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「ワレYouTube発見セリ」:Battle of Leyte Gulf-Decoy

「ワレYouTube発見セリ」:Battle of Leyte Gulf-The Imperial Navy

「ワレYouTube発見セリ」:Battle Of Midway - WWII in colour

「ワレYouTube発見セリ」:Battle of Surigao Strait

「ワレYouTube発見セリ」:Battle off Samar

「ワレYouTube発見セリ」:The battle od the Cape Engano

「ワレYouTube発見セリ」:The US Pacific fleet 1944


 【質問】
 漸減邀撃(ぜんげんようげき:原文ママ)作戦構想が確立したのはいつか?

 【回答】
 邀撃作戦構想は日露戦争後に確立したが,「漸減」作戦構想が明確に現れたのは1918年.

 主力艦数でアメリカに劣勢であることは分かっていたので,1918年の「帝国国防方針」第2次改定以降,艦隊決戦の方式も,一挙に全戦力を投入しての決戦という従来の構想から,索敵(敵艦隊への接触)・「漸減」・決戦という3段構えの「漸減邀撃」作戦構想へと変化.
 しかし,この時点では,建艦競争の最中で,決戦に投入できる主力艦数を一隻でも多くする事が先決問題とされ,「漸減」については巡洋艦による奇襲が考えられたものの,まだ具体性も乏しく,作戦全体における比重はそれほど高いものではなかった.

 ところが,ワシントン会議によって主力艦の対米6割保有が確定すると,日本海軍は,索敵・「漸減」・決戦の3段構えの作戦の重点を,どのようにアメリカ艦隊を「漸減」するかというところに移さざるをえなかった.
 主力艦は決戦兵力として温存しておかねばならなかったので,「漸減」は補助艦だけの,とりわけ大型巡洋艦と潜水艦の役割となった.

 だが,この「漸減邀撃」作戦を実現するには,2つの戦術的問題が解決されなければならなかった.
 一つは,索敵と,場合によっては「漸減」も担当する潜水艦の速力と航続力である.
 ハワイ近くまで進出して待機し,アメリカ艦隊を発見し,接触を続けるためには,途中で燃料不足になるようではいけないし,艦隊に振り切られてしまうような速力では使い物にならない.
 第2は,「漸減」の主役である大型巡洋艦の攻撃力・速力である.
 巡洋艦の主砲は,条約の規制によって20cmを越えることはできないので,例え夜間の肉薄攻撃が成功したとしても,この程度の戦力で主力艦を撃沈可能なのか,また,少々速力が速い(30knot強)くらいでは,30ノット以上の速力を有する巡洋戦艦が登場している以上,奇襲後の離脱は難しいのではないか,ということである.

 日本海軍は,ワシントン会議直後から,これらの問題を解決するための新型巡洋艦・潜水艦の開発に,力を注ぐことになる.

 詳しくは,山田朗著「軍備拡張の近代史」(吉川弘文館,1997/6/1),p.93-98を参照されたし.


 【質問】
 対米7割論はなぜ出て来たのか?

 【回答】
 そもそもは日露戦後,日英同盟の下での「対米独7割論」として生まれてきたもので,仮想敵(米独)の7割の主力艦保有が必要だ,という論.
 この「7割」という比率の根拠は,攻撃側は防御側に対し,5割以上の兵力優勢を必要とするという,佐藤鉄太郎・秋山正之らの仮説から算出されたもので,1:1.5 = 0.67:1.すなわち防御側は少なくとも0.67は必要だ,というもの.
 これは,マハン(画像右)の戦術理論からも裏付けられていると見なされた.

 この対米独7割達成は,日本の国力と帝政ドイツの猛烈な建艦により,全く不可能だった.
 例えば第1次世界大戦開戦時点で,弩級以上の主力艦保有量では,日本は米独の
総トン数の12.6%
隻数の12.0%
に過ぎなかった.

 だが第1次大戦により,ドイツ海軍が完全に解体されたことは結果的に,7割論に日本海軍が固執する原因となったと言える.アメリカだけが相手なら,名実とも似「7割」が確保できると考えたからである.
 対米7割論への固執は,国力の限界を無視したものだったが,極めて単純化された図式であり,日露戦後の反米感情の高まりを背景に,海軍部内に急速かつ深く浸透していったのである.

 詳しくは,山田朗著「軍備拡張の近代史」(吉川弘文館,1997/6/1),p.82-83を参照されたし.


 【質問】
 ワシントン条約前のアメリカ側の建艦は,アメリカの国力に照らしてどうだったか?

 【回答】
 やはり無理な軍拡だった.

 大戦終結にもかかわらず,アメリカの連邦政府予算に占める軍事費の割合は,退役軍人への年金・補償などを除外しても,主力艦10隻を同時に起工した1920年度には37.1%,21年度にも35.0%に達していた.
 第1次大戦を経て超大国の地位を占めつつあったアメリカにとっても,相手が造るから作ると言う具合に自己目的化してしまった建艦は,できれば打ち切りたいことだった.

 そこで1921年,アメリカ大統領ハーディングは,軍拡停止・海軍軍備制限に関する国際会議を提案したのである.

 詳しくは,山田朗著「軍備拡張の近代史」(吉川弘文館,1997/6/1),p.86を参照されたし.


 【質問】
 「対米7割論」者は,ワシントン条約に反対しなかったのか?

 【回答】
 反対したが,抑え込まれた.

 軍縮会議の日本側首席随員・加藤寛治(ひろはる)中将らは,軍縮条約案が,日本の主力艦保有量をアメリカの6割に抑えていることから,対米7割以上でなくては作戦が成り立たない,と条約案(アメリカ側提案)を拒否するよう,加藤友三郎全権に強く訴えた.

 しかし8・8艦隊推進の当事者だった加藤全権=海相は,その実現が日本の財政を破綻させることを認識しており,軍縮条約受諾方針を確実に守った.

 また加藤海相は,会議が太平洋諸島における防備や軍事施設の現状維持をも取り決めたことから,日本側も対米6割の主力艦では不利だが,西太平洋におけるアメリカのフィリピン・グアムの軍備は制限され,アメリカ艦隊の日本近海への侵攻も困難になったので五分五分だと,「7割」論者を抑えた.
 日本海海戦当時の連合艦隊参謀長だった加藤友三郎の権威と統制力は絶大で,海軍部内では反対論は強かったものの,加藤友三郎の決定に服した.

 しかし海軍内部においてはワシントン条約の「6割受諾」を巡り,2つに分裂した.
 加藤友三郎を始めとする軍政(海軍省)系統の軍人は,平時の「7割」維持が財政上不可能と認識し,国力を充実して,戦時に「7割」に持っていけるだけの建艦能力を維持していけばよいと考えていた.
 他方,加藤寛治ら作戦立案を担当している軍令(軍令部)系統の軍人や,艦隊で訓練に当たっている軍人の多くは,日本のように資源にも工業力にも劣る「持たざる国」こそ,平時より強大な軍事力(対米7割以上,なしうれば対米同等)を保有しておかなければ,戦時において頼るべきものは何もないと考えていた(加藤寛治大将伝編纂会「加藤寛治大将伝」 p.756-757).
 この「平時7割派」は,第1次大戦のような長期消耗戦は,日本が行うべき将来戦ではないと考えており,戦争が始まったならば,積極的に艦隊決戦に持ちこんで一挙に勝敗を決してしまおうという,速戦即決を志向するグループだった.

 日本海軍軍人が憤慨したように,ワシントン会議には,アメリカによる日本の軍事力増強を封じ込めるという,帝国主義的な戦略が隠されていたのも確かである.
 だが,この戦略に助けられたのは,誰よりも日本自身だった.
 そもそも,GNPにして9.7倍(1921年)のアメリカを相手にして,正面から建艦競争を挑み,国家財政(一般会計)の半分を軍事費に(3分の1を海軍費に)注ぎ込んでもまだ足りない,というような軍拡を,第1次大戦後の不況の中で継続することは無謀だった.
 1924-30年の7年間は,軍事費が国家歳出比27-29%台で安定した時期である.

 詳しくは,山田朗著「軍備拡張の近代史」(吉川弘文館,1997/6/1),p.88-93を参照されたし.

ワシントン条約で廃棄された「土佐」

同じく未完成戦艦から改造されたガミラス三段空母


+

 【質問】
 「条約派」と「艦隊派」とは?

 【回答】
 ロンドン会議での「松平・リード案」の是非を巡り,日本海軍内部で起きた対立.

 海相を支え,軍政を担当する海軍省の軍人達は,補助艦対米7割等を貫徹できないのは困るが,無条約となってワシントン会議前の建艦競争もなお困るという大局的見地から,妥協案で条約妥結やむなしと判断した.彼らは「条約派」と呼ばれた.

 一方,「漸減邀撃」作戦構想実現という戦術的判断を優先させた海軍軍令部は,大型巡洋艦の「対米7割」と潜水艦保有量に拘り,妥協案拒否を主張した.
 このグループは,実践部隊の意見を代弁しているとして,「艦隊派」と称された.

 海軍軍令部は,自らが求める「所要兵力」と日米妥協案=松平・リード案に基づく兵力暫定配置を比較検討し,「兵力量不足」を強く訴えた.
 その主張によれば,妥協案を認めれば,大型巡洋艦2隻,潜水艦26隻が不足することになる.

 しかし,海軍軍令部自身が試算した暫定兵力配置を見る限り,「漸減」段階を担当する第2艦隊では潜水艦1隻が,「決戦」段階を担当する第1艦隊において大型巡洋艦2隻,潜水艦1隻が不足しているに過ぎない.
 不足分は,もともと第二線級の戦力で構成することを予定していた第3艦隊(フィリピン攻略部隊)への皺寄せとなって表れる.
 そもそも第3艦隊は,「漸減邀撃」作戦に基づく艦隊決戦シナリオの枠外にある部隊であり,現実には,妥協案を容認しても必ずしも想定した艦隊決戦が困難になるわけではなかった.
 それでも,主力艦・航空母艦に次いで,個艦性能において優れている大型巡洋艦においても「対米6割」を要求されたことで,「艦隊派」の「兵力量不足」「対米劣勢」という強迫観念は強まった.

 しかし,無条約の不都合を説く「条約派」の説得で,「艦隊派」はひとまず矛を収めざるをえなかった.

 ところが,統帥権干犯(とうすいけんかんぱん)問題が起きると,一度は鎮火していた海軍内の条約反対論が再燃.
 海軍軍令部は,従来の「兵力量不足論」から「統帥権干犯論」に戦術強化した.
 加藤寛治軍令部長・末次信正次長らは,東郷平八郎元帥を担ぎ出し,「条約派」を攻撃.
 6月10日には,加藤軍令部長が単独辞職,条約批准阻止運動をさらに高揚させ,財部彪海相・山梨勝之進次官・堀悌吉軍務局長ら「条約派」は窮地に立たされ,結局,財部海相失脚(部内混乱の責任をとり,10月3日に辞職)と条約派軍人の没落を招いた.

 海軍軍令部は,対米戦には少なくとも大型巡洋艦14隻,潜水艦68隻が必要で,そのうち「漸減」任務に大巡12隻,潜水艦15隻を配置するとしていた(戦史叢書10「ハワイ作戦」 p.493-494).
 だが,1929年末の時点で完成していたのは,大巡8(6万9250t),潜水艦59(外洋型19,近海型40,6万4000t)だった.
 これらのトン数が,ロンドン会議で交渉の前提となった「現有量」よりもかなり少ないのは,建造中の物を含んでいたからである.

 また,潜水艦は,建造中を含む7万8000t,実際に完成・就役している6万4000tよりもさらに削減され,5万2700tとされたが,1922年から29年末までに完成した,「漸減邀撃」作戦構想を前提とした新型潜水艦は,外洋型(索敵・「漸減」・決戦支援)19隻(2万9940t),近海方26隻(2万2910t)の合計45隻(5万2850t)で,条約の協定保有量はほぼ日本の新型潜水艦の就役量だった.
 したがってロンドン条約は,日本海軍補助艦の現有勢力をほぼ追認したものであり,ワシントン条約のように現有勢力の大幅廃棄を迫るものではなかった.

 だが,「艦隊派」の危機感と不満は大きな物があった.
 日本は米英よりも大きな削減率(12%,現実には老朽駆逐艦と旧式潜水艦の整理)を迫られたのに対し,アメリカは全体の削減率(8%)が低いばかりではなく,現有保有・建造中の物に加え,8インチ砲搭載の巡洋艦を5万t,6インチ砲搭載の巡洋艦も7万3000tを新たに起工できた.
 ワシントン会議以後の巡洋艦建艦競争で,量的に互角,質的にはアメリカを凌駕していると考えていた日本海軍にとっては,政治的にアメリカに抑え込まれたという意識が強かった.

 主力艦の「劣勢」を補うため,漸減の主役として建艦に励んでいた,61p魚雷搭載の大型巡洋艦も,対米6割に抑えられ,潜水艦増勢もままならないということで,日本海軍は,自らが一方的に作成した「漸減邀撃」作戦シナリオが反古になることに,大きな焦燥感を抱き,ロンドン会議以後,取り得る限りの手段を尽くし,既成プラン維持を図り始めるのである.

 詳しくは,山田朗著「軍備拡張の近代史」(吉川弘文館,1997/6/1),p.120-126を参照されたし.


 【珍説】
 戦前に
「今の時点でもう戦艦を作るべきではない」
という主張をしたら,下手すると外患誘致だな.
 まあ,病院に放り込まれるだけで済むと思うが.

日本史板

 【事実】
 開戦前でしたら,ちょうど艦隊派と航空派で今後の海戦のメインストリームはどちらになるかと熱い議論になっていたころでしょうね.
 日本海軍全体としては,太平洋戦争の前くらいに既に大鑑巨砲路線はほぼ放棄しています.
 戦艦主体ではアメリカのヴィンソン計画に数値の上で明らかに対処不能なので.
 ただ,鉄砲屋の派閥は主として残っていたので,真珠湾攻撃部隊みたいに戦艦の護衛の無い歪な艦隊が編成されたりと,大鑑巨砲主義は根強く残っています.

 当然あの時代にも軍ヲタはおりまして,その時代に軍ヲタがどのような話題で盛り上がっていたかをまとめたサイト
http://www2.ttcn.ne.jp/~heikiseikatsu/
があります.
 ここを読んでみた感想では,少なくとも航空主戦を唱えただけで外患誘致とか病院送りとかにはなりそうに無いですねぇ…
 つか,それで外患誘致なら,山本五十六以下,航空こそ主力になると信じている航空隊の一兵卒にいたるまで全員対象になってしまいますね(笑).

軍事板

 昭和15年に発売された一般向け航空雑誌に,似たような意見が掲載されています.
http://www2.ttcn.ne.jp/~heikiseikatsu/rekisi/gunkan_vs.htm
 艦隊と航空機のどちらが優勢かを一般人(当時の軍オタ)同士が熱く議論していますが,どうやら外患誘致罪にも病院送りにもなっていないようです(笑).

 それ以前に,外患誘致罪とは外国の軍を故意に自国内に誘引する企てを為した者,あるいは実際に行ったものに対して適用されるわけで,日本軍の軍政に関係も影響力も無い一般市民が航空主戦・戦艦不要論を唱えたところで,逮捕のしようがないですね.

 また,かなり先鋭的な意見ではありましたが,戦艦不要論(空母拡充論)は海軍の航空主戦論者の中にはありました.
 以上より,戦艦不要論が当時でも非常に危険で異常な思想では無かったことが伺えます.

日本史板


 【質問】
 ロンドン条約で統帥権干犯騒動を起こした加藤寛治って,何か功績があった人なのでしょうか?

 【回答】
 海軍兵学校(18期)首席卒.日露戦争時は三笠の砲術長.
 斉射法を独自で編み出した鉄砲屋の長とも言うべき存在.
 砲術家としては優秀だが,連合艦隊長官時代に過酷な訓練を課し,美保ケ関事件のような事故を多発させていたり,艦隊派として統帥権干犯騒動を引き起こしているので,軍隊の長としての能力は疑問符が付く.
 なお,その後は軍拡反対に鞍替えしている.


 【質問】
 海軍軍縮会議で東郷平八郎が反対派にかつがれて,反対派の筆頭になったというのは本当ですか?

 【回答】
 本当.
 谷口軍令部長は,ロンドン条約批准の為に奔走する.その際に尊敬する親しい間柄である東郷提督を訪ねて
『確かに,大正12年に決定した新国防方針に基づく兵力量には不足するが,航空機や条約で取り決めた艦艇以外の艦艇で補充すれば,十分足りえるものであります』
と進言するが,東郷は
『自分の実戦計画では,主力艦6割になってしまった今は大巡は8割は必要だ.
 其れが7割にもならないなら話にならん.
 航空機で補充するというが,其れは女で埋め合わせするようなものだ』
と言い,また
『大体,このような条約など結ばないほうが国の為になるし,海軍の為にもなる.陛下にもそうお答えするつもりだ』
と言ってきかなかった.

 東郷がこのように頑なになった原因には,秘書官的存在である小笠原長生予備中将の存在があった.
 神懸り的軍縮反対論者だった小笠原からの情報が唯一のパイプだと思われ,東郷がこのように頑なになったと考えられる.
 ただし,軍事参議官会議で条約批准の流れになった時は,已む無しの態度を取っている.


 【質問】
 旧海軍の艦隊派と条約派の対立って,ロンドン軍縮条約以降も続いたんですか?
 また,他にも派閥などはあったのでしょうか?

 【回答】
 艦隊派と条約派の対立は,いわゆる大角人事で多くの条約派将官を追放できた時点で決着してます.
 艦隊派の首領たる伏見宮元帥のお墨付きがないと海相に就任できない習慣も完成してますし.

