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かつ丼日記より引用
「ザイーガ」◆【画像】太平洋戦争時に米兵の撮影した南方戦線の写真
『思い出の昭南博物館―占領下シンガポールと徳川侯』(E.J.H.コーナー著,中公新書,1982/08)
ラッフルズ博物館を,義親氏等と協力して略奪と破壊から守った本人による追想記.
日本軍への憤りと,若い正義感,暖かい手を差し伸べてくれた人達への感謝が伝わってくる良い本です.
特にシンガポールへの日本軍進駐時の混乱を,何の実権も無いのに,果断な行動力でしのぎきった田中館氏が良い.
予想よりずっとイカス〜!
経歴詐称を知っても,なお彼のことを「教授(ほんとは講師)」と呼ぶところにも,著者の失われることのない尊敬と信頼の念が伺えます.
義親氏はいかにも氏らしい感じですね.
当時の二人の功績に付いては,色々言う人も居るようですが,敵国人の協力者による,この手記の説得力を凌駕するのは難しいでしょうね.
しかし,日本軍によるシンガポール統治の様子のひどいこと・・
辻政信の指揮による「華僑大虐殺」の有った事は知ってましたが,実にひどい.
こらー,フィリピンを含む東南アジアの日本軍統治について,勉強せんといかんですかねぇ.
泥沼にはまりそうで,ちょっと避けてたんだけどなぁ.
関連人物
・大川周明 ・橋本欣五郎 ・田中館秀三 ・E.H.J.コーナー
------------軍事板,2001/09/01
『昭南島(シンガポール)物語』(戸川幸夫著,読売新聞社,1990/06)
『日中戦争 一兵士の証言 生存率3/1000からの生還』(川崎春彦著,光人社NF文庫,2001.2)
昭和18年以降.
もうとにかく行軍で落伍すると終わり,というのが良く分かる.
靴がダメになるとお仕舞いというのも.
――――――軍事板,2010/12/02(木)
『日本兵のはなし ビルマ戦線 - 戦場の真実』(玉山和夫&ジョン・ナンネリー著,マネジメント社,2002.8)
良書だった.
英国で出版された,日本兵のビルマ戦線回想集を,翻訳逆輸入という,変わった経緯の本.
1人約5頁の短文ながら,情報量が多い.
著者の所属中隊と階級を明示,日付や兵器数など数字も豊富で,純国産の従軍記と毛色が違う.
――――――山猫男爵 in twitter,2011/06/16
『ペリリュー・沖縄戦記』(ユージン B. スレッジ著,講談社学術文庫,2008.8)
「アメリカだと楽ができるのか?」って人は読んでもらいたい.
塹壕堀りしてたら,とんでもない物を掘り当ててしまったYO!
これこれこういうやむをえない理由なので,他の場所に変えてもいいか?
何を言ってるんだ,戦術的に重要なのだ,その場所で掘り続けろ・・・
・・・(´・ω・`)
日本軍のトーチカ固すぎワロス(笑)
やっと味方の戦車が来たYO!
うわー,こっちを撃って来やがった!
普通トーチカ撃つだろJK
誰か電話して止めてきてくれー
オレたちがこんなに苦労しているのに,後方基地のガダルカナルでは,アイスクリーム食べてやがった!
これから全てのアイスクリームは,わが海兵隊員が食い占める!!
こんな内容だった気がシマス.
合ってますか?
――――――軍事板,2010/12/26(日)
【質問】
太平洋戦争の陸戦の流れを教えてください.
【回答】
1941.12.8の勃発と共に日本陸軍は,マレー半島を制圧し,翌年1月には、オランダ領インドネシアにも侵攻開始.
2月にはシンガポールが陥落し,3月にはバタアンに立て篭もっていた米比軍も降伏,ビルマのラングーンも日本軍に占領された.
続いて日本軍は米豪遮断を画策(FS作戦)し,これを阻止しようとする連合軍との間でソロモン諸島の戦い、ニューギニアの戦いが開始されたが,日本軍のポートモレスビー攻略は阻止される.
8月になると米軍が本格反攻に転じ,ソロモン諸島のツラギ島およびガダルカナル島に上陸して,ガダルカナル戦が生起.
ガダルカナルの日本軍は兵站を遮断され,1943年2月に撤退.
1943年5月には,アリューシャン列島のアッツ島に米軍が上陸し,アッツ島の日本軍守備隊は,初の「玉砕」事例に.
ニューギニアでの戦いも日本軍不利となり,11月,太平洋横断を目論んだ米軍は,マキン島とタラワ島を占領.
1944年3月にはインパール作戦が大失敗.
5月には大陸打通作戦を行うが,B-29空襲を阻止できず.
7月にサイパン島,8月にはテニアン島とグアム島が「玉砕」し,10月には米軍はフィリピン本土上陸して,1945年1月にはフィリピンのほぼ全土を奪還.
1945.2.19〜3.22にかけては硫黄島戦.
4.1〜6.23には沖縄戦.
5月にはアウン・サンが決起して,ラングーンから日本軍を駆逐.
8/8にはソ連軍が参戦して満州に侵攻し,8/15以降も千島列島での戦いが暫く続いた.
【ぐんじさんぎょう】,2013/03/08 20:50
を加筆改修
【質問】
バルバロッサ作戦と並行し,関東軍がシベリアへと北進しなかったのはなぜですか?
65万(関東軍)対145万(極東ソ連軍)では確かに相当な兵力差ですが,少なくとも陽動にはなりますよね?
極東ソ連軍を釘付けにしている間にナチがモスクワを落とすことも可能だったのでは?
あくまで結果論ですが.
【回答】
そのような作戦を実行するには兵力不足であり,仮に作戦を強行したとしても,メリットは殆どなかっただろう.
昭和15年度の対ソ戦予定兵力は,陸軍の師団総数49個の内34個師団を必須としていた.
