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<第2次大戦FAQ
工作船「明石」

『護衛空母入門』(大内建二著,光人社NF文庫,2005.4)
『小艦艇入門』(木俣滋郎著,光人社NF文庫,1999.12)
『帝国の艦船 日本陸海軍の海洋軍備』(学研,2008.1)
『歴史群像』誌で連載されていた「日本の軍用船」の終了を記念して,連載されたイラストと「歴史群像」に掲載された日本の海洋軍備・戦術に関する記事を纏めた一冊.
本書では「砲雷戦兵備」,「航空兵備」(防空巡洋艦や護衛空母など),「支援・総力戦兵備」(測量船や輸送船など)に分類して解説しています.
〔略〕
記事の方は日本での軍艦国産化についてや空母戦力の整備,戦術などについて.
この中で私が興味深かったのは酸素魚雷とアウトレンジ戦法についての検証記事.
どちらもアメリカに戦艦戦力で劣勢の日本が対抗するために考案されたものの,両方とも実戦では命中率に難があり,有効策ではなかったと結論しています.
しかし読んでいて思ったのは,日本が米艦隊迎撃の方法に苦心していたこと.
その為の酸素魚雷やアウトレンジ戦法だったのですが,酸素魚雷の存在が日本の決戦構想の混乱を招き(「大艦巨砲主義」か「酸素魚雷」か.酸素魚雷と大艦巨砲主義はイコールではないらしい),さらに航空兵力の台頭が事態をややこしくします.(P.59)
またアウトレンジ戦法についても当初は,「少しでも先に有効弾を与える」ものだったのが「相手の射程外から一方的にボコる」といつの間にか摩り替ってしまい,砲術関係者が誤解を招いてしまった事に反省したそうです.(P.69)
日本の水上軍備を知ることのできる,お勧めの一冊です.
(できれば同シリーズの「帝国陸海軍補助艦艇」もお勧めしたいが,現在絶版とのこと.残念)
―――グンジ in mixi,2007年12月31日12:33
◆◆◆空母
【質問】
日本の空母の乗員の内訳は?
【回答】
「赤城」の場合,士官 77,特務士官 42,准士官
58,下士官 507,兵 946.
合計 1630
赤城型航空母艦定員表(昭和12年4月23日 内令第169号改定,昭和16年 第784号改正)によれば……
艦長 大佐 1 ,副長 中佐 1 ,航海長 中少佐
1 ,砲術長兼分隊長 中少佐 1,通信長兼分隊長
中少佐 1
運用長兼分隊長 中少佐 1 ,飛行長 中佐 1,副砲長兼分隊長
少佐・大尉 1,飛行隊長 中少佐 5 ,
分隊長 少佐・大尉 15 ,乗組 兵科尉官 12,中・少尉
9 ,整備長 機関中佐 1 ,機関長 機関中佐 1
工作長兼分隊長 機関少佐 1 ,分隊長 機関少佐・機関大尉
9,乗組 機関科尉官 5 ,機関中・少尉 5
軍医長兼分隊長 軍医中少佐 1 ,乗組 軍医少佐・軍医科尉
3 ,主計長兼分隊長 主計中少佐 1
乗組 主計科尉官 1 ,乗組 特務中・少尉 4 ,飛行特務中・少尉
22 ,整備特務中・少尉 9 ,機関特務中・少尉
3
工作特務中・少尉 1 ,看護特務中・少尉 1 ,主計特務中・少尉
2 ,兵曹長 4 ,飛行兵曹長 33 ,
整備兵曹長 14 ,機関兵曹長 4 ,工作兵曹長
1 ,看護兵曹長 1 ,主計兵曹長 1 ,兵曹 110
,飛行兵曹 145
整備兵曹 131 ,機関兵曹 84,工作兵曹 21,看護兵曹
4,主計兵曹 12,水兵 318,整備兵 328,機関兵
211
工作兵 31,看護兵 9,主計兵 49,
合計 1630
【質問】
正規空母,と言いますが,この「正規」とは何が「正規」なのですか?
これこれこういう条件を満たした空母を正規空母と呼ぶ,みたいな条件があったら教えてください.
逆にいえば,軽空母とか改装空母とか航空巡洋艦とかってのは何が足りなくて正規空母と呼ばれぬのか,という質問でもあります.
排水量や搭載機数といった要素が関係してくるのでありますか?
どうか御教示を.
【回答】
二つの基準があります
一つは,最初から空母として作られた船を正規空母,それ以外を改装空母とする基準です.
これによると,赤城や隼鷹は改装空母,鳳翔は正規空母となります.
もう一つは,露天繋止で作戦機を搭載出来る船・・・,要は飛行甲板全体を使わなくても離発着が出来る船を正規空母とする基準で.
これによると赤城や隼鷹は正規空母,鳳翔は軽空母となります.
搭載機数は関係ありません.
もし搭載機数が少ないのが正規空母の要件を満たさない条件とされた場合,英装甲空母や信濃が軽空母となってしまう可能性が出てきてしまいます.
また,排水量を基準にするのもナンセンスです,大鷹級は蒼龍に迫る排水量を誇りますが,蒼龍を軽空母と呼ぶのも大鷹を正規空母と呼ぶのも,無理があり過ぎます.
【質問】
日本海軍の空母は何故,舷側エレベータを導入しなかったのでしょうか?
【回答】
ちゃんとしたシャッターがない当時,台風等の暴風雨の被害を恐れたため.
と言っても,シャッターを実用化できなかったわけではなく,悪天候で海が荒れることの多い日本周辺海域での運用を考え,波浪による浸水の危険がある側面シャッター(解放式格納庫)を採用しなかったということ.
アメリカ海軍も悪天候時の危険については認識はしていたが,搭載機数を増やせることと,設計上の簡易さの点から,開放式格納庫を採用した.
結果,米空母は,沖縄近海やフィリピン近海で嵐に遭遇した際,かなりの被害を出している.
【質問】
なぜ日本空母はカタパルトを搭載しなかったのか?
【回答】
『帝国の艦船 日本陸海軍の海洋軍備』(学研,2008.1)における.日本空母用カタパルトの実用化についての考察では,
・艦載機の機体強度の問題(カタパルト射出される水上機と違い,衝撃に耐えられない)
・甲板上での取り扱いの問題
から,小型空母にカタパルトを装備して第一線機(彗星艦爆や天山艦攻など)を飛ばすより,大型空母の広い甲板に並べて発進させた方が手間も時間も節約できる(=後続機の発進を待つ時間が短くなり,燃料のロスも少なくなる.その分,攻撃距離が伸びる)
(P.122)
他にも『護衛空母入門』(大内建二著,光人社NF文庫,2005.4)では
「圧縮空気式は短時間の連続発進が困難であり,空気圧縮装置も故障多発の為,実用化されず」
「油圧式を開発したかについては不明だが,アクチュエーターやオイルシール材の開発・生産が劣っていた日本が実用化できなくても不思議はない」
と説明しています.(同書P.127〜131))
グンジ in mixi,2007年12月31日12:33
【質問】
旧海軍の艦載機についてお願いします.
「日本機は強度が低く,それもあってカタパルトがなかった」
という文をどっかで見たのですが,艦上機である以上着艦時にフックを使って着艦します.
そのとき機体が壊れた,なんて話もあったりするのでしょうか?
シロウト考えでは,機速0から飛行可能な速度まで加速するのも,飛行可能速度からフックで着艦するのも,衝撃は同じじゃないかなー,と思うのですが.
それとも,強度の方向性みたいなものもあるんでしょうか?
【回答】
日本海軍は、空母用に油圧カタパルトの実用化に失敗したため,火薬式のカタパルトを使ってましたが、火薬式だと、作動時に急激な加速がかかることもあり,艦攻、艦爆を発進させるだけのパワーのあるものを作ろ
うとすると装置自体が巨大化するのと、艦攻、艦爆の構造強化まで手をつけなくなり、断念しています.
問いあわせにある,フックで着艦するのも,離陸するのも同じとのことですが、艦攻の場合,発艦時と着艦時の重量が1.5トン近く違うため,同じでは有りません.
着艦フック云々では,たとえばF6F-3が着艦フックを引っ掛けた衝撃で後部胴体がちぎれたという有名な事故がある.
日本機が強度が足りず云々は,カタパルトの力を受ける前部胴体の強度が足りないからだ.
車だってジャッキポイント以外で持ち上げるとシャーシが歪むだろ.それと同じだ.
で,胴体の補強は当然重量増になるから,簡単に実行できない.
+
【質問】
日本空母のダメージ・コントロールは遅れていたのか?
【回答】
日本海軍は大きく立ち遅れており,個艦レベルの対策の域にとどまっていたと言う.
以下引用.
被害発生時のダメージ・コントロールは,その思想・態勢・手法・装備などの面で日本海軍は大きく立ち遅れていた.
各空母では,応急担当者の創意工夫と演練により,不燃化や消火能力・応急作業能力を高めたが,いずれも個艦レベルの対策の域にとどまり,海軍全体で応急術として体系的に普及・向上を図る態勢にはなかった.
そのため,空母の弱点,危険物などに関する基本的知識や,その対策に対する知見を,各艦の応急担当者が共有するまでには至らなかった.
被雷によりタンクから漏洩した軽質油が,蒸発ガスになって大鳳の艦内に広がり始めたとき,軽質油と蒸発ガスの挙動に関する基本的知識の欠如から,同艦応急関係者の処置が必ずしも適切なものではなく,艦を沈没に至らしめたのはその一例と言えよう.
「世界の艦船」2005年4月号,p.90-91(安部安雄著述)
【質問】
日本空母機動部隊の,艦隊全体としての防御システムは,どのように構築されていたのか?
【回答】
構築されていなかったという.
以下引用.
日本海軍は,多数の空母を集中統一使用する戦術を創案し,緒戦期に大戦果を得た.
しかし,これらの空母群に,強力な対空あるいは対潜能力を備えた各種の直衛艦を配備した建制の機動部隊を編成し,空中,海上,海中からの攻撃に対して,強力な防御力を備えた艦隊を駆使する着意を欠いていた.
そのため,防御面での脆弱さを内包した空母を艦隊全体で守るシステムと能力が,米空母機動部隊に比して著しく低く,敵機が来襲しても殆どの場合,直衛艦も自己の防衛に手一杯で,空母を攻撃する敵機の阻止どころではなかった.
要するに,戦闘機の上空直衛を含めて,空母機動部隊としてのシステム化した防御体制が構築されたことはなかったのである.
「世界の艦船」2005年4月号,p.91(安部安雄著述)
【質問】
日本空母は煙突の位置や形,艦橋の位置などを気流が乱れて着艦の支障をきたすとの理由であれこれと試行錯誤してますが,煙突や艦橋の位置・形はそんなに問題になるんですか?
【回答】
飛行機と言うものは非常に微妙なバランスの上において飛行するものなので,ちょっとした乱流により翼の表面の気流が剥離し,失速しバランスを崩してしまいます.
着艦アプローチに入っていると言う事は失速寸前なのでなおのことです.
着艦の為に風上航行をしていれば,飛行甲板上は台風並みの風が吹いています.
その風が艦上構造物に当たれば,周囲と後方には予期しない乱流が発生するでしょう.
その問題を根本的に解決しようとした形式が,龍驤のような全通式平甲板空母です.
しかし,出来るだけ飛行甲板が長い方が良いので,飛行甲板最前部直下に艦橋構造物を置くこの形式は,あまり流行らなかったようです.
結果として残ったのが,出来るだけ端に艦橋構造物を置く島型艦橋です.
また,煙突に関しては当時の空母はほぼ全てがボイラー艦なので熱を持った煙が勢いよく排出されます.
これが周囲の空気と混ざれば乱流と化します.着艦の為に全速航行していればなおのことでしょう.
真後ろに排煙を流す初期の赤城/加賀形式は乱流で着艦し辛かったそうです.
これらの問題を解決する為に,空母保有国はそれぞれ試行錯誤をしましたとさ.
【質問】
日本空母の防火・消火対策は立ち遅れていたのか?
【回答】
米空母に比べて立ち遅れていたと言う.
以下引用.
開戦当時の日本空母は,火災発生時の範囲極限を図るため,格納庫に大型の防火鎧戸を設置していた.
また,格納庫の消火用には炭酸ガス噴出装置を備えていたが,珊瑚海海戦での翔鶴損傷やミッドウェー海戦での4空母沈没などの戦訓から,格納庫の囲壁などに破孔を生じた場合には,この炭酸ガスが吹き飛ばされて消火の役に立たないことが判明した.
その結果,石鹸水液を用いた泡沫式消火装置が開発され,格納庫内に長さ25mごとにその消火管を設置したことにより,消火能力が向上した.
米空母も,被害時に発生する格納庫火災への対応には苦しんだが,庫内に火災源や誘爆物を極力置かないようにし,火災発生の際は航空機や爆弾,火災発生の際は航空機や爆弾,魚雷などの危険物を速やかに庫外へ投棄する.
石綿製の頑丈な防火仕切り扉の装備,早い時期からの泡沫式消火装置の設置などの対策を実施しており,これらの点に関しては日本空母は立ち遅れていたように思える.
「世界の艦船」2005年4月号,p.89(安部安雄著述)
【質問】
日本空母は水中防御は施されていたか?
【回答】
大型空母以上には施されていたが,翔鶴型では不充分,信濃は未完成状態だったという.
以下引用.
水中防御については,米空母は液層・空層併用の多層式の防御方式を採用して,有効な防御効果を得ていた.
一方,日本の大型空母では,未成主力艦から改造の赤城,加賀,信濃は空層利用防御方式とし,翔鶴型と大鳳は被雷時のスプリンターに対する防水縦壁の負担を軽減する目的で,液層利用防御方式を採用した.
翔鶴型は水中防御層の数が少なく,その奥行きも浅かったので,防御効果が不充分であり,マリアナ沖海戦における翔鶴の被雷沈没も,これと無関係ではあるまい.
次の大鳳は,さらに改良・強化した液体利用防御方式を採用したので,その水中防御能力は向上したものと考えられる.
しかし皮肉にも,非防御の前部軽質油庫付近右舷側に命中した魚雷1本の爆発が原因となって,脆くも沈没してしまい,この新しい水中防御方式の真価は判明せずに終わった.
魚雷4本の命中により浸水が拡大,沈没した信濃の場合は,工事途中の状態で,各区画の水密が完成せず,ダメージ・コントロール関係装備も未完成,乗員の訓練も殆ど未実施などの悪条件下での出来事なので,防御能力を云々する以前の問題だと言えよう.
日本の中型空母は本格的な水中防御を施していなかったが,飛龍より一回り大きな米空母ヨークタウン級は液層・空層併用多層式水中防御を実施して,実戦で強靭さを発揮した.
「世界の艦船」2005年4月号,p.89-90(安部安雄著述)
【質問】
珊瑚海海戦や南太平洋海戦で,翔鶴の甲板が簡単に大破壊してしまったのは何故か?
【回答】
上部格納庫には薄い側壁を簡単に取り付けて,ここで爆弾が爆発すると爆風が側壁を吹き飛ばして外に逃げ,飛行甲板に累を及ぼさないように作られていたが,飛行甲板が強固さを欠いていたため,現実には爆風は側壁を飛ばすと共に,飛行甲板をも破壊する結果となったという.
以下引用.
日本の中・大型空母は2層の密閉式格納庫を備え(一層の信濃を除く),飛行甲板は英空母と同様に深いビーム(梁)とガーダー(桁)で支持しているが,概ね軽構造であり,あまり強固な作りではなかった.
代表的な大型間の翔鶴型では上部格納庫には薄い側壁を簡単に取り付けて,ここで爆弾が爆発すると爆風が側壁を吹き飛ばして外に逃げ,飛行甲板に累を及ぼさないように作られていた.
しかし飛行甲板が強固さを欠いていたため,現実には爆風は側壁を飛ばすと共に,飛行甲板をも破壊する結果となった.
翔鶴は珊瑚海海戦と南太平洋海戦で,命中弾の爆発により飛行甲板が山なりに吹き飛ばされ,一部は上部格納庫まで陥没する大破壊を生じて飛行機の発着艦が不可能になり,戦闘離脱を余儀なくされた.