 もちろん条約派の壊滅にまでは発展せず,山本さんや井上さん,吉田さんら「小者」は対象外でした.
 最後の砦となった米内さんについても,在学時から米内さんを高く評価していた藤田尚徳さんと,艦隊派の重鎮だった高橋三吉さんという同級生の出世頭が身を引いたおかげで残留ができたようなものです.
 あんだけ軍令部を強化した三吉姐さんが自ら身を引いた,ということは
「艦隊派の思惑通りの制度は作ったけれど,実行は阻止してくれ.その役は米内しかいない」
というわけで,身を引いてからの姐さんの関心は,対米戦回避に移ってる状態です.

 「派閥」の一つではありますが,古賀さんや豊田さんに代表される旧来の大艦巨砲主義者と山本さん以下の航空優勢主義については,海軍を混乱させるほどの深刻なダメージは与えていません.

 海軍を割る恐れがあった意見対立は三国同盟を受け入れたがる多数派と,拒絶するトリオを頂点とする少数派による同盟問題.
 開戦時は意外と混乱してません.
 威勢よく開戦をぶち上げる課長級の突き上げに,できたら避けたい部長以上が押し切られて開戦に至ります.

鷂◆Kr61cmWkkQ


 【質問】
 ロンドン条約における補助艦制限に対し,日本海軍はどのような対策を図ったか?

 【回答】
 (1) 補助艦の個艦性能向上(重武装・高速化)
 (2) 軍縮条約の制限外の戦力である水雷艇など600t未満の小艦艇の重武装化
 (3) 航空機の開発・生産
 (4) 軍艦・商船の,改装を予期した設計・建造
という諸方策を採ったという.

 (1)(2)
 600tに満たない水雷艇に,1000t級の駆逐艦並みの過重武装を詰め込んだことから,水雷艇「友鶴」が波浪により転覆,100人の死者を出す「友鶴事件」が発生.
 次いで,高速化=軽量化による強度不足から「第4艦隊事件」が発生.
 結果,この路線は断念ないし緩和されることに.

 (4)
 海軍は船会社に補助金を出し,大型商船建造に際して空母に改装可能なように設計・建造させた.
 また,大航続力を有する日本の潜水艦には必要性の低い艦種,潜水母艦も,空母に改造可能なように設計・建造され,水上機母艦は有事には「漸減」用潜水艇「甲標的」母艦に,さらには空母にも空母に改造可能なように設計・建造されていた.

 詳しくは,山田朗著「軍備拡張の近代史」(吉川弘文館,1997/6/1),p.126-を参照されたし.


 【質問】
 友鶴(ともづる)事件とは?

 【回答】
 1934/3/12,同年2月に竣工したばかりの「千鳥」型水雷艇2番艦「友鶴」が,波浪によって演習中に佐世保港外の海上において転覆沈没,死者100人を出した事件.
 転覆原因は,過重武装が艦の重心を高くしたことによる復元力不足だった.
 日本海軍は,600tに満たない水雷艇に,本来1000t級の駆逐艦並みの性能を求めたのである.

 事件を機に,他の艦種の復元力調査が行われた(4/4,臨時艦艇性能調査委員会設置.委員長・加藤寛治).
 結果,千鳥型と並行して設計された空母「龍驤」「蒼龍」,潜水母艦「大鯨」,最上型巡洋艦,その他駆逐艦・掃海艇・敷設艦艇・駆潜艇において復原力不足が発見された.
 海軍首脳部は大きな衝撃を受け,殆ど全ての艦種を対象とした性能改善工事,設計の根本的変更を行わざるをえなかった.(戦史叢書「海軍軍戦備(1)」,p.437-440)

 詳細は,山田朗著「軍備拡張の近代史」(吉川弘文館,1997/6/1),p.126-127等を参照されたし.

 なお,ソース未確認だが,
「近年の研究では、復元性の不足よりも、艇長の操艦ミスとの指摘も多い」(Wikipedia)
という話もある.


 【質問】
 第4艦隊事件とは?

 【回答】
 1935/9/26,演習中の連合艦隊の一隊(演習の最の艦隊名「第4艦隊」)が岩手県東方海上でぼうふううに遭遇,駆逐艦6隻,空母「龍驤」「鳳翔」,巡洋艦「最上」「妙高」,潜水母艦「大鯨」が大きな損傷を蒙り,将兵54名が死亡した事件.
 重装備・軽量化という技術的無理を冒した事に起因する,船体の強度不足が原因だった(戦史叢書「海軍軍戦備(1)」,p.440-443).

 詳しくは,山田朗著「軍備拡張の近代史」(吉川弘文館,1997/6/1),p.127-を参照されたし.


 【質問】
 第二次ロンドン海軍軍縮条約の内容はどういうものだったんでしょうか?

 【回答】
 英米は15隻保有,日本は9隻,フランス,ドイツも保有している戦艦の代艦を建造出来ます.
 但し,主力艦の排水量は35,000tまで,備砲は14インチ砲までと言う制限がありますが,条約未締結国が出た場合は,此の限りにありません.
 空母は,排水量23,000tまで,備砲は6.1インチ砲までと言う制限があります.
 巡洋艦は,排水量8,000tまで,備砲は同じく6.1インチ砲までと言う制限が付きます.
 また駆逐艦は,制限がありませんが,潜水艦は前回同様,排水量2,000tまでで備砲は5.1インチ砲までとなっています.

 排水量関係の状況は手元資料が無いので不明です.(多分何処かに埋もれていると思いますが)

眠い人 ◆gQikaJHtf2


 【質問】
 開戦時,海軍は開戦派,戦争回避派のどちらが主流だったのか?

 【回答】
 「この時点(昭和16年頃)ではむしろ開戦派が主流だった」という.
 以下引用.

 海軍は開戦を決意してから準備するのでは間に合わないとして,40年8月から対米戦の準備を本格的に始めた.
 その準備が翌41年4月に完了したので,
「時間が経てば,日米海軍の戦力差は飛躍的に増大する.日米戦うとすれば昭和16年をおいて他になし」
というのが彼らの考えだった.

 開戦派の中核は,海軍省と軍令部の事務推進機関として作られた「第1委員会」のメンバー,石川信吾・海軍省軍務2課長や富岡定敏・軍令部作戦課長らだ.
 第1委員会は41年6月,政府や陸軍を「戦争決意の方向に誘導」すべきだとする文書を作成している.
 永野修身(おさみ)軍令部総長らが
「石油がなければ座して死を待つことになる」
という「ジリ貧」論から対米開戦を主張したのも,第1委員会の意見が色濃く反映している.

土門周平談 from 読売新聞 2005/12/22


 【質問】
 マレー沖海戦での日本側の問題点は?

 【回答】
 史実ではマレー沖海戦で,日本の陸攻隊に英東洋艦隊は潰されました.運良く砲戦にはならなかった.
 でも,このマレー沖海戦だって実は危なかったんです.
 攻撃に向かった陸攻隊には戦闘機の護衛が全くついていません.
 そして,英空軍の戦闘機は,海戦が終わって日本の陸攻隊が引き上げた数十分あとに到着した.

 この戦闘機がもし間に合っていたら?
 僕はこの事実に戦慄します.護衛のない攻撃機なんて戦闘機の敵じゃありません.
 おそらく陸攻隊は全滅.
 英東洋艦隊は無傷.

 史実では,日本の上陸の際に,連合国の巡洋艦隊が攻撃してきました.
 これはなんなく追い払いましたが,実は護衛艦隊は攻撃されるまで敵艦隊の接近に気が付かなかった.
 この中に無傷のイギリス戦艦がもしいたら?
 日本は最初から継戦能力などなくし,いきなり敗北していたでしょう.

軍事板


 【質問】
 日本海軍が太平洋に広く展開し過ぎたのは何故か? 勝ちすぎて勢いが止まらなくなったためなのか?

 【回答】
 そうではなく,開戦直前から計画されていたのだという.
 以下引用.

 1935年前後の艦隊決戦思想における作戦海域は,次のようになっていた.
「哨戒線を小笠原諸島,本州東方海域とし,決戦予想海域は小笠原諸島列線以西の海域とした.
 32,33年頃から南洋諸島を基地化し邀撃漸減の機会の増大を図り,37年から航空基地を整備,40年には邀撃哨戒線を東経160度の線まで進め,基地航空隊の威力の下での艦隊決戦思想となった」

 だが海軍は,太平洋戦争では戦域を南太平洋,東太平洋まで拡大し,あるいは拡大しようとした(陸軍は,派出兵力の問題から,海軍の構想にブレーキをかける側だった).
 「南方」の占領があまりにも順調だったから乗り出したのではなく,開戦直前から計画されていたのである.
 すなわち,開戦1ヶ月前の41年11月5日付けで軍令部総長が連合艦隊司令長官に出した指示(大海指1号)の第1段作戦の項には,
「機を見てビスマーク諸島を占領」
があり,第2段作戦の項には,防備すべき地域にラバウルが含まれている.
 この指示に基く同日付けの機密連合艦隊命令作1号には,第1段作戦の項に
「状況許せば速やかに占領または破壊すべき地域」
として
「ニューギニア東部,ニューブリテン,フィジー,サモア方面,アリューシャン,ミッドウェー方面,アンダマン諸島方面,豪州方面要地」
を挙げている.
 「占領」と「破壊」は大違いだが,「占領」が先にある事は,できれば占領するという事であろう.

 〔略〕

 連合艦隊命令が,軍令部総長が指示したよりも遥かに遠い諸地域を占領または破壊するとしているのは不思議だが,それはさておき,海軍が「自存自衛のため」(同日付けの大海令1号,つまり天皇の命令にある)に,これだけ広大な戦域を必要と考えていたことには驚かされる.

「世界の艦船」2005年8月号,p.87(左近允尚敏 Sakonjo Naotoshi 著述)

 【質問】
 それだけの戦域を確保するための補給については,日本海軍はどう考えていたのか?

 【回答】
 どうやら甘く見ていた模様.
 以下引用.
 このこと〔広大な戦域を必要と考えていたこと〕はまた,海軍が補給(今で言うロジスティクス,後方支援)を甘くみていたことを示していると言えよう.

 一例だが,ミッドウェー作戦に先立ちトラックを訪ねた連合艦隊の参謀は,担当地域の第4艦隊参謀から
「補給が困難,責任を持てない」
と言われて激怒している.

 〔略〕

 攻勢,攻撃を重視した海軍は,いきおい防勢,防御を軽視した.艦艇,航空機においても攻撃兵器,運動性能に重点が置かれ,防御面には充分な配慮がなされなかったが,戦略レベルでは海上交通保護をなおざりにした.
 先に触れた1940年5月の戦争図上演習後,報告を受けた吉田善吾海相は,
「蘭印を占領しても海上交通線の維持が困難であれば,占領は無意味ではないのか」
と言ったが,軍令部は
「対米戦においては速戦即決を要するから,決戦兵力の整備を優先する.
 海上交通保護兵力については次等とし,両国間の緊張が高まったら整備する」
との方針を続けてきたのであり,開戦の都市,41年になってようやく,ある程度の数の駆逐艦,海防艦の建造を始めたに過ぎなかった.

 長野軍令部総長は41年度の作戦計画について,海上交通保護には自信がありますと奏上しているが,何をもって「自信がある」としたのか分からない.
 軍令部には専ら海上交通保護を担当する者は一人もおらず,他の担当者の兼務だったし,開戦時の兵力は海防艦4隻,近海用の駆潜艇25隻に過ぎなかった.

「世界の艦船」2005年8月号,p.87-88(左近允尚敏 Sakonjo Naotoshi 著述)


 【質問】
 第一次ソロモン海戦時,日本海軍の第6戦隊は第1艦隊の所管だったのに,どうして第8艦隊と同一行動を取ったんでしょうか?

 【回答】
 加古の1次ソロモン海戦戦闘詳報・計画の項に,以下の記述があるので,回答になろうかと….

 本艦は第6戦隊2番艦として外南洋部隊に属し,第8艦隊司令長官の作戦指揮を受け,リ号研究作戦の支援に任じありしが…(後略

 第6戦隊は第1艦隊と分離前進し,ショートランドやクインカロラを拠点としてリ号作戦(陸軍の陸路経由モレスビー後略作戦)の支援・視察を命じられていました.
 のちに鳥海を旗艦とする第8艦隊が編制され,ソロモンの最前線に送られたわけですが,任地がほとんどかぶることから,トラックの第1艦隊よりも第8艦隊の指揮下のほうが好都合だとして臨時的に組み込まれたもので,あくまでも所管は第1艦隊です.

鷂 ◆Kr61cmWkkQ


 【珍説】
 真珠湾攻撃の当日,日米開戦の日にアメリカ全潜水艦は専ら日本の戦闘艦を避けて,商船を撃沈するよう指令を受けている.
 主目標は戦略物資より日本人の船員船客であったと思われる.病院船・俘虜救恤船・連絡船・学童疎開船に至るまで,徹底して次々と標的にされ,なす術もなかったのだ.

 日本海軍は非武装や無防備の相手を攻撃することを潔しとしなかった.
 三川艦隊は敵艦を撃滅して帰還の途中,28隻もの輸送船団を傍目にしながら見逃している.武士の情けをかけたのだが,結果は敵に獲物を与えてしまった.

 この場合,情けは友軍のためにならなかった.
 これはガダルカナルの出来事である.
 この直後,日本の輸送船団は一隻残らず撃沈されてしまった.
 兵力の差は圧倒的なものとなってしまった.

(三好誠著「戦争プロパガンダの嘘を暴く」,展転社,2005/4/1,p.135)

 【事実】
 三川艦隊は,米空母機からの攻撃をさけるために転針したに過ぎません.米艦隊を撃滅したとき,既に夜が明けかかっていたからです.

 そもそも,三川中将の作戦は,夜襲によって上陸中のアメリカ軍輸送船団を撃破,夜明け前には退却し,アメリカの空母からの攻撃を免れようというものした.自艦隊には空母がいなかったためです.
 ガダルカナルは空爆されており,アメリカ艦隊には空母がいることが明白でした.
(もっとも,このとき米空母は,ラバウルから発進した航空隊約40機と,エンタープライズ,サラトガの戦闘機隊との交戦の結果,これを脅威に感じて戦線から離れておりました.
 そのため,その後,三川中将は多くの批判を浴びることになります)

 このときの三川中将の判断に,武士道観が影響していなかったかどうかは何とも言えませんが,それが主な動機でなかったことだけは確かでしょう.

 潜水艦云々も,
>病院船・俘虜救恤船・連絡船・学童疎開船に至るまで,徹底して次々と標的にされ
たという事実が見当たりませんが.
 まさか,阿波丸事件と対馬丸事件のことしか知らないんじゃないでしょうね?


 【質問】
 「プライベートライアン」の元ネタ(?)になった,米海軍での兄弟全滅事件について教えてください.

 【回答】
 サリバン兄弟事件

 巡洋艦ジュノーに乗ってた5人兄弟が,沈没の際に全員戦死,米国内で世論が沸騰,大センセーションを起こした.
 米海軍では兄弟を別のフネに分けて乗せねばならないっつー規定が出来たぐらい.

 ちなみに,このサリヴァン兄弟にちなんでUSS Sullivans (DDG68)と命名された駆逐艦がある.


 【質問】
 「ダンピールの悲劇」について教えてください.

 【回答】
 81号作戦の下,1943年2月28日に,Rabaulから,New Guineaに戦力増強をするため, 増援部隊,兵器,弾薬,食料などを満載した,8隻の老朽貨物船の輸送船団が出港しました.
 輸送された陸軍将兵は,第18軍司令部と第51師団の残余を合わせた約7000名でした.

 しかし,当初から敵機に見つかり,昼間は哨戒機が張り付き,夜間も照明弾を投下するなどして偵察が続き,3月2日に,大同海運の旭盛丸がまず撃沈され,3月3日には,目的地のラエ,サラモア目前のダンピール海峡に敵機が待ちかまえ,まず,三光汽船の建武丸,東洋汽船の愛洋丸,海軍特務艦野島,岸本汽船の神愛丸,日本郵船の太明丸と続き,最後に第一分隊の長船であった山下汽船の元独船帝洋丸,第二分隊の長船であった東洋海運の大井川丸が沈み船団は全滅,護衛の駆逐艦8隻のうち,4隻が失われ,3600名の将兵,乗組員が死亡しました.

 また,「血も涙もない事」を申し上げますと,「ダンピールの悲劇」はもともと81号作戦と名付けられていたものですが,この由来は「当初からイチかバチかの作戦」だったからです.
 諧謔趣味のある自分ですが,さすがにコメントする言葉が見つかりません.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2 & イナゾウ中佐)


 【質問】
 1943年の3月,南洋諸島の”元”ドイツ信託統治領(WW1の以前の名残)からドイツ人を中心とした尼さんや使用人の中国人や何やらの宣教団を,第八艦隊?第八駆逐隊 の密封命令に基づき,駆逐艦「秋風」上で機関銃で処刑して海に捨てた……って言う日本人によるドイツ人の虐殺事件をご存知の方いらっしゃいませんか?

 【回答】
 一日,焼き焼きしてたから遅くなったわさ.

 「秋風艦上の虐殺事件」
 1943.3. 東部NewGuinea,カイリル島とマヌス島にいた海軍分遣隊長が,駆逐艦を使って両島にいる外国人抑留者を全員ラバウルに移送するよう命令を受ける.
 カイリル島には26名(ロークス司教ら12名の神父と修道士,11名の修道女,彼女たちが世話していた2〜7歳の中国人3名.
 3.16PM. 彼等は「秋風」に乗船,翌日午後,マヌス島の40名(3名の神父,3名の修道女,ドイツ人プロテスタント宣教師夫妻2組と1人の子供,2名のドイツ人農園主,2名の中国人と3名の原住民.)が乗船.
 なお,ドイツ人の他,少なくとも5名がオランダ人,1名がマジャール人,1名が米国人.
 3.18.AM.10:00 秋風はカビエン沖に停泊,海岸と信号をかわした後,ラバウルに向けて航行を開始.
 カビエン沖60マイルの地点で,艦長(佐部鶴吉少佐)が,士官全員に外国人の殺害を命ぜられたことを伝える.
 外国人たちは,前方の乗員室に連れてこられ,目隠しをされ,船尾に特設された処刑台に連行.両手首を縛られて吊され,小銃の一斉射撃にて銃殺され,そのまま,海中に放り込まれる.

