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◆◆◆◆ハンガリー水軍 Magyar Folyami Flotta
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<◆◆海軍
<◆大西洋・地中海方面 目次
<第2次世界大戦FAQ


 【link】


 【質問】
 ハンガリーのドナウ河川艦隊について教えてください.

 【回答】

 東欧には大河が縦横に走っていて,河川艦隊を保有している国も多い.
 マジャル王国はダニューヴ河警備のための小艦隊を保有していた.
 今でも,河川掃海艇の部隊を有しているが….

 大戦中のものは,いずれも旧二重帝国の海軍艦艇を引き継いだもの.

 最大のものは1928年に建造された補給艦Csobancで305t.

 戦闘艦艇で最大のものは,1918年建造のバヤ Baja,ジェール Győr,デブレツェン Debrecenの三隻の河川哨戒艇で,140t.
 これらは,AEGのTurbineを搭載して15ktを出す高速船で,70mm砲を前後に2門,機関銃を2丁搭載している.
 元々は,二重帝国軍向けだったが,Debrecen完成後に帝国が崩壊し,共産政府に接収され,更に白軍に没収されたもの.
 なので,艦名も二転三転している.

BajaはWels級.
 大戦勃発前,時代遅れとなった蒸気機関を最新型のディーゼル機関に換装すべく,工事開始.
 しかし1944年,ドイツが接収し,1949年に解体.
 大戦に参加することなく生涯を終えている.
 兵装は就役時のままだったという.

1枚目:2面図
2枚目:ケチケメート KECSKEMÉT,セゲド SZEGED,バヤ BAJA の3隻
(図表No. faq190927bj1-2)

▼ ジェール Győr はWels級.
 第一次大戦後も機関は1100hp蒸気エンジンのままだったが,兵装は 29.M L50 8cmボフォース対空砲×2,07/31.M シュワルツローゼ機関銃×2に更新.
 また,「コウノトリの巣」と呼ばれた集中銃塔を設置.
 この銃塔には24/37.M ゲバウエル二連装機銃,07/31.M シュワルツローゼ機関銃,20mm 36.M 対物ライフルが搭載された.
 装甲は6-10mm.
 1944年には集中銃塔を撤去し,代わりに2cm Flakを搭載.
 また,39.M 5cm擲弾発射器を搭載.
 1944年末,米軍のB-24爆撃機を撃墜する戦果を挙げる.
 終戦後,連合軍に降伏し,以後ドイツのパッサウに係留.
 1949年に解体された.

1枚目:四面図
2枚目:1929年,ブダペシュトにて撮影
3枚目:ボフォース対空砲搭載後のジェール
4枚目:後方から撮られた,第二次大戦中のジェール

(図表 No.faq190929gr1~4)

 デブレツェン Debrecen はStör級.
 この艇も第一次大戦後も機関は1100hp蒸気エンジンのままだったが,兵装は 18.M L30 8cm砲×2,07/31.M シュワルツローゼ機関銃×2に更新.
 また,「コウノトリの巣」を設置.
 この銃塔には24/37.M ゲバウエル二連装機銃,07/31.M シュワルツローゼ機関銃,20mm 36.M 対物ライフルが搭載された.
 装甲は6-10mm.
 1944年には集中銃塔を撤去し,代わりに2cm Flakを搭載.
 1944年11月25日,テケル Tököl 近郊でロシア軍と遭遇.
 T-34中戦車の砲撃を多数浴び,そのうち一発が燃料区画に,もう一発が火焚室に命中.
 デブレツェンは炎上,沈没した.

1枚目:四面図
2枚目:1930.8.20,「聖イシュトヴァーンの日」の閲覧式におけるデブレツェン
3枚目:1918年
4枚目:1928~1933年に河川艦隊に勤務したトゥリ・フェレンツ Turi Ferenc の遺品から
(図表No. faq190928db1~4)

 他にも,セゲド Szeged,ケツケメート Kecskemét,ショプロン Sopronと言った哨戒艇があり,いずれも70mm砲を2門搭載し,機関銃2丁と変わらない.

 セゲドは旧オーストリア=ハンガリー艦「ウェルシュ Wels」.
 この艇も第一次大戦後も機関は1100hp蒸気エンジンのままだったが,兵装は 18.M L30 8cm砲×2,07/31.M シュワルツローゼ機関銃×2に更新.
 また,「コウノトリの巣」を設置.
 この銃塔には24/37.M ゲバウエル二連装機銃,07/31.M シュワルツローゼ機関銃,20mm 36.M 対物ライフルが搭載された.
 装甲は6-10mm.
 1944年には集中銃塔を撤去し,代わりに40mm 36Mボフォース対空機関砲を,自走砲「ニムロード」の砲殻,また20mm 36M対戦車銃と34/37Mゲバウエル機銃を搭載したチャバ装甲車の砲塔を搭載.
 また,39.M 5cm擲弾発射器も搭載した.
 1945年に連合軍に降伏.
 1949年解体.

1枚目:四面図
2枚目:哨戒行動を行うセゲド
3枚目:ブダペシュトで哨戒中のセゲド
4枚目:セゲド機関室の機関技師ヴァルガ・ヤーノシュ Varga János.1927.10.20撮影.

