◆◆陸戦史
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<アジア&太平洋方面・目次
<第2次世界大戦FAQ

『硫黄島』(R. F. ニューカム著,光人社文庫,2006.11)
『常に諸子の先頭に在り―陸軍中將栗林忠道と硫黄島戰』(留守晴夫,慧文社,2006/7)
『帝国陸軍の最後』(伊藤正徳著,光人社文庫,1998.2)
『ルソン戦記 若き野戦重砲指揮官の回想』(河合武郎著,光人社NF文庫,1998.7)
昭和20年フィリピン・ルソン島.十五榴(四年式150ミリ榴弾砲)装備した中隊の指揮官として,イポ陣地の攻防戦とその後のジャングルでの敗走を記した戦記.
著者は第8師団野砲第8連隊第12中隊の中隊長として昭和19年9月にルソン島に上陸.
その後数度に渡る陣地変更を経て昭和20年1月,マニラ市の水源であるイポダム付近の陣地で戦っています.
〔略〕
日本軍砲兵の戦いと,フィリピン戦の実情を知る事のできる一冊です.
(但し,著者の知りえた範囲内のことを記しており,フィリピン戦全般についての記述は控えめです)
―――グンジ in mixi, 2008年02月17日17:35
「ワレYouTube発見セリ」:To the Shores of Iwo Jima (ca.1945)
「ワレYouTube発見セリ」:The Battle for Iwo Jima
「ワレYouTube発見セリ」:US Marines Battle of Guadalcanal
【珍説】
韓国抗日運動の中で最も輝かしい戦果をあげたとされる「青山里大捷(青山里戦闘)」――日本ではあまり知られていない戦いだが,韓国の高校用
国定 歴史教科書には,以下のように解説されている.
「北路軍政署軍をはじめとする独立軍の連合部隊は,日本軍の大部隊と衝突し,六日間の十数回にわたる戦闘で日本軍を撃破し,輝かしい戦果をあげた(一九二○).これを青山里大捷という」
「大打撃を受けた日帝は,独立軍の抵抗を植民地統治の脅威とみなし,独立軍のみならず満州に住む韓国人に対してまで無差別に虐殺するという間島惨事を引き起こした」
※参考 「韓国の歴史」と日本 -> 大韓民国臨時政府と独立戦争
(2) 国内の独立戦争
【事実】
捏造である可能性が高い.
この戦闘に関する韓国内の記述は,実際に戦った独立軍ではなく,連携すらとれていなかった大韓民国上海臨時政府の『朝鮮独立運動之血史(著:朴殷植)』(※初版の原文は中国語)に寄っている.
また,日本側の史料である『間島出兵史送付の件』(アジア歴史史料センター レファレンスコード C20030227702 で閲覧可能)の内容と大きく矛盾しており,靖国神社等に残る記録にも,青山里大捷が原因と見られる大量の戦死者は記録されていない.
(軍事板)
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Stock/4433/kessaku/naver001.html
【質問】
日本陸軍が,純軍事的な意味で極東ソ連軍を脅威と感じ出したのは,いつ頃からか?
【回答】
山田朗によれば,「1929年7月,「満州」の軍閥・張学良(写真右)による東支鉄道接収に対してソ連軍が武力を行使,1ヵ月余りで張学良軍に大打撃を与えてからである」という.
また,脅威が大きくなったのは,満州事変以後であるという.
以下にその根拠となる箇所を挙げる.
満州における日本軍の軍事行動はソ連を刺激し,極東ソ連軍の増強は急ピッチで行われていた.
関東軍が,今だ満州において全力を挙げて反満抗日勢力と戦闘を続けていた1932年,ソ連はシベリア鉄道複線化工事を開始,また,同年4月には極東海軍再建に着手して,ロシア革命以来閉鎖されていたウラディヴォストーク軍港を復活させた.
満ソ国境の幾つかの地区にトーチカ陣地構築が始まったのも,1932年夏のことである.
1933年春になると,トーチカの構築が満ソの東部国境と北部の黒河対岸付近で再開された.
1934年以後の戦闘部隊増強は,1年間に狙撃師団にして3〜4師団と推定された.
参謀本部と関東軍が,具体的な対ソ作戦計画(「年度作戦計画」)を作成するようになったのは,1933年から(起草は32年夏)である.
(山田朗「軍備拡張の近代史」,吉川弘文館,1997/6/1,p.159-161,抜粋要約)
【質問】
柳条湖事件とは?
【回答】
1931年9月18日夜,奉天北部の柳条湖で南満州鉄道の線路が小爆破された事件で,これが満州事変の発端となった.
爆破したのは奉天独立守備隊の河本中尉らで,満州での兵力行使の口実をつくるための関東軍の謀略であった.
関東軍はこの爆破を当時北伐に呼応して抗日の色を濃くしていた奉天軍閥張学良軍によるものとして,
「全線全関東軍出動,奉天軍攻撃」
の命令を発し,張学良軍の宿営する北大営を砲撃した.
そのうえ,朝鮮軍が満州に越境進撃するなど,たちまち全満州に軍事行動が拡大した.
日本政府は当初不拡大方針を決めたが,のちに関東軍による既成事実を追認し,悪弊の因をつくった.
柳条湖事件の現場には,国際連盟からリットン調査団が派遣されて「リットン報告書」が作成され,日本は国際的にも孤立していった.
なお,確か,昔の研究書には柳条「溝」が使われていたのですが,現在の研究では,「湖」が正しい,となっていたか,と.
【質問】
蘆溝橋事件とは?
【回答】
1937年7月7日夜,北京南西郊の蘆溝橋付近で,演習中の華北駐屯日本軍一木大隊の中隊に対して,十数発の射撃がなされたことを契機に,日本軍と冀察政権第29軍との衝突に発展した事件.
日華事変の発端となった事件として知られる.
最初の十数発の射撃が,日本軍の謀略か抗日勢力によるものかは不明とされている.
国民党軍と日本軍を噛み合わせるための毛沢東の謀略という説もある.
9日未明には一応現地で停戦が成立した.
しかし,当初不拡大方針を声明した第1次近衛内閣は11日3個師団の動員を決定.
軍部内でも,拡大派と不拡大派が激しく対立するなど,矛盾をはらみつつ,戦線は次第に拡大,
28日の北京,天津総攻撃の開始をもって全面的な戦争に突入した.
中国側ではこれを契機に第2次国共合作がなり,抗日の機運が高まった.
また,秦郁彦によれば,事件自体の詳しい経緯は,以下の通り.
1937年7月7日10時40分過ぎ,豊台に駐屯する日本軍,支那駐屯軍第三大隊の第八中隊130名が,永定河盧溝橋河畔で演習中,昼間中国軍の姿のあった堤防陣地の方角から二度の銃撃を受けた.
中隊は集結したが,兵士一人が行方不明だった.
中隊長は直ちに一木大隊長に報告,一木の報告を受けた牟田口連隊長は盧溝橋に出動し,営長と交渉するように指示した.
盧溝橋には中国国民党軍,第37師219団第三営が駐屯していた.
行方不明だった兵士は20分後には判明したが,大隊長への報告は遅れた.
出動した一木大隊は午前三時過ぎ,一文字山に到着したが,中国軍のものと思われる銃声を聞き,牟田口連隊長も承認のもと,午前五時三十分には周辺の中国軍と交戦するにいたった.
この日,断続的に深夜まで交戦が続き,第三大隊は戦闘人員約500人中,戦死10人,負傷30人を出した.
中国側の死傷者は180人あまり(うち死者60人あまり)に達した.
この後,11日午後8時,停戦協定が成立した.
注釈:最初の銃撃が日中どちらの軍によるものか,今もって不明である.
(秦郁彦『盧溝橋事件の研究』東京大学出版会,1996.12)
もしも連隊長が牟田口でなかったとしたら,どういう展開になっていただろうか.
【質問】
盧溝橋事件後,停戦合意は守られたか?
【回答】
中国側停戦合意無視の,以下のような事件が起こっている.
・7/25 廊坊事件
北京ー天津の中間にある廊坊で,現地支那軍司令官の了承を得て,通信線の補修を終えた.
夕飯の食事中,支那軍に襲われ,一個中隊全滅の危機に陥った.
補修したばかりの通信線を使い,救援を依頼し,辛うじて助かった.
・広安門事件
北京入城を命じられた一大隊が二六両のトラックに分乗し,支那軍と打ち合わせた午後四時広安門についたが,門は閉ざされていた.
折衝の上,午後七時開門した.
先頭の三両が通過したとき,城壁上から一斉射撃を受け,日本軍は分断された.
・通州事件
日本軍の飛行機が,冀東防共自治政府の保安隊を誤爆した.
これに怒った保安隊は,日本軍守備隊と居留民を襲い,居留民124人,兵士18人を惨殺した.
この殺し方は残虐そのものであり,日本人の強い反感を買った.
これらは,不拡大方針から全面戦争に移行していった要因となった.
【質問】
最近,あるサイトで「通州事件」というものを知り,激しいショックを受けました.客観的に解説してください.
【回答】
中国軍による日本軍民襲撃事件.
北京東方20kmに存立していた,冀東防共自治政府(長官は殷汝耕)の首府の通州に,冀東保安隊のうち,張慶餘率いる第一総隊と教導総隊が駐留していた.
冀東防共自治政府と言うのは,満州事変の停戦協定によって,河北省東部に設けられた非武装地帯が,関東軍の支持の下,そこで冀東督察専員公署の督察要員だった,親日家の殷汝耕を担いで作った,冀東防共自治委員会が前身で,1935年に自治政府として,国民政府から独立を宣言したもの.
当然,軍隊組織もあり,治安維持目的の保安隊は,13,000名の兵力と,迫撃砲,重機関銃,野砲4門を保有
している.
また,南城門外に隣り合って,国府第二十九軍(但し,軍長は冀東政務委員会委員長の宋哲元が兼務)の一部である傳鴻恩大隊が駐留していた.
更に日本軍の守備隊(120名)と,細木繁中佐を機関長とする特務機関員10名が駐留している.
7月7日に勃発した盧溝橋事件の直後から,北京城西方と南方で,第二十九軍主力と,牟田口連隊が睨合い,小競り合いを起こしていた.
これ以前から,国民党は張慶餘に寝返りを勧めている.
さて,1937年7月27日,日本の支那駐屯軍は,28日に行う第二十九軍本営である南苑総攻撃の一環として,南城門外の傳鴻恩大隊を攻撃,潰走させた.
しかし,10時頃,天津から支援に飛来した平長一大尉を隊長とする九四式偵察機8機が,保安隊の幹部訓練所を誤爆し,十数人の死傷者を出した.
これを聞いた細木機関長は,すぐさま,殷長官に面会し陳謝と補償を申し出たが,張慶餘はこの機に乗じて,保安隊員を扇動し,29日未明に特務機関員を全滅させ,守備隊を襲撃した.
当時,この辺りは安全地帯と見なされて,日本人が約400名程度,避難または居留していたのだが,反乱軍は30余名の戦死者を出しながら,守備隊を破れず,また,当初目的としていた,防共政府長官の殷汝耕の確保と第二十九軍との合流に失敗し,また,日本軍一個連隊の増派によって,叛乱は終息した.
死者は,守備隊の30余名の他,市街戦での殺戮により,一般市民は婦女子を含む日本人104名,朝鮮人108名の犠牲を出した.
【質問】
中国は通州事件に対して謝罪したことはあるんですか?
【回答】
http://www.geocities.jp/yu77799/tuushuu/tuushuu1.html
によれば,1937年12月下旬,冀東自治政府と日本との間で謝罪,損害賠償が行われ,正式解決を見ているそうです.
以下は上記サイトよりの抜粋です.
「冀東政府の現政務長官池宗墨氏は事件解決策につき北京大使館当局と種々折衝中のところ大体左のごとき解決案を発見,池長官はニ,三日中に北京大使館に森島参事官を訪問,冀東政府を代表し正式陳謝をなし犠牲者に対する慰藉金,日本側機関に対する損害賠償など合計百二十万円を日本側に交付し,これをもつて同事件の正式解決をはかることに決定した」
(大阪朝日新聞,昭和12年12月23日)
ちなみに責任論を言うなら,通州事件を起こしたのは,冀東防共自治政府の保安隊のうち張慶餘率いる第一総隊・教導総隊.
この冀東防共自治政府は日本の傀儡政権でして,中国の国民党政権や毛沢東の八路軍が責めを負うべきかどうかは疑問です.
ただ,張慶餘は国民党軍への合流を画策していましたので,厳密に言えば中華民国政府にもその責任があるのかもしれません.
【質問】
昭和天皇は太平洋戦争の開戦には反対でしたが,支那事変に関してはどういう意見を持っていたのでしょうか?
【回答】
日本が大陸に権益を求めることは必然であり,その過程で武力を伴った衝突が起きるのは仕方がないと思っておられたようだ.
ただ,昭和帝自身はどちらかといえば,清帝国がしっかりとした形で存続し,清帝国と対等な立場で交渉して平和的に経済進出できないか,とは思っておられたらしい.
国民党は「反乱軍」八路軍は「共産主義匪賊」と言うような視点で見られていたよう.
満州国も昭和帝的は「清帝国の亡命政権」といった扱いで考えられていた節があらせられる.
しかし,支那事変とそれに続く日中戦争の拡大には,陸軍が勝手に戦線を拡大し,それを追及すると
「今度は勝てます」
「すぐに事変は収拾できます」
と答えてズルズルと戦争を長引かせているのを,ご不満に思われていたようだ.
昭和20年,ポツダム宣言受諾を巡る議論でも,
「陸軍は,支那事変はすぐに終結すると言ったが,今になっても一向に戦争は終わらぬではないか」
と陸軍を激しく非難なされた.
「始まってしまったものは仕方がないが,何故一向に自体を収拾できないのか?
陸軍は戦争遂行能力に問題があるのではないか?」
という疑問は持っておられた由.
支那事変の本格的開始とも言える第二次上海事変に関しては,むしろ積極策を支持していた.
と言っても,大アジア主義者のような夢想を抱いていた訳ではない.
通州事件に代表される中国国内での居留民殺害事件の多発によって,日本の権益が侵されている事に対し,国家としての解答が迫られていたと事.
普通の国家ならば当然,武力行使である.
また,諜報や暗号解読から国府軍が何らかの軍事行動を起こすことを知っていて,外交交渉の余地が無いことも察していた.
ならば一戦を持って勝利し,然る後に外交交渉に持ち込むものと考えられていた.
事変の収拾が困難になったのは,上海攻防戦の後,外交交渉に失敗したから.
参考までに言っておくと,参謀本部の意見は,戦端を開く事に消極的だが,戦争は已む無し.
意外だが,近衛や広田等の文民閣僚の方が積極策を支持,彼らが外交を拗れさせた.
【質問】
第二次上海事変で,日本軍は敵前上陸したにも関わらず,主武装は銃剣だけだったって本当ですか?
