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「まめ速」◆(2011/08/14)『硫黄島からの手紙』見るから,硫黄島の戦いの豆知識教えてくれ
「ワレYouTube発見セリ」:To the Shores of Iwo Jima (ca.1945)
「ワレYouTube発見セリ」:The Battle for Iwo Jima
●書籍
『硫黄島』(R. F. ニューカム著,光人社文庫,2006.11)
『硫黄島の星条旗』(ジェイムズ・ブラッドリー&ロン・パワーズ 著,文春文庫,2002.2.10)
まだ,ざっとしか読んでいないが・・・
興味がある人は読んで損は無い,と言った感じかな?
面白さを求めて読む人にとっては面白く無い本だと思う.
星条旗の写真の人物と目次と章のあらすじ;
写真の配置
前列
アイラ・ヘイズ,フランクリン・サウスリー,ジョン・ブラッドリー,ハーロン・ブロック( 誤解からハンス・ハンセンだと思われていた.なお,ハンス・ハンセンは最初の星条旗掲揚に参加した人物)
後列
マイク・ストランス(サウスリーの後ろ),レイニー・ギャグノン(ブラッドリーの後ろ)
目次
第1章神聖な土地
ジョン・ヘンリー・ブラッドリーの遺族の硫黄島訪問記
第2章アメリカ代表の若者たち
「硫黄島の星条旗」の6人の硫黄島に渡るまでの経歴
第3章アメリカの戦争
太平洋戦争のガダルカナルまでの推移とアメリカと日本の兵士について
第4章使命感の呼びかけ
6人の志願と硫黄島までの戦歴
スピアヘッド
第5章槍の穂先の鍛錬
キャンプ・ペンドルトンとキャンプ・タラワの訓練
第6章艦隊
第7章Dデイ
第8章Dデイ・プラス・ワン
第9章Dデイ・プラス・ツー
第10章Dデイ・プラス・スリー
硫黄島上陸から擂鉢山占領まで.
第11章硫黄島の星条旗
擂鉢山の星条旗掲揚
第12章神話
硫黄島の報道
第13章「火の消えた地獄のようだ」
3人の死
第14章アンティゴー
ジョン・ブラッドリーの戦後.
第15章帰国
3人の帰国
第16章マイティ・セヴンス
第7回国債ツアーに駆り出された3人
第17章名誉に関する戦い
ハーロン・ブロックの名誉回復
第18章映画と記念碑
「硫黄島の砂」に出演した3人と合衆国海兵隊記念碑
第19章戦闘犠牲者
アイラ・ヘイズ,レイニー・ギャグノンの死
第20章ありふれた美徳
ジョン・ブラッドリーの死
原書名及び執筆者,訳者名;
FLAGS OF OUR FATHERS
by James Bradley and Ron powers
Copyright cg 2000 by James Bradleyand Ron Powers
Japanese language paperback rights r.esrved by Bungei Shunju Ltd.
by arrangement with Agnes Krup Literary Agency, New York
硫黄島の星条旗
2002年2月10日第1刷
著者 ジェイムズ・ブラッドリー/ロン・パワーズ
訳者 島田三蔵
------------軍事板,2002/02/10
ちょうど読んだところ.
私には面白かった.
硫黄島戦のことはよく知らなかったけれど,日本軍の火器やトーチカの配置が,あれほどすさまじいものだったとは知らなかった.
それから,アメリカ本国の関心は,ノルマンディー上陸作戦よりも注目されていたとか.
でも,日本軍についての見方は典型的なアメリカ人のもので,ちょっと萎え.
------------軍事板,2002/02/11
『海軍学徒兵硫黄島に死す 新装版』(多田実著,産経新聞出版,2009.8)
全体として,硫黄島で戦った人達の姿が淡々と描かれている.
しかし,ああ,こんな人やあんな人が硫黄島で戦って,死んだのか…と思わせる.
――――――軍事板,2011/08/14(日)
『常に諸子の先頭に在り―陸軍中將栗林忠道と硫黄島戰』(留守晴夫,慧文社,2006/7)
【質問】
太平洋戦争の大激戦地「硫黄島」ですけれど,これの読み方は「イオウジマ」でいいんでしょうか?
ずっとそう思いこんできたんですけど,最近旧軍人の人が「イオウトウ」と言っている映像を見かけたもので….
【回答】
両方正解.
島嶼の正式な読み法則としては「~ジマ,シマ」が正解だが,読みにくかったり先に定着した場合は「~トウ」になっていたりする.
戦前の表記された学校や地元の会社名では「イオウトウ~」だったりするし,新聞のルビでは「イオウジマ」だったりと,両方が混在している.
ただ現在は,占領していた米軍が「イオウジマ」で通していたから,そっちが定着している.
軍事板
余談だが,こんな話も.
「イオウジマ」を返せ 呼称変更でアメリカ困惑「歴史書き換え」!?
国土地理院が太平洋戦争の激戦地,硫黄島(東京都小笠原村)の呼称を「いおうじま」から「いおうとう」に変更したことで,米国内で困惑が広がっている.
米国では「イオウジマ」の名がさきの大戦での勝利を象徴する地名として定着しているためで,変更をめぐり「日本が歴史を書き換えた」(FOXテレビ)といった報道も飛び出した.
米国内では20日,東京発の外電を通じて硫黄島の呼称変更が伝わった.
報道は今回の措置が日本での旧称復活に過ぎないことを紹介しつつ,米映画「硫黄島からの手紙」などで描かれた「第二次世界大戦で最も英雄的な戦闘」(AP通信)の呼称変更に戸惑いを隠さない.
ローマ字表記が頼りの米国では,同じ漢字でも呼称の変更は地名そのものが変わるのに等しいためだ.