 処刑開始は正午,終了が午後3時半.
 その後,秋風は午後10時にラバウルに帰港.

 豪州側は,三川軍一中将と大西新蔵参謀長を1947年1月に逮捕したものの,管轄権の問題で米国側に委譲され,不起訴に終わる.
 これは,「秋風」の艦長,先任将校が戦死,秋風自体も米潜水艦によって撃沈され,乗組員は全滅したため,三川長官との命令関係を立証できなかった為とされている.

 詳細は,豪州国立公文書館 Series MP742/1細目336/1/1444「秋風虐殺事件調査ファイル」を参照してください.

 ちなみに,ビハール号事件の際にも,南西方面艦隊作戦命令の別冊「参謀長口達覚書」が根拠になったと言う話もありますが,その資料そのものが発見できていません.

眠い人 ◆gQikaJHtf2


 【質問】
 第21ウェワク輸送について教えてください.

 【回答】
 八雲丸,大栄丸の2隻を,第35号駆潜艇,第10号駆潜特務艇,第47号駆潜特務艇,第49駆潜特務艇が護衛した船団です.
 八雲丸は大阪商船の持ち船で,3月12日7時にパラオ発.陸軍徴用船として,第21次ウェワク輸送作戦に参加.
 1944年3月16日16時に船団はホーランディア入港,
 17日14時出港.
 18日19時にウェワク入泊.
 猛スピードで揚陸作業を実施し,18日23時離岸を目標としたが,22時に敵機動部隊より集中砲火を受ける.
 19日0時30分に一旦ムシュ島南方に避難.
 この時,第10号駆潜特務艇が被弾大破し,同島東岸に擱坐.
 結局,これ以上の揚陸は無理と判断し,パラオ帰投命令を受ける.
 19日4時に砲撃の止むのを待って,西方に航行中,9時に敵機の大編隊が出現し,戦闘を開始.
 19日11時頃に南緯2度40分,東経143度40分(ウェワク北方100km付近にて重爆撃機百数十機の大編隊から水平爆撃を受ける.
 この時,八雲丸は1番船艙に爆弾数発が炸裂し,船体が急速に左舷から沈没.船砲隊48名,船員56名,他6名戦死.
 その後14時15分にB-25の大編隊が出現し,数機を撃墜したものの,第47号駆潜特務艇が撃沈,第49号駆潜特務艇が行方不明(恐らく轟沈).
 大永丸は2,3,4番船艙に被弾し,機関部に直撃弾を受けて左舷に傾斜しながら沈没,こちらは,アイタベ東方37km.

 結局残ったのは第35号駆潜艇のみでした.

眠い人◆gQikaJHtf2 in mixi支隊


 【質問】
 1944/3/31の海軍乙事件において,なぜ関係者は後に昇進できたのか?

 【回答】
 海軍部内の宥和を乱すことへの懸念が働いたためだという.
 一般に,組織は時間が経過すると,組織自体が人間を掣肘するようになる,事勿れ主義が跋扈するが,部内の融和を誇った日本海軍は,細かい人事考課に厳しい反面,肝心な作戦や統帥の失敗に対しては,殆ど厳正な処置をとらなかったという.

 石渡幸二はこれについて,「戦争遂行のための真摯な姿勢は全く見られない」と評している.

 詳しくは,「世界の艦船」2005年8月号,p.90-91を参照されたし.


 【質問】
 2次大戦中、連合軍から安全を保障されていた船が撃沈させられた事件について教えてください。

 【回答】
 病院船の場合は、使用10日前までに、船名、総トン数、全長、Mast、煙突の数など細目を敵国に通告しなければなりません。
 しかも、軍事目的に使用しないこと、外部を白色に塗り、国旗と共に赤十字旗を掲げること、と言った細目があり、戦場の至近では行動しないことが規定されています。
 勿論、疑わしい場合は、敵国の臨検を受ける場合もあります。

 で、これら病院船が明確に攻撃されたのは、ぶえのすあいれす丸(1943.11.26)で、B-24にRabaul〜Palau間で爆撃を受け、70名爆死など、患者154名が戦死、行方不明、船員、衛生班293名のうち、4名(うち2名が看護婦)で、漂流中には銃撃を受けています。

 有名なのは阿波丸事件で、これは、東南アジア方面の日本軍に捕らえられていた165,000名の連合国軍捕虜、抑留民間人に救援物資を輸送することで連合国の「安導券」を得ていました。
 これは、往路、復路とも攻撃、臨検、停戦命令を受けない、と言うもので、緑地に白い十字標識を戦隊の九箇所に書き、夜間はイルミネーション、航行灯を灯して航行しているものです。

 日本政府は米国政府に対し、往路、復路の寄港地、正午位置の通報を細かく行い、日程変更の場合も至急報で伝えています。

 ところが、米国潜水艦Queenfishが、この米国政府が絶対安全を保証していた船を駆逐艦と見誤った(故意に近い過失とされる)として撃沈してしまいました。
 この事件は、阿波丸に関する情報が潜水艦に配信されていたにも関わらず、艦長の手元に届いておらず、認識していなかったために攻撃に至ったとされています。
 しかし軍事法廷は,重大な情報の内部処理を十分に行えなかった事自体、艦長の責任であるとして、この艦長を有罪と処断しました。

 阿波丸事件についての詳細は,下のページを参照してください.
http://yokohama.cool.ne.jp/esearch/sensi-zantei/sensi-awamaru1.html

 また,緑十字船を日本軍が悪用して兵員輸送に使ったケースとして橘丸事件があり,阿波丸事件の際に艦長側の弁護の材料にもされています.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2,
system ◆systemVXQ2,
鷂 ◆Kr61cmWkkQ他)


 【質問】
 どっかのブログで
「映画『ローレライ』はネタだけど,3発目の原爆を日本軍が阻止したのは事実」
とあったが、俺は釣られたのか?

 【回答】
 よくある勘違い.かなり巷間に広まってるので都市伝説と言うべきか。

 原爆をテニアンに輸送し帰還途中に撃沈されたインディアナポリスを、「原爆輸送中に撃沈された」と紹介した 本があったらしい。
 で、その話が「三発目の原爆を輸送中に撃沈された巡洋艦があった」と大きくふくらんでいった。
 タイトルは失念したが、杉良太郎が特攻隊員を演じた映画のクライマックスで、「原爆を輸送している米巡洋艦を撃沈すべく出動」するというシーンがあり、個人的にはここら辺が噂の出所ではないかと思っている。 ※

 日本海軍は,アメリカが原爆投下をする為にサイパンを使う事は,かなり前からわかってた
 その為に,潜水艦を中心とする哨戒網も細々ながら作っていた.
 その哨戒網にひっかかったのが,原爆をテニヤンに運び終ってフィリピンに向かう途中だったインディアナポリス .

 上まあ,まともなストーリーにするのであれば、
「インディアナポリスがテニヤンに着く前に,そのローレライを搭載した伊-58で沈める」
みたいな話になる訳だろうか.

(軍事板)

 ※映画「ジョーズ」でも,
「巡洋艦インディアナポリスは原爆を輸送していたから,撃沈されても極秘任務だったために救助信号を発信できず,仲間が次々と鮫に食われていった」
というセリフがあったような…….


 【質問】
 以下のケースにおいて,文部省の検定意見は正しいのでしょうか?

執筆者の自主規制進む 記述修正で関係団体らに怒り 4月6日10時35分 (琉球新報)
 五日公表された中学校の教科書検定結果で、日本軍による沖縄の住民虐殺の記述が大幅に減ったことについて、教育関係者らは「アジアに対する日本の加害責任をぼかそうとするのと同じ構造」「国家が犯した過ちについての記述が薄められる傾向にある」などと指摘し、現状を危ぐする声が上がった。疎開船の記述があいまいなものに修正されたことに、関係団体からは批判の声が上がった。
 日本軍が住民をスパイ視して殺したことについて、琉球大学の高嶋伸欣教授(社会科教育)は「日本軍の加害責任をぼかしたい保守勢力から、従軍慰安婦と同様に圧力がかかっていたケース。記述が減ったのは、合否の判定を最後の最後まで保留する今の検定制度の影響が大きい。初めから駄目と言われそうと、執筆者の自主規制が進んでいる」と指摘した。
 沖縄国際大学の石原昌家教授(平和学)は「有事法制下では、軍隊の住民虐殺は起きてはいけないことで、国民に知らせないようにする動きがある。その動きがますます強まっていると言える」との見方を示した。

 疎開船について触れた帝国書院は原本で「対馬丸をはじめ多くの疎開船がアメリカの潜水艦によって沈められました」と記述し、検定意見で「対馬丸のほかに、沈められた疎開船が多数あったかのように誤解するおそれのある表現である」と指摘された。
 これを受け、「疎開する学童を乗せた対馬丸がアメリカの潜水艦によって沈められました。このほかにも、沖縄県民を乗せた多くの船が遭難しました」と修正された。


 戦時遭難船舶遺族会の大城敬人(よしたみ)事務局長は「対馬丸以外にも県民を乗せた25隻の船が潜水艦の攻撃や空爆で沈没した。戦争の実態を後世に伝えるべき教科書でのこのような検定は許せない」と話した。
 沖縄国際大学の安仁屋政昭名誉教授は「沖縄戦の疎開は、作戦の足でまといの排除と食料の確保が目的だった」として、一般住民も国策で疎開させられたとの認識を示した。
(後略)

 【回答】
 対馬丸記念館によれば

 この年7月から翌20年3月の最後の疎開までに、沖縄から出航した延べ187隻の疎開船(約8万人)のうち、これほどの民間人が犠牲になったのは対馬丸をおいて他にありません。
 わたしたちは、対馬丸撃沈事件を過去の歴史的事実だけにとどめておくべきではないと考えます。

対馬丸記念館・建設理念

とあり、沖縄から出港した疎開船・疎開数の総数は判っているだけで
「187隻・約8万人」
であると言うことが判ります。

 で、記事によれば

 戦時遭難船舶遺族会の大城敬人(よしたみ)事務局長は
「対馬丸以外にも県民を乗せた25隻の船が潜水艦の攻撃や空爆で沈没した。戦争の実態を後世に伝えるべき教科書でのこのような検定は許せない」
と話した。

としています。

 調べたところ

遺族会の調べによると、戦争中、潜水艦による魚雷攻撃や空爆などで沈没した沖縄関係の遭難船舶は二十六隻、県出身の犠牲者はおよそ三千四百人に上る。

沖縄タイムス 社説 2001.11.30

と、戦時遭難船舶遺族会によれば撃沈され遭難した船舶・疎開者は
「26隻・約3400人」
であるとされています。

 しかし、詳しく見てみると

 戦時遭難船舶遺族会(島袋林功会長代行)の資料によると、対馬丸を含め嘉義丸、赤城丸、湖南丸等戦時遭難船舶は二十六隻、犠牲者は三千四百二十七人となっている。
 以下「戦時遭難船舶」と言う場合は、太平洋戦争中に米軍の攻撃を受けて沖縄近海等で遭難した船舶を呼ぶこととする。
 戦時遭難船舶は、
(1)南洋群島から本邦へ引き上げる船舶、
(2)沖縄から南九州や台湾へ向かう疎開船、
(3)本土から沖縄への帰郷者を乗せ航路の途中で遭難した輸送船
の三つに大別される。

戦時遭難船舶犠牲者の洋上慰霊祭・遺族補償等に関する質問主意書

と言うことで、この数字がイコール疎開船の被害数というわけではないようです。
 「参議院議員照屋寛徳君提出戦後処理問題としての戦時遭難船舶犠牲者に関する質問に対する答弁書」にこの「戦時遭難船舶」26隻のデータがありますが
・出港地が沖縄ではないもの。
・遭難日時が昭和19年7月〜昭和20年3月ではないもの。
・遭難海域が沖縄〜南九州・台湾ではないもの。
を除きました。

 遭難日時を限ったのは,県へ学童疎開に関する通達が出されたのが昭和19年7月でそれ以降学童疎開が開始されて疎開が本格化している事、20年3月以降は本土〜沖縄・台湾間の海上交通が途絶したと考えられる為です。
 念の為に付け加えますと,疎開自体は昭和19年7月以前から行われています。

参議院議員照屋寛徳君提出戦後処理問題としての戦時遭難船舶犠牲者に関する質問に対する答弁書(参議院ホームページ)

8 台中丸

 所有者は大阪商船株式会社、管理主体は船舶運営会、遭難年月日は昭和十九年四月十二日、遭難海域は奄美大島北西方海域、沈没原因は潜水艦による攻撃である。
 出港地、航行目的、護衛の有無、乗船人員数、船客死亡者数、生存者数、事故報告書の有無及び死亡者名簿の有無については、把握していない。

14 宮古丸

 所有者は大阪商船株式会社、管理主体は船舶運営会、遭難年月日は昭和十九年八月五日、遭難海域は徳之島伊仙崎沖海域、沈没原因は潜水艦による攻撃である。
 出港地、航行目的、護衛の有無、乗船人員数、船客死亡者数、生存者数、事故報告書の有無及び死亡者名簿の有無については、把握していない。

16 開城丸

 所有者は大阪商船株式会社、管理主体は船舶運営会、遭難年月日は昭和二十年三月二十四日、遭難海域は東シナ海、沈没原因は飛行機による攻撃である。
 出港地、航行目的、護衛の有無、乗船人員数、船客死亡者数、生存者数、事故報告書の有無及び死亡者名簿の有無については、把握していない。

となりました。

次に「戦時下に喪われた日本の商船」で調べますと

 昭和18年3月から陸軍の輸送船として鹿児島と那覇を往復していた台中丸は、昭和19年4月12日に奄美大島西方で米潜水艦の雷撃をうけました.
 老朽化した船体は真っ二つに折れて3分で水没、154名が戦死します.

■0412台中丸

 沖縄の人々の生活に深く密着していた「宮古丸」はその2週間前の8月5日に奄美大島から那覇に向かう航路で撃沈されておりました.

■0805宮古丸

と、残ったのは「開城丸」一隻となりました。

 開城丸については資料が少なく、恐らく大阪商船の鹿児島〜沖縄間の定期航路を運航中に撃沈されたと推定されます。
 が、定期運行中に撃沈されたのか、疎開船として撃沈されたのか、兵員輸送中に撃沈されたのかは不明でした。

 ということで、開城丸に対馬丸を足して合計2隻かと思っていたら

 疎開輸送は延べ187隻におよんだが海上における犠牲は対馬丸1隻だけであった。
第3部 学童疎開船対馬丸遭難と沖縄空襲

 因みに沖縄からの疎開船は,昭和19年7月から翌20年3月まで178隻,人員にして約7万人が疎開したが、犠牲になったのは対馬丸のみで、戦時中は勿論 軍側の絶対秘密として公表されることはなく、この悲痛なできごとを関係者以外の人々が知るようになったのは,昭和37〜8年になってからである。
疎開船対馬丸 1

あれま・・・(汗)

 と、とりあえず2隻で計算してみますと喪失率1.06%!・・・orz

 どうも
「対馬丸をはじめ多くの疎開船がアメリカの潜水艦によって沈められました」
と書くのは明らかに間違い
のようですね。
 しかし前述のように,昭和19年7月以前の疎開についても船舶の遭難被害が出ていることは事実ですので,修正後の
「疎開する学童を乗せた対馬丸がアメリカの潜水艦によって沈められました。
 このほかにも、沖縄県民を乗せた多くの船が遭難しました」
であればまぁ完全な間違いではないわけですが,「多くの」と言う形容詞が適切かどうかは個人的には疑問です。

 【参考】

戦時下に喪われた日本の商船
なつかしい日本の汽船

第3部 学童疎開船対馬丸遭難と沖縄空襲
第5部 特別攻撃隊と学徒動員

対馬丸記念館
疎開船対馬丸 1

(多事某論,2005/4/7)

 上の記事内にコメントを寄せている教授達に,この回答への反論を,ぜひ聞きたいところですな.


 【質問】
 伏龍特別攻撃隊という部隊は、吐いた息が水面に出て気付かれたりすることはないのか?

 【回答】
 太平洋戦争末期に本土決戦用に編成された伏龍特別攻撃隊は,潜水服を着用した兵士が海底から海岸近くの敵艦に近づき、その船底に棒の先に取り付けた爆弾を突きつけて爆発させるというものだが,この潜水服には圧縮空気タンクの他に、泡を出さないように薬品によって呼気の二酸化炭素を吸着し再循環させる装置がついていた。
 伏龍で使用されたのは、苛性ソーダ(水酸化ナトリウム)を使用した炭酸ガス除去装置。
 この装置を使用する際は、鼻から空気を吸い込み口から吐き出すことが要求された。
 この呼吸法を守らないと、苛性ソーダ溶液を口から吸い込むことになり、その場合、非常に高い確率で吸い込んだ者は死亡することになった。

 また、粗製濫造されたため苛性ソーダの容器は酷い作りのものが多く、隙間から海水が侵入して苛政ソーダと反応し、高熱の水溶液となって逆流することもあった。
 この場合にも多くのケースでそのまま死亡事故につながった。

 そうでなくても、この伏龍の潜水服、非常に重く(70kgくらいあったらしい)、水中でも行動はままならなかったらしい。


 【質問】
 重巡「インディアナポリス」艦長だったチャールズ・B・マクベイ3世が軍法会議にかけられた理由を教えてください.
 後に軍法会議は誤りであったとして名誉回復がなされているようですが,当時は世論的にも叩かれていたのでしょうか?