しかし現実には,27個師団は中国で戦っている.
独ソ戦に呼応した対ソ戦計画である関東軍特種演習では,南進用の師団が更に引き抜かれ,僅か25個師団で作戦が計画された.
参謀本部も,これだけの兵力では極東ソ連軍32個師団に対して兵力が少なく,目標を達成できないとして
「師団数が41年9月までに半減すれば武力発動」
としたが,ソ連軍は動かず計画は流産.
ここまでは計画の話ですが,仮に強行発動したとして何が得られるでしょうか?
自信過剰の陸軍ですら二の足を踏む兵力不足.
ドイツがモスクワを落とすかも未知数ですし,
(参本ロシア課すらドイツによるソ連占領は不可能,ソ連の徹底抗戦は必至と判断していました),
アメリカもいかに動くやら.
仮にシベリアを手に入れても,地下資源は豊富かもしれませんが,開発には絶望的な時間がかかるでしょう.
ついでに,「ドイツの陽動」を行うにしても,三国同盟がろくに軍事戦略のコンセンサスを構築していない「精神上・名目上の同盟」でしかなかったこと,
ドイツの対ソ作戦についても,ドイツからの情報源は大島大使経由のドイツの大本営発表程度しかなかったことを肝に銘じておくべきでしょう.
モスクワ占領の維持も,ろくに兵站線の確保できていなかったドイツには,極東ソ連軍の派遣ある無しに関わらず困難だったでしょう.
【質問】
太平洋戦争勃発直前の,香港の防備の様子は?
【回答】
香港は19世紀に英国領になりました.
その領域は,香港島と九龍半島の租界,中国大陸部の新開地と呼ばれる僅かな土地でした.
香港島の幅は広くても16kmでしかなく,ヴィクトリア・ハーバーと幅500mもない鯉魚門で大陸から切り離されています.
租界には平地が少なく,香港島西端にはヴィクトリア・ピークが聳えており,東部にはパーカー山,バトラー山,ジャーディンズ山,ヴァイオレット・ヒルが連なっています.
一方,新開地は平坦ですが,大半は密林や雑木林に覆われていました.
この香港の防衛線は鎖状要塞陣地からなり,大陸部,即ち九龍半島北部をジン・ドリンカーズ湾からポート・シェルターへと東西に構築されていました.
香港島周辺部にはトーチカが設けられ,内部には機関銃が据え付けられました.
この島の防衛は,正規軍4個大隊で編成されており,本国軍からは第1大隊に機関銃装備のミドルセックス連隊,第2大隊にロイヤル・スコット歩兵連隊,インド軍からラジプット第7連隊第5大隊とパンジャブ第14連隊第2大隊がそれぞれ担当しています.
更に,約2,000名の民兵組織である香港義勇隊がいました.
1930年代,日本が大陸に食指を伸ばし始めると,英国は香港の防衛に頭を悩ませます.
英国東洋艦隊の主力基地や空軍根拠地であるシンガポール,空軍基地が点在するマラヤから遠く,逆に大陸や日本本土からは指呼の間であり,地形などを考えても,日本軍が攻撃してくるとそれに対し,増援軍が間に合う可能性はありません.
また,本国の財政難やインド軍の財政支援の問題もあり,極東にある場末の植民地である香港の防衛強化は放棄してしまいます.
ところが,1941年半ば,英国は方針を変更しました.
東南アジアでの緊張が高まり,日本が南部仏印進駐を果たすと,香港を華南の日本軍に対する作戦の前線基地にしてはどうかという議論が出て来ました.
また,軍関係者の間からも,香港の防備増強は結果的に日本軍の南進意欲を削ぎ,戦争抑止に役立つのでは無いかと言う声が出て来ます.
そこで1941年8月,カナダ軍参謀長と英国軍の上層部との間で話し合いが持たれ,その結果,9月半ばに英国からカナダに対し,香港への支援部隊派遣を要請する事になりました.
香港へ派遣するカナダ部隊には,少なくとも当面は戦闘の必要が無く,香港に駐屯するのも戦争抑止の為であると言う名目でしたが,
「実はチャーチルが防衛するつもりの無い場所に,わざとカナダの若い兵士達を送り,生け贄にしたんだよ!」
「な,なんだってーー」
と言う根拠の無い陰謀論もあったりはします.
尤も,チャーチルが1941年初めに,香港駐屯軍を増強するのは愚の骨頂であると語っていた訳ですので,これが間違いかどうかは神のみぞ知るですが.
ともあれ,10月下旬,カナダ陸軍の2個大隊が香港に向けて出発しました.
片方の大隊,ウィニペグ擲弾兵部隊はジャマイカで守備隊の任務を終えて帰還したばかりの部隊で,もう1つの大隊であるロイヤル・ライフル部隊もニューファンドランドでの守備隊任務を終えて帰還したばかりの部隊でした.
他にも,香港に派遣可能な部隊はありましたが,それらの部隊はドイツに押されていた英国を支援する為に同国に派遣されていた第3歩兵師団に編入する事になっており,それに割ける部隊がこの2つの大隊しか無かったのです.
こうして,旅団司令部,2個大隊の兵,武器弾薬,通信隊からの分遣隊,看護婦2名などからなるカナダ陸軍香港派遣部隊は,ブリティッシュ・コロンビアに集結し,輸送船「アワティ」に乗船すると,カナダ海軍が徴用し特設巡洋艦に改造した「プリンス・ロバート」の護衛で,1941年10月27日に香港に向けて出航しました.
この隊を率いるのは,J.K.ローソン准将で,元々彼は第1次世界大戦に従軍した後に,軍に残り,この隊を率いる前にはオタワで参謀本部訓練部長をしていました.
しかし,この香港派遣に際し,彼は准将に昇進してこの部隊を率いる事になった訳です.
