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レストア中の八九式中戦車@陸上自衛隊武器学校
よしぞうmaro' in mixi,2007年10月15日02:13
青文字:加筆改修部分
【質問】
旧軍戦車の話に関連してですが,戦前戦中の日本は重装甲大火力の戦艦大和等を作る技術はあったのに,戦車はいまいちです.
戦艦と戦車の装甲を作る技術,あるいは戦艦砲と戦車砲を作る技術と言うのは別物なのでしょうか? 応用出来ないものでしょうか?
【回答】
砲身に関しては,だいたい同じ技術ですので,作製は可能です.
実際にソ連では艦載砲を戦車砲に流用した例があります(試作でしたけど).
とはいっても,砲は駐退複座機を始めとする大きなシステムで,それをなるべく小さく砲塔に収めないといけない.
三式中戦車なんかは,この辺の砲まわりの設計を,時間短縮のためにちゃんとやっていないので,砲塔が馬鹿でかくなっている.
また,砲をでかくすると,必然的に重くなる.
日本は輸送船で扱える重さはこのくらい…… というの基準に戦車の重量を決めていたので,必然的に軽量な砲を積んだ軽量な戦車を作るしかなかったんです.
装甲に関しても同様で,厚くすると重くなるので不可.
また,エンジンもしょぼいのしかないので,重い戦車を動かすには,無理がありました.
まぁ,まともな対戦車砲や,まともな成型炸薬弾,被帽付徹甲弾なんかをまったく実戦配備できていない時点で,勉強不足なのは確かなんだけど.
ちなみに,海軍が10年式45口径12cm高角砲をチハの車体に乗っけるという,素敵な事をやっています.
砲重量が8.5トンに達し,戦車の速度は38km/sから20km/sに低下.整地でこれだから,たぶん不整地走行は無理……
とても戦闘に耐えるとは思えません.
下手したら数発撃っただけで,車体が逝くんじゃないでしょうか?
軍事板,2005/11/07(月)
青文字:加筆改修部分
▼ ただね,〔略〕日本って「国」全体の視野で見ると,諸外国並みの中戦車や対戦車砲を作る技術や製造設備が,決して無かった訳じゃないのだけど,これが「日本陸軍」って視野で見るとダメダメなんだよね.
金に余裕が無いって事情はあるにしても,ドイツではクルップ社製の装甲やラインメタル社製の火砲が,その世界的にも優れた技術を戦車でも軍艦でも,陸海軍共に等しくその恩恵を受けている.
対して日本では,(民間会社がそこまで育ってないから)陸海軍の運営する官営工場や研究施設で,火砲や装甲が別々に研究開発され,製造されている.
このへんに明治維新以来の富国強兵政策の旧態依然とした組織のまま,WW2の総力戦を戦った日本の,体質的な問題があると思うのだけど.
▲
【質問】
八九式中戦車や九七式中戦車は投入時期はともかく,開発当時は他国に引けを取らず…と聞いたため,他国の同世代を調べたのですが,本当に当時はわりと水準が高かったのだと感じました.
そこで疑問に思ったのですが,当時は世界水準並みの戦車を用意,配備出来ていたのに,なぜ太平洋戦争時には大きすぎる遅れをとったのでしょうか?
【回答】
設計思想の違いに起因する,と山田朗は説明する.
日本の戦車にも,歩兵中心・白兵主義の戦術思想が色濃く反映していたので,車体は軽量,列車輸送が可能で,あくまでも人員殺傷と敵側の機関銃座破壊を目的として,低初速・短砲身の榴弾砲(ただし携行砲弾数が多い)を主砲とした.
これに対して欧米の戦車は,1930年代半ば以降,重装甲化を進めると共に,初速の速い長砲身カノン砲を搭載し,対戦車戦で勝利することを第一に設計されるようになった,という.
詳しくは
山田朗『軍備拡張の近代史』(吉川弘文館,1997/6/1),p.177
を参照されたし.
unknown date
▼ というのも,基本的に日本の戦車は「対戦車戦闘」をあまり重視してなくて,「対戦車銃に耐えられる程度の装甲を持つ火力支援車」って兵器.
チハでさえ通常交戦距離で37mm対戦車砲に耐えられることを目指した装甲厚.
(しかし試験では九四式速射砲の射撃に耐えたが,実戦では中国軍のPaK36に耐えられなかった)
対戦車戦闘は速射砲(対戦車砲)や各種火器で使用可能なタ弾(成形炸薬弾),破甲爆雷,フトン爆薬などに依存してた.
まあ,それらが前線に届いたか,届いたとして有用だったかの話はまた別になるが.
で,地形上の制約が大きい以上は,戦車の使い道も両軍含めて,
「地形や路盤によるサイズ,重量の成約が大きいため,装甲の粗末な移動トーチカ」
的になることが多い.
そうなると,最新の火力・装甲を持つ戦車より,可能な限り簡便な手段で戦車を撃破可能だったり,火力で面制圧できる兵器を開発・配備した方がいいわけよ.
で,太平洋戦線に関して言えば,それに成功した米軍や豪軍が勝って,失敗した日本軍が敗北してると.
案外,戦車の活躍する余地が無いのね.
島嶼戦での米軍は元より,日本軍も中国戦線では戦車をあえて地形の自由度が少ない場所で敵を拘束する移動トーチカとして使い,機動力を持った戦力としては地形上の成約が少ない騎兵が活躍してたりする.▲
軍事板,2018/04/28(土)
"5 csatornás" katonai BBS, 2018/04/28(szombat)
青文字:加筆改修部分
Kék karakter: retusált vagy átalakított rész
また,重量上の制約もあったようだ.
http://combat1.cool.ne.jp/1SHIKI.htm
によれば,戦車の重量が13tを超えると,それを吊り上げるクレーンを持つ輸送船は8,000t級以上に限られ,南方輸送には制約が出た,という.
しかし,17t未満であれば,九九式三舟重門で水上輸送ができた.
ちうわけで,性能の良い(=重い)戦車を作っても,はたして満足に輸送できたかどうか……
ちなみに,当時のアメリカの主力戦車,M4シャーマンが約30トン.
我らがチハタンの重量は約14トン
極東の名無し三等兵 in FAQ BBS
▼ クレーンだけの話じゃないんだ.
中国大陸はインフラが未整備で鉄道の積載制限もあり,重い戦車が渡れる橋もほとんどない.
チハ開発の際の会議で,陸軍軍事課は上述の理由から,
「運用条件から重量は10トン~13トンまでが望ましい.500kgでも軽くして欲しい」
と注文を出している.
15トンでも中国で使うには重すぎたということ.▲
▼ 開戦後,基本的に日本の対戦車戦闘は中戦車より砲戦車に期待が掛けられたが,二式砲戦車(と一式砲戦車)を除いて固定砲塔なのもトン制限の話から逃れられて無いから.
さらに,国力の問題も当然あるだろう.
日本も貧乏だったが,他国もやっぱり貧乏だった.
日本はまさに軍国主義で,自らが遅れていると認識してたからこそ,貧乏なりにお金を使えた.
ところが他国もなりふり構わず軍事にお金を使うようになると,足腰の弱い日本は置いて行かれた.
具体的なところで言うと,1940年のアメリカの新型中戦車はコレ;
https://ja.wikipedia.org/wiki/M2%E4%B8%AD%E6%88%A6%E8%BB%8A#/media/File:Aberdean_proving_grounds_014.JPG
で,1941年;
https://ja.wikipedia.org/wiki/M3%E4%B8%AD%E6%88%A6%E8%BB%8A#/media/File:M3grantmini.jpg
で,半年後にM4がデビューするんだな.
あとは戦間期だからってのもある.
戦争してると,お金も資源も戦争遂行に必要になるからね.
戦車も戦争遂行に必要じゃないか…って思うかもしれないが,戦車ってご存知の通り,それだけあっても何の役にも立たなくて,前線に輸送する船舶だの前線で陸揚げするための設備だのが必要になるし,燃料も持っていかないとイカン.
そんなわけで,一部例外的なもんを除けば,役に立つ局面の少ない戦車は割と後回し.