(図表No. faq191009sg1~4)

 ケツケメートはWels級.
 オーストリア=ハンガリー海軍時代の名前はVisa.
 この艇も第一次大戦後も機関は1100hp蒸気エンジンのままだったが,戦間期に兵装は 18.M L30 8cm砲×2,07/31.M シュワルツローゼ機関銃×2に更新.
 また,「コウノトリの巣」を設置.
 この銃塔には24/37.M ゲバウエル二連装機銃,07/31.M シュワルツローゼ機関銃,20mm 36.M 対物ライフルが搭載された.
 装甲は6-10mm.
 1944年には集中銃塔を撤去し,代わりに2cm Flakを搭載.
 また,39.M 5cm擲弾発射器を搭載.
 この艦は第二次大戦で最後に発砲したハンガリー砲艦となった.
 1945.5.8,オーストリアのメルク Melk 近郊で連合軍に降伏.
 1949年解体.

1枚目:四面図
2枚目:絵葉書
3枚目:1930年代のケツケメート
4枚目:1930年代,ナジマロシュNagymarosで撮影されたケツケメート
(図表No. faq191005kc1~4)

 ショプロン Sopronは旧オーストリア=ハンガリー艦「シュテル Stör」.
 戦間期に兵装は 18.M L30 8cm砲×2,07/31.M シュワルツローゼ機関銃×2に更新.
 また,「コウノトリの巣」を設置.
 この銃塔には24/37.M ゲバウエル二連装機銃,07/31.M シュワルツローゼ機関銃,20mm 36.M 対物ライフルが搭載された.
 装甲は7.5~20mm.
 機関も砲艦では唯一,最新型のディーゼル機関 800hp×2に換装し,速度も向上.
 1941.4.11,ユーゴ侵攻に際して威力偵察を行い,ユーゴ軍の砲撃の中を無事帰還.
 1944年には集中銃塔を撤去し,代わりに2cm Flakを搭載.
 1945年,連合国に降伏.
 その後,何度も改名され,1966年に最終的に解体されるまで使用された.

1枚目:1918年,「シュテル」時代の2面図
2枚目:四面図
3枚目:哨戒中のショプロン
4枚目:ウーイヴィデーク Újvidék(現セルビアのノヴィ・サド)にて哨戒中のショプロン
(図表No. faq191007sp1~4)

 Gödöllőだけは,70mm砲1門だけだが1ポンド対空砲を有し,機関銃を3丁搭載している.
 この艇は,最初二重帝国のI型哨戒艇Kとして建造され,Czukaとして1916年に完成.
 その後共産政府に接収され,Siofokと命名された.
 しかし,反革命でチェコ・スロヴァキア軍に接収され,Boragoとなり,更に解体に伴ってGödöllőとなった,流転の艦艇だったりする.

Gödöllőも大戦勃発前,時代遅れとなった蒸気機関を最新型のディーゼル機関に換装すべく,工事開始.
 しかし1944.9.20,空爆により破壊され,大戦に参加することなく生涯を終えている.
 兵装は就役時のままだったという.

Gödöllő
(図表No. faq190923gd)

眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 軍事板,2003/02/09
青文字:加筆改修部分

 【参考ページ Referencia Oldal】
https://live.warthunder.com/post/544318/en/ ※faq190923gd引用元

http://www.hajoregiszter.hu/tarsasagok/belvizi/magyar_kiralyi_honved_folyamorseg/139 ※faq190927bj1-2引用元
http://www.hajoregiszter.hu/hajoadatlap/debrecen_expozsony_exlachs_/1428 faq190928db1~4 引用元
http://www.hajoregiszter.hu/hajoadatlap/gyor_excompo_/1442 faq190929gr1~4引用元
http://www.hajoregiszter.hu/hajoadatlap/kecskemet_exviza_/1412 ※faq191005kc1~4引用元
http://www.hajoregiszter.hu/hajoadatlap/irene_exherta_exsopron_exkomarom_exstor_/1415 ※faq191007sp1~4引用元
http://www.hajoregiszter.hu/hajoadatlap/szeged_exwels_/1410 ※faq191009sg1~4引用元

 艦の名前の読み方を調べてみました.

Baja(バヤ)
Győr(ジェール)
Debrecen(デブレツェン)
Szeged(セゲド)
Kecskemét(ケチケメート)
Sopron(ショプロン)
Gödöllő(ゲデレー)
 エリザベート皇妃の離宮のあった街ですが,ハンガリー語の発音だとグドゥルーに近いように聞こえます.
 「ゲデレーに行きたい」といっても通じませんでした.

Siofok(シオフォーク)
 バラトン湖半の別荘地で有名な街.

Sava(サヴァ)
 ハンガリー南部の大河.

Inn
 たぶんイン川でしょう.
 ドイツとオーストリアの国境でドナウに合流する川だと思います.

Temes(テメシュ)
 ハンガリー王国の県の名前.
 今のルーマニアのティミショアラの周辺.
 ティミショアラはハンガリー語ではテメシュヴァール.

Ardeal(アルディアル
 ルーマニア語のトランシルバニアのことです.
 ハンガリー語ではエルデーイ,ドイツ語ではジーベンビュルゲン.

