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ノモンハンでの実戦写真
裏書きの「秋風に硝煙にほふハルハ河」には,痺れました

よしぞう(maro') in mixi,2006年09月24日20:12


 【link】

「おおやにき」:草原へ(1)

「おおやにき」:草原へ(2)

「おおやにき」:草原へ(3・完)

『ノモンハン事件 日ソ両軍大激突の真相』(越智春海著,光人社NF文庫,2012/4/30)

 読んでいていささか辟易するのが,作品全体に漂う強い糾弾口調.
 辻~んを筆頭に,舌鋒鋭く「日本陸軍という組織そのもの」を叩き続ける内容は,正直に言えば平成24年に読む内容じゃないな,と.
 今の我々が読みたいのは,ソ連側資料も含めた,包括的な「ノモンハン事件」の推移で,今さら「日本陸軍こそ諸悪の根源」とか言われても困る.

 んで,よくよく見ると,本作は平成5年に発行された「ノモンハン事件」(図書出版社)の,文庫採録版なのね.
 同級生がことごとく戦争で死んだのでは,そりゃあ糾弾口調にもなるか.

------------軍事板,2012/05/19(土)

『ノモンハン戦争 モンゴルと満州国』(田中克彦著,岩波新書,2009.6)

ノモンハン前夜が明らかになる < k-kana

『ハルハ河会戦 参戦兵士たちの回想』(O・プレブ編,恒文社,1984.11)

 本書「日本の読者のために」によれば,モンゴルの一般民衆の間に前線へ手紙を送る習慣は,この戦いをきっかけに根付いたのだとか.
 そうした文化事情と政治的配慮からか,回想の語り手はいずれも高級将校で,文章も「政治的修飾語過多」だが,希少性から即買い(笑)

――――――軍事板

 【質問】
 良いノモンハン本,悪いノモンハン本を教えてください.

 【回答】
 古是『ノモンハンの真実』は良い本.

 小田洋太郎・田端元『ノモンハン事件の真相と戦果』は,日本軍大勝利のトンデモ本.
 死傷者数を除いては,基本的に日本側推定戦果の積み上げでしかないのに,ソ連崩壊で出てきた秘密資料と称して,日本軍圧勝を主張する.

 玉田美郎『ノモンハンの真相』(原書房,1981)は,現場にいた戦車連隊長の回想で一級史料.
 古是含めいろんな本で使われてる.

軍事板,2010/04/18(日)~04/19(月)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ノモンハンでの日ソの戦術を,比較しながら書いた本ってありませんか?
 ノモンハンの経過をつづった本も,一緒に教えてくれると嬉しいです.
 半藤なんとかって人のしかないから,色々な角度から見てみようかなーって.

 【回答】
今,タイムリーに歴史群像で特集している(2011-8号).

 これを読んだ後,以下を押さえておけば基本にはなるのでは.

ノモンハン戦車戦

ノモンハン1~4

ノモンハンの真実

 ノモンハン事件に興味を持ったけど,クックスはちょっと重いという人には,半藤『ノモンハンの夏』が,入手しやすくて,オーソドックスな通説を知るという意味では悪くない.

 個人的なお勧め入門書は,水嶋「日中戦争とノモンハン事件 : 太平洋戦争への道」(第一書房)

 グラスノスチの恩恵にはあずかってないやや古い本だけど,牛島「ノモンハン全戦史」ってのも良い本なので,もし手に入れば.
 通史としてはクックスの方が詳しいけど,元軍人の著者の戦術評が入ってて参考になる.
 満州国軍関連の記述も,ほとんど蘭星会「満州国軍」の焼きなおしではあるが,詳しい.

 越智「ノモンハン事件」も,著者が元軍人なので,参考になるかもしれない.

 航空戦関連では,「ノモンハンの真実」に加え,ネディアルコフ「ノモンハン航空戦全史」を勧める.

 ここからさらに発展するなら,お決まりの戦史叢書のほか,読売新聞「昭和史の天皇」や玉田「ノモンハンの真相」なんかも良い.
 前者は一次史料が豊富.
 後者は,戦車第4連隊長として現場にいた人の回想.

 なお,星亮一「ノモンハン事件の真実」と,小田・田端「ノモンハン事件の真相と戦果」は,いずれも酷い本なので勧めない.

軍事板,2011/07/26(火)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 『詳解独ソ戦全史』(デビット,M,グランツ)を読んでいるんだけど,この本のデータの精度は高いの?
 ノモンハン戦で赤軍が戦死8千負傷1万5千で合計2万3千名,日本軍が死傷・捕虜総計で6万1千名てあるんだけど.
 ・・・なんかコレ,酷使さんが暴れそうだな.

 【回答】
 ソ連側史料を使ったっていうのがセールスポイントな本.
 都合が悪くて旧ソ連が未公開にしていた史料が多く使われてる.
 しかも,使った史料や引用に関する部分には全部,注が付いてて元史料を辿れるようになってる.
 だから,箇所によってはデータが古いところも有るけれど,全体としての信用度は高い.
 各部それぞれで検証するのが良いと思うよ.

 もっとも,捕虜がゼロに近いことを考えると,日本軍の損害6万人はさすがにないと思う(笑)
 日本側の損害は日本の資料の方が正確.
 ノモンハンに関しては動員記録がしっかり残ってるんで,日本側の数値は自軍に関しては,それなりに信頼できる.
 大本営発表のいかがわしさに辟易するのは分かるけど,発表した値とは別にしっかり統計を残しているから,日本の記録が万事アテにならない訳じゃない.
 特に人馬やモノの動員に関しては,戦時下といえどもなあなあで済まないんで,正確な数値が戦後まで残っている.
 この辺は,地方史をやってる人ならよく分かるはず.