〜〜wikiから引用〜〜

 艦長チャールズ・B・マクベイ3世(1944年11月からインディアナポリスの艦長)は生き残った.
 1945年11月,彼は軍法会議にかけられジグザグ運動を怠り船を危険に晒したとして有罪とされた.
 軍法会議のいくつかの事実は論議を呼んだ.
 アメリカ海軍自体が船を危険な状態に置いたという確かな証拠があった.また,伊58の艦長橋本以行元少佐は,ジグザグ運動をしていても撃沈できたと証言した.
 そして,アメリカは第二次世界大戦の戦闘で約700隻の船を失ったが,軍法会議にかけられたのはマクベイ元艦長ただ一人であった.
 有罪になったことでマクベイ元艦長の海軍での経歴は終わり,死んだ乗組員の遺族に責め立てられ,1968年に自殺した.

 【回答】
 長崎への原爆投下のニュースにかき消されて公表されませんでしたが,各マスコミが独自調査を開始し,海軍が窮地に立たされます.
 で,Indianapolis撃沈(撃沈時点のSOSが罠と思って顧みられず,予定日時を過ぎて到着しなくとも想定内と考えられ,レイテ島到着予定日に,到着したものと見なされ,プロット盤から消された.撃沈が判明したのは幸運にも当該地区を飛んだ偵察機の機長が,装備の修理に後部銃座に来て,油膜を発見したからで,海軍の大救出作戦で,乗員1096名中,生き残りは316名だった)の失態の責任者を誰にするか,Scapegoat探しをした結果,ニミッツ提督の反対にも関わらず,キング提督,フォレスタル海軍長官が,軍法会議の設置を認めました.

 責任者を追求し出すと,キングやフォレスタルにまで累が及びます.
 で,結局,艦長を有罪にして,自分たちの罪を免れた訳です.要は蜥蜴の尻尾切りですな.

 その訴状ですが,

 1. 訴状第一
 怠慢により海軍艦艇一隻を危険に晒したこと.
 起訴内容
チャールズ・B・マクヴェイ三世,大佐,米海軍はUSSIndianapolis艦長として服務中,単艦で,護衛を伴わず,マリアナ諸島グアム島からフィリピン諸島レイテ島まで,途中,敵潜水艦と遭遇する恐れのある海域を通過していたところ,1945年7月29日,午後10時30分(現地時間同9時半)もしくはその前後に,月の出後の視界良好の中,同艦の安全に対する適切な配慮と注意を怠り,それ以降ジグザグ航行を行わしむることを怠り,合衆国が当時戦争状態にあるなか,その怠慢行為によって,USSIndianapolisを危険に晒した.

 2. 訴状第二
 任務遂行に於ける有責の無能
 起訴内容
 チャールズ・B・マクヴェイ三世,大佐,米海軍はUSSIndianapolis艦長として服務中,マリアナ諸島グアム島からフィリピン諸島レイテ島まで航行している際,1945年7月29日,午後10時30分(現地時間同9時半)もしくはその前後,同艦が著しく損傷を受け,沈没に瀕しているとの情報を得ながら,艦長たる義務である,同艦放棄に必要な適時の命令をその場で直ちに発せず,効果を確認せず,その無能故に,合衆国が当時戦争状態にあるなか,同艦の沈没により多数の乗員を失わせしめた.

 救出された乗員は,その後,事件については殆ど話しませんでした.
 1960年に一人のAP通信の記者がそれを取材する時でも,殆どの乗員が無視を決め込んでいました.
 その後,やっとIndianapolisの戦友会が開かれるようになっています.

 後,世論的には高級紙は比較的冷静に報道していましたが,遺族の中には艦長の自宅にまで押しかけてきた者もいました.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2)


 【質問】
 太平洋戦争末期のソ連参戦ですが,ソ連軍は,北方領土への上陸にはどんな船舶を使ったのですか?

 【回答】
 北千島方面は主に民間船舶(大は貨物船から小は漁船まで)や掃海艇を用いたようだ.
 供与されたLSTは殆どが樺太南部への上陸へと回された模様.
 南千島へは北海道上陸がなくなった樺太南方の兵力(南千島でLSTを使用したかは不明)も一部へ投入された .

 北千島方面への揚陸作戦は本当に突然だったようで,大半が民間徴用で賄われたのだが,物資や装備を考えずに詰め込んだ結果,占守島上陸で大変な事になった.
 また訓練もなしに灯火管制で進んだので,漁船の中の人も大変だったようだ.

軍事板

ソ連軍海軍歩兵が使っていた船舶
(『ロシア海軍歩兵設立300周年記念本 大祖国戦争の海軍歩兵』より)


CRS@空挺軍 in mixi,2008年03月30日18:15


 【質問】
 戦後の掃海任務中の「ストライキ」について教えてください.

 【回答】
 「第40号海防艦」と言う薄っぺらい本があります.

 この艦は,丁型海防艦の1隻として,1944年9月7日大阪の藤永田造船所で起工し,9月20日にキールと船体下部の組立開始,11月15日には進水式,そして,12月22日竣工. 正味,4ヶ月弱で艦艇1隻出来上がりです.
 しかし,この型の中には建造中にきちっと艤装員が検査をしておらず,回航中に船体からの漏水で,配備即入渠という艦も有ったようです.

 それから1ヶ月,呉周辺の瀬戸内海で猛訓練を行い,2月初旬に最初の船団護衛任務に就き,暫く香港,台湾のヒ船団を護衛しますが,1945年5月に舞鶴に転属し,以後敗戦まで日本海で船団護衛に当たっています.
 だから,この艦は生き延びたと言えるでしょう.

 敗戦は新潟港で迎えますが,8月16日に新潟を出港し,小樽へと向かっています.
 これは,ソ連軍の進駐に備え,婦女子を引揚げさせる為の派遣だったそうです.
 ちなみにこの航海で,この海防艦は艦長の命令で,爆雷を一発投下しています.これ,新鮮な魚介類を捕るための投下だった訳.

 さて,この艦の話は敗戦以降も続きます…というか寧ろこっちの方が長い.

 一旦解散したものの,艦の状態が良かったからか,敗戦後の後始末任務に駆り出され,引揚げさせた兵士を呼び戻し,先ず,鎮海で弾薬の海中投棄作業,次いで,朝鮮海峡に日本が敷設した繋維機雷…4,200平方海里の海域に〆て6,000個の機雷が,4線に渡って敷設されたもの…これの掃海任務に就きました.

 この掃海任務には,最初は旧海軍が使用していた大掃海具二型を使いましたが,機雷がぶつかって自爆する危険があったため,一旦引揚げて,米軍からパラベーン掃海具の引渡を受け,掃海作業を再開しています.
 後者の方が,使い勝手が良かったそうですが,危険な任務には変わりなく,戦争を生き残った海防艦や,米海軍の掃海艇などが触雷し,沈没していました.

 最終的に,1946年4月までに3,179個の機雷を掃討しました.

 この間,第40号海防艦などの掃海部隊は,触雷沈没した米海軍の掃海艇の乗組員を救うため,我が身も省みず機雷原に乗り入れ,死者の収容と怪我人の手当,生存者の救出と大車輪の活躍をし,後に米海軍から杉山中将宛に感謝状が出されていたりします.

 しかし,この米海軍の掃海艇沈没によって,日本側艦艇は掃海を中止し,米海軍の指揮官に対して,
1.安全なる掃海方法,設備の再検討
2.事故発生時の遺族補償
3.掃海手当の増額
などの条件を提示し,3月7日に佐世保に帰投,ストライキを敢行しました.

 3月29日,率先して帰投した第40号海防艦艦長は,米軍に対する命令違反者(ストライキ第一号)と言う理由で,軍法会議に召集されますが,彼の言うことの方が筋が通っており,取り調べも,尋問もなく,法務官舎で2ヶ月軟禁状態となって,酒をかっ喰らって麻雀をしていたらしいです.

 その後,艦長は交代し,再び下関海峡での掃海任務に従事.

 1946年9月に特別保管艦に指定され,翌年8月29日に戦時賠償艦として,中華民国に引き渡され,「成安」と改名して,戦後も台湾に逃れて使われ続け,1963年に除籍されたそうです.

 掃海任務は戦後も長く続けられた訳ですが,こうした地道な任務に就いている人々には頭が下がる思いです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi

日本海軍の掃海作業の様子


 【質問】
 B-29によってバラ撒かれた機雷は,戦後の掃海が容易なようには設計されていなかったのか?

 【回答】
「ハッハッハ,大丈夫デース! 昭和23年頃には感応力ヲ失イマース!」
 そして3年後.
「あのう,まだまだ機雷の被害出てんですけど……?」
「ハッハッハ,チョーーート計算みすガアッタヨウデース!」
ってな顛末.

 以下引用.

 昭和20年8月15日太平洋戦争の終結により,4ヶ月余り続いた関門に対するB-29の機雷攻撃は終止した.
 しかし,大量の感応機雷が投下された関門の危険性は持続し,航行が著しく制約された.海軍は,下関防備隊跡に下関掃海部を置き,掃海隊を所属させて関門の航路再開に努めた.
 しかし,米軍の資料によると関門に投下された米軍の機雷は4329個(日本側資料によると4696個)に達し,これを掃海によって絶滅することは容易ではなかった.
 昭和20年11月末海軍が解体した以後も掃海部は存続し,掃海作業が継続された.

 米軍投下の感応機雷の命数は順次延長されていた.すなわち,米軍は日本に投下した感応機雷は昭和23年ごろ感応力を失うと日本政府に通告していたのであるが,5年たっても10年経っても触雷事故が発生するため米国は順次その命数を延長してきたのである.

http://www.ne.jp/asahi/hayashi/love/kanmon8.htm


 【質問】
 パチンコ屋で軍艦マーチが流れるようになったのは何故ですか?

 【回答】
 確かなソースとは言えないが,
http://www.ne.jp/asahi/mili/surva/1stgame/gunkan.html
によれば,
「昭和26年春頃に有楽町駅前の『パチンコ・メトロ』の元海軍航空機搭乗員の店主が気晴らしにかけたのが始まり.
 そのままMP本部にひっぱられちゃったものの、音楽を流すだけであれば問題なしとされ、無罪釈放。以後ひっきりなしにかかるようになってそのうち全国に広がった」とか.

 まあ、この手の「業界初」話は,どの程度信頼できるかだね。

(ふー in 軍事板 & FAQ BBS


◆◆◆真珠湾攻撃

 【質問】
 なぜ大艦巨砲主義は開戦の主役になれなかったのか?
 日本海軍はなぜ開戦の主役に航空機を据えたのか?

 【回答】
 漸減邀撃構想が成り立たなくなったため.

 「漸減邀撃」作戦構想は,基本的には「待ち」の作戦である.敵(アメリカ)がハワイから主力部隊を出動させ,日本近海に迫ってこなければ,作戦は発動できないのである.
 もし,アメリカ側が直ちに出撃してこず,戦力増強に専念したらどうなるのか.
 1941年7月の南部仏印進駐への報復として,アメリカからの石油輸入を止められた日本としては,待てば待つほど石油備蓄は減少し,とりわけ,艦隊を停泊させておくだけで膨大な石油を消費する海軍にしてみれば,一日待てばそれだけ艦隊が動かしにくくなるのである.
 したがって,米艦隊来攻をじっくり「待つ」事はできない.

 そのため日本海軍は,「漸減」作戦をさらに積極化して,海上航空戦力を全面的に頼り,日本側からハワイを叩くということに走らざるをえなくなったのである.

 しかし,日本海軍では大艦巨砲主義と航空主兵論が分離したまま,双方が独自の構想の下に戦争に突入したため,第1航空艦隊は,艦艇の巨砲の力に頼らない点で確かに画期的ではあったが,戦艦・巡洋艦などは含まず,戦略単位としては中途半端で,特に防御力は極めて脆弱だった.

  詳しくは,山田朗著「軍備拡張の近代史」(吉川弘文館,1997/6/1),p.193-194を参照されたし.


 【質問】
 真珠湾攻撃まで,米海軍は空母の威力を全く気付かずにいたのか?

 【回答】
 全く,というわけではない.
 1921年のミッチェル准将の爆撃実験の他,1929年1月の「フリート・プロブレムW」演習等で空母の威力が確かめられていたという.
 以下引用.

 1929年1月の「フリート・プロブレムW」演習では,それぞれ空母を含む2つの部隊が対抗で,パナマ運河の模擬攻防を行った.
 攻撃側の空母サラトガ Saratoga CV-3 は夜間に高速でパナマ運河から220キロほどの攻撃発進位置へ進出,夜明けと共にマーチンT4M雷撃機17機を始めとする攻撃隊を発進させた.
 これらの攻撃隊は,空母レキシントン Lexington CV-2 や陸上基地の陸軍戦闘機からも全く妨害を受けないまま,パナマ運河上空に到達,閘門を「破壊」し,飛行場を「使用不能」とする戦果を挙げた.
 空母の機動力と飛行機の迅速性と行動範囲が,大規模で決定的な奇襲を可能とすることが証明されたのである.
 攻撃側の「損失」は,エンジン不調で陸上基地に着陸した雷撃機4機と,期間中に燃料不足となり,洋上に不時着水したボーイングF3B戦闘機1機だけであった.
 この不時着水機も乗員は救助されている.

 同様の演習はその後も繰り返され,空母からのT4M雷撃機部隊は,ハワイのパール・ハーバー基地への奇襲攻撃にも成功している.

「世界の艦船」2005年4月号,p.77-78(岡部いさく著述)

 したがって,真珠湾攻撃がなければ米海軍は戦艦を主力としたままだっただろうという,よくある仮想戦記的見解は,必ずしも正しいとは言えない.


 【質問】
 真珠湾攻撃の時,ハワイに向かって来る日本軍航空部隊をハワイの米軍レーダーが捉えておきながら,そのレーダー担当者が「本土から飛来する予定になっている編隊だろう.」と誤認して見過ごしてしまったという話.

1 本当の話でしょうか?
2 もし,レーダーに捕らえた時すぐに警報を出していたら,日本航空隊の真珠湾上空到達までに米軍航空隊を
  スクランブル発進させるとか,対空戦闘用意するだけの時間的余裕があったでしょうか?
3 1が本当だとすれば,誤認して見過ごしたレーダー担当者のその後はどうなったのでしょうか?
  軍法会議で極刑に問われたか,あるいはこのレーダー施設も爆撃されて死傷したかだと思うのですが.

 【回答】
1.
 本当の話

2.
 当時の真珠湾の警戒・連絡態勢を考えると疑問.
 例えば駆逐艦ウォードの特殊潜行艇発見の報告を受けて,当直待機艦の駆逐艦モナガンに潜水艦捜索命令が届くまで1時間近くかかっている.

3.
 詳細は不明だが,軍法会議にはかけられてない.
 レーダーの対象を味方と誤認したのはミスではあっても,軍法に触れる行為ではない.


 【質問】
 「トラトラトラ」ってあるじゃないですか
 あれはどちらかといえば作戦成功や、敵機撃墜の時とかに使う歓喜の言葉ですよね?
 「ニイタカヤマノボレ」というのは真珠湾攻撃のときの作戦開始合図のメッセージですよね?
 うちの高校の先生がトラトラトラが攻撃の合図だといっているんですが・・・

 【回答】
 「ニイタカヤマノボレ1208」は,開戦日を伝える暗号文です.

 「トラトラトラ」の意味は「奇襲攻撃成功」「我 奇襲ニ 成功セリ」です。
 「ト」は突撃、「ラ」は無線のモールス符号が同じアルファベットの「S」を指します。
 これで「トS」となり「突撃サクシーデット(成功)」の頭文字です。

 ソースは世界文化社「連合艦隊ー南雲機動部隊編ー」です.

 時系列順で語ると
 (1) 「トツレ(突撃準備隊形作れの意)」の打電のかわりに信号弾を打ち上げる(注1)
 (2) 信号弾の打ち上げで手違いがあり、攻撃が予定通りにいかなくなった(注2)ので、「トトト……(突撃)」を打電.
 (3) この後,奇襲攻撃成功を意味する「トラトラトラ……」を打電.

(注1:
 通常の海戦では信号弾ではなく「トツレ(突撃準備隊形作れの意)」の打電が行われ、突撃準備隊形を作ります。
 注2:
 予定では奇襲成功の場合1発、奇襲不成功で強襲となったの場合2発、信号弾を打ち上げることになっていました。
 強襲とは、敵に反撃の兆候が有った場合のことと解釈していいと思います。
 奇襲では敵の迎撃機の心配が無いので、最も攻撃効果が上がるように、雷撃→水平爆撃→陸上爆撃・銃撃の順の予定でした。
 強襲の場合は、まず敵の迎撃戦闘機を封じなければならないので、陸上(飛行場)爆撃・銃撃→雷撃→水平爆撃となります)

 ハワイ上空で攻撃隊指揮官の淵田中佐は奇襲と判断し、信号弾を1発打ち上げます。
 しかし、上空警戒中の零戦隊指揮官の板谷少佐はこれを見落としてしまいます。
 戦闘機隊は突撃準備動作を取らず、攻撃隊はどんどん真珠湾に近づいていく。
 淵田中佐はやむなく、もう1発信号弾を打ち上げます。
 今度は板谷少佐はこれを視認し、突撃準備隊形を作りました。
 ところが、これを「信号弾2発=強襲」と誤認した人がいました。急降下爆撃隊指揮官の高橋少佐です。
 高橋少佐は急遽、強襲攻撃に移り、敵飛行場に向かって降下を始めました。
 こうして、訓練に訓練を重ねた攻撃計画は大きく狂ってしまい,淵田中佐はやむなく「トトト…(突撃)」を打電しましたのです。

 ソースは,光人社NF文庫「海戦辞典」、世界文化社「連合艦隊ー南雲機動部隊編ー」、別冊歴史読本「日本海軍艦隊総覧」です.