ギシュクラ・ヤーノシュ : 軍事板,2003/02/09
青文字:加筆改修部分

「セゲド」(手前)と「ショプロン」(後方)
1940年以降の撮影と推定されるが,撮影日は不明
(図表番号 faq190630fl,こちらより引用)

2019.6.30


 【質問 kérdés】
 第二次大戦ハンガリー水軍の軍装は?
Milyen katonai egyenruhák voltak a magyari flotta a második világháborúban?

 【回答 válasz】
 こちらがハンガリー水軍の将兵
こちらより引用)
 袖の階級章は,背景色は濃い青.
 JNCO(初級士官)の階級章には錨が,NCOのそれには聖なる王冠&錨がついた.
 ズボンはパンタロン型.

 これは水軍の「嵐コート」
こちらより引用)
 荒天時,水兵が着用した.

 これは水軍志願兵用のジャケット.
こちらより引用)
 フィールド・ブラウン色.
 夏用の綾織のものもあった.
 勤務中や正装として着る時には白い胸当てを着けることで,「海軍らしさ」を演出した.

 これは水軍将校用のジャケット.
(引用元・同上)
 陸軍の39.Mジャケットのように,下士官用と将校用とでは,ボタンや肩のストラップに違いがあった.
 ジャケットにはフィールド・ブラウン,白,黒の3色があった.
 黒い種類のものはコートのようなデザインになっており,将校が蝶ネクタイとともに着用するものだった.
 白のほうも将校が着るもので,夏用だった.
 パンタロンは合う色のものを履いた.
 画像の制服は掌帆二等兵曹のもので,スリーヴ上の階級章でそれを確認できる.
 戦闘服として着用するときには,下士官・将校はベージュのシャツと茶色のタイを,フィールド・ブラウン・ジャケットの下に着用し,勤務服として着用するときには白シャツを身に着けた.

▼ これはベルトのバックル.
こちらより引用)
 ベルト自体は陸軍と共通.
 ただし,将校には勤務服や正装用の黒いベルトもあった.▲

 なお,例によって誤訳御免.

 【関連リンク】
http://live.warthunder.com/post/409758/en/
 水軍軍装写真8枚

mixi, 2017.3.22
2017.4.17追記


 【質問 kérdés】
 第二次大戦ハンガリー水軍の軍帽は?
Milyen sapka volt a Magyar Királyi Honvéd Folyamerők a második világháborúban?

 【回答 válasz】
 こちらは水軍のベレー帽
 参謀本部要員のみが着用した.
 帽子にある帯の文字は,"M. KIR. HONVÉD FOLYAMI ERŐK".
 "Magyar Királyi Honvéd Folyami Erők"の略記で,これを直訳すると「ハンガリー王国軍河川軍」.
 1938年からこの略記は使われた.
 "M. KIR HONVÉD FOLYAMERŐK"と略記されている場合もあった.
 帯の反対側には,帽子をかぶっている当人が乗り組む船の名前が刺繍されていた.
 帽子の水軍記章はブロンズ製.

 こちらは水軍の勤務帽
 下士官,准士官,将校や将軍が着用した.
 アイ・シェードは帽子と同じ材質.
 下士官の帽子には銀のストライプとボタンと徽章,予備役下士官 hadapród のものには茶色のストライプがついた.
 どちらの帽子にも,アイ・シェードに4mm幅のストライプがあった.
 准士官 Sub-ensign のものには8mm幅の縁取りが,アイ・シェードについていた.
 WOと将校の帽子はストライプ,記章,ボタンは金色だった.
 WOと下級士官のアイ・シェードには4mm幅,上級士官のものには8mm幅の金のストライプがついた.
 将軍のものにはオークの飾りがあった.
 帽子の色はフィールド・ブラウン,白,黒(濃青)の3つがあった.

 【参考ページ Referencia Oldal】
http://live.warthunder.com/post/407634/en/
(画像引用元も同じ)

2017.4.12


 【質問 kérdés】
 第二次大戦ハンガリー水軍の刀剣は?
Milyen kardok voltak a Magyar Királyi Honvéd Folyamerők a második világháborúban?

 【回答 válasz】
 写真1は水軍栄誉装飾短剣 Folyamerők tiszti dísztőr.
 下士官と将校の勤務服および正装用だった.
 全くの儀典用で,刀身には刃はついていなかった.
 短剣自体も鞘も金色.
 この短剣は黒いベルトと共に着用するようになっていたが,空軍とは異なり,茶色のベルトと共に着用することも許可されていた.

 写真2はサーベル.
 これも下士官や将校の勤務服および正装用.
 サーベルが必要な儀典のときのような特定の状況を除き,短剣とサーベルのどちらを帯びるかは着用者本人が決定していた.
 通常,船上では短剣だった.

 【参考ページ Referencia Oldal】
http://live.warthunder.com/post/409316/en/ ※写真1~2引用元

2017.4.25


 【質問 kérdés】
 第二次大戦ハンガリーの機雷戦について教えてください.
Kérem, mondja meg nekem, milyen az magyari aknaharca volt a masodik világháborúban.

 【回答 válasz】
 第一次大戦の結果,海への出口を失い,内陸国となったハンガリー.
 だが,ドナウ Duna 川では河川艦隊が引き続き存在し,機雷戦もこの川において展開された.

 ハンガリー河川艦隊がオーストリア=ハンガリーから継承した機雷は,主に2種.

