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国本戦車塾(WW2日本軍戦車)
むーのおもちゃ箱(WW2日本軍戦車)
【質問】
なぜ対戦車戦で連合軍戦車に対抗可能な戦車を日本軍は開発できなかったのか?
【回答】
設計思想の違いに起因する,と山田朗は説明する.
日本の戦車にも,歩兵中心・白兵主義の戦術思想が色濃く反映していたので,車体は軽量,列車輸送が可能で,あくまでも人員殺傷と敵側の機関銃座破壊を目的として,低初速・短砲身の榴弾砲(ただし携行砲弾数が多い)を主砲とした.
これに対して欧米の戦車は,1930年代半ば以降,重装甲化を進めると共に,初速の速い長砲身カノン砲を搭載し,対戦車戦で勝利することを第一に設計されるようになった.
(「軍備拡張の近代史」,吉川弘文館,1997/6/1,p.177,抜粋要約)
また,重量上の制約もあったようだ.
http://combat1.cool.ne.jp/1SHIKI.htm
によれば,戦車の重量が13tを超えると,それを吊り上げるクレーンを持つ輸送船は8,000t級以上に限られ,南方輸送には制約が出た,という.
しかし,17t未満であれば,九九式三舟重門で水上輸送ができた.
ちうわけで,性能の良い(=重い)戦車を作っても,はたして満足に輸送できたかどうか……
ちなみに,当時のアメリカの主力戦車,M4シャーマンが約30トン.
我らがチハタンの重量は約14トン
(極東の名無し三等兵 in FAQ BBS)
国力の問題も当然あるだろうが.
【質問】
旧日本陸軍はロシア・ソ連が仮想敵国だったはずなのに,なんであんなに戦車がしょぼいんですか?
代わりに対戦車砲が充実していたんですか?
【回答】
当時,戦車に戦車を当てるのは「愚作」とどこの国でもされてました.
WW2が始まるまでは,戦車の仕事は歩兵の支援である,とされていました.
もちろん,歩兵の支援も現在に至るまで戦車の重要な仕事ですが,当時はそれ「だけ」でよいとされていました.
武装,装甲,機動力,いずれもその前提で作られており,砲は初速の遅い短砲身でしたから,装甲を貫通させる目的には適していませんでした.
(でも,先見の明のあったいくつかの国は,戦車に長砲身砲を搭載しています.ソ連もその国の一つ)
また,戦車の部隊運用法も,その方針に則って,少数ずつの分散配置が普通だったため,戦車同士が遭遇する確率は低いと見なされていました.
ノモンハンの影響なんかでT-34とか作られましたが,本格的に対戦車戦闘を考慮して作られた戦車はティーガーが最初じゃないかな?
で,対戦車砲ですが,こちらもノモンハンで37ミリが通用しなかったため,1式47ミリ速射砲が作られてます.
こいつはBTシリーズが一応仮想敵だったんで,更に装甲の厚いM4なんかには通用せず,最終的に有効な対戦車砲は作られませんでした.
【質問】
偉い人は,戦車やら航空機やらが,歩兵をサポートしている戦車を攻撃する,なんて思いつかなかったの? それともなんか別の理由もあるの?
【回答】
わざわざ戦車に戦車をぶつけなくとも,対戦車ライフル等で十分対処出来たからそんな事を考える必要も無かった
当時は
「戦車の任務は歩兵支援,対戦車戦闘は対戦車砲の仕事」
という考え方が一般的だった様だ.
要するに,塹壕戦に於ける攻防を軸にした考え方しかしてなかったの.戦車のそもそもの開発目的からして「塹壕突破戦時の歩兵支援」だったし,
特にフランスでは,WWIの後半を歩兵と戦車の共同攻撃を用いて勝利したため,そのドクトリンに嵌ってしまった
「何故考え付かなかったのか」
と言われても,当時は,戦車の集中使用を考えた人の方が異端だったし.
軍事に限らず,大規模な組織においては,トップがよほど強力なリーダーシップを発揮するとか,よほど手痛い打撃を受けるとかしない限り,従来の方向性を変更できるものじゃない.
で,ソ連や独といった一部の国の中には,それを見越して対戦車戦闘に適応した戦車の開発にいち早く着手してます.
兵器や戦術は戦訓によって進歩してゆくもので,最初から今の形態や戦術があった訳ではないのです.
【質問】
WW2当時の日本では,チハたんクラスの戦車でもごく一部の艦でしか輸送できなかったのでしょうか?
【回答】
「一部の艦」という定義が微妙なのだけれども…
荷積み,荷卸する港が整備されていて,大型クレーンが設置されていれば問題ない(広島,大連など)
設備や港が無い場合,
1,戦車輸送専用船舶による輸送(神州丸等のシリーズ
2,戦車を昇降させる能力を持った輸送船(現地で輸送船から艀等に移して揚陸
となり,輸送用船舶に激しく制限が出ます.
じつはここら辺は欧米も一緒で,設備のある港間の輸送はスムーズですし,まともに設備の無いところでは苦労しています.
まあ専用船を大量生産して対応してますが,ガ島戦時には米軍も艀をつかったりしてます.
【質問】
別に艦船や航空機の予算削らんでも,M-4やT-34に対抗可能な戦車は製造可能だったぞ.
92式あたりをカーゼマット式に装備した40tクラスの車体に,五式中戦車でしたように古い航空機用エンジンを積んだものなら,技術的に問題なく製造できたし.
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これってほんと?
【回答】
ただデカイだけなら,某大佐の独断で,「オイ車」と呼ばれる100トンの戦車を試作している.
ただし構造的には,89式戦車をただでかくしただけの代物.とても実用に耐えられるものではなく,真っ直ぐ動く事にも苦労して,結局,写真の一枚も残さずに解体されている.
ちなみに,日本軍戦車のシーソー式サスペンションは重い戦車には向いておらず,実はチト車,チリ車の重量を支えるには結構無理がある.
また,仮に純技術的に可能だったとしても,それを可能にするための軍組織の相互協力,資材の融通,戦術/戦略思想の変更・・・といった”技術面以外の”問題を考えると,多分絶対に不可能.
さらに日本陸軍は,戦車の重量限界を性能ではなく輸送船のクレーンの能力から逆算したので,40tクラスの戦闘車両なんて絶対に作ろうとしなかっただろう.
本土決戦で追い詰められるまでは.
で,本土決戦用の戦車を設計/生産するような時期になった頃には,そんなもん作ってる暇も生産力も資源もなくなってた筈.
【質問】
日本陸軍における自走砲と砲戦車の違いが分かりません.
【回答】
砲戦車 中戦車,支援の為の強力な砲を持った車両
自走砲 砲兵の自走化
一式砲戦車については,オープン・トップという見かけに騙されないように.
あれ実は戦闘室前面の装甲厚だけ見れば,一式戦車や三式戦車と変わらないのです.明らかに自走砲より,積極的に前に出ていく性質の物と言えます.
ただし,M3軽戦車あたりとの対決を想定した「前へ出ていく」です.
実戦はM4中戦車とやる羽目になったので,待ち伏せになったんですが.
二式砲戦車は屋根(と砲塔)付き自走砲なんですが,形態からか戦車の設計科に設計させたので,砲戦車に分類したと言われています.
しかも後に,戦車戦用の弾種も用意するつもりだったとか.
昭和14年頃の「国軍戦車の体系」にも,砲戦車の構想として
「特に攻撃力を強大にし中戦車の為に敵対戦車砲の制圧並び対戦車戦闘に任ず」
とあります.
昭和18年になると
「その強火力,強装甲を以て対重戦車火力戦の中核となるものにして(略)」
となっています.
学研の歴史群像太平洋戦争シリーズ34 「戦車と砲戦車」に,この辺りが詳しく載っています.
試製5式47mm自走砲「ホル」

【質問】
日本陸軍では自走砲って砲戦車って呼んでたの?
なら対空自走砲って対空砲戦車になるの?
【回答】
対空自走砲は普通に「対空自走砲」と呼んでいた.
略称は”ソキ(双(ソウ)連機関(キ)砲)”とか”タキ(単(タン)装機関(キ)砲)”とか.
そもそも,「砲戦車」って言い方自体が,砲兵科と機甲科の縄張り争いから出たものなので,砲兵科しか装備しなかったであろう対空自走砲に,「砲戦車」の名はつかないであろう.
【質問】
日本陸軍の戦車は,どこの工場で作っていたのですか?
【回答】
第一次大戦で活躍した戦車は,以後陸軍内でも研究を行っていましたが,宇垣軍縮の結果,量より質を重視せざるを得なくなり,戦車に注目が集まります.
そこで,久留米に戦車第一聯隊が創設されますが,当初,装備戦車は外国製を輸入して充当することにしました.
しかし,英国のMk.I中戦車は英国陸軍に供給するのに手一杯で輸出に回す余裕が無く,フランスは新車が開発されていない状況でしたので,陸軍は輸入を諦め,教育機材としての輸入に止めます.
こうして,戦車を国産化する方針が固められ,1927年に国産第一号線車を試作し,(当時としては)最先端を行く戦車が製造できることが確認でき,それを軽量化した戦車を1929年に試作します.