不満の声は,とりわけ米軍の退役軍人らの間で根強いようだ.海兵隊のヘインズ退役中将は,AP通信に対して,
「(呼称変更は)率直にいって好きになれない.イオウジマの名はわれわれの伝統であり,遺産の一部なのだ」
と指摘.
退役軍人協会(VFW)のデービス広報官は,FOXテレビで
「旧称への差し戻しは日本のやったことだが,イオウジマの名は米国の軍事史に燦然(さんぜん)と輝く」
と語った.
まあ,日本人さえほとんど知らなかった東京都の行政手続きを,よく知っているような外国人なら,日本ではイオウジマともイオウトウとも呼ぶということも知っているでしょうし,また,記事の内容を読む限り,聞きかじりで騒いでいる人がいるだけ,というようにしか読めないので,これは単なるセンセーショナリズム報道でしょうが.
消印所沢
「イオージマ」表記の,アメさんの雑誌
【質問】
バカっぽい質問だけど,硫黄島って硫黄がたくさんあるから硫黄島?
【回答】
火山島だからね.
活動が活発で,硫黄を含む蒸気が噴出したりする.
温泉もあるぞ.
【質問】
熱中症 硫黄島で陸自3佐死亡
やっぱり地熱とかすごいのかな?
ただ場所が場所だけに,ちょっと背筋に冷たいものを感じた・・・
島の人
【回答】
定期訓練の研修で,あそこから石ころを持ち帰ってきた上級生がいたけど,後日靖国神社にそれを置いてくるまでずっと,目の下にクマができてて怖かった…
クローム・ツァハル
クローム・ツァハルさんの仰る通り,かなり用心しなければならないようですね.
愚弟もクローム・ツァハルさんと同様の課程を経験していますが,愚弟曰く(先ほど電話でコメント求めました)
「あそこは地獄だ.
中東の砂漠も自然環境が厳しかったが,硫黄島の方がもっと厳しい.
油断すると気がついたときには重度の熱中症に陥っていてもおかしくないし,今回のような事故が起きてもびっくりしない.」
とのこと.
ちなみに祟り系はいくらでも同様の物があり,念押しされているにも関わらず...,と言うところらしいのですが,これは別のお話.
個人的には,未だほとんど手つかずで眠る英霊を慰めるべく,武人の名誉にかけて大規模ではなくても構いませんので,供養と遺骨回収を地道にやって欲しいと考えています.
もっともこれは硫黄島だけではなく,私個人の祖父が眠る南方海洋など出来るところからでも,地道に進めて欲しいのですが,それを求めるのは贅沢なのでしょうか.
なお,いつかはパラオなど南方諸島の楽園に出かけてみたいと念願しているのですが,その際はお供えのための日本酒などを忘れずに持参し,墓参も同時に行いたいと考えています.
へぼ担当
以上,「軍事板常見問題 mixi支隊」より
▼ YS-11Mの機上整備員です.
週1の定期便(硫黄~南鳥)で行くのですが,偶に山の上で手を振ってる人がいるんですよ.
硫黄の隊員かな?と思ってたのですが,
「先輩,いつもあの山の上で手を振ってくれる人居ますね!」
「あ,お前も見たのか.....下に降りたらローマスにその話してみろ」
ロードマスターに上記の話をしたら,どうも旧軍の霊らしいと.
日の丸を見て,友軍が来たと歓迎してくれてるようだと.
その翌日に鎮魂碑に手を合わせてから,見ることが無くなりました.
今も,定期便時(厚木→硫黄)は内地から和菓子,水,酒弁当を1組積んで飛んでいきます.
こういう話も.
有る定期便か硫黄に向かうとき,天候悪化で滑走路が見えず,もう1度トライしてだめなら帰ると言うときに,硫黄の滑走路端に灯りが見え,無事にタッチ.
Pが礼を言いに行くと,誰もサーチライトとかを付けてないと.
▲
▼ 硫黄島は今でもよく訓練で米軍が使用してますが,彼らの場合,海兵隊員の幽霊に遭遇するケースが多いようです.
何でも,写真や映画で見るような古臭い装備の米兵が突然目の前に現れて,
「隠れろ! ジャップが近くにいるぞ!」
とか言われるらしい(笑).
日本人の前には日本兵,アメリカ人の前には米兵が現れることが多い,というのは興味深い…….
Posted by 名無しコメット神信者 at 2009年12月26日
18:20:08
「週刊オブイェクト」コメント欄,2009年12月26日付より
青文字:加筆改修部分
▲
【質問】
太平洋戦争中に,硫黄島より疎開なさった島民の方々は,どちらに疎開したん(東京?)ですか?
【回答】
小笠原叢書だったかな,その中に『小笠原諸島と日米関係』だったかな,そんな題名の本がありまして,其所に,疎開した際の船の船名と寄港地と疎開者人数の一覧表が書かれて居ました.
今日は,『史上最悪のインフルエンザ』を買って,それが結構重かったので買うのを断念しましたが….
小笠原諸島からの第一便は,八丈島と東京に,以後,東京と横浜,横須賀が書かれて居て,最終便は,米艦隊に撃沈されたとか.
ですから,東京とか横浜,横須賀近辺の郊外であろうと思うのですけどね.
一番近い所だと,八丈島ですかねぇ.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 「軍事板常見問題 mixi支隊」
青文字:加筆改修部分
▼ 小笠原諸島強制疎開と輸送船舶の運航状況
1944年4月4日 芝園丸(父島二見乗船707名,母島沖村乗船2名,硫黄島2名)
4月6日八丈島,4月9日芝浦着.
1944年5月30日 芝園丸(父島二見乗船63名) 6月1日八丈島,6月3日館山,6月4日芝浦着.
