◆航空関連
<アジア・太平洋方面 目次
<第2次世界大戦FAQ

Garber Facility Restoration(スミソニアン博物館付属のレストア工場,英語)
ja2iko & B29 Museum(B29概史 &細部写真)
高野文夫の飛行機図面集(零戦、紫電、4式戦の3Dコックピット等)
船津航空計器博物館(データ総合)
◆◆総記
【質問】
旧軍ではパイロットはどんなふうに養成されたんですか?
【回答】
1942年7月22日〜43年5月31日まで行われた航空士官学校56期教育では,130時間の飛行時間で基本操縦
を行っていましたが,57期からは初練,中練課程を飛ばして,高練のみの6ヶ月60時間に短縮されました.
その内訳は,単独飛行に至る前までに,25時間余,単独飛行,特殊飛行,編隊飛行などで,86時間余,高練
課程が43時間余だったそうです.
戦闘機課程では,期間6ヶ月,飛行時間は120時間余.
戦闘機操縦士として,曲がりなりにも役に立つのは,初等練習から1年9ヶ月,飛行時間340時間となります.
旧軍関係者の指摘では,
・米国に比べ,本格的計器飛行が出来る練習機が無く,リンクトレーナーも普及していなかったこと,
・教官陣の計器飛行能力にも問題があったこと.練習機部隊の教官は,大抵が第一線部隊を落第した操縦士の行き先という考えでした.
・計器飛行に関しては,一部練習機に設備はありましたが,
人工水準器,ジャイロコンパス,無線の無い機体での費用対効果は低いと言わざるを得ない.
・訓練プロシージャーがきちんと決められておらず,各人に任されている.
・戦闘機の場合,編隊空戦が後に取り入れられますが,97戦でやるのは余り意味がない.
などを指摘されています.
海軍の場合は,霞ヶ浦で6ヶ月の期間,基本150時間で,単独飛行になるのは6時間程度から.
戦闘機教育の場合は,その後大分に移動して,6ヶ月,150時間でした.
海軍は例えば,失速に入れるなとは繰り返し教え込まれたのですが,失速そのものの教育は受けません.
戦前,九六式艦戦の最初期まで失速を訓練で行っていたのですが,その後,中止になります.
その理由は当時,まだ失速(低翼単葉機)からの明確な回復方法がなかったためでした.
(詳しくは光人社からでている佐官級飛行隊長の方の本をみていただければよいかと)
ちなみに米国式の場合は,「頭ではなく身体で覚えよ」と言う方式で,失速のあらゆる状況を実際に体験させ,回復法を練習すると言った実用本位の考え方です.
また,海軍と米国式でも計器飛行について,旧海軍の関係者は,米国の計器飛行は水平儀を中心としてあらゆる飛行計器を使う「フル・パネル」式に対し,旧海軍のそれは,旋回計の針と玉,磁気コンパスのみを使う「パーシャル・パネル」式で,前者は,チェックする契機の数は多い反面,スキャニングさえきちんとすれば,機の姿勢変化を確実に読み取ることが出来る,万人向き,
後者は,計器の数は少ない代わりに,機の傾きなどが判らず,機位を失する可能性が高いと言うものでした.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2他)
93式中間練習機(通称;赤トンボ)

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【質問】
予科練習生には何歳から入隊できたのですか?
【回答】
甲種飛行予科練習生の場合は,16歳で入隊し,2年半の教育修了後上等飛行兵曹,更に練習飛行隊撰修学生として1年教育すると,23歳で少尉になることが予定されています.
学歴的には中学校3年または4年修了程度で採用されます.
但し,航空機搭乗員の払底から,1943年に15歳,1944年には中学校2年修了程度まで下がりました.
もう一つ,予科練習生には,従来からあった少年飛行兵の流れを汲む乙種飛行予科練習生があります.
こちらは,高等小学校卒業程度,年齢的には15歳で採用し,二等飛行兵から進んで19歳で二等飛行兵曹,25歳で飛行兵曹長,29歳で少尉任官という流れになります.
なお1941年より,14歳まで門戸が広げられています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2
【質問】
現代のアメリカ海軍空母艦載機は航空隊毎に独立(海兵隊,海軍所属)しているそうですが,旧日本海軍もそうだったのでしょうか?
【回答】
当初,空母艦載機は「空母の装備品」だったので,それぞれの空母にそれぞれの航空隊が設定されていました.
たとえば珊瑚海海戦で翔鶴が大破し,瑞鶴に緊急着艦した翔鶴航空隊のパイロットがそのまま瑞鶴に居座ることは,辞令が出ない限り不可能で,翔鶴の修理完了まで岩国で訓練ながら待つか,飛鷹・隼鷹送りの辞令を受けるかです.
また,主力の下士官パイロットは所属鎮守府に在籍するため,横須賀所管の赤城の場合,蒼龍(横須賀所管)へ転属することはあって,加賀(佐世保所管)へは行けません.
空母がひとたび轟沈すれば,死なばもろとも…なのが空母航空隊員です.
横須賀鎮守府は霞ヶ浦,呉鎮守府は岩国,佐世保鎮守府は大村,舞鶴鎮守府は美保に慣熟訓練航空隊があり,この中から,陸上航空隊行き,または空母航空隊要員を選抜することになり,不足したパイロットの補充員,新規就役空母の初代スタッフとして引き抜かれることになります.
もっとも,基地航空隊にも宇佐空や佐伯空みたいな艦載機乗りの名手がいる部隊もあり,小沢さん直伝のアウトレンジ戦法を伝授された元基地航空隊の艦載機乗りの選抜隊が,大鳳に搭載されました.
(鷂 ◆Kr61cmWkkQ)
その後,マリアナ沖海戦時には,各航空戦隊に特設航空隊が一個付属する編成に改められ,「空母ごとに独立」では無くなっていた.
第一航空戦隊(大鳳,瑞鶴,翔鶴):第六〇一海軍航空隊(艦戦81,艦爆81,艦攻72,艦偵9)
第二航空戦隊(隼鷹,飛鷹,龍鳳):第六五二海軍航空隊(艦戦81,艦爆36,艦攻15)
第三航空戦隊(瑞鳳,千歳,千代田):第六五三海軍航空隊(艦戦54,艦攻9)
(この他,マリアナ沖海戦には参加していないが,航空戦艦日向,伊勢の第四航空戦隊には,彗星と瑞雲の第六五四海軍航空隊が付属)
マリアナでボロ負けした後,さらに「特設飛行隊」制度が導入され,各航空隊に,艦戦,艦爆,艦攻の飛行隊(定数は48機)が付属する方式になった.
(ちなみに,二航戦と六五二空は解隊)
ただ,再建途上の空母航空隊が台湾沖航空戦に投入されてすり潰されちゃったので,フィリピン沖海戦時には,基地に残っていた機体と搭乗員を掻き集め,瑞鶴には六〇一空,瑞鳳,千歳,千代田には六五三空の残存飛行隊が載せられた(伊勢,日向は搭載機ゼロ).