【回答】
呉淞(ウースン)上陸戦かな?
この戦いの概要は以下の通り.
蘆溝橋事件勃発後のいわゆる日華事変において,上海で日本人居留民を守りつつ奮戦中だった海軍陸戦隊を救援すべく,昭和12年8月23日に第三・第十一師団の2個師団から抽出された部隊が,呉淞の敵前に強行上陸しました.
しかし,クリークを利用した塹壕に阻まれて,作戦は困難を極め,さらに三個師団を追加して,ようやく11月に上海に突入することに成功しました.
http://www.bekkoame.ne.jp/~bandaru/deta02u8.htm
で,一応小銃弾は支給されていた模様.
ただ,「火器に頼らずもっぱら銃剣によるべし」という通達が出ていたのは間違いない模様.
要は防衛ラインの真正面に浸透戦のための兵力を揚げちゃった,と.

【質問】
日本軍が大陸で「皇軍」ならぬ「蝗軍」と揶揄されていたのは,行く先々で日本軍が米を食い尽くすから?
【回答】
日本軍を罵倒した言葉として「蝗軍」という言葉が使われていたのは確かですが,別にこれは「日本軍が行く先々で米を食い尽くす」からではありません.
中国では古来より,敵国・敵軍の表記には相手を人間以下の存在と決め付けるためにケモノ偏や口偏,虫偏をつけるのです.
例えば英吉利もアヘン戦争当時は[ロ英][ロ吉][ロ利]と表記されたりしました.
「蝗軍」というのもこれと同様の用法であり,日本軍が行く先々で米を食い尽くそうと逆に米を民衆にばらまこうとそれとは無関係に,どのみち中国に敵対した以上,虫偏をつけられることになったのです.
【質問】
三光作戦の話を聞きましたが,信憑性はどうなんでしょうか?
WIKIなどいくつか見たところ,真実性が疑われているようなのですが・・・
【回答】
中国大陸での日本陸軍が常に公明正大で慈悲の心にあふれた紳士的な兵士ばかりではなかった,ということだけは確実.
現地中国人に対する暴行,略奪,虐殺といった行為を「一切やっていない」という事はありえない.
しかしだからといって,そういった行為を「日本陸軍として」「組織的に」「明確な公的指令の下に」やっていたのか,というとそれはないだろう.
「そういう行為は実際に行われていたし数少なくも無かっただろうが,軍としての 組織的活動ではなかった」というところだろう.
【質問】
日中戦争での日本軍側戦死者は?
【回答】
厚生省のデータでは戦死者18〜19万人ぐらい.
ただし,このデータは純粋な戦没者だけと思われる.
研究者の三野氏によると,戦死者,行方不明,戦病死者,二度と軍務に復帰できない重症者をカウントすると,
12年5,1万人
13年8,9万人
14年8,2万人
15年4,2万人
16年4,1万人
という数字.合計 30,5万人.
当時の日本の常備軍が70万人ぐらいだから半分に近い.
ちなみに,べトナム戦争のアメリカの死者はすべて合わせても5,7万人.
昭和12年ぐらいから戦費はうなぎのぼり.
大変な国力の消耗であった.
それでいて大東亜戦争始めちゃう.
海戦が主であるのに,予算は半分こ.
東条なんかは
「太平洋は,海軍の担当」
などとほざく始末.
小さな戦闘で善戦するも,大きな流れで見ると,陸軍なんざ,やることなすこと最低じゃ.
【質問】
「日中戦争での日本軍の死者が30万人」って多すぎでないかい?
厚生省のデータでは戦死者18〜19万人ぐらいになってたと思うが.
【回答】
厚生省のデーターは純粋な戦没者だけじゃないか?
研究者の三野氏によると,戦死者,行方不明,戦病死者,二度と軍務に復帰できない重症者をカウントすると,
12年 5,1万人
13年 8,9万人
14年 8,2万人
15年 4,2万人
16年 4,1万人という膨大な数字になるとか.
合計 30,5万人さ.
ちなみに,べトナム戦争のアメリカの死者はすべて合わせても5,7万人であった.
そのため,伊藤正徳著「帝国陸軍の最後」(光人社文庫,1998.2)によると,昭和16年当時,現役陸軍51個師団のうち,
21個が中支戦線,
13個が満州にてソ連への警備,
2個が朝鮮,
内地備えが4個で,
「太平洋」戦争に使える師団は11個しかなかったという超ドキュンな実態だったそうだ.
それでも参謀本部は,日中戦争が全面戦争に拡大すると対ソ戦備がおろそかになるっていう理由で日中戦争の拡大には反対していたんだけど,現地軍と政府が突っ走ってしまったんだよねぇ...
【質問】
中国のwikipediaを見ると,日中戦争で日本の将官が沢山死んでいますが,これは本当でしょうか?
【回答】
中国版Wikipediaの記述は,戦死して特進した大佐を少将としたり,病死,事故死,自決した将官を戦死としていたり,と記述に誤りが多くあります.
しかも一覧の最後に
「以上,戦闘による死亡のみで,病死や自殺は含まない」
と,わざわざ但し書きが付いています.
おそらく戦果の水増しを狙った確信犯なのでしょう.
なお検証の結果,「戦死した将官」と断言できるのは9人ほどになります.中国版wikipediaだと40人以上になっていますが(笑).
しかし大戦中,病死,餓死を省くと支那戦線の死傷率が最も高いとされています.
生前が大佐となると大隊,連隊長クラスとなりますが,その辺りの戦死者が非常に多いのは事実です.
動員兵力もここが最大であった為,それに比例して指揮官の死亡者も多くなるかと.
ue ◆WomMV0C2P.
中国版のウィキペディアから簡単に抜粋すると以下の通り.
●国民党との戦いで陣没した日本軍将官
林大八,陸軍少将,1932年3月1日,死于上海.
?永辰治,陸軍少将,1937年8月29日,死于上海?淞.
家?治雄,陸軍少将,1937年10月11日,死于上海.
浅野嘉一,陸軍少将,1937年11月14日, ??致死天津.
加藤仁太郎,海軍少将,1938年7月31日,死于?江下游
.
杵春久藏,陸軍少将,1938年8月2日,死于山西?城.
?冢国五郎,陸軍少将,1938年9月3日,死于江西コ安.
小笠原数夫,陸航中将,1938年9月4日,坐机于湖北孝感被??.
?野?十,陸軍少将,1939年3月22日,死于南昌.
山田喜藏,陸軍少将,1939年5月12日,死于湖北大洪山.
田路朝一,陸軍中将,1939年6月17日,死于安徽南部.
小林一男,陸軍少将,1939年12月21日,死于内蒙古安北.
中村正雄,陸軍中将,1939年12月25日,死于广西昆??.
秋山静太郎,陸軍少将,1940年1月23日,死于山?.
左藤?,陸軍少将,1940年3月2日,死于江西??湖.
木谷?俊,陸軍中将,1940年3月20日,死于江西.
水川伊夫,陸軍中将,1940年3月22日,死于内蒙古五原.
前田治,陸軍中将,1940年5月23日,死于山西晋城.
藤堂高英,陸軍中将,1940年6月3日,死于江西瑞昌.
大冢彪雄,陸軍中将,1940年8月5日,死于晋?南.
井山官一,陸軍少将,1940年10月16日,死于湖北宜昌.
大角?生,海軍大将,1941年2月5日,坐机于广?中山被??.
??彦次郎,海軍中将,1941年2月5日 坐机于广?中山被??.
上田?,陸軍少将,1941年5月13日,死于山西中条山.
山??一,陸軍中将,1941年12月25日,死于安徽.
酒井直次,陸軍中将,1942年5月28日,死于浙江南溪.
冢田攻,陸軍大将, 1942年12月18日,死于安徽太湖.
藤原武,陸軍少将,1942年12月18日,死于安徽太湖.
浅野克己,陸軍少将,1943年5月,死于广??江.
仁科馨,陸軍少将,1943年6月1日,死于湖南.
K川邦?,陸軍少将,1943年6月28日,死于云南.
布上照一,陸軍少将,1943年11月23日,死于湖南常コ.
中??一,陸軍少将,1943年11月25日死于湖南常コ.
下川?忠,陸軍中将, 1944年4月19日,死于湖北?城.
横山武彦,陸軍中将, 1944年6月11日,死于浙江?游.
木村千代太,陸軍中将,1944年6月11日,死于河南.
和?基隆,陸軍少将 , 1944年7月21日,死于湖南衡?.
大?彦四郎,陸軍少将,1944年7月25日,死于湖南?衡会?.
左治直影,陸軍少将,1944年7月27日,死于湖北?州.
志摩源吉,陸軍中将,1944年8月6日,死于湖南衡?.
藏重康美,陸軍少将,1944年8月16日,死于云南?冲.
南野?重,陸軍少将,1944年9月8日,死于云南芒市.
与野山寿,陸軍少将,1945年2月9日,死于?中.
山?正?,海軍大将,1945年3月7日,死于浙江椒江.
●中共との戦いで陣没した日本軍将官
沼田コ重,陸軍中将,1939年8月12日,被八路???死于山?.
阿部?秀,陸軍中将,1939年11月7日,與八路?作戰死于河北?源.
吉川?佐,陸軍少将,1940年5月17日 被共?党?刺?于河南?封.
?田泰次郎,陸軍中将,1940年11月28日,與八路?作戰死于?北.
吉川?,陸軍少将,1945年5月7日,與八路?作戰死于山?半?.
注:以上全??斗死亡, 不包括病死,自?,?机失事,死于?蒙?,中美?合航空?和抗日民?之手(无?料分?国共).
中国語の「簡易字体」が表示されん……orz.
陸軍だけ.
実際は……
名前 死んだときの職,階級
林大八 歩7聯隊長,大佐
倉永辰治 歩6聯隊長,大佐
加納治雄 歩101聯隊長,大佐
浅野嘉一 北支碇泊場監 少将
杵村久藏 20D参謀長 大佐 病死
飯塚国五郎 歩101聯隊長 大佐
小笠原数夫 技本附 中将 病死
飯野賢十 歩103聯隊長 大佐
山田喜藏 歩33聯隊長 大佐
田路朝一 15歩兵団長 少将
小林一男 騎14聯隊長 大佐
中村正雄 歩21旅団長 少将
秋山静太郎 支那事変以前に予備役
佐藤謙 歩214聯隊長 大佐
木谷資俊 野重2旅団長 少将
水川伊夫,陸軍中将,1940年3月22日,死于内蒙古五原.←WHO?
前田治 35D師団長 中将
藤堂高英 14MBs旅団長 少将 病死
大冢彪雄,陸軍中将,1940年8月5日,死于晋?南.←WHO?
井上官一 11A作戦課長 大佐 病死
大角岑生 軍事参議官 海軍大将
須賀彦次郎 海軍少将
上田勝 歩227聯隊長 大佐
山県業一 歩119旅団長 少将
酒井直次 15D師団長 中将
塚田攻 11A司令官 中将
藤原武 11A高級参謀 大佐
浅野克己 23A高級参謀 大佐 病死
仁科馨 歩2356聯隊長 大佐
K川邦輔 56D参謀長 大佐
布上照一 歩109聯隊長 大佐
中畑護一 歩6聯隊長 大佐
下川義忠 第10野戦補充隊長 少将
横山武彦 歩62旅団長 少将
木村千代太 歩59旅団長 少将
和爾基隆 歩120聯隊長 大佐
大橋彦四郎 歩18聯隊長 大佐
佐治直影 39D参謀長 大佐
志摩源吉 歩57旅団長 少将
蔵重康美 歩148聯隊長 大佐
南野?重,陸軍少将,1944年9月8日,死于云南芒市.←WHO?
与野山寿 34A兵器部長 大佐
沼田徳重 114D師団長 中将 病死
阿部規秀 2MBs旅団長 少将
吉川?佐,陸軍少将,1940年5月17日 被共?党?刺?于河南?封.←WHO?
飯田泰次郎 35歩兵旅団長 少将 病死
吉川資 歩53旅団長 少将
中国版ウィキペディアでは,戦死して将官となった人を戦死した将官扱いしているのはいかがなものか.
それから戦病死も戦死もごちゃまぜだし.更に抜けてる人物もいるし.
>関根久太郎 歩58旅団長 少将
この人はシコウ作戦失敗のどさくさで戦死している.
後,大岑大将と須賀少将(海軍きっての支那通)や,塚田中将と藤原参謀が死んだのは飛行機事故.これで死んだ人は多い.大体進級している.
自分も中国版ウィキペディアを見た瞬間,
「こんなに将官が死んでいる訳ねえ!(笑)」
と違和感を感じ,死後に特進したのがゴチャ混ぜになっているだろうと当たりを付けていたのですが,やはりそうでしたか……(笑).
しかし,一覧の最後に
「以上戦闘による死亡のみで,病死や自殺は含まない」
と,わざわざ但し書きが付いているのは『お粗末』としか言いようがありません.
現代のシナ人は,たとえウィキペティアとはいえ,こういうレベルで議論をしているのかと思うと,先が思いやられます(笑).
【質問】
日本軍は中国軍に対しては勝ったの?
【回答】
日本は中国に侵攻して結局その「広大な国土」を制圧できなかったし,また制圧する力量を持たなかったにも関わらず,対中戦に「負けた」と思ってる日本人は少ない.
やれ便衣兵がどうの,すぐに投降しただのミニマムレベルでの話にすり替えて,中国人は卑怯だったとかだら
しなかったとか精神論に還元してしまって,対中国戦に「負けた」ことを認めようとしない.
中国のような広大な領土を有する国に対して,装備の精鋭さを自慢しても意味ないんだよ.
一旦開戦すれば,緒戦はともかく,結局は持久&
総力戦に持ち込まれる.
そうなった場合,日本と中国のどちらが持久力があると思っているのか?
◆◆◆南京事件
【質問】
南京大虐殺では結局,何人虐殺されたんですか? 諸説入り乱れて良く分からんのですが・・・
【 序 】
まず最初に心得ておくべきは,軍事板では南京虐殺やホロコーストについての話題は好まれない,ということである.
これらは既に戦史の域を離れてプロパガンダの道具と化しており,プロパガンディストの罵り合いに発展し易いからである.
「アンネの日記」の項でも述べられているように,細かい部分での議論は専門家に任せたほうがよろしい.
素人が適当に議論の端っこだけつかまえて,討議しようったって,水掛け論の信仰告白にしかなりゃしない.
もし専門的に討議したいのだったら,BBSで不毛の論争を繰り返すよりも,大学の史学科に入るなど,相応しい場を求めた方がよろしい.
まあ,人それぞれの人生だが….
【回答】
さて,その南京虐殺ですが,「幻」説から「30万人」説まで,外交的意図も絡んで諸説入り乱れており,現在も真相はよく分かっていません.
ただし,虐殺否定と30万人説は,完全に否定されているようです.
