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 【link】

朝目新聞」●風船爆弾の心臓部「高度維持装置」 国立科学博物館に寄贈へ  (of アルファルファモザイク)


 【質問】
 鉄道網破壊は戦略上,戦局に寄与したの?

 【回答】
 そもそも,機関車,特に蒸気機関車は何で動くかというと,石炭(重油で動かすものもありますが,当時の社会情勢では,重油で動かすのは無理)が主要動力源になる訳で,その石炭は東京鉄道局管内に於て,一日2500トンが必要な訳です.

 線路やトンネルを破壊しても,其の手前まで物資は動かすことが可能ですし,軍の力を以てすれば,そこらの不要不急鉄道から資材を持ってきて,線路くらいなら数日程度の運休で,復旧可能になります(井の頭線が不通になったら,小田急線から線路を繋げて,小田急(当時は大東急ですが)や京急,相鉄などから電車や資材を持ってきて復旧させました).

 寧ろ問題は,電力不足による電車本数の削減,石炭不足,または石炭の品質低下に伴う機関車数の不足であり,空襲が間接的に日本の物流網の不安定化に貢献していることになります.

 別に鉄道網を破壊したからと言って,厭戦気分が広がるかと言うとそう言うことはありません.
 寧ろ,空襲が激しい都市部の方が「撃ちてし止まん」の思想が強かったりします.

 蛇足ながら,米国戦略爆撃調査団の「日本戦争経済の崩壊」という本から抜粋をしておきます.

「海上封鎖の結果,1943年初頭以来,沿岸輸送の益々多くの部分を鉄道輸送に切り替えざるを得なかった.
 この追加負担で既に負担の荷重に喘いでいた鉄道組織は一層脆弱性を増したのであるが,敵がこの弱点を突こうとする何等の組織的空中攻撃計画は立てられていなかった.
 1945年7月に1度だけ行われた航空母艦からの攻撃は,本州〜北海道間の鉄道連絡船を襲い,12隻の連絡船の内,10隻が完全に破壊され,2隻に損傷を加えた.
 このため,北海道炭の本州向け積出しの30%がこれに依存していた連絡輸送能力は,82%方削減され,9ヶ月間も回復の見込みが付かなかった.
 其の他の銃撃や艦砲射撃では継続的な効果はなかった.
 都市攻撃の場合には小輸送に対して被害を与えたが,貨車輸送に対してはその輪転資材の破壊という点でも,また労働力の点からも大体無傷であった.
 都市爆撃の直接の効果としても,鉄道で貨物輸送が出来なくなったと言う様な事例は発見されなかった.
 物質的被害は僅少で,精々踏切番の小屋とか半%程度ばかり貨車溜まりがやられた程度に留まった.
 (中略)
 然し,1945年7月には戦略爆撃を鉄道に集中する計画が決定になっていたと言う事実は指摘しておかなければならない.
 鉄道を組織的に破壊するプログラムは出来ており,その第一回目は丁度戦争の最終日であった.」

眠い人 ◆gQikaJHtf2


 【質問】
 二次大戦中の英米の重爆撃機の搭載量は5〜10tはあるのに,日本軍機のそれが5tにもはるかに満たないのは何故でしょうか?(機体サイズは考慮しています。)

 【回答】
 日本陸軍航空隊の爆撃機は、大陸戦線で使われる様に考慮されており、前線を反復して攻撃すると言う思想で設計が為されています。
 なので、爆弾搭載量が少なくても、何度も往復すれば良いと考えられていました。
 また、目標も都市ではなく、陸軍部隊ですので、爆弾搭載量も小さいのを数多くばらまく形が理想的だった訳です。

 海軍の1式陸攻等の場合は,陸上から敵艦隊への攻撃をする為に作られている為,長大な航続距離を求められたからです。搭載量と防御は無視して,です。

 尤も、発動機の馬力が低すぎて、爆弾をそんなに搭載出来ないと言うのもありますが。。

(眠い人 ◆gQikaJHtf2他)

 一式陸攻(1410馬力エンジン×2基/自重7.0d) = 最大1,000kg

 B-25J(1700馬力エンジン×2基/自重8.8d) = 最大1,360kg

 あんま変わらんよ?

 一式陸攻なんかは、ペイロードを燃料に割いている(航続距離重視)のに対し,B-25当たりは爆弾搭載量に振り向けている。同じことがB-17とランカスターににも当てはまる(爆弾搭載量はランカスターが4倍以上も上。特殊型だと10倍近くに)

 ま、爆弾そのものの設計、つまり米の大戦型航空機用爆弾は、重量の割に全長が比較的短くて、日本の細長設計よりも同じ容積にたくさん積める、なんて事情もあるんだけど


 【質問】
「日本の20mmではB17は落とせない」
と言われていたようですが,ならどうやって落としていたんですか?
 外地なので,高射砲の支援もろくに受けられないと思いますが・・・

 【回答】
 「落とせない」は大げさ.
 7.7ミリのみの隼一型で,B17落としたツワモノも居るんだから.
 もっともこれは,かなり希な例で,7.7ミリでB17を落とすのは,非常に難しいとされる.

 4式戦や3式戦20ミリ機銃装備型が登場するまで,陸軍には単戦で12.7ミリより大きい機銃を装備する機体は無く,ゼロ戦の20ミリを羨ましがっていたなんて話も.
 複戦なら二式複戦の37ミリ砲,20ミリ機銃があったけどね.
 個人的意見を言わせてもらえば,20ミリならB17に対して効果アリだと思うが.


 【質問】
 B-17を2機同時に撃墜したのって誰?

 【回答】
 B-17,2機同時撃墜は,田中国義一飛曹.
 1機落としたら,後続機と背中合わせになり,プロペラでむしりあいながら落ちていったらしい....

軍事板


 【質問】
 「日本軍用機数 陸軍編」に収録されているインタビューで,檜興平氏がブレニム軽爆らしき機体を「ブレハイ」と呼んでいるのですが,ブレニムってそんなあだ名をつけられていたんですか?

 【回答】
 「ブレニム軽爆」は「Blenheim light bomber」であり,ドイツ語読みするとブレンハイム.
 ですからドイツ語読みに親しかった当時の日本で,ブレハイと略されるのに無理はないでしょう.
 むしろきちんと母国語読みでブレニムと読むほうが難しそう.
 しかしどこまでその読みがポピュラーだったかは不明.

 ちなみに,Blenheimはチャーチルの先祖の初代マールバラ公ジョン・チャーチルがスペイン継承戦争で勝利した戦場でドイツの地名.
 それを記念してマールバラ公爵家の居城はBlenheim Palaceと名付けられた.
 ブレニムはBlenheimの英語風発音.


 【質問】
 日本軍はイタリアから爆撃機(イ式重爆)を買ったけど,カタログ・スペックと比べて明らかに低い速度しか出なかったと聞きました。
 なぜなのでしょうか? やはりガソリンのオクタン価の違いでしょうか?