その結果は周知の通り.壊滅して,六五三空&三航戦も解隊.
その後,第六五四航空隊は瑞雲だけの部隊となって沖縄戦に参加.
(かの「芙蓉部隊」と並び,特攻をやらなかった数少ない航空隊)
第六〇一航空隊は,再び一航戦の空母航空隊として再建が始まったが,1945年2月に一航戦が廃止され,陸上基地航空隊となった.
同隊は,関東をベースに作戦を行い,沖縄戦にも参加,
その後,本土決戦準備の為,再び関東に戻って敗戦を迎えた.
したがって,いちおう,敗戦の日まで「空母航空隊」は有ったコトになる.
六〇一空に関しては,同航空隊のゼロ戦エース,白浜芳次郎飛行曹長の「最後の零戦」という著書が有り,マリアナ沖海戦から敗戦までの同氏の行動が書かれている.
(ちなみに同氏は,ベテランの水上偵察機乗りだったが,1943年に戦闘機乗りに転身した人)
【質問】
奈良県の香芝市にある航空総軍戦闘指令所であったと思われる地下壕につ
いて調べています.なにか参考になる資料などありましたら,お教えください.
【回答】
航空総軍の地下司令部は,奈良県の「屯鶴峯(どんずるほう)」に昭和20年
の春から建設が進められていました.
「屯鶴峰(どんずるほう)」は,奈良県香芝市の二上山の北にあり,標高70m
程の白色の小高い峰々がひろがる景勝地で,約1500万年前の二上山の火山活動時に噴出した火砕流が堆積し,後に風化・侵食作用を受けて現在のような特異
な景観となったそうですが,天然記念物となっています.
「屯鶴峰」付近にはさまざまな軍事施設があり,屯鶴峰地下壕はこれらの施設
を統括する拠点として建設工事が進められていましたが,完成する前に終戦と
なりました.
この二上山周辺には,この地下壕だけではなくさまざまな軍事施設が存在して
いたようです.高射砲台,機関銃座,燃料貯蔵用地下壕,さらに大阪府に目を向けると,盾津飛行場,大正(八尾)飛行場,羽曳野市の地下軍事工場.
いわば,この周辺が陸軍航空部隊・航空総軍の一大拠点となろうとしていたよ
うに思えます.
そして,屯鶴峯地下壕はこれらの施設を統括する拠点として建設されていたのです.
第一航空軍司令官の李中将も,「河辺正三総軍指令官」に随行する予定でしたが,「地下司令部」が完成する前に終戦となりました.
防衛庁防衛研究所の図書館には,次のような文書が残されています.
「師作命丙第65号航空総軍命令(昭和20年6月14日)
航空総軍戦闘司令所を牡丹洞(屯鶴峰)に推進し航空総軍指定優先通信網を別
紙(添付)のとおり切り換えるものとす.」
(注)「航空総軍指定有線通信網」となっていますが,「優先」を「有線」と
書き違えたものと思われます.
【質問】
901空とは?
【回答】
第901海軍航空隊は1943/11/15,海上護衛総隊が新編された際,その傘下に作られた飛行艇対潜部隊.館山で開隊.
翌年,舞鶴に本部移転.
『最後の飛行艇』(日辻常雄著,1994.9,朝日ソノラマ文庫……合掌)によれば,東港,指宿を主な基地とし,使用機材は第一線を退いた97式飛行艇.96陸攻,水偵など.
1944/7,航空機用磁気探知機(3式1号探知機,通称『磁探』)を装備した96陸攻,東海などをもって「特別掃蕩隊」を編成.
これが潜水艦狩りに威力を発揮する.
1945/1にはマニラから第1航空艦隊が台湾へ撤収してきたので,その254空,953空,954空を統合.
同年8/1には朝鮮北部・元山に同居基地を設けたが,ソ連軍侵攻によって抑留され,180名余がシベリアへ.
抑留地での死者数は,今も把握されていないという.
悲惨.
東京湾にて撃墜寸前の九七式飛行艇

【質問】
去年〔2005年〕なくなられた建築家清家清さんの研究をしています.
神町飛行隊について教えてください.
初心者サスケ
【回答】
神町飛行隊の施設は1943年に設置が決定し,1944年2月から滑走路工事が開始され,海軍施設部と関西からの徴用工,地域住民,学生によって,8月に600mの滑走路が完成.
更に格納庫,兵舎,火薬・燃料貯蔵用の隧道,防空壕が建設され,12月に予科練教育と秋水搭乗員訓練のための神町海軍航空隊が開隊しています.
防空壕については,戦後米軍の進駐の際に火薬,燃料置き場に使用しており,その部分は現存していますが,他の部分は素堀のため土砂の崩落で埋もれています.
なお,これに関する資料としては,東根市神町歴史の会編「戦後五十五年を考える 神町空襲と若木山防空壕」にあるかもしれません.
(防空壕の平面図は少なくともありました)
【質問】
第2次大戦中のタイ軍航空部隊に,実戦経験はあるのでしょうか?
たしかビシー・フランスとタイとの間で紛争があったはずですが.
【回答】
1937年にシャム陸軍航空師団から離れ,独り立ちした王立シャム空軍ですが,1941年,タイとフランス領インドシナとの紛争が発生すると,これに出動します.
このときタイ空軍は,6機のマーチンModel139と4機のHawk-75Nをもってハノイを空襲.
フランス側はMS-406,4機でこれを迎撃しました.
英語版Wikiがわりと詳しいので.ここを見ると,損害は,フランス側は1機のファルマンF-221と2機のMS-406を地上で喪失したことを認めていますが,タイ側は5機の撃墜と17機の地上撃破を主張する一方,3機を空中戦で,5〜10機を地上で喪失した,と主張しているとされてます.
ただ,フランス側の損害は実際には30%に達していたとも書かれていますが.
また,フランス側はタイ空軍のパイロットについて,特に急降下爆撃について優秀と評価しているようですね.
その他,フランス側のポテーズ542やファルマン221のタイ側に対する夜間爆撃やタイの97軽爆がフランスの戦闘機とドッグファイトが生起するなど,
空中戦がそれなりに発生しています
なおタイ空軍は,マレー半島侵攻目的で中立侵犯してきた日本軍とも空戦をやっています.
さらに
「War Birds」:単葉機の時代
によれば,太平洋戦争後期にはタイ領内に飛来するアメリカ陸軍のP-51やB-29を迎撃しているそうです.
迎撃機は日本製の97式戦闘機や隼…….
それでもB-29を1機撃墜しているらしいとか.
軍事板
加筆修正部分:青文字
ポテーズ540
ポテーズ542は,540ではイスパノスイザ12Xirs(690HP×2)だったエンジンを,
ロレーヌ・ベトレル(720HP)に換えたもの

タイ空軍の,「象のマーク」の松本引っ越……ならぬ,「象のマーク」の隼(模型)

◆◆装備
【質問】
日本の空港整備はどのように始まったのか?
【回答】
明治末から大正初期に掛けては,未だ航空機も黎明期で,飛行場についての法律上の規定はありませんでしたので,一定の広さを持つ平地であれば,何処でも離着陸をする事が出来ました.