<捕虜や便衣兵を揚子江沿岸に連行して射殺・刺殺した件に関して>
まず,虐殺否定説では,その論拠である「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」によって,その殺害は交戦の延長としての戦闘行為,そして,便衣兵は捕虜の資格がないので殺害しても不法殺害にならない,としている点.
これは,武装解除している捕虜・便衣兵を自己の管理下に置いていながらそれを殺害するのは,戦闘の延長とは言えず,叛乱を起こしていない限り,不法殺害となる.
また,第一線部隊ではその処断権限はなく,軍法会議あるいは軍律会議の判決により処断すべしと言う,国際的慣習であり,現に上海派遣軍,中支那方面軍,第十軍に軍律会議があるので,勝手に処断できないはず,と言う論旨.
また,下関付近での包囲撃滅戦,揚子江を船や筏で逃げる兵士を射殺したのは,ハーグ陸戦規則の第23条ハ項を根拠にしているが,これは,「武器を捨てまたは自衛の手段尽きて降を乞える敵を殺傷すること」を禁じており,降伏の意思表示を示さずに逃亡する敵兵はこれに当たらない,としている.
その人数に関しては,「南京地方法院検察処敵人罪行調査報告」での数値を論拠に,30万人説が打ち出されてはいるが,日本側の証言・史料からは,第9師団歩兵第7連隊の安全区掃討作戦による便衣兵殺害の6,670名,第16師団第33連隊の太平門,下関,獅子山付近の捕虜3,096名の殺害,山田支隊の幕府山付近に於ける捕虜など数千名,第十六師団第30旅団が南京西部地区警備中に捕らえた敗残兵数千名,第114師団第66連隊第一大隊が雨花門外で捕らえた捕虜1,657名をそれぞれ殺害しており,日本側は都合20,000名であり,民間人の死者は,金陵大学のSmythe教授の調査によって(但し,これは推計の範囲を出ないと注記している)南京市部における暴行死者2,400名,江寧県の被殺者9,160名.
これに加えて,第16師団歩兵第38連隊の捕らえた捕虜7,200名を南京に護送して収容.
第6歩兵師団歩兵第45連隊第2大隊が5,500名の降伏捕虜を釈放,国崎支隊の歩兵第41連隊が,2,350名の捕虜を武装解除後,釈放.
また第16師団歩兵第30旅団が2,000名の便衣兵を収容している.
この何割かが死亡したとしても….
当時,南京にいたのは,中国軍の南京守備隊は実質兵力10万人弱,民間人は避難民が続出して,残っていたのは15〜30万人.
30万人説だと,南京に誰もいなくなってしまう訳だが,実際には20万人以上の人がいる.
従って,差し引き10万人以上であり,その数割は逃亡したか,中国軍に殺害されたか,病死したかしたとすれば,数万人というのが妥当な線…(ちなみに,秦氏は4万人説を唱えている).
後は,埋葬記録の矛盾とか百人切りの虚実についても史料を挙げて反論している.
結果,虐殺はあった.だけど,数十万人規模のものはなかったと言う形です.
なお,南京なんですけど,30万人説も含めて向こう系の方々の言う「南京」は行政区分としての南京行政区(当時.省と同格で日本の関東地方みたいな感じ),こっち系の方々のいう「南京」は南京城区(市街地,っても広いけど)と異なっています.
また被害者の範囲についても,こっち系は南京城攻略戦の過程で直接殺害された数,むこう系は南京地方に日本軍が侵攻し掌握していた期間に直接・間接的に犠牲になった数(犯罪・餓死・病死等含む.但し期間・死因の範囲をどこまで含むかは人によって異なる)と異なっています.
当然これらの原因は日本軍や戦争だけではないですけど,なんて言うかあの戦争による犠牲全体の話みたいな感じで,どちらかと言うと戦争犯罪云々ではなく戦争そのものの倫理的な面についての話なんです.
ここら辺を踏まえておかないとまるっきりスレ違いの話になってしまいますです.
でも向こうでもこっちでも,裏の取れてない数字や思い込みだけで語る方々も多いわけで…
ちなみに30万人の数字は,国府軍が当時発表した「上海攻囲軍と南京守備軍計80万人のうち損害30万人」が一人歩きしたと思われます.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2他)
【念の為もう一度】
上記に異論のある向きもあるかもしれない.
だが繰り返すが,もし専門的に討議したいのだったら,BBSでの論争など,素人同士の水掛論になるだけで不毛.
それよりは,大学の史学科に入るなど,相応しい場を求めた方がよろしい.
【珍説】
南京で日本軍に虐殺された3千万人の中国人の内,800万人位が石油で焼かれたらしい.
中国人は熱に弱いので証拠もすべて灰になってしまったらしい.
当時中国国内には内燃機関が普及していなかった為ガソリンがなく,仕方なく南京市内の全豆腐屋から中華油揚げを略奪して燃料としたと言われている.
「日本鬼子の残虐行為」98年版より
【事実】
死体が残るかどうかは燃焼時間と状況によります.
例え1000度超の火で焼こうが,燃焼時間が短ければ肉も残ります.火葬場で高温の窯で焼いて,かなり時間がかかるように,人一人を灰にするには,かなりの火力&時間が必要なのです.
全ての死体を石油で焼いたという主張は論外です.
石油の有無以前に痕跡がひどいことになります.
また,石油で数十万人焼いたら,どの程度の石油が必要になるか見当も付きませんし,下の方は焼け残ります.
常識で考えて,あり得ませんね.
【質問】
本宮ひろ志の漫画「国が燃える」の南京虐殺の描写は,どの点が問題なのか?
【回答】
南京虐殺の写真を作品のリアリティを保証する証拠として使った時に,捏造とされる写真を使い,さらに捏造の証拠である部分(服装が当時の日本兵と違うなど)を,『自分で書き換えて』(日本兵の軍服に描き直すなど)使ったこと.
他の場合でもフィクションの中とはいえ実名で証拠写真を書き換えて,事実として使うことは十分名誉毀損が成立します.
三国志ものなどでも,『史料を改変してさも事実のように描写する』のは非難される行為です.
(大河ドラマやNHKスペシャルでも,過去学会や研究者などからの抗議がありました)
『事実は事実,漫画は漫画』と言いたいなら,史料の改編・捏造はすべきでありませんでした.
http://perape.hp.infoseek.co.jp/memo/002/0929_motomiya.htm
('A`)<ひろ詩です…軍靴の音で夜眠れません.
('A`)<ひろ詩です…若者の右傾化が心配です.
('A`)<ひろ詩です…ぶっちゃけ集英社が悪いとです.
('A`)<ひろ詩です…朝日新聞が擁護してくれません!
('A`)<ひろ詩です…中国で漫画描かないかと誘われてます.
('A`)<ひろ詩です…南京大虐殺記念館に漫画が展示されたとです.
('A`)<ひろ詩です…パチンコ屋に版権を売りました.
('A`)<ひろ詩です…サラリーマン金正男を執筆中です.
ひろ詩です… ひろ詩です… ひろ詩です…
【質問】
所謂「南京事件」に関しまして,『南京事件「証拠写真」を検証する』
という本が刊行されています.
1.この書物に対して批判的な検証を行っている文献およびサイト
2.1の批判に対し反論を行っている文献・サイト
をご紹介ください.
【回答】
画像資料検証専用板
の1にあります.
「当掲示板は南京事件等日本の戦争犯罪をなかったものにしよう,正当化しようとする言説に対抗して設置された掲示板式資料検証集です.」
だそうです.
掲示板形式で見にくいかもしれませんが,『南京事件「証拠写真」を検証する』で取り上げられている写真についての反論が数多く載っています.
南京事件143枚の写真
こちらも1です.
『南京事件「証拠写真」を検証する』で取り上げられた写真が再検討されています.
◆◆◆第2次大戦以降
【質問】
バルバロッサ作戦と並行し,関東軍がシベリアへと北進しなかったのはなぜですか?
65万(関東軍)対145万(極東ソ連軍)では確かに相当な兵力差ですが,少なくとも陽動にはなりますよね?
極東ソ連軍を釘付けにしている間にナチがモスクワを落とすことも可能だったのでは?
あくまで結果論ですが.
【回答】
そのような作戦を実行するには兵力不足であり,仮に作戦を強行したとしても,メリットは殆どなかっただろう.
昭和15年度の対ソ戦予定兵力は,陸軍の師団総数49個の内34個師団を必須としていた.
しかし現実には,27個師団は中国で戦っている.
独ソ戦に呼応した対ソ戦計画である関東軍特種演習では,南進用の師団が更に引き抜かれ,僅か25個師団で作戦が計画された.
参謀本部も,これだけの兵力では極東ソ連軍32個師団に対して兵力が少なく,目標を達成できないとして
「師団数が41年9月までに半減すれば武力発動」
としたが,ソ連軍は動かず計画は流産.
ここまでは計画の話ですが,仮に強行発動したとして何が得られるでしょうか?
自信過剰の陸軍ですら二の足を踏む兵力不足.
ドイツがモスクワを落とすかも未知数ですし,
(参本ロシア課すらドイツによるソ連占領は不可能,ソ連の徹底抗戦は必至と判断していました),
アメリカもいかに動くやら.
仮にシベリアを手に入れても,地下資源は豊富かもしれませんが,開発には絶望的な時間がかかるでしょう.
ついでに,「ドイツの陽動」を行うにしても,三国同盟がろくに軍事戦略のコンセンサスを構築していない「精神上・名目上の同盟」でしかなかったこと,
ドイツの対ソ作戦についても,ドイツからの情報源は大島大使経由のドイツの大本営発表程度しかなかったことを肝に銘じておくべきでしょう.
モスクワ占領の維持も,ろくに兵站線の確保できていなかったドイツには,極東ソ連軍の派遣ある無しに関わらず困難だったでしょう.
【質問】
開戦時の,マレー方面における双方陸軍兵力は?
【回答】
イギリス側戦力
インド第9師団,インド第11師団,オーストラリア第8師団,マレー旅団2個
増援
イギリス第18師団,インド第44旅団,インド第45旅団
日本側戦力
第5師団,第18師団,近衛師団,第3戦車団
.
インド師団ですが,結構馬鹿にする人もいますけど,歩兵大隊の3分の1はイギリス本国の部隊ですし,グルカ兵等も含んでいますのでなめられないと思います.
現に北アフリカでも結構がんばっているし,ドイツとまではいかなくとも,イタリアよりは強いんじゃないでしょうか.
もっとも,マレーのインド師団からは,部隊の新編のため,一部の熟練兵がインドに帰国してしまっていたとも言うので,後のインド師団に比べればやや劣っていたでしょう.
オーストラリア第8師団は精強とされ,実際にも活躍していましたが,マレーには2個旅団のみが派遣されていたようです.彼らの牛肉の消費量はアメリカ兵に匹敵したといいます.(だからどうした)
イギリス第18師団は本国部隊であり,日本軍師団の戦闘力を欧州と比較するよい指標と成りますが,到着時には既にマレー旅団以外の友軍は大打撃を受けていたため,罠にはまりに来たようなものでした.
尚,マレー戦にはイギリス戦車は参加していなかったようですが,(キャリアーを除く)シンガポールには間に合ったとも聞きます.詳しい人教えて下さい.
日本軍ですが,第5師団は常設師団として精鋭であり上陸作戦の訓練を十分に積んでいたそうです.
また,この時期には未だ4個連隊編成で強力な歩兵戦力を持ち,自動車化されていたようです.
第18師団は日中戦争中に編成された特設師団で,第5師団よりはやや劣るかも知れませんが,実戦経験豊富な精強部隊です.この師団は3個歩兵連隊編成に改められていて,分離された連隊は川口支隊の母体となっています.
そういえば師団長はあの牟田口中将ですが,師団長レベルとしては勇敢な将軍といっていいかも知れません.
近衛師団は,全国から優秀な兵を集めて編成された常設師団です.実戦向きではないと言う人もいますが,日中戦争での近衛混成旅団の働きから考えて,十分に使える師団だと判断できます.マレーには,2個連隊のみが参加しました.
第3戦車団は関東軍から抽出された戦車連隊3個からなっており,九七式中戦車と九五式軽戦車を装備していました.軽戦車は別としても,九七式中戦車は対装甲火力以外は一応当時の水準に達しており,イギリス戦車が殆ど不在だったことを考えれば,かなり有力な戦力だったはずです.
まあ,制空権はまたもや日本側にあったので一概には言えませんが,第5師団はイギリス師団よりかなり強く,第18師団と近衛師団もやや強いと考えても自惚れでは無いかなと判断しています.いかがでしょうか.
また,シンガポール要塞は良くご存知のとうり陸側には余り厳重ではなかったので,日本軍の攻城能力を判断する基準としては限定された指標に過ぎないと思われます.
それよりは,要塞を避けてマリー半島を縦断する決定をしたことを,珍しく賢明な判断だったと戦略眼を褒めてあげましょう.そんな機会はあまりないから.
【神話】
シンガポール陥落後,山下奉文中将は,パーシバル中将との会見において,テーブルを叩いて「イエスかノーか」と威圧して降伏を迫った.
【事実】
これについて,山下は当時から否定していた.
以下,根拠となる箇所を引用する.
山下は,まず降伏するのかしないのかはっきりさせたかった.
しかし,何の条件も話し合わずに,いきなり降伏を宣言することは無条件降伏になるので,パーシバル中将はそれを非常な恥辱と考え,まず条件はこうだということを話した.
それが通訳を介して山下に伝えられる.
イライラした山下は後回しだとして,通訳に,
「降伏するのかしないのか,イエスかノーか聞いてくれ」
と言ったのが誤って伝えられたのだというのが真相である.
(森山康平著「秘蔵写真で知る近代日本の戦歴3 マレー・シンガポール作戦」,
フットワーク出版,'91,P.154-155)
【質問】
シンガポールでの華僑虐殺は,辻政信の仕業なんですか?
「シンガポールを占領した第25軍の河村参郎少将が,山下奉文司令官から華僑の検問を実施し,反日分子とみなされるものは殺すよう命令される.
(1996年にロンドンで発見された河村少将の日記による)」
と,書かれているサイトがあるんですが,山下大将が命令をだしていたのですか?
【回答】
辻〜んが山下将軍の名を騙り命令を発したと言うのが定説でしょう.
詳細は
http://www.warbirds.jp/ansq/5/E2000111.html
を参照してください.
【質問】
泰緬鉄道の建設では多くの現地人と捕虜が死亡したそうですが,あの鉄道に,そこまでするに値する価値があったんでしょうか?
【回答】
タイとビルマの間を海上輸送するとなると,大きくマレー半島を迂回しなければなりませんし,その間,通商破壊により,船舶が撃沈されてしまうリスクも大きいです.
また,船舶輸送は大きな輸送力がある反面,速度が余り出ませんから,時間が掛かります.