 ちなみにマクシム・コローエツの『ノモンハン戦車戦』だと,
ソ連第一軍集団司令部集計で,日本軍損害52000~55000名,戦死22000~23000名.
関東軍司令部集計で,動員75736名,戦死8632名,負傷9087名.

 ソ連側被害は当時のジューコフの作戦結果報告書は戦死3279名,負傷15265名.
 「最新の資料」だと(笑),戦死,行方不明,事後の死亡で9703名,負傷15952名.
 モンゴル人民革命軍は556名損失.うち,165名戦死.

 この本は,兵器の損害や鹵獲のリストは詳細なんだけどねえ…

軍事板,2009/07/05(日)~07/06(月)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
『ノモンハン戦争 モンゴルと満洲国』(田中克彦著,岩波新書,2009.6)
 この著者の本業は言語学とモンゴル研究だけど,読んだ人いる?
 今までのノモンハン関係の本と比べて,「ここが新しい」「これは違うんじゃないか?」というところがあれば聞かせてほしい.

 【回答】
 ノモンハン関係には色々首を突っ込んでる人だね.
 基本的に冷戦期の日本軍惨敗説から脱却できてないところがある.
 といっても,ソ連を支持するような共産主義に夢見てる人ではない.

 内容は,大国に挟まれた小国モンゴルかわいそかわいそという本だったと思う.
 満蒙間の満州里会議のわりに詳細な解説や,モンゴルの粛清事情が面白いが,ちとモンゴルに肩入れしすぎで,当時のモンゴルの自立努力を過大評価してる感じがした.
 あと,辻参謀の悪行など不確かな話を,安易に信じすぎな気もした.

軍事板,2009/10/26(月)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ノモンハン事件(1939年)は何で「事件]なんていう軽い呼び方なんでしょうか? 双方,飛行機や戦車を出し合った本格的な戦争だったのに.
 それから,戦闘の終結後,ノモンハンの敗戦の責任がどうもウヤムヤになったような気がするのですが,辻政信参謀などはどういう処分を受けたのでしょうか?

 【回答】
 「宣戦布告」がなされていないので,「戦争」ではなく,「事件」なのです(注:異説あり).
 当時の国際法では,「戦争」とそれ以外の武力紛争について,扱いが色々と異なっていました.

 辻政信(辻~んと呼ぶ方が軍板的には◎)参謀は一応,若干の閑職扱い(在漢口の第11軍司令部付,在南京の支那派遣軍総司令部付)を経たのち,台湾軍研究部員として南方作戦の検討に参加,参謀本部作戦部に返り咲いています.
(ただし,ガダルカナルとか「断」作戦で尽く立案作戦が失敗して左遷され,バンコク第十八方面軍作戦課長という閑職に回されました.
 辻~んの能力については,こちらも参照されたし.⇒http://www.warbirds.jp/ansq/5/E2000111.html

 第一線の連隊長クラスは,自殺の強要,退役など,過酷な処分を受けています.

 【質問】
 ノモンハンの際に最前線の兵を率いた中隊長クラスの方々も,戦闘終結後,半強制的に自決させられたようなのですが,あまりにも処分のバランスが不公平なように思えるのですが?
 ガダルカナルにしてもインパールにしても,参謀は左遷で済まされるんだったら,白骨街道で餓死していった英霊達は浮かばれないだろうなぁ...
 【回答】
 下に厳しく,上には甘くってのは,日本の組織の伝統ですから.
 今でも完全に払拭されたとは言えない.

 ちなみに,戦後辻ーんが行方不明になったとき,軍服とか軍刀を競売に掛けて捜索費用に充てたんですが,日本戦没者遺族会が殆ど買取って,軍服焼いたり軍刀ブッ壊したりしたとか.

 【質問】
 ノモンハン事件での,日ソ両国の戦略目標は?

 【回答】
大日本帝国:
 満蒙国境線をハルハ川とし,満州領内に侵攻せる蒙古軍及びソ連軍を撃退すること.

ソヴィエト連邦:
 満蒙国境線をノモンハンとし,蒙古領内に侵攻せる日本軍を撃退すること.

軍事板


 【質問】
 ノモンハン事件の結果は?

 【回答】
 日本軍はジューコフ元帥の八月攻勢を支えきることができず,第23師団の潰滅を始めとする多大な損害を被った.
 8月29日までにソ連軍は自ら主張する国境線内にある日本軍を完全に駆逐した.

 8月23日に第23師団が潰滅,同日に独ソ不可侵条約が締結されたことから,日独同盟を模索していた日本政府(陸軍)は対独関係及び戦闘での大損害等を鑑み,これ以上の作戦実施は困難と見て,作戦中止を決定した.
 9月1日,独のポーランド侵攻が開始されたのもこれに拍車をかけ,9月15日モスクワで休戦協定が締結された.

軍事板

停戦

遠吠えするいぬ in mixi支隊


 【質問】
 すいません,こういうブログを見つけました
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-577.html

 スターリンがドイツに,ノモンハン事件の停戦仲介を頼んだというのは本当のことなんでしょうか?

 もしソース等もあれば教えて下さい.

2010年03月22日 19:19,島の人

 【回答】
 わたしもこういうブログを見つけました.
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/41703279.html

 『ノモンハン事件の真相と戦果―ソ連軍撃破の記録―』という本をどうやら要約しているのかと思われるのですが….
 本の方も未見でして,何とも言えないところが多いのですが,そのブログ記事には,日を追って,さもスターリンがドイツへ日本に対する影響力を行使するように求め,ドイツがそれに応えたかのような記述があります.

