c

「WW2別館」トップ・ページへ

「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ   サイト・マップへ

◆◆◆ルーマニア陸軍
<◆◆陸戦 目次 Földi Csata Index
<◆大西洋・地中海方面 目次
<第二次大戦FAQ


 【link】

Modelling & Military History - Romanian Army 1941-1945(英語?)

「5ch. 軍事板」◆(2013/01/24~) 第二次世界大戦の『ルーマニア軍』を語ろう
 レス回収客観基準値v.e.r = 6


 【質問】
 WW2勃発時のルーマニア陸軍の兵力は?

 【回答】
 独ソ戦勃発時,陸軍の中核は第1~11,13~15,18~21の19個歩兵師団,17,500人.
(第12,16,17歩兵師団は,該当師団の徴兵対象地域がソ連領になったりハンガリー領になったりしたことで,1940年に解散)
 他に3個歩兵連隊,2個砲兵連隊,一部機械化された偵察部隊1個,対戦車大隊1個,先遣大隊1個があった.

 主力戦車は
R-1軽戦車(チェコ製TNH改)
R-2軽戦車(チェコ製LTvz35)
ルノーR-35軽戦車(仏製)

 員数以外の考慮すべき点としては,
・国内にマジャル人が少数民族としてかなり存在していること
ハンガリーの他,ソ連,ブルガリアとの間にも領土問題を抱えていること
があった.

軍事板,2007/11/04(日)
青文字:加筆改修部分

https://www.youtube.com/watch?v=hgKegz0ocuw


 【質問 kérdés】
 ラドゥ・コルネって誰?
Ki az Radu Korne?

 【回答 válasz】
 ラドゥ・コルネは第二次大戦ルーマニア陸軍の将官.
 1895年12月13日,ブカレストのボイヤー(貴族)のコルネ Cornea 家に生まれる.
 1913年,トゥルゴヴィシュテの騎兵士官学校に入学.
 1915年,卒業.
 騎兵第4連隊「マリア王妃」第703機関銃分隊長として第一次世界大戦に出征.
 同年7月31日~8月13日,タラパン高地にて行われた第二次オイトゥズ会戦において,砲撃に巻き込まれ負傷するも,8日後に後送されるまで指揮を続け,後にこの勲功により3等ミハイ勇敢公勲章を受章.
 1918~19年のハンガリー・ルーマニア戦争にて,第2機関銃大隊長として従軍.

 1919年,大尉昇進し,騎兵第2連隊連隊長附副官.
 1921~23年,上級軍事学校入学.
 1925年,ソミュールの装甲騎兵科訓練学校留学.
 1926年,シビウの騎兵特別学校の乗馬教官及び戦術教授に就任.
 1927年,少佐昇進し,同学校教育長就任.
 1929~31年,同校の監察官に.
 1934年,中佐昇進し,カララシの第9連隊連隊長に.
 1936年,第12師団参謀長.
 1938年,騎兵特別学校監察総監.
 1939年,大佐昇進し,第8騎兵連隊連隊長に.
 1940年,第6騎兵連隊連隊長.

 1941年6月22日,独ソ戦勃発.
 第6騎兵連隊はモルドバに進軍し,旧領回復.

 1941年7月29日,第6騎兵連隊,3個自動車化騎兵中隊,山砲隊から成るコルネ支隊編成.
 同年8月上旬までに,同部隊はブグル Bugulを経て,ドニエプル川まで進出.
 同年9月25日,ソ連軍第9軍・第18軍による大規模反攻作戦に直面するも,第6騎兵連隊は戦線を維持し続ける.

 1942年3月5日,第6騎兵連隊および第10騎兵連隊,第54砲兵師団,一個対戦車大隊および二輪車部隊から編成されたコルネ支隊は,クリミア半島南部のフェオドシヤに上陸.
 ただちにグロデック旅団指揮下に編入さる.
 5月8~19日,ケルチ近郊における"Trappenjagd"作戦において,コルネ支隊は重要な役割を果たす.

 同年8月,第5騎兵師団と第9騎兵師団の自動車化部隊より成る,新たなコルネ支隊を編成.
 コーカサス地方を進軍.
 同年8月31日,アナパに到達し,ナスルボハイツで152mm砲2門を鹵獲
 この砲で都市と港とを砲撃し,占領に寄与.

 その後,ノヴォロシースクに向けて前進.
 同年9月初旬,ノヴォロシスク陥落.