ところが,これもまた不可解な事に,派遣部隊に割り当てられた車輌の大半は,「アワティ」に余裕があったにも関わらず,米国船籍の輸送船「ドン・ホセ」に積載され,更なる迂回路を取って極東に向かいました.
カナダ軍香港派遣部隊は,11月16日に香港に到着しますが,「ドン・ホセ」はとうとう香港に到着しませんでした.
更に不可解な事に,開戦時に洋上にあり,しかもマニラに入港後,米軍は「ドン・ホセ」のマニラ出港を許可しなかったのです.
結局,カナダ軍部隊に割り当てられるべき車輌は手に入らず,それらは米陸軍が使用する事になりました.
此処にも陰謀の匂いがしなくもありません(ぉ.
香港防衛司令官は,C.M.モルトビー少将でした.
モルトビーは,13,000名になる隷下部隊を2個旅団に分け,1個旅団はC.ウォリス准将に委ねて,大陸側と主としてジン・ドリンカーズ線を防衛させ,もう1個の旅団をローソン准将に委ねて,香港島の守備に充て,海からの侵攻に備えると同時に,必要ならば大陸の守備隊を支援させようというものでした.
ウォリスの旅団は,ロイヤル・スコット歩兵連隊,英印軍2個大隊,カナダ陸軍通信隊で編成され,ローソンの旅団はカナダ陸軍2個大隊とミドルセックス大隊で編成されていました.
しかし,カナダ陸軍は香港島の守備に当たるにも関わらず,九龍半島の深水渉駐屯地で兵舎暮らしに入り,そこで実戦訓練を開始しました.
こうして,運命の1941年12月8日を迎えます.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/08/10 23:34
【質問】
香港攻略戦の経過は?
【回答】
12月8日朝8時,真珠湾攻撃から凡そ6時間後,日本の航空部隊は旧式の英軍機が使用していた啓徳飛行場を攻撃して制空権を握り,深水渉を爆撃します.
華南にいた日本陸軍の主力は酒井隆中将率いる第23軍で,香港攻撃は第38師団の3個連隊が主力となりました.
総兵力は15,000名で,ほぼ英国軍と互角の兵力です.
第38師団は香港と中国の国境線から攻撃を開始し,パンジャブ大隊は深セン川に架かっていた橋梁を爆破し,ジン・ドリンカーズ線までの後退を余儀なくされました.
日本軍の作戦方針は極めて単純で,守備隊をこの線まで後退させてそこを突破し,大陸部を一掃して香港島に攻め込むと言うものでした.
確かに兵力差は殆どありませんでしたが,航空兵力と火力が日本軍は優勢だった上に,兵士個々人の能力や士気も高く,中国で実戦を経験した兵士ばかりで,密集隊形にて戦う術を心得ていました.
一方の英国軍は,それに比べて,守備側は混成部隊であり,その上援軍は遙か後方に有りました.
当初,日本軍はこの線の突破にかなりの困難を想定し,攻撃準備に1週間掛けました.
しかし,9日夜から10日朝に掛けて,1個大隊の日本軍が防衛線の最高地点で,西部の要所でもある城門要塞に攻撃を仕掛けました.
この要塞は,北にジュビリー貯水池を,真南に戦略上重要な高地を見下ろす位置にあります.
日本軍の奇襲に英国軍は虚を突かれ,僅か2〜3時間の激しい攻防戦の末,日本軍はこの地を奪いました.
そうなると,完全に反撃は不可能であり,援軍を頼もうにも味方は遠く,要塞との間の地表は凸凹が激しく岩だらけです.
これにより,大陸部の防衛線は危険に晒される事になります.
11日,日本軍は防衛線の左翼から接近し始めました.
モルトビーは防衛線の他の部分を強化しようと考え,ウィニペグ部隊に香港島からの前進を命じます.
しかし,程なく大陸側の防衛線が最早持ち堪えられない事が明らかになり,正午にモルトビーは全軍に対し,香港島への退却を命じました.
ラジプット大隊は鯉魚門北岸の悪魔山に留まって殿となり,13日にこの大隊も多数の銃砲を抱えて香港島に後退してきます.
大陸部がこうして日本軍に奪われたので,モルトビーは守備隊の再編成に取りかかりました.
再び2個旅団を設け,西部をローソンに,東部をウォリスに委ねました.
ローソンの麾下にはロイヤル・スコット連隊,パンジャブ部隊,ウィニペグ擲弾兵部隊,香港義勇隊の多くの兵士が入りました.
一方ウォリスは.それ以外の防衛部隊を指揮しましたが,モルトビーは致命的なミスを犯します.
モルトビーは,日本軍の主力が大陸側から攻撃してくる事が明らかだったのに,依然として海から上陸する事を懸念し,ロイヤル・ライフル部隊を島の南東部に配して,上陸に備えさせたのです.
13日朝,日本軍の軍使がヴィクトリア・ハーバーにやって来て,総督に面会を求めます.
彼らは香港総督サー・マーク・ヤングに対し,降伏を勧告しに来ましたが,総督はこれを拒否しました.
15日夜から16日朝に掛けて日本軍歩兵部隊が,橋頭堡を築こうと鯉魚門の渡渉を試みましたが,英国側はこれを撃退する事に成功しました.
17日に再び日本側は降伏を勧告しますが,再度英国側は拒否しました.
既に守備隊に勝利の望みは薄かったのですが,あくまでも第23師団が他地域に転用されるのを防ぐ為の,時間稼ぎをしていた訳です.
18日の日暮れとともに,日本軍は再度渡渉を開始しました.
激しい砲火の中,兵士達は渡し船に引かれた小型舟艇に分乗して,ヴィクトリア・ハーバーと鯉魚門を渡って同時に押し寄せてきました.
