0機 0機 0機 0機
8月 0機 0機 31機 0機 2機 0機 0機 0機
9月 0機 0機 32機 0機 4機 0機 0機 0機
10月 0機 0機 30機 0機 4機 0機 0機 0機
11月 0機 0機 30機 0機 10機 2機 0機 0機
12月 0機 0機 21機 0機 25機 2機 0機 0機
隼 鐘馗
疾風 九七戦 零戦 二式水戦
月光 天山
44年 1月 179機 73機 9機 0機 238機 0機 25機 29機
2月 181機 54機 25機 0機 154機 0機 18機 24機
3月 167機 75機 25機 0機 271機 0機 18機 38機
4月 140機 85機 97機 0機 230機 0機 35機 26機
5月 155機 72機 86機 0機 232機 0機 40機 53機
6月 125機 65機 138機 0機 200機 0機 40機 38機
7月 84機 39機 145機 0機 163機 0機 27機 77機
8月 28機 33機 121機 0機 232機 0機 35機 87機
9月 11機 29機 261機 0機 245機 0機 40機 66機
10月 0機 22機 301機 0機 194機 0機 23機 75機
11月 0機 11機 323機 0機 109機 0機 0機 71機
12月 0機 7機 373機 0機 206機 0機 0機 89機
九七艦攻 九六陸攻
呑竜 九七重爆 銀河 彩雲
零式輸 剣
44年 1月 0機 0機 22機 0機 11機 1機 0機 0機
2月 0機 0機 19機 0機 20機 2機 0機 0機
3月 0機 0機 22機 0機 35機 6機 0機 0機
4月 0機 0機 20機 0機 46機 6機 0機 0機
5月 0機 0機 20機 0機 46機 0機 0機 0機
6月 0機 0機 16機 0機 50機 0機 0機 0機
7月 0機 0機 20機 0機 47機 0機 0機 0機
8月 0機 0機 13機 0機 47機 5機 0機 0機
9月 0機 0機 17機 0機 65機 20機 0機 0機
10月 0機 0機 14機 0機 70機 21機 0機 0機
11月 0機 0機 9機 0機 80機 30機 0機 0機
12月 0機 0機 9機 0機 74機 26機 0機 0機
隼 鐘馗
疾風 九七戦 零戦 二式水戦
月光 天山
45年 1月 0機 2機 357機 0機 216機 0機 0機 55機
2月 0機 0機 129機 0機 108機 0機 0機 61機
3月 0機 0機 216機 0機 207機 0機 0機 77機
4月 0機 0機 185機 0機 230機 0機 0機 70機
5月 0機 0機 198機 0機 247機 0機 0機 37機
6月 0機 0機 168機 0機 185機 0機 0機 38機
7月 0機 0機 184機 0機 138機 0機 0機 33機
8月 0機 0機 48機 0機 85機 0機 0機 9機
九七艦攻 九六陸攻
呑竜 九七重爆 銀河 彩雲
零式輸 剣
45年 1月 0機 0機 0機 0機 80機 30機 0機 0機
2月 0機 0機 0機 0機 40機 21機 0機 0機
3月 0機 0機 0機 0機 43機 54機 0機 2機
4月 0機 0機 0機 0機 47機 57機 0機 2機
5月 0機 0機 0機 0機 55機 27機 0機 1機
6月 0機 0機 0機 0機 46機 18機 0機 21機
7月 0機 0機 0機 0機 35機 57機 0機 63機
8月 0機 0機 0機 0機 20機 12機 0機 5機
出典は米国戦略爆撃調査団報告書.
ゆうか ◆9a1boPv5wk in FAQ BBS
青文字:加筆改修部分
【質問】
中島飛行機大型機開発の初期について教えられたし.
【回答】
中島は小型機が得意とされ,戦前は主に戦闘機を開発していたのですが,単価の高い大型機に進出すべく,色々と策を練っていました.
中島が最初に大型機に手を付けたのは,日本航空輸送が国内線用に採用したもので,元々はオランダのフォッカーが開発したユニバーサル輸送機を,米国のアトランティック・エアクラフト社がカスタマイズして製作したスーパーユニバーサル輸送機です.
最初の4機は中島でノックダウン生産を行い,1930年から後に国産化して中島フォッカースーパーユニバーサル輸送機として1936年まで生産を行いました.
因みにこの機体は生産が小ロットに分れて,そのロットごとに細部が異なり,原型機ではワスプを搭載していたのですが,国産化したときには中島で生産されていたジュピターに換装され,その後,国産初動機である寿を装備しています.
これらの機体は日本航空輸送で国内線に利用されたほか,満州航空に納入されたり,鉄道省の測量機になったりしていましたし,陸軍で患者輸送機となったり海軍では陸上偵察機になるなど,結構縦横無尽に活躍しています.
しかし,これらの機体は,単葉とは言え高翼式で機体は木製,しかも脚は固定,タイヤもエンジンも剥き出しと,余り近代的と言い難い機体でした.
日本航空輸送では近代的な旅客機を探し求めていましたが,1934年,三井物産が近代的な旅客機として米国から輸入したのがダグラスDC-2です.
後に近代的輸送機の代名詞となるDC-3の前段階にあたる機体ですが,その経済性は他の機体の群を抜き,日本航空輸送では早速次期主力旅客機として採用することにし,再び中島にダグラスからライセンスを買い取って,その国産化を行うように依頼します.