 ただですねえ,こちらが発見したブログにある,ソ連とドイツの交渉過程が本当だったとしても,ドイツが本当に日本に対して影響力を行使したかは,はなはだ疑問です.

 39年8月23日に独ソ不可侵条約が成立し,「欧州情勢は奇々怪々」の名(?)台詞を残して,平沼内閣は総辞職に追い込まれる訳ですが,総辞職前の8月25日に,ノモンハン事件渦中の独ソ不可侵条約を日独防共協定違反だと見なして,日独同盟交渉の中止を閣議決定してるんですね.
 これで,翌40年9月の三国同盟締結まで,1年も日本とドイツの同盟交渉は先送りされる羽目になった.

 ドイツが本当に日本に停戦の働きかけをしていたら,こんな不始末はありえんでしょう.

2010年03月25日 12:39,ソフトヒッター99

 こんなのありました.
http://www2.tba.t-com.ne.jp/dappan/fujiwara/article/nichidoku01.htm
http://www2.tba.t-com.ne.jp/dappan/fujiwara/article/nichidoku02.htm

――――――
佐藤
 それはノモンハン事変の時の話で,内容はこんな具合です.
「私(注.大島浩)は陸軍出身でもあり,外交暗号に関しての外務省との取り決めで,同時に陸軍からの情報も受け取っていました.
 ノモンハン事変に関して陸軍からの暗号電報は,一貫して日本軍の優勢を伝える内容でした.
 その頃のリッペントロップは未だ外相ではなくて,ナチ党の外交委員長であり,日本人使館の近くに事務所を構えていたので,三国軍事同盟の草案をもらったりして親しく付き合っていました.
 彼がよくノモンハンの状況を訊ねたので,まさか陸軍が私に嘘をついていたとも思わなかったから,日本側が圧倒的に有利だという情報を提供しました.
 そのうちヒトラーの特使として彼のモスクワ行き決定の発表があると,直ぐに東京から暗号電報がきて,リッペントロップの訪ソにあたって,一種の停戦を提案させるようにとの依頼です.
 そこで彼に会ってその旨申し入れると,あなたが言うことだし,日本軍が有利なら話は至って簡単だということで,気軽に引き受けてくれました」.

藤原
 一九三九年〔昭和一四年)は世界史にとって大変キナ臭い年で,五月に起きたノモンハン事件は八月二〇日にはジューコフ元帥麾下の赤軍機甲師団により,関東軍は小松原師団全滅の惨敗です.
 服部卓四郎中佐や辻政信少佐などの作戦参謀が,幾ら強がってみたところで大勢は大負けだった.
 ところが,陸軍はベルリンの日本大使館には,虚偽の情報を送ったのですか.

佐藤
 そういうことだったらしいです.

藤原
 八月一九日にベルリンで,独ソ通商協定を結んだあと,モスクワに飛んだリッペントロップはなんと八月二三日には独ソ不可侵条約を調印しています.
 そして,九月一日にはドイツの機甲師団がポーランドになだれ込み,第二次世界大戦が始まって大変重要な時期でした.

佐藤
 リッペントロップは喜んで仲介を引き受けてモスクワに飛びしかも,スターリンとポーランドを山分けして,不可侵条約を手みやげにベルリンに戻って来ます.
 大島大使が,仲介の件はどうだったかと打診したところ,話は全く逆で,自分は面目を失ったと言われたとか.
 リッペントロップがスターリンにノモンハンの停戦の話を持ち出したところ,執務室の壁に貼ってある大きな極東地図の前に引っ張っていき,微に入り細にわたって戦況を説明したのです.
 総ての報告を軍部から正確に受けていることは疑いなく,スターリンの説明は実に明白で,リッペントロップも眼を見張ったほどらしい.
――――――

・・・加瀬俊一だったかの本で読んだような気もしますが.

 ちなみに対談者の藤原肇さん
http://www2.tba.t-com.ne.jp/dappan/fujiwara/fujiwara.html

――――――
 1938年に東京の神田で生まれた江戸っ子.
 十代は文学少年として教養小説に耽溺したが,次第に岩登りに熱中するようになり,その頃の記録は「山岳誌」(東明社)の解説に詳しい.
 埼玉大学で地質学を専攻した後で,フランスのグルーノーブル大学に学び,アルプスの構造地質学を修めた理学博士.
 札幌市のオリンピック代表や,グルーノーブル市のオリンピック・アタッシェを歴任.
 アフリカや中東やヨーロッパの大陸棚の石油開発を体験した後,カナダに移住して北極洋の石油開発を幾つかの多国籍石油企業で担当し,四十代の人生の始まりと共に石油コンサルタントとして独立する.
 米国のカンサス州に進出して石油開発に従事したことは,「地球発想の新時代」(東明社)にある通り.その後はビジネスから半ば引退して,国際政治や経済の動きを注目しながら,フリーランサーに近い活動をしている.
――――――

 ・・・ペンネームは「落合信彦」ですね?(笑)

2010年03月25日 13:53,ぴぴ

 記憶があやふやだが,確か,奥菜秀次の本のどれかの中で,ノビーを一笑に附していたのが藤原肇.

以上,「軍事板常見問題 mixi別館」より
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ノモンハン事件で,ノモンハン近くの国境線は日本側に不利になったけど,宮崎連隊が活躍したおかげで,別の地域では日本側に有利になったと聞いたのですが,結局,どっちが土地の勘定では得をしたのでしょうか?
 別に,日本側が多かったなら日本の勝ちとか,そういう主張ではないです.

 【回答】
 秦郁彦は,ノモンハン付近でモンゴルが得た領土と,モンゴル側が失ったとする領土「500平方キロ」を比べて,「差し引きすれば大差ない」とします.
(秦「昭和史の謎を追う」)

 ただ,この本に載ってる地図を見た限り,日本側が占領した面積が500平方キロもあるようには見えず,ノモンハン付近で失った部分のほうがずっと大きく見えるような.