開発そのものはしてるけど,新開発された戦車の生産が本格化したのは1944年以降.▲
軍事板
&軍事板,2018/04/27(金),(黄文字部分)
& "5 csatornás" katonai BBS, 2018/04/27(péntek), (sárga karakter)
青文字:加筆改修部分
Kék karakter: retusált vagy átalakított rész
▼
千葉戦車学校のアルバムから,演習地への鉄道輸送写真
坂本への演習輸送の模様だそうです.
これも何処の坂本なのか今後調べたい所です.
それにしても感電の危険は無かったのでしょうか?
イタリアでは鉄道の電化率が高く,輸送途中のドイツ軍の戦車部隊で,
かなりの感電死事故が報告されているそうなので.
よしぞうmaro' in mixi,2007年08月30日02:19
~08月31日 14:04
青文字:加筆改修部分
▲
【質問】
よく「日本の戦車は港のクレーン能力によって重量を制限された」などと言われますが,単に輸送船からランプを使って,自走で積み降ろしすれば良かったんでは?
【回答】
当時輸送に使われてた貨物船は,今のバルクキャリアの様なタイプが殆ど,
RoRo船なんかは車両を大量輸送する時代になって現れた.
当時もフェリーは有ったが,艀に毛が生えたような物で,外洋を長距離航海出来るような物じゃない.
で,バルクキャリアはクレーン無しじゃ,重量物の積み下ろしは出来ない,
舷側までのランプを作っても――それ自体長大で強度が必要な大変な物になるが――,船倉に降ろせない.
それなら舷側を切り取ってランプをつけ,船倉にもランプを付け多層にすればRoRo船になるが,そんな(当時は)普段使わないものが海上輸送の主体となるほど転がっているわけない.
要は重車両を輸送・運用するインフラが全く整ってない事が問題で,クレーンの能力だけに理由を求めるのもやや一面的.
軍事板,2009/06/01(月)
青文字:加筆改修部分
【質問】
旧日本陸軍はロシア・ソ連が仮想敵国だったはずなのに,なんであんなに戦車がしょぼいんですか?
代わりに対戦車砲が充実していたんですか?
【回答】
当時,戦車に戦車を当てるのは「愚作」とどこの国でもされてました.
WW2が始まるまでは,戦車の仕事は歩兵の支援である,とされていました.
もちろん,歩兵の支援も現在に至るまで戦車の重要な仕事ですが,当時はそれ「だけ」でよいとされていました.
武装,装甲,機動力,いずれもその前提で作られており,砲は初速の遅い短砲身でしたから,装甲を貫通させる目的には適していませんでした.
(でも,先見の明のあったいくつかの国は,戦車に長砲身砲を搭載しています.ソ連もその国の一つ)
また,戦車の部隊運用法も,その方針に則って,少数ずつの分散配置が普通だったため,戦車同士が遭遇する確率は低いと見なされていました.
ノモンハンの影響なんかでT-34とか作られましたが,本格的に対戦車戦闘を考慮して作られた戦車はティーガーが最初じゃないかな?
で,対戦車砲ですが,こちらもノモンハンで37ミリが通用しなかったため,1式47ミリ速射砲が作られてます.
こいつはBTシリーズが一応仮想敵だったんで,更に装甲の厚いM4なんかには通用せず,最終的に有効な対戦車砲は作られませんでした.
【質問】
偉い人は,戦車やら航空機やらが,歩兵をサポートしている戦車を攻撃する,なんて思いつかなかったの? それともなんか別の理由もあるの?
【回答】
わざわざ戦車に戦車をぶつけなくとも,対戦車ライフル等で十分対処出来たからそんな事を考える必要も無かった
当時は
「戦車の任務は歩兵支援,対戦車戦闘は対戦車砲の仕事」
という考え方が一般的だった様だ.
要するに,塹壕戦に於ける攻防を軸にした考え方しかしてなかったの.戦車のそもそもの開発目的からして「塹壕突破戦時の歩兵支援」だったし,
特にフランスでは,WWIの後半を歩兵と戦車の共同攻撃を用いて勝利したため,そのドクトリンに嵌ってしまった
「何故考え付かなかったのか」
と言われても,当時は,戦車の集中使用を考えた人の方が異端だったし.
軍事に限らず,大規模な組織においては,トップがよほど強力なリーダーシップを発揮するとか,よほど手痛い打撃を受けるとかしない限り,従来の方向性を変更できるものじゃない.
で,ソ連や独といった一部の国の中には,それを見越して対戦車戦闘に適応した戦車の開発にいち早く着手してます.
兵器や戦術は戦訓によって進歩してゆくもので,最初から今の形態や戦術があった訳ではないのです.
【質問】
大戦中の日本戦車について質問です.
開戦前ならともかく,M4やらパンターやらT-34やら出てきた大戦中盤以降になっても,日本軍の戦車デザインに進歩が見られないように思うのですが,なんででしょうか?
【回答】
日本には「T-34ショック」は生じてないので,パンターのような方向性への進化は起きようがない.
ドイツから情報は入っていたらしいが.
替わりに「M3スチュアートショック」「M4シャーマンショック」が発生し,それらは
・一式砲戦車(とりあえず対戦車戦闘できる長砲身の砲載せろ)
・三式中戦車(泥縄的に75mmカノン砲装備に改良)
・三式砲戦車(砲塔廻んなくてもいいから三式中戦車の数が欲しい)
となって結実してる.
これらはドイツで言うならIV号F2型や75mmL48装備の対戦車自走砲/駆逐戦車の位置にあるだろう.
そして,これらの上位機種として四式や五式といった重戦車が開発されていた.
この2種は戦前からの重戦車開発の流れと,戦争での戦訓が合わさったものなので,ティーゲルに相当する位置にある.
あと,
「戦争で対峙したソビエトの戦車にショックを受け,急遽それまでの設計思想を捨てて改良した」
と言う位置には,ノモンハンでの「BTショック」を受けて開発された九七式改や一式戦車がある.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
別に艦船や航空機の予算削らんでも,M-4やT-34に対抗可能な戦車は製造可能だったぞ.
92式あたりをカーゼマット式に装備した40tクラスの車体に,五式中戦車でしたように古い航空機用エンジンを積んだものなら,技術的に問題なく製造できたし.
---------------------------------------------------
これってほんと?
【回答】
ただデカイだけなら,某大佐の独断で,「オイ車」と呼ばれる100トンの戦車を試作している.
ただし構造的には,89式戦車をただでかくしただけの代物.とても実用に耐えられるものではなく,真っ直ぐ動く事にも苦労して,結局,写真の一枚も残さずに解体されている.
ちなみに,日本軍戦車のシーソー式サスペンションは重い戦車には向いておらず,実はチト車,チリ車の重量を支えるには結構無理がある.
また,仮に純技術的に可能だったとしても,それを可能にするための軍組織の相互協力,資材の融通,戦術/戦略思想の変更・・・といった”技術面以外の”問題を考えると,多分絶対に不可能.
さらに日本陸軍は,戦車の重量限界を性能ではなく輸送船のクレーンの能力から逆算したので,40tクラスの戦闘車輌なんて絶対に作ろうとしなかっただろう.
本土決戦で追い詰められるまでは.
で,本土決戦用の戦車を設計/生産するような時期になった頃には,そんなもん作ってる暇も生産力も資源もなくなってた筈.
【質問】
戦車の同軸機関銃について,
・その効果(車体搭載などと比べ,有利な点)
と
・なぜ日本軍は同軸機関銃を採用しなかったのか
を教えてください.
【回答】
その効果:
車体に防御上の欠点となる穴を開けなくていい.
砲の照準器代わりに使える.
日本軍が採用しなかった理由:
かんざし砲塔で充分と思ってたから.
軍事板
青文字:加筆改修部分
車体機銃って前しか撃てないじゃん.
ついてる位置が低いから,なおさら射界が狭いし,銃手必要な割には効果ないから廃れちゃった.
同軸機銃なら砲塔を回して360度柔軟に撃てる.
主砲と連動してるって事は,主砲と照準および砲手を共用できて無駄がない.
砲手が歩兵を見つければ機銃を撃ち,主砲が必要ならそっちを撃つという具合にね.
機銃は持続射撃ができるから,非装甲目標の制圧にとても有効.
砲塔というものは常に,敵がいそうな方向を指向するように出来てるので,配置的にも理にかなってる.
装甲も砲塔前面が一番厚い.
日本軍の戦車に同軸機銃がないのは,肩当て式主砲との兼ね合いらしい.