中島では明川清,西村節朗,中村勝治の各技師が国産化を担当し,その初号機は1936年に完成しました.
発動機は輸入されたライトサイクロン,プロペラはハミルトン・スタンダード製可変ピッチ3枚プロペラで,主要材料も米国から輸入したものでした.
しかしオリジナルに比べ,同じサイクロンながら馬力の劣る発動機を装備したため,国産機の性能は最高時速で19km/h,実用上昇限度は3分の2と言う性能しかありませんでした.
一応,生産が開始されたのですが,直ぐに更に経済性が高いDC-3が出現し,中島もこちらの方を有望と見たので,残念ながら6機の生産で終わってしまいました.
生産数としては少数機に終わってしまったDC-2ですが,それがその後の中島に与えた影響は大きく,一式戦闘機「隼」がダグラス式の桁構造を採用した御陰で,翼内に機銃が搭載できなかったのは有名な話だったりします.
それは扨措き,優秀な大型機が出来ると,それを軍用に転用しようとするのは世の常で,本家のダグラスも,DC-2の主尾翼構造と発動機を転用して,爆撃機の胴体をくっつけたお手軽爆撃機のB-18,DC-3から同じくB-23を開発したように,中島もこの近代的な全金属製大型機を導入したことで,その影響を受けて,これを基本にした大型爆撃機を開発し,三菱の牙城に殴り込もうとします.
陸軍向けに開発されたのが,九七式重爆撃機のライバルとなるキ-19,そして海軍向けに開発されたのがLong range bomber 2,略してLB-2と呼ばれた自社開発機です.
因みに,LB-1は計画のみで終わっています.
松村健一技師が設計したLB-2の胴体は全金属製モノコック構造で,主翼構造などにはダグラス直伝の方式を採りました.
主翼はテーパー比が大きく,基準翼内部が燃料タンクになっていて外翼は細胞式です.
モノコック構造の胴体は楕円式であり,主翼が中央部を貫通しており,その上側が補助燃料タンク,下側は爆弾倉になっていて,此の点は九六陸攻よりも進んでいました.
動翼が羽布張りである以外はほぼ総てが金属製となっていました.
脚は手動式の引込脚ですが,手動油圧ポンプで曳き上げるものであり,主脚のみ引込式で,尾輪は固定式になっていました.
設計がしっかりしていたからか,重量はほぼ想定内に留まり,胴体はDC-2よりも大きいのに,重量はほぼ同程度となっていました.
LB-2が完成したのは,1936年3月のこと.
この機体は海軍の陸上攻撃機としての審査を受けることになりましたが,此の時,九試中攻は9ヶ月前に完成して試験を繰返している最中で有り,その性能は海軍を狂喜させるに十分なものでした.
加えて,海軍が育成してきた機体でもあったことから,LB-2の勝ち目は無く,結局,3ヶ月後に海軍は九試中攻を九六式陸上攻撃機として採用するに至ったのです.
LB-2は試作機1機のみに終わりました.
海軍から払い下げられた機体は,機首の爆撃手席を取り払って貨物室に改造し,胴体の上部銃座,下部垂下式銃座は撤去,胴体内燃料タンクは撤去して爆弾倉に移設し,その跡地に乗客6名分の座席を設けました.
つまり,爆撃機が再び旅客機へと改造されたのです.
因みに,乗員は正副操縦士を含む4名もいるので,余り効率の良い機体ではありません.
1937年,この機体は航空局で耐空証明を改めて取得してから,満州航空に引き渡されて「暁」と命名されました.
当時,満州航空では,児玉常雄副社長が満州国内から天山山脈を越えてソ連を経由した欧亜連絡最短コースの開設を目論んでおり,その為の専用機としてドイツからハインケルHe-116を2機輸入していました.
LB-2も,航続距離は九六式が3,000kmなのに対し,倍の6,000kmとこの空路開拓には十分な長さだったのですが,日華事変やノモンハン事変による海外情勢の悪化で実行の機を逸してしまいます.
一方で,九六式陸上攻撃機は渡洋爆撃で名を馳せ,しかも毎日新聞の「ニッポン号」による世界一周で有名になりました.
LB-2は地味に活動し,1941年まで奉天の北飛行場にあったのですが,後に研究機材として解体されたと言います.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2016/03/08 23:12
青文字:加筆改修部分
【質問】
太平洋戦争中に三菱が生産した航空機数を教えられたし.