 1942年10月7日,スターリングラード近郊から第5騎兵師団は離れたが,マンシュタイン指揮下のドン軍集団のルーマニア第4軍第8騎兵師団指揮を任される.
 1942年11月,スターリングラード攻防戦において,ソ連軍は本格的反攻を開始し,両翼の弱体なルーマニア軍の戦線を攻撃.
 このときコルネ少将の第8騎兵師団は,11月19日から25日までの一週間に,81台の戦車を失う代わりに2倍のソ連戦車を破壊.
 ドン川の包囲網より脱出し,チル川の守備ラインでソ連の追撃を阻止.

 1942年12月2日,9月のソ連軍の大規模反攻作戦に耐えた功により,2等ミハイ勇敢公勲章受章.

 同年12月12~23日,スターリングラード解囲を試みた「冬の嵐」作戦に参加.
 同年12月18日,騎士鉄十字章受章.

 1943年,少将昇進.
 1944年,近衛師団長代理.
 同年4月,第1装甲師団“大ルーマニア”司令官.
 同年8月20日,バフルイ川南部での戦闘において,第1装甲師団はスコブルツェニにて防衛戦を展開.
 装甲車輌30両を失う代わり,敵装甲車輌60を撃破した後,同地より撤退.
 これによりモルドヴァ戦線は崩壊し,アントネスク政権の命運も事実上ここで尽きた.

 同月23日,クーデターによりイオン・アントネスク政権崩壊.
 ルーマニアは連合国に降伏する.

 1944年9月,ルーマニアは対独宣戦布告し,ルーマニア軍は北トランシルヴァニアに侵攻.
 コルネは前線復帰を希望するも,9月20日,「戦争大臣」に任命され,希望は叶わず.
 同年10月21年,逮捕され,軍中央司令部に収監.
 1945年春,釈放されるも自宅軟禁.
 1945~46年,「民衆裁判」にかけられるも,無罪判決.
 1948年3月24日,「国家安全保障に対する陰謀」容疑で再逮捕され,イラヴァに投獄.
 1949年4月18日,健康状態悪化のため,第1中央病院入院.
 同年4月28日午後1時,死去.診断は肺腫瘍.
 ヤシの墓地に埋葬さる.
 共産党政府は彼の遺産を没収しようとしたが,殆ど何も遺っていなかったという…


 【参考ページ Referencia Oldal】
https://www.worldwar2.ro/generali/?article=102
https://maresalul-ionantonescu.blogspot.com/2016/08/general-de-brigada-radu-korne.html
https://neamulromanescblog.wordpress.com/2013/03/11/radu-korne/
http://www.ww2incolor.com/Romanian+Forces/Brig_002.html

1枚目:支隊指揮官当時の肖像画
ウィキペディアより引用)

2枚目:第8騎兵師団司令官当時のラドゥ・コルネ少将(左)とSSのマックス・ベンシェ大尉(右) 1943年9月
(図表No. faq191221cr,こちらより引用)

軍事板,2013/01/28(月)
青文字:加筆改修部分


 【質問 kérdés】
 WW2ルーマニア軍の装甲車輌について教えてください.
Kérem, mondja meg a Román harckocsikről a második világháborúban.

 【回答 válasz】
・戦車 harckocsi

R2軽戦車(35t戦車):152輌(チェコスロバキアから購入)
R2 könnyűharckocsi ( Panzer 35(t) könnyűharckocsi ) : 152 db. ( Csehországból behozott )

R1軽戦車(AHⅣ豆戦車):35輌(チェコスロバキアから購入)

ルノーR35軽戦車:75輌(41両がフランスからの正規輸入品,34両が亡命ポーランドからの・接収品)

Ⅳ号戦車:140輌(ドイツからの供与)

38(t)戦車:50輌(ドイツからの供与)

Ⅲ号戦車:11輌(ドイツからの供与)

パンター中戦車:13輌(ルーマニア枢軸軍離脱後,ソ連が捕獲品を供与)

・自走砲

Ⅲ号突撃砲:114輌(ドイツからの供与)

TACAM-T60:34輌(ソ連から捕獲したT60軽戦車をルーマニアが独自改造)

TACAM-R2:20輌(R2軽戦車を改造)

 ソースは『世界の戦車』(大日本絵画)
 但しWW1の戦車は除いた.

 自走砲化された数が,R2よりT60のほうが多いのに笑った.
 ソ連,鹵獲されすぎ.

 なお,例の「オデッサ戦車」も製作総数68輌のうち,14輌をルーマニア軍は鹵獲している.

軍事板,2008/02/26(火)
青文字:加筆改修部分

https://www.youtube.com/watch?v=9jwXgN9uOzM


 【質問 kérdés】
 FT戦車について教えてください.
Kérem, mondja meg FT harckocsiről.