そして実戦で敵の対戦車兵に苦戦することになる.
モッティ ◆uSDglizB3o in 軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
戦時中の日本戦車の信頼性は?
【回答】
低いものでした.
特に,戦前はスウェーデンSKS製のベアリングやアメリカから輸入したプレス加工クランクシャフトを使っていたのに対し,戦中は国産の品質の悪いモノしか使え無かったので,信頼性は航空機以上に大幅に低下
しています.
これが問題になってないのは,単に戦車部隊が前線で使われる機会そのものが激減していたからに過ぎません.
恐らく同環境であれば,日本戦車も同じ運命を辿ったことはほぼ間違いありません.
【質問】
日本軍はクリスティー式懸架の採用をやめて,日本式のシーソー懸架を採用したんですよね?
日本式の懸架は,クリスティー式懸架に引けを取らないくらいは優秀だったのでしょうか?
【回答】
クリスティー式は高速走行性能を求めないとあまりメリットがない.
あと,サスペンションを車外に露出させない形にすると,車内が狭くなるし,不整地を走行する際の乗り心地があまり良くない,というデメリットもあった.
クリスティ式購入の話が出たという1931年当時は,日本の戦車研究の本流だった歩兵科では,それほど重視していなかったものと思われる.
歩兵直協が目的の兵器という発想だから,当時新鋭の八九式中戦車は十分な速度性能.
しかも自動車の配備率が低いから,戦車だけ速度を上げても無意味.
ただし,日本でも傍流の騎兵科では機動性を重視.
装軌・装輪変更可能な戦車なんかにも興味津々だったので,機動性偏重の九二式重装甲車を開発.
その後,1933年に行われた熱河作戦中の戦訓により,八九式中戦車では自動車部隊と行動するには速度が不十分なことが表面化し,歩兵科でも機動性に配慮した戦車の開発が求められるようになる.
それで出来たのが九五式軽戦車.
ただし,歩兵科としては機動性だけで装甲不足と不満で,すぐに九七式中戦車開発に動く.
こういう流れを見ると,クリスティー購入話はタイミングが悪かったというのが私見.
それほど機動性重視でなければ,あんな海外の個人発明を採用はしないのももっとも.
九四式軽装甲車でシーソー式が成功しちゃうと,軽量の日本戦車はあれで一応十分.
軍事板
青文字:加筆改修部分
▼
92式13ミリ機関砲を車体右側前部のスポンソンに装備した92式重装甲車「愛国9号」(福岡)(写真下)
この13ミリは対空射撃も考えていたそうですが,これは使いずらそう….
写真上は,これが何かは判りませんが,日本軍の装甲列車の様です.
よしぞうmaro' in mixi,2007年05月18日19:11
▲
【質問】
旧軍戦車では,リーフスプリングサスペンションがごく早い段階で廃れていますが,これは製造能力がなかった,って事なのでしょうか?
チヘのシーソー式コイル・サスペンション?は,チヌにして重量が増えた時,やたらと安定性が悪く,行進中は砲塔を後ろに向けて運転した,ということなのですが,チヌの後に来る車体にはリーフ・スプリング・サスペンションにして,これを回避すると言うわけには行かなかったのでしょうか?
4号は17tくらいから最後は26t近くまで太ってるのに,行軍中の不便,みたいなことは聞いたことがなかったので,あちらの方が拡張性,重量増への対応性は上のように思われます.
その辺はどうだったのでしょうか?
【回答】
シーソー式を採用したのは,当時の既存技術のサスよか優れていた(大重量には不向きだが)からシーソー式を採用したのであり,技術的問題でリーフ・スプリング・サスを止めたわけでなく,戦後,シーソー式はトーションバー以前では最良という評価もある.
(世辞が入っているかもしれないが)
そもそも,リーフ・スプリング・サスってのは安定性が高いため,支援戦車として開発された四号にとってはうってつけなものだったものの,高速走行,乗り心地と言う面では相当酷い物だ.
あと,砲塔を後ろにむけて行軍ってのも別に珍しい事じゃない.
(74式たんやJS2のトラベリングクランプの位置)
【質問】
司馬遼太郎の「戦車 この憂鬱なる乗り物」だったと思いますが,日本軍の戦車開発について,
------------
・ガソリン備蓄が足りないからディーゼルエンジンを採用
→しかも仮想戦場の満州には水がないという思い込みから空冷を開発.
しかし「日本は貧乏国である」という遠慮から馬力をケチったため,「馬鹿でかい,馬力がない,複雑で運用が難しい」という欠陥だらけのものになった.
------------
と書いてありましたが,本当でしょうか?
とくに「日本が貧乏だから馬力を遠慮」というあたりが,よく理解できません.
出来れば89式とチハの開発経緯も含めて教えてください.
【回答】
本当は八九式の後継車輌は九五式軽戦車でした.
しかしこれが,装甲が薄いなどの用兵者の不満があったので,安く弱いチニ,高く強いチハが試作されました.
どちらを採用するか悩んでいる間に支那事変が始まり,より強力なチハたんが選ばれた,というのが開発経緯です.
その九七式中戦車に用いられていた,三菱ザウラー式SA12200VD(複渦流式V型直噴12気筒/ボア120mm×ストローク160mm,170馬力/2000回転,重量1200kg)に関しては,噴射系統がデリケートで調整が難しく,耐久力に欠けるきらいがあり,動力性能に関しても,公称200馬力の筈が,実力は170馬力程度しか出ず,しかも,白煙,黒煙が甚だしく,更に五月蠅い(三菱の整備員曰く,「豆煎りエンジン」).
シリンダとシリンダヘッドは,4本の長い通しボルトで共諦めする方式で,チェンブロックや他車の動力を用いたエンジン吊り出しが頻々と行われたのも,車載状態での整備性が悪かったからで,ローラータペットを用いた4弁方式についても,こなれておらず,しかも,直噴はまだ未完成の技術でした.
このエンジンを他社のエンジン設計技術者が評して曰く,
「まるで航空発動機のような,屁理屈の塊のようなエンジン」
当時の軍用車輌用ガソリン・エンジンでは,オクタン価の制約から,余り攻め込んだ設計が為されず,車輌,兎も角人員が生きて帰ってこられる信頼性を重視したため,非常に甘い設計になっていました.
他方,ディーゼルに関しては,池貝とか三菱,いすゞなどが犇めいていたため,性能重視型の設計ではありましたが,それでも,軍用,就中,統制であるがために,設計には十分な余裕を持たされ,最大出力時正味平均有効圧が可成り低い状態に置かれていました.
本来は,常用時の負荷率は低い筈ですから,最大出力時の正味平均有効圧を高くしても良かったのですが,第四技術研究所や,戦車部会のメンバーが,作戦行動中に逆上した操縦者が無闇にアクセルを踏んで全負荷に近い運転を続けて,エンジンを壊すことを心配したためか,パワートレイン側の問題があったのかもしれません.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/06/06(月)
青文字:加筆改修部分
なお,福田定一・・・じゃない,しばりょーたろーせんせいは,機械に疎く,メカに興味のない人だったので,この人の書いた本にはメカニック方面での間違いが多いようです.
それも,資料を読み違えたとかではなく,自分の記憶を頼りに勘違いして覚えてた事をそのまま書いたりしているので,あてにならない部分があります.
もちろん,司馬遼太郎は戦車長として従軍した陸軍のエリートであり,自分の体験に基づいて書かれた「ノンフィクション」の部分は,(当時の誤解を含めて),一次資料としての意味はありますが.
軍事板,2005/06/06(月)
青文字:加筆改修部分
【質問】
日本戦車の戦闘力不足の一因って,やっぱり馬力不足?
【回答】
馬力は関係ない.
統制型の次は航空用ガソリンエンジンの再利用,ディーゼルターボ開発をしていた.
エンジンに関しては無いなら作っている.
それが理由で戦車開発が出来ない要因にはなってない.
まず,機甲戦力を持ち始めた当時,戦車の開発・配備にかけられる予算が過小だったために,安価に数を揃えられないかと言う思想が根付いてしまい,転換できない派閥があったとされる.
一式や新砲塔チハはBT-7に対抗すべく作った訳だが,太平洋戦争に突入後,敵方がM3軽戦車程度しか保有しておらず,対抗可能と判断したために,その後の戦車開発がスローペースになっている.