【回答】
零戦 紫電
雷電 烈風 九九襲撃 九六陸攻
九七重爆 一式陸攻 飛竜 零式水観
九七司偵 百式司偵 百式輸
41年 1月 23機 0機 0機 0機 8機 7機 10機 2機 0機 7機 2機 6機 5機
2月 23機 0機 0機 0機 9機 8機 11機 5機 0機 0機 4機 7機 4機
3月 30機 0機 0機 0機 12機 0機 19機 6機 0機 17機 4機 4機 8機
4月 27機 0機 0機 0機 14機 0機 18機 12機 0機 12機 4機 3機 6機
5月 30機 0機 0機 0機 15機 0機 27機 15機 0機 9機 5機 8機 6機
6月 26機 0機 0機 0機 17機 0機 25機 14機 0機 16機 6機 7機 6機
7月 25機 0機 0機 0機 18機 0機 26機 15機 0機 11機 2機 6機 6機
8月 30機 0機 0機 0機 22機 0機 30機 20機 0機 16機 3機 2機 5機
9月 33機 0機 0機 0機 24機 0機 27機 18機 0機 13機 0機 9機 6機
10月 43機 0機 0機 0機 27機 0機 27機 22機 0機 4機 0機 9機 5機
11月 52機 0機 0機 0機 24機 0機 19機 25機 0機 2機 0機 10機 5機
12月 60機 0機 0機 0機 26機 0機 35機 28機 0機 6機 0機 14機 9機
零戦 紫電
雷電 烈風 九九襲撃 九六陸攻
九七重爆 一式陸攻 飛竜 零式水観
九七司偵 百式司偵 百式輸
42年 1月 60機 0機 0機 0機 27機 0機 31機 25機 0機 5機 0機 15機 4機
2月 58機 0機 1機 0機 28機 0機 28機 27機 0機 4機 0機 16機 5機
3月 55機 0機 0機 0機 30機 0機 31機 30機 0機 4機 0機 19機 6機
4月 54機 0機 1機 0機 31機 0機 23機 31機 0機 7機 0機 17機 3機
5月 58機 0機 1機 0機 33機 0機 24機 31機 0機 9機 0機 18機 3機
6月 45機 0機 2機 0機 30機 0機 27機 31機 0機 11機 0機 20機 3機
7月 25機 0機 0機 0機 18機 0機 26機 15機 0機 11機 2機 6機 6機
8月 30機 0機 0機 0機 22機 0機 30機 20機 0機 16機 3機 2機 5機
9月 33機 0機 0機 0機 24機 0機 27機 18機 0機 13機 0機 9機 6機
10月 43機 0機 0機 0機 27機 0機 27機 22機 0機 4機 0機 9機 5機
11月 52機 0機 0機 0機 24機 0機 19機 25機 0機 2機 0機 10機 5機
12月 60機 0機 0機 0機 26機 0機 35機 28機 0機 6機 0機 14機 9機
零戦 紫電
雷電 烈風 九九襲撃 九六陸攻
九七重爆 一式陸攻 飛竜 零式水観
九七司偵 百式司偵 百式輸
43年 1月 68機 0機 0機 0機 46機 0機 38機 46機 1機 18機 0機 28機 10機
2月 69機 0機 0機 0機 44機 0機 35機 48機 0機 18機 0機 31機 10機
3月 73機 0機 1機 0機 45機 0機 37機 54機 1機 17機 0機 31機 10機
4月 73機 0機 2機 0機 46機 0機 37機 56機 0機 18機 0機 33機 10機
5月 73機 0機 0機 0機 49機 0機 33機 55機 1機 14機 0機 35機 11機
6月 73機 0機 3機 0機 49機 0機 34機 57機 2機 3機 0機 35機 11機
7月 77機 0機 4機 0機 50機 0機 35機 58機 1機 0機 0機 38機 11機
8月 85機 0機 5機 0機 51機 0機 38機 57機 1機 0機 0機 42機 11機
9月 93機 0機 16機 0機 53機 0機 38機 56機 3機 0機 0機 40機 13機
10月 105機 0機 16機 0機 55機 0機 22機 53機 2機 0機 0機 49機 14機
11月 110機 0機 21機 0機 61機 0機 33機 57機 2機 0機 0機 52機 21機
12月 130機 0機 22機 0機 62機 0機 36機 63機 1機 0機 0機 65機 26機
零戦 紫電
雷電 烈風 九九襲撃 九六陸攻
九七重爆 一式陸攻 飛竜 零式水観
九七司偵 百式司偵 百式輸
44年 1月 125機 0機 17機 0機 67機 0機 31機 54機 2機 0機 0機 69機 20機
2月 115機 0機 26機 0機 58機 0機 25機 47機 2機 0機 0機 70機 21機
3月 105機 0機 9機 0機 52機 0機 33機 51機 2機 0機 0機 75機 17機
4月 100機 0機 22機 1機 0機 0機 32機 70機 13機 0機 0機 62機 17機
5月 95機 0機 39機 1機 0機 0機 35機 70機 12機 0機 0機 52機 17機
6月 100機 0機 44機 2機 0機 0機 34機 79機 23機 0機 0機 60機 22機
7月 115機 0機 34機 2機 0機 0機 33機 89機 22機 0機 0機 61機 20機
8月 135機 0機 22機 2機 0機 0機 20機 85機 32機 0機 0機 70機 16機
9月 135機 0機 16機 0機 0機 0機 3機 91機 45機 0機 0機 75機 10機
10月 145機 0機 20機 0機 0機 0機 0機 109機 38機 0機 0機 72機 5機
11月 115機 0機 18機 0機 0機 0機 0機 108機 64機 0機 0機 53機 2機
12月 62機 0機 7機 0機 0機 0機 0機 60機 21機 0機 0機 36機 4機
零戦 紫電
雷電 烈風 九九襲撃 九六陸攻
九七重爆 一式陸攻 飛竜 零式水観
九七司偵 百式司偵 百式輸
45年 1月 35機 0機 17機 0機 0機 0機 0機 55機 28機 0機 0機 3機 3機
2月 59機 0機 12機 0機 0機 0機 0機 60機 45機 0機 0機 2機 0機
3月 40機 1機 29機 0機 0機 0機 0機 49機 35機 0機 0機 15機 0機
4月 37機 1機 16機 0機 0機 0機 0機 54機 18機 0機 0機 29機 0機
5月 38機 0機 0機 0機 0機 0機 0機 31機 47機 0機 0機 36機 0機
6月 23機 3機 8機 0機 0機 0機 0機 20機 56機 0機 0機 45機 0機
7月 15機 1機 7機 0機 0機 0機 0機 0機 24機 0機 0機 26機 0機
8月 52機 3機 27機 1機 0機 0機 0機 7機 1機 0機 0機 39機 0機
こっちも出典は米国戦略爆撃調査団報告書.