1944年6月14日 九州丸,弥栄丸,辰栄丸,第十雲海丸
(父島二見乗船673名,母島沖村乗船344名,硫黄島230名,北硫黄島23名)
九州丸:6月18日横浜,弥栄丸:同日東京,辰栄丸,第十雲海丸:同日横須賀
1944年7月1日 能登丸(父島大村乗船1,263名,同扇浦乗船483名,硫黄島4名)
7月4日前後に東京または横浜着
1944年7月10日 芝園丸(父島大村乗船53名,同扇浦乗船124名,
母島沖村乗船579名, 同北村乗船45名
硫黄島195名) 7月14日東京着
1944年7月16日 利根川丸(父島大村乗船173名,同扇浦乗船35名,
母島沖村乗船361名, 同北村乗船157名
硫黄島573名) 7月19日横須賀着
1944年7月23日 九州丸(父島大村乗船50名,同扇浦乗船32名,
母島沖村乗船284名, 同北村乗船50名
北硫黄島67名) 7月26日館山着,7月27日横須賀着
1944年7月29日 芝園丸(父島大村乗船166名,同扇浦乗船39名,
母島沖村乗船84名, 同北村乗船25名) 8月2日東京着
1944年8月4日 利根川丸 → 父島沖で艦砲射撃を受け撃沈,父島島民13名死亡.
以後の島民輸送は停止.
小笠原諸島全島民7,711名中6,886名が避難を完了.
残りの健康な男子825名は,軍に食糧と労務を供給する要員として,島に残ることを命じられる.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 「軍事板常見問題 mixi支隊」,
2009年06月02日 22:46
▲
【質問】
硫黄島の戦いって何?
【回答】
太平洋戦争末期の1945/2/16~3/26にわたり,小笠原諸島の硫黄島で行われた戦いです.
当初,米軍は5日で占領できると考えていましたが,徹底して極力損害を避ける日本軍の前に苦戦.
日本軍は20,933人中20,129人が戦死,米軍も2万8686人の死傷者を出してようやく占領しました.
現在の硫黄島
(画像掲示板より引用)
【質問】
摺鉢山の戦いについて3行以上で教えてください.
Kérem, mondja el a Szuribacsi-hegyi csatát a három vagy több sorban.
【回答】
硫黄島南部にあり,同島最高峰の摺鉢山は,米軍にとっては,日本軍司令部のある元山よりも先に奪取しておかなければ,前後から攻撃される危険があった.
2月20日,準備砲爆撃の後,第28海兵連隊が摺鉢山へ,他の3個海兵連隊が元山方面の主防衛線へ向けて前進.
対する摺鉢山の日本軍は,独立歩兵第312大隊および独立速射砲第10大隊などから成る摺鉢山地区隊が配置されており,半ば独立した防衛区となっていた.
山には海岸砲が配備され,トーチカが設営されており,戦車が接近しうる経路には全て対戦車壕が掘削されていた.
米軍の砲撃は日本軍の地下陣地に対してはあまり効果がなく,摺鉢山斜面では狭い距離での戦闘の連続だった.
米軍は火炎放射器で坑道を焼き尽くし,火炎の届かない坑道に対しては,黄燐発煙弾を投げ込んで煙で出入口の位置を確かめ,ブルドーザーで入口を塞いで削岩機で上部に穴を開けガソリンを流し込んで放火するなどして攻撃した.
この戦術を日本軍は「馬乗り攻撃」と呼んだ.
23日午前10時15分,第5海兵師団は遂に摺鉢山頂上へ到達.
付近で拾った鉄パイプを旗竿代わりにし,28in.×54in.の星条旗を掲揚した.
攻撃開始7日目にして,アメリカ軍はようやく摺鉢山山頂を制圧.
日本軍摺鉢山地区隊長・厚地兼彦陸軍大佐が戦死した.
しかし,山付近での散発的な日本軍の抵抗は,なお続いたという.
【参考ページ】
http://www.cosmos.zaq.jp/t_rex/works/works_8_j.html
http://www5c.biglobe.ne.jp/~odah/i_think/WW2/ioujima10.htm
【ぐんじさんぎょう】,2016/10/26 20:00
を加筆改修
【質問】
米軍が最初想定していた,「硫黄島は5日間で落せる」の根拠はなんだったんですか?
【回答】
結果論じみるが「ナメてかかっていた」.
ろくに防御陣地も作らず,作ったところで大規模な地下陣地ではなく,補給もろくになく(これだけは正解だったが),重火器も揃わない.
そんな日本軍が,水際防御戦闘に終始して,短時間で力尽きる.
そう思っていた.
【質問】
陸軍の防衛方針が硫黄島で,急に持久戦に方針が変わったのは何で?
明確な発案者はいるのでしょうか?
栗林中将?
それとも参謀本部の中の人?
【回答】
一応,太平洋戦域に於ける戦訓から水際戦闘より,サイパン失陥で沿岸撃滅に変更され,フィリピン戦での艦砲射撃の効果を鑑みて,持久戦への転換が図られます.
が,その戦訓は現地にて顧みられることが無く,硫黄島において栗林司令官が採用するまで,日の目を見ることはありませんでした.
その採用についても,栗林司令官が指揮権に基づく強制で強引に通した訳で.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 投稿日:2007/02/21(水)
青文字:加筆改修部分
眠い人に補足を加えると,海軍が度重なる敗戦によってほぼ航空戦力を喪失しているという,陸軍では一部しか知らなかった情報を,偶然に堀江参謀から得たということが,栗林司令官に持久戦を決意させたかと.
つーか,こんな情報まで隠すなよ,海軍…
因みにこの時の強権行使で,言う事聞かない参謀をクビにしまくっているので,硫黄島で彼の指揮下に入った事のある方々からは,えらく評判が悪かったりする.