もう一つは,省力化機器や土木作業機械,自動車工学が未発達だったことや,(当時併合していた朝鮮半島を含む)自国内や満州,南方戦線の道路事情が悪かったことも大きい.
実際,ソ連側が満州に侵攻した際も,T-34やM4よりBT-7Mの方が使いやすかったとされる.
我が国の運用者には,戦車が30tクラスになると既に限界を超えてしまうと言う発想があり,逆にそれより重い戦車を運用するための技術開発が遅れていた.
当時の日本人の体格では,75mm長砲身砲の操砲は困難になってしまっているくらいで,アシスト装置が無ければ装填はおろか,操縦操作なども困難だろうと思われる.
情報の見誤り・軽視もあった.
開戦前~大戦前期にかけて,欧州,と言うよりもソ連戦車に引っ張られて各国の戦車が重厚長大になっていく過程で,それを後追いした.
(先回りして強力な物を作ろうと言う発想が無かった.)
ドイツの駐在武官から欧州戦の情報は入っていたが,思いっきり軽視して対応が遅れている.
まあ,こんな話がある.
ソ連軍人がまだ友好的な頃,ドイツの4号戦車を見学して,その余りのショボさに「強力な戦車を隠している」と信じて疑わなかった.
ドイツ側はその態度から,ソ連はより強力な戦車を開発していると早い時期に予想出来たし,その後もスパイ情報があったが軽視していた.
我が国はさらにその後で,欧州の戦車が75mm砲を撃ち合っていると聞いたが,なかなか自分達に波及する話とは思えない訳で,M3軽戦車にワンサイドで勝てる戦車を作っている内にエラいことになってしまった.
軍事板,2009/06/10(水)
青文字:加筆改修部分
◆◆◆◆◆◆装甲
【質問】
陸軍の戦車用防弾鋼鈑は,どこの工場で作られていたのですか?
【回答】
これは初期に呉海軍工廠からお裾分け,その後,陸軍用の三菱,東京鋼材が加わっておりやす.
第一次大戦時,欧州からの物資途絶,船舶量払底の状況で,鋼材価格は高騰し,三菱造船は鋼材の支払いに四苦八苦しておりました.
何しろ,銚子にあった某私鉄では,レールの敷設が終わったものの,第一次大戦勃発後に全部それを撤去して売却し,出資者が巨万の富を得たと言う話もあったりするわけで.
で,三菱は二つの製鋼事業を手がけます.
一つは朝鮮での鉄鉱山を買収したことを契機に,その鉄鉱を用いて黄海道兼二浦に銑鋼一貫製鉄所を建設し,これを三菱製鉄として独立させたもの.
もう一つは,三菱造船が長崎に製鋼工場を建設し,自前で鋼材を供給しようとしたものです.
ところが,両者とも当初は目論見通りの利益を上げますが,直ぐに第一次大戦が終結して鉄鋼材需要が急縮,その上,安いインド銑鉄が輸入され,それに追い打ちを掛け,最後に願っていた八八艦隊は消滅した為,長崎製鋼所は閉鎖,三菱製鉄は鋼材生産設備を閉鎖して,銑鉄工場として生残りを図ることになります.
しかし,三菱の鉄鋼部門進出の志は衰えず,1926年に当時苦境に喘いでいた東京鋼材を参加に納め,三菱製鉄の子会社としてそのノウハウを継承し,また,長崎製鋼所は長崎造船所付属電気製鋼工場としてその活動を再開します.
但し,三菱製鉄そのものは,1934年の日本製鉄設立時に現物出資して製鉄所を手放し,1935年には事業一切を三菱鉱業に譲渡して解散してしまいます.
この停滞から抜けたのが1933年.
海軍の増強として第二次補充計画が策定され,長崎造船所では巡洋艦2隻と潜水艦の発注が為され,それに付随して電気製鋼工場を拡充し,次に圧延工場を建設し,鋳鋼工場を建設するなどの拡充を繰返していきます.
こうして,長崎造船所付属工場から,全三菱の共通材料工場としての位置付けから,再び長崎製鋼所として独立した単位となります.
一方の東京鋼材は,親会社が解散した後,三菱合資でその扱いが長らく検討され,やっと三菱鉱業の子会社となっていく訳で,その後こちらも,1933年以後に活況を呈し始めます.
こちらの製品は主に,窓枠と扉だったりするのですが,1935年以降はそれが縮小され,銅を主成分とするアームズブロンズの生産が行われています.
アームズブロンズは,アームズという名前が付いていることからも判るように,兵器用特殊鋼で,長崎兵器製作所で生産されていた魚雷に用いられていました.
長崎製鋼所では,従来は鍛造品,鍛冶製品,鋼鈑類が主だったのですが,1937年以降,特に1938年以後はBK板,鋼棒類や分塊品の生産が主力となっていきます.
BK板と言うのは,戦車用防弾鋼鈑で,1937年に495tだったのが,38年2038t,39年2845t,40年4109t,41年4092t,42年1~9月で3174tと増大しています.
鋼棒類というのは,海軍航空廠から発注された航空機用の特殊鋼棒です.
但し,こうした需要の激増にスクラップ類など原料供給が隘路となり,生産が伸びなかったために,各地に適地を求めます.
こうして,再び朝鮮半島の平壌近辺,平安南道江西郡降仙里付近に一貫工場を建設することとなりました.
これは,鴨緑江水力発電所による膨大で低廉な電力,朝鮮半島北部の安価な鉄鉱資源を組み合わせることが出来たからです.
この工場建設の用地買収と工場建設には三菱地所が,物資の買付に三菱商事京城支店と,三菱財閥総出の投資となっています.
三菱重工長崎製鋼所と共に,三菱の鉄鋼生産の主力となっていた東京鋼材ですが,1940年に深川工場建設のため増資を繰返しますが,それに先立ち,同社は三菱鉱業子会社から合資直轄の分系会社となりました.(ちなみに,この時に三菱石油と日本化成工業も分系会社となっている)
これと同時に,東京鋼材は三菱鋼材と社名が変更され,三菱の製鋼事業への再進出が明確化された上,設備規模は1940年の1.6~1.7倍に達しました.
しかし,生産量は変ってなかったり.
これは,原材料の入手難と労働力需給の悪化で,設備はあっても原料と人の問題から増産が出来ないと言う訳.
深川工場は,海軍向け航空機用棒鋼800t/月と航空機用気筒4000個/月と言う需要に対応する必要があったのですが,東京鋼材の広田工場では地形的に拡張出来ず,本社工場も拡張の余地がなかった為もあり,新たに建設されることにななりました.
ところが,資材の手当が全く為されない所に物価騰貴があって,建設が進まず,1941年8月にやっと部分生産に漕ぎ着けます.
しかし,原材料不足は否めない状態だったりします.
ただ,グループ内を見渡せば,重工が平壌で原料生産を行っており,鉱業も朝鮮の清津に茂山の鉄鉱石を精錬する精錬所を設け,年産15万tの製鋼を開始しており,台湾でも製鉄事業を計画していました.
経営資源的には,投資の重複を避ける為にも,先ずは製鋼会社を新設して長崎製鋼所を引き継いだ後,三菱鋼材と吸収し,ゆくゆくは三菱鉱業の製鋼事業も統合する予定で,まずは前二者の事業統合を行い,1942年8月末に三菱製鋼を設立します.
三菱製鋼は,先ず重工から長崎製鋼所と建設中の平壌工場を譲渡され,朝鮮の弘中商工から仁川の富平工場を買収し,11月に三菱鋼材を吸収します.
ちなみに,弘中商工の富平工場は,鋳鋼,鋳鉄作業から鉱山機械,車輌製作に及ぶ総合工場であり,三菱製鋼は陸軍用特殊鋼材加工と平壌工場の機械生産工場とする予定でした.
平壌工場は1943年秋に漸く完成し,年間に陸軍航空本部と兵器行政本部向けに各1000t,海軍艦政本部と鉄道省に各2000tの分塊圧延鋼片を供給することを目標に操業を開始します.
更に平壌工場は拡張され,その終了時には,鋼塊8.5万t,鋳鋼品2000tを生産し,これを使用して鍛鋼1.2万t,圧延材1.8万t,バネ素材6000t,線材3000t,特殊鋼鋼片1万tを生産する予定でした.