ゆうか ◆9a1boPv5wk in FAQ BBS
青文字:加筆改修部分
【質問】
陸軍は中島と川崎をうまく併用したから故障が多かったとは言え,毎年新しい戦闘機を登場させることができた.
海軍は三菱だけになんであんなにオーダーを集中させたのだろうか?
【回答】
要するに「2線級」が少ないんだよね,日本の航空産業は.
たとえば11試作機上作業練習機を三菱が試作したときに,性能は十分満たしていたけど,三菱に生産余力がなかった.
他の飛行機会社に生産を移管しようにも,双発全金属製飛行機を製造できる海軍系会社は三菱,中島,愛知,川西ぐらいしかなかった.
プロ野球で言うとベストメンバーでのみ上位チームと戦えるいくつかのチーム(名前は挙げない)みたいなもんで,エースや4番に何かあると途端に駄目になる.
せめてロッキード輸送機をライセンスできた立川ぐらいの会社がゴロゴロあれば,,,
もっとも,あちらさんの上位チーム(ノースアメリカン,グラマン,リパブリック,ロッキード,etc.……)と比較すると,こちらの上位チーム(中島,三菱,……川崎や川西はAクラスとBクラスを行ったり来たりか?)も見劣りするのは事実だけど.
【質問】
中島・三菱は海軍機も陸軍機も作ってたけど,川崎が陸軍機ばかり,愛知が海軍機ばかりだったのはなぜでしょう?
たまたま得意分野が偏ってたのか,人脈とか生産の割り当てとかの理由があったのか.
【回答】
最初に民間資本で企業を設立し,航空機産業に打って出た企業が三菱と中島しか無かった為です.
三菱,中島はそのため,或程度の独自性を有して,陸軍,海軍両方との関係を持つことが出来ましたが,他社は,航空機産業育成に対して,軍部が或程度の方針を決めて来たことから,どちらかの軍と密接な関わりを持つようにして成長するしか無かったわけです.
川崎は川崎造船の流れではありますが,1921年に当時の松方幸二朗社長によって,多角化の一環としてサルムソン発動機の国産化に取り組み,そのエンジンを搭載した偵察機のLicenseを購入します.
この偵察機が陸軍に採用されたために,以後,陸軍との密接な関係が築き上げられます.
岐阜工場は,各務ヶ原の陸軍飛行隊の側にありました.
愛知時計電機は,精密時計の製造から出発し,その技術的完成度から,海軍向けの信管,雷管,機雷,その敷設装置などの兵器部品を生産していたことで,海軍と関係を持つようになりました.
で,1920年に海軍の設計した機体(元々はハインケル設計のハンザ・ブランデンブルグ偵察機)の生産工場に指定され,その製作を始めたのがきっかけです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/05/13(金)
青文字:加筆改修部分
ちなみに川崎は液冷発動機を積極的に使いましたが,よく言われる
「川崎は軍からの実験・研究的要素が強いメーカー」
ではなく,トップの鶴の一声であったことが,近年の資料で明かになっています.
軍事板,2005/05/13(金)
青文字:加筆改修部分
川崎の工場(明石工場?)
(画像掲示板より引用)
【質問】
P-51などのレシプロ(第二次大戦くらい)の戦闘機を一機製造するのには,どのくらいの日数がかかったの?
B-29も教えてくれ.
裸足侍 ◆cljj.KUKAI :軍事板,2004/06/09
青文字:加筆改修部分
【回答】
米国のなら1機当たりの生産に必要とされる延べ労働時間数の記録があります.
単位は「時間」です.
1943年1月 1944年1月
B-17(Boeing Seattle工場) 35,400 18,600
B-24(Consolidated Valtee San Diego工場)
24,800 14,500
B-25(North American Ingulwood工場)
14,800 10,700
C-54(Douglass Santa Monica工場) 142,100
62,600
P-38(Lockheed Burbank工場) 14,800 9,600
眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2004/06/09
青文字:加筆改修部分
P-51は推測ですが,エンジン2基のP-38,B-25が10,000時間程度ですから,それよりも少ない時間数,最高でも大体7~8,000時間程度で製造できたのではないでしょうか.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2006/05/04(木)
Álmos ember ◆gQikaJHtf2 : "2 csatornás" katonai BBS, 2006/05/04
(csütörtök)
青文字:加筆改修部分
Kék karaktert: retusált vagy átalakított rész
【質問】
ゼロ戦や隼のボディはリベットで留めてあるのですが,あんなに沢山のヶ所を,勤労動員の子供がトンカチで叩いたんですか?