「世界の艦船」2005年4月号,p.88(安部安雄著述)
【質問】
では,米空母のほうの飛行甲板の強度はどうだったのか?
【回答】
強固な構造であり,空母ヨークタウンが2日の修理で復帰できたのも,これに負うところが多いという.
以下引用.
米空母の飛行甲板は,支える梁を深くして,
「飛行甲板は,その直下のギャラリー甲板と共にサンドイッチ構造を形成して,飛行甲板にかかる荷重を支持する方式」(故鈴木昌氏の記述による)
とし,強固な構造を得ていた.
ギャラリー甲板の下は一層の解放式格納庫とされ(密閉式のレキシントンを除く),ここで爆弾が爆発しても,かなりの爆風が舷側から逃げ,飛行甲板は,爆弾の貫通部分を除き,大きな破壊・変形を生ぜず,短期間の応急・修理作業で戦闘行動を再開できた.
珊瑚海海戦で損傷したヨークタウン Yorktown CV-5 が,真珠湾での僅か2日の修理期間でミッドウェー海戦に出撃できたのも,飛行甲板の強固さに負うところが多いと見られる(筆者の知る限り,この点を指摘しているのは故・酒井三千生氏だけである).
「世界の艦船」2005年4月号,p.88(安部安雄著述)
【質問】
鳳翔,瑞鳳,大鷹は練習空母としてはどう使われたのか?
【回答】
>鳳翔
練習空母になったのは昭和17年10月20日以降です.
ミッドウェイまでは戦艦部隊付属の直衛空母になっており,ミッドウェイ海戦でも,対潜用として九七艦攻6機を搭載,主隊に随伴しています.
機動部隊訓練部隊編入以後は,
1943/1/15 第3艦隊第50航空戦隊に編入され,内海西部にて母艦着艦訓練に従事
1944/1/1 第12航空艦隊第51航空戦隊編入
1944/2/20 連合艦隊付属に編入.第3艦隊の着艦訓練に従事.
1944/6/7〜24 飛行甲板拡張工事.これにより外洋航行は不能となる.
1945/3/19 米機動部隊の攻撃により損傷
1945/3/27 修理完了.単独訓練従事.
1945/4/20 予備艦に.
1945/6/1 特殊警備艦となり,乗員の大部分は退艦.
1945/10/5 正式に除籍.以後,復員輸送艦となる
1946/9/2〜47/5/1 解体工事
>瑞鳳
瑞鳳は1940/12/27に佐世保鎮守府警備艦となって後,1941/4/10に第1艦隊第3航空戦隊に編入されるまでの間,12連空の着艦訓練に従事してますが,他は自艦の訓練をやったり,ハワイに行っていた連合艦隊を出迎え警護したり.
本格的に練習空母となったとは言えないですな.
>大鷹
こちらは練習空母というより輸送空母扱い.
高雄に輸送したり,トラックに輸送したり,ラバウルに輸送したり.
着艦訓練に従事したのは,
1941/12/12〜31 内海西部にて.
1942/6/9〜7/1 同上
の2回のみです.
ソースは,潮書房の「丸スペシャル」各号より.
消印所沢 ◆z3kTlzXTZk
【質問】
空母大鳳についてですが,装甲甲板を採用したために重心の関係で船体を低くし,そのため搭載機数が減ったと良く言われますが,実際は零戦,九九艦爆,九七艦攻なら70機以上の搭載が可能だったという話も聞きます.後者が正しいんでしょうか?
【回答】
「Warbirds」の常連BUNさんが計算してます.
http://www.warbirds.jp/truth/ijn_cv.html
これによると可能であるようです.
ただ,質問の前提である零戦・99艦爆・97艦攻のトリオは明らかに型落ちした旧式機である以上,マリアナ海戦以降は零戦・彗星・天山で換算するか,将来を見越して烈風・流星で換算しないと,単なる数字遊びに終わってしまうでしょう.
(鷂 ◆Kr61cmWkkQ)
流星

【質問】
未成巡洋艦「伊吹」の空母転用は正解だったか?
【回答】
わざわざ改造するほどの手間をかけてまで巡洋艦を改造するよりは,輸送船改造のほうがメリットが大きかったと思います.
もともと,伊吹は主砲塔の搭載も終わり,艦橋の偽装を除いて,巡洋艦としての形が見えるくらいまでに艤装作業が進んでいました.
それなのに無理やり空母改装なんてするものだから,改造は困難を極め作業は遅れ,結局完成しせずに終戦.
巡洋艦として完成させた方が良かったという意見もあります.
巡洋艦では工数が少ないとはいえ,もともと他の艦種として進水したものをを空母に改装するのは困難なのです.
それに,護衛空母程度の搭載機数しかありません(搭載予定機数は27機).
また,実際に試験したわけではありませんが,小さいので新鋭機の発着は困難という予想が立てられていました.
他の艦では利根型巡洋艦を空母に改装する計画も検討されましたが,実施には至っていません.
◆◆◆◆信濃
【質問】
結局泥縄式に空母に改造されてしまった大和型戦艦三番艦「信濃」ですが,もし空母に改造されてなかったとすれば,何年の何月頃に戦艦として完成する予定であったのでしょうか?
また,もし信濃が戦艦として完成していれば,どのような艦生を辿ったと推測されますか?
(ミッドウェイの敗北等戦況は史実と変わっていないとして)
【回答】
太平洋戦争が起きていなく,米の対日経済制裁がそれ程キツく無い状態で,C計画が予定通り進行した場合でしたら,
・110号艦(後の信濃):1940年5月4日起工→1943年10月進水→1945年3月竣工
・111号艦:1940年11月7日起工→1943年9月進水→1944年末竣工
の予定で,111号艦の方が先に出来上がる予定でした.
その理由の一つとして,横須賀工廠では全ての艤装を行う事が出来ない為,進水後に呉へ回航する必要が有った為です.
尚,110号艦が戦艦として完成した場合,必ずしも艦名が「信濃」に成るとは限りません.
「信濃」と言う艦名は空母として進水した時に付けられた物で,候補の一つではありましたが,戦艦として進水した場合は,他の名前が付けられた可能性も有ります.
また,このスケジュールは,あくまでC計画が予定通り進行した場合ですので,経済制裁等で一部資材や工作機械の部品などが入手困難に成った場合や,戦争が激しく成った場合(大陸方面等),あるいは対米戦争が起こった場合は考慮していません.
それらのファクターを加味しますと,予測は不可能と成ります.
【質問】
空母「信濃」が大和と殆ど同じ排水量なのは何故?
主砲・副砲・後しょう楼が無い分軽くなって,もっと速度が出ると思うのですが.
【回答】
基準排水量でいうと大和の6万4000トンに対し,信濃は6万2000トンある.
公試排水量でならば大和の6万9100トンに対し,信濃は6万8060トンだったりする.
もっとも公試排水量といっても計画値で,呉への回航時は缶が2/3しか動かず最高速力は20ノットだったけど.
降ろすもの降ろしても降ろせない船体の装甲や,重防御空母として追加された飛行甲板防御,18ノット1万海里を保証する大和より5割増,9000トンの重油搭載量など,
軽くしよう,とか,速くしよう,という努力は考えていなかったのでは?
(ふみ)
【質問】
信濃は何で格納甲板が1層しかないの?
【回答】
とりあえず,福井静夫さんの回顧録を見る限り,格納庫は前部と後部に一つ宛あり,前方の格納庫の3分の2は開放式で,此処に偵察機7機,艦爆20機を搭載,後部には防禦を施して戦闘機20機が搭載できるようになっていました.
但し,この計画数値は,艦爆は流星,艦偵は彩雲,艦戦は烈風を基本に算出していますので,それが無い竣工時の時点では,もう少し搭載できたかもしれません.
当初は2層式を考えていたそうですが,煙路導設方法,中甲板甲鈑の大改正を伴い,戦時急造の思想からは外れるため,1層になったようです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2
【質問】
「信濃」を撃沈した潜水艦は,その戦果をなかなか認めてもらえなかったって本当?
【回答】
本当の話.
潜水艦「アーチャーフィッシュ」の艦長は
「大型空母1隻撃沈」
と報告したのですが,米海軍は暗号解読で得た「信濃沈没」から信濃川,つまり軽巡名と勘違いし,艦長の戦果報告を否定したのです.
結局,強硬な主張が実り,
「2万7000トン級空母1隻撃沈」
と判定されたので,艦長は
「もっと大物だった筈だけどなあ」
と不満を持ちつつ,それを受け入れたそうです.
◆◆◆駆逐艦
【質問】
早蕨という船でトップヘビー問題が出たらしいのですが,詳細を教えて下さい.
【回答】
早蕨が昭和7年12月5日に転覆沈没した事故のことでしたら,あれは構造上のトップヘビーではなく,過積載が原因ではないかという説があります.
昭和5年前後は,大湊・舞鶴・鎮海・旅順・馬公の各要港部に,横須賀・呉・佐世保の各鎮守府は持ち回りで警備用の1個駆逐隊を派遣していました.
昭和8年度編制で,馬公要港部の担当となったのが,早蕨が属する第13駆逐隊でした.
少なくとも1年は馬公に留まるわけで,駆逐隊の備品や馬公に送る物資を呉で満載して出動したものの,太平洋上で嵐に遭い,先頭を行く早蕨が転舵した途端,横波を食らって横転してしまった…とのこと.
続行する若竹・呉竹・早苗もなすすべもないほど,あっという間の沈没だったそうです.
(鷂 ◆Kr61cmWkkQ)
【質問】
日本の駆逐艦で主砲塔を一基下ろして,機銃を載せるという改装をした艦があったと思うのですが,艦の名前と,増設された機銃の内容を教えて下さい.
【回答】
樅級は1943年頃から3番砲を撤去して代償に対空火器と電探を装備.
神風級は1943〜44年に掛けて4番12cm砲を撤去してその跡と艦橋前部に25mm連装機銃2基づつを装備.
若竹級も12cm砲を2基降ろして対空機銃を増備.
睦月級は12cm砲1〜2門を降ろして対空機銃を増備.
吹雪級は1943年後期頃から12.7cm3番砲塔を降ろして25mm三連装機銃2基と換装し,艦橋前面に25mm連装
機銃1基と2,3番魚雷発射管中間に25mm三連装機銃2基を追加.
初春級は1944年に入って,単装砲塔を撤去し,25mm三連装機銃1基と換装.
白露級も初春級と同様.
朝潮級は1944年頃に12.7cm2番砲塔を撤去して吹雪級と同様の改装を実施.
夕雲級は1944年以降に12.7cm2番砲塔を撤去して25mm三連装機銃2基と換装.但し,最後期に建造されたものは,砲塔撤去が無かったです.
ついでに,水雷艇千鳥級は後部主砲を撤去し,25mm連装機銃2基,単装4基を増強.
鴻級も同様ですが,25mm単装機銃の門数が5基になっています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2
【質問】
旧日本海軍の駆逐艦は三連装や四連装の魚雷発射管を多数搭載していましたが,これらの発射管はいっせいに発射する事もあったと思いますが,逆に一発又は二発だけ撃つという事はできたのでしょうか?
【回答】
当然できる.
発射機に発射する管を選択する機構があります.
ただし戦闘時は全門全管を一斉発射するのが基本.
発射機と発射管の角度は調整されていて,目標に対し扇状に発射されます(どれか一発が確実に当たるようにするため)
【質問】
陽炎型や朝潮型,白露型といった駆逐艦は,対空装備を増強するのに,高角砲を設置せずに砲塔を下ろし機銃を増やすだけという,あしざまに言えば申し訳程度の増強しかしなかったように見えます.
これら既存の駆逐艦に,秋月に載せた長10cm砲や,五十鈴に載せた12.7cm砲を搭載しなかった理由は何でしょうか? それまでの主砲は対空兵器としては役に立たないことはわかっていたと思うのですが.
【回答】
秋月級の長10cm砲は,砲塔重量が38tと重くデカイ.むりぽ.生産量も少なく,生産速度も遅い.
また,特型以降の日本駆逐艦の砲は,一見砲塔状に見えるものの,実際は人力旋回の砲の全周に波除を装着した様な構造.
其処へ12.7cmなり長10cmなりを積むのはかなりの大工事になる上に,重量的にも元の砲より過大となると思われます.
時間的にも資材的にも余裕がななったものと思われます.
「雑木林」では12.7cm高角砲の搭載を行いましたが,初速は3年式に比べると口径が短い分低く(三年式915m/sec,89式720m/sec),対水上戦としては威力が劣るため,対水上戦能力を重視する方面から嫌われたのではないか,と思います.
さらに,砲の作動は電動式ですから,電路の設計など引き回しも面倒ですし,照準装置も対水上戦,対空戦の二つを併用するのであれば,二重に必要になり,ただでさえこの辺の精密機械の生産能力の低い日本ですから,これを準備できない可能性もありました.
究極的にはいつもの
「みんなビンボが(略」
(眠い人 ◆gQikaJHtf2他)
【質問】
日本の駆逐艦で,キールが切断されても帰還できた例はありますか?
【回答】
「秋月」は被雷後に応急修理を行って,内地に帰還中に応急修理の補強不足でキールが切断したんじゃないかな.
サイパンに引き返して艦橋後ろで船体を切断して,後部船体のみ曳航されて内地に帰還.
魚雷の直撃でキール(船体)切断に至ったが沈まなかった艦としては,1942年7月被雷した駆逐艦「不知火」や,44年1月被雷した駆逐艦「涼月」などがあり,また触雷により船体を切断した艦としては,42年11月の駆逐艦「春風」があります.
【質問】
船団護衛艦であるはずの松型に,なぜ魚雷発射管も装備されたのか?
【回答】
松型も,あくまで艦隊型駆逐艦として検討されたため.
その証拠に,当初検討案では,
・白露型と同程度の大きさ
・兵装は12.7cm高角砲×4,61cm4連装魚雷発射管×2,
・速力30ノット以上
というものがあった.
この計画がスペック・ダウンするのは,量産性を重視したため.
詳しくは「世界の艦船」2006年10月号,p.109(大塚好古=軍事史研究家=著述)を参照されたし.
◆◆◆◆秋月型
【質問】
http://karen.saiin.net/~clytie/countries/japan/navy.html
ここ↑に「秋月型駆逐艦で,自艦の高角砲弾片が命中,沈んだのがあった」という話が載っているのですが,
http://military.sakura.ne.jp/navy/d_akiduk.htm
↑を見てもそれらしい艦が見つかりません.どの艦のことでしょうか? それともガセですか?
【回答】
秋月です.
かつては,潜水艦が瑞鶴に放った魚雷を身を挺して防いだと喧伝されました.
緒方艦長みずからそれを否定し,搭載魚雷の誘爆で沈んだと指摘してます.
今の論点は,火元は何か,ということで,秋月の機銃弾か,瑞鶴や瑞鳳の流れ弾か…で平行線をたどってます.
(鷂携帯版 ◆53cmjHPmWw)
【質問】
旧日本海軍は機動部隊防空のための秋月型を多数製造しましたが,秋月型以外に防空目的の駆逐艦を設計したのでしょうか?
【回答】
駆逐艦と言うより,当初は巡洋艦を志向しています.
英国の旧式軽巡洋艦改造の防空巡洋艦を手本に,旧式化した天龍型とか5500t型軽巡洋艦の主砲を高角砲に換装し,高射装置を完備,雷装を全廃して直衛艦とするのが一番最初.
ところが,これは予算が可成り掛かる上に,防空性能不十分,
しかも,旧式と言えど,未だ十分に水雷戦隊旗艦として役に立つこともあり,又,これらは艦隊決戦に際し,重雷装艦とすることが考えられましたので,防空巡洋艦構想は後に五十鈴が改造されただけでした.
で,その替わりに新型の防空巡洋艦を設計します.