 【回答】
 速度ではなく、航続力に違いがあったと記憶しているのですが…。

 イタリア機の品質管理にはどうしても甘いものがあったかもしれませんが(それでも、カプロニ・ベルガマスキCa135/P11より可成りマシ)、陸軍では監督官をフィアット社に送り、1機毎に試験飛行に立ち会ったり、生産状況を視察したり、品質検査をするなど、可成り気を遣って領収しています。

 ただ、BR20の設計構造は、イタリアの技術水準に合わせた大まかで量産向きのものであり、操縦も重く、
完全主義者でデリケートな日本人乗員に違和感を持たれた上、ブーストを高めると燃料消費量が急激に増大するので、操縦者が発動機特性を飲み込んでいるか否かで航続距離が異なり、編隊で同一地点を爆撃して帰ってきても、各機毎に燃料の残量が非常に異なっていました。

 従って、作戦計画を立てる際は、最も燃料消費の多い機体を標準として作戦を立てる必要があり、燃料消費や補給の観点から、著しく作戦行動に掣肘を受けています。

 これは、陸軍が外国から配備されてもいない(試用はされていましたが)新型機を泥縄式に購入し、十分な試験飛行を行わない状況で実戦に投入したことが原因でありました。

 ちなみに、この機体購入には部品も含め、当時の金で6,000万円をつぎ込みましたが、3ヶ月間で20回出撃すると、もう、全力出撃が出来ない状態で、イタリア製の爆弾を切らすと、日本製の爆弾ではスペースに無駄が出来、軽爆程度の爆弾搭載量しか無かったそうです。

(眠い人 ◆gQikaJHtf2)


 【質問】
 一式陸上攻撃機は,「一式ライター」「ワンショット・ライター」と揶揄されるほど発火墜落する機が多かったそうですが,それはなぜですか?

 【回答】
 直接的には,燃料タンクの構造上,効果的な防弾が難しかったこと,
 間接的には,予算制約の問題と,防弾よりも性能を優先したこと,そして戦訓が活かされなかったことによる.
 ただし,同世代の他国の攻撃機に比べて撃墜されやすいかと言えば,必ずしもそうとは言えないようだ.
 以下,ソース.

◇   ◇   ◇

「陸上雷撃機に必要不可欠な特性は,長大な航続距離と運動性である.洋上遠く飛行し,根気よく目標を捜索する能力,そして,いったん目標を発見したら,軽快な操作で望ましい接近コースに乗り,所定の姿勢で突入し,目標に照準する.
 このため,優れた操縦応答性が必要になる.
 武装は魚雷1本が最低条件だが,この他に防御火器が必要である.
 これだけの機能を持つ機体を選ぶのに,何基の発動機が必要かである.単発では絶対に駄目である.双発,全金属製機体,引っ込み脚として,戦闘機並みの速度と運動性を与え,必要な防御火器を備え,旅客機並みの航続距離を持たせなければならない.
 海軍の中攻〔中型攻撃機〕はこのために防弾鋼板を省略して燃料を搭載したのである.まさに攻撃手段のみで,残存性無視の攻撃機であった」

(航空ジャーナリスト是永明彦,「丸」 '02 Mar.)

 したがって,発火墜落し易いのは一式だけでなく,96式にも共通の特徴で,
「昭和12年のシナ事変の勃発以降,大陸で〔96式陸攻は〕作戦参加することになるが,爆撃中,敵戦闘機の要撃による損失が予想を越えていたのである.世界に類例のない高性能機が,寄せ集めの敵戦闘機に思うままに痛めつけられ,大損害を受けることは,全く予想していなかったと思われる.
 原因ははっきりしていた.防御火器の欠陥と貧弱な防弾装置にあった」
「96陸攻の防弾能力についても,被弾すれば必ずといっていいほど発火墜落する機が多く,残存性を高める処置が緊急に求められているにも関わらず,対策を採られることは殆どなかった.
 防御火器も,第1次大戦並みの7.7mmでは敵戦闘機は平気で接近してくるので,13mm機関銃に代えてほしいという要望も取り上げられなかった」(同)
 一式の場合,
「三菱の設計主務者,本庄季郎氏から,
『計画要求書から判断して,双発機で長大な航続力と高速性能を実現するのは無理で,防弾装備を備えた4発機にしてはどうか?』
との提案がなされたが,海軍は4発機にする考えはないとして提案を拒否したという.(学習研究社『帝国海軍 一式陸攻』によれば,『予算と生産能力がまず立ちはだかり,さらに技術的問題によって,海軍航空隊の主攻撃力は双発の中攻によって構成せざるをえなくなった』ことが,4発化に頑として海軍が応じなかった理由であるという)
 機体構成上,最初に決める必要があるのは,6000リットルの燃料タンクで,爆弾倉や上方銃座との兼ね合いから,非常手段として主翼内のインテグラル・タンクとなった.すなわち主翼構造を水密にして,そこをそのまま燃料タンクとする方式だった.
 結局これが本気の致命的弱点となり,被撃墜数を増やす原因となるのだった」

(同)

 このインテグラル・タンクは,
「通常の燃料タンクよりも主翼内部の容積を効率良く利用できる他,主翼強度も向上する一挙両得の着想だったが,翼外板が燃料タンクの上下面を兼ねるため,既存の方式の防弾タンクとすることができない上,被弾損傷時の燃料タンク交換が不可能で,修理そのものも非常に困難という欠陥を併せ持っていた.
 インテグラル・タンクの燃料漏洩と修理の困難さは,昭和13年6月の計画一般審査の段階で,既に問題視されていたが,他に計画要求を達成する方法がないと判断され,燃料漏洩問題研究のための供試体の製作と,各タンクへ人の入りうる作業口を設けることなどが決められている」(『帝国海軍 一式陸攻』,学習研究社)
 そのため,インテグラル・タンクへの防弾ゴム装着は,最初の生産型である11型では前後左右の壁面に限られ,上下面は無防備であり,被弾による火災の危険性が高かった.(同)

 更に,海軍航空本部技術会議の「十二試陸攻計画要求に関する件」議事摘録を読むと,昭和11年海軍採用の20mm機銃が,海軍にとって「もはや対抗不能の究極の機関銃として扱われている様子が見て取れる.
『20mm機銃を持つ敵戦闘機に遭えば,防御も単なる気休めとなる』
という発言は,それをよく表しているだろう.自軍が導入しつつあった大威力の新兵器の性能に見合った防御を見積もったが,その必要重量の大きさが,当時の常識を越えてしまい,防弾装備自体を諦めつつある様子が見られる」

(『帝国海軍 一式陸攻』,学習研究社)

 その後,昭和18年以降,防弾ゴムを追加可能な主翼下面に対して防弾ゴム貼付けと,戦闘前に機関席からバルブを操作して,燃料タンク前後の機密区画に二酸化炭素を充填する応急消火装置の装備が実施される.防弾ゴム貼付けは確かに効果を挙げ,被弾時燃料漏洩を最小限に留め,火災防止にも役立ったが,空力的犠牲が大きく,速度低下と航続距離短縮といったデメリットも目立つものだった.
 更に同年春からは,火災発生を電気的に感知すると,自動的に二酸化炭素噴射が瞬時に行われる,自動消火装置が装備され始める.
 G4M2(制式名称2型)では,カネビヤン皮膜の内袋式防弾タンクが導入予定だったが,耐油性のカネビヤンに材質的な問題があって,これは量産は行われずに終わり,防弾装備が後期の11型の水準と全く変わらない22型は,第一線部隊からは,
「飛行機の性能,特に火力及び防御力(主として火災防止)に於いて甚だしく劣る」
と厳しい評価が下されている.

 続くG4M3(34型)は,遂にインテグラル・タンクと決別して主翼を単桁構造とした.これは,主翼の翼型をG4M2で採用した層流翼型のまま,構造だけを変更し,その内部に防弾タンクを装備するためで,一式陸攻の,飛行機として持っていた構造上の利点を捨てる改造だった.
 しかし,カネビヤン・タンクは開発が間に合わず,外装式防弾タンクを装備.
 結果,G4M3は防弾は強化されたが,一方,タンク増設によって「急所」の面積はかなり増大してしまう結果となっている.

(同,要約抜粋)

 中村友男海軍中佐の評価によれば,以下のようだったという.