【回答】
米国の例ですが,1944年7~8月のNorth Americanの社報にこんな記事が載っています.
題して,「家事と航空機工場の仕事は似ている!」
・掃除機でリビング・ルームを奇麗にする → 掃除機でB-24の先端部を奇麗にする.
・脱水機で洗濯物を絞る → ローラー切削器で板金を加工する.
・キッチンテーブルの上で生地を裁断する→ エンジンカバー用の金属を裁断する
・キッチンで卵をかき混ぜる → ハンドドリルで戦闘機P-51に穴を開ける
・家で刺繍をする → 爆撃機B-25のヒートダクトを縫う
・爪にマニキュアを塗る → 機体に塗装する
・ミシンで洋服を縫う → 爆撃機B-25の皮カバーを縫う
・洋服をハンガーに掛ける → 熱処理のために部品を吊す
米国ではまず,型板を使って板金を打抜き,ヤスリを掛ける作業から入り,次いで,ドリルプレス工に進みます.
そこから職業訓練校の機械工養成コースを修了して,フライス盤操作に就きます.
こういった単能機械の操作が女性の仕事とされました.
一方,日本では,こういった作業は流れ作業化,あるいは機械力がなかったため,本来は熟練工による職人芸が必要とされていましたが,熟練工が徴兵されたため,代わりに,女子労働力と若年労働力を充てるしか有りませんでした.
日本の場合,まず,鋏,ハンマー,鏨,パンチ,へら,やすりと言った工具,切断機,ローラー,ドリルを用いた軽金属加工から入ります.
次いでリベット打ちになりますが,監督者の指示通りにジグをセットし,予め決められた印に従って,ハンドドリルで穴を開け,ボルトを試しに取り付ける.
問題がなければ,二人一組の工員が,片方がエアハンマーでリベットを打ち,もう片方は全体を支えると言う工程です.
ところが,色々なサイズのジュラルミンを機体のカーブに沿ってリベットを打つのが難しく,機体表面に凸凹が多数出来てしまっています.
ちなみに,彼女らの養成期間は熟練を擁する作業なのに,一週間しかありませんでした.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2)
なお,女性や学生が飛行機生産に関わるようになったのは戦局がかなり不利になってから.
それ以前の飛行機生産は熟練工が非常に丁寧に組み立てていました(逆に言うと,製品の規格が甘く,熟練工・熟練整備兵でなければならない,ということでもあった).
軍事板
【参考文献】
佐藤千登勢著「軍需産業と女性労働 第二次大戦下の日米比較」(彩流社,2003年発行).
ちなみに,前田裕子著「戦時期航空機工業と生産技術形成 三菱航空機エンジンと深尾淳二」(東京大学出版会,2001年発行)というのもなかなか面白い.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2)
航空機生産にたずさわる女子工員
【質問】
日本の航空機生産が順調ではなかったのは何故か?
【回答】
航空機工業の生産基盤は,原材料・工作機械・労働力を3要素としていたが,この3要素が揃って順調だったことがなかったため,と山田朗は述べる.
以下引用.
――――――
軍部の要求は下回ったものの,原材料(アルミニウム)供給がようやく大幅な伸びを示し始めた頃(1941年)には,いまだ工作機械生産は重要な部分が自立できておらず,辛うじて大工場に優秀な工作機械が配された時期(43年前半)には,労働力の質的低下が深刻化する,という具合に,生産が全体として順調に拡大することはなかった.
つまり日本の航空戦力は,安定した工業的基盤を遂に確保できなかったのである.
ソロモン諸島で大規模な航空消耗戦が展開された1943~43年の時期,日米の航空機の生産性格差は,3倍近くに開いていた.
つまり,一人の労働者が一日に生産する製品重量で比較した場合,日本を1とするとアメリカは,
1941年――2.25
1942年――2.98
1943年――2.65
1944年――3.89
の生産性を有していた(R. J. Overy, "The Air War 1939-1945", p.168).
――――――「軍備拡張の近代史」,吉川弘文館,1997/6/1,p.215-216,抜粋要約
▼ 当時の日本の根本的な問題として,現場と研究機関の間の溝ってのがあった訳で.
大学なんかの学者先生を招聘しないのみならず,軍の中でさえ「現場は現場,研究は研究」ってな乖離があったのよ.
空技廠の玩具とも称される彗星なんかが良い例.
性能は凄くても,量産も運用も困難なもん造ってどないすんねん(笑).
それと,部品の品質は一人の技術屋が頑張ったってどーにもならん.
平時からの基礎技術力の底上げを,国家レベルでやらないとな.
電線の話が良い例になるとおも.
高度な工業製品は,しばしば1本の鎖にたとえられている.
鎖のリングのひとつひとつがどれだけ良くできていても,その中たったひとつでも不良品のリングが入っていると,鎖全体の強度はその不良品と同じ程度になる.
戦前から戦後しばらく,そして昭和40年ごろまでの日本の工業製品全般がそんな感じ.
優秀な技術者や名工はいた.
でも彼らの物造りとは,100個作って,その中でもっとも品質が良い1個を選ぶみたいなところがある.
量産ができないのだ.
それ以前に品質も一定にできない.