これは大淀型とほぼ同じ9000tで,10cm高角砲の連装砲塔を12基搭載,高射装置は4基搭載という立派なものでしたが,これは威力十分な替わりに船価が高く,実現の見込み無く,一艦で対応する巡洋艦よりも,数隻で対応する駆逐艦の大型化という方向に進んでいきます.
当初は,駆逐艦ではなく,直衛艦という種別でこの艦は呼ばれました.
これで設計されたのがW-115計画案で,原案は魚雷発射管無し,第二案で,魚雷発射管1基を搭載し,第三案はそれが二基に増えました.
結局第三案は過大に過ぎ,第二案を元に計画が進められています.
なお,○5計画では,島風型のボイラーと主機を採用し,速力を33ktsから37ktsに向上,基準排水量を300t増して3000tとし,魚雷発射管には新設計の6連装を1基搭載し,機器配置は缶−機−缶−機の交互配置を,日本の駆逐艦では初めて採用する予定でした.
眠い人 ◆gQikaJHtf2
【質問】
大戦中の日本の防空駆逐艦は米国と比較して低性能だったのでしょうか?
ドキュメンタリー番組で防空駆逐艦の戦闘時のシ−ンが流れてたのですが,弾幕が凄ごく気になりました.
【回答】
一応,秋月を想定しているとして….
日本の駆逐艦の場合は,対空機関砲としては25mm機関砲しかなく,それも,複葉機全盛の時代に導入された代物でした.
その上は10cm高角砲であり,中口径の機関砲が無かった(毘式は無いに等しい)ので,弾幕がどうしても薄くなりがちでした.
対空射撃完成機構については,九四式高射装置であり,これは優秀なものと言えるでしょう.
砲側の高射装置は,当初は複雑な構造の方位板測的装置と射撃盤を装備する予定でしたが,結果的に簡便な照準器になっていますので,高射装置が破壊された後の戦闘力は落ちます.
末期には九四式高射装置が供給不足となったので,2基取り付けるべきものを1基にしたりしていますし….
また,米国に比べると電子機器の性能が少し劣っていたため,夜間の対空戦闘は困難でした.
更に個艦戦闘ではなく,集団的な戦闘となると米側の方が上を行きます.
運用とかについては,米軍の方に一日の長があります.
艦隊防空というのはシステムだから,仮に一隻の駆逐艦が高性能であっても意味はありません.
戦争は組織的にやるものですから,個艦能力がよくても組織的な戦闘能力で劣っていればだめぽです.
秋月型 12隻
フレッチャー型 175隻
アレン・M・サムナー型 70隻
43年後半辺りの米海軍の場合だと,
レーダーで捕捉
→待機していた戦闘機が向かい迎撃
→余ったのを各艦迎撃
って流れが出来てる.
一方,日本海軍でもそういった考えは有ったけど,態々数を増やした戦闘機に爆装させて米艦隊に突入させたり,レーダーや航空機の誘導がお粗末だったり,最終的には残った艦艇は航空優勢も取れない場所に突入したり,燃料不足で憂げ動けなくなったところを航空機にボコられたりして沈んでいきましたとさ.
そもそも,米軍に防空駆逐艦なんてない.普通の駆逐艦の主砲が高射砲(両用砲)だっただけ.
日本の「防空駆逐艦」(秋月)と向こうの「駆逐艦」(フレッチャー)を比べなきゃならない状況ってのが問題な訳.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2他)
◆◆◆◆特型
【質問】
特型の設計思想は?
【回答】
ワシントン海軍軍縮条約の結果,生まれた漸減戦の思想により,日本駆逐艦部隊の任務は敵主力艦の攻撃とされた.
そのため,第1次大戦後,魚雷攻撃のみでなく,主力部隊の直衛,哨戒,対潜など多岐な任務を要求されつつあった外国駆逐艦と比べると,著しく攻撃に偏重していた.
また,圧倒的多数を誇る米警戒部隊の阻止幕を突破するため,「寡をもって衆を制する」ことのできる「個艦優秀思想」が生まれたが,しかし,軍艦という複雑緻密な兵器に奇跡はない.
特定の性能の傑出を得るためには,その代償に必ず何かを切り捨て,犠牲にしなければならない.
特型駆逐艦の優秀性は戦略場の劣勢を補うため,痛みを伴う強引なまでの手法で引き出すものだった.
詳しくは「世界の艦船」2006年10月号,p.75-76を参照されたし.
吹雪(特I型)

【質問】
列国の同時代の駆逐艦に比べ,特型はなぜ砲力で優位に立てたのか?
【回答】
主砲搭載数を多くし,発射速度を高くしたために,1分間当たりの片舷発射弾量はずば抜けて大きくなった.
これは連装砲を搭載した結果である.
当時の列強駆逐艦の主砲は,中心線上に単装砲を4〜5門搭載するのが標準だった.
中川務の私見によれば,それは,連装砲にすると1基当たりの重量が増大して,人力による俯仰旋回操作が不可能になり,機力の導入に迫られて重量が増大するのを恐れたためだった,と推察できるという.
駆逐艦のような軽量艦の搭載砲を無理に連装化するよりも,単装のままで砲口径を増大するほうが容易で確実だった.
ドイツを除く列強駆逐艦の主砲は1930年代に入って連装化に向かっており,その点では特型には先見性があった.
発射速度については,揚弾を機力化し,砲支筒内に揚弾機(揚弾能力20発/分)を設置して,弾薬の供給を円滑化している.
反面,特型の嚢砲(睦月型までは莢砲)は発射速度向上に適応し難かった.
詳しくは,「世界の艦船」2006年10月号,p.77-79(中川務著)を参照されたし.
【質問】
特型駆逐艦の主砲は,対空・対艦両用砲なのか?
【回答】
特I型はA型砲で,これは最大仰角40度と限定的.
II型は最大仰角75度のB型砲を搭載したが,これは旋回俯仰速度が遅く,弾薬装填方式がA型砲と基本的に一緒で,両用砲からはほど遠かった.
ソースは「世界の艦船」2006年10月号,p.25より.
【質問】
列強の駆逐艦に比べ,特型は何故雷撃力で優位に立てたのか?
【回答】
魚雷の口径が各国の中で最も大きく,炸薬量が当時最大だったため.
また,3連装発射官を船体中心線上に3基搭載できた為.発射官の中心線装備は,大きな艦上スペースを要するため,各国では2基装備または片舷射線減少を容認した両舷装備が多かった.
特型がそのようなスペースを得ることができたのは,主砲を連装化して艦の中部に余積を生み出したからだった.
詳しくは「世界の艦船」2006年10月号,p.79-80(中川務著述)を参照されたし.
【質問】
列強の駆逐艦に比べ,特型はなぜ航洋性に優れていたのか?
【回答】
長船首楼を採用して艦首付近に強いシアとフレアーを付し,また,艦の中部にもフレアを付して艦首波の打ち返しを防ぐよう留意し,さらに露天式艦橋を廃して艦橋に固定天蓋を設け,周囲をエンクローズして飛沫対策を強化.
砲室も密閉化し,砲員や弾薬,要具類を飛沫から守った(ただし軽量化のため,鋼鈑厚は3.2mmで,弾片防御能力すらない)
詳しくは「世界の艦船」2006年10月号,p.83(中川務著述)を参照されたし.
◆◆◆◆戦闘妖精じゃないほうのヤツ
【質問】
雪風の名前の由来は何ですか?
【回答】
雪風は,日本海軍の命名基準によって,天象地象の名前から取られただけです.
平安期の蜻蛉日記のくだり,「雪風うふかたなうふりくらがりて…」で現出の雪と風,または雪交じりの風の意をさします.
眠い人 ◆gQikaJHtf2
【質問】
なぜ雪風って僚艦にとって不吉な艦だと言われてるんですか?
【回答】
雪風には大した被害が出ないのに周りの艦がえらい損害を被るので疫病神みたいに言われてました.
・マリアナ沖海戦(空母3隻撃沈,航空機378機損失)
・レイテ沖海戦(戦艦3隻空母4隻重巡6隻軽巡3隻駆逐艦9隻撃沈,重巡4隻駆逐艦2隻大破)
・信濃護衛(信濃撃沈)
・坊ノ岬沖海戦(大和軽巡1隻駆逐艦5隻撃沈)
・太平洋戦争開戦時から作戦に参加していた駆逐艦のうち唯一終戦まで無事に生き残った.
他にも
第三次ソロモン海戦とか(戦艦比叡,霧島沈没)
ビスマルク海戦とか(輸送船全滅,護衛の駆逐艦半数が沈没)
終戦間際に日本海側に待避した際の触雷とか(雪風に触れた機雷はその時は爆発せず,後続の初霜に触れた時に爆発した).
軍事板
本土に戦艦を返すときも護衛してましたが,金剛を討ち取られてます.
僚艦の浦風が魚雷に体当たりして大和を守った伝説がある航海です
鷂携帯版 ◆53cmjHPmWw
ただし,なぜ「周りの艦がえらい損害を被る」ような状況にあったかも考慮する必要があるでしょう.
「辛くも生き残った」とも言えるわけで,「幸運の艦」とも「疫病神」とも評されるのも無理はないでしょう.
611名前:名無し三等兵[sage]投稿日:2005/11/23(水)16:38:31ID:???
この駆逐艦は不幸の駆逐艦です.
13日以内に他の艦隊へ13隻の駆逐艦を転出させてください.
さもないとあなたの艦隊に不幸が訪れます.
【質問】
不吉な艦だと言われていたのは雪風だけですか?
【回答】
雪風と並び称された時雨の場合,
ソロモンにて沖合で輸送船団を護衛していたら,敵が沖からでなく島影から突撃してきて船団全滅とか
スリガオ海峡を先頭で進んでいたら,続行する山城が火だるまになったとか……
鷂携帯版 ◆53cmjHPmWw
◆◆◆巡洋艦
【質問】
第一次ソロモン海戦の時に日本側の重巡が魚雷で大戦果をあげたのに対して米重巡はそもそも魚雷を装備していなかった訳ですが,このような兵装の違いはどのような思想から出てきたのでしょうか.
それと,同海戦の時の豪の重巡は魚雷を装備していたのでしょうか?
【回答】
オーストラリア重巡(英ケント級)は,竣工時には21インチ(53.3cm)4連装魚雷発射管2基を積んでいた.
同型艦Australiaは,後にそれを撤去
アメリカ重巡は,ペンサコラ級,ノーザンプトン級が竣工時に21インチ3連装魚雷発射管2基を装備.こちらも大戦開始までに撤去.
ポートランド級以降は,最初から魚雷発射管を装備しなくなった.
ワシントン・ロンドン海軍軍縮条約により,日本は艦艇保有数がアメリカの約6割に制限されたので,数の劣勢を質で補おうとして,個艦の攻撃力を重視するようになり,重巡洋艦も「重雷装」になったが(まあもっとも,平賀譲造船中将は,重巡の魚雷搭載量の増大には反対していたけど),アメリカにしてみれば,日本の1.6倍以上の海軍力が「国際条約によって保障」されているので,そこまで「無理」する必要性を感じなかったんだね.
で,「重巡洋艦は砲戦だけやってりゃ良い」という考え方になり,魚雷は積まないようになった.
あと,当時の海軍軍縮条約で排水量が一万トンに制限されていたので,(というか,ワシントン条約において戦艦の新規建造が禁止され,新たに造って良い水上戦闘艦艇が「排水量一万トン以内,主砲は8インチ(20.3cm)以内」と定められた為,この規定に収まるフネとして「誕生」したのが「(条約型)重巡洋艦」と言った方が良いかな).
魚雷発射管積む余裕が有るなら,その分のリソースを他に回せ,というコトですな.
しつこいようだが,一万トン以内に収めなきゃならないからね.
何を重視するかは,国によって違っていた.
日本は攻撃力重視,アメリカは攻防バランス重視,ブリテンは航続性能重視,イタリアはスピード重視(ただしザーラ級は防御重視),
フランスは,当初はスピード重視だったが,後に防御重視になった.
シア・クァンファ(夏光華) ◆23wgJy2eAo
このように兵装に違いが出た理由として,日米の想定していた重巡運用の違いが挙げられる.
日本の重巡の目的は米に対して劣っている戦艦の数を補うために,戦艦に損害を与える,あわよくば撃沈する事であり,その為に戦艦に損害を与えうる魚雷を持った.
一方,アメリカの重巡の目的は,戦艦へと突撃してくる日本の水雷戦隊を砲撃により阻止する事で,その為に,砲戦時には弱点ともなりかねない魚雷を持たなかった.
で,初期の船が竣工時に魚雷を持っていたのは,上記のような目的が確立していなかったから一応装備してみたということ.
【質問】
日本の条約型重巡は軒並み排水量1万トンを軽くオーバーしていますが,これは明らかにワシントン条約違反ですよね? 問題にされなかったんでしょうか?
【回答】
ワシントン条約に「戦艦・空母以外は1万トン・8インチ砲まで」という規定があります.
妙高は1万トン目標でしたが高雄は9850トン目標.
ちなみに米英仏伊,条約参加国全てが排水量超過艦をこさえているので,お互い様ていうか,相手にツッコんだら自分もツッコまれる,ていうのも大きいのです.
アメリカなんかは作ってみたら想像外に軽く出来ちゃったクチで,当時の技術水準じゃなかなかピタリとは収まらないので,ある程度黙認ていうか,紳士ルールで申告された数字を信じることにした,と言った方が妥当なところでしょう.
で,条約時代,一番重く出来上がったのはイタリアの重巡洋艦だったり.
日本のは第二次改装で1万3000トン級になってダントツに重くなったけどね.
【質問】
5500t軽巡について質問です.
太平洋戦争時は既に老朽化していましたが,元々の軽巡としての実力はどの程度の評価だった
んでしょうか?
出来れば,建造時の同時代の他国軽巡と比較評価みたいなのを教示して頂けると助かります.
【回答】
最初の天龍型は英国C級の軽巡洋艦を目標に設計され,それより高速で,魚雷兵装強化され,適度な軽防御を持ち,装甲嚮導艦としての任務を果たすべきものでした.
5500t型も,英国の軽巡洋艦に範を取って建造されたもので,駆逐艦が大型化したため,従来の3000t程度の艦ではその指揮が取りきれない,また,相手が駆逐艦から敵の軽巡洋艦となったため,より大きな口径の砲を搭載し,より高速を発揮する機関を持ち,そのため更に大型化する必要がありました.
但し,砲に関しては,6inでは小柄な日本人では装填などで体力を消耗することと,速射性能
を求めたため,5.5inとしました.
また,速度は一般に33ktsと喧伝されましたが,実際は36ktsを発揮し,この艦型の保有は各国にとっては脅威だったようです.
5500t型の競争相手は,米国のOmaha級,英国のE級,Hawkins級でしたが,軍縮条約が無ければ,軍令部の方針では,更に8000t級まで大型化する可能性はありました.
事実,古鷹とか加古はその具現化と言えます.
比較評価ですが,5500トン級と同期といえば,アメリカのオマハ級ですね.
どちらも偵察巡洋艦なので,長期単独行動を前提に計画されています.
5500トン級が優れているのは最高速力で,36ノット対34ノット.
この速力を出せば,来航する米軍の先陣を切る平甲板型駆逐艦を制圧できます.
ご指摘の14cm主砲ですが,駆逐艦を漬していくには十分です.
これが15cmとなると,人力で砲弾を運ぶ効率が低下します.
15cm砲は毎分6発,14cm砲は毎分10発撃てるわけですから,14cmがお得.
逆にオマハ級が優れているのは砲力で,14cm7門対15.2cm10門.
数も破壊力も5500トン級を上回るので,日本側はオマハ級をアウトレンジできる古鷹型を開発する必要が生じました.
もうひとつは航空偵察力で,1機カタパルトなし対2機カタパルトつき.
長良型の艦橋格納庫は,発艦はできても,偵察から帰ってきた偵察機を収納できません.
その点,煙突と後マストの隙間に格納スペースを用意していたオマハ級に,先見の明ありです.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2 & 鷂 ◆53cmjHPmWw)
【質問】
5500t軽巡の砲塔は露天式ですが,実用上問題は無かったのでしょうか?