従って,タイとビルマを短絡する鉄道を敷設した方が,マレー半島大回りより時間が短縮出来ますし,戦闘に対する被害も貨車,機関車はある程度現地調達出来ますし,機構的に複雑なものでもありません.
総合的に見て,効果があると認められた訳です.
勿論,戦時中という時代相もあったのでしょうが.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2)
【質問】
長沙作戦について教えられたし.
【回答】
これについては,『長沙作戦 緒戦の栄光に隠された敗北』(佐々木春隆/光人社NF文庫)という本があります.
作戦期間中,最前線で戦い続けた著者が作戦の推移を記した一冊です.
太平洋戦争開戦時,香港攻略軍の支援を目的に(した筈だった)実施された(第二次)長沙作戦.
著者は二度の長沙作戦を第40師団歩兵第236連隊の一員として連隊長の亀川大佐の近くで従軍しています.
ちなみに陸軍に入った経緯は,力試しの積もりで陸士(予科)を受験(これも実は口実で,ホントは熊本へ遊びに行くのが目的だったと書いている)したら,ちょうど日中戦争による軍拡期にぶち当たっていた為に合格.
本人はその気は無かったのに,家族や周囲がお祭り騒ぎになってしまい,父親の
「今さら断れない.南京が落ちれば戦争は終わる」
との意見で入学しました.
(なんか,現代にもありがちな話だ(笑))
(士官学校時の交友や赴任後の初陣,討伐作戦のエピソードも面白いのだが省略)
第一次長沙作戦は長沙方面の中国軍を撃滅,重慶政権を動揺させ,転覆や和平を強要させる事が目的でした.
しかし,対米戦への兵力転用の為に作戦規模が縮小され,結果的にこれまでのピストン作戦(敵の攻勢の機先を制して出撃,敵戦力を撃破して占領地域の安全と敵の戦意喪失を図る)になってしまいます.
(大本営や支那派遣軍からは中止論も出ますが,第11軍の阿南中将は,兵力削減前に打撃を与えなければ自活自存できない,として作戦を決行)
第40師団は作戦序盤に百羊田で不期遭遇戦が発生,その後の行動に齟齬が生じますが,全体に影響を与えるほどではなく,作戦は終了.
作戦目的を果たせたわけでもなく,また早めに切り上げた事などもあり,これらが第二次長沙作戦の(苦戦の)伏線になっていきます.
第二次長沙作戦は太平洋戦争開戦後,香港攻略軍の支援と,広東へ南下する(かもしれない)中国軍の牽制を目的として『突然』思い立ち(比喩でもなんでもなく),ろくに準備が整わないまま発動されたいます.
作戦開始前,第11軍の中には,
「広州の第23軍(南方へ兵力を抽出していた)を助け,国軍全体の作戦を助けるための”道義の作戦”」
「牽制が目的だから長沙には向かわず,手前の汨水までしか行かない」
との噂が広まります.
しかし亀川連隊長は前者の噂について,
「作戦の効果と隷下の将兵の犠牲が吊りあわない場合,将兵への道義はどうなる」
とバッサリ.
そして先の作戦の損害も回復しておらず,物資の集積もなく,後者の噂を聞いてた日本軍は作戦開始早々に弾薬,食料が尽きかけてしまいます.
さらに,中国軍の後退を見た阿南中将は,追撃を決意.先の作戦で落とせなかった長沙攻略を命じてしまいます.
(この後退は作戦で,実際には日本軍を誘引して包囲撃滅する計画だった)
その為,参加部隊は作戦が進行するにつれ,弾も食料も乏しくなり,反転を命じられる頃には,優勢な中国軍の攻撃を受け被害甚大という状態.
最終的には追撃を振り切りますが,敗走になってしまいます.
連隊長の副官山崎大尉は
「なぜ長沙を奪りに行ったのか,オレにもわからん.魔がさしたんだろう!」
と回想しています.
阿南中将は従事武官を務め,後に陸軍大臣を務めるので優秀な人物だろうし,第一次の作戦前に巡視を行った際,著者が警護に当たった時の話から考えても優れた人格者なんだろうけど,実戦の能力や作戦面ではどうなんだろう?と考えてしまいます.
著者は
「積極果敢を心情とした古武士的風格と,統率力を備えた勇将ではあるが,精神至上主義な所があり,ついていけない面もあった」
と評しています.
一方で亀川連隊長は部下の命を惜しみ,人格にも優れてるし(しかし締めるところはシッカリ締めてる),日本軍の指揮官には珍しく「戦闘は火力」を信条にしてます.
(著者が連隊旗手(兼幹候教官)を申告した時,火力重視の教育を行うように,といわれています)
筆者いわく「非凡な凡人」で,仕えた四人の連隊長の内で最も優れた人物だそうです.
読んでいて面白い,お勧めできる一冊です.
グンジ in mixi,2007年11月10日16:46
【質問】
ガダルカナル攻防戦とは?
【回答】
南太平洋の小島,ガダルカナル島を巡る戦い.
日本軍将兵は3万1千人が参加,最終的な死者数は2万人.内戦闘死が5千人.残りはすべて病死及び餓死である.
一方,連合軍死者数は1600人であった.
大本営発表では「撤退」を「転進」と発表.
緒戦において,日本軍は小兵力の暫時投入により虐殺され(一木支隊が壊滅),これにより制空権を握られ,補給路を絶たれた.
この戦がまともな戦であったなら,ソロモン海海戦などもなく,連合艦隊水雷部隊が残存し,南太平洋での制海権の維持でき,故・坂井三郎氏が活躍したラパウル基地の航空兵力への補給も続行,制空権の維持も可能だった.
もともと両軍ともに,ここへの飛行場建設のために生じた戦闘であり,すでに完成していた飛行場を陸軍主力と海軍機動部隊とで維持できたと思われる.
【質問】
ちょっとお聞きしたいのですが,
「太平洋で米軍が日本軍のトイレを偵察したら,ウンコの量が多くてびっくりして,兵力の概算を誤った」
って話,昔からよく言われてるじゃないですか.
あれって出典は何処なんでしょうか?
コメを食うからウンコが多いという話も根拠を聞いた覚えがないです.
単なる都市伝説なんでしょうか?
【回答】
「信じられないが本当だスレ」まとめサイトにも同様の話があって,そのレスでは「糞尿博士世界の旅 中村浩」からと書かれてました.
それの真偽までは私は分かりませんが.
トイレの数だったんじゃないかなぁ〜
ただこの「トイレの数を〜」と云うのは,やや疑った方かもいい話かもしれません.
日本軍の暗号,通信読解に関わったホルムズ氏の話では,
「日本軍の兵力は,通信読解でほぼ分かってた! トイレの数? そんなモン数えてたかもしれないけど,通信読解はそんなモノを数えるより正確だった」
厠の数に関してですが,タラワ島 ベティオ環礁を事前空撮した写真には,桟橋上に突き出た厠が海岸線に並んでいるのがはっきりと写っており,捕虜情報で得た
「何人に付き厠を一つ設置するか」
から計算して,守備兵力が4000人台である事を特定出来たと,アメリカ人の書いた本で読みました.
その話は確か,サンケイの赤本『タラワ』がソースです.
今は NF 文庫で出てますね.
【質問】
玉砕って何? 以下の説明で合ってるの?
全滅という言葉も実は,一般に受け取られているように,一人残らず戦死した状態ではない.
〔略〕
旧日本陸軍では,玉砕と言った.
林信吾著『反戦軍事学』(朝日新聞社,2006/12/30),p.72
【回答】
玉砕と全滅は違うぞ〜
玉砕=殲滅だがに……
全滅というのは,同書でも,また,本サイトでも別項に述べられているように,人員の3分の1が戦闘不能になり,部隊としての戦闘を継続できなくなること.
一方,殲滅というのは,損耗約10割.文字通り,部隊が消滅してしまうことです.
例えば,最初に「玉砕」という言葉が使われたアッツ島(1943/5/29玉砕)では,山崎保代陸軍大佐以下,2400名の守備兵のうち,生還したのは27名.戦死率,98.88%.
ちなみに,戦後の遺骨収集により,最後の万歳突撃では,山崎大佐が文字通り先頭を切って突っ込んだことが確認されています.
グアムでは守備兵2万のうち,1万8千余名が戦死.戦死率,約90%.
ビアク島では戦死,約1万3千.生還者83名.戦死率,約99%.(ただし,早期に500名ほど脱出している.それを計算に入れても約95%).
サイパンは正確な数は不明.
ペリリュー島は,正確な数字は諸説あるが,一説には,総兵力9838名のうち,生還者は446名(軍属含む).戦死率,95.47%.
硫黄島では戦死者20129名(軍属含む).生還者1033名.戦死率,95.12%,
「報道に際して,味方が全滅したという表現を避けたのだとされるが,」(同書,p.72)
については,「全滅した」という言葉を「殲滅された」と入れ替えれば,まあ,だいたいその通り.
さっきふれた山崎大佐は,「軍神」とされて称えられたり,アッツ島玉砕が「軍人の華」として喧伝されたりもした.
困難な状況下での勇戦は称えられるべきだろうが,「神」だの「華」だのはどうかと思いますね.
その後に続く文章,
「『生きて虜囚の辱めを受けず=捕虜になるくらいなら死ぬ』
という教育が徹底していて」(同書,p.72)
は,これもどうかと.
別項に述べる通り,『戦陣訓』のせいだというよりは,日本社会の空気,ムードが,捕虜になることをためらわせたと言っていいでしょう.
サイパン島からの生還者なんて,軍人・民間人の別なく,そのあと,ひっでー扱いをされてます.
「空気」に弱い,という日本人の特性は,今も昔も変わってないようですね.
どうも,「大東亜戦争は軍人だけが悪い.日本国民は犠牲者だ」という認識が一部にあるようですが,そのせいでしょうか?,日本社会のせいではなく,「軍人教育のせいだ」と矮小化されることがあるのは.
実態としてそうではなく,むしろ,民間の方が先走って暴走――英語禁止,外国人への投石(被害者はドイツ人にも)など――さえしていた,というのは記憶されておくべきでしょう.
この本は,2〜3冊本を読んで,2ch.軍事板に行き,自説を滔々と述べて叩かれるような,厨房が書いたエッセイ程度のものでしょう.
暇なときに,著者をバカにしながら読むには丁度良い本ですわ.
万歳突撃後の死屍累々

(うそ)
【質問】
大陸打通作戦ってどういう作戦なんですか?
【回答】
昭和19年初頭から行われた,中国での大規模な攻勢です.
細かいことは
http://yokohama.cool.ne.jp/esearch/sensi1/sensi-ichgo1.html
このあたりで
【質問】
ペリリュー島での米第一海兵師団の損害は?
【回答】
日本軍守備隊は以下の陣容.
第十四師団第二連隊(水戸,3,300人)を基幹に第十四師団戦車隊(12両),
第十五連隊第三大隊,独立歩兵大隊,海軍部隊等で総兵力約10,100人.
米軍側は以下の陣容.
第一海兵師団(24,200人),第八十一歩兵師団(19,700人),海軍部隊(5,000人)の総兵力約48,700人.
戦闘結果は以下の通り.
日本側:玉砕
米軍側:第一海兵師団(死傷者約6,300),第八十一歩兵師団(死傷者約3,700).
これだけだと,意外に第一海兵師団の損害が少ないように見えるが,その詳細は,
第一海兵師団,基幹3個連隊.
第一連隊:損害率56% → 戦闘能力喪失認定
第五連隊:損害率43% → 戦闘能力喪失認定
第七連隊:損害率47% → 戦闘能力喪失認定
第一海兵師団はガ島戦にも参加した,当時米軍でも屈指のエリート部隊.
守備隊の善戦に対する,陛下の御嘉賞は異例の11回を数えた.
http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/gyoku-pll.htm
本防衛戦の詳細については,児島襄氏の「天皇の島」参照.
下画像は,パラオの監視塔の壁面に書かれている文字.
これには,ちょっと泣きそうになった……

【質問】
サイパン島では「バンザイ・クリフ」が有名ですが,同島の日本軍には,投降者は誰もいなかったのですか?
【回答】
いました.
米軍側には,投降を説得するための特殊コマンドまでいました.
以下引用.
訃報 〜サイパンの笛吹き男〜
●ガイ・ガバルドン氏
(太平洋戦争中,サイパン島上陸作戦に参加した元海兵隊員)
ニューヨーク・タイムズ紙(電子版)によると,8月31日,フロリダ州で心臓病のため死去,80歳.
44年6月,海兵隊二等兵として南太平洋のサイパン島上陸作戦に参加. 玉砕戦を挑む日本軍に対し,「一匹おおかみ」と自ら名付けた「説得作戦」を提案し,実行した.
日本軍が潜む洞窟などに一人で夜間に潜入.片言の日本語で降伏後には尊厳をもって取り扱うことや,日本への帰還を約束,一日に約800人の日本兵を連れ出すなど計1000人以上を降伏させ,「サイパンの笛吹き男」と呼ばれた.
この活躍ぶりはのちにテレビドラマや映画にもなった.
(2006年9月6日付け中国新聞より引用)
サイパン戦と云うと 『バンザイ・クリフ』 が有名ですが,その一方で,こういう人も居たんだ〜 もっと知られてても良い人だな〜 と思いましたのでここに転載し,ガイ・ガバルドン氏のご冥福を祈りたいと思います.
この人を題材にしたドラマや映画があるものなら,ぜひ見てみたいものですねぇ……
ベタ藤原 in mixi,改

サイパンの偽対空機関砲

◆◆◆フィリピン防衛戦
【質問】
比島防衛を巡り,大本営,総軍と,現地の幕僚との間では,どのような意見の違いがあったか?
【回答】
第35軍参謀長・友近美晴少将の手記によれば,次の通り.
「参謀本部では,
『比島のように大小3千以上という多数の島嶼群から成っているものの防衛は,陸上撃滅戦ではいかぬ.
航空戦で上陸軍を海上で叩き,上陸軍がひょろひょろの状態になったところを陸上防衛軍が叩けばよい.
すなわち,比島防衛は航空機によるもので,地上軍はこの航空機の戦闘を助ければよい.
したがって作戦準備では,地上軍は飛行場建設・燃料集積とか,航空部隊の掩護をやればよいので,地上戦闘の陣地構築とか訓練などは二の次である』
というのであった.
そして,この方針で第11号作戦準備が第14方面軍に課された.
当時の黒田司令官は,
『そのイデオロギーはよいが,イデオロギーだけで戦争はできぬ.
飛行機で米軍を皆海没させるなど,言うべくして実行はできない.双方の航空兵力を比べれば判る.
主戦闘は必ず陸上で起こる.そのときには我が航空兵力は零に等しい.
いくら14方面軍が航空部隊のために働けと言われても,地上決戦が起こったら戦いをやらねばならぬ.
したがって,地上軍自体の準備も進めねばならぬ』
という意見であった.
黒田司令官の交代の理由には,こうした見解の相違が一つの理由であったようだ.