 16.M S型浮遊機雷 "S" (sodor) akna は,1915~1916年に開発されたもの.
 炸薬量はTNT 25~200kg.
 ただし,実戦には使用されていない.

 もう一つが18.M E型触発機雷 "É" (érintő) akna で,第一次大戦末期に使用されていたもの.
 炸薬量はTNT 200kg.
 化学信管つき.
 水面下に浮かぶようになっており,深度調節が可能.
 安全装置もついていた.
 ケーブルで錨に繋がっており,このケーブルが切れると爆発する仕組みだった.

 1928年,この陣容に28.M E型機雷が加わった.
 E型の名が示すように,これも触発機雷で,だいたい深度50mの深さに沈めて用いられる設計だった.

 1935年,ハンガリー軍はもう一つ新型機雷を制式採用した.
 それが35.M M型感応機雷 "M" (Megfigyelt) akna .
 海底の係維器に係維索を持って水面下の任意の深度に機雷缶を係留する係維式で,電気信管で爆発した.
 炸薬量はTNT 100~300kg.

 一方,掃海のほうではダイバー・スーツを着用して行われた.
 ダイバーは全身を覆う2層の羊毛の服を着用し,次に含浸した麻の服を着用.
 その上にゴム製のダイバー・スーツを着用し,更にその上に,ラバー・スーツを保護するリネン・スーツを着用する必要があった.
 ダイバーは掃海だけでなく,自軍機雷の修理や回収も行った.

 【参考ページ】
http://makettinfo.hu/forum/image.php?img_id=372125&size=full#image_372125
http://live.warthunder.com/post/547043/en/
http://live.warthunder.com/post/376256/en/
http://newfront.ca/data/documents/MAGYAR-FRONT-FALL-2012.pdf

各種機雷
左から18.M,35.M,18.M
(こちらより引用)

28.M機雷敷設訓練の様子
(こちらより引用)

ダイバー・スーツ
こちらより引用)

mixi, 2017.2.19


 【質問 kérdés】
 指揮艦「フンガーリア」について教えてください.
Kérem, mondja meg "Hungária" parancsnoki hajóról.

 【回答 válasz】
 1943年にヒトラーからホルティへ贈られたヨット.
 当時,ホルティとヒトラーとの関係は,ヒトラーからの高圧的な要求と脅迫的言辞のためにかなり悪化していたが,そんな中のプレゼントだった.
 ホルティの75歳の誕生日(6/8)にプレゼントすべく,レーゲンスブルクにあるクリストフ・ルトフ造船所で建造されたのだが,工事が遅れ,ヴィシェグラードにおける引き渡し式は10/15になった.

 全長40.33m.
 排水量189トン.
 500 馬力の MWM 6 ディーゼル・エンジン×2基を搭載し,約12 ノット (約 40 km/h)の速力を出した.
 内装は抑制的だったが,それでも非常に豪華であり,建造費,約680,000ライヒスマルクを要した.
 2階建ての上部構造の1階前部には4人の乗組員用の部屋が,後部には知事夫妻のスイートを含む15人の乗客用の部屋があった.
 カトリック教徒向けに「マグダの家」もあり,イコンのスツールまで置かれていた.
 上層階前部には,外交交渉やレセプションのための大きな会議室があり,後部にはには小さくてエレガントなサロンがあった.

 しかし,防諜責任者カダール・ジュラ大佐の証言によれば,このプレゼントをホルティは喜ばず,
「彼は私にヨットを送ってくれた.
 一体私はそれで何ができるだろう?
 ペシュトに渡る[ために使う]のか?
 彼は個人的な贈り物で私を懐柔できると思っているのだろうか?
 そして私は何を返礼すればよいのだろう?
 彼が紳士であるなら,私はそうするだろう.
 彼に乗馬用の馬や装備を送ってもいいが,あの愚かな日曜画家は乗馬を嗜まない」
と言ったという.

 事実,ホルティは引き渡された日にヴィシェグラードからブダペシュトまでこの船に乗って帰還したが,乗ったのはこの一度きりで,それ以後も国事行事では外輪船「ゾフィア」に乗るのが常だった.
 ホルティ回顧録には,この船に関する記述もない.

 ドイツ軍のハンガリー占領によってホルティが失脚した後,1944年にサーラシはフンガーリアをハンガリー軍河川艦隊に供与
 同部隊の新しい指揮官Lt. Col. Deák Lajos は,同艦を指揮艦として使用した.

 同年12月,ドイツ軍はハンガリー軍河川艦隊の残存艦艇を接収.
 「フンガーリア」も武装補助艦としてドナウ川を哨戒した.
 レーゲンスブルクで米軍が同艦を見つけたとき,ドイツ人乗組員は皆逃げ出しており,艦は無人だった.

 米軍は無傷で同艦を鹵獲してデッゲンドルフに運び,同軍の内陸水路部門に譲渡.
 同艦は将校の巡察に使用されたが,戦後はほぼ放置状態だった.

 戦後,ポルトガルに亡命していたホルティ一家は困窮していたが,この船が何らかの行政上の過失により,戦後もホルティ個人の名義の資産のままになっていることを知った.
 そこで一家は合法的な手段を通じてアメリカからそれを取り戻し,船を売却してキャッシュを得ようと考えた.
 しかし彼らの努力は失敗に終わり,アメリカ陸軍は1950年,新興の西ドイツ政府に同船を17,000 マルクで売却.
 同船はドイツ運輸・水・都市開発省 Wasser- und Schifffahrtsverwaltung des Bundes の管理下に置かれた.