 【回答 válasz】
 1919年,ルーマニア最初の戦車大隊を創設すると共に,フランスからルノーFT-17×76輌を輸入.
 これらはルーマニアでは「FT」と呼ばれ,うち,
48輌がプトー37mm砲(SA18)搭載のFT-17c
28輌がホチキス8mm機銃のみ搭載のFT-17m.

 その一部は戦間期に,レオニーダ工場やブカレスト陸軍兵器廠にて改装された.

 独ソ戦が勃発すると,FT戦車は独立戦車大隊を形成.
 ルーマニアの重要な産業都市や中心都市(ブカレスト,プロイエシュチ,シビウ,レシツァ)における警備業務,または訓練に使用された.

 1944年8月,反アントネスク・クーデターにおいて出動.

 1945年2月,ソ連軍はルーマニア軍の全てのFT戦車を接収した.

 【参考ページ Referencia Oldal】
https://www.worldwar2.ro/arme/?article=234
http://spww2.g2.xrea.com/unit/tank_romania1.html
https://historia.ro/sectiune/general/dotarea-armatei-romane-in-al-doilea-razboi-mondial-585155.html

1~3枚目:ブカレストの国立軍事博物館に野外展示されているFT戦車
(図No. faq220721rn1~3,こちらおよびこちらより引用)

4枚目:兵士と共に記念撮影されたFT戦車
(図No. faq220721rn4,こちらより引用)

mixi, 2022.7.23


 【質問】
 ルーマニア軍が保有したルノーR35について教えてください.

 【回答】
 1937年12月,ルーマニアはフランス軍用車輌のライセンス生産についての交渉を開始.
 その中にはR35,200輌の話も含まれていた.
 だが交渉は成らず,輸入することとなった.

 しかしR35はフランス軍にも納入しなければならない上,ユーゴスラビア,ポーランド,トルコへの輸出契約もあったので,ルーマニアへの供給は遅延.
 1939年8~9月にかけ,41輌が来たっきりで,残りはフランス敗戦によって流れてしまった.
 これらは新編された第2戦車連隊に配属された.

 1939年9月末,ポーランドが敗れると,
ポーランド軍はルーマニア領にも避難.
 その中に第21軽戦車大隊があった.
 同大隊はR35を45輌保有していたが,ポーランド戦開戦時はルーマニア国境に近いポーランド南東部で訓練未了の状態にあった.
 9月17日のソ連軍侵入に伴い,同大隊はルーマニアに向けての撤退戦を展開したのだった.
 この大隊のR35を,ルーマニアはポーランドの合意に基づき,
34輌接収
 計75輌となったR35により,第2戦車連隊は2個旅団規模に拡大された.


 ルーマニアはR35そのまま使わずに,若干の改修も行った.
 車載機銃を7.5mmシャテルロー機関銃からZB軽機関銃に変え,サスペンションも改良.
 ホイールのリムも,コンスタンタン・ギウライ中佐が設計した,より耐久性のある金属製リムに交換する等した.


 独ソ戦が勃発すると,第2戦車連隊はベッサラビア,北ブコビナ解放戦,オデッサ包囲戦に参加.
 R35は装甲厚はルーマニア軍にとって申し分なかったものの,低速で主砲の装甲貫徹力も低かったため,専ら歩兵支援に投入された.
(そもそも,開発コンセプトが「歩兵戦車」だし)

 その後,第2戦車連隊は乗員訓練とトランスニストリア警備のため,予備部隊となった.

 1943年頭,R-35の近代化改修を計画.
 小さな一人用砲塔を,バルジを作って前方へ延長.
 そのバルジに45mm対戦車砲を,砲耳をかなり前方に突き出す形で収める(狭いので共軸機銃なし)事とした.
 これはソ連軍からの鹵獲兵器で,T-26やBT-7につまれていた砲とほぼ同じもの.

 44年6月までに30台を改修して,「R35駆逐戦車 Vanatorul de care R-35」と命名し,第2戦車連隊に配備.
 43年の時点でも45mmはしんどいんじゃないかと思うけれども,台車がR-35じゃなぁ…

 1944.8.25,ルーマニアは寝返って対独宣戦布告.
 R35やR35駆逐戦車も対独戦に投入され
る.

 1944年8月末,ポペスク装甲分遣隊のR-35戦車中隊がプロイェシュティ近くの油田での戦闘に参加.


 1945年春には,第2戦車連隊のR35は,駆逐戦車を含めて28輌あったが,同年3月26~27 日までのHron River Valleyでの戦闘で,8輌が破壊され,2輌が損傷.