上陸地点のトーチカで待ち構えていたラジプット大隊は,機関銃で敵兵を薙ぎ倒しましたが,日本軍はこれをものともせず,上陸すると,島の中央部へ続く峡谷を前進していき,ラジプット大隊は壊滅しました.
左翼では,第229聯隊が柴湾山上の城壁を巡らせた要塞の攻略に,1個大隊を派遣する一方,残りの部隊は急ぎパーカー山を登り,頂上を占領しました.
カナダのロイヤル・ライフル部隊は前進する日本軍に戦いを挑み,損害を与えるのに成功しましたが,柴湾要塞は奪還出来ずに退却を余儀なくされます.
そこから南西に2kmと離れていない場所で,ロイヤル・ライフル部隊の分遣隊がバトラー山上の日本軍を攻撃しますが,これも撃退され,多数の死傷者を出しました.
18日夜から19日朝にかけ,日本軍は島の中央部に侵攻してきます.
その目的は主要道路の確保であり,わけても黄泥涌山峡を確保して島の中央部を掌中に収め,守備隊を分断する事にありました.
19日早朝までに,日本軍歩兵部隊はレパルス湾に達し,ローソンの旅団司令部に接近しつつありました.
朝になると,守備隊は全くの混乱状態で,日本軍の規模,正確な上陸地点,主力部隊の攻撃目標などの情報が全く得られず,また,住民の中の親日派が電話線を切断したり,守備隊の通信網を麻痺させたりして更に混乱が増しました.
日本軍の2個聯隊が,ジャーディンズ山とバトラー山の山頂に迫りつつある事を知ったローソンは,3個小隊を「遊撃隊」として派遣し,敵を食い止める様に命令します.
日本軍と守備隊の兵力比は,既に6:1に達しており,結果は予測出来ました.
小隊は総て撃退され,小隊長2名が戦死する結果になります.
その為,ローソンは次にウィニペグ擲弾兵部隊A中隊に日本軍を攻撃する様に命じました.
このA中隊も,敵と対峙する為に夜霧の中を山に登ったのを最後に,殆どの兵士が生きて帰りませんでした.
この中隊は,早期に隊長以下の士官が戦死し,最後にはJ.R.オズボーン特務曹長率いる部隊がバトラー山頂上に達し,銃剣突撃を敢行して,山頂を3時間に亘って固守しました.
しかし,多勢に無勢,結局は山頂を放棄し,ローソンのいる司令部方面に退却しましたが,その途次に日本軍が待ち伏せていて,文字通り掃討されてしまったのです.
オズボーンは,部下を救おうと身を捨てて日本兵の投じた手榴弾に覆い被さり,戦死しました.
終戦後,この話が伝わると,オズボーンはヴィクトリア十字勲章を追叙されました.
ローソンの旅団司令部は,日本軍により包囲されました.
モルトビーは海軍の水兵を海兵隊として編成し,ローソン部隊の救援に赴かせます.
彼らはトラックに分乗し,突進していきましたが,道路上に日本軍が築いた障害物に突っ込み,一部が突破に成功したものの,大半が退却を余儀なくされてしまいました.
結局,海兵隊も僅かな兵力しか,ローソンの下にたどり着けませんでした.
日本軍は司令部を見下ろす位置に陣取り,司令部に対しライフルと機関銃で攻撃を掛けます.
その距離は,旅団司令部の建物の一番近い処で,応急包帯所の僅か30mという至近距離です.
ローソンは,モルトビーに電話を掛け,攻撃を受けている事を伝えると,通信機器を破壊し,その後その封鎖を突破しようと試みました.
結果は,無残にも屍をさらす羽目になります.
その後,旅団司令部周辺での戦闘は3日続きますが,ローソン准将は,第二次世界大戦で最初に戦死したカナダ軍上級指揮官と言う,不名誉な称号を受ける事になってしまいました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/08/11 23:32
青文字:加筆改修部分
さて,香港攻防戦もいよいよ佳境に入ってきました.
島の東部では,ウォリスが兵力分散の愚を悟って,モルトビーの許可を受けて,南部のスタンレー方面に後退しようとしました.
スタンレー半島を横断する線を確保し,そこから反攻を試みようとしたのです.
19日の日暮れには,ウォリスは部隊を貯水池の南側に退却しますが,これにより香港島の淡水貯水池の大半が日本側の手に渡ってしまい,東西両旅団間の連絡が絶たれました.
20日朝,ウォリスはスタンレー半島北西部にあるヴァイオレット・ヒルとレパルス湾の間に位置していたロイヤル・ライフル部隊を黄泥涌山峡方面に派遣して西部旅団との連絡を回復させようとしますが,既に日本軍が包囲網を築いており,前進が不可能となっていました.
仕方なく部隊の1個中隊はレパルス湾に面した香港ホテル周辺に塹壕を掘ってそこに留まります.
ウォリスは,21日も再度ロイヤル・ライフル部隊の別の中隊を貯水池南端に派遣しましたが,この部隊は目標に到達したものの,直ぐに退却する羽目になります.
夕暮れが近付くにつれ,香港ホテルに塹壕を築いていた部隊が北に移動し,黄泥涌山峡の真南にいた英国軍と連絡を取る事に成功しました.
その後,この部隊は日本軍の反撃で多くの死者を出しつつも,22日夜後退を余儀なくされるまで持ち堪えました.
島の西部では,ロイヤル・スコット連隊とウィニペグ擲弾兵部隊が黄泥涌山峡で死闘を続け,日本軍に損害を与えていました.
ウィニペグ擲弾兵部隊D中隊は,日本軍が山峡にある地区警察署をほぼ確保していたのにも関わらず,島の南北を結ぶ道路上の1地点を占拠し,掃討を試みてきた日本軍に応戦して損害を与える事に成功しています.