これが八九式軽戦車になっていく訳ですが,一方でサンプルとしてRenault
NCやら,Vickers Mk.Cなどの外国製戦車が少数輸入されました.
このうち,Vickers Mk.Cは輸入後の予備試験で火災を起こします.
この焼損した車体を持ち込んだのが,三菱航空機芝浦分工場でした.
この芝浦分工場は,1918年に三菱が自動車生産を志した時に,その販売会社である大手商会の整備工場として設けたもので,1922年,三菱の自動車生産撤退に伴い,大手商会が解散する時に閉鎖する予定だったそうです.
ところが,所沢飛行場に近い三菱の工場は此処しか無く,ここを保持するのは将来的に何か役に立つだろうとの判断から,三菱内燃機の名古屋製作所芝浦分工場として存続されました.
意外なことに,当時,東京府内には三菱内燃機,三菱造船,三菱電機などの三菱財閥の重工業部門は此処以外に工場を持っていなかったり.
内燃機移管後は,売残りの三菱A型を販売していましたが,1923年の関東大震災で,焼け残った工場で多数の自動車の修理を行い,その実績を背景に,東京市から撒水車やダンプの制作を依頼され,1925年には陸軍から航空機用起動車,通信車,補給車などを受注し,車両工場としての態を為していくようになります.
さて,Vickers Mk.Cが工場に持ち込まれると,その修理に三ヶ月を掛けますが,兎も角もこれを成し遂げ,その実績を見た陸軍は,戦車の製作を三菱内燃機に行わせることを内示します.
三菱の中でも小さな小さな工場が,戦車生産の栄誉を担うことになったわけです.
が,この工場は如何にも手狭で,1929年に東京府荏原郡大井町に保有していた倉庫を戦車組立工場とすることにして,芝浦分工場は機械工場に使うことになります.
この倉庫群は,日本光学がワシントン条約によって海軍軍縮が行われた時に経営不振に陥った際,その救済策として三菱が買収したもので,其処にあった倉庫群の建物480坪を取り敢えず工場に改造しました.
1929年12月1日,三菱航空機(内燃機から社名変更)は,戦車工場として大井工場を正式に開設し,芝浦分工場を併せて,東京製作所となりました.
1930年1月に,八九式軽戦車7両を製作開始し,11月に最初の戦車がラインオフします.
とは言え,当初は発注数も微々たるもので,1931年度当初は6両,後に追加されて11両と言う状況だったり.
当時の陸海軍発注額は僅かに79万円程度.
ただ,これでも芝浦分工場への外部依存は結構不自由で,1931年9月に大井工場内に機械工場を設置,また,大井工場は東京製作所に格上げされ,芝浦分工場は東京製作所所属に変更されました.
ところが,満州事変勃発により戦車需要が急増したため,発注額は495万円に急増.
1932年に58両,翌年は67両と飛躍的なペースで生産が行われることとなり,工員は,「毎晩十時まで残業殆ど無休にて作業に努めた」が,それでも「現状を以てしては生産能力著しく不足」となり,拡張に次ぐ拡張を行います.
以後,東京製作所の拡張は敗戦まで留まるところを知らなかったりする訳です.
さて,時代は下って日中戦争勃発.
この時に,三菱重工業(三菱航空機と重工が合併)東京機器製作所に陸軍からチハ車300台の発注を受けます.
当時の三菱の生産能力は,1934年の161台が最高で,その内訳は,八九式中戦車甲が21輛,乙が3輛,そして残りが瓦斯電開発の九四式軽装甲車で,この委託生産でした.
1935年が八九式中戦車甲が3輛でこの年で打ち止め,乙が22輛,この年から九五式軽戦車が14輛生産開始,九四式軽装甲車13輛,1936年は八九式中戦車乙が8輛,九五式軽戦車52輛,九四式軽装甲車5輛にチハ車試作車が1輛という状態ですので,倍の生産数は既に東京機器製作所の能力を超えました.
其処で,陸軍のSuggestionもあり,自動車生産工場として建設しつつあった丸子工場を戦車生産工場に転用することになりました.
これは元々は,1918年に三菱A型の生産を志して一旦撤退したものの,三菱造船で細々と自動車の研究を進め,東京機器製作所では自動車用ディーゼルエンジンの開発を進めていたので,1936年に再度自動車事業に進出することとなり,1937年2月に497万円の予算で年産3000台の丸子工場の建設を始め,完成後は三菱車を満州を中心に売っていこうとしたものです.
時代の流れで結局は丸子工場を戦車の生産工場とし,東京機器製作所全体で,チハ車月産40輛を目標とします.
その後,丸子工場は独立して玉川機器製作所となりますが,当初はエンジン生産工場として稼働を始め,九七式中戦車用エンジン月産40台を目標としていました.
しかし,当初は月産5〜6台,1938年末の時点で,九七式中戦車用エンジン10台,九五式軽戦車用エンジン10台が月に製造されたに過ぎませんでした.
こんな状況でも,1938年には更に軍の増産要求は高まり,年産800輛が要求されます.
そして,折角竣工した工場を1820万円の投資で,再拡張し,更に九七式中戦車用防弾鋼鈑の生産を行っていた長崎製鋼所も,92万円の予算を計上して生産設備の拡張を実施しています.
こうして,1937年に九五式軽戦車45輛,九四式軽装甲車25輛の生産だったのが,1938年には九五式軽戦車20輛,九七式中戦車96輛,九四式軽装甲車10輛.
拡張工事が進んだ1939年には九五式軽戦車70輛,九七式中戦車は127輛.
1940年には拡張工事が完了して九五式軽戦車は一気に212輛,九七式中戦車も168輛が生産され,一式中戦車2輛の試作も開始されています.
とは言え,陸軍が要求した九七式中戦車年産800輛はとてもクリア出来る目標ではなく,九五式軽戦車を含めても半分程度に留まっているのが国力の限界と言うことになるのでしょう.
ちなみに,1939年には玉川機器製作所が東京機器製作所となります.つまり,従来の大井工場が新しい丸子工場に吸収された形です.
1940年3月に丸子工場の拡張が完了した時点では,車体工場は5500坪に及ぶものとなり,当初エンジン生産だけだった丸子工場で車体組立までの一貫生産が行われることとなり,大井工場から順次生産の中心を移していくことになります.
さて,時代は太平洋戦争に突入するのですが,1941年12月16日に三菱重工業は陸海軍示達に基づき,東京機器製作所の拡張計画を決定します.
この時の予算額は3205万6540円.
但し,うち1350万円が陸軍兵器行政本部分,781万円は海軍艦政本部,1074万円が航空本部と,凡そ戦車生産とは関わりのない部署からの発注も受けています.
これは芝浦分工場の時代から,三菱重工では爆弾投下機を作っており,1941年には大型,小型の爆弾投下器を年300〜400個,他に250kg擬爆弾,爆管式投下器,煙幕展張器,中爆弾運搬車,魚雷兼爆弾運搬車,九九式爆弾運搬車なども生産しており,航空本部からの示達はこの生産拡大の根拠となりました.
海軍艦政本部については,小型艦艇用高速ディーゼル機関の開発と生産で,これまた,当初は大井工場で生産していましたが,大井工場に戦車生産を集中させると言うことで,川崎工場に設備を移転します.
川崎工場は元々大井工場に鋳鍛設備が無かったため,その鋳鍛素材を内製するために計画したもので,他に,大井工場で出来なかった自動車生産を此処で行おうとしていました.
川崎工場は,1941年9月より東京製作所川崎工作部として操業を開始し,製造能力の70%は自動車,残りをディーゼル機関生産に割いていましたが,これまた比率が逆転させられ,大型自動車20%,ディーゼル機関70%以上とされてしまいました.
この間,戦車生産設備の拡張はありませんが,1941年には九五式軽戦車340輛,九七式中戦車278輛,1942年に九五式軽戦車410輛,九七式中戦車450輛とピークを迎えています.
このほかに,1942年に二式砲戦車試作車1輛,1944年に30輛が生産され,四式砲戦車を13輛,一式中戦車が1941〜45年まで585輛などが生産されています.
また,1944〜45年の間に三式中戦車60輛,1944〜45年に四式中戦車2〜6輛,海軍向特二式内火艇が1942〜45年に184輛,特三式内火艇が1944〜45年に19輛,特四式内火艇が同じく50輛などとなっていますが,ぶっちゃけ,生産数の推移が判る資料は無かったりするので,他にもいくらかの戦車が生産されている可能性があります.
このほか,九五式装甲軌道車56輛,装甲作業器119輛,工兵用車両11輛,湿地車146輛と,九七式中戦車用機関490基などを生産しています.
ちなみに,これら戦車と装甲車両の三菱のシェアは,概ね3分の1を占めており,二位の日野重工業の倍でした.
以下,久保田鉄工所,日立製作所亀有工場,羽田精機,新潟鉄工所浦賀工場,池貝自動車,相模造兵廠となっています.