 1952年,同船はコブレンツに運ばれるため,いったん解体.
 部品がトラックに詰められて同地に運ばれ,そこで再組み立て・修理が行われた.
 そして1954年6月からライン川にて再就役.
 その際「マインツ Mainz」と改名した.

 その後,数に渡り改装.
 1966年にはより強力な主機に換装.
 1991年には,断熱材のうちアスベストを含むものを撤去した.
 1998年には,トリーアで操舵室を改造して電動油圧式ステアリングシステムを採用.
 2003年には,再びエンジンを換装.
 出力は前の主機より小さく,それによって速力も低下したが,一方で,ノーズジェットエンジンも追加された.

 2017年7月1日,,元ドイツ首相ヘルムート・コールの棺を,彼の最後の安息の地シュパイアーに運んだ.

 2021年現在,マインツの母港はヴィースバーデン=シールシュタインにあり,国際会議その他の行事も船上で開催されているという.

 【参考ページ Referencia Oldal】
https://live.warthunder.com/post/544594/en/
https://t.co/bliPdiZYzD
https://t.co/h89MWXGuzR

1枚目:側面図と写真
(図No. faq221212hn,こちらより引用)

2枚目:着色写真
(図No. faq221212hn4,こちらより引用)

3枚目:貴賓室
(図No. faq221212hn2,こちらより引用)

4枚目:「マインツ」として再就役後の写真
(図No. faq221212hn3,こちらより引用)

mixi, 2022.12.14


 【質問 kérdés】
 第二次大戦ハンガリーのドナウ~海洋商船隊について教えてください.
Kérjük, mondja el magyari Duna - tengeri kereskedelmi flotta a második világháborúban.

 【回答 válasz】
 第一次大戦の敗北により,内陸国となってしまったハンガリー.
 だが,産業のためには輸出が必要だった.
 外国の港の施設を借りると高価くつく.
 そこで政府は,ドナウ川を下って海に出ることができないものか?と考えた.
 ドイツではライン川を下って,そのまま外洋を航行することができる船を既に造っていたからだ.

 1928年,ハンガリー政府はドイツから老朽船「Liselotte」を購入.
 ドナウ川を下った船が,そのまま海を航行できるかどうかを試験した.
 テストは成功.
 船は川底の深いドナウ川を航行して,そのまま黒海に出ることができ,海上での暴風雨にも耐えることができた.

 次にハンガリーは1933年,オランダから「Apollinaris II」を購入し,梱包貨物を搭載しての試験を行った.
 このテストにも成功.
 船はブダペシュトからエジプトのアレクサンドリアまで航行することができたのである.
 ハンガリー政府は直ちにドナウ~外洋航行船の開発・建造を命じた.

 1934年,ハンガリーの「ネプトゥン海洋航海株式会社 Neptun Sea Navigation Co. 」は,フランスの河川航行船「Marquise de Lubersac」を購入し,「ドゥナ Duna」と改名した.
 この船は2軸の大型汽船 twin-screw steamship (TSS).
 同年,ガンツ社は国産初のドナウ~外洋航行船「ブダペシュト」を建造した.
 この「ブダペシュト」はディーゼル船で,同船を含めて以下が建造された.
(年は竣工年)

「ブダペシュト」級
1934 - MS Budapest ブダペシュト

「セゲド」級
1936 - MS Szeged セゲド

 「ティサ」級
1937 - MS Tisza ティサ
1939 - MS Kassa カッシャ
1941 - MS Ungvár ウングヴァール および MS Kolozsvár コロジュヴァール
1944 - MS Komárom コマーロム (米軍機の空爆により未就役 ⇒ 賠償船としてソ連に引き渡し)

「ソルノク」級
1944 - MS Solnok(未成 ⇒ 賠償船としてソ連に引き渡し)

 これらは全て都市の名がつけられている.
 これらの船舶は,ハンガリー王立ドナウ~海洋航行会社 Magyar (Királyi) Duna-Tengerhajózási RT (DTRT)が所有した.
 他にも主なところで2社ほどあった.

 第二次大戦が始まると,これらの船も戦争から逃れることはできなかった.

 1939年,「ティサ」と「「ドゥナ」は,まだハンガリーが参戦していなかったにもかかわらず,英海軍の軽巡洋艦アレスーサ HMS Arethusa によって鹵獲されてマルタに連行.
 「ドゥナ」は1940年4月に座礁して,二度とハンガリーには戻れなかった.

 ハンガリーが参戦すると,残る船は軍に傭船され,「コロジュヴァール」は大破.
 敗戦により「ブダペシュト」「セゲド」「カッシャ」はオーストリアへ逃げて,船員は連合軍に降伏.
 残る船は,修理中の「コロジュヴァール」を含め,ソ連軍によって一時接収.

 幸いなことにソ連に取られたのは「コマーロム」「ソルノク」だけで,戦後も生き残りの船はドナウ川運送に従事.
 戦後の新造船も加わって,外国企業に売却される1980年までDTRTは事業継続しましたとさ.