山峡を巡る攻防は,22日朝,守備隊最後の数名が負傷者を抱えて待避壕の鉄扉の影に隠れるまで続きました.
結局,その扉を日本軍は山砲で吹き飛ばした為,やっとD中隊の生き残りの士官が降伏を決断しました.
23日と翌24日,日本軍は香港島中部の陣地を固め,同時に西部旅団の残存部隊を北部のヴィクトリアと南部のアバディーンを結ぶ線まで,ウォリスの部隊をスタンレー刑務所付近まで後退させることに成功しました.
25日のクリスマス,日本軍は3度目の降伏勧告を行いますが,英国側は三度拒否しました.
昼過ぎ,日本軍が東西両戦線で総攻撃を開始し,英国側の弾薬やその他装備の備蓄が次第に欠乏していき,それに比例して守備隊の死傷者は増加していきました.
15時にはモルトビーは遂に白旗を掲げ,ウォリスの下に降伏を命じる為に小部隊を派遣しました.
これにより,香港での組織的抵抗は影を潜めますが,小規模な戦闘は26日朝まで,その後も散発的な銃撃戦が続き,やっと香港の戦闘は収束しました.
彼ら英国軍,カナダ兵達にとっては,これが終わりの始まりでした.
その後,捕虜生活が4年間に亘って続き,その間に死亡した兵の数は,香港攻防戦での死者数を上回りました.
1941年10月にカナダを後にした将兵1,973名の内,終戦までに4分の1に当たる555名が帰らず,また,帰国した者も多くが心身を病んでおり,その多くが終戦後,何年もしないうちに短い生涯を終えています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/08/12 23:08
【質問】
香港攻略戦の際,日本兵を悩ませた事とは?
【回答】
都市生活というものに慣れていない兵が多かったので,色々と齟齬を生じた.
例えば,市街戦の最中,ある建物の中に突入した部隊が,ゾロゾロ外へ出てきた.
不思議に思った後詰の兵隊たちが聞いたら,
「中に入ったら急に寒くなったので気味が悪くなった」
・・・彼らはクーラーを知らなかった.
首尾良く占領後,現地のホテルを兵舎として接収したときは.部隊ごとに部屋を割り当てて分宿したものの
1,オートロックを知らず,部屋から締め出されて廊下をうろうろする兵隊が続出.
2,スコッチの味を覚えた兵が,凝ったデザインの瓶に入った琥珀色の液体を飲んで下痢続出.
そりゃあ「シャネルの5番」なんかを一気飲みすりゃあねぇ(それとも「夜間飛行」? ア,「プワゾン」だったりして).
3,「西洋の石鹸は質が悪い.泡が立たん」と文句を言いながらチーズで体を洗うヤツ続出.
ちなみに浴槽は当然日本式じゃない.
そこへ一杯にお湯をはって4人5人と一斉に入ったものだから,あふれてカーペットは全滅,
更に下の階までダダ漏れ.
1968年のチェコ『プラハの春』弾圧で首都制圧に乗り込んできたロシア兵の田舎者ぶりとどっちがヒドイ?
でも,締め出される奴は今でもいるよ(笑)
▼
日米開戦直後の『写真週報』昭和17年1月7日号中面に,香港島占領の生々しい写真
89式擲弾筒を右手に持った手前の兵士は,ライフルの代わりに突撃用に30年式銃剣を握りしめ,背中には背負い袋を回して,胸には被甲嚢(ガスマスクケース)を吊り,前の兵士はタコ脚背嚢に円ピ(スコップ)と上陸用ゴム底地下足袋を結束して…といった典型的な野戦装備.
下の94式軽装甲車のそれぞれのフェンダー上の,丸ライトに掛けた鉄兜もイカします.
もしかして防空用の簡易ノテークのつもり?(笑
よしぞうmaro' in mixi,2007年06月13日14:56
▲
【質問】
第二次長沙作戦とは?
【回答】
第二次長沙作戦は太平洋戦争開戦後,香港攻略軍の支援と,広東へ南下する(かもしれない)中国軍の牽制を目的として『突然』思い立ち(比喩でもなんでもなく),ろくに準備が整わないまま発動されたいます.
作戦開始前,第11軍の中には,
「広州の第23軍(南方へ兵力を抽出していた)を助け,国軍全体の作戦を助けるための”道義の作戦”」
「牽制が目的だから長沙には向かわず,手前の△水までしか行かない」(△=さんずいへんに日)
との噂が広まります.
しかし亀川連隊長は前者の噂について,
「作戦の効果と隷下の将兵の犠牲が吊りあわない場合,将兵への道義はどうなる」
とバッサリ.
そして先の作戦の損害も回復しておらず,物資の集積もなく,後者の噂を聞いてた日本軍は作戦開始早々に弾薬,食料が尽きかけてしまいます.
さらに中国軍の後退を見た阿南中将は追撃を決意.
先の作戦で落とせなかった長沙攻略を命じてしまいます.
(この後退は作戦で,実際には日本軍を誘引して包囲撃滅する計画だった)
その為,参加部隊は作戦が進行するにつれ,弾も食料も乏しくなり,反転を命じられる頃には優勢な中国軍の攻撃を受け,被害甚大という状態.
最終的には追撃を振り切りますが,敗走になってしまいます.
連隊長の副官山崎大尉は
「なぜ長沙を奪(と)りに行ったのか,オレにもわからん.魔がさしたんだろう!」
と回想しています.
詳しくは,『長沙作戦』(佐々木春隆著,光人社NF文庫,2007.9)を参照されたし.
グンジ in mixi,2007年11月10日16:46
青文字:加筆改修部分
【質問】
開戦時の,マレー方面における双方陸軍兵力は?
【回答】
イギリス側戦力
インド第9師団,インド第11師団,オーストラリア第8師団,マレー旅団2個
増援
イギリス第18師団,インド第44旅団,インド第45旅団
日本側戦力
第5師団,第18師団,近衛師団,第3戦車団
.