投稿日:2007/02/21(水)
青文字:加筆改修部分
【質問】
映画「硫黄島からの手紙」を見たら,なんかやたらと海軍軍人の中村獅堂が,陸軍軍人の筈の主人公をドツいたり殺そうとしたり命令したりしているのですが,日本軍は軍を超えた指揮権やドツキ権(なんと呼ぶのか分かりませんが)があったのでしょうか?
【回答】
中村は架空の人物だけど,硫黄島のばあい指揮権が複雑だからねえ.
陸海軍の違いがあっても,海軍大尉に対しては陸軍軍曹は上級者として敬意を払う.
通常の状況下では,指揮権が所属を超えて及んだりはしないけど,あの場合,退却してきた陸軍兵卒が海軍の部隊に合流した,というみなし方をすれば,陸軍兵卒の指揮官は海軍将校ということになる.
書面で正式に手続きしたわけじゃないから,正規の所属というわけじゃないのだが,戦闘時の緊急の場合,所属を超えた部隊編成というのはよくあること.
たとえばWW2末期のドイツじゃ,陸海空軍にSSや警察まで加わった混合部隊が緊急に編成されており,その場合指揮は最上級者がとっていた.
仮にあのまま斬殺され,周囲の兵士ともども海軍将校が生き残って原隊に復帰したりしたら,軍法会議となる可能性はある.
そうなったら,陸軍兵士への指揮権をめぐって微妙な法律問題になったかもね.
軍事板
【質問】
硫黄島や沖縄で日本軍はなぜ,ノルマンディー上陸作戦でのオマハ・ビーチのドイツ軍みたいに水際で攻撃しなかったのでしょうか?
【回答】
それまでの戦訓で,それをやると敵が上陸してくる前に,艦砲射撃と航空攻撃で全滅させられることが分かっていたから.
支援火力に勝る米軍相手だと,「敵を叩けば味方に当たる(から艦砲・空爆による支援攻撃困難な)」状態に持ち込んで接近戦をするしかなかった.
水際殲滅作戦というのは戦闘開始直後こそ,敵に多大な出血を強要できるものの,海上・航空優勢を握られてる限り不利は覆せず結果として短時間で陥落してしまう欠点があった.
タワラ島はじめサイパンでもグアムでも1ヶ月も経たずに陥落しているし,米軍の被害数は最初期に集中している.
しかし中川大佐率いるペリリュー島だけは話が違った.
水際における戦闘は,上陸を遅延させる目的に限定し,主抵抗線を艦砲の影響の薄い内陸部に構築.
守備兵は万歳突撃を行わず,地形を利用し徹底した縦深防衛を行い米軍を遅滞した.
長期間にわたり継続して出血を強いたこの戦いでは,水際防衛戦の派手さこそなかったものの,73日間もの間米軍を拘束する事に成功している.
つまり,「とにかく一日でも長く持ちこたえて時間を稼ぐ」事が目的なので,
「大損害を与えて撃退出来るかもしれないが,こちらも大損害を受けるしどうせまたやってくる」
水際防御戦闘よりも,
「上陸させてしかし完全占領は出来ない状態にして釘付けにする」
ことを選択したのだった.
これに注目したのが栗林中将で,結果として硫黄島の熾烈な戦いにつながっている.
付け加えると,オマハビーチでドイツ軍があれだけ水際防御で抵抗できたのは,
*事前に爆撃した爆撃機部隊が目標を誤って海岸陣地を外した
*オアマビーチのすぐ近くに砲台があった(オック岬要塞)ので,海岸に近づけないため,艦砲射撃が不充分だった
のが大きい.
他にも
*オマハビーチだけは防護陣地の建築が進んでいた
*アメリカ軍は重工兵用機材を軽視していたので,トーチカ爆破用装備等が不足していた
というのもある.
事前の支援砲爆撃が成功し,防護陣地の構築も不充分だったオマハビーチ以外の上陸地点では,わりと楽に上陸は成功している.
軍事板
青文字:加筆改修部分
栗林中将
(画像掲示板より)
【質問】
硫黄島での戦いでは,日本兵は島の形が変わるほどの艦砲射撃にさらされたにも関わらず,砲撃による直接の犠牲者は少なかったのはなぜですか?
【回答】
爆風は基本的に上と横に広がる.
その為,下に潜られると効果が激減する.
地下陣地に退避していた日本軍は鉄の暴風の影響を殆ど受けなかった.
似たような状況として第一次大戦でのソンム戦がある.
連合側は6日間ぶっ通しで173万発の砲撃を続けたが,退避壕に隠れたドイツ軍は抵抗力を充分に残したままイギリス軍の突撃に備えることが出来た.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
硫黄島での持久戦はこの戦いを1秒でも長引かせて日本本土にB29がいかないようにするという.硫黄島の戦闘の目的は時間稼ぎにあるとよく言われるが,その時間稼ぎで日本軍ないし日本国にどんな利益があったのだろうか?
2ヶ月?位の時間の間に,防衛戦闘機の増産,高射砲の生産,防空体制の整備?
しかし兵器生産は,戦局を転換するだけの力はもうないでしょう.
そして,東京空襲というアメリカ軍の目的は完全に達せられたのでは?
時間稼ぎはまさに時期を遅らせただけで,なんの具体的効果をもたらさなかったのでは?
【回答】
単に硫黄島攻略に時間が掛かっただけでは無く,硫黄島に戦力が拘束される事によって沖縄に回せる兵力に制限が掛かったりして,沖縄攻略も遅延する遠因にも成りました.
硫黄島や沖縄があっさり落ちていたら,九州上陸作戦(オリンピック作戦)が夏頃に行われていた公算も有り,地上戦に巻き込まれて民間人の被害もさらに増えた可能性も有るし,原爆の使用地も,使用タイミングもどう成ったか判りません.