特に1番砲塔なんて,荒天時に波を被って,装填手が波にさらわれる・・・なんて事もありえそうですが.
【回答】
波浪の影響ですが,5500トン級が細い分,オマハ級に比べて不利ではあります.のちに竣工した吹雪型駆逐艦にも劣るといわれます.
しかしWW1明けの水準では優れた安定性を持っていた部類です.
(鷂 ◆53cmjHPmWw)
【質問】
旧海軍の軽巡で大井と北上というものがあります.
どちらも61cm4連装魚雷発射管を10基40門も装備する,私にとっては夢いっぱいの艦です.
結局,これらの重夢巡洋艦(あんぞ)は戦いが航空主兵に変わったため,艦隊決戦が起こらなくなり,使用されないまま輸送任務などに充てられたのですが,艦隊規模での水雷戦がなかったわけではありませんよね?
特にソロモン諸島を巡る戦いでは,巡洋艦隊や駆逐艦隊同士の接近戦もかなりありました.
となると,大井や北上も活躍できたのではないでしょうか?
特に夢いっぱいの私は,ルンガ沖海戦時に大井と北上がいたらなどと考えては,眠れぬ夜を過ごすわけです.
そこで質問なのですが,結局のところなぜ大井や北上は活動の場を与えてもらえなかったのでしょうか?
【回答】
ソロモン諸島近海の制空権は彼我で五分五分であり,我が艦隊は敵航空兵力の攻撃を受ける可能性がありました.
重雷装艦のような船は,敵航空機に対してあまりにも無力です.
また,機動部隊の戦いと第一次ソロモン海戦の除く海戦のほとんどは,敵艦艇の撃滅が目的ではなく,飛行場砲撃とか輸送船護衛とか物資輸送途中の遭遇戦が主です.
いずれにせよ,重雷装艦は不要な任務ばかり.
その辺のことを考えると,重雷装艦のようなが投入されなかったのも仕方の無いことではないのかな,と.
極東さんがほとんど説明してますのでちょっとだけ.
私の考えでは仮に参戦(第三次ソロモン海戦投入するシミュレーションがあったような)したら,使いようによっては活躍の場はあったかもしれません.
ただ制空権がない戦域ですし,ガチで砲戦になっても魚雷が自爆したりして活躍できず案外すぐ沈む可能性も.
やはり日米が艦隊決戦をする想定から生まれた北上・大井は,開戦と同時に(真珠湾,マレー沖)力を発揮する舞台を失った悲劇の艦でしょうね.
艦上にズラリと並べた魚雷発射管.
日本海軍としては「大井」には大いに期待してたんでしょうが,後世の目から見ると「おーい…」と言いたくなってしまいます.
ヘタすりゃ機銃掃射をくらうだけで撃沈しちゃうんじゃ?
(以前,開戦初頭のウェーキ島攻防戦で日本の駆逐艦が魚雷発射管に機銃掃射をうけて魚雷が誘爆,沈没したという話を見たことある.ホントかどうかは知らんが)
グンジ in mixi,2007年12月31日12:33
【質問】
太平洋戦争の開戦時,潜水戦隊の旗艦に軽巡の鬼怒や由良が就いていますが,まさか潜水艦と行動を共にするでなし,母艦設備もなしの軽巡に何の用があったんですか?
通信設備を期待するならわざわざ軽巡でなくても,香取もあれば特巡もあるはずなのに.
【回答】
開戦前に第6艦隊に組み込まれた精鋭潜水戦隊の旗艦は,ことごとく特設潜水母艦が握ってますが,鬼怒と由良がトップに納まった南遣艦隊の潜水戦隊は,すべて海大型であることに注目してください.
巡洋艦が率いる潜水戦隊の起源はかなり早く,大正11年度編制で矢矧が韓崎とツートップを組んで2潜戦を統率してますし,翌年の12年度編制では,1潜戦も筑摩が満州と組んでトップとなっています.
補給任務を負うのが韓崎と満州なのはご理解できるでしょうが,軽巡筑摩・矢矧の役目は…当然ながら作戦指揮艦になります.
筑摩・矢矧がトップを取った頃の主力潜水艦は,艦隊随伴を志向した海中型であり,攻撃的運用を期待されていました.
巡洋艦が指揮を担当する構図は潜水母艦が迅鯨・長鯨に新調され,潜水艦が海大型にバージョンアップしても変わりません.
筑摩型以後も,球磨型・長良型に指揮権は継承され,やがては満を持して大淀型に譲られるはずの地位でした.
巡洋艦指揮下の海大型は,甲乙丙型登場まで,一貫して攻撃艦隊(第2艦隊)に属しており,単独偵察行動を旨とする巡潜型は,第6艦隊新設まで,一貫して迎撃艦隊(第1艦隊)に閉じ込められてます.
それから察するに,巡洋艦にはかなり指揮能力を期待されていたと読み取れます.
香取型は史実の通り,南遣艦隊やその指揮下にある根拠地隊旗艦として使うのが無難な線でしょう.
最前線に突出した挙句にブルックリンとかち合った日にゃあ,目も当てられませんからね.
(鷂 ◆Kr61cmWkkQ)
【質問】
先生,旧海軍の夕張は最終的に,
・一番砲塔をL45/12cm単装砲
・四番砲塔を撤去し25mm三連装機銃座
に改装した,で正解ですか?
【回答】
1943年の時点では,一番砲塔は撤去されて,5.5in/L50連装砲塔が艦の前後に2基,単装砲塔跡地に,25mm三連装機銃を其々2基充て装備し,後部砲塔脇の2基を含め12門,13.2mm連装機銃が4基,煙突脇と艦橋脇に2基ずつで8挺,61cm連装魚雷発射管が2基で,機関換装で58,943shpになりましたが,満載排水量は4,448tとなり,速力は32ktsに低下しています.
あ,ただ,福井さんの記録では,25mm三連装機銃を1基減らされ,12.7cm/L40の単装が1基追加,13.2mm連装機銃が4基が25mm連装機銃4基に換装,25mm単装機銃8門が追加とされています.
もっとも手元資料では傍証が見あたらず,これについては実施されたか不明です.
或いは計画値かもしれません.
眠い人 ◆gQikaJHtf2
【質問】
旧帝国海軍が,昭和13年度計画防空艦なる艦を計画していたとするHPを見たのですが,航空機の艦船に対する脅威度も実戦で証明されていない(と思う)この時期に,65口径10cm連装砲12基24門搭載などという艦を作ろうと考えるにはどうも合点が行きません.
こいつはマジで旧海軍が設計若しくは計画したものなんですか?
【回答】
英国では1935年に旧式化したC級軽巡洋艦を改造して防空巡洋艦にしています.
こうした旧式軽巡の活用法として注目されたのが最初です.
これは,新型巡洋艦が対空兵装を強化したとは言え,船団や艦隊の防空には不十分と言う評価があった為で(意外と艦隊防空に対する航空機の脅威は評価されています)で,1936年に更に新式艦であるDido級を計画しています.
同様に,それに並んで米国はAtlanta級を計画し,その対抗軸として日本も防空巡洋艦構想を打ち上げた訳です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2
そして日本の場合,
旧式化した天龍級の改装案
↓
5500t級の改装案
↓
艦内スペースの配分・機関の旧式化等でお蔵入り
↓
マルヨン計画の秋月級で日の目を見る
という流れのようです.
まぁこのような計画がたった理由としては,そもそも
「戦艦に航空機で対抗できるか?」
という議論が起こる時点で,航空機はそれなりに脅威だったと考えられるわけです.
【質問】
マル5計画で予定されていた「巡洋艦中型」というのは阿賀野型の事なんでしょうか?
それと「巡洋艦小型」というのはどんな艦になる予定だったのでしょうか?
恐らく5.500t型の代艦じゃないかと考えているのですが・・・
【回答】
○5計画の巡洋艦乙のことでしょうか.
であれば,8500tの排水量ですが,阿賀野型を発展させたものとなっていた可能性が高いです.
謂わば,こちらが,5500t型の代艦になります.
速力は島風型を統率するため,阿賀野より高速を発揮すべく37.5kts/hを予定し,軸馬力は,大和と同じ15万馬力で缶は6缶,軸は3軸とする予定でした.
主砲は15cm連装砲4基で,対空砲火は阿賀野型より更に増強するものでした.
巡洋艦小は排水量5800tですが,原案の815〜818号艦では,これらはアトランタ級に対応する,長砲身10cm連装高角砲4基のみを装備する防空艦として計画されていました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2
【回答】
多分,清国海軍の軽巡洋艦,Chao Ho級のChao
Ho,Ying Sweiのどちらかでしょうね.
本当はもう1隻ありましたが,西太后の庭園造営に資金を流用されてしまい,ギリシャに売り払われた(それだけが原因ではないけど)もので.
排水量:2,500〜2,750tの練習巡洋艦で,そのために,主砲の6in単装砲を前後に2基,側面に3in砲を2基づつ4門,3in平射砲を2門,3ポンド砲6門,1ポンド砲2門,18in魚雷発射管2基を有しています.
同型艦は,先にも書いたとおり3隻ありましたが,1隻はギリシャに売却されました.
それぞれ,建造は,應瑞がVickers,肇和がArmstrong-Whitworthで,最後の売却された艦は,米国
のNY.SBで,1911〜13年に建造されています.
なお,当初は肇和も売りに出されていましたが買い手が付かず,結局民国海軍が引き取っています.
また,各艦は缶が異なり,3軸のParsonsタービンは同じですが,肇和はYarrowの水管缶を4基,應瑞がWhite
Fosterの水管缶4基,売却された艦は,Thonycroftの高圧缶を3基用い,計画上は20ktsを発揮する予定だったようです.
1930年に,2ポンド高角砲2門を搭載しますが,それ以外の改装は行われず,日中戦争勃発後の1937年9月28日に應瑞が,10月25日に肇和が,相次いで日本の航空機により撃沈されています.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2他)
◆◆◆輸送艦船関連
【質問】
なんで日本は,戦争中は輸送船の護送船団組ませなかったかね?
【回答】
日本海軍がイギリス海軍と生まれ方が違ったからなんだよね.
イギリスは,海賊から始まったのもあるけど,軍艦はます通商活動の保護有りきという所から始まった.
比べて日本は,大国に対する対抗が最初の動機だったので,通商保護の概念は後から生まれた動機だった.
つまり,生まれのせいでどうしても同レベルの軍艦しか見れない軍隊だった.
持っていた兵器の殆ど全てが軍艦を「攻撃」する事に著しく偏った設計なのはこれだね.
だから護衛艦も,設計が攻撃に傾いた思想を引きずり中途半端で,運用も護衛運用として失格だったと言われている.
あと当時の海軍を庇う訳じゃないんだけど,護送船団を組み,大兵力で護衛するというのは,「戦車の燃料を運ぶのに戦車で輸送するのに等しく」,経済的にも小国には,なかなか出来ない事なんだよな.
イギリスもイギリスだけの力では出来なかった.
アメリカが参加して初めて出来る事なんだよ.
ちなみにイギリスの例を上げると,1つの船団は商船団が40隻規模で,大戦後期これを航海中守りきるには,最新兵器で武装した護衛艦平均19隻と,支援用に空母中心の哨戒部隊を必要とした(大戦初期の6隻体制の頃は被害甚大であった)
つまり6隻やそこらじゃあまり効果無い.20隻以上だよ.20隻以上.
これを当時の日本海軍の旧式装備の所有艦艇で常にやろうと思ったら,海戦に回す小型艦は1隻も無いという状態になってしまう.まず物理的に出来なかったんだよな.
あと仮に大和や武蔵を作らないで潜水艦と護衛艦と空母を大量に用意しようにも,乗員は調達出来ても,指揮をする士官がいなかった.
戦前から海軍は,士官の予備役制に不熱心で,士官と予備士官を増やさなかった.
だもんであの時点では,どう工夫しても護送船団は出来なかったんだよね.
【質問】
日本は輸送船一隻あたり大体どのくらいの護衛をつけていたのですか?
【回答】
とりあえず,すごーく簡単に↓
米軍通商破壊活動従事数
戦争初期 艦隊型(大型 航洋性)39隻 S型(旧式中型 局地戦用)12隻
43年4月 単独襲撃戦法から複数連携襲撃戦法を採用
43年9月 艦隊型約100 S型18
43年後半 潜水艦の第1目標を敵艦艇から商船や油槽船に変更
また潜水艦の配備も敵戦闘艦艇をねらって配置された本土太平洋沿岸から
日本の商船航路帯へと移行.
44年8月 約140隻 12月 約 156隻
終戦時 艦隊型169隻 S型13隻
開戦〜42年10月(なお,会敵と記す場合は潜水艦との遭遇と言う意味で用いている)
1船団に商船5隻,護衛艦1隻の編成. 特別な場合,2〜4隻の護衛が付く. 中には丸裸の船団も多数あった.
〜43年11月
この期間に編成された936コの船団 4591隻のうち,護衛がついたのが65.6%の614船団 丸腰が34.4%の322船団
1船団平均5隻で,護衛艦1隻.運がよければ2〜3隻.一例を挙げると,26隻からなる第328船団の場合,護衛がたったの2隻
42年10月〜43年5月の商船隊の会敵比率 6% 損失 0.5%
43年6月〜10月 商船隊の会敵比率 12% 損失 1%
〜44年10月
編成された486船団 3567隻のうち,70%に護衛が付く(ただし43年12月は資料紛失のため之に含めず)
11月〜3月にかけては護衛艦数はやはり1〜2隻止まり. 会敵比率35%
4月以降は 大船団主義を採用し,一個船団の商船数と護衛艦数を増やす.
会敵比率は月ごとに大きく変化 5月40% 6・7月50%
8月126%(一度の航海で2度以上会敵する) 敵航空機との会敵を含めると会敵比率140%
9月93% 航空機込みで130%
10月116% 航空機込みで151%
通して換算した場合 会敵比率52% 被害比率6%
〜終戦
このころ,守るべき船団が減少したことにより,ほぼすべての船団に護衛艦が付くようになる.
11月 会敵比率87% 航空機込み108%
12月 資料欠
1月 53% 航空機込み109%
2月 109% 航空機込み152%
3月 126% 航空機込み216%
3月27日以降対日機雷戦を発動,瀬戸内海は航行不能に
通して会敵比率90% 被害比率13%
【質問】
日本の輸送船が米潜水艦を沈めたことがあるって本当ですか?
【回答】
本当です.
昭和17年7月26日,特設運送艦「鹿野丸」は占守島からアッツ島へ向けての輸送任務に付きました.
アッツ島への揚陸任務を終え,キスカ島に向かった7月31日未明のこと,突然の雷撃のため魚雷1発が命中し,鹿野丸は航行不能になりました.
さらに二度の雷撃を受けた鹿野丸は,搭載した8センチ砲と13ミリ機銃により反撃を行いました.
幸い敵潜水艦の再度の雷撃は,命中した魚雷の不発に終わります.
さらに浮上して潜望鏡を出して確認を行っていた敵潜に対して,鹿野丸は20分間にわたる砲戦を繰り広げ,ついに命中弾を与えることに成功しました.
戦闘終了後,鹿野丸はいったん乗員が脱出しましたが,翌8月1日に曳航されてキスカ港に入港し,無事輸送物資の陸揚げが開始されました.
しかし,鹿野丸は9月15日の米軍機の爆撃により擱坐して放棄されてしまいました.
沈められた米潜水艦はグラニオン(艦長M.L.エーブル少佐)であり,7月15日に第25号,第27号両駆潜艇をキスカ湾外で葬っていました.
名無し軍曹◆Sgt/Z4fqbE
【質問】
第二次世界大戦の日本はガタルカナルなど南の島に基地を作りましたが,そこに補給する物資を運ぶ輸送船は,陸軍が海軍に借りると言う形で船を貸してもらったんですか?
【回答】
まず,ガダルカナルに基地を築いたのは海軍.
で,海軍も陸軍も輸送船を必要数持っていた訳じゃないので,ソレゾレの補給は民間商船の徴用(船員ごと)でまかなわれた.