これに加え,第二次増強計画で,還元鉄4.5万t,合金鉄1000tが生産追加されます.
これは,船舶用各種鋼材増産の為だったりする訳で.
一方,深川製鋼所では,1941年12月に早くも,海軍航空本部から気筒6500個/月,鋼棒1500個/月の増産命令が出されますが,資材不足で二次に渡る拡張工事の進展が遅れ,結果的にこの数字を超したことは無かったり…
ちなみに,更に三次計画が海軍から命令されたりしますが,海軍自体その工場拡張に対する資材の割当が出来ず立ち消え(ぉぃ.
鋼塊生産の広田工場は鋼塊を年産14989tとし,更に1943年には年産16442tが生産されることになり,広田工場は広田製鋼所として独立しました.
また,更に非鉄金属工業所が組織上独立します.
これは即ち,アームズブロンズ生産工場です.
これも航空機に不可欠の部品であり,東京製作所だけでなく,桶川に新工場を建設することになりました.
ところが,1944年以降の通商破壊で生産量はガタ減りとなり,特に非鉄金属工業所は生産が出来ない状態に陥り,工場そのものを三菱鉱業に再譲渡しています.
また,1945年には空襲で大阪発条工場が壊滅,深川製鋼所,東京製作所も大なり小なり被害を受け,更に欠勤率の急増で生産量は減っていき,1944年上期に前期比15%減少,同下期には上期に比べ更に25%減少しています.
追い打ちを掛けたのが,1945年8月9日の長崎への原爆投下で,これによって長崎製鋼所は壊滅して,最終的に海外資産の接収で総てを失いました.
ちなみに,戦車用BK鋼鈑の開発は陸軍の要請を受けて長崎電気製鋼工場が行い,また,生産も長崎が一手に行っており,陸軍戦車関係需要量の90%を此処で賄っていました.
BK鋼鈑は,年間3000~4000tの生産量だったそうです.
統計としては1942年までしか無い(即ち,三菱製鋼以降のデータが無い)のですが,年産4000tとして,1944年上期は15%減だったら1700t,下期は1700tの25%減なので,1275tと年間で1000tマイナスとなります.
戦車にどれくらい鋼材が使われるのか寡聞にして存じませんが,其の分代替材が使われた可能性がありますね.
(ちなみに,1944年の中戦車生産量は294輛で前年比54%,軽戦車が48輛で同20%,自走砲だけが59輛と4.2倍ですから,中戦車と合わせれば,ちっとはマシですがそれでも減っています.)
なお,大同鋼板(今の大同特殊鋼)も一部生産していた様(日本の鉄兜は尼崎と愛知で生産しており,その辺の特殊鋼関連で,絡みがあったか)です.
ただ,三菱重工で生産した分は三菱やら東京鋼材から調達した分で,特二式内火艇用も同様なのは判っているのですが,日立とか日野で生産されたチハ車一統とか,瓦斯電のTK車なんかは不明です.後者は,大同鋼板辺りからの仕入れみたいなのですが….
日立は日立金属とか持っていたから其処で調達したかも知れないし,日野や瓦斯電(いすゞ)は,浅野繋がりで,日本鋼管から調達したような感じを受けますし.
眠い人◆gQikaJHtf2 in mixi
【質問】
旧日本軍の戦車は米戦車に比べてかなり装甲が薄かったそうですが,何故もっと装甲を厚く出来なかったのですか?
【回答】
満州の泥寧期や朝鮮半島を含む国内の道路事情を考え,重量を押さえていた.
また,港湾施設のクレーンの能力に限界が有った事と,輸送用船舶の床面強度に限界が有った事も,重量上の制約の一因と言われる.
それなのに,燃料事情から採用したディーゼルエンジンがソ連の物より著しく重い.
結果として,装甲が貧弱になった.
ただ,第二次世界大戦前までは日本軍の戦車の装甲は諸外国戦車や米戦車と大して変わりは無い.
大陸での本格的な戦車戦を経験しなかったのと,海に囲まれた国土と想定される戦場等から,限られた国力を航空機や艦船を作る事に突っ込んだ為,戦車は後回しにされた.
この辺りが教科書的?な回答だと思われる.
軍事板
http://www.luzinde.com/meisaku/tanks/chi-ha.html
▼ クレーンだけの話じゃないんだ.
中国大陸はインフラが未整備で鉄道の積載制限もあり,重い戦車が渡れる橋もほとんどない.
チハ開発の際の会議で,陸軍軍事課は上述の理由から,
「運用条件から重量は10トン~13トンまでが望ましい.500kgでも軽くして欲しい」
と注文を出している.
15トンでも中国で使うには重すぎたということ.
軍事板
青文字:加筆改修部分
▲
【質問】
歴史小説で有名な司馬遼太郎氏(故人)は,戦時中に戦車兵だったそうで,私が随分前に読んだエッセイの中で氏は,
「開戦初期の日本の戦車の装甲は鋼鉄で出来ていて,ヤスリをかけても歯が立たなかった.
しかし,戦争末期の戦車の装甲は容易にヤスリで削れた.
敗戦間際の日本は戦車の装甲に使う鋼鉄にすら事欠いていた」
といった趣旨のことを書かれていたのですが,これは本当なのでしょうか?
本当だとしたら,鍋・釜と同じ鋳鉄で戦車を作ってたって事ですよね?
【回答】
このエッセイは新潮文庫「歴史と視点」所収の「戦車,この憂鬱な乗り物」,これについての論争の経緯については,徳間書店「宮崎駿の雑想ノート」巻末の富岡吉勝氏との対談で出てくる.
1)司馬が,末期の戦車には鑢が掛かったという話を公表.
2)「あれは冷間圧延鋼鈑だから鑢で削れても問題ない(ヤスリの鋼は粘りが極度に少ない分硬いので,割れないように多少の粘りのある戦車用の装甲材が削れても,何ら不思議はありません)」と,装甲板の開発にあたっていた技術者が戦車雑誌で反論.
3)元戦車工場勤務の方が,末期には鋼鉄は手に入らず,普通の鉄を使用していたと再反論.
というのが,大まかなその経緯.
ちなみに,圧延鋼板の製造配分に関しては,1944年春から陸軍向けが頗(すこぶ)る少なくなり,重火器の生産が高射砲を除いて停止され,弾薬生産が削減され,戦闘用車輌の生産が激減し,軽戦車の生産が事実上停止し,中戦車,装甲車輌の生産が著しく削減されると言う状況にはなっています.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2他)
司馬の話に信憑性有りとする意見は,だいたい以下の通り.
「ここで出てきた装甲板の説明をちょっとしますね.
表面硬化装甲とは,炭素を添加し,砲弾が衝突する面の表層だけを焼きいれすることで硬くして,着弾した砲弾を砕いてしまうというもので,主に装甲の薄い戦車などに用いられます.チハがM3軽戦車を撃破出来なかった理由は,チハの砲弾がすべて砕けてしまったからでしたね.当然ヤスリでは削れません.
一方,均質圧延装甲というのは,炭素鋼に希少金属であるニッケルやクロムなどを添加して粘りを出し,今度は砲弾を受け止めるという目的のために作られた装甲板です.
当然,この種類の装甲は原理から言って,厚みのある戦車に用いられるため,三式中戦車にはこの装甲板が採用されていた,と彼らは主張するわけですね」
〔略〕
「ところで,均質圧延装甲板を作ろうとする場合,鉄(Fe)の次に多く必要な金属は戦略物資のニッケル(Ni)なんです.これは日本のニッケルの必要量に対する取得率の割合の変化なんですけれども・・・・」
ニッケルの必要量に対する取得率の推移
割合 | |
1940年 | 60% |
1941年 | 30% |
1942年 | 20% |
1943年 | 10% |
1944年 | 10% |
「三式中戦車が製作された44~45年はニッケルの取得率が10%を下回っていたんです.
当然,航空機優先のご時世でしたから,試作車輌を作るときにも材料が不足するぐらいだったといいます.
それで,均質圧延装甲の反論の後,今度は製作にかかわった人達から三式中戦車は材料不足で普通の鉄を使用した,という再反論がなされてこの論争は決着がついてしまいました.
間違いありません.
この旧日本軍最後の戦車はフライパンと同じ,軟鉄で作られました.」
また,その反対意見はだいたい以下の通り.
