m

准トップ・ページへ戻る

目次へ戻る

◆各国別
ユダヤ人関連
<第2次世界大戦FAQ


 【質問】
 アフマディーネジャード・イラン大統領のホロコースト否定論は,単なる宗教馬鹿のせいなのか?

 【回答】
 イガル・カルモン(中東報道研究機関MEMRI会長)によれば,決してそうではなく,
・イスラエルの正当な存在権の否定
・イスラエルの抹殺
のための,計算尽くの行為なのだという.

 以下引用

 〔略〕
中東報道研究機関(MEMRI)は,大統領アフマディネジャドを初めとするイラン政権幹部の発言を蒐集,分析しているが,そこから二つのゴールが見えてくる.
 この二つをたどると,同じ結論に到達する.
 即ち,イラン政権のホロコースト否定運動は,不条理な増悪の表出ではなく,そのゴールを達成するための,冷血且つ計算づくの行為なのである.

イスラエルの正当な存在権の否定

 そのゴールの第一は,イスラエルの建国と存続の合法性を拒否し,正当な存在権を否定することにある.
 ホロコースト後のユダヤ人の避難地としてのイスラエルを否定するのである.
 そのためアフマディネジャドは,ホロコーストはなかったと唱える.
 そして「第二次大戦でユダヤ人が本当に苦しんだとしても,勿論その主張は客観的′、究で立証されなければならないが,この大戦では他者も苦しんでおり,その経験と変わりはない」と主張したのである.
 アフマディネジャドを初めとするイラン政権の幹部達は,こんな神話≠ナ,パレスチナにおけるイスラエルの建国を正当化するわけにはいかない,と主張する.

シオニスト国家イスラエルの抹殺

 第二のゴールは,アフマディネジャドが頻繁に主張しているように,イスラエルの抹殺≠ノある.
 彼のホロコースト否定は意図的で,計算づくである.
 世界がホロコーストを記憶している限り,ユダヤ人皆殺しのジェノサイドを新たに計画しても,その世界が抵抗する.
 そこに気付いているアフマディネジャドは,自分のゴールを達成するためには,ホロコーストの記憶を抹殺することが肝腎と考える.

悪の権化視操作

 自分の計画をうまい具合にすすめるために,アフマディネジャドはいくつかのステップを踏む必要がある.まずユダヤ人とイスラエル国を悪の権化としてきめつけなければならない.
 我々がよく知っているように,ヒトラーはユダヤ人の大量殺戮に着手する前に,ユダヤ人を諸悪の根源とするキャンペーンをやった.
 アフマディネジャドとイラン政権は同じ道をたどり,ユダヤ人を悪の権化に仕立てる毒々しい反ユダヤキャンペーンを展開している.

 そのキャンペーンの一環として,国家の統制下にあるイランのテレビ局は,ユダヤ人を諸悪の根源とする番組をシリーズで放映している.
 古典的な血の中傷など定番物である.過越祭用のマツォト(種なしパン)に混入するため非ユダヤ人の子供の誘拐しその血を抜きとるとか,非ユダヤ人の子供の臓器をとるため誘拐するといった類の話を,番組にしているのである.
 ユダヤ人は豚とか猿と呼ばれ,亜人間扱いをされる.
 ブードウ教的呪術の儀式場面で預言者ムハンマドを迫害する番組,十字架のイエスを思わせる歴史的人物を苦しめる番組.この一連のテレビ番組は,ホロコースト否定番組と平行して放送される.

 この種一連の行為は,決して個々ばらばらにとられているのではない.国の最高レベルで統制され,方向づけがおこなわれている.
 アフマディネジャドが,権力を手中にした後最初にやったのは,テレビプロデューサー達との会合であった.
 何とも示唆的な動きである.

 ユダヤ人とイスラエルを諸悪の根源に仕立てる行為は,前述のように,抹殺のための前段として大変重要なのである.
 しかしながら,ユダヤ人がホロコーストの犠牲者とみられている限り,悪の権化に仕立て上げることができない.
 つまり,ユダヤ人がホロコーストの犠牲者とみられている限り,悪の権化視は根づかない.
 そこで,犠牲者としてのユダヤ人像を消し去るために,ホロコースト否定が肝要になる.

 以上の理由により,ホロコースト否定,イスラエル国の抹殺,諸悪の根源視が三点セットでアフマディネジャドら政権幹部の発言,声明にいつも顔を出す.

イラン人自身が自分の口で語った話は,これまで個々ばらばらに報道されてきたが,これをまとめて聴くと,ひとつの方向に統一されて表明されていることがよく判る.
 つまり,イラン政権のイデオロギィーと戦略の枠組で表出され,役割の一端をになっているのである.

 2005年10月23日に開催されたイランの「シオニズム無き世界」会議で,アフマディネジャドはイスラエル国の定義をおこなった.
 それによると,イスラエルは絶対悪であり,ムスリムを支配しようとする欧米の手先である.
 アメリカとシオニズムの存在しない世界を本当に招来できるのかと問われて,アフマディネジャドは「このスローガン,このゴールは達成可能であり,必ず達成されることを知っておくべきだ」と答えた.

 アフマディネジャドは後段でホメイニに言及し,「尊師は,クードス(エルサレム)を占領している体制は,歴史の頁から抹殺されなければならない≠ニ言われた」と述べ,「これはまことに思慮深い言葉である.パレスチナ問題は我々が妥協できない問題なのだ」とコメントした.
 その後アフマディネジャドは「この汚点(イスラエル)はイスラム世界の中心から除去しなければならない.勿論それは可能である」と語った.
 この演説は究極目的即ちイスラエルの抹殺を明言している.

 2005年12月初旬メッカで開催されたイスラム会議機構会議で,アフマディネジャドはホロコースト否定とイスラエル抹殺を明確に関連づけて,次のように言った.
「ヨーロッパ諸国は,ヒトラーが迫害されたユダヤ人数百万を焼却炉で殺したと主張する.
 この点に執拗にこだわり,誰かが反対のことを証明すると裁判にかけ牢屋にぶちこんでしまう.
 我々は虐殺話など受入れないが,本当だと仮定して,ヨーロッパ人にたずねてみようではないか.
 迫害されたユダヤ人がヒトラーに殺されたからといって,エルサレム占領政権の支持を正当化できるのか?…」.
 アフマディネジャドのこの発言は,意味が奈辺にあるかを雄弁に物語る.
 即ち,ホロコーストは,イスラエルの存在を正当化するだけのもの,と言いたいのである.
 それは二つの意味を内包している.
a ホロコーストは神話である.
b たとい本当であっても,それを以てイスラエルの存在を正当化することはできない.

 いずれにしても,アフマディネジャドの主たる強迫観念は,ホロコーストではなく,イスラエルの存在そのものにかかわっている.
 この究極の目的にホロコーストが立ちふさがっているのであれば,これを否定して排除しなければならないのである.

 アフマディネジャドは,この時の演説の後段で,「君達(ヨーロッパ人)がユダヤ人にいけないことをしたと考えても,ムスリムやパレスチナ人が何故その代償を払わなければならないのか.よろしい君達が(ユダヤ人を)を迫害したとしよう.ならば,何故ヨーロッパの一部をこのシオニスト体制に与えないのか…」と述べた.
 ここにも,イスラエルは存在できないというのがガイドラインになっている.
 ホロコーストがイスラエルの建国と存続に道義的正当化を付与すると考えるので,アフマディネジャドは何としてでも,ホロコーストを否定したいのである.

 会場でDVDを上映したのでお判りのように,2005年12月14日の演説で,アフマディネジャドはこの二つの要素をここでも結びつけている.
 彼はホロコーストを神話≠ニ呼ぶが,第二次大戦で君達(ヨーロッパ人)がユダヤ人を600万人殺した…罪を犯したと言い張るのなら,君達の土地を分け与えればいいのでないのか.ヨーロッパ,アメリカ,カナダ,アラスカに場所があるではないか≠ニつけ加えるのである.
 これでも判るように,アフマディネジャドにとってホロコースト否定は,イスラエルの存在を非合法化する手段として大事なのである.
 究極の目的はイスラルの抹殺にあるから,諸悪の根源視に必要な要素が,ちゃんと演説に含まれている.

 それからイランの大統領は,ユダヤ人が犠牲者ではなく本当の迫害者であると,躍起になって主張し,「シオニズム自体欧米のイデオロギーで植民地主義者の考え方だ.世俗的思想にファシスト手法を組み合わせたもの,イギリス人がつくりあげた代物だ.これまでアメリカと一部ヨーロッパの直接指導と支援を得て,(シオニズムは)ムスリムを虐殺している」と述べ,その後段で「当時(第二次大戦)彼等(欧米)がどんな罪を犯したか,シオニストは今日どんな罪を犯しているか.欧米諸国とメディアは,はっきり答えなければならない.要するにシオニズムは新しいファシズムということだ」と言った.

 アフマディネジャドに言わせれば,シオニストこそ本当の迫害者,虐殺者である.
 その本人は,シオニストと普通のユダヤ人を区別すると主張するが,これもあやしい.この悪の権化視キャンペーンでは,歴史上ユダヤ人に向けられてきた中傷や誹謗をそっくり使っているのである.
 つまり,迫害者で虐殺者はシオニストのユダヤ人だけではない,とアフマディネジャドは陰に陽に主張するのである.

 DVDで御覧になったように,アフマディネジャドは,ユダヤ人がホロコーストを犯したと唱える.
 彼によると,イエーメンのユダヤ王ヌワス(Yosef Dhu Nuwas)が初期キリスト教時代に,キリスト教徒を焼き殺したとか,エステル記でもイランのユダヤ人がやったと書いてあるとし,ユダヤ人は近現代でも,過越祭のマツオットに練りこむため,ロンドンやパリでキリスト教徒の子供を大量に虐殺して血を抜きとっていると主張するのである.

 〔略〕

 ホロコースト否定会議におけるアフマディネジャドの演説は,イラン政権のイデオロギーと戦略の中にホロコースト否定の役割を組みこんだことを,はっきり物語っていた.
 会議の冒頭アフマディネジャドは,出席したホロコースト否定者達に対して,「イランは君達の家である.ここでなら君達は,友好的且つ自由な雰囲気の中で,自由に意見が言える」と述べ,まばたきもせず語をついで,「シオニスト体制の生命曲線はさがり始め,今や一瀉千里の勢いで落ちている…断言してよい…シオニスト体制は抹殺され,人類は解放されるのである」とつけ加えた.

イランのホロコースト否定をMEMRI TVの画像で見る場合は,次を参照.

http://www.memritv.org/Search.asp?ACT=S5&P1=156

MEMRI,2006/12/16

 まあ,イスラエル抹殺を本気で戦略として考えているのなら,それはそれで別種のアホなんだが.

 ただし,MEMRIはイスラエル寄りとされており,イスラーム諸国に対する見方が辛いので,その点は留意すべきである.


+

 【質問】
 ワレンベルクはユダヤ人救済にどう貢献したのか?

 【回答】
 スウェーデンの外交官,ラウール・ワレンベルクは1944年,ハンガリーのスウェーデン公使館が進めていた現地のユダヤ人救済活動支援のため,外務省からブダペシュトに派遣された.
 彼が,ハンガリーのナチスが実施していたユダヤ人移送や,SSが計画していたブダペシュト・ゲットー爆破を阻止したおかげで,10万人近くのユダヤ人の命が救われた.
 彼は1945年1月,ソ連軍に逮捕され,消息を絶った.
 そして1947年7月,モスクワのルビヤンカ牢獄で無惨な死を遂げた.

 詳しくは,H. E. マウル著「日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか」(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.133を参照されたし.


◆◆USA


 【質問】
 なぜアメリカはユダヤ人難民を受け入れなかったのか?

 【回答】
 アメリカはナチス政権成立以前から移住制限を導入していた.
 アメリカの移民法の問題は,「真の」出生地からの移住のみを許可するという出身国主義にあった.
 そのため,ポーランド生まれで無国籍者としてドイツに住んでいたか,電撃戦の後もポーランドにとどまっていた何千人ものユダヤ人は,もともと米国の対ポーランド枠が小さかったこともあり,アメリカ入国は事実上不可能になった.
 ドイツによる「併合」後,無国籍となり,比較的大きかった「大ドイツ」への移住枠からはみ出てしまったオーストリア系ユダヤ人の7〜8割も,その犠牲となった.

 1940年6月,米国は突如,入国規制を強化する.
 背景には市民の反ユダヤ感情,反移民感情があった.ユダヤ人を救うことは政治目標達成を妨げ,戦争完遂に有害だと考えられたのだ.
 それに,米国のユダヤ人には政府の後ろ盾が欠けていた.
 この措置を提唱したブレッケンリッジ・ロング国務次官は,東欧のユダヤ人に強い偏見を持っていた.最近刊行されたリチャード・ブライトマンの論文はこれを裏づけている.
 規制強化で難民のアメリカ入国は極めて困難になったが,中でも問題だったのは,ナチス支配下諸国に親類のいる申請者の入国を制限するという条項だった.スパイ活動の危険ありというのである.

 移住先としてはアメリカ以外に,マダガスカル・プロジェクトや,中央アフリカ,南米,オーストラリアなどの構想があり,フィリピンではある農場主がユダヤ人1万人を受け入れるという話まであったが,全て実現しなかった.

 詳しくは,H. E. マウル著「日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか」(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.96,167-168を参照されたし.


 【質問】
 なぜハリウッドのユダヤ人は,反ナチ映画を作らなかったのか?

 【回答】
 作らなかったのではなく,作れなかった.米国国内でのユダヤ人差別を恐れ,ハリウッドではユダヤ的なものが徹底的に抑圧されたからだ.

 以下引用.

 百年前,アメリカの土地や基幹産業はすでにWASP(アングロサクソンのプロテスタント.最初に移民したイギリス系のこと)に独占されており,ユダヤ系移民の入り込む余地はなかった.
 しかし,ちょうどサイレント映画が発明され,英語ができず文盲も多い移民達の唯一の娯楽になっていた.
 彼らはそれに眼をつけ,WASPの支配が及んでいない南カリフォルニアに撮影所を作った.
 言語と国境を越えた人類的娯楽,ハリウッド映画の誕生である.

 〔略〕

 ユダヤの陰謀? いや,逆に彼らは徹底的にユダヤ的なものを抑圧した.
 ユダヤ系の俳優にはWASP風芸名を与えた.
 怒った俳優が
「だったらエイブラハム・リンカーンにでもしてくれ!」
と怒鳴ると,モーグル〔映画会社のドン〕の一人はこう言った.
「エイブラハム? それはユダヤっぽすぎる」
 ヒトラーがユダヤ人を虐殺しても,ハリウッドは反ナチ映画を作れなかった.
 戦後,「赤狩り」の名の下にユダヤ系映画人が弾圧された時も無抵抗だった.
 差別を恐れてユダヤ人としての自己主張を自らに禁じたハリウッドは保守化し,60年代後半のカウンター・カルチャーに対応できず,経営的に崩壊.
 映画会社は全てコングロマリットの巨大資本に乗っ取られ,ユダヤの帝国は崩壊した.

 現在,ユダヤ系は主に資本家ではなく,プロデューサーとしてハリウッドで活躍している.

町山智浩著「アメリカ横断TVガイド」(洋泉社,2000.9),p.66-67

 この一件だけ見ても,第2次大戦を巡る様々なユダヤ陰謀論は,どれも荒唐無稽だと分かるだろう.
 当時のアメリカでも,ユダヤ人はそんなに大した勢力ではなかったのだ(だからこそ,ドイツからアメリカへののユダヤ難民の流入が阻止された).


 【質問】
 2007/4/16,バージニア工科大学銃乱射事件で殺害されたリビウ・リブレスク教授(享年76)について教えてください.

 【回答】
 リブレスク教授(右写真)はルーマニアで生まれ育った.
 第2次大戦中,同国でナチスに捕らえられ,ウクライナの強制収容所に送られたが,虐殺を免れた.
 ブカレストで流体力学の博士号を取った後,78年にイスラエルに移住.
 航空工学の権威で,世界的にも名の知れた学者だった.
 85年に研究休暇を過ごしたバージニアが気に入り,工科大の教授に就任した.
 同校でも人望厚き教授だった.

 事件当時,2階の講義室で応用数理学の講義をしていたリブレスク教授は,突然の銃声に授業をやめ,学生たちに向かって叫んだ.
「早く窓を開けて飛び降りろ!」
 70過ぎの老教授が講義室のドアを押さえている間に,学生たちは一人また一人と窓の外へと飛び降りた.
 ところが講義室のドアは結局破られ,リブレスク教授は犯人の放った銃弾を受け命を落とした.

 テルアビブ在住の同教授の息子,ジョーによると,助かった複数の学生たちが,教授の妻マルレナあてに,その状況を電子メールで伝えてきたという.
 ジョーは米メディアの取材に対し,
「逃げ場を失った学生がドアを振り返ると,父が懸命にドアを支えている姿を見たという.
 力尽きて倒れるのを見て,すぐに窓から飛び出したそうだ」
と語った.

 なお,16日は偶然にも,ワルシャワ・ゲットー蜂起を記念してイスラエルが定めた「ホロコースト追憶の日」だった.