つまり,陸軍や海軍に強制的に雇われた民間船が行っていた・・ってのが正解.
陸軍の場合,その統制に当たるのは船舶工兵(後に船舶兵)で,船舶砲兵と呼ばれる自衛部隊が乗ることも有った.
陸軍は上陸作戦用の専用船(空母型も含む)は兎も角.末期になると対潜爆雷を搭載した「護衛艇」やら,「輸送潜水艦」まで保有するに至り,後世に笑い噺のタネを残す結果となった.
軍事板
上海事変が起きたときに,陸軍は輸送船を確保できなかったために出動できず,海軍の上海特別陸戦隊が予想外の勝利を重ねてしまい,陸軍の威信と活動計画が潰れてしまいました.
そこで,事変解決後に,陸海軍がそれぞれどの民間船を借りて運用するかを明確化した計画が立ちます.
日華事変はあまりにも突発的に発生したので,この民間船運用計画は使えず,増援部隊を海軍艦船で派遣する羽目になってます.
そこで,さらに民間船運用計画を具体化する一方,陸軍独自の揚陸艦計画も立ちました.
太平洋戦争は,1年半以上の時間をかけて陸海軍の担当部署を分けた上で開戦に臨みました.
民間の輸送船を借りる際も,陸軍がこの船を徴用・海軍がこの船を徴用…と事前に話し合ってます.
この協議によって,たとえば日本郵船りま丸・りすぼん丸は陸軍が借り,りおん丸は海軍が借りると決まり,これによって,りま丸は兵員輸送用の「蚕棚」,りおん丸は飛行機修理工具をセッティングできるわけです.
陸軍は20万トン分の輸送船を維持する契約ができ,護衛はもちろん海軍艦船が付きました.
しかし当然ながら,補給任務を続けているうちに撃沈される船も増えてくるので,新造船の取り合いや陸海軍間での契約差し替えが必要になりました.
陸軍はとにかく輸送に必要な輸送船を欲しがり続けてますが,海軍もそれは同じことです.
閣議で陸軍18万トン減少案が突き出されて,逆に37万トン増加を主張する参謀本部と大きく見解が分かれ,佐藤賢了軍務局長と田中新一1部長が殴り合ったのは余談….
鷂 ◆Kr61cmWkkQ
【質問】
戦標船とは?
【回答】
戦標船,すなわち戦時標準船とは,太平洋戦争中の日本で,量産を目的に計画・建造された船舶です.
船腹需要の激増に伴い,船舶増産を実現するための船型で,国家の規格により同型船を計画建造することで,建造に要する時間の短縮と資材調達の便を図る目的がありました.
幾つかの船型がありますが,各型の要目・解説については
「戦時標準船概説」(from 「YSY ヨコハマ造船所」)
を御覧ください.
【質問】
日本の戦時標準船についての質問です.
「改E」系列は,きわめて評判が悪いようですが,やはり改Eの大量産と言う方針は誤りだったのでしょうか?
【回答】
着眼点は良かったのですが…….
1941年秋の状況で無限と言うほどの船腹量が必要になってきますが,D型以上の建造は施設的にも材料的にも行き詰まってきたことで,その改善が見込めず,全くの応急用としてのE型船量産という着眼点は,それなりに良かった訳でして.
その特徴として,
(1)小型であるため建造技術が簡単で必ずしも専門家,熟練工を多数必要としない,
(2)建造施設を簡易,かつ,急速に設備しうる.
(3)量産思想に依って,工作し得る程度の大きさである
(4)主要材料である厚板は,造船材を作成していない中小製鉄所の設備,技術でも量産可能.
と,誠に以て,良いことずくめで,特に軍備と競合しないので,海軍としては魅力的に写ったのだと思いますが,量産したは良いものの….
(1)冬季北方,日本海での使用は困難
(航行できないと言うが,こんな所を走らせるために作ったんじゃない,と設計者は切って捨てていますが.)
(2)低速である
(軽荷状態で強風を船首方向から受けると操舵,保針に困難が生じる,というのは認めましょう.)
(3)居住性不良
(思想と観点の問題と,設計者は切って捨てていますが)
(4)工事粗漏
(造船所の責任と,設計者は切って捨てていますが)
(5)機関故障
(焼玉機関は焼玉としては出力過大だけど,これは油と発動機工場の質低下に帰する,と設計者は切って捨てていますが)
(6)焼玉揚貨機の不調
(工作不良と運航者の問題と,設計者は切って捨てていますが)
……と例によって,基礎技術の伴わない状況が出てきています.
また,船型改善が難しく,播磨造船所では,貨物船を油槽船に切り替えるために,月間10隻の竣工予定が,7隻に落ち込んだりしています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2
【質問】
大戦中に建造された一等輸送艦って一号〜二一号までですよね?
22隻建造されたって書いてある資料があるんですけど,私の認識から漏れてる1隻がありますでしょうか?
【回答】
21隻が「太平洋戦争中に」建造されました.
22号については,1945年4月25日に呉工廠で進水しましたが,6月23日に90%完成状態で,工事中止となっています.
なので,太平洋戦争中には21隻竣工.
しかし,22号は戦後工事を再開,完成させていますので,輸送艦1号型としては,22隻建造されています.
22号建造は船台を空けるため,完成寸前だったものを無理矢理引き出した,といった感じです.
従って,完成させたものの就役することなく,そのまま放置されて1948年には再び解体しています.
蛇足ですが,残りの23〜46号は1945年3月に全部キャンセルされ,解体,鋼材は他に転用されました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2
【質問】
戦時中の小型輸送船舶について教えられたし.
【回答】
それについては,『悲劇の輸送船 言語道断の戦時輸送の実態』(大内建二著,光人社NF文庫)という本があります.
太平洋戦争中の日本の商船,タンカーの話など,戦時中の商船やタンカーの話を纏めた一冊です.
個人的に興味深かったのは小型タンカー(500〜1000総トン前後)や機帆船(焼玉エンジンを搭載した50〜150総トンの木造帆船)の話.
小型タンカーは日本での石油の沿岸輸送などに従事していたのを,南方の油田地帯での(産油地から石油積出基地までの)輸送に従事.
しかし大型タンカーが失われると,これらの小型タンカーも外洋での輸送に就き,莫大な損害を被ります.
機帆船に至っては,事前の通告も無しに「ある日突然」徴用を命ぜられ,家族にも知らせることも出来ないまま南方などに送られます.
そして
・フィリピンへの輸送任務:1944年以降,100隻単位の船団に物資を積み込み輸送.米軍の警戒が厳しくなると多くの船が沈められます.また,タラカンからマニラまで石油・ガソリンのピストン輸送の為に100隻以上の機帆船を送り出そうとしますが,到着したのは4隻で,それもマニラに向かう途中で全滅.
・ビルマでの沿岸輸送:マレー半島からビルマ沿岸一帯で運行を行う.しかし英空軍の空襲により,多くが沈められる.
などに従事しています.
挙句の果てに,機帆船の船団(30隻に母船役の小型貨物船2隻)で日本と南方油田地帯を往復する計画も立てられます.
(これは後にマニラへの輸送計画に変更されます)
機帆船の需要の増大により,戦時標準設計による量産も行われますが,鋼鉄製の戦時標準船と同様,資材(不適当な木材の使用)や工程(簡易製造=手抜きやっつけ),人材(熟練工の召集)などにより,粗悪船が大量に出来上がったそうです.
多くの船が撃沈・炎上・行動不能による絶望的な漂流などによって失われますが,出鱈目な徴用の為に記録が余りに少なく,喪失した船や死亡した船員の実数は現在も不明だそうです.
(推定で3000〜4000隻,三万人以上)
この本には他にも
「魔のバシー海峡」以上の被害が発生した大陸沿岸迂回ルート
練習帆船日本丸・海王丸の戦時中のエピソード
海外の輸送船の話
などのエピソードがあり,その一つ一つが考えさせられます.
最後に日本の輸送作計画の立案者に質問
「あんたら,この状況で自分らが立てた計画で,輸送船やタンカーに乗れと言われたら,喜んで乗れるんか?」
グンジ in mixi,2007年08月11日15:25
【質問】
「宗谷」はどんな一生を辿ったのか?
【回答】
南極観測船を解役されて,東京・船の科学館で永久保存されるまで,トラック空襲を生き残ったあと,終戦を向かえるまで,何をしていたか? を知る人は少ないと思います.
その空白部分に光を当てたのが『奇跡の船「宗谷」―昭和を走り続けた海の守り神』(桜林美佐著,並木書房,2006.11)です.
「終始8ノット」 と呼ばれるほどの鈍足艦であった「宗谷」 ですが,類稀なる強運を発揮し,魚雷が命中しても不発,トラック空襲では,回避中に座礁,一時総員退したものの,空襲後,自然離床,ほぼ無傷で生き残り,トラック脱出.
昭和20年8月1日の米機動部隊による横須賀空襲でも生き残り,戦後は引き上げ船として,その後は 「灯台補給船」 として.さらに 「南極観測船」 となり,その役目を後続の 「ふじ」 に譲ったあとは,砕氷能力を買われ,北海道配備の巡視艦として,北の漁師達を救い続けました.
北海道の漁師達から 『海の守り神』 と呼ばれ,巡視艦を解役された時,全国14箇所を巡る 「サヨナラ航海」が終わった後,稚内から
「もう一度『宗谷』を見せて欲しい」
という要請が出たあたりにも,いかに北の人たちに愛されていたかを伺い知ることができると思います.
戦前,戦中,引き上げ船時代,灯台補給船時代,南極観測船時代の話も良いのですが,私としては,北海道配備の巡視艦時代の話が好きだよなぁ〜 (w`;
良(え)え本です!
御一読をお勧めします.
「宗谷」2態 上:海軍運送船 下:巡視船


ベタ藤原 in mixi,2006年11月17日
【質問】
輸送船「空知丸」(4107総トン)について教えてください.
【回答】
共立汽船の石炭運搬船として建造され,船社合併による所属変更を経て1944年12月レイテ島強行輸送作戦に投入.3度に渡る死地を乗り切った.
内,一度は船長の機転により,米攻撃隊の目を欺く為に,船上でボロ布を燃やし,トリムタンクに注水し艦をわざと傾斜させ,『死んだふり作戦』で熾烈な対艦攻撃を乗り切った.
僚艦である美濃丸,たすまにあ丸は戦没している.
終戦後はディーゼルエンジンに換装し,日本の復興に貢献した.
1965年,船歴を全うし,解体処分.

【質問】
大発って何ですか? ダイハツという車の会社と関係があるのでしょうか?
【回答】
大発(大発動艇)は陸軍運輸部が開発した戦車・重量兵器用陸用舟艇です。
ダイハツとは無関係です.
大発は大正13年の訓令事項により
*武装兵約60名を搭載しえること
*馬匹・野砲・軍需品を搭載しえること
*重量六トンを限度とすること
などを条件として開発されました。,
大正14年に試作型であるA型(LB-A)が完成し,さらに改良型として船首の一部を歩板にしたB型・船底肋骨を2本にしたC型・大型化して戦車の揚陸を可能としたD型が製造されました。
D型は全長14.88メートル,自重9.5トンで八九式中戦車が搭載可能でした。
その後,戦車の重量増に対応して97式中戦車(13.5トン)搭載可能な15トン型特大発動艇「〇セ(丸の中にセ)−LB」や26トン戦車搭載可能な30トン型大発動艇を超大発動艇(S-N-LB)として試作しています。これは大型発動艇とも呼ばれました。
この他にも木製大発動艇・折畳式大発動艇などが開発されました。
また,兵員揚陸用として小発動艇が存在し,A〜C型が製造されました。これはC型で自重3.5トン,武装兵20名または物資3トンが搭載可能でした。
(名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)
一方,自動車会社のダイハツは「大阪」の「発動機製造(株)」の略です.
ちなみに「トーハツ(東京発動機)」なんて会社もあります.船外機やモーターボートのエンジン屋さんです.
これらから分かるように,社名としてそう言う系統の略呼称がありがちだったわけです.
ダイハツ工業の起源は,1907年に創立された「発動機製造株式会社」と言うエンジン製造メーカーです.
これは,大阪高等工業学校(現在の阪大工学部)の学長安永義章氏と鶴見正四郎教授が内燃機関国産化とその普及を目指して関西財界から出資を仰ぎ設立したもので,産学協同,ベンチャー企業の趨りです.
最初は石油発動機,瓦斯エンジンを作っていました.
が,後に業容を拡大し,小型〜大型のDiesel
engine,鉄道車輌用のブレーキ,蒸気機関車用給水ポンプまで様々な部品を製造しています.
さて,1917年,陸軍が発動機製造を「民間自動車製作指定工場」として,大阪砲兵工廠が試作したトラックの製造のうち,2台を受注したことが自動車製造の始まりです.
この製造は1919年3月まで掛かりますが,9月に1屯7分積軍用自動貨車として試験を受け,試験に合格しますが,追加発注はありませんでした.
1920年代から日本は不況に突入し,発動機製造の各部門の売り上げが落ちてきたことから,三輪車用エンジンの開発に乗り出し,1930年に350ccを,次いで500ccエンジンを開発し,売り込みを図ります.
しかし,舶来信仰のため,そのエンジンを採用してくれる車体メーカーは無く(当時,外国製オートバイ用エンジン,小型車用エンジンと自社製車体を組合せ,三輪車は作られていました),一念発起して,1930年12月,車体丸ごと,HA(発動機A)型を開発,日本エアブレーキ(神鋼傘下で当時,オート三輪を作っていた)と提携して,「ツバサ号」としてその販売channelと自社ブランドで発売されました.
1931年2月にはHB型を開発しています.
1933年,日本エアブレーキとの提携を解消,「ダイハツ号」のブランドで,従来のチェーンドライブから,シャフトドライブに,デファレンシャル装置へと駆動方式を変えたHD型を発売.
これはメンテナンス性の良さから他社の追随を許さず,業界最大手にのし上がっていきます.
またエンジンの排気量も,500cc,670cc,750ccと拡大しますが,単気筒エンジンを守り続け,信頼性の高いものとなっていました.
池田に専用工場を建設し,1937年には5,122台生産.これは全三輪車出荷台数の3分の1以上を占めますが,総動員体制施行のため,この年をピークに減産となり,軍用三輪車,Diesel
engine,20mm機関砲の銃身などの部品,5t牽引車などを生産しています.
また,ガソリン減少のため,アセチレン発生装置を考案・完成します.
しかし,これは従来のアセチレン発生装置製造業者の統制団体に,無償で製造権を譲渡させられてしまいました.
戦後は賠償工場に指定されるも免れ,従来からのオート三輪に回帰し,再び活気を取り戻し,1951年,ブランド名と社名を一致させるために,社名を発動機製造株式会社から,ダイハツに改めました.
その後は,ミゼットの発売などもありましたが,軽四輪に押され,また,自社で小型四輪車を開発していきますが,取引銀行の意向で,1966年,トヨタ傘下となりました.
出典は,グランプリ出版の「懐かしの軽自動車」,「懐旧のオート三輪車史」です.
以上から分かるように,「発動機製造株式会社」時代のダイハツで大発を建造していた事実もありません.
両者は全く無関係です.
【質問】
特型運貨筒のスペックを教えて下さい.
魚雷を使ったとか甲標的を使ったとか混ざってるのは判るのですが,どんな姿格好をしててどういう性能だったのかさっぱりです.
また,曳航式運貨筒についても排水量は判ったのですが,搭載量が判りません.
じっさいどれくらいの大きさで,どれくらい積めたんでしょうか?
大型運貨筒だと550tにも達するので,相当でかいのだろうな,とは思うのですが.
【回答】
特型運貨筒は,直径1.8mの筒状で,特殊潜航艇と外観は似ており,後ろ半分はまんま六年式魚雷で,中央部に乗員室があり,前部に上方に少し傾いた状態になった貨物室があります.
乗員室は通常1名,場合によって2名の水兵が乗り組んでいます.
最高速力は8ノットで,荷物は10tしか積めません.
ちなみに,操縦者は目的地に到着すると陸上部隊に加わる,と言うものです.