この黒田司令官の意見には鈴木・第35軍司令官もだいたい同意見で,
『大本営で言うほど我が航空軍も充実せず,連合艦隊も当てにはなるまい.
ゆえに地上軍の作戦準備は促進せねばならぬ.
それかといって,航空軍に気を腐らせてはいけないから,できるだけの力で航空作戦準備もする』
というのであった.
また,黒田司令官は,
『比島の至るところを防衛するには,いくら兵力があっても足りない.ミンダナオ島だけでも10個師団は要るし,そういうことは到底できない.
ゆえにルソン決戦に備えて方面軍をルソンに集結する.
ミンダナオに上陸したときはあっさり放棄する.すなわち,同島にある第30師団も,レイテ島の第16師団も,大部分はルソン島に呼び返す』
という考えであった.
しかし南方総軍では,この考え方では,敵がミンダナオに上陸すれば,南方と日本内地との交通が遮断されるというので,9月初め頃にはミンダナオ島の軍の配置を総軍命令で決めるという有り様であった」
この総軍のやり方には,第14方面軍も第35軍も不満であった.
第3船舶輸送司令官・稲田正純中将の手記「傍目八目」によれば,
「5月,総軍司令部は昭南からマニラに進出した.
その結果,無力であった第14軍をカヴァーして作戦準備が相当促進されたことは事実だが,他面,占領以来,比島の仕事を専管してきた14軍と,総軍の業務の分界がすっきりせず,撞着する事態も少なくなかった.
黒田司令官も総軍の前参謀長であったし,意思はよく通じていたにもかかわらず,
『やりたければ総軍が勝手にやるがいい.どうせ物にならぬ作戦準備なのだから』
とでもいった批判的態度を持していたくらいだった.
その第14軍が第14方面軍となり,やがて10月6日,新司令官に山下奉文大将が,同20日に新参謀長に武藤章中将が着任し,陣営が整ってくると,総軍司令部はだんだん中に浮いていく感があり,総軍の存在はむしろ簡明直截な陶酔を錯雑化するに過ぎなかった」
(「比島戰記」,日比慰霊会,1958/3/12, P.160-161,抜粋要約)
【質問】
なぜ大本営は,従来の作戦方針「ルソン決戦,レイテ防戦」を一夜の内に変更し,「レイテ決戦」を決めたのか?
【回答】
中村八朗によれば,「台湾沖航空戦の幻の戦果を信用したため」だという.
以下,引用.
大本営では,米軍がレイテ島に侵攻してきた事は知っていたが,せいぜいマッカーサー指揮下の4万程度と判断していたようだ.
また,台湾沖航空戦で米軍空母を全滅させたと誤解しているから,制空権のないレイテ海域へマッカーサーが反攻してきたのは,まさに飛んで火にいある夏の虫だと判断したのである.米軍は空母を失っているから,空軍基地にモロタイ,パラオの飛行場を利用するしかない.しかし,距離が遠すぎてレイテの航空戦には参加できない.大本営はそう考えていた.
その判断から,米軍に制空・制海権がないため,フィリピン各島間の日本軍の移動は容易であると考えた.
かつ,台湾沖航空戦で海軍機の大半は失ったが,陸軍機はまだ健在だから,レイテの航空戦は陸軍機で足りる,と判断したのである.
南方総軍でも,寺内元帥以下司令部内では9月頃から「レイテ決戦論」が出始めていた.大本営の方針通りに「ルソン決戦」で行けば,ビサヤ地区(レイテ,ネグロス,セブ,バナイ各島)が敵に占領され,敵空軍跳梁を許すことになり,たちまち苦境に追い込まれることになる.
そうなったら,ルソン決戦も成立しなくなる.
そこで,敵がビサヤ地区のどの島へ来ても,そこで決戦すべきだという考えだった.
したがって,南方総軍では大本営の方針変更は大歓迎だった.
しかし,第14軍司令官,山下奉文大将は「ルソン決戦,レイテ防戦」を固い信条としていた.
そこで寺内は,レイテの兵力増強にはルソン以外からの兵力を転用(上海に待機中の第1,第26師団.満州公主嶺の第68旅団),ルソンの防備は手薄にしないと約束して山下を説得.
山下も折れた.
寺内元帥は命令を発した.
「驕敵撃滅の神機到来せり」
(中村八朗「雄魂! フィリピン・レイテ」,学研,1972,p.164-168,抜粋要約)
「神機」…….
【質問】
米軍によるマニラ空襲は何故,奇襲になったのか?
【回答】
前日に,明午前中に演習がるという連絡があり,日本軍兵士は米軍機を最初,友軍機だと思っていたため.
以下に,その体験談を紹介する.
「正確には米軍が大空襲作戦を開始した昭和19年9月21日の正午前であったと思う.
その前日,内務班の通達で,明午前中に演習があるという連絡があったのだ.
兵隊達はもちろん誰一人として緊迫した気持ちはなく,至極当り前の表情で,その朝を迎えたのである.
私は遥か彼方のマルビレスの山頂に豆柱ほどの黒い二,三点を見つけ,それがほどなく数機の飛行機であることに気付いたが,疑いもなく友軍機と信じ,兵舎の2階から戦友と見物していた時である.前の1機が不意に真黒い煙を上げ,アッと息を呑む間もなく海の中に突っ込んだのだ.
演習でこんな事態が起きるのは,余程の異変である.咄嗟に私の背筋をゾッと冷たいものが,電撃に似た速さで突き抜けた.
そしてもう,海中に没して見えなくなった筈の飛行機が,私の体内で黒煙を上げ,広がってゆく.
その猜疑の妄念を嘲笑うが如く,黒い雲と化した数知れない飛行機が,マルビレス山頂から湧き出すように現れ,マニラ湾の海面をスレスレに低空飛行で来て,私達の兵舎の頭上をヒユゥーンと物凄いスピードで掠め去り,空港に殺到するや,ドドドドーンと爆弾の雨を降らし,キューンと無気味な金属音を残して急上昇し,もうマルビレスのほうに飛び去って行ったのだ.
その間幾分であったか,否,数秒であったか詳らかでない.
『わあ!! 敵の空襲だ!! 演習ではないぞ! 本当の敵襲だ!』
と,私は声を限りに叫び続けた.
度肝を抜かれた兵達の動転ぶりは,その極みに達した.演習だと信じていた日に,この予期しない急変に,もう周章狼狽という表現以上の体たらくである.
米軍は日本軍が演習をやる日を察知して,この日の奇襲を敢行したと思料される.
瞬時に人間が思わぬ事実に遭遇したとき,驚き,恐怖をさらに倍加するものはないであろう.
とっさにどう対処すべきか,浮き足立った人心を押さえる事は不可能で,寸時の頭脳の回転が必要である.
『わあ!!』
と,蜘蛛の子を散らすように兵達は思い思いの方向に走ったが,その間にも次々と戦闘機の波状攻撃が続けられたのである.
この執拗な攻撃は,4波であったか5波まで続けられたか記憶が詳らかでないほどの激しさであった」
(泉桂吉〔元第16師団兵士〕,「比島への道」,
新風舎,2003/9/6, p.75-76,抜粋要約)
【質問】
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/ann/20050507/20050507-00000017-ann-int.html
フィリピンでの旧日本軍の行為を批判し,大戦末期,マニラで毎日3000人を虐殺したとされることが日本の歴史教科書に載っていないとして,加藤駐米大使に謝罪を求める要望書を提出しました.
当時の日本軍に可能なのでつか?
【回答】
当時マニラにいた日本兵は約二万.犠牲になった市民の数は10万と言われています.
被害の原因としては,米軍がマニラ解放のために連日無差別砲爆撃を行ったことと考えられます.
体よく責任を押しつけられた形ですね.
【質問】
フィリピン防衛戦における,日本軍の陣地構築状況はどうだったか?
【回答】
『ルソン戦記 若き野戦重砲指揮官の回想』(河合武郎著,光人社NF文庫,1998.7)という本があります.
著者は第8師団野砲第8連隊第12中隊の中隊長として昭和19年9月にルソン島に上陸.
その後数度に渡る陣地変更を経て昭和20年1月,マニラ市の水源であるイポダム付近の陣地で戦っています.
同書によれば,イポ陣地の場合,陣地自体は難攻不落な地形――前縁地帯には多数の鍾乳洞を利用した陣地.西は道路一本を除いて断崖.南は湿地帯.北は大峡谷アンガット河.東は前人未踏のジャングル――ですが,堅固な陣地を作るには時間が無く――台湾沖航空戦の誤報やレイテ決戦への方針転換などの影響による陣地変更で時間を浪費してしまった.イポ周辺はセメントの産地なので,十分な時間があったらコンクリート製の陣地が作れたはずだ,としている――,作業も敵機を警戒して作業は夜間のみ.
他の部隊との木材の争奪戦(建材に適した木材は少なく,見つけた木には番兵を残した)など,様々な制約がありました.
(陣地は約50uの地積に3mの穴を掘り,柱を立てて屋根の上に1mの土を盛る.その中に火砲を入れた)
また,イポ陣地を守る河島兵団(歩兵第82旅団)の殆どが,
航空部隊の地上要員(通信や整備,航測など)
他方面へ向かう途中でフィリピンで立ち往生したり,原隊が海没した将兵
病院を退院した(させられた?)将兵
で,正規の戦闘訓練を受けていた部隊は
第8師団の歩兵第31連隊と野砲第8連隊(前者は後に他方面へ移動)
独立歩兵第358大隊(移動中に五分の四が海没し,ルソン島で再編成)
のみ.
食糧も不足しており,保存食糧は命令で使用が禁じられ(補給の当てが無く,攻防戦がどれぐらい続くのか分からない為),三度の食事はパラパラと入った米と芋の葉(時期が悪かったのか,芋はついてなかった)やバナナの木の芯(幹を剥いていくと最後にズイキに似たものが残る.下痢をしやすいが,毒ではない)を混ぜた雑炊
椰子の芽(生食だと生栗のような,煮ると竹の子のような味がする)を塩味を強くした総菜という,カロリーを無視した物になっています.
この様な逆境の中,しかし中隊は砲撃や挺身切り込みなどを行います.
特に4月8日には,陣地前面に攻撃をかけてきた米軍に対する砲撃で第8連隊は武功章を授与されています.
また,戦線を突破してきた米軍に対して砲撃を行ったり,陣地奪回も行っています.
(著者は陣地奪回の際,先頭に立って突撃の指揮を執っています)
しかし機械力の差(著者はこの戦いで初めてブルドーザーを見た,と記している),そして圧倒的な戦力差によって陣地は崩壊.転進命令によりすべての火砲を破壊,半減した隊員を率いてジャングルに入り,集結地点の「十三の谷」(兵団はここに物資を集積していた,と言われてた)を目指します.
グンジ in mixi, 2008年02月17日17:35
【質問】
レイテの地上戦が,敵上陸1ヵ月も経たない内に敵に主導権を握られるようになった理由は?
【回答】
米軍がレイテに大輸送船団を送り,一挙に大軍を集中したのに反し,日本軍の作戦準備が不統一で,このために兵力集中が遅れてしまったことである.
ことに,空襲と潜水艦,魚雷艇などで海上を米軍が荒らし,日本軍の輸送を妨げたからだった.
以下に,その根拠となる箇所を引用する.
第1に捷一号作戦では,地上戦の決戦場はルソン島に決められており,中南部の島々では海軍と航空部隊が受け持ち,地上軍はこれを援助するということだった.
そして地上作戦の最高指揮官である山下大将が,第14方面軍司令官として着任したのが,レイテ上陸戦の僅か2週間前,軍参謀長武藤章中将が着任したのが上陸戦当日だった.
武藤中将は,移動命令で10月18日シンガポールからマニラに来る途中,パラワン島のポート・プリンセサ飛行場に着陸した際,米機の襲撃を受け,飛行場を焼かれて命からがら逃れるという一幕もあった.
そして20日,たまたまルソン島から退避してきた爆撃機に便乗してクラーク飛行場に到着,灯火管制の真っ暗な道を,マッキンレー兵営の第14方面軍司令部に到着したのだった.そこは旧米比軍兵営で,地下50mくらいの深い防空壕があった.
翌朝,武藤参謀長は,この壕内で司令部の各部長や参謀と初めの会見をしたが,参謀達も山下司令官と相前後して着任した者が多く,フィリピンの情況に通じている者は少なかった.
そのとき,田中参謀が米軍のレイテ上陸を報告すると,武藤参謀長は,
「上陸とは面白いぞ.ところでレイテ島はどの辺にあるのか?」
と言ったという一つ話さえ残っている.
一方,大本営がレイテで地上決戦も行うよう決定して,南方軍に指令したのは,この20日だった.
南方軍総司令部ではこの方針を第14方面軍に指示したが,方面軍では,今突然命ぜられても準備もなく,輸送が困難で,また,ルソン決戦もできなくなるという理由で受容れなかった.
そこで22日,寺内元帥が山下大将を招致して直接に話をつけ,「神機到来」の命令を下したのであった.
(「比島戰記」,日比慰霊会,1958/3/12, P.139-140,抜粋要約)
【質問】
フィリピン戦当時の日本陸軍の輸送能力はどうたったか?
【回答】
『ルソン戦記 若き野戦重砲指揮官の回想』(河合武郎著,光人社NF文庫,1998.7)によれば,日本軍は戦う前から劣悪な条件を多く抱えており,特に輸送力の問題が目に付きます.
元々は150頭の軍馬があてがわれてたのですが,フィリピンへの移動の際,輸送船不足の為に定数の三分の一に減らされており,それも糧秣の不足(日本軍の多くは軍馬を使用しており,日本軍はこの時期,兵力を集中していた)や酷暑,過労で次々と倒れていきます.
軍馬の不足分は水牛などを徴発(勝手に持ってくる)で補おうとしますが,これらは疲れるとすぐにへたり込み,仕方なく牛で引っ張る大八車にその牛を載せて運んだそうです.
グンジ in mixi, 2008年02月17日17:35
【質問】
フィリピン防衛戦当時の日本陸軍の食糧状況は?
【回答】
例えば『ルソン戦記 若き野戦重砲指揮官の回想』(河合武郎著,光人社NF文庫,1998.7)によれば,食糧も不足しており,保存食糧は命令で使用が禁じられ(補給の当てが無く,攻防戦がどれぐらい続くのか分からない為),三度の食事はパラパラと入った米と芋の葉(時期が悪かったのか,芋はついてなかった)やバナナの木の芯(幹を剥いていくと最後にズイキに似たものが残る.下痢をしやすいが,毒ではない)を混ぜた雑炊,椰子の芽(生食だと生栗のような,煮ると竹の子のような味がする)を塩味を強くした総菜という,カロリーを無視した物になっています.
〔略〕
そして圧倒的な戦力差によって陣地は崩壊.転進命令によりすべての火砲を破壊,半減した隊員を率いてジャングルに入り,集結地点の「十三の谷」(兵団はここに物資を集積していた,と言われてた)を目指します.