 【参考ページ】
http://live.warthunder.com/post/541804/en/
http://www.mateinfo.hu/a-elod-davidhazy.htm
http://www.hajoregiszter.hu/tarsasagok/belvizi/dtrt_magyar_kiralyi_duna-tengerhajozasi_rt/23
http://uni-nke.hu/downloads/kutatas/folyoiratok/hadtudomanyi_szemle/szamok/2010/2010_2/2010_2_hm_zsigmond_gabor_26_33.pdf
http://www.costadelsolmagazin.com/content/magyar-duna-tengerjaro-hajozas-masodik-vilaghaboru-idejen
http://www.autoszektor.hu/hu/content/amikor-magyar-hajok-jartak-tengereket

「カッシャ」
(こちらより引用)

「ティサ」
こちらより引用)

mixi, 2017.3.5

 「ティサ」の写真に写ってる橋は,戦災で破壊された旧エルジェーベト橋ですね.

ギシュクラ in mixi, 2017年03月05日


 【質問 kérdés】
 ドナウ川-海洋両用船「ブダペシュト」について教えてください.
Kérem, mondja meg Duna-tengerjáró hajó "Budapest"-ről.

 【回答 válasz】
 1934.8.14にウーイペシュト Újpest にあるガンツ&タールシャ社 Ganz és Társa Rt.で起工された,最初の両用船.
 設計者シャルベルト・ジュラ Scharbert Gyula は戦艦「セント・イシュトヴァーン」を設計した人物.
 建造に当たっては50万ペンゲーを,政府は補助金として支出した.

 船は王立河川&海洋会社の管理するものとなり,1934.10.6に初出港.
 イスタンブール,ヤッファ,ベイルート,アレクサンドリアを廻った.
 経済的利益以上に,この航海はハンガリーの造船技師,造船所労働者,船員の能力の確かさを証明した点で重要なものとなり,後続の商船隊建造の基礎を築いた.

 「ブダペシュト」所有権は,1936年に設立されたドナウ-外洋クルーズ会社(DTRT)に引き継がれた.

 独ソ戦が勃発すると,1941.7.12,ドイツ軍はDTRTに750マルク支払って「ブダペシュト」を傭船.
 同社の他の船「セゲド」「コロジュヴァール」「ウングヴァール」と共に,黒海での輸送任務に従事した.

 1942.9.18,バラクラバに駐留していた「ブダペシュト」は,戦時中では同船にとって最も激しい空爆を受けた.
 隣に停泊していたドイツ船が爆発し,「ブダペシュト」も危険な状態となった.
 加えて,プロペラの一つにちぎれたワイヤーが巻き付いてしまったが,燃え上がる船から辛くも距離を置くことができ,「ブダペシュト」には殆ど損害を受けずに済んだ.

 大戦を生き延びたこの船は,1962年までさまざまな会社に所有された後,倉庫船として使用され,1988年に解体された.

<性能要目>

全長:56.52 m
全幅:8.5 m
舷側高:3.0 m
最深許容喫水
 洋上:2.30 m
 河川上:1.85 m
運搬能力
海上:475トン(DWT) ( 2.3m喫水時)
 ドナウ川上:300トン( 1.85 m喫水時)

主機:ガンツ・イェンドラシク180 HPディーゼル機関×2
最高速度:8.9ノット

 【参考ページ Referencia Oldal】
http://www.hajocsavar.hu/hirek-aktualitasok/?sw_12_item=3204
http://www.costadelsolmagazin.com/content/magyar-duna-tengerjaro-hajozas-ket-haboru-kozt
https://tortenelem.444.hu/2017/03/19/27-meter-mely-viz-volt-es-kiurult-a-tenger-az-ungvar-teherhajo-tragediaja

1枚目:初出港時の「ブダペシュト」
(図表No. faq191011bd3,こちらより引用)
2~3枚目:建造中の「ブダペシュト」
(図表No. faq191011bd2,こちらより引用)
(図表No. faq191011bd4,こちらより引用)
4枚目:側面図
(図表No. faq191011bd3,wikipediaより引用)

mixi, 2019.10.12


 【質問 kérdés】
 ドナウ川-海洋両用船「セゲド」について教えてください.
Kérem, mondja meg a Duna-tengerjáró hajó SZEGED-ről.

 【回答 válasz】
 ドナウ川から海洋に出て交易するために建造された貨物船で,「ブダペシュト」の拡大改良版.
 1936年,ガンツ造船所にて竣工.

 大戦勃発後,1941.7.12に調印された協定により,「セゲド」は975ペンゲー/日で,他の両用船同様ドイツ軍に傭船されたが,「セゲド」はハンガリー自身がイスタンブールからの物資輸入に使うため,長期間のそれを免れた.
 対空兵器として4cmボフォース機銃を備えた「ニムロード」自走砲用の砲塔を搭載し,乗組員は短時間の操作訓練を受けた.

 敗戦により「セゲド」はオーストリアへ逃げて,船員は連合軍に降伏.

 1947年1月に母国に戻されると,ハンガリー・ソビエト海運会社(Magyar-Szovjet Hajózási Rt.,MESZHART)の所有船となり,戦後も使用された.