2 空戦時の性能
 貧弱な火力と脆弱な防御力

 支那事変緒戦から大東亜戦争末期まで中攻に搭乗し,各時代各地での空戦を体験して来た自分としては,中攻は対戦闘機空戦にはきわめて脆弱な機種であったと言わざるを得ない.
 そのの原因の最たるものは,日本海軍の伝統的な思想とは言え,如何にも防御が脆弱であり,敵をして「ワンショットライター」と言わしめるほど火災を起こしやすかった点であった.
 次の弱点は搭載の主力機銃が七・七mmと第一次戦末期並みの性能であり,支那事変緒戦から十三mm搭載の戦闘機によって手痛い被害をうけた戦訓を持ちながら,機銃の改装が遅れ,八年間の空戦体験の最後まで十三mm機銃が装備されなかったことである.
(中略)
 ガソリンを噴出する機や編隊両翼端機を集中され,引火自爆機を生ずることが多かった.
 ガ島攻防戦の中頃に防弾ゴムを装備し炭酸ガス自動消火装置を装備した機体が来たが,これとても比較的効果は薄かった.

海空会編『海鷲の航跡』,原書房,1982/10,P82-83

 一方,それほど脆いとは言えない説の根拠としては,
・ガダルカナル島作戦時での一式陸攻の損失率は,1出撃当たり8〜10%で,バトル・オブ・ブリテンにおけるドイツ軍爆撃機の10〜14%より高いこと,
・ガ島展開の海兵隊戦闘機隊パイロットの中には,一式陸攻の高高度性能と防御火力が優秀であったことを,苦々しく回想している者も数多いこと,
・自動消火装置装備などで,一式陸攻の防御上の欠点がある程度改善されたこと
がある.

 本機が脆いという印象を持たれたのは,
 ・連合軍側から見れば緒戦の,1942年2月20日,ラバウル沖の第11機動部隊(空母部隊)への攻撃で,大多数が撃墜されたこと,
 ・その後も,例えば珊瑚海海戦における第44機動部隊(巡洋艦部隊)への攻撃等,対艦攻撃時にも多数が撃墜されたこと,
 ・ガダルカナルやダーウィン上空において,米戦闘機隊が過大な戦果を報告し続けたこと,
 ・分母となる航空部隊の元々の機数が少ないため,1出撃当たりの損失数が少数でも,損失が継続した場合には,戦力が著しく減少し,また,対艦攻撃時などで一度でも大損害を蒙ると,飛行隊が即時閉隊となるような状況であったこと,
 ・1943年後半以降になると,敵戦闘機の性能が護衛機,零戦に優るようになり,加えて高高度域での性能が向上,敵戦闘機数が日本軍攻撃隊の数を圧倒するようになった結果,高高度進攻でも大きな損失が出るようになったため,
が要因であると考えられる.

 第44機動部隊への攻撃は,近接対空火器が充実した艦艇に対し,大型機で雷撃を行うこと自体が自殺行為に等しいことを示す警鐘となったが,この戦訓は活かされることなく終わり,ガダルカナル島争奪戦では「一式陸攻の墓場」と称されるほど,対艦攻撃で陸攻隊は大損害を蒙っている.第3次ソロモン海戦では,ラバウルの陸攻隊が一時的に壊滅したほどである.

(同,抜粋要約)

▼一式陸攻最終型(嘘)

 【質問】
 カネビアン・タンクはどんな評価をされていたのか?

 【回答】
 不完全なもので,比較的効果は薄かったという.
 以下引用.
 私〔本庄季郎技師技師〕はこのカネビアン内袋による防弾タンクは不完全なもので,全然無防備のものより,発火までに敵弾の発射数が多少多くなる程度のものではなかったかと思う.

海空会編『海鷲の航跡』,原書房,1982/10,P58

中村友男海軍中佐の評価

 ガ島攻防戦の中頃に防弾ゴムを装備し炭酸ガス自動消火装置を装備した機体が来たが,これとても比較的効果は薄かった.

同,P82-83


 【質問】
 日米開戦以降の日本陸軍は,軽爆の開発に積極的ではなかったのですか?

 【回答】
 日米開戦直前に九九式双発軽爆撃機の性能向上を図っています.
 但し,装備予定のハ115の製作が遅延したため,完成は1942年1月とずれ込みます.
 それから試作試験をして,1年後の1943年2月に正式採用が決定しました.
 ちなみに,その間に,爆弾搭載量の過小,自衛力の貧弱さから,襲撃機で十分という意見もありました.

 その試作中に,キ66試作急降下爆撃機が設計,製作されています.
 こちらは,1942年11月に第一号機を完成しており,1943年2月から実用試験が開始されました.
 しかし,最高速度は九九式双発軽爆撃機と大して変わらないため,ハ315に換装した性能向上型を製作しようとします.
 ところが,キ66の急降下ブレーキを装備した九九式双発軽爆撃機が完成し,50度程度の急降下爆撃に使用できるので,これで十分と言うことで,開発は中止されました.

 最終的には襲撃機と一本化され,キ102系列に昇華しますが,設計,試作段階になったものは他に,キ70(司令部偵察機に軽爆撃機装備を施す),キ119などがあります.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2)


 【質問】
 キ67は,雷撃を行うことが可能だった爆撃機として有名ですが,爆撃のほうはどうだったのでしょうか?
 キ21やキ48もあわせてお願いします.
1.急降下爆撃が可能
2.緩降下爆撃が可能
3.水平爆撃しか行えない

 【回答】
 キー67は急降下は出来た様ですが,急降下爆撃が出来たか,またやったことがあるのかは不明です.
 キー21は,丸メカニック編集部の記述でも
「九七重爆は急降下をしない(はずの)」
とあるので,対ソ戦を想定していた陸軍は急降下爆撃は軽爆と考えていたのかもしれません.

(軍事板)

 日本陸軍の爆撃機で急降下爆撃が可能なのは,単発ではキ30,キ32,そしてキ51があります.
 双発実用機ではキ48-II(試作ではキ66がありますが)しかありません.
 キ48-IIの場合は,当初60度の急降下が要求されましたが,ドイツのJu-87の実戦記録では50度程度であることが判明し,同程度の急降下を行う様に実用機では変更されました.

 緩降下爆撃が可能なのは,キ48-Iですね.
 キ21は水平爆撃しか行えません.
 このため,キ67ではその戦訓を踏まえて,当初は急降下爆撃も可能な様な仕様が出されましたが,試作機で問題が生じ,種々対策を施した結果,急降下角度は35度以下に制限されました.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2)


 【神話】
 「南山」とは,潜水艦搭載用水上攻撃機「晴嵐」の陸上機型につけられた名称である.

 【事実】
 「南山」は,「晴嵐」より前の,最初に予定されていた名称である可能性が高い.
 以下ソース.

 1944年11月20日付の「航空機ノ名称」では,実験機の項に試製晴嵐と試製晴嵐改の二つの名称が掲げられている.
 試製晴嵐の欄の内容は,1944年4月7日付の「航空機ノ名称」のものと同じく,「特殊機(潜水艦用)(AE1P装備)」と記されている.
 一方,試製晴嵐改については記事の欄に,「試製晴嵐ヲ陸上用トナセルモノ」と記されている.

 また,1945年4月に航空本部が作成した「海軍飛行機略符号一覧表」でも,水上機型が試製晴嵐(M6A1),陸上機型が試製晴嵐改(M6A1-K)となっている.

 ところで晴嵐は,昭和17-19年度「実用機試製計画」の最初の案では含まれていなかったが,伊400型計画具体化により,1942年(昭和17年)6月12日付の案では,愛知17試特攻として盛込まれており,一般的には17試特殊攻撃機と呼ばれているが,例えば陸上機型の計画説明書など,開発段階の文書では単に「17試攻撃機」と記されている.