司馬遼太郎氏はその話を実際には確認しているのでしょうか.
また,ヤスリを当てた装甲の部位を九七式,三式でそれぞれ教えて戴ければ,答えは比較的簡単に出せます.
というのも,戦車の装甲は部分ごとに材質が細かく異なり,九七式戦車の装甲でも,場所によっては軟らかい部分もあり,三式の場合でもヤスリがかけ難い硬さの部分があります.
ですから,この逸話は,誤解のみを拡大させる与太話と呼んで差支えないでしょう.
また,日本戦車研究のバイブル「日本の戦車」の著者,竹内昭との会見記によれば,
普通鋼板とは考えられない,との事です.
同席した落馬童子氏の調査では,当時,三菱丸子工場には軍から配給された戦車用の資材が大量にあったそうです(当時三菱丸子工場社員の証言およびメモより).
http://muwsan.hp.infoseek.co.jp/takeuti.htm
とのこと.
ちなみに,ニッケルの不足は紛れもない事実です.
むしろ需要を10%も満たしていたことに,素直に驚きました(泣)
「海軍技術研究所」から要約して引用すると
『たとえば,ニッケルの代わりに純鉄を使うとか,トリタン線もタングステンにトリウムを塗って加熱したものを自社生産して使っていた.
ニッケルについてはこんな話もある.
あるメーカーで電探用の高性能の真空管を作るために,天然のニッケルが必要になった.
ヤミ物資を探しても見つからず,軍需省にかけあったところ,なじみの担当官から,
「これを使ってみては……」
と,香港で手に入れたニッケル貨を渡された.
これを使って真空管を作ってみたところ,良い結果が得られた.
この情報はすぐに業界に流れ,香港のニッケル・コインの争奪戦が始まった』
『ニッケルの代わりに純鉄を使う』
……う~ん,どこかで聞いたような話ですな.
この話から分かることは,電子部品に使うようなニッケルすら不足していたのだから,装甲板に至っては……つーことです.
極東の名無し三等兵 ◆5cYGBbCsjQ in FAQ BBS
また,下谷政弘編「戦時経済と日本企業」(昭和堂:1990年刊)には,大同特殊鋼のケースが掲載されています.
この本の中に,大同特殊鋼星崎工場生産報告書からの表が掲載されています.
それによると,ニッケルに関しては,以下のようになっています.
(単位t)
1938 | 1939 | 1940 | 1941 | 1942 | 1943 | 1944 | 1945 | |
実際受取量 | 70 | 98 | 161 | 104 | 133 | 75 | 26 | 0 |
消費 | 55 | 78 | 111 | 102 | 165 | 135 | 61 | 1 |
在庫 | 57 | 77 | 127 | 129 | 97 | 37 | 2 | 1 |
他にも,この表には,フェロシリコンとかフェロマンガン,フェロクロム,フェロモリブデン,フェロタングステンなんかの受給量が書かれていたりしますが….
このうち,フェロシリコン,フェロクロムは太平洋戦争勃発後も受取量,消費量が増加し,一定の需要を満たすことが出来ていたみたいです.
しかし,上表の様に,ニッケルについては,1940年をピークに受取量が低下し,在庫急減となり,星崎工場の報告では,ニッケル不足のため,Ni-Cr鋼に換えて,Cr-Mo鋼を生産せざるを得なくなっており,築地工場でも,1943年より,「軍ノ指示ニヨリ無Ni又ハ低Ni合金鋼」への転換を余儀なくされています.
この他,戦争の進展により,モリブデン,タングステンなどの不足が著しくなり,Si,Cr,Mnなど国産鉱石で生産された代用鋼が多く用いられるようになりました.
また,特殊鋼原料の主原料たる屑鉄についても,米国からの質の良い屑鉄の輸入が途絶し,国産屑鉄(屑鉄代用品生産を含む)への転換が行われています.
国産屑鉄については,国内の金属回収運動にも支えられて,量的には成果を上げますが,質の問題が発生しています.
特に,1944年以降は屑鉄の不足という事態に陥り,「ダライ粉」と呼ばれる旋盤などの工作機械で切削,旋削した際に発生する金属屑の配合割合が増えてきます.
これによって,「単位当リノ熔解時間増加トナリ生産量ノ低下」を招き,ダライ粉は色々な金属の加工屑ですから,成分不明で,これがため,生産された鋼に,「予期セザル成分ガ混入スルコトガアリ,不良品ヲ造ル有力原因」となっています.
ちなみに,1942年度第1.4四半期でも,全国屑鉄供給のダライ粉比率は40%にも上っています.
推定ですが,こういった品質不良の(そして,検査をすり抜けた)鋼板が戦車に用いられ,ヤスリがけしたら削れちゃったと言う現象を引き起こした可能性があるのではないか,と思います.
◆◆◆◆◆◆搭載砲
【質問】
日本戦車の搭載砲は,なぜ威力が弱かったのか?
【回答】
砲の性能はともかく,徹甲弾は「日本製は弱い」が定説になっちゃってます.欧州じゃ常識のAPCですら,日本は実用化出来ませんでしたので.
陸軍の場合は,技術が無いってよりは研究不足な気がしますが,単純に口径や初速だけで欧米の戦車砲の威力と比較出来ないのも事実な気がします.
ただ,陸軍を弁護すると,タングステンのような対戦車専用砲弾に使われるレアメタルを,日本では工作機械以外に使うことなど考えられなかった点があります.
とはいえ,T26にも歯が立たない九四式速射砲を見ると,やっぱり研究が足り無すぎと言う気がしますが.
ノモンハンで,我が方の傾斜装甲がソ連の対戦車砲に対して効果が無い割に,逆にこっちは速射砲では少しでも命中角度が付くと簡単に弾かれるって話がありました.
これは,ソ連の対戦車砲弾はAPC(被帽付き徹甲
弾)だから滑らないんですが(日本側はHE-AP),これ実戦で痛い目に
あったにも関わらず,ずっと後のM3/M4ショックでも全く改善されてないんですから,純粋に資源や技術的な問題より日本陸軍の体質的な問題と言わざる得ないと思います.
(APCの構造なんて知る機会はいくらでもあったのに)
鹵獲したM3に対する射撃実験も有名です.
57mm短身砲で試射したところ,距離300m程度では砲弾の方が粉々になり,側面から数十発打ち込んで
ようやく装甲板が(貫通ではなく)割れたというのはかなり悲惨です.※
しかも衝撃的なのは,ノモンハンで鹵獲したBT7に対する実験が,全くこれと同じ結果だったにも関わらず,何ら対策が採られていなかった事です.
ただ,陸軍の機甲にしろ対戦車火力にしろ,その充実を阻んだ一番の原因は
「金(予算)がない,無い袖は振れない」
って事情もあるんですが.
また,組織論的に見ると そもそも帝国陸軍のような極度のトップダウン型組織では,下からの意見や要求は上に届きません.
そのことにより,正確なフィードバックが得られないため,戦況に会わせた対応が出来ない.
そのため,M4がフィードバックによって着実に強くなっている一方,いくら要望があっても日本の戦車は強くならなかった.
そして上層部の失態の代償は,末端の駒に玉砕や特攻をさせることで払われます
64式小銃などは明らかな欠陥が改善されないように,残念ながらこのような組織構造は自衛隊にも受け継がれています.
現場からのフィードバックが,兵器開発や生産現場のかなりの分野できちん反映されて運用される点ではアメリカはさすがなんですよ.
もう,これだけで勝てないと思う私です.
いまだに
「日本はアメリカの物量に敗れた」
って人がいますが,私は間違いと思います.
「質と量の両面で完敗した」
と思います.
でも,こう書くと「自虐史観」って怒られるのよね…….
※ちなみに,17年4月のパターン攻略から,47mm戦車砲がデビュー.
高速徹甲弾で1000メートルで50ミリの装甲が貫徹できたので,士気が上がったそうです.
▼ だいたい57mm砲って,自国戦車製作にあたってのモデルとして,英国から輸入したヴィッカース製戦車に付いてた6ポンド榴弾砲をそのままコピーして使ってたんだよね?
由緒正しい菱形戦車直伝の短砲身榴弾砲で,対戦車戦闘ができるわけは・・・.