(極東の名無し三等兵 in FAQ BBS)


 【質問】
 真珠湾攻撃よりも先に連合軍への攻撃が行われた戦闘があるというのは本当ですか?

 【回答】
 コタバル上陸作戦のほうが,時間的には先に行われています.
 以下引用.

「〔コタバル上陸部隊の〕侘美支隊長は淡路山丸の船橋で,船長,高級副官,上陸用舟艇の操作の責任者である独立工兵連隊長などと,上陸成功の無電を待ち侘びていた.
 〔略〕
 2時20分,1隻の舟艇がやっと戻ってきた.侘美支隊長は,その艇長の報告を元に,
『八ヒ0130第1回上陸成功す,〔略〕』
と軍司令部に打電した.
 午前1時30分(日本時間)は真珠湾奇襲攻撃開始よりも1時間50分早かった.〔略〕
(もっとも,防衛庁戦史室編集の『マレー侵攻作戦』では,侘美支隊長のこの報告を承知の上で,他の資料も勘案して,コタバル上陸時刻を午前2時15分としてある)」

(森山康平著「秘蔵写真で知る近代日本の戦歴8 マレー・シンガポール作戦」,
フットワーク出版,'91,P.55-56)


 【質問】
 米軍が先に日本艦を撃沈していたという,このサイトは信憑性があるものなのでしょうか?
http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/no_frame/history/honbun/pearl_harbor.html
 もし本当だとしたら,先制攻撃をしかけたのはアメリカというこになり,歴史の教科書は間違っていることになりますが、どうなんでしょうか?

 【回答】
 真珠湾攻撃の前に、アメリカ海軍の駆逐艦が日本の特殊潜航艇を撃沈したのは事実です。
 ただし、他国の領海内で、潜水艦が潜航したまま航行するのは国際法上、戦闘行為と見なされます。
 従って、米軍の行為は単なる「正当防衛」であり、先制攻撃を仕掛けたのは日本であるという事実は動きません。
 当時の技術では潜水艦の潜航は攻撃時に限られており(通常は浮上して航行する)、それで外国の領海内をウロウロしてたら撃沈されて当然です。不審船事件みたいなもんですな。
 また、大西洋では米船が独潜水艦の攻撃を受けていたことも勘案すべきでしょう。

 それに、真珠湾攻撃の数時間前に英領マレーのコタバルで既に戦闘が始まっております。
 ちなみに日本は英国に宣戦布告しとりませんです。遅れたどころの話じゃないわけで。

 念の為、伊−1〜402と呂−31〜117まで調べましたが,開戦前の交戦による喪失艦はありませんでした.
 伊−70が12月10日にエンタープライズの艦載機の攻撃で撃沈されてます(ハワイ諸島モロカイ島ハラワ岬北東(23度50分N 155度35分E).コレより前は見当たらなかったです。(添削よろしく

 これに関する公式レポート.
http://www.history.navy.mil/docs/wwii/pearl/ph97.htm

 なお,質問者が引用しているHPですが,例えば以下の記述にも見られるように,戦史に対する誤認識があるようです.

「その後、『飛虎隊』は、日本陸軍が新たに「ゼロ戦」(三菱零式艦上戦闘機)
── 米軍が「ゼロ・ファイター」(Zero Fighter)として恐れた高性能戦闘機を支那戦線に投入した事で壊滅」
http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/no_frame/history/honbun/flying_tigers.html

 情報源とするには問題があるのではないかと思われます.


 【質問】
 真珠湾に投入された甲標的のうち,今も発見されていないものがあるって本当ですか?

 【回答】
 おっしゃる通り,真珠湾に投入された5隻の甲標的のうち,発見されたのは4隻のみです.

*岩佐直治大尉艇:引き揚げ後遺体と共にそのまま地中に埋められる.

*酒巻和男少尉艇:海岸で座礁し鹵獲後戰意昂揚のため全米を巡業.
             現在は"The National Museum of the Pacific War"内のニミッツ博物館に展示.

*広尾 章少尉艇:1960年に真珠湾外で発見後日本に返還.現在は江田島に.

*古野繁実中尉艇:1992年に艇尾部分の残骸を発見.

ということで,横山正治中尉艇はいまだ発見されていません.

 なお,近年甲標的は湾内で雷撃に成功していたという説があり,それに答えるべく,「ナショナルジオグラフィックTV」が2000年11月に湾内を捜索しましたが,この際も横山艇と思われる残骸は発見できませんでした.

(名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)


 【質問】
最近、
「ルーズベルトは真珠湾攻撃を事前に知っていた.
 ただ、日本と戦争する口実が欲しかったから放置した。
…と、いうことが最近の研究で分かった。これは最早一般的な定説だ」
みたいなこと言う方をたまに見かけるのですが、これって本当の話ですか?

 【回答】
 間違い.

 まずその説は終戦直後から、1946年ごろの米雑誌に既に掲載されておるし,「最近の研究」ではルーズベルトら米政府首脳は日本がまずフィリピンを攻撃するものと踏んで警戒していたことが,ますます明確になってきている.
 ちなみに90年ごろのロシアでは,「真珠湾攻撃を企画し日本海軍に吹き込んだのは旧ソ連軍参謀本部である」という説が爆発的に広まっておった.

 その珍説は,そもそもはルーズベルトの四選を阻むために対立候補が流そうとしたデマが独り立ちしたものといわれています。
 これを,数年前にロバート・スティネット Robert B. Stinnett なる人物が米海軍の新たな公開文書から新証拠を発見したとして「真珠湾の真実」と言う本にまとめたため、改めて日本で話題になったものです。
 しかし,その内容は秦郁彦氏編著の「検証・真珠湾の謎と真実」であっさりと論破されています。

 ルーズベルトは自叙伝を残す間もなく急死し、彼が何を知っていたかは完全に謎です。
 真珠湾に攻撃がある可能性を示唆されていたことはありえますが、開戦の糸口にするため,あえて放置したとの考えは,その被害の大きさからして考えにくいと言うのが常識的な回答だと思います。

軍事板

 講談社選書メチエの「真珠湾<奇襲>論争」(須藤真志著,2004.8)という本を買ってください.
 如何にトンデモが蔓延っているか,それを如何に論破するか,色々面白いことが書かれています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2


 【質問】
 どうして真珠湾で日本軍は石油タンクと港湾設備を破壊しなかったんですか? ニミッツ提督も「アレを攻撃されてたらやばかった」みたいなことを書いてるのに.
 日本軍にはもう弾がなかったんですか?

 【回答】
 地上施設を破壊するには一旦戻って爆弾を搭載する必要があり,それを何度も繰り返さなければ確実な損害を与えることができない.
 となれば米軍の航空部隊に反撃する時間を与え,機動部隊の航空戦力が大きく減耗する危険性があった.
 一旦減耗した航空戦力の回復,特にパイロットの養成には時間がかかり,その間にもし敵の反撃があれば対抗できない.
 機動部隊と熟練パイロットは一枚しかない切り札ですから,序盤の牽制である真珠湾でそこまで踏み切れない.
 また,真珠湾にいなかった空母に奇襲攻撃をかけられるという危惧もあった.
 よって,最優先目標の真珠湾に停泊する艦艇の壊滅によって作戦目的は果たせたとしてさっさと引き揚げた.

 石油タンクに関しては,日本側は米軍が地上タンクではなく破壊の難しい地下タンクに石油を保管していたと思っていたという説もある.
 また,一言に破壊といってもそう簡単な仕事でもない.
 その後の戦いでも日米ともに,散発的な空襲では各地敵地上施設の機能を停止させることがなかなかできなかった.結構がんばって回復しちゃうのよ.
 それに,主に船舶用の重油なんで,かなり派手に火を付けないと引火しない.天ぷら油が加熱しないと燃えない様に.

軍事板

 そもそも,日本空母機動部隊は,空襲を阻止する能力が薄弱であることを自覚していたので,一撃離脱戦術しかやりようがなかったという.

 以下引用.

 この戦闘で日本空母部隊は,〔略〕,残存する基地航空機と所在不明のアメリカ空母からの反撃を恐れ,一撃を加えた後,直ちに反転して戦場を去った.
 このとき,日本空母部隊は対空警戒レーダーを持たなかった上,艦戦比(全搭載機に対する艦戦の比率)が29%に過ぎず,その戦闘機の大半を攻撃機の援護に当てたため,防空用として30機あまりを控置しているのみで,空襲を阻止する能力が薄弱であることを自覚していた.

 このような攻撃力と防御力の極端なアンバランスが,開戦痔の日米空母部隊に共通する弱点で,強靭な戦力を持つ対陸上基地戦闘では "Hit and Run"(一撃離脱戦術)を採るのが原則だった.
 後年指摘される,反復攻撃による軍港施設の破壊を実施できる段階ではなかったのである.

「世界の艦船」2005年4月号,p.82(中川務著述)


 【質問】
 戦後のキッド級駆逐艦の名前の由来は?

 【回答】
 日本海軍の真珠湾攻撃時,第1戦艦戦隊司令官として戦艦アリゾナ Arizona BB-39 艦上にあったアイザック・キャンベル・キッド少将にちなんだもの.
 同少将は当日海上にあった最先任者で,艦橋に直撃弾が命中して戦死するまで,艦上で対空戦の指揮を取った.

 以上,ソースは「世界の艦船」2005年4月号,p.172より.


 【質問】
 真珠湾攻撃が完全な奇襲にもかかわらず,日本海軍の損害が

空襲部隊:未帰還機29機 損傷74機 戦死55

となっていますが,これほどの損害を受けたのは何故ですか?

 【回答】
 第2波攻撃隊は奇襲ではありません(^^;
 君がその数字を引いてきた,ネタもとのHPを良く見てごらん.
 第2波攻撃隊が全体の三分の二の被害を出しているのが分かるっしょ.

 また,いくら完全な奇襲でも,初撃で全ての拠点を潰せなければ,反撃を受けるのは当たり前.
 さらに,急降下爆撃は対空射点から見た角速度が小さいので的になりやすく落とされやすい.

 当時、真珠湾には駆逐艦だけでも30隻在泊しています.
 米軍の駆逐艦の主砲は対空対艦両用砲であるため,1隻あたり3から5門程度の高角砲,ざっと100門近くの高角砲で迎撃できる計算になります.
 はっきり言って,奇襲とはいえ,あの程度の損害ですんだのが奇跡です.


 【質問】
 真珠湾攻撃の際,民間人が日本軍に殺されたのは事実ですか?

 【回答】
 巻き添えが出ていないかどうかは不明.
 ただし,当日真珠湾及び周辺の地域で発生した巻き添え被害のほとんどは,米海軍艦艇や高射砲/対空機銃が見境無しにぶっ放した弾の流れ弾.

 艦名は忘れたが,低空飛行する日本軍機を対空機銃水平撃ちしてた脇の艦に銃撃されて上部構造物くまなく”縫われた”駆逐艦があったりと,米軍は流れ弾で相当の被害を出している.

 でもそれらは皆,被害報告で「日本軍機の銃撃」とか「日本軍機の爆撃」として処理されてるので,本当にどこまで日本軍機に攻撃されて被害が出たのかは,今だに不明なまま.


 【質問】
 真珠湾攻撃の際に何故日本軍は上陸をしなかったんですか?
 ハワイを先に押さえておけば,何かと(戦略・政治で)便利だっただろうし.
 単に日本軍に能力が無かっただけ?

 【回答】
 格納庫にドラム缶を山積みしてハワイに辿り着くのが精一杯なのに,その上に上陸部隊とその装備を載せる輸送船が付いたら,とてもじゃないがハワイまで辿り着けない.
 艦隊の足が遅くなるので発見され,奇襲が前提のこの作戦の根底が覆される可能性が高い.
 更には,真珠湾周辺には16in要塞砲等の防護施設が多くあり,戦艦であっても迂闊に近づけるものではない.
 この状況では上陸作戦など,机上の空論にすらならない.
 そして,それほどの危険な作戦を陸軍に頼み込んでも,首を縦に振る可能性は低い.

 真珠湾攻撃ですら当時は投機的と言われたくらい.アレは殆ど奇跡に値するほどの戦果.

軍事板

 石油の話をしてあげます.

 まず備蓄の量です.

陸軍 海軍 民需
貯油 120万t 650万t 70万t 840万t

 そして開戦前の需要予想量です

陸軍 海軍 民需
第一年 100万t 280万t 140万t 520万t
第二年 90万t 270万t 140万t 500万t
第三年 85万t 250万t 140万t 475万t

総計1,495万t

 でもって実際の実消費量

陸軍 海軍 民需
第一年 92万t 485万t 248万t 825万t
第二年 81万t 428万t 153万t 662万t
第三年 67万t 318万t 83万t 468万t

総計1,955万t

 南方石油を抑えた時の供給予想量です

南方 国産 人造石油
第一年 30万t 25万t 30万t 85万t
第二年 200万t 20万t 40万t 260万t
第三年 450万t 30万t 50万t 530万t

総計1,715万t

 実際の南方からの実供給量です.

南方 国産 人造石油
第一年 149万t 26万t 24万t 199万t
第二年 265万t 27万t 27万t 319万t
第三年 106万t 25万t 22万t 153万t

総計1,511万t

 現実の,南方からの石油供給量は,第一段作戦の予想を超えた成功で多かったにも関わらず,実消費量は予想を遙かに超えて,1年目で国内備蓄をたちまちにすり減らして,開戦1年目の終わりで既に実在庫が214万tと開戦時の1/4になっているのがわかると思います.
 海軍の消費が非常に多いのは,MI作戦での大盤振る舞いがかなり影響している訳です.
 ガ島攻防戦で日本の有力な戦艦群がトラックから殆ど動けなかったのも,この油不足が一因です.
 この在庫量で昭和17年にもう一回,MI作戦を超える大遠征であるハワイ作戦をやる余裕があったとは,とても思えません.

軍事板

 少し目先を変えた話をしましょう.
 日本の船舶保有量をご存知ですか?

 まず,開戦時の日本の船舶保有量は約630万トン.
 それを陸軍用・海軍用・民需用に分け,それぞれ,約220万,約180万,約240万トンとしていました.
 本来なら,当時の国内需要(これは軍需産業も含みます)には約300万トン必要ですが,マレー作戦等が終わる第一段階までは約240万トンでしのぐ,としていました.
 事実,第一段階作戦終了後には約110万トンを民需に振り分け,約350万トンとしています.
 出典は大井篤の「海上護衛戦」,調査したのは米国戦略爆撃調査団です.

 で,ハワイ攻略作戦ではどのくらいの船舶を使用する必要があるか,考えたことがありますか?
 仮にハワイ攻略作戦を,真珠湾攻撃の1年後,昭和17年末としましょう.
 この時点で日本は,約24万トンの商船を新たに竣工していますが,発生しないはずのソロモンでの消耗を計算に入れなかったとしても,約80万トンの損害を出してます.
 つまり,約300万トン程度です
(17年の10〜11月は,それまでの平均値分を引いています.
 同時にこれは沈没数で,修理や整備の必要があるものは算定に入れてません).

 開戦当時のハワイには,たしか二個歩兵師団がいたと記憶しています(部隊名忘れた^^;).
 仮にその後,ハワイ防衛部隊が増強されなかったとしても,日本軍上陸部隊は意図的に甘く見て,「攻守三倍の法則」から六個師団が必要になります.
(実際には「上陸戦五倍の法則」を用いたかった^^;).
 六個師団の兵員・装備装備を輸送するには,一個師団当たり20万トンとして約120万トンが必要となります.
 それと海軍部隊用船舶が,航続距離や作戦範囲の拡大等から第一段階時の二倍として360万トン
(海上護衛などで広範囲に対潜哨戒をする必要がありますから).
 この時点で約480万トン.……すでにマイナスですよ.

 この状態がいつまで持つでしょう?
 作戦準備から考えれば,どう考えても3ヶ月は必要です.
 3ヶ月もこれをやったら,国内の産業が崩壊しますよ.
 もちろん,前線には武器・弾薬は届きません.

ばばぼん♪ in 軍事板

 開戦前に大量にハワイに日本人を移民させて,ほどよく行政を牛耳った後で,クーデターを起こし,同時に日本海軍がそれを支援,とかやったほうが,まだ実現性がありそうな気が…….
 つーか,それを実際にやってハワイ王国を潰したのが米国.


 【質問】
 日本軍による「ハワイ攻略計画」って実際にあったの?

 【回答】
 私もそれっぽいもの研究が海軍主導で行われた,というのを何かで読んだ覚えがあるんだけど,陸軍がまともに相手にしなかったんで研究自体が流れた,という記述だった記憶があります.
(何で読んだかは記憶の彼方^^;).

ばばぼん♪ in 軍事板

 戦後の座談会(昭和31年)の記録を読み直したのですが,大本営海軍部作戦部長だった富岡定俊氏の話としてフィジー,サモアをとって米豪遮断をやった後にミッドウェーをやるって話は確かに出てくるのです(それを山本が先にやりたいと言い出した),
 ただ,ハワイ占領の話までは出てこないんですけど・・

 ついでに,海軍としての戦争終結の考えを富岡氏が証言しているんで書いておきますが,ハワイを占領してアメリカ本土へ脅威を与えるなんて話は出てこないんですよ.
 彼曰く,「早きにおいてあれをする」なんて曖昧な表現していますが,つまり「戦争をやめる」これを「早きにおいてする」,思想としては,ハワイでも南方でも南東方面でも相手に出来るだけ大きな打撃を与えていく.
 そしてまず覇権を握る.この覇権を握ったところで妥協したらいい・・・
 なんとも具体性に欠ける終戦案ですが,とにかくこんな思想が最高戦争指導方針として当時は書類に明記してあったと語っています.

