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◆日本
<ユダヤ人関連
<第2次世界大戦FAQ

杉原千畝


◆◆Link


The Sugihara Project(英語)

杉原千畝FAQ集(松浦寛作,リンク切れ)

杉原千畝記念館

動画ファイル

◆◆◆書籍

「6千人の命のビザ」(杉原幸子著,朝日ソノラマ,1990)

「アッツ,キスカ軍司令官の回想録」(樋口季一郎著,芙蓉書房,1971)

『神戸・ユダヤ人難民1940-1941―「修正」される戦時下日本の猶太人対策』(金子マーティン著,みずのわ出版,2003.12)

『自由への逃走 杉原ピザとユダヤ人』(中日新聞社会部,東京新聞出版局,1995.9)

「真相・杉原ビザ」(渡辺勝正著,大正出版,2000)

『日本人に救われたユダヤ人の手記』(ソリー・ガノール著,祥伝社文庫,2002.6)

「日本人のユダヤ・イスラエル認識」(宮澤正典著,昭和堂,1980)

『日本に来たユダヤ難民』(ゾラフ・バルハフティク(カウナスでのビザ受給交渉担当者),原書房,1992.4)

『日本のユダヤ人政策1931-1945 外交史料館文書「ユダヤ人問題」から』(阪東宏著,未来社,2002.5)

『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(H. E. マウル著,芙蓉書房出版,2004/1/20)

「ユダヤ陰謀説の正体」(松浦寛著,ちくま新書,1999)

「ユダヤ学のすべて」(沼野充義著,新書館,1999)

「ユダヤ人陰謀説」(D.グッドマン著,講談社,1999)

「猶太難民と八紘一宇」(上杉千年著,展転社,2002)


◆◆総記


 【質問】
 WW2までの日本人のユダヤ人観は,どんなものだったのか?

 【回答】
 反ユダヤ主義は国民には殆ど知られておらず,大半の政治家や軍人にとっても未知だった.国民の中には,ユダヤ人とはキリスト教の一派だと思い込んでいる者が少なくなかった.
 そのため他国の知識を借りて来る他なく,ユダヤ陰謀論が翻訳されて輸入された.
 そこから,ユダヤ人の力を過大評価することとなり,その力を日本のために利用することが考えられたという.

 詳しくは,H. E. マウル著『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.15-23 & 26-27を参照されたし.

 これに関連して,例えばこんなエピソードも存在している.

日本人は抽象的な反ユダヤ主義と,ユダヤ人への政策や態度を切り離したのであり,30年代前半の日本でユダヤ陰謀説が現実の政策や民衆の態度に反映することはなかった.
 この状況を示したのが,ピアニストでシロタの好敵手だったマキシム・シャピロのエピソードである.
 太平洋戦争を目前に控えた時期のこと,シャピロがアメリカに渡ることを告げると,無邪気な弟子は次のように言ったそうだ.
「先生,アメリカに行かれるなら,アメリカにはユダヤ人という恐ろしい人達がいると父が申しておりました.どうか,気をつけてください」
「でも君,私はユダヤ人なんですよ.それも,反ユダヤ主義者の間では最悪のユダヤ人ということになっている,ロシア系ユダヤ人なんですよ」
 それを聞いて,びっくりした弟子の少女は卒倒した.
 名前からユダヤ人であるかどうかを断定できないにしても,シャピロというのはユダヤ系に多い姓である.
 このシャピロという姓の外国人に向かって反ユダヤ主義を語るほど,日本の反ユダヤ主義は現実との接点を欠いていた.

 日本では,冷静な教養人はユダヤ人に好意的で,一方,反ユダヤ主義者は現実とは関係のないところで抽象的理論をもてあそんだ.
 結果として,シロタが
「日本にはユダヤ人問題は全く存在していません」
と断言したように,1930年代の中頃まで,ユダヤ人は迫害や嫌がらせを体験することはなかった.

山本尚志著「日本を愛したユダヤ人ピアニスト レオ・シロタ」
(毎日新聞社,2004.11.20),p.142-143

 漫画のようなエピソードだが,
「日本にはユダヤ人問題は全く存在していません」
というよりは,
「日本にはユダヤ人について曖昧なイメージしか存在していません」
といったほうが正しいだろう.

 そしてそれは現代でも,イスラーム過激派経由でネガティヴなイメージが日本で広まってはいるものの,「曖昧なイメージしかない」という点では当時と大差ない.


 【質問】
 戦前までの日本のユダヤ人コミュニティは,どのように形成されたのか?

+

 【回答】
 最初は19世紀末,「開国」によって対外貿易が伸びていく中,ユダヤ人を含む多数の商人が日本に押し寄せ,幕末には横浜にユダヤ人コミュニティができていた.
 また,帝政ロシアによる迫害を逃れてきたユダヤ人が長崎にやってきて,700名余りが東京,横浜,神戸に移住した.
 1940年には,約3000人の外国人が日本に居住.
 そのうち数百人がユダヤ人で,大半は貿易商だった.

 米国の対日制裁は不安と怒りを呼び,日本は攻撃的になった.
 対米開戦の2ヶ月前までに,定住者を除いてユダヤ人は日本を離れた.
 当時2600人を数えた在日ドイツ人の中には,116人のユダヤ人がいた.
 日本はユダヤ系の学者,芸術家,教育者に高い敬意を払った.日本政府は,ドイツ大使館の激しい抗議にも関わらず,これらユダヤ人をドイツ人同様に遇した.
 隠して少数ながら,戦争終了まで日本で安全に暮らしたユダヤ人がいた.

 詳しくは,H. E. マウル著『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.26, 156-157, 170を参照されたし.


 【質問】
 WW2時,日本国内のユダヤ人は一致団結していたか?

 【回答】
 当時,日本に在住していた著名なユダヤ系音楽家によれば,それは幻想だという.
 彼は,シナゴーグの例を出して,次のように述べている.

 日本のユダヤ人が団結した社会集団を形成しているというのも,シロタによれば幻想だった.
「日本に住んでいるユダヤ人同士は,特に交流を持っていません.
 まして人口600万人の東京では,ユダヤ人の祭りのときといえどもユダヤ人に会えるチャンスは少ないようです.
 昨年,ベルギーから東京に来た一人のユダヤ人は,元旦にお祈りをしたくてユダヤ人教会を探したのですが,東京には教会がなく,神戸まで行かなければなりませんでした.
 神戸市ではユダヤ人の小さなコミュニティーがあり,祭りのときに集まる教会もあります」(鳥井アンナ訳)
 シロタの観察によれば,日本でユダヤ人達は特定の宗教を信じて共通の文化的背景を持ってはいるけれども,特に差別されることも社会集団を形成することもない,普通の外国人として生活していた.
 当時の日本におけるユダヤ人問題を考える際に,シロタの言葉は,知的で日本社会によく溶け込んだ同時代のユダヤ人の証言として重視されていい.
 日本では,ユダヤ人は自分がユダヤ人であることをとりたてて意識しないでも生きていくことができたのだった.

山本尚志著「日本を愛したユダヤ人ピアニスト レオ・シロタ」
(毎日新聞社,2004.11.20),p.147

 まあ常識的に考えて,一口に「○○○人」と言っても,そこには様々な考え方や職業などを持つ人間がいるのだから,よほど外敵に脅かされていない限り,団結するはずもないわな.


 【質問】
 ヤコブ・シフとは?

 【回答】
 日本で最も著名だったユダヤ人.アメリカ系.
 ニューヨークで名の通った投資銀行,クーン・レープ商会の代表であり,米国ヘブライ救済協会会長.
 日露戦争の際,日本の外債5千万ドルを引き受け,国際的にも注目される.その動機は,ロシアが戦争に負ければ,ポグロムに代表される帝政ロシアのユダヤ人弾圧の状況が改善されると確信していたため.
 「金持ちで影響力に富む」という,日本人一般のユダヤ人観を体現する存在だった.

 シフが日本に残した良いイメージは,後年,日本の軍国主義者達が
「ユダヤ人の助けを得て世界を制覇しよう」
と考えることに至ったことに繋がる.

 詳しくは,H. E. マウル著『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.28-29を参照されたし.


 【質問】
 ユダヤ人音楽家,レオ・シロタは,日本政界にどんな人脈を持っていたのか?

 【回答】
 鮎川義介や廣田弘毅と繋がりを持っていたという.

 以下引用.

 ユダヤ系音楽家の影響力はクラシック音楽に留まらなかった.ポピュラー音楽家も彼らに指導を受けていた.
 たとえばシロタの弟子だった石井京の妹である石井好子は,ヴェッハーペニッヒの弟子で高名なシャンソン歌手となる.
 彼女は有力な政治家である久原房之介の孫にあたり,ユダヤ人保護によって「満州国」に外資を導入しようとした鮎川義介とも親族だった.

山本尚志著「日本を愛したユダヤ人ピアニスト レオ・シロタ」
(毎日新聞社,2004.11.20),p.150-151

 廣田弘毅もシロタ家の近所に住んでいた.
 廣田とシロタはローマ字で名前の綴りが似ていて(SirotaとHirota),郵便が誤配されることで親しくなった.
 クリスマスのときなど,廣田はシロタ家の人々が郵便を受け取りに行くと,
「あなたのところへお返しするのは残念だな.シロタ家に届くプレゼントのほうが中身がいいからなぁ」
と冗談を言う間柄だった.

山本尚志著「日本を愛したユダヤ人ピアニスト レオ・シロタ」
(毎日新聞社,2004.11.20),p.175

 これらは強力なコネとは言えないまでも,満州国への外資導入プランなどには少なからず影響を及ぼしていることが確実と思われる.

 ただし,同書によれば,シロタが積極的に政治家を動かそうとした事実はないので,その点は誤解のないように.


 【質問】
 ユダヤ陰謀論は,日本にはどんな経緯で流入してきたのか?

 【回答】
 シベリア出兵の従軍将校の中に,「遠からず現れる反キリスト」という本を持ち帰った者がいたのが始まり.
 この本は,「シオンの賢者の議定書」を元に,ロシアの神秘思想家セルゲイ・アレクサンドロヴィッチ・ニルスが,1905年に「小なるものの中の大なるもの」と題して書いたものを,6年後に改題したもの.
 日本の軍部や右翼国家主義者は,議定書を頭から信じ込んだ.
 ユダヤ人についての知的研究者も,この偽書をヘンリー・フォードの「世界の猶太人」やヒトラーの「我が闘争」と同列の,政治的反ユダヤ主義の基本文献と評価した.

 その後,日本がナチス・ドイツに接近すると,アルフレート・ストッシュやアルフレート・ローゼンベルク等の反ユダヤ主義が流入したが,ナチスの人種差別主義に対する警戒感から,さほど浸透はしなかった.

 詳しくは,H. E. マウル著『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.34-35 & 47-52を参照されたし.


 【質問】
 日本外務省の対ユダヤ人政策の方針は,どんなものだったのか?

 【回答】
 1933年のカスペ事件の頃は,安江や犬塚などの専門家からの情報収集をしていただけで,公式の対ユダヤ政策など決まっていなかった.
 もっとも1934年,外務省スポークスマンだった杉村陽太郎は,ドイツのユダヤ人5万人を満州に移住させる構想がある,と述べている.

 また,日本政府は,満州の状況について世界中でネガティヴ報道が行われ,各国の反応が思わしいものでないにも関わらず,決定的な措置は取らなかった.

 満州占領後,日本外務省は,ユダヤ人に対するテロを容認していると世界中から批判されたことに驚き,かつ不安になって,自国の評判を気にするようになった.
 しかし,その後のユダヤ政策を左右したのは外務省ではなく,満州派だった.

 さらに,ユダヤ人問題に対する理解は,在外公館と本省とでは食い違っていた.
 この問題を処理するための複雑な作業や現場での経験は,本省への報告では充分に説明できない類いのものだった.
 また,在外公館の報告には,外務省がユダヤ人政策の基本方針を策定する際に役立つような,基礎知識に基いた,問題の本質に迫る分析や評価は期待すべくもなかった.

 しかも,国内および海外でのユダヤ人問題は,外務省ではなく内務省の管轄だった.
 内務省の特高は,国内と占領下のシナではゲシュタポと協力していた.

 外務省では,移住問題と旅券問題はアメリカ局第3課が主管していた.
 それまでヨーロッパからの入国者は大半が通過旅行者であり,規定の2週間以内に第三国へ出国するのが通例だった.
 したがって,ヨーロッパから上海への難民,あるいはバルト諸国から日本への難民が急増するといった事態は,第3課にとっては不意討ちと言って良かった.