 当時,愛知飛行機に勤務しておられた方などの証言によると,南山は最初,この17試攻撃機に予定されていた名称である可能性が強い.

(秋本実「第2次大戦 日本陸海軍飛行部隊史42」,航空ファン '99年2月号)

 どのような経緯で,それが晴嵐に変更されたのかは,データ不足につき編者には不明.

晴嵐


 【質問】
 過給器付「彗星」について教えられたし.

 【回答】
 これは「彗星」12型を改造した排気タービン過給器型で,12戊型(夜間戦闘機型)の強化を目指すもの.
 改造は空技廠/第1技術廠の飛行部と発動機部が担当.
 排気管から,爆弾倉内に置いたタービンへ排気を送るためのダクトや,翼根部に新設された過給器用空気吸入口などがとりつけられた.
 写真では,横須賀航空隊の「ヨ-257」号機が確認できる.
 実験準備中に敗戦を迎えたという.

 改造の効果などは現在も不明だが,渡辺洋二は,
>ターボ過給の技術自体が未熟な日本で,腺病質的な傾向のアツタ32型に試みても,
>成功したとは思われない
と述べている.

 詳しくは『世界の傑作機69 海軍艦上爆撃機「彗星」』(文林堂,1998.3.1),p.20,33を参照されたし.


 【質問】
 陸軍四式重爆「飛龍」(キ67)を日本陸軍はどう評価していたのか?

 【回答】
 古峰文三によれば,後世では最重要機種の一つであるかのごとく印象付けられているが,当時の陸軍にしてみたら
「兵器搭載量,防弾ともに不十分」(同時期の海軍の陸爆「銀河」は13ミリ用防弾タンクを装備してるのに,「飛龍」は7.7ミリ用防弾タンク)
「防御火器の配備法が旧式」(側面のブリスター型銃座は高速飛行時では操作が困難)
「航空戦の実情にそぐわない」(前線からは「航空撃滅戦にはB−24級の大型重爆でないと無理」と報告されている)
などの理由から,43年末まで比較的冷淡だったそうです.
 日の目を見れたのは,米艦隊の来寇を迎撃する「陸軍雷撃隊構想」のおかげだった,とのこと.

 詳しくは学研『歴史群像』No.87を参照されたし.

グンジ in mixi,2008年01月26日16:02


 【質問】
 重爆撃機「富嶽」は本当に実現不可能だったか?

 【回答】
 富嶽については諸説あり、そもそも一般的に知られている六発超重爆撃機は単なる試案の一つと言う説もある。実際に試製「富嶽」として開発要求が出された時点では,4発高速爆撃機としてだったという話もある.
 ハ54にしても一応試作されて、戦後羽田だかで地中に埋められてたのが発見されたが、上記の試製「富嶽」では排気タービン付き2500馬力〜3000馬力級エンジンを搭載する事になっていた・・という話もある。
 曖昧な書き方ばかりで申し訳ないが、実際の所「富嶽とはこんな飛行機」と言えるほど中身が具体化するまで計画が進まなかったんだよね。

 巷で良く言われている「富嶽」とは,実際に計画されたものではなく、中島が考えた究極の決戦機「Z飛行機」を「富嶽」と捉えて語られている場合が多い。
 まあ,Z機の発想が元で「富嶽」が計画されたのは確かだが.

(軍事板)

♪いろんな「富嶽」があるんだね いろんな試案があるんだよ



 【質問】
 恐れ入ります.全くの素人なのですが,ある墜落事故の情報が知りたいのです.
 太平洋戦争開戦前(または始まっていたかも)ドイツから密かに日本に持ち込まれたドルニェ双発爆撃機が日本近海でテスト飛行中に墜落したということについて,何か情報が無いでしょうか?
 祖父(故人)が乗っていたらしいので,そのときの状況を知りたいのです.

 【回答】
 Dornierの機体は,ごく初期のものを除き,日本には輸入されていません.
 お尋ねの機体は,JunkersJu-88A-4だと思います.

 1940年,双発急降下爆撃機の研究用に,日本海軍がドイツに3機発注したもので,封鎖突破船によって,1機が輸送されましたが,それ以上の輸入は見送られました.
 この機体は横須賀で組み立てられ,飛行試験を行う予定でしたが,1回目の試験飛行の際,行方不明になりました…くらいしか記述はないですね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2


 【質問】
 太平洋方面での米軍の陸上爆撃機(B29除く)の損害を教えて下さい。

 【回答】
All Theaters Total Loss ― 41,575
Europian Theater of operations ― 17,082  
Mediterranian Theater of operations ― 10,612
Pacific Ocean Areas ― 1,394   Far East Air Forces ― 7,229
China & India-Burma ― 3,289   Alaska ― 492 
Twentieth Air Force ― 651   Other Overseas ― 826

http://www.au.af.mil/au/afhra/wwwroot/aafsd/aafsd_pdf/t100.pdf
Table 100 - Losses of All Types of Airplanes overseas,
By Theater and By Type of Loss: 1941 to 1945.....Page 186


 【質問】
 東洋戦線では、ウェリントンやランカスターなど英軍の爆撃機はどの程度投入されたのでしょうか?
 また、英軍機の中でアジアで爆撃任務に就いたのは、重爆よりモスキートやブレニムなど軽爆の方が圧倒的多数だったのでしょうか。

 【回答】
 大戦初期には、Blenheim爆撃機などの軽爆撃機の方が機数的には勝っています。
 例えば、Blenheim Mk.IVは、第11/34/39/45/60/84/113/211の各スコードロンに配備されていましたが、Wellington爆撃機は、第99/215の2個スコードロンにしか配備されていません。

 中期以降ですと、援英機が充当されてきます。
 但し、インドなど東南アジア戦線では、運用環境が過酷なため、Mosquitoは偵察機バージョンが1個スコードロンだけ配備されたに過ぎません。
(豪州空軍配備機は除く)
 また、英国空軍機は航続距離が短く、軽爆撃機では奥地までの爆撃が出来ないため、軽爆撃機は一部を除いて姿を消し、代わってThunderbolt戦闘機やMustang戦闘機と言った戦闘爆撃機型が投入されています。

 一方、純然たる爆撃任務については、これまた英国の重爆撃機では航続距離が短いため、Lancaster爆撃機の長距離型が開発されていましたが、大戦に間に合いませんでした。
 これをカバーしたのが、B-24の英国型Liberatorで、第8/99/159/160/203/215/231/321/354/355/356/357/358の各スコードロンに配備されています。

(眠い人 ◆gQikaJHtf2)


◆◆◆◆B-29


 【質問】
 B-29開発は何故始まったか?

 【回答】
 ヒトラーの脅威が,開発を後押しした.

 ヒトラーがオーストリアやズデーデン地方を併合したとき,ルーズベルト大統領は,ヒトラーがドイツ空軍を政治的恐喝の道具として使用したことに注目し,米国の空軍力を強化する決意を固めた.
 ミュンヘン会談当時,米陸軍航空隊の保有奇数は総計,約1800機に達していたが,その3分の1は,時代遅れの旧式機だった.
 第2次大戦が始まったときは,米軍保有の軍用機の中で最新型の爆撃機は,唯一B-17だけだった.
 1932年設計で,340km/hのマーチンB-10B爆撃機は,真珠湾攻撃の頃,まだAAF(米陸軍航空軍)の各航空隊で使用されていた.

 1938年9月下旬,彼は,米国の軍備増強の最初の措置の一つとして,国内航空産業の実情調査を命じた.1年に1万5千機の航空機を製作させるため,その生産能力を拡大できるかどうかを決定するためだった.
 彼は米空軍力を,いかなる侵略国,または侵略国の集団の脅威に対し,米国と西半球を防衛できる線まで増強する意向だった.