 日本側が得たのは,下の地図の右のほうで国境が川に接するあたりと,地図の表示範囲外の右下のあたりいくらか.
 ざっと探したところでは,ネットではいい地図が見つかりませんでした.

http://homepage2.nifty.com/ijn-2600/File-nomunkhan1.jpg

◆yoOjLET6cE in 軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ノモンハン事件時の日ソ両軍の物量の差は,どこに起因して生じたのか?

 【回答】
 ノモンハンで戦った日本軍師団の火器と言えば,速射砲16門,迫撃砲,重砲,高射機関銃,高射砲は全くありませんでした.
 と言う事は,ソ連の狙撃兵師団と対峙した場合,圧倒的な重砲火力で一方的に叩かれるのは目に見えている訳です.

 ノモンハンの前の張鼓峰事件の場合を例に取ると,ソ連軍は狙撃兵師団は第32,40の2個師団,第59国境警備隊,機械化第2旅団第2大隊に加え,航空部隊を投入しました.
 参加兵力は兵20,000名,砲100門,戦車230両,更に航空機が加わります.

 一方の日本軍は,第19師団のみで,兵7,000名,砲37門,戦車,航空機無し.

 これはソ連側が航空機の支援の下,徹底的な火力殲滅主義を取ったのに対し,日本は一撃作戦と夜襲と白兵戦による銃剣突撃を主とした為,結局,日本軍は一方的な敗北を被った訳ですね.

 これが曲がりなりにも外交決着した後,日本軍は,漢口作戦を1年繰上げ,満洲から主力部隊である第110師団,騎兵集団司令部,騎兵第1,4旅団を駐蒙軍や支那方面軍に移動し,代わって新設部隊の阿城重砲兵連隊,第23師団,第4軍を新設し,第104師団を移駐させ,戦力的には可成りの低下を来しています.

 一方のソ連軍は駐蒙軍司令部新設を脅威と見なし,外蒙古に駐留する兵力を増強し,第57軍団司令部,第36狙撃兵師団,第1戦車旅団を派遣します.
 更に1939年には臨時赤軍野外教令を改正し,戦場を敵領土内に求め,敵を完全に撃滅する為の火力殲滅主義作戦を展開する方策を採ります.

 これに対応する日本の考えは,例の辻ーんが立案した満ソ国境紛争処理要綱で,敵が攻めてきたら初動を叩く為に一撃を食らわせて,敵を追う為に一時的に国境を越えるのも厭わないとした一撃作戦の速戦即決の考えで,短期決戦を志向していました.

 ソ連側はGeorgii K. Zhukovを第57軍団長に任命し,それを第1軍集団に再編,その中に第36,57,86の各狙撃兵師団,第1,6戦車旅団,第7,8,9装甲自動車旅団,第212空挺旅団,砲兵部隊,兵站部隊を含み,これらを以て,日本軍の荻洲立兵中将を司令官とする第6軍配下の第23師団,第8国境警備隊を総攻撃する体勢を整えます.

 日本側の対ソ戦計画は,八号作戦計画として甲案,乙案の二つが提案されます.
 前者は,ウスリー川と黒竜江州方面のソ連に対する同時二正面攻勢作戦と大興安嶺方面の敵撃滅作戦,後者は,主力を以て,ザバイカル方面で敵を殲滅するものです.
 流石に,二正面攻勢作戦は逆包囲に遭う危険性が高いと考えられ,乙案を採用し,主戦場をホロンバイル方面に設定しました.

 この方面を設定した場合,日本側の補給は,哈爾浜→斉斉哈爾→海拉爾と鉄道で来て,海拉爾とノモンハンの間の200kmは,トラックか輓馬の何れかで運送するとしているのに対し,ソ連側はシベリア鉄道のボルジヤ→サンペースまでの350km,更にサンペース→タムスク→ハルハ河の間が450km,合わせて800kmとなって距離は日本側の3.5倍以上となります.

 と言う訳で,日本を規準に考えると,そんなに大量に物資を運搬する事が出来ないだろうから,大量の兵力を展開出来ない,そして,短期間の戦闘で終わるであろうと考え,乙案すらお蔵入りしてしまう訳です.

 ところがその想定戦場にGeorgii K. Zhukovは,台数が充実したトラックを充てました.
 Georgii K. Zhukovが本国に要求した補給物資の数量は,砲兵の弾薬が18,000t,航空機用の爆弾,機銃弾6,500t,各種燃料,潤滑油15,000t,食料4,000t,燃料7,000t,資材4,000tで,これらを輸送する為に,トラックを3,500台,タンクローリー1,400台を必要としました.
 しかし,手元にはトラックが1,724台,タンクローリー912台しかありませんでしたので,増加を要求し,トラックは更に1,250台,タンクローリー75台を追加配備されています.
 これでも,その補給物資を輸送するのには十分ではなかったりしますが,曲がりなりにもシベリア鉄道から送られてくる物資を,戦場に運ぶ後方補給線を確立させる事に成功しました.

 この努力が実って,関東軍や参謀本部が想定外としていた,ノモンハン地域への大兵力集中と,総力戦による第6軍壊滅に繋がっていく訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2008年01月22日22:53


 【質問】
 ノモンハン事変でソ連軍が10時間ほど砲撃を続けたという話を聞きました.
 まさか同じ砲を使い続けたわけではないと思いますが,牽引砲の場合,人間/機械の体力的にどの程度の時間ぶっ続けで砲撃が出来るものなんでしょうか?