 対米英戦争開始による欧米大使館閉鎖や,大東亜省設置(1942年)が行われると,外務省自体の地位がさらに低下した.

 1938年11月,ドイツと領事協定を締結し,ナチス・ドイツにさらに近寄ると,有田八郎外相のグループは,ユダヤ人への門戸開放に反対する軍中央の一部の主張に同調した.
 この派のスポークマンである四王天延孝は,ソ連がビロビジャンにユダヤ人を定住させた結果,直面している困難に日本も襲われるだろうと警告した.

 1938年10月には,ウィーン総領事,山路章が査証問題で本省に緊急の照会を行った.
 近衛兼任外相は,原則としてユダヤ人に日本や日本の海外領土への入国を勧奨すべきではない,との訓令を発した.
 目的地国への入国書類があり,250円以上所持していれば日本通過を認めるとしていた.
 注目すべきは,外相がこの訓令は公表すべからずとしたことである.日本が入国拒否国だとされることを避け,同時に,在外の領事部が可能な限り入国を妨げることを期待した.

 11月中旬には,改めて全公館に外務省は通達を発した.船舶によるユダヤ人難民の入国問題について,関係公館は,彼らが日本に向かうことなく,上海に行き先を変更するよう努力せよという内容だった.

 1938/12/6の五相会議では,ユダヤ人定住計画が持ち上がったが,1940/9/27,ユダヤの仇敵と軍事同盟を結ぶことになる三国同盟調印により,その合意は破棄されたと見る他ない.

 日米関係が緊張すると,日本の態度は硬化した.杉原ヴィザは突如神通力を失ってしまった.
 日本の領事が出してくれたのだという主張は,「領事にも間違いはある」という返事で退けられた.
 米国の対日制裁は不安と怒りを呼び,日本は攻撃的になった.
 対米開戦の2ヶ月前までに,定住者を除いてユダヤ人は日本を離れた.

 1941年末,ドイツ大使館は日本政府に対して,外国に居住する全てのユダヤ人は無国籍とされ,今後いかなる保護も与えられないと通告した.そして在日ユダヤ人を解職するよう要求したが,外務省は無視した.

 一方,上海では日本人人口およびユダヤ人難民の急増のため,難民の日本占領地区への定住と営業を制限した.
 日本当局は,船会社に対し,入国許可が提示された場合のみ予約を受けつけるよう勧告することで,難民流入を堰き止めようとした.

 欧州各地の公館で行われていた査証発給事務は,1940年末からモスクワの大使館に集中された.
 同館ではユダヤ人2千人に査証を出したが,殆どは杉原ヴィザの持ち主だった.
 陸軍退役後,6年目に任命された建川美次大使は難民に理解があり,申請には好意的に対処するのが常だった.
 日本の外交官はブカレストの筒井潔公使や,青島の高岡貞一郎総領事,満州国の梅津美治郎大使を除き,押しなべてユダヤ人に好意的だった.
 難民問題が手におえなくなると,1941年に外務省は通過査証規則を改訂,手続きを厳格化した.

 1941/3/13,ウラディウォストークでユダヤ難民90人を乗せた天草丸が敦賀に入港した際,日本当局は,杉原の査証は持っているが最終目的国の入国許可を提示できない難民の日本滞在を拒否した.
 何週間も前から入国希望者数が出国者数を大幅に上回っていた状況を鑑み,日本政府は突如厳格な態度に転じたのだった.

 対米戦争が始まると,アメリカの援助をねらいとしていたユダヤ人利用計画などは吹っ飛んでしまった.
 対ユダヤ政策の舞台から,犬塚は退場させられた.
 安江は軍を去り,非公式ながら影響力のあるユダヤ問題専門家かつ日本政府顧問として満鉄に職を得た.
 上海の難民事務所は,新たに海軍の久保田敦が就任した.彼は四王天の流れを汲む人物だった.
 この移動はマイジンガーの周辺のドイツ側の圧力によるものだったと言われる.
 また,東郷外相は「ユダヤ人緊急対策の件」という訓令を出し,五相会議に基くユダヤ人利用計画を公式に放棄した.

 1942/3/11,大本営政府連絡会議で「時局に伴うユダヤ人対策」が決定される.ユダヤ人の渡来を禁止し,現住ユダヤ人の監視を強化,民族運動支援も禁止とした.
 日本は上海にいる敵国国籍者を,ユダヤ人,非ユダヤ人に関わらず,敵性外人とし,銀行などを接収した.
 開戦後は他国の反応を気にする必要もなくなったので,ドイツに同調し,ナチスのプロパガンダの影響を受けて反ユダヤ的となった.
 「上海ゲットー」設置はナチスの影響によって実施されたものだった.
 同地におけるガスによるユダヤ人殺戮を日本が拒否したのは,柴田副領事と軍の司令官たちのおかげだった.

 詳しくは,H. E. マウル著『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.64-79, 92, 99-100, 118-122, 125-127, 159-160, 164-165, 168, 183-184, 194-198を参照されたし.


 【質問】
 日本政府が,ユダヤ人を迫害するドイツに同調しなかった,主な理由は?

 【回答】
 ユダヤ人を迫害することで,米国の対日世論が悪化することを恐れたためだった.
 日本の海外貿易は多くがユダヤ人仲介業者を経由しており,彼らを怒らせることは,貿易に悪影響を及ぼすことを意味した.

 また,ユダヤ人と連携して日米の経済関係を深めようとしていたグループもいたためだった.

 さらに,優れた学者,医師,音楽家を新たに招聘することも日本政府の方針だった.

 以下引用.

 日本政府はユダヤ人問題への対策を進める際に,米国の対日世論の悪化を招かないことを重視した.
 これは利用論と違って,ユダヤ人を迫害すれば米国民に批判されるという,当然の事実を日本の当局が理解していたということだ.
 日本の海外貿易は多くがユダヤ人の仲介業者を経由していたから,彼らを怒らせれば日本経済全体が苦境に立つのだった.
 さらに,大きな視野に立ってユダヤ人と連携して日米の経済関係を深めようとしていた鮎川義介達にとって,日本がユダヤ人を差別することは交渉の破綻を意味した.
 鮎川は外務次官に,政府の方針はユダヤ人排除ではないかと詰問したが,そこにシロタの事例も挙げられていた.シロタが義妹マリー・ジェクルスを日本に呼ぼうとしたときに,特殊の技能を持たないユダヤ人を日本に招聘するのが困難だと聞かされて躊躇していることを伝えたのだった.

 1938年12月6日に日本の最高意思決定機関の一つ,五相会議は,ユダヤ人の保護に理解があったと言われる板垣征四郎陸軍大臣の提案により,「猶太人対策要領」を決定した.
 そこに,本書でこれまで言及したユダヤ人問題を巡る日本の方針は集約された.人種平等の方針,日本と日本勢力圏への外国の投資を導入する必要,日米関係を悪化させない配慮から,ユダヤ人を差別しないと定めた.
 同時にドイツとの関係にも配慮,一般的な入国管理規則の枠内でユダヤ人が日本や満州,中国の日本勢力圏に流入することを制限して,あからさまにユダヤ人を保護することも避けた.
 この政策を,歴史家の坂東宏は二枚舌と批判した.ユダヤ人を差別しないといいながら,入国を制限したからだ.
 しかし実際には,日本はユダヤ人の極東流入を制限しながら,上海協同租界にユダヤ人が移住するのを黙認した.
 上海では集中豪雨のような難民流入に大混乱が起こり,日本人居留民は困惑,米英や現地ユダヤ人もユダヤ避難民の移住に反対した.
 けれど,日本がユダヤ避難民移住を第2次世界大戦前夜の1939年8月まで黙認したことで,上海はユダヤ人にとって世界で最後の逃亡地となり,結果として多くのユダヤ人の命が救われた.
 日本は,3枚舌外交ともいうべき複雑で巧妙な対応をしたのだった.

 〔略〕

 日本の学校に勤務しているユダヤ人の講師を排除するなど,太平洋戦争以前の時期には日本政府にとって考えられないことであり,優れた学者,医師,音楽家を新たに招聘することも日本政府の方針だった.
 だから日本のユダヤ人政策で,資本導入と言う目的ばかりを強調するのはバランスを欠いている.

山本尚志著「日本を愛したユダヤ人ピアニスト レオ・シロタ」
(毎日新聞社,2004.11.20),p.152-154

 ただし,上述の経過を見ると,巧妙な外交というよりは,外務省,関東軍が,ばらばらに外交をやった,統率なき外交の産物であるようにも思えるのだが.


 【質問】
 東條英機がユダヤ人を助けたことがあるというのは本当か?

 【回答】
 本当.

 満州国を事実上,支配していた関東軍は,ユダヤ人難民の入境を拒むこともできた.
 しかし,樋口はオトポールのユダヤ人難民を救う,決断を行った.そして,樋口は軍人として当然のことだったが,新京(現在の長春)に司令部を置いていた関東軍の参謀長だった東條英機中将に,ユダヤ人難民の入国を許可するように求めた.
 日本軍ではこのような案件は,軍司令官ではなく,参謀長が決裁した.

――「ユダヤ製国家日本」(ラビ・M・トケイヤー著),p.44
 私は,イスラエルでセオドア・カウフマンと会って,
「どうして東條が『ゴールデン・ブック』入りしなかったのだろうか?」
と,たずねた.
 すると,カウフマンは,
「もし,東條参謀長が,父やユダヤ民族協会の幹部と会っていたとしたら,その名が樋口と安江とともに,1941年の夏に,間違いなく『ゴールデン・ブック』に刻まれたはずだ」
と,語った.
 もしも,そうなっていたとすれば,その後の東條の国際的なイメージが,大きく変わっていたにちがいない.

 東條は日本の敗戦後に,連合国が行った一方的な東京裁判によって,”A級戦犯”として絞首刑に処されたが,全世界のユダヤ人たちから助命嘆願書が,マッカーサー元帥のもとに寄せられたことだったろう.
 そして,連合国を,ひどく困惑させたにちがいない.

――同,p.54

 ちなみにこの件の昭和13年3月12日,当時日本とドイツの間には「日独防共協定」はあったが,未だ「同盟関係」にはない.
 「フグ計画」から考えて,ユダヤ人を助けることで,満州国の国際的な承認を取りつけるとっかかりとしたかったのだろう.
 また,当時,満州でユダヤ人に対するテロを日本は容認しているという批判が世界中からあり,それをかわす狙いもあったと推測される.

 開戦後,ドイツの反ユダヤ主義的要求と妥協して上海収容所を建設するなど,東條内閣がどちらかと言えば反ユダヤ的施策をとったことを合わせて考えると,この解釈が最も自然だろう.


 【質問】
 アメリカのユダヤ人はなぜ反日的だったのか?

 【回答】
 同コミュニティを率いるラビ・スティーブン・ワイズが反日だったため.
 彼は,日本が世界のファシズムの最も危険な中心の一つだと考えていた.
 彼は,ユダヤ人のアジア移住についての日本・ユダヤ協力構想には賛成しなかった.
 ハルビンの実業家レフ・ジクマンはラビ・ワイズに,同地のユダヤ人の提案について詳しく説明する手紙を送ったが,日本との協力を拒否するワイズは,こう答えている.
「ユダヤ人にとって,ファシズム国家である日本を支持することは,道義的に全く許されないと思う.この問題についてこれ以上議論するつもりはない.
 日本によるユダヤ人の保護を実現しようとする貴兄の動機は,それがいかなるものであるにせよ,はなはだ遺憾である.貴兄の計画を潰すために全力を尽くすつもりだ.
 日本は反ユダヤ主義であり,そのように振舞っている」

 また,上海のユダヤ財閥の代表格だったヴィクトル・サッスーンも,1939年2月のアメリカ旅行の際に反日発言を繰り返した.

 詳しくは,H. E. マウル著『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.75, 89, 123を参照されたし.


 【質問】
 五相会議とは?

 【回答】
 近衛首相の内閣改造後,それまで政策決定に大きな役割を演じていた各省会議に代わって設置されたもの.
 ここで1938/12/6に公式のユダヤ政策が決定されたが,それまでには賛否両陣営間の粘り強い交渉があった.
 有田八郎外相のグループは門戸開放に反対だったが,池田成彬蔵相は鮎川義介や犬塚惟重の移住計画を支持しており,穏健派の代表として,満州派の板垣征四郎陸軍大臣を協力に支持した.
 池田の主張の要点は,日本は好むと好まざるとに関わらず,ユダヤ人を必要としているということだった.