さらにそれ以前に,名工なんて呼ばれる人なんか,めったにいるものじゃない.▲
【質問】
日本の航空機生産が,1941年よりも1944年のほうが多いのは何故ですか?
粗悪品が増加しつつも生産力が上がっていったのは分かるのですが,そのころになるとアルミ等がなくなって作るに作れないのでは?
【回答】
戦略爆撃調査団はこう述べています.
戦争中期には航空機生産に関しては,アルミニウムは潤沢な供給があった.
しかし44年に急激に引き上げられた航空機生産目標を達成しようとすれば,アルミの供給は需要を満たすことはできなかっただろう.
以上要約.
アメリカの潜水艦が輸送船攻撃を明確に打ち出したのが43年後半.功を奏すのが44年半ばごろからです.つまり,44年前半までは,ある程度アルミの新規取得が可能でした.
43年のアルミのストックと44年前半のアルミで,44年の航空機生産を支えていましたが,景気が良かったのはあくまで前半の話.
後半になるにつれ,輸送船の被害が拡大.44年後半にはアルミの取得は前年の66%に低下,末には新規取得は事実上0となります.
こうして45年の航空機製造は寒いものになってしまいますが,44年はある程度のアルミの取得が可能だったことと,生産設備の充実に伴って,航空機生産はピークを迎えたのでした.
で,あとは資材不足と空襲で生産設備が被害をうけ,下り坂を転がり落ちていく,と.
【質問】
超超ジュラルミンをアメリカはコピーしようとは思わなかったの?
【回答】
いわゆる超超ジュラルミンは,ゼロ戦の主翼桁に使われていたと記憶しております.
アメリカがどんな金属を使っていたかは知りませんが,仮に超超ジュラルミンを知らなかったとしても,捕獲機からのコピーはアルミの性質上,無理だと思います.
コピーするには,化学成分を(誤差も含めて)完全に割り出し,その後,アルミ材加工後の熱処理などに関しても詳しく調べないといけません.
しかしアルミは,加工後の処理方法が大雑把に分けただけでも14種類あり,細かく分けたら際限がありません.
(例えば,現在のJIS規格で言うところの超超ジュラルミン『A7075』は,溶体化処理後人工時効硬化処理を行うのが普通です)
(これ以外にも,いくつか処理方法があり,また同じ処理を行うにしても,処理を行う時間や温度によって,違う性質を示すこともあります)
というわけで,アルミ合金のコピーはきわめて難しいと考えられます.
詳しくはもっとふさわしい別の板で.
軍事板
【質問】
日本評論社から出版された『日本戦争経済の崩壊』(アメリカ合衆国戦略爆撃調査団編,1950)の38ページに
「1942年にはアルミニウムは記録的増産となったとはいえ,その絶対量はまだまだ相対的に低かった.
だがそれよりもっと注目すべきことはアルミニウム地金の配分であって,全量の僅か69パーセントが航空機生産用に向けられたに過ぎないということである.
相当量のアルミニウムが,禁止された用途に横流れていたから,この数字は航空機へ廻った比率を過大に示していた.
ことアルミニウムに関する限り,1942年においてもっと精力的な航空機増産が可能だった筈である」
との記述があったのですが,その横流しされた大量のアルミニウムは,誰がどういう用途に使っていたのでしょうか?
【回答】
「横流し」という言葉は些か語弊があるか,と思います.
当時のアルミニウムの用途としては,航空機の主要部品やエンジンの主要部品に用いられた他にも,自動車部品,船舶用材料,鉄道車輌に用いられていますし,電熱器,変圧器,電動機部品,理化学機械や試験器具類の材料,什器,食器類に用いられています.
電動機や変圧器と言った部品は,直接軍事ではないにしろ,間接軍事の製品として,航空機の工作機械,発電所の発電機などを構成するものなど使用されており,それを全て航空機に用いるというのは些か暴論の類か,と愚考します.
当時,一般の目に触れることが多かったのが食器類ですが,この食器類は全体数量から見れば微々たる物で,殆どが機械部品だったりします.
余談ですが,三菱財閥には,アルミ素材を生産する日本アルミニウムと,中間加工メーカーの三菱軽合金工業(日本アルミニューム製造所),そして,最終製品加工会社の三菱重工業という形で垂直統合が出来ている様に見えますが,実際にはそんな綺麗な形を形成せず,三菱重工業は,住友金属工業,古河電気工業,神戸製鋼所から中間製品を購入しており,実際に三菱軽合金工業からの納品は多くありませんでした.
でもって,三菱軽合金工業は,三菱重工業以外の会社,愛知航空機,川西航空機,住友金属工業,日本楽器製造,島津製作所に提供している非常にいびつな形になっていました.
この暑さからか,昨日から体調が悪く,今日は完全にグロッキー状態です.
一昨日までは調子が良かったのに,アルカリ乾電池の如く,急に調子が落ちるのは,困りもの.
今日は結局,通算11時間以上昏々と眠り続けました.
それでも未だ身体は本調子ではありません.
昨日今日と,戦時中のアルミニウム用途についてちょこっと調べていましたが,確かに「日本戦争経済の崩壊」の表で,3分の2は航空機用途として使用されています.
で,残り3分の1は何に使われているのか,今一はっきりしません.
この3分の1をして,同書では「横流し」と書かれている訳です.