 当時,米陸軍航空隊司令官代理だったアーノルド少将(当時)の語るところによると,この問題についてホワイトハウスで彼は相談を受けた.
 その席上,ルーズベルト大統領は,
「空軍こそヒトラーが米国の力を理解する唯一のものである」
という確信を表明したという.

 1939/1/4,ルーズベルト大統領は議会教書の中で,なぜ米国の航空兵力を増強する必要があるか,を説明し,「陸軍に数種の形式の飛行機を購入するため」,3億ドルの歳出予算を要請した.それは最低限3000機の飛行機を増強するものだった.
 議会内の孤立主義者達とのだらだらとした論争が続いたが,チェコスロバキアをヒトラーが完全併合したことが論争の膠着を破った.
 1939/4/3,議会は予算を承認.その後,議会の歳出予算委員会が供与した予算は,陸軍航空隊がB-29の設計・製作に着手するための必要経費を含んでいた.
 1939/6/30,G.W.キルナー准将(委員長),カール・スパッツ中佐,E. L. ネイデン中佐,A.J.ライオン少佐,そして,大西洋無着陸横断飛行のチャールズ・A・リンドバーク大佐から成る特別委員会は,広範な報告書を作成.これは,1944年までに進歩した航空機・兵器・装備などを入手するため,航空隊がまず着手すべき新計画の概要を説明したものだった.そしてこの勧告の一つに,VLR(最長距離爆撃機)開発が含まれていた.

 1939/9/1,ドイツはポーランドへ侵攻.
 同年11/10,アーノルド将軍は,VLR研究のために民間航空機会社と契約する事を,陸軍当局に要請.
 12/2,要請は承認.
 1940/1/29,軍が必要とする,VLRの性能の仕様書が完成し,各航空機会社に送付.
 多くの航空機会社が1ヵ月以内に入札したが,その頃,欧州での戦訓から,「多くの米軍機は,危険なくらい旧式で時代遅れである」と判明,その戦訓から各社は技術設計情報の再提出を求められる.これが4/4.

 同月,ドイツはデンマークとノルウェーを占領.
 5月中に,再提出された資料が審査され,ロッキード案とボーイング案とが競争的合格者に決定.
 このボーイング案がXB-29となる.

 同月,ドイツはオランダ・ベルギー占領し,フランスへ侵攻.
 5/16,ルーズベルト大統領は,年間5万機の軍用機の生産を求めた教書を,議会へ送付.
 ちなみに,それまでの過去35年間に米国が生産した軍用機は総計4万足らず.
 いかにアメリカがドイツを脅威と見ていたかは,8/4の,議会における新任陸軍長官,ヘンリー L. スチムソンの委員会証言からも分かる.
「我々は今,重大危機のさなかにある.空軍力を強大にするには,あまりにも時間が足りない」
 6/4,連合軍がダンケルクに追い詰められている頃,ロッキード,ボーイング両社に対し,試作契約承認.
 8/24,ボーイング社,風洞実験完了.
 9/6,XB-29,試作契約承認.
 一方,ロッキード社は戦闘機製作専念のため,VLR放棄を決定.
 陸軍では,ロッキードに代わり,第3の入札者だったコンソリデーテッドと契約.XB-32と命名される.しかしXB-32は量産に入らず,15機が実戦参加したのみだった.

 1941年5月,ワシントンからボーイング本社へ,B29,250機を購入する意向であると通告.同時に当局は同社に対し,B29生産のための治具,鋳型,備品,戦用物資を調達するよう指示.
 これを受け,同社は直ちに作業人員・生産施設拡張開始.
 1941/6/24,同社はカンザス州ウィチタにて新工場建設に着手.
 9/6,正式な発注契約調印.これについて,物資調達本部のケニス B. ウルフ准将は後日,まだ第1回の試験飛行もしていない飛行機に対する「30億ドルの大博打」とコメントしている.
 しかし,真珠湾攻撃により,B29に対する発注は,500機に急増.
 1942/2/10には,陸軍航空軍と航空機産業と戦時生産本部(WPB)などの代表者による会議で,B29を4つの工場で1600機生産する事を決定.

 1942/9/9,XB-29は滑走試験開始.続いて9/15に離陸試験.
 そして9/21,75分間の初飛行に成功する.それは,4/18のドーリットルの東京空襲から,約5ヶ月後のことだった.

 詳しくは,Carl Berger著 「B29」(サンケイ新聞社出版局,1971/3/5,)P.12-46を参照されたし.

 駆け込みセーフ.


 【質問】
 旧日本軍ってB-29の存在・性能をいつから知ってたんですか?
 知った上で絶対国防圏を設定したり,サイパン防衛を考えたりしてたんですか?

 【回答】
 B-29の存在そのものは,別に秘密にされていたわけではないので,開発当初から,アメリカの新聞には普通に載ってました.
 日本の情報機関も馬鹿ばかりではないので,中立国を経由するなどして,アメリカのマスメディアのチェックぐらいはやってます.
 したがって,日本がB-29の存在を知ったのは,「日米開戦前」です.

 B-29の生産体制については,1943年12月にはほぼ正確な数字を掴んでおり,具体的な性能についても,1944年の3月までには情報を入手しています.

 ただし,絶対国防圏の策定がなされたのは1943年の9月ですので,これの決定にB-29の性能を考慮に入れる余裕はなかったはずです.


 【質問】
 B29の技術的特徴は?

 【回答】
 (1) 10mの巨大フラップ
 要求された航空性能を実現するため,翼面30平方cmあたりの過荷重が,B17の2倍に増やされた.
 これは非常に高速の着陸速度を生み出す.
 そこでそれを抑えるため,多くの戦闘機の翼面積よりも大きいフラップが考案された.
 そうすれば,フラップを使って主翼面積と浮揚力を増し,緩速で着陸できるからである.
 こうして,細長く空気抵抗の少ない主翼が生まれた.
 そしてこれが,B29の優れた性能を生む大きな要素となった.

 (2) 航空力学的に機体を洗練させるための諸努力
 機体や翼の外板を止めるのに沈頭鋲を使ったり,繋ぎ目を重ね合わさないで溶接したり,車輪を完全引き込み式にしたりした.
 主脚は巨大な飛行機の重量を支えるため,従来のものより遥かに頑丈な支点を必要とした.
 そこで,支点となる主翼の桁は,これまでの伝統的な橋桁型の構造をやめ,蜘蛛の巣型の構造を採用した.
 それは板金の平らな横木より成る翼を用い,その剛性を強化するために,上向きに曲げた凸縁をつけた.

 (3) 搭乗員室の与圧装置の設置.
 ボーイング社では既に,世界最初の気密室を備えた商業用輸送機「ストラトライナー」を製作していた.
 が,B29では,2つの大きな爆弾倉の開閉しなければならない.
 設計技師達はこの問題を,
・前部の操縦室と,機体後部にある機関砲射手室とを気密化して気圧を正常に保つこと,
・この両室を,直径85cmの管で繋ぐこと
で解決した.この連結管は,ちょうど乗務員一人が這って通れるほどの大きさだった.

 (4) 新設計の兵装システム
 GE設計によるこのシステムは,小型電子計算機により,航続距離,高度,気温,対気速度を自動修正するものだった.
 また,射撃管制装置を備えていて,遠隔操作によって全ての銃砲を自由に発射できた.
 ただし,この導入が決定されたのは,1941年末になってからだった.B29開発が非常に進んでから後になされたため,試作機の最初の試験飛行が数ヶ月も遅れることになった.

 詳しくは,Carl Berger著 「B29」(サンケイ新聞社出版局,1971/3/5,)P.42-43を参照されたし.