 五相会議の決定は両陣営を満足させた.
 安江も犬塚もこの会議には出席しなかったが,この決定によって,自分の努力が報われた感じを持った.

 詳しくは,H. E. マウル著『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.92 & 103を参照されたし.


 【質問】
 五相会議ではユダヤ人問題に関し,どんな政策が決定されたのか?

 【回答】
 ユダヤ人問題に中立的態度をとるべきことが確認され,日本は独伊が排斥しているユダヤ人を積極的に包容することは避けるが,極端に排斥することもしないとした.
 そして,一方でユダヤ人の入国を拒みながら,他方,利用価値のある資本家と技術者は例外とした.

 詳しくは,H. E. マウル著『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.104-105を参照されたし.


 【質問】
 ドイツの反ユダヤ宣伝攻勢は,日本にどんな影響を与えたのか?

 【回答】
 上海では1939年初めからの難民急増後,それを奇貨として反ユダヤ宣伝を強化.
 ナチ系の日刊新聞「東アジア・ロイド」」やナチ党機関紙「東アジア・ベオバハター」には,当初は慎重に,やがて大々的に反ユダヤ的な記事が載るようになった.

 1940/9/27に三国同盟が締結されると,ドイツ大使館の強力な支援により,日本語の反ユダヤ出版物が市場に溢れた.
 東京と大阪を中心に反ユダヤ主義の講演会や展覧会が続々と催されたが,誰もこれを妨害しなかった.
 しかし,それらが日本政府の人種平等・ユダヤ無差別の原則的態度を変えることはあまりできなかった.

 日本人にはもともとユダヤ人への知識や関心が乏しかったこともあり,急に難民を憎め,嫌えと言われても受けつけるはずはなかった.
 そもそも日本では,争いを避け,調和を図るのが美徳なので,反目を強いるナチの宣伝は非日本的なのだった.
 反ユダヤ主義者はどちらかと言うと軍部に多かったが,彼らと言えども大量殺戮など考えたことはなかった.

 詳しくは,H. E. マウル著『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.109-111, 117-118, 166-167を参照されたし.


 【質問】
 ナチス・ドイツは日本において,どのような反ユダヤ活動を行ったのか?

 【回答】
 音楽界に例をとれば,著作権問題を持ち出すなどして,ユダヤ人音楽家を排除させようとする試みを繰り返したという.
 ただ,日本への文化的な影響力をフランスとの間で競っていた関係上,便宜主義にならざるをえなかった.

 また,日本国内勢力を巻き込んでの外交戦を展開したという.
 本国におけるナチス・ドイツ滅亡後も,日本では,ドイツ秘密警察の残党による圧力によって逮捕された人々がいたというから驚きである.

 以下引用.

 1930年代に,ドイツでは急速にユダヤ人音楽家が排除されていった.
 圧迫されたユダヤ系の音楽家にとって,希望の地の一つが極東の日本だった.
 この時期の日本は,ユダヤ系音楽家を歓迎した.
 来日演奏家招聘の中心となったマネージャーのストロークはユダヤ人で,招聘業務でもユダヤ人音楽家を優先した.
 ベルリン・フィルを追われたゴールドベルクやシュースターも演奏旅行で来日して,シロタと会った.
 当時のゴールドベルク夫人でピアニストのリリー・クラウスを迎えたパーティーの写真も残っている.

 ナチスは日本で活躍するユダヤ系音楽家に不信の目を向けた.
 日本における国際著作権協会代表のヴィルヘルム・プラーゲ博士は,作曲家の代理人として著作権料を徴収するために多くの演奏会に意義を申し立てた訴訟を起こしたが,これにはユダヤ系作曲家の作品が関係する場合も多かった.
 ところが国際団体の代表者でありながら,ドイツ人プラーゲは在日ドイツ大使館や,日本に於ける反ユダヤ主義の中心である国際政経学会とも繋がっていた.
 在日ドイツ大使館も密かに,シロタを含むユダヤ系音楽家のリストを作成して,日本からユダヤ系音楽家を排除,代わりにドイツ人音楽家を就職させる陰謀を繰り返した.
 また,ユダヤ人を優先する音楽マネージャーのストロークの活動について,日本外務省に向かって不満の言葉を伝えた.

 しかし,日本でドイツ外交官は複雑な立場に置かれていた.ドイツは1930年代の日本でフランスと文化的な影響力を競ってもいたのであり,日本に確固とした基盤を築いていたユダヤ系ドイツ音楽家は,ナチス・ドイツの外交官にとって,ユダヤ人の影響力を代表する敵であるだけではなく,フランスと対抗してくれる味方でもあった.
 そんなわけでドイツ外交は,反ユダヤ主義と,ドイツの文化的な宣伝のための便宜主義の間を複雑に揺れ動くことになった.

 1934年に日独交換放送で,ユダヤ系のプリングスハイムが指揮する東京音楽学校管弦楽団によるリヒャルト・シュトラウス作品の演奏がドイツに向けてラジオ放送された.
 この在日ドイツ大使館の政策に反対するナチス強硬派の妨害工作があって,この時使用された楽譜は上演権つきだったのに,著作権問題すら持ち出された.

山本尚志著「日本を愛したユダヤ人ピアニスト レオ・シロタ」
(毎日新聞社,2004.11.20),p.135-136

日本側で警察を統括する内務省は,プラーゲ〔ユダヤ人問題で暗躍した国際著作権協会駐日代表〕を支援する日本陸軍参謀本部独逸班やドイツ大使館,日本の反ユダヤ主義者(全面的にユダヤ人を憎んだ一派)の介入をはねのける必要があった.
 国内勢力を巻き込んだ外交戦は熾烈だった.

山本尚志著「日本を愛したユダヤ人ピアニスト レオ・シロタ」
(毎日新聞社,2004.11.20),p.155

 ドイツ降伏以降,東京の天主公教会に収容されていたプリングスハイムやクロイツァーなどのユダヤ人や反ナチスのドイツ人は,空襲で施設が炎上して焼け出されて,日本女子大の建物に移った.
 この人々はドイツ秘密警察の残党による圧力によって逮捕されていた.
 あるドイツ人の回想では,日本の警官は不本意であると弁解しながら丁重に逮捕者を扱ったそうだ.
 ナチス政権滅亡後まで圧力と影響力を発揮したドイツの秘密警察は,大変に厄介な存在だった.

 〔略〕

 ドイツの圧力により,一部のユダヤ系ドイツ人はスパイ容疑で逮捕されていた.
 ユダヤ人技術者フーゴ・カール・フランクや日本外務省に招聘された新聞記者で夫人がユダヤ人だったアルヴィト・バルクもつかまり,フランクは栄養失調により獄死した.

山本尚志著「日本を愛したユダヤ人ピアニスト レオ・シロタ」
(毎日新聞社,2004.11.20),p.218-219

 なんだか,腐ったゴミを近所にぶちまける主婦的な,ねちねち,せこせことした嫌がらせを連想してしまうが,なんでそんなことを大の大人がするかなあ……?


 【質問】
 マイジンガーとは?

 【回答】
 ヨゼフ・アルベルト・マイジンガーは1899年,ミュンヘン生まれ.
 1921年,ナチ党に入党(原文ママ).
 第一次大戦では志願兵として2年近く戦う.
 公証人役場と銀行で実習の後,1922年のルール闘争に参加,ミュンヘン警察に勤務する.
 翌年のミュンヘン一揆でバイエルン・フライコールに動員され,忠実に活動した後,1933年,政治警察に移り,1年後にSS中佐として国家秘密警察に転属される.
 翌年結婚.
 親衛隊保安防諜部の幹部に登用された際の人事考課録では,ゲシュタポの管理職として極めて有能かつ勤勉な官吏で,政治的にも個人的にも問題はないと評価されており,また「赤血勲章」を受勲している.

 1939年,ポーランド占領後,SS大佐としてワルシャワの保安警察及びゲシュタポの長官となり,悪魔的残忍さのために「ワルシャワの殺し屋」というあだ名を貰った,
 部下ですらこの上司を軽蔑の目で見ていた.
 ヒムラーでさえ,マイジンガーの行動記録にショックを受け,裁判にかけて場合によっては銃殺しようと考えたが,側近のハイドリッヒが手を回してこれを阻んだと言われている.彼は訴追を逃れさせるため,マイジンガーを東京に転勤させた.

 帝国保安本部RSHA第4局(外国担当)のワルター・シェレンベルク局長は,マイジンガー赴任に先立ってリヒャルト・ゾルゲの監視を命じ,定期的に「電話で」報告するよう指示した.
 マイジンガーは着任後直ちにゾルゲについて憲兵隊に警告して日本側を驚かせ,これがゾルゲ逮捕にも繋がるが,シェレンベルクはそこまで考えていなかったため,マイジンガーの粗暴なやり方に激怒したという.

 マイジンガーは,睨んだり気に入らなかったりした人物を卑劣な方法で監視したり逮捕したりしたのみならず,自分の権限を勝手に拡張した.
 リッベントロープ外相はヒムラーに,在外公館の警察アタッシェの行動や報告が問題を起こしていると抗議している.
 マイジンガーの越権行為の頂点は,上海にいる日本人の協力者を使い,ユダヤ難民を殺害させようとしたことだった.彼は上海に強制収容所を建設しようとしていた可能性が高い.
 また,フランク事件にも関与した.
 東京での評判は最低だった.
 大使館の中では恐怖の的だった.
 あまりのひどさに大使館では,何の因果でこんな男と付き合わねばならないのかと嘆いた.

 日本側は,自分の役に立つ限りにおいてマイジンガーと協力した.
 日独間に警察協定や同盟関係があろうとなかろうと,マイジンガーは無気味な存在であり,好感は持てなかった.
 憲兵隊はマイジンガーを信用していなかった.ゾルゲとゲシュタポはぐるだと思っていたのである.ゾルゲ逮捕後,日本側は彼を信頼しなくなる.

 マイジンガーは,日本人はスパイ・ヒステリーだと非難していたが,ゾルゲには異常なほどの関心を示した.巣鴨拘置所のゾルゲに面会しようと試みて断られたときは,狂ったように日本の警察を罵った.

 ゾルゲ逮捕のため,ゾルゲと親しかったオットー大使の立場が苦しくなり,彼が東京を追われると,マイジンガーは自由に活動できるようになった.
 犬塚らの離任は,マイジンガーの周辺のドイツ側の圧力によるものだったと言われる.

 1945/9/6,マイジンガーは逮捕され,9/15,フランクフルトへ移送.
 そしてポーランド側に引き渡され,1947/3/7,ワルシャワ最高裁判所から死刑を宣告された.
 刑は翌日,執行された.

 詳しくは,H. E. マウル著『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.174-179, 184-191を参照されたし.


 【質問】
 フランク事件とは?

 【回答】
 ルイス・H・フランク博士は山梨工専で教鞭を取っていたが,1943年,マイジンガーの圧力で退職させられた.
 長男フーゴーは,日本IBMの前身,ワトソン・ビジネス・マシーン社に職を得ていたが,翌年7月,同じくマイジンガーの手が回り,強羅の自宅でスパイ容疑により横浜の憲兵隊に逮捕された.
 隊長の大谷敬二郎大佐はマイジンガーと密接に協力しており,戦争末期に,吉田茂が近衛上奏文に関与していたとして逮捕された事件に関係して悪名を残した男である.
 フランクは過酷な拷問を受け,巣鴨拘置所に拘留されている間に健康を損ね,3年の刑期の完了を待たずに死亡した.

 詳しくは,H. E. マウル著『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.177を参照されたし.


 【質問】
 第2次大戦が進むにつれ,日本国内のユダヤ人の立場が次第に悪くなってきたのは何故か?

 【回答】
 日本国内のムードが次第に国粋主義的になってきたため.
 また,戦況が悪化すると,それに伴ってユダヤ人に限らない,外国人全体への排外ムードが高まったため.その排外傾向は,同盟国であるドイツの人々にまで及んだという.

 例えば,次のような事例が記録されている.