<性能要目>
全長 59.13m
全幅 8.50m
喫水線高 3.70m
最深長 2.55m
排水量 600t
主機 ガンツ・ジェンドラシク180hp×2
速度 9.2 ノット

 【参考ページ Referencia Oldal】
http://www.hajoregiszter.hu/hajoadatlap/szeged/424
http://www.autoszektor.hu/hu/content/amikor-magyar-hajok-jartak-tengereket
http://www.costadelsolmagazin.com/content/magyar-duna-tengerjaro-hajozas-ket-haboru-kozt

1枚目:1930年代にブダペシュトで撮影された「セゲド」
2枚目:一般配置図
3枚目:建造中の「セゲド」
4枚目:1944.8.9の空襲で炎上するブダペシュト.写真手前にあるのが「セゲド」の砲.

(図No. faq191014sg1~4,こちらより引用)

mixi, 2019.10.14

ドナウ川を航行中の「セゲド」船上
「ニムロード」用砲塔が搭載されているのが分かる
1944年,ブダ側の港にて
(図No. faq211208sg,こちらより引用)

マーノシュ on twitter, 2021.12.7
青文字:加筆改修部分


 【質問 kérdés】
 ドナウ川-海洋両用船「ティサ」について教えてください.
Kérem, mondja meg Duna-tengerjáró hajó "TISZA"-ról.

 【回答 válasz】
 ドナウ川経由で外洋に出て交易するために建造された貨物船.
 1937年,ウーイペシュトにあるガンツ造船所にて建造.

 1939年,第二次大戦勃発.
 1939年,「ティサ」と同じく両用船「ドゥナ」の2隻は,当時ハンガリーはまだ中立国だったにもかかわらず,英海軍の軽巡洋艦アレスーサ HMS Arethusa によって鹵獲.
 マルタに連行され,貨物は没収となった.
 運航会社DTRTは英国と交渉し,1940.2.29,交易再開のための合意は得られたものの,貨物内容には厳しい制限が課せられた.
 しかもその数か月後にはイタリアが参戦して地中海は戦闘海域となり,ハンガリー船舶は黒海経由でイスタンブールに行くことしかできなくなった.

 独ソ戦にハンガリーが参戦すると,1941.1,「ティサ」は他の両用船同様,ドイツ軍に傭船され,黒海で輸送に従事.
 これらの船にはドイツ製の2インチ対空砲が,ドイツ人操作員付きで船に搭載され,灰色に塗装された.

 1941.11.18,僚船の「ウングヴァール」が空爆により損傷した際,「ティサ」はこの乗員の救助に当たった.
 しかし,退避しようとした「ウングヴァール」はさらに触雷,大破.
 この爆発に「ティサ」も巻き込まれて損傷した.


 大戦を生き延び,1947年に修理されて再就役.

全長:73.22m
全幅:10.03m
喫水線高:4.70m
満載時最深度:3.10m
搭載量:1200t
主機:ガンツVIII JhR 216/310 200hp×2
最高速度:10.5ノット

 【参考ページ Referencia Oldal】
http://www.hajoregiszter.hu/hajoadatlap/tisza/428
http://www.kriegsmarine.hu/hk/ha01102.html
https://tortenelem.444.hu/2017/03/19/27-meter-mely-viz-volt-es-kiurult-a-tenger-az-ungvar-teherhajo-tragediaja
https://marton-hajo.webnode.hu/rolunk/

1枚目:建造中の「ティサ」
2枚目:一般配置図
3枚目:主機
4枚目:「ティサ」の前でポーズをとるドイツ兵.1942年頃,ニコライエフ港にて

(図表No. faq191016ts1~4,こちらより引用)

mixi,2019.10.17


 【質問 kérdés】
 ドナウ川-海洋両用船「カッシャ」について教えてください.
Kérem, mondja meg Duna-tengerjáró hajó KASSA-ról.

 【回答 válasz】
 ドナウ川から海洋に出て交易するために建造された貨物船.
 1939年,ウーイペシュト Újpest のガンツ造船所にて竣工.

 第二次大戦勃発後の1941年,他の両用船同様,ドイツ軍に傭船され,黒海での輸送任務に就く.

 1944年末,ソ連軍から逃れるためオーストリアへ.
 そして終戦により,同地で連合軍に降伏.

 1947年,ようやく帰国.
 同年,「デブレツェンDEBRECEN」と改名し,国営海運会社の所有船となって,再びドナウ川-地中海東部の航路へ.

 しかし1960年代までにドナウ川-海洋を通る輸送は廃止され,「デブレツェン」は貨物船としては引退.
 1964~1998年,作業船1号としてウーイペシュトの造船所に.

 1999年,ドナウシーナビゲーション財団(MDA)がこの船を買収し,ネスメーイ Neszmély 近郊の港へ曳航.
 2004年には,スロヴァキアのコマーロムの港に事務所を構えるゾルターン財団 Zoltán Alapítvány へ所有権が移る.
 2006年に財団は同地で同船を部分改修し,ブダペシュトで遊覧船として就役させた.

 2010年,海事史協会は同船を25年間リースする契約を結び,EUの助成金により海洋・水中博物館を設立.
 2017年夏,「TRIP」と改名され,改装.
 技術遺産として保護の対象となると共に,ドナウ川の,ブダに隣接する水域において,浮かぶコンサート・エンターテイメント会場・展示会などとして活用.
 現在もドナウ川-海洋両用船の唯一の生き残りとして健在である.