 【質問】
 B29開発過程で問題は起きなかったのか?

 【回答】
 エンジンが問題だった.一時は失敗を度々重ねたので,B29の全計画をダメにする恐れもあった.

 1941年6月,陸軍航空隊は,B29のエンジンとしてライト発動機を正式採用した.
 しかしこの当時,R3350型は僅か1台しか入手できず,量産型1番機が生産の流れ作業から出始めてきたときも,このエンジンはまだ完全に開発されていなかった.

 1942年9月上旬から試作機の初期テストが開始されたが,ライト・エンジンは1時間も働かない内に不良状態になることが明らかになった.
 発動機は度々交換されたが,10月までに使用可能な発動機は,30台もなかった.

 試験飛行開始後も,エンジン・トラブルに度々見舞われた.
 例えば12/28の22回目の飛行のときには,1番エンジンが停止,飛行機は引き返した.地上の点検では,2番エンジンも故障していたことが判明.2台とも交換された.
 12/30,XB29,2号機の処女飛行では,エンジンが火を吹き,テスト飛行は中止された.
 1943/2/18,2号機の1番エンジン室に火災発生.これは消火したものの,帰還しようとしたときに,2番エンジン室も火を吹き,火は主翼に広がった.飛行機は滑走路脇の建物に衝突して爆発.全乗員11名.建物の中の19名,消防士1名が死亡した.

 上院に調査委員会が設けられた.エンジンが量産性を強調される余り,質も完成後の点検も不充分だったことが指摘されたが,その後もトラブルは続いた.
 5/29,試作3号機は配線ミスのために暴走.あやうく破壊されかけた.
 1943年2月〜1944年9月までの間に,少なくとも19機のB29の事故が,発動機の火災によるものだった.
 改修対策が当然とられたが,R-3350エンジンは,飛行機が海外に派遣されるという段階になってもまだ,「戦闘に支障なし」とはならなかったのである.

 詳しくは,Carl Berger著 「B29」(サンケイ新聞社出版局,1971/3/5,)P.43-49を参照されたし.

 もし,試作1号機や3号機の事故がもう少し重大なものになっていたなら,あるいは,その時点でB29の存在は消滅していたかもしれない…….


 【質問】
 B29による日本本土爆撃案は,いつ決定されたか?

 【回答】
 1943年8月の米英首脳のケベック会談で,アーノルド将軍により計画が提出されている.これは,B29が配備されたばかりの第58爆撃飛行団を,中国中部,できれば長沙周辺に展開する案.

 この案は,ビルマ・インド戦域の航空軍司令官,ジョージ E. ストラトマイヤー中将により修正された.
 彼は,B29の基地をカルカッタに置き,中国内の前進基地で余分な燃料を下ろして爆弾を搭載し,日本に向かわせる事を提案した.
 原案の場合,爆撃機基地に日本軍が攻撃をかけてくることが予想されたからだ.

 この改訂された計画が「マッターホーン」と名づけられ,ワシントンで承認された.

 詳しくは,Carl Berger著 「B29」(サンケイ新聞社出版局,1971/3/5,)P.56-60を参照されたし.


 【質問】
 中国からのB29による日本本土爆撃計画のため,どのような準備が行われたか?

 【回答】
 カルカッタ付近にある数ヶ所の飛行場を,B29基地にするための拡張工事.そのための,レド公路建設に従事していた陸軍建設部隊からの,数個大隊一時借用.
 中国,成都付近に3ヶ所ある飛行場,新津,彭山その他の拡張.4番目の滑走路を広漢に新設.
 将来,B29が中国の日本軍占領地区に不時着したり,搭乗員がパラシュート降下した場合の脱出や退避のための情報,地方通貨,地図,身分証明書などの入手.

 しかし,基地建設はインドでも中国でも,速度緩慢だった.

 詳しくは,Carl Berger著 「B29」(サンケイ新聞社出版局,1971/3/5,)P.70-71を参照されたし.


 【質問】
 「カンザスの電光」とは?

 【回答】
 行き詰まっていたB29の生産を促進し,4月中旬までに同機を中国・ビルマ・インド戦域に展開しようという,狂気のような活動.「カンザスの戦い」とも呼ばれる.

 B29は,「それ自体の画期的新しさに起因する」(合同航空委員会および陸軍航空軍の調査報告)生産遅延が起こっていた.それはB29生産計画を最優先扱いしても,生産速度は少しも早くならないということだった.

 1944年1月中旬までに完成したB29は97機だったが,飛行可能なものは16機だけで,残りは改修を必要とした.
 改修計画は全く大混乱を来たしていた.アーノルド将軍の言葉によると,
「組織もなければ,管理も指導もない」
という状況だった.
 サリナ基地の誰一人として,不足している部品や装備品が,いつ来るのか,本当に来るのかどうか,知らないのだった.

 このときのアーノルド将軍の激怒ぶりを見ていた航空技術勤務部隊司令部付将校,I. W. ステファンソン大佐は,後にこう書いている.
「将軍は入ってきて,
『いったいどうなってるんだ.誰がこれを監督してるんだ』
と尋ねた.
『誰もやらんのなら俺がやる!』と怒鳴った.そして,『翌朝までに,不足なものの全部のリストを作れ!,工場にそれがあるのか,いつそれが渡されるのか』」

 彼は参謀長B. E. マイヤー少将を特別計画調整官に任命,この計画の全権を委ねる.
 工場の工員は未熟練工員ばかりだったので,航空機メーカーに必死に頼んで熟練工と交換.
 部品などのメーカーは,B29に不足している備品や部品類を納入するまでは,他の一切のものを中止するよう命令された.
 そしてとうとう,4/15までに150機をカンザスから発進させることができたのである.

 詳しくは,Carl Berger著 「B29」(サンケイ新聞社出版局,1971/3/5),P.67-77を参照されたし.


 【質問】
 なぜB29爆撃機部隊は統合参謀本部直属とされたのか?

 【回答】
 B29部隊の奪い合いが起こりかけたため.

 最初にB29部隊が派遣された中国・ビルマ・インド戦域では,各級指揮官がB29部隊を自分の指揮下に起きたがった.
 シェンノート将軍は,このB29は彼の指揮下に置かれるべきであるとの書簡を,ルーズベルト大統領に直接送った.
 東南アジア地域総司令官ルイス・マウントバッテン卿は,B29を日本空襲のためだけにではなく,インド・ビルマ方面での作戦支援にも使われることを望んだ.
 南西太平洋地域では,ダグラス・マッカーサー将軍も,B29配備を望んでいた.

 そこで,混乱する指揮関係を明確にするため,新しい航空軍,第20航空軍を創設し,これを統合参謀本部直属とした.マーシャル参謀総長曰く,
「これらの新しい爆撃機の力は非常に大きいので,統合参謀本部としては,これを一つの戦域だけに使うのは経済的でないと考えた.
 そこで,これらの爆撃機は,一人の指揮官の下で,統合参謀本部の指揮下に置くことにした.
 司令官はアーノルド将軍で,彼は全世界に渡るB29の爆撃作戦を指揮する権限を持った.
 この飛行機は,海軍の特定任務部隊(タスク・フォース)が,特定の目的に向けられるのと同様に,主要な特定任務部隊として取り扱われるものである」

 詳しくは,Carl Berger著 「B29」(サンケイ新聞社出版局,1971/3/5),P.79-84を参照されたし.

 そりゃあ誰でも欲しがるわな.


 【質問】
 初期のB29の移送は,どんな経路で行われたのか?

 【回答】
 カンサス(アメリカ)〜マケラチ(モロッコ)〜カイロ(エジプト)〜カラチ(パキスタン)〜カルカッタ(インド)のコースで移送しています.
 ヨーロッパであるイギリスを経由したのは,欺瞞のための一部の部隊だけでした.