しかし
食糧不足(保存食糧は多数残っていたが全部持って事はできず,脱出時は二週間分の米を持っていたが,これまでの節約の反動で殆どの兵が一週間で食べてしまった.ただ幸運な事に多量の塩を持たせることができた.ジャングルでは上述したバナナの木はもちろん,タヤバスの実や河の蟹などあらゆるものを食べている)
米軍やゲリラの攻撃(観測機が常時飛んでおり,目に付いたものには砲撃を加えた.ゲリラもマンゴーの木や籾の入った米籠の近くで待ち構え,日本兵を射殺していった)
そして病気や栄養失調で多くの兵士を失います.
また規律も崩れかかっており,米を食い尽くした兵士がまだ残してる兵士の米を盗もうとして乱闘になっています.
さらに,
・著者の部下が水筒に水を汲もうと沢に下りたら,友軍の物取りに撃たれて負傷した
・人肉を食べた兵士の一団を発見した将校が即座に射殺した(伝聞)
・河島兵団司令部が日本兵に襲撃され,兵団長が軽傷を負った(食糧目当ての強盗.その後,偶然にも合流した著者の部隊を親衛隊にして警護に当たらせた)
などの凄惨な話もあります.
グンジ in mixi, 2008年02月17日17:35
また,火野葦平もこんな悲惨な記述を遺している.
[quote]
「だって,北ルソンの山奥に逃げこんで,まるきり,人間の食ふものでないいろんなものを,手あたり次第に食つたからな.
饑餓といふ文字は,前から知つてゐたし,その概念も理解してゐたが,自分が實際に飢ゑてみて,僕らの智識がいかに口甘ちよろいか,わかつたんだ.
乞食とか,餓鬼とか,獸とか,そんな生やさしいもんぢやない.地獄といふ言葉も,遠いほどだ.到底,眞實を表現する言葉がない.君も,一度その状態におちいらねば,ほんたうのことは,わかるまいよ」
―――『バタアン死の行進』(小説朝日社,1952/10/5), P.23
【質問】
なぜ米軍はオルモック湾に上陸したか?
【回答】
レイテ作戦の早期終結を企図したもの.
日比慰霊会による解説は以下の通り.
1944/12/6,米第77師団を乗せた輸送船団,約40隻は,レイテ湾を出発,翌日払暁,隠密の内にオルモック湾に到着した.
オルモックの海岸砲台は先制砲撃を加えるも,敵駆逐艦群も一斉砲撃し,これを沈黙させる.
特攻機は米艦船7隻を撃沈したが,延べ約50機に及んだ日本軍機の攻撃は,36機が撃墜され,米軍は上陸に成功.
日本軍第68旅団の輸送船団,赤城山丸,白馬丸,第5真盛丸は8日朝,サンインドロに各坐上陸したが,重機材,軍需品は放棄.
一方,第30師団第77連隊の2個中隊が機帆船でオルモックに上陸,オルモックを守備する,光井大佐指揮下の船舶部隊の中心となって戦闘したが,米軍は上陸後1時間足らずで橋頭堡を構築.
市街戦の後,12/9,オルモック市も陥落する.
(「比島戰記」,日比慰霊会,1958/3/12, P.150-151,抜粋要約)
【質問】
漁撈隊とは?
【回答】
比島の船舶工兵隊で編成された水上特攻隊.小型舟艇に爆雷を装置して,米輸送船団に体当たりしようとしたもの.
日比慰霊会によれば,
「1945/1/9夜,リンガエン湾に上陸作業中の米軍に奇襲攻撃をかけたが,戦果は不明」
だったという.
(「比島戰記」,日比慰霊会,1958/3/12, P.172,抜粋要約)
【質問】
建武集団の海軍部隊は,どの程度の戦闘力があったか?
【回答】
日比慰霊会によれば,能力は低かったという.
以下,引用.
集団総兵力3万の内,海軍は半数の約1万5千.第1航空艦隊(首脳部は台湾),甲,乙両航空隊,航空廠,設営隊などだが,戦闘員は1万に過ぎなかった.
こうした陸海軍混合部隊を,どう編成して布陣するかは,首脳部の頭を悩ました問題だったが,結局,陸軍が前線の戦闘を担当,海軍が後方で複廊陣地を構成することになった.
しかし陣地構築は,米軍がリンガエン湾に現れた1月6日頃から開始されたので,粗末な陣地しかできず,また,弾薬食糧などの集積もごく僅かで,米軍の立体的物量攻撃に太刀打ちできるものではなかった.
また,海軍の複廊陣地では,極力洞穴防御,近距離爆雷戦闘を奨励したが,陸上戦闘の知識のない海軍部隊では,その趣旨が徹底せず,また,戦闘方法も下級指揮官から一兵に至るまで理解していた者は少なかった.
そこで一部の陣地では,いたずらに洞穴に潜伏すれば能事足れりとする有り様で,このため,2月上旬から中旬に渡り,敵の猛烈な砲撃に続く歩兵の攻撃で,第15,14戦区の洞穴陣地は次々と米軍に侵略され,複廊陣地は遂に北東方面から崩壊して,中央に楔を打ち込まれることになった.
(「比島戰記」,日比慰霊会,1958/3/12, P.178-179,抜粋要約)
陸戦訓練は海軍でもそれなりに行われていたはずだが,最新の戦訓が普段から海軍に伝えられることがなかったのかもしれない.
【質問】
当時の在フィリピン日本軍の防御戦には,どんな面に困難があったか?
【回答】
岡田安次・建武集団参謀の寄書によれば,
「我が方の最も苦悩としたのは,陣地内に集積していた糧食・弾薬・その他の軍需品の後送であった.
敵の制空権の下では昼間行動は全く不可能で,日没と共に搬送を開始したが,何を言っても山地のことで,車馬は一切使用できず,人力による他はなく,その行程も遅々として捗らなかった.
しかも,そのころに至って給与は悪くなり,体力は衰え,栄養不良の者が大部分で,こうした兵士が敵弾下に険しい山道を攀じ登って重量物を後送させる事は,実に見るに忍びない惨状であった.
したがって火砲のような重材料は残念ながら主陣地からの後送は不可能で,それ以後は重機関銃以下の火器で戦うほかはなく,彼我の戦力の差はいよいよ甚だしくなり,どうすることもできない状態であった」
(「比島戰記」,日比慰霊会,1958/3/12, P.180,抜粋要約)
【質問】
フィリピンにおいて,戦争末期,正規の軍法会議を経ない処刑が日本軍で行われたのは何故か?
【回答】
日本軍の法務組織に欠点があったためだとされる.
以下引用.
日本軍における法務組織,中でも作戦軍のそれは,大陸作戦の場合に准じて設けられ,広大な地域にも関わらず,軍法会議はマニラに1つのみであった.
ために特に交通連絡の十分でない比島においては著しく不便を感じ,それがため,マニラから遠隔の島々の要所には,臨時または特設軍法会議を開設して法務の適切を期するよう申請されたが,なかなか実現するに至らず,昭和19年,第35軍が編成されて,セブ市に軍法会議が設置されたに過ぎず,客観的情勢からしても,到底この2つの軍法会議のみでは目的を達成する事は至難であった.
このため,方面軍司令官の命令(昭和20年5月頃)と軍法の示すところにより,各軍各師団,独立部隊で軍法会議を開き,事件を処理したのであったが,昭和19年9月以降,米軍の爆撃熾烈となり,これら正規の軍法会議の存在しない遠隔地に駐屯する部隊は,軍律違反者をこれら正規の裁判機関へ送致することが不能なのは勿論,上級指揮官に報告してその指示を受けることも,交通・通信途絶のため不可能な状態に置かれた.
そこで調査の結果,当然裁判をえて死刑となる者については,現地指揮官が慎重審査し,処刑するのやむなき実情に立ち至ったものもある.
これも戦争裁判においては,いわゆる戦犯として問われた原因をなしているのみならず,前述する各正規の裁判機関によって審判し,その結果処刑した事件までも,その責任が追求されているのである.
これに対し方面軍法務部長は,
「そんな軍法会議をやらせた覚えなし.
また,そんな命令が出されたる覚えなし.
それらの行為は,その部隊で勝手にやったものであろう」
と終始押し通してしまった.
このために多くの〔戦争裁判による〕犠牲者を出している事は見逃せない事実なのである.
(坂邦康編著「比島戦とその戦争裁判」,東潮社,1967/5/25,p.53-54)
【質問】
建武集団兵士が投降後,ゲリラに虐殺されたというのは本当か?
【回答】
坂邦康は,そのように主張している.
以下引用.
建武集団(中部ルソン,クラーク付近の防衛に任じた,空輸挺進団を基幹とする兵団,兵団長塚田中将)とバターン方面の支隊は全滅し,その詳細を知る事は不可能であるが,終戦後,該地区より投降してきた同胞は数名を数えるに過ぎない.これは何を物語るであろうか.
原資爆弾を使用した場合ならいざしらず,2万数千名の日本軍部隊が,あの拡大な地域で一兵も残さず戦死したとは,どうしても考えられない.
同地方はゲリラの巣窟であった.南サンフェルナンド(中部ルソン)で投降した日本兵は皆,ゲリラに殺害され,あるいは絞首せられたという風聞を耳にしている.
全滅? この裏にはゲリラの惨虐行為の行われている事は,疑う余地を存しない.
(坂邦康編著「比島戦とその戦争裁判」,東潮社,1967/5/25,p.63)
確かにゲリラについては,フィリピン上陸戦以後活発となっています.
例えば,パナイ島に展開していたゲリラ勢力は,ビサヤ地区で最も規模の大きなものでしたが,これが兵力2〜3万人でした.
この地域を警備していた守備隊の兵力は,2,300名余,パナイ島に上陸した米軍は7,000名で,米軍との戦闘で,戦死者850名を出していますが,生存者は1,560名でした.
ゲリラの兵力であれば,その全滅は赤子の手を捻るようなものでしたでしょうが,実際には米軍が戦闘をしているだけです.
中部ルソンでのゲリラの規模や指導者は不明ですが,職業軍人でなければ,それだけのことは出来ないのではないか,と思います.
ちなみに,パナイ島のゲリラ指導者は,米比軍出身のマカリオ・ペラルタ大佐という職業軍人でしたけど,それでも,積極的に戦闘に加わったのは1942〜43年頃の一時期だけで,以後は上陸までは積極的な戦闘を控えるよう,豪州から命令が来ており,戦闘は低調となりました.
ルソン島北部山岳地帯なら,Lamuet川の氾濫で,橋が流失して動けない在留邦人に対し,米軍機と戦車が集中攻撃を行い,1000名以上が亡くなったケースはありますが,これとて,米軍というのがファクターになっているのですから,ゲリラ主体でそれだけのことを成し遂げるのは無理ではないかと,愚考します.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2)
また,開戦初期のバタアン攻略戦において,1個連隊が丸ごとジャングルの中で迷子になった例もある.その中には,今も行方が分からない部隊もあるという.
それを考えると,ジャングル内で迷子になったまま,飢えで全滅した可能性も考えられなくもなく,軽軽に上記推測を肯定することには躊躇いもある.
【質問】
戦後もレイテ島の山中でゲリラ戦を続けた部隊があったそうだが?
【回答】
第68旅団長の栗栖少将が率いた残存兵力だと想像されている.
この部隊は米軍をひどくてこずらせた.これに困った米軍当局は,日本政府に対して降伏勧告をしてくれるようにと依頼してきた事実がある.
(中村八朗「雄魂! フィリピン・レイテ」,学研,1972,p.,抜粋要約)
【質問】
義烈空挺隊の実際の戦果と損害を教えてください.何機沖縄に降り立ったのか? 何機途中で撃墜されたのか?
検索したら,二つ出てくるんです.
八機着陸して四機帰ったというやつと,
一機だけ成功して残りは打ち落とされたってのが.
どっちが正解ですか?
【回答】
手元の「歴史から消された兵士の記録」(土井全二郎・光人社)によると,12機のうち3機は不時着,1機は器材の不調により反転.
8機が目標に向かったものの,ほとんどが撃墜され,1機のみが北飛行場に強行着陸.
米戦闘機機26機を破壊,大量のガソリンを炎上させた,とあります.
同書によると,どうせ特攻用の機体だからと言う理由か,中古の,状態の酷い機体ばかりが集められていたそうで,1機はエンジンを始動することすら出来ず,仕方なく予備機に乗り換えたため,1時間遅れの出撃になったとのこと.
(ちなみにこの機は機位を失して突入出来ず,有明海に不時着,全員生還だそうです)
「8機突入」ってのは,一種の作文だと思いますよ.飛行場に突入後,戦死した隊員と,突入前に撃墜された戦死した隊員で,叙勲などに差をつけるわけにいかないから.
末期の特攻隊は,出撃しただけで,
「○○方面にて敵機動部隊に突入」
などと勇ましい布告が流されたりしております.
しかし,実際の戦果とはかけ離れたものが殆どでした.
飛行場に辿り着いたのは1機のみ,のほうの記述は,米軍の記録に基づくものでしょうから,こちらの方が正解に近いかと.
◆◆◆インパール作戦
【質問】
インパール作戦とは?
【回答】
日本軍は1942年の段階でイギリスの屈服を目的とした東部インド侵攻作戦を立案していた(二一号作戦).
だが,ガダルカナル島を中心に展開された消耗戦がインド侵攻作戦の物的基盤を奪い,参謀本部はビルマ防衛とインド人による反英運動の煽動工作の方に力点を移していった.
しかし,チャンドラ・ボースのインド侵攻要求などもあり,1944年3月,ビルマ防衛・太平洋戦局の敗勢打開・援蒋ルートの遮断・インド独立工作の進展などを目的としたインパール作戦が実施された.
当初,戦況は順調に推移しているかに見え,インド国民軍も2個師団で作戦に協力したが,途中で日本軍の補給路が途絶えて戦況は逆転した.
7月中旬,日本軍はインパール作戦の中止を決定した.
http://www.mirai-city.org/ithink/kokusai/indiahis.html
インパール問題ですが,日本が敵の策にのせられてしまったのは本当でしょう.
但し,個々の戦闘からいえば,イギリスの計画的後退も日本軍の急進撃にあって一部の部隊が包囲されて(インド第17師団)),コヒマに丸々1個師団を派遣して意表をついて補給基地ディマプールを脅かしたり,結構がんばっていたのは本当でしょう.
もっとも,補給の見込みもなしに自分の2倍もの敵に突っ込んだ無謀さが,せっかくの精強部隊を無駄に消耗してビルマの防衛を崩壊させてしまいました.
東条の政治的リーダーシップ維持のために発案.
1発の弾丸も,1粒の米も補給されない現地調達の,無謀極まりない東条の作戦.
10万人以上の将兵が参加.
日本軍の,ぬかるみの中飢えと寒気と英印軍の追撃に苦しみながらの退却は凄惨をきわめた.