あと補給に関しても,全く互換性のない57mm砲は大変だったろうなぁ・・・
いかにも日本らしい(苦笑)
▲
チハ車・「ティーガー」砲塔搭載型
(画像掲示板より引用)
【質問】
日本陸軍の徹甲弾の威力が低い原因を教えてください.
【回答】
日本の冶金技術が低かったから.
▼ それと,徹甲弾の威力とは「弾速×弾頭重量」.
それと,徹甲弾の威力とは「弾速の2乗×弾頭重量」※.▲
しかし,日本陸軍は技術開発陣に無茶な要求をしたため,開発側はカタログ・データの数値を,欧米の数値並にする必要に迫られた.
どうやっても陸軍の開発仕様じゃ,欧米並の弾速は出せないのに,数値が劣っていると怒られる.
なので結局,弾頭重量を軽くして速度を稼いだ.
結果,冶金技術が低いので装甲に硬度負けしてしまい,弾頭重量が軽いので重量破壊力も低くなる.
もっと根本的に,日本戦車はみんな砲身長が短いので,というのがまずあるが.
砲身長が短いってのも,半分以上は冶金の未熟さ故.
材料が拙いから長砲身が造れない.造れたとしても金がかかる.
肉厚になって重量が嵩み,搭載や運用に支障を来す.
もっとも,短砲身ではない砲でも酷いけど.
軍事板,2005/07/18(月)
青文字:加筆改修部分
試製5,7cm長加農 57口径 870m/s 1000mで65mm/0°
三式7,5cm戦車砲 38口径 680m/s 1000mで65mm/0°
五式7,5cm戦車砲 56口径 850m/s 1000mで75mm/0°
九二式10cm加農砲 45口径 765m/s 1000mで100mm/0°
試製10cm戦車砲 55口径 900m/s 1000mで150mm/0°
軍事板
さらに,材料の問題もあります.
特殊鋼,特に,ニッケル系やマンガン系の材料不足と,金属回収で回収した金属粉を混合した事による脆さが出ているので,戦争が進展する程,問題が発生したのではないかと思います.
ちなみに,同じような初速(47mmは810m/sec)の砲で,例えば
英国の2ポンド砲は初速850m/sec,射距離1,000mで装甲貫徹力42mm(47mmは同じ距離で30mm),
米軍の37mm砲は,初速775m/sec,射距離1,000mで装甲貫徹力60mm
になります.
一つ上のクラス,
英軍の6ポンド砲では,初速786m/secですが,射距離1,000mで46mm,
米国の75mm砲では,初速700m/secですが,射距離1,000mで69mm
になっていますね.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2006/01/13(金)
青文字:加筆改修部分
▼※ 運動エネルギーは「速度の2乗×重量」
(より厳密に書けば,「速度の2乗×重量÷2」)
の筈です.
もちろん同じ速度なら,重量が重いほど,運動エネルギーが大きいというのは事実ですが.
モーグリ in FAQ BBS,2011/10/16(日) 19:58
青文字:加筆改修部分
▲
【質問】
昔の日本は冶金技術が劣っていて,良質な鉄鋼が製造できず,砲弾が敵戦車に命中しても砲弾の方が砕けるような有様だった,等の話を聞きます.
しかし海軍では,そのような鉄鋼の質が原因の問題をほとんど聞かないように思います.
戦中の粗製濫造や海軍にリソースを回していた,等が予想されますが,実際の所,日本の冶金技術は劣っていたんでしょうか?
【回答】
徹甲弾って貫通しなければ弾の方が壊れるものだから.
陸軍も試作戦車砲で,1000mで150mmの装甲板を貫通させているから,
十分に威力のある対戦車砲を使っていれば,弾が砕けたとか言われる事もなかったんじゃないか.
砕けるのは日本だけと誤解しているのが多いみたいだが,連合国側の対戦車砲も威力の低いものは,徹甲弾が戦車の装甲に当たって砕ける例が少なくなかった.
例えば北アフリカ戦線では英軍の2Pdr対戦車砲が,戦車の装甲に直撃すると徹甲弾の弾頭が砕けることが明るみになって,問題になっている.
――――――
http://warandgame.wordpress.com/2007/09/18/infantry-tank-mks-i-and-ii-matilda/
........ Its main gun, the 2pd was very effective against the Italians throughout the war, and could penetrate German tanks until they added “face-hardened” steel plates to their tanks. The added plates had the effect of shattering the 2pdr shell.
(shattering : 粉々に砕ける)
――――――
――――――
「wikipedia」:オードナンス QF 2ポンド砲(マチルダ IIの主砲)
…また当初,AP(徹甲弾)がドイツ戦車の表面硬化処理装甲に命中した場合,弾丸の方が砕けてしまい
貫通させることができないなどの問題が発生,…
――――――
軍事板
青文字:加筆改修部分
ただし,同じクラスの砲弾で列国を比較してみるならば,やはり冶金技術の低さゆえ,硬度で劣っていただろうことは否定できないだろう.
また,冶金技術の低さは砲身の材質にも影響しており,コンパクトな長砲身の砲を作れず,ゆえに砲の威力不足を招いていた.
威力不足の砲で装甲板を撃てば,砲弾のほうが砕けることになる.
▼ 陸軍を弁護すると,タングステンのような対戦車専用砲弾に使われるレアメタルを,日本では工作機械以外に使うことなど考えられなかった点があります.
とはいえT-26にも歯が立たない九四式速射砲を見ると,やっぱり研究が足り無すぎと言う気がしますが.
ノモンハンで我が方の傾斜装甲が,ソ連の対戦車砲に対して効果が無い割に,逆にこっちは速射砲では少しでも命中角度が付くと,簡単に弾かれるって話があって,これソ連の対戦車砲弾はAPC(被帽付き徹甲弾)だから滑らないんですが(日本側はHE-AP),これ実戦で痛い目にあったにも関わらず,ずっと後のM3/M4ショックでも全く改善されてないんですから,純粋に資源や技術的な問題より,日本陸軍の体質的な問題と言わざる得ないと思います.
(APCの構造なんて知る機会はいくらでもあったのに)
ただ,陸軍の機甲にしろ対戦車火力にしろ,その充実を阻んだ一番の原因は
「金(予算)がない,無い袖は振れない」
って事情もあるんですが.
▲
【質問】
帝国陸軍の戦車砲・対戦車砲の徹甲弾は各国では標準の被帽がないため,傾斜した装甲でたやすくはじかれたとの話を聞きますが,海軍の技術を移転すれば解決できたんじゃないんですか?
【回答】
海軍系の技術は,あまり役に立たないかと.
以下は「続・海軍製鋼技術物語」に記載されている,元海軍技術者のコメント.
ただし被帽が有効なのは,表面硬化甲鈑に対して自身の断裂速度を超えた速度で衝突した場合であって,それより遅い速度で表面硬化甲鈑にぶつかったり,均質甲鈑に対した場合には弱い.
ただ撃角が大きいときに被帽があれば,均質甲鈑に対して弾丸の反跳を減らせるかも知れないが,その目的ならばむしろ中口径弾のように弾体の頭部を平らにする方が効果的であろう.
【質問】
元三式中戦車乗り曰く,戦争末期には徹甲弾が支給されなくなって,榴弾だらけになったとの事ですが,榴弾より徹甲弾のほうが生産が難しいのでしょうか?
【回答】
徹甲弾はその性質上,弾体を硬く焼き締める必要があり,また純度の高い金属や合金を必要とします.
その冶金技術を維持するには,高度な精練技術を持つ工場や加工工場が不可欠なのですが,度重なる戦災によって,それらの工場の多くが失われた為に,比較的に金属硬度や製造課程を必要としない榴弾が多く生産されるようになりました.
軍事板
青文字:加筆改修部分
▼ 【反論】
質問者の書いている,
「戦争末期の三式中戦車には徹甲弾が供給されなかった」
という元戦車兵の証言については,最近になって兵器研究家の小高正稔氏が,誤解だと否定してます.
------------
三式チヌ車配備部隊では徹甲弾の供給が十分ではなかったという記述も散見されるが,これは部隊において徹甲弾を用いた実射訓練の頻度が低かったことによる誤解である.
徹甲弾を想定した射撃訓練は,弾道特性の類似した内筒銃でも可能な一方,効果範囲など射手の「慣れ」が必要な榴弾は,実射訓練が必要で頻繁に実施されたことが,誤解を生んだ原因だろう.