 『B29』(カール・バーガー著.サンケイ新聞社,第二次世界大戦ブックス,1971/3/5).77ページの「B29インドへ向かう」を,霞ヶ浦の住人が要約しました.

霞ヶ浦の住人 ◆g5HpHpqYK6 in 軍事板

 以下,その『B29』より引用.

-----------------------------------------------------------------------
 〔1944年〕3月下旬に,とうとう,最初のB29が完成し,第20爆撃兵団に引き渡され,インドに向けて出発した.
 それらにつづく数週間にB29はぞくぞく完成して飛び立ち,150機が4月15日までにアメリカ本土を離れた.
 カンザスからインドへの1万8500キロの飛行で,マラケチ<モロッコ>カイロ<エジプト>カラチ<パキスタン>をへてカルカッタ<インド>に着陸した.

 インドではウルフ将軍が,1944年3月30日,米英の軍関係者や報道関係者と一緒にチャックリア飛行場に集まって,第1機の到着を迎えようとしていた.
 ところが情けないことに,その機は現れなかった.
 そしてその後,2日間も姿を見せなかった.

 4月2日の午後になって,飛行場に集まったお偉方たちは,ようやく,はるかかなたに銀色のB29を認めることができた.
 操縦していたのはサンダース将軍で,陸軍のカメラマンが記念写真を撮っている間に,飛行場上空を旋回して着陸した.

 2番目の爆撃機は4月6日に到着した.
 この機は英国へ寄ってから,ここへ飛んできたのであった.
 これはこの飛行機が,差し迫っているヒトラーのヨーロッパ要塞≠ノ対する連合軍の上陸作戦に使われると,日独両軍に思いこませようとする欺瞞計画の一部として,イギリスに派遣されたのであった.
 英本土ではドワイド・D・アイゼンハワー将軍やドーリットル将軍,それに英高官が,このB29を視察し,また,高空を飛んだドイツ軍偵察機によって写真に撮られたはずである.

 5月のはじめまで,第20爆撃兵団のインド進出が続けられ,130機のB29が配置についたのであるが,この間,多くの事故が起こった.
 中でも特に重大な事故は,発動機に欠陥があったことである.
 それはB29のライト・サイクロンR3250型発動機は,インドの高気温ではオーバー・ヒーとを起こし,数機が墜落したのであった.
 直ちに冷却装置系統の改造が行われた.

 多くの困難を乗り越え,最初のB29爆撃機部隊はインドの前進基地に展開を終わった.
 1944年5月8日であった.

p.77
-----------------------------------------------------------------------

 したがって,
※「一部の部隊」
は「1機」の誤り.

written by チャールズ・リンドバーグ(うそ)


 【質問】
 B29の1個航空団当たりの機数は?

 【回答】
 180機.予備機を含む.
 以下引用.

 B29一箇戦隊の正規配備機数は15機で,そのうち5機は予備機であった.
 一箇群団〔Group〕は三箇戦隊〔Squadron〕編成であったから,予備機も含めれば一箇群団の機数は45機である.
 さらに一箇航空団は4箇群団からなっていたから,1箇航空団の正規兵力は予備機も含めてB29 180機であった.

奥住喜重著「中小都市空襲」(三省堂,1988/7/15),p.18


 【質問】
 B-29戦略爆撃機の生還率ってどれくらいですか?

 【回答】
 大戦中にB-29は延べ33.000機が出撃し,このうち戦闘で失ったのは450機あまり.
 出撃に対する損失率は1.38%となっています.

 日本空襲の場合,当初の高高度精密爆撃を行っていたころは,5〜6%台の損失が出ていました.
 特に昭和20年2月10日,群馬県の中島飛行機・大田製作所への爆撃の際には,118機出撃した中で損失は12機,この他に29機が被弾し,損失率は10%に達しました.
 しかし,2月の艦上機の来襲,更に4月に入ってのP-51の随伴によって,日本軍の防空戦闘機は有効な邀撃が行いにくくなってしまいました。
 このため損失率は大幅に低下しており,わずか1〜1.5%ほどになっています.
 特に,6月以降は日本が本土決戦を控えて迎撃機の温存策をとったため,ほとんど損害がない出撃もありました.

(名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)

 日本軍戦闘機によるB-29撃墜数は以下の通り.

月  出撃数  撃墜数  損失%

1944年
6   168    1      0.59
7   114    1      0.88
8   171    3      1.75
9   217    1      0.46
10  316    1      0.31
11  611    9      1.47
12  920    8      0.86

1945年
1   1009   13     1.29
2   1331   7      0.52
3   3013   0      0
4   3487   13     0.37
5   4562   8      0.18
6   5581   8      0.14
7   6464   0      0
8   3331   1      0.03

合計 31,347   74     0.24

(米国戦略爆撃調査団編「Japanese Air Power 日本空軍の興亡」
光人社,1996/8/30, p.74 表P)

 ただ,この表はあくまで「戦闘機による撃墜」と”米軍にみなされた”B-29の喪失であってB-29の喪失実態を把握してるわけでは無いんだよなあ。
 しかし,それを考慮しても
>戦闘喪失450機あまり(渡辺洋二「死闘の本土上空」)
と合わない気がするなー。

 このへん
”喪失集計するときに誤魔化してるんだ!米軍必死だな(藁”
っつー人もいるが,各部隊のAction Reportと喪失集計を具体的に比較したやつを見たことがない。
 第20空軍配属部隊単位でのActionReportを追っていくか,”米軍の中の人”では無い第三者による,一次資料を基にした研究が望まれる。

 なお,ヘンリー・サカイダ氏のB-29撃墜エースものが有るが,まだ翻訳されてない。


 【質問】
 B-29爆撃機は,その機銃で何機の日本陸海軍機を撃墜しているのでしょうか? けっこうな数になると思うのですが。

 【回答】
 撃墜確実679機・不確実撃墜454機・撃破763機…のようです(私の数え間違いがなければ)
 「米軍資料 日本空襲の全容(訳:小山仁示)」から拾いました。
 したがって、成都駐留部隊の戦果は含まず、マリアナ駐留部隊のみです。
 当然ながら、日本軍の記録とは大きく食い違うことは承知して下さい。
 過大/過小申請・申請漏れ・援護戦闘機隊との重複申請などもあることも念頭に置いて下さい。

 月別(特に4〜6月は旬間)の概要は以下の通り。

             撃墜  不確実撃墜  撃破
昭和19年11月     7      18     10
昭和19年12月     46      49     39
昭和20年1月     114     61     115
昭和20年2月     71      59     125
昭和20年3月     7       3      12
昭和20年4月     165     113     189
  上旬         60     42     59
  中旬         25     11     23
  下旬         80     60     107
昭和20年5月     131     82     109
  上旬         66     38     47
  中旬         34     38     46
  下旬         31      6     16
昭和20年6月     136     69     164
  上旬         108    57     142
  中旬         0      1     0
  下旬         28     11     22
昭和20年7月      2      0      0

(鷂 ◆Kr61cmWkkQ)


 【質問】
 B-29の機上レーダーは地形走査ができたのでしょうか?

 【回答】
 B-29は基本的にレーダーのみで爆撃を行っています.
 搭載したAN-APQ-13レーダーは航行用ではありましたが,爆撃照準にも使用されています.
 東京大空襲では,投弾機の2/3がレーダーのみで爆撃を行ったとか.残りの機体もレーダー情報に推測航法を加味したか,先導機にしたがって爆弾を投下したか,いずれかです.

名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE


 【質問】
 夜襲型のB-29は,通常型とどう異なっていたのか?