 【回答】
 ぶっつづけの砲撃の状況による.
 連射速度一杯まで撃つ場合と,試射のように1発,1発狙いを修正しながら撃つ場合とか,砲の大きさにもよる.
 一例だが,100門の砲が,20門づつ,五隊にわかれて,砲撃,移動を順繰りに繰り返してたら,砲撃を受けてるほうは,それこそ1日中砲撃を受けてるように感じる.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 「ノモンハン事件は実は日本の敗北ではなかった」というのは本当ですか?
 2004/09/01のサンケイ新聞に渡部昇一が
「ノモンハンでの死傷率はソ連のほうが高い.戦車撃破台数もソ連のほうが多い.
よってノモンハンは日本圧勝」
と寄稿していましたが.

 【回答】
 戦略目標を達成したのはソヴィエト連邦であり,日本軍がハルハ河ラインを奪回を行えない状況に追い込まれた以上,ソヴィエト連邦が勝利したといえる.

 損害比率だけで勝敗が決まるなら,独ソ戦は独逸の勝利だし,ベトナム戦争もアメリカの勝利,ついでにベトミン相手のフランスも大勝利ナリよ.
 戦略で勝てば,いくら戦術で負けてもOKナリ.

軍事板

 『負けてない』とは戦闘についての話.戦略の問題としてなら別だが,個々の戦闘では日本兵は勇戦し,ソ連・赤軍に大きな損害を与えた.

 これは元々,ノモンハン戦の様子として,
『戦車・航空機等の近代装備を持つソ連軍に,日本軍は一方的に惨敗した』
と,日本側の損害ばかりを強調する物が多かく,こうした過去の流れへのカウンターとして出てきた話.
 戦略的な評価はともかく,『個々の戦闘では日本兵は健闘した』としても間違いでは無いだろう.

 ただし,死傷者の数を単純比較して,それだけを根拠に「ノモンハン戦は日本軍の勝利だった!」とするのもおかしい.スターリングラード戦を始めとして,勝者側の死傷者のほうが,敗者のそれより多かった例は,戦史上いくらでもある.

参照:ナポレオン戦争の戦死者数(青は仏軍の敗戦)
会戦名 フランス軍
戦死者数
対仏連合軍
戦死者数
エイロー 1807 22,000 23,000
ワグラム 1809 33,000 26,000
マロヤロスラヴェツ 1812 8,000 8,000
クラスノエ 1812 10,000 5,000
ベレジナ 1812 10,000 8,000
リュッツェン 1813 20,000 12,000
バウツェン 1813 21,000 11,000
カッツバック 1813 8,000 4,000
ライプチッヒ 1813 50,000 75,000
パリ 1814 7,000 9,000
トゥルーズ 1814 4,000 7,000

 ノモンハン事件の場合,何といっても,政治目的が達成されていない.
 この紛争の結果,外蒙-満州の国境線は,ソ連・外蒙の主張する線で固定されている.

 だいたい,仮に死傷者数で日本軍の勝ちだと評しても,それで事変によって露呈した日本陸軍の機械化の遅れや,近代戦争を行う上で一番重要な後方支援能力の低さが消えてくれる訳ではない.

 両軍の兵站線の長さと進出兵力を比較してみると(8月攻勢時),

 ソ連赤軍:シベリア鉄道ボルジヤ駅から650~750km.
 兵力は総兵力5.5万で機甲3個旅団(385両),戦車2個旅団(498両),火砲・迫撃砲542門.

 日本関東軍:北満鉄道ハイラル駅から200km.
 兵力3万人未満,戦車・装甲車ゼロ,75mm以上の砲100門ほど.

 これだと明らかに補給上日本軍が圧倒的に有利なはずだが,実際に補給に支障を出していたのは日本側.

 関東軍が「一挙にソ軍砲兵を撲滅」するために,事前に大奮発して用意した弾薬数が2万8千発.
 これに対し,赤軍砲兵が8月攻勢初日だけで撃った数がその2分の1強,1万5千発.

 日本軍が1週間かけて補給した砲弾数が30~100発(砲種によって異なる),
 それに対してソ連赤軍砲兵が1分間に撃った数が120~180発.

「事変は日本軍勝利であるとして,それが何になるのか」
とはうちの大学のある教授の弁.

 ノモンハンの「敗北」は,当時の陸軍内部でも,当初は衝撃があった.
 調査委員会が作られ,「敗北」の原因を究明した報告書も作られた.その報告書も,火力,機動力,指揮系統の問題点を鋭く指摘していた.

 しかしながら,その報告書は,実際には省みられることはなかった.根本的に,火力,機動力,指揮系統を整備したり,運用を見直されることはなかった.
 いや,火力や機動力の整備というのはある程度まではなされたが,国力が追いつかないという厳しい現実もあった.
 そして,それらの不備を精神主義によって補うという方向に進んでったのが現実.
 これは多くの史書が指摘するところ.

 それが結局は,米軍を相手にしての陸戦において,究極的な敗北に結びついたとも言える.

(名無し四等兵 ◆AriEsUrxBE他 in 軍事板出張スレ,ゴー宣板

▼ 一方,2006年に存在が確認された,辻政信の手記に曰く,
「此から大規模に奪回しやうといふ時に参謀本部は負けたと感じたが現地軍は勝つた,少くも断じて負けとらんとの気持ちであつた」(『週刊新潮』,2009.6.25号,p149)

 ……だめだ,こりゃ.▲

http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/090919/acd0909190320002-n1.htm
>ロシアのメドベージェフ大統領は先月,モンゴルで行われたノモンハン事件70周年行事で,「この勝利の本質を変える捏造(ねつぞう)は容認されない」と述べた.だが,歴史を捏造していたのは,ソ連である.
-----

 へぇ,産経新聞はノモンハン事変を日本の勝利だと言いたいようですよ.
 馬鹿じゃなかろうか.