インド師団ですが,結構馬鹿にする人もいますけど,歩兵大隊の3分の1はイギリス本国の部隊ですし,グルカ兵等も含んでいますのでなめられないと思います.
現に北アフリカでも結構がんばっているし,ドイツとまではいかなくとも,イタリアよりは強いんじゃないでしょうか.
もっとも,マレーのインド師団からは,部隊の新編のため,一部の熟練兵がインドに帰国してしまっていたとも言うので,後のインド師団に比べればやや劣っていたでしょう.
オーストラリア第8師団は精強とされ,実際にも活躍していましたが,マレーには2個旅団のみが派遣されていたようです.彼らの牛肉の消費量はアメリカ兵に匹敵したといいます.(だからどうした)
イギリス第18師団は本国部隊であり,日本軍師団の戦闘力を欧州と比較するよい指標と成りますが,到着時には既にマレー旅団以外の友軍は大打撃を受けていたため,罠にはまりに来たようなものでした.
尚,マレー戦にはイギリス戦車は参加していなかったようですが,(キャリアーを除く)シンガポールには間に合ったとも聞きます.詳しい人教えて下さい.
日本軍ですが,第5師団は常設師団として精鋭であり上陸作戦の訓練を十分に積んでいたそうです.
また,この時期には未だ4個連隊編成で強力な歩兵戦力を持ち,自動車化されていたようです.
第18師団は日中戦争中に編成された特設師団で,第5師団よりはやや劣るかも知れませんが,実戦経験豊富な精強部隊です.この師団は3個歩兵連隊編成に改められていて,分離された連隊は川口支隊の母体となっています.
そういえば師団長はあの牟田口中将ですが,師団長レベルとしては勇敢な将軍といっていいかも知れません.
近衛師団は,全国から優秀な兵を集めて編成された常設師団です.実戦向きではないと言う人もいますが,日中戦争での近衛混成旅団の働きから考えて,十分に使える師団だと判断できます.マレーには,2個連隊のみが参加しました.
第3戦車団は関東軍から抽出された戦車連隊3個からなっており,九七式中戦車と九五式軽戦車を装備していました.軽戦車は別としても,九七式中戦車は対装甲火力以外は一応当時の水準に達しており,イギリス戦車が殆ど不在だったことを考えれば,かなり有力な戦力だったはずです.
まあ,制空権はまたもや日本側にあったので一概には言えませんが,第5師団はイギリス師団よりかなり強く,第18師団と近衛師団もやや強いと考えても自惚れでは無いかなと判断しています.いかがでしょうか.
また,シンガポール要塞は良くご存知のとうり陸側には余り厳重ではなかったので,日本軍の攻城能力を判断する基準としては限定された指標に過ぎないと思われます.
それよりは,要塞を避けてマリー半島を縦断する決定をしたことを,珍しく賢明な判断だったと戦略眼を褒めてあげましょう.そんな機会はあまりないから.
【神話】
シンガポール陥落後,山下奉文中将は,パーシバル中将との会見において,テーブルを叩いて「イエスかノーか」と威圧して降伏を迫った.
【事実】
これについて,山下は当時から否定していた.
以下,根拠となる箇所を引用する.
――――――
山下は,まず降伏するのかしないのかはっきりさせたかった.
しかし,何の条件も話し合わずに,いきなり降伏を宣言することは無条件降伏になるので,パーシバル中将はそれを非常な恥辱と考え,まず条件はこうだということを話した.
それが通訳を介して山下に伝えられる.
イライラした山下は後回しだとして,通訳に,
「降伏するのかしないのか,イエスかノーか聞いてくれ」
と言ったのが誤って伝えられたのだというのが真相である.
――――――(森山康平著「秘蔵写真で知る近代日本の戦歴3 マレー・シンガポール作戦」,フットワーク出版,'91,P.154-155)
消印所沢
ある絵葉書にあった,シンガポール陥落記念の後刷りの入った切手と,昭和17年2月16日付けの同記念スタンプ
でも絵葉書自体は大正時代の発行だと思われる,ホイペット戦車とのツーショット絵葉書
この木の倒れ方はわざとらしいかも
よしぞうmaro' in mixi,2007年11月16日01:37
【質問】
シンガポールを占領した日本軍の風紀はどうだったんですか?
【回答】
中公新書の「思い出の昭南博物館」では,英国兵による略奪や地元民による略奪が多かった様ですが,日本軍については,占領直後は兵士単位としての略奪などは無かった様です.
但し海軍将校たちによる,南洋域やインド洋地域の海図の持ち出し,陸軍将校たちによる,南洋域や豪州本土の地誌などの持ち出しはあった様です.
【質問】
シンガポールでの華僑虐殺は,辻政信の仕業なんですか?
「シンガポールを占領した第25軍の河村参郎少将が,山下奉文司令官から華僑の検問を実施し,反日分子とみなされるものは殺すよう命令される.
(1996年にロンドンで発見された河村少将の日記による)」
と,書かれているサイトがあるんですが,山下大将が命令をだしていたのですか?
【回答】
辻〜んが山下将軍の名を騙り命令を発したと言うのが定説でしょう.
詳細は
http://www.warbirds.jp/ansq/5/E2000111.html
を参照してください.
【質問】
鶴田吾郎の油彩画「神兵パレンバンに降下す」の描写で,地上に降りた兵が拳銃を構えています.
これは自然な(リアリティのある)描写といえるのでしょうか?
ビルト
【回答】
落下傘降下のとき,小銃等の長いものは,邪魔になります.
落下傘の紐に絡まったり,着地時にぶつけたりして,人や物が壊れやすいからです.
そういうわけで,小銃を持たず,拳銃のみで降下する兵もいました.