 【参考文献】
朝日新聞,2007年04月18日01時14分
毎日新聞,2007年04月18日10:51
朝鮮日報,2007/4/19

Va. Tech Professor, Holocaust Survivor Buried in Israel By Scott Wilson
Washington Post Foreign Service Friday, April 20, 2007; 12:26 PM
(WaPo:ヴァージニアテックの被害者,ホロコースト生存者のLiviu Librescu教授,イスラエルで葬儀 )

------------------------------------------------------
A Day of Mourning By JEREMY W. PETERS Published: April 20, 2007
(NYT:ヴァージニアテック被害者の追悼会,イスラエルではLiviu Librescu教授の葬儀)

------------------------------------------------------
Hero Virginia Tech Professor Buried Friday April 20, 2007 12:16 PM
By BEN WINOGRAD
(AP:ヴァージニアテックの英雄の教授,イスラエルで葬儀)

A child in Nazi-allied Romania during World War II, Librescu was deported along with his family to a labor camp in Transnistria and then to a central ghetto in the city of Focsani, his son said.

Librescu worked as an engineer at Romania's aerospace agency under the postwar
Communist government, his son recounted, but his career was stymied in the 1970s because he refused to swear allegiance to the regime. He was later fired when he requested permission to move to Israel.
-----------------------------------------------

 Librescu教授がテルアビブ大学で過ごしたのは6年間だけらしいけれど,ルーマニアからの出国を支援したイスラエル政府に感謝しており,最後に眠る土地にイスラエルを選んだ模様.
 ユダヤ人の考え方を推し量るのは難しいけれど,民族的つながりの強さには何時も驚かされる.

ニュース極東板

おいおい……


◆◆ナチス・ドイツ圏


 【質問】
 第1次大戦後の旧ハプスブルク帝国地域で,反ユダヤ主義が高まったのは何故か?

 【回答】
 ハプスブルク帝国の遺物と見なされ,戦間期のあらゆる不幸のスケープゴートになったという.
 以下引用.

 〔第1次大戦後の〕最大の犠牲者は,ハプスブルク帝国の臣民の中でも帝国に対して最も熱心で一番忠実だったユダヤ人であった.
 帝国崩壊後,間もなくユダヤ人は大きな問題に直面した.
 他の帝国の臣民にはそれぞれの祖国があったにも関わらず,ユダヤ人には無かった.
 さらに,ハンガリーでユダヤ人の多くは1914年以前に同化し,マジャール人愛国者になっていたが,超国家主義者の標的になり,戦間期のあらゆる不幸のスケープゴートになった.
 旧帝国の他の地域,例えば,民主的なチェコスロバキアでも,多くのユダヤ人がドイツ語を話し,一般大衆からはドイツ帝国と結び付けられる場合が多かったため,ユダヤ人の評判は悪かった.
 痛烈で誇大妄想的,内向きのナショナリズム同士が対立する世界において,ユダヤ人は帝国の遺物だったのである.
 またユダヤ人は,自分達の身の安全のために,経済においてあまりに突出した立場にいた.
 ヒュー・シートン=ワトソンは,冷静に次のように述べている.
「1918年当時,ポーランド,ルーマニア,ハンガリーの産業の殆どがユダヤ人の手中にあり,銀行業も支配していた.
 ……専門的な自由業も,4分の1から3分の2の割合で,ユダヤ人に占められていた」12
 この結果,ユダヤ人に対する不評は高まり,教育や雇用の面でも様々な制限が設けられた.

 とはいえ,この地域で最も反ユダヤ主義に染まっていた者にとってさえ,ヒトラーによる「ユダヤ人問題の最終解決」は想像を超えるものだった.

Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)下巻,p.244


 【質問】
 なぜドイツで反ユダヤ主義が激化したのか?

 【回答】
 ドイツは,あまり関係のない人々が,共通の言語や文化なるものによって無理やりにくっつけられたため,は文化的,宗教的,または社会的・経済的住民集団を抑圧するか,強制的に同化せしめるかにならざるをえないのだという.

 現代でも,少なめに見積もっても国民の15%がファシズム的な価値観の持ち主であると言う.

 以下引用.

おおよそドイツと言われている地域には,時には300以上の領邦国家や伯爵領や自由都市があり,フランス革命後に整理されたとはいえ,19世紀半ばでもまだ30以上の小国家群であった.
 それが1871年に統一されてドイツ帝国となった.
 しかし,人口比から見れば3分の1にも満たない市民層の言葉と共用の,ある程度の共通性があるだけだった.
 あまり関係のない人々が無理やりにくっつけられ,特殊金属のようなもので溶接させられた感が強い.その特殊金属とは共通の言語や文化なるものであり,かつ,統一という軍事的および,それがもたらした未曾有の経済的成功である.

 したがって,19世紀後半のドイツ帝国は,法治国家ではあっても,主権は皇帝にあり,国民主権に基くデモクラシーという意味での国民国家ではなかった.
 特に文化の基盤には「民族精神 Volksgeist 」などというものが想定されていた.

 日本でもその影響で「ゲルマン民族」とか,そのエキスとして「不屈のゲルマン魂」ゲルマン的サッカー」など,なんの根拠もない言葉が使われるようになってしまった.
 〔略〕

 だが,こうしたエトノス〔民族〕に重点を置いた国家は,国民の一部に対する「差別」が西欧型よりさらに強くなる.
 高名な社会学者ライナー・レプジウスは,こう書いている.
「政治的主権の担い手としてのデモス(民)を,何か特定のエトノス(民族)と同一視するならば,どんな場合でも必ず結果として,ある政治的組織体の中での他のエスニック・グループ,あるいは文化的,宗教的,または社会的・経済的住民集団を抑圧するか,強制的に同化せしめるかにならざるをえない」
 1871年以降のドイツ帝国の歴史は,ユダヤ人への,カトリックへの,また労働者階級への抑圧の歴史であった.
 そして最後にヨーロッパ・ユダヤ人の全面抹殺のブログラムとなった.

 もちろん,この西欧型と中欧型の区別はあくまで理念型であって,実際には多くの混合型がある.
 フランスではフランス語ができなければ文明人と見なされない時代が続いた点では,フランス語中心主義だったと言えるし,国籍に関する取り決めも,全てがいわゆる属地主義であったわけではない.
 また,ドイツの場合も,長い間に東欧から色々な形で入ってきて定住したスラブ系の名前の人でも,代が替われば誰もがドイツ人と思うところがある.
 しかし,国籍法を始め,国の根幹を支える価値体系にやはり大きな差があることは間違いない.

三島憲一著「現代ドイツ」(岩波新書,2006.2.21),p.23-24
ただし,ソースとしては信頼性にやや難があるので,
その点は留意されたし

 ※自ら定めた共通の法の下に結集した民(デモス Demos )の作る政治的共同体という考え方である.
 このデモスが歴史や文化や言語を共有している必要は,少なくとも理論上はない.
 〔略〕
 こうしたフランスやアメリカ式の,少なくとも理論上は,文化的共通性とか,ましてや血統上の同質性を前提としない国民国家のあり方を,西欧型と名付けておこう.

(同,p.21-22)

 例えば,1969年と言えば学生運動の激しかった時代で,当局の監視の目は圧倒的に左翼の組織に向けられていたが,その年の連邦憲法擁護庁による半ば義務的な調査でも,90の組織に3万7000人の右翼過激派がいるとされている.
 しかし,そうした「活動家」の数よりも重要なのは,社会学者,政治学者による様々なメンタリティ調査,つまりアンケートだけでなく,長いインタビューやディスカッションを入れた調査によると,西ドイツの住民は60年代から90年代まで一貫して,低く見積もっても15%ほどがファシズム的な価値観の持ち主であったことである.
 フランクフルト社会研究所だけでなく,いくつかある有名な世論調査研究所の調査でも,そうした結果が出ている.

 専門家の疑問は,そうしたメンタリティの持ち主が,社会の合理化,近代化に乗り遅れた下積みの人々に多いのか,あるいは多少とも時代について行けた人々のあいだに多いのかを巡ってなされていた.
 そして実は,一般的印象とは異なり,後者の人々のほうが,右翼的心情に染まりやすいというデータがたくさん出ている.
 人種差別や外国人排斥の温床は,社会の中核部分に常に潜んでいたのだ.

(同,p.78)

 だたし,フランスでも決してユダヤ人差別がドイツに比べてマシとはいえないばかりか,むしろドイツより酷い場合もあるそうなので,それが上述のフランス語至上主義だけで説明できるのかどうか,なおいっそうのデータ蓄積が必要となるだろう. 


 【質問】
 なぜナチはアーリア人を優遇してユダヤを迫害したのか?

 【回答】
 ユダヤ人は,ドイツの多くの地域で工場などの生産設備の所有者であり,社会資本の再整備に当たって邪魔な存在であった.
 また,中世以降連綿と続けられてきたユダヤ人に対する蔑視・迫害も背景にあった.

(世界史板)


 【質問】
 ドイツが施行した各種法及び政策上においては,「ユダヤ人」はどう定義されていたのですか?

 【回答】
 ニュールンベルク法,ユダヤ人規定に準拠.
1,祖父母にさかのぼり,四人の祖父母のうち三人がユダヤ教徒の場合→ユダヤ人(ユーデ)
2,祖父母のいずれか二人がユダヤ教徒で本人も同様の場合→ユダヤ人(ユーデ)
 ※信仰していないと一親等ユダヤ系混血児(ユーディッシュ)とされる.
3,祖父母の一人がユダヤ教徒で,本人が違う場合→二親等ユダヤ系混血児とされる.
4,信仰はないが祖父母にユダヤの血が入っている者→ユダヤ系混血(ハルプユーデン)
 ※平時においては国民とするが非常時にはユダヤ人とする


 【質問】
 ナチスは何を証拠にユダヤ人と断定していたの? ユダヤ教信者をユダヤ人としていたの?

 【回答】
 1935年11月14日付けでユダヤ人の概念を規定した条例が出されており,それによると,

(1)本人の祖父母4人のうち,3人以上がユダヤ教徒であった場合,本人は法的にユダヤ人(ユーデ)となる.
 この場合,両親の宗教の内容は問われない.

 (2)本人の祖父母4人のうち,1人がユダヤ教徒であった場合,本人は法的にユダヤ系(ユーディッシュ)となる.
 本人がユダヤ教徒でない場合は,二親等ユダヤ混血児になる.
 ちなみに祖父母2人と本人がユダヤ教徒の場合,本人はユダヤ人扱いになる.本人がユダヤ教徒出ない場合は,一親等ユダヤ混血児になる…等,かなりややっこしい.

 本来,ユダヤ人を血統的なもの,人種として扱ってきたナチスだが,彼らの法による概念では宗教の属性による分別が行われている.
 仮に血統的に純粋なアーリア人がいたとしても,祖父母3人がユダヤ教に入信していた場合,彼はユダヤ人になってしまうのである.変なの.

(イスラエル国防相 ◆3RWR.afkME)


 【質問】
 ドイツ国内では,ユダヤ人迫害に対し,どんな抵抗運動が起こったのか?

 【回答】
 例えば,署名運動や抗議の退学などが音楽学校学生によって起こった.
 また,フルトヴェングラーはユダヤ系音楽家を擁護するため,新聞に公開書簡を発表するなど東奔西走した.
 また例えば,ドイツ国防軍は,ナチスに距離をとる保守主義者の牙城となっていた.

 以下引用.

 ドイツで1933年にナチス党が政権を奪取すると,ドイツ各地でユダヤ人が組織的に厳しく迫害されるようになった.
 公務員であったユダヤ系音楽家の多くは,公職からユダヤ人を排斥する職業的官吏再建法の成立によって解任されることになり,各地の音楽大学や劇場からも多くの音楽家が追い出された.
 シロタの義弟でデュッセルドルフ国立歌劇場音楽総監督ホーレンシュタインもその地位を失った.
 ピアニストのベルリン音楽大学教授クロイツァー,マンハイム国立歌劇場音楽総監督ローゼンシュトックなども,このとき解任された.

 ユダヤ人迫害のような蛮行が,抵抗なしに受け入れられたわけではない.
 ナチスは反対派を厳しく弾圧したが,ベルリン音楽大学では学生がユダヤ人教授を擁護した署名運動を行なって,ドイツ音楽界の名誉を幾らかは守った.
 ユダヤ系の師と共に学校を辞めて,個人教授に切り替える学生も多かった.
 ユダヤ系音楽家圧迫に反対した人々の筆頭が,ホーレンシュタインの師ヴィルヘルム・フルトヴェングラーで,彼はユダヤ系音楽家を擁護するために新聞に公開書簡を発表した.
 この挑戦には,ナチスもいささかたじろいだ.
 フルトヴェングラーはベルリン・フィルハーモニーの常任指揮者であり,1934年に日本の外交官が日本外務省への公信で報告したように,地位,人格,才能から,ドイツ一般民衆の「圧倒的人望」を得ていたからだ.
 この日本外交官は,ナチスに抵抗するフルトヴェングラーの背後に,ナチスの反ユダヤ主義に賛成しない多くの民衆がいると強調した.
 保守的で愛国的であっても犯罪的行為には反対する人々のことは,ナチスにもなかなか弾圧できなかった.

 さらに日本の外交官は,とりわけドイツ国防軍が,ナチスに距離をとる保守主義者の牙城であることを指摘している.
 この観察も正しく,第2次世界大戦末期に,良心派の将校は1944年7月20日事件(ヒトラー総統暗殺未遂事件)まで引き起こした.

 ドイツ宣伝省のナチス官僚は,ユダヤ系音楽家を擁護するために東奔西走したフルトヴェングラーについて,
「フルトヴェングラーが擁護しようとしないユダヤ人を一人でも挙げることができますか」
と愚痴を言った.
 ホーレンシュタインも地位を失い亡命した時,師の推薦を得て海外で再就職を試みた.
 1933年にナチス体制が成立しても暫くの間,フルトヴェングラーの指導するベルリン・フィルハーモニーはトップ奏者にユダヤ系音楽家を擁していた.
 その一人が,後にピアストロ・トリオの一員としてシロタとも共演したベルリン・フィル首席チェロ奏者のヨーゼフ・シュースターだった.
 フルトヴェングラーはシュースター,コンサート・マスターのゴールドベルクなどユダヤ系楽団員をソリストとして器用,その実力を誇示してナチスに対抗した.

 しかし1934年,作曲家ヒンデミットの処遇を巡ってフルトヴェングラーはヒンデミット擁護の公開状を発表,ナチスの反撃を受けて辞任することになった.
 ベルリン国立歌劇場で活躍した大指揮者エーリッヒ・クライバーも連帯して辞任,ドイツ音楽界は2人の守り手を失った.
 ナチスの統制に屈しないで,ベルリン音楽大学ではもう一度だけ学生の抗議と署名が行われた.
 政治的反対派が容赦なく強制収容所で虐待されるナチス体制の下で,抗議活動を展開した学生の勇気には驚くべきものがあったが,状況を変えることはできなかった.

 あるヨーロッパの音楽家一族に伝わる話では,フルトヴェングラーはいったん亡命を決意したのだが,すでに亡命を余儀なくされていた親友のユダヤ人音楽家に,ドイツの聴衆を見捨てないように懇願された.
 フルトヴェングラーは汚名と批判を被りながらドイツに留まって,友人の願いに応えた.

山本尚志著「日本を愛したユダヤ人ピアニスト レオ・シロタ」
(毎日新聞社,2004.11.20),p.133-135

 伝聞・風説の類にコメントするのも如何なものかとは思いますが,クラシックの演奏家の挿話に明るければ,上記で紹介されている.
『あるヨーロッパの音楽家一族に伝わる話では,フルトヴェングラーはいったん亡命を決意したのだが,すでに亡命を余儀なくされていた親友のユダヤ人音楽家に,ドイツの聴衆を見捨てないように懇願された.』
のユダヤ人音楽家は容易に思いあたります.
 同じドイツが生んだ大指揮者ブルーノ・ワルターBruno Walterであれば,こういった類の懇願をフルトヴェングラーにしたとしても可笑しくないでしょう.

 フルトヴェングラーは1948年にアメリカのシカゴ交響楽団から来演の依頼を受けます.
 このとき,
『ナチスにとどまったフルトヴェングラー等もってのほか』
と,当時のアメリカ・クラシック界の大物,トスカニーニ,ホロヴィッツ,ルービンシュタイン,ハイフェッツ,カザルス等がこぞって反対し,シカゴでの演奏を拒否するとまで,言い放ちます.
 このとき,ユダヤ系でありながらフルトヴェングラーを擁護したのは,弟子筋に当たるメニューインであり,ワルターその人でした.

 ワルターとフルトヴェングラーの親交は広く知られており,
『マーラーはワルターに任せた』
と,ワルターの音楽性への信頼も厚かったフルトヴェングラーですから,仮にワルターから
『どうか,ドイツの人々を見捨てないでください』
と懇請されれば,更なる汚名を被るのを覚悟でドイツに残ったとしても不思議ではありません.