当時のアルミニウムの用途について,資料を漁ってみましたが,一つは食器,鍋釜類がありました.
ただ,これは全体数量からしても微々たるものです.
ちなみに,アルミの食器も陸海軍に納められると軍用品,民間に出されると民需品となります.
それ以外には,自動車や鉄道,船舶でもアルミ製の部品が使われていました.
ただ,エンジン・ブロックを完全にアルミ製にしたというのは,自動車の場合は,戦後の東洋工業が最初の筈.
鉄道では,満鉄や朝鮮鉄道の軽量客車にアルミニウムが多用されていたくらいで,国内向けのものは,大抵が鋼板製の車体だと思います.
船舶は,内航客船で軽量化の為,上構をアルミニウム製にしたものがあった様な気がする.
1943年まで民間航空機は生産されていますので,航空機用の各種部品として,アルミニウム製品を使用した場合,その分は民需用として計上されるのではないか,と思ってみたり.
また,間接軍需として計上されているものもあります.
直接軍需の場合は,直接軍用に資するもので,例えば,軍用機そのものや,そのエンジンなんかは完全な軍需品となります.
これは軍用になるのが明確なもので,統計上も軍用になるものですが,その生産の為に必要な生産機械に,アルミニウム製品が使用されているのならば,それは間接軍需となります.
生産機械もアルミニウム製品の一つの用途ですからね.
ところが間接軍需というのは,軍用か民間用かの区分で行くと,民間用の方に計上される訳です.
そうした機械の方に振り向けられた製品は,民需として扱われたのであれば,1943年まで3分の1の生産量が民需となったのも頷けます.
つまり,「横流し」という表現は不適当なものではないでしょうか.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年08月07日21:55
【質問】
陸軍で隼の代わりに零戦を,海軍で紫電改の代わりに疾風を採用するには部品の規格が陸海軍で違っていて,工場の設備まで総入れ替えせざるを得ず,余計手間がかかると聞きます.
無線機や機銃はともかく,陸海軍で機体の部品まで整合性がないんですか?
【回答】
当時の日本では同じ零戦52型でも,生産工場によって部品があわない等と言うことは常でした.
(下手すると同じ工場でも,ヤスリなどで調整しないと合わない)
なので,設計段階から別物の陸海軍の航空機の部品の共有など,夢のまた夢です.
たとえば全国共通の10mmのネジを作るとすると,まず,幅・長さ・ねじ穴の大きさ・ピッチ・山の数などの詳細な規格を定め,その規格どうりに寸分違わぬネジを作成しなければいけませんが,当時の日本にはそれだけの工業力や工作精度はありませんでした
現在ではJIS規格などによりネジや部品がどの工場生産の物か等気にしなくても,規格さえあえば使用できるようになっているので気がつきにくい事ですが,当時の日本では考えられない事だったのです.
軍事板,2006/05/23(火)
"2 csatornás" katonai BBS, 2006/05/23 (kedd)
青文字:加筆改修部分
Kék karaktert: retusált vagy átalakított rész
念のために言っておくと,日本にも日本標準規格(略称はJES)というものがあった.
このJESは軍需品など,政府調達品についての官の購入規格や試験規格,標準仕様書.
臨JESは昭和17年にやっと制定.
どっちも軍需品主体.
http://www.horagai.com/www/moji/nihon/hosetu1.htm
今のみたく網羅的ではないし,生産者側にも遵守しようって意識はなかったみたいだけど.
軍事板,2006/05/23(火)
"2 csatornás" katonai BBS, 2006/05/23 (kedd)
青文字:加筆改修部分
Kék karaktert: retusált vagy átalakított rész
【質問】
住友におけるプロペラ生産の状況を教えられたし.
【回答】
1928年,住友ではアルコア(後,アルキャンの分離独立に伴い,アルキャンとの提携となる)との提携を行い,大阪櫻島に板圧延工場を予算60万円で着工し,同じ年,ジュラルミン製鍛造プロペラの試作が始まりました.
因みに当時のアルミニウムとジュラルミン製品の売り上げは640tでした.
1932年,米国ハミルトン・スタンダード・プロペラと提携した中島飛行機の指導と資料の提供を受け,中島が機械仕上げを行っていた鍛造プロペラの一貫生産を行う事になり,1933年,櫻島工場に年産300本,11月には年産900本を製作する工場を建設します.
1933年の生産高はプロペラ309本とアルミニウムと合金の生産量は1,300tを記録します.
1934年にハミルトン・スタンダード・プロペラからジュラルミン製可変ピッチプロペラの製造販売権を購入する事になり,1935年から生産を開始しました.
1934年の生産高は970tと幾分減りました.
一方,住友アルミニウム精錬が設立され,地金国内生産が1936年に開始される事になりました.
1935年になると可変ピッチプロペラの生産が開始され,住友伸銅鋼管と住友製鋼所が合併して,住友金属工業が設立されます.
この年の生産高は1,400tになりました.
1936年,超々ジュラルミンの特許が成立します.
この年の大阪櫻島工場は昼夜兼行で作業を続け,伸銅設備をも転用しますが,受注に生産が間に合わず,ブレーキング3段,2段ロール1台を輸入する事になりました.
この年の生産高も1,400tで伸び悩み.