小銃などは部隊でまとめて箱にいれて,それを落下傘降下させ,降下後にその箱を回収して武装するわけです.
しかし,その箱が近くにないときや,箱を見失ったとき,降下即銭湯(原文ママ)の時は,自分の拳銃で戦闘を行いました.(そういうことは,よくありました.)
後に,持ったまま降下できるよう,短く折りたためる小銃が作られました.
旧日本軍では二式小銃なんかがそれです.
最近の空てい部隊も,ストック折りたたみ式の小銃を使っています.
極東の名無し三等兵
そしてパレンバン降下作戦の際も,兵員と装備を別々に投下しました.
その結果は,装備と兵員とが生き別れ.
そのため降下兵は,携帯兵器である拳銃と手榴弾だけで戦わざるを得ませんでした.
蘭印軍の士気がもう少し高ければ,パレンバンは占領できなかったかもしれません.
消印所沢
▼ もう相当昔になりますが,私が整備関連の業務をやっている時に,第一空挺団が銃身の曲がった62式機関銃を持ち込んだことがあります.
なんでも降下訓練の際に,機関銃の上に隊員が尻から降下したのだとか(笑)
華奢とはいえ機関銃の銃身ですから,よもやくの字になるまでまで曲がるとは思ってもいませんでした.
話を聞くと,その時は普通に物資投下してとか.
そういうことがあるのを知っていた旧軍あたりは,そういう対策をきっちりやっていたのでしょうかね.
・・・今の空挺団が対策を採っているかどうかは確認していませんが,アレ以来そういう銃が整備に来たことがないので,何らかの対策は採っているんでしょうね.
え・・・? 隊員の尻はどうなったかって?
精鋭第一空挺団の隊員は打ち身だけだったと言っていました・・・
本当か見栄かは怖くて確認できませんでした(笑)
▲
▼ ちなみに,藤田画伯の描いたパレンバン降下には,軽機関銃を撃つ兵士の姿が見られる
(よしぞうmaro' in mixi,2007年08月11日17:38より引用)
……が,史実に即したものかどうかは不明.▲
【質問】
第二次大戦のビルマ戦線に関しては,どの本がお勧めですか?
【回答】
自分が読んだことある本.
地獄の戦場 泣きむし士官物語
新米工兵士官の話.インパール失敗後の,撤退道中の話がメイン.
戦場でもお金が物を言うのを初めて知った.
ビルマ航空戦 上下
航空戦に興味あるなら.連合国側の資料も付き合わせた労作.
ビルマ軍医戦記−地獄の戦場狼兵団の戦い
個人史という感じであまり面白くはなかった.
遥かなインパール
小説っぽいというか,戦記小説.
最悪の戦場に奇蹟はなかった
題名見ると鬱になりそうだが,中身は突き抜けてハイテンション.
悲惨な描写が続くが,アメ公ぶっ殺してやるぜ!ヒャッホォォって感じ.
軍事板,2009/12/19(土)
青文字:加筆改修部分
【質問】
『ビルマの竪琴』はフィクション? ノンフィクション?
【回答】
フィクション.
著者の竹山道雄(1903〜1984)は,ドイツ文学者で,ビルマ戦線従軍経験はおろか,兵役経験すらない.
戦時中は第1高等学校(現在の東京大学教養学部)の教授だった.
「何も知らないで書いたのですから,間違っている方が当然なくらいです.
たとえば,坊さんの生活などは何も分かりませんでした」
と,竹山自身も書いている.
ちなみに彼は,三国同盟には反対しており,同盟が結ばれようとする直前の1940年には,全体主義国家の非を衝く論文,
「ドイツ,新しき中世?」
を書いている.
竹山の他の活動としては,戦後1950年代に,スターリリズムへの疑念を表明したり,「アルプスの少女ハイジ」を訳したり.
2011/07/22
【質問】
ラシオ空挺作戦について教えてください.
【回答】
第二次世界大戦において,日本軍陸軍の初空挺降下作戦であるパレンバン空挺作戦は,成功の内に終わりました(注)
その後,空挺作戦は,ラシオ空挺作戦が立案され実行に移されました.
この作戦は,敗走する敵軍を包囲するため,ラシオに部隊を降下させ,これを追撃していた第56師団と合流し,包囲殲滅するのが主目標です.
この作戦においては,ラシオ付近に空挺降下させるのではなく,敵飛行場に強行着陸を行い,滑走路を占拠.
次に後続が空挺降下し,敵飛行場を奪取するという壮大な計画でした.
着陸は当初は胴体着陸の予定でしたが,飛行部隊から,胴体着陸だと滑走路を封鎖してしまい,着陸の際に支障をきたすと言う意見が出たことから,胴体着陸は辞めて,通常通りの脚を出しての着陸という案に落ち着きました.
強襲着陸機に欺瞞として,イギリス軍の識別マークを塗って置くのも考案されましたが,時の挺進連隊の団長である久米団長の,
「そのような卑怯なことはいかん」
という鶴の一言で,この欺瞞行為は取り消されました.
このラシオ空挺作戦は,悪天候のため降下できずに引き返した所,第56師団が自力でラシオを占拠してしまった(1942年4月末)ため,作戦はお流れになりましたとさ.
(注) 第一攻撃部隊が降下し飛行場を完全占拠,第2攻撃部隊は空挺降下させなくとも,飛行場へ着陸することも可能でした.
しかし第2攻撃部隊にもパレンバンに降下したという栄誉を与えたいという連隊長の配慮により,空挺降下しています.
CRS@空挺軍 in mixi,2010年10月10日22:31
青文字:加筆改修部分
【質問】
泰緬鉄道の建設では多くの現地人と捕虜が死亡したそうですが,あの鉄道に,そこまでするに値する価値があったんでしょうか?
