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(画像掲示板より引用,原出典不明)


 【link】

『戦争は女の顔をしていない』(スヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチ著,群像社,2008.7)

 旧ソ連軍で,対独戦争に参加した女性兵士達への聞き書き.
 ソ連が未だ存在していた時代に記録を取り始めたが,一旦封印.
 その後,自由に発言出来るようになって,あの戦いに参戦した女性達が語り始めたのを記録したもの.

――――――眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板
 ソ連女兵士の証言集.
 一人分の証言が短いと感じるのが難点か.
 一人一人,もっと詳しく話を聞きたい人ばかり.
 女も前線勤務が当たり前.
 濃すぎる.すごすぎる・・・

 エロ・グロも満載.
 悲惨極まりない話も多いので,耐性や自信のない人は注意.
 全部読んでないけど,とりあえず名著認定しますた.

 最初の50ページくらいで心に残った話を.
軍医「あの士官はもう持たない.恐らく今夜が山だ・・・」
看護婦「何かしてあげられる事はありますか?」
士官「じゃぁチチ見せて」

 他には前線で両足切断,一命は取り留めるも戦後行方不明.
 かつての女戦友会で行方を探して,施設で発見.
 30年ぶりに母親と再会させる.
 ……って事は30年も家に帰られなかったわけで・・・

 あと補足.
 ドイツ兵の遺体が散乱している道を,馬車で物資を運ぶ.
 馬車の車輪がドイツ兵の頭蓋骨を踏み,骨を割って音が響く.
 その音を聞いて,女性兵士「とても嬉しかった」

 こ,こわっ・・・

――――――軍事板,2010/06/01(火)
 この本読んで,まじで凹んだ.
 名著だが,非常に後味の悪い本でもある.
 救いがないんだよね・・・
 耐性付いてる上級者向けの本かな.

 魔女飛行隊と一緒に読むと,ギャップあるだろうな.

――――――軍事板,2010/10/11(月)

 【質問】
 WW2のソ連軍についての入門書で,オススメはありますか?
 ドイツはどうでもいいので,ソビエト目線で詳細に解説しているもの,あと,日本語で読めて絶版でないものが良いです.

 【回答】
 入門用?

「どくそせん」イカロス出版
「ソヴィエト赤軍興亡史 I~III」学研
「詳解 独ソ戦全史」学研(M文庫版あり)
「図解・ソ連戦車軍団」並木書房

Lans ◆xHvvunznRc in 軍事板,2010/10/07(木)
青文字:加筆改修部分

 歴史群像アーカイブの『独ソ戦』は,値段とページ数の割りには纏まっている.
 モスクワ,レニングラード,クルスク,スターリングラードという4大会戦の全体像を,手っ取り早く知るには良い本.
 だけどやはり分量が足りないので,はしょり過ぎの面もある.
 例えばバグラチオン作戦は,記事本文ではなく3P程のコラムの扱い.
(この時はまだ,本誌に同作戦の記事が無かった)
 基本的に歴史群像本誌の記事集成なので,手薄な部分は有るし,著者によってバラつきあるけど,あの価格であの内容なら及第点かと.

軍事板,2010/10/07(木)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 もし赤軍大粛清が行われなかったら,ソ連軍はどんな感じになっていたでしょうか?

 【回答】
 赤軍大粛清前のソ連は,超攻撃重視主義で縦深突破作戦が基本ドクトリン.
 これは敵の全縦深を同時に破壊しつつ前進するもので,航空機・砲兵・装甲戦力による打撃と,歩兵による戦果拡張を試みる,当時としては画期的な戦術.
 諸科連合の先駆けの一つだ.
 後に電撃戦として有名になるドイツの装甲浸透戦術との最大の違いは,敵の強固な陣地をも即座に粉砕する事を目標にしている点.
 そのため大量の予備戦力が要求され,当然ながら歩兵も湯水のように消費する事前提だったが,だからといって歩兵主体のドクトリンでは決してない.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 パウル・カレルの『焦土作戦』読んでるんですが,ソ連側の軍集団を率いた司令官は,『焦土作戦』の中でも言及されてるんですけど,軍や軍団の指揮官やどういう人が配属されてたか,載ってる本が有れば教えてください.