その他のスペックですが(英語の本を参考にしたのでメートルになってないのはご容赦),
特型運貨筒 排水量:43.9t 全長:77ft1in 全幅:5ft11in 深さ:5ft11in 魚雷用圧縮空気エンジン×1
大型運貨筒 排水量:544t 全長:135ft6in 全幅:16ft1in 深さ:16ft1in 曳航速度:4〜5kts 潜航深度:400ft
中型運貨筒 排水量:280t 全長:108ft7in 全幅:12ft10in 深さ:12ft10in 曳航速度:4〜5kts 潜航深度:450ft
小型運貨筒 排水量:88.5t 全長:80ft4in 全幅:8ft 深さ:8ft 曳航速度:4〜5kts 潜航深度:180ft
大型は375t,中型は185t,小型は58tの荷物を搭載出来ます.
運貨筒の安全深度は設計上可成りまで潜れますが,実際には30m程度だった様です.
大型運貨筒は,貨物室が二つに,中,小型は貨物室が四つに分かれています.
大型運貨筒の搭載容積は9,200立方ft,中型運貨筒の搭載容積は6,500立方ft,小型運貨筒のそれは2,000立方ftでした.
建造所は全て呉で,特型は1942〜43年に,大型は1943年に,中型と小型は1943〜44年に建造されていますが,総数は分かりません.
余談ですが,試作品は生き残り,戦後,少なくとも2本が,Bougainvilleで銅鉱石の輸送用(?)に用いられていたようです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2
◆◆◆◆コンクリート船
【質問】
大戦中,日本ではコンクリート製の輸送船が作られ,これが結構優れものだったと言いますが,ぶっちゃけコンクリートで軍艦(砲雷撃艦は無理でしょうが,空母・護衛艦など)を作るのは無理でしょうか?
磁気兵器相手なら,かなり重宝しそうな気もしますが・・・
【回答】
コンクリートで軍艦作ることは可能でしょうが,むだに嵩張り,耐久性におそらく問題があり,複雑な艦内構造を作るのにも苦労し,溶接できないからデカい単位でいきなり流し込むか,無理に繋いでハラハラしながら運用するかしかないでしょう.
それで得られるのが磁気兵器うんぬんだけで,しかもそのためには鉄筋強化も諦めるか,限界まで減らすしかないのだとしたら,それは「使える」とは言えないでしょう.
よくある「可能である」と「有益である」の混同,というやつです.
というわけで,現在では磁気を嫌う場合は木造かプラスティック製ということになっとります.
(system ◆systemVXQ2)
第2次大戦における,コンクリ船建造時の担当官の考え方としては,
(1) 本格的な量産は考えない.コンクリ船は鋼船の補助的な存在程度のものであって,これにより幾分の補いは付くが,これだけに頼る訳にはいかない.
(2) 鋼材の供給力が十分に成った時には廃止されるべきものであって,戦時中と雖も,便法とされるべきものである.
と言うものであり,期待はしていません.
逆に,
(1) 船価は,鋼船の二倍になるので,特別の措置を必要とする.
(2) 建造地には,冬期でもコンクリート工事施工可能な温暖な地を必要とすること.
(3) 船材として,甲造船の際に余る鋼材を充てることになっていたが,甲造船そのものが少なくなったので,船材が利用出来なくなったこと.
(4) コンクリートも良質のものが必要であること.
(5) 鋼材の使用量は確かに少なくなるが,逆に型枠に使用する木材の使用量が二倍以上必要となること.
と言うデメリットが発生しており,また,普通のコンクリートでは,耐水性の問題で,没水部を薄板鋼板で覆っています.
耐水性コンクリートとして硫酸銅セメントを用いることが考えられ,小型船が進水間際まで行きました.
このほか,マグネシヤセメント船も研究されましたが,これとて,
(1) 一隻当り所要資材のうち鋼材の使用量は余り減らないし,木材も従来の木造船の半分を消費する.
(2) マグネシヤの原料は朝鮮あるいは関東州であり,内地にはない.
(3) 構造から鑑みても,木造船に比べて工数と建造機関が掛かりすぎる.
と言う理由で,研究はされたものの,実用は見送られています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2
【質問】
コンクリート船登場は第2次大戦が最初か?
【回答】
いいえ.
コンクリートを船舶の材料に適用しようとする試みはかなり古く, 1849年,フランス人M.Lambotにより長さ9ftの櫓櫂船が建造されたのが最初であるとされています.時あたかも船舶の材料が木から鉄,そして鋼へと移行せんとしつつある頃でした.
それから第一次世界大戦にかけて,欧州各国を中心にコンクリート船が建造されましたが,その多くは船とは言っても浚渫船やバージなど,雑種船に過ぎないものでした.
第一次世界大戦勃発により,参戦各国は船腹の不足と造船用鋼材の欠乏に苦しみ,木造船建造計画を立てる一方,コンクリート船の建造を推し進めました.
中でもスカンジナビア諸国では,製鋼設備がないために鋼材の不足が著しく,コンクリート船の建造に先鞭を付けることになりました.
1917年,N.K.Fougnerは長年の実験の成果を生かし,史上初のコンクリート製海上貨物船「Namsenfjord」(200重量トン)を建造しました.
Fougnerは引き続いてコンクリート船を建造し,竣工した船には1818年,コンクリート船として初めて北海横断に成功した「Askelad」(1000重量トン)などがあります.
米国では1918年5月にW.L.Comynの手になる当時世界最大のコンクリート船「Faith」(4500重量トン)が建造されました.
同船は1919年にはコンクリート船として初めて大西洋を横断しています.
この成果を受け,米国政府は42隻に及ぶ大規模なコンクリート船の建造を計画しましたが,休戦により12隻が竣工したにとどまりました.
第一次大戦中にはこの他にも仏,独などでも多数のコンクリート船が建造されたのでした.
このように第一次大戦中には多数のコンクリート船が建造され,世の中に認められたのですが,戦後の不況と船腹過剰の中,経済性において鋼船に劣るコンクリート船は消え去っていきました.
戦間期に小数建造されたものがありましたが,小型雑種の船に過ぎなかったようです.
(「海軍コンクリート造船技術概要」 from 「YSY ヨコハマ造船所」)
【質問】
日本における初めてのコンクリート船は?
【回答】
明治43年(1910)に進水した小林泰蔵の手になる大阪築港の浚渫土運搬船(15.24m×4.88m×1.52m)とされています.
その後,第一次大戦にかけて数十トンから数百トンまでのコンクリート船が,主に個人の手により建造されました.
珍しいところでは大正8年(1919)に進水したコンクリート船があります.
同船は,造船学者として名高い末広恭二が,三菱の岩崎弥太郎の発意に基づき計画したもので,三菱倉庫会社に所属,艀船としての相当の成績を挙げたといいます.
また,海軍でも雑役船として大正7年に佐世保工廠において100トン積の水船が建造され,以後数隻が建造されています.
しかし,日本でのコンクリート船建造の試みもまた,第一次大戦終結と共に一時消え去りました.
(「海軍コンクリート造船技術概要」 from 「YSY ヨコハマ造船所」)
現在も残る,コンクリ船の船体 撮影:ベタ藤原

【質問】
大東亜戦争において,実際にどのようなコンクリート船が建造されたか?
【回答】
陸海軍それぞれで(またかよ……)計画・建造され,また,運輸通信省でも建造しました.
(「海軍コンクリート造船技術概要」 from 「YSY ヨコハマ造船所」,抜粋要約)
◆◆◆「陸軍空母」(陸軍所属航空機搭載艦船)
【質問】
日本陸軍は何故,独自に空母をつくったのですか?
そんなに海軍が信用できなかったのでしょうか?
【回答】
信用がないと言うか,必要に迫られた訳です.
そもそも日本海軍は,艦隊決戦に特化した歪な艦隊(上まぁこれは言い過ぎかも知れないが)なので,陸軍が必要とする揚陸支援とか,そう言ったものに本腰を入れてくれません.
また,部隊の輸送についても,海軍輸送船の護衛が中心で,陸軍は余り考慮されていません.
従って,陸軍としても,航空機を搭載した,揚陸支援用の「空母」が必要になった訳で.
眠い人 ◆gQikaJHtf2
【質問】
大戦初期の日本の揚陸艦って神州丸くらいしか聞きませんが,当然他にもありますよね?
一等,二等とかはかなり後の方で登場してますし,日本がガンガン勝ってた頃の上陸戦ってどうしてたのですか?
まさか神州丸一隻で頑張ってたんですか?
【回答】
揚陸船は9隻建造してます.
それまでの揚陸の手順は…
・上陸地点の沖合いに貨物船を停泊させる.
・クレーンで大発・小発を海面に下ろし,接舷させる.
・縄梯子や網を舷側から大発・小発めがけて掛ける.
・鉄砲かついで兵隊さんがわらわらと乗り込む.
・上陸後,大発・小発は貨物船に戻り,次の兵隊さんがわらわ(ry…またはクレーンで物資を積み込む.
無事すべての人員・物資が上陸するか,貨物船が沈められるまで繰り返し.
(鷂 ◆Kr61cmWkkQ)
神州丸は1935年,播磨造船で建造されました.これは極秘に建造されたもので,龍城とかMT船という名称で呼ばれました.
船内に上陸用舟艇を20隻収容し,上陸地に近づくと,船尾のドアを開けて,後部に舟艇を出すLSD的用法を想定していたほか,九一式戦闘機と九七式軽爆撃機を20機装備し,カタパルトで発進させ,上空援護に当たる様になっていました(これは実際には使われていませんが).
日中戦争では,杭州湾上陸戦などで用いられました.
太平洋戦争では,ジャワ上陸作戦に投入されましたが,味方巡洋艦の魚雷が命中して撃沈,後引き揚げられて,再使用され,1945年1月にフィリピンで撃沈されています.
この同型船として,民間船として陸軍が資金を出す形で,建造されたのが,あきつ丸,にぎつ丸,熊野丸,ときつ丸の4隻です.但し,ときつ丸は建造中止になりました.
あきつ丸,にぎつ丸は,日本海運の客船として建造され,途中で,上甲板上面全部に飛行甲板を取付け,空母兼上陸用舟艇母艦となりました.
これらは主に対潜用空母として,三式連絡機,カ号観測機を搭載することになっており,空母的な外観が色濃くなっています(1944年には更に飛行甲板を延長する予定でした).
あきつ丸は1944年11月15日に撃沈,にぎつ丸は1944年1月12日に撃沈されています.
熊野丸は川崎汽船の持ち船として建造されましたが,こちらも,船橋構造物は撤去した空母的外観になって
います.
但し,完成が1945年3月になったので,使用されず,敗戦後,引揚げ船となって,1947〜51年まで,川崎汽船の貨物船として使用されました.
航空機設備を持たないものとしては,同じく民間船として陸軍が資金を出す形で,摩耶山丸,吉備津丸,玉津丸,高津丸,日向丸,摂津丸の6隻が建造されました.
これらは,後部に上陸用舟艇20〜25隻程度を搭載しています.
摩耶山丸,玉津丸はいずれも,三井造船で建造され,前者は三井商船,後者は大阪商船で使用予定でした.
しかし,1942〜44年に完成と同時に陸軍に引き渡され,前者は1944年11月17日に撃沈,後者も1944年8月19日に撃沈されました.
高津丸は浦賀船渠で建造され,1944年完成,こちらは山下汽船の持ち船でした.1944年11月のオルモック湾上陸を果たしましたが,二度目の上陸戦で撃沈.
吉備津丸,日向丸,摂津丸は日立因島で建造された戦時標準船1Aの改造で,吉備津丸は1943年完成,1945年8月7日に触雷沈没.
日向丸は1945年完成で,3月30日に触雷沈没.
摂津丸は1945年完成で,実戦に参加せずに終わりました.戦後,摂津丸は引き揚げ業務に従事後,日本水産に引き渡されて捕鯨船団の冷凍船となりましたが,南氷洋で事故によって沈んでいます.
なお,ときつ丸は,1944年10月に進水しましたが,1945年3月に工事中止,戦後に工事再開し,1946年3月2日に日本海運の商船として引き渡されました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2
あきつ丸

【質問】
帝国陸軍空母について教えてください.
艦長や船員は陸軍軍人でしょうが,艦長は誰がやっていたのでしょうか?
【回答】
残念ながら,陸軍の船舶司令部には小舟艇の運行を主に行っていて,大型船舶の運航は殆ど行っていません.
船舶兵にしても,まともに航海士免状を持っているのは一人か二人でした.
従って,陸軍空母の運航要員は,民間の海運会社から徴用された人々です.
ちなみに,陸軍空母は民間船として建造されたものを徴用したものが多いですから,その乗組員がそっくり徴用された訳です.
指揮官は陸軍軍人,兵器関係の要員や上陸用舟艇の要員,航空機関係の要員は,陸軍軍人ですけどね.
上陸要員でも,積荷の揚陸は,民間の沖給仕たちです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2
◆◆◆その他の艦船
【質問】
第二次大戦当時,日本には前弩級戦艦や装甲巡洋艦,防護巡洋艦などがありましたが,工作艦となった朝日以外に,浮いているだけでなく外洋を航行できた艦はあったのでしょうか?
その場合,機関の改装などは為されたのでしょうか?
【回答】
富士 特務艦(運用術練習艦)
敷島 特務艦(練習特務艦)
摂津 特務艦(標的艦)
春日 特務艦(練習艦)
浅間 特務艦(ただし,座礁による損傷のためずっと繋留状態)
常磐 敷設艦
吾妻 特務艦(練習艦)
八雲 一等巡洋艦に類別(戦時中は内海での練習艦)
出雲型の出雲・磐手は一等巡洋艦に類別
日露戦争でも活躍した「八雲」は,長らく兵学校練習艦として使用されており,昭和17年からは巡洋艦籍に復帰していますが,さすがに作戦行動は無理でした.
ただし,昭和20年になると対空浮き砲台としての任務に就いており,さらに敗戦後には,復員輸送艦として,昭和20年から21年の6月にかけ,復員輸送に従事しています.
敗戦時,外洋を行動可能だった唯一の装甲巡洋艦でした.
やはり日露戦争で活躍した「出雲」は,上海事変や日中戦争では支那方面艦隊の旗艦として行動,太平洋戦争中は兵学校の練習艦として使われ,敗戦直前,昭和20年7月24日の呉空襲で大破着底しています.
兵装の近代化などは行われていたようですが,機関は石炭炊きレシプロ機関のままだったようです.
同じく日露戦争で活躍した「磐手」は八雲同様の経緯を辿り,戦争末期には主砲を撤去して高角砲を装備して対空浮き放題となるが,出雲同様に大破着底.
やはり装甲巡洋艦の「常磐」は,大正11年に敷設艦となり,一時予備艦とされましたが,昭和15年から現役任務に復帰,太平洋戦争の全期間を通じ,敷設任務や警備などについていましたが,昭和20年8月9日,津軽海峡,大湊付近で空襲により大破,沈没を防ぐため,大湊港外の海岸に擱座,その後,現地で解体されました.
このほか戦艦「富士」,装甲巡洋艦「春日」なども大戦末期まで艦籍にありましたが,いずれも練習艦として,内地に係留されたままだったようです.
日本初の弩級戦艦「摂津」は標的艦として活動.これまた呉空襲で大破着底.
これらの艦は全て機関については換装されないか減少しています.
【質問】
沖縄に配属された自爆ボート部隊について教えてください.
【回答】
これは陸軍の「○レ」(マルレ)という特攻モーター・ボート部隊で,「海上挺身戦隊」と呼ばれ,また,その支援部隊は「海上挺身基地大隊」と呼ばれていました.