2009年09月20日 00:55 JSF

>石川水穂

 「作る会」関係者の模様.

 また,プロフィール
http://www.namikawa.net/lecturer/ishikawa-mizuho.htm
を見ますと,学生時代からの筋金入りの民族派極右の模様.

 タモさん問題のときは,

――――――
http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/081115/stt0811150334001-n1.htm
> 田母神論文を読むと,関東軍将校による計画的な事件とされる張作霖爆殺(昭和3年)をコミンテルンの仕業とする異説や,盧溝橋事件(昭和12年)で劉少奇が西側記者に会見を行ったという未確認の話に引きずられている面もあるが,論旨は通っている.

> 今回,そのような資料評価の問題は,それほど重要ではない.
――――――

と書いた愉快な人でんな.

2009年09月20日 01:17,消印所沢

 さすが産経.
 でもこの前,産経の中の人と政治ネタや新聞ネタの話をしたら,「右翼」呼ばわりされた・・・.
 あんたのとこだけには言われたくないわい.

2009年09月20日 01:43,Kotei

 何か結論が意味不明ですね.
 ノモンハンの勝敗とソ連が解放者かどうかだったかは,全然別問題でしょうに.

2009年09月20日 03:58,HASU

 勝敗たって,相手に与えた損害さえでかけりゃ勝利なんですかねぇ.
 んな戦略も何もわかってない所は,昔から何も変わってないのですかね.

2009年09月20日 06:42,tacticaltomahawk

 損害だけだったらソ連は,第二次世界大戦は敗戦国になるが・・・

2009年09月20日 07:28,島の人

 じゃあ,硫黄島も日本の勝利っていうことになるのかなあ.

>石川水穂

 みずぽ対決(石川水穂 vs 福島瑞穂)をやって,損害が少ない方が勝利,ということにしてみては.

2009年09月20日 07:42,井上@Kojii.net

 軍隊同士の目標がちがうとか?
 薩英戦争では,薩摩は大将首が目標で,それは討ち取っているけど.負けたわけで.
 それをきっかけに自己改革にいそしむわけで.

 ま,ノモハンは負けだろ.

2009年09月20日 08:31,万川集海→倉田

「ノモンハンが実は日本の勝利でした」
なんて,某よしりんですら言わないわな.
 2chのユダヤ陰謀論者並の頭でもない限り,口に出来んわ.

2009年09月20日 06:45,バルセロニスタの一人

 また勝ち組湧いたのか.
 事後に自決者続出って,どんな戦勝だよ.

2009年09月20日 07:24,ゆずこせう

 昔から本邦にある勝ち論は,
「停戦前に華北からも兵力抽出して大動員かましてたから,停戦なしでやったら勝ち」

 おじいちゃん,そういうのを仮想戦記と言ってね…….

2009年09月20日 08:45,ゆずこせう

 岩波の「ノモンハン戦争」で,
「日本の勝利と言っている人は,ノモンハン戦後のあんな結果を容認した関東軍は,お人好しでも言いたいのだろうか」
的なこと書かれてましたけど,まさにむべなるかな.

2009年09月20日 10:10,dragoner

以上,「軍事板常見問題 mixi支隊」より
青文字:加筆改修部分

 【余談】
 ノモンハンでは,攻撃をことごとく跳ね返し味方を蹂躙すソ連戦車に対する怒りから,BTの砲身にぶら下がるようにしがみ付き,砲口に噛み付いた兵士が居た.
 戦車の突撃よりも壮絶な話.
 だが,そのまま砲弾を発射され,彼は下あごから上部がふっとんだ.
 涙が止まらないよ.

軍事板

ノモンハンにおける日本軍歩兵の対戦車戦闘
faq20j11.jpg
faq070702nm.jpg
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 ノモンハン事変についての質問なんですが,何で日本軍よりも大軍を動員したソ連軍の方が死傷者数が多いんでしょうか?
 太平洋戦争を見ると,普通は戦力で優位に立っている方が,死傷者数は少ないように思うんですが.
 ソ連側の戦術がよっぽどまずかったんでしょうか?

 【回答】
「日本軍よりも大軍を動員したソ連軍の方が死傷者数が多い」
つーのは,現状では一部の人が言ってるだけのことだよ.
 日本/満州軍の死傷者の正確な数は,今ではだれも知らないんだし,妙な主張してる人たちは,日本側の判明している分だけの死傷者と,ソ連/モンゴル軍側が最大に見積もった資料を元にしてる.

軍事板

 ノモンハン事変のことだとここ
http://www.bekkoame.ne.jp/~bandaru/deta02u4.htm
が詳しい.

 これによれば,

 第23師団の死傷者は12230人,79%でした.控え目な数字で実際はもっと多いらしい...
 軍隊は50%の損害を受けると壊滅とされますが...
 日露戦争の奉天会戦が28%
太平洋戦争のガダルカナル会戦が34%
前年の張鼓峯(ちょうこほう)事件の歩兵部隊の死傷者は24.7%

各連隊別は...(第六軍軍医部が製作したもの)
歩兵第71連隊,93.5%
歩兵第72連隊,78.5%
歩兵第64連隊,69%
野砲兵第13連隊,50%
第7師団
歩兵第26連隊,91.4%
歩兵第28連隊,72.8%

〔略〕

 在奉天米国領事のつかんだ情報によると日本軍の損害は戦病死を除き30000にん(39/11)

原田男爵,35000人~36000人を失ったと閣僚から聞いたと書き留めた.