しかし,対戦車戦闘で非常に日本が苦しんだと言うのに,太平洋戦争中,戦車生産に対する投資額が非常に低いのは,1943年に対米戦研究が行われた折,ソ連との戦争が無くなったと陸軍が判断したこと,装甲車輌が南方の島々では大規模使用が出来ないと陸軍が信じたことであり,以後,量から質へと方向転換していったことが米戦略爆撃調査団の分析で明らかになっています.
ちなみに,戦車と無限軌道車のシェアは
三菱重工業東京機器製作所は1941〜45年で32〜35%,
日野重工業は1942〜45年で12〜19%,
久保田鉄工所が1941〜45年で10%前後,
羽田精機(何を作っていたのか不明)7〜8%,
新潟鐵工所浦賀工場が5%前後,
池貝自動車が1941〜43年が6%前後,1944〜45年に3%前後,
相模造兵廠が1941〜42年で3%弱,1943〜45年が5〜14%
となっています.
眠い人◆gQikaJHtf2 in mixi
装甲作業機SS器戌型

【質問】
戦時中の日本戦車の信頼性は?
【回答】
低いものでした.
特に,戦前はスウェーデンSKS製のベアリングやアメリカから輸入したプレス加工クランクシャフトを使っていたのに対し,戦中は国産の品質の悪いモノしか使え無かったので,信頼性は航空機以上に大幅に低下
しています.
これが問題になってないのは,単に戦車部隊が前線で使われる機会そのものが激減していたからに過ぎません.
恐らく同環境であれば,日本戦車も同じ運命を辿ったことはほぼ間違いありません.
【質問】
日本戦車の搭載砲は,なぜ威力が弱かったのか?
【回答】
砲の性能はともかく,徹甲弾は「日本製は弱い」が定説になっちゃってます.
欧州じゃ常識のAPCですら,日本は実用化出来ませんでしたので.
陸軍の場合は,技術が無いってよりは研究不足な気がしますが,単純に口径や初速だけで欧米の戦車砲の威力と比較出来ないのも事実な気がします.
ただ,陸軍を弁護すると,タングステンのような対戦車専用砲弾に使われるレアメタルを,日本では工作機械以外に使うことなど考えられなかった点があります.
とはいえ,T26にも歯が立たない九四式速射砲を見ると,やっぱり研究が足り無すぎと言う気がしますが.
ノモンハンで,我が方の傾斜装甲がソ連の対戦車砲に対して効果が無い割に,逆にこっちは速射砲では少しでも命中角度が付くと簡単に弾かれるって話がありました.
これは,ソ連の対戦車砲弾はAPC(被帽付き徹甲
弾)だから滑らないんですが(日本側はHE-AP),これ実戦で痛い目に
あったにも関わらず,ずっと後のM3/M4ショックでも全く改善されてないんですから,純粋に資源や技術的な問題より日本陸軍の体質的な問題と言わざる得ないと思います.
(APCの構造なんて知る機会はいくらでもあったのに)
鹵獲したM3に対する射撃実験も有名です.
57mm短身砲で試射したところ,距離300m程度では砲弾の方が粉々になり,側面から数十発打ち込んで
ようやく装甲板が(貫通ではなく)割れたというのはかなり悲惨です.
※
しかも衝撃的なのは,ノモンハンで鹵獲したBT7に対する実験が,全くこれと同じ結果だったにも関わらず,何ら対策が採られていなかった事です.
ただ,陸軍の機甲にしろ対戦車火力にしろ,その充実を阻んだ一番の原因は
「金(予算)がない,無い袖は振れない」
って事情もあるんですが.
また,組織論的に見ると そもそも帝国陸軍のような極度のトップダウン型組織では,下からの意見や要求は上に届きません.
そのことにより,正確なフィードバックが得られないため,戦況に会わせた対応が出来ない.
そのため,M4がフィードバックによって着実に強くなっている一方,いくら要望があっても日本の戦車は強くならなかった.
そして上層部の失態の代償は,末端の駒に玉砕や特攻をさせることで払われます
64式小銃などは明らかな欠陥が改善されないように,残念ながらこのような組織構造は自衛隊にも受け継がれています.
現場からのフィードバックが,兵器開発や生産現場のかなりの分野できちん反映されて運用される点ではアメリカはさすがなんですよ.
もう,これだけで勝てないと思う私です.
いまだに
「日本はアメリカの物量に敗れた」
って人がいますが,私は間違いと思います.
「質と量の両面で完敗した」
と思います.
でも,こう書くと「自虐史観」って怒られるのよね…….
※ちなみに,17年4月のパターン攻略から,47mm戦車砲がデビュー.
高速徹甲弾で1000メートルで50ミリの装甲が貫徹できたので,士気が上がったそうです.
チハ車・「ティーガー」砲塔搭載型

【質問】
日本陸軍の徹甲弾の威力が低い原因を教えてください.
【回答】
日本の冶金技術が低かったから.
それと,徹甲弾の威力とは「弾速×弾頭重量」.
しかし,日本陸軍は技術開発陣に無茶な要求をしたため,開発側はカタログ・データの数値を欧米の数値並にする必要に迫られた.どうやっても陸軍の開発仕様じゃ欧米並の弾速は出せないのに,数値が劣っていると怒られる.
なので結局,弾頭重量を軽くして速度を稼いだ.
結果,冶金技術が低いので装甲に硬度負けしてしまい,弾頭重量が軽いので重量破壊力も低くなる.
もっと根本的に,日本戦車はみんな砲身長が短いので,というのがまずあるが.
砲身長が短いってのも,半分以上は冶金の未熟さ故.
材料が拙いから長砲身が造れない.造れたとしても金がかかる.
肉厚になって重量が嵩み,搭載や運用に支障を来す.
もっとも,短砲身ではない砲でも酷いけど.
試製5,7cm長加農 57口径 870m/s 1000mで65mm/0°
三式7,5cm戦車砲 38口径 680m/s 1000mで65mm/0°
五式7,5cm戦車砲 56口径 850m/s 1000mで75mm/0°
九二式10cm加農砲 45口径 765m/s 1000mで100mm/0°
試製10cm戦車砲 55口径 900m/s 1000mで150mm/0°
軍事板
さらに,材料の問題もあります.
特殊鋼,特に,ニッケル系やマンガン系の材料不足と,金属回収で回収した金属粉を混合した事による脆さが出ているので,戦争が進展する程,問題が発生したのではないかと思います.
ちなみに,同じような初速(47mmは810m/sec)の砲で,例えば
英国の2ポンド砲は初速850m/sec,射距離1,000mで装甲貫徹力42mm(47mmは同じ距離で30mm),
米軍の37mm砲は,初速775m/sec,射距離1,000mで装甲貫徹力60mm
になります.
一つ上のクラス,
英軍の6ポンド砲では,初速786m/secですが,射距離1,000mで46mm,
米国の75mm砲では,初速700m/secですが,射距離1,000mで69mm
になっていますね.
眠い人 ◆gQikaJHtf2
【質問】
帝国陸軍の戦車砲・対戦車砲の徹甲弾は各国では標準の被帽がないため,傾斜した装甲でたやすくはじかれたとの話を聞きますが,海軍の技術を移転すれば解決できたんじゃないんですか?
【回答】
海軍系の技術は,あまり役に立たないかと.
以下は「続・海軍製鋼技術物語」に記載されている,元海軍技術者のコメント.
ただし被帽が有効なのは,表面硬化甲鈑に対して自身の断裂速度を超えた速度で衝突した場合であって,それより遅い速度で表面硬化甲鈑にぶつかったり,均質甲鈑に対した場合には弱い.
ただ撃角が大きいときに被帽があれば,均質甲鈑に対して弾丸の反跳を減らせるかも知れないが,その目的ならばむしろ中口径弾のように弾体の頭部を平らにする方が効果的であろう.
【質問】
旧日本軍の戦車の砲塔内には,何発の弾薬を積めますか?
というより,床下に収納するすぐに発射することのできない弾と,砲手の手の届くところに置かれていて,すぐに砲に装てんできる弾は,それぞれ何発ですか?
【回答】
八九式戦車の資料しか手元にありませんが,八九式乙型の場合は,8発入り弾薬箱が5段車体内に装備されており,これに加えて,即応予備として4発砲弾架に掛かっています.
つまり,44発が車体内に置いてありました.
なお,甲型では50発入り弾薬箱が2つ車体内にあり,これらが車長,砲手の腰掛けを兼ねていました.
砲側には,右側面に4発,左側面に2発の57mm砲弾架があります.
九七式中戦車の資料は,カッタウェイしか無いので,しかとは言いかねますが,砲塔前部に4発の弾薬架があり,砲塔後部にも,5発分の弾薬架がありました.
また,車体内部には57mm砲の弾薬箱が最大3箱あった様です.
1箱20発入りとして40発,即応用として10発程度あったのではないでしょうか.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2)
【質問】
旧日本軍の戦車は走行しながら主砲を撃てた,というのは本当でしょうか?
【回答】
本当.「行進射」と言って,日本陸軍の戦車による通常の射撃方法です.
砲手と操縦手が連携して,発射の際にわずかに速度を落として射撃を行います.