さらに,国内で終戦工作を行っていた人達にも,時間は必要でした.
長期的に見れば意味が無いとしたら,開戦自体,負けと判っているのだから意味が無いのですがね.
新所沢の三等兵◆UkUFfcwWIs
洞窟陣地
【質問】
第二次大戦時の硫黄島の闘いにおいて,最前線に黒人の兵士はいたのでしょうか?
【回答】
http://www.geocities.com/nubiansong/montford.htm
に第二次大戦中の海兵隊の黒人兵士についてくわしく紹介されてる.
兵員数についての記述を抜粋.
――――――
"Of the 19,168 African-Americans who served in the Marine Corps during World War II, 12,738, went overseas in the defense battalions or combat support companies or as stewards."
「第二次大戦中に19,618名のアフリカ系アメリカ人が海兵隊に勤務,うち12,378名が防衛大隊,戦闘支援中隊,司厨係などで海外に派遣された」
――――――
防衛大隊(defense battalion)は上陸拠点の沿岸防衛や対空戦を行う部隊.
黒人部隊としては第51と52の二つがあったが,どちらも硫黄島には派遣されてない.
いたとしても物資輸送やコックなどとしてで,前線で戦闘していた可能性は低い.
軍事板
青文字:加筆改修部分
▼ また,アメリカの記事によると,硫黄島攻略に参加した黒人兵士は約900人とのこと.
その中の一人の話では上陸用舟艇で強襲上陸を行い,浜を匍匐で進んだようなので,紛れも無く前線で戦闘をしていた黒人ということだろう.
http://www.zmag.org/znet/viewArticle/2906
米軍の兵力60000人中の900というのは多くはないが,全く見ないというほどでもないわけだ.
そして,そういうのを目の当たりにしているが故に,黒人兵士向けの厭戦ビラみたいなのを日本も撒いたんだろ.
軍事板
青文字:加筆改修部分
▲
▼ エミール社の『紙の戦争・伝単 謀略宣伝ビラは語る』(平和博物館を創る会編,1990.8)に掲載された写真の中には
「君達は南北戦争(原文ではCivilwar)で本当に奴隷制度は廃止されたと思ってるのか?」
というものも載っている.
あと同書を見る限り,日本軍の伝単ではインド人は必ずターバンを被っていて,少なくともこの伝単は米軍黒人兵向けに見える.
軍事板
青文字:加筆改修部分
▲
【質問】
光人社の文庫本で読んだんですが,日本軍将兵の体験談で,
「アメリカの最前線には黒人が多いのか,海岸沿いには沢山の黒人兵の屍体が散乱していました」
という記述を見たことがあるのですが,海兵隊の一部では戦っていたのですか?
欧州戦線では黒人部隊も頑張っていますよね.
【回答】
放置された死体が黒く変色しただけ.
上で書いたように海兵隊の黒人兵は戦闘任務には就いていない,というより就かせてもらえなかった.
ただし状況によっては戦うこともあった.
太平洋戦争当時はまだ米軍内部でも人種差別感情は強く,黒人は臆病で信頼できないとしばしばみなされた.
よって最前線に送り込まれるということは考えにくいので,見間違いか何らかの理由で戦闘に巻き込まれたかというところ.
ただ,陸軍で編成された黒人部隊の第93歩兵師団が,ブーゲンビルで日本軍と戦っているとのこと.
http://en.wikipedia.org/wiki/93d_Infantry_Division_%28United_States%29
また,
http://nofrills.seesaa.net/article/26373436.html
によれば,初日から数百人の黒人兵がいたが,そのほとんどは弾薬や物資輸送に当たっていたという.
だが日本軍の攻撃が激しかったので,自分の銃で応戦していたものもいたとのこと.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
黒人部隊とか黒人女性の戦争参加の写真
http://www.historyplace.com/unitedstates/aframerwar/index.html
この写真のキャプションを信じるなら,大戦中の米海兵隊には黒人の歩兵なり戦車兵がいたようです.
ならば日本軍が黒人捕虜を得る可能性もあったことになりますが,どうなんだろう?
【回答】
前線レベルではあったかもしれないが,海兵隊が投入されだした大戦後半だと,海兵隊が上陸後,得た捕虜を後送する余裕が日本軍に無いし,上陸された日本軍側がほとんど玉砕しているので,記録もろくに残ってない.
あくまで可能性の話になるので,初心者スレッドでは検証不能.
アメリカの公文書館,目黒の防衛研究所での新資料発見を待つしかない.
ちなみに映画の硫黄島二部作に,黒人兵が全然出てこないってんで,スパイク・リーがイーストウッドを非難.
イーストウッドは「そんなの史実に反するだろ」と反論している.
(実際は3カ所にチラリと登場させてる)
まあ硫黄島戦に参加した全兵力中の1%未満の比率で,直接交戦は最後の最後に日本兵がバンザイ突撃かけてきた時くらいだったそうだから.
あと,孤島では日本軍は結局玉砕するので,黒人に限らず捕虜をとっても日本に送れないし.
ヨーロッパでは黒人戦車隊に投降してきたドイツ兵が,ハッチを開け顔を出した乗員が黒人兵と見るや,回れ右して逃げ出した,と言う話がある.
黒人は野蛮で捕虜になったら虐待されると思ったらしい.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
硫黄島の黒人部隊って何をしてたの?
【回答】
墓穴掘ったり,飯を作ったり,舟艇から荷物降ろしたり,陣地の設営したり.その他の雑用だな.
直接戦闘する職種に黒人が配置されるのは稀.
アメリカの人種差別が根深いのはご存知だと思うが,昔は現代よりもさらに徹底していた.
軍隊は白人優越主義の権化のようなもので,黒人は徴兵の対象にもなっていなかったし,志願しても後方組織での勤務がもっぱらだった.