 ちなみに,ナチスの支配するドイツに残ることが相当のデメリットになるとの認識は,1937年時点でトスカニーニと論争になった時点である程度把握できたでしょうし,ストコフスキーに実際に亡命の打診をした時点で,アメリカでの自分への反発の強さを感じていたことは間違いないと思われます.

Hawkeye in FAQ BBS

 こういうのが,ほんまの「武勇伝武勇伝♪」ちゃうやろか?


 【珍説】
 ボイコット運動などを通じ,ユダヤ人はドイツに公然と敵対していたから,敵性外国人として強制収容されて当然.

 【事実】
 おいおい,そのボイコット運動って
http://maa999999.hp.infoseek.co.jp/ruri/gulfwar_02_05_12.html
ここの中ほどで紹介されてる.「ユダヤ人がドイツに宣戦布告」の記事のことか?
 この新聞にははっきりと「BOYCOTT OF GERMAN GOODS」って書いてある.

 否定派はこれを根拠にユダヤ人への待遇を正当化しようとしてるみたいだが,宣戦布告とやらの内容が実はただの不買運動で,実情は失敗していたのに,なぜ強制収容所で隔離されることになるのか.

軍事板


 【質問】
 ユダヤ人の欧州脱出ルートは?

 【回答】
 イタリアが1940/6/10に参戦するまでは,ジェノヴァ,ナポリまたはトリエステから上海への航路が利用可能だった.
 上海航路の船は少なく,しかも6ヵ月から12ヵ月先まで満室だった.
 上海で上陸できる保証はなかったので,往復切符を購入しておく他はなかった.
 イタリアが参戦しても出国制限が導入されたわけではなく,1941年秋までナチスはこれを容認していた.
 他方アジアでは,その間に上海地域を完全に掌握した日本が,難民の群れを止める必要に迫られ,1939年8月以降,入国管理は厳しくなった.

 戦争が続くにつれ,海のルートが閉鎖されたので,難民達はシベリア経由の陸路を選ぶ他なくなった.
 ドイツのポーランド侵攻後,1万人近いポーランド系ユダヤ人が,中立国であるリトアニアに避難.
 そのうち4700人が,シベリア経由で極東へ向かった.その中には杉原千畝のおかげで助かった2千人もいた.

 詳しくは,H. E. マウル著「日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか」(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.100-101を参照されたし.


 【質問】
 大戦中ドイツにはユダヤ人はいなかったんですか?
 みんながみんな亡命か収容所送り?

 【回答】
 まずドイツ本国,それからドイツに占領,併合された地域でも,ユダヤ人に対する扱いというのはいろいろと違いがあった.
 最終的に絶滅政策をとっていた時期もあるけど,強制労働により戦争遂行に必要な人的資源にみなす政策などもあった.
 このへんの事情は「シンドラーのリスト」が扱っている.

 また,ユダヤ人は欧州に歴史的に見ても古くからいるわけで,必ずしも他民族と人種的にきちっと分類できるわけではない.
 ユダヤ人説のあったナチス・ドイツ軍人としては,空軍のエアハルト・ミルヒ元帥が有名.
 また,エーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥もユダヤ人説を疑われ,SSに調査された.
 彼の本名はエーリッヒ・フォン・レヴィンスキー(マンシュタイン家の養子)で,その家系はワルシャワのラビの血を引いていたらしい.

 この他にも,ごく少数だが,ユダヤ系であるにもかかわらず,有力者の妻や係累で特別許可を受けて収容所に送られなかった者もいる.
 書類を誤魔化したり,金を掴ませたり,ナチに積極的協力をする事で黙殺してもらうとか,抜け道は割りと多かった模様.


 【質問】
 ナチス・ドイツ空軍のミルヒ元帥はユダヤ人だったのか?

 【回答】
 現時点では,否定も肯定もできない模様.
 ミルヒの生立ちの秘密については,以下引用.

……だがそんなものよりミルヒの生涯を終始決定的に支配した,ある重大な秘密があった.
 それがミルヒにとってよくよく重大なものだったことは,彼の人生の終り近くになって,ある伝記作家がその真相をつきとめた際にも,ミルヒは頑として口をつぐんで何も語ろうとしなかったことでもわかる.
 (中略)
 ミルヒを生むことになるクララという女性は,自分の叔父とはげしい恋におちたが,そのような結婚が両親からも,また教会のおきてに照らしても許されようはずがなく,クララはやむなく別の相手のアドルフ・ミルヒと結婚した.
 それは彼女に,アドルフの子は絶対に生ませないというきびしい約束の上での,納得ずくの結婚だった.
 クララが後に保護院に収用されるような不治の精神病者となったことでも裏書きされるように,クララが真に愛した男性は叔父であり,叔父の子を生むという条件のもとでクララはアドルフとの結婚を承諾したのであった.
 (中略)
 ……この秘密を彼が知ったのは,中年になってからの一九三三年のことである.それは密告を通じてであった.ミルヒの父親はユダヤ人であると密告したものがあり,ことの真偽をその筋を調査しているうちに右のような出征の秘密が判明したのである.
 この密告は,ナチでも党の枢要の地位にあるミルヒを失脚させようとしての,誰かの工作だったことはもちろんである.
 アドルフ・ミルヒは事実ユダヤ人だった.
 それで息子をアーリア人種に分類されるよう,エアハルトは私生児であるという話を母親が捏造したのだという噂が,まことしやかに囁(ささや)かれるようになった.
 (中略)
「誰がユダヤ人で,誰がユダヤ人でないかをきめるのはこの俺だ!」
と,ゲーリングはミルヒの出生の秘密の噂話を持ち込んでくる者達によく言った.
 だが彼の示すこのような姿勢は密告者たちに,ははあん,さてはゲーリングもこの話の揉み消し側に回っているんだなと思い込ませるだけだった.
 ゲーリングがミルヒ出生の秘密をすべて知っていたことはもちろんである.
 このミステリーへのゲシュタポの探査の背後にはゲーリングがいた.
 自分の右腕になっている男が,自分の母親のいまわしい人生よりもさらに陰惨な出生の秘密をもっているという事実を,ゲーリングが握っていなかったなどとは,考える方がおかしいというものであろう.
(レン・デイトン著「戦闘機」上巻,P65〜67)

 これをもってミルヒがユダヤ人ではない,とは申しません.
 引用した冒頭に出てくる「ある伝記作家」がデービッド・アービング(David Irving)であることはde.wikiなどでも明らかです.先ごろ有罪判決を受けたようですが.
 en.wikiなども調べ,関連サイトも見ましたが,なにやら,蟲がいっぱい詰まった箱を覗いたような気分になったことをご報告申し上げます.

ぴぴ in FAQ BBS


 【珍説】
 実際にユダヤ人は,かなり保護されていた.
 例えばドイツ空軍の最高権力者の一人,エアハルト・ミルヒ元帥はユダヤ人.

 【事実】
 迫害されてないならなんでミルヒは出自を捏造した?
 堂々とユダヤ人だってしとけばいい.

軍事板


 【質問】
 ドイツ国防軍に15万人のユダヤ人兵士がいたのは嘘なんですか?

 【回答】
「長年の内にゲルマンとユダヤの血が混じった」
ので判別不可.
 よって「いた」とも言える.

 あと,「ユダヤ」ってのはユダヤ民族とかじゃないぞ.「ユダヤ教を信じてる人」だからな.
 お前がユダヤ教を信じれば,お前は「ユダヤ人」となる.

 これが,「ナチの定義のユダヤ人」なら,もっとずっと多くなる.
「3代前まで遡って,キリスト教に改宗してようがしてまいが,ユダヤ人の血が混じってないことが証明できなかったらユダヤ人」
というのが,その定義.
 で,厳密に調べ始めたら,ナチ幹部は「ユダヤ人」だらけになったので,うやむやになったとさ.

軍事板


 【質問】
 ドイツ以外の枢軸国に住むユダヤ人は,どのような扱いでしたか?

 【回答】
 国による.
 たとえばイタリア,ハンガリー,フィンランドのような枢軸側でも独立国家であった地域では独自の対ユダヤ人政策をとり,組織的殺戮は行わなかった.
 クロアチアやスロヴァキアのようなドイツの傀儡国家であった地域では,占領地と同じようにユダヤ人の大量殺害が行われた.
 しかし43年のムッソリーニ政権倒壊後のドイツ占領地域や,44年サラッシのファシスト政権が成立した後のハンガリーでは,ユダヤ人の殺戮や強制収容所移送が行われるようになった.

軍事板

 イタリアで反ユダヤ法が制定されたときには,保留事項を多数設けて,骨抜きにしました.
 一つの例は,ユダヤ人一家の誰かがファシスト党員になれば,家族全体が無条件で法律の適用を免除される…とか.
 サロ社会主義共和国成立後,初めて7,500人がドイツに移送されますが,これは全イタリアのユダヤ人の1割に過ぎません.

 東欧でも,ブルガリアは比較的ユダヤ人に寛容でした.
 一応,ルーマニア,ユーゴスラヴィア,ギリシャから得た新領土のユダヤ人15,000人はドイツへの移送だけは黙認しますが,固有領土のユダヤ人に対する迫害政策は,これまた骨抜きにされます.

 例えば,改宗したユダヤ人は迫害の対象から外す…しかも,改宗は何時したかは全く問題にしない…と言うことで,ブルガリアではユダヤ人の改宗が大流行しました.
 では,改宗していないユダヤ人は…星,それも非常に小さなものを付けさせる法律がドイツの圧力で成立したのですが,これまた,付けた人は僅かで,国民は非常な同情を彼らに示しています.
 また,他の国々では,ユダヤ人は首都のゲットーにかり集めましたが,ブルガリア政府は,彼らを地方に分散させます.
 但し,国民はそれに反対し,王宮の前でデモをすると言うことを遣って退けたりもしました.

 ドイツ人は,ブルガリアの大ラビと話をしようとしますが,四方手を尽くして探しますが,何処にも居ませんでした.
 それもその筈.彼は,ブルガリア正教総主教に匿われていたりした訳.

 そんなこんなで,ブルガリア本土では一人も収容所で死んだものはいませんでした.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2006年10月04日22:59

 日本では元々欧州のように反ユダヤ主義の歴史がなく,さらに軍部の思惑もあって,当初はシベリア経由で満州や本土に来たユダヤ人を保護している.

(軍事板)

 しかし,親独傾向が陸軍を中心に広まるにつれ,ドイツからの圧力もあって,次第にユダヤ人を冷遇する方向へ変わり,例えば上海ではゲットーの如きものが作られることになった.
 その変遷は,安江弘夫著「大連特務機関と幻のユダヤ国家」(八幡書店,1989/8)に詳しい.


 【質問】
 フランスではどんなユダヤ人迫害が行われたのか?

 【回答】
 元々,フランスにはユダヤ人差別の歴史があったことから,ヴィシー政権の方が,ナチスより「熱心」にユダヤ人迫害を行ったという.
 以下引用.

 作家エミール・ゾラ(Emil Zola)によるユダヤ人差別糾弾で有名なドレフュス事件を思い出すまでもなく,もともとフランスにはユダヤ人差別の歴史がありました.
 このため,先の大戦前,フランス在住のユダヤ人とフランス人の間にはほとんど交流はありませんでした(注28).

 1940年にフランスはナチスドイツに敗れ,フランスの三分の二はドイツの占領下に置かれ,南部の三分の一にドイツへの協力を義務づけられたヴィシー政権が成立します.

 さて,ご存じのように,ナチスはユダヤ人迫害を始めるわけですが,1944年にナチスがフランスから撤退するまでの間に,ナチス占領下のフランスでは77,000人のユダヤ人がフランス外に移送され(強制収容所に送られた)たのに対し,ヴィシー政権下のフランスでは,81,000人のユダヤ人(24,5000人は元からフランスに在住していたユダヤ人,56,500人は外国から避難してきていたユダヤ人)が移送されています.
 これだけでも,ヴィシー政権の方が,より「熱心」にユダヤ人迫害を行ったことが分かります.
 実際,ヴィシー政権の方が,ユダヤ人の定義を広く取りました.
 おまけにドイツやナチス占領下のフランスでは,キリスト教徒を配偶者とするユダヤ人は移送されなかったというのに,ヴィシー政権では移送したのでした.
 もっとも,当時フランスにいたユダヤ人の約四分の三は逃げ延びることができています.
 これは,ナチスの他の占領地や勢力圏では見られない,高いユダヤ人生存率であるのは確かです.
 しかしこれは,必ずしも当時のフランス人のユダヤ人差別意識が低かったことを示すものではなく,ドイツに対する反感が,一般のフランス人をして積極的なドイツへの協力を控えさせたために過ぎません.
 また,スペインというユダヤ人にとっての聖域が,フランスに隣接していたことも幸いしました.

 いずれにせよ,連合国の一員としてフランスを「解放」したドゴール政権以降,フランスの歴代政権は,ヴィシー政権関係者を裏切り者として断罪し続けてきたにもかかわらず,卑怯にも,このようなヴィシー政権のユダヤ人迫害の事実は隠し通してきたのです.
 フランス政府及び社会が,戦時中のユダヤ人迫害の事実を認めたのは,実に1995年になってからです.
 (以上,http://histclo.hispeed.com/essay/war/ww2/hol/holc-fra.html(11月24日アクセス)による.)

 しかし,まだまだフランス政府は隠している,ということが昨年明らかになりました.
 1944年にフランスが「解放」された時点で,フランス内に約300あった収容所はすべて閉鎖されたと考えられていたのですが,トゥールーズ(Toulouse)の南25マイルにあった収容所だけは閉鎖されず,(米英等の),連合国や中立国の数百名もの市民が,数を減じつつも引き続き戦後の1949年まで収容されていたことが判明したのです.
 どうやらこれらの収容者達は,ユダヤ人の収容所への収容と移送の目撃者であることから,「解放」前後に一箇所の収容所に集められ,「解放」後も密かにドイツに移送され,移送できずに上記収容所に残された人々は,これまた密かに「消されて」行ったようなのです.
 (以上,http://www.guardian.co.uk/secondworldwar/story/0,14058,1318972,00.html(2004年10月5日アクセス)による.)

 (注28)あのニール・ファーガソンは,戦間期までには西欧でユダヤ人社会は非ユダヤ人社会と完全に統合されていた(?!)にもかかわらず,ホロコーストが起こったとし,だから異質の少数派が多数派と完全に統合された・・少数派に対する差別が完全になくなったように見えた・・としても,安心することはできない,と主張している(http://www.latimes.com/news/opinion/commentary/la-oe-ferguson21nov21,0,2648368,print.column?coll=la-news-comment-opinions.11月22日アクセス)が,史実を知らない歴史家は,歴史家の名に値しない.

太田述正コラム,2005/11/25


 【質問】
 手作り自転車で脱出したユダヤ人がいたというのは本当ですか?

 【回答】
 おさるのジョージが主人公の『ひとまねこざる』という絵本を見られたことがあると思います.
 この本の著者レイとその妻マーガレットはハンブルク生まれ.
 マーガレットはハンブルクにある『Klosterschule』という学校卒.
 二人が(二人ともユダヤ人)6月12日,自分たちで組み立てた自転車(それほどすでに交通手段が無い)でパリから脱出しました.
 14日にドイツ軍がパリ入城.
 ぎりぎり.
 自転車をこいで106km南のオルレアンで汽車に乗り,スペイン・ポルトガルを通ってリスボン・リオデジャネイロ・10月14日ニューヨーク着.
 その間,おさるのジョージの原稿も一緒に移動していました.

 昔,何気なく読んでいたひとまねこざるの知らなかったエピソードでした.

バンケン in mixi


 【質問】
 映画「ライフイズビューティフル」を見て気になったのですが,イタリアにはユダヤ人収容所はあったのでしょうか?
 イタリアはユダヤ人弾圧に反対していたのですから,収容所があるのはおかしいですよね?

 【回答】
 16世紀以来,ユダヤ人のゲットーがトリエステにありました.

 1943年9月8日以降,ドイツ軍の占領下(アドリア海沿岸管区)に置かれ,この地のユダヤ人は絶滅の対象となりました.
 トリエステのサン・サッパにある,1913年建設の精米工場には,当時,ドイツ軍が政治犯収容所,ユダヤ人を別の収容所に移送する中継収容所として使用されてきましたが,戦争末期には,掃討した住民,労働者,ユダヤ人のうち,“健康”で「運搬できる者」は,別の収容所に移送し,拷問によって虫の息となったPartisanなどの「運搬できない者」を「処理」する火葬場付き収容所として使用されています.
 その収容所で生じた灰は,アドリア海のムッジャと言う場所の入り江に投げ捨てられていたそうです.

 そう言う意味では,イタリアの地にも収容所はあったと言えるでしょうね.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2)

ちなみに,その「ライフイズビューティフル」のパンフにはこうある.

ProductionNote

 1938年当時,イタリアにいたユダヤ人の数は約4万5千人.そのうちの約8千人がナチスの強制収容所に送られ,生還者は数百人にすぎなかった.
 こうした事実を,ロベルト・ベニーニは数多くの歴史書にあたって調べ上げ,さらにいくつかの生存者グループにも意見を聞いた.
 企画の当初から,紅ーには,この映画を「歴史的な記録ではなく,寓話の文体描く」ことを意図していたが,いっぽうではミラノの現代ユダヤ記録センターと密接な連絡をとりあい,歴史家や生存者の証言を作品に取り入れていった.