当然命中率や発射速度は低下し,五七ミリ砲では
*一分間の発射速度:1〜2発(停止時:5〜12発)
*500メートルでの命中公算:17パーセント(同:65パーセント)
になりました.
したがって実際には,戦車小隊(四輌)で行進と停止を併用して射撃を行います.
名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE
【質問】
陸軍の戦車用防弾鋼鈑は,どこの工場で作られていたのですか?
【回答】
これは初期に呉海軍工廠からお裾分け,その後,陸軍用の三菱,東京鋼材が加わっておりやす.
第一次大戦時,欧州からの物資途絶,船舶量払底の状況で,鋼材価格は高騰し,三菱造船は鋼材の支払いに四苦八苦しておりました.
何しろ,銚子にあった某私鉄では,レールの敷設が終わったものの,第一次大戦勃発後に全部それを撤去して売却し,出資者が巨万の富を得たと言う話もあったりするわけで.
で,三菱は二つの製鋼事業を手がけます.
一つは朝鮮での鉄鉱山を買収したことを契機に,その鉄鉱を用いて黄海道兼二浦に銑鋼一貫製鉄所を建設し,これを三菱製鉄として独立させたもの.
もう一つは,三菱造船が長崎に製鋼工場を建設し,自前で鋼材を供給しようとしたものです.
ところが,両者とも当初は目論見通りの利益を上げますが,直ぐに第一次大戦が終結して鉄鋼材需要が急縮,その上,安いインド銑鉄が輸入され,それに追い打ちを掛け,最後に願っていた八八艦隊は消滅した為,長崎製鋼所は閉鎖,三菱製鉄は鋼材生産設備を閉鎖して,銑鉄工場として生残りを図ることになります.
しかし,三菱の鉄鋼部門進出の志は衰えず,1926年に当時苦境に喘いでいた東京鋼材を参加に納め,三菱製鉄の子会社としてそのノウハウを継承し,また,長崎製鋼所は長崎造船所付属電気製鋼工場としてその活動を再開します.
但し,三菱製鉄そのものは,1934年の日本製鉄設立時に現物出資して製鉄所を手放し,1935年には事業一切を三菱鉱業に譲渡して解散してしまいます.
この停滞から抜けたのが1933年.
海軍の増強として第二次補充計画が策定され,長崎造船所では巡洋艦2隻と潜水艦の発注が為され,それに付随して電気製鋼工場を拡充し,次に圧延工場を建設し,鋳鋼工場を建設するなどの拡充を繰返していきます.
こうして,長崎造船所付属工場から,全三菱の共通材料工場としての位置付けから,再び長崎製鋼所として独立した単位となります.
一方の東京鋼材は,親会社が解散した後,三菱合資でその扱いが長らく検討され,やっと三菱鉱業の子会社となっていく訳で,その後こちらも,1933年以後に活況を呈し始めます.
こちらの製品は主に,窓枠と扉だったりするのですが,1935年以降はそれが縮小され,銅を主成分とするアームズブロンズの生産が行われています.
アームズブロンズは,アームズという名前が付いていることからも判るように,兵器用特殊鋼で,長崎兵器製作所で生産されていた魚雷に用いられていました.
長崎製鋼所では,従来は鍛造品,鍛冶製品,鋼鈑類が主だったのですが,1937年以降,特に1938年以後はBK板,鋼棒類や分塊品の生産が主力となっていきます.
BK板と言うのは,戦車用防弾鋼鈑で,1937年に495tだったのが,38年2038t,39年2845t,40年4109t,41年4092t,42年1〜9月で3174tと増大しています.
鋼棒類というのは,海軍航空廠から発注された航空機用の特殊鋼棒です.
但し,こうした需要の激増にスクラップ類など原料供給が隘路となり,生産が伸びなかったために,各地に適地を求めます.
こうして,再び朝鮮半島の平壌近辺,平安南道江西郡降仙里付近に一貫工場を建設することとなりました.
これは,鴨緑江水力発電所による膨大で低廉な電力,朝鮮半島北部の安価な鉄鉱資源を組み合わせることが出来たからです.
この工場建設の用地買収と工場建設には三菱地所が,物資の買付に三菱商事京城支店と,三菱財閥総出の投資となっています.
三菱重工長崎製鋼所と共に,三菱の鉄鋼生産の主力となっていた東京鋼材ですが,1940年に深川工場建設のため増資を繰返しますが,それに先立ち,同社は三菱鉱業子会社から合資直轄の分系会社となりました.(ちなみに,この時に三菱石油と日本化成工業も分系会社となっている)
これと同時に,東京鋼材は三菱鋼材と社名が変更され,三菱の製鋼事業への再進出が明確化された上,設備規模は1940年の1.6〜1.7倍に達しました.
しかし,生産量は変ってなかったり.
これは,原材料の入手難と労働力需給の悪化で,設備はあっても原料と人の問題から増産が出来ないと言う訳.
深川工場は,海軍向け航空機用棒鋼800t/月と航空機用気筒4000個/月と言う需要に対応する必要があったのですが,東京鋼材の広田工場では地形的に拡張出来ず,本社工場も拡張の余地がなかった為もあり,新たに建設されることにななりました.
ところが,資材の手当が全く為されない所に物価騰貴があって,建設が進まず,1941年8月にやっと部分生産に漕ぎ着けます.
しかし,原材料不足は否めない状態だったりします.
ただ,グループ内を見渡せば,重工が平壌で原料生産を行っており,鉱業も朝鮮の清津に茂山の鉄鉱石を精錬する精錬所を設け,年産15万tの製鋼を開始しており,台湾でも製鉄事業を計画していました.
経営資源的には,投資の重複を避ける為にも,先ずは製鋼会社を新設して長崎製鋼所を引き継いだ後,三菱鋼材と吸収し,ゆくゆくは三菱鉱業の製鋼事業も統合する予定で,まずは前二者の事業統合を行い,1942年8月末に三菱製鋼を設立します.
三菱製鋼は,先ず重工から長崎製鋼所と建設中の平壌工場を譲渡され,朝鮮の弘中商工から仁川の富平工場を買収し,11月に三菱鋼材を吸収します.
ちなみに,弘中商工の富平工場は,鋳鋼,鋳鉄作業から鉱山機械,車輌製作に及ぶ総合工場であり,三菱製鋼は陸軍用特殊鋼材加工と平壌工場の機械生産工場とする予定でした.
平壌工場は1943年秋に漸く完成し,年間に陸軍航空本部と兵器行政本部向けに各1000t,海軍艦政本部と鉄道省に各2000tの分塊圧延鋼片を供給することを目標に操業を開始します.
更に平壌工場は拡張され,その終了時には,鋼塊8.5万t,鋳鋼品2000tを生産し,これを使用して鍛鋼1.2万t,圧延材1.8万t,バネ素材6000t,線材3000t,特殊鋼鋼片1万tを生産する予定でした.
これに加え,第二次増強計画で,還元鉄4.5万t,合金鉄1000tが生産追加されます.
これは,船舶用各種鋼材増産の為だったりする訳で.
一方,深川製鋼所では,1941年12月に早くも,海軍航空本部から気筒6500個/月,鋼棒1500個/月の増産命令が出されますが,資材不足で二次に渡る拡張工事の進展が遅れ,結果的にこの数字を超したことは無かったり…
ちなみに,更に三次計画が海軍から命令されたりしますが,海軍自体その工場拡張に対する資材の割当が出来ず立ち消え(ぉぃ.
鋼塊生産の広田工場は鋼塊を年産14989tとし,更に1943年には年産16442tが生産されることになり,広田工場は広田製鋼所として独立しました.
また,更に非鉄金属工業所が組織上独立します.
これは即ち,アームズブロンズ生産工場です.
これも航空機に不可欠の部品であり,東京製作所だけでなく,桶川に新工場を建設することになりました.
ところが,1944年以降の通商破壊で生産量はガタ減りとなり,特に非鉄金属工業所は生産が出来ない状態に陥り,工場そのものを三菱鉱業に再譲渡しています.
また,1945年には空襲で大阪発条工場が壊滅,深川製鋼所,東京製作所も大なり小なり被害を受け,更に欠勤率の急増で生産量は減っていき,1944年上期に前期比15%減少,同下期には上期に比べ更に25%減少しています.
追い打ちを掛けたのが,1945年8月9日の長崎への原爆投下で,これによって長崎製鋼所は壊滅して,最終的に海外資産の接収で総てを失いました.
ちなみに,戦車用BK鋼鈑の開発は陸軍の要請を受けて長崎電気製鋼工場が行い,また,生産も長崎が一手に行っており,陸軍戦車関係需要量の90%を此処で賄っていました.
BK鋼鈑は,年間3000〜4000tの生産量だったそうです.
統計としては1942年までしか無い(即ち,三菱製鋼以降のデータが無い)のですが,年産4000tとして,1944年上期は15%減だったら1700t,下期は1700tの25%減なので,1275tと年間で1000tマイナスとなります.
戦車にどれくらい鋼材が使われるのか寡聞にして存じませんが,其の分代替材が使われた可能性がありますね.
(ちなみに,1944年の中戦車生産量は294輛で前年比54%,軽戦車が48輛で同20%,自走砲だけが59輛と4.2倍ですから,中戦車と合わせれば,ちっとはマシですがそれでも減っています.)
なお,大同鋼板(今の大同特殊鋼)も一部生産していた様(日本の鉄兜は尼崎と愛知で生産しており,その辺の特殊鋼関連で,絡みがあったか)です.
ただ,三菱重工で生産した分は三菱やら東京鋼材から調達した分で,特二式内火艇用も同様なのは判っているのですが,日立とか日野で生産されたチハ車一統とか,瓦斯電のTK車なんかは不明です.後者は,大同鋼板辺りからの仕入れみたいなのですが….
日立は日立金属とか持っていたから其処で調達したかも知れないし,日野や瓦斯電(いすゞ)は,浅野繋がりで,日本鋼管から調達したような感じを受けますし.
眠い人◆gQikaJHtf2 in mixi
【質問】
旧日本軍の戦車は米戦車に比べてかなり装甲が薄かったそうですが,何故もっと装甲を厚く出来なかったのですか?
【回答】
満州の泥寧期や朝鮮半島を含む国内の道路事情を考え,重量を押さえていた.
また,港湾施設のクレーンの能力に限界が有った事と,輸送用船舶の床面強度に限界が有った事も,重量上の制約の一因と言われる.
それなのに,燃料事情から採用したディーゼルエンジンがソ連の物より著しく重い.
結果として,装甲が貧弱になった.
ただ,第二次世界大戦前までは日本軍の戦車の装甲は諸外国戦車や米戦車と大して変わりは無い.
大陸での本格的な戦車戦を経験しなかったのと,海に囲まれた国土と想定される戦場等から,限られた国力を航空機や艦船を作る事に突っ込んだ為,戦車は後回しにされた.
この辺りが教科書的?な回答だと思われる.
軍事板
http://www.luzinde.com/meisaku/tanks/chi-ha.html

【質問】
チニって?
【回答】
97式チハと制式を争った中戦車.
チハよりも小型,低速だったが,「安上がりで済む」と一時採用が決まりかけた.
結局性能向上の余地のあるチハを選んだのは,陸軍には珍しい卓見.
【質問】
97式中戦車の装甲に対する射撃試験で,ズルがあった,って本当?
【回答】
97式中戦車の要求仕様は,
・中距離(200m以上)において37mm対戦車砲の射撃に対抗できる事
で,この実験を自国製94式対戦車砲(貫通力低い)で行ない,結果
「200m以上の距離では貫通出来なかった」
という事で,車体前面の装甲厚が25mmの装甲板を採用する事になったそうです.
んでもって,後にノモンハンで捕獲したラインメタル製37mm対戦車砲を使って実験してみると,,,300m以上からでも楽々貫通.
でも既に生産に入っているから仕様変更は無しよん,てな話で.
これはドイツ製の砲の性能が伝々・・と書かれる事も多いのですが,実は両者の砲の初速はそんなに変わらないのです.
*Pak35 初速699m/s
*94式速射砲 初速648m/s
ただ,弾丸が,Pak35のAPに対して,94式の弾丸がAP-HEだった・・・ってオチがあるのですけど.
それで,国内試験の時は94式のAP-HE弾での射撃試験だった(^^;
【質問】
「チハたん」ってなんでつか??
なんか響きがカクイイ!!
【回答】
旧帝国陸軍の九七式中戦車.
中戦車の「チ」,その3番目の形式だから「ハ」で,「チハ」又は「チハ車」
(実際には開発順に「イ」から付けているわけではなく,途中で飛んだり前に戻ったりもしてますが)
「たん」は,一部の軍事板住民が萌えっぽく表現してるだけです.
【質問】
三浦半島の海岸に旧軍の戦車が転がっていたみたいです.
これってチハ車と呼ばれる戦車の残骸でしょうか?
ギシュクラ
【回答】
そそ,『三浦半島のチハ』として有名だったヤツです.
ベタ藤原 in mixi支隊

結局,あの「那須戦争博物館」に引き取られたそうな.……大丈夫なのかなあ?
【質問】
某掲示板で,米軍の基地で穴を掘ったら,作りかけの旧軍の戦車が出てきたというお話があったのですが,そのリンク先
http://www.usarj.army.mil/history/photo_depot.htm
の「タンケッテ」の正体はなんなのでしょうか??
ギシュクラ in mixi支隊,2006年06月03日
【回答】
多分九四式軽装甲車だと思いますよ.
模型写真ですが,
http://www1.odn.ne.jp/jinzoutengoku/zounoheya/tk/tk15.jpg
こんな感じでしょ,四枚目の写真.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi支隊,2006年06月03日
【質問】
旧軍の戦車って現地改造禁止って聞いたんですが,本当ですか?
【回答】
上田信センセの「日本戦車隊戦史 鉄獅子かく戦えり」(大日本絵画,2005年)に,そんな話が出て来ましたねェ.
ただ,精神面だけが強調されてますけど,兵器の現地改造は重量増等による故障の増加と,それに伴う整備や補給の負担などがありますので,上級部隊としてはあまり好ましくないもののようです.
(名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)
【質問】
旧日本軍の中戦車は
八九式イ号
九七式チハ
一式チヘ
三式チヌ
四式チト
五式チリ
ですが,チ=中戦車で,後はイロハ順に並ぶはずなのに
ロ,ニ,ホ,チ,
はどうなっているのでしょうか?
それから,三式チ「ヌ」がなぜ四式チ「ト」,五式チ「リ」の前に付いているのでしょうか?
【回答】
チニはチハ車との試作競合で敗れた,チハよりも軽量な中戦車.
チホは一式チヘに敗れた,47ミリ砲装備の試作戦車,試製98式戦車とも呼ばれる.
三式がチヌで,四式チトや五式チリよいも字が遅いのは,三式チヌ開発が始まったのが,その二つより遅いからです.
1944年始めの時点で,チト,チリの開発は始められていましたが,完成はまだ先のことだと言われていました.
そこで,急遽75ミリ砲を搭載する戦車を開発するため,とりえず九七式中戦車の車体に75ミリ砲を載せる戦車の開発が5月にスタートします.
これが後の三式中戦車となりました.
【質問】
ケニBの開発過程において,クリスティ式を採用するにあたり,参考にした鹵獲車両,あるいは輸入車輌はあったのでしょうか?
【回答】
ケニBの開発について,色々資料を当たってみましたが,決定的なものは出ませんでした.
但し,日本陸軍としては,1928年に装備戦車の導入,そして国産化に際して,Vickers6t戦車,RenaultNCなどと並んで,Christie戦車の評価をしています.
この時は,Christie側に量産工場が無いのと価格の問題のために見送りとなっていましたが,Christie懸架装置の何たるかについての情報は,日本にも入ってきたと思います.
また,仮想敵国であるソ連が,BTでChristie懸架装置を持った戦車を実用化しており,1935年に欧州に派遣された大島使節団一行にも,ソ連大使館付駐在武官からソ連装備についてのレクチャーがあったので,何らかの影響を与えた可能性があります.
更に,英国でも巡航戦車Mk.IIIでChristie懸架装置を装備していますし,後に米国でもこれを元にしたコンバットカーを作っていますので,その情報が英国大使館付駐在武官や米国大使館付駐在武官から入ったのかもしれません.
一番大きいのは,1928年の調査結果,次いで,1935年の欧州使節団の調査ではないか,と思います.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2)
【質問】
旧軍戦車では,リーフスプリングサスペンションがごく早い段階で廃れていますが,これは製造能力がなかった,って事なのでしょうか?
チヘのシーソー式コイル・サスペンション?は,チヌにして重量が増えた時,やたらと安定性が悪く,行進中は砲塔を後ろに向けて運転した,ということなのですが,チヌの後に来る車体にはリーフ・スプリング・サスペンションにして,これを回避すると言うわけには行かなかったのでしょうか?
4号は17tくらいから最後は26t近くまで太ってるのに,行軍中の不便,みたいなことは聞いたことがなかったので,あちらの方が拡張性,重量増への対応性は上のように思われます.
その辺はどうだったのでしょうか?
【回答】
シーソー式を採用したのは,当時の既存技術のサスよか優れていた(大重量には不向きだが)からシーソー式を採用したのであり,技術的問題でリーフ・スプリング・サスを止めたわけでなく,戦後,シーソー式はトーションバー以前では最良という評価もある.
(世辞が入っているかもしれないが)
そもそも,リーフ・スプリング・サスってのは安定性が高いため,支援戦車として開発された四号にとってはうってつけなものだったものの,高速走行,乗り心地と言う面では相当酷い物だ.
あと,砲塔を後ろにむけて行軍ってのも別に珍しい事じゃない.
(74式たんやJS2のトラベリングクランプの位置)
【質問】
日本軍戦車が太平洋戦争で苦戦したのは,ノモンハン事件後の戦訓をとり入れた改良が,日本軍戦車にはなされなかったってこと?
【回答】
日本の戦車の問題点は,寧ろノモンハン以降に露呈する.
まず目標を,BT-7の撃破においてしまったこと.
太平洋戦争の緒戦ではM3軽戦車レベルの敵としか出会わなかったことから,BT-7の次はしばらくはM3軽戦車を目標にする.
砲弾の開発の遅れから,はっきり言ってしまえば米軍のM4の主砲と同等のシュナイダー75mm砲の生産をしていながら,対戦車戦闘の火力は明らかに劣る状態になっている.
(戦車砲として使いやすくする設計変更も出来て無いけど.)
あとは,サスペンションや砲塔の動力旋回装置の開発の遅れ(もしくは手もつけられない)や,果ては港湾のインフラ整備の遅れ,国民の体格の小ささなどから,30tクラスの戦車が限界と言う考えの下に,それ以上の重量になる戦車の研究になかなか手を付けなかった.
大口径長砲身砲の生産施設が限られることから,設計しても配備すら難しいと言う問題もあった.
一応補足しとくけど.ノモンハン事件当時,日本もドイツも軽戦車を主力としていた.
ドイツの場合,主力軽戦車として開発された3号戦車の手に余る重装甲車輌・硬目標に対しては,中戦車として開発された4号戦車・重砲・航空攻撃を使用する.
日本の場合,97式は移動目標に対する攻撃は考慮せず,軽戦車の脅威となる硬目標に歩兵砲レベルの主砲で攻撃することを可能としていた.
はっきり言ってしまえば,どちらも思想的には当時(各国が運用思想を模索していた)にありがちな所におり,どちらも特に劣っても居なければ飛びぬけて優秀でもない.
ノモンハン事件に関して言うと,ソ連側の大粛清の影響でBT-7搭乗兵の熟練度が低く――特に操砲のレベルが低かったようだ――,BT-7はガソリン瓶の投擲や重砲攻撃で沈黙出来た.
我が国の戦車部隊も,火砲がBT-7に対して有効ではないと言う問題を抱えながら善戦している.
問題はBT-7Mが配備された後.
格段に撃破しにくくなったことから,地上戦の不手際は戦車隊の問題であると言う軍内部の印象操作(つまり責任のなすりつけ)が行われた結果,ノモンハンで戦車隊が実状以上に問題を抱えていたかのような誤認が生じている.
BT戦車


【質問】
一式中戦車の主砲は何ミリなんでしょうか?
また,その主砲でシャーマンは撃破できたのでしょうか?
【回答】
一式中戦車の主砲は47mmです.
(試作一号車は57mmですが)
Shamanを撃破する場合は,可成り目標に近づくか,後ろや側面を狙うしかありませんでした.
47mm砲の性能的には,直角に命中すれば500m離れた80mmの鋼板を撃ち抜くことが出来ます.
ただ,実際に戦車第二師団がフィリピンのルソン平原で戦闘した際には,70mまで近づかないと,M4の最厚部51mmの装甲を撃ち抜けませんでした.
眠い人 ◆gQikaJHtf2
最初は待ち伏せ攻撃で何両かのM4を破壊したものの,次はアウトレンジされた,と確か「機甲入門」かなにかにあったような.
【質問】
一式中戦車の国外での写真を一枚も見たことがないのですが,輸送中に全部沈められた為,国外で使用されなかったのでしょうか?
【回答】
一式中戦車はすべて内地配備でした.
フィリピンの戦車第二師団に配属されていたという話もありましたが,これは新砲塔チハを一式と呼んでた人達がいたために起きた誤解です.
占守島にチヘがあったという資料もあるそうですが,実際には上述のようにチヘはチハ改と混同されていたようで,占守島には配備されていなかったというのが正解の模様です.
ソ連軍海軍歩兵,北方領土に侵攻す!の図
(『ロシア海軍歩兵設立300周年記念本 大祖国戦争の海軍歩兵』より)



CRS@空挺軍 in mixi,2008年03月30日18:15
【質問】
仮に5式中戦車に8cm高射砲を積むとタイガー1と火力は同じになりますか?
【回答】
なりません.
8cm砲はドイツが中国に送った2種類88mm砲の内,据え付け型で機動性が悪く(だから後方に逃がし損ねた),やや短砲身の物がベースになっています.つまり,ドイツの有名な高射砲,88mmFLakとは全く別物なのです.
また,欧米に比べ対戦車砲弾の威力が激しく劣っていました.
なお5式に8cm砲を積むと言うプランは,米国側の調査資料にしか見られないようです.
【質問】
歴史小説で有名な司馬遼太郎氏(故人)は,戦時中に戦車兵だったそうで,私が随分前に読んだエッセイの中で氏は,
「開戦初期の日本の戦車の装甲は鋼鉄で出来ていて,ヤスリをかけても歯が立たなかった.
しかし,戦争末期の戦車の装甲は容易にヤスリで削れた.
敗戦間際の日本は戦車の装甲に使う鋼鉄にすら事欠いていた」
といった趣旨のことを書かれていたのですが,これは本当なのでしょうか?
本当だとしたら,鍋・釜と同じ鋳鉄で戦車を作ってたって事ですよね?
【回答】
このエッセイは新潮文庫「歴史と視点」所収の「戦車,この憂鬱な乗り物」,これについての論争の経緯については,徳間書店「宮崎駿の雑想ノート」巻末の富岡吉勝氏との対談で出てくる.
1)司馬が,末期の戦車には鑢が掛かったという話を公表.
2)「あれは冷間圧延鋼鈑だから鑢で削れても問題ない(ヤスリの鋼は粘りが極度に少ない分硬いので,割れないように多少の粘りのある戦車用の装甲材が削れても,何ら不思議はありません)」と,装甲板の開発にあたっていた技術者が戦車雑誌で反論.
3)元戦車工場勤務の方が,末期には鋼鉄は手に入らず,普通の鉄を使用していたと再反論.
というのが,大まかなその経緯.
ちなみに,圧延鋼板の製造配分に関しては,1944年春から陸軍向けが頗(すこぶ)る少なくなり,重火器の生産が高射砲を除いて停止され,弾薬生産が削減され,戦闘用車輌の生産が激減し,軽戦車の生産が事実上停止し,中戦車,装甲車輌の生産が著しく削減されると言う状況にはなっています.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2他)
司馬の話に信憑性有りとする意見は,だいたい以下の通り.
「ここで出てきた装甲板の説明をちょっとしますね.
表面硬化装甲とは,炭素を添加し,砲弾が衝突する面の表層だけを焼きいれすることで硬くして,着弾した砲弾を砕いてしまうというもので,主に装甲の薄い戦車などに用いられます.チハがM3軽戦車を撃破出来なかった理由は,チハの砲弾がすべて砕けてしまったからでしたね.当然ヤスリでは削れません.
一方,均質圧延装甲というのは,炭素鋼に希少金属であるニッケルやクロムなどを添加して粘りを出し,今度は砲弾を受け止めるという目的のために作られた装甲板です.
当然,この種類の装甲は原理から言って,厚みのある戦車に用いられるため,三式中戦車にはこの装甲板が採用されていた,と彼らは主張するわけですね」
〔略〕
「ところで,均質圧延装甲板を作ろうとする場合,鉄(Fe)の次に多く必要な金属は戦略物資のニッケル(Ni)なんです.これは日本のニッケルの必要量に対する取得率の割合の変化なんですけれども・・・・」
ニッケルの必要量に対する取得率の推移
| 割合 | |
| 1940年 | 60% |
| 1941年 | 30% |
| 1942年 | 20% |
| 1943年 | 10% |
| 1944年 | 10% |
「三式中戦車が製作された44〜45年はニッケルの取得率が10%を下回っていたんです.
当然,航空機優先のご時世でしたから,試作車両を作るときにも材料が不足するぐらいだったといいます.
それで,均質圧延装甲の反論の後,今度は製作にかかわった人達から三式中戦車は材料不足で普通の鉄を使用した,という再反論がなされてこの論争は決着がついてしまいました.
間違いありません.
この旧日本軍最後の戦車はフライパンと同じ,軟鉄で作られました.」
また,その反対意見はだいたい以下の通り.
司馬遼太郎氏はその話を実際には確認しているのでしょうか.
また,ヤスリを当てた装甲の部位を九七式,三式でそれぞれ教えて戴ければ,答えは比較的簡単に出せます.
というのも,戦車の装甲は部分ごとに材質が細かく異なり,九七式戦車の装甲でも,場所によっては軟らかい部分もあり,三式の場合でもヤスリがかけ難い硬さの部分があります.
ですから,この逸話は,誤解のみを拡大させる与太話と呼んで差支えないでしょう.
また,日本戦車研究のバイブル「日本の戦車」の著者,竹内昭との会見記によれば,
普通鋼板とは考えられない,との事です.
同席した落馬童子氏の調査では,当時,三菱丸子工場には軍から配給された戦車用の資材が大量にあったそうです(当時三菱丸子工場社員の証言およびメモより).
http://muwsan.hp.infoseek.co.jp/takeuti.htm
とのこと.
ちなみに,ニッケルの不足は紛れもない事実です.
むしろ需要を10%も満たしていたことに,素直に驚きました(泣)
「海軍技術研究所」から要約して引用すると
『たとえば,ニッケルの代わりに純鉄を使うとか,トリタン線もタングステンにトリウムを塗って加熱したものを自社生産して使っていた.