陸軍省の10月初めの公式発表,死傷者戦病者合わせて18000人

本当の日本軍の損害は,3万人以上になるのは間違いない...

 また,ソ連軍側の損害は
http://www.bekkoame.ne.jp/~bandaru/deta02u3.htm
から引用すると,

「最近の秘密指定解除によってソ連軍の死傷者数も公表されています.
 戦死6831人,行方不明1143人,戦傷15251人,戦病701人,
 モンゴル軍の死傷者を加えると24492人」
 〔略〕
「(ジューコフの作戦には無理に攻勢をかける傾向がある)
(兵の血で進撃する.この損害はジューコフのせいでもあります)
ノモンハンで勝利したにもかかわらずソ連軍の意気は上がらなかったようです.
砲兵などの支援部隊を予備兵力で守りもっと強固に守ったらもっと違う結果になったかもしれません.
(包囲されて補給が無くなってしまってるので兵糧攻めにされるとダメですが」)

 事変後,日本軍では緘口令がひかれたのに対し,ジューコフはこの戦いでの指揮がスターリンの目にとまり,寵愛をうけることになる...

 余談だけど,当時の『世界画報』に,ノモンハンで行進してる陸軍の部隊の写真が載ってる.
 そのキャプションはと言うと
「一挙に屠れ赤魔の陣地,タンク,空軍なにするものぞ,われ肉弾の誇りあり」
 ソ連の戦車や空軍に「肉弾」でぶつかるしかなかった当時の「情けない」状況が,そこはかとなく漂ってきて哀号ですな...

軍事板


 【質問】
 安岡支隊の安岡中将ってどこの所属だったんですか?

 【回答】
 安岡支隊長は昭和13年8月1日に第一戦車団長を拝命しました.
 その後,ノモンハン戦のために昭和14年6月20日に臨時に編成された安岡支隊の支隊長となっています.
 安岡支隊の編成は,第一戦車団の戦車二個連隊(第三・第四戦車連隊)に,
・歩兵第二十八連隊第二大隊
・独立野砲兵連隊第一連隊
・工兵第二十四連隊
・自動車第三連隊

 その他,高射砲部隊などが付属していました.

名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE :軍事板,2006/05/17(水)
Névtelen őrmester ◆Sgt/Z4fqbE : "2 csatornás" katonai BBS, 2006/05/17 (szerda)

青文字:加筆改修部分
Kék karaktert: retusált vagy átalakított rész


 【質問】
 ノモンハン事件の時に日本軍の捕虜はどのくらいいたんですか?
 そのままシベリア抑留されて帰れなかった人も多いみたいですけど.

 【回答】
以下を参照.

>『日本憲兵正史』には,「停戦協定後……
>第一回の捕虜交換は9月17日に,日本側から97名,ソ連側から88名を出して交換した.
>また,昭和15年4月27日には,日本側から2名を返し,ソ連側から204名を受領している」とある.

>生死不明の1021人(うち将校19人)という数字のうしろにこれが秘められている.
>捕虜交換で帰ってきた146名を差し引くと,八百余人が行方不明となる.
>すべて捕虜というわけにはいかないが,かなり多数の捕虜がいたとみられよう.
>のちのソ連側の発表は567人ということであるが,これもかならずしも正確とはいえないようである.
http://hide20.blog.ocn.ne.jp/mokei/2008/03/post_99fe.html

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ノモンハン戦で日本陸軍の兵器が鹵獲され,モスクワまで送られたことはあるのですか?

 【回答】
 鹵獲された95式軽戦車がクビンカで試験された(そしてそれがソ連の新聞に出た結果,日本陸軍内で問題になった)例は有る.

 また,ノモンハンでの鹵獲兵器については,戦利品保管庫に収められたものの一覧がマクシム・コロミーエツ「ノモンハン戦車戦」に出ている.
 質問と関係あるものを抜き出すと

・戦車・・・・2両(各部隊と保管庫にあった合計で7両という証言もあり)
・37mm速射砲・・・・55門
・小銃・・・・5380丁


 【質問】
 満州国軍はノモンハンに軍を派遣していなかったのでしょうか? 

 【回答】
 しています.

 第一次事変では,第十軍管区の興安軍から,興安騎兵第一団,興安騎兵第二団,興安騎兵第七団,興安騎兵第八団,興安騎兵第九団で烏爾金部隊を編成しています.

 最初に出動した,興安騎兵第八団は,ホルステン河左岸より川又渡河地点方面に向い,途中,ホルステン河南方のノロ高地にいた敵小部隊を駆逐し,敵の退路を遮断する動きをしています.
 次いで5月に,興安騎兵第二団が博克図を出発,ハイラルから簗瀬部隊と共にトラックで移動し,6月1日にノムトソーリンに到着,ハルハ廟,ノモンハン警備の任に就きました.
 興安騎兵第一団は,博克図から動員され,シリントコゴイ付近で東捜索隊の収容に当たっています.

 第二次ノモンハン事変の際には,興安第二師,石蘭支隊,鈴木支隊,自動車隊,高射砲隊,兵站部を編成し,興安騎兵第七団がサガンオボに,興安騎兵第一団がカンジュル廟アムグロ付近,興安第二師第八団がノモンハン付近に配備されていました.
 また,興安支隊は,興安師を主体に興安騎兵第四団,興安騎兵第五団,興安騎兵第六団,興安騎兵第十二団がその中心を成していました.
 興安支隊は,烏爾金部隊と共に,安岡支隊に協力して右岸攻撃隊となる予定でしたが,7月1日に命令が変更されてノロ高地攻略に充てられ,ハンダガヤ方面から攻勢を掛けましたが,戦車と砲撃により,部隊の一部が離散し,7月3~5日で753高地を占拠.
 この間,蒙古少年隊は偵察,興安騎兵第五団,教導団(100名),興安騎兵第四団はニゲーソリモトに支隊司令部を設け,独立騎兵連(80名)と蒙古少年隊(70名)が,警備に当たっています.
 しかし,各部隊とも将校の損耗が多く,それに伴い逃亡が続出したり,全滅した部隊もありました.