越後道起

 ナチスによるユダヤ人殲滅がもっとも酸鼻を極めたのはポーランドで,ポーランド人自身がそれに手を貸したし,ナチスに抵抗するポーランド人すらユダヤ迫害を繰り返す始末だった.
 しかし,この映画の舞台であるイタリア及び同国ファシスト占領地域では,ユダヤ人は比較的人道的に扱われた.
 クロアチアなどの占領地での強制収容所の建設も,リッペントロップ元帥がムッソリーニに強要して,仕方なく実行された.
 フランスやユーゴのナチス占領地域から逃れてきたユダヤ人を匿うイタリア人も多かった.
 とはいえ,この映画にも描かれるように,ドーラの婚約者に祝福を与える黒シャツ隊(ムッソリーニのファシスト隊)や,グイドの叔父のようなイタリア人も,多々いたのである.

 映画は,史実を参考にしたフィクションといったところかな.


 【質問】
 第二次大戦中,欧州で2番目にユダヤ人を最終的解決場所に送ったのは何処の国でしょうか?

 【回答】
 一応,帝国領土となった地区(Austria,Czech,Polandはこの地域に含まれる)を除けば,その国ではその国の国民が,その国に住んでいた75%のユダヤ人を「回収」して,連行し,その国から「最終的解決場所」に送り込みました.
 ちなみに,ベルギーは国王が結構悪し様に言われていても50%.
 ベルギーの警察はドイツ人に協力せず,鉄道員は移送列車の鍵を掛損ね,待ち伏せの為の情報を流しています.
 また,彼らにはなるべく隠れ家が提供されました.

 ノルウェーにはユダヤ人は1,700人しかいませんでした.
 しかも,ドイツからの亡命者で,政府の保護が受けられないとされた人々ですが,それでも,ドイツ人がその移送を命じると,Kisling政権の閣僚の幾人かが辞表を提出します.
 ノルウェーの王室はBBCの放送で,常に彼らの救出を促し,実際にノルウェーのユダヤ人は,900人がスウェーデンに逃れることに成功しました.

 フランスも同様で,反ユダヤ主義のマジャールですら,1944年の矢十字党独裁政権になるまで,言を左右にしてドイツの要請に屈せず,更に盟友だったイタリアも同じ状況だったりします.
 例えば,イタリアにある反ユダヤ主義の指導者は,秘書にユダヤ人を使っていました(ぉぃ.

 〔枢軸国については別項目の通り.〕

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2006年10月04日22:59

 ナチス圏内で,ブルガリアと共に,最も激しく抵抗したのが,デンマークです.
 この国には7,800人のユダヤ人がいました.
 で,これに関する措置をドイツ占領軍が求めると,政府の回答は判で押したように,「我が国にはユダヤ問題など存在しない」と答えるのが常でした.

 ChristianXII世国王が,黄色の星を付けて首都を歩いたと言うのは,伝説ですが,彼は星が導入されたら真っ先に自分が付ける,と常々言っていたそうです.
 1941年12月,首都のユダヤ教寺院が放火された時,国王自らが大ラビに支援のメッセージを送り,放火犯は逮捕されて厳しく処罰された上,放火犯が最高裁に送られた時には,刑が更に厳しくなっていました.
 さて,そんなこんなで1942年,王はちょび髭総統からバースデーカードを貰いますが,その返事は,一言.
「最大限の感謝を.Christian王」
とだけ返して,ちょび髭総統を激怒させ,国防軍のハネッケン将軍とSSのベスト将軍が送り込まれました.

 しかし,1943年夏には造船所で暴動が,都市でストライキがあり,ハネッケンは戒厳令を敷き,レジスタンスを処刑します.
 そこで,SSは,ユダヤ人問題を解決するために,首都に船を回すことになりました.
 普通は,それで終わりな筈.
 ところが,ハネッケン将軍はユダヤ人を駆り集めるための軍隊の提供を拒み,ユダヤ人に「労働」の為に出頭を求める証書の発行も拒んだのです.
 しかも,デンマーク駐留のSS部隊も屡々反対に回り,ベストですら,デンマークからの移送者は,最終解決の為の収容所ではなく,示威用キャンプであるテレジエンシュタットへの移送を本国と交渉しています.

 1943年10月1日,ユダヤ人の輸送を開始する予定で,ドイツから特別警察部隊が送り込まれます.
 しかし,ベストはこの部隊が,ユダヤ人家庭に押し込むのを許さず,ドアをノックして,出てきた者だけを逮捕することになりました.
 その数僅か477名で大多数が混乱した老人だったり.

 残りの人はどうしたか,と言うと,ドイツの海運業者で,後に西ドイツの駐デンマーク大使となった人物が,デンマークの政治家に危険を知らせ,政治家達は大ラビに伝え,9月30日,この日はユダヤ教の新年の前日,その朝に,シナゴーグで大ラビは会衆に危険を知らせ,彼らはいち早く他のデンマーク国民の協力で匿われました.
 非ユダヤ系の人々のうち,特に病院関係者は大活躍し,例えばある救急車の運転手は,電話帳で片端からユダヤ系の名前を見つけて電話を掛けて移送を申し出たり,移送されたユダヤ人を適当な偽名を名乗って,病院に入院させたり,見舞客に化けさせたり,スタッフにしたり,果ては死亡した患者の会葬者になったり….
 特に首都の市民病院では,スタッフ1,000人のほぼ全員がこの救援に関わっていました.

 実は,これにはドイツ軍や警察だって絡んでいます.
 首都の或る街角で,ゴミ収集車を止めたドイツ軍兵士は,中を改めた際に,ユダヤ人が隠れていたのにも関わらず,見逃して行かせましたし,ゲシュタポに捕えられたユダヤ人は,警察まで連行された際,非ユダヤ教徒と結婚していると分かると,彼は逃げなくとも良かった,と諭され,また,彼を逃亡する手助けをしたデンマーク人学生と延々,
「デンマーク侵攻は合法的な行為だったか」
を論じ,彼は4〜5日止められた挙げ句,煙草とコーヒーをおまけに,デンマーク警察に引き渡されたりしています.

 そして,7,800人のユダヤ人のうち,7,200人がスウェーデンにデンマーク人が操る漁船で渡っていったのです.

 普通はそれで満足するのですが,彼らはそれに満足しなかった.
 移送された470人のユダヤ人を解放させるか,より酷い場所に移さないように,心を配りました.
 84歳の学校教師は,数百名の教え子,教育省の役人,コペンハーゲン市長の嘆願書で釈放され,テレジエンシュタットへは,デンマークの政府代表団,赤十字がのべつ幕無しに訪問し,食料の差し入れや,国王のメッセージを届け続けました.
 そして,彼らは1945年4月13日に解放されます.
 その時の死者は,僅かに50名程度にしか過ぎませんでした.

 さて,答え,それはオランダです.
 この国のユダヤ人は,オランダ人警官の手によって連行され――ドイツ人の警察官は,ヒムラー宛の報告書の中で,「オランダの警察は抜群の行動力で,昼夜分たず何百人ものユダヤ人を捕えています.彼らの助けが無ければ,ユダヤ人の一割も逮捕できなかったでしょう」と書いている――,占領下のオランダ政府は,ユダヤ人をせっせと収容所に送り出し,一般市民はユダヤ人から彼らの財産を奪って知らぬ顔の半兵衛を決め込んだりしました.
 ちなみに,Anne Frankを逮捕したのも,ドイツのゲシュタポではなく,オランダの警察官.
 其の内の一人は,1980年まで警察に奉職していたそうです.

「Anne Frankは何を象徴している? オランダの抵抗か,それとも裏切りか?」

 もし,オランダ人に会う機会があったら,こんなことを聞いてみるのも良いかもしれません.

 相手が思慮深い人なら後者を,無邪気もしくは本当の友人と見做していないなら,前者の答えが返ってくることでしょう.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2006年10月05日07:28


 【質問】
 ポーランドでのユダヤ人迫害の実情は?

 【回答】
 以下に,42年6月までのポーランド総督府でのユダヤ人迫害事例を列挙する.

<ワルシャワ管区>

日付   人数   概要
42.02   4618  餓死.ワルシャワにて.[G:89]
42.03   4000  餓死.ワルシャワにて.[G:93]
42.04   4432  餓死.ワルシャワにて.[G:96]
42.05   3636  餓死.ワルシャワにて.[G:98]
42.05.07  2500  ソビボル収容所に移送.リーキから.[G:99]
42.05-10 数百人 脱走.ワルシャワから.生き残りほとんどなし.[G:102]
42.05-10 50    脱走.トレブリンカから.生き残りほとんどなし.[G:102]
42.05-10 4000  森林地帯(パルチェフ付近の)に逃げ込む.ワルシャワ管区
           南部から.生き残りほとんどなし.[G:102]
42.06   4000  餓死.ワルシャワにて.[G:105]

[G:] ギルバート「ホロコースト歴史地図」のページ数.

<ルブリン管区>

日付   人数   概要
42.01  1000  チェシャノフの奴隷労働キャンプに移送.ベルスから.生き残りほとんどなし.[G:89]
42.02.25  1500  チェシャノフの奴隷労働キャンプに移送.トマシュフ・ルベルスキから.生き残りほとんどなし.[G:89]
42.01  96  射殺・殺害.ヴウォダヴァ西部でゲットー移送中に脱走したユダヤ人を探索.[G:89]
42.03.17  1600  ベウジェツ収容所に移送.ルブリンから.[G:91]
42.03.17  843  ベウジェツ収容所に移送.ドゥビエンカから.[G:91]
42.03.17  1343  ベウジェツ収容所に移送.フルビエシュフから.[G:91]
42.03.17  500  ベウジェツ収容所に移送.ベウジェツ村から.[G:91]
42.03.17  十数人  ベウジェツ収容所にて殺害.キャンプ建設に従事していたルビチァ・クロレフスカ村(ベウジェツの南東約8km)のユダヤ人.[G:91]
42.03.18-25  10000  ベウジェツ収容所に移送.ルブリンから.[G:93]
42.03  2000  ベウジェツ収容所に移送.カジミェシ・ドルニィから.[G:93]
42.03  1500  ベウジェツ収容所に移送.ヴァヴォルニツァから.[G:93]
42.03.31  3000  ベウジェツ収容所に移送.オポーレ・ルベルスキエから.[G:93]
42.03  3400  ベウジェツ収容所に移送.ピヤースキから.[G:93]
42.03  272  ベウジェツ収容所に移送.シェニツァ・ロザナ(クラスニスタフ近郊)から.[G:93]
42.03.24  2200  ベウジェツ収容所に移送.イズビツァ・ルベルスカから.[G:93]
42.03  数百人  ベウジェツ収容所に移送.ザモシチから.[G:93]
42.03  2500  ベウジェツ収容所に移送.ビウゴライから.[G:93]
42.03  数百人  ベウジェツ収容所に移送.トマシュフ・ルベルスキから.[G:93]
42.04.09-10  800  ベウジェツ収容所に移送.ルバルトゥフから.[G:96]
42.04  200  ソビボル収容所に移送.ウェンチナから.[G:96]
42.04  2225  ベウジェツ収容所に移送.ウェンチナから.[G:96]
42.04  4200  ベウジェツ収容所に移送.ピヤースキから.[G:96]
42.04.12  2000  ベウジェツ収容所に移送.クラスニクから.[G:96]
42.04  384  ベウジェツ収容所に移送.ラドミシル・ナド・サネムから.[G:96]
42.04  1000  ベウジェツ収容所に移送.クラスニスタフから.[G:96]
42.04  5000  ベウジェツ収容所に移送.チェシャノフから.[G:96]
42.04.10  1650  ベウジェツ収容所に移送.ウハニエから.[G:96]
42.04  1000  ベウジェツ収容所に移送.クラシニチェンから.[G:96]
42.04.11  3000  ベウジェツ収容所に移送.ザモシチから.[G:96]
42.04  2000  ベウジェツ収容所に移送.ルバチュフから.[G:96]
42.05.23  1500  ベウジェツ収容所に移送.コマルフ・オサダから.[G:98]
42.05.08  280  ベウジェツ収容所に移送.シチェブジェシンから.[G:98]
42.05.22  1000  ベウジェツ収容所に移送.ティショフツェから.[G:98]
42.05.27  350  ベウジェツ収容所に移送.ワシチュフから.[G:98]
42.05  1500  ベウジェツ収容所に移送.ベルスから.[G:98]
42.05.06  2500  ソビボル収容所に移送.デンブリンから.[G:99]
42.05  3500  ソビボル収容所に移送.プワーヴィから.[G:99]
42.05.08  3500  ソビボル収容所に移送.コスニコヴォーラ(プワーヴィ近郊)から.[G:99]
42.05.07  1000  ソビボル収容所に移送.ユゼフフ(ヴィスワ川沿いの)から.[G:99]
42.05  3000  ソビボル収容所に移送.オポーレ・ルベルスキエから.[G:99]
42.05  500  ソビボル収容所に移送.ヴァヴォルニツァから.[G:99]
42.05.09  1500  ソビボル収容所に移送.マルクシュフから.[G:99]
42.05.08  1500  ソビボル収容所に移送.バラヌフから.[G:99]
42.05.10  2500  ソビボル収容所に移送.ミーフフから.[G:99]
42.05  500  ソビボル収容所に移送.リソビキから.[G:99]
42.05.09  800  ソビボル収容所に移送.ルバルトゥフから.[G:99]
42.05.23  2000  ソビボル収容所に移送.ヴウォダヴァから.[G:99]
42.05.18  1000  ソビボル収容所に移送.シェドリシチェから.[G:99]
42.05.21  4300  ソビボル収容所に移送.ヘウムから.[G:99]
42.05.14  1200  ソビボル収容所に移送.ゴシクフから.[G:99]
42.05.12  1000  ソビボル収容所に移送.ゾウキエフカから.[G:99]
42.05  1000  ソビボル収容所に移送.ヴィソーキエから.[G:99]
42.05.12  2750  ソビボル収容所に移送.トゥロヴィンから.[G:99]
42.05  1900  森林地帯に逃げ込む.ミーフフ,マルクシュフ,カミオンカから.生き残り100人以下を除く.[G:101]
42.05-10  4000  森林地帯に逃げ込む.パルチェフから.生き残りほとんどなし.[G:102]
42.05-10  4000  森林地帯に逃げ込む.ルバルトゥフから.生き残りほとんどなし.[G:102]
42.05-10  1000  森林地帯に逃げ込む.プワーヴィから.生き残りほとんどなし.[G:102]
42.05-10  14800  森林地帯に逃げ込む.フルビエシュフから.生き残り200人以下を除く.[G:102]
42.05-10  90  森林地帯に逃げ込む.ヤヌフ・ルベルスキから.生き残り10人以下を除く.[G:102]
42.06.10  3000  ソビボル収容所に移送.ビャワ・ポドラスカから.[G:105]
42.06  1000  ソビボル収容所に移送.スワヴァティチェから.[G:105]
42.06  数百人  ソビボル収容所に移送.10才以下の子供数百人.ヴウォダヴァから.[G:105]
42.06.10  1650  ソビボル収容所に移送.ウハニエから.[G:105]
42.06  2670  ソビボル収容所に移送.ドゥビエンカから.[G:105]
42.06.02  3049  ソビボル収容所に移送.フルビエシュフから.[G:105]
42.06.08  1200  ソビボル収容所に移送.グラボヴィエツから.[G:105]
42.06.06  1000  ソビボル収容所に移送.クラシニチェンから.[G:105]
42.06  500  ソビボル収容所に移送.チィツォフ(ルブリン市近郊)から.[G:105]
42.06  100  殺害.ベルスにて.[G:105]

[G:] ギルバート「ホロコースト歴史地図」のページ数.

<ラドム管区>

日付   人数   概要
42.02.19  40  「血の木曜日」.ラドムにて.[G:89]
42.04.27  100  不明.トマシュフ・マゾヴィエツキにて.[G:96]
42.04  70  射殺.ラドムにて.[G:96]
42.04.28  数百人  アウシュヴィッツ収容所に移送.ラドムから.[G:96]
42.05-10  14000  森林地帯に逃げ込む.キェルツェから.生き残りほとんどなし.[G:102]

[G:] ギルバート「ホロコースト歴史地図」のページ数.

<クラクフ管区>

日付   人数   概要
42.03.17  4500  ベウジェツ収容所に移送.ミエレツから.[G:91]
42.04.30  300  不明.グリブフにて.[G:96]
42.04.30  70  不明.ビェチュにて.[G:96]
42.05-10  8500  森林地帯に逃げ込む.クラクフから.生き残りほとんどなし.[G:102]
42.06  3000  ベウジェツ収容所に移送.ピリツァから.途中数百人が脱走.[G:105]
42.06.01  2000  ベウジェツ収容所に移送.クラクフから.[G:105]
42.06.02  5000  ベウジェツ収容所に移送.クラクフから.[G:105]
42.06  500  ベウジェツ収容所に移送.ダブローヴァ・タルノフスカから.[G:105]
42.06  11000  ベウジェツ収容所に移送.タルヌフから.[G:105]

[G:] ギルバート「ホロコースト歴史地図」のページ数.