 それで第一段作戦で南方資源を抑えた後は,次に覇権を握る目的として第二段作戦としてやりたかったのはフィジー,サモアでの米豪分断であったと・・・

軍事板


 【質問】
 真珠湾攻撃後,ショート陸軍中将はどうなったんですか?

 【回答】
 ショート中将はあのあと,降格された上で退役させられました.
 その後はマスコミに叩かれ,脅迫状や嫌がらせの手紙なども大量に送りつけられたようです.
 1949年に亡くなり,遺族は名誉回復に奔走したそうです.

 その後,キンメルとショートには真珠湾攻撃に関する情報が故意に伝えられず,彼らはスケープゴートにされたに過ぎない,との観方が強まりました.
 これを受けて1999年になってようやく,キンメルとショートを無罪とすることが上院で議決され,名誉回復が果たされました.


◆◆◆珊瑚海海戦


 【質問】
 年表を見ていて思ったのですが,真珠湾攻撃から珊瑚海海戦まで半年近く,アメリカ海軍との間に大規模な海戦がおきなかったのはなぜですか?
 この期間,海軍はインド洋であまり意味のないような(?)作戦をチマチマとやっていたように見えるんですが.
 この頃なら航空戦力も米軍を上回っていただろうし,米側の準備がととのわない内に海戦をたたみかけておけばよかったんじゃないかなあ?と思います.

 【回答】
 太平洋戦争の目的は,あくまでもインドネシアの地下資源を手に入れることです.
 とにかくインドネシアを手に入れるために,間に立ちはだかるマレーとフィリピンから米英軍を追い出すのが第1段階.
そしてインドネシアを手に入れるのが第2段階.

 この3箇所を制圧することが大本営の思惑であり,ビルマやソロモンはオプションに過ぎません.
(そのオプションに力を入れすぎて自滅したわけですが)
 したがって,無駄に艦隊が出て行く必要性はないです.
 真珠湾攻撃というのは,単に山本さんの博打に過ぎません.
 ただし,成功すれば米軍はフィリピンの支援はできなくなるし,失敗してもマレー・フィリピン攻略準備はできてるし,山本さんのギャンブルはどう転んでも大本営の損にはならないので認められただけです.

鷂 ◆Kr61cmWkkQ


 【質問】
 珊瑚海海戦では米艦隊はレーダーを持っていながら,なぜ有効活用できなかったのか?

 【回答】
 誘導が適切を欠き,また,防空兵力が少なすぎたためだという.
 以下引用.

 このとき〔1942/5/8〕,アメリカ空母レキシントン Lexington CV-2 は,CXAM対空警戒レーダーによって,距離130kmで日本攻撃隊(艦戦18,艦爆33,艦攻18)を探知し,艦隊上空に艦戦8機を配備すると共に,敵攻撃隊の前程に艦戦9機を派出したが,艦攻隊に向かった2機は,直衛戦闘機に阻止されて目的を達せず,艦爆隊に向かった3機は,高度不足のため会敵に失敗,約30km前方まで誘導された3機も敵を補足できなかった.

 もう1隻の艦隊空母ヨークタウン Yorktown CV-5はさらに悲惨で,直ちに投入できる艦戦がないため,低速の艦爆を発艦したが,逆に4機を撃墜されてしまった.

 レーダーで敵機を早期に発見し,無線電話で防空戦闘機を邀撃地点に誘導して,艦隊の前方で阻止するというこの戦術は,艦隊防空上,画期的なものだったが,誘導が適切を欠き,30%という低い艦戦比が示すように防空兵力が少な過ぎたため,本来の効果を発揮できなかったのである.

「世界の艦船」2005年4月号,p.83(中川務著述)


 【質問】
 珊瑚海海戦における,日本艦隊の防空上の問題点は?

 【回答】
 レーダーの欠如と母艦との更新の困難さとから,組織的防空戦闘が不可能だったことだという.
 以下引用.

 この海戦でアメリカ艦隊が,未熟とはいえCIC(戦闘情報処理センター)による艦隊防空のシステム化を指向したのに対して,日本側はレーダーを欠くだけでなく,戦闘機用無線電話の雑音が酷く,母艦との交信が殆どできないため,迎撃戦闘は個々の搭乗員の判断に任せざるを得ず,組織的防空戦闘が不可能であるという深刻な問題を内蔵していたのは,注意を要する点である.

「世界の艦船」2005年4月号,p.83(中川務著述)


 【質問】
 珊瑚海海戦において,空母レキシントンはダメージ・コントロールによって帰航させることはできなかったのか?

 【回答】
 損傷後,応急作業にいったんは成功したが,その後,航空燃料の気化ガス爆発があり,行動不能になったため,1942/5/8に味方の手で処分された.

 ソースは「世界の艦船」2005年4月号,p.27より.


◆◆◆ミッドウェイ海戦


 【質問】
 ミッドウェイ作戦は何故立案されたのか?

 【回答】
 軍令部は,米軍が豪州をベースにして対日反攻に出るのは自明だと考えた.
 そこでフィジー,サモアを攻略して米豪遮断作戦を実施しようと計画した.
 しかし連合艦隊司令部は,その前に残存米空母機動部隊をミッドウェイ海域に誘引,これを撃滅して,東方からの本土空襲の恐れを排除するのがまず先決だと強硬に主張した.

 戦略思想的に見れば,残存米機動部隊の誘引・撃滅は決して見当違いとは言えなかったが,なぜか,作戦計画は次第にミッドウェイ攻略に重心が移され,米空母撃破が主か,島の占領が主か,曖昧な形で実施されることになってしまう.

 ちなみに,作戦の具体策は主として連合艦隊司令部の先任参謀,黒島亀人大佐の案出であり,その上位にあった参謀長,宇垣纏少将は蚊帳の外だったという.

 詳しくは「世界の艦船」2005年8月号,p.91-93(石渡幸二著述)を参照されたし.


 【質問】
 ミッドウェー海戦の敗因は?

 【回答】
 「これが敗因」と一刀両断に出来る物は有りません。
 あらゆる戦闘がそうなのですが、勝敗は様々な要因が絡み合って決まる物なのです。

 ミッドウェー海戦においては、戦力比で言えば日本海軍が有利でした。
 それが何故負けたかと言えば、

@
 作戦目標が二重であった(二兎を追った)
 これが最大の敗因であると言えます。
 ミッドウェイ島攻略か、敵機動部隊殲滅か、どちらが主目標かハッキリせず、将兵もよく理解していなかった事があります。

A
 情報管理がズサンで、しかもその為、敵に手の内をすっかり読まれていた事。
 奇襲攻撃をミッドウェー島にかけて敵機動部隊を誘き寄せて、待ち伏せした艦隊で撃滅するといった作戦にも関らず、情報管理がズサンで、次の攻撃目標が何処であるか、柱島の芸者まで知っていたとの事。
 オマケに暗号まで解読されていたので、待ち伏せをかけるつもりが、逆に待ち伏せを受けてしまいました。

 その他、策敵が不十分、主兵力の疲弊、指揮の混乱等々と、他にも様々な要因が複雑に絡み合っているのです。


 【質問】
 ミッドウェー海戦についてなのですが,
1 日本機動艦隊から第1次攻撃隊がミッドウェー攻撃に向かう.第2次攻撃隊は対艦兵装で待機.
2 米艦隊は見つからない.第1次攻撃隊から,ミッドウェーに更なる攻撃を加えるべきとの連絡が入る.
  第2次攻撃隊を対艦兵装から対地兵装に交換する.
3 交換し終わった頃に米機動艦隊発見の報告が入る.エライコッチャ!

 ここまでは分かったのですが,この後,南雲中将が待機中の第2次攻撃隊に対地兵装から対艦兵装への交換を命じています.
 一方,山口司令は,対地兵装のままで良いから今すぐ発進させよう,と言っています.

 そこで質問なのですが,
1 なぜ,南雲中将は山口司令の進言を退け,対艦兵装への交換を強行したのですか? 交換しているうちに間に合わなくなったらどうしよう,とは考えなかったのでしょうか?

2 1の理由は南雲中将自身の口から語られた事はあったでしょうか?

3 もし,対地兵装のまま即座に攻撃隊を発進させていたら,日本側空母損失と言う大敗を防ぐ可能性は高かったでしょうか?

 【回答】
 1.
 空母航空戦においては航空機の損耗が著しく,仮に先制して敵に有効打を与え得ても,味方の攻撃隊に大きな損害が出る可能性が非常に高い.
 従って,攻撃結果が不十分な物でも 第二撃をかけ得るかは不確定.
 結局の処,両者の意見の行き着くところは
「初撃でしくじれば,主導権は敵に移る」
という点で一致している.
 その上で,南雲はより確実な対艦兵装への換装を,山口はまず一太刀を浴びせて戦機を掴む事を志向したと言う事.
 巧遅か拙速かの結果は知っての通りだが,「どちらが正しかったか?」などという話は結果論.
 仮に山口の意見を容れて対地装備で攻撃を行なったとしたら,
「あの時,時間をかけてでも対艦装備に換装していたら」
という批判を行なう奴がきっと居るだろう.
 全ては後知恵.

 2.
 南雲自身が戦死してるから不明.

 3.
 1.を参照.言い出したらキリがない.


 【質問】
 有名な,ミッドウェイ海戦で明暗を分けることになった爆弾から魚雷への交換ですが,雷装のために必要な「調停作業」は,具体的にどういう作業をするのでしょうか?
 基本的には,速力や深度の設定だと思うのですが,何故そこまで時間が掛かるのかな?,と.設定ダイヤルみたいなものがあって,それをまわせば終了,というイメージがあるので,ちょっと合点が行きません.

 【回答】
 250kgや500kgの爆弾を取り外し,800kgの魚雷を取り付ける作業をするため,外した爆弾は弾薬庫へしまわなきゃならんし,付けるのは持ってこなきゃならん.
 弾薬庫からの揚弾路は各機の側じゃないから,移動も行う必要がある.
 以上を攻撃隊の分だけ,概ね人力でやらなきゃならんのよ.

 しかも爆弾架や魚雷架は,日本特有の理由(笑)で各機体間で互換性無し.
 慎重を要する信管着脱以外にも,こんだけ面倒な作業があったのだから,時間が掛かるのも仕方ない.

 なお,調定は魚雷表面の穴からレンチを突っ込んで行う.
 剥き出しのダイヤルだと水圧で回りかねないし,蓋構造も外れると抵抗になってちゃんと進まなくなるから.

 調定だけで時間を潰した訳じゃないってこった.


 【質問】
 ミッドウェー海戦の日本空母において,主機関が無事だったにも関わらず,運転が不能になったのは何故か?

 【回答】
 リスク対策の検討が不十分な結果,片舷のみからしか給気できなかったため,その付近に火災が生じると,熱風が機関部に侵入するようになっていたためだという.
 以下引用.

 戦前に設計された日本空母は,機械室,缶室など機関部への給気取り入れ孔を煙突の反対舷,すなわち左舷側にのみ設置していた.
 このためミッドウェー海戦では,その付近に生じた猛烈な火災の熱風が機関部に侵入し,多くの機関科員を殺傷して,主機関は無事だが運転は不能になった.

 この痛烈な戦訓により,各空母には右舷にも給気取り入れ孔が設けられ,左右いずれの舷からも給気が得られるように改正された.

 これなどは,平素から空母に起こりうるリスク対策を綿密に検討していれば,予め気付いて改善しておけた事柄である.
 そのほか日本の空母には,被害時の消火用動力の確保など,平時に見逃されていた防御に関わる配慮不足の事項が散見され,これが脆弱性を高める結果となっていた.

 

「世界の艦船」2005年4月号,p.90(安部安雄著述)


 【質問】
 ミッドウェイ海戦で日本は多数の航空機とベテラン・パイロットを失い,結局その穴を埋めることができなかったのがひとつの敗因といわれているが,空母4隻だと飛行機120機にパイロット150人くらい? みんな船と一緒に沈んじゃったのかな?
 飛行機はともかく,パイロットは半分くらいは逃げれそうなんだけど・・・

 【回答】
 搭乗員はミッドウェイ海戦ではそれ程損失はしていません。
 ミッドウェイ海戦での搭乗員の戦死は、121人。
艦上戦闘機はパイロット一人で飛ばせるが、爆撃機では二人、攻撃機では三人の搭乗員が必要(いずれも単なる乗客ではなく、長年の訓練を受けた要員なので、おいそれとは養成できない).

 むしろ、その後のガダルカナル島をめぐるソロモン海での攻防で消耗してしまい、南太平洋海戦において、真珠湾以来のベテランは殆んどいなくなってしまいました。

軍事板

『鳳翔』索敵機が撮影した空母『飛龍』最期の姿

(↑うそ)

(↓本当)

http://nikuman-69gou.iza.ne.jp/blog/entry/150731/


 【質問】
 現在,ミッドウェー島は軍事基地として利用されていないと聞きましたが何故でしょうか?

 【回答】
 厳密にはミッドウェー「諸」島。
 あそこは本当に滑走路があるだけの島々で,滑走路も短いから,現代の航空機を運用するには手狭。
 日本は同盟国だし,ロシアの極東戦力も低下したし,中国相手ならグアム、沖縄があるから運用価値が低下した為。

 あと、ミッドウェイ基地の運用上の問題点としては,嘘みたいな話ですが、アホウドリが多すぎるというのもあったようです。
 あの島は海鳥の一大繁殖地なんです。 繁殖・抱卵・子育て時期には島中に海鳥だらけになります。
 困ったことに、海鳥は基地の敷地だろうと滑走路だろうとお構いなしに巣を造るんですな。
 この連中をジェットエンジンに吸い込んだらエンジンが壊れるんで、兵隊さんたちは滑走路上の鳥さん達を保護して基地の外に移動させなけりゃならなかったのです。
 2004年1月にも,コンチネンタル航空のB777がエンジン故障で緊急着陸し、現地で無事修理したまでは良かったのですが、離陸するときアホウドリを遠ざけるのに一苦労だったそうな。

 で結局,海軍基地として利用したのは1993年までで、その後、野生動物保護区になったようです。
 ちょっと前まで観光地として民間企業が管理してたんですが、それも撤退し、現在は鳥類学者と最低限の管理用員しかいないそうです。
 詳しくはこちら


◆◆◆南太平洋海戦

 【質問】
 南太平洋海戦において,レーダーを持つ米艦隊が日本攻撃機を阻止できなかったのは何故か?

 【回答】
・敵味方識別に手間取ったこと
・戦闘機隊が日本機を発見するのが遅かったこと
・管制指揮官が経験不足だったこと
によるという.
 以下引用.

 この戦闘で,アメリカ空母エンタープライズに装備していたSC対空警戒レーダーは,早期に目標を探知したものの,敵味方識別に手間取り,敵と確認した時,日本攻撃隊(艦戦12,艦爆21,艦攻20)は,既に艦隊から70kmの地点に接近していた.
 このとき,防空戦闘機38機(エンタープライズのCICによって一元的に統制)が艦隊の外方18kmに配備されていたが,発見が遅かったため,迎撃に必要な高度を取る時間的余裕がなく,戦闘機管制指揮官の経験不足もあって,大半の日本攻撃機の阻止幕突破を許してしまった.

「世界の艦船」2005年4月号,p.84(中川務著述)


 【質問】
 南太平洋海戦において,日本艦隊が米攻撃機を阻止できなかったのは何故か?

 【回答】
 統一指揮の欠如によるという.
 以下引用.

日本艦隊は翔鶴のレーダーによって,アメリカ攻撃隊(艦戦8,艦爆15,艦攻6)の接近を距離145kmで探知した.
 この時点で上空に艦戦15機が配備されていたが,アメリカのような統一指揮を受けていなかったため,艦隊の至近で個々に迎撃せざるを得ず,敵艦爆15機中,11機が阻止を突破して翔鶴を爆撃,損傷を与えた.
 この海戦では従来の戦訓によって,日米共に艦戦の搭載機数を増加し,艦戦比が41%に達していたが,それでも攻撃隊を阻止できなかったことは,防空戦闘機の増加のみでなく,運用方法のさらなる改善が必要であることを強く示唆している.

「世界の艦船」2005年4月号,p.84(中川務著述)


 【質問】
 南太平洋海戦に日本海軍は勝利したにも関わらず,なぜガダルカナル島奪回はならなかったのか?

 【回答】
 確かに戦術的には日本海軍は勝利を収めた.
 米軍側の損害,
・ホーネット沈没
・エンタープライズ損傷
に対し,日本海軍側は
・翔鶴損傷
・瑞鳳損傷
に過ぎなかった.

 しかし,日本軍は多数の艦上機と熟練搭乗員を失って母艦戦力が大きく低下.

 そのため,島奪回はならなかった.

 ソースは「世界の艦船」2005年4月号,p.30.


◆◆◆マリアナ沖海戦


 【質問】
「マリアナ沖海戦で日本はアウトレンジ方戦術に失敗した.
 しかし,このアウトレンジ方作戦は戦後,米軍関係者が知った時,震撼した程,成功さえすれば見事な作戦だった」というが,本当にそうなんでしょうか?
 例え,ミッドウエーで日本が犯したような失敗をアメリカがマリアナ諸島近海で連発したとしても,アメリカにはVT信管があるから,大きな損害にならないのでは?
 たとえ,大きな損害を出してもあれだけの米軍の物量に適うわけがない.
 なのに何故,米軍関係者はアウトレンジ方戦術を評価したのか?