<性能要目(「カッシャ」時代)>
全長 77.30m
全幅 9.86m
喫水線高 4.70m
最深長 3.10m
排水量 1300t
主機 ガンツVIII JhR 216/310 400hp×2基
速度 10.5ノット

 【参考ページ Referencia Oldal】
https://mandiner.hu/cikk/20180801_atneveztek_az_utolso_magyar_tengerjaro_hajot ※faq191018ks1, 3~4
https://www.szeretlekmagyarorszag.hu/magyar-tengerhajozas-magyar-tenger-nelkul/
https://aquamagazin.hu/atneveztek-az-utolso-magyar-tengerjaro-hajot/?p=14656
https://www.youtube.com/watch?v=HJ4kIrk-IAc
http://100hires.hu/cikkek/debrecen-ex-kassa-duna-tengerjaro

1枚目:建造中の「カッシャ」
2~3枚目:「TRIP」と改名後の姿

(図表 No.faq191018ks1, 3~4)

https://www.youtube.com/watch?v=HJ4kIrk-IAc

mixi, 2019.10.18


 【質問 kérdés】
 第二次大戦ハンガリーの空母について教えてください.

 【回答 válasz】
 第一次大戦の敗北により,海を失ったハンガリー.
 だが,ハンガリーはドナウ川から外洋に出ることができる商船の保有・建造を計画し,それを実現させることができた.

 商船の次は軍艦の番だ.
 国家指導者(摂政)はホルティ海軍提督であったから,その強い後押しもあって,ハンガリー外洋艦隊建設が構想された.

 ただ,問題があった.
 いかにドナウ川が大河といえど,川底は海底に比べれば浅い.
 軍艦も川底に擦らないよう,喫水を浅くせざるを得ず,そうなると一定以上の大型艦を建造することが物理的に不可能となることだった.
 商船でも河川・外洋両用で最大のものは4000総トン程度.
 総トン数と軍艦の基準排水量とでは簡単に比較はできないが,軽巡が関の山だ.
 護衛艦はそれでいいとしても,主力艦が軽巡では,ちと貧弱な艦隊になってしまう.

 ところが,世の中には奇抜な発想をする者がいるもので,縦に深く作れないなら,横に広く作ればいいと考えた技師がいる.
 航空技師のルビク・エルネー Rubik Ernő (1910~1997)
https://hu.wikipedia.org/wiki/Rubik_Ern%C5%91_(g%C3%A9p%C3%A9szm%C3%A9rn%C3%B6k)
で,ルービック・キューブを発明したルビク・エルネーの父親でもある.
 何でも,フロートつきの水上飛行機を見て,それを思いついたという.
 ルビク技師の案は,船の胴体を二つ作って,それを横につなげるというもので,要は双胴船である.

 ただ,それでも戦艦の如き巨砲は積めない.
 小口径砲では射程が稼げない.
 こっちの砲が届かない内に,敵戦艦の主砲に滅多撃ちされるだけである.
 そこで建造するのは空母ということになった.
 空母なら戦艦の主砲では届かない距離まで飛行機を飛ばせて行って,爆弾を落とせるからである.

 しかしなにしろハンガリーで空母を建造するのは初めてのことだったので,計画される艦載機数は40機程度と,あまり冒険はしないことにした.
 格納庫は1層で,そこに25~30機程度しまい込み,残りは飛行甲板上に繋げたままにしておく.
 艦載機はハンガリーでライセンス生産する予定のイタリア機 Re2001が選ばれた.
 イタリアでは商船を空母に改造していて,その艦載機がRe2001だと聞いたからである.

 プランはだいたいこのように決まった.
 けれど造艦はノウハウも必要.
 まして双胴となると,世界の中でもレアである.
 ガンツ社の造船所では,さんざん頭を悩ませ,さんざん試行錯誤を重ねた.

 なので建造はちっとも進まない.
 そうこうしているうちに第二次大戦が始まってしまった.
 こうなると,戦車や小銃や弾薬といった,もっと差し迫った需要に工業力も資材も振り向けられることになり,建造は事実上中止となった.
 ホルティ提督はさぞやがっかりしたに違いない.

 艦の2つの胴体は,造船ドックの中で暫く放置されていたが,戦争は日に日に不利になるばかり.
 とうとうソ連軍がハンガリー領内に雪崩れ込んできて,ブダペシュトも包囲されんばかりの状況となった.
 市民や傷病兵を急ぎ避難させねばならぬ.
 そこで二つの船の胴体は,ドックから引っ張り出され,避難民を満載してタグボートに曳かれ,ドナウ川をウィーンへと遡って行った.
 そしてライン・マイン・ドナウ運河に入り,北海へ脱出したとも,キール近くで自沈したとも伝えられている.

 1993年,ハンガリーの公共放送局 MTV (Magyar Televízió)が調査を行ったが,今も発見されていないという…

 【参考ページ】
https://hu.wikipedia.org/wiki/Rubik_Ern%C5%91_(g%C3%A9p%C3%A9szm%C3%A9rn%C3%B6k)
http://www.shipmodell.com/

https://www.youtube.com/watch?v=MXd1HYW71RY

2017.4.1
注意! この項はエイプリル・フールのネタです


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