<ガリチア管区>

日付   人数   概要
42.03.20  1500  ベウジェツ収容所に移送.ラヴァ・ルースカヤから.[G:93]
42.03.15  700  ベウジェツ収容所に移送.ゾルキエフから.[G:93]
42.03  15000  ベウジェツ収容所に移送.リヴォフから.[G:93]
42.03  1500  ベウジェツ収容所に移送.ドロホヴイチから.[G:93]
42.03.20  2000  ベウジェツ収容所に移送.ロハティンから.[G:93]
42.03.25  1000  ベウジェツ収容所に移送.テルノポリから.[G:93]
42.03.31  6000  ベウジェツ収容所に移送.スタニスワウフから.[G:93]
42.04  35  射殺.ソカリにて.[G:96]
42.04.28-30  数百人  射殺.プシェミシルにて.[G:96]
42.04.03  1200  射殺.トルマツにて.[G:96]
42.04.02  1000  射殺.コロムイヤにて.[G:96]
42.04  1000  射殺.ペチェニェジンにて.[G:96]
42.04  400  射殺.サブロトフにて.[G:96]
42.04  950  射殺.クトイにて.[G:96]
42.04.04  1500  射殺.ホロデンカにて.[G:96]
42.04  1000  射殺.スニアトゥインにて.[G:96]
42.05.05  1000  射殺.リヴォフにて.[G:98]
42.05.18  180  不明.トルマツにて[G:98]
42.06  800  殺害.ルトヴィスカの市場にて.[G:105]
42.06  3000  不明.コロムイヤにて.[G:105]

[G:] ギルバート「ホロコースト歴史地図」のページ数.

軍事板


 【質問】
 以前にNHKスペシャルでドイツはユダヤ人没収資産(現金,金塊,美術品等)をスイス銀行を利用して,戦費に充てなければ,ドイツは三ヶ月もたなかったという事が言われてましたが,本当でしょうか?
 個人的にはホロコーストを行わず,それらに充てていた収容所護衛の為の兵士,輸送用の車両,収容所建設の為の予算等を戦争に充てていたら,欧州戦線の状況はかなり違った物になったと思うのですが.

 【回答】
 ドイツは5年間近く戦争していますから,
4年*12月=48ヶ月
として,ユダヤ資産無しで3ヶ月持たないとするならユダヤ資産で45ヶ月以上戦争したことになります.
 戦前ドイツの資産が9割以上,ユダヤ資産でなければありえない計算ですなあ.
 …東南アジアの華僑じゃああるまいし.

 さて,1932年のライヒ財政は,租税収入が87%を占めていました.

 33年にHitlerが政権を握ると,この租税収入の比率は低下し,36年には50%を割り込むことになります.
 その代わりに増えたのが,公債収入と手形金融で,手形金融が36年度に支出の38%,公債収入は同年度に支出の13%を賄っていました.

 この間のライヒ財政収入は一貫して赤字財政です(33年は3%,38年度に6%〜計算方法によっては14%).
 公債収入に関しては,公債の利率を4.5%に抑え,会社の配当を6%に設定してそれを超える場合は,強制的に割引銀行に公債基金として預託し,銀行その他金融機関に公債の引き受けを強制しています.

 それ以外に,ライヒ鉄道の優先株売却(33〜34年),公債償還基金の取り崩し,失業保険制度を元にした,ライヒ職業紹介失業保険庁と,ライヒ社会保険機関からの財政援助が,国家財政とは別に行なわれています.

 後,1938年度以降,ドイツ国籍のユダヤ人に対する特別財産税,これは1938年度に4億9851万マルク,39年度は5億3313万マルクが徴収されています.

 このほか,オーストリア併合に伴い,国防などの行政経費相当分が州となったオーストリアからライヒ政府に1億8741万マルク,社会保険料としては,5608万マルクが納入されています.

 更に,1939年1月からは,ライヒ税法による所得税の適用が行なわれていますが,これは旧オーストリア国民にとってみれば,配偶者と子供二人を持つ労働者は20%の増税となっています.

 それと,チェコスロヴァキア併合で,中央銀行の7786万マルクの準備金が没収され,ライヒ政府の会計に組み込まれています.

 一方,1933〜37年度の国防支出は323億マルク,これは政府支出925億マルクの35%です.
 この支出には,メフォ手形と呼ばれる政府特殊手形が206億マルク,雇用創出手形2億マルクが入っており,国防費に投入された租税収入は,償還費用を除けば,190億マルクになります(租税収入509億マルクの37.3%).
 ユダヤ人からの特別財産税なんてへの突っ張りにもなりません.

 こういった種々の手形や公債での国防費管理は限界に達し,1938年末には国庫の資金は20億マルクの不足に陥り,10月のズデーテンラント侵攻の費用にも事欠く有様だったりしていました.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2他)


 【質問】
 ユダヤ600万人殺害って数字は,どの程度根拠があるのかな?
 なんか,数がデカすぎてさ.ホンマかいなって思ってしまう.
 もう少し少なかったんじゃないかな?と.

 【回答】
 国別にもちっと細かい数字もあるが.
 この数字には「戦争が起こったことでの人口減」(かなり間接的に“殺された”わけだよね)も含まれてる.全員が全員,ガス室に消えたわけではない.

 ただ,それをさっぴいても有史以来ぶっちぎりのジェノサイドなので,ドイツも今更数が多少減ったところで,と諦念にある.

世界史板

 下記のサイトに,「600万人」の根拠として以下の内容の記述があります.
http://clinamen.ff.tku.ac.jp/Holocaust/600.html

 「600万人」という数字自体の信憑性を立証するものとは言い難いかもしれませんが,一応の根拠として紹介します.

-------引用----------------------------------------------

 1945年11月26日になされた元親衛隊保安本部の少佐ヴィルヘルム・ヘットル(Wilhelm Hoettl)の宣誓供述書があります.
 それはニュルンベルク裁判に提出され,これが世界中にユダヤ人犠牲者の数として流布されたのです.
 ヘットルはアイヒマンを個人的にもよく知っており,1944年8月末にどれほどのユダヤ人が殺されたのかを,「歴史家としての」(alsHistoriker)興味からたずねています.つぎがアイヒマンの答えです.

「彼[アイヒマン]は少しまえに,ヒムラーが殺されたユダヤ人の正確な数を知りたいといったので,彼に対する報告をまとめた.
 彼はそのさい,自分の持っている情報を基礎にして,以下のような結果をえた.
 さまざまな絶滅収容所で,約400万人のユダヤ人が殺され,他方でさらに,200万人が別のかたちで殺されたが,その大部分はロシアに対する戦争の間に,保安警察の特別コマンド[移動殺戮部隊]によって殺されている.
 ヒムラーはこの報告に満足しなかったようだ.というのは,彼の意見では,殺されたユダヤ人の数は600万より多いはずだったからだ.
 ヒムラーはこう宣告した.自分の統計局からひとりをアイヒマンに派遣し,アイヒマンの資料をもとにして,新しい報告を作成させ,そこで正確な数を仕上げるべきだ,と.
 私は,アイヒマンの私に対する上記の情報は,正しいものだと受け入れざるをえない.というのも,問題にかかわった人々のなかで,彼だけが殺されたユダヤ人の数について,最良の概要を作れたからだ.云々.」(IMT,Bd.31,p.86.(2738-PS))

 アイヒマンは周知のように,親衛隊におけるユダヤ人問題処理についての,事実上の最高責任者といってよく,彼の計算結果がそのまま受け入れられたのは当然でした.
 ヒムラーが実際に,もっと高い数字の結果をえたかどうかは,判明していません.

-------引用終わり----------------------------------------------

lala in FAQ BBS

 被害者の統計的精査で最も包括的なものは,イスラエル・ガットマンらによるもの.
 「Encyclopedia of the Holocaust (Macmillan Library Reference) (Hardcover)」の中で,ナチスの支配下に入った各国毎に,住民票,選挙人登録記録等によりナチスによるユダヤ人の拘束前のユダヤ人人口をカウント.
 その後のドイツ国鉄による強制収容所移送記録,アインザッツグルッペによるユダヤ人処理報告,警察連隊によるユダヤ人殺害報告等を加算.
 戦後,原居住地に帰還,もしくはイスラエルに移住した,収容所からの生還者に広汎にインタビューし,行方不明者・殺害が確実視される被害者総数の累計が560万から586万と弾きだしている.
 当該追跡調査には,オランダ赤十字などが純粋に連行された自国民の安否確認という意味合いで参加している.
 ロシア・ウクライナなど旧ソ連内の犠牲者に関しては,原則的にアインザッツグルッペによる報告のみでのカウント.

軍事板

 【珍説】
そりゃ,印象操作のプロが書いたすごい物だろうから,良くできているだろうと思うよ.

>収容所からの生還者に広汎にインタビューし,

 これがある限り無価値に近いな.
 インタビュアー,レポータが信用できるかどうかの問題だ.

 【事実】
 自分でいっぺん読んでみなって.

 インタビューに一番力をいれたのは,オランダ赤十字ね.
 この調査があってはじめて,アンネ・フランクがベルゲン・ベルゼンで病死したことがほぼ確定できたのよね.
 インタビューのなかで,アンネ・フランクの死亡は2月中とほぼ間違いないとしてたけど,尚,慎重に3月中までには死亡が確実視されるっていう線を出すだけの分別があるわけ.
 この種の卓見を示した否定派文献って寡聞にして,知らんな.

 ああ,それとね,オランダ赤十字の調査って戦後すぐに着手しててね,ガットマンはそれを引用してる.
 まあ,そう意味では,俺のオランダ赤十字の参加ってのは厳密には間違い.

 とりあえず,史料出したんだから,頑張って読んで,反証あげてくれや.

軍事板


 【珍説】
 肯定論者が主張するアウシュヴィッツの犠牲者の数は400万→150万→100万→63万→36万人…と,どんどん減少しつつある.
 フリツォフ・メイヤー(Fritjof Meyer)に至っては35万6千名にまで下方修正している.

 修正派の意見に反論できなくて,アウシュヴィッツの死亡者をどんどん減らしていってるくせに,全体の犠牲者は相変わらず「600万」と主張している正史派の方が明らかにおかしい.

 アウシュヴィッツの変貌については
http://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/faurison_02.htm
を参照されたし.

 【事実】
 否定論者が出してくるアウシュヴィッツの死亡者のリストって,西暦順に並べると減ってないんだよな.
 何で時間にともなって「減ってる」って錯覚してるんだ?

<900万人>ドキュメンタリー映画『夜と霧』による.                  1956年
<800万人>フランス戦争犯罪調査局とフランス戦争犯罪情報サービスによる 1945年
<600万人> Miklos Nyiszli (1951)の序文の筆者Tibere Kremerによる
<400万人> ニュルンベルク裁判が「法廷に顕著な事実」としたソ連側資料による.1945年
ただし,1990年に撤回される.
<300万人> アウシュヴィッツ所長ルドルフ・ヘスの自白による. 1945年
<150万人>1995年にビルケナウの記念碑で,1990年に放棄されていた400万人
という数字と差し替えられた数字.
<100万人>Jean-Claude Pressac (1989)による.
<80万人から90万人>歴史家Gerald Reitlinger (1953)による.
<63万人から71万人>Jean-Claude Pressac (1994)

 400万人というのは,誇張が明らかだったため,昔の西側の学者がだれも被害者を割り出す手がかりとしなかった数字である.
 西側の研究家は最初から信用していない.
 さらにソ連は「200万人のユダヤ人と200万人のポーランド人が殺された」と主張していたのであって,400万人全部がユダヤ人であるとは言っていない.

 ソ連当局,ポーランド当局,西ドイツ当局は,大戦中にアウシュヴィッツ当局が保管していた死亡登録簿(Sterbebucher)の存在を認めることに慎重であった.
 各国の当局はついに,登録簿の存在を公にした.彼らは登録簿を復元したと主張したが,それは,1941年7月27日から1943年12月31日までの期間であった.
 収容所の開設は1940年5月20日であり,ドイツ人が撤退したのは1945年1月18日であるから,死亡登録簿が復元された期間は,収容所の存在期間の半分強である.
 復元された登録簿は46巻であり,そこには69000名の名前が記載されている.

 メイヤー論文そのものは独語なので,まだ手をつけていないが,英訳された,同論文に関する評伝等をみる限り,その内容は疑ってかかった方が良い.
 いくつか例示すると
・死体焼却炉の処理能力を2200人から1200人程度に減らしている.
 この根拠を,焼却炉の設計・施工したトウプ社の技術部門からの書簡に求めているが,マイヤーは設計段階で2200人,施工完了後1200人としている.
 実際の書簡の日付は逆で当初1200人と見積もったが,稼動後の状況で2200人は処理できるとなっている.
 明らかに,作為的な論旨を展開している.

・焼却処理された人数の母数を,マイヤーはハンガリーからの移送されたユダヤ人を従来の40万人から, 10万人程度に減らしているが,40万人というのは『誇張されている』とだけ記しており,具体的な根拠をあげていない.
 40万人は,ドイツ国鉄の運行記録,ならびにハンガリーでの移送報告によるもので,2700人を3000人と丸めるようなケースは当然存在したであろうが,統計上の誤差脱漏以上の差異は,両記録のクロスリファレンスでは見受けられない.


 そもそも死者数は”推定値”であって,誰も正確な数だとは主張してない.
 ”推定値”なのだから,研究が進めば数も変わるわな.
 それを否定の証拠などと見なすのはナンセンスだ.

 そういえば最近の保守派の言い分では,シベリア抑留者の数と死亡者の数が,実は公表されていた数の数倍だったとかそんな話が出てた.
 つまり否定派の論理に従うなら,シベリア抑留は捏造ということですな(笑)

軍事板
軍事板(青文字)


 【質問】
 ナチスは,ユダヤ人以外の民族もかなりの数を虐殺しているというのは本当でしょうか?

 【回答】
 調べればすぐに出てくると思うが…
 ソ連領内でもユダヤ人以上にロシア人を殺しまくってるし,ジプシーもやられた.
 同性愛者,社会主義者,身体障害者は,ドイツ人であっても収容所送り.ドイツ人だけでも50万と言われている.
 ナチスの収容所=ユダヤ人用という認識が強すぎるし,他はもう抗議しないので話題にならないが.


 【珍説】
http://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/treblinka/07.htm
http://vho.org/GB/Books/t/#
試訳:東部占領地区での特別行動部隊の役割

「それら[文書]は謄写版刷りであり,署名があるものはまれである.
 もしあったとしても,犯罪的な内容ではない頁についている.
 たとえば,資料NO-3159は,R. R. Strauchの署名がついているが,特別行動部隊のさまざまな部隊の配置がしめされている冒頭の頁だけである.
 1942年8月−9月に363211名のロシア系ユダヤ人を処刑したことをヒトラーに報告したヒムラーの報告とされているNO-1128もある.
 この話はその4頁目に掲載されているが,ヒムラーの署名とされている署名は不適切な1頁目にある.
 さらに,ヒムラーの署名を偽造するのは簡単である.
1つの水平線に3つの垂直線を引けばよい」
「ドイツ国防軍総司令部裁判でのアメリカの軍事法廷がすでに述べているように,『ソ連邦事件報告』は配置,指定時刻,部隊,その他,兵力,装備,補助兵力,兵站などの詳細について非常にあいまいである.
 ベルリンで書かれた,あるいは書かれたとされる文書の断片にある数字は,たとえ報告自体が本物だとしても,歴史家にとってはきわめて脆弱な証拠である.
 文書の断片に登場している数字は,偽造可能であり,文書を綿密に検証することが必要だからである.」

 これに反論してみろ.

 【事実】
 その記述は,ソ連軍が,RSHAから押収した文書を元に論旨を展開しているが,警察連隊,ゾンダ−コマンドの報告は,より信頼性の高い,国防軍日次戦闘報告にふんだんに存在する.
 これらに関しては,署名・書式・糧食人員等他の戦闘部隊と同様の記述が残されていて,史料性に関して疑念の入る余地はない.
 こういった,より信頼度の高い史料を無視して,論旨を展開しても信憑性にかける.

ワシントンの国立公文書館に
Die Kommanndierende General der Sicherungstruppen und Befehlshaber im Heersgruppe Mitte
で,問い合わせをすれば,少し高いが,マイクロフィルムからのコピー送ってもらえる.

軍事板


 【珍説】
 ゲリラ・パルチザン狩りはしたが,ユダヤ人絶滅など知らない・・・・と

  犯罪を認める証言の中でも,オーレンドルフ将軍の証言は,具体的な真相を明らかにするものである.
 彼は,一九四一年の夏から一九四二年の夏まで,ロシア南部でパルチザン活動を指導していた政治委員の処刑を任務とする“アインザッツグルッペン”[機動分隊]を指揮していた.

 国際軍事裁判で,彼は,その任務に加えて口頭命令で支給されたトラックを利用してユダヤ人を絶滅する任務を受けており,その対象には女性と子供も含まれていたと告白した(ニュルンベルグ国際軍事裁判記録[原注1]).