 〔1940年〕当時の日本では,外国人は警察によって厳しく監視されていた.
 ユダヤ人音楽家のシロタも,もとより警察に監視されていた.シロタは官立学校である東京音楽学校で外国人教師を務めて奏任官相当という高い位にあったが,警察は手を緩めることなく,その一挙一動を追い続けていたのだった.
 娘のベアテは,ドイツ人の子弟のための学校だった,大森のドイツ学校に通っていたが,ここでも国粋派が増えて居心地が悪くなっていった.
 例えば学校で,ザール地方がドイツに返還されるよりも国際連盟のものになったほうがいいとベアテが発言したことがあった.
 この地域はドイツの一部で,第1次世界大戦後は国際連盟が統治していた.
 ドイツ人教師は激怒する.
 その話を学校から知らされたアウグスティーネ夫人は,帰るとベアテを諭した.
「公の場所では,政治について触れてはなりません.私達は,この国ではいつも『ゲスト』であることを忘れてはなりませんよ」

山本尚志著「日本を愛したユダヤ人ピアニスト レオ・シロタ」
(毎日新聞社,2004.11.20),p.189

守勢に立った日本は,様々な面で次第に余裕を失っていった.
 こうして音楽界にも,とうとう反ユダヤ主義的な論調が起こってきた.
 ローゼンシュトックが指揮した日本交響楽団の演奏会を聴いて,音楽評論家の吉本明光は次のように糾弾した.(『音楽之友』 1942年12月号)
「日米海軍が壮絶なソロモン開戦を戦い続けている折も折,大東亜戦争が敵米英を撃滅し,その背後に糸を操るユダヤ謀略を破砕せんとしてこの戦争を戦い続けている折も折,ナチス後の清掃によりドイツを追われたこのユダヤ人を,単に極めて優れたる音楽的技術の所有者ということだけでかくも熱狂的拍手を贈ったこの3千の聴衆の心理の諒解に苦しんだ」
 この偏見に満ちた文章は,聴衆がユダヤ人音楽家の演奏に耳を傾けて「熱狂的」に歓迎したことを示してもいた.
 戦時中から戦後初期に,演奏会はいつも満員だった.娯楽が少なかったから歓迎されたという話もあるが,危険が身近な時代によい音楽はとりわけ切実に求められたのだともいえる.
 〔略〕
 音楽界の現実と新聞や雑誌で流布された反ユダヤ主義的な見解は完全に分裂してしまっていた.
 人々は新聞や雑誌で米英の背後に「ユダヤの陰謀」があるという妄想を読まされて,それを半分信じながら,けれどユダヤ人音楽家が出演するコンサートに通った.

 〔略〕

 1943年7月3日と4日の報告団演奏会で,シロタは生徒の演奏を伴奏した.東京音楽学校奏楽堂では,かれの最後の演奏だった.
 このころ批評家は,ユダヤ系音楽家を支持する日本の聴衆に憤懣をぶつけるようになり,公衆の面前でユダヤ系音楽家と親しげな態度をとることはタブーとされた.
 このころには新聞や雑誌でもユダヤの陰謀を叫ぶような論調が主流となり,日本は反ユダヤ主義に染まったようだった.
 それは西洋音楽が排斥されて「ピアノを弾いていると石を投げられた」(黒田睦子)時代でもあり,ピアニストはしばしば極端な国粋主義に染まった人々に怒鳴りこまれた.熱血漢の豊増昇などは反撃して喧嘩になった.
 しかし,西洋音楽が公式に禁じられたわけではなかった.
 音楽愛好家だった大本営報道部の平出英夫海軍大佐は楽壇関係者とも親しく,「音楽は軍需品」という有名なキャッチフレーズを作り出した.
 これは国民の戦争意欲を維持するために余暇や娯楽の普及を重視する総力戦体制に応じた考え方で,国が慰問の目的で音楽会を主催する場合もあった.
 つまり日本国民の意識そのものが分裂していたのであり,日本政府の方針はまだ日本国内ではユダヤ人を厳重に監視はするが差別はしないというものだった.
 〔略〕
 ただ,米英の音楽は禁止された.
 誤解があるようなので書いておくと,戦争中に敵国の音楽を禁止するのはめずらしくない.ナチス・ドイツはユダヤ人の作品を禁止したが,第1次世界大戦のときアメリカでも,バッハ,ベートーヴェンなどドイツ音楽の演奏が抑圧されたといわれている.

在日ユダヤ人音楽家の追放

 しかし,1943年の10月に,日本音楽文化協会は会員の日本人音楽家が枢軸国(ドイツ・イタリアなど日本の同盟国)以外の出身の音楽家とは共演しないように希望する旨の通達を出した.
 これはユダヤ系音楽家の活動が不可能になることを意味した.
 摩擦の少ないあいまいな形で,日本音楽界はユダヤ系音楽化を演奏活動から排除したのだった.
 〔略〕
 実際は,皮肉な意味で人種平等は維持された.国粋主義と外国への反感が高まるなかで,ドイツ人音楽家の演奏も難しくなったのだ.
 日本音楽文化協会の通達は枢軸国の外国人を特別扱いした.
 ところが現実にはドイツ政府の支持する音楽家まで,音楽界から排除されたのだ.
 ドイツ人指揮者で,東京音楽学校でオーケストラを指導していたフェルマーの活動も妨害されていた.かれが政治的な活動をしたことは知られていないが,とにかくドイツ政府の推薦によって送りこまれたはずの人物だった.
 ユダヤ系の音楽家でありながら,演奏活動の便宜を図ってもらうためにナチスの大使館と接近したグルリットも1944年中頃には演奏ができなくなった.

 〔略〕

 1944年には任期満了の契約を更新しないという方法で,在日ユダヤ系音楽家が東京音楽学校から追放されることが決まった.
 シロタも東京音楽学校の教壇を去ることになった.
 〔略〕
 太平洋戦争末期には,外国人ピアニストの弟子は強制的に日本人教師に指導を受けさせられることもあったようだ.
 権力を用いた弟子の横取りととられても仕方なく,ピアノの世界では遺恨を残す思慮に欠けた行為だった.

山本尚志著「日本を愛したユダヤ人ピアニスト レオ・シロタ」
(毎日新聞社,2004.11.20),p.206-212

 これらを読むと,官が主導したというより,民のほうで勝手に自主規制ムードをした気配が濃厚.
 まあ,「英語禁止」と同じパターンですな.


 【質問】
 ユダヤ人音楽家を日本音楽界から排除したのは誰の仕業か?

 【回答】
 不明.山根銀二と山田耕筰,およびその支持者が,互いに責任のなすり合いをしている.

 また,東京音楽学校では,井口基成が戦後に非難されて学校を追われている.

 以下引用.
 ユダヤ人音楽家を日本音楽界から排除した責任の所在は謎とされている.
 この頃日本音楽文化協会の会長となっていたのは,いつもシロタに親切な山田耕筰だった.
 戦後に山根銀二はユダヤ人問題を持ち出して山田耕筰を戦犯だと非難したが,山田は山根銀二こそ責任者だとやりかえした.
 ふたりとも日本音楽文化協会の首脳でこの問題に関与した可能性があり,どちらの主張にも支持者がいるようだ.
 ユダヤ系音楽家を排除した関係で,井口基成も戦後に非難されて東京音楽学校を追われた.
 潔く当事者としての責任を認めて辞任した井口を,さかしげに非難したくはない.自分達は積極的にユダヤ人排除を推進したのではないというのも正直な話だろう.
 また西洋音楽に対する逆風が強いとき,日本音楽界の指導者が受けた圧力は猛烈だったはずだ.
 井口基成の胸中には日本のピアノ演奏は日本人が指導すべきだという信念もあった.
 欧米ではいまも日本人に偏見をもつピアノ教師やピアニストがいて,本音を聞くとうんざりさせられることがある.
 井口基成がヨーロッパにいった当時,偏見はより強烈だったはずだ.
 偏見に立ち向かうなかで,音楽家が民族的な自負を持つのは悪いこととはいえない.

山本尚志著「日本を愛したユダヤ人ピアニスト レオ・シロタ」
(毎日新聞社,2004.11.20),p.206-212

 真相は藪の中になるだろう.これもまた,いつものパターン.


◆◆「専門家」達


 【質問】
 安江仙弘の「ユダヤの人々」はどんな本か?

 【回答】
 1934年刊行.南次郎関東軍司令官の序文つき.
 安江はシベリア出兵の際,司令部勤務で白系ロシアの将校からシオンの議定書の話を聞いた経験を持つ.
 その彼が数ヶ月パレスチナに滞在調査した後に書かれた報告書が同書.
 祭政一致や家族重視,先祖崇拝といった日ユ両民族に共通の要素を指摘する一方,ユダヤの陰謀は日本にとって危険なものだと警告.
 とはいえ,ユダヤ人との間に現実の要請に応じた穏健な関係を構築するよう提言している.

 詳しくは,H. E. マウル著『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.37を参照されたし.


 【質問】
 安江大佐は反ユダヤ主義者なのか?

 【回答】
 彼を反ユダヤ主義者だとする評価は,当時,彼と対立していたアブラハム小辻(小辻節三)による評価に起因する.
 小辻はユダヤ教に改宗した学者で,松岡洋右の満鉄総裁時代,その顧問を務めていた.
 彼は安江を,「ユダヤの影の政府が世界を動かしているとの見方をしている反ユダヤ主義者」と見なしていた.

 しかし安江は,冷静な現実主義者でもあったため,1939年の極東ユダヤ民族大会においては,窮地にあるユダヤ人達の支持者に変貌している.
 全体として見れば,親ユダヤ的に行動したと言って差し支えない.

 安江の理想は,満州のユダヤ人の対日協力が,全世界のユダヤ人にとってのモデルになってほしいということである.ユダヤ人と共に東亜新秩序を実現しようというものだった.
 安江は,アメリカのユダヤ人はシナのユダヤ人と疎遠になっていると考える.後者が日本との強調を急いでいるのに対し,前者は日本との政治的緊張を欲している.
 にも関わらず極東のユダヤ人の立場は,アメリカの,そして世界各地のユダヤ人の間に,日本にとって有利な方向に影響を及ぼしつつある.
 日本はユダヤ人の協力を得て,支那事変や大陸侵攻,そして満州の発展についての真相を世界に知らせることが出きる.
 日本がユダヤ人を迫害しているという非難もかわすことができる.
 ドイツはこうした行動に反対しないだろう…….

 こうした安江の主張の大半は,希望的観測に過ぎない.にも関わらず外務省・回教及猶太問題委員会は耳を傾けた.

 安江の研究や思想の多彩さ,その幻想と認識の多様さの中に,日本のユダヤ政策全体が抱えた問題が浮かびあがってくる.

 詳しくは,H. E. マウル著『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.72-73 & 81-83を参照されたし.


 【質問】
 私設安江機関は何故誕生したのか?

 【回答】
 安江の予備役編入後,周囲の人間から「今までの仕事を続けてくれ」と懇願されたためだという.
 以下引用.

 〔安江の予備役編入後,〕家には特務機関の部下をはじめ外国人まで訪問者が相次いだ.
 満鉄や陸軍部内にでさえ安江の良き理解者がいて,「我々がサポートするから,ぜひ今まで通り仕事を続けてください」と切望された結果,彼自身も東條への個人的感情は別として,今までの仕事を「天我が材を下す.必ず用あり」の天から与えられたものと考え直し,再起を決意した.
 そして,周囲の協力者達の計らいで満州国政府の簡任(勅任)待遇顧問や満鉄総裁室付嘱託ということで活動資金も確保され,ここに私設安江機関が誕生した.

 当時,関東軍参謀長は陸士同期の中将飯村穣であり,彼あたりが種々の配慮をしてくれたことと思われる.
 飯村は関東軍参謀長就任前は陸軍大学校校長を務めており,離任後は内閣総理大臣直属で,各官庁の中堅の俊秀を集めた「総力戦研究所」の所長として「想定による日米戦争机上演習」で日本の敗戦を推論した,陸軍きっての兵学家であった.
 彼は人格円満にして冷徹な頭脳の持ち主で,終始陸軍の中枢を歩いたエリート中のエリートであった.

安江弘夫著『大連特務機関と幻のユダヤ国家』(八幡書店,1989/8),p.209

 ※
 原文ママ.
 正確には
天生我材必有用(天 我が材を生ずる 必ず用あり)

 李白の「将進酒」より.

しまだ in FAQ BBS・改


 【質問】
 海軍の「ユダヤ問題専門家」,犬塚惟重の主張はどんなものだったか?

 【回答】
 犬塚はシベリア出兵に参加,現地でロシア革命の背後に無気味なユダヤ問題が存在すると「知り」,20年に渡ってこれに熱心に取り組んだ.
 彼は,日本は早急に常設の早期警戒・監視機関を作るべきであり,日本のユダヤ政策は八紘一宇の精神に基く国家政策の目標と優先順位に配慮したものでなければならないと警告.
 そして,日本は過去の経験を生かし,計算づくで自惚れやのユダや人をコントロールする術を身につけなければならないと主張.
 犬塚の目標は,日本が支配する新秩序下のアジアの中で,ユダヤ人の永続的な生存権を保証することにあった.
 外務省・回教及猶太問題委員会において彼は,ユダヤ人を通じて米国資本を日本に導入するための民間組織設立を提案した.