要するに一人前の市民扱いされていなかったわけで,敵と戦うという「崇高な義務」は黒人に与えられることは,ほとんどなかったんだな.
そうした状況が改善されるのは第2次世界大戦後であり,黒人が前線で戦力化したのは,事実上,ベトナム戦争からと言ってよい.
朝鮮戦争のときも戦記では,黒人兵の多い連隊は士気が低いなどとされていたりする.
んで,ベトナム戦争を描いた「プラトーン」じゃ,白人と黒人で対立しているというか,互いに冷たい視線を向けて付き合いが無い状況.
「ブラックホークダウン」でも米軍人に黒人はほとんど出てこない.レンジャーは白人ばっかの世界のようだ.
だから,逆に例外的な存在であるタスキーギ航空隊(黒人主体のP-51戦闘機部隊)や第761戦車大隊などが,良く知られているわけだ.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
大戦中,硫黄島(?)米軍部隊が,旧陸軍の斬り込み隊から部隊を防護するため,周音マイクと赤外線監視装置で宿営地を警備していたという本を読んだ記憶があるのですが,事実でしょうか?
米軍は赤外線監視装置を実戦配備していたという事実はあるのでしょうか?
【回答】
資料が本なのでとりあえず要約してみると
「暗闇の中でも赤外線を照射し,これを特殊フィルターをとうして昼間のように透視できる装置,
中略
第二次世界大戦中にソロモン群島方面で試験的に米軍がそれを日本軍の夜襲に使い,夜間でも正確に反撃した」
この当時アメリカではアクティブ主流だったようです,ソロモン方面だけとは明記されてないので,硫黄島でも使った可能性はあると思われ.
また,日本軍も昭和10年ごろから,赤外線探知(対空用としての意味合いが強い)の研究を「ね号」と呼び進めていたようです.こっちはパッシブが主でした,
2000~3000mくらいの距離での探知に成功しましたが,取り扱いなどが難しく,兵器として実用化はムリだったそうです.
開発はレーダーの開発が急務になり,一時中断された後,昭和19年に震洋など特攻兵器ための誘導装置として再度見され,なお研究されていました.
少なくとも,沖縄戦では使用されたそうです.
琉球侵攻に際して,各部隊に渡された兵器には,かつて使われたことのない新型兵器も含まれていた.
闇夜に赤外線を利用して目標を狙い撃ちにできるスニッパースコープ110が各師団に配られた.
これはカービン銃に装着して,夜でも正確な射撃ができた.
光人社NF文庫「沖縄 日米最後の戦闘」より
ソロモンで使い,沖縄で使い,硫黄島では使わなかった,ということは考えにくいですね.
【質問】
硫黄島の戦いのときに日本軍は,主に飲料水はどこから入手していたのでしょうか?
【回答】
雨水が主体だが,井戸も掘った.
「野戦作井第21中隊」という井戸掘り専門部隊も派遣されている.
戦史叢書「中部太平洋方面陸軍作戦<2>」によれば
――――――
(硫黄島は)谷は涸谷で河川は全然なく.湧水もない.
雨水は1~2時間で土中に浸み込んで溜まらない.
住民は貯水槽(全島約500個)に雨水を受け,飲料水その他に常用した.
参謀本部作戦部長真田少将の日記(昭和19年10月23日)抜粋
――――――
井戸×13,貯水槽×80(50日分の水を溜め71日分の能力あり)
給水は雨水を貯蔵タンクに集めて使用していたが,爆撃でタンクが破壊され,急激に増加した陸海軍部隊の需要を満たすため,20年1月海水分離器1台(患者用)を設備したほか,多くの空ドラム缶を利用(小隊陣地に1~2個)し,また特別の集水法として硫黄の噴気口に3本の杭を立て,ムシロをかぶせて集水した.
しかし,それでも水不足に悩まされ,兵団長以下1人1日3リットルとし,飲料水は1人1日水筒1本と限定,「水の一滴は血の一滴」として節水に努めた.
――――――
――――――
▼ 井戸が米側に制圧された後は水が欠乏,井戸汲み決死隊が組織されて犠牲者も出している .▲
▼ 一方で,越村敏雄著『硫黄島守備隊』には
「雨水を貯めるドラム缶やタンク,蒸気を集める施設などがあったとの記述を見かけるが,少なくとも私は見かけることは無かった」
と書かれており,将兵の使う飲料水のほとんどは地下水に頼っていたようです.
ところがこの地下水は,温泉水と呼ぶべき温度の高さで清涼感はまったく無く,しかも硫黄分や過度の塩分,水銀などの有害な重金属が含まれており,極めて毒性が高く,将兵のほとんどは上陸後10日以内に激しい下痢や嘔吐,発熱といった症状に悩まされることになります.
この水で米を炊くと,白いはずの飯が紫色に染まり,口に近づけただけで吐き気を催すような猛烈な硫黄臭が漂っていたそうな….
越村氏は硫黄島戦の直前に辛くも島を脱出できた幸運な1人ですが,その後は晩年まで長らく内臓疾患に悩まされていたそうです.
in FAQ BBS
青文字:加筆改修部分
▲
【質問】
硫黄島ではほかの戦場より戦果が上がってたように見えますが,ほかのところではこういった持久戦の発想はなかったんですか? 玉砕命令が出されることが多かったらしいですが.
【回答】
発想する人はいただろうが,日本陸軍に内在する欠陥のため,戦術を変えるものとはなかなかならなかった.
以下引用.
日本軍の規則および軍事著作物によれば,防御は消極的形態の戦闘であり,本質的に,また精神上,非日本的という烙印を押されているので,将校が喜んで防御解答を提唱するような戦術研究問題を書くことは非常に困難であった.
http://www.bekkoame.ne.jp/~bandaru/deta025.htm
軍事板
もう一つの大きな理由.