 【回答】
 VT信管はいわれてるほど凄まじい効果はないよ.
 まあ当時,1%に満たなかった撃墜確率を数倍にするというのはたいしたものだけど.
(艦の対空射撃は,敵機を撃墜するのではなく,投弾を邪魔するのが主目的)

 破滅的な状況を現出させたのは,レーダーとCICと無線を活用した統制迎撃と大量の護衛艦艇.
 物量でも敵わなければ,ドクトリンというレベルでも隔絶した世代差を付けられていた.
 この状況がある以上,アウトレンジ作戦が万全に機能しても,統制された戦闘機の群れに揉み潰され,ろくに戦果を出せないのが落ち.
 そもそも小沢艦隊の航空隊はアウトレンジ作戦を完全に実行しうる練度になかったが.

 戦後アメリカ軍が日本軍をいろいろと持ち上げるのは
「彼らは強敵であった.強敵に勝った俺たちはもっと凄い.」
という政治意図もあるから.
 それが全部とはいわないがね.


 【質問】
 マリアナ沖海戦において,日米の艦隊防空に大差が出たのは何故か?

 【回答】
 米海軍では島嶼戦に備え,艦戦比を50%に引き上げると共に,新型レーダーの導入によってCICをさらに充実し,隻数の増大のみでなく,優れた対空防御を持つ戦力として再生したが,これに対し,日本海軍では,防空戦闘のシステム化という概念すら生まれなかったためだという.
 以下引用.

日米ともに,艦隊作戦の主軸である空母を消耗し,互いに積極的洋上攻勢が不可能になった結果,南太平洋海戦後の戦局は暫く停滞し,両国は空母戦力の回復に努力を注いだ.
 〔略〕

アメリカ軍が今後,中部太平洋を突破して日本本土に迫るには,空母機だけでなく,各島嶼に展開する有力な陸上基地機を併せて相手にしなければならない.
 したがって敵の反撃は重厚かつ持続的であり,アメリカ空母部隊は上陸拠点の飛行場に味方基地機が展開するまで長期間,作戦を掩護しなければならなくなった.
 換言すると,従来の"Hit and Run"から"Hit and Stay"(攻撃後,止まって戦う)への戦術転換が不可欠であり,そのためには艦隊の防空力を飛躍的に向上しなければならなかった.
 直衛艦を含む各空母の対空兵装は,VT信管の採用と,40mm,20mm機銃の増備で各段に強化されたが,本質的に防御力薄弱な空母を守るには,まず艦戦で阻止し,これを破った少数の敵機を対空砲火で迎え撃つ,すなわち防空戦闘機による艦隊前程での敵攻撃機撃破の確率を一層高めねばならない.

 そのような観点から,新しいアメリカ空母部隊は艦戦比を50%に引き上げると共に,新型レーダーの導入によってCICをさらに充実し,隻数の増大のみでなく,優れた対空防御を持つ戦力として再生した.

 これに引き換え日本海軍では,防空戦闘のシステム化という概念すら生まれず,1942年の戦闘経験から,先制攻撃に成功すれば勝利できるという思想が,依然として有力だった.
 兵器の面でも艦爆と艦攻に新型機が登場しただけで,対空火力の強化は25mm機銃の増載以外,有効な対策を見出せなかった.

 概括すると,日本は1942年のレベルで空母戦を捉えていて,攻撃を優先する思想から最後まで抜け出せなかった.
 その結果,以上で述べた両国の新しい空母部隊に見られる量と質および戦術思想の差異が,1944年以降の太平洋の戦局を決定付けたのである.

 〔略〕

 6月19日の攻撃を凌いだアメリカ艦隊は,翌20日,攻撃に転じ,艦戦85機,艦爆77機,艦攻54機で薄暮遠距離攻撃を実施した.
 これに対して日本側は,戦爆を含む71機を飛び立たせたが,防空システムの遅れから艦隊の至近(第2航空戦隊の記録では9km)で迎撃せざるを得なかったため,殆どの攻撃機を阻止できず,〔略〕日本空母部隊は回復困難な大打撃を被り,中部太平洋の要であるマリアナ諸島の失陥が確定した.

 この海戦における両軍の艦戦比は共に53%に達していたが,攻撃に重点を置いた日本海軍は,内84機を戦爆として使用したので,特に攻撃隊の掩護面で著しい劣勢を避けられず,防御に徹した敵戦闘機隊の好餌になってしまった.

「世界の艦船」2005年4月号,p.84-85(中川務著述)

艦上機の大航続力を生かして遠距離から先制攻撃を試みた日本側の作戦は,成功するかに見えた.
 この危機に真価を発揮したのが,CICを中軸にしたアメリカ艦隊の防空力だった.

 6月19日,旗艦レキシントン CV-16のレーダーは,距離280kmで日本の第1次攻撃隊の第一波(艦戦14機,戦爆43,艦攻79を探知,CICの戦闘機管制指揮官は,無線電話で各戦闘機隊に迎撃を指示した.
 受身に立ったアメリカ空母部隊は,登載中の475機の艦戦の半数弱を防空に投入するのが精一杯だったが,うち145機が上空直衛に当たり,CICの指示で艦隊の前程に進出した80機が,102kmの地点で日本攻撃隊を補足し,徹底的に反復迎撃した.
 そのため第一波は,僅か数機の戦爆が阻止幕を突破してアメリカ戦艦部隊を攻撃し,戦艦1隻に命中弾を与えたのみで壊滅.
 続く第1次攻撃隊第2波(艦戦47,艦爆47,艦攻26)も距離213kmでレーダー探知された後,100km付近から連続した迎撃を受けて約70機を失い,約20機の艦爆と艦攻がアメリカ艦隊に迫ったが,激しい対空砲火に阻まれて殆ど戦果を挙げる事なく敗退.
 後続の3群の攻撃隊も,防空戦闘機の迎撃を受けて反転,または敵を発見できずに帰投し,日本海軍が大きな期待を持って実施した遠距離先制攻撃は,惨澹たる失敗に終わった.

「世界の艦船」2005年4月号,p.85(中川務著述)

日本海軍の3連装対空機銃


 【質問】
 なぜ大鳳は簡単に沈んだのか?

 【回答】
 マリアナ沖海戦の戦訓が取り入れられるまでは,日本空母の軽質油タンクの配置や防御には問題があり続けたためだという.
 以下引用.

 軽質油タンクの配置と防御には各国海軍が苦労しており,米英の空母ではこれを,装甲を施した主要防御区画の内部に設置している.
 日本艦は逆に主要防御区画から遠ざけ,船体の前後部に配置し,軽質油庫の上面と側面に装甲や鋼鈑を装着すると共に,軽質油庫とタンクの間に空所を設けるなどして防御した.

 太平洋戦争での戦闘事例を見ると,加賀,翔鶴,大鳳などが魚雷爆発の衝撃により軽質油タンクを損傷し,火災発生あるいは漏洩充満した軽質油ガスの引火爆発で沈没している.
 舷側に十分な水中防御を施す余地がなく,被雷で損傷し易い船体前後部よりも,同様に火災とガス爆発による艦喪失を生じたとはいえ,英米艦方式のほうが優っていたものと思われる.

 その他,
空気混入防止を目的とした多重型海水置換方式軽質油タンクの採用,
給油管の舷外導設,
火災発生源をなくすため,エレベーターに油圧式動力を採用(日本は電動式)
など,軽質油タンク,給油系統および漏洩ガスに対する安全確保への配慮は,米空母のほうがかなり優れていたと言わざるを得ない.

 ミッドウェー海戦での4空母喪失の戦訓に基く防御力強化対策でも,格納庫の防火・消火対策重視の影に隠れて,軽質油タンク防御強化に対する認識が甘く,軽質油庫とタンクとの間の空所に水を張り,ガスが溜まらぬようにする程度の施策で済まされていた.
 マリアナ沖海戦で,軽質油タンク防御の不十分さを衝かれて,潜水艦の雷撃により大鳳と翔鶴を喪失するに及んで,抜本的な防御強化の必要性が認識され,タンク周辺の空所にコンクリートを充填し,瑞鶴では,その部分の舷側にさらにバルジを設置した.
 この工事により軽質油タンクの防御は著しく強化されたが,遅きに過ぎた対策だった.

「世界の艦船」2005年4月号,p.89(安部安雄著述)

 被雷によりタンクから漏洩した軽質油が,蒸発ガスになって大鳳の艦内に広がり始めたとき,軽質油と蒸発ガスの挙動に関する基本的知識の欠如から,同艦応急関係者の処置が必ずしも適切なものではなく,艦を沈没に至らしめた〔略〕

「世界の艦船」2005年4月号,p.90-91(安部安雄著述)


 【質問】
 マリアナ沖海戦後,日本空母にはどのような対策が施されたのか?

 【回答】
 急遽,各艦に浮力保持と不燃化の工事が実施されたという.
 以下引用.

マリアナ沖海戦で比較的簡単に3隻も沈没してしまったことにより,急遽,各艦に浮力保持と不燃化の工事が実施された.
 前述した軽質油タンク周囲空所へのコンクリート充填,軽質油搭載量の半減,電気火花発生の可能性がある機器の軽質油管周辺からの排除,格納庫内給油管への防弾覆い設置,常時必要としない区画の完全密封など,艦内各所の防水能力の向上,水密区画の確保,塗料やリノリウムを始めとする,全ての可燃物の徹底的な撤去などが,その主要なものである.

 この工事により防御力は向上し,例えば翔鶴は比島沖海戦で爆弾7発,魚雷7本の命中を受けて沈没に至っており,上記諸対策の効果が認められる.
 しかしこれはあまりにも遅すぎた対策であり,日米の空母が対等に渡り合っていたころに行われていたら,戦局に寄与し得たかもしれない.

 なお,これら対策の内の幾つかは,短期の海戦には有効だったが,居住性などを大きく犠牲にしており,長期間の戦争を戦い抜くには適さないものであることはいうまでもない.

「世界の艦船」2005年4月号,p.90(安部安雄著述)

 米空母は,珊瑚海海戦でのレキシントン喪失の戦訓により,以後は敵機の来襲が予想されたら給油管から軽質油を抜き,炭酸ガスを充填して火災発生の危険防止に努めた.

「世界の艦船」2005年4月号,p.90(安部安雄著述)


◆◆◆レイテ沖海戦


 【質問】
 栗田提督はミッドウエー海戦で,衝突事故を起こした最上と三隈を見捨てたりして,海軍内の評判は悪かったと聞きますが,何故太平洋戦争の天王山の戦いともいえるレイテ沖海戦で,勝利の鍵を握る第一遊撃部隊を任されたんでしょうか?

 【回答】
 海軍兵学校/海軍大学時代の成績に基づいた人事.
 日本海軍は人事の柔軟性がほとんどなく,戦時でも平時と同じ基準で人事を決めてた.
 栗田健男提督は地位の持ち回りであの位置に.

 高級指揮官はミスしても責任を問われない,というのも日本軍の体質としてあった.
 特に,「将」の階級を持ってる人は,任命に天皇陛下が絡む(任命状に御名御璽がいる)ので,責任を問う事は必然的に「そんなミスをする人を任命した」天皇陛下の判断能力と責任を問うことになる.
 そんな畏れ多いことは出来ないので,結果どんなミスをしても表向きは不問にされ,適当な理由をつけて左遷したり,本人から願い出て現役を引退させたり・・・という「非公的手段」を取る事になる.
 この辺は日本軍の体質なのでどうにもならない.

 ただ責任はともかく,適材適所の実行は日露戦争のころまではそれなりにあったわけで,(現在の官僚も同様な問題を抱えていることを考えても),内部選考による人事=責任者の不在が諸悪の根源という気もするんだが・・.

 栗田氏は席次は高い方じゃなく,海軍大学校も出ていないし,中将への昇進も,海兵同期(38期)では遅い方(昭和17年5月,ちなみに早い人は昭和15年11月に昇進)だし,どう見ても,艦隊司令長官まで行ける人じゃなかったよね.

 当の本人も,戦後に語ったところによると,2F長官を拝命して
「自分でも驚きました.冗談じゃない,こんな野武士なんか駄目じゃないか,そう思いましたね」
などと言っている.

 ちなみに,レイテ沖海戦で利根艦長を勤めた黛治夫氏は
「中央から見れば,水雷屋で頼りになる人に見えたんだろうけど,酒飲んでフネで突っ走っているだけじゃ,アタマは出来ないよ.高等教育(海軍大学校)を受けさせるべきだった」
と語っている.

 栗田が,近藤信竹(ちなみに,この人は海兵35期クラスヘッドで,栗田とは正反対にバリバリの海軍エリート)の後任の2F長官に選ばれたのは,3F長官・小澤治三郎(海兵37期)よりも後任の中将で,適当な人(水雷屋)を探して中央の目に付いたのが栗田だった,という事も有るらしいね.
 2Fと3Fが共同作戦を行う場合,やはり,空母部隊である3F長官が総指揮を執るのが望ましいし,いちいちGFシチが陣頭指揮というのも「時代錯誤」だし.というわけで,極端な事を言えば「小澤氏よりもエリートじゃない人」という理由で選ばれたわけだ.

 でも捷一号作戦では,小澤氏は「裏方」で,栗田氏が「主役」になっちゃった.
 昭和18年初頭に上記のような理由で2F長官を決めた時には「想定外」の事態だったんだね.

軍事板

 一方,栗田側から見れば,彼には居場所が他にありませんでした.
 戦下手ぶりには定評がありましたが,まがりなりにも中将ですし,第四・五艦隊はズタボロ.
 もちろん空母艦隊や潜水艦隊は専門外.
 まして方面艦隊はキャリア不足…とくれば,成れ親しんだ第二艦隊しかできる部隊がないのですよ.
 前任の近藤さんも戦下手でしたし,もう手駒はありませんでした.

鷂◆exxupUqotM


 【質問】
 1944年10月のレイテ海戦で,栗田艦隊が反転した理由は何ですか?

 【回答】
 戦闘詳報という形で栗田中将は報告書を出していますが,それによれば,
*第7艦隊をはじめとする敵艦隊は集結を終えて,我が艦隊のレイテ泊地突入の邀撃準備が整っている
*レイテ泊地内の状況が不明
 これに,西村艦隊および志摩艦隊の戦闘状況をあわせて考えると,レイテ泊地突入はいたずらに敵の好餌となるだけで,むしろ意表をついて北方の敵機動部隊を叩いた方が作戦場有利と判断した,と述べています.

 問題は,その北方の敵機動部隊が実際には存在しなかったことなのですが…….

名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE

 戦後明らかになったところでは,栗田部隊の北方で活動していた米機動部隊はありませんでした.
 しかも,「北方に敵機動部隊あり,との電報」は存在しないとの説も有力です.
 また,
・米軍の偽電につられた,
・偵察機が栗田艦隊自身を「発見」し,しかも北側に位置を間違って報告,という説もあります.

 他の主な説を挙げておくと

 ・ 米軍の波状攻撃によりすでに多数の沈没・損傷艦を出しており,それ以上の前進は将兵の命の浪費にしかすぎないと判断した.

 ・ 小沢部隊の陽動作戦成功の報告が,栗田の元まで届かなかった(なお,反転して,サンベルナルジノ海峡を通過して戻ろうとする直前に,瑞鶴からの通信は受け取っていたようだ;阿川弘之・半藤一利共著「日本海軍,錨揚ゲ! 」PHP研究所)

 ・ レイテ海戦において,栗田は二日二晩,一睡もせずに艦隊を指揮し,疲れていたので,冷静な判断ができなかった.

 栗田健男元中将は1977年に死去しましたので,今となっては真相は不明です.


 【質問】
 吉村昭著の「戦艦武蔵」(新潮文庫,1990)では,沈没の数時間前に,武蔵が駆逐艦に
「負傷者を収容する為に横付けせよ」
との信号を数回に渡って発信したのにもかかわらず,駆逐艦は
「了解した」
と返答するだけで,武蔵が沈没する際の渦にまきこまれるのを恐れ,横付けしなかったとの記述がありました.
 命令を無視して,負傷者を見捨てたこの駆逐艦の艦長達は,海戦後に処罰されたんでしょうか?

 【回答】
 これは「命令」ではなく,「要望」にしかならないので,処罰の対象にはなりません.
 武蔵からの信号は,艦長たる猪口さんの責任で打たれますが,猪口さんには駆逐艦に命令する権限はありません.

 武蔵を始終直衛していたのは清霜で,当時艦長だった梶本さんはその後の礼号作戦で戦死しているので ,譴責はなかったとみるべきでしょう.
 清霜に厳然たる命令を出せたのは,長官たる栗田さんか,2水戦の早川さんですが,早川さん自身,旗艦島風に乗って現場に行き,泳ぐ武蔵乗員を救助させてはいますが,島風も横付けしてませんし,何より島風が被弾するや,浜風を呼んで交代して退避してます.
 早川さんも3次オルモック作戦で戦死しており,処罰を受けてはいません.
 見るに見かねた利根の黛さんが減速して何人か引き上げてますが,本来所属する7戦隊から勝手に抜け出すわけにもいかず,島風到着を待たず置いていくのですが,さすがの黛さんでも
「おらがやってやるよ」
とは言わなかったわけで,梶本さんにしろ早川さんにしろ黛さんにしろ,
「猪口さんの気持ちもわかるけど…」
の心境でしょうね.

鷂 ◆Kr61cmWkkQ


 【質問】
 レイテ沖海戦において,アメリカの潜水艦は重巡を2隻も撃沈したりして大きな戦果を挙げましたが,日本側の潜水艦が不活発だった理由は何だったのでしょうか?

 【回答】
 日本海軍の潜水艦運用に根本的な欠陥があったのが原因です.
 わが海軍において潜水艦は,敵艦隊の予想進路上に散開線をはり,敵艦隊の移動に合わせて水上高速で進出して,攻撃を反復する方法が取られていました.