ジャングル内の道には,白骨となった死体が続き(戦死および戦傷病で倒れた日本軍兵士は7万2千人.生き残った兵士はわずか1万2千人にすぎなかった).兵士たちはこの道を「靖国街道」・「白骨街道」と呼んだ.
第33師団長柳田中将はティディム作戦での失敗を問われ更迭,第15師団長山内中将は病気のため解任,第31師団長佐藤幸徳は,独断でコヒマへの撤退を命じ,この判断は全く正しく退却した部隊は助かったが,佐藤は直ちに罷免され,敵前逃亡罪で軍法会議にかけられたそうになったが,「精神錯乱」を理由に不起訴処分となった.作戦に参加した3師団長がすべて作戦中に入れ替った.
安全地帯から死守を命じ罷免を繰り返した第15軍司令官牟田口廉也(むだぐちれんや)は作戦も将兵もなくなった後,責任を部下に押し付けた.
この狂った作戦がなかったなら,陸軍主力が無傷.
政治力外交努力いかんでは,ドイツ降伏以降厭戦気分の出てきた連合国軍と,少しは有利な講和が可能であったと思える.
【余談】
インパール戦を生き延びた古参兵は,寝るときに片耳を地面に押しつけた姿勢で睡眠をとり,英軍戦車やコマンドの音を何キロも先から感知,素早く蛸壺陣地を移動したそうだ.
【質問】
インパール作戦での,敵英印軍の損害はどの程度であったか知ってる方教えてください.
【回答】
手元の資料「BURMA:The Longest War 1941-1945」によると,インパール作戦期間中,およびその後の,雨季を挟んだチンドウィン河までの戦闘(1944年3〜12月)における英連邦軍死傷者数は16,667名とされています.
このうち戦死者はおよそ5千名程度と思われます.
対する日本軍の死傷者数は約6万名となっており,15,000名程度が戦闘による戦死者とされているようです.
【質問】
独断でコヒマへの撤退を命じた第31師団長佐藤幸徳が,敵前逃亡罪で軍法会議にかけられたそうになったが,「精神錯乱」を理由に不起訴処分となった理由はなんでしょうか?
【回答】
佐藤中将本人は軍法会議で白黒つけることを熱望していたが,ビルマ方面軍司令部は,ビルマ方面軍,ひいては南方軍の責任問題にまで発展することを防ごうとしたためという説がある.すなわち,親補職の師団長を軍法会議にかけると,任命者から推薦者まで全部に迷惑がかかるため,そういうことにしてごまかした,という説.
また,将官を捜査する権限を持つ高等軍法会議検察官(大将一人を含む中将三人を必要)がビルマにおらず,軍司令官は判士になれない規定だったため,事実上ビルマでは開くことができなかったというのも理由にあるらしい(だったら何で内地で開かなかったの?,ということになるが…).
【質問】
これってどれくらい正しいんでしょうか?
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戦後左翼が牟田口廉也のインパール作戦をけなすけど,ちょっとした軍ヲタだったら,兵站をなくすことで後顧の憂いを無くした天才的機動作戦というの判るんだけどな.
実際,インパール正面まで陽動に出かけた弓師団(だっけ?)を追って,英軍はビルマ内陸部まで補給線の延びきった下手な追撃線をやらかして,包囲殲滅される恐れがあった.
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【回答】
つまり,弓,烈,祭(だっけ?)を囮に用いた作戦という説ですか?
囮が大きすぎるよ…3個師団なんで…
兵站を考えないでいいのは,軍オタ初期のスペックオタの状態だけだと思われます.
スペックオタは楽しいですよ.なんてったて常に自分の考えうる最良の状態で戦闘が出来るので.
それに,兵站は無くしていません.計画(妄想)通り行かなかっただけ.
>天才的機動作戦
イギリス軍がアキャブ,チンジット作戦を行なうまで,アラカン山系の大部隊の通過は不可能と思っていました.
>実際,インパール正面まで陽動に出かけた弓師団(だっけ?)を追って
>英軍はビルマ内陸部まで補給線の延びきった下手な追撃線をやらかして
>包囲殲滅される恐れがあった.
インパール作戦開始時,既に北部は米式装備の中国軍,西部においては英軍の旅団,師団規模の侵入を再三受け,ビルマ方面の戦局は悪化しています.
インパール作戦が中止される頃には北部ビルマの放棄が決まっており,ビルマ戦線の崩壊が始まっています.
特にインパール作戦による損害は甚大で,日本軍は作戦前の1/5程度の戦力でイラワジ河で迎撃を行ないますが,英軍との戦力差は大きく作戦を中止.
以後,ビルマ戦線は崩壊,総退却にうつります.
ついでに牟田口廉也は,天皇陛下の親補職である師団長を勝手に罷免する,という犯罪も犯してるので忘れないように.
【質問】
牟田口元中将が遺言により,自分の葬儀の際に「インパール作戦は正しかった」と書いた冊子を参列者に配布したというのは本当ですか?
【回答】
ホントっスよ.自伝という形を取ってますが内容はインパール作戦の正当化です.
蛇足ですが,辻政信大佐も存命中に「逃亡三千里」つー血湧き肉踊る自叙伝を発表しとります.
軍事板
その他の牟田口経歴;
・国会図書館に押しかけて「証言テープ」と称する自己弁護談を残させる
・ビルマ方面軍の慰霊祭に出て行って,遺族の前で堂々と
「俺は悪くない.悪いのは佐藤・柳田・山内だ」
と言い放つ.
他にも第15軍関係者が揃って口裏をあわせたせいで,戦史の上では
「インパール失敗は,牟田口に個人的怨恨があった柳田が命令に逆らって統制前進をしたから」
ということにされていたのは有名な話ですな.

【質問】
●江(しこう)作戦当時,大戦末期の中国大陸にあった日本軍の内情はどんなものだったのか?
【回答】
『湖南戦記 知られざる日中戦争のインパール戦』(小平喜一著,光人社NF文庫)によれば,この時期の日本軍はまさに末期戦状態です.
蕉湖から武昌までを徒歩で(一ヶ月かけて)移動.
補給がないため,とにかく徴発(略奪)に懸命になる警備隊.
被服も補給がなくて,軍服の代わりに中国服を着用.
軍紀も崩壊.将校に対する反抗のみならず,手榴弾で殺害する事件まで起きてます.将校のほうも横領や横流しに手を染めてるし.
さらに頭が痛くなるのは,日本軍が立案する作戦の中身.
重慶への挺身攻撃計画(「生還を期せざる精神でやれば可能」て…)
兵力転用計画(本土防衛決戦を見越した,事実上の全面的敗退転身)が発令される直前に行われた●江作戦(このまま撤退するのは嫌,てな理由で決行…)
しかも戦闘部隊に対して補給が行われず,戦闘中に命令系統が崩壊.
ちなみに同書は,敗戦時の状況や捕虜生活も興味深く,末期戦が好きなら一読の価値があると思います.
グンジ in mixi,2007年05月01日23:14
●=草冠に止
◆◆◆硫黄島戦
【質問】
太平洋戦争の大激戦地「硫黄島」ですけれど,これの読み方は「イオウジマ」でいいんでしょうか?
ずっとそう思いこんできたんですけど,最近旧軍人の人が「イオウトウ」と言っている映像を見かけたもので….
【回答】
両方正解.
島嶼の正式な読み法則としては「〜ジマ,シマ」が正解だが,読みにくかったり先に定着した場合は「〜トウ」になっていたりする.
戦前の表記された学校や地元の会社名では「イオウトウ〜」だったりするし,新聞のルビでは「イオウジマ」だったりと,両方が混在している.
ただ現在は,占領していた米軍が「イオウジマ」で通していたから,そっちが定着している.
軍事板
余談だが,こんな話も.
「イオウジマ」を返せ 呼称変更でアメリカ困惑「歴史書き換え」!?
国土地理院が太平洋戦争の激戦地,硫黄島(東京都小笠原村)の呼称を「いおうじま」から「いおうとう」に変更したことで,米国内で困惑が広がっている.
米国では「イオウジマ」の名がさきの大戦での勝利を象徴する地名として定着しているためで,変更をめぐり「日本が歴史を書き換えた」(FOXテレビ)といった報道も飛び出した.
米国内では20日,東京発の外電を通じて硫黄島の呼称変更が伝わった.
報道は今回の措置が日本での旧称復活に過ぎないことを紹介しつつ,米映画「硫黄島からの手紙」などで描かれた「第二次世界大戦で最も英雄的な戦闘」(AP通信)の呼称変更に戸惑いを隠さない.
ローマ字表記が頼りの米国では,同じ漢字でも呼称の変更は地名そのものが変わるのに等しいためだ.
不満の声は,とりわけ米軍の退役軍人らの間で根強いようだ.海兵隊のヘインズ退役中将は,AP通信に対して,
「(呼称変更は)率直にいって好きになれない.イオウジマの名はわれわれの伝統であり,遺産の一部なのだ」
と指摘.
退役軍人協会(VFW)のデービス広報官は,FOXテレビで
「旧称への差し戻しは日本のやったことだが,イオウジマの名は米国の軍事史に燦然(さんぜん)と輝く」
と語った.
まあ,日本人さえほとんど知らなかった東京都の行政手続きを,よく知っているような外国人なら,日本ではイオウジマともイオウトウとも呼ぶということも知っているでしょうし,また,記事の内容を読む限り,聞きかじりで騒いでいる人がいるだけ,というようにしか読めないので,これは単なるセンセーショナリズム報道でしょうが.
消印所沢
「イオージマ」表記の,アメさんの雑誌

【質問】
硫黄島での持久戦はこの戦いを1秒でも長引かせて日本本土にB29がいかないようにするという.硫黄島の戦闘の目的は時間稼ぎにあるとよく言われるが,その時間稼ぎで日本軍ないし日本国にどんな利益があったのだろうか?
2ヶ月?位の時間の間に,防衛戦闘機の増産,高射砲の生産,防空体制の整備?
しかし兵器生産は,戦局を転換するだけの力はもうないでしょう.
そして,東京空襲というアメリカ軍の目的は完全に達せられたのでは?
時間稼ぎはまさに時期を遅らせただけで,なんの具体的効果をもたらさなかったのでは?
【回答】
単に硫黄島攻略に時間が掛かっただけでは無く,硫黄島に戦力が拘束される事によって沖縄に回せる兵力に制限が掛かったりして,沖縄攻略も遅延する遠因にも成りました.
硫黄島や沖縄があっさり落ちていたら,九州上陸作戦(オリンピック作戦)が夏頃に行われていた公算も有り,地上戦に巻き込まれて民間人の被害もさらに増えた可能性も有るし,原爆の使用地も,使用タイミングもどう成ったか判りません.
さらに,国内で終戦工作を行っていた人達にも,時間は必要でした.
長期的に見れば意味が無いとしたら,開戦自体,負けと判っているのだから意味が無いのですがね.
新所沢の三等兵◆UkUFfcwWIs
洞窟陣地

【質問】
大戦中,硫黄島(?)米軍部隊が,旧陸軍の斬り込み隊から部隊を防護するため,周音マイクと赤外線監視装置で宿営地を警備していたという本を読んだ記憶があるのですが,事実でしょうか?
米軍は赤外線監視装置を実戦配備していたという事実はあるのでしょうか?
【回答】
資料が本なのでとりあえず要約してみると
「暗闇の中でも赤外線を照射し,これを特殊フィルターをとうして昼間のように透視できる装置,
中略
第二次世界大戦中にソロモン群島方面で試験的に米軍がそれを日本軍の夜襲に使い,夜間でも正確に反撃した」
この当時アメリカではアクティブ主流だったようです,ソロモン方面だけとは明記されてないので,硫黄島でも使った可能性はあると思われ.
また,日本軍も昭和10年ごろから,赤外線探知(対空用としての意味合いが強い)の研究を「ね号」と呼び進めていたようです.こっちはパッシブが主でした,
2000〜3000mくらいの距離での探知に成功しましたが,取り扱いなどが難しく,兵器として実用化はムリだったそうです.
開発はレーダーの開発が急務になり,一時中断された後,昭和19年に震洋など特攻兵器ための誘導装置として再度見され,なお研究されていました.
少なくとも,沖縄戦では使用されたそうです.
琉球侵攻に際して,各部隊に渡された兵器には,かつて使われたことのない新型兵器も含まれていた.
闇夜に赤外線を利用して目標を狙い撃ちにできるスニッパースコープ110が各師団に配られた.
これはカービン銃に装着して,夜でも正確な射撃ができた.
光人社NF文庫「沖縄 日米最後の戦闘」より
ソロモンで使い,沖縄で使い,硫黄島では使わなかった,ということは考えにくいですね.
【質問】
硫黄島ではほかの戦場より戦果が上がってたように見えますが,ほかのところではこういった持久戦の発想はなかったんですか? 玉砕命令が出されることが多かったらしいですが.
【回答】
発想する人はいただろうが,日本陸軍に内在する欠陥のため,戦術を変えるものとはなかなかならなかった.
以下引用.
日本軍の規則および軍事著作物によれば,防御は消極的形態の戦闘であり,本質的に,また精神上,非日本的という烙印を押されているので,将校が喜んで防御解答を提唱するような戦術研究問題を書くことは非常に困難であった.
http://www.bekkoame.ne.jp/~bandaru/deta025.htm
軍事板
もう一つの大きな理由.
持久戦は基本的に勝ちのない戦です.
戦国時代の篭城戦と本質的に同じ.
時間を稼いで,その間に他の手段でなんとかする(増援,他方面での攻勢,終戦工作など)ための戦法です.
それら別策がないのであれば,ただ人命と時間を取引するだけなのです.
ただし沖縄戦では,同じ持久戦の発想によって,結構,米軍に出血を強いています.
我慢できなくなった参謀長が,攻勢作戦を主張して瓦解しましたけどね.
眠い人◆gQikaJHtf2
また,阿南第二方面軍司令官が(昭和19年)三月十日陸軍記念日に隷下各部隊に伝えた訓示の中に,万歳突撃による玉砕を戒めた項が有ります.
以下引用.
『玉砕は任務を解決せず.玉砕に対しては絶大の敬意と感謝とを表するものなりと雖も,之を以って事終れりとすべからず.選ばれて軍に奉じ況んや戦陣の間に臨み誰れか生死を論ぜんや.須くいかなる死に勝る苦難をも突破し,飽く迄敵撃摧に任務の完遂に努力せんとする強き敢闘精神と深き執着心をこそ必要とす.
一人にて生きてあらん限り敵撃摧に直進し,任務を果すを以って精神教育の基本となすべし.
又現下の作戦上,陸軍の将兵も亦「水漬く屍悔ゆるなし」」の信念に透徹せしむべし』
さらに,昭和19年6月27日付第二軍命令では
「ビアク支隊は玉砕することなく,極力ビアク島に健在し,現地自活を徹底しつつ,次期攻勢を準備すべし」
と,命令がだされ,各隊は夫々ジャングルの中に地域を分担したそうです.