 【回答】
 ソ連側の資料を元にした,独ソ戦についての本なら,学研M文庫から出てる「詳解独ソ戦全史」がある.
 ただ,ソ連赤軍の軍や軍団は膨大な数で,その編制や名称もめまぐるしく入れ替わってるので,その編制や指揮官を網羅した本はないと思った方がいい.
 そういうのに関しては,wikipediaの英語版などで調べた方が早い.

 あと,カレルの本はドイツ軍の蛮行について全くといっていいほど触れてないので,読み物としては楽しんでも史料としては額面通りに受け取らないこと.
(唯一触れている部分もロシア人のプロパガンダ的発言として)

 他にも
「赤軍記者グロースマン」
「攻防900日」
「モスクワ攻防1941」
「スターリングラード 運命の攻囲戦」
「出撃!魔女飛行隊」
などがあるし,
「ベルリン陥落1945」
にもソ連側の証言が含まれてる.

 戦車関係だと
『東部戦線の独ソ戦車戦エース』
http://www.amazon.co.jp/dp/4499229871
なんて言う本がある.
 ドイツ戦車はともかく,ソ連戦車のエースについて日本語で書かれた貴重な本だが,記録関係は独ソ両軍とも誇張気味(まあこれは大半の本でそうだが)な上に,著者はロシア人なのでソ連側にはやや甘い見解.

 ネットなら,以下のサイトに「私はT-34で戦った」の邦訳あり.
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/5870/tankist.html

 また,戦記ではないけど,「戦争は女の顔をしていない」は読んでおいたほうがいい.
 独ソ戦に様々な形で参加したソ連の女性たち(洗濯婦から戦闘機パイロットまで)の証言集だが,あの戦争がいかに凄まじいものだったかが伝わってくる労作.
 撃破された戦車から負傷兵を救出する,十代の少女だけで編成された部隊にいて,終戦までに生き残ったのは自分ともう一人だけでした――なんて話がポンポン出てくる.

 ついでにドイツ国防軍についてだけれど,
守谷純『国防軍潔白神話の生成』(錦正社)
に書かれているように,指揮官経験者の回顧録の多くが一定の,つまりソ連と対峙することになった西側世界と東西ドイツ国民向けの,プロパガンダ性を持って書かれている点に注意が必要.
 シュパイデル,ホイジンガー両将軍から始まった,元ドイツ軍人による戦記や回顧録は,まるでスポーツや創作物を読んでいるような錯覚を(あるいは創作そのもの)いだかせる.
 終戦のドサクサでドイツ側資料の多くは散逸し,戦後の西側世界ではこういった

元ドイツ軍人回顧録→それの英語訳→その他言語へ拡散

という,他の資料に拠らない無批判的な構造について書かれている.
 これがドイツ国防軍について批判的内容の書籍が,日本語では少ないことの一因となっている.
 国防軍とナチスとの関わりや支持者,「プロイセン的御恩と奉公」の記述は注目に値する.

 例えば,グデーリアンの大戦初期のヒトラーへの批判的態度が,大戦後半期には180度鞍替してあげく,あのグデーリアンをして,何故に軍事的非合理的な命令を下したかが書かれている.

軍事板,2010/01/18(月)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 WW2時,ソ連陸軍の編(何個師団あったかなど)はどのようになっていましたか?

 【回答】
 第二次大戦を通し,ソ連赤軍の兵力は大損害と再編成を繰り返して激しく増減しているので,いつの時点かによって異なる.
 師団数や「戦線」,「軍」などの編成単位についても同様に時期によっても大きく異なる.

 ちなみに
http://en.wikipedia.org/wiki/Operation_Barbarossa
にある独ソ戦開戦時のソ連兵力表によれば師団数は316.5個,陸海空を合わせた総兵員数は5,774,000名.