 ニュルンベルグ軍事裁判の第九事件におけるオーレンドルフ将軍の二度目の証言は,まったく異なるものになっていた.
 最初に彼は,ユダヤ人絶滅の口頭命令に関する国際軍事裁判での告白を撤回した.
 彼は,ユダヤ人とロマ人を殺したが,それはパルチザンとの戦闘の範囲内でのことで,ユダヤ人やロマ人を絶滅する特別の計画に従ったものではないと主張した.
 
 ttp://www.jca.apc.org/~altmedka/nise-18.html

 【事実】
 すげぇな.
 ユダヤ人は東欧・ロシアで師団単位のゲリラ部隊を編成してたんだ!
 しかもドイツ軍は毎月師団単位のゲリラを殲滅していたことになるなぁ.

 えっと・・・誰の仮想戦記でしょうか?

 まず,アインザッツグルッペン”[機動分隊]が編成されたのは戦前からで,
>戦争中に,ソ連のゲリラに対抗して
ではない.

 Einsatzgruppen (German for "task forces" or "intervention groups") were paramilitary groups operated by the SS before and during World War II.
http://en.wikipedia.org/wiki/Einsatzgruppen

 戦前の警察機動部隊が,その前身.

 自然発生的にパルチザンが活動はじめたんは.1942〜43以降だろうが,アインザッツグルッペの最初のユダヤ人殺害報告は1941年6月23日,
 つまりは独ソ戦開始の翌日.
 千人単位の殺害報告が各警察大隊から上がるのは同年6月29日から.

 ソースはGoldhagenなり,公文書館のOKHの警備部隊日次報告をみれ.

 それでも,上記部隊によるユダヤ人殺害が戦闘行為といいたいなら,この日付で,既にパルチザンが活動して,しかもそれにユダヤ人が多数参加していた,というソースを出して来な.

 また,こんな資料もある.

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/6/64/Himmler_report.jpg

2・ゲリラの支援者と容疑者
A:「支援者」の処刑数:四ヶ月で一万四千人
B:「支援者」の逮捕数:四ヶ月で一万六千人
C:「ユダヤ人の処刑数」:四ヶ月で36万人

 どう見てもゲリラとは別に処刑されてます.
 本当にありがとうございました.

 A:戦闘中に殺害した数
は四ヶ月の間に1500人程
 B:直ちに処刑された捕虜数
は700人程
 C:拘束され尋問された後処刑された捕虜数?
は8000人程.
 つまり2・のパルチザンシンパとは別に報告されている.

 四ヶ月で36万人を処刑するのはどう見ても,パルチザンのシンパ狩りに運悪く巻き込まれたレベルを超えていますよ.
 しかもわざわざユダヤ人と通常のシンパを別に報告しており,処刑された数もユダヤ人が圧倒的に多い.

 そもそも,「撤回した」って本当?

オーレンドルフの1946年1月3日の証人尋問

OHLENDORF: The instructions were that in the Russian operational areas of the Einsatzgruppen the Jews, as well as the Soviet political commissars, were to be liquidated.
COL. AMEN: And when you say "liquidated" do you mean "killed"?
OHLENDORF: Yes, I mean "killed".

事件9のオーレンドルフの宣誓供述書

The Einsatzgruppen had the following assignments:
They were responsible for all political security tasks within the operational area of the army units and of the rear areas insofar as the latter did not fall under the civil administration.
In addition they had the task of clearing the area of Jews, Communist officials, and agents. The last named task was to be accomplished by killing all racially and politically undesirable elements seized who were considered dangerous to the security.
I know that theEinsatzgruppen were assigned partly to the reconnaissance of guerrilla bands, fighting guerrilla bands, and to military tasks and, after completion of their basic assignments, were partly converted into combat units.

 他に,オーレンドルフが供述変えたってソースある?

軍事板


 【珍説】
 SSがユダヤ人を虐待することは犯罪だった.
 アウシュヴィッツ収容所では親衛隊員すべてが
「私はいかなる囚人も傷つけたり殺害することを許されない」
という内容の宣誓書に署名させられた.
 したがってホロコーストは捏造.

 【事実】
 そりゃ,SSの治安部隊としての面からすれば当然のことだろう.
 下手に私刑行為がまかり通れば,規律が崩れる.
 ワルシャワ蜂起でのディレルヴァンガー特別連隊やカミンスキー旅団なんかいい例だ.
 それともSSを,SAみたいなチンピラゴロツキ(だつお風)集団とでも思ってるのだろうか?

 ロシア中部HSSPFだったバッハ=ツェレウスキーが神経をやられて,肝硬変を起こして職務続行が困難になったのも,オットー=ラッシュSS少将が職務放棄したのも,ハインツ=ヨストSS少将が転地療養となったのも,単に「ゲリラの掃討とそれに伴う民間人の犠牲」に耐えられなかったからか?
 ライヒ保安本部への「事件通報・ソ連」は捏造か? これに記載してあるユダヤ人の数は誇張されてるのか?

 ディルレワンガ−連隊の戦闘日誌でも,ユダヤ人とシンチ・ロマの殺害は別枠で報告してるんだよね.パルチザン何人,同容疑者何人,ユダヤ人何人,ロマ何人って報告の仕方になってる.
 その仕方はアインザッツグルッペンの報告でも同じ.
 無論,戦線後方の治安を担当した,数多くの警察大隊(ORPO指揮下)も同じく.

 いずれも,SSの組織内だけど,命令系統って別だし,
 こんなの見てると,戦線後方で活動の中に,ユダヤ人の狩り出しと殺害っての含まれるが,SS全般の共通の了解事項にしか見えないのよ.
 ってことは,組織としての虐殺行為の傍証って感じではあるなあ〜

 ナチスの理解では,パルチザンや人民委員の処刑は直接的だが表面的な方策,
 ユダヤ人やロマの処刑は,間接的だがより根本的な解決をめざすやり方という感じだろう.
 で,後者が今日ジェノサイド,すなわちホロコーストとして理解されているわけだ.

 ディルレワンガ−に関しては
『The Cruel Hunters: Ss-Sonderkommando Dirlewanger Hitler's Most Notorious Anti-Partisan Unit (Schiffer Military History) (Hardcover)』
 脚注で,アメリカ国立公文書館所蔵のマイクロフィルム:中央軍集団警備部隊報告

 警察連隊に関しては
『Uniforms, Organizations & History of the German Police, Vol. 1』

 同書脚注では,下記の書籍からの引用となっている.
『Hitler's Willing Executioners: Ordinary Germans and the Holocaust (Paperback)』
by Daniel Jonah Goldhagen
 Goldhagenの原著は未読のため,一次史料に関しては不明.
 個人的見解だが,『Uniforms・・・』の著者Angoliaの過去の実績から見て,記載内容に信頼が持てない書籍から引用はしないとおもわれるので,少なくともAngolia自身はGoldhagenの記載を信頼に値するものと考えていたのは確実.

軍事板


 【質問】
 ネオナチの外国人襲撃は,どれだけ増加しているのか?

 【回答】
 91年頃から急増し,92年の1年間で死者17人,4000件強の外国人に対する刑事事件が起き,その内700件以上が焼き討ち事件だったという.
 以下引用.

 1991年頃から,一般にネオナチと総称される様々な集団による,外国人への暴力沙汰や殺人事件が一気に増え始めた.
 既にドレスデンでは91年の3月に,走行中の市電からモザンビーク人が突き落とされて死亡しているし,同年6月には,南ドイツの風光明媚な町フリードリスハーフェンでアンゴラ人がスキンヘッドに殺されている.
 9月にはフランス国境近くのザールルイでガーナ人が放火により死亡、といった具合で東西〔ドイツ〕の区別がなかった.

 だが,人々の耳目を顫動〔せんどう〕したのは,91年九月に旧東独のホイアースウェルダという工業都市で起きた,外国人宿舎への大規模な襲撃事件である.
 襲撃後,当局は今後を恐れて外国人を「疎開」させたが,これが火に油を注ぐことになった.要するに襲撃すれば「外国人抜き」(ナチの時の「ユダヤ人抜き」のもじり)にできると受け止められたからである.
 この事件は,旧東独時代の計画経済による人工的工業都市の侘しい団地が舞台だった.
 そのため政府は,劣悪な都市環境による人心荒廃を理由に挙げて説明しようとしたが,このような「情状酌量」は政治的鈍感さでしかなかった.
 というのも,旧西ドイツ北部の「普通の町」メルンでも,92年11月23日未明に残酷な放火事件が起きたからである.トルコ人の家に火がつけられ,3人が亡くなった.警察には「ラッツェブルガー通りで火事だ.ハイル・ヒトラー」という電話があった.
 さらに92年の8月24日には,旧東独のバルト海に面した古い港町ロストックの郊外団地リヒターハーゲン地区で越南人や庇護権申請中の外国人が沢山住むアパートに,数日に渡って大規模な襲撃が繰り返され,アパートが燃え盛った.
 幸いこのときは,住民達が屋根伝いに隣のブロックに逃げたために死者は出なかったが,警察も消防も初めは真剣に事に当たらず,襲撃犯や放火犯のなすがままだった.機動隊長は午後に「休憩」と称して家に帰って昼寝をしていたという有り様で,さすがにこれは後で問題になった.
 襲撃は4日間続き,2日目以降は一晩中燃え盛った火事の光景を始め,一部始終が全ドイツにテレビ中継された.
 周りには夕方になると集まる右翼の若者と見物人目当てにソーセージ屋のスタンドが立ち,野次馬達がビールを片手に外国人が逃げ惑うのを見て歓声を上げる始末だった.

 92年から93年にかけて,外国人への襲撃のニュースがない日はない,といっていいほど事件が続いた.
 例えばロストックの事件直後の92年8月30日のたった一日だけで,シュヴェリーン(旧東ドイツ)で,60人の集団が庇護権申請者の収容所を襲い,旧西ドイツのダルムシュタット近郊で外国人の宿舎に何発も銃弾が撃ち込まれ,アイゼンヒュッテンシュタット(旧東ドイツ)では,八十人のスキンヘッズが同じく庇護権申請者の収容所に放火するなど,全ドイツで7件も大規模な事件が起きている.まさに同時多発攻撃である.

 翌93年5月30日,旧西ドイツのゾリンゲンで,子供も含む4人のトルコ人が焼き殺され,多数が大火傷を負った事件は,世界中の耳目を驚かせた.
 外国人宿舎にスキンヘッズの若者が野球のバットを持って侵入し,乱暴狼藉を働くのは,あるいは夜の街路で肌の色の違う外国人が襲撃されるのは,この頃,日常茶飯事だった.
 地下鉄で外国人が半殺しに殴られているのを,他の乗客が黙って見ていた事件もあった.

 結局,92年の1年間で死者17人,4000件強の外国人に対する刑事事件が起き,その内700件以上が焼き討ち事件だった.
 また,ユダヤ人墓地の破壊も頻発した.
 1990年までは旧西ドイツで年間に200件から250件ほどだった右翼の暴力沙汰は,91年にほぼ1500件,92年には4000件となった.
 2年間で20件に増えたことになる.

三島憲一著「現代ドイツ」(岩波新書,2006.2.21),p.64-67
ただし,ソースとしては信頼性にやや難があるので,
その点は留意されたし

 穏やかなトロムソの町にも,ナチスを気取る青年がいます.
 彼らを山で厳しく鍛錬させ,歴史の大家にナチスの戦時中の蛮行について講義してもらったが,効果がない,どうしたものかとの訴えが〔,トロムソでの国際会議にて〕ありました.
 野村生涯教育センターでは,家族や学校から排斥される若者をまず受け入れる.
 そして,彼らの人生を狂わせた原因が,家族に,学校にないか,親,教師の側から自己凝視を行う.
 そこから話し合いの糸口が見つかる,と東西の対話が続きました.

原不二子著「通訳ブースから見る世界」(ジャパンタイムズ,2004.12.5),p.148


◆◆◆強制収容所関連

 【質問】
 強制収容所は強制労働を目的とするものだったのか?

 【回答】
 強制収容所は強制労働にも使われた,という.
 以下引用.

 ある読者が,私〔太田〕が
「ユダヤ人を主体とする強制収容所が強制労働を目的とするものであったとする指摘は,ホロコースト否定論者によっても全くなされていない」
という主張をコラム#976で行い,その論拠の一つとして,ホ
ロコースト否定論を論駁している
http://www.nizkor.org/qar-complete.cgi
というサイトでも,そんな指摘は取り上げられていない旨記したところ,
「取り上げられている」
という反論を寄せられました.
 同サイトの関係ありそうな箇所は,下掲のとおりです.

6. If Auschwitz wasn't a "death camp," what was its true purpose?
The IHR says (original): It was a large-scale manufacturing complex.
Synthetic rubber (Buna) was made there, and its inmates were used as
a workforce. The Buna process was used in the U.S. during WWII.  
The IHR says (revised): It was an internment center and part of a
large-scale manufacturing complex. Synthetic fuel was produced
there, and its inmates were used as a workforce.
Nizkor replies: True to some extent. Auschwitz was a huge complex;
it had ordinary POW camps (in which British airmen were also held,
and they testified of atrocities in the nearby extermination camp).
Auschwitz II, or Birkenau, was the largest camp, and the gas
chambers were there. Auschwitz III, or Monowitz, was the industrial
manufacturing plant. Many prisoners were indeed used for forced
labor in Auschwitz. But the "unfit" -- meaning the elderly, the
children, and most of the women -- were immediately sent to the gas
chambers.

(太田訳)
 第6問 アウシュヴィッツ「死の収容所」ではないとして,一体それは何だったのだろうか.

 IHRの以前の答え:
 大規模な製造施設だった.合成ゴムがここでつくられ,収容者は労働者として使われた.
 同様の合成ゴム工場は先の大戦中に米国にもあった.

 IHRの現在の答え:
 大規模な製造施設の名称であると同時にその一隅にあった収容センターの名称.
 合成燃料がここでつくられ,収容者は労働者として使われた.

 Nizkorによる論駁:
 部分的には正しい.アウシュヴィッツは巨大な施設だった.
 通常の捕虜収容所(そこに捕らわれていた英空軍兵士達は,近くの絶滅収容所での残虐行為の証人となった)もあった.
 アウシュヴィッツ2またの名はビルケナウ(Birkenau)は最大の収容所であり,ガス室(複数)がそこにはあった.
 アウシュヴィッツ3またの名はモノヴィッツ(Monowitz)は産業製造工場だった.沢山の囚人達がアウシュヴィッツで強制労働に使われた.しかし,「不適者」,すなわち老人と子供と大部分の女性は,直ちにガス室に送られた.

 これは,IHR(Institute for Historical Review)というホロコースト否定団体によるQA形式のパンフレットの,各Aに対し,Nizkor名で反駁を加えたもののうちの一部です.
 さて,ユダヤ人絶滅計画が実施に移された1942年以降,ユダヤ人が収容されていた収容所は,ポーランド内だけでも6箇所もあり,このほか,ソ連領内にも同様の収容所があるにもかかわらず,IHRが(ユダヤ人が収容されていた収容所としては一番大きいとはいえ,)アウシュヴィッツしか工場を併設していた収容所を挙げていない,というのが留意すべき第一点です.
 しかも,「収容者は労働者として使われた」と言っているだけで,「ユダヤ人収容者は(あるいは,ユダヤ人収容者も)労働者として使われた」とは言っていない,というのが留意すべき第二点です.

 つまり,IHRは,アウシュヴィッツだけではユダヤ人も強制労働に使われていたと言いたいわけではなく,要は,アウシュヴィッツは工場施設であって,労働力として(通常の労働者のほか)収容者も使われていたけれど,ユダヤ人絶滅施設ではなかった,ということが言いたいのでしょう.

 ですから,ホロコースト否定論者が,収容されたユダヤ人は,(労働に耐え得ない者を除き,)全員強制労働に使われていた,ということを主張していた,ということには,冒頭の典拠からはなりません.
 後は蛇足です.
 ナチスは,時間をかけて次第にユダヤ人迫害のレベルを上げて行ったのであって,(地域によって時期的にはズレがあるが)やがてユダヤ人全員が収容所に入れられ,強制労働に使われるに至り,その後,1942年からは絶滅目的でユダヤ人虐殺が開始され,逃げたり隠れたりして収容所行きを逃れた者以外の欧州及び占領下のソ連のユダヤ人は,終戦までにほぼ絶滅されます.
以上,http://72.14.203.104/search?q=cache:6PUhBLKjwaEJ:www.virtualmuseum.ca/Exhibitions/orphans/english/themes/pdf/glossary.pdf+Jew%3Bforced+labour%3BNazis&hl=ja

http://www.holocaust-education.dk/tidslinjer.asp
も参照した.)
 虐殺の過程で,老人・子供・大部分の女性,を先に殺し,大人の男性は強制労働に従事させることがあったのは,毎日キャパシティ一杯の人数の虐殺を整斉と実施していくに際して,「在庫」たる大人の男性に生存への希望を抱かせ,蜂起の芽を摘まんがためであり,強制労働させることが目的ではありませんでした.