沖縄戦当時,慶良間列島には
座間味島
・海上挺進第1戦隊(球16777) 指揮官梅澤裕少佐
・海上挺進基地第1大隊(暁16788) 指揮官小澤義廣少佐
→20.2.17臨時独立第1大隊改編本島へ移動
・特設水上勤務第103中隊(球8886) 指揮官市川武雄中尉 第二・第三小隊欠,将校・下士官・兵40名,朝鮮人軍夫約300名
阿嘉島
・海上挺進第2戦隊(球16778) 指揮官野田義彦少佐
・海上挺進基地第2大隊(暁16789) 指揮官古賀宗市少佐
→20.2.17臨時独立第2大隊改編本島へ移動
・特設水上勤務第○○中隊(資料不足にて不明)
渡嘉敷島
・海上挺進第3戦隊(球16779) 指揮官赤松嘉次大尉
・海上挺進基地第3大隊(暁16790) 指揮官鈴木常良少佐
→20.2.17臨時独立第3大隊改編本島へ移動
・特設水上勤務第104中隊(球8887) 指揮官中山忠中尉 一個小隊−将校・下士官・兵13名,朝鮮人軍夫210名−のみ配備.
と言う部隊が配備されていました.
海上挺進戦隊は戦隊長以下104名とマルレ艇100隻からなり,各部隊は
海上挺身戦隊(球16777〜9)
戦隊本部 11名(10隻)
第一中隊
中隊本部 4名(3隻)
第一群 9名(9隻)
第二群 9名(9隻)
第三群 9名(9隻)
第二中隊
第三中隊
という編成でした.
戦術単位は一個戦隊,戦闘単位は一個中隊とし一コ群を行動の最小単位と定めていました.
見れば分かるように各艇乗員一名ですが,戦隊長及び各中隊長艇のみ複座の指揮艇で,装備としては機関短銃9挺−資料によっては4挺の説あり−に拳銃・軍刀・手榴弾などを装備していたようです.
海上挺身基地大隊については,手元の資料が少ないので編成の詳細は判明しませんが,勤務隊と整備中隊などからなり,兵力は約1000〜900名であったと推測されます.
しかし,昭和19年11月に沖縄の第32軍から第9師団の台湾抽出が決定し,翌年1月までに移転を完了,補充として本土から送られてくるはずの第84師団も一旦は派遣が決定したものの,本土決戦用兵力不足や海上輸送の危険性などから派遣中止となりました.
この為,沖縄本島の防備兵力不足と言う事態を招き,第32軍は昭和20年2月12日に海上挺進基地大隊を,特攻作戦上絶対必要な最少人員以外の勤務隊を主力として,兵力を歩兵大隊に準じて独立大隊として編成し,本島に抽出する事を決定しました.
作戦上必要と判断された勤務隊の一部と整備中隊主力は残置され海上挺身戦隊の指揮下に入り,また作業援助要員として本島から特設水上勤務中隊が来島し戦隊の指揮下に入った.
また島民の一般協力や防衛召集による防衛隊編成−集団自決用の手榴弾は防衛隊などの手から住民に配られたケースもある−など増強措置も執られたようです.
これらの部隊編成は
海上挺身基地大隊残置部隊
勤務隊(約150〜200名程度?)
整備中隊(約50名程度?)
人員
合計で約200〜250名
装備
重機関銃2
軽機関銃5
小銃約200
擲弾筒2
無線機
特設水上勤務中隊
第一小隊
第一分隊
第二分隊
第三分隊
第二小隊
第三小隊
人員
将校・下士官・兵 計40名
朝鮮人軍夫約250〜300名
装備
小銃約40(朝鮮人軍夫は非武装)
であったと推測されます.
各島の配備人員には差があるので,員数については参考程度に願います.
なお,慶良間列島で編成した三個臨時独立大隊は,沖縄本島で各兵団に配属され第一線部隊として配備されたが,編成上は歩兵大隊に準ずるものの,充分な訓練期間もなく,装備も小銃を中心としたものであった為,苦戦したと言われています.
昭和49年に刊行された沖縄県史第10巻(沖縄県教育委員会編)では「鉄の暴風」以降の論旨を基本的に踏襲しているものも多く,○レ艇の出撃中止・自沈命令−暗にこれが集団自決を招いたと言いたいのであろうか?−に関して戦隊長であった赤松大尉の責としていますが,これは事実ではなく,偶然にも米軍上陸時に戦備視察の為に来島中であった第11船舶団長(軍船舶隊長)大町茂大佐の指導と命令によるものでした.
むしろ赤松戦隊長はこの機を逃さず戦隊全力をもって来航した米軍艦艇への出撃を意見具申しています.
沖縄の多くの書籍には,この出撃回避を赤松戦隊長の怯懦に起因しているという記述があるそうですが,これは軍隊に対する全く不見識と言うほかありません.
軍隊という組織にあっては,上官の命令には例え個人的に反対であっても,命令を遵守することが軍紀維持の根幹であり生命であるからですね.
軍事研究2005年3月号によれば
軍事研究2005年3月号P157・元海上挺身第三戦隊木村幸雄氏の証言
敵艦は目の前,手の届くところにいっぱい停泊している.まさに好機到来,まもなく中隊長の命令が下るものと誰もが緊張していた.
私は敵来襲の場合,特に離島の挺身隊戦隊長は状況を分析・判断し戦機を逸しないためにも,独自の見解で出撃命令を出せる権力を持っている者と思っていた.
ところが軍の指揮系統は,そんな単純なものではなかった.
特攻艇の運用については3月10日から12日にかけて,船舶団長大町大佐統裁のもと,那覇において牛島軍司令官をはじめ陸・海の首脳や海上特攻関係者が一堂に会し,海上挺身攻撃の兵棋演習が実施された.
この演習の結果,特攻艇の出撃海面が割り出された事により最大の戦果を挙げるための作戦が検討された.
軍司令部ではこの作戦を重視し,改めて各線隊長の独断出撃を厳重に禁止し,状況によっては全戦隊を那覇に集めるように指示した.
ここにもあるように特攻艇の運用に際しては企図の秘匿を絶対的最重要事とし,特攻艇の出撃は軍司令官の決定により軍船舶隊長が命令し戦隊長が実行すると厳重に決められていました.
目の前に敵が居ながら軍からの出撃命令なく出撃できない戦隊長の苦悩は如何ばかりか,結果的に全特攻艇の1/3を慶良間に集結させていながら,全く戦果を挙げることなく全艇を自沈させる事になった訳ですが,上が現場の手足を縛るとどうなるかという好例のような気もします.
【質問】
震洋とは?
【回答】
海軍の体当たり自爆ボートです.
某海軍特攻ボート戦友会の役員会にお邪魔したときの食事会では,ヴェテランの方々から(といっても私以外は全員そうですが)また興味深い戦中の話を聞かせて頂きました.
ボート船体左右に付けられた120mmロケット弾(ロサ弾)を跳弾させて,敵艦にめがけた発射訓練や,どうせ縦揺れする海上での命中精度が期待できないのなら,と末期に敵グラマン艦載機への威嚇に山の上にこのロサ弾を固定して撃とうとした話やゴーグルをしなくて発射紐を引っ張った搭乗員がバックファイアで大火傷を負った話などは,戦記マニアとしては初耳でした.
写真は3月の靖国神社での慰霊祭当日に展示してあった,2人乗りの震洋五型の模型で,操縦席左右にある,仰角設定が可能な可動式のロサ弾発射台が見えます.
ロケット推進機関の特攻艇と言えば,震洋では実験段階で終わりましたが,ロケットエンジン装備の七型艇もありました.
ただし最大速度60ノット以上は,小型艇の限界を超えて制御不能な一面もあった様で,三菱長崎造船で造られた試作機は,試験走行中に機首を上下動して波に突っ込んで破損したそうです.
陸軍のマルレ艇と震洋艇は,1945年1,2月のフィリピン戦で各140隻と50隻が特攻攻撃を行い,米軍艦艇23隻を撃沈または大破させています.
また,沖縄戦や慶良間群島でも出撃を繰り返し,数多くの犠牲を払って11隻に損害を与えています.
さらに,終戦直後の8月16日に高知の基地で出撃中に,111名もの爆死者を出す痛ましい大爆発事故が発生しています.
こういった特殊兵器の話も,関わった方々が物故するとその内容は永久に忘れ去られてしまうので,今後も機会を見て話を聞いて行きたいと思います.
下記は,震洋隊の戦史をまとめたサイトのひとつです.
http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/sinyo-his.htm
震洋艇搭乗員だけでも1300名以上の戦死者を出していますが,日本の場合,特攻と言えば航空機特攻ばかり話題に上る傾向がある様に思えます.
こういった一般に知られざる歴史は,残った者が語り継いで行きたいと思います.
通しの震洋部隊戦史については,同戦友会役員の方が書かれた
『還らざる特攻艇』益田善雄著/霞出版社
という名著が在ります.
また,同戦友会前会長や現会長も監修された,
『日本特攻艇戦史』木俣滋郎著/光人社
も陸軍マルレ部隊についても深く書かれてお薦めでしょうか.
今後,震洋部隊に興味を持つキッカケにでもなれば幸いです.
余談ですが,横須賀に配属された予科練航空兵達が防諜の理由で階級章の水色の桜を水兵の黄色に変えさせられて士気に影響した話,あるいは進級したばかりの下士官が,海水で下士官章を洗って塩っ気を付けと箔付けをしたといった,本では読めない話が多く聞け,また色々と勉強になった海軍記念日の午後でした.
こういった当事者にとって辛い思い出は,中々聞く方にも神経を使わせますが,やはり私も無理に聞こうとせず,ヴェテランの方達が話したくなった時に降りてくるのを待つよう心掛けています.
でもお酒が少し入ると,スムーズに話が引き出せるのも,経験上確かです(笑).
よしぞう(maro') in mixi,2006年05月28日23:54
〜2006年05月30日 16:21
(青文字:加筆修正部分)
なお比島戦では,陸海の特攻艇部隊共に戦果を記録していますが,米軍の対策が急速に進んだためもあり,短期間で無力化されてしまっており,陸海の特攻艇ともに,ロケット推進,ジェット推進による高速化などを模索しつつ終戦に至っています.
ロサ弾の発射機は,金属製,木製,完全固定のもの三段階程度の仰角設定が可能なのものなど,様々なバリエーションが写真から確認できます.
模型のものは仰角設定が可能な,もっともよく見られるものですね.
まさとし in mixi,2006年05月29日 21:17

よしぞう(maro') in mixi,2006年05月28日23:54
【質問】
震洋のエンジンについて教えられたし.
【回答】
第二次大戦中,ロケットエンジンは各国で試作され,主に航空機に使用されました.
船舶には同様の機構を持つワルター機関として,ドイツで使用されたくらいですが,これは推進力を反動に頼っていないので,今回の話からは置いておいて,このロケットエンジンを船舶に用いようと言う発想で実際に試作までされたのは,追い詰められた日本でしか無かったり.
元々,1944年3月に軍令部が種々の特攻兵器を提示しますが,艦本四部から対案を3つ提案しました.
1つ目が30馬力程度の船外機を搭載して速力30ktsを発揮する小型艇,
2つ目が自動車エンジンを搭載して速力28ktsを発揮する中型艇,
3つ目が水中翼船で230馬力の船外機を搭載して速力40ktsを出す高速艇です.
このうち,実現容易なものとして,2つ目の自動車エンジンを搭載した艇が選定され,量産試作に入りました.
これが所謂,後の「震洋」です.
2ヶ月で設計,試作し,試験を重ね,10月から1軸艇の量産が軌道に乗ります.
その頃に,指揮用の2軸艇の試作要求が出され,1軸艇の結果を加味して生産が為された為,試作に当たっての障害はなく,1軸艇の半数が毎月生産されることになり,1軸艇を震洋1型,2軸艇を震洋5型と称することになりました.
他に魚雷艇代用として3軸艇の震洋8型が製作されますが,こちらは性能不足で,試作のみでした.
搭載エンジンは,日産のエンジンの方が性能が良かったのですが,陸軍が多数採用していたので,海軍向け割当が無く,結局,トヨタのトラック用エンジンKC型を改造の上採用します.
改造点は,圧縮比を5.7から6.4とし,普通揮発油に四エチル鉛を添加してオクタン価80の燃料を用い,回転数3200で,出力70〜73馬力のものを75〜78馬力にパワーアップしています.
1944年5月から1945年5月まで,月250台のエンジンが供給され,生産が続けられました.
生産計画では月産600隻,陸海軍合わせて1万隻を9月に用意する予定でしたが,実際には3,000隻しか生産されていませんでした.
これで実際に本土上陸が行われた場合,軍令部の作戦計画では,敵輸送船2,000隻に対し,海上で撃破するものを24%の470隻と仮定しました.
その算定の基礎としては,航空兵力による特攻攻撃が推定奏功率6分の1で210隻,水上・水中特攻兵力は出撃前に10%の被害を受け,推定奏功率を蛟竜3分の2,海竜,回天3分の1,震洋10分の1として260隻と計算していました.
後知恵で見てみると,如何に楽観的な数字か,と思ったりする訳ですが….
この震洋にRocket Engineを搭載すればどうだろう,と言う考えが浮かんだのが,1944年6月のサイパン攻防戦での敗戦でした.
この時,航空機は殆ど戦果を挙げられませんでした.
「爆弾が命中しなかった」
「次戦までに航空魚雷の生産が間に合わない」
「ならば,飛行機から海上特攻艇を敵の手前数キロから降ろして,高速攻撃を仕掛ければ,(
゚Д゚)ウマー.」
こうして夢想されたのが,航空機の爆弾や魚雷代わりの特攻艇で,時速150kts!
それを研究したのが三菱造船.
一方,陸軍は陸軍で,火薬ロケットで高速艇を造ったものの,結果が良くない為,液体ロケットでの特攻艇研究を三菱造船に命じていたり.
例によって,例の如し.
結局,三菱の担当者が陸海軍での統一仕様を求めたのに,頑としてこれを受付けず,製作時の障害になっていたりします.
さて,そんな対立にもめげず,三菱造船では最初に過酸化水素型の推力750kgのロケットを試作します.
時速150ktsに最適な船形は手探りで,余りに高速な為,試験水槽で台車が止まらず,負傷者8名を出して漸く2つの船形が決まりました.
こちらは震洋6型で,1型艇の船体を改造して三菱長崎で完成.
1945年1月に先ず試運転が行われますが,500m航走した所で50ktsに達したものの,燃焼筒の加熱とその加熱部に燃料がこぼれ落ちた為に火災が発生し,あっと言う間に焼失します.
この時にテストしていた技師2名は命からがら海に飛び込み,事なきを得ました.
一方が固体ロケットを10基搭載した震洋7型ですが,こちらも60ktsに達したところで波に頭を突っ込んで破損してしまいます.
取り敢ず6型が有望とし,燃料漏れの改善,燃焼室の冷却法改善,船形の改良などが行われますが,相変わらず船底の破損は続き,遂には飛行艇の艇底に似た格好のボートを造ったり,それに水中翼を付けたりして波に対する安定は向上したものの,空中でのバランスが悪くなって,成功しませんでした.
それでもめげずに試作を続け,何とか安定した運転が可能になったのですが,長崎造船所が原爆渦に見舞われる等して,結局,物になりませんでした.
そんな狂気のものは,実用化されない方がマシではありましたけどね.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年08月09日22:55
【質問】
水上機母艦なら空母ほどの大掛かりな改装は要りませんよね?
なら日本海軍は商船改造空母より,商船改造水上機母艦を多数揃えればよかったんじゃないですか?
日本には水上戦闘機も水上爆撃機ありましたし.
【回答】
水上機母艦をつくって何をやらせるか?という部分を考えてください.
滑走路を作らずに済むという利点のあった水上機基地や飛行隊も,大戦後半では閉鎖されたり陸上機に機種改編したりしています.
水上戦闘機や水上爆撃機ってのがあっても,それが戦闘で役に立たないのでは,戦力として整備する意味もありません.
そして戦闘に役立たせようにも,水上機の性能の限界はいかんともしがたいものがあります.
また,水上機を収容するには,母艦はいちいち停船して,一機ずつクレーンで持ち上げないといけません.
特設水上機母艦

【質問】
特設航空機運搬艦に飛行艇は積めますか?
第11航空艦隊の各戦隊に運搬艦が配置され,陸攻を運搬していましたが,飛行艇部隊の横浜空・東港空にも当然ながら補充が必要なわけで,果たして大艇が運搬艦の格納庫に納まるのだろうかと疑問が沸いた次第です.