 しかしこの作戦は,潜水艦の行動をすべて司令部が電報によりコントロールするように定められており,他国の潜水艦のような艦長の裁量に任せた指揮が取れず,移動中の通信を傍受されて早々に撃沈される悲劇が相次ぐこととなりました.
 さらにガ島方面での輸送任務により多数の潜水艦を喪失し,集中運用が難しくなっています.

 レイテ沖海戦の際は14隻の潜水艦が参加しましたが,散開線配備方式は続いており,戦果は伊41潜がルソン東方海面で軽巡レノを雷撃,大破させた程度で,我が方は6隻の潜水艦を喪失しています.

名無し軍曹◆Sgt/Z4fqbE

 19年10月の保有数そのものが,伊号19隻(丁型除く)・呂号8隻しかありません.
 実際にフィリピンへ出撃したのが伊号8隻・呂号6隻.
 回天訓練中の3隻はともかく,残る8隻は老朽または損傷.
 14隻でも目いっぱいの投資です.
 そのうち伊号4隻・呂号1隻がフィリピン東海上で喪失.多くはDD・DEの戦果です.
 ちなみに,無事に内地へ帰って次の作戦に出られたのは,伊号2隻・呂号5隻に過ぎません.

 要は駒そのものが少なく,米軍の対潜能力が高すぎたのですね.

携帯鷂◆exxupUqotM


◆◆◆水上特攻


 【質問】
 大和特攻のきっかけになったと言われる,陛下の「海軍にフネはないのか?」のお言葉がありますよね .
 これは普通の質問を神大佐が拡大解釈したものですか?
 それとも陛下の意思なんですか?

 【回答】
 昭和帝は特攻で戦果大、との報告に,
「軍艦ではなく飛行機で大戦果、という事だが、海軍にはもう艦はないのか? それほどまでに帝国は追い詰められているのか?」
と質問し、
「はい,もう帝国は駄目です。講和するしかありません」
という回答を海軍首脳から導き出したかったようだ。

 それに対して海軍首脳陣は、
「いえ、まだ海軍には戦艦大和をはじめ主力艦が多数残存しております。
 これらによって米軍に一太刀を浴びせ、戦局を挽回して御覧にいれます」
と答えた。

 んでもって、
「天皇陛下にあのように言われてしまったぞ! このままでは海軍のメンツが潰れる! 約束もしちゃったし,大和には出撃してもらわないと(あっさり沈められて終わりだろうけど)」
ということで大和の出撃が決まってしまった。

 神重徳はその辺の事情は全て隠して、
「陛下がこのように言われた以上,やらないという選択肢はありまっしぇん」
と関係者を説得(脅迫)して回っていた。


 【質問】
 大和の沖縄特攻の作戦名を調べたら,「菊水一号作戦」と 「天一号作戦」の二つが出てくるのですが,どちらが正しいのですか?

 【回答】
 両方の作戦は目的は同じで手段が違うものです.
 「菊水作戦」は,「海軍作成の『沖縄防衛のための水上艦特攻作戦』」. 大和はその第一陣なので,1号ナンバーがつきます.
 「天号作戦」は,「陸海軍作成の『絶対防衛圏死守のための全特攻作戦』」.
 沖縄は1号,台湾は2号,華南は3号,仏印は4号とエリアが区分されており,大和は1号エリアの特攻を実施したので,1号ナンバーがつきます.

 乱暴に言うと,菊水作戦は天号作戦の一部に取り込めます.

(鷂 ◆Kr61cmWkkQ)


 【珍説】
 天一号作戦(沖縄特攻)は「片道燃料」

小林よしのり著「戦争論」3,P267

片道分の燃料だけ積み,強引に沖縄の海岸に乗り上げて砲台とし,その,陸軍の7個師団分に相当するとされた火力で,押し寄せてくる米軍を迎え撃とう,という「作戦」だったが,

林信吾著『反戦軍事学』(朝日新聞社,2006/12/30),p.94

 【事実】
 天号作戦は、大井大佐が強硬に反対した大和の沖縄突入ですが、この際、軍令部は片道しか燃料を供給出来ないと言う強硬意見を述べ、連合艦隊首脳部もこれを是認します。
 以下引用.

「補給命令では片道分の重油搭載」
でありましたが、実際には、実際にはタンク底の重油在庫5万キロリットルを集め、
「緊急搭載で積み過ぎた余分を油Bargeに吸い取ろうとしたが、出撃に間に合わずその儘にした」
という,如何にも日本的な臨機応変さ(皮肉な意味での)で、大和に4000キロリットルなど、艦隊全部に1万500キロリットルが余計に搭載され、大和は重油を満載(6,300t)して出撃しています。

――小林儀作「沖縄特攻艦隊の燃料」 from 「日本海軍燃料史」下巻988〜989頁

 しかも,小林の漫画では,艦隊でなくて大和のみのような表現だし(一コマ目で小さく僚艦が描いてあるが、文は・・・・・)

(キルロイ ◆dtIofpVHHg)

 さてさて,沖縄特攻の際大和以下艦隊に補給された重油は4000トン(大井篤著海上護衛線参照)
 で,菊水一号作戦に参加した艦艇とその重油搭載量及び航続距離は
戦艦大和     16ktで7200浬   重油搭載量(満載)6400t
軽巡洋艦矢矧   18ktで6000浬   重油搭載量(満載)1420t

「陽炎」型駆逐艦 
磯風,浜風,雪風 18ktで8000浬   重油搭載量(満載)622t
駆逐艦初霜    14ktで4000浬   重油搭載量(満載)458t
駆逐艦朝霜    18ktで5000浬   重油搭載量(満載)600t
駆逐艦霞     18ktで3800浬   重油搭載量(満載)580t

「秋月」型駆逐艦 
冬月,涼月    18ktで8000浬   重油搭載量(満載)1080t

 大和以下海上特攻隊十隻が燃料を満載した場合の重油総量は13412t
 充足率は三割弱と言ったところだね.
 で,大和の航続距離は約13000キロメートル
 充足率三割と計算しても3900キロメートルだから,一応呉・沖縄の往復は可能だね.あくまで「巡航速度」試算だけどね.
 それに
「海上護衛総隊向けの7000tの重油の内4000tを大和を特攻させる為に使う」
という意味合いでの4000tだから,実際の充足率はもう少し高いね.※

 ※上述の「沖縄特攻艦隊の燃料」参照

軍事板

水上特攻作戦に参加した全艦艇


 【質問】
「大和の水上特攻で無駄になった重油は無い。他に使えるフネは無かったのだから」
という説を開陳している人がおりますが、実際問題、大和特攻に使った重油を他の船(海防艦?とか)に使えてたら,何かイイことがあったのでしょうか?

 【回答】
 輸送船団護衛部隊に回したほうが有益だったでしょう.

「7000トンの重油が3000トンに減らされるとなると、これは一大事である。北支航路の護衛計画はご破算である。
 まして、朝鮮海峡の対潜哨戒はろくなことはできなくなる」

「この際、4000トンという重油があれば、大陸からの物資輸送は活発に行われ、また、日本海への敵潜の侵入を食い止めるのに大いに役立つのに、大和隊に使う4000トンは、一体、日本に何をもたらすのだろう」

 どちらも大井篤「海上護衛戦」の記述です。


 【質問】
 大和特攻時点で,米雷撃機,急降下爆撃機のすべてがTBM/TBFに更新されていたの?
 あと,全部艦載機ですかね?

 【回答】
 高速空母機動部隊のVT(雷撃飛行隊)については,43年末には全てアベンジャー系列に転換されてる.
 何せミッドウェイの時点で実戦参加してる機体だし.

>あと,全部艦載機ですかね?
 VMTB(海兵隊の雷撃飛行隊)もアベンジャー系装備してる.


 【質問】
 大和を攻撃した航空機の半分近くが戦闘機だったみたいだけど,ただ機銃掃射しただけ?

 【回答】
 F4Uは爆弾を積んでいた.
 つか,太平洋戦線でのF4Uはごくわずかな例外を除いて,ほとんどが戦闘爆撃機,いや攻撃機として使われとったといっても過言ではない.


 【質問】
 戦艦大和は沖縄特攻で,どの程度の戦果を挙げたんですか?

 【回答】
http://www007.upp.so-net.ne.jp/togo/dic/data/bohno.html
によれば
被撃墜 10機
着艦後放棄 5機
海上墜落 5機
損傷 20機

 艦隊全体の戦果だから,対空砲の割合から言って大和の戦果はこの半分くらいか.

 レイテ沖で小澤艦隊(上空直援アリ・大艦隊・晴れ)で落としたのが15機くらいだから、驚異的な善戦と言って良いぞ、マジで.

特攻時の陣形


 【質問】
 アニメンタリー「決断」というアニメの最終回で,米艦隊の司令官,確かフレッチャーと言ったと思います)が ,若い頃会った東郷元帥へのお礼(相撲で後輩が先輩に勝つ事の意)の意味で,沖縄に出撃した大和を戦艦による艦隊決戦で撃沈すると命令を下したが,その後大和が進路変更したため戦艦による追撃が間に合わなくなり ,航空攻撃で撃沈したというエピソードが描写されたのですが,これは実際にあったエピソードなのでしょうか?

 【回答】
 それは色々なエピソードが混ざっているな.
 若い頃,東郷元帥に会っていて,東郷元帥の後輩達と戦えるのは光栄だ,と言ったのはニミッツ.
(ちなみに,スプルーアンスも士官候補生時代に戦艦「ミネソタ」に乗り込み,グレートホワイトフリートで日本に来た折,ガーデン・パーティーで東郷に会っている.
 ただ,文字通り「会っただけ」であって,ニミッツのような感銘は受けなかったようだ)


 大和を沈めたのは,スプルアンス大将にYou take themと命令されたミッチャー中将の第58機動部隊.
 当初,スプルアンスはミッチャーに大和部隊を引き付けて南下するように命じ,合わせて第54機動部隊司令官のデヨー少将に戦闘準備を下令した.
 第54機動部隊は,沖縄侵攻作戦では上陸支援の艦砲射撃部隊として任務を果たしてきたが,スプルアンスはこの旧式戦艦部隊に「艦隊決戦の最後のチャンス」を与えようとした.
 命令を受けたデヨーは戦艦6,巡洋艦7,駆逐艦21の部隊で大和部隊を待ち受けた.
 しかし四月七日の旗艦テネシーにおいての参謀会議で,大和に主砲の射程でアウトレンジされる可能性があること,日本艦隊が突破に成功し米輸送船団への攻撃が可能であるとも予想されたが,明確な解決策が見出されなかった.
 これらの理由に加えて日本艦隊が佐世保に回航して取り逃がしてしまう可能性,第58機動部隊が攻撃できる位置にある唯一の兵力であったことから,最終的にスプルアンスは航空攻撃を決定した.

軍事板
名無し13 in FAQ BBS・改(青文字部分)

 ※実は最終回は川上監督と巨人軍の話だったかと.
(最近ネットで諸般の事情らしい事を知りましたが,当時激しく違和感を感じたものです)

 どうやらDVDが出ていて,それでは初回のTV放送時での最終話がカットされているそうです.
 ですのでDVDしか知らないと,大和の話を最終回と思ってしまうかもしれません.

部外者 in FAQ BBS


 【神話】
 大和は片側に集中攻撃を受けて沈んだ.

 【事実】
 この話は最近否定された.

 原勝洋 (著)「真相・戦艦大和ノ最期」にて,米国公文書館等で機密指定解除された写真や資料,攻撃記録や生存者の証言などを付き合わせた結果,片舷集中攻撃の指示は出ておらず,攻撃結果もそれに則したものだったとの事.


 【質問】
 『戦艦大和ノ最期』(吉田満著)の中で,救助艇の船べりをつかんだ大和の乗組員らの手首を軍刀で斬(き)っ たと書かれているが,これは本当なのか?

 【回答】
 当時の指揮官は「事実無根だ」と証言している.
 以下,引用.

 『戦艦大和ノ最期』は昭和二十年四月,沖縄に向けて出撃する大和に海軍少尉として乗り組み,奇跡的に生還した吉田満氏(昭和五十四年九月十七日,五十六歳で死去)が作戦の一部始終を実体験に基づいて書き残した戦記文学.

 この中で,大和沈没後に駆逐艦「初霜」の救助艇に救われた砲術士の目撃談として,救助艇が満杯となり,なおも多くの漂流者(兵士)が船べりをつかんだため,指揮官らが「用意ノ日本刀ノ鞘(さや)ヲ払ヒ,犇(ひし)メク腕ヲ,手首ヨリバッサ,バッサト斬リ捨テ,マタハ足蹴ニカケテ突キ落トス」と記述していた.

 これに対し,初霜の通信士で救助艇の指揮官を務めた松井一彦さん(80)は
「初霜は現場付近にいたが,巡洋艦矢矧(やはぎ)の救助にあたり,大和の救助はしていない」とした上で,「別の救助艇の話であっても,軍刀で手首を斬るなど考えられない」と反論.
 その理由として
(1)海軍士官が軍刀を常時携行することはなく,まして救助艇には持ち込まない
(2)救助艇は狭くてバランスが悪い上,重油で滑りやすく,軍刀などは扱えない
(3)救助時には敵機の再攻撃もなく,漂流者が先を争って助けを求める状況ではなかった
――と指摘した.

 松井さんは昭和四十二年,『戦艦大和ノ最期』が再出版されると知って吉田氏に手紙を送り,
「あまりにも事実を歪曲(わいきょく)するもの」
と削除を要請した.吉田氏からは
「次の出版の機会に削除するかどうか,充分判断し決断したい」
との返書が届いたが,手首斬りの記述は変更されなかった.

 松井さんはこれまで,
「海軍士官なので言い訳めいたことはしたくなかった」
とし,旧軍関係者以外に当時の様子を語ったり,吉田氏との手紙のやり取りを公表することはなかった.
 しかし,朝日新聞が四月七日付の天声人語で,同著の手首斬りの記述を史実のように取り上げたため,
「戦後六十年を機に事実関係をはっきりさせたい」
として産経新聞の取材を受けた.

 戦前戦中の旧日本軍の行為をめぐっては,残虐性を強調するような信憑(しんぴょう)性のない話が史実として独り歩きするケースも少なくない.沖縄戦の際には旧日本軍の命令により離島で集団自決が行われたと長く信じられ,教科書に掲載されることもあったが,最近の調査で「軍命令はなかった」との説が有力になっている.
 松井さんは
「戦後,旧軍の行為が非人道的に誇張されるケースが多く,手首斬りの話はその典型的な例だ.
 しかし私が知る限り,当時の軍人にもヒューマニティーがあった」
と話している.

(産経新聞,2005/6/20)


 【珍説】
 〔略〕
明治以来,日本国の琉球島嶼群に対する差別政策は,人頭税をはじめとする旧慣温存による苛斂誅求(かれんちょうきゅう)と,伝統文化や言語の廃絶強制など多岐にわたるが,そのいきつくところとして,太平洋戦争における皇土防衛の為の捨石とされた事もあるが,もっともあくどい仕打ちは,戦艦大和の沖縄海上特攻作戦だったのではないかと私は思う.

 〔略〕

 さて,そこへ大和が攻め込んできて,世界最大最強といわれたその主砲四十六a砲塔九門が一斉に火を吹くと沖縄はどうなっただろうか.
 想像しただけで瞑目するばかりである.
 おそらく,大和は偵察機による誘導もないので,沖縄中南部の平地に巨大な砲弾をところかまわずに打ち込んだであろう.
 その弾は日米軍ばかりではなく,住民をも打ち砕いたであろう.
 住民の犠牲者は,更に多数に上り,三十万人(当時の人口の半分)にも達したのではないかと,恐れる.

 だが,大和は,米空母群から発艦したヘルダイバー急降下爆撃機による空からの攻撃と潜水艦による魚雷攻撃で,沖縄本島には一発の砲弾も放つことなく,四月七日に,三千人の乗組員とともに撃沈された.

 〔略〕
 あっ,よかった.
 戦艦大和が,沖縄のはるか北方の海に沈められてよかった.
 そう言えば,日本国民の多くは激怒するだろうし,やはり琉球人は日本人ではないと,その従来の差別感の正当性を再認識するに違いない.

 沖縄人が,戦艦大和によりさらに多数を殺され,島の集落のことごとくが破壊されたであろうことを思えば,それはまさに明治以来の差別のいきつくところであった.

 〔略〕

沖縄タイムス 2007年3月20日 特集記事
「復帰35年 揺れた島 揺れる島 19回 “踏みしだかれた島(上)” いれいたかし記」より抜粋
(資料提供 島の人in mixi)


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該当新聞の縮刷版等でお確かめください.
このコラムは,信じられないが実在する.

 【事実】
 第二艦隊の水上特攻作戦(天一号作戦)は,航空特攻による菊水作戦と呼応して 行われました.
 その目的は,敵水上艦艇と輸送船団を撃滅することです.
 それは,GF電令作第六○七号として,記録にも残っています.
http://www.h2.dion.ne.jp/~sws6225/siryou/gf603.html

 1945年4月5日1500:連合艦隊司令長官(GF)電令作第607号発令
1,帝国海軍部隊および第6航空軍は6日以降全力をあげて沖縄周辺敵艦船を攻撃せんとす.
2,陸軍第8飛行師団は協力攻撃を実施,第32軍は7日より総攻撃を開始し,敵上陸部隊の掃滅を企図す.
3,海上特攻隊は7日黎明時豊後水道出撃,8日黎明時沖縄西方海面に突入,敵水上艦艇ならびに輸送船団を攻撃撃滅すべし.

 何処にも「陸上の米軍を艦砲射撃にて攻撃する」とは言っていませんよね.
 まぁ,裏の目的として,航空機特攻の側面を支援する意味での囮艦隊という面もありましたが.少なくとも,後年言われているような,
「浅瀬に乗り上げて砲台と化し云々」
は,「できたら