太田述正コラム


 【質問】
 第一次世界大戦時にドイツ軍に所属し,勲章等を受けた経験があるユダヤ人でも,強制収容所に収監されたんでしょうか?
 それとも,収監の免除等の特別処置がとられたんでしょうか?

 【回答】
 絶滅収容所ができる前の話だが,白ルテニア地方(ベラルーシ)の司政官だったヴィルヘルム・クーべが,処刑のため移送されてきたユダヤ人の中から第一次大戦の叙勲者をピックアップしてヒムラーに助命を願い出たという話がある.
 ちなみにこのクーべという男,ナチ初期からの党員で強硬な反ユダヤ主義者だったのだが,党中央とケンカして独ソ戦後に占領地域の司政官に左遷されていた.
 そこで迫害されるユダヤ人の姿を見て,彼らの庇護者に変貌,時には本人が直接現場にかけつけるなどしてユダヤ人狩りへの妨害を続け,SSと対立した.
 ナチはこの反逆者に手を焼いたが,解任される前に皮肉なことに,彼はパルチザンメンバーの使用人がベッドに仕掛けた爆弾によって暗殺されている.


 【質問】
 「アニ・アミン」とは?

 【回答】
 アウシュビッツの囚人達が作詞,作曲した歌.
 今日でも「過ぎ越しの祭」の晩餐のときに,シナゴーグではよく歌われる,という.
 犠牲者への追悼のようなものか.

 以下引用.

 今日でも「過ぎ越しの祭」の晩餐のときには,シナゴーグではよく「アニ・アミン」という歌が歌われる.
 「アニ・アミン」とは,ヘブライ語で「私は信じる」という意味である.
 この歌は,アウシュビッツの囚人達が作詞,作曲した,悲しいけれど,実に美しい歌である.
 その東洋的な旋律は,誰がいつ聞いても,胸を揺さぶられる.

 この「アニ・アミン」の歌をとってみても,ユダヤ人がいかに楽天的な民族であるかということが分かる.
 彼らは極限的な状況に置かれ,死から逃れられない運命であったのに,
「私達は,救世主が来ることを信じている.
 しかし,救世主が現れるのが,少しだけ遅れている」
という言葉を歌い,自分達を慰めたのである.

マーヴィン・トケイヤー著「ユダヤ商法」(日本経営合理化協会出版局,
2000/9/7),p.263

 こうした過去の悲劇や屈辱を教訓とし,永遠に忘れないような制度を社会に組み込んでいるのが,ユダヤ人の強みの一つである,ともトケイヤーは述べている.
 確かにナイスなアイディアであろう.


 【珍説】
 ユダヤ人収容所の生活は快適だった.

 【事実】
 わー,ちょー快適っすねえ(笑)↓

 1944年にヴェステルボルクからベルゲン=ベルゼンへ送られたオランダの法律家アーベル・ヘルツベルフは,この収容所のことを以下のように描写している――
「収容所内には不毛の荒れ地が広がり,冬にはそれが泥海か氷原に,夏には砂礫と土埃と石くれの原となった.
 地中には地虫もミミズも住まず,空中には蝶やトンボの姿も無かった.
 雀が草の種を啄ばみにくることもなく,電柱に止まる鳥もなければ,樹上でさえずる小鳥の姿もなかった22」
 だがそれでもベルゲン=ベルゼンは,飢えが急速に収容者を蝕みつつあったとはいえ,どちらかといえばましな収容所だった.
(『アンネの日記 研究版』より)

軍事板


 【質問】
 アウシュヴィッツの死体焼却炉の処理能力では,殺害したとされるユダヤ人の死体を焼却処理しきれないんじゃないの?

 【回答】
 アウシュヴィッツの最大収容人員は40万人となってるんだけど,死体焼却炉の処理能力って,最低でも一日あたり1200人.
 月20日稼動でざっくり計算しても,年間20万人の死体焼却に耐えられる数字.
 チフス・赤痢の蔓延を考慮しても,この死亡率は,病死も含めた自然死としては異常.
 この過大な死体処理能力の発注という,史料に残る事実を考慮すれば,アウシュヴィッツという施設がどういう性格かは,一目瞭然.

軍事板


 【質問】
 アウシュヴィッツの焼却炉は合計16万体の死体を処理するだけの耐久力しかなかったのでは?
 そして焼却炉を修復した記録は無い.

 【回答】
 通説側の主張からして,焼却は炉だけを使ったものでなく野外でも行われたものだということになっている.

軍事板


 【質問】
 1991年に公表された公式文書によればアウシュヴィッツの囚人の死者は合計13万人.死因はチフスや自然死なのでは?

 【回答】
 これはIHRが「ゴルバチョフに教えてもらった」と主張する資料であって,内容そのものがはっきりしない.

軍事板


 【珍説】
 記録によると搬入された石炭の量は自然死した死者数と合致している.
 すなわち,ガス処刑された大量の死体を焼却するだけの石炭は無い.

 【事実】
 通説側の主張は,焼却は機械油の廃油やベンジンを使って行われたとなっている.
 そのため,石炭の量を持ち出して焼却が不可能だと主張することはナンセンスである.

軍事板


 【質問】
 戦後,ルドルフ・ヘスは拷問されたのだから,その証言は信用できないのでは?

 【回答】
 そうとも言えない.

 よく否定派がルドルフ・ヘスが拷問されていたとのソースとして持ち出すのがこの本
 確かにこの本には,拷問されたというようなことが書いてある.

 だが,それと同時に同書では
「ガス殺をやった.大量の死体を焼いた」
とはっきりと書いてある.
 否定派の見解によれば,ヘスは拷問されて嘘の証言を書かされたということになっているのに,手記の捏造を担当した人間は,それと一緒に拷問の事実が書いてあることを見逃して出版を許してしまったということになってしまう.
 つまり,「捏造した人間は間抜けだったからうっかり見逃した」という解釈しかできなくなってしまっているのだ.
 もちろん否定派は,
「司法取引を持ちかけられて嘘を書いたけど,応じてくれないことがわかったから拷問のことを書いた」
というもっともらしい解釈を披露してはいるけれど,この手記は書かれた後数年経ってから日の目を見たもので,その間修正する手間も暇も十分にあったはずなのである.
 そしてもっと重要なことだが,その解釈には,否定派がもっとも重要視する証拠が一切存在しない.

 拷問による証言が,通常の裁判では証拠能力がないのは言うまでもないのですが,拷問によって得られた証言が,常に嘘であるということはいえないのではないでしょうか?
 いわゆる検事の作文に,拷問を持って署名させたら,無論問題にもならないのですが,よく考えて見れば,検事が作文するためには,犯行の現場・目撃証言等に相当の知識が必要ですよね.
 で,強制収容所とかの所長とか隊員とか,一箇所の捕虜収容所で尋問されたわけじゃないですよね.
 それぞれの証言に『ブンカー』とか『クレマ』って言う言葉があったり,食い違いもあるけど共通点も多いってことは,何十とかっていう捕虜収容所の尋問担当者に,同じ検事の作文を配布して,拷問の上,そのように証言させたってことになるんですけど,英・米・露で一斉にそんな検事の作文を配布するって,ちょっと可笑しいと思うんですよね.

 しかも,強制収容所のガス殺の細部を作文できるような知識が1945年〜47年って言う時点で,連合国側に逢ったというのも腑に落ちないんです.
 空中写真はあってもアウシュビッツって建物,ソ連軍が解放したときには,かなり破壊されてたから,どの場所を,ガス室にするとか,勝手に考えるの難しいって思います.違いますか?

 そもそも裁判というものは,歴史問題については「政治的に正しい」判決を出す場所でしかありません.
 まさしくニッコーが言うように,学問的に,実証主義的に「事実がどうであったか」を判定する,決定する場所ではありません.
 特に,ホロコースト問題のように極めて政治的な問題,社会的なタブーになっている問題について, 判決それ自体を取り上げることには何の意味も無いかと思われます.

 重要なのは,
「ホロコーストの実在について,どのような証拠の提示,論理の展開がなされたのか,裁判の具体的な中身」
でしょう.

軍事板


 【珍説】
 アメリカ軍医のラーソン博士が裁判で,ガスで殺された人は居なかったと,証言している.
http://clinamen.ff.tku.ac.jp/Holocaust/Points2/Larson.html

 【事実】
>ダッハウで私が個人的に検死した被収容者のうち,
>こうしたやり方で殺された被収容者は,かなり少なかったと思う

というのが,そのサイトのラーソンの証言なんだが,その裁判当時は,
「ダッハウは絶滅収容所」「ガス室がある」
と考えられていたので,ラーソンがそのような証言をした.
 実際に,診断などで確認した訳ではない.

 ちなみに,現在ではダッハウは絶滅収容所ではない事が判明しているのは知っているよな?
 絶滅収容所はソ連が解放し発表した所のみ.

軍事板


 【珍説】
 収容所が赤十字を受け入れたのは「ガス殺が始まったとされる時期」より後である.
 そして,赤十字は虐殺を確認していない.

 【事実】
 赤十字を受け入れたのは,二箇所,連合国軍の捕虜収容所と絶滅収容所ではない収容所でした.
 前者の収容所の居心地が意外に悪くは無かったことは事実のようですが,後者の収容所は相当な演出と擬装が行われていました.
 国際赤十字はテレジェンシュタットのゲットーには査察に入りましたが,そこは偽装された見せ物用のゲットーでした.
http://www.law.hiroshima-u.ac.jp/profhome/nishitan/doc/01998-redcross2.htm
 国際赤十字としては1944年にドイツに視察には入りましたが,それは戦争捕虜収容所です.
 上のページにも書かれていますが,当時の条約には一般人の保護は入って無かったようですな.
 従って,国際赤十字は一般人の収容されている所までは視察する権利も何も無かった,と.

 唯一,1944年にテレジエンシュタット強制収容所が,赤十字の視察を受け入れたが,残された写真等から見て,実際に赤十字が視察したのは,併設されていたゲットーとの説もある.
 そして視察受け入れに際し,相当の偽装が行われた.

軍事板


 【珍説】
 赤十字は再三,連合国に爆撃を止めるよう言ったが聞かなかった.
 結果として収容所のユダヤ人が餓死した.

参考資料: 『Did Six Million Really die?』 著Richard E Hawood

RED CROSS RECIPIENTS WERE JEWS
The Report states that "As many as 9,000 parcels were packed daily. From the autumn of 1943 until May 1945, about 1,112,000 parcels with a total weight of 4,500 tons were sent off to the concentration camps" (Vol. III, p. 80). In addition to food, these contained clothing and pharmaceutical supplies. "Parcels were sent to Dachau, Buchenwald, Sangerhausen, Sachsenhausen, Oranienburg, Flossenburg, Landsberg-am-Lech, Floha, Ravensbruck, Hamburg-Neuengamme, Mauthausen, Theresienstadt, Auschwitz, Bergen-Belsen, to camps near Vienna and in Central and Southern Germany. The principal recipients were Belgians, Dutch, French, Greeks, Italians, Norwegians, Poles and stateless Jews" (Vol. III, p. 83). In the course of the war, "The Committee was in a position to transfer and distribute in the form of relief supplies over twenty million Swiss francs collected by Jewish welfare organisations throughout the world, in particular by the American Joint Distribution Committee of New York" (Vol. I, p. 644). This latter organisation was permitted by the German Government to maintain offices in Berlin until the American entry into the war. The ICRC complained that obstruction of their vast relief operation for Jewish internees came not from the Germans but from the tight Allied blockade of Europe. Most of their purchases of relief food were made in Rumania, Hungary and Slovakia. The ICRC had special praise for the liberal conditions which prevailed at Theresienstadt up to the time of their last visits there in April 1945. This camp, "where there were about 40,000 Jews deported from various countries was a relatively privileged ghetto" (Vol. III, p. 75). According to the Report, "'The Committee's delegates were able to visit the camp at Theresienstadt (Terezin) which was used exclusively for Jews and was governed by special conditions. From information gathered by the Committee, this camp had been started as an experiment by certain leaders of the Reich ... These men wished to give the Jews the means of setting up a communal life in a town under their own administration and possessing almost complete autonomy. . . two delegates were able to visit the camp on April 6th, 1945. They confirmed the favourable impression gained on the first visit" (Vol. I, p . 642). The ICRC also had praise for the regime of Ion Antonescu of Fascist Rumania where the Committee was able to extend special relief to 183,000 Rumanian Jews until the time of the Soviet occupation. The aid then ceased, and the ICRC complained bitterly that it never succeeded "in sending anything whatsoever to Russia" (Vol. II, p. 62). The same situation applied to many of the German camps after their "liberation" by the Russians. The ICRC received a voluminous flow of mail from Auschwitz until the period of the Soviet occupation, when many of the internees were evacuated westward. But the efforts of the Red Cross to send relief to internees remaining at Auschwitz under Soviet control were futile. However, food parcels continued to be sent to former Auschwitz inmates transferred west to such camps as Buchenwald and Oranienburg.
(from http://maa999999.hp.infoseek.co.jp/ruri/gulfwar_02_05_15.html

 つまり赤十字もナチスもユダヤ人を救おうとしていたが,連合軍がそれを妨害した訳だ.

(西 in FAQ BBS)

 【事実】
 やっぱりmaaさんとこの受け売りか.
 誤植がそのままなんだよね.「Richard E Hawood」は正しくはHarwood.rが抜けてる.
 ちなみにハーウッドはペンネームで,本名はRichard Verrall.で,こいつはイギリスの極右組織「National Front」の関係者.
 ナショナルフロントはネオナチ認定されてるんでその辺も宜しく.

 ソースとしてはどうしても弱いね,なるべく一次資料を持ってきて欲しい所だ.

(JSF in FAQ BBS)

 それと、以下の文.

The ICRC complained that obstruction of their vast relief operation for Jewish internees came not from the Germans but from the tight Allied blockade of Europe.

 大西洋でドイツの潜水艦が,どれだけ輸送船を沈めたか知らないんですか?
 それによって、物資輸送が著しく妨害されたことも.
 全般的に知識不足といっても過言ではないですね.

(極東の名無し三等兵 in FAQ BBS)

 だいたいやね,
「主張に情報が従属しているプロパガンダ本ではやな,事実は二の次にされるんが常やがな.極左や極右のアジビラ見てみい」
ということも分かってへん,メディアリテラシー貧困な奴が,ナニ歴史論客気取ってけつかんねん.


 【珍説】
 国際赤十字委員会は,連合軍が無差別爆撃で,強制収容所へ援助物資を届けることを妨害していることに不満を訴えていた.

 【事実】
 そのような事実は存在しません.
 ズンデル裁判ではこの件について,裁判長から
「存在しない資料を使ってホロコーストを否定しようとした」
と指摘されています.

 アウシュヴィッツ近郊への爆撃が可能になるのは1944年5月以降.
 アウシュヴィッツ近辺への爆撃は1944年8月20日の8キロ当方への併設工場が最初.
 収容所そのものへの爆撃開始は9月以降.
 1944年春以降10万人のハンガリーからのユダヤ人の移送を含め,爆撃が開始された以降も,移送は続いている.
 ヴェステルボルクからの最終移送は9月5日,テレジエンシュタットからは10月24日,ボルツァーノからの最終移送は10月28日.
 同日アウシュヴィッツからベルゲン=ベンゼン向けて収容者の移送が開始.
 鉄道の運行状況を見る限りにおいて,物資・人員の輸送の滞りは8月下旬以降顕著になるが,その以前の段階で否定派が主張するような鉄道運行が大きく滞った形跡はない.

軍事板


 【質問】
 強制収容所に売春宿があったって本当?

 【回答】
 強制収容所に設置された売春宿に関する包括的な研究は,世界的にみても少ない.
 日本語で読めるものとしては,クリスタ・パウルの『ナチズムと強制売春』があり,その中で公文書等の一次資料から,アウシュヴィッツ=モノヴィッツに囚人用売春宿があったことを事実認定している.
 また,同様の囚人用売春宿を利用できる囚人は,総じて,ユダヤ人でない『ドイツ人』の政治囚もしくは刑事囚で, 囚人労働隊等を管理する立場にあった特権的なカポなどごく少数.
 IGフェルベンのプラントに併設されたモノヴィッツに囚人用売春宿あったことが, ユダヤ人の大量殺戮を否定する何らの根拠になりえないことに留意.
 売春所などは収容者のモチベーションを上げたり,ヒエラルキー形成の目的はあったようだ.
http://eba-www.yokohama-cu.ac.jp/~kogiseminagamine/20060208ChristaPaul.htm

軍事板


 【質問】
 以前「写真で見るホロコースト」(たぶんこんな名前)という本の中に,「ユダヤ人の体を煮て?石鹸を作った」とあったのですが,コレは本当なのでしょうか?

 【回答】
 軍事板に適した質問ではないが……,

 人油石鹸については化学的に否定されている.
 生体内で作られる脂肪酸の炭素鎖の長さは偶数になるはずだが,人油石鹸と言われているものを調べてみると,奇数のモノの比率が高い.石油から合成している証拠である.
 ハヤカワから出てるニセ科学検証本,マイクル・シャーマー著「なぜ人はニセ科学を信じるのか―UFO,カルト,心霊,超能力のウソ」ではリファレンスとして下の本を示した上で
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4760115153.html
>(これらの著作によると)検査されて人間の脂肪の陽性反応が出た棒石鹸は一つもない.
と紹介されている.