 詳しくは,H. E. マウル著『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.37-38 & 83-84を参照されたし.


 【質問】
 酒井勝軍のユダヤ観はどんなものだったのか?

 【回答】
 日本人のユダヤ観には,ユダヤ人を自らと同一視しながらも彼らを拒否し,ユダヤ人を羨むと同じに彼らの力を恐れるという矛盾をはらんだものがあるが,酒井はその典型である.
 彼は確信的国家主義者であると共に,キリスト教原理主義者でもあったため,キリスト教徒としてはユダヤ人が神から選ばれた民族であることを認めると同時に,ナショナリストとしては,真に選ばれた民族としての日本人の役割を強調した.
 米国との戦争が始まると,酒井の論文は軍指導部に,時局便乗の反ユダヤ思想のための精神的武器を与えるものとなった.

 詳しくは,H. E. マウル著『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.38-40を参照されたし.


 【質問】
 四王天延孝とは?

 【回答】
 フランスの士官学校に留学,第1次大戦中はパリ大使館付武官だった.
 そのときに,アンドレ・スピールの「ユダヤと大戦」を読んでユダヤ問題に関心を抱き,1925年から反ユダヤ的な著作を世に問い始めた.
 1937年には,外務省の肝いりで設立された国際政経学会の理事長となった.

 彼は熱烈な天皇崇拝者,天皇制支持者であり,伝統的な排外ナショナリズムを日本的反ユダヤ主義と結びつけた.
 彼は,天皇をユダヤの魔手から守ることは,日本にとって重要であるばかりでなく,世界の全ての民族の役に立つものであり,これこそ大和民族の純なる使命だと主張した.
 彼は1942年に衆議院議員になるが,引き続き宣伝工作に熱中した.

 詳しくは,H. E. マウル著『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.40-44を参照されたし.


 【質問】
 小山猛夫のユダヤ観は?

 【回答】
 小山は,政府からは距離を取って日本的なユダヤ理解の確立を試みた,独自の色合いの専門家である.

 彼は,寛容さこそ皇道の根本にあるのだとする.
 彼によれば,日本の政治の最大の目標は,八紘一宇の精神に基いて確固たる世界平和を実現することであり,その精神にのっとってユダヤ人を日本人は受け入れなければならないのだとした.
 彼は東亜新秩序を軍事的手段では建設することには反対し,大和民族の考え方は,自らを高めることによって他を支配しようとするものだと説く.
 そして,ユダヤ人との協力は,彼らの世界的ユダヤ網との繋がりを通じ,西洋諸国の政治的・経済的・金融的センターに接近する道だというのである.

 詳しくは,H. E. マウル著『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.44-46を参照されたし.


◆◆上海関連


 【質問】
 上海にユダヤ人の武装グループがいたのは何故か?

 【回答】
 上海には上海の外国人商人が組織した「商人部隊」があった.その存在は市当局も認めていた.
 1928年に,英国をモデルとした1400人の上海自衛隊に改組された.
 自衛隊にはいわゆるユダヤ中隊があり,200〜250人がこれに属していた.

 詳しくは,H. E. マウル著『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.107-108を参照されたし.


 【質問】
 河豚計画とは?

 【回答】
 上海に難民が急増した件に鑑み,1939年5月,犬塚,安江と石黒四郎・上海領事が調査会を作り,7月初めに彼らは「上海ニ於ケル猶太関係調査報告書」を回教及猶太問題委員会に提出したが,その中で,3万人(犬塚は30万人の)のユダヤ人の満州またはシナへの定住という考えが示された.
 著者達は,満州とシナの親日的なユダヤ人を糾合しなけれればならないと主張.そして日本が覇権を確立するためには,ユダヤ資本を獲得することが肝要だとする.
 その際,新上海建設のためのユダヤ人の協力や,上海在住のユダヤ人指導部との協力ばかりでなく,世界中のユダヤ人,就中ニューヨーク都心のユダヤ人との協力が必須だとする.

 この報告書の中の,「ユダヤ系資本誘致の具体案」を見ると,著者達がユダヤの富を日本のために利用することについて,いかに単純な幻想的構想を抱いていたかが分かる.
 親日ユダヤ人がニューヨークのユダヤ財閥に影響を与え,それがさらにヨーロッパおよび上海のユダヤ財閥に波及して,彼らが日本との協力に向かうという図式は,著者達の信じ易さ,無知,そして国際金融の実態に詳しくないことを露呈している.

 結論として著者達は,これに日本が成功すれば,軍事的支配と経済的繁栄が成就され,その過程でアメリカと接近すれば,日本は北の敵であるソ連に力を集中し,これに勝利することが可能となろうという幻想に陥る.

 軍部は一致して,この意見に同意したわけではなかった.
 アジアに自治的なユダヤ国家を建設することは,祖国日本の基本的価値をゆるがすものであり,アジアの新秩序建設のための聖戦の信憑性を損なう危険があると批判された.

 なお,この報告書における犬塚の考えに感激したマーヴィン・トケイヤーは,これについて本を書き,それに「河豚計画」という題をつけた.
 その由来は,これに先立つ報告書(回教及猶太問題委員会に提出)の中で犬塚が,ユダヤ人を,しかるべく慎重に処理した上でなければ利用(賞味)できない河豚に例えているところから.

 詳しくは,H. E. マウル著『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.114-117を参照されたし.


 【質問】
 日本のユダヤ人利用計画は,なぜ失敗したのか?

 【回答】
 本来の勢力拡張構想が軍事的な力技に萎縮してしまい,かつ,日本の対外武力行使が与えた心理的影響を無視し,さらに,ユダヤ人が世界中に根を張っているということが,実際にどんなことなのかを研究もしなかったためだという.

 詳しくは,H. E. マウル著『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.19を参照されたし.

 犬塚らの計画は挫折したものの,しかし,上海はユダヤ人難民にとって最大の避難地になったことだけは明記されておいてよいだろう.

 宮澤正典とデヴィッド・グッドマンの共著である「ユダヤ人陰謀説」は,戦前日本のユダヤ人観を批判的に分析しているが,同時に次のことは認めている.
「上海は結果から見れば,ユダヤ人にとって最大の避難地になった.
 上海が受け入れた人数は2万5千を超え,カナだ,オーストラリア,ニュージーランド,南アフリカに逃げたユダヤ人の合計数より多い」
 たぶんグッドマン達の数字は,上海にもともと住んでいたユダヤ人も計算に入れている.それも見識と思うが,ここでは1937年以降の避難ユダヤ人を総計した1万7千人程度とする集計を用いたい.
 しかし,それを割り引いても,上海に避難したユダヤ難民の数は,世界が避難民に対して門戸を閉ざした時代に日本が果たした貢献を示したものだ.
 1939年8月に第2次世界大戦の開幕を前にして,ようやく日本政府は上海共同租界へのユダヤ避難民流入を制限する処置をとった.

山本尚志著「日本を愛したユダヤ人ピアニスト レオ・シロタ」
(毎日新聞社,2004.11.20),p.191


 【質問】
 上海での難民の経済状況は?

 【回答】
 1943年に無国籍難民特別地区が設定されるまでは,大半の難民は,自分の努力や手持ちの資金で生活基盤を築くことができた.
 収容所並みの「ハイム」には約2500人が住んでおり,救済機関に完全に依存していた.
 収容所の外で暮らしていた5千〜6千人も,収容所で安く物資を調達する事ができた.
 残りの9千〜1万人はどうにか自立しており,その豊かさの程度も様々だった.
 小さな企業を持ったりしている少数派もいたが,上海経済に影響を及ぼすほどの者はいなかった.

 詳しくは,H. E. マウル著『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.128-129を参照されたし.


 【質問】
 上海のドイツ総領事館が,ユダヤ人に対し,本国に比して穏健だったのは何故か?

 【回答】
 ドイツ居留民にユダヤ人商店での買い物が禁止されたときは,総領事マルティン・フィッシャーは,移民達の生活をこれ以上苦しいものにすることを好まず,この命令を無視することもあった.
 1941年の帝国市民法によって無国籍となったユダヤ人が,旅券返還を求められたときは,総領事館も当初はこれを実行しようとしたが,日本側の介入でこれを中止した.
 ドイツ総領事館は,ドイツ国籍者差別の責任を追及される危険ありとして作業を中止し,ユダヤ難民にも外交的保護を与えることにした.

 なお,ナチ党中国支部と地域グループも上海にあったが,公式にはユダヤ人に敵対的な発言は控えられた.外部に対しては慎重にという党の方針に従っていたのである.

 詳しくは,H. E. マウル著『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.180-181を参照されたし.


 【質問】
 柴田・ブラーン事件とは?

 【回答】
 不安と恐怖がつのる中,上海のユダヤ人指導部はその対策を協議するため,新しい委員会を設立したが,1942年7月,日本側とコネをつけようとしたところ,憲兵隊に接触したフリッツ・ブラーンを皮切りに,委員会全員が憲兵隊に逮捕された他,柴田副領事までが逮捕された事件.
 間もなく,ボリス・トパス,フリッツ・カウフマン,柴田を除いて釈放されたが,この事件はコミュニティの知るところとなり,日本はゲシュタポに従順だと言われていただけに,ユダヤ人達の不安はいっそう高まった.

 詳しくは,H. E. マウル著『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.186-187を参照されたし.


 【質問】
 無国籍難民特別地区とは?

 【回答】
 1943/2/18,日本軍が上海に作った「ゲットー」.
 日本はこの措置でナチスの圧力を回避すると共に,同盟国としての忠誠を示そうとした.
 布告は8千人近いユダヤ人の状況を悪化させ,それは3年続いた.
 しかし欧州での絶滅収容所への追いこみに比べると穏やかであり,個々のケースでは日本側との「交渉」も可能だった.
 特別地区は周囲から遮断され,居住者の外出は禁じられ,鉄条網も張られた.
 公道への出入り口には監視所が設けられ,「外国人難民宇望員」という腕章をつけた監視員が常駐していた.
 難民自身が「外国人保甲」という名の秩序保持グループを結成されたが,欧州の収容所の残酷で悪名高き監視チームとは比較にならなかった.

 「上海ゲットー」設置はナチスの影響によって実施されたものだった.
 同地におけるガスによるユダヤ人殺戮を日本が拒否したのは,柴田副領事と軍の司令官たちのおかげだった.
 詳しくは,H. E. マウル著『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.192-199を参照されたし.


◆◆杉原千畝関連

 【質問】
 リトアニアの日本領事館に押し寄せたユダヤ人達は,どこから集まって来たのか?

 【回答】
・ドイツのポーランド占領によって生じた避難民
・ソ連勢力圏内での政治的弾圧によって生じた避難民
の2種類.

 後者については1939/7/28の,杉原領事代理の本省への打電文に,それは現れている.
 以下にそれを引用.

 当国内共産党工作の急速度に進展したる影には「ゲペウ(GRU)」の仮借なき,且電撃的「テロ」工作行はれたる次第にして「ゲペウ」は先つ赤軍進駐と共に波蘭(ポーランド)人,白系露人,当国人及猶太人の政治団体本部を襲い団員名簿を取上けたる上,選挙3日前より団員の一斉検挙を開始,右は今に至るも継続せられ居る処,今日迄に逮捕せられたる者「ウイルー」千五百,当地其の他の諸地に二千あり,大部分は旧波蘭軍人官吏,白系露人将校,当国旧政権与党たりし国民党乃至社会党幹部「ブント」派(筆者注,在ポーランド,ロシア・ユダヤ人労働者総同盟のことで,ユダヤ人を民族として規定し,民族自治を主張する権利を唱えていた),及「シオニスト」猶太人にして,前首相「メルキス」及「ウルブシス」外相も夫々家族と共に莫斯科(モスクワ)に送られたり.

 尚1週間前に抑留波蘭軍人千六百「サマラ」方面へ押送されたるに対し英国側は当地並に莫斯科(モスクワ)に於て蘇(ソ)側に抗議中.

 右粛清開始以来,危険を感し農村に潜込みたる者鮮(すくな)からす独逸領に脱走せる者数百と謂はれ,猶太人は本邦経由渡来すへく,査証関係にて当館に押掛くる者連日百名内外に及ひ居れり.