 その後,同連隊はチェコスロヴァキア,オーストリアと転戦し,ウィーン近郊まで侵入したところで戦争が終わった.
 停戦時には稼働状態のR35もまだあったが,現在,ルーマニア軍仕様のR35は存在しない.

 【参考ページ Referencia Oldal】
http://combat1.sakura.ne.jp/R35.htm
http://spww2.g2.xrea.com/unit/tank14.html
https://twitter.com/i/moments/901231203168141312
https://tanks-encyclopedia.com/ww2/romania/vanatorul-de-care-r35/
https://tanks-encyclopedia.com/ww2/france/Renault_R-35.php
https://live.warthunder.com/post/240345/en/
https://live.warthunder.com/post/555038/en/

1枚目:オデッサ占領後,パレードを行うルーマニア軍のR35
(図表No. faq191130rn,こちらより引用)

2枚目:貨車移動のため,砲塔を後方に向けたR35.Znojmoの鉄道施設にて.1945年
(図表No. faq191130rn2,こちらより引用)

3~4枚目:チェコスロヴァキアで撮影されたR35駆逐戦車,1945年夏
(図表No. faq191130rn3~4,こちらより引用)

軍事板,2002/8/5 & 軍事板,2008/03/04(火)
軍事板,2010/05/01(土)(黄文字部分 sárga karakterek)
青文字:加筆改修部分, 2019.11.30


 【質問 kérdés】
 第二次大戦中のルーマニアは戦車の装甲が作れない?ので獲戦車の装甲を叩き切って使ったと聞きましたが,ルーマニアのAFVってそんなんだったんですか?

 【回答 válasz】
 TACAM T-60と言う対戦車自走砲がありまして,鹵獲品のT-60軽戦車とM1936 76.2mm野砲を組み合わせて作ったものです.

 第二次大戦が勃発すると,ルーマニアの保有戦車,ルノーR35やシュコダR-2(チェコスロヴァキア製のLT-35)ではソ連軍の主力戦車T-34やKV-1には全く歯が立たないことが分かりました.
 それらに対抗しうる国産戦車を作ろうにも,当時ルーマニアには圧延鋼板を作る技術が無く,ドイツも供給してくれませんでした.

 そこで対ソ戦初期に大量獲したT-60に,対ソ戦初期に大量獲した野砲を載せて限定旋回式とした,オープントップの対戦車自走砲を作り上げました.
 T-60が使われたのは,搭載エンジンが確かFordのエンジンのCopy品で,部品がいっぱいあったためだそうで.
(ちなみに,昔の日産80型トラックの部品にはChevroletの部品のCopyが使われていたので,GMのクルマが日本で故障しても,町の修理工場に持っていけば,使える部品はいっぱいあったそうで.)

 で,この戦闘室の防御に使われたのが,BT-7から切り取った15mm厚の装甲板だったりするわけです.

 1943年に34輌完成.
 1944年のモルダヴィアやベッサラビアでの防衛戦に投入されました.

 なお,同じ要領でR-2戦車にも鹵獲M1942 76.2mm野砲を搭載する改造が行われ,20輌完成.
 TACAM R-2と命名されましたが,対ソ戦には間に合わず,対独戦に投入されています.


 『世界の無名戦車』とか『ラスト・オブ・カンプフグルッペ』に載っている話です.

1枚目:カラー側面図
2枚目:四面図
3枚目:ナショナル・デーのパレードを行うTACAM T-60 1943年5月10日
(図No. faq191204tc1~3,こちらより引用)

眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 軍事板,2003/01/28・2/4
青文字:加筆改修部分


 【質問 kérdés】
 R-1戦車について教えてください.
Kérem, mondja meg R-1 harckocsiről

 【回答 válasz】
 チェコ製タンケッテAH IVの,ルーマニアでの制式採用型.

 1936年4月1日,Ceskomoravska Kolben Danek(CKD)工場が生産したAH IVをルーマニア軍は制式採用.
 1936年8月,35輌を発注した.
 発注に際し,指揮車のキューポラが砲塔上部から取り外され,装甲は15mmから最大厚12mmに削減.
 60hpのプラハ・エンジンも,同タイプでより軽量な50hpエンジンに置き換えられ,合計で0.5トン以上の軽量化を行った.
 走行距離も短くなったが,道路における最大航続距離は160kmに増大した.

 1937年初め,最初の1輌がルーマニアに到着.
 1938年4月までに残る車輌もルーマニアに到着した.
 1939年2月22日,350輌をライセンス生産する契約も締結されたが,ポーランド戦役でポーランド軍のタンケッテがドイツ軍に太刀打ちできなかったのを見て,生産中止.
 チェコスロヴァキアにおいて試作車が1輌製作されたのみである.
 この試作車をR-1aと呼ぶ.