また,滑走路についても,何も直線である必要はなく,円形であろうが曲線であろうが,平滑に整備した場所さえあれば,風向きや行先に応じて自由に離発着出来た訳です.
しかし,民間航空輸送が実用化された際,空港の整備が問題になりました.
1927年6月,航空法が施行され,第5章に「飛行場」が規定されます.
これに基づき,逓信大臣の許可権限(意外に内務大臣ではない)と必要書類,経営者の義務が定められ,又,第4章では飛行場の隣接地に障害物がある場合は,標識の整備が謳われました.
1937年になると,更に離発着時の安全を期す為,飛行場に隣接して特別地域を設定し,規制が様々に為される事になります.
当時,空港の種類として4形態が考えられていました.
1つ目は陸地にあって陸上飛行機と水陸両用機の運用を図る「陸上航空港」,
2つ目は水面を離発着の場所とし,水上飛行機,飛行艇と水陸両用機の運用を図る「水上航空港」,
3つ目は海の中央に人工のプラットフォームを構築する「洋上航空港」,
そして,4つ目が都市の高層建築物の屋上に連続して平坦地を造り,飛行場にしようという「高架航空港」という発想で,今のヘリポートに通じる様なものです.
「高架航空港」の案件としては,1933年秋に国鉄名古屋駅の改良工事で提案されたものがあり,これは10面のプラットフォームが出来るので,この屋上に出来るこの幅員200m,長さ200mの部分を広大な板で覆い,平地同様の飛行場を設け,旅客機の発着場にしてはどうかと言うものだったりします.
駅から至便という利点があり,ちょっと見てみたい気もしますが.
実際に民間航空輸送で用いられたのが,「陸上航空港」「水上航空港」の2形態です.
当初は,陸上機の輸送力が小さく,飛行艇が用いられていたので,「水上航空港」も重視されました.
初めて有償の民間航空輸送が実現したのは,大阪と四国の間で,大阪側の発着場は堺の大浜海岸でした.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/04/03 21:53
【質問】
戦前の大阪における飛行場拡張の歴史について教えられたし.
【回答】
1927年,航空法の施行と同時に,逓信省は民間定期航空輸送を開始する構想を打ち出し,東京と大阪,福岡に民間飛行場を建設して,東京〜大連,大阪〜上海の国際航空路を開設することにしました.
東京は羽田に飛行場が,福岡は名島に水上航空港が造られ,大阪には1929年4月1日,木津川尻の船町に用地を確保し,東西に720m,南北に400mの滑走区域を持つ大阪飛行場が完成しました.
しかし,立地条件は都心から近いのですが,市街地側からは木津川を渡る橋梁が無く,渡船を利用する必要がありました.
文明の利器の最先端を行く飛行機に乗るのに,渡船を利用するのは….
また河口部にある為,気温の変化によって霧が発生する日が多く,加えて「煙都」と呼ばれた大阪です.
周辺に工場や事業所が増えた為,煙突からの煤煙で視界が更に悪くなりました.
夜間の離発着用に照明が準備されていましたが,安全の確保が課題となります.
更に縦割り行政の弊害がありました.
港湾を整備する部局では沖合に設ける予定の防波堤を,木津川右岸から左岸に変更する事にしました.
つまり,この防波堤が出来上がると,空港近辺の水域,つまり飛行艇や水上機の滑水面は港湾域に取り囲まれ,内港となってしまいます.
大小様々の船舶が行き交う港内で,水上機は衝突の危険を避けつつ離発着するか,港湾の外にわざわざ滑水して出て行ってから離水するしかありません.
こうなると,航空機としての利便性が損なわれます.
更にまた,航空機の大型化や性能向上で,現在の滑走路では対応出来なくなる時期が近い将来やってくるのですが,現行の大阪飛行場では,とても拡張する様な余地が無く,国際航空港として,相応しいものではなくなりつつありました.
其処で所轄の逓信省は,大阪飛行場の移転を検討し始めます.
大阪市はその意を汲み,1931年9月5日,大和川尻地先の海面91.5万平方メートルを埋立て,其処に新空港を建設することに決定し,10年の工期と500万円の工費が必要という見積りを弾き出します.
1933年7月5日,埋立事業の起工式が行われ,工事が開始されました.
ところが,この新空港は,大阪からは確かに利便性が良いが,京都や神戸からは交通の便が悪い.
だから阪神間に国際飛行場を設けるべきである,と主張した人々が出て来ました.
彼らの登場で,大阪の新空港設置場所は迷走を始める事になります.
さて,新飛行場を誘致する為に立ち上がったのは,神戸財界の巨頭である川西清兵衛でした.
彼は大阪と神戸の双方から交通の利便性があり,付近に障害物もなく地質,排水に問題のない場所として,武庫郡住吉川両岸の埋め立て地,或いは武庫川尻にある彼の会社川西飛行機製作所の対岸埋め立て地を推しました.
何の事は無い,我田引鉄ならぬ我田引飛行場だった訳で….
と言うのも,1933年9月の事,当時金融恐慌で経営難に喘いでいた橋本汽船が鳴尾浜に所有していた土地9万坪を,債権者の山口銀行が競売に掛けました.
で,これを川西機械製作所(川西飛行機製作所の前身)が取得して,此処に飛行場を建設するつもりだったのです.
ところが,橋本汽船が山口銀行に負っていた97万円と言う巨額の債務を,阪神電鉄の支援を受け,完済する事が出来,競売に掛けられていた土地を取り戻す事に成功しました.
阪神電鉄は,その土地に2,000戸の住宅を建設し,一大近郊住宅地にして売り出す事になります.
結局,川西清兵衛が夢見た飛行場は立ち消えとなり,リセットを余儀なくされました.
其処に降って湧いたのが新大阪飛行場の計画.
川西清兵衛としては,自社工場の発展の為には是が非でも鳴尾近郊に国際飛行場を誘致しようと,大阪市が大和川尻を埋立て開始したと同時に,計画をぶち上げた訳です.
大阪市は当然,この動きに対抗し,事業の完成年度を1937年新春と前倒しし,市会に建設予算を提案し,議決を得ました.
神戸実業協会会頭でもある川西清兵衛は,大阪の経済界に連携を持ちかけますが,大阪商工会議所は川上胤三を東京に派遣し,商工省や逓信省の意向を探る事になりました.
それに依れば,逓信省による大阪市の国際飛行場指定は「契約」ではなく,「賛意」であると言う見解であり,大和川尻はガスの発生が多い,翻って鳴尾も山が近くて気流が良いと言えないと言う回答であり,逓信省としては完成の早い方を国際飛行場とすると言う方針でした.
これを受け,更に大阪市は三度目の見直しを行い,竣工時期を1935年春完了にする予算措置を行いました.
当初,大阪商工会議所は,神戸案を支持すると見られていましたが,逓信省からの情報を得て,大和川尻案を推す事に決め,のみならず,神戸案に対し猛烈な反対運動を仕掛けてきます.