(安江弘夫「大連特務機関と幻のユダヤ国家」,八幡書店,1989/8,p.195-196)


 【質問】
 1940/8/9の,杉原からの,ユダヤ人15人の敦賀1ヵ月滞在を許可して差し支えなきや?とする請訓電報に対し,外務省が
「本邦滞在方については本邦上陸許可後の問題と致したし」
と回答したのは何故か?

 【回答】
 当時の日本の入国管理法規では,入国と通過の可否決定は県庁の権限に属していたため.
 実際には税関,警察などの下部官庁が,そのつど滞在期間を指定することができた.

 詳しくは,H. E. マウル著『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.144-145を参照されたし.


 【質問】
 なぜソ連はユダヤ人の領内通過を認めたのか?

 【回答】
 ソ連は,難民通過を認めることで,自国の人道性を宣伝できた.
 それ以上に重要なのは,ドルが手に入ることだった.査証発給その他の手数料は,現金で約200ドルだった.これはかなりの高額で,支払える者は少なかった.
 また,スパイを潜り込ませる可能製も勘定に入れていた.

 詳しくは,H. E. マウル著『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.146-147を参照されたし.


 【質問】
 「オランダ領西インド諸島キュラソー入国」案を考案したのは杉原だったのか?

 【回答】
 そういう説もある.

 本来キュラソー入国には査証は必要なく,滞在については入国の際,総督が許可権を持つことになっていた.
 リガ駐在のオランダ大使,デ・デッカーは,入国を確実にするため,申請者の旅券に
「キュラソー入国は査証なしで可能」
と記入させた.
 これを受けて杉原は,
「通過査証.日本経由(スリナム,キュラソーまたは他のオランダ植民地領へ).カウナス領事代理杉原千畝」
と記入した.

 杉原の査証作戦が始まる前の1940年6月,オランダのヤン・ヅヴァルテンダイク領事がデ・デッカー大使の同意を得て,東リトアニアのテルゼにあるタルムード学院の学生で,オランダ出身のナタン・グートヴィルトに,キュラソーへの入国査証を発給したことがあった.
 こういう形で目的国入国に必要な書類を手に入れられる可能性は,たちまちの内に難民に知れ渡った.

 キュラソー入国案は杉原から出たという説もある.
 ポーランドの研究者エヴァ・パラシュ=ルトコヴスカは,杉原の通報者であったダスキエヴィッチ中尉が,1948年に記した未公開のメモを,数年前に発掘した.
 それによれば,
「日本経由でキュラソーに脱出させる案を出した一人でもある」
と記述されているという.

 詳しくは,H. E. マウル著『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.147-148を参照されたし.


 【質問】
 8月に難民が敦賀に到着してから後の,日本外務省の態度は?

 【回答】
 現地当局による審問の結果,杉原に対し,難民が最終目的地として挙げている米国とカナダへの正規の入国査証が欠けていることを指摘,また,難民達が殆ど現金を持っていないことを批判した.
 大臣発カウナス宛第22号電信では,間接的ながら杉原を叱責している.

 詳しくは,H. E. マウル著『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.149を参照されたし.


 【質問】
 杉原が救った人間の数は?

 【回答】
 おそらく不明.

 「杉原リスト」最後の記入は1940/8/31の第2139号だったが,全部で幾つ査証が発給されたかは確認しようがない.杉原夫人は,夫は最後には時間の無駄を避けるため,記帳しなかったと言っている.
 杉原自身は未公開メモの中で,3500の査証を発給したと記しているが,家族全員が一個の査証で出国した場合や,16歳以下で親の旅券に併記されているため,査証を必要としなかった場合など考えると,助けられた人の数はこれを上回るだろう.
 領事館が閉鎖され,9月4日,杉原がベルリンに向けてカウナス駅から出発した際も,査証を貰おうとしてプラットフォームにまで追いかけてきた難民がいた.
 杉原は文字通り,最後の瞬間まで仕事を続けた.
 汽車が動き出すと,難民達は列車を負って走り出した.
 杉原は所有者欄が空白のままの査証用紙を窓から投げ,日本に着いたら「バンザイ・ニッポン!」と叫べ,と教えた.

 ポーランドの研究者,エヴァ・パラシュ=ルトコヴスカは,ポーランド側は査証問題に介入し,偽装作戦を実施したという.
 時間がなくなったため,杉原はポーランド側の一人に官印を作成するよう要求している.
 そしてポーランド側は,杉原に通報せずに2つの官印を偽造し,一つをヴィルナに送った.
 そのため,杉原離任後も,日付を繰り上げた査証を手に入れたユダヤ人が何人かいた.

 杉原はベルリンに暫く滞在した後,プラハに赴任.
 同地では現地事情のため,通過査証を発給する機会は殆どなかった.1941/2/15に領事館を閉鎖するまでに,ドイツ系ユダヤ人に36の査証を発給している.

 1941/3/6,杉原はケーニヒスベルクに赴任.
 外務省の記録によれば,彼は同地で32の査証を発給した.

 1942年12月,大島大使の手配で杉原は在ルーマニア公使に任命される.
 しかし公使とは名のみで,仕事はロシア語文書の翻訳だけ.ユダヤ人を救うことはもはや不可能になった.
 戦争終了までブカレストに勤務し,その年8月,他の館員と共にソ連軍に抑留された.
 彼らが日本に帰国したのは1947年4月初めだった.

 詳しくは,H. E. マウル著『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.150-153を参照されたし.


Japanese Emperor Akihito and Empress Michiko visit the monument of the Japanese diplomat Chiune Sugihara in Vilnius, Lithuania


 【質問】
 天草丸事件とは?

 【回答】
 1941/3/13,ウラディウォストークでユダヤ難民90人を乗せた天草丸が敦賀に入港した際,日本当局が,杉原の査証は持っているが最終目的国の入国許可を提示できない難民の日本滞在を拒否した事件.
 何週間も前から入国希望者数が出国者数を大幅に上回っていた状況を鑑み,日本政府は突如厳格な態度に転じたのだった.
 同船はソ連に戻る他はなかったが,神戸のユダヤ人コミュニティ指導者アナトール・ポネヴェイスキは,在神戸オランダ領事デ・フォークトの周旋と内務省の口添えで,船長に対してウラディウォストークで難民を下船させないようにし,デ・フォークトが,全ての船客の旅券に「キュラソーには査証不要」と記入することを確約したため,難民達は3/16に日本に入国できた.

 詳しくは,H. E. マウル著『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.159-160を参照されたし.


 【珍説】
 八紘一宇というのは「天皇の下で全ての民族は平等」ということだが,この政治的主張は単なるフィクションではなかった! じつはかなり本気の主張であることが証明されてきているのだ.
 第二次大戦で日本はドイツと同盟国だった.ドイツは「日本もユダヤ人を排斥しろ」と再三圧力をかけてきたが,日本政府は「全面的にユダヤ人を排斥するのは八紘一宇の国是にそぐわない」とはねつけたのである.
 民族差別をしないという八紘一宇の主張を日本は貫いていた!
 ドイツから逃げるユダヤ人難民は日本の通過ビザを取得し,敦賀に上陸し,神戸から上海に向かった人が多かったらしい.
 6000人のユダヤ人にビザをあたえて逃亡を助けた日本人外交官杉原千畝は有名だが,もともと彼の行動は日本の「八紘一宇」の政治的主張のもとにやっていたわけだ.

 反日マスコミは産経の報道を否定しようと「杉原千畝は個人の決断でビザを書いた」という従来の説を流すが,ユダヤ人差別はしないとの政府公文書「猶太人対策要綱」が存在し,当時の電文にも外務省が杉原に反対した形跡はない.

(小林よしのり『戦争論』)

 【事実】
 「命のビザ」の発給に関し,日本政府は,二度に渡って「ビザ発給禁止」を通告しており,また,戦後に杉原氏を辞職を強要しています.

 詳しくは
http://homepage1.nifty.com/SENSHI/book/objection/6tiune.htm
を参照されたし.

 ちなみに,彼ら亡命ユダヤ人はウラジオストック―敦賀ルートの他,イルクーツク―満州ルートにも流れ込んできた.ロシア革命以後,ロシア系ユダヤ人が満州に入っていたのでそれを頼ったのだった.
 それを見て驚いた陸軍参謀本部の,ユダヤ人の満州流入阻止の意を受けて関東軍へ赴いたものの,現地で諭されて逆に「俺が腹を切る覚悟で参謀本部を説得する」と言って帰っていった人が,東条英機陸軍中将.
 別に,東條が男気を発揮したわけではない.
 満州は世界的に孤立する中,ユダヤ人のネットワークと国際的な発言権を渇望していた.特に.ソ連から流入していた亡命ユダヤ人は,当時の状況からアメリカですら受け入れられなかった.
 この点に目を付けた満州及び関東軍は,世界的な圧力回避のために積極的に受け入れをすることになる.
 諭された内容とはこんな所.

 それを悪い事とは言わない.
 だが,東條を誉めるなら,悪名高い,磯貝とか辻も同列に誉めなければならなくなる.なにしろ積極的に受け入れを進めていたのは,関東軍その物なんだから.
 ちなみに,彼らは中央が何言おうと,入植を推し進めていただろう.事実進めていた.
 だから,東條が中央,つまり参謀本部や大本営,陸軍省を説き伏せたとしても,体制には変わりはなかったと思われる.
 ちょっと言い過ぎかな?
 でも,そんな所だよ.

 また,杉原領事の発行したビザは,確かにある意味「空手形」だったが,国としての体面からして,「空手形」とすることは実際には困難だろう.
 満州は日本ではないから,形式上は構わないにせよ,「満州が日本政府のビザを認めない」となれば,世界の笑い者になるのは確実.

 ちなみに…,浦塩ルートで大挙して来たユダヤ人の件で,本省から杉原氏に問い合わせがあったとき,
「疑義があるなら乗船拒否を船長に指示されたい」
という趣旨の返答をして,
「ソ連への面子丸つぶれだろうがっ.んなことできるかい,ヴォケ.エエカゲンにせい.」
という趣旨の訓電を受けているそうな.

(軍事板)

 さらに,一人の商社マン,古崎博が,満州時代の思い出を綴った自伝「水銀と戦争」を書いている.
 その中に安江大佐と会ったときの様子が出てくる.そのときに彼が語った言葉とされる記述を以下に引用する.

「満州,北支,上海等に居る白系ロシア人の指導者達は,殆ど全部ユダヤ人です.
 わしは以前,ドイツ軍がポーランドに進入したとき,ワルシャワの日本大使館に助けを求めて飛び込んできた,2百数十名のユダヤ人の子供達を,シベリア経由で満州に送らせて助けたことがある.
 日独伊軍事協定の手前,具合の悪いこともあったけれど,人道上の問題であるし,此所の白系ロシア人達を味方にするためにも,わしは助けるほうが正しいと思って,断固反対を押し切ったわけです」

(安江弘夫「大連特務機関と幻のユダヤ国家」,八幡書店,1989/8,p.200)

 仮にユダヤ人を助けることが日本政府の意思であったとするならば,なんで安江大佐は「反対を押し切」らねばならなかったのか.

 ここで安江大差は急に引き締まった顔になって声を落とし,
「ナチスのユダヤ人虐殺については軍は発表しないことにしているから,君もその心算で,この問題にこれ以上触れないで貰い度い」
と言った.

(同,p.202)

 仮にユダヤ人を助けることが日本政府の意思であったとするならば,なんで軍は虐殺の事実を伏せたがっていたのか.

 挙げ句,安江は予備役編入させられている.

 その〔1940/9/27の三国同盟締結の〕翌日,東京,すなわち陸軍省から安江に一本の電報が届いた.
「予備役に編入,現地待命」
というのである.特務機関長からの解任であった.
 駐日ドイツ大使館から親ユ,つまり反ナチのナンバーワンとして指名されていた安江が,三国同盟締結で真っ先に犠牲(いけにえ)にされたのである.
 米国との戦争を絶対に回避したいという安江と,カウフマン達ユダヤ人リーダーの共通の願いと努力はここに挫折した.
 ユダヤ人達の受けたショックは大きく,カウフマンは病の床に倒れた.彼らの前途に大きな凶兆を感じたのであろう.

安江弘夫著『大連特務機関と幻のユダヤ国家』(八幡書店,1989/8),p.207

 仮にユダヤ人を助けることが日本政府の意思であったとするならば,なんで軍はその窓口である安江を解任したのか.

 大連特務機関員として間近に接していた蛯名治三郎の回想記には,こうあるという(孫引き引用).

 昭和12年以後の情勢は親独,親伊のムードであった.
 したがって,外人に対する軍部としての態度も,自ら峻厳ならざるを得なかったと思う.
 特にユダヤ人に対しては,国際的な存在だけに,〔安江大佐の〕特務機関長としての立場は,あらゆる方面から疑惑を受けて苦しかったのは事実である.
 しかし,安江機関長は自己の信念に基づき,愛の精神で一貫しようと賢明の努力をされたのである.

(P.205)

 仮にユダヤ人保護が政府の方針であったなら,なぜ安江大佐は「疑惑を受けて苦し」い立場になったのか.矛盾である.

 蛯名治三郎はこうも述べている.

 当時,ユダヤ人は国際的で信用がおけないという不信感が,軍部にも一般にもあったことは否定できない.
 それにドイツの反ユダヤ政策が輪をかけたような状態にあった.
 この観念が普遍的であったので,ユダヤ人対策は面倒性があった.

(p.205-206)

 【珍説】
 辞職の件は,夫人がそう言っているだけでしょう? 俺にはそれ自体が疑わしい.
 本当にそんな話があったとしたならば,正式な命令でもないのに何で従うの? なんで従う義務があったの? やましいことでもあったの?
 ましてや,退職金で不利になるのならなおの事ちゃんと抗議するべきだし,普通に考えれば,正式ではないが辞めて欲しい時は,条件をよくして懐柔するものでしょう?
 おかしすぎる話じゃん.

 そもそも,何で7年も経って,そんな原因でクビになると思うの?

 おおかた,色々な軋轢があって嫌われていた人間がいたたまれなくなって辞めざるを得なくなったというだけの話なんじゃないの?
 【事実】
 外務省的にというかお役所的には,懲戒免職にすると監督責任がいろんな所へ及ぶから,依願退職の形を取りたかったんだろうね.依願退職なら,部外者には個人の都合で辞めたとしか見えなくなるからね.
 今の日本でも別に珍しくはない話だよ.

 「抗議しなかったのはなぜか」?
 それは逆らったら,「建前は依願退職,実態は免職」が,「建前も実態も免職」に変わるだけだからだよ.
「退職金も年金もパーだよ,どうするの?」
と圧力をかける訳だ.
 日本の役所や大企業では,このパターンが多い.

 これといった理由や醜聞も無しに,杉原氏が退職願を書いたと言う時点で組織的な強要が有ったと見るのが「大人の常識」なのですよ.
 まあ,あと10年もして君が社会人になったら,嫌でもわかるようになるから,焦らなくて良いですよ.
 それに,後に(最近の話なのが情けないのだが),外務大臣が杉原の家族に謝罪し名誉を回復している.http://www.chiunesugihara100.com/news2.htm

 なぜ,謝罪し,名誉を回復したのか?
 それは,謝罪すべき事,名誉を汚すことを外務省が行ったからだ.
 以下の経緯を見ても,円満な退職とは見なし難い.
 杉原は周到に関係を築き上げていたので,すぐ情報活動を始めることができた.前の赴任地,ヘルシンキでポーランドの地下運動関係者とのコネを作り上げていたのである.
 〔略〕
 杉原は領事の地位を利用して,彼らに日本や満州国の旅券を発給してこれに報い,後には通過査証を発給して,ポーランド系ユダヤ人の逃走を可能にすることとなる.

 情報機関の活動が相互依存的な性質のものであることから,日本政府が杉原に広範な行動の自由を与え,後のユダヤ人救出作業にも許可を与えていたことは,ありえないことではない.
 しかし具体的な証拠はない.
 幸子夫人は,杉原が1940年(昭和15年)8月に領事館を閉鎖した際,カウナスでの秘密活動がソ連に漏れるのを防ぐため,関係書類は全て処分したと言っている.

H. E. マウル著『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』
(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.140-141

 帰国後間もなく岡崎勝男事務次官に呼び出され,重いがけぬことに退官を通告された.
 疲れ果て孤独な面持ちで家に帰ってきた.次官は,ポストがないので退職してもらいたいと言ったのだ.
 そればかりではない.
 その後かつての同僚達の間に,杉原はカウナスで査証を発給した際にユダヤ人から金をとったという噂が流れた.
 杉原はがっかりして身を引き,沈黙を守った.
 この噂が確認されたことはない.

同,p.153-154

 【質問】
 「杉原は,嫌われていていて外務省を辞めざるを得なくなっただけ」に対する反論には,いささか疑問があります.
 事実上の免職みたいに書いていますが,当時,大リストラの真っ只中だったということを無視しています.
 「辞めさせられた」のは事実ですが,それが免職だったのかリストラだったのかは不明と思われます.

>なぜ,謝罪し,名誉を回復したのか?
>それは,謝罪すべき事,名誉を汚すことを外務省が行ったからだ.

 えーと,この外務大臣というのが悪名高き”紅の傭兵”こと河野洋平なんですが.(汗
 こやつが謝罪したからといって”謝罪すべき事,名誉を汚すことを外務省が行ったからだ.”てのはあまりにも短絡的です.

蜃気楼 in FAQ BBS

 【回答】
 傍証から考えて,免職であった可能性が高いと判断しております.
・ピザ発給に対する外務省からの叱責
・夫人の証言
・難民流入に対する外務省の困惑
・外務省内に流布された,杉原についての悪いうわさ
・ユダヤ人に対する外務省,日本国内の態度変化(1945年に向かうに従い,反ユダヤ的になる)
・同じく親ユダヤ的だった安江大佐などへの処遇

 また,当時の外相が”紅の傭兵”であることと,謝罪に別な解釈が可能性であるとすることの明確な因果関係が見られません.河野洋平の過大な遠慮の対象は中国共産党政府であり,ユダヤ人に対してもそうであるとの根拠が見出せません.
 それ以外の点についても,貴氏の印象論に過ぎません.

 明確な根拠が提示されましたなら,喜んで訂正に応じますので,どうか根拠をお示しください.

消印所沢 in FAQ BBS


 【質問】
 藤原宣夫の主張やレヴィン教授の著書『千畝』には問題があるのか?

 【回答】
 これらについては,杉原千畝研究家である大正出版社長・渡辺勝正が,杉原問題の二冊目の著書『真相・杉原ビザ』(大正出版)を今年7月に出し,糾弾しているという.

「杉原問題とはこういうことだったのか,と事実に反する話に仕立てられて終わってしまったら大変,と思い,あの本を出したんです」
と,渡辺は述べている.
 渡辺は,当時,難民代表を務めた後のイスラエル宗教大臣ゾラフ・バルファティクまで訪ね,藤原,レヴィン両氏の言説を一つ一つ事実と照らしたという.

 また,レヴィン教授の『千畝』については,翻訳者の一人の篠輝久自身が,
「原著はもっと,むちゃくちゃだった」
と認めているという.
 さらに渡辺によると,翻訳本にも,事実関係の誤りが初歩的なものを含めてすくなくとも数百ヵ所ある,という.
 在米のレヴィン教授は電話で,
「出典は明記した.でっち上げはしていない」
と答えたが,外交史料館の研究者A氏は,
「事実誤認の激しさに呆然とした.あまりにもひどく,とてももう……」
と呆れ,日本語を知らないせいなのか,訓令類もほとんど素通りなことに驚いているという.

 くわしくは,『AERA』2000/11/13号,長谷川煕署名記事を参照されたし.

 また,次のような具体的な問題点を指摘する声もある.

 『千畝』の翻訳が良心的でない第一点は,完訳でないにもかかわらず,そのことがどこにも明示されていないことである。
 この翻訳には,原文からの削除,改竄,文や段落の並び替えなどの「監修」が各所に施されている。

 第二点は,学術書の体裁を装いながら,研究書には必須のビブリオグラフィが添付されておらず,レビンの問題多い諸説がいかなる文献にもとづいているのか分からない点である。
 原著の巻末文献を閲覧してまず驚かされることは,日本語の研究書がないことである。
 原著まで購入しようという読者は少ないであろうから,翻訳のみを読んだだけで,原著者が日本語を解さないなどということは,まず想像できまい。

 監修者の諏訪は,千畝の前妻クラウディアの発見にたいして「広範で徹底的事実調査に脱帽」するなどと称しているが,特にクラウディアにふれた第二章におけるインタビュー取材には,明確に疑わしいものがある。
 例えば,満州時代の話を聞きに千畝の実妹にレビン自らインタビューしたという場所が,原文(岐阜市)と翻訳(一宮市)では異なる。
 原著者と訳者の篠の間には,他にも理解の不一致があり,家族が「悪名高い反ユダヤ主義の指導者」セミョーノフの軍隊に属していたされるクラウディアが,「ユダヤ人医師ドーフ」と再婚したとレビンは主張するのに対して,訳者の篠は,『意外な解放者』のなかで,「クラウディア・セメノビナ・ドルフ」を「信仰深いロシアのクリスチャン」としている。
 後者は,レビンのクラウディア情報取得を明示する注記にある日付(一九九五年五月)の三カ月後に刊行されたものである。
 原著者と訳者の理解は両立し得ない。

 〔略〕

 レビンは,一九四〇年六月一五日のソ連によるラトビア占領に伴い,後に千畝の諜報活動を助けるポーランド地下組織のリビコフスキー大佐が,ストックホルム事務所にもぐり込み,そこに「小野寺信将軍」(原文一三三頁)がいたとしている。
 この主張は,「一九四一年初頭から,戦後に亡くなった小野寺信将軍」がヨーロッパにおける諜報網を指揮し,「リビコフスキーとともに,上の方から,千畝の救出活動を端緒をつけた」(原文二〇〇頁)という推定を引き出すための布石だが,小野寺のストックホルム着任は一九四一年一月二七日であり,前年はまだ日本にいる。
 また,言うまでもなく,千畝による「救済活動」は,前年夏に始まっている。
 あとがきで小野寺夫人の『バルト海のほとりにて』に言及している諏訪は,レビンの誤りに明らかに気づいている。
 そこで監修者(あるいは訳者)は,前者を「小野寺信陸軍大佐」(二一五頁)に書き換え,後者を「小野寺信少将は,一九四〇(昭和一五)年当時は大佐で」(三二二頁)などと「意訳」(!?)することによってレビンの致命的なミスを糊塗するのである。
 一九四〇年当時,小野寺の肩書きが陸軍大佐であったというのは正しいが,この時まだ小野寺がストックホルムにいなかったことが,訳文では巧妙に秘匿されている。

 〔略〕

 杉原が「諜報員(スパイ)として活動していたことが判明した」というレビンの言明にも一驚を禁じ得ない。
 ロシア語で書かれた報告書で,満州駐留部隊を南太平洋に転出したがっている参謀本部が外務省に働きかけ,「ドイツ軍進攻の速やかで正確な特定を要請した」(吉上昭三・松本明訳の後出論文に引用)と自ら述べているように,千畝がリトアニアに派遣された主要な目的が,緊張高まる独ソ間の情報収集にあったことは,あまりにも明白であるからである。
 千畝の諜報活動については,むろんポーランド側でも詳細に調査されており,ワルシャワ大学日本語学科のエヴァ・パワシュ=ルトフスカと戦中抵抗運動に加わったアンジェイ・タウデシュ・ロメルの共同研究の一端が,「第二次世界大戦と秘密情報活動――ポーランドと日本の協力関係」(『ポロニカ』,一九九五年六月号)と題する論文に紹介されている。

 レビンの著書の主眼は,ユダヤ人難民救出のイニシアティヴを千畝個人から「日本の要人たち」にシフトしようという点にある。
 しかし,先のインタビューの最後でレビン自身が「ユダヤ人救出のための特命を受けていたという証拠も見あたらない」とするように,こうした立論は根拠が薄い。
 『千畝』のなかでレビンは,MGM映画会社東京支配人の義弟でポーランド系ユダヤ人カッツのケースをあげ,本省が訓令を与えた例とするが,大映画会社(社主は排日キャンペーンを繰り広げていた新聞王ハーストと昵懇)の支配人の係累の例を,ユダヤ人一般の保護例に付会するのは,乱暴な話である。
 ゲッべルスによって映画という宣伝媒体の役割が喧伝されていた時期,対米関係の改善を模索していた日本政府にとって,カッツの出自がどのような意味を持っていたかを等閑視するとすれば,あまりにも無邪気に過ぎよう。

 またレビンは,インタビューで,情報収集の見返りに「山脇大将からポーランド軍人を満州経由で逃がすために六〇〇通のヴィザを命じたとされる杉原の救出活動」が,「杉原の一連の行動の端緒となったと考えられる」としているが,著書『千畝』で,「その証拠は未発見」としているように,これは単なる憶測にすぎない。
「情報の見返りというだけなら,ユダヤ難民への発給は『余分なこと』だった」(『自由への逃走』)
という中日新聞社の社会部記者の疑問は,もっともな疑問である。

 レビンは,千畝に対する「日本の要人たち」の後援を立証するためには相当無理な議論もいとわない。レビンは,山脇大将ばかりか樋口季一郎少将までも,千畝の「長い満州勤務時代を通して旧知の間柄だったかもしれない」など言い張るのである。
 樋口が大佐時代に第三師団の参謀長としてハルビンに来たのが,一九三五年八月一三日。
 この時点で満州国外交部を辞任した杉原は帰国しており,その後もすれ違いで,両者は戦後も含め一面識もない。
 原文では蓋然性の示唆であったものが,翻訳では「かもしれない」が省かれており,途方もない話に変貌している。

 〔略〕

松浦寛(上智大学講師) in 「捏造される杉原千畝像」

 さらに,訳本にはこんな捏造まで.

ヒレル・レビン著『千畝』邦訳本・これが「捏造」の証拠だ!

同書初版より72〜75ページ(PDFファイル)
原書『In search of SUGIHARA』より該当部分(PDFファイル)
 「捏造される杉原千畝像」論文で告発されている,同書のトンデモ邦訳ぶりをしめす証拠の一つ。
 「南京大虐殺」や「731部隊」についての長い記述がカットされ,「日本帝国が崩壊してから半世紀たった現在,植民地主義の傷痕は,なお日本人の感情を刺激し,論争や弁明を引き起こしている」なる簡単な記述のみにかえられている(記述にかなりの移動があるのですこしながく該当部分をピックアップ)。

「捏造される杉原千畝像・私家版資料館」

 両ホームページには,他にも色々指摘されている部分はあるが,松浦の推定が混じっているらしき部分,本書と直接関係ない部分は割愛した.
 これほど誤謬があり,かつ,監訳にも数々の問題が指摘される書籍は,5段階評価でDレベル(他の類書とのクロス・チェックがなされない間は信頼できない情報)とされるのが妥当だろう.

 ただし,上記松浦の記述も,元元の出典は『世界』第679号(岩波書店,2000年9月1日発行)のため,その点は留意せねばならない.


◆◆満州関連


 【質問】
 満州のユダヤ人コミュニティは,どう形成されたのか?

 【回答】
 ハルビンには20世紀初頭からロシア系アシュケナージ・ユダヤ人を主とする小さなコミュニティがあったが,日露戦争の影響と,1905〜06年のポグロムの結果,多数のユダヤ人が流入,1908年には8千人以上に増加した.
 東支鉄道建設で雇用機会が増え,また,ロシアはユダヤ人に大幅な行動の自由を認めたため,彼らは好条件の下で暮らしていた.

 その後,ロシア革命とウクライナでの迫害を逃れた難民がさらに流入,ハルビンのコミュニティは1920年には1万人を数え,満州国建国の頃は1万5千人になっていた.
 様々な問題があったにも関わらず,欧米ユダヤ人コミュニティからの援助も得て,住民は安定した生活を営んでいた.

 詳しくは,H. E. マウル著『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.59-60を参照されたし.


 【質問】
 満州で反ユダヤ主義の中心を成していたのは,どんな集団か?

 【回答】
 白系ロシア人が主だった.
 悪いことに,彼らは日本に警察や諜報員として採用されており,その職権を濫用してユダヤ人を圧迫したという.
 カスペ事件もその延長上で起きたという.

 以下引用.

日本や満州に住む白系露人には強く反ユダヤ主義を支持する人々がいた.
1931年の満州事変以降,日本の支配下にあったハルピンでは,4万人の白系露人と7000人のユダヤ人が対立していた.
 ソヴィエト連邦と対峙していた日本は,こうした白系露人を警察や諜報員として採用したが,彼らは地位を利用してユダヤ人を圧迫したのだった.
 ハルピンで起こったユダヤ人圧迫を象徴するのがセミヨン・カスペ殺害事件である.
 1933年に,シロタも宿泊したホテル「モデルン」の御曹司でピアニストだったカスペが誘拐,殺害された.
 警察によって殺害犯人として数人の白系露人が逮捕されて,抵抗した者は射殺された.
 一方で,犯人には日本の支配下にある「満州国」警察の警察官だった白系露人も含まれたので,現地の警察では,白系露人の意を受けて犯人に同情的な声明を発表したのだった.
 この処置に極東のユダヤ人は憤激した.
 1935年には,ユダヤ人で上海の富豪エズラや,エズラの協力者小谷部全一郎が,ユダヤ人圧迫を批判して,日本政府に状況の改善を求める運動を開始した.
 小谷部は義経ジンギスカン説の提唱者で,日猶同祖論も主張していた.
 最後には全世界のユダヤ人団体が各地の日本大使館に抗議してくる事態となったが,エズラのようなユダヤ人実業家に海外輸出の仲介を頼っていた日本にとって,これは大問題だった.
 そのころ,ユダヤ人の依頼を受けて,陸軍中野学校の創設者で,日本の情報活動の中心だったハルピン特務機関の秋草俊中佐が仲介に動いていた.
 日本側が白系露人の動きを押さえきれなかったとしても,ユダヤ人圧迫を積極的に推進したとする証拠はない.
 そして,ハルピンのユダヤ人圧迫と諸外国の反応も見た満州駐在の関東軍は,軍の意向で白系露人を抑え込んで日本勢力圏内に在住するユダヤ人を保護することを決意した.

山本尚志著「日本を愛したユダヤ人ピアニスト レオ・シロタ」
(毎日新聞社,2004.11.20),p.147-148

 ロシア人の反ユダヤ感情は19世紀に遡る,根強いものがある.
 帝政ロシア時代には,世界のユダヤ人の3分の1に当たる500万人がロシア国内にいたが,定住地を西部国境地帯に制限されたり,ポグロムが繰り返されたりしている.
 満州にはロシア革命によって,上述のように4万人ものロシア人が逃亡してきており,それと共に反ユダヤ主義も満州に持ち込まれた.

 また,上述のように,カスペ事件では秋草中佐が動いているが,このようなユダヤ人を巡る日本特務機関の動きも興味深い.


 【質問】
 樋口季一郎とは?

 【回答】
 1937年以後,ハルビン特務機関の長.
 第1回極東ユダヤ民族大会に関東軍代表として出席し,ユダヤ人問題と熱心に取り組んだ.
 1938年春,ポーランド,ソ連を経由したユダヤ難民が,満州里対岸のソ連国境地域において2万人近くも増加したため,人道的信念に基いて彼は満州国外交部と折衝,難民の入国・通過を認めさせた.
 当時の上司の東條英機参謀長は彼に釈明を求めたが,樋口曰く,
「ドイツが自国内でユダヤ人をどう扱おうが,それはドイツの勝手だが,満州国のような独立の主権国家の領域内での決定にドイツが干渉することは許されない」
 東條はその主張に同意し,外務省にその通りに回答.この件に関するドイツの抗議は空振りに終わった.

 その後,樋口はキスカ撤退戦を成功させるなどした後,1945/8/25に軍籍を離れ,1970年,没.

 詳しくは,H. E. マウル著『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.56-58を参照されたし.


 【質問】
 日本軍侵攻後,1939年までに,ハルビンのユダヤ人口が半減したのは何故か?

 【回答】
 秩序が失われ,暴力が跋扈し,政治が不安定となった上,1936年以降はヨーロッパからのユダヤ難民が急増.
 日本軍部は,外国人に対して商取引規制を行い,ユダヤ商人にも日本人とだけ取引するよう強制.
 ユダヤ人と反ユダヤ人的な白系ロシア・グループの間に紛争が増え,白系ロシア人の煽動誌を中心として報道機関で反ユダヤ感情が煽られ,金持ちの商人は強盗,殺人,誘拐の標的となった.

 そのため,居住者数は5千人に半減,脱出者の多くは天津や青島に向かった.

 詳しくは,H. E. マウル著『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.61を参照されたし.


 【質問】
 ハルビン警察署長・江口はどんな人物だったか?

 【回答】
 自分の管轄区域を常識外れの惨忍な権力行使の実験場と心得ており,ユダヤ嫌いとして名を馳せていた.
 彼は1933年,外務次間と内閣書記官長に「北満における猶太人について」と題する,中傷と悪意に満ちた報告を送り,その反ユダヤぶりを示していた.
 その報告は,日本人はいずれにせよユダヤ人を利用すべきだと勧告していた.
 白系ロシアの治安グループは,憲兵隊の容認の下で非道に振舞った.
 1933年8月にはカスペ事件が起こり,また,1935年には,日本の治安機関が,ヨム・キプール祭を祝っているハルビンの中央シナゴーグに乱入,武器と禁止文書を捜索するという事件が起きた.

 詳しくは,H. E. マウル著『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.62-67を参照されたし.


 【質問】
 シモン・カスペ事件とは?

 【回答】
 ハルビンの有名な「ホテル・モデルン」オーナー,ヨゼフ・カスペの息子で,学生だったシモン・カスペが1933年8月,身代金目的で誘拐され,殺害された事件.
 複数の犯人が逮捕されたが,裁判は非公開とされ,シナ人裁判官が収賄で逮捕されて裁判は中断.
 日本の警察がこの事件を扱うことになって裁判は再開されたが,関東庁警務局長に昇進していた江口の介入で,犯人達は,懲役判決を受けた1週間後には釈放された.
 ハルビンと上海のユダヤ人コミュニティはこの間,日本外務省に抗議したが,同省は何の措置も取らなかった.

 詳しくは,H. E. マウル著『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.62-64を参照されたし.


 【質問】
 東北5省占領後,日本軍部は対ユダヤ人姿勢をなぜ変更したのか? 

 【回答】
 軍部は当初,ユダヤ人についての知識に乏しく,新たな支配地域での反ユダヤ活動を抑え込む自信もないので,域内のユダヤ人とは距離をとった姿勢を保った.
 しかし,経済への介入が大規模に進み,基幹産業を併呑して行く過程で,ユダヤ人の経済力と,それが持つ意味がだんだんと分かってきた.
 そこで軌道を修正,それまでの高圧的な態度から,むしろ協力を重視する姿勢に変わった.
 この新しい政策展開には,安江大佐が大きな役割を演じていた.

 詳しくは,H. E. マウル著『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.71-74を参照されたし.


 【質問】
 アブラハム・カウフマンは戦後どうなったか?

 【回答】
 極東ユダヤ人会会長アブラハム・カウフマンは,ソ連軍に逮捕され,ソ連内の刑務所・労働キャンプ・追放地などを転転としたが,最後はイスラエルへ渡る事ができた.
 以下ソース.

 終戦直後,彼はハルピンでソ連軍に逮捕されソ連に連行,25年の刑を受けた.
 そして16年間に渡り,種種の刑務所・労働キャンプ・追放地などを転転とした.
 彼は突発的に行われる何回もの厳しい取調べにも関わらず,いつも自分を失わず,人間年ての誇りを保ち,シオニスト・リーダーとしての信念で周囲のシオニスト達を励ましただけでなく,ユダヤ人や非ユダヤ人の囚人達を助け,割り当ての少量のパンを分ち与えたり,キャンプ当局の規則に違反してまでも医者として病人を世話した.

 スターリン時代の終焉と共に,裁判の評決の再審査が行われ,彼は労働キャンプを出されてカザックスタンの荒野に追放された.
 彼はここでイスラエルへの出国許可を求めて戦い,5年後にそれを獲得した.時に1961年3月,75歳であった.
 彼は幸運にも,生涯の夢であった再建された祖国の土を踏み,家族や多くの友人,そして彼を尊敬している人々に迎えられた.
 長い抑留生活にも関わらず,彼は不屈の精神力で労働総同盟の付属病院の医師として再起し,10年間働いた.
 そこで彼は,16年間に渡るソ連での刑務所や労働キャンプでの体験を,感動的な表現で書いた自伝「キャンプの医者」を出版し,その後間もなく不帰の客となった.
 「キャンプの医者」の中で,彼は安江〔仙弘.終戦時,予備役大佐.安江機関機関長〕のことを次のように言っている.
「戦前・戦中の満州で,私が妻以外に信頼できた唯一の人物が安江大佐であった」,と.

(安江弘夫『大連特務機関と幻のユダヤ国家』,
八幡書店,1989/8,p.265-266)


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