 【回答】
 爆撃専用に設計されたレーダー,AN-APQ-7を装備し,尾部機関砲以外の機銃を撤去して爆弾搭載量を増加させていた.同レーダーは,航行用レーダー,APQ-13の10倍の解像力があった.
 このB-29は,第315航空団に配備され,専ら「石油作戦(石油施設爆撃(6/26〜)」に用いられた.

 詳しくは,奥住喜重著「中小都市空襲」(三省堂,1988/7/15),p.48を参照されたし.


 【質問】
 博物館に展示されてるエノラゲイ(B29)はポリッシュ仕上げですが,戦場でもB29は無塗装のポリッシュ仕上げだったんですか?

 【回答】
 B-29は実戦投入されたものは無塗装が基本.
 夜間爆撃をするようになると下面を黒く塗るようになる.

 が,日本側の迎撃体制が貧弱なので,迷彩塗装の必要はないとされ,全面無塗装なのが普通になった.
 1945年の初夏にはほとんどが全面無塗装にしている.

 ただ,エノラ・ゲィ号は博物館展示用に特に気合をいれて磨いて仕上げてあり,実戦参加した機は単に無塗装でポリッシュ仕上げ,というほどには磨かれていない.


 【質問】
 「B-29の弱点は翼の付け根」というのは本当ですか?

 【回答】
 B-29に限らず,あらゆる固定翼機の主翼の付け根は,機体全体でもっとも大きな力がかかっているため,弱点と言えます.
 また,そこには燃料関係の配管が集中しており,外れてもコクピットや内側のエンジンなどに当たる可能性が高いということもあります.
 特にB-29のような大型機の場合,日本機が胴体にいくら撃ち込んでもなかなか致命傷を与えることができませんが,主翼を支える梁に20mm弾が直撃すれば,そこから一気に構造が破断,主翼脱落で撃墜できる可能性があります.
 B-29は酸素タンクが機体中央部にあるという設計上の理由もあるでしょうが,特に付根が弱かったというより,日本機が有効にダメージを与えるには,航空機の部分でもっとも弱いこの部分を狙う他なかったというほうが適切かと.


 【質問】
 B-29は補助燃料タンクは使用したのか?

 【回答】
 B-29は,爆弾倉内部に補助燃料タンクを積み込むことができたが,爆弾の搭載量を減らさないために,第2期以降は使われないことが多かった.
 第1期戦略爆撃では,燃料を余分に消費する高高度での飛行が行われたが,中小都市爆撃では比較的低い高度,平均3500mで飛行していたからである.

 詳しくは,奥住喜重著「中小都市空襲」(三省堂,1988/7/15),p.99-103を参照されたし.


 【質問】
 B-29での洋上飛行は,どのように行われたのか?

 【回答】
 電波航法と天測航法が併用されたという.
 以下引用.

 洋上の飛行には,硫黄島と沖縄から送られる電波によるロラン航法のような電波航法以外にも,B‐29の前部気密室の後方天井には天測窓があって,天測航法も行った.
 日本本土に接近してからの,AN-APQ-13レーダーによるレーダー航法のためには,日本列島沿岸の小島や屈曲した海岸線を充分に活用して,爆撃航程(爆撃コース)の始点IPに到達できるように航路が選んであった.

奥住喜重著「中小都市空襲」(三省堂,1988/7/15),p.103


 【質問】
 当時の対B29主力兵器であった飛燕や対空砲火に,本当にB29を撃墜する力があったのでしょうか? 調べてみると当時日本には800門しか対空砲が無かったとか。
 では、どうやって全長30M幅50Mもあって100機で編隊を組んで日本中を爆撃する能力のある飛行機を,300-400機も落としたのでしょうか? 飛燕の根性体当たりで撃沈したとか、神業的な戦果はよく見るのですが...それだけじゃ数百機も落とせませんよね?

 【回答】
 爆撃機迎撃は、戦闘機の性能じゃなくてシステムで落とすんです。

 高々度精密爆撃をするだけなら日本の対空砲火、戦闘機の相手ではなかったのですが、低空絨毯爆撃をするようになると被害が結構増すようになります。
 高々度でも、戦闘機の護衛が無いので、創意工夫によっては迎撃機の餌食になる場合もありましたが。
 それに、日本の高射砲部隊は一般に思われてるよりずっと優秀でした。損害の過半数は高射砲によるものです。
 また、低空絨毯爆撃、特に白昼爆撃では、迎撃機も、硫黄島陥落後に戦闘機の護衛が付くまでは結構活躍していました。
 さらには、サイパンから長躯出撃するので、損傷を与えただけでも、基地に帰り着けない場合も多々あったようです。

 あとですね、体当たり攻撃は思っているほど実行されてないらしいですよ。

 ドイツ本土防空戦と比べれば、むしろ、300-400しか落とせなかった事の方が不思議に思えるようになるよ。
 初期のシュバインフルト爆撃なんぞでは,連合軍爆撃機は20%も落とされてる。一日で60機が落とされた勘定だ。
 B-17は総出撃数291.058ソーティーに対して、損失数は4.688機だそうだ。
 ドイツ空襲にはB-29は参加していないので、単純に比較はできないがな.
 全体では対独戦で連合軍は1万4000機ほど重爆を失ってる。

(眠い人 ◆gQikaJHtf2,名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE他)


 【質問】
 B-29搭乗員に対する洋上救助活動は,どのように行われたのか?

 【回答】
 B-29帰投路に沿って,海軍の飛行艇と救難専用のB-29を飛ばせ,また,潜水艦と水上艦艇も待機させ,海面に不時着した機の搭乗員や,機から脱出して落下傘降下する搭乗員を待ち受け,救助するものだった.
 これにより,人員損失を半数近くまで押さえる事ができたという.

 詳しくは,奥住喜重著「中小都市空襲」(三省堂,1988/7/15),p.130-136を参照されたし.


 【質問】
 B−29ってサイパンじゃなしに硫黄島から飛べばよくないですか?

 【回答】
 硫黄島ってサイパンとかと比べると明らかに手狭で,滑走路が短く,B-29が離着陸出来るだけの強度を持っていない.これは拡張工事すれば何とかなるかもしれない.
 しかし,B-29のような重爆を何百機も駐機させておくスペースが無いし,積むための爆弾や燃料,整備用の予備部品を保管しておくスペースも無い.

 結論を言うと,硫黄島から飛ばす事はできるかもしれないが,運用する事はまず不可能.


 【質問】
http://ultrabigban.cocolog-nifty.com/ultra/cat2839679/
に,

その上逃げ惑う市民には超低空のB29から機銃掃射が浴びせられたのである.

という記述がありますが,B29が機銃掃射したというのは本当なんでしょうか?

 【回答】
 そこに書いてあるのは何かの誤解だと思うが,飛来してきたB-29にサーチライトを照射したら,機銃で撃ち返されたって話は結構ある.かなりの損害も出ている.大概20mm機関砲によるものらしい.
 あと日本本土東方の太平洋上で警戒中の哨戒艇で,損傷して低空飛行しているB-29を狙って撃ったら,撃ち返されて自分が沈んだ,という例が数件.

 これも何回も紹介しておるが,英軍のランカスターも爆撃を終えた後,地上銃撃を実施している.
 また,爆弾搭載量を増やすため防御火器をおろしたのはB29の一部(本土空襲参加機の30%から半分程度)にすぎない.
 何より,戦争体験者の多数(おれの一族含む)がB29の銃撃について証言しており,いくらなんでも全員が小型単発の艦載機と,当時では超大型のB29を混同するわけがない.
 さらにいうなら,B29は機雷布設任務で日本周辺で超低空飛行を日常的に行なっていた.
 B29の銃撃は紛れもない事実だよ.


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