(鷂 ◆Kr61cmWkkQ)
【回答】
飛行艇は搭載できません.大艇の補充は基本的には空輸になっていた筈.
空運乙は,若干機(2〜3機)の水偵を後部上甲板上に露天格納するほか,主翼,胴体を分解して船倉内に10機が搭載出来るようになっています.
また,前後部の船倉,甲板間貨物倉の大部分がドラム缶入りのガソリン,爆弾,魚雷の格納所であり,前部は人員と各種雑物件の収容所となっていました.
りおん丸の場合は,前部中甲板区画は航空隊兵員,飛行場設営隊員など500名分の居住区画,船橋楼内の上甲板区画が船固有の兵員室,船尾楼は准士官以上の居住区で,40名収容.
貨物倉内の一部には機械工場,木工工場,鍛冶,熔接工場が設置され,石炭庫と真水タンクを増設しています.
なお,名古屋丸は潜水母艦からの改造であり,船倉内に解体機を搭載しませんでした.
眠い人 ◆gQikaJHtf2
【質問】
軍艦の種別の接頭語である「仮設」「特設」「仮装」「特装」の区別がよく分かりません.
民間船のふりをして奇襲攻撃をする軍艦を「仮装**艦」というらしいですが,資料によっては「仮設**艦」とか書いてあったりしますし・・・.
「特設**艦」とは民間船を徴用して軍艦にしたものを言うらしいのですが,例えば日本帝國海軍の空母飛鷹,隼鷹は民間の客船の徴用改造艦なのに「特設空母」とは呼ばれてませんし・・・.
正直意味がさっぱりです.
どなたかご教授下さい.
【回答】
うろ覚えですが,「特設」は法令用語です.
日華事変勃発前に,徴傭船を特設軍艦・特設特務艦船・特設特務艇に指定する制度が設定されました.
日露戦争でバルチック艦隊を発見した信濃丸も,太平洋戦争でインド洋通商破壊をした報国丸も構造・任務そのものは「仮装巡洋艦」ですが
信濃丸は法令がない時代の船なので「仮装巡洋艦」,報国丸は法令に従って「特設巡洋艦」です.
「特設空母」は,春日丸・八幡丸・出雲丸・橿原丸が指定されていますが,呼ばれているのは空母艤装中に限られ,改造完了とともに正規軍艦に編入されています.
新田丸とりおでじゃねいろ丸は,特設空母時代がありません.
新田丸は艤装完了まで海軍籍になく,りおでじゃねいろ丸は艤装完了まで特設雑用船でした.
(鷂 ◆Kr61cmWkkQ)
仮装巡洋艦「信濃丸」

特設巡洋艦「愛国丸」

【質問】
商船が日本海軍に特設艦艇として編入される場合,乗員は海軍の軍人がやってくるの?
特設巡洋艦のような戦闘任務だと,戦闘艦乗務経験のある艦長じゃないと運用できそうにないので疑問です.
【回答】
乗組員ごと徴用されるのが普通です.
当時の商船乗りは,海軍予備員の肩書きを持っているので,そのまま予備士官・予備下士官などに任命されて,航海及び戦闘に従事することになります.
ダメコンにしても,その船を知り尽くしている元々の乗員の方が有利でしょ?
平時の商船でも,座礁したりして,応急の浸水対策が必要になることはよくあります.
商船士官は,海軍予備士官として,最低限の軍事教育を受けています.
そもそも戦争半ば頃までの日本海軍は,ダメコンにあまり力を入れていません.
商船員だからって不利にはなりません.
発足から大正の頃までの海軍予備員は,名前だけの名誉職に近かったらしいのですが,
昭和に入ってからは海軍の演習の時にも招集されて勤務に就くようになって,
そのときの評価としては,
「戦術判断などに関しては現役軍人に一歩譲るが,船の運用そのものや,見張りなどの技術に関してはむしろ優れていることも多い」
というようなものだったそうです.
戦術判断に関しては,兵学校出身の将校(現役復帰した予備役でもOK)が数人いればどうにかなるし,
元の乗組員をそのままスライドさせても大きな問題はないと思いますが.
ただし,火砲の操作などについては,本職の海軍軍人が派遣されてくるのが普通.
特設巡洋艦だと,戦闘部署には予備役の士官を現役復帰させて,配置していますね.
【質問】
特設工作艦について教えてください.
【回答】
「特設」と言うのは,民間の船を徴用して,海軍の籍に入れたものです.
特設工作艦(工作船でなく)なら,民間の6,000総トンの貨物船に工作施設を備え,損傷応急修理を目的とし,工作施設は戦況の最後まで機能を果たさなければならず,しかも,この艦を失えば,味方の修理能力が落ちることから,敵からも執拗にねらわれたため,損耗の最も多い艦種です.
その施設は,例えば,上甲板に作業場,飛行機工場,電気・航海・光学・無線工場を持ち,第二甲板には各科倉庫,機械工場,工具室,魚雷工場,木工場を,船艙内に新設した甲板には索具および塗具倉庫,救難要具および鋼材などの材料庫,造兵・造機材料庫,補機室,鍛冶工場,溶接工場,造船・造兵材料庫,そして,船艙には弾薬庫,救難関係倉庫,糧食庫,修理材料庫,鍛冶工場,鋳物工場を備えています.
専門の工作艦には,明石,そして旧式戦艦の改造である朝日がありましたが,1941年の松栄丸を
皮切りに,山彦丸,八海丸,山霜丸,白沙,そして,2TM改造の慶昭丸が改造されています.
これら特設艦は全部撃沈されています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2
【質問】
日本海軍の,特設巡洋艦を用いた通商破壊戦は,なぜ戦果低調だったのか?
【回答】
『特設艦船入門』(大内建二著,光人社NF文庫,2008.4)では,その問題点として,
・日本海軍は報国丸,愛国丸の二隻(他に清澄丸も作戦支援として参加)を通商破壊戦に展開させていますが,投入兵力が少なく,作戦期間も短い:
日本が投入したのは大戦中この二隻だけで,作戦期間も二,三ヶ月程度.
ドイツは十隻を投入し,三次に渡って三,四隻を半年から一年以上展開.
・通商破壊戦に不慣れ:水偵が発見した商船に停船警告の為に爆弾を投下したり(本船が接近するまでに報告されてしまう),戦果が少ないという理由で早期に切り上げたり(独海軍は成果が少なくとも辛抱強く作戦を継続した).
などを挙げ(P.35〜55,169〜181),
「より基本的な問題として,日本人の特質として通商破壊作戦に求められる基本的な姿勢ともいえる,執拗なまでに最後まで敵を追跡する気概,に欠けている点が,常に作戦を中途半端に終始させた原因であったともいえるのである.」(P.169)
と指摘しています.
グンジ in mixi, 2008年04月13日17:21
【質問】
病院船に関する日本軍のスタンスは?
【回答】
『特設艦船入門』(大内建二著,光人社NF文庫,2008.4)によれば,陸海軍では病院船の考え方も異なっており,
海軍:「動く総合病院」であり,その為の各種医療設備や専門の医師(軍医),病室を備えていた.
また海軍の病院船には看護婦は乗船しておらず,代わりに専門教育を受けた下士官,兵がその仕事を行った.
陸軍:傷病兵を医療設備の整った施設への輸送が目的であり,医療設備や医師は必要最低限.陸軍の病院船には看護婦も乗船,勤務していた.
となっています.(運用条件などは両者とも同じ)
【質問】
第二氷川丸について教えられたし.
【回答】
『特設艦船入門』(大内建二著,光人社NF文庫,2008.4)によれば,第二氷川丸は元々はオランダの病院船オプテンノールで,ジャワ島攻略戦の際に駆逐艦「天津風」が臨検,拘留(もろにジュネーブ条約に違反する行為).
その後,海軍が接収(返還しようにも本国,蘭印ともに降伏しており,返す相手がいない)して「天応丸」(のちに「第二氷川丸」に改名)として使用しています.
そして終戦時,ややこしい事を避けるため,舞鶴で自沈させています.
もっともオランダにはしっかりバレて,賠償させられてますが.
(ちなみに本書では自沈について,
P.136では爆薬を仕掛けて爆沈
P.254ではキングストン弁を開いて沈めた
とあるが,「海軍病院船はなぜ沈められたか 第二氷川丸の航跡」(三神國隆著,光人社NF文庫)では船底に爆雷を仕掛けた上でキングストン弁を開放,作業員全員が下船して離れた場所で爆破,となっている.(P.36〜39)
また昭和18年12月に同船に日赤の看護婦か乗務しています.(日赤第508救護班.海軍病院船に看護婦が乗務したのはこれが最初で最後.P.117))
【質問】
「橋立」は砲艦にも関わらず,なぜ航洋性を持たせたのか?
【回答】
「橋立」は,戦前の日本が想定していたシーレーンの防衛を期待された海洋型砲艦でした
(平時では中国での権益保護,対中戦では中国近海の哨戒,対米戦ではシーレーン保護)
しかしシーレーンが大幅に拡大した結果,航続距離がネックとなって護衛戦力の主力となりえませんでした.
(台湾やサイパン,せいぜいパラオまでだったが,シンガポールやニューギニアにまで拡大.そら砲艦ではあかんわ)
【参考文献】
『帝国の艦船 日本陸海軍の海洋軍備』(学研,2008.1)
グンジ in mixi,2007年12月31日12:33
【質問】
日本海軍で魚雷艇の活躍はあまり聞かないような気がするんですけど,何故,重用しなかったんでしょう?
【回答】
一応,島嶼防衛用に大量生産をしています.
大型艇はドイツのSボートを原型に,小型艇はイタリアのMASと英国のもの(中華民国から鹵獲したもののコピー)を原型に開発しています.
但し,高速小型舟艇に必要な船形の開発に失敗したのと,高速小型舟艇に必要なエンジンの開発に失敗した(大馬力のガソリン水冷発動機が無かった)為,高速舟艇用エンジンとしては,航空廠の倉庫に仕舞い込まれていたエンジンの埃を払って搭載しています.
また,空冷星形をやむを得ず搭載するものもありました.
このエンジンの状態がまちまちで,その状態によっては34ktsを発揮したものもありましたし,逆に20ktsも出ないものもあったりしました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2
活躍できなかった主因は技術格差.
例えば,三菱重工が魚雷艇用主機として製作したZC機関を戦後,海上保安庁の高速巡視艇に流用したが
,公称20ノット以上の予定が,公試運転で16ノットを超えることはなく試作艇のレベルを超えなかった.
一方,海上保安庁がアメリカ海軍から貰った十隻近い魚雷艇は,ほとんどがスクラップ状態だったが,なんとか部品を組み合わせて運用可能な巡視艇1隻を組み上げた.
驚くべきことに船体が新造された後も,その主機は流用された.
当時,このくらいの差があった.
ドイツから潜水艦で魚雷艇用エンジンを持ち帰ったが工作精度が全然違い複製できなかったし.
【質問】
魚雷艇エンジン生産がうまくいかなかったのは何故か?
【回答】
三菱重工の丸子機器製作所では,戦車エンジンの製造を行っていた訳ですが,海軍の機器も生産されていまして,海軍用魚雷艇エンジンとして生産されたのが,「七一号六型」です.
これは,元々,ItalyのMAS艇に搭載されていたIsotta-Franschini水冷W型18気筒エンジンを分解スケッチしたもので,これを海軍規格に図面化したものです.
社内呼称YWG.
このエンジンは87オクタンガソリンを燃料とする航空機用エンジンに逆転機とセルモーターを取り付けたもので,丸子で部品を作成し,三菱川崎機器製作所で組立てたもので,1942年2月11日に50時間の試運転をすることが出来ました.
このエンジンを魚雷艇用機関として,海軍は非常に期待し,1942年6月に年産480台の生産設備拡充を命じ,更に茨城機器製作所を半官半民で建設する様命じますが,資材不足で生産は遅延し,実用機が完成したのは,試運転から1年が経過した1943年2月,以後,月産3〜4台という,今では考えられないペースが続きます.
この頃,艦本協力問題というのが持ち上がります.
これは,大型海軍艦艇が生産されなくなったので,遊休と化している艦本の設備を,航空機関係の生産に振り向けようというものですが,大型機械は,航空機の部品の様な小型精密の加工には向かず,艦本の小型機械は,小型艦艇の部品生産で手一杯.
結局,趣旨は良かったのですが,艦本の技術員を遊ばせる結果になってしまいました.
業を煮やした海軍は,英国で行われているというノックダウン生産を取り入れることになりました.
メーカー約50社で生産された部品を,川崎機器製作所に集約し,最終組み立てを行うというもので,そのメーカーは,横須賀,呉,舞鶴,佐世保の各工廠,三菱の長崎,横浜,神戸の各造船所,造機系の新潟鐵工,池貝製作所,神戸製鋼,阪神内燃機,久保田鉄工,栗本鐵工,歯車は日立亀有工場とか長谷川歯車に,園池や津上製作所に治工具,その他,ピストン,ピストンリング,発電機,気化器などを専門メーカーに分割発注します.
これが開始され,試行錯誤の末,1944年5月から生産が軌道に乗ります.
とは言え,目標である月産40台には遂に達しませんでした.
主要部品のみならず,それらを組立てるのに必要なボルトやナット類が不足していたのも一つの原因.
その原因を突き詰めていくと,ボルトやナット類を生産する工場では,切削油や油を拭くボロ布が入手出来ないとか,熟練工が兵役や疎開で居なくなった…など.
また,特殊鋼の原材料問題も相変わらず出て来ます.
クランク軸の素材は,高抗張力のニッケル・クロム・タングステン鋼なのですが,ニッケルの不足により,ニッケルをマンガンに置換えた代用鋼が製作されますが,三菱長崎で鍛造され,三菱神戸で加工された代用鋼のそれは,梱包を開けると輸送中の振動で見事に真っ二つに折れていたそうです.
他の製品でも,ニッケル,コバルト,モリブデンの代用品として,シリコンマンガン鋼とか,マンガンクローム鋼とか,シリコンマンガンクロム鋼,特殊炭素鋼が用いられ,鉄鋼材は,木製か竹製,合成樹脂に変更され,銅や銅系統の材料は,鋼材,木材,竹,セルロイド,アルミ,亜鉛,錫などに変更される等という指針が艦本から出されていたりします.
生産の隘路は資材だけではなく,部品加工精度と検査治具の問題は,工業界の何処にでも顔を出す問題でした.
測定具の精度は,被検査品の一桁上の精度が必要ですが,太平洋戦争により精密加工機械の輸入が途絶し,精度の悪い日本製機械を使用しなければならなかったのが,その原因.
結局,このエンジンは真価を発揮しない儘に,1945年1月に生産を中止されることになります.
資材不足,航空用空冷エンジンの2倍に上るアルミを消費するのが,生産打切りの直接の原因でした.
このエンジン製作の為に素材は1000台分手配されていましたが,実際に作られたのは,1943年10月から1945年2月までの間に,僅か340台,月平均20台,最高月産台数は月35台でした.
このうち,実際に魚雷艇に搭載されたのは272基で,このエンジンを積んだ本家のMAS艇は40ktsを遙かに超えているのに,日本製のそれは,艇体やスクリュー設計の経験不足とも相まって,35ktsを出すのが精々でした.
DBと言い,Isottaと言い,日本の精密機械工業ってのはそんなものを作るレベルには至ってなかった訳ですね.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年08月05日21:34
【質問】
日本陸軍の37mm舟艇砲って,狙撃砲とか十一年式平射歩兵砲からの転用ですか?
あるいは,戦車砲や速射砲と同じものですか?
【回答】
舟艇砲は九八式三七ミリ戦車砲の設計を流用しています.
本砲は昭和18年5月から設計が開始されましたが,主な変更点は耐水性を高めるために砲腔,砲尾,閉鎖機にクロームメッキが施されていることと,砲腔に防水栓が付けられること,駐退復座機室に水抜き穴が開けられていることなどです.
名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE