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国本戦車塾(WW2日本軍戦車)
むーのおもちゃ箱(WW2日本軍戦車)
【質問】
日本海軍の軍艦は世界でもトップ・クラス(米英日)なのに,何で陸軍の装備(戦車など)は,世界のトップ(米ソ独)と較べると見劣りするんですか?
陸海の予算分配に偏りがあったのですか?
【回答】
誤解して欲しくないんですが,97式中戦車改(チハ改)を作ってた時点では,辛うじて世界水準なんですよ.異論のある人もいるでしょうけど.
| 全長(mm) | 全幅(mm) | 全高(mm) | 装甲(mm) | 主砲(mm) | 重量(t) | エンジン(HP) | |
| 九七式 | 5,550 | 2,330 | 2,230 | 25 | 57 | 15 | 170 |
| 3号 | 5,690 | 2,810 | 2,355 | 15 | 37 | 15.4 | 250 |
その頃の日本の戦車の特徴としては,
・満州の泥寧期や朝鮮半島を含む国内の道路事情を考え,重量を押さえていた.それなのに,燃料事情から採用したディーゼルエンジンがソ連の物より著しく重い.結果として,装甲が貧弱になる.
・電装品や光学機器,材質や砲の性能が欧米列強に見劣りしていた.
という点が挙げられますが,日本海軍の艦船も,鋲接,粗悪な鋼質,貧弱なレーダーなど考えるに,決して質的に充実していた訳ではありません.
要するに,日本の戦車が,当時の欧米の最高水準のそれに比べて貧弱なのは,実は海軍装備にも当て嵌る「お国の事情」によるものです.
さて,予算が限られている日本陸軍が,軍事力を向上するには2つの手段がありました.
1 師団数を増やす
2 装備を向上する
例えば宇垣軍縮では,師団数が減りましたが,その代わり4単位制から3単位制になり,師団当たりの火力は倍増しております.
しかし,日中戦争などにもつれ込み,師団数の拡大が行われると,金のかかる質の向上よりも,より簡単な兵力の増大に走り,気がつくとWW2の勃発とともに1.5流装備だったのが相対的に2流になってしまいました.
さらに,英米蘭豪との戦争と言っても,植民地軍(つまり2流の装備)を相手に短期的に戦うだけ,という打算もありました.
これが計算違いに終わってまったのは周知の通りで,緒戦の段階で1.5流,ところがいざ苦戦し始めると新兵器は完成しないわ,数も揃わないわ,というのは海軍も同じですよね.
おまけに,ヨーロッパでは戦車が瞬く間に進化して,T34やらパンサーやらタイガーやらスターリン戦車やらが,わらわらと沸いて出る始末.
そんなこんなで,終戦時には日本の戦車は,欧州では1.5流のM4シャーマン戦車にも劣る三流に転落してしまい,戦後は司馬遼太郎元戦車兵などに悪し様に書かれるほど落ちぶれてしまいましたとさ.
なお,太平洋戦争時の予算配分ですが,アメリカ合衆国戦略爆撃調査団報告書において,1940〜45年度に於ける陸海軍臨時軍事費特別会計(軍需省の歳出決算額で,日本銀行支払小切手によるもの)を原資料に,陸軍省,海軍省がそれぞれ地域別(海軍は無し),費目別に算出しています.
1945年は4月〜10月の上半期のみで単位は100万円です.
1940年 1941年 1942年 1943年 1944年 1945年
陸軍省 4,191 6,383 10,368 15,764 45,511 20,808
海軍省 1,532 3,104 8,385 13,779 19,069 17,553
軍需省 1,244
10,472 8,993
合 計 5,723 9,487 18,753 30,787 75,052 47,412
陸:海 7:3 7:3 5:5 5:5 6:3 4:3
即ち,初期は概ね陸軍優位に推移していますが,中期〜末期は対等になってきています.
上の表をこのうち費目別に編集し,うち兵器燃料費を抽出すると,(若干インフレ率など会計処理的な推計が入っていますが)
1940年 1941年 1942年 1943年 1944年 1945年
陸軍省 1,625 1,797 3,267 4,558
3,085 3,725
海軍省 978 1,814 5,629 9,114
8,022 5,619
合 計 2,603 3,611 8,896 13,672
11,607 9,344
陸:海 6:4 5:5 4:6 3:7 3:7 4:6
となります.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2他)

【質問】
旧軍戦車の話に関連してですが,戦前戦中の日本は重装甲大火力の戦艦大和等を作る技術はあったのに,戦車はいまいちです.
戦艦と戦車の装甲を作る技術,あるいは戦艦砲と戦車砲を作る技術と言うのは別物なのでしょうか? 応用出来ないものでしょうか?
【回答】
砲身に関しては,だいたい同じ技術ですので,作製は可能です.実際にソ連では艦載砲を戦車砲に流用した例があります(試作でしたけど).
とはいっても,砲は駐退複座機を始めとする大きなシステムで,それをなるべく小さく砲塔に収めないといけない.
三式中戦車なんかは,この辺の砲まわりの設計を,時間短縮のためにちゃんとやっていないので,砲塔が馬鹿でかくなっている.
また,砲をでかくすると,必然的に重くなる.
日本は輸送船で扱える重さはこのくらい…… というの基準に戦車の重量を決めていたので,必然的に軽量な砲を積んだ軽量な戦車を作るしかなかったんです.
装甲に関しても同様で,厚くすると重くなるので不可.
また,エンジンもしょぼいのしかないので,重い戦車を動かすには,無理がありました.
まぁ,まともな対戦車砲や,まともな成型炸薬弾,被帽付徹甲弾なんかをまったく実戦配備できていない時点で,勉強不足なのは確かなんだけど.
ちなみに,海軍が10年式45口径12cm高角砲をチハの車体に乗っけるという,素敵な事をやっています.
砲重量が8.5トンに達し,戦車の速度は38km/sから20km/sに低下.整地でこれだから,たぶん不整地走行は無理……
とても戦闘に耐えるとは思えません.下手したら数発撃っただけで,車体が逝くんじゃないでしょうか?
\
【質問】
大戦中のドイツ軍は半装軌装甲車や装輪装甲車を多数開発し,兵員輸送や強行偵察などに有効に活用していたようですが,我が帝国陸軍においてはこのような車両の開発・装備に関してはどう贔屓目に見ても積極的だったとは思えません.
この差は一体どこから来たのでしょう?
【回答】
日本にモータリゼーションが無かったから.
また,島国である日本は,航空機と艦船の拡充を最優先事項とし,一部主力戦車以外は脇に追いやられた.
現在の日本では信じられないでしょうが,当時の日本に於いて,国産自動車というのはアテにならないものの代名詞です.日本に進出していた,横浜組立日本フォードとか大阪組立日本GMに比べれば,信頼性は段違いです.(ちなみに,生産数から言っても,組立外車の方が多かった)
中国の戦場は広大です.機械的信頼性のない国産自動車を改造した装甲車とか半装軌兵員輸送車より,二本の足の方が余程信頼があります(苦笑.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2)
つまり当時の日本は,世界の一流とはほど遠い「工業後進国」だったのです.
日本が,自前の材料や工作機械で不自由なく行けるようになり,「ちゃんとした工業国」の仲間入りしたのは,戦後もかなり経った昭和40年代近くのことで,それ以前は,ちゃんとした工業国ですらなかったのです.
また,現在のように自動車が溢れるようになったのは,それに遅れること10年以上.世界のトップを争うような性能の自動車を作れるようになったのは,さらにその後で,長いスパンで見るなら,ごく最近のことです.
陸軍が主戦場にしていた大陸では,マトモな道がなかったので,装輪装甲車による強行偵察はまず無理でしょう.
>半装軌兵員輸送車による急襲とか
ドイツ軍でも定数で戦車連隊1に対して1個擲弾兵大隊分しか配備してません.他の種類のハーフトラックは重砲の牽引車なんですが,日本軍では重砲の牽引車は最初から装軌車でした.
戦車師団向けにこんなのも有りますが,
http://earth.endless.ne.jp/users/mac0115/nihonngunnnosennsya6.html
歩兵を戦車に随伴させる為の車両ですので,捜索連隊に偵察用の戦車があるだけの歩兵師団に配備しても無駄になるだけでしょう.
【質問】
戦前の日本は,「世界一流の分野も有するちょっと偏った工業先進国」だったのではないでしょうか?
例えば,戦前の日本は世界第三位の海軍を保有しておりました.私の認識では通り軍艦と言うモノはその時代のハイテクの固まりだと思います.
もちろん日本海軍は戦争の直前まで英国の技術にかなり依存しておりましたが,開戦の時点では当時のハイテク兵器・空母(含む艦載機)においては英国すら凌駕していたと思います.艦艇や航空機と言う分野においては,日本はかなりの兵器先進国になっていたように思います.
で,前の質問で何が言いたかったか申しますと,「陸軍は(海軍に比べて)何で装備の近代化に取り組まなかったのでしょうか?」ということなのです.
日本のモータリゼーションが遅れていたことは承知しております.
しかしながら,陸軍主導で国策として軍用車両の向上につながる産業の主導ができたのではないかと思うわけです.
ま,「輜重・輸卒が兵隊ならば,蝶々蜻蛉も鳥のうち」というざれ歌に表れているわけですが,日本海軍が空母の有効性を見ぬいたように,なんで帝国陸軍は兵の移動・装備の輸送の機械化に着目せんかったのかなぁ?という疑問です.
【回答】
「世界一流の分野も有するちょっと偏った工業先進国」というのも,残念ながら事実ではありません.
エンジンや電子技術において遅れをとっていたのは周知の事実ですし,建造技術においても電気溶接をマスターできないままであったなど,当時の「工業先進国」とは大きな開きがあります.
潜水艦などは「潜水艦戦史」によれば,任務についただけで,戦闘にならなくとも満身創痍で帰ってきたと言います.
国家予算の相当部分をつぎ込んで,無理に無理を重ねたごく一部の分野が異常に突出していたことは事実ですが,全体を見るなら,工業先進国などとはとうてい呼べない状態だった,と見るのが公平なところだと思います.
それが事実か否かは,現在と当時の輸出品目の量と内訳を見れば一目瞭然のはずです.
「世界一流の分野も有するちょっと背伸びした発展途上国」という表現が適切と思われ.
軍用車両の向上につながる産業の主導は,当時の現実として,それを可能にする土台が存在しなかったのだから仕方がなかった,と見るべきでしょう.
もし,国策として自動車生産を向上させようとしたなら,「どこからガソリンが湧いてくるのか? どこからタイヤゴムが湧いてくるのか? どこから鋼材が湧いてくるのか? どこから工作機器が湧いてくるのか? それらを買う金がどこから湧いてくるのか?」
その辺を先に解決しないといけないです.
さて,兵士の移動手段の機械化については,日本陸軍も積極的に取り組んでいました.
ただ,それより何より,GM,Fordの攻勢が凄まじく,国産の自動車産業がそれに太刀打ちできませんでした.
しかも,日本国内にも舶来信仰があり,国産品の育成が難しい部分もありました.
例えば,Fordは1925年に横浜で組み立てられていましたが,その組立台数は初年度3,500台,翌年8,600台となり,GMが大阪に進出した1927年には両社で12,000台,1928年には24,000台に達しています.円タク,ハイヤーなどが流行ったのは,この両社が進出してからです.
日本の自動車産業が本格的にスタートしたのは,1933年の豊田自動織機自動車部と,戸畑鋳物自動車部,自動車製造株式会社が設立されて以降ですから,既にスタートラインから出遅れています.
これでは日本の自動車産業が潰れてしまうと危機感を覚えた陸軍,商工省は,1935年8月に「自動車製造事業法」を制定し,750cc以上の自動車を年間3,000台以上生産する事業者は,政府の許可が必要となり,許可会社になれば,所得税の5年間の免除,資本増加,社債募集は商法の特例が認められ,生産した自動車は陸軍を始めとした官庁が優先的に買い上げると言うもので,但し,許可会社に成らなければ,外貨の使用が許可されず,材料,機械類の輸入が出来ないと言うものです.
これにより,豊田自動織機転じてトヨタ自動車は,G1/GA型トラックを先に開発しますし,戸畑鋳物自動車部と自動車製造が合併して成立した日産自動車は,グラハム・ページの生産設備を買い入れ,そこで開発していたトラックをニッサン80型として生産を開始し,三菱重工はディーゼルエンジン搭載のふそうバスを開発します.
これらは,三菱を除けば陸軍で使用されています.
(三菱は,この法律制定時に協力的ではなかったので,陸軍に睨まれ,ふそうは鉄道省のバスとして採用されています)
但し,僅か数年で本格的な自動車が作れるはずもなく,大陸ではどんなに古いタイプでも,GMとかFordの米国製が来ると,それを割り当てられた兵士は喜び,国産車を割り当てられた兵士は出発に際して水杯を交わす状況だったそうです.
国産トラックは,Overheatを手始めに,クランクシャフトのベアリング焼き付きによるエンジン破損,デファレンシャルギアの折損,サスペンションスプリングの折損など,戦場で故障した場合は致命的なもので,特にニッサン80型は,キャブオーバーだったために,エンジン上部に運転席があるので,前部重量が大きく,そのため前部のトレッド幅が大きくなっていました.
これは,前部の違うメーカーのトラックの轍を辿れず,泥濘地帯でストップすることもありました.
しかも,運転席が最前部にあるので狙撃されやすく,ピッチング,ローリングの影響を受ける上に,地雷を踏んだ場合,前輪の真上がキャビンなので,生命の危険が大きい.
更に,トラックの幅が米国規格よりも広くなっているので,中国の城郭市街地の城門を潜れず,必ず城外に駐車させねばならず,これがまた,戦場のニーズに合わないと言う悪循環でした.
1939年8月,統制経済の進行と共に,商工省,陸軍省,鉄道省などの関係部門とトヨタ,ニッサン,三菱と言ったメーカーによって,自動車技術委員会が誕生します.
この時に,軍部から品質向上と,性能改善が要求され,商工省から自動車の型式統制と部品共用化が求められています.
そして,1000〜1500ccはニッサン,2500ccはトヨタ,3500ccは両社,4500ccは,自動車工業と東京瓦斯電気工業自動車部が合併して出来た東京自動車を改称したヂーゼル自動車工業が担当します.
ヂーゼル自動車は特に陸軍の国策会社となっており,三菱,日立,池貝自動車製造,川崎車輌の各社が保有していたディーゼルエンジン車製造設備を結集させて,その生産増強を図っています.
当時の生産台数の予測は,1939年度で70,000〜75,000台(うちトヨタ,ニッサン各2万台),1940年度は,75,000台(同各25,000台),1941年度には80,000台(同各4万台)となっており,1941年度には国産化が達成できると言うものでした.
しかし,実際は,1939年に2万台,1940年22,000台の目標は達成できませんでした.
これは,日本のどの産業にも言えることですが,資材,部品の納期遅れ,増強設備の工作機械が為替管理強化で入手できなくなったこと,石炭,鉄鋼の統制も進み,原材料,エネルギーの確保も困難になったためでした.
戦争により,自動車統制会というので生産の統制が図られ,資源の入手がますます困難となり,メーカーも軍需産業に傾斜せざるを得ず,最終的に1943年末には,軍需省の下にある軍需会社化として自動車以外の生産も求められ,自動車会社としての歴史は一時頓挫する訳です.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2他)

(引用元:画像掲示板)

【質問】
日本軍の砲牽引車両について教えてください.
【回答】
独立混成旅団の野砲連隊に支給された90式機動野砲を牽引したのは,九四式四d牽引車(ヨケ車)です.
後に改修型である九八式四d牽引車(シケ車)も開発されて使用されています.
機動榴弾砲(九一式機動10cm榴弾砲)も同じだと思います.
なお,九二式10cm加農砲は九二式五d牽引車を使用し,後に九八式六d牽引車(ロケ車)を使用しています.
機動速射砲(一式機動47mm砲)は自動貨車(トラック)を使用したようです.
九五式十三d牽引車を用いて九六式24cm榴弾砲を牽引した場合,12km/hでの牽引が可能でした.
七年式30cm榴弾砲を牽引すると,牽引速度は時速5キロとのこと.
また,九二式五d牽引車で九六式15cm榴弾砲を牽引した場合は,12km/h程度が可能だったとのことです.
(名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)
【質問】
戦前の日本のトラックについて質問です
九四式の設計に当たって自動車工業と瓦斯電が共同設計したらしいのですが,他の自動車メーカーも九四式の製造に当たっていたのでしょうか?
戦中は日産とかトヨタとかメーカーそれぞれのトラックが採用され,統一基準みたいなものがなかったみたいなので,戦前も規格は統一されずに個別の業者がそれぞれ勝手に作っていたのかな,と疑問になりました.
兵站/整備の上で負担になるから,あんまり車種を増やしたとも思えないのですが,じっさいはどうだったのでしょうか?
【回答】
九四式自動貨車の製造は,両社のほか,六甲ST40の名称で,川崎車輌も製作しています.
元々,自動貨車製造については,陸軍もさることながら,商工省の存在が大きいです.
1939年8月に,国産車の技術向上を目指し,「自動車技術委員会」というのが商工省次官を会長に,商工省各担当部署の責任者,学識経験者,鉄道省の関係者,豊田から豊田喜一郎,日産から浅原源七がメンバーとなり,国産車の種々の問題に関して,軍当局から提起された事項を中心に,部会で検討会が作られました.
自動車の形式,自動車部品の共用化もこの委員会で論議され,1000〜1500ccは日産が,2500cc級はトヨタが,3500ccは日産,トヨタ両社で,4500cc以上は「ヂーゼル自動車」がエンジンの製造を行うことになりました.
これにより,重複による無駄を避けることが出来,試作車の投資の無駄を避けるようになっています.
このヂーゼル自動車は,陸軍がディーゼルエンジンの統一的製造を要求したため,自動車工業と瓦斯電,それに,ディーゼルの製造設備を持つ,三菱,日立,池貝自動車製造,川崎車輌の各設備を集約して誕生したものです.
ここから,特殊車両に関しては,別途日野重工業が分かれています.
なお,これより先,鉄道省とスミダとチヨダの共同作業で,商工省標準車が作られています.
これが軍用としては九七式自動貨車となったものです.
但し,こういった動きに三菱だけが同調せず,陸軍から不採用になった三菱製の車輌は,鉄道省標準車として,「三菱ふそう」の名の下,バスとして採用されています.
軍用自動車の指定業者として,軍部から指定されたのはトヨタ,日産の二社で,後にヂーゼル自動車が加わっています.
トヨタと日産については,商工省の統一の動きより早く,独自の車輌を製作しています.
なので,同規模の車輌を複数種類調達していかざるを得ない面がありました.
このときの商工省標準自動貨車のコンセプトは,GM,フォードの一クラス上の大型車で,GM,フォードと競争する形で,トヨタと日産のトラックがありました.
従って,部品共用化と言っても,自動車部品の殆どは,各社で内製していますから設計思想の統一くらいで,実際の部品共用まで進んでいないのではないかと思います.
また,「自動車技術委員会」で検討されたものは,研究段階で,実際に施行されたのは1942年以降となっており,これが戦時規格型トラックに具現化していきますが,これも車輌製造仕様の統一で終わっていたみたいです.
でもって,戦前の自動車は大まかに言って,シャーシの上にボディを架装するものでした.
ボディは,板金工の手による叩き出しですから,精度などはあまり気にならないです.
豊田にしても日産にしても,シャーシ部分だけ製造して,他の業者が架装することも多い訳です(現在のバスがそのような手法を採っていますね).
また,エンジンにしても,トヨタと日産のエンジンは,極端に言えば,当時日本で最も多く走っていた,シボレーのものを原型にしており,両車ともGMの部品が有れば整備出来ました.
いすゞのディーゼルエンジンはユンカースが原型ですが.
それと,輸出販売ルートとしては,トヨタが中国大陸,日産が満州となっており,国産車同士の食い合いは避けていたようです.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2)
【質問】
日本陸軍の自動車化された歩兵部隊や捜索連隊の乗車中隊に配備された自動貨車と,部隊あたりの配備数などをどうか教えてください.
小隊や中隊を何両で運んだかとかが知りたいんです.
【回答】
基本的に自動貨車の配備数は余り多くありません.
例えば,第23師団の捜索連隊には自動貨車30台という数字が残っていますが,中隊毎にどれくらいの数を配分したかはよく判らない状況です.
輜重兵中隊の場合は,自動貨車40両基幹になっています.
自動貨車には完全武装の兵士15名,または荷物500貫を載せることが出来ましたので,例えば,歩兵分隊を輸送する場合,単純計算では自動貨車1台があれば足ります.
1個小隊は4個分隊ですから,単純計算で,5台程度の自動貨車が必要になるでしょう.
1個中隊は4個小隊と指揮班,弾薬小隊が付きますから,大体輜重兵中隊の自動貨車分が必要になりますね.
眠い人◆gQikaJHtf2
【質問】
日本軍は開戦直後にブルドーザーの存在を知り,陸,海軍が開発を発注したけれども,結局試作で終わったとありました.
ブルドーザーの何が難しいんでしょうか?
それとも,ただ単に軽視されてただけでしょうか?
【回答】
一応,戦前に朝鮮や満州にCaterpillarのBulldozerが少数が輸入されて,建築現場で使われていましたし,1940年頃から陸軍が小松に命じて試作をしていたので,全く存在を知らなかったと言う訳ではありません.
但し,北満湿地帯での道路建設用機械と認識してしまったため,これは使えないと早々に試作を中止してしまいました.
南方での飛行場設営に思いが至らなかった訳で.
そして,次いで海軍が南方基地設置用建設機械として,ブルドーザーを同じく小松に発注しました.
こうして作られた小松一型は,牽引車に油圧式ドーザーを付けた代物で,本格的なものでもなく,最初に作られた試作と増加試作6両はアッツ島に送られましたが,到着後に守備隊が玉砕して行方不明になりました.
次いで,陸軍が航空基地整備用ブルドーザーの試作を小松に指令(また此処でも陸海軍の対立弊害が出てくるわけで)し,小松は今度は1940年に試作した陸軍向け試作車を基に,海軍のものと同じ手法で,ブルドーザーを試作しました.
しかし,これは効率が悪く,米国のものに比べると劣っていたので,Caterpillarを参考に,よりブルドーザーらしくしたのが1944年の試作車です.
但し,資源不足で,1両しかできませんでした.
特に日本では油圧のシーリングの問題が大きく,なかなか油圧式ドーザーを動かすのに苦労したみたいです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2
【質問】
戦時中までの御料車について教えてください.
【回答】
天皇家が最初に使った御料車は,1912年製ディムラーリムジンだったそうです.
1号御料車は,当時の英国国王KingGeorgeVの御料車と同型.
但し,皇室の色である溜色に塗装し,側面に十六花弁の菊の御紋章を付けたのもこれから始まっています.
このほかに2号御料車として,同じくディムラーのランドレー,これはちょっと小型ですが,天皇以外の皇族と外国からの賓客送迎用である貴賓車にはメルセデスのランドレー,お付きの人が乗る臣下車にはディムラーランドレーとフィアットランドレー2台,それに運搬車としてフィアット2台が購入されました.
ちなみに,これらを購入したのは,「鯰」こと大倉喜八郎だったりします.
1921年には木造ボディの車体は老朽化して,第3号,第4号御料車として,当時世界的に高級車としての名声を高めていた,1920年型ロールス・ロイスシルヴァー・ゴーストで,シャシーの価格は2,100ポンド(当時のオースチン・セブンが120ポンド)に,フーパー社でリムジンボディを架装しています.
このボディーが実に,2,425ポンドとシャシーより高かったり.
これは主に大正天皇の御料車として用いられましたが,御座所から段差無しに乗り降りできるよう,シートとルーフを日本で改造したそうです.
ところが,1923年の虎ノ門事件の結果,余りにも御上が無防備だと言うことで,この御料車に装甲板を付けることとなり,米国から板厚2mmの防弾鋼鈑を購入し,試作としてピアースアロウに取り付けてみたのですが,重量増で役に立たず,沙汰止みになり,1931年から1935年に掛けて7台が輸入されたメルセデス・Bベンツ770グローサー(1932年型4台,1934年型3台)に取って代わられました.
ちなみに,初代のディムラーは1932年,二代目のロールス・ロイスは1933年頃解体されますが,ロールス・ロイスのエンジンは,宮中吹上御所の緊急用水揚げポンプの動力源として戦争中も長らく使用されています.
また,ラジエター,ホイールは解体業者の手を経て民間に流れ,とある自動車マニアが保有していたそうです.
余談ですが,このラジエター,戦後,米海軍士官がグアムから持ち込んだ1926年型ロールス・ロイスを,銀座のドイツ料理屋ケテルスが購入したのですが,グアムで使っている時に塩害でラジエターがいかれ,代わりのものとして白羽の矢が立ったのが,元御料車のラジエターだったりします.
さて,三代目御料車のメルセデスは余りにも有名ですが,この同型車は,天皇家を始め,Hindenburg大統領,Sweden国王,Egypt国王,Bulgaria国王,Yugoslaviaの摂政,亡命中のKaiser
WillhelmII世,作曲家Richard Straussなどがご愛用の世界で117台しかない貴重なクルマだそうで.
量産されたのは1938年のW150/150II以降なので,このモデル,W07/W07Kは本当にPremiereなものでした.
天皇家の御料車のそれは,Supercharger無しエンジンに,4段型ギアボックスのもので,同型車の中には,ルーツ製Super
chargerを取り付けたエンジンに,ギアボックスはマイバッハ製6段(高低3段ずつ切り替えられる)のものもあるのですが,日本の路上では無用の長物と考えられたのでしょう.
ボディはジンデルフィンゲン工場製プルマン・リムジンで,リア・コンパートメントの内装は宮内庁支給の京都の西陣織でしつらえられています.
7台のうち2台は,陸軍工廠で,10mの至近距離から発射された機関銃弾に耐えることが可能な厚さ5mm以上の装甲板を,ボディパネル,ドアは元より,ボンネットパネルまで張り巡らしていました.
最も徹底的に成された車輌は,路面に敷設された地雷が爆発しても耐えられる様に強化され,床板は勿論,エンジン下部にも防弾鋼鈑が張られています.
更にガラスは厚みが優に15mmを超える防弾ガラスで覆われ,こうして重量は,標準的な770が2.7tになるのに対し,強化型は4.7tと戦車か装甲車かと言うくらいまで増加しました.
この重量に耐えるタイヤは,当初はContinentalを使っていたのですが,それが無くなると横浜ゴムに試作の命令が下り,4tの重量に耐え,釘を踏んでもパンクしないため,超肉厚カーカスと布入りシーラントを内張したチューブを用いた,特殊タイヤが開発され24本が納入されています.
このメルセデスは,空襲で焼失した1台を除き,残りは1969年まで使用されています.
後に2台は,富谷龍一氏の手によって,住江製作所がランドレーに改造し,全国行幸に使われましたが,その後この2台は部品取り用に解体され,1970年代初期に1932年型の最後の1台が解体,1971年にはダイムラー・ベンツからの要請で,1934年型が1台寄贈されていますが,未だ2台は宮内庁の車庫に眠っているそうです.
ちなみに,戦前はボディの溜色塗装は皇室専用色で,他のクルマに塗装するのを禁じられたのだとか.
また,戦争末期には,溜色のメルセデスは機銃掃射の的になるとの懸念から,三井本家が黒塗りの1937年型メルセデス500Nニュルンベルク・リムジンを献上し,これは内親王用などに使われていました.
ちなみに,この三井本家のメルセデスは,1936年,右翼によるテロが頻発していた当時,当時の総帥八郎右衛門の身を案じた三井家が特にドイツから輸入した装甲板付きのものだったり.
この他,非公式用の車輌としては,1920年に最初のディムラーリムジンが2台,第7,8号貴賓車として使用され始め,1921年には1920年型ディムラーオープンツアラーを1台購入しました.
1922年に裕仁親王の答礼で,PrinceofWalesが来日した際には,その為だけに,ロールス・ロイスから1920年型シルヴァーゴーストオープンツアラーを輸入しました.
(時代は下り,1975年にエリザベスII世女王が来日した際に,パレードに用いられたのは,キャデラック…orz)
実は,このオープンツアラーは,英国皇太子の来日には間に合わず,この貴賓車は,裕仁親王が国内や台湾に出かけられたときに使われていたそうです.
で,このクルマ,1925年に民間に払い下げられ,所有者を転々とし,オリジナルボディーは失われていますが,現存しているそうです.
1940年代の法律上の所有者は,ビルマ国カチン政府という訳のわからない代物で,その代表者名は日本女性だったとか.
お付きの人が乗る臣下車としては,まず,米国製のピアース・アロウの各モデルが使われていました.
今は消滅していますが,1920年代まで,米国の最高級車として君臨し,T型が300ドルの頃,4,850〜6,300ドルもしています.
また,ボディは箱型と幌型の二種類が用意され,季節によって載せ替えることもしていたようです.
ピアース・アロウが倒産し,消滅してからは,官公庁御用達のパッカード・スーパーエイト・リムジンが主に使われる様になります.
これは,1950年代まで使われ続けましたが,1960年代にメルセデス300シリーズに置き換えられ,国産車の充実と共に,トヨタセンチュリーとか日産プレジデントが主流となっています.
眠い人◆gQikaJHtf2 in mixi
【質問】
戦後しばらくの間一世を風靡したオート三輪(三輪車)ですが,戦前,もしくは戦中に日本軍は制式採用してなかったのでしょうか?
なかなか使い勝手が良さそうだ,と思ったのですが,やっぱり路外性能がしょぼいからダメだったのでしょうか.
【回答】
準軍用,あるいは非公式なものとの扱いでした.
戦前はオートバイのエンジンを輸入し,そのエンジンを用いて車体を作り上げるものが主流でした.
普及し始めたのは1925年頃からで,大阪東区のウエルビー商会が製造したウエルビー号から始まりました.
その後,3年で2社しかなかったメーカーが35社に迄増えています.
こうして市場が拡大していったのですが,所詮オートバイの亜種的な存在でした.
しかし,チェーンドライブ・片後輪駆動・バックギア無しでは使いづらく,シャフトを用いた後輪2輪駆動,バックギア付の機種が市場に出回り,初期のオートバイ亜種は駆逐されます.
これらは非常に高い技術を要するもので,弱小の企業では太刀打ちできません.
次いで,輸入のバイク用エンジンに代って,水冷の国産エンジンが登場します.
特に発動機製造(今のダイハツ)が嚆矢となり,次いで東洋工業(今のマツダ)がそれに続きます.
1933年のオート三輪登録台数は12,000台で小型車全体の保有台数の凡そ40%,その後,1937年には15,000台にまで達します.
購買力の小さな農業人口が80%を超えているような国で,この数字ですから十分に大きな生産台数だと思います.
ちなみに,車両価格は1台当り700円〜1,500円で,平均価格が1,000円.
この時代,フォードが2,800円です.
シェア的には,発動機製造が30〜35%程度,東洋工業が20〜25%と,両社で市場の半分以上を占有し,残りを日本内燃機(くろがね),陸王内燃機,旭内燃機,帝国製鋲,水野鉄工所,兵庫モータースが団栗の背比べをしていました.
しかし,以後は戦時体制に組み込まれ,生産台数は減少しました.
ただ,軍事用は例外で,陸海軍共に内地や南方では重宝されています.
とは言え,野戦に於ける耐久性,不整地走行能力,機構的トラブルの問題と被弾時の措置に研究の要有りとして,いずれも準軍用,あるいは非公式なものとの扱いでした.
戦時中は,前述の発動機製造,東洋工業,日本内燃機が指定工場となり,軍需,官需用にオート三輪を製造しており,他にも沢山の海千山千の群小メーカーが製造しています.
日本内燃機のニューエラ号は後に一式として制式化されており,水運搬車も作られました.
蛇足ですが,東洋工業は,松田製作所,日本兵器製造を興した松田重治郎・恒次親子が中心となった会社で,1920年に前身の東洋コルク工業に重治郎が取締役として迎えられ,翌年,社長となって実権を握ります.
この会社は,瓶の栓や,氷で冷やす冷蔵港の断熱材としてのコルクを製造していました.
1927年,コルク製造から機械事業に打って出て行こうと社名を東洋工業に変更します.
この転換で,海軍から兵器製造の発注があり,また,各企業に加工機械を売り込んでそれらが採用されます.
同時に,機械技術の当時の最高峰として考えられていた自動車製造に乗り出しますが,身の丈を考え,まずは,1926年にトーヨーコーギョー号を言うオートバイを作り,30台ほど生産します.
次いで,島津楢造氏を迎え,自社製エンジンを開発し,それを搭載したオート三輪を生産し始めます.
ただ,販売チャネルが無かったので,三菱商事と組んで,国内や国外に打って出ます.
ブラジルの軍に採用されたのはマツダ号です.
ついでに,マツダランプは,マツダ,東洋工業とは無関係です.
こちらのほうは,東芝の前身の一つの会社が作っていた電球のブランド名だったか,と.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2)
【質問】
日本に徴用可能な自動車は何台あったのか?
【回答】
1935年10月末日現在の「全国自動車・自動自転車集計表」と言う統計があったり.
陸軍省が調査したもので,何故,陸軍省かというと,万一の有事の際,自動車を徴発して軍用に充てなければならないからで,これは,年度の自動車徴発規程の基礎資料となるものです.
で,これによると,1935年の日本の自動車の台数は….
四人乗乗用車 :営業用/316台,自家用/1,173台
五〜七人乗乗用車 :営業用/44,785台,自家用/5,323台
八人乗以上 :営業用/21,214台,自家用/104台
1t積未満トラック :営業用/783台,自家用/689台
1〜1.5t積トラック:営業用/6,464台,自家用/885台
1.5〜2t積トラック :営業用/22,900台,自家用/3,098台
2t積以上トラック :営業用/9,837台,自家用/864台
小型自動車・貨物自動車:営業用/276台,自家用/3,412台
自動自転車 :営業用,自家用合わせて16,684台
ちなみに,小型自動車・貨物自動車は,ダットサンとかAustinの事,自動自転車は,バイク,サイドカー,三輪車の事です.
このほか,全国にタンクローリーが214台,患者輸送自動車が57台ありました.
この資料には官庁用とか消防自動車は含んでいませんが,全国,つまり,内地,朝鮮,台湾,関東州,南洋諸島含めて,日本全土にある自動車の数は総数130,517台.
で,その大部分が,Ford,Chevroletの組立外車です.
内地では,東京府が28,875台,名古屋を含んだ愛知,岐阜,静岡の東海三県で11,313台,北海道,樺太,千島で3,567台だったりします.
流石にこれでは拙いと思ったのか,自動車製造事業法によって国産車を育成し,1941年には年間2万台の生産量を誇るまでになっています.
ちなみに,自動車製造事業法が制定されても,横浜Fordに関しては生き残っており,1937〜40年に掛けて自動車製造事業法の枠外で,7,800台のFordが生産され,満州に移出,日産の満州に於ける系列会社であった,満州同和自動車で同社製自動車として売られました.
特に,1940年のトラック1,200台は,そのまま関東軍に納品されたりしています.
でもって,この自動車を製造する際の部品で足りなくなったものは,独ソ開戦まで,ドイツ・フォードからシベリア鉄道経由で手に入れていて,本国のフォードは何ら関わりが無かった様です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi
国産バス

【質問】
戦前か戦中,統制型ディーゼルエンジン(一式戦車?)を潜水艦?でドイツに輸出した,とか.
数量等判りませんが,それほど技術的なものに見るべきものがあったのでしょうか?
【回答】
http://www.bekkoame.ne.jp/~bandaru/deta021a.htm
によれば,見るべきものはなかった模様.
以下引用.
統制型ディーゼルエンジン(一式戦車用)
ドイツに潜水艦で輸出されましたが...
日本の精密工業の水準がばれないようにヤスリ仕上げの無い部品を選別するのに苦労したそうで...
とても自慢できるようなものではありませんでした.
【質問】
戦時中,車両に使われた代用燃料について教えてください.
【回答】
1940年の物資不足の頃から,色々な代用品が出現しました.
食べ物なんかもそうですし,工業製品たる客車だって,貨車に乗客を乗せた代用客車というのがあったり,教員資格のない,代用教員と言うのがいたり….
当然,「ガソリン一滴は血の一滴」なんてスローガンが叫ばれて,ガソリンの消費を抑えようと,色々工夫しています.
例えば,1939年1〜3月の西成線(今の大阪環状線西回り+桜島線で当時は非電化)では,平日1,400リットル,休日1,100リットルのガソリンが消費されていましたが,空燃比を希薄化したり,今のバスでも行われているアイドル・カット運転(これを手動で行った),その機関停止時に気化器からOverflowする燃料の回収,動車元空気だめへの空気充填を車庫で行う,変速操作運転の技能向上,2両編成の場合は,1両のみ機関を動かし,他の車輌は付随車とするなどを実施し,486リットルもの燃料を節約しています.
後,陸軍が中心となって,ガソリンに酒精を混入する実験が行われました.
が,酒精と言うのは,農産物(芋類)から採取されるものを主体としていた為,芋類の主流である甘藷の価格が高すぎたのが原因で,一旦頓挫し,1937年に復活し,4月に酒精専売法が施行されると共に,法律第39号「揮発油及アルコール混用法」が施行され,航空用以外の民需用ガソリンはエタノール混入ガソリンとしなければならない,と定められました(ちなみに世界で15番目).
これは,石油資源節約,航空用ガソリンの確保を目的としたためで,酒精の経済性は,ガソリン1に対し,軽油0.53,木炭1.22,薪0.94,天然ガス,都市ガス各0.72,アセチレンガス1.7,電気0.57に対し,酒精15.5と桁違いに悪かったりします.
しかし,これとて,エタノール生産が間に合わ(ぉぃ…)に,段階的に施行されることになり,1938年5月にガソリン総量の25%に5%,9月に25%に10%混入,1939年4月に50%に10%,10月からは70%に10%,1940年1月より全ガソリンに10%,11月以降15%,1941年には20%に引上げという施策計画が採られています.
実際には,酒精増産の進展で,1940年1月に15%混入が実施され,1942年2月からは,トラック用燃料として,7府県で単体酒精を使用するに至っています.
ところが,戦線の急拡大で,今度は医療用アルコール需要が急増し,燃料用に回すことが出来なくなり,1943年にこの「揮発油及アルコール混用法」は廃止されてしまいました.
では,ガソリンに変わる代用燃料とはどんなものがあったか?ですが,まず,発生炉ガス,これは木炭,薪,石炭を炉内で不完全燃焼させ,発生した一酸化炭素,窒素主成分のガスを燃料とするもので,木炭車というのが,それですね.
ちなみに,石炭利用の場合,国内炭では灰が冷えて蜂の巣状に固まる現象が多発したため,灰の融点が高い,山西省陽泉産出の陽泉炭に限定されています.
これ以外の石炭状物質としては,コークス,コーライト.
次いで,メタノールで,これは南大東島,台湾などでの砂糖黍搬出用,台湾総督府交通局鉄道部で使用例があります.
混入については,先述の通り.
後はカーバイトによるアセチレンガスで,トラック,三井鉱山神岡軌道などの産業用機関車に使用されました.
天然ガスについては,秋田の横荘,新潟の長岡,千葉の小湊,九十九里,滋賀の江若などで使用されています.
いずれも天然ガス田の産出地近辺でしか使用されず,燃料費的にも高価であり,ボンベなどの補給にも苦労しました.
さて,今までの炉は,バス・トラック用のものを内燃動車に転用したので,当然,大型車になると性能が不足する訳で,大型車には専用の炉を開発することになりました.
これは淡路島にあった淡路鉄道(今の淡路交通)が作ったもので,淡鉄式と呼ばれ,今までの2倍の容量を持つものでした.
性能的には,全線23.4kmを走ると,ガソリン動車の時間40.5分,表定速度34.2km/hに対し,46.5分,30.2km/hと矢張り落ち込んでいます.
ちなみに,往復の燃料消費は木炭50kgで,燃料費はガソリンに比べ30%増.
炉の耐用年数は短く設置費は2,165円,特に発生炉下部燃焼室は2年保つかどうか,と言われていました.
さて,その間,国鉄はどうだったのかと言いますと,1938年以降,白土式で木炭,コークスを,梁瀬(今のヤナセ自動車)式で,天然ガス,液化ガス,ガソリン・メタノール混用など各種の方法が試行錯誤されていますが,官尊民卑の倣いで,例によって民間の技術は採用されることなく,世界的にも例を見ない,蒸気機関車の燃焼後に煙突から排出される産業廃棄物,「シンダ」というものを採用します.
「シンダ」自体は炭素が主成分で,蒸気機関車から無尽蔵に出る(年間5万トン発生)ものですから,それを回収する機構を製作すれば,原料はタダで手に入った訳です.
しかし,これは全内燃動車に普及することなく(そりゃ,国鉄は蒸気機関車を運用していたのだから,必要になれば,蒸気機関車に動車を牽引させれば良いわけで),100輛程度の改造に終わりました.
今まではガソリン動車の話でしたが,ディーゼルの代燃化は結局戦後まで持ち越しとなりました.
ディーゼルの代燃化については,重油と天然ガス併用,代燃ガスを圧縮し,死点寸前に少量の重油を吹き込む重油着火方式,圧縮比を下げ,発火プラグで爆発させる電気着火方式がありましたが,これらは,「どう見てもディーゼルエンジンではありません.本当に(以下略」なものでした.
後,食用油も実験しましたが,コスト高だったり.
ちなみに,こうした国鉄の官尊民卑ぶりについては,例えば,ディーゼルエンジンにしても陸軍が中心となって開発した,当時としては優秀な設計であった予燃焼式の統制式発動機を使用せず(戦後の一時期,非電化私鉄のガソリン動車にはそれから発達したいすゞのDA系に載せ替えられましたが,国鉄は中々それを採用しなかったり),独自技術に拘った結果,新潟鉄工の海軍内火艇やそれから発展した51号魚雷艇発動機を基にした,扱いの難しい直噴式の発動機を発展(と言うか退化)させ,これは実に国鉄末期まで半世紀以上これを引き摺っています.
JR移行後,これらの機関を搭載していたディーゼルカーは,経済性の悪さから一斉にエンジンを載せ替えたり,軽量の新型車に置き換えられたりして,残滓を一掃しつつある訳で.
また,こうした機関を採用していた非電化私鉄の整備掛が,廃止のために,バス会社やトラック会社などの整備工場に転職しようにも,技術ベースが戦前のものなので,一笑に付されると言う笑えない話があったりします.
今回の参考文献:
「内燃動車発達史」下巻
「ある鉄道事故の構図」
「鉄道車輌工業と自動車工業」など
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi
【質問】
軍では,戦中の車の免許とか運転の教習はどうしてたの?
【回答】
祖父の戦友の方々に聞きましたところ,
「台湾の機甲歩兵は,世田谷にあった陸軍機甲整備学校(現東農大)で車の整備・運転を学び,卒業してきた奴が,民間でバスやタクシーの運転手をしていて免許を持ってたやつを助手にして,教育をしていた.
戦中に車を使うことには免許は特にいらんかったと思うが・・・」
とおっしゃっていました.
軍用のは,ちょっと今掘り出せない(戦車の資料はいっぱいあるんですがね)ですが,民間用のは,地方出版物のもので,例えば,「房総の乗合自動車」とかそう言うものがあります.
内務省が自動車運転に関する規制を考え始めたのは,大正8年に内務省警保局・土木局が連名で出した自動車取締令によるものです.
これを基に,各府県は自動車取締細則を定めて運用します.
ちなみに,軍事とは離れますが,大正12〜13年の千葉に於ける一年間の交通事故件数は61件,歩行者の死者3名,負傷者41名,従業員の負傷者1名,その他13名で,事故を起こした運転士61名のうち,15名は無免許です.
運転手の養成所はありましたが,数が足りず,免許取得の運転手の添乗の下,助手が無免許でハンドルを握らせています.
流石にこの状態はまずいので,大正15年に自動車取締令施行細則が改訂され,業務用(乗合,貨物)と自家用とナンバープレートが色分けされ,そのナンバーも外せない構造となります.
また,戦前から昭和20年代に掛けては,自動車運転免許状を交付される人と言うのは大型乗用車,乗合自動車,自動貨車とそれに準ずる車輌くらいなもので,排気量500cc以下の小型乗用車,オート三輪には,無試験免許(今日の原付免許と違い,学科試験も無しの文字通り単なる許可証)が必要とされるだけでした.
これは,最寄の警察署で1時間程度の手続きで(地域差あり.手数料は手元に資料がありません)交付されます.
その適用対象である小型自動車の区分は
大正13年〜昭和5年 360cc以下
〜昭和9年 500cc以下
〜昭和11年 750cc以下(2サイクルは500cc以下)
昭和12年以降〜 廃止
となっていました.
なお,「500ccは免許不要」としている資料(当時のものも含む)が非常に多いので注意が必要です.
戦前すでに東京では,荻窪あたりにダットサン専門の自動車教習所があったそうです.
戦後まもなくそこに教習を受けに行った人によると,1〜2回横に乗せた程度であとは適当に練習しろといわれたそうな.
それでも卒業免状を交付してもらったので,鮫州の試験所に試験を受けにいくと,実地試験を免除されて法規試験のみを受けたそうです.
ところがこの試験たるや,前の方に居た2〜3人に適当に口頭で質問をして,それのみで全員が合格とされたとか.(自動車ジャーナリスト小林彰太郎の自伝より)
余談ですが,眠い人氏の母親は昭和30年に免許を取ったのですが,従兄弟のルノー4CVで路上教習を受けて,試験に臨み,受かったそうな.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2,名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE,他)
うちの爺ちゃんは大卒で徴兵されたので,1年くらいで部下が何人か持てたらしい.
内地の基地で,のんびり終戦まで過ごしている間,部下達の運転を試験して運転免許を何枚も発行していた.
でも,爺ちゃん本人は,生涯(といってもまだ存命だけど),無免許.
「自分の分の免許もだしておけばよかった」
と,笑っていた.
【質問】
すいません,今Blogで小説書いてるんですが,どなたか,アメリカ軍のジープで一般的に戦後にMPが乗っていた車種とその排気量,エンジン形式,出来ればピストンの直径とストロークをご存知の方おられましたら教えて下さい
.
検索はしてみたのですが,意外なほど情報が少なく,お手上げです.
日本軍の装甲車両で,その車種のピストンと交換部品になりうるピストンをもっているかもしれない車両を教えていただければなおいいのですが,解らなくてもこちらは自力でソレっぽい嘘をつける車両を探してみようとは思っております
.
【回答】
Willis MBに関しては資料が出てきませんでしたが,戦後すぐのCJ-3Bなら,ボア79.4mm×ストローク111.1mmです.
これは,水冷4気筒で排気量2,199cc.弁配置SV方式で,60馬力を発揮しています.
基本的に戦時中の型やFord GPWも同じだったはずです.
日本の装甲車両や軍用車両はおしなべて,百式統制型発動機です.
Willis MB/Ford GPWとは違い,Dieselですから互換性はありません.
ちなみに,このエンジンのボアは120mm,ストロークは160mmで,2000回転で120馬力の予燃焼室式Dieselです.
豊田のものでは,A型エンジンはChevroletの直列6気筒エンジンのほぼそのままのコピーです.それでも3000cc程度になっています.
手元にあるのは,改良型B型エンジンの資料ですが,ほぼ同じとすると,ボア84.1mm×ストローク101.6mm.
排気量3,386ccの水冷直列6気筒OHV方式で,85馬力でした.
GM製のJeep型車輌は無いので,もしこういう車輌を使うのならば,Jeepではなくそれより一回り大きなDodgeのWeapon
Careerが豊田のエンジン部品が使えるかもしれません.
日産のものは,Graham-Pageのトラック用を移植したもので,NA型の場合,ボアは82.5mm×ストローク114.3mm.
排気量3,670ccの水冷直列6気筒SV方式で85馬力を出しました.
これも同様に,DodgeのWeapon Careerならエンジン部品が使えるかもしれません.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2)
【質問】
自動車連隊って何ですか?
【回答】
自動車連隊とは,関東軍自動車隊を昭和11年に改変して自動車第一連隊を編成したのが始まりで,六個の連隊が編成されましたが,16年の関特演でこれらは独立自動車大隊に改変されました.
同様に中国戦線でも兵站自動車中隊を改変して19個の自動車連隊が編成されました.
その編成は自動車4個中隊と材料廠からなり,傘下には連隊長以下人員700名,自動車300両を装備しました.
(名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)
【質問】
日本フォードの工場は,戦時中はどうなったの?
【回答】
1941年12月8日,日米開戦となり,日本フォードの神奈川区守屋町工場は接収され,陸軍収用財産となります.
その建物,機械は,陸軍兵器本部,相模原造兵廠,東京補給廠,満州自動車会社,三和自動車,ディーゼル自動車工業に譲渡され,組立機器類は日産自動車の従業員の手で取り外され,解体されて満州自動車安東工場に移設された.
戦後,その機械類は,ソ連軍に接収され,梱包後,ソ連に持ち去られたとか.
守屋町の工場跡地のほうは戦後,進駐軍の倉庫として用いられた.
1974年,フォードが日本に再進出する際に再び納車前点検用の倉庫として用いられ,今は東洋工業の研究所が建設されている.
この時代の日本GMの大阪にあった工場は,関西の近代建築を良く手がけたヴォーリスが設計し,日本フォードの神奈川の工場は,同じく関東の近代建築を良く手がけたA.レーモンドが設計している.
ちなみに,A.レーモンドという人は,日本軍部の支配に幻滅し,帰国するのだが,帰国後,米陸軍航空隊の依頼で,日本の木造家屋の集落の模型,状況を提供し,これが「紙と木の家」を効率よく燃やすための焼夷弾実験に供され,日本空襲の基礎資料となった.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi
【質問】
戦時中の中国の自動車工業について教えてください.
【回答】
中国の自動車製作,その量産の歴史は日本と大して変わらなくて,1927年に瀋陽兵工廠で米国から技術者を招聘して,国内から自動車修理経験者を300名余を動員し,米国製Internationalをモデルに,中国に適応させたものを設計し,1930年,まず75型『民生』トラックが完成します.
これは,エンジン,タイヤ,ボールベアリング,電装品を除く部分はほぼ全て国産品で賄われたもので,積載量1.8tで,64km/hをマークしたものでした.
次いで,100型『民生』が誕生します.
こちらは,積載量2.8tに増加しましたが,速度は48km/hに低下しました.
しかし,満州事変によりこの工場は接収され,自動車工業,東京瓦斯電気工業,三菱造船,戸畑鋳物の出資により設立された,同和自動車工業の組立工場となり,いすゞのノックダウン組立をしていた訳で(ちなみに,大豆を輸送する為に南満州鉄道はChevroletを欲していたが,これを押しつけられた).
その後,満州重工業の傘下企業として満州自動車製造が設立され,同和自動車工業はこれに吸収,ちなみに,安東工場には,前にも書いた,日本フォードの組立ライン一式が設置されています.
ただ,折角の設備を整えたものの,いすゞ,日産80型の国産車のノックダウン生産は遅々として進まず(国産車そのものが台数少ないのに,部品を供給できる訳がない),その業務の殆どは,関東軍や民間で使われていたFord,Chevroletなどのトラックの再生作業のみ行っていたそうです.
さて,日本に瀋陽の工場を奪われた中国ですが,山西省大原兵工廠では,1933年に国産4気筒エンジンを搭載したトラックが試作されます.
これは,タイヤ,電装品,計器,ボールベアリング以外は国産で,積載量2t,速度30km/hの性能でした.
また,1936年には湖南省機械廠で,Dodgeのエンジンをコピーして2台のトラックを作りましたが,これらは中央の支援を受けることなく,消滅しています.
一方,国家的プロジェクトとして,同じ1936年に中国汽車製造公司が設立されました.
これにはDaimler-Benzが技術協力を行い,ドイツ人技術者の下,ディーゼルトラックを年間1,000台ノックダウン生産すべく,湖南省株州工場を1937年に建設開始し,同年,バス工場として,上海工場を建設する予定になっていました.
しかし,日中戦争の激化で,工場は広西省桂林,四川省重慶へと移転.
この間,少数のDaimler-Benz(中国名『飛鵬』)トラックが組み立てられたに留まりました.
ちなみに,この当時,中国全土の自動車保有台数は68,917台.
このほかの動きとして,中央資源委員会が1939〜40年に米国から技術,設備一式を導入し,雲南省昆明中央機器廠分工場で,トラックを生産する予定でしたが,設備はベトナム近辺で,日本軍の攻撃を受けて失われ,図面や資料類は洞窟に隠したものの,回収する術が無く,1950年に掘出したときは,変質して使い物にならなくなっていたとか.
やがて,戦争が終わると,満州の設備は全部ソ連に持ち去られ,1946年に天津汽車配件廠で,日本のオート三輪の部品を製造していた経験を生かして,3輪トラック『飛鷹』を10台試作します.
ただ,年産100台の予定が,戦後のインフレ,資金難で,計画は頓挫して,国産車製造の試みは,革命まで待たなければなりませんでした.
その代わりに流行ったのが,戦後の日本でもあった,トラックをバスに改造する事業で,Dodge
T234改造のバスは,1950年代の北京で大活躍したそうです.
また,乗用車をダブルキャブの客貨両用ピックアップに改造することも流行ったらしく.
そうこうしているうちに,蒋介石は敗れ,毛沢東の時代になっていくわけで.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi
◆◆◆◆戦車関連
【質問】
なぜ対戦車戦で連合軍戦車に対抗可能な戦車を日本軍は開発できなかったのか?
【回答】
設計思想の違いに起因する,と山田朗は説明する.
日本の戦車にも,歩兵中心・白兵主義の戦術思想が色濃く反映していたので,車体は軽量,列車輸送が可能で,あくまでも人員殺傷と敵側の機関銃座破壊を目的として,低初速・短砲身の榴弾砲(ただし携行砲弾数が多い)を主砲とした.
これに対して欧米の戦車は,1930年代半ば以降,重装甲化を進めると共に,初速の速い長砲身カノン砲を搭載し,対戦車戦で勝利することを第一に設計されるようになった.
(「軍備拡張の近代史」,吉川弘文館,1997/6/1,p.177,抜粋要約)
また,重量上の制約もあったようだ.
http://combat1.cool.ne.jp/1SHIKI.htm
によれば,戦車の重量が13tを超えると,それを吊り上げるクレーンを持つ輸送船は8,000t級以上に限られ,南方輸送には制約が出た,という.
しかし,17t未満であれば,九九式三舟重門で水上輸送ができた.
ちうわけで,性能の良い(=重い)戦車を作っても,はたして満足に輸送できたかどうか……
ちなみに,当時のアメリカの主力戦車,M4シャーマンが約30トン.
我らがチハタンの重量は約14トン
(極東の名無し三等兵 in FAQ BBS)
国力の問題も当然あるだろうが.
【質問】
旧日本陸軍はロシア・ソ連が仮想敵国だったはずなのに,なんであんなに戦車がしょぼいんですか?
代わりに対戦車砲が充実していたんですか?
【回答】
当時,戦車に戦車を当てるのは「愚作」とどこの国でもされてました.
WW2が始まるまでは,戦車の仕事は歩兵の支援である,とされていました.
もちろん,歩兵の支援も現在に至るまで戦車の重要な仕事ですが,当時はそれ「だけ」でよいとされていました.
武装,装甲,機動力,いずれもその前提で作られており,砲は初速の遅い短砲身でしたから,装甲を貫通させる目的には適していませんでした.
(でも,先見の明のあったいくつかの国は,戦車に長砲身砲を搭載しています.ソ連もその国の一つ)
また,戦車の部隊運用法も,その方針に則って,少数ずつの分散配置が普通だったため,戦車同士が遭遇する確率は低いと見なされていました.
ノモンハンの影響なんかでT-34とか作られましたが,本格的に対戦車戦闘を考慮して作られた戦車はティーガーが最初じゃないかな?
で,対戦車砲ですが,こちらもノモンハンで37ミリが通用しなかったため,1式47ミリ速射砲が作られてます.
こいつはBTシリーズが一応仮想敵だったんで,更に装甲の厚いM4なんかには通用せず,最終的に有効な対戦車砲は作られませんでした.
【質問】
偉い人は,戦車やら航空機やらが,歩兵をサポートしている戦車を攻撃する,なんて思いつかなかったの? それともなんか別の理由もあるの?
【回答】
わざわざ戦車に戦車をぶつけなくとも,対戦車ライフル等で十分対処出来たからそんな事を考える必要も無かった
当時は
「戦車の任務は歩兵支援,対戦車戦闘は対戦車砲の仕事」
という考え方が一般的だった様だ.
要するに,塹壕戦に於ける攻防を軸にした考え方しかしてなかったの.戦車のそもそもの開発目的からして「塹壕突破戦時の歩兵支援」だったし,
特にフランスでは,WWIの後半を歩兵と戦車の共同攻撃を用いて勝利したため,そのドクトリンに嵌ってしまった
「何故考え付かなかったのか」
と言われても,当時は,戦車の集中使用を考えた人の方が異端だったし.
軍事に限らず,大規模な組織においては,トップがよほど強力なリーダーシップを発揮するとか,よほど手痛い打撃を受けるとかしない限り,従来の方向性を変更できるものじゃない.
で,ソ連や独といった一部の国の中には,それを見越して対戦車戦闘に適応した戦車の開発にいち早く着手してます.
兵器や戦術は戦訓によって進歩してゆくもので,最初から今の形態や戦術があった訳ではないのです.
【質問】
WW2当時の日本では,チハたんクラスの戦車でもごく一部の艦でしか輸送できなかったのでしょうか?
【回答】
「一部の艦」という定義が微妙なのだけれども…
荷積み,荷卸する港が整備されていて,大型クレーンが設置されていれば問題ない(広島,大連など)
設備や港が無い場合,
1,戦車輸送専用船舶による輸送(神州丸等のシリーズ
2,戦車を昇降させる能力を持った輸送船(現地で輸送船から艀等に移して揚陸
となり,輸送用船舶に激しく制限が出ます.
じつはここら辺は欧米も一緒で,設備のある港間の輸送はスムーズですし,まともに設備の無いところでは苦労しています.
まあ専用船を大量生産して対応してますが,ガ島戦時には米軍も艀をつかったりしてます.
【質問】
別に艦船や航空機の予算削らんでも,M-4やT-34に対抗可能な戦車は製造可能だったぞ.
92式あたりをカーゼマット式に装備した40tクラスの車体に,五式中戦車でしたように古い航空機用エンジンを積んだものなら,技術的に問題なく製造できたし.
---------------------------------------------------
これってほんと?
【回答】
ただデカイだけなら,某大佐の独断で,「オイ車」と呼ばれる100トンの戦車を試作している.
ただし構造的には,89式戦車をただでかくしただけの代物.とても実用に耐えられるものではなく,真っ直ぐ動く事にも苦労して,結局,写真の一枚も残さずに解体されている.
ちなみに,日本軍戦車のシーソー式サスペンションは重い戦車には向いておらず,実はチト車,チリ車の重量を支えるには結構無理がある.
また,仮に純技術的に可能だったとしても,それを可能にするための軍組織の相互協力,資材の融通,戦術/戦略思想の変更・・・といった”技術面以外の”問題を考えると,多分絶対に不可能.
さらに日本陸軍は,戦車の重量限界を性能ではなく輸送船のクレーンの能力から逆算したので,40tクラスの戦闘車両なんて絶対に作ろうとしなかっただろう.
本土決戦で追い詰められるまでは.
で,本土決戦用の戦車を設計/生産するような時期になった頃には,そんなもん作ってる暇も生産力も資源もなくなってた筈.
【質問】
日本陸軍における自走砲と砲戦車の違いが分かりません.
【回答】
砲戦車 中戦車,支援の為の強力な砲を持った車両
自走砲 砲兵の自走化
一式砲戦車については,オープン・トップという見かけに騙されないように.
あれ実は戦闘室前面の装甲厚だけ見れば,一式戦車や三式戦車と変わらないのです.明らかに自走砲より,積極的に前に出ていく性質の物と言えます.
ただし,M3軽戦車あたりとの対決を想定した「前へ出ていく」です.
実戦はM4中戦車とやる羽目になったので,待ち伏せになったんですが.
二式砲戦車は屋根(と砲塔)付き自走砲なんですが,形態からか戦車の設計科に設計させたので,砲戦車に分類したと言われています.
しかも後に,戦車戦用の弾種も用意するつもりだったとか.
昭和14年頃の「国軍戦車の体系」にも,砲戦車の構想として
「特に攻撃力を強大にし中戦車の為に敵対戦車砲の制圧並び対戦車戦闘に任ず」
とあります.
昭和18年になると
「その強火力,強装甲を以て対重戦車火力戦の中核となるものにして(略)」
となっています.
学研の歴史群像太平洋戦争シリーズ34 「戦車と砲戦車」に,この辺りが詳しく載っています.
試製5式47mm自走砲「ホル」

【質問】
日本陸軍では自走砲って砲戦車って呼んでたの?
なら対空自走砲って対空砲戦車になるの?
【回答】
対空自走砲は普通に「対空自走砲」と呼んでいた.
略称は”ソキ(双(ソウ)連機関(キ)砲)”とか”タキ(単(タン)装機関(キ)砲)”とか.
そもそも,「砲戦車」って言い方自体が,砲兵科と機甲科の縄張り争いから出たものなので,砲兵科しか装備しなかったであろう対空自走砲に,「砲戦車」の名はつかないであろう.
【質問】
日本陸軍の戦車は,どこの工場で作っていたのですか?
【回答】
第一次大戦で活躍した戦車は,以後陸軍内でも研究を行っていましたが,宇垣軍縮の結果,量より質を重視せざるを得なくなり,戦車に注目が集まります.
そこで,久留米に戦車第一聯隊が創設されますが,当初,装備戦車は外国製を輸入して充当することにしました.
しかし,英国のMk.I中戦車は英国陸軍に供給するのに手一杯で輸出に回す余裕が無く,フランスは新車が開発されていない状況でしたので,陸軍は輸入を諦め,教育機材としての輸入に止めます.
こうして,戦車を国産化する方針が固められ,1927年に国産第一号線車を試作し,(当時としては)最先端を行く戦車が製造できることが確認でき,それを軽量化した戦車を1929年に試作します.
これが八九式軽戦車になっていく訳ですが,一方でサンプルとしてRenault
NCやら,Vickers Mk.Cなどの外国製戦車が少数輸入されました.
このうち,Vickers Mk.Cは輸入後の予備試験で火災を起こします.
この焼損した車体を持ち込んだのが,三菱航空機芝浦分工場でした.
この芝浦分工場は,1918年に三菱が自動車生産を志した時に,その販売会社である大手商会の整備工場として設けたもので,1922年,三菱の自動車生産撤退に伴い,大手商会が解散する時に閉鎖する予定だったそうです.
ところが,所沢飛行場に近い三菱の工場は此処しか無く,ここを保持するのは将来的に何か役に立つだろうとの判断から,三菱内燃機の名古屋製作所芝浦分工場として存続されました.
意外なことに,当時,東京府内には三菱内燃機,三菱造船,三菱電機などの三菱財閥の重工業部門は此処以外に工場を持っていなかったり.
内燃機移管後は,売残りの三菱A型を販売していましたが,1923年の関東大震災で,焼け残った工場で多数の自動車の修理を行い,その実績を背景に,東京市から撒水車やダンプの制作を依頼され,1925年には陸軍から航空機用起動車,通信車,補給車などを受注し,車両工場としての態を為していくようになります.
さて,Vickers Mk.Cが工場に持ち込まれると,その修理に三ヶ月を掛けますが,兎も角もこれを成し遂げ,その実績を見た陸軍は,戦車の製作を三菱内燃機に行わせることを内示します.
三菱の中でも小さな小さな工場が,戦車生産の栄誉を担うことになったわけです.
が,この工場は如何にも手狭で,1929年に東京府荏原郡大井町に保有していた倉庫を戦車組立工場とすることにして,芝浦分工場は機械工場に使うことになります.
この倉庫群は,日本光学がワシントン条約によって海軍軍縮が行われた時に経営不振に陥った際,その救済策として三菱が買収したもので,其処にあった倉庫群の建物480坪を取り敢えず工場に改造しました.
1929年12月1日,三菱航空機(内燃機から社名変更)は,戦車工場として大井工場を正式に開設し,芝浦分工場を併せて,東京製作所となりました.
1930年1月に,八九式軽戦車7両を製作開始し,11月に最初の戦車がラインオフします.
とは言え,当初は発注数も微々たるもので,1931年度当初は6両,後に追加されて11両と言う状況だったり.
当時の陸海軍発注額は僅かに79万円程度.
ただ,これでも芝浦分工場への外部依存は結構不自由で,1931年9月に大井工場内に機械工場を設置,また,大井工場は東京製作所に格上げされ,芝浦分工場は東京製作所所属に変更されました.
ところが,満州事変勃発により戦車需要が急増したため,発注額は495万円に急増.
1932年に58両,翌年は67両と飛躍的なペースで生産が行われることとなり,工員は,「毎晩十時まで残業殆ど無休にて作業に努めた」が,それでも「現状を以てしては生産能力著しく不足」となり,拡張に次ぐ拡張を行います.
以後,東京製作所の拡張は敗戦まで留まるところを知らなかったりする訳です.
さて,時代は下って日中戦争勃発.
この時に,三菱重工業(三菱航空機と重工が合併)東京機器製作所に陸軍からチハ車300台の発注を受けます.
当時の三菱の生産能力は,1934年の161台が最高で,その内訳は,八九式中戦車甲が21輛,乙が3輛,そして残りが瓦斯電開発の九四式軽装甲車で,この委託生産でした.
1935年が八九式中戦車甲が3輛でこの年で打ち止め,乙が22輛,この年から九五式軽戦車が14輛生産開始,九四式軽装甲車13輛,1936年は八九式中戦車乙が8輛,九五式軽戦車52輛,九四式軽装甲車5輛にチハ車試作車が1輛という状態ですので,倍の生産数は既に東京機器製作所の能力を超えました.
其処で,陸軍のSuggestionもあり,自動車生産工場として建設しつつあった丸子工場を戦車生産工場に転用することになりました.
これは元々は,1918年に三菱A型の生産を志して一旦撤退したものの,三菱造船で細々と自動車の研究を進め,東京機器製作所では自動車用ディーゼルエンジンの開発を進めていたので,1936年に再度自動車事業に進出することとなり,1937年2月に497万円の予算で年産3000台の丸子工場の建設を始め,完成後は三菱車を満州を中心に売っていこうとしたものです.
時代の流れで結局は丸子工場を戦車の生産工場とし,東京機器製作所全体で,チハ車月産40輛を目標とします.
その後,丸子工場は独立して玉川機器製作所となりますが,当初はエンジン生産工場として稼働を始め,九七式中戦車用エンジン月産40台を目標としていました.
しかし,当初は月産5〜6台,1938年末の時点で,九七式中戦車用エンジン10台,九五式軽戦車用エンジン10台が月に製造されたに過ぎませんでした.
こんな状況でも,1938年には更に軍の増産要求は高まり,年産800輛が要求されます.
そして,折角竣工した工場を1820万円の投資で,再拡張し,更に九七式中戦車用防弾鋼鈑の生産を行っていた長崎製鋼所も,92万円の予算を計上して生産設備の拡張を実施しています.
こうして,1937年に九五式軽戦車45輛,九四式軽装甲車25輛の生産だったのが,1938年には九五式軽戦車20輛,九七式中戦車96輛,九四式軽装甲車10輛.
拡張工事が進んだ1939年には九五式軽戦車70輛,九七式中戦車は127輛.
1940年には拡張工事が完了して九五式軽戦車は一気に212輛,九七式中戦車も168輛が生産され,一式中戦車2輛の試作も開始されています.
とは言え,陸軍が要求した九七式中戦車年産800輛はとてもクリア出来る目標ではなく,九五式軽戦車を含めても半分程度に留まっているのが国力の限界と言うことになるのでしょう.
ちなみに,1939年には玉川機器製作所が東京機器製作所となります.つまり,従来の大井工場が新しい丸子工場に吸収された形です.
1940年3月に丸子工場の拡張が完了した時点では,車体工場は5500坪に及ぶものとなり,当初エンジン生産だけだった丸子工場で車体組立までの一貫生産が行われることとなり,大井工場から順次生産の中心を移していくことになります.
さて,時代は太平洋戦争に突入するのですが,1941年12月16日に三菱重工業は陸海軍示達に基づき,東京機器製作所の拡張計画を決定します.
この時の予算額は3205万6540円.
但し,うち1350万円が陸軍兵器行政本部分,781万円は海軍艦政本部,1074万円が航空本部と,凡そ戦車生産とは関わりのない部署からの発注も受けています.
これは芝浦分工場の時代から,三菱重工では爆弾投下機を作っており,1941年には大型,小型の爆弾投下器を年300〜400個,他に250kg擬爆弾,爆管式投下器,煙幕展張器,中爆弾運搬車,魚雷兼爆弾運搬車,九九式爆弾運搬車なども生産しており,航空本部からの示達はこの生産拡大の根拠となりました.
海軍艦政本部については,小型艦艇用高速ディーゼル機関の開発と生産で,これまた,当初は大井工場で生産していましたが,大井工場に戦車生産を集中させると言うことで,川崎工場に設備を移転します.
川崎工場は元々大井工場に鋳鍛設備が無かったため,その鋳鍛素材を内製するために計画したもので,他に,大井工場で出来なかった自動車生産を此処で行おうとしていました.
川崎工場は,1941年9月より東京製作所川崎工作部として操業を開始し,製造能力の70%は自動車,残りをディーゼル機関生産に割いていましたが,これまた比率が逆転させられ,大型自動車20%,ディーゼル機関70%以上とされてしまいました.
この間,戦車生産設備の拡張はありませんが,1941年には九五式軽戦車340輛,九七式中戦車278輛,1942年に九五式軽戦車410輛,九七式中戦車450輛とピークを迎えています.
このほかに,1942年に二式砲戦車試作車1輛,1944年に30輛が生産され,四式砲戦車を13輛,一式中戦車が1941〜45年まで585輛などが生産されています.
また,1944〜45年の間に三式中戦車60輛,1944〜45年に四式中戦車2〜6輛,海軍向特二式内火艇が1942〜45年に184輛,特三式内火艇が1944〜45年に19輛,特四式内火艇が同じく50輛などとなっていますが,ぶっちゃけ,生産数の推移が判る資料は無かったりするので,他にもいくらかの戦車が生産されている可能性があります.
このほか,九五式装甲軌道車56輛,装甲作業器119輛,工兵用車両11輛,湿地車146輛と,九七式中戦車用機関490基などを生産しています.
ちなみに,これら戦車と装甲車両の三菱のシェアは,概ね3分の1を占めており,二位の日野重工業の倍でした.
以下,久保田鉄工所,日立製作所亀有工場,羽田精機,新潟鉄工所浦賀工場,池貝自動車,相模造兵廠となっています.
しかし,対戦車戦闘で非常に日本が苦しんだと言うのに,太平洋戦争中,戦車生産に対する投資額が非常に低いのは,1943年に対米戦研究が行われた折,ソ連との戦争が無くなったと陸軍が判断したこと,装甲車輌が南方の島々では大規模使用が出来ないと陸軍が信じたことであり,以後,量から質へと方向転換していったことが米戦略爆撃調査団の分析で明らかになっています.
ちなみに,戦車と無限軌道車のシェアは
三菱重工業東京機器製作所は1941〜45年で32〜35%,
日野重工業は1942〜45年で12〜19%,
久保田鉄工所が1941〜45年で10%前後,
羽田精機(何を作っていたのか不明)7〜8%,
新潟鐵工所浦賀工場が5%前後,
池貝自動車が1941〜43年が6%前後,1944〜45年に3%前後,
相模造兵廠が1941〜42年で3%弱,1943〜45年が5〜14%
となっています.
眠い人◆gQikaJHtf2 in mixi
装甲作業機SS器戌型

【質問】
戦時中の日本戦車の信頼性は?
【回答】
低いものでした.
特に,戦前はスウェーデンSKS製のベアリングやアメリカから輸入したプレス加工クランクシャフトを使っていたのに対し,戦中は国産の品質の悪いモノしか使え無かったので,信頼性は航空機以上に大幅に低下
しています.
これが問題になってないのは,単に戦車部隊が前線で使われる機会そのものが激減していたからに過ぎません.
恐らく同環境であれば,日本戦車も同じ運命を辿ったことはほぼ間違いありません.
【質問】
日本戦車の搭載砲は,なぜ威力が弱かったのか?
【回答】
砲の性能はともかく,徹甲弾は「日本製は弱い」が定説になっちゃってます.
欧州じゃ常識のAPCですら,日本は実用化出来ませんでしたので.
陸軍の場合は,技術が無いってよりは研究不足な気がしますが,単純に口径や初速だけで欧米の戦車砲の威力と比較出来ないのも事実な気がします.
ただ,陸軍を弁護すると,タングステンのような対戦車専用砲弾に使われるレアメタルを,日本では工作機械以外に使うことなど考えられなかった点があります.
とはいえ,T26にも歯が立たない九四式速射砲を見ると,やっぱり研究が足り無すぎと言う気がしますが.
ノモンハンで,我が方の傾斜装甲がソ連の対戦車砲に対して効果が無い割に,逆にこっちは速射砲では少しでも命中角度が付くと簡単に弾かれるって話がありました.
これは,ソ連の対戦車砲弾はAPC(被帽付き徹甲
弾)だから滑らないんですが(日本側はHE-AP),これ実戦で痛い目に
あったにも関わらず,ずっと後のM3/M4ショックでも全く改善されてないんですから,純粋に資源や技術的な問題より日本陸軍の体質的な問題と言わざる得ないと思います.
(APCの構造なんて知る機会はいくらでもあったのに)
鹵獲したM3に対する射撃実験も有名です.
57mm短身砲で試射したところ,距離300m程度では砲弾の方が粉々になり,側面から数十発打ち込んで
ようやく装甲板が(貫通ではなく)割れたというのはかなり悲惨です.
※
しかも衝撃的なのは,ノモンハンで鹵獲したBT7に対する実験が,全くこれと同じ結果だったにも関わらず,何ら対策が採られていなかった事です.
ただ,陸軍の機甲にしろ対戦車火力にしろ,その充実を阻んだ一番の原因は
「金(予算)がない,無い袖は振れない」
って事情もあるんですが.
また,組織論的に見ると そもそも帝国陸軍のような極度のトップダウン型組織では,下からの意見や要求は上に届きません.
そのことにより,正確なフィードバックが得られないため,戦況に会わせた対応が出来ない.
そのため,M4がフィードバックによって着実に強くなっている一方,いくら要望があっても日本の戦車は強くならなかった.
そして上層部の失態の代償は,末端の駒に玉砕や特攻をさせることで払われます
64式小銃などは明らかな欠陥が改善されないように,残念ながらこのような組織構造は自衛隊にも受け継がれています.
現場からのフィードバックが,兵器開発や生産現場のかなりの分野できちん反映されて運用される点ではアメリカはさすがなんですよ.
もう,これだけで勝てないと思う私です.
いまだに
「日本はアメリカの物量に敗れた」
って人がいますが,私は間違いと思います.
「質と量の両面で完敗した」
と思います.
でも,こう書くと「自虐史観」って怒られるのよね…….
※ちなみに,17年4月のパターン攻略から,47mm戦車砲がデビュー.
高速徹甲弾で1000メートルで50ミリの装甲が貫徹できたので,士気が上がったそうです.
チハ車・「ティーガー」砲塔搭載型

【質問】
日本陸軍の徹甲弾の威力が低い原因を教えてください.
【回答】
日本の冶金技術が低かったから.
それと,徹甲弾の威力とは「弾速×弾頭重量」.
しかし,日本陸軍は技術開発陣に無茶な要求をしたため,開発側はカタログ・データの数値を欧米の数値並にする必要に迫られた.どうやっても陸軍の開発仕様じゃ欧米並の弾速は出せないのに,数値が劣っていると怒られる.
なので結局,弾頭重量を軽くして速度を稼いだ.
結果,冶金技術が低いので装甲に硬度負けしてしまい,弾頭重量が軽いので重量破壊力も低くなる.
もっと根本的に,日本戦車はみんな砲身長が短いので,というのがまずあるが.
砲身長が短いってのも,半分以上は冶金の未熟さ故.
材料が拙いから長砲身が造れない.造れたとしても金がかかる.
肉厚になって重量が嵩み,搭載や運用に支障を来す.
もっとも,短砲身ではない砲でも酷いけど.
試製5,7cm長加農 57口径 870m/s 1000mで65mm/0°
三式7,5cm戦車砲 38口径 680m/s 1000mで65mm/0°
五式7,5cm戦車砲 56口径 850m/s 1000mで75mm/0°
九二式10cm加農砲 45口径 765m/s 1000mで100mm/0°
試製10cm戦車砲 55口径 900m/s 1000mで150mm/0°
軍事板
さらに,材料の問題もあります.
特殊鋼,特に,ニッケル系やマンガン系の材料不足と,金属回収で回収した金属粉を混合した事による脆さが出ているので,戦争が進展する程,問題が発生したのではないかと思います.
ちなみに,同じような初速(47mmは810m/sec)の砲で,例えば
英国の2ポンド砲は初速850m/sec,射距離1,000mで装甲貫徹力42mm(47mmは同じ距離で30mm),
米軍の37mm砲は,初速775m/sec,射距離1,000mで装甲貫徹力60mm
になります.
一つ上のクラス,
英軍の6ポンド砲では,初速786m/secですが,射距離1,000mで46mm,
米国の75mm砲では,初速700m/secですが,射距離1,000mで69mm
になっていますね.
眠い人 ◆gQikaJHtf2
【質問】
帝国陸軍の戦車砲・対戦車砲の徹甲弾は各国では標準の被帽がないため,傾斜した装甲でたやすくはじかれたとの話を聞きますが,海軍の技術を移転すれば解決できたんじゃないんですか?
【回答】
海軍系の技術は,あまり役に立たないかと.
以下は「続・海軍製鋼技術物語」に記載されている,元海軍技術者のコメント.
ただし被帽が有効なのは,表面硬化甲鈑に対して自身の断裂速度を超えた速度で衝突した場合であって,それより遅い速度で表面硬化甲鈑にぶつかったり,均質甲鈑に対した場合には弱い.
ただ撃角が大きいときに被帽があれば,均質甲鈑に対して弾丸の反跳を減らせるかも知れないが,その目的ならばむしろ中口径弾のように弾体の頭部を平らにする方が効果的であろう.
【質問】
旧日本軍の戦車の砲塔内には,何発の弾薬を積めますか?
というより,床下に収納するすぐに発射することのできない弾と,砲手の手の届くところに置かれていて,すぐに砲に装てんできる弾は,それぞれ何発ですか?
【回答】
八九式戦車の資料しか手元にありませんが,八九式乙型の場合は,8発入り弾薬箱が5段車体内に装備されており,これに加えて,即応予備として4発砲弾架に掛かっています.
つまり,44発が車体内に置いてありました.
なお,甲型では50発入り弾薬箱が2つ車体内にあり,これらが車長,砲手の腰掛けを兼ねていました.
砲側には,右側面に4発,左側面に2発の57mm砲弾架があります.
九七式中戦車の資料は,カッタウェイしか無いので,しかとは言いかねますが,砲塔前部に4発の弾薬架があり,砲塔後部にも,5発分の弾薬架がありました.
また,車体内部には57mm砲の弾薬箱が最大3箱あった様です.
1箱20発入りとして40発,即応用として10発程度あったのではないでしょうか.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2)
【質問】
旧日本軍の戦車は走行しながら主砲を撃てた,というのは本当でしょうか?
【回答】
本当.「行進射」と言って,日本陸軍の戦車による通常の射撃方法です.
砲手と操縦手が連携して,発射の際にわずかに速度を落として射撃を行います.
当然命中率や発射速度は低下し,五七ミリ砲では
*一分間の発射速度:1〜2発(停止時:5〜12発)
*500メートルでの命中公算:17パーセント(同:65パーセント)
になりました.
したがって実際には,戦車小隊(四輌)で行進と停止を併用して射撃を行います.
名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE
【質問】
陸軍の戦車用防弾鋼鈑は,どこの工場で作られていたのですか?
【回答】
これは初期に呉海軍工廠からお裾分け,その後,陸軍用の三菱,東京鋼材が加わっておりやす.
第一次大戦時,欧州からの物資途絶,船舶量払底の状況で,鋼材価格は高騰し,三菱造船は鋼材の支払いに四苦八苦しておりました.
何しろ,銚子にあった某私鉄では,レールの敷設が終わったものの,第一次大戦勃発後に全部それを撤去して売却し,出資者が巨万の富を得たと言う話もあったりするわけで.
で,三菱は二つの製鋼事業を手がけます.
一つは朝鮮での鉄鉱山を買収したことを契機に,その鉄鉱を用いて黄海道兼二浦に銑鋼一貫製鉄所を建設し,これを三菱製鉄として独立させたもの.
もう一つは,三菱造船が長崎に製鋼工場を建設し,自前で鋼材を供給しようとしたものです.
ところが,両者とも当初は目論見通りの利益を上げますが,直ぐに第一次大戦が終結して鉄鋼材需要が急縮,その上,安いインド銑鉄が輸入され,それに追い打ちを掛け,最後に願っていた八八艦隊は消滅した為,長崎製鋼所は閉鎖,三菱製鉄は鋼材生産設備を閉鎖して,銑鉄工場として生残りを図ることになります.
しかし,三菱の鉄鋼部門進出の志は衰えず,1926年に当時苦境に喘いでいた東京鋼材を参加に納め,三菱製鉄の子会社としてそのノウハウを継承し,また,長崎製鋼所は長崎造船所付属電気製鋼工場としてその活動を再開します.
但し,三菱製鉄そのものは,1934年の日本製鉄設立時に現物出資して製鉄所を手放し,1935年には事業一切を三菱鉱業に譲渡して解散してしまいます.
この停滞から抜けたのが1933年.
海軍の増強として第二次補充計画が策定され,長崎造船所では巡洋艦2隻と潜水艦の発注が為され,それに付随して電気製鋼工場を拡充し,次に圧延工場を建設し,鋳鋼工場を建設するなどの拡充を繰返していきます.
こうして,長崎造船所付属工場から,全三菱の共通材料工場としての位置付けから,再び長崎製鋼所として独立した単位となります.
一方の東京鋼材は,親会社が解散した後,三菱合資でその扱いが長らく検討され,やっと三菱鉱業の子会社となっていく訳で,その後こちらも,1933年以後に活況を呈し始めます.
こちらの製品は主に,窓枠と扉だったりするのですが,1935年以降はそれが縮小され,銅を主成分とするアームズブロンズの生産が行われています.
アームズブロンズは,アームズという名前が付いていることからも判るように,兵器用特殊鋼で,長崎兵器製作所で生産されていた魚雷に用いられていました.
長崎製鋼所では,従来は鍛造品,鍛冶製品,鋼鈑類が主だったのですが,1937年以降,特に1938年以後はBK板,鋼棒類や分塊品の生産が主力となっていきます.
BK板と言うのは,戦車用防弾鋼鈑で,1937年に495tだったのが,38年2038t,39年2845t,40年4109t,41年4092t,42年1〜9月で3174tと増大しています.
鋼棒類というのは,海軍航空廠から発注された航空機用の特殊鋼棒です.
但し,こうした需要の激増にスクラップ類など原料供給が隘路となり,生産が伸びなかったために,各地に適地を求めます.
こうして,再び朝鮮半島の平壌近辺,平安南道江西郡降仙里付近に一貫工場を建設することとなりました.
これは,鴨緑江水力発電所による膨大で低廉な電力,朝鮮半島北部の安価な鉄鉱資源を組み合わせることが出来たからです.
この工場建設の用地買収と工場建設には三菱地所が,物資の買付に三菱商事京城支店と,三菱財閥総出の投資となっています.
三菱重工長崎製鋼所と共に,三菱の鉄鋼生産の主力となっていた東京鋼材ですが,1940年に深川工場建設のため増資を繰返しますが,それに先立ち,同社は三菱鉱業子会社から合資直轄の分系会社となりました.(ちなみに,この時に三菱石油と日本化成工業も分系会社となっている)
これと同時に,東京鋼材は三菱鋼材と社名が変更され,三菱の製鋼事業への再進出が明確化された上,設備規模は1940年の1.6〜1.7倍に達しました.
しかし,生産量は変ってなかったり.
これは,原材料の入手難と労働力需給の悪化で,設備はあっても原料と人の問題から増産が出来ないと言う訳.
深川工場は,海軍向け航空機用棒鋼800t/月と航空機用気筒4000個/月と言う需要に対応する必要があったのですが,東京鋼材の広田工場では地形的に拡張出来ず,本社工場も拡張の余地がなかった為もあり,新たに建設されることにななりました.
ところが,資材の手当が全く為されない所に物価騰貴があって,建設が進まず,1941年8月にやっと部分生産に漕ぎ着けます.
しかし,原材料不足は否めない状態だったりします.
ただ,グループ内を見渡せば,重工が平壌で原料生産を行っており,鉱業も朝鮮の清津に茂山の鉄鉱石を精錬する精錬所を設け,年産15万tの製鋼を開始しており,台湾でも製鉄事業を計画していました.
経営資源的には,投資の重複を避ける為にも,先ずは製鋼会社を新設して長崎製鋼所を引き継いだ後,三菱鋼材と吸収し,ゆくゆくは三菱鉱業の製鋼事業も統合する予定で,まずは前二者の事業統合を行い,1942年8月末に三菱製鋼を設立します.
三菱製鋼は,先ず重工から長崎製鋼所と建設中の平壌工場を譲渡され,朝鮮の弘中商工から仁川の富平工場を買収し,11月に三菱鋼材を吸収します.
ちなみに,弘中商工の富平工場は,鋳鋼,鋳鉄作業から鉱山機械,車輌製作に及ぶ総合工場であり,三菱製鋼は陸軍用特殊鋼材加工と平壌工場の機械生産工場とする予定でした.
平壌工場は1943年秋に漸く完成し,年間に陸軍航空本部と兵器行政本部向けに各1000t,海軍艦政本部と鉄道省に各2000tの分塊圧延鋼片を供給することを目標に操業を開始します.
更に平壌工場は拡張され,その終了時には,鋼塊8.5万t,鋳鋼品2000tを生産し,これを使用して鍛鋼1.2万t,圧延材1.8万t,バネ素材6000t,線材3000t,特殊鋼鋼片1万tを生産する予定でした.
これに加え,第二次増強計画で,還元鉄4.5万t,合金鉄1000tが生産追加されます.
これは,船舶用各種鋼材増産の為だったりする訳で.
一方,深川製鋼所では,1941年12月に早くも,海軍航空本部から気筒6500個/月,鋼棒1500個/月の増産命令が出されますが,資材不足で二次に渡る拡張工事の進展が遅れ,結果的にこの数字を超したことは無かったり…
ちなみに,更に三次計画が海軍から命令されたりしますが,海軍自体その工場拡張に対する資材の割当が出来ず立ち消え(ぉぃ.
鋼塊生産の広田工場は鋼塊を年産14989tとし,更に1943年には年産16442tが生産されることになり,広田工場は広田製鋼所として独立しました.
また,更に非鉄金属工業所が組織上独立します.
これは即ち,アームズブロンズ生産工場です.
これも航空機に不可欠の部品であり,東京製作所だけでなく,桶川に新工場を建設することになりました.
ところが,1944年以降の通商破壊で生産量はガタ減りとなり,特に非鉄金属工業所は生産が出来ない状態に陥り,工場そのものを三菱鉱業に再譲渡しています.
また,1945年には空襲で大阪発条工場が壊滅,深川製鋼所,東京製作所も大なり小なり被害を受け,更に欠勤率の急増で生産量は減っていき,1944年上期に前期比15%減少,同下期には上期に比べ更に25%減少しています.
追い打ちを掛けたのが,1945年8月9日の長崎への原爆投下で,これによって長崎製鋼所は壊滅して,最終的に海外資産の接収で総てを失いました.
ちなみに,戦車用BK鋼鈑の開発は陸軍の要請を受けて長崎電気製鋼工場が行い,また,生産も長崎が一手に行っており,陸軍戦車関係需要量の90%を此処で賄っていました.
BK鋼鈑は,年間3000〜4000tの生産量だったそうです.
統計としては1942年までしか無い(即ち,三菱製鋼以降のデータが無い)のですが,年産4000tとして,1944年上期は15%減だったら1700t,下期は1700tの25%減なので,1275tと年間で1000tマイナスとなります.
戦車にどれくらい鋼材が使われるのか寡聞にして存じませんが,其の分代替材が使われた可能性がありますね.
(ちなみに,1944年の中戦車生産量は294輛で前年比54%,軽戦車が48輛で同20%,自走砲だけが59輛と4.2倍ですから,中戦車と合わせれば,ちっとはマシですがそれでも減っています.)
なお,大同鋼板(今の大同特殊鋼)も一部生産していた様(日本の鉄兜は尼崎と愛知で生産しており,その辺の特殊鋼関連で,絡みがあったか)です.
ただ,三菱重工で生産した分は三菱やら東京鋼材から調達した分で,特二式内火艇用も同様なのは判っているのですが,日立とか日野で生産されたチハ車一統とか,瓦斯電のTK車なんかは不明です.後者は,大同鋼板辺りからの仕入れみたいなのですが….
日立は日立金属とか持っていたから其処で調達したかも知れないし,日野や瓦斯電(いすゞ)は,浅野繋がりで,日本鋼管から調達したような感じを受けますし.
眠い人◆gQikaJHtf2 in mixi
【質問】
旧日本軍の戦車は米戦車に比べてかなり装甲が薄かったそうですが,何故もっと装甲を厚く出来なかったのですか?
【回答】
満州の泥寧期や朝鮮半島を含む国内の道路事情を考え,重量を押さえていた.
また,港湾施設のクレーンの能力に限界が有った事と,輸送用船舶の床面強度に限界が有った事も,重量上の制約の一因と言われる.
それなのに,燃料事情から採用したディーゼルエンジンがソ連の物より著しく重い.
結果として,装甲が貧弱になった.
ただ,第二次世界大戦前までは日本軍の戦車の装甲は諸外国戦車や米戦車と大して変わりは無い.
大陸での本格的な戦車戦を経験しなかったのと,海に囲まれた国土と想定される戦場等から,限られた国力を航空機や艦船を作る事に突っ込んだ為,戦車は後回しにされた.
この辺りが教科書的?な回答だと思われる.
軍事板
http://www.luzinde.com/meisaku/tanks/chi-ha.html

【質問】
チニって?
【回答】
97式チハと制式を争った中戦車.
チハよりも小型,低速だったが,「安上がりで済む」と一時採用が決まりかけた.
結局性能向上の余地のあるチハを選んだのは,陸軍には珍しい卓見.
【質問】
97式中戦車の装甲に対する射撃試験で,ズルがあった,って本当?
【回答】
97式中戦車の要求仕様は,
・中距離(200m以上)において37mm対戦車砲の射撃に対抗できる事
で,この実験を自国製94式対戦車砲(貫通力低い)で行ない,結果
「200m以上の距離では貫通出来なかった」
という事で,車体前面の装甲厚が25mmの装甲板を採用する事になったそうです.
んでもって,後にノモンハンで捕獲したラインメタル製37mm対戦車砲を使って実験してみると,,,300m以上からでも楽々貫通.
でも既に生産に入っているから仕様変更は無しよん,てな話で.
これはドイツ製の砲の性能が伝々・・と書かれる事も多いのですが,実は両者の砲の初速はそんなに変わらないのです.
*Pak35 初速699m/s
*94式速射砲 初速648m/s
ただ,弾丸が,Pak35のAPに対して,94式の弾丸がAP-HEだった・・・ってオチがあるのですけど.
それで,国内試験の時は94式のAP-HE弾での射撃試験だった(^^;
【質問】
「チハたん」ってなんでつか??
なんか響きがカクイイ!!
【回答】
旧帝国陸軍の九七式中戦車.
中戦車の「チ」,その3番目の形式だから「ハ」で,「チハ」又は「チハ車」
(実際には開発順に「イ」から付けているわけではなく,途中で飛んだり前に戻ったりもしてますが)
「たん」は,一部の軍事板住民が萌えっぽく表現してるだけです.
【質問】
三浦半島の海岸に旧軍の戦車が転がっていたみたいです.
これってチハ車と呼ばれる戦車の残骸でしょうか?
ギシュクラ
【回答】
そそ,『三浦半島のチハ』として有名だったヤツです.
ベタ藤原 in mixi支隊

結局,あの「那須戦争博物館」に引き取られたそうな.……大丈夫なのかなあ?
【質問】
某掲示板で,米軍の基地で穴を掘ったら,作りかけの旧軍の戦車が出てきたというお話があったのですが,そのリンク先
http://www.usarj.army.mil/history/photo_depot.htm
の「タンケッテ」の正体はなんなのでしょうか??
ギシュクラ in mixi支隊,2006年06月03日
【回答】
多分九四式軽装甲車だと思いますよ.
模型写真ですが,
http://www1.odn.ne.jp/jinzoutengoku/zounoheya/tk/tk15.jpg
こんな感じでしょ,四枚目の写真.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi支隊,2006年06月03日
【質問】
旧軍の戦車って現地改造禁止って聞いたんですが,本当ですか?
【回答】
上田信センセの「日本戦車隊戦史 鉄獅子かく戦えり」(大日本絵画,2005年)に,そんな話が出て来ましたねェ.
ただ,精神面だけが強調されてますけど,兵器の現地改造は重量増等による故障の増加と,それに伴う整備や補給の負担などがありますので,上級部隊としてはあまり好ましくないもののようです.
(名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)
【質問】
旧日本軍の中戦車は
八九式イ号
九七式チハ
一式チヘ
三式チヌ
四式チト
五式チリ
ですが,チ=中戦車で,後はイロハ順に並ぶはずなのに
ロ,ニ,ホ,チ,
はどうなっているのでしょうか?
それから,三式チ「ヌ」がなぜ四式チ「ト」,五式チ「リ」の前に付いているのでしょうか?
【回答】
チニはチハ車との試作競合で敗れた,チハよりも軽量な中戦車.
チホは一式チヘに敗れた,47ミリ砲装備の試作戦車,試製98式戦車とも呼ばれる.
三式がチヌで,四式チトや五式チリよいも字が遅いのは,三式チヌ開発が始まったのが,その二つより遅いからです.
1944年始めの時点で,チト,チリの開発は始められていましたが,完成はまだ先のことだと言われていました.
そこで,急遽75ミリ砲を搭載する戦車を開発するため,とりえず九七式中戦車の車体に75ミリ砲を載せる戦車の開発が5月にスタートします.
これが後の三式中戦車となりました.
【質問】
ケニBの開発過程において,クリスティ式を採用するにあたり,参考にした鹵獲車両,あるいは輸入車輌はあったのでしょうか?
【回答】
ケニBの開発について,色々資料を当たってみましたが,決定的なものは出ませんでした.
但し,日本陸軍としては,1928年に装備戦車の導入,そして国産化に際して,Vickers6t戦車,RenaultNCなどと並んで,Christie戦車の評価をしています.
この時は,Christie側に量産工場が無いのと価格の問題のために見送りとなっていましたが,Christie懸架装置の何たるかについての情報は,日本にも入ってきたと思います.
また,仮想敵国であるソ連が,BTでChristie懸架装置を持った戦車を実用化しており,1935年に欧州に派遣された大島使節団一行にも,ソ連大使館付駐在武官からソ連装備についてのレクチャーがあったので,何らかの影響を与えた可能性があります.
更に,英国でも巡航戦車Mk.IIIでChristie懸架装置を装備していますし,後に米国でもこれを元にしたコンバットカーを作っていますので,その情報が英国大使館付駐在武官や米国大使館付駐在武官から入ったのかもしれません.
一番大きいのは,1928年の調査結果,次いで,1935年の欧州使節団の調査ではないか,と思います.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2)
【質問】
旧軍戦車では,リーフスプリングサスペンションがごく早い段階で廃れていますが,これは製造能力がなかった,って事なのでしょうか?
チヘのシーソー式コイル・サスペンション?は,チヌにして重量が増えた時,やたらと安定性が悪く,行進中は砲塔を後ろに向けて運転した,ということなのですが,チヌの後に来る車体にはリーフ・スプリング・サスペンションにして,これを回避すると言うわけには行かなかったのでしょうか?
4号は17tくらいから最後は26t近くまで太ってるのに,行軍中の不便,みたいなことは聞いたことがなかったので,あちらの方が拡張性,重量増への対応性は上のように思われます.
その辺はどうだったのでしょうか?
【回答】
シーソー式を採用したのは,当時の既存技術のサスよか優れていた(大重量には不向きだが)からシーソー式を採用したのであり,技術的問題でリーフ・スプリング・サスを止めたわけでなく,戦後,シーソー式はトーションバー以前では最良という評価もある.
(世辞が入っているかもしれないが)
そもそも,リーフ・スプリング・サスってのは安定性が高いため,支援戦車として開発された四号にとってはうってつけなものだったものの,高速走行,乗り心地と言う面では相当酷い物だ.
あと,砲塔を後ろにむけて行軍ってのも別に珍しい事じゃない.
(74式たんやJS2のトラベリングクランプの位置)
【質問】
一式中戦車の主砲は何ミリなんでしょうか?
また,その主砲でシャーマンは撃破できたのでしょうか?
【回答】
一式中戦車の主砲は47mmです.
(試作一号車は57mmですが)
Shamanを撃破する場合は,可成り目標に近づくか,後ろや側面を狙うしかありませんでした.
47mm砲の性能的には,直角に命中すれば500m離れた80mmの鋼板を撃ち抜くことが出来ます.
ただ,実際に戦車第二師団がフィリピンのルソン平原で戦闘した際には,70mまで近づかないと,M4の最厚部51mmの装甲を撃ち抜けませんでした.
眠い人 ◆gQikaJHtf2
最初は待ち伏せ攻撃で何両かのM4を破壊したものの,次はアウトレンジされた,と確か「機甲入門」かなにかにあったような.
【質問】
仮に5式中戦車に8cm高射砲を積むとタイガー1と火力は同じになりますか?
【回答】
なりません.
8cm砲はドイツが中国に送った2種類88mm砲の内,据え付け型で機動性が悪く(だから後方に逃がし損ねた),やや短砲身の物がベースになっています.つまり,ドイツの有名な高射砲,88mmFLakとは全く別物なのです.
また,欧米に比べ対戦車砲弾の威力が激しく劣っていました.
なお5式に8cm砲を積むと言うプランは,米国側の調査資料にしか見られないようです.
【質問】
歴史小説で有名な司馬遼太郎氏(故人)は,戦時中に戦車兵だったそうで,私が随分前に読んだエッセイの中で氏は,
「開戦初期の日本の戦車の装甲は鋼鉄で出来ていて,ヤスリをかけても歯が立たなかった.
しかし,戦争末期の戦車の装甲は容易にヤスリで削れた.
敗戦間際の日本は戦車の装甲に使う鋼鉄にすら事欠いていた」
といった趣旨のことを書かれていたのですが,これは本当なのでしょうか?
本当だとしたら,鍋・釜と同じ鋳鉄で戦車を作ってたって事ですよね?
【回答】
このエッセイは新潮文庫「歴史と視点」所収の「戦車,この憂鬱な乗り物」,これについての論争の経緯については,徳間書店「宮崎駿の雑想ノート」巻末の富岡吉勝氏との対談で出てくる.
1)司馬が,末期の戦車には鑢が掛かったという話を公表.
2)「あれは冷間圧延鋼鈑だから鑢で削れても問題ない(ヤスリの鋼は粘りが極度に少ない分硬いので,割れないように多少の粘りのある戦車用の装甲材が削れても,何ら不思議はありません)」と,装甲板の開発にあたっていた技術者が戦車雑誌で反論.
3)元戦車工場勤務の方が,末期には鋼鉄は手に入らず,普通の鉄を使用していたと再反論.
というのが,大まかなその経緯.
ちなみに,圧延鋼板の製造配分に関しては,1944年春から陸軍向けが頗(すこぶ)る少なくなり,重火器の生産が高射砲を除いて停止され,弾薬生産が削減され,戦闘用車輌の生産が激減し,軽戦車の生産が事実上停止し,中戦車,装甲車輌の生産が著しく削減されると言う状況にはなっています.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2他)
司馬の話に信憑性有りとする意見は,だいたい以下の通り.
「ここで出てきた装甲板の説明をちょっとしますね.
表面硬化装甲とは,炭素を添加し,砲弾が衝突する面の表層だけを焼きいれすることで硬くして,着弾した砲弾を砕いてしまうというもので,主に装甲の薄い戦車などに用いられます.チハがM3軽戦車を撃破出来なかった理由は,チハの砲弾がすべて砕けてしまったからでしたね.当然ヤスリでは削れません.
一方,均質圧延装甲というのは,炭素鋼に希少金属であるニッケルやクロムなどを添加して粘りを出し,今度は砲弾を受け止めるという目的のために作られた装甲板です.
当然,この種類の装甲は原理から言って,厚みのある戦車に用いられるため,三式中戦車にはこの装甲板が採用されていた,と彼らは主張するわけですね」
〔略〕
「ところで,均質圧延装甲板を作ろうとする場合,鉄(Fe)の次に多く必要な金属は戦略物資のニッケル(Ni)なんです.これは日本のニッケルの必要量に対する取得率の割合の変化なんですけれども・・・・」
ニッケルの必要量に対する取得率の推移
| 割合 | |
| 1940年 | 60% |
| 1941年 | 30% |
| 1942年 | 20% |
| 1943年 | 10% |
| 1944年 | 10% |
「三式中戦車が製作された44〜45年はニッケルの取得率が10%を下回っていたんです.
当然,航空機優先のご時世でしたから,試作車両を作るときにも材料が不足するぐらいだったといいます.
それで,均質圧延装甲の反論の後,今度は製作にかかわった人達から三式中戦車は材料不足で普通の鉄を使用した,という再反論がなされてこの論争は決着がついてしまいました.
間違いありません.
この旧日本軍最後の戦車はフライパンと同じ,軟鉄で作られました.」
また,その反対意見はだいたい以下の通り.
司馬遼太郎氏はその話を実際には確認しているのでしょうか.
また,ヤスリを当てた装甲の部位を九七式,三式でそれぞれ教えて戴ければ,答えは比較的簡単に出せます.
というのも,戦車の装甲は部分ごとに材質が細かく異なり,九七式戦車の装甲でも,場所によっては軟らかい部分もあり,三式の場合でもヤスリがかけ難い硬さの部分があります.
ですから,この逸話は,誤解のみを拡大させる与太話と呼んで差支えないでしょう.
また,日本戦車研究のバイブル「日本の戦車」の著者,竹内昭との会見記によれば,
普通鋼板とは考えられない,との事です.
同席した落馬童子氏の調査では,当時,三菱丸子工場には軍から配給された戦車用の資材が大量にあったそうです(当時三菱丸子工場社員の証言およびメモより).
http://muwsan.hp.infoseek.co.jp/takeuti.htm
とのこと.
ちなみに,ニッケルの不足は紛れもない事実です.
むしろ需要を10%も満たしていたことに,素直に驚きました(泣)
「海軍技術研究所」から要約して引用すると
『たとえば,ニッケルの代わりに純鉄を使うとか,トリタン線もタングステンにトリウムを塗って加熱したものを自社生産して使っていた.
ニッケルについてはこんな話もある.
あるメーカーで電探用の高性能の真空管を作るために,天然のニッケルが必要になった.
ヤミ物資を探しても見つからず,軍需省にかけあったところ,なじみの担当官から,
「これを使ってみては……」
と,香港で手に入れたニッケル貨を渡された.
これを使って真空管を作ってみたところ,良い結果が得られた.
この情報はすぐに業界に流れ,香港のニッケル・コインの争奪戦が始まった』
『ニッケルの代わりに純鉄を使う』
……う〜ん,どこかで聞いたような話ですな.
この話から分かることは,電子部品に使うようなニッケルすら不足していたのだから,装甲板に至っては……つーことです.
極東の名無し三等兵 ◆5cYGBbCsjQ in FAQ BBS
また,下谷政弘編「戦時経済と日本企業」(昭和堂:1990年刊)には,大同特殊鋼のケースが掲載されています.
この本の中に,大同特殊鋼星崎工場生産報告書からの表が掲載されています.
それによると,ニッケルに関しては,以下のようになっています.
(単位t)
| 1938 | 1939 | 1940 | 1941 | 1942 | 1943 | 1944 | 1945 | |
| 実際受取量 | 70 | 98 | 161 | 104 | 133 | 75 | 26 | 0 |
| 消費 | 55 | 78 | 111 | 102 | 165 | 135 | 61 | 1 |
| 在庫 | 57 | 77 | 127 | 129 | 97 | 37 | 2 | 1 |
他にも,この表には,フェロシリコンとかフェロマンガン,フェロクロム,フェロモリブデン,フェロタングステンなんかの受給量が書かれていたりしますが….
このうち,フェロシリコン,フェロクロムは太平洋戦争勃発後も受取量,消費量が増加し,一定の需要を満たすことが出来ていたみたいです.
しかし,上表の様に,ニッケルについては,1940年をピークに受取量が低下し,在庫急減となり,星崎工場の報告では,ニッケル不足のため,Ni-Cr鋼に換えて,Cr-Mo鋼を生産せざるを得なくなっており,築地工場でも,1943年より,「軍ノ指示ニヨリ無Ni又ハ低Ni合金鋼」への転換を余儀なくされています.
この他,戦争の進展により,モリブデン,タングステンなどの不足が著しくなり,Si,Cr,Mnなど国産鉱石で生産された代用鋼が多く用いられるようになりました.
また,特殊鋼原料の主原料たる屑鉄についても,米国からの質の良い屑鉄の輸入が途絶し,国産屑鉄(屑鉄代用品生産を含む)への転換が行われています.
国産屑鉄については,国内の金属回収運動にも支えられて,量的には成果を上げますが,質の問題が発生しています.
特に,1944年以降は屑鉄の不足という事態に陥り,「ダライ粉」と呼ばれる旋盤などの工作機械で切削,旋削した際に発生する金属屑の配合割合が増えてきます.
これによって,「単位当リノ熔解時間増加トナリ生産量ノ低下」を招き,ダライ粉は色々な金属の加工屑ですから,成分不明で,これがため,生産された鋼に,「予期セザル成分ガ混入スルコトガアリ,不良品ヲ造ル有力原因」となっています.
ちなみに,1942年度第1.4四半期でも,全国屑鉄供給のダライ粉比率は40%にも上っています.
推定ですが,こういった品質不良の(そして,検査をすり抜けた)鋼板が戦車に用いられ,ヤスリがけしたら削れちゃったと言う現象を引き起こした可能性があるのではないか,と思います.
【質問】
4式中戦車の鋼鈑はどこが担当していたのですか?
【回答】
四技研のチト車竣工試験計画には,
「本車ハ五糎七戦車砲長ヲ装備シ車体ハ普通鋼板ヲ以テ製造セルモノナリ」
と書かれています.
また,「新中戦車修正研究過程」では,六輛分の鋳造砲塔及び,五十ミリ以上のII種板は四技研から大阪造兵廠播磨製造所に製造を依頼,砲塔前面の五十ミリI種板,三十五ミリ以下の防弾鋼板は全て日本製鉄八幡製鉄所の担当です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2

【質問】
五式中戦車(チリ)の88mm砲搭載案は実在したのですか?
【回答】
公式の計画では5式T型5式U型でも88mm砲の装備案は無い.
戦後,旧軍研究者が1研2研や三菱の関係者から聴いた話でも,88mm搭載案は与太話のひとつであると言われている.
九九式88mm高射砲を見て,
「ここをこうすれば戦車砲になる…」
とか(勝手に)考えていたらしい.
他にやることがなかったのだろうか…なかったんだろうなぁ.
そしてそういう,
「そういう物を作れればいいんではないかと思っていた.
こうすれば作れると考えもした.
現実的には無理,というかそれ以前の問題だったけど.
でも今にして思えば九九式88mm高射砲を転用するのが一番だったと思うんだ」
という開発関係者の「個人的見解」が,いつのまにか「公式にそういう計画があった」という事になってしまっている,というのが真相.
5式改に搭載する予定だった88mm砲は,九九式88mm高射砲を戦車砲に手直しした砲を使う予定だった.
九九式は国内で(日本の高射砲にしては珍しく)大量生産されている.
ちなみに原型は南京攻略の時に捕獲したクルップ社製の88mm高射砲を,ほぼそのまんまコピーしたもの.
で,高射砲を簡単に戦車砲に改変する方法まで考案したが,
「高射砲を戦車砲に転用したいので分けてくれない?」
と関係者同士で非公式折衝したところ,
「バカ言うな」と怒られた,というのは事実らしい.
「沢山あるから分けてくれ? 毎日毎日B-29が飛んでくるのに,高射砲を他にやる余裕なんてあるか!」
と言われて廻してなど貰えなかった.
五式中戦車は最初,半自動装填装置付き75mm砲を搭載する予定だったが,搭載する砲が揃う見込みがなかった.
この75mm戦車砲は元はボフォース社製の75mm高射砲.
やはり日中戦争で捕獲したものをコピーしたが,生産が進まず,単純コピーの高射砲型すらほとんど生産できなかった.

【質問】
10-15pの加農砲ならシャーマンを撃破できると思うのですが,それらを対戦車用に使おうという試みは無かったのですか?
【回答】
秘匿名称「ホリ砲」という戦車砲と「カト砲」という対戦車砲が研究されていました.
昭和18年7月に「試製十糎戦車砲(ホリ砲)」と「試製十糎対戦車砲(カト砲)」の開発方針が,陸軍省の軍需審議会幹事会から出され,これに沿って開発がスタートしました.
ホリ砲は口径は105mm,半自動装填機を採用した意欲的な砲でした.
砲身は開発中止となった「試製大威力十糎加農砲」の砲身を流用,装填機は三式12糎高射砲の機構を流用しています.
カト砲は口径は同じ105mmですが,対戦車砲としてさらに高威力を狙い,1000メートルで200mmの貫徹能力が要求されました.
これらはそれぞれ「ホリ車」「カト車」という車体に固定式に搭載され,砲戦車/対戦車自走砲として使用される予定でした.
しかし,共に砲は完成しながら,車体の開発は間に合わず,完成することはありませんでした.
名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE
【質問】
どこかで『日本軍の一番強かった戦車は鹵獲したもの』って書いてあったんですが,この情報,ガセですよね?
【回答】
鹵獲したもので部隊編成が出来るだけのものならM3軽戦車,数両レベルならM4中戦車が最強.
まあ,最強といっても,鹵獲したM3軽戦車は初期型で,車長兼砲手で戦闘になると車長の視界が照準孔だけになる.
前方機銃手兼無線手が装填手を兼ねていて砲戦時は装填作業専任.
さらに装填手が砲塔の旋回手も兼ねていて,砲手と阿吽の呼吸で作業する.
装甲ハッチを閉めると操縦手の視界がゼロになる(らしい
……とかいろいろあるけどな.

【質問】
日本軍が捕獲したM3軽戦車って全部で何輌なんでしょうか? 部隊配備までされてたくらいですから,相当な数だと思うのですが.
また,他にもM4やM3中戦車が日本軍に捕獲された例はありますか?
【回答】
Philippinesでは米軍は108輛のM3を持っていましたが,31輛が鹵獲されました.
Burmaでは,2個連隊のM3を投入していますが,その戦いが終わったときに残っていたM3は1輛だけだったそうです.
恐らく,日本に鹵獲されたM3は概ね数輛程度ではないかと思います.
後に修理・回収されることで,もう少し増えた可能性はあるかもしれませんが.
M3中戦車とM4中戦車ですが,鹵獲したもののそのまま破壊というケースが多かったみたいです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2
【質問】
司馬遼太郎の「戦車この憂鬱なる乗り物」だったと思いますが,日本軍の戦車開発について,
・ガソリン備蓄が足りないからディーゼルエンジンを採用
→しかも仮想戦場の満州には水がないという思い込みから空冷を開発.
しかし「日本は貧乏国である」という遠慮から馬力をケチったため,「馬鹿でかい,馬力がない,複雑で運用が難しい」という欠陥だらけのものになった.
と書いてありましたが,本当でしょうか?
とくに「日本が貧乏だから馬力を遠慮」というあたりが,よく理解できません.
出来れば89式とチハの開発経緯も含めて教えてください.
【回答】
本当は八九式の後継車両は九五式軽戦車でした.
しかしこれが,装甲が薄いなどの用兵者の不満があったので,安く弱いチニ,高く強いチハが試作されました.
どちらを採用するか悩んでいる間に支那事変が始まり,より強力なチハたんが選ばれた,というのが開発経緯です.
その九七式中戦車に用いられていた,三菱ザウラー式SA12200VD(複渦流式V型直噴12気筒/ボア120mm×ストローク160mm,170馬力/2000回転,重量1200kg)に関しては,噴射系統がデリケートで調整が難しく,耐久力に欠けるきらいがあり,動力性能に関しても,公称200馬力の筈が,実力は170馬力程度しか出ず,しかも,白煙,黒煙が甚だしく,更に五月蠅い(三菱の整備員曰く,「豆煎りエンジン」).
シリンダとシリンダヘッドは,4本の長い通しボルトで共諦めする方式で,チェンブロックや他車の動力を用いたエンジン吊り出しが頻々と行われたのも,車載状態での整備性が悪かったからで,ローラータペットを用いた4弁方式についても,こなれておらず,しかも,直噴はまだ未完成の技術でした.
このエンジンを他社のエンジン設計技術者が評して曰く,
「まるで航空発動機のような,屁理屈の塊のようなエンジン」
当時の軍用車両用ガソリン・エンジンでは,オクタン価の制約から,余り攻め込んだ設計が為されず,車輌,兎も角人員が生きて帰ってこられる信頼性を重視したため,非常に甘い設計になっていました.
他方,ディーゼルに関しては,池貝とか三菱,いすゞなどが犇めいていたため,性能重視型の設計ではありましたが,それでも,軍用,就中,統制であるがために,設計には十分な余裕を持たされ,最大出力時正味平均有効圧が可成り低い状態に置かれていました.
本来は,常用時の負荷率は低い筈ですから,最大出力時の正味平均有効圧を高くしても良かったのですが,第四技術研究所や,戦車部会のメンバーが,作戦行動中に逆上した操縦者が無闇にアクセルを踏んで全負荷に近い運転を続けて,エンジンを壊すことを心配したためか,パワートレイン側の問題があったのかもしれません.
なお,福田定一・・・じゃない,しばりょーたろーせんせいは,機械に疎く,メカに興味のない人だったので,この人の書いた本にはメカニック方面での間違いが多いようです.
それも,資料を読み違えたとかではなく,自分の記憶を頼りに勘違いして覚えてた事をそのまま書いたりしているので,あてにならない部分があります.
もちろん,司馬遼太郎は戦車長として従軍した陸軍のエリートであり,自分の体験に基づいて書かれた「ノンフィクション」の部分は,(当時の誤解を含めて),一次資料としての意味はありますが.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2他)
【質問】
戦車部隊で指揮を取る士官は,どういう課程を経て配属されるのでしょうか?
陸軍士官学校卒業生から,希望した者を戦車部隊に配属するのでしょうか?
【回答】
旧日本陸軍(昭和15年以降)を例に取ると….
陸軍将校になるには陸軍士官学校に入学する前にまず陸軍予科士官学校に入学します.
二年後,卒業の前に兵科を選択します.
希望は募りましたが,定数の関係もあって,必ずしも望み通りとはいかなかったようです.
ここで機甲科に進んだものは隊付士官候補生として戦車連隊で半年勤務します.
勤務を終えると陸軍士官学校に入学し,ここで本格的な機甲兵としての教育を受けます.
この段階で操縦や射撃など下士官並みの技量を育成し,なおかつ部隊運用を学びます.
士官学校卒業後は再び戦車連隊で見習い士官,および少尉として部隊勤務を行い,その後に戦車学校に丁種学生として派遣されます.
学生としての教育を受け,原隊に復帰してようやく一人前の士官となりました.
この他に,騎兵・歩兵連隊より適任者を選抜,戦車学校に入校させて機甲科将校とする制度もありました.
また,甲種幹部候補生からの選抜も行われており,戦車学校の幹部候補生隊に入学して戦車隊将校としての教育を受けて戦車連隊に配属されました.
(名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)
【質問】
海軍陸戦隊は戦車を保有していたそうですが,最大時で何両くらいあったのでしょうか
【回答】
太平洋戦争勃発時は八九式と九五式軽戦車合わせて数両程度+クロスレイ装甲車9両程度と,ちよだ急造装甲車数両程度か,と.
後,
特二式内火艇は1942〜45年に184両,
特三式内火艇が1944〜45年に19両,
特四式内火艇が同じく50両程度
なので,精々100両を越えることが無かったのではないか,と.
眠い人◆gQikaJHtf2
【質問】
旧日本海軍が陸軍戦車を使用する事ってあったの?
【回答】
海軍陸戦隊の警備用に,八九式戦車数両を陸軍から分けて貰って装備していますし,教育部隊には九五式軽戦車を装備していますし,大戦末期に海軍が試作した自走砲は,九七式中戦車の車体が基になっています.
ちなみに,熱河作戦の際,日本陸軍が八九式戦車で長躯疾駆したのですが,その整備には上海の海軍航空部隊の非公式協力があったらしいです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2
【質問】
第二次世界大戦で中国軍が使っていた戦車を教えていただけないでしょうか?
【回答】
ソ連製
T-27豆戦車,
T-26B軽戦車(単砲塔仕様),
英国製
Vickers 6t戦車Mk.E(単砲塔仕様)16両,
Vickers 6t戦車Mk.F(単砲塔仕様:指揮戦車)4両,
Carden-LoydM1931水陸両用戦車29両,
Carden-LoydM1936軽戦車4両,
イタリア製
C.V.33豆戦車,
米国製
Marmon-Herringhton4TAC軽戦車(引き渡されず),
Marmon-Herringhton4TA軽戦車(引き渡されず),
M3A3 Stuart軽戦車,
M5 Stuart軽戦車,
M4 Sherman中戦車.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2)
【質問】
国民党軍が使っていた戦車は一号戦車以外にもありますか?
【回答】
国民党軍は,一号戦車(ドイツ)以外にも仏・伊・英から機甲車両を購入しています.
もっとも初期に購入したのは仏製ルノーFT軽戦車でした.
その他の車両は以下の通り.
*ルノーNC軽戦車(仏)
*ルノー1931年式軽戦車(仏)
*ヴィッカース12トン戦車(英)
*ヴィッカース6トン軽戦車(英)
*ヴィッカース水陸両用戦車(英)
*カーデンロイド豆戦車(英)
*フィアット アンサルド軽戦車(伊)
また,ソ連より供与されたT-26軽戦車も若干保有していました.
大戦後半になると,米軍から供与されたM3/M5軽戦車やM4中戦車なども保有しています.
(名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)
【質問】
昔,沖縄へ修学旅行へ行ったとき,
「米軍は戦車にガスタンクのようなものを取り付けて巨大な火炎放射器にして,100m伸びる炎で焼き払った」
という話を聞きました.
そこで質問なのですが,
@そのように戦車を運用した事実はあったのでしょうか?
A火炎放射器で射程100mを達成することはできるのでしょうか?
個人的な感覚では,100mも炎が伸びる前に,噴射した燃料が全て燃え尽きそうな気がするのですが・・・.
【回答】
1.
当時,戦車に火炎放射器を設置して運用する方法は各国で見られました.
特に太平洋の島嶼戦では,日本軍は網の目状に構築した壕や,天然の洞窟にこもって抵抗することが多く,それらの掃討に有効であるということで,火炎放射器や火炎放射戦車は頻繁に用いられました.
太平洋戦争のフィルムで,M4戦車が火炎を放射している映像を見たことはありませんか?
ちなみにM4中戦車に火炎放射器を装着したM4火炎放射戦車のバリエーションは,こんな感じ.
2.
火炎放射器の射程は,車載のものでも数十mだったりするので,100mも飛ぶことはまず有り得ないと思います.
>炎が伸びる前に噴射した燃料が
燃料以前に噴射剤やポンプの能力の問題でしょう.
丼炒飯 ◆HY/YgdSbHM
硫黄島戦で,8台のM4シャーマンが砲を降ろして,海軍のMarkI火炎放射システムを搭載するよう改造された.
射程は最大150ヤード(137m),連続55-80秒の放射が可能で大きな効果をあげた.
が,海兵隊ではそれ以上配備が進まず,沖縄戦で使用されたのは陸軍のH-1火炎放射戦車.
これはナパームを添加した燃料を290ガロン(1097リットル)搭載,最大80ヤードの距離に2分30秒放射することができた.
http://www.nps.gov/wapa/indepth/extContent/usmc/pcn-190-003131-00/pcn-190-003131-00/sec6.htm
http://www.army.mil/cmh-pg/books/wwii/chemsincmbt/ch15.htm
を参照のこと.
◆◆◆◆対戦車兵器
【質問】
日本兵は米戦車をどうやって倒したんですか? 対戦車地雷ですか?
【回答】
地雷の場合は,精々擱坐させる位しか威力がありません.余程の軽戦車(タンケッテ)程度でないと,引っ繰り返すのは無理.
Caterpillar切っても,回収して修理すれば前線に出せますし.
分隊一個を潰して擱坐させた戦車が,あっと言う間に戦場から回収され,再び修理されるケースがImphalでは多く見られました.
日本がM4などを相手にする場合は,思いっきり近くから37mm対戦車砲を側面か背面から打ち込むか,陣地に引き込んで榴弾砲などの野戦砲の直射くらいと,後,火炎瓶くらいです.
火炎瓶で,火災を起こさせ,乗員が慌てて出てきたところで上に乗った兵が中に手榴弾を投げ込み,戦車を乗っ取って,敵に発砲すると言う戦術も採られています(当然最後は撃破される訳ですが).
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板
地面に埋められた航空機用爆弾を転用した仕掛け爆弾とか,道端に隠されて戦車の側面からHEAT弾を撃ち込む対戦車地雷とか,いろいろあります.
けど,基本的に対戦車地雷はキャタピラを切る程度の奴が多く,地雷原は対人地雷と混ぜて敷設されたり,地面の上に直接置かれたり,撒かれたりする.
軍事板
刺突爆雷


【質問】
旧日本陸軍が,ソ連軍のデグレチャフ対戦車ライフルとよく似た対戦車銃(確か口径は20ミリだったと思います)を生産していたはずですが,実戦での使用はなかったのでしょうか?
ないとしたら本土決戦用に温存していたのでしょうか?
もし使用されたら,ソ連兵がタイガー戦車のペリスコープを破壊して多少の損害を与えた様な戦果を,M4相手に期待できたのでしょうか?
【回答】
九七式自動砲ですかね.
制式採用後,北満州の陸軍,即ち,関東軍各部隊に配備されました.
実戦としては,ノモンハンが最初でしたが,歩兵中心で戦車はその支援に回るから,速度が遅く,少人数で設置し,地形を利用して,戦車側面を狙う思想でこの兵器が作られたのに対し,ソ連軍はドイツ式の戦車集団使用による高速侵攻を採った為,想定戦術が採れず,苦戦を強いられます.
しかも,予想に反してソ連戦車の装甲は厚く,強かったので,なかなか攻撃しても破壊に至りませんでした.
しかしながら,普通の対戦車砲より姿勢が低く,運搬が簡便だったため,歩兵用対戦車火器として,ソフトスキンや軽戦車に対してはある程度用いられ,効果が認められていたようです.
一応,末期の沖縄戦まで使用されているようですが,対戦車銃としてではなく,拠点防衛用の火器として使用されることも多かったようです.
上述のように,BTシリーズの軽戦車に対しても能力不足とされていたのですから,M4と撃ち合うのは無理かと.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2他)
【質問】
97式自動砲は手の込んだ造りで,かなり高価だったと聞いたのですが,現在のお金で換算するといくらぐらいになるんでしょうか?
【回答】
昭和15年当時の九七式自動砲の価格は6.400円となっています.
これは三八式歩兵銃(77円)の約83倍,九二式重機関銃(2.175円)の約3倍に匹敵する価格です.
現在と当時の物価の差はこちら参照.
(名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)
【質問】
友人と
∩( ・ω・)∩ チハたんばんじゃーい
と話してたときに,チハよりはパンツァーファウストなどの対戦車ロケットや無反動砲などの,歩兵携行対戦車火力の方が南方で頑張れたかもしれないね,という話になったのですが,当時の日本軍はこの手の対戦車ロケットの類の開発,及び使用はしていなかったのでしょうか?
技術そのものはドイツからの供与で入ってくるとは思うのですが,どうなのでしょう?
【回答】
日本で無反動砲の研究が始まったのは昭和18年の後半で,ドイツから到着した資料を元に開発が始まり,昭和19年には
「試製八十一ミリ無反動砲」
「試製十センチ半無反動砲」
「試製五式四十五ミリ簡易無反動砲」
等が制作されました.
しかし,いずれも試作の範囲にとどまっています.
試製五式四十五ミリ簡易無反動砲は外径八十ミリの試製五式穿孔榴弾を用いる,パンツァーファウストに近い無反動砲でしたが,実際には発射機の供給が間に合わず,弾薬のみが配備され,発射装置や使用方法は配備された部隊に任される予定だったとか.
また,ドイツから入手した構造図面を参考にして,19年9月に四式7cm噴進砲を正式採用.
これはバズーカのように筒内に弾を込めるタイプで,弾に安定翼が無く,ガス噴射で弾体を回転させて安定させていました.
弾頭着角60-90度で80mm鋼板貫通,100mで6割命中
終戦までに約3,500門を製造
……ただ,「日本陸軍兵器集 ワールドフォトプレス」によれば,この噴進砲,採用されたときは榴弾しか採用されておらず,対戦車戦闘に使えるとは考えにくい.
いちおう,成型炸薬弾「試製5式窄甲榴弾」が一部でテストされていたが,実用にはいたっていない.
このテスト結果は,「試製5式窄甲榴弾」のものと思われます.で,これは配備されていないわけで……
榴弾だけで対戦車戦闘はチト無理かなぁ,と.
さらに,上陸舟艇用の伏竜や対戦車用の刺突爆雷とか,弾頭がHEATだけど,運搬手段が火薬で飛ばすんじゃなくて人で,ってのも…
(名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE,極東の名無し三等兵 in FAQ BBS他)
【質問】
日本軍の対戦車戦術は?
【回答】
日本陸軍では対戦車防衛に「弾性防禦」の表現を使っており,正にその通りの弾力的な防禦策を展開している.
このため,第一線の戦車攻撃に対する抵抗は,それほど激しいものではない.
第一線では歩兵装備の重火器のうち,戦車に向けられるものは20%以下と見て良い.
戦車が接近すると一個小隊のうち一個分隊を残して,後はひとまず800〜1500ヤード後方に退く.
第一線に踏みとどまった一個分隊は,直ちに煙幕を張って散開し,煙幕の中から戦車が姿を現すと,焼夷擲弾をもって肉迫攻撃を加えるのである.
こうして初戦に於いて,先ず敵戦車の隊列を崩してコントロールを乱れさせ,被害を与えるというのが,その戦術的な狙いだ.
こうして第一戦の攻防戦が展開されている間に,師団砲兵が直接照準の出来る位置まで前進する.
もし歩兵の主要火力で攻撃を阻止できなければ,歩兵主力部隊は煙幕や焼夷擲弾を使用しながら肉迫攻撃を掛け,これを突破した敵戦車に対しては,直射陣地に前進していた砲列が集中砲火を浴びせると言った作戦である.
この作戦の特色は,一旦攻撃が停頓すると,攻撃側が忽ちピンチに陥ることだ.
立ち往生した戦車に対しては,手榴弾その他の手持ちの兵器でも功を奏することがあるし,散開したとは言え,敵戦車部隊の後続歩兵部隊を阻止できる.
●対戦車攻撃法
1. 場所の選択
対戦車攻撃要員が活動するのは,主として戦車の前進速度が鈍るところで,対戦車砲による攻撃の邪魔にならぬtころとなる.
2. 特別要員
各歩兵中隊(機関銃中隊に適用されることもある)毎に対戦車肉攻班が設けられ,要員は特殊装備の元に訓練を受けている.
各要員の武装は,対戦車地雷と発煙手榴弾.
3. 攻撃方法
攻撃方法には次の三つがある.
(1)援護射撃の元に肉攻班員は戦車に向かって匍匐前進を行い,相手の死角に入る.
次に戦車の前方15ftの地点に,長い紐を付けた地雷を放り投げて,この紐を引きながら,戦車の真下に誘導する.
(2) 援護射撃の元に肉攻班員は突進して数個の地雷を戦車の進行方向にばらまき,そのいずれかを必ず接触させるようにする.
(3) 全長150ftのコードに,1ft間隔で地雷を結びつけ,これを戦車の通路に置き,両端の肉攻班員各1名と共に偽装隠蔽し,戦車を待ち伏せする.
このほか,肉攻班員は,通常後方から戦車に跳び乗り,ピック(小型鶴嘴)で戦車の武器又は砲塔の回転装置を破壊するよう訓練されている.
時には戦車の開口部から乗員めがけてピストルを発射することもある.
また,砲塔に掩蔽物を被せたり,開口部を泥土で目つぶししたり,開口部を利用して燻りだしを図ることもある.
勿論,こうした作戦を行う場合,その前に戦車部隊と行を共にする歩兵部隊は,別働隊によって除去される.
更に戦車は,3インチの丸太材または1乃至1.5インチの棒材を車輪のスポークに突っ込まれてスローダウンさせられ,遂には停車に追い込まれることもある.
当然ながら,磁気徹甲地雷が使用されることもある.
以上,米軍の対日本陸軍戦闘マニュアルより抜粋.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板

◆◆◆◆鉄道車輛関連
【質問】
日本の鉄道の幅は,なぜ1067mmになったの?
幅が広いほうが兵站上,便利では?
【回答】
日本の鉄道の場合,レールの幅は,1067mmが主流です.
これは,官鉄が敷設された時,南アフリカの植民地軌道の軌道幅に合わせたからと言う説が専らです.
何故,アジアではなくアフリカの軌道幅なのかと言えば,その頃アジアの英国植民地には未だ鉄道が敷設されていないか,未だ工事中で,アフリカ南部とか豪州,ニュージーランドでの採用幅が1067mmだったから,と言われています.
つまり,海外に資材の供給を仰がなければならない立場からすれば,大量生産された鉄道部品を購入した方が安いからと言うことではないか,と.
一説には,南アフリカ奥地向けの鉄道機材を転用したとか言われていたりして.
1882年に敷設された東京馬車鉄道は,何故か世界でも類を見ない1372mmと言う半端な軌道幅を採用しました.
米国では馬車鉄道の軌道幅が1372mmだったからとか色々言われていますが,これまた何故かは判らず仕舞いです.
この軌道幅は都電で使われた他,都電から機材を譲り受けて開業した函館市電が使用しました.
また,都電に乗入れる為に,玉電だとか後に都電に編入された城東電気軌道や王子電気軌道,そして京王電鉄,京浜急行,京成電鉄などが採用しました.
しかし,京浜急行は一足先に標準軌に改軌され,浅草線開業時に京成も標準軌となります.
京王電鉄も,新宿線開業時に標準軌に改軌すれば良かったのですが,当時の輸送逼迫で長期運休などが叶わず,結局大手私鉄では唯一中途半端な軌間を採用し続ける羽目になります.
お陰で,標準生産品が使用できず,京王線の電車はコスト増になっています.
一方で,東京都交通局は,お陰で,1067mm,1372mm,1435mmの三種類の軌間を持つ羽目になっている訳ですが.
標準軌は1435mm.
軍部は可成り以前から国鉄(官鉄)の1435mm化を主張していたのですが,それは諸々の事情から新幹線の開業まで実現せず,1899年の京浜急行(後に1372mmに改軌してまた1435mmに戻す)や1906年の阪神電気鉄道が採用することになります.
関西の鉄道は殆どが1435mmですが,これは当時,大阪の銀行家として重きを為していた北浜銀行頭取岩下清周が構想していた「山陽電鉄」を実現しようと言う動きに合わせたものと言われています.
彼は,大阪から山陽地方を縦貫し,関門海峡に至るまで電気鉄道で結ぶ計画を立てていました.
そのため,大阪の灘循環電気軌道(後の阪急神戸線),兵庫電気軌道(後の山陽電気鉄道),広島電気軌道(後の広島電鉄),関門架橋株式会社を傘下に組み入れ,更に山陽筋の鉄道会社に標準軌の採用を働きかけた訳です.
日本の軌道幅はこれら3種が殆どですが,三重の近鉄と三岐鉄道,黒部峡谷鉄道には,762mmと言う軌間があります.
762mmは現在でこそ,この三社しかありませんが,1960年代までは,多くの鉄道が採用していた軌間でした.
松山を走っていた坊ちゃん汽車も,今は1067mmですが,最初は762mmです.
これは,交通網の発達を促す意味で,政府が鉄道の敷設を促した軽便鉄道法に負うところが多く,費用が安く手軽に敷設出来る軌間として幹線鉄道とそこから離れた集落を結ぶ為に多くが敷設されていました.
この762mmが最初に採用されたのは,北海道の茅沼炭砿と岩内までを結んだ石炭輸送用の牛車鉄道で,当時鉱山の主流として海外でも採用されていた610mmでは,1頭立ての牛車では歩幅やよたつきの関係で,蹄がレールに当たったり,排泄物がレールに掛かる為,やや広い762mmを採用したのではないか,と言われています.
今は無くなっていますが,南海電鉄が最初に敷設した線路は釜石鉱山の払い下げ品でした.
英国人技師が敷設した鉄道は軌道幅838mm.
流石にこれは長続きせず,直ぐに1067mmになっていますが….
他に岡山の西大寺軌道と北九州の炭砿鉄道には,914mmなんて変則的な軌間もありました.
これも謂われは不明だったりします.
機関車として石油発動機(ガソリンではない)が使用されて,その発動機の大きさに合わせたとかいないとか.
ほんの百数十年前のことなのに,判らないことが多い世界です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年04月18日21:44
【質問】
先日,ドラゴンから1/144模型が発売された装甲トロッコで質問です
http://www.dragonmodelsltd.com/html/14023-3.html
↑コレの左側の奴
これはエンジンを搭載して自走するんでしょうか?
あと,どう言った運用(単体で・これこれな編成で)をされていたんでしょうか?
【回答】
エンジン(ガソリンかディーゼルかは車輌によって異なりますが,概ねガソリンじゃないかと思います)自走します.
基本的に軍用列車,或は装甲列車の前駆として,警戒に当たる運用,または,兵士を乗せた貨車を牽引し,線路の警備に当たる運用が主なものです.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板)
【質問】
日本にも装甲で覆われた軍用列車ってあったんでしょうか?
【回答】
日本にもありました.
満州事変当時,第一,第二装甲列車隊,中国本土へは第十一装甲列車隊が配置されています.
装甲列車には二種類あり,軽装甲列車と重装甲列車があります.
軽装甲列車は,8両編成.山砲2門を装備し,10mm厚の装甲板で覆われていました.
重装甲列車は,九四式装甲列車と試製のものが作られ,十四年式10cm加濃砲2門,八八式7.5cm野戦高射砲2門,重機関銃14丁を有し,主砲は旋回可能な砲塔に乗せられています.
また,中国軍の装甲列車も捕獲され使用されていますし,満鉄の機関車,貨車に,簡易急造の鉄板を張り巡らしたものもありました.
更に,九一式広軌牽引車という,スミダ(今のいすゞの一つ)の六輪トラックを改造して,道路上をタイヤで,線路上を鉄輪で走る軌陸装甲車もありましたし,瓦斯電と三菱で製作された,九五式装甲軌道車という装軌と鉄輪を両方持ったものも作られており,これらは8mmの装甲を持ち,偵察,前路警戒任務に使用されました.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板)
【質問】
第二次世界大戦で日本が使用した列車砲について教えてください.
ドイツの列車砲の技術か何か受け入れているのかな.
実際に活躍する場面はあったのでしょうか?
【回答】
日本陸軍が制式化した列車砲はただ一種しかありません.
九○式二十四センチ列車加農砲がそれです.
この砲は輸入品で,大正14年にフランスのシュナイダー社と購入に関する交渉を行い,昭和3年に竣工しました.
主な諸元は
*砲身:240mm53口径
*運行時全長/全高/最大幅:17.725mm/3.990mm/2.930mm
*総重量:133.412kg
*最大射程:50.000m
この列車砲は,対ソ戦をにらんで満州の第四国境守備砲兵隊に配属されました.
周知の通りソ連軍は昭和20年8月9日に満州に侵攻を開始しましたが,不幸にもこの際九○式二十四センチ列車加農砲は移動準備のために分解中でした.
このため戦闘に用いることは叶いませんでした.
戦後にこれを鹵獲したソ連軍は,これを自国に運び去ったとも言われていますが,詳細は不明です.
なおこの砲を元にして,陸軍では国産新列車砲の計画を立て,一式二十四センチ列車加農砲として整備を図りましたが,戦局の悪化のため完成する事はありませんでした.
(名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)
【質問】
戦時中,機関車にも生産簡略化が行われた,って本当ですか?
【回答】
本当です.
例えば,D51の場合,戦前のものに比べ,鋼使用量が76→67t,銅が2.4t→1.1t,鉛が1.2→0.4tと金属材料を極力節減しています.
こうして軽減された動輪上重量を補うために,ボイラー台内や前デッキ上にコンクリートブロックを搭載