 ちなみに,中公新書「プロパガンダ戦史」(絶版)によると,第一次大戦時(1918年)に既に,「ドイツの死体製油工場」をネタにしたプロパガンダが行われている.

 念のため言っとくと,「ホロコーストなぞ行われていなかった」とかいう話と,石鹸の話は全く別の次元の話なので,故意にごっちゃにしないように.

 ただし,2006年になって以下のような報道が出ている.

◆Tests show that Nazis used human remains to make soap(Mail & Guardian online)

(仮訳)
 ポーランドの国民記録機関(Institute for National Remembrance<IPN)の最新の研究により,ナチスが第二次世界大戦中,ポーランドのバルト海沿岸の都市グダニスクに設置していた医療研究施設で,人間の脂肪から石鹸を作っていたことが証明された.
 IPNグダニスク支部のPaulina Szumera氏がドイツDPA通信の電話インタビューに対して明らかにした.
 IPNは,ナチス・ドイツのルドルフ・スパナー<Rudolf Spanner教授が率いていた同研究施設で1945年に発見された石鹸片の分析を,ワルシャワ農業大学のAndrzej Stolyhwo教授に依頼.
 その結果,石鹸に人体の組織が含まれていることが判明した.
 分析対象となった石鹸片は,第二次大戦後にナチスの戦争犯罪が裁かれたニュルンベルグ裁判で証拠品となったもの.
 当時はまだ,検察側には石鹸片が人体から作られたものかどうかを判断する技術がなかった.
 石鹸を作るのに使われた人間の脂肪は,カリーニングラード,ビドゴーシチ,またグダニスク近郊のシュトゥットホフ強制収容所から運ばれたと考えられている.
 IPNの調査によると,石鹸は,手術室や検死室の清掃にスパナー教授が使っていたとされる.

Mail & Guardian Online, 2006/10/6

 なお,このサイトは「Africa's first online newspaper」だそうだが,信頼性がどの程度かは不明.
 続報を待ちたい.


 【質問】
 ルーデルは著書の中で,強制収容所らしき施設の写真を見せられたさいに「知らなかった」と答えていますが,現場の兵士達は本当にそれらを知らなかったんですか?

 【回答】
 占領地でのユダヤ人や地方党幹部の狩りだしと収容所への移送には,国防軍も協力していた.
 また,占領地での保安任務やパルチザンの掃討は,陸軍の部隊もやっている.
 だから収容所の存在や,そこで何が起きているかを知っていた者もいただろう.

 ルーデルが本当に知らなかったかどうかは,また別の話だが.

 強制収容所の存在は民間人も知っていたし,そこで何が行われているかは薄々ながら知っている者もいた.
 言葉を換えれば「知らないようにしていた」といってもいいが.

軍事板

ルーデル



◆◆◆ヒトラー関連

 【質問】
 ヒトラーはユダヤ人の血が流れていたと言う話を聞いたのですが,本当ですか?

 【回答】
 ユダヤ人の血の定義にについては(ややこしいので)おいとくとして,ヒトラーの父アロイスがマリア・シックルグルーバーの私生児として生まれたために出た噂.

 マリアがグラーツで女中として勤めていた,フランケンベルガーもしくはフランケンライターというユダヤ人が産ませたという説があった.
 しかしその名をもつ人物は実在せず,マリアの結婚相手のヨハン・ゲオルク・ヒードラーもしくはその弟のヨハン・ネポムク・ヒードラーが実父であるといわれている.
 後にアロイスは母のせいから改姓したが,そのときからヒトラーを名乗るようになった.

 なおアロイスの二度目の妻の息子(長男)アロイス二世は後にイギリスに移住し,その息子(アドルフの甥)ウィリアム・パトリック・ヒトラーはアメリカに渡って大戦中は米海軍に勤務した.
 長女のアンゲラの娘(アドルフの姪)がヒトラーの最初の愛人のゲリ・ラウバル.
 アロイスの三度目の妻の息子として生まれたのがアドルフ.
 アドルフの母クララの母はヒードラー家の生まれ.
 このようにヒトラーの家系は複雑に入り組んでいる.

 手塚治虫「アドルフに告ぐ」の元ネタですな.

軍事板

 付記しておくと,ヒトラー自身もこの噂の真偽には悩んでおり,ひそかに調査させていた.
 が,その結果が出るまえにベルリンが陥落した.
 ということで彼は疑惑を抱えたまま死んだらしい.

世界史板

 ヒトラーが星占い師に相談した.
 ヒトラーは独裁者として暗殺を極度に恐れていた.
 すると,星占い師が,
「あなたがユダヤの祭日に暗殺される」
という.
 ヒトラーはすぐに親衛隊の司令官を呼んで,
「今後,ユダヤ人の祭日には警備をいつもの10倍,いや50倍にせよ」
と命じた.
 すると星占い師は,
「いや,それは役に立ちません.あなたが暗殺された日がユダヤ人の祭日になるでしょうから」
と答えた.

マーヴィン・トケイヤー著「ユダヤ商法」(日本経営合理化協会出版局,
2000/9/7),p.214-215


 【質問】
 ヒトラーはどこで反ユダヤ主義に感化されたの?

 【回答】
 ヒトラーの反ユダヤ主義はウィーン時代の生活と,当時の欧州に見られる反ユダヤ主義の系統だとする説が現在では有力視されてる.
 ヒトラーは濫読家だったから,ヘーゲルやらニーチェやらの原典,引用,孫引きなんかを徹底的に誤読して理論を組み上げたとゆー話がある
 青年時代のヒトラーが劇場通いして見ていたワーグナー歌劇の影響もある.

 ま,ヒトラーに限らずユダヤ人蔑視はヨーロッパの伝統だったからね.

 「大工の嫁っこが産んだててなし子」を十字架にかけたせいで,以後2000年迫害される・・・
 後先考えて行動しないとね.

世界史板

 上記項目に対する解答について似たような内容が記述された資料がありましたので,紹介させていただきす.
 著者は青年時代のヒトラーとリンツおよびウィーンで共に過ごした人物で,ヒトラーの反ユダヤ傾向について以下のように記述しています.

-------引用----------------------------------------------

私がヒトラーと出合った当時,すでに彼は明らかに反ユダヤ主義の考えを持っていました.
ある日,私と彼がベツレヘム通りを歩いていて,小さなシナゴーグの前を通りすぎたとき,彼はこう言いました.

「これはリンツにいらない」

私の記憶では,ヒトラーがウィーンに行ったときにはすでに明白な反ユダヤ主義者になっていました.
ウィーンでの体験によって彼はユダヤ人問題についてさらに急進的になりましたが,ウィーンで初めて反ユダヤ主義者になったわけではありません.

-------引用終わり----------------------------------------------

『アドルフ・ヒトラーの青春 親友クビツェクの回想と証言』
(アウグスト・クビツェク著,三交社,2005/7/25),135頁

lala in FAQ BBS


 【質問】
 ホロコーストに関するヒトラーの命令書って,そこまで重要なものなの?

 【回答】
 現在ではさして重要な資料ではありません.何故なら発見されていないから.
 無いものをあてにして研究をする学者はいません.
 残された資料から,探って行くのです.
 実際,「ヒトラーの命令書」を拠り所にした研究などありません.

 もちろん,発見されれば重要な資料となるでしょう.
 でも無い物は無い.
 それが無くてもホロコースト研究は続けられ,様々な事柄が明かになってきています.

 リビジョニストがこれの有無にこだわるのは,要するにコケオドシです.
「無いであろう命令書を出してくれないと信じないっ」
と言っているワケです.

軍事板


◆◆ロシア


 【質問】
 ロシアにおけるユダヤ人差別はどんなものか?

 【回答】
 伝統的にそうした意識があり,今も根強く残っているという.

 以下引用.

 ユダヤ系住民に対する差別や暴力は,ポーランドがロシア領だった19世紀後半に頻発しました.
 またソビエト時代,スターリンは極東に強制移住させてユダヤ自治州を設置しました.
 ブレジネフ時代の70年代,一時イスラエルへの移住が認められ,20万以上が出国しました.
 また,ソビエト崩壊後,社会混乱による生活苦やユダヤ排斥を訴える極右勢力の出現で,ユダヤ系住民の出国が続いています.

 ユダヤ系の多くはロシア社会に融合しているため,私達日本人はユダヤ系を見分けることは難しいのですが,ロシア人の知人達曰く,すぐに分かると言います.
 その真偽は定かではありませんが,取引上手で狡猾な人をユダヤ系と見なす差別意識は,今も根強く残っています.
 エリツィン大統領の時代に権力と結びついて国有財産を有利にせしめたいわゆる新興財閥の総帥達も,イスラエル国籍を持っていたり,ロシア・ユダヤ人会会長を務めるといったユダヤ系の人が多く,これも潜在的にユダヤ人に対する伝統的な差別意識を助長しています.

小林和男著「ロシアのしくみ」(中経出版,2001/7/9),p.

 ゆえに,ユダヤ系ロシア人ネタのアネクドートも多い.

 監督官庁の委員が,モスクワの産院へ視察にやってきた.ちょうど赤ん坊の体重を計っているところに出くわした.結果は,ユダヤ人の新生児のほうが,ロシア人の赤ん坊より体重が重かった.
 ロシア人の母親達は,いたく自尊心を傷つけられた.
 それを見て,委員が彼女達に言った.
「皆さん,心配することはありません.結局,連中は輸出用なんですから」
 ラビノーウィチが人事課長に呼び出された.
「どうしラビノーウィチ,どうして君は身の上調書に嘘を書いたんだね?」
 ラビノーウィチはびっくりして聞き返した.
「どこか間違ってますか?」
「ほら,ここだ.『国外に在住する親類縁者の有無』の欄に,君は『なし』と答えている.しかし,君にはイスラエルに兄がいるはずだ」
「でも,国外にいるのは僕のほうで,兄は故国にいるんです」

ドルゴポーロワ著「ロシアより笑いを込めて」(光文社文庫,1986.3)


 【質問】
 ユダヤ系ロシア人のルーツは?

 【回答】
 東欧のユダヤ人や,コーカサス地方にいたハザル人やユダヤ人がその起源だという.
 以下引用.

 都市部に住む学者や医者,芸術化,財閥などインテリ層に多くのユダヤ系住民がいます.
 殆どが現在のポーランド領にいたアシュケナジムと呼ばれる人達ですが,9世紀頃南ロシアで活動した遊牧民族で,ユダヤ教を信仰していたハザル人※2の末裔や,コーカサスにいたユダヤ人も含まれていると言われます.
 ※ ドイツからポーランドなど東ヨーロッパに居住するユダヤ人.ドイツ語やヘブライ語,スラブ諸語が混ざり合って形成されたイディッシュ語を話す.
 〔略〕

 ※2 10世紀頃,コーカサスからカスピ海にかけての地域に勢力を広げていたトルコ系の遊牧民族.支配層はユダヤ教を信仰.
 北方で台頭しつつあったキエフ・ルーシ(ロシアの起源となる国家)によって滅ぼされた.
 一部はウマイヤ朝のアラブ商人との活発な交易によりイスラム化した.

小林和男著「ロシアのしくみ」(中経出版,2001/7/9),p.159-160


 【質問】
 ソ連のビロビジャン・ユダヤ人自治区はなぜ作られたのか?

 【回答】
 戦略的・宣伝的意図から1928年,アムール川沿岸に設置.
 これには,
・ユダヤ人居住区を,南からの中国あるいは日本による攻撃に対する緩衝地域とする.
・ビロビジャンをユダヤ人選別・追放の拠点とする
・スターリンの暴虐というイメージを改善する(しかし実際には,20年代のスターリンの粛清を生き延びた者は,殆どいなかった)
・西側の援助を得て米国のソ連承認を実現する
といった目的があった.

 詳しくは,H. E. マウル著「日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか」(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.65-66を参照されたし.

▼ ちなみに,こんなジョークも残っている.

[quote]

 ビロビジャンへの電話.
「とうもろこしの開発をしているんですか?」
「もちろん開発中です.さしあたっては発音から」

 〔略〕
 ロシア語ではとうもろこしを「ククルーザ」と言い,ユダヤ人とロシア人などを区別するために言わせた言葉.

[/quote]
―――さとう好明著『ロシアのジョーク集』(東洋書店,2007/7/25),p.130

 このジョーク一つとってみても,ビロビジャンにおけるユダヤ人の待遇の程度が知れよう.

▼ もうほんとに雑学ですけど,このジョークは旧約聖書のエピソードが下敷きになってると思われます.

[quote]

 ギレアドはまた,エフライムへのヨルダンの渡し場を手中に収めた.
 エフライムを逃げ出した者が,
「渡らせてほしい」
と言って来ると,ギレアド人は,
「あなたはエフライム人か?」
と尋ね,
「そうではない」
と答えると,
「ではシイボレトと言ってみよ」
と言い,その人が正しく発音できず,
「シボレト」
と言うと,直ちに捕らえ,そのヨルダンの渡し場で亡き者にした.
 そのときエフライム人四万二千人が倒された.
(士師12:5−6)

[/quote]

 エフライム人というのはイスラエルの氏族なんですけど,ギレアド人の士師(王が出てくる前にイスラエルを統治していた将軍+裁判官みたいなみんなのリーダー)のエフタに難癖ばかりつけてくるから,エフタが切れてギレアド人みんなで逆にエフライム人をフルボッコにしたというお話.
 シイボレトはとうもろこしなどの穂を指すヘブライ語なんだそうです.

 戦争になると敵性言語が禁止されたりしますけど,その最古の例.

バグってハニー in 「軍事板常見問題 mixi支隊」


◆◆スイス


 【質問】
 赤十字は,なぜナチスからユダヤ人を救えなかったか?

 【回答】
 権限的限界と,中立性のほうをより重要視したことによる.
 これについては,マイケル・イグナティエフが次のように述べている.

 1942年10月14日,国際赤十字を運営するスイス人政治家・法律家・医者・実業家23名から成る委員会が,ドイツ占領下のヨーロッパ各地における民間人の強制移送に関する派遣員達の証言を検討するために集まった.
 厳密に法的に言えば,民間人は赤十字の関知するところではなかった.当時のジュネーヴ条約は,赤十字の派遣使節に戦争捕虜視察の権利しか認めていなかった.
 だが,そうした視察をする内,赤十字の派遣員達は強制移送の噂を耳にし,東部方面へ走り去る密閉状態の列車を目にし,強制収容所のそばを車で通っていた.

 ドイツ赤十字社社長エルンスト・グラヴィッツに,こうした収容所について彼らが尋ねたところ,この問題はジュネーヴには関わりのないことだと彼は答えた.
 誰に関わりがあるのか,グラヴィッツは知っていた.彼はドイツ赤十字の社長であるばかりか,親衛隊の軍医長でもあり,収容者を使った秘密の人体実験の責任者の一人だった.

 赤十字は強制収容所から締め出されていたが,中で何が起こっているのか薄々気付いていた.
 赤十字運営委員会幹部,カール・ブルクハルトはベルリン出張中,ドイツのある高級官僚から,ヒトラーが1942年までに「ドイツからユダヤ人が一人もいなくなる」ことを命じる命令書に,41年初頭に署名したと聞かされた.
 ブルクハルトがこのことをジュネーヴ在住のアメリカ領事に伝えると,それは絶滅を意味するものか?と領事は尋ねた.
 それしかありえないとブルクハルトは答えた.

 9月下旬までに赤十字国際委員会は,ユダヤ人ともなんとも名指しせずに,民間人に対する強制移送と強制労働を非難する公開呼掛け文を起草した.
 その案が投票にかけられると,ブルクハルトは,公開アピールを出すことに真っ向から反対した.国際道義に訴える高尚な公開呼びかけが,ヒトラーにいささかなりと影響を及ぼすとは考えにくく,赤十字が現に有する捕虜との面会権を危うくするだけだという論法だった.
 スイス政府代表も,公開宣言はスイスの中立すら危うくするのではないかと恐れ,慎重を期するよう勧めた.
「良きサマリア人は,黙って人助けをするのが本当ではなかろうか?」と.
 公開アピールは出されずじまいだった.
 赤十字は知りえたことについて,戦争中ずっと沈黙を守り通した.

 1944年にドイツがハンガリーを占領した時,国際委員会の派遣使節フリードリッヒ・ボーンは,ユダヤ系の幾つかの孤児院と病院を赤十字の監督下に置き,数千名のユダヤ人職員に赤十字の証明書を交付することで,なんとか守った.
 だが,出国ヴィザは入手できず,44年暮れ,ブダペシュト在住のユダヤ人5万人が駆り集められ,ドイツへの死の行進を強いられるのを,なすすべなく傍観せざるを得なかった.

 ドイツとポーランドでは,収容所への立入を派遣使節は一切禁じられていた.
 44年にマウトハウゼンを通った派遣員達は,死体焼却炉から立ち上る煙を目にした.
 ポーランドのある収容所の連合軍捕虜を視察した,他の派遣員達は,アウシュヴィッツという所に民間人を毒ガスで殺す