ニッケルについてはこんな話もある.
あるメーカーで電探用の高性能の真空管を作るために,天然のニッケルが必要になった.
ヤミ物資を探しても見つからず,軍需省にかけあったところ,なじみの担当官から,
「これを使ってみては……」
と,香港で手に入れたニッケル貨を渡された.
これを使って真空管を作ってみたところ,良い結果が得られた.
この情報はすぐに業界に流れ,香港のニッケル・コインの争奪戦が始まった』
『ニッケルの代わりに純鉄を使う』
……う〜ん,どこかで聞いたような話ですな.
この話から分かることは,電子部品に使うようなニッケルすら不足していたのだから,装甲板に至っては……つーことです.
極東の名無し三等兵 ◆5cYGBbCsjQ in FAQ BBS
また,下谷政弘編「戦時経済と日本企業」(昭和堂:1990年刊)には,大同特殊鋼のケースが掲載されています.
この本の中に,大同特殊鋼星崎工場生産報告書からの表が掲載されています.
それによると,ニッケルに関しては,以下のようになっています.
(単位t)
| 1938 | 1939 | 1940 | 1941 | 1942 | 1943 | 1944 | 1945 | |
| 実際受取量 | 70 | 98 | 161 | 104 | 133 | 75 | 26 | 0 |
| 消費 | 55 | 78 | 111 | 102 | 165 | 135 | 61 | 1 |
| 在庫 | 57 | 77 | 127 | 129 | 97 | 37 | 2 | 1 |
他にも,この表には,フェロシリコンとかフェロマンガン,フェロクロム,フェロモリブデン,フェロタングステンなんかの受給量が書かれていたりしますが….
このうち,フェロシリコン,フェロクロムは太平洋戦争勃発後も受取量,消費量が増加し,一定の需要を満たすことが出来ていたみたいです.
しかし,上表の様に,ニッケルについては,1940年をピークに受取量が低下し,在庫急減となり,星崎工場の報告では,ニッケル不足のため,Ni-Cr鋼に換えて,Cr-Mo鋼を生産せざるを得なくなっており,築地工場でも,1943年より,「軍ノ指示ニヨリ無Ni又ハ低Ni合金鋼」への転換を余儀なくされています.
この他,戦争の進展により,モリブデン,タングステンなどの不足が著しくなり,Si,Cr,Mnなど国産鉱石で生産された代用鋼が多く用いられるようになりました.
また,特殊鋼原料の主原料たる屑鉄についても,米国からの質の良い屑鉄の輸入が途絶し,国産屑鉄(屑鉄代用品生産を含む)への転換が行われています.
国産屑鉄については,国内の金属回収運動にも支えられて,量的には成果を上げますが,質の問題が発生しています.
特に,1944年以降は屑鉄の不足という事態に陥り,「ダライ粉」と呼ばれる旋盤などの工作機械で切削,旋削した際に発生する金属屑の配合割合が増えてきます.
これによって,「単位当リノ熔解時間増加トナリ生産量ノ低下」を招き,ダライ粉は色々な金属の加工屑ですから,成分不明で,これがため,生産された鋼に,「予期セザル成分ガ混入スルコトガアリ,不良品ヲ造ル有力原因」となっています.
ちなみに,1942年度第1.4四半期でも,全国屑鉄供給のダライ粉比率は40%にも上っています.
推定ですが,こういった品質不良の(そして,検査をすり抜けた)鋼板が戦車に用いられ,ヤスリがけしたら削れちゃったと言う現象を引き起こした可能性があるのではないか,と思います.
【質問】
4式中戦車の鋼鈑はどこが担当していたのですか?
【回答】
四技研のチト車竣工試験計画には,
「本車ハ五糎七戦車砲長ヲ装備シ車体ハ普通鋼板ヲ以テ製造セルモノナリ」
と書かれています.
また,「新中戦車修正研究過程」では,六輛分の鋳造砲塔及び,五十ミリ以上のII種板は四技研から大阪造兵廠播磨製造所に製造を依頼,砲塔前面の五十ミリI種板,三十五ミリ以下の防弾鋼板は全て日本製鉄八幡製鉄所の担当です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2

【質問】
五式中戦車(チリ)の88mm砲搭載案は実在したのですか?
【回答】
公式の計画では5式T型5式U型でも88mm砲の装備案は無い.
戦後,旧軍研究者が1研2研や三菱の関係者から聴いた話でも,88mm搭載案は与太話のひとつであると言われている.
九九式88mm高射砲を見て,
「ここをこうすれば戦車砲になる…」
とか(勝手に)考えていたらしい.
他にやることがなかったのだろうか…なかったんだろうなぁ.
そしてそういう,
「そういう物を作れればいいんではないかと思っていた.
こうすれば作れると考えもした.
現実的には無理,というかそれ以前の問題だったけど.
でも今にして思えば九九式88mm高射砲を転用するのが一番だったと思うんだ」
という開発関係者の「個人的見解」が,いつのまにか「公式にそういう計画があった」という事になってしまっている,というのが真相.
5式改に搭載する予定だった88mm砲は,九九式88mm高射砲を戦車砲に手直しした砲を使う予定だった.
九九式は国内で(日本の高射砲にしては珍しく)大量生産されている.
ちなみに原型は南京攻略の時に捕獲したクルップ社製の88mm高射砲を,ほぼそのまんまコピーしたもの.
で,高射砲を簡単に戦車砲に改変する方法まで考案したが,
「高射砲を戦車砲に転用したいので分けてくれない?」
と関係者同士で非公式折衝したところ,
「バカ言うな」と怒られた,というのは事実らしい.
「沢山あるから分けてくれ? 毎日毎日B-29が飛んでくるのに,高射砲を他にやる余裕なんてあるか!」
と言われて廻してなど貰えなかった.
五式中戦車は最初,半自動装填装置付き75mm砲を搭載する予定だったが,搭載する砲が揃う見込みがなかった.
この75mm戦車砲は元はボフォース社製の75mm高射砲.
やはり日中戦争で捕獲したものをコピーしたが,生産が進まず,単純コピーの高射砲型すらほとんど生産できなかった.

【質問】
10-15pの加農砲ならシャーマンを撃破できると思うのですが,それらを対戦車用に使おうという試みは無かったのですか?
【回答】
秘匿名称「ホリ砲」という戦車砲と「カト砲」という対戦車砲が研究されていました.
昭和18年7月に「試製十糎戦車砲(ホリ砲)」と「試製十糎対戦車砲(カト砲)」の開発方針が,陸軍省の軍需審議会幹事会から出され,これに沿って開発がスタートしました.
ホリ砲は口径は105mm,半自動装填機を採用した意欲的な砲でした.
砲身は開発中止となった「試製大威力十糎加農砲」の砲身を流用,装填機は三式12糎高射砲の機構を流用しています.
カト砲は口径は同じ105mmですが,対戦車砲としてさらに高威力を狙い,1000メートルで200mmの貫徹能力が要求されました.
これらはそれぞれ「ホリ車」「カト車」という車体に固定式に搭載され,砲戦車/対戦車自走砲として使用される予定でした.
しかし,共に砲は完成しながら,車体の開発は間に合わず,完成することはありませんでした.
名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE
【質問】
どこかで『日本軍の一番強かった戦車は鹵獲したもの』って書いてあったんですが,この情報,ガセですよね?
【回答】
鹵獲したもので部隊編成が出来るだけのものならM3軽戦車,数両レベルならM4中戦車が最強.
まあ,最強といっても,鹵獲したM3軽戦車は初期型で,車長兼砲手で戦闘になると車長の視界が照準孔だけになる.
前方機銃手兼無線手が装填手を兼ねていて砲戦時は装填作業専任.
さらに装填手が砲塔の旋回手も兼ねていて,砲手と阿吽の呼吸で作業する.
装甲ハッチを閉めると操縦手の視界がゼロになる(らしい
……とかいろいろあるけどな.

【質問】
日本軍が捕獲したM3軽戦車って全部で何輌なんでしょうか? 部隊配備までされてたくらいですから,相当な数だと思うのですが.
また,他にもM4やM3中戦車が日本軍に捕獲された例はありますか?
【回答】
Philippinesでは米軍は108輛のM3を持っていましたが,31輛が鹵獲されました.
Burmaでは,2個連隊のM3を投入していますが,その戦いが終わったときに残っていたM3は1輛だけだったそうです.
恐らく,日本に鹵獲されたM3は概ね数輛程度ではないかと思います.
後に修理・回収されることで,もう少し増えた可能性はあるかもしれませんが.
M3中戦車とM4中戦車ですが,鹵獲したもののそのまま破壊というケースが多かったみたいです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2
鹵獲M3で編成された戦車隊

【質問】
司馬遼太郎の「戦車この憂鬱なる乗り物」だったと思いますが,日本軍の戦車開発について,
・ガソリン備蓄が足りないからディーゼルエンジンを採用
→しかも仮想戦場の満州には水がないという思い込みから空冷を開発.