1937年,中国との戦端が開かれた為,会社側で第一次航空機材増産計画が8月に策定され,年産軽合金1,500t,可変ピッチプロペラ600本,固定ピッチプロペラ1,160本から,軽合金3,800tと倍以上に,可変ピッチプロペラも2倍の1,200本,固定ピッチプロペラも約2倍の2,400本を生産する予定を立てます.
これは軍の強い要請で1938年末完工とされましたが,10月には早くも第三次航空機材増産計画の立案を迫られ,12月には軽合金板設備年産1,140tを含む軽合金年産能力6,800tに拡大されました.
この年の生産高は,一挙に倍以上の3,500tに達します.
1938年になると,第四次航空機材増産計画が立案され,可変ピッチプロペラを陸海軍それぞれ月産100本ずつの生産,つまり前年計画の2倍の要求が為され,その為の設備として,反射炉2基,100tプレス1台,3,600t押出機の輸入(決して国産ではない)を計画したのですが,更に,陸軍は可変ピッチプロペラ月産150本と年産にして5割増し,海軍も対抗する様に年産1,500本の生産を要求してきます.
この為の素材生産目標は昼夜二交代で陸軍向け6,000t,一交代で4,000tに強化する事になります.
ところが,4月には更に陸軍から月産230本の生産を要求.
この為,第六次航空機材増産計画を策定,12月には,1940年4月完成を目標に,陸軍向け月産400本,海軍向け200本の生産を行う,第七次,第八次計画を立案する事になりました.
1939年遂に軽合金月産1,364t達成の為には櫻島工場では手狭になり,当初予算6,180万円で名古屋工場の建設を決定しますが,これは第一次~八次増産計画の予算3,160万円の倍以上に達する巨額の投資でした.
因みに,1939年度生産分としては,海軍省から可変ピッチプロペラ月産400本,固定ピッチプロペラ月産100本の示達があり,名古屋工場に加え,神崎工場の新設を決定し,この工場で可変ピッチプロペラの生産を月産200本に設定し,工作機械を輸入400台,国産700台の調達を行う予定でしたが,これも幾度となく増産の要望があり,結果的に第六次までの改訂が必要になりました.
1940年には,ブルーノ式金型による航空機用エンジンとシリンダートップの生産を開始します.
海軍省からの要求は更にエスカレートし,可変ピッチプロペラ月産675本が,1,080本に増産内示が出て来ます.
1941年2月からVDMプロペラの生産が追加され,月産270本を要求されて,総合計で月産1,350本の要求となり,押出型材ラインが最も多忙で,アルミニウムと合金生産はとうとう年産9,500tに達しました.
同年から名古屋工場の稼働を開始します.
そして,太平洋戦争勃発.
1942年,名古屋工場の月産は,1945年3月末までに3,185tと2倍の能力増が海軍から求められ,第四次拡張計画に着手.
プロペラは海軍向け月産2,990本,陸軍向け1,820本,アルミニウム及び合金の軽圧製品は,海軍向け月産4,573t,陸軍向け月産4,393tの生産能力確保が必要となり,静岡製造所を建設して,これを海軍向けのVDMプロペラ専用工場とすることになりました.
1942年の生産高は21,900tで,プロペラは12,900本.
1943年には名古屋工場の第六次拡張計画を策定します.
板圧延にはタンデム式コールド・ストリップ・ミル,プロペラ用35tプレス,4,000t横型押出機整備で,月産2,000t突破を目指しますが,陸軍は年産31,500tの板,管棒,鍛造工場を設置する事を要求し,会社側は豊橋製作所を設置すると共に,鋳物用に堅田製作所を設置します.
これは1944年1月から操業を開始します.
また,陸軍は更にVDMプロペラの月産を1,000本とする要求があり,この為津製作所を設置して,11月から一部生産を開始する事になります.
同年の生産高は,前年の倍以上に当る44,600tとなり,日本の軽合金生産高の33%を占める事になりました.
プロペラは23,000本生産.
1944年には工場の拡張や新設に伴い,生産高は52,970tと5万トンの大台を超えプロペラも1万本増の33,000本に達します.
これがピークでした.
1945年になると,空襲により工場の壊滅が相次ぎます.
3月に名古屋工場が被爆,4月には静岡製作所被爆.
6月9日には名古屋工場が被災し,
6月15日に神崎工場が被爆,
28日には静岡製作所が再度被爆,
7月24日には遂に主力の櫻島工場が被爆し,同工場は壊滅しました.
櫻島工場については,11時55分~12時22分に掛けて,第58航空団のB-29爆撃機90機によって空襲が行われ,500kg~1t爆弾が244発投下されています.
この時は目標の76.9%に損害を与え,累積損害は89.6%に達しました.
投下された爆弾の内,115個が平均弾着点の1,100ft以内に着弾し,対空砲火は中程度から激烈で多様且つ正確でした.
損害は対空砲火の直撃による1機撃墜ですが,50機が損傷を受け,うち42機が硫黄島に着陸しています.
更に,住友金属大阪工場も6月26日に爆撃を受け,B-29爆撃機71機によるレーダー照準で404tの爆弾が投下されています.
同日,名古屋はB-29爆撃機33機によって,目視とレーダー照準で170tの爆弾投下を受けています.
それにしても,中長期的視点が軍にはありませんねぇ.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年10月10日21:25
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