持久戦は基本的に勝ちのない戦です.
戦国時代の篭城戦と本質的に同じ.
時間を稼いで,その間に他の手段でなんとかする(増援,他方面での攻勢,終戦工作など)ための戦法です.
それら別策がないのであれば,ただ人命と時間を取引するだけなのです.
ただし沖縄戦では,同じ持久戦の発想によって,結構,米軍に出血を強いています.
我慢できなくなった参謀長が,攻勢作戦を主張して瓦解しましたけどね.
眠い人◆gQikaJHtf2
また,阿南第二方面軍司令官が(昭和19年)三月十日陸軍記念日に隷下各部隊に伝えた訓示の中に,万歳突撃による玉砕を戒めた項が有ります.
以下引用.
『玉砕は任務を解決せず.玉砕に対しては絶大の敬意と感謝とを表するものなりと雖も,之を以って事終れりとすべからず.選ばれて軍に奉じ況んや戦陣の間に臨み誰れか生死を論ぜんや.須くいかなる死に勝る苦難をも突破し,飽く迄敵撃摧に任務の完遂に努力せんとする強き敢闘精神と深き執着心をこそ必要とす.
一人にて生きてあらん限り敵撃摧に直進し,任務を果すを以って精神教育の基本となすべし.
又現下の作戦上,陸軍の将兵も亦「水漬く屍悔ゆるなし」」の信念に透徹せしむべし』
さらに,昭和19年6月27日付第二軍命令では
「ビアク支隊は玉砕することなく,極力ビアク島に健在し,現地自活を徹底しつつ,次期攻勢を準備すべし」
と,命令がだされ,各隊は夫々ジャングルの中に地域を分担したそうです.
ニューギニアの戦闘,ビアク島辺りから,玉砕を避け,ゲリラ戦によって米軍の進撃を遅滞させる方向に修正しているような感じがします.
もっとも,補給(滅多に)無し,援軍無し,されど敵性地域のジャングルの中で,自活しながらゲリラ戦を続けろというのは,「いかなる死に勝る苦難」であったでしょう.
【参考文献】
斉藤貞二著「目で見る連隊」(非売品)
第35師団第219連隊の戦友会で作られた,公刊戦史や帰還された将兵の証言,故人の残した記録,
防衛庁防衛研修所戦史室にて,当時,この戦史室に第35師団の作戦参謀として南方作戦に参加した方が在籍されていたので,その方等の協力によって,編纂された書籍であります.
遠吠えするいぬ in mixi支隊
硫黄島上陸作戦
【質問】
NHKの硫黄島の番組ですが,日本軍の戦車はアメリカの戦車と戦ったんでしょうか?
【回答】
戦車第26聯隊の戦車23両が硫黄島守備に就きました.
この聯隊は,重点進出攻撃と,対戦車戦闘を行い,戦車壕を進出地域に用意して,砲撃や爆撃を避け,前方に射撃掩体を造り,戦車を移動トーチカとして使用しています.
これにより,米国の一個歩兵連隊を攻撃したのを手始めに,交戦一ヶ月間で,砲兵小隊と合わせて,M4を270両屠ったとされていますが,結果的に徐々に損耗し,最後は玉砕しています.
眠い人◆gQikaJHtf2
【質問】
硫黄島で戦死したバロン西って,どんな人?
【回答】
本名:西竹一
1902/7/12生まれ.
7月12日,西徳二郎男爵(元外相)の3男として生まれる.
10歳のときに父親をなくし,麻布の土地一万坪などの莫大な財産を相続.
学習院初等科から府立第1中学校へ進学するも,2年次に突然,広島の陸軍幼年学校に転学.
次に陸軍予科士官学校に進み,卒業後,習志野の陸軍騎兵学校に長期学生として入学,馬術に専念してオリンピックを目指す.
イタリアからウラヌスという馬を購入,調教をしながらヨーロッパの大会を転戦,好成績を残す.
ウラヌスは体高181cm,アングロノルマンの中間種で,血統書もない去勢馬.
昭和7年のロサンゼルス・オリンピックの馬術大障害で金メダルを獲得.
当時のアメリカ国内では排日傾向が強かったにも関わらず,ゴールでは観衆11万人が
「バロン西!,バロン西!」
の大声援を送ったという.
4年後のベルリン・オリンピックにもウラヌスとともに参加したが,障害団体6位に終わる.
彼は決勝戦まで進んだものの,最後の障害を越す間際,愛馬の異変に気付いて振り上げた鞭を打たず,レースを放棄,メダルを捨てて愛馬の健康を気遣ったのだった.
その後,騎兵学校の教官等の役職を経て,軍人として現役復帰.
しかし西は,陸軍にあって最後まで頭を丸刈りにしない伊達男であり,英語を流暢に話し,人柄も明るく.米国通の国際人であったため,冷遇された.
昭和19年,硫黄島に派遣.
同20年2月16日,彼は愛馬ウラヌス号のたてがみを胸ポケットにしのばせたまま戦死.
この硫黄島戦では,米軍から
「バロン西,出て来て下さい,あなたを失うのは惜しい」
という投降勧告もあったという.
主人の死の1週間後,ウラヌスもまた病死した.
【質問】
去年,硫黄島を題材にしたドラマで,輸送機から竹槍が下ろされるシーンがあったようですが,本当に竹槍持っていったんですか?
【回答】
硫黄島に向かう輸送船に青竹を多数積ませたのは事実です.
これは,乗船する兵士一人一人に救命胴衣を付けさせることができないので,もし船が撃沈されたときには兵士がこの青竹を頼りに浮遊し,他の艦船から救出してもらう公算を上げるためです.