しかし「日本は貧乏国である」という遠慮から馬力をケチったため,「馬鹿でかい,馬力がない,複雑で運用が難しい」という欠陥だらけのものになった.
と書いてありましたが,本当でしょうか?
とくに「日本が貧乏だから馬力を遠慮」というあたりが,よく理解できません.
出来れば89式とチハの開発経緯も含めて教えてください.
【回答】
本当は八九式の後継車両は九五式軽戦車でした.
しかしこれが,装甲が薄いなどの用兵者の不満があったので,安く弱いチニ,高く強いチハが試作されました.
どちらを採用するか悩んでいる間に支那事変が始まり,より強力なチハたんが選ばれた,というのが開発経緯です.
その九七式中戦車に用いられていた,三菱ザウラー式SA12200VD(複渦流式V型直噴12気筒/ボア120mm×ストローク160mm,170馬力/2000回転,重量1200kg)に関しては,噴射系統がデリケートで調整が難しく,耐久力に欠けるきらいがあり,動力性能に関しても,公称200馬力の筈が,実力は170馬力程度しか出ず,しかも,白煙,黒煙が甚だしく,更に五月蠅い(三菱の整備員曰く,「豆煎りエンジン」).
シリンダとシリンダヘッドは,4本の長い通しボルトで共諦めする方式で,チェンブロックや他車の動力を用いたエンジン吊り出しが頻々と行われたのも,車載状態での整備性が悪かったからで,ローラータペットを用いた4弁方式についても,こなれておらず,しかも,直噴はまだ未完成の技術でした.
このエンジンを他社のエンジン設計技術者が評して曰く,
「まるで航空発動機のような,屁理屈の塊のようなエンジン」
当時の軍用車両用ガソリン・エンジンでは,オクタン価の制約から,余り攻め込んだ設計が為されず,車輌,兎も角人員が生きて帰ってこられる信頼性を重視したため,非常に甘い設計になっていました.
他方,ディーゼルに関しては,池貝とか三菱,いすゞなどが犇めいていたため,性能重視型の設計ではありましたが,それでも,軍用,就中,統制であるがために,設計には十分な余裕を持たされ,最大出力時正味平均有効圧が可成り低い状態に置かれていました.
本来は,常用時の負荷率は低い筈ですから,最大出力時の正味平均有効圧を高くしても良かったのですが,第四技術研究所や,戦車部会のメンバーが,作戦行動中に逆上した操縦者が無闇にアクセルを踏んで全負荷に近い運転を続けて,エンジンを壊すことを心配したためか,パワートレイン側の問題があったのかもしれません.
なお,福田定一・・・じゃない,しばりょーたろーせんせいは,機械に疎く,メカに興味のない人だったので,この人の書いた本にはメカニック方面での間違いが多いようです.
それも,資料を読み違えたとかではなく,自分の記憶を頼りに勘違いして覚えてた事をそのまま書いたりしているので,あてにならない部分があります.
もちろん,司馬遼太郎は戦車長として従軍した陸軍のエリートであり,自分の体験に基づいて書かれた「ノンフィクション」の部分は,(当時の誤解を含めて),一次資料としての意味はありますが.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2他)
【質問】
戦車部隊で指揮を取る士官は,どういう課程を経て配属されるのでしょうか?
陸軍士官学校卒業生から,希望した者を戦車部隊に配属するのでしょうか?
【回答】
旧日本陸軍(昭和15年以降)を例に取ると….
陸軍将校になるには陸軍士官学校に入学する前にまず陸軍予科士官学校に入学します.
二年後,卒業の前に兵科を選択します.
希望は募りましたが,定数の関係もあって,必ずしも望み通りとはいかなかったようです.
ここで機甲科に進んだものは隊付士官候補生として戦車連隊で半年勤務します.
勤務を終えると陸軍士官学校に入学し,ここで本格的な機甲兵としての教育を受けます.
この段階で操縦や射撃など下士官並みの技量を育成し,なおかつ部隊運用を学びます.
士官学校卒業後は再び戦車連隊で見習い士官,および少尉として部隊勤務を行い,その後に戦車学校に丁種学生として派遣されます.
学生としての教育を受け,原隊に復帰してようやく一人前の士官となりました.
この他に,騎兵・歩兵連隊より適任者を選抜,戦車学校に入校させて機甲科将校とする制度もありました.
また,甲種幹部候補生からの選抜も行われており,戦車学校の幹部候補生隊に入学して戦車隊将校としての教育を受けて戦車連隊に配属されました.
(名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)
【質問】
海軍陸戦隊は戦車を保有していたそうですが,最大時で何両くらいあったのでしょうか
【回答】
太平洋戦争勃発時は八九式と九五式軽戦車合わせて数両程度+クロスレイ装甲車9両程度と,ちよだ急造装甲車数両程度か,と.
後,
特二式内火艇は1942〜45年に184両,
特三式内火艇が1944〜45年に19両,
特四式内火艇が同じく50両程度
なので,精々100両を越えることが無かったのではないか,と.
眠い人◆gQikaJHtf2
【質問】
旧日本海軍が陸軍戦車を使用する事ってあったの?
【回答】
海軍陸戦隊の警備用に,八九式戦車数両を陸軍から分けて貰って装備していますし,教育部隊には九五式軽戦車を装備していますし,大戦末期に海軍が試作した自走砲は,九七式中戦車の車体が基になっています.
ちなみに,熱河作戦の際,日本陸軍が八九式戦車で長躯疾駆したのですが,その整備には上海の海軍航空部隊の非公式協力があったらしいです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2
【質問】
第二次世界大戦で中国軍が使っていた戦車を教えていただけないでしょうか?
【回答】
ソ連製
T-27豆戦車,
T-26B軽戦車(単砲塔仕様),
英国製
Vickers 6t戦車Mk.E(単砲塔仕様)16両,
Vickers 6t戦車Mk.F(単砲塔仕様:指揮戦車)4両,
Carden-LoydM1931水陸両用戦車29両,
Carden-LoydM1936軽戦車4両,
イタリア製
C.V.33豆戦車,
米国製
Marmon-Herringhton4TAC軽戦車(引き渡されず),
Marmon-Herringhton4TA軽戦車(引き渡されず),
M3A3 Stuart軽戦車,
M5 Stuart軽戦車,
M4 Sherman中戦車.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2)
【質問】
国民党軍が使っていた戦車は一号戦車以外にもありますか?
【回答】
国民党軍は,一号戦車(ドイツ)以外にも仏・伊・英から機甲車両を購入しています.
もっとも初期に購入したのは仏製ルノーFT軽戦車でした.
その他の車両は以下の通り.
*ルノーNC軽戦車(仏)
*ルノー1931年式軽戦車(仏)
*ヴィッカース12トン戦車(英)
*ヴィッカース6トン軽戦車(英)
*ヴィッカース水陸両用戦車(英)
*カーデンロイド豆戦車(英)
*フィアット アンサルド軽戦車(伊)
また,ソ連より供与されたT-26軽戦車も若干保有していました.
大戦後半になると,米軍から供与されたM3/M5軽戦車やM4中戦車なども保有しています.
(名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)
【質問】
昔,沖縄へ修学旅行へ行ったとき,
「米軍は戦車にガスタンクのようなものを取り付けて巨大な火炎放射器にして,100m伸びる炎で焼き払った」
という話を聞きました.
そこで質問なのですが,
@そのように戦車を運用した事実はあったのでしょうか?
A火炎放射器で射程100mを達成することはできるのでしょうか?
個人的な感覚では,100mも炎が伸びる前に,噴射した燃料が全て燃え尽きそうな気がするのですが・・・.
【回答】
1.
当時,戦車に火炎放射器を設置して運用する方法は各国で見られました.
特に太平洋の島嶼戦では,日本軍は網の目状に構築した壕や,天然の洞窟にこもって抵抗することが多く,それらの掃討に有効であるということで,火炎放射器や火炎放射戦車は頻繁に用いられました.
太平洋戦争のフィルムで,M4戦車が火炎を放射している映像を見たことはありませんか?
ちなみにM4中戦車に火炎放射器を装着したM4火炎放射戦車のバリエーションは,こんな感じ.
2.
火炎放射器の射程は,車載のものでも数十mだったりするので,100mも飛ぶことはまず有り得ないと思います.
>炎が伸びる前に噴射した燃料が
燃料以前に噴射剤やポンプの能力の問題でしょう.
丼炒飯 ◆HY/YgdSbHM
硫黄島戦で,8台のM4シャーマンが砲を降ろして,海軍のMarkI火炎放射システムを搭載するよう改造された.
射程は最大150ヤード(137m),連続55-80秒の放射が可能で大きな効果をあげた.
が,海兵隊ではそれ以上配備が進まず,沖縄戦で使用されたのは陸軍のH-1火炎放射戦車.
これはナパームを添加した燃料を290ガロン(1097リットル)搭載,最大80ヤードの距離に2分30秒放射することができた.
http://www.nps.gov/wapa/indepth/extContent/usmc/pcn-190-003131-00/pcn-190-003131-00/sec6.htm
http://www.army.mil/cmh-pg/books/wwii/chemsincmbt/ch15.htm
を参照のこと.