 R-1タンケッテは騎兵旅団の機械化偵察中隊に配備され,第5,第6,第8騎兵旅団は其々6輌,第1,第7,第9騎兵旅団は其々4輌を受領した.

 大戦では1941~42年にかけ,ウクライナ南部とコーカサスその他の戦場で,騎兵部隊の前進に同行.

 だがスターリングラード戦の後,R-1は前線から引き下げられ,ルーマニア国内の騎兵訓練センターへ再配置された.

 【参考ページ Referencia Oldal】
https://tanks-encyclopedia.com/ww2/romanian-tanks-ww2.php
https://www.worldwar2.ro/arme/?article=235
http://www.avalanchepress.com/RomanianTanks.php
http://ftr-wot.blogspot.com/2013_05_29_archive.html

https://www.youtube.com/watch?v=eJKOGXcOJsU

mixi, 2022.7.11


 【質問 kérdés】
 R-2戦車について教えてください.
Kérem, mondja R-2 harckocsiről

 【回答 válasz】
 チェコ製シュコダLTvz.35のルーマニアへの輸出型.

 1936年8月14日,ルーマニアは戦車126輌を発注.
 1937年4月~5月に最初の15輌を受領し,軍事パレードに参加させた.
 だがこれらはエンジンなどにトラブルを抱えており,問題が解決されるまでルーマニアは注文を保留した.
 1938年7月12日,問題を解決したR-2×3輌が,試験のためにルーマニアに輸送.
 試験に合格したため,8月23日,ルーマニアの委員会は設計を承認した.

 その間,最初に届いた15輌ははシュコダに返送され,7月28日までに改修を受けた.
 9月1日,ルーマニアへの輸送が始まったが,27輌が発送されたところで,ミュンヘン危機のため,チェコスロヴァキア政府は有事に備えて発送を停止.
 そのとき完成していたR-2×5輌と,ほぼ完成状態にあった6輌がスロヴァキアに配備されたが,ミュンヘン会談にて軍事衝突は回避されたため,ルーマニアは1939年2月22日までに注文の全てを受け取ることができた.

 R-2は1941年から42年にかけ,大部分が装甲師団第1戦車連隊に配備され,キシナウの戦いで目立った活躍を見せたが,同年のオデッサの戦いでは,ソ連軍歩兵の対戦車銃によって壊滅的な損失を蒙り,同師団は前線から離脱.
 1942年初め,R-2×40輌がオーバーホールのためにピルゼンに送られ,他に50輌がプロイエシュティにて修理された.

 1942年8月29日,師団はR-2×109輌を擁して前線に戻った.
 11月19日のスターリングラードにおけるソ連軍の反攻が始まった時,師団には稼働状態のR-2は84輌あり,稼働状態に無い37輌は後方に配置されていた.
 師団はスターリングラード包囲の外縁,ドン川湾曲部にあり,R-2戦車77輌を失いながらも,包囲の西翼を突破することができた.
 この77輌のうち3分の1はソ連軍によって撃破されたもので,残りは遺棄されたか,故障したまま回収できなかった車輌だった.

 12月,ルーマニアから増援としてR-2×1が到着.
 また同月,ドイツ軍の中の稼働状態にあるPz.35(t)×26輌をルーマニアに売却することが決まった.

 1943年1月初旬,第1装甲師団には帰国命令が出た.

 1943~44年にかけ,21輌程度のR-2戦車がTACAM R-2駆逐戦車へ改造された.

 1944年3月25日までに,師団の保有するR-2およびPz.35(t)は合わせて63輌となった.
 師団は戦車訓練が主任務となり,R-2戦車中隊は1944年2月24日,カンテミール・カンプフグルッペと共にトランスニストリアに派遣されたが,1944年3月28日の撤退まで戦闘に遭遇することは無かった.

 1944年7月19日,師団の有するR-2およびPz.35(t)は44輌だった.

 1944年8月末,クーデターによりルーマニアが枢軸陣営から離脱した後,R-2の中隊がポペスク装甲分遣隊に配備された.
 分遣隊は,プロイエシュティ周辺に駐屯していたドイツ軍部隊が北部に侵入してハンガリー軍と合流することを防ぐ任務を負った.
 彼らは任務を遂行し,R-2は翌年,作戦から離脱した.

 1945年初頭,ルーマニア軍は残存装甲車輌を全て第2装甲連隊に集中配備した.