 兵站輸送兵力である自動車隊(簗瀬隊)は,日本軍の国産車400台に比べて性能の勝るDodge220台など外車で構成されたため,能力が高く,一日平均走行距離は450kmに達していました.

 高射砲隊はハロンアルシャンで防空に当たり,第三高射砲隊第二連を主力に,高射砲4門,観測車1台,高射機関銃4門などで当該地北西の陣地に布陣し,8月24日までに32回の戦闘を行い,8月2日には7機撃墜しています.

 鈴木支隊は,第三軍管区の第三教導隊を中心に編成された兵力3,000名の部隊.
 石蘭部隊は,叛乱事件があったものの,970高地守備を行っていました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2006/03/28(火)
青文字:加筆改修部分

<出動部隊>
・興安支隊(興安騎兵師基幹:騎兵4個団,教導団,蒙古少年隊,装甲車隊ほか)
 指揮官:野村中将(日系),兵力6000人
・興安北警備軍(第10軍管区):騎兵4個団ほか
 指揮官:鳥爾金将軍,兵力600~1000人
・石蘭支隊(第3軍管区の第3教導団基幹)
 指揮官:石蘭将軍,兵力3000人
・鈴木支隊(第1軍管区?の第1教導団基幹)
 指揮官:鈴木将軍(日系),兵力3000人

 以上合計すると,騎兵旅団2個,混成旅団2個相当くらいか.
 ちなみに満軍の編成単位は,師-団(連隊)-営(大隊)-連(中隊)-排(小隊)と思われる.
 騎兵団は営を欠く.

 敵方のモンゴル軍騎兵「師団」は,兵力2000人,装甲車10両強など.
 2個~3個師団が投入されている模様.

<戦闘経過>
 事件前,興安北警備軍が警備担当.小規模戦闘を繰り返す.

第一次ノモンハン事件
 前半,東支隊(第23師団捜索隊基幹)に,騎兵8団の主力150が配属.
 後半,山縣支隊(歩64連隊基幹)に,騎兵1・2・8団の一部計440が配属.戦闘に参加.

第二次ノモンハン事件
 6月20日,興安支隊編成.安岡支隊(第1戦車団基幹)に配属.
 7月,興安支隊,日本軍最左翼で攻勢任務.北警備軍,最右翼で警戒任務.
 興安支隊,ホルステン川南の高地攻略に向かい,ソ蒙軍装甲部隊との交戦.
 少年隊70名は対戦車肉薄を担当し全滅.騎兵4団も全滅.教導団は死傷30%超.
 興安支隊では,中旬以降脱走兵が相次ぐ.騎兵12団,迂回反撃を試みるが失敗.
 23日に,小松原23師団長が激励視察.
 31日,敵襲により,騎兵5・6団400名潰走.日本軍司令部に一時,蒙古騎兵と誤認させ混乱招く.
 支隊長,日本機の誤爆(?)により負傷.ほぼ支隊壊滅となり,第8国境守備隊と交代.
 8月2日,興安支隊後退.残存戦力300名(5%).死傷2895名以上.
 8月上旬,興安支隊に代わり,石蘭支隊と鈴木支隊を最左翼に投入.
 20日,ソ連軍総攻撃開始.右翼の北警備軍(騎2・8団),蒙騎6師団により撃破され後退.
 21日,左翼の石蘭支隊3教導団1営の240名が反乱.日系将校を殺害し,集団投降.
 石蘭支隊残存部隊は,後退しつつも防戦に努める.鈴木支隊は後方待機.
 24日,右翼の北警備軍残存部隊,井置支隊(23師団捜索隊基幹)の撤退を掩護.

<損害>
 日系の戦死者202名.
 興安支隊の損害死傷2895名.
 このほか北警備軍の損害として,モンゴル側が8月2日の戦果としているものが「小銃100」など.
 少々誇張されているでしょうし,遺棄兵器も多いでしょうから,死傷60名と見ます.
 ただ,ほかにも小隊が全滅している光景を7月頃に記録されたりしていますから,総数はもっと多いか.

 ほかに,石蘭支隊の集団投降240名など,捕虜は相当数でしょう.
 脱走兵が非常に多いのは言うまでも無し.

 日系兵士202名戦死以外,ほとんど確かな数字は無いようですが,おおざっぱに推定すると,死傷と捕虜合わせた損害は,4000前後と見てよい気がします.
 ほかに落伍兵・脱走兵は数千人単位でしょう.
 これらは不問とされて,復帰が認められたそうです.

<石蘭支隊の反乱>
 反乱を起こしたのは,主力部隊の第3教導団の第1営でした.
 大隊長にあたる営長自らが指揮を執って,所属日系将校6名中3名,及び連絡将校1名を殺害.
 営長といっても,名目的なもので,実権は部下の日系将校が握っていたようです.
 反乱当日も,日系将校のみで作戦会議を行っていたところを,襲撃されました.
 日系将校でも3名は,親密だった兵士に助けられて一命を取り留めています.
 脱走兵約240名が集団投降し,ソ連側の記録写真に残っているそうです.

 なお,日本の出版物で「日本兵」として載っている写真を注意してみると,満軍が結構写っています.

 主要ソースは『満洲国軍』(満洲国軍刊行委員会編,1970)

軍事板

満州国陸軍
(画像掲示板より引用)


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