【回答】
タイとビルマの間を海上輸送するとなると,大きくマレー半島を迂回しなければなりませんし,その間,通商破壊により,船舶が撃沈されてしまうリスクも大きいです.
また,船舶輸送は大きな輸送力がある反面,速度が余り出ませんから,時間が掛かります.
従って,タイとビルマを短絡する鉄道を敷設した方が,マレー半島大回りより時間が短縮出来ますし,戦闘に対する被害も貨車,機関車はある程度現地調達出来ますし,機構的に複雑なものでもありません.
総合的に見て,効果があると認められた訳です.
勿論,戦時中という時代相もあったのでしょうが.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/04/20(水)
青文字:加筆改修部分
【質問】
長沙作戦について教えられたし.
【回答】
これについては,『長沙作戦 緒戦の栄光に隠された敗北』(佐々木春隆著,光人社NF文庫,2007.9)という本があります.
作戦期間中,最前線で戦い続けた著者が作戦の推移を記した一冊です.
太平洋戦争開戦時,香港攻略軍の支援を目的に(した筈だった)実施された(第二次)長沙作戦.
著者は二度の長沙作戦を第40師団歩兵第236連隊の一員として連隊長の亀川大佐の近くで従軍しています.
ちなみに陸軍に入った経緯は,力試しの積もりで陸士(予科)を受験(これも実は口実で,ホントは熊本へ遊びに行くのが目的だったと書いている)したら,ちょうど日中戦争による軍拡期にぶち当たっていた為に合格.
本人はその気は無かったのに,家族や周囲がお祭り騒ぎになってしまい,父親の
「今さら断れない.南京が落ちれば戦争は終わる」
との意見で入学しました.
(なんか,現代にもありがちな話だ(笑))
(士官学校時の交友や赴任後の初陣,討伐作戦のエピソードも面白いのだが省略)
第一次長沙作戦は長沙方面の中国軍を撃滅,重慶政権を動揺させ,転覆や和平を強要させる事が目的でした.
しかし,対米戦への兵力転用の為に作戦規模が縮小され,結果的にこれまでのピストン作戦(敵の攻勢の機先を制して出撃,敵戦力を撃破して占領地域の安全と敵の戦意喪失を図る)になってしまいます.
(大本営や支那派遣軍からは中止論も出ますが,第11軍の阿南中将は,兵力削減前に打撃を与えなければ自活自存できない,として作戦を決行)
第40師団は作戦序盤に百羊田で不期遭遇戦が発生,その後の行動に齟齬が生じますが,全体に影響を与えるほどではなく,作戦は終了.
作戦目的を果たせたわけでもなく,また早めに切り上げた事などもあり,これらが第二次長沙作戦の(苦戦の)伏線になっていきます.
第二次長沙作戦は太平洋戦争開戦後,香港攻略軍の支援と,広東へ南下する(かもしれない)中国軍の牽制を目的として『突然』思い立ち(比喩でもなんでもなく),ろくに準備が整わないまま発動されたいます.
作戦開始前,第11軍の中には,
「広州の第23軍(南方へ兵力を抽出していた)を助け,国軍全体の作戦を助けるための”道義の作戦”」
「牽制が目的だから長沙には向かわず,手前の汨水までしか行かない」
との噂が広まります.
しかし亀川連隊長は前者の噂について,
「作戦の効果と隷下の将兵の犠牲が吊りあわない場合,将兵への道義はどうなる」
とバッサリ.
そして先の作戦の損害も回復しておらず,物資の集積もなく,後者の噂を聞いてた日本軍は作戦開始早々に弾薬,食料が尽きかけてしまいます.
さらに,中国軍の後退を見た阿南中将は,追撃を決意.先の作戦で落とせなかった長沙攻略を命じてしまいます.
(この後退は作戦で,実際には日本軍を誘引して包囲撃滅する計画だった)
その為,参加部隊は作戦が進行するにつれ,弾も食料も乏しくなり,反転を命じられる頃には,優勢な中国軍の攻撃を受け被害甚大という状態.
最終的には追撃を振り切りますが,敗走になってしまいます.
連隊長の副官山崎大尉は
「なぜ長沙を奪りに行ったのか,オレにもわからん.魔がさしたんだろう!」
と回想しています.
阿南中将は従事武官を務め,後に陸軍大臣を務めるので優秀な人物だろうし,第一次の作戦前に巡視を行った際,著者が警護に当たった時の話から考えても優れた人格者なんだろうけど,実戦の能力や作戦面ではどうなんだろう?と考えてしまいます.
著者は
「積極果敢を心情とした古武士的風格と,統率力を備えた勇将ではあるが,精神至上主義な所があり,ついていけない面もあった」
と評しています.
一方で亀川連隊長は部下の命を惜しみ,人格にも優れてるし(しかし締めるところはシッカリ締めてる),日本軍の指揮官には珍しく「戦闘は火力」を信条にしてます.
(著者が連隊旗手(兼幹候教官)を申告した時,火力重視の教育を行うように,といわれています)
筆者いわく「非凡な凡人」で,仕えた四人の連隊長の内で最も優れた人物だそうです.
読んでいて面白い,お勧めできる一冊です.
グンジ in mixi,2007年11月10日16:46
【質問】
うちの祖父は日中戦争中に南支にいたって言ってたんですが,南支って今でいうどの辺?
また,そこではどんな戦闘が行われてたの?
【回答】
北支,中支,南支と三つに割り振る場合は,主に長江より南の地域を指します.
支那事変緒戦の上海,かの有名な大陸打通作戦等が有名です.
米軍が設置した飛行場が数多くあり,本土爆撃や南方航路への通商破壊の拠点となっていた為に,しばしば作戦目標となっています.
ほぼ,日本軍が優勢な地域でしたが,流石に末期になると押されて随分と悲惨な事に.
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