 1945年2月初旬,同連隊が前線に送られたとき,R-2×5輌が残存していたが,ソ連軍がルーマニアに進駐すると同時にそれらの殆どを接収した.
 1945年4月4日,連隊がブラチスラバに入ったとき,2輌が稼働状態だったが,その後,連隊の車輌リストから無くなっているため,4月10日にオーストリアで連隊が事実上包囲されたときに破壊されたと思われる.

 【参考ページ Referencia Oldal】
https://tanks-encyclopedia.com/ww2/romanian-tanks-ww2.php
http://panzerserra.blogspot.com/search/label/Panzerkampfwagen%2035(t)%20light%20tank
https://gmic.co.uk/topic/72366-armoured-vehicles-used-by-romania-in-ww2/
https://web.archive.org/web/20091001190507/http://mailer.fsu.edu/~akirk/tanks/romania/romania-tanks.html

1枚目:側面図
2枚目:第1装甲師団第1連隊のR-2
1941年,バルバロッサ作戦時
3枚目:同写真

(図No. faq220708r2a~c,こちらより引用)

mixi, 2022.7.8


 【質問 kérdés】
 R-3戦車について教えてください.
Kérem, mondja meg R-3 harckocsiről.

 【回答 válasz】
 フランス崩壊に伴うルノーR-35戦車輸入途絶により,ルーマニアは別の中戦車輸入を企図.
 ルーマニア軍が選択したのは,チェコスロヴァキア,シュコダ社のS-II-c(後のT-21)だった.
 1939年にR-35との比較試験を行い,結果は満足すべきものだったが,チェコスロヴァキアは当時既にドイツ占領下にあり,一方,ルーマニアはまだ枢軸陣営に加盟していなかったため,ドイツはS-II-cのルーマニア輸出を拒否した.

 その後,1940年8月,T-21の改良型のライセンス生産権をドイツはハンガリーに販売.
 これがトゥラーン戦車として生産される.

 これを見たルーマニアは枢軸陣営加入(1940.11.23)後の1941年1月,T-21戦車216輌を売却してくれるよう交渉した.
 もしこれが実現していれば,ハンガリーとルーマニアは殆ど同型の中戦車を共に配備しただろうことになる.
 だが,ドイツは再び拒否.
 限られた資源の中で,ルーマニアのために生産ラインを一つ融通できる余裕はないというのがその理由だった.

 1941年6月のバルバロッサ作戦時にも,三度ルーマニアはドイツとの交渉を開始.
 287輌を発注したが,ドイツは中古のPz.35(t)×26輌をルーマニアに渡すことしかできなかった.

 ここに至り,ルーマニアはT-21のライセンス生産を計画.
 だが,ルーマニア国内にはそれを可能にするだけの産業基盤が無く,R-3戦車計画はとうとう中止となった.

 【参考ページ Referencia Oldal】
https://dbpedia.org/page/R-3_tank
http://wio.ru/tank/romania.htm
Steven J. Zaloga著『Tanks of Hitler’s Eastern Allies 1941–45』(Bloomsbury Publishing,2013)
https://www.armedconflicts.com/CZK-Skoda-S-IIc-Skoda-T-21-t104919
http://maximietteita.blogspot.com/2015/06/r-3-s-ii-c-romanian-tank.html

1~3枚目:シュコダS-II-c
(図No. faq220716sk1~2,こちらより引用)
(図No. faq220716sk3,こちらより引用)
link: ルーマニアでのテスト中のS-II-c
※ページの下のほう
(図No. faq220716sk4)

mixi, 2022.7.17


 【質問 kérdés】
 T-38って何?
Mi T-38 ?

 【回答 válasz】
 チェコ製軽戦車LTvz.38のルーマニア軍における名称.
A T-38 a cseh LTvz.38 könnyű harckocsi román jelzése.

 東部戦線で消耗したルーマニア軍戦車戦力を補充するため1943年5~6月,ドイツは自軍にあった中古のPanzerkampfwagen 38(t)×50輌を,ロシア南部クバン地方にいたルーマニア軍に譲渡.
 ルーマニア軍では第2戦車連隊の中にT-38から成る戦車大隊を編成.
 同大隊は第51,第52,第53戦車中隊から成り,各中隊はT-38×15輌を装備した.
 また,1943~1944年冬の間,大隊本部所属のT-38×5輌から成る第54中隊が臨時編成されている.
 大隊は1943年6月から実戦投入され,7月に騎兵師団に配属された.

 大隊はクバンやクリミアで防衛戦に参加.
 1943年11月以降,第51・第52中隊のT-38戦車がルーマニア本国に移動.
 1944年4月の時点で,クリミアには第53戦車中隊があり,T-38×10輌をもって第10歩兵師団の支援に当たった.
 これらの作戦でT-38は多くが失われ,1944年8月時点で戦闘可能なT-38は,第2戦車連隊全体で9輌のみだった.

 その後,T-38はブカレスト周辺とプロイェシュティ近くの油田での戦闘に参加.

 1945年3月からはチェコスロバキアのフロン川,ニトラ川,ヴァーフ川,モラバ川の制圧戦に参加.
 その後オーストリアで戦った.

 同年4月22日時点で,連隊にはT-38×5輌が残存.
 これらはソ連軍に接収された.

 【参考ページ Referencia Oldal】
https://ro.wikipedia.org/wiki/Panzer_38(t)
https://tanks-encyclopedia.com/ww2/romanian-tanks-ww2.php
http://www.worldwar2.ro/arme/?article=238
https://gamepardvideo.com/en/combat-use-of-the-german-light-tank-pz-38-t-by-other-countries/

1枚目:側面図
(図No. faq221206pz,こちらより引用)

2~3枚目:写真
(図No. faq221206pz2~3,こちらより引用)

4枚目:行動中のT-38
(図No. faq221206pz4,こちらより引用)

mixi, 2022.12.6


 【質問 kérdés】
 TACAM R-2って何?
Mi az TACAM R-2?

 【回答 válasz】
 TACAM R–2は第二次大戦中,ルーマニア軍が使用した自走対戦車砲の一つ.
A TACAM R–2 egy román önjáró páncélvadász volt, melyet a második világháborúban használtak.

 TACAM は「Tun Anticar pe Afet Mobil」の略.
 すなわち「TACAM R–2」は「自走対戦車砲変換型R-2」の意味である.

 自走対戦車砲TACAM T-60の次に,ルーマニア軍では既に第一線では役に立たなくなった自軍の装甲車輌の改造に着手した.
 その対象が軽戦車R-2.
 戦前チェコスロヴァキアから輸入したLT-35である.
 1943年春に出された要求に基づき,前作TACAM T-60同様,コンスタンチン・ギウライ中佐を中心とするチームが開発を担当.
 7月から9月にかけ,ブカレストのレオニダ製作所において,R-2に76.2mm野砲1936年型(F-22)を搭載した試作車両1両を製作.
 評価試験の結果,車高が高いという欠点はあるものの,元のR-2に比べりゃめっちゃマシやと判断され,1944年2月,40両の製作が決定.

 1944年2月よりレオニダ製作所にてR-2, 20両を改造着手.
 戦闘室の装甲板には,鹵獲したBT-7などの装甲板を切り取って再利用している点は,TACAM T-60と同じ.
 ただしこちらは,より新型の76.2mm野砲1942年型(ZIS-3)を搭載.
 徹甲弾だけは国産した.

 しかし,T-34に対して有効射程が500~600mしかなく,しかも当時,既にIS-2重戦車も登場し始めていた頃.
 結局,残る20両の改造は行わなかった.

 TACAM R-2の更なる強化策も模索された.
 ルーマニア製の75mm新型対戦車砲M1943やドイツ製の8.8cm高射砲の搭載,火焔放射戦車への改造等々.

 しかし強化策が実行されるより先に,1944年8月,ルーマニアは降伏した.
 TACAM R-2の部隊にとっては,ソ連軍戦車と戦わなくなくて済んだという点では吉報だったろう.

 その代わり,今度は対独宣戦布告してドイツ軍と戦うことになった.
 その戦闘で殆どのTACAM R-2対戦車自走砲が失われたが,生き残った1両は現在ブカレストの軍事史博物館に展示されている.
 ちなみに,赤く塗られているのは訓練の都合によるものだという.

 【参考ページ Referencia Oldal】
http://combat1.sakura.ne.jp/TACAMR-2.htm
https://tanks-encyclopedia.com/ww2/romania/Tacam_R2.php
https://www.militaryfactory.com/armor/detail.asp?armor_id=924

https://www.youtube.com/watch?v=X8OX25k81Z0

2019.12.21


 【質問 kérdés】
 マレシャル駆逐戦車について教えてください.
Kérem, mondja meg a Mareşal páncélvadászról.

 【回答 válasz】
 第二次世界大戦中,ルーマニア陸軍が既存の車輌および対戦車砲を流用して開発した駆逐戦車.
 1942年12月開発開始.
 装甲厚は10mmから20mm程度と薄いものの,前面装甲板を急角度の傾斜装甲として,これにより防御力を稼いでいるのが特徴.
 車輌と砲の組み合わせの異なる試作車輌が複数存在するが,量産には至らず.
 戦後,マレシャルに関する一切合切をソ連が持ち去ってしまったという.

・M-00
 最初の試作車輌
 車体は鹵獲したソ連製のT-60
 砲は鹵獲したソ連製の122mm榴弾砲

・M-01
・M-02
・M-03
 増加試作車
 車体と砲の組み合わせは同上.

・M-04
・M-05
・M-06(未完成)
 増加試作車
 エンジンを120馬力を出すオチキスH39用エンジンに換装
 砲はルーマニア国産の75mm DT-UDR No.26対戦車砲(M1943対戦車砲)

 【参考ページ Referencia Oldal】
https://live.warthunder.com/post/668222/en/
http://www.worldwar2.ro/arme/?language=en&article=244
https://medium.com/history-of-yesterday/the-marshal-tank-destroyer-b3ee352ec9bb

1枚目:模型
(図No. faq200609mr,こちらより引用)

1~3枚目:試作車輌M-05
(図No. faq200319mr1~3, こちらおよびこちらより引用)

4枚目:M-05四面図
(図No. faq200319mr4,こちらより引用)

mixi, 2020.3.19


 【質問 kérdés】
 マレシャル駆逐戦車のヴァリエーションについて教えてください.
Kérem, mondja meg a Mares,al tankromboló változatairől.

 【回答 válasz】
  マレシャル駆逐戦車は試作車輌が6輌製造されただけだが,車体とエンジンとの組み合わせの違い等によるヴァリエーションが存在する.

M-00
 試作初号車.
 T-60の車体から砲塔を撤去し,車体を改修してソ連製の122mm榴弾砲および7.92mm軽機関銃を搭載.
 エンジンはフォードV8エンジン85馬力,操向変速機はフォード製,装甲厚は20mmから30mm.

M-01,M-02,M-03
 増加試作車輌.
 ベースの車体はルーマニア製のものとなり,エンジンに120馬力のビュイック,トランスミッションはオペル・ブリッツを使用.

M-04
 T-60の車体に,ルーマニア国産の75mm DT-UDR No.26対戦車砲(M1943対戦車砲)を搭載.
 搭載エンジンはオチキスH39用エンジン(120馬力)

M-05,M-06
 ルーマニア製の車体に,オチキス社製のエンジンとトランスミッション,ドイツ製の無線機と照準器,38(t)戦車から流用した走行装置と履帯を搭載.
 これが量産型の原型となったが,量産そのものは行われていない.

 その他,指揮車型,自走榴弾砲型,自走対空砲型,果てはドイツ側でマレシャルの量産型車体を使った自走対空砲型まで計画されたが,いずれも計画倒れに終わっている.

 【参考ページ Referencia Oldal】
https://live.warthunder.com/post/1015781/en/
https://www.rumaniamilitary.ro/vanatorul-de-tancuri-maresal
https://www.facebook.com/MaresalM05/

1枚目:製造中のM-00
(図No. faq220705mr,こちらより引用)

2枚目:M-04
(図No. faq220705mr2,こちらより引用)

3枚目:M-04 & M-05
(図No. faq220705mr3,こちらより引用)

2022.7.5


 【質問 kérdés】
 ルーマニア軍のM39ヘルメットについて教えてください.
Kérem, mondja meg Román M1939 sisakról.

 【回答 válasz】
 ルーマニア軍はフランス式のアドリアンM1915ヘルメットを更新するものとして,1939年にオランダからM34ヘルメットを628,000個輸入.
 これをM39と称した.

 このモデルは1938年にオランダのVerblifa工場で製造されたもので,緑色に塗装され,その前面にはルーマニア国王カロル2世の紋章が描かれていた.
 1940年にカロル2世が退位すると,紋章は削除されるように命じられ,退位後に生産されたヘルメット約80万個は紋章無しになった.
 しかし実際には紋章が削除されることは無かった.

 さらにその後,ドイツがオランダを占領すると,ドイツはルーマニア軍に対し,オランダ軍のM34や,それより古いM23/27ヘルメットを供給.
 これらのヘルメットの中には元のライナーの代わりに,ドイツ製のM31ライナーが付いている種類もある.

 【参考ページ Referencia Oldal】
https://en.wikipedia.org/wiki/Netherlands_M34
https://stalingradfront.com/articles/articles-about-ww2/axis-helmets/

https://www.youtube.com/watch?v=RAtIc-WGYRQ

mixi, 2022.7.27


目次へ

「WW2別館」トップ・ページへ

「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ   サイト・マップへ