こうして,神戸実業協会と大阪商工会議所の対立が顕在化しましたが,実行という面から見ると,既に工事に着手している大阪市が頗る優位に立ちました.
ところが,官僚を信じて馬鹿を見るのは,どの時代も同じです.
大阪市の瀧山助役が上京し,逓信省の片岡航空局長を訪れ,工事の竣工を3カ年前倒しした事,その為に内務省に350万円の起債を申請している事を報告しましたが,此処で大阪市の計画は見事に引っ繰り返されます.
元々,大阪市の計画では,空港予定地は8万坪としていました.
しかし逓信省としては,8万坪は国際飛行場としては狭隘に過ぎ,木津川尻の大阪飛行場の移転先としては認めるが,国際飛行場としては計画を見直さなければ,不充分であると言い出したのです.
一方,工期では不利な神戸側でしたが,民間飛行士達は大和川尻案に反対を唱えました.
最初に声を上げたのが日本航空輸送会社で,操縦士達と検討した結果,神戸案を支持する見解を出しました.
こうして,操縦士,航空会社,経済界,官民挙げて大論争が起こっていた最中の1934年1月6日午後,木津川飛行場で試験飛行を行っていた日本航空輸送の夜間郵便機が,近傍の煙突に激突して大破,操縦士は重傷を負うと言う事故が起きます.
これにより,陸軍委託生出身の操縦士達の団体である交星会,日本航空輸送の操縦士達の団体である航友会も相次いで大和川尻案に反対を表明します.
彼らによると,木津川の飛行場に着陸するのは,「擂鉢の底に着陸する様なもの」で,「周囲の工場の煙突は危険」,「硫酸工場の排ガスは機体の金属部を腐食させ」,「セメント工場の細粉は煤煙と共に煙霧の原因となって」危険極まりない,としていました.
これは少し離れた大和川尻に移転した所で,改善される訳がない.
こうして操縦士団体内部での議論は沸騰し,操縦士の代表者が逓信省の片岡航空局長を訪問し,彼は,
「大阪市が飛行場を持つ事は結構だが,それは都市飛行場としての話で,国際飛行場を大和川尻に造る事についての諒解とか言質を与えた事は絶対にない」
と言う返答を得ます.
この返答に対し,神戸実業協会は意気軒昂となり,大阪市側は反論し,これは既に「内定」を得ていると主張します.
逓信省内部も混乱があった様で,この阪神間の争いを傍観せざるを得ませんでした.
こうした中,尼崎市長,西宮市長,大庄村長,鳴尾村長は甲子園ホテルで会合を持ち,鳴尾から武庫川を挟んだ対岸にある大庄村が候補地として名乗りを上げ,更に混沌としてきました.
更に,大阪市側に不幸が重なる事になります.
大阪市,神戸商業会議所,阪神間市町村連合の三つ巴の争いになっていた国際飛行場誘致.
当初は,大阪市の大和川尻案が優勢だったのですが,操縦士や民間航空会社の反対に遭い,神戸商業会議所の鳴尾案が操縦士,民間航空会社から支持されます.
しかし,双方引かないでいる内に,大庄村が誘致に名乗りを上げたりして,混沌として来ました.
こうした中,1月6日の試験飛行中の煙突激突事故からの余燼が燻っている,1934年1月31日,夜間飛行中の鶴岡貞一飛行士が,木津川飛行場近くで煙突に激突して機体が海中に沈没,彼は命を失いました.
当時,午後8時までは霧がなかったのに,其の後,突然空港周辺が濃霧に閉ざされた事が判明しました.
こうした場合の措置としては,亀山の信号所に連絡し,飛行機が上空を通過する際に,明野への引き返しを指示しますが,既に亀山の信号所を過ぎた後で,全く余裕がありませんでした.
飛行場では,焚火を燃やし,サイレンを鳴らし,地上では「ガスの為着陸不適当」と言う意味の危険信号を明滅させ,更に投光器3基を点滅させて,上空に光を投げかけました.
地上員は緊急呼集の上,緊急事態に備えましたが,鶴岡機は2,3回低空飛行をした後,姿を消したのです.
先に厳重な抗議を行った日本航空輸送の飛行士で組織する航友会は,大阪飛行場の夜間飛行を拒否し,交星会もこれに和します.
大阪に到着する時間帯を早朝とするなどの案もありましたが,結局は午後5時に大阪着となる様にダイヤを組み替える事となります.
折角,航空灯台を設置して,羽田〜大阪間の夜間定期飛行を開始したばかりだったのに,真の夜間便は片道しか実現しなくなりました.
逓信省は,世論の批判が大きくなっていたので,移転問題だけでなく,夜間飛行時の安全確保や不時着場の設置など,対応に追われます.
更に2月16〜18日にかけ,更に大和川尻の飛行場設置場所の調査を行いましたが,調査委員会の団長格であった田中館愛橘博士は,
「大阪飛行場は全く以てお話にならぬ程度で,飛行士諸君が良くあれで飛んでいると思う」
と酷評し,大和川尻は飛行場として不適格と言う結論を下しました.
当時の大阪市長である関一は,大和川尻案以外の案を検討するのは難しいとして,逓信大臣との直談判も行いますが埒が開かず,6月に逓信省の側から,
「国際飛行場は阪神間へは移転しない」
「その代り,大阪市かその近郊に出来うる限り煙霧などの障碍少ない場所を提示しろ」
と言う,飴と鞭の提案が為される事になりました.
大阪市としてはこれは飲めず,逓信省は,第二大阪飛行場を新設する地区を模索する事になりました.
1936年,漸くその候補地として,兵庫県川辺郡神津村,大阪府池田町,大阪府豊中市に跨る地域に建設する事が決定し,大阪市に代わって兵庫県が用地買収と整備を逓信省から委託される事になりました.
これが現在の伊丹空港です.
今は地方空港への格下げが取り沙汰されていますが,その発祥時点でも,そもそも,木津川尻の大阪飛行場の移転地はあくまでも大和川尻であり,伊丹のそれは,第二飛行場と言う位置づけだったりします.
途中,阪神大風水害の被害などもあって工事は難航しましたが,1939年1月17日に大阪第二飛行場として開業する事になりました.
大阪第二飛行場は,木津川尻の大阪飛行場から,「陸上航空港」の役割だけを移譲し,木津川尻の大阪飛行場は,水上機専用空港となります.
謂わば,庇を貸して母屋を取られる状態だったり.
この大阪第二飛行場には2本の滑走路が設けられ,夜間照明設備を備えた近代的な空港でした.
しかし,既に当時としても計画時点でも大型と言われていたDC-3から,更に大型の四発旅客機が出現していた時代.
大阪第二飛行場は開業当初から既に手狭になっていました.
この為,国際便は羽田から大阪を経由せずに福岡へ直行する始末でした.
其処で,更に飛行場の拡張が進められ,此処が国際空港としての機能を担う事になり,大和川尻の飛行場は完全に梯子を外されてしまいました.
同時に,川西清兵衛の野望である,鳴尾飛行場も結果的に実現しなかったので,喧嘩両成敗的ではありますが….
大和川尻の飛行場予定地も,第二飛行場と同じく,風水害の被害に遭い,当初完成が1935年だったのが大幅に遅れ,予定地の埋立が完了したのは1939年の事でした.
既に,航空機大型化の波からは完全に取り残され,今更国際飛行場として使う事も出来ず,民間航空輸送の主体は殆どが陸上機の時代となり,この空港が開業したとしても,一部水上機の発着と,パイロットの訓練飛行が行えるだけであろうなどと揶揄されました.
大和川尻の事業断念は,1942年5月29日.
大阪市が描いた餅は見事に画餅に帰してしまいました.
しかし,埋立地を造ると,其処で博覧会や五輪を開催したがる東京市,東京都,其処に巨大な建造物を建設したがる大阪市,都市のDNAって,意外に連綿と続いているのかも知れませんねぇ.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/04/03 21:53
〜2008/04/05 23:02
◆◆◆攻撃関連
【質問】
日本に「フリッツX」のような誘導爆弾は存在したのでしょうか?
また,それは実用可能な性能を持っていたのでしょうか?
【回答】
大戦末期陸海軍ではいくつかの誘導弾の開発が行われていた。
B29を撃墜することを目的とし、地上から敵機に照射されたレーダービームを感知し自ら進路を修正しながら飛ぶ地対空誘導弾「奮竜」
飛行機から投下され、赤外線感知機で進路を修正して海上の熱源(敵艦)に向かって無動力で落下する誘導弾ケ(○にケと書く)
飛行機から発射され、ロケット推進で母機の無線誘導で敵艦に突入する空対地誘導弾三菱イ号一型甲および川崎イ号一型乙。
イ号一型甲はジャイロ安定装置や搭載無線機器の調整が難しく,満足な結果は得られなかった。
イ号一型乙は実用可能の評価が下されているけど、ドイツのフリッツに比べると、見劣りする.
なお,このイ号一型乙は,熱海沖で行われた試験中に誘導不能となり、よりによって温泉旅館の女湯に突入するという事故をおこした。
このためエロ爆弾などというあだ名がついたとも。
そして,いずれも、
奮竜は実用型の発射試験前日に終戦,
イ号は戦局の悪化で生産中止,
などの事情で、実用化されたものは存在しなかった。
なお,誘導弾ケの開発には,当時,中島飛行機設計室にいた糸川英夫も関わっている。
軍事板
ちなみに,永井荷風の日記から,1944年12月6日の条
「終日細雪執筆.午後警報発令ありたるもB29一機帝都上空を東南へ通過せるのみにて直ちに解除となる.
夕刻蒸気療法に行く,
風説に依れば,神田は美土代町より鎌倉河岸まで焼け抜けたる由なり,
本日夕刻より雨となる,
昨日の熱海火事は,玉の井旅館の由にて何か飛行機が落ちたのだ,との噂専らなり」
…エロ爆弾の話ですね.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi支隊
【質問】
ケ号吸着爆弾
イ号一型甲・乙
を,それぞれ試験した結果をあちこちのWebサイトで見かけますが,試験成績良好とか最悪とかてんでバラバラです.
有名なエロ爆弾のエピソードについても,サイトごとに該当する誘導弾がまったく異なる始末です.
いいかげんな孫引き・曾孫引きの末に,こんな無茶苦茶になっているんでしょうが,それぞれの実際の成績はどうだったのでしょうか?
【回答】
ケ号については資料がないので判らないですが,イ号一型甲無線誘導弾,一型乙無線誘導弾は,航空技術研究所大森技術中佐の担当で,機体を甲型は三菱,乙型は川崎が担当し,ロケット動力は三菱担当となっていました.
甲型は四式重爆撃機を母機とし,弾頭に海軍用800kg桜弾用弾頭搭載の大型で,四式重爆撃機の胴体下に懸吊し,目標から約11km離れた高度700〜900mより投下,0.5秒後に安定装置作動,1.5秒後にロケットを点火,加速し,母機は目標4km手前まで追尾しながら無線操縦して目標に命中させると言うコンセプトの兵器でした.
この開発担当主務者は,四式重爆撃機の小沢久乃丞技師で,1944年8月試作開始,10月に一号機,11月に試作10機を製造し,以後は日本車輌で数機を製造しました.
この試作機や生産機を用いて投下試験を行いましたが,ジャイロ安定装置,操舵装置に調整項目が多く,実際の使用に至らず,しかも,米軍との戦闘の戦訓から,敵機動部隊の4kmを敵戦闘機の攻撃を回避しつつ誘導するなどど言う芸当は生還が不可能であると言う結論に至り,敗戦に至る前に実験研究は打ち切られています.
乙型は300kgタ弾を弾頭にした小型版で,九九式双発軽爆撃機,キ−102を母機にしています.
発進と誘導は甲型と同じ方式です.
こちらは,北野純技師を開発担当主務者に,陸軍航空技術研究所の黒田技師(キ93の設計者)の応援を得て,7月設計に着手,10月に滑空試験用原型機を完成し,以後滑空型と動力型の増加試作機30機を製造し,11月から茨城県阿字ヶ浦海岸,次いで神奈川県真鶴海岸で投下試験を繰り返し,横安定不足その他の対策が実施された結果,実用可能な線までに至り,予想命中率は敵戦艦,空母に対して75%となりました.
この間,1945年2月に電波高度計を取り付けて舵面と連動して一定高度(最終状態で7m)を維持する試験を実施中,網代上空から真鶴海岸に向けて発射した一発が,無線操縦装置故障によって,伊豆山にある観測陣の目の前で方向を変え,熱海市にの玉の井旅館に突入して,女中と旅客を殺傷し,旅館を全焼させる事故を起こしています.
以後,試験は滋賀県琵琶湖に移され,白石を目標として7月まで行われました.
生産は川崎の明石工場で6月まで行われましたが,6月下旬から7月にかけての明石工場を目標とした空襲で工場が壊滅し,生産は中止されました.
但し,生産中止については,甲型と同じく,母機が輪形陣内4kmまで突入し,生還することは不可能であること,また,最終突入速度が550km/hと零戦並みで,容易に撃墜される可能性があったことが上げられています.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2)
【質問】
風船爆弾とは?
【回答】
爆弾を搭載した風船をジェット気流に乗せてアメリカ本土まで飛ばし,爆撃しようとした兵器.
以下,抜粋要約.
戦前の研究で,強いジェット気流が西に向かって吹くことがわかっていたので,これに乗せてアメリカ西海岸に向けて飛ばそうという爆弾.50〜60時間かかって西海岸に到達する計算だった.
正式呼称は「富号試験」だが,機密保持目的で「ふ号作戦」という秘匿名で呼ばれた.
開発担当は,東京郊外,登戸にあった第9陸軍技術研究所.ここは通例「登戸」「9研」と呼ばれた.
この爆弾で,太平洋岸に山火事を発生させようというものだが,アメリカとカナダにおける人心撹乱という狙いも秘められていた.
「効果はあまりなかったが,着想は実に素晴らしい」
という表現が,アメリカ側の文献に見えている.
(吉田一彦〔第2次大戦情報戦史家〕 from 「疫病最終戦争」,
ビジネス社,2001/12/20,p.61,)
尚、風船爆弾は非常に巧妙な制御装置を用いています。これは、アメリカ人も舌を巻きました。
実 質、テストが行なえないにも関わらず、日本からアメリカ本土まで正確に風船を飛ばしたこの制御装置の成功は、日本の気象学のレベルの高さを表しているとおもいます。)
また,コンニャク和紙製風船爆弾はネバダ砂漠のど真ん中のプルトニウム製造用原子力のある秘密研究所への送電線を切断し、1日程度停電にして機能停止させたそうな。
ある意味,すごい兵器である。

【質問】
米軍の風船爆弾対策は?
【回答】
米軍は風船爆弾が細菌作戦に利用されることを恐れ,多数の戦闘機パイロットを迎撃要員として米国国内に配置せねばならなかった.
以下,抜粋要約.
アメリカは,日本が細菌爆弾を完成させている事を察知していたため,この風船爆弾が細菌作戦の一環として利用されることに恐怖した.
そこで発動されたのが稲妻作戦(Lightening Project)である.
公衆衛生関係者に通達が出され,人間・動物・植物に不自然な病気の発生があった場合,即刻報告することが求められた.
もし病気の発生が見られた場合,それに対処するための部隊編成も行われた.
また,厳重な報道管制が敷かれ,情報がマスコミで報じられることもなかった.パニック発生を極度に恐れたためである.
他に,沖縄作戦に向けて訓練中だった戦闘機部隊が,数中隊ほど風船爆弾迎撃任務に転用された.
また,多数の陸海軍・海兵隊パイロットが,いつ来るとも知れぬ風船爆弾の迎撃要員に充当され,国内に留まった.
風船爆弾が発見されると,スクランブルをかけた戦闘機が発進したが,風任せの相手だけに,撃墜は一苦労だったという記録が残されている.
(吉田一彦〔第2次大戦情報戦史家〕 from 「疫病最終戦争」,
ビジネス社,2001/12/20,p.61-62)
【質問】
軍用鳩部隊の様子を教えられたし.
【回答】
1921(大正10)年12月から同年同月の除隊まで,第19師団軍用鳩研究班に配属されていた高見澤仲太郎陸軍一等兵(ペンネーム:田河水泡)によると,同班は
将校2,
下士官2,
歩兵8,
騎兵2,
砲兵2,
オートバイ運転手(砲兵科より)1,
鳩60,
鳩舎1(車輪つき).
当番に当たった兵士が,鳩を外に飛ばして運動してやり,その間に鳩舎の掃除をして餌の青えんどう豆を撒いてやるのと,鳩の訓練(信書管をつけて飛ばすだけ),鳩の個別の帰巣能力を覚えることなどが毎日の仕事.
戦闘教練も衛兵勤務もなく,楽な部署だったので,田河は休みの日には油絵を描いて過ごしていたとか.
詳しくは『のらくろ一代記 田河水泡自叙伝』(田河水泡/高見澤潤子著,講談社,1991/12/11),p.96-98を参照されたし.
◆◆◆対空関連
【質問】
戦艦大和の対空火器はレーダーと連動してないから駄目だ,としばしば言われますが,逆に連動している,第二次大戦中の対空火器というのはどういうものなのですか?
【回答】
有名なものでは米海軍の5インチ38口径砲がそうですね.
米海軍では射撃用レーダーとしてMK.4レーダーを採用しており,これに射撃指揮のための計算システムを組み合わせたMk.37GFCS(射撃指揮装置)を,駆逐艦以上の中/大型艦に搭載していました.
これは射撃に必要な測距議と照準機・さらに計算装置を組み合わせており,それにレーダーで収集したデータを取り込む電波式測距・測角を取り入れたもので,従来のものより測距精度が向上しています.
名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE
なお,連動してる,というのには語弊がある.
第二次大戦下でいえば
射撃管制の対空目標の指示→各銃座が射撃
という流れなので,レーダーを使用しているかは射撃管制に拠る.
それに通常夜間射撃に使用するものであり,だから大和の対空射撃は効果が無かった,とは言いがたいと思う.
地上の話では,レーダー管制と対空射撃を上手く連動させたのはドイツ軍.
レーダーで敵爆撃機を捕捉→対空砲で見越し射撃
と迎撃し,恐らく二次大戦中では最も優秀な対空射撃能力を誇っていた.
詳しくはミリタリークラシック(何号かは忘れた)に掲載されているので,書店に行くべし.
【質問】
帝国海軍の主要対空火器は,なぜ89年式12.7センチ高角砲の次は96式25ミリ機銃なのでしょう?
この間に相当するのは,米軍ならば40ミリ4連装機銃ですが,これに近い火器として,何か帝国海軍では開発されましたか?
あるいは,陸軍には,艦載可能な高角砲か機銃があったり開発中だったりしませんか?
教えてください.
予備役間近
【回答】
日本は大口径機関砲をどちらかと言えば不用と見なしていたから.
あと,日本の技術力では大口径の機関砲が開発できなかった.
25mm機銃はフランスのホチキス社の物が基礎になっている(というかほとんどデッドコピー)が,参考にするような外来品もなかったし.
一応英国から40mm機関砲を輸入,対水雷艇用に装備した時代もあったが,基本的に30mm以上の大口径機関砲は「機関砲としては大きすぎ,砲としては小さすぎ」であるとされていた.
25mm以上の機関砲としては一応30mm機関砲があったが,むしろ海軍の25mm機銃を航空機に搭載すべきだったといえる.
なお,縄張り争い以上に,陸軍の高射砲は発射速度が低いわ,射程高度が低いわ,そもそも数が足りないわで,とても艦艇に載せるような余裕はない.
ついでに書くと航空機用機銃は,陸軍が7.7mmからイタリアから導入したブレダの13mm機銃を導入したが,故障がひどくて使い物にならず,ブローニングの流れ(というかやっぱりほとんどデッドコピー)の機構の13mm機銃,ホ−103を開発(一応独自に改良.でも結果的には改悪.尚弾の規格だけはブレダと同じ).
それでも威力不足なので,ホ−103を拡大したホ−5 20mm機銃を開発したが,配備を急ぐあまり最終試験も済んでいないのに量産品を製造,性能がちっとも安定しないスクラップを量産した.
海軍は海軍で5式30mm機銃を開発.
これはほとんど日本独自の設計のそれなりに優れたものだったが,やはり配備を急いだのと戦争末期の工業力の低下で,マトモな量産品がほとんど作れず,故障続出で実用にならなかった.
一応は実戦でも使われているが.
ということで日本には大口径機関砲を開発/生産する工業技術力が乏しい.
40mmクラスの対空機関砲を艦艇の対空兵装として大量に装備するなど,夢のまた夢であったろう.
【質問】
九八式高射機関砲について簡単に教えてください.
【回答】
本砲は中低高度用対空火器として局地防空に用いるために制定されたもので,口径は20ミリ.
六門で機関砲中隊を編制して師団防空に当たったり,基地の警備に当たる飛行場大隊に数門配備されて基地防空の任に付いた砲です.
【質問】
http://www.yomiuri.co.jp/zoom/MM20070606121434092M0.htm
この高射砲はなんですかね?
88式か,99式じゃないかと思うんですが.

http://www.zakzak.co.jp/top/2007_06/t2007060631.html
これによると口径3.3センチとあるが,中途半端な数字ですし,間違いですかね?
【回答】
本砲は二式二十ミリ高射機関砲(ケキ砲T型)です.
最初,砲身や砲の大きさのみを見て九八式高射機関砲と判断しましたが,砲架の形状から明らかにケキ砲であると思われます.
二式二十ミリ高射機関砲はドイツの2cmFlak30機関砲の設計を取り入れてて九八式高射機関砲を改良したもので,自動貨車で牽引して単砲で運用する形式のものをケキ砲T型,6門を1台の指揮装置から電気系統で同時に照準して射撃を行う射撃システムを二式多連二十ミリ高射機関砲(ケキ砲U型)と呼称しています.
zakzakの記事ですが,そもそも30mm前後の口径の高射機関砲が日本軍には存在しませんし,それより上となると一式三十七粍高射機関砲(ラ式)かボ式四十粍高射機関砲ということとなり,まずありえない.
間違いでいいんじゃないかな.
名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE in 軍事板&FAQ BBS
皇居直衛の高射第一師団機関砲第一大隊・近衛機関砲第一大隊・川崎の同師団機関砲第四大隊がケキ砲抱えてたみたいで羽田に埋められてもまぁおかしくはないかという辺りもあるし.
http://www2u.biglobe.ne.jp/~surplus/tokushu28.htm
ついでにケキ運用陣地跡のような遺物の写真ページ.
http://officers.hp.infoseek.co.jp/22ikou/ikou-tokyo-konoe-aa.htm
ケキは確か砲座6+高射算定装置で動いてるんで,台座が7個あるここで使ってたのかなぁと思ったり.
どうでしょうか……
ケキ砲は生産数が20門を割ってますから……
http://www.shima.cc/shimanet/old/vc/ss/98ss.html
では16門,オレの手元の資料『日本陸軍兵器集』(ワールドフォトプレス,1979.10)では12門となってます.
4門編成だとしても,わずかに3〜4セット(3〜4個中隊分)でしかなく,この機関砲は事実上試作の域を出てません.
これが出たというのなら,ちょっとしたお宝ですけど,それは厳しいのではないかと……
ケキ砲だという積極的な証拠が無い限りは,九八式だと考えるのが,無難だと思います.
(ロマンもクソもないけど)
「2門が折り重なった状態で……」と記事にあるから,双連20ミリ高射機関砲かな?とも思いましたが,あの機関砲はそもそも生産ルートにすら乗ってないし……
【質問】
1930年あたりのLIFEの大戦直前の日本軍の記事に載っていた、人の身長の3倍ほどありそうな軍用の車載巨大トランペットは,何という名称なのでしょうか。
写真には確か、gigante trumpetとか書いてあったと思いますが、google検索しても目ぼしい情報がなく。
何本もの数メートルはあろうかというホーンと有機的な曲線を描く導音管、こんな巨大楽器を載せた車が十数台並んでいる姿はなかなかに雄大で、なにげに興味引かれたもので。
【回答】
音波兵器です・・・・としたいですが、楽器でもなく,大戦初期に各国で使用された防空部隊の聴音機です。
レーダーなどが無い時代、航空機のエンジン音を聞いて方向と距離を定めて、対空砲火を誘導しようとした代物です。
ドイツのものでは聴音機のそれぞれ左右及び上下のラッパが捉えた音をたよりに聴音手が旋回ハンドルを操作する。
ラッパで拾われた音は振動板に導かれる。
ラッパが音源に正しく向いていないときは(上下or左右)二つのラッパから来る音の位相差で板が振動し、それ(うなり)が計器に振れとして表示される。
ラッパが音源に正向すると位相差はなくなり、メーターの振れがなくなる。
三人目の聴測手が計器を見て、上下及び左右それぞれの振れがなくなったとき、聴音機は目標に正しく向いていることがわかる。
これで測定された目標の方位と高度をもとにサーチライトが照射され、それに向けて高射砲を撃つ。
後にこの聴音機がレーダーに取って代わられるわけだ。
余談ながら、第二次大戦末期、日本では、喇叭の大げさなものではなくとも、穴を掘ってそこに跳ね返る音を聞いて方向とか距離を判断したりした対空監視所が多数作られたりしています。
(一等自営業 ◆JYO8gZHKO. & 眠い人 ◆gQikaJHtf2)
▼聴音機(上:偽物,下:本物)


【質問】
阻塞弾って何ですか?
【回答】
旧日本陸軍が開発していた兵器にそういうものがあって,これは低空から地上攻撃してくる敵戦闘機や爆撃機等を阻止するための空中爆雷でした.
パラシュートが付いた爆雷を地上から打ち上げ,これに敵機を絡ませて破壊する仕組みでした.
名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE
【質問】
第二次大戦中,日本軍が虫眼鏡の理論で,敵機を光線で溶かして落とそうとした,と「日本の秘密兵器」という本で読んだのですが,他の国は研究もしなかったのでしょうか?
【回答】
大戦末期のドイツが,沢山の鏡で太陽光を集中させて敵機を撃墜する「太陽砲」という兵器を開発しようとしていたという話はある.
そのほか
L字型の筒の中で爆発を起こし,その衝撃波で敵機を撃墜する「風砲」
地面に埋めた筒の中で緩燃爆発を起こして小規模な旋風を発生させて敵機を撃墜する「竜巻砲」
反射鏡で爆発音を集束照射して敵兵を殺傷する「音響砲」
などわけのわからん超兵器が研究されてるが,当然のことながらひとつも物にならなかった.
なお,日本が研究していたマイクロ波兵器「勢号」は敵機を直接破壊するのではなく,マイクロ波でエンジンなどの電気系統を焼ききる事を目標としていたそうだ.
【質問】
「日本軍は殺人光線(レーザー兵器)の開発に成功 ∩(・ω・)∩
なお,ネズミ1匹を殺害するための所要時間は30〜60分orz 」
上記のエピソードを小学校のとき父親から聞いたのですが,事実だったのでしょうか?
【回答】
上述の通り,事実です.
ネズミへの照射は兵器としての可能性を探る実験の一環で,その後の研究で大出力のマイクロウェーブで敵機のエンジン点火系統にダメージを与えることが主目的となった.
この兵器は「勢号」と名付けられたが,開発途中で終戦となった.
発振用のパラボラアンテナの直径は22mに達し,大電力を消費する為発電所の近くにしか設置できなかったので,実際に完成したとしても効果は小さかったものと思われる.
【質問】
WWIIで,中国軍の高射砲の配備状況はどうだったんですか?
【回答】
例えば,首都重慶には厳重な対空火網が形成され,クルップの88mm,ボフォースの75mm,ヴィッカースの75mmなど各種の対空砲,機関銃が配備されていました.
遷都前の首都南京には,高射砲32門,高射小砲60門,高射機関銃96門が配備されていたりします.
眠い人 ◆gQikaJHtf2
◆◆◆◆15cm高射砲
【質問】
太平洋戦争末期に,久我山というところに高性能な高射砲が据え付けられて、たった一発の射撃でB-29を2機撃墜したと聞くのですが,どのような砲だったんでしょうか? 誘導砲弾?
【回答】
地上設置型レーダーでB-29の位置と高度を測定した後,試製15cm高射砲が砲撃,撃墜した.
http://www.hkr.ne.jp/~igyou/mai/j_army/si/si.htm
ただし、この撃墜は誤認説が優勢.
15cm高射砲

【質問】
15センチ高射砲の陣地は,久我山のどの辺にあったのですか?
(PN 割れた草加煎餅 by e-mail)
【回答】
15センチ高射砲の運用にあたったのは、埼玉県大宮にあった高射砲第百十二連隊第一大隊第一中隊。
この中隊と2門の高射砲が配備された久我山陣地は、現在の杉並区立富士見丘中学校、及びその周辺の都営住宅、本州製紙運動場にあたる。
現在の現地付近

撮影:HN「割れた草加煎餅」
【質問】
15センチ高射砲は戦後どうなったのか?
【回答】
2門の15センチ砲のうちの1門はその場で輪切りに切断処分された。目撃者は「まるで一斗樽のようだった」と語る。
残る1門は調査のためアメリカ本土に海上輸送されることになった。
しかし航行途中で悪天候に見まわれ、やむなく海中に投棄された。
◆◆◆◆VT信管
【質問】
第二次大戦の特集テレビ番組等を見ていると,VT信管がかなり強力な兵器みたいな扱いがあるのですが,VT信管はそんなに強いのでしょうか?
【回答】
VT信管のセールスポイントは概ね二つ
・調定しなくても敵機の近傍で自動的に炸裂する事
・調定する必要がないので速射性に優れる事
つまり,潤沢なVT信管が準備できるなら,照準して撃ちっぱなしにできるって事
まさにアメさん向き(笑)
VT信管という電波式自動信管が実用化されるまでは,高射砲の砲弾
「目標の飛んでる高さまで飛ぶには*秒かかるから,*秒後に作動させよう」
と,信管のセットを人間が計算して手動で設定していた.
第2次大戦の頃にはある程度は自動化されたが,距離から時間を逆算してセットする事は変わらない.
コンピューターのない時代なので,高速で飛行する飛行機を上手く捉えるように信管が作動する事はほとんどなく,ちっとも当たらなかった.
一節には命中率は数万発に一発だった,と言われる.
(勿論,命中しなくても砲弾の炸裂した破片で損害を与える事はできたが)
VT信管はこの高射砲の命中率を飛躍的に向上させた.
因みに「軍艦長門の生涯」の表現を借りると,通常の時限信管をVT信管に換装した場合,命中率に関しては目標の体積が100倍に膨れ上がったのと同じ効果が得られる.
これは零戦がボーイング747に化けたのと同等の数値.
VTの威力については諸説ある.
3倍という資料もあるが,VTは特攻機には効果的であるものの,通常攻撃機には1.5倍程度という資料もある.
米海軍1944年10月から1945年1月のデータ
<対通常攻撃機>
対空火器 撃墜数(1機当りの発射数)
5"/38 using AA Common-33.5(960)
5"/38 using VT- 20(624)
3"/50 using AA Common-4(752)
40mm Bofors-46(3,361)
1.1"MG-0(4,764)
20mm Oerlikon-50.5(7,152)
0.5“MG-3(15,139)
「時限信管に比べてVT信管が圧倒的に有利なのは,対特攻機のみ.
生還を期さない分,特攻機は突入速度が大きいので時限信管が不利.
他方,対通常攻撃機ではその差が縮まる(時限信管の調定が追随可能)
対空火器の真打はVT信管ではなく,40mm
Boforsと20mm Oerlikonである」
とも.
但し,VT信管は艦隊防空システムの「一部」にしか過ぎず,また,そんな高度な兵器を開発し,製品として均一な品質で大量に送り出す米の国力こそ脅威であった,

【質問】
VT信管の砲弾が実戦に初めて登場したのはいつごろですか?
【回答】
1943年1月、ソロモン海で米巡洋艦「ヘレナ」が日本海軍の艦上攻撃機に対して使用したのが,初めての実戦投入といわれています。
(名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)
【質問】
VT信管がもし米軍になかったら,マリアナ沖海戦('44
Jun. 19-20)での日本軍の戦果は少しは増えただろうか?
【回答】
VT信管の効果はそんなに高くない。
あのときは砲の数が足らず,砲の性能もあまりよくなかったらしい。
日本機を打ち落とした内の8.9割はCAP。
もしもCAPの待ち伏せを突破することができたならば,戦果は挙がっただろう。マリアナ沖で証明されたように、水上艦艇は航空機に対して有効な防御手段を持ち得なかった。
だが有効なエアカバーをもつ艦隊に対する攻撃は非常に難しくなる。ある程度のCAPがいるだけでも一気に難易度が上がる。
VT信管は,水上艦が独自の航空機に対する有効?な対処手段を得たという意味で大変意義があったんじゃなかろうか。
CAPなしではVTやボフォースといえども組織的空爆の前には大した効果はありません。編隊で突入されれば何機かは墜とせても残機により攻撃は成功してしまいます。
CAP最大の効能は,撃墜そのものよりも組織的攻撃を著しく困難にすることです。単機あるいは少数機による五月雨攻撃に変えてしまうことで、攻撃機に大量の弾幕を集中することが可能になるわけです。
例えば在来型防空砲火が一回の攻撃当たり1機墜とせるところをVTやボフォースで2,3機墜とせるようになったとしましょう。
相手が十数機の編隊を用いた組織的空襲だったら,撃墜戦果が1機から2,3機に増えたところで大した効果はありません。
これを2,3機毎の五月雨空襲に変えてしまえば、毎回全機墜とせるようになる、というわけ。
【質問】
なんで日本もVT信管作って対抗しなかったの? 音に反応して破裂するだけでしょ?
発想自体がなかった? それとも技術不足?
【回答】
VTは電波信管です、音波じゃない.
数万Gの加速に耐える真空管と電波技術があって、初めてできるのがVT信管.
技術・発想共に日本は不足していただけ.
日本でも光学的な近接信管なら開発されました。
ただ、これは爆撃に使用するもので、アメリカのように対空砲火に近接信管を使用する発想は無かったようです。
それと、発想や技術力があっても開発できない場合もあります。
NHK取材班編「電子兵器『カミカゼ』を制す」なんかを読むと分かりやすいんじゃないでしょうか。