西日本を管轄する第二総軍に対しては,東日本を管轄する第一総軍から弾薬が融通されており,少なくとも九州の部隊では,巷説のような徹甲弾不足はなかったと思われる.
------------小高正稔「最後の量産MBT「三式」のメカ&バリエーション」,「丸」2012年12月号,p.72
モーグリ in FAQ BBS,2013/3/31(日) 21:23
青文字:加筆改修部分
▲
【質問】
旧日本軍の戦車の砲塔内には,何発の弾薬を積めますか?
というより,床下に収納するすぐに発射することのできない弾と,砲手の手の届くところに置かれていて,すぐに砲に装てんできる弾は,それぞれ何発ですか?
【回答】
八九式戦車の資料しか手元にありませんが,八九式乙型の場合は,8発入り弾薬箱が5段車体内に装備されており,これに加えて,即応予備として4発砲弾架に掛かっています.
つまり,44発が車体内に置いてありました.
なお,甲型では50発入り弾薬箱が2つ車体内にあり,これらが車長,砲手の腰掛けを兼ねていました.
砲側には,右側面に4発,左側面に2発の57mm砲弾架があります.
九七式中戦車の資料は,カッタウェイしか無いので,しかとは言いかねますが,砲塔前部に4発の弾薬架があり,砲塔後部にも,5発分の弾薬架がありました.
また,車体内部には57mm砲の弾薬箱が最大3箱あった様です.
1箱20発入りとして40発,即応用として10発程度あったのではないでしょうか.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/10/15(土)
青文字:加筆改修部分
【質問】
旧日本軍の戦車は走行しながら主砲を撃てた,というのは本当でしょうか?
【回答】
本当.「行進射」と言って,日本陸軍の戦車による通常の射撃方法です.
砲手と操縦手が連携して,発射の際にわずかに速度を落として射撃を行います.
当然命中率や発射速度は低下し,五七ミリ砲では
*一分間の発射速度:1~2発(停止時:5~12発)
*500メートルでの命中公算:17パーセント(同:65パーセント)
になりました.
したがって実際には,戦車小隊(四輌)で行進と停止を併用して射撃を行います.
名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE :軍事板,2005/11/19(土)
青文字:加筆改修部分
【質問】
一式徹甲弾って何?
【回答】
一式徹甲弾は,陸軍の75mm砲で使用された「徹甲弾」.
ただ,それまでに制定されていた各種徹甲弾同様,炸薬を内蔵する,実質的にはAPHE弾(徹甲榴弾)だった.[1]
三八式野砲や四一式山砲用のものは10mm幅1条弾帯で,全備弾量6.575kg,空弾量6.010kg,炸薬量65g(アルミ被包含).[1]
信管は一式徹甲中一号弾底信管で,信管量500g.[1]
この信管は,着弾時の衝撃に耐えるよう,それ以前の弾底信管に比べて大幅に構造が強化されており,曳光剤も内蔵していた.[1]
九○式野砲・八八式七高用は10mm幅2条弾帯となり,全備弾量は30g重い(恐らく四式七高用も).[1]
さらに四式七高をベースとした五式七糎半戦車砲では,全備弾量6.615kgでさらに10g重く,弾帯形状が異なっていた可能性がある.[1]
各砲での初速は,四一式山砲343m,九四式山砲384m,三八式野砲508m,一式七糎半自走砲668m,試製五式七糎半対戦車砲Ⅰ型821m,五式七糎半戦車砲850m.[1]
上申の際の資料によれば,一式徹甲弾を使用した一式機動四十七粍速射砲は,弾着角90度で以下の装甲板を貫通出来た.[2]
1,500mで45mm(第一種防弾鋼板)/20mm(第二種防弾鋼板)
1,000mで50mm(第一種防弾鋼板)/30mm(第二種防弾鋼板)
500mで65mm(第一種防弾鋼板)/40mm(第二種防弾鋼板)
200mで65mm(第一種防弾鋼板)/50mm(第二種防弾鋼板)
また,1944~1945年調製と思われる陸軍大学校研究部の資料によると,「1式47粍速射砲(原文そのまま)」は,1種:射距離300m/貫通威力84mm,1種:射距離400m/貫通威力81mm,1種:射距離500m/貫通威力78mm.2種:射距離300m/貫通威力57mm,2種:射距離400m/貫通威力54mm,2種:射距離500m/貫通威力51mm,となっている.[4]
一方,1945年8月のアメリカ旧陸軍省の情報資料によれば,鹵獲された一式四十七粍戦車砲の射撃試験において 射距離500yd(約457.2m)において3.25in(約82mm)の垂直装甲を貫通した事例が記載されている.[4]
すなわち,M3軽戦車(正面砲塔装甲38mm)やM3中戦車(同51mm)なら対抗出来た.[3]
え? 「M4シャーマン戦車なら?」だって?
…そんなことより,カレーの話をしようぜ.
【参考ページ】
[1] http://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium&illust_id=28158558
[2] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%BC%8F%E6%A9%9F%E5%8B%95%E5%9B%9B%E5%8D%81%E4%B8%83%E7%B2%8D%E9%80%9F%E5%B0%84%E7%A0%B2
http://navgunschl.sblo.jp/category/1472169-4.html
[3] http://torakyojin88.web.fc2.com/g14.html
[4] http://ameblo.jp/japan4war/day-20140518.html
【関連リンク】
「Togetter」◆(2013-07-09) 米ソの貫通試験データで遊んでみる~5cm KwK39と一式47mm砲~
【質問】
第二次大戦中,戦車砲の自動装填装置は開発されなかったのですか?
【回答】
まず,日本軍では当時の自国民の体格の面で,75mmクラスの主砲弾は装填作業に問題を感じていたため,5式中戦車用に半自動装填装置を開発中だった.
これは装填手が予め装填装置に砲弾を入れておくことで,装填装置内の砲弾が続いている間は,装填が早く行えると言う物.
(完全な自動式では無いものの,)必要もあったし,開発もされていたのが実状.
大戦末期,75mm戦車砲の製造自体がままならない状況(同じ砲身を使う,対空砲の生産が優先された)で,半自動装填装置を装備しない4式中戦車の完成を優先し,砲を流用
したために製作中の装填装置も取り除かれてしまい,テストもされてはいない.
また,米国でもM4中戦車の後継として,2本のベルトを使った75mm砲の自動装填装置を研究していた.
こちらは完全な自動装填装置であったものの,2種しか弾種が選べないと言うことが問題視されたようである.
(当時のアメリカの戦車兵は,発煙弾など多くの弾種を使用出来ることを好んだ)
また,アフリカ戦線での戦闘結果から75mm砲の装填速度アップよりも
・貫通力の高い主砲の選定
・主砲弾庫の位置を工夫して誘爆を防ぐ
この2点が優先されたために,75mm砲用の自動装填装置はお蔵入りしている.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
九一式車載機関銃って何?
【回答】
十一年式軽機関銃を車載用に改造したもので,八九式中戦車,九二式重装甲車,九四式軽装甲車などに搭載された.
車内では銃床は取り外した状態で用いたが,銃床付きで用いることもあった.
空薬莢や使用済み挿弾子が車内に散らばらないよう,排莢口に布袋(打殻受け)が付き,また照準は照準眼鏡(光学照準器)だった.
しかし原型となった十一年式軽機がそうであったように数々のトラブルに悩まされた.
ほこり避けに弾倉を使うように改良されたが,弾倉の工作不良や,やわな作りのために前より装弾不良が増えたという.
また,口径が6.5mmでは威力不足だったため,後継として九七式車載重機関銃が開発されることとなった.
「だめな銃は,どう改造してもダメ」とL85語りき
【参考ページ】
http://ja.wikipedia.org/wiki/十一年式軽機関銃
http://ja.wikipedia.org/wiki/九七式車載重機関銃
http://www.horae.dti.ne.jp/~fuwe1a/newpage54.html
http://www.bekkoame.ne.jp/~bandaru/deta0246.htm
【ぐんじさんぎょう】,2010/09/13 21:10
を加筆改修
八九式中戦車@陸上自衛隊武器学校
97式車載機銃も再現されていますが,これはカバーが木製でした
faq100827tk11.jpg
faq100827tk12.jpg
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よしぞうmaro' in mixi,2007年10月15日02:13
青文字:加筆改修部分
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