ニューギニアの戦闘,ビアク島辺りから,玉砕を避け,ゲリラ戦によって米軍の進撃を遅滞させる方向に修正しているような感じがします.
もっとも,補給(滅多に)無し,援軍無し,されど敵性地域のジャングルの中で,自活しながらゲリラ戦を続けろというのは,「いかなる死に勝る苦難」であったでしょう.
【参考文献】
斉藤貞二著「目で見る連隊」(非売品)
第35師団第219連隊の戦友会で作られた,公刊戦史や帰還された将兵の証言,故人の残した記録,
防衛庁防衛研修所戦史室にて,当時,この戦史室に第35師団の作戦参謀として南方作戦に参加した方が在籍されていたので,その方等の協力によって,編纂された書籍であります.
遠吠えするいぬ in mixi支隊
硫黄島上陸作戦

【質問】
NHKの硫黄島の番組ですが,日本軍の戦車はアメリカの戦車と戦ったんでしょうか?
【回答】
戦車第26聯隊の戦車23両が硫黄島守備に就きました.
この聯隊は,重点進出攻撃と,対戦車戦闘を行い,戦車壕を進出地域に用意して,砲撃や爆撃を避け,前方に射撃掩体を造り,戦車を移動トーチカとして使用しています.
これにより,米国の一個歩兵連隊を攻撃したのを手始めに,交戦一ヶ月間で,砲兵小隊と合わせて,M4を270両屠ったとされていますが,結果的に徐々に損耗し,最後は玉砕しています.
眠い人◆gQikaJHtf2
◆◆◆ソ連侵攻
【質問】
終戦間際の関東軍の状況は?
【回答】
24個師団,2個戦車旅団,1個旅団,9個独立混成旅団,1個国境守備隊−虎頭要塞の第15国境守備隊−等を基幹とする兵員約75万,火砲約1000門,戦車約200両,飛行機200機程度.(戦史 終戦時の対ソ戦1より)
となりますが実質的には実質8個師団程度の戦力とされています.
関東軍は昭和19年2月から師団などの戦闘力抽出が続き,昭和20年3月末までに最後の在来師団全部と新設師団3個師団,軍直轄部隊多数が本土防衛に抽出されると関東軍兵力は過去最低に落ち込み,「精強百万関東軍」は過去の栄光となっていました.
抽出の一例としては
昭和19年10月第23師団→ルソン
12月第12師団→台湾
昭和20年 1月第71師団→台湾
3月第11師団→四国
第25,57師団→九州
戦車第1師団→本土
第111,112師団→南朝鮮
とまぁ無惨にも引き抜かれております.
誠に余談ながら,この本土決戦のために抽出された戦車第1師団戦車第1連隊第5中隊第3小隊には小隊長として福田定一少尉が配属されていましたが,この抽出によって内地に帰るという幸運に期せずして浴することができ,我が国は一時代を築いた稀代の文筆家を一人失わずに済んだのであった.
穴埋めの為に20年初頭から動員をはじめ,5月には中国戦線より北支方面軍と5個師団−支那派遣軍から第39・第59・第63・第117師団,第17方面軍から第79師団−が編入,更に在郷軍人25万人を動員した.
しかし,比較的早い時期に編成された第39師団や留守師団−常備師団の編成地に残される予備師団−から編成された第79師団はともかく,昭和17年に編成された第59師団や独立混成旅団から改編された第63師団や独立歩兵旅団から改編された第117師団は師団砲兵がなく全般に装備が貧弱で,関特演時の1/2〜1/3程度の火力しかなかったとのこと.
余談ですが概ね昭和17年以降に編成された師団−この表の大東亜戦争期以降の師団−や師団番号が100番台の師団−100番台極前半の留守師団から編成された最初の師団は例外−には師団砲兵たる砲兵連隊がありません.
・・・が,後述するように100番台だからと言って弱いわけではない.
特に昭和20年7月以降に行われた根こそぎ動員による新設兵団−8個師団,7個混成旅団,1個戦車旅団−は,対ソ開戦直前に編成概了したばかりで,兵員の多くは部隊到着途上,師団外形のみ存在し戦力は物心両面ともに極めて貧弱な状態であった.
・・・誰か研究して日本版「ラスト・オブ・カンプグルッペ」書いてくれねぇかなぁ.
でも本家と違って読んでて鬱になるだけか・・・orz
冗談はさておき,例えば昭和18年〜19年に編成され,第44軍−旧関東防衛軍−麾下の第63師団−2個独混旅団から改編−と第117師団−2個独混連隊から改編−は師団砲兵がなく師団火砲は両師団併せて山砲18門のみ,第128師団は定員二万三千名のうち実在一万四千名,第1方面軍隷下部隊の速射砲は皆無に近く重機関銃は定数の二分の一,銃剣約10万本に加え野砲400門が不足していた.
一言で言えば関東軍自体が張り子の虎となっていたのである.
【質問】
ソ連軍侵攻に対する関東軍の戦いぶりはどうだったのか?
【回答】
貧弱な状態にもかかわらず各在満部隊は寡兵をもって勇戦敢闘,特筆されるべき必死の抵抗を続けました.
言ってみれば日本版「ラスト・オブ・カンプグルッペ」状態ですね.
と言うことで,鬱にならない程度に書きたいと思います.
満州東部方面
満州東部の第1方面軍麾下第5軍及び第3軍の10個師団と各1個独立混成旅団,国境守備隊,機動旅団に対し,ソ連軍は35個師団,17個戦車・機械化旅団を基幹とするソ連第1極東方面軍と第2極東方面軍主力をもって侵攻しました.
東部正面を防備する第5軍司令官清水中将は,ソ連軍主力が東部正面最大都市である牡丹江に向かうものと正しく判断し,牡丹江の防備に第124師団を前面に,第126師団,第135師団をその後方に配備した.
これら3個師団は牡丹江東側陣地において,ソ連軍主力の猛攻に対し,第124師団の一部は突破されたものの,第126師団,第135師団と協同して,肉弾に次ぐ肉弾で必死の防戦を繰り返し,15日夕までの5日間陣地を固守し,牡丹江在留邦人6万人の後退を完了させた17日には防御の限界に達し,60km後退した際に停戦命令を受領,停戦した.
南部の第3軍は,一部の国境配置部隊のほか主力は後方配置し羅子溝の第128師団,琿春の第112師団は布陣した陣地で激戦を展開,広い地域に分散孤立した状態で攻撃を受けたため,多数の死傷者を出しながらも決死敢闘し,停戦命令を受領した17日には,ソ連軍に第二線陣地まで浸食されたものの,停戦までソ連軍大兵力を寡兵をもってこれをよく阻止した.
満州北・北西部方面
満州北及び北西方面のハイラル方面には第4軍の内,第119師団とその前方に位置する独混第80旅団が守備についていた.
このハイラル北西には,ソ連軍中最強のザバイカル方面軍の第36軍が進攻し,9日早朝急襲を受けた国境監視哨等には玉砕したものが多く,国境方面の在留邦人も避難の時間なく,相当の犠牲者を生じた.
ハイラル守備部隊は圧倒的優勢なソ連軍の完全包囲下,陣地の大部分を確保して寡兵よく健闘し,18日に停戦するまで敵第36軍の大勢力を凌ぎ,第119師団は停戦するまでソ連軍の突破を阻止,その結果邦人主力のハイラル在住者は,ソ連軍に後方を遮断される前に,その大部分が後退することができた.
在満航空部隊
ソ連軍の機甲部隊に対しては,原田中将以下第2航空軍がひとり立ち向かい,12日からは連日攻撃に向かった.
攻撃機の中には全弾打ち尽くした後,敵戦車群に体当たり攻撃を行ったもの相当数に上った.
内蒙古方面
内蒙古には独立混成第二旅団−5個歩兵大隊,1個野砲大隊,1個工兵中隊基幹−が展開していた.
陣地はわずかに張家口北方約27kmの外長城線に,簡単な野戦陣地丸一陣地と,平地泉に丸二陣地を築くのみ精一杯であり,兵力も張家口や大同など内蒙古の南縁に重点配置され,奥地には特務機関と,それを警護する一個小隊前後の兵員が分散配置されているだけだった.
ソ連機械化騎兵旅団は9日から内蒙に侵攻を開始,14日には日本軍の前哨陣地のある張北の西北30kmに迫った.
これに対し駐満軍司令官根本中将は,張家口に終結しつつあった邦人約4万人の引き揚げを8月20日から開始することにし,同日張家口陣地に接近したソ連軍に,引き揚げ終了まで猶予を願ったが聞き入れられず,守備する独立混成第2旅団は根本司令官の意図を体し,邦人引き揚げを援護するため抗戦を続行した.
この戦闘で同旅団は約70名の犠牲者を出すも,4万人近い邦人は全員無事に引き揚げを完了した.
【余談】
満州でソ連の捕虜になった日本兵達.
捕虜を整列させて数を数えていたがいちいち指さしで数えているので,業を煮やした日本兵が,掛け算を教えてやる.
そのソ連兵は一瞬で数値が出たことに驚愕したが,日本兵は,そんなことも知らない連中に負けたことを知って驚愕した.
【質問】
事前に察知し,準備を整えていた場合,関東軍はソ連軍にどのくらい抵抗できたか?
【回答】
1.関東軍の精鋭部隊,装備の優れた部隊は,南方戦線に増援として送られたり本土決戦に備えて日本本土に引き上げられたりして,関東軍は全体的に戦力,装備が低下していた.
2.既に日本が負けかけてることは関東軍の将兵も察していたので,戦意が極端に低く,ソビエト軍の侵攻開始と共に総崩れになった.
3.なにより軍首脳部が一番に逃亡してしまい,指揮系統が崩壊した為,マトモな作戦指揮がなされず,各個撃破された.
4.ソビエト軍の兵力,装備は圧倒的で,戦う前から勝負がついてる状態.
といったところ.
正直,精鋭部隊が充分な装備で事前にソビエト軍の侵攻を察知し防戦を準備していても,装備(特に戦車の性能差が圧倒的),兵力(特に砲兵の兵力差が壮絶だった)で勝り,ドイツとの戦闘で経験豊富なソビエト軍仁対しては鎧袖一触だっただろう.
ただ,在満邦人を避難させる時間を稼ぐことぐらいはできたかもしれない.
一応,徹底的に抵抗しソビエト軍を足止めした部隊も存在はした(虎城要塞,で検索するべし)
関東軍 24個師団,1個旅団,9個独立混成旅団,2個戦車旅団
航空機230機 兵力約75万人(実質8個師団程度の戦力)
ソヴィエト 80個師団,40個戦車,機械化旅団,(戦車5250両)
32個飛行師団航空機5171機 総兵力約157万人,
関東軍からは以下の部隊が抽出された(昭和19年10月以降
昭和19年 10月第23師団(ルソン),12月第12師団(台湾),
昭和20年 1月第71師団(台湾),3月第11師団(四国)第25,57師団(九州)
戦車第1師団(本土),第111,112師団(南朝鮮)
穴埋めの為に20年初頭から121〜128師団までの8個師団と4個旅団を編成.
5月には中国戦線より軍司令部1個,4個師団を編入.
更に在郷軍人25万人を動員.
全般に装備が貧弱で,関特演時の1/2〜1/3程度の火力しかなかったようだ.
【質問】
1945年8月のソ連軍の満州侵攻の時,関東軍は邦人の居留民を置き去りにして先に撤退した――みたいな記述を時々見ますが,実際どんなもんだったんでしょうか?
虎頭要塞とか,かなわないまでもそれなりに軍として抵抗している様な気もするんですが.
【回答】
関東軍としては,通化まで引いて南満で持久する計画だったからね.
一週間後に終戦の詔勅が出ちゃったから,結果的には住民を放り出したように見えるけど.
実際,各部隊はしょぼい装備ながら,勇敢に戦ってるよ.
また,関東軍はソ連の侵攻開始の時点で民衆に退避勧告を出しているが,民衆は,自分の築いた財産をいきなり全部捨てて逃げろなんて言われてもイマイチピンと来なかった模様.
普通は天災や戦火を目の当たりにでもしないと,そんな事はできないもの.
事実,満州は今の今まで空襲も戦闘もなかったから.で,先に軍人とその家族が逃げる結果になった訳.
満州で塗炭の苦しみを味わった人から見れば,
「関東軍は民衆見捨てて逃げた」
と映る訳だ.
機を見るのに敏な人は,ちゃんと逃げている.
視点の違いも考慮に入れておいてくれ.
【質問】
8/15以後もずっと戦争が続いていたら,満州はどうなっていたでしょうか?
【回答】
大本営はソ連軍の侵攻を受けて,8月10日に大陸命第1378号を下達しました.
この命令の主旨は「対ソ全面作戦の発動」と「「朝鮮への後退持久」であり,満州放棄を間接的に認めたものでした.
また,関東軍総司令部も満州の約三分の二を放棄して満州南部に後退し,総司令部を通化に移転して南部の山岳地帯で持久戦を行う旨を決定,同日に大陸指として下達しています.
つまり,戦況いかんでは奉天や遼陽は十分最前線になりえました.
しかし,実際は全く準備は整っておらず,例えば通化周辺に駐屯していた第125師団では,6月ごろから陣地構築を始めていましたが,対戦車壕も通信設備なども整わず,まさに泥棒を見て縄をなう感が強かったとのこと.
(名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)
【質問】
ソ連の日本侵攻ですが,なぜ北海道ではなく北方領土から攻め始めたんですか?
北海道のほうが面積広いから,守備隊の密度も低くて攻め易いと思うんですけど.
【回答】
北海道本島に関してはアメリカの承認(つーか黙認)が得られてなかったから.
また,現実問題として1945年8月の時点では,満州と南樺太に加えて北海道本島を制圧できるに充分な兵力は用意し切れなかったというのがある.
もし戦争が8月以降も続いて「日本本土決戦」が行われていたら,北海道本島にもソビエト軍が上陸してきただろう.
『ロシア海軍歩兵設立300周年記念本 大祖国戦争の海軍歩兵』より
「北海道は広いので,まず周辺を攻めてみました」の図



CRS@空挺軍 in mixi,2008年03月30日18:22
【質問】
1945年8月の時点で,日本軍は北海道にはどの位の兵力を配備していたのでしょうか?
やはり終戦が伸びた場合はソ連軍が上陸し,冬までに占領されますか?
【回答】
師団で数えると,本土は帯広に第7師団・稚内に第42師団の計2個師団.
あと樺太に第88師団,
択捉に第89師団,
占守に第91師団
の計5個師団…なんですが,歩兵連隊で数えると,89・91師団は編制が完了してません.
とりあえず本土の2個師団だけはキープできてます.
後段は…察してください.
鷂◆Kr61cmWkkQ