「闘魂 硫黄島」(光人社NF文庫 堀江芳孝)の中で堀江参謀が上記の理由で,青竹を買い付ける描写があります.
名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE in 軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
硫黄島では日本兵は,米軍の死体から奪った服を着たり,そのへんの死体から臓物や血を拝借して偽装して死んだふりをしておいて,背後から米兵に襲いかかったそうですが,敵軍の衣服とか着て戦闘すると,ジュネーブ条約の適用外になって,何されても殺されても文句言えないんでしょ?
なんでそんなことするの?
【回答】
2次大戦当時の日本兵に,ジュネーブ条約の知識は無い.
捕虜になるなら死ねと教えられていた.
ついでに言うと,捕虜になってしまって,そこから運よく帰隊してきたとしても,捕虜になったという事実は消えないので,さっさと死ねと(以下略^^;
へち ◆kK77XB6/ug in 軍事板
青文字:加筆改修部分
そもそも,玉砕戦で捕虜になること気にしてどうすんだよ.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
ウィキペディアの「硫黄島の戦い」の,以下のような記述
>終戦後
>終戦から4年後の1949年1月2日,潜伏していた最後の日本兵2名がアメリカ軍に投降した.
の,この「最後の日本兵2名」について教えてください.
【回答】
少しばかり検索活動を行っておりましたら,当時の新聞の内容を載せてあるサイトを発見しまして,最後の日本兵2名の名前が判明しました.
千葉出身 松戸利喜夫元海軍一等兵曹(38)
岩手出身 山蔭光福元海軍二等兵曹(25)
だそうです.
山蔭光福元海軍二等兵曹は帰国後,硫黄島に残してきた日記を見つけたいと米軍に申し出て,それが認められてまた硫黄島に戻りましたが,日記は発見できずに,投身自殺してしまったようです.
誰か昭和を想わざる ~流行歌と歴史のサイト~
http://www.geocities.jp/showahistory/
【昭和24年】昭和ラプソディ(上)
http://www.geocities.jp/showahistory/history03/topics24a.html
――――――■硫黄島最後の2人が帰還
________________________________________
昭和24年1/6,進駐軍総司令部はグアム島第20空軍部隊司令部からの連絡として,同日に硫黄島で米軍服を着た日本兵2人が投降したと発表した.
この2人は1/22午後7時30分に羽田空港に到着,千葉出身の松戸利喜夫元海軍一等兵曹(38)と岩手出身の山蔭光福元海軍二等兵曹(25)だった.
2人は昭和20年2月に硫黄島に派兵されたが,戦闘が終わった後も穴の中に隠れ,4年間,夜中に食料や衣料を調達しながら硫黄島に暮らしてきたという.
敗戦から1年半後には,米兵が落とした雑誌に,不忍池で米兵と日本人が一緒にボートをこいでいる写真があるのを見て,日本が敗れた事は知っていたという.
山蔭は硫黄島に4年間つけてきた日記を残してきており,その後,本にして出版するために拾いに行きたいと米軍に申し出て,昭和26年5/7に再び米軍機で硫黄島に降り立った.
しかし日記は発見できず,帰京間際の5/8午前10時30分,同行していた極東空軍司令部のスチュアート・グリフィンと,ジープ運転手のマッシュー・F・ドハーティ軍曹の目の前で,擂鉢山旧噴火口から390メートル離れた場所から,「万歳」と叫びながら投身自殺を遂げた.
日記が見つからない事に落胆していた様子で,米兵らがカメラを構えて山蔭を連れて擂鉢山へ登らせ,かつての穴居生活から出てくるところを再現する写真を撮影された直後に,飛び降りたという.
「自分のほかに硫黄島では158人しか助かった日本兵はいない」
などとも語っており,その助かったうちの1人であった山蔭の元上官は,山蔭自殺の報に,自分も擂鉢山に登ったらどうなるかわからないと語った.
――――――
山蔭の自殺は5/10の毎日新聞に掲載されて大きな反響を呼んだ.
さらに当時,失業鋳物工として江東区北砂町で暮らしていた山蔭は下宿先の部屋に遺書を残していた事が発覚.
発作的な自殺ではなくて,ある程度は覚悟の自殺だった事がわかった.
日記が見つからない時は再び日本に帰らない,と硫黄島での自殺を示唆するような文言が並び,日記とは別に硫黄島での生活を思い出して記した原稿があるので,それを出版した印税を郷里の母に渡すようにとも書かれていた.
この原稿には硫黄島の悲惨な戦闘の様子や,戦友松戸との穴倉での生活,そして昭和24年1/6の米軍への投降については
「いよいよ決心した.
飼っていた長太郎ねずみともお別れだ.
米軍陣地へ大手をふって近づいても,けげんな顔をするだけでとがめもしない.
MPに連れられて中尉にあった.
米士官たちは『ジャングル・ボーイ』と肩をたたいて,熱心に話を聞きたがった」
と記されていた.
――――――
CRS@空挺軍 in mixi,2008年12月20日18:24
青文字:加筆改修部分
【質問】
なんで結局終戦まで,アメリカ軍は台湾上陸作戦を立てなかったんですか?
【回答】
沖縄上陸作戦のときに,台湾上陸作戦も検討しています.
そのとき,沖縄上陸を選んだ理由としては,
・日本本土からの距離が遠いので,本土上陸作戦の中継基地としては不適当
・中国本土に多数の日本軍基地があり,日本側が制空権を確保するのが容易
・山がちの地形で,正面も広く,防御側に有利
一旦,沖縄を確保してしまえば,わざわざ台湾を攻める理由はないです.
太平洋戦線での米軍の基本戦略は,次の攻略作戦のために必要な島のみを占領し,それ以外の島は海上封鎖によって干上がらせるのみにとどめるというものでしたから.
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