 『詳解独ソ戦全史』巻末の資料によれば,1941年第3四半期(41.7~41.9)の平均戦力は3,334,000名だが,この期間に2,744,675名の損失を出している.
 さらに戦争の推移につれて,戦力は次第に増大して行き,1945年には600万名を越えている.

 1944年夏にドイツ軍を事実上独ソ戦開始前の線まで押し戻した「バグラチオン作戦」では,主目標となったドイツ中央軍集団への攻撃に参加したソ連陸軍の参加兵力だけで,189個「師団」
(当時のソ連軍の呼称では「軍団」だが,実質的には小型の師団規模)
もあった.

 師団についても,たとえば戦車部隊は開戦当初に存在した戦車師団は,その後解体されて戦車軍団や機械化軍団に改変されている.
 狙撃兵(歩兵)師団についても,開戦時には定数を大きく下回る充足率だったし,大戦中盤から新設された親衛軍や突撃軍に属しているか否かで,装備や兵員の充足率も大きく異なっている.

 よって,もっと内容を限定して再質問のこと.

軍事板,2007/09/23(日)


 【質問】
 第二次大戦中のソ連軍の歩兵師団の構成ってどんな感じだったか教えてくださいまし

 【回答】
 ソ連軍は三単位編成を取ろうとしていましたが,それまでは四単位編成を取っていました.
 このため,数的には19,000名で編成されていました.
 三単位編成を取り入れたのは,1941年4月からでこの時の定員は14,483名になります.
 しかし,再編成完了前に,独ソ戦が勃発.独ソ戦初期の人的損害の大きさから,1942~43年頃には10,000名前後になってしまっています.
 これが,19,000名に戻るのは大戦末期になります.

 ソ連の1941年4月現在の歩兵師団(狙撃兵師団と一般には呼ばれていました)の編成は,3個狙撃兵連隊と2個砲兵連隊,1個対戦車大隊,1個対空大隊になっていました.
 しかし多大な人的損害の結果,そう言った編成を取らず,3個狙撃兵連隊はそのままで,1個砲兵連隊,1個対戦車大隊,1個偵察中隊,1個工兵中隊,1個通信中隊とした編成になっていました.

 狙撃兵連隊は,連隊本部の下に3個大隊の狙撃兵大隊があり,支援中隊として,対戦車砲中隊,対戦車ライフル中隊,榴弾砲中隊,迫撃砲中隊がありました.
 この連隊の編成定数は,2,474名と他国よりも少ないですが,これは補給部門を軽視していたからと言えます.

 狙撃兵大隊は4個中隊で編成され,3個中隊が狙撃兵,1個中隊は,支援のための迫撃砲,機関銃中隊でした.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2006/04/28(金)
Álmos ember ◆gQikaJHtf2 : "2 csatornás" katonai BBS, 2006/04/28 (péntek)

青文字:加筆改修部分
Kék karaktert: retusált vagy átalakított rész


 【質問】
「WW2中のソ連軍は戦闘に勝っても人的損害は常に敗北側より大きかった」
という話をよく聞くのですが,冬戦争から満州侵攻までこんな感じだったのでしょうか?
 だとすると,なぜこのような事になったのでしょうか?

 【回答】
 人間だけは余っていた(と思っていた)のと,
「無謀な行動をすること=勇敢なこと」と
いう意識が将兵を監視する政治将校に蔓延してたので,
「とりあえず人海戦術」
という行動を取り(取らせ)がちだったから.

 特に独ソ戦の開戦当初は戦争体制が整っていなかったため,装備も物資も不足していて,人間の頭数くらいしか優越してるものがなかった.
 まず,戦争前の粛清によって,多くの優秀な将校を失っていたため(師団長レベルで60%,全将校の2~30%が対象),指揮官の能力に問題があり,それが損失を増大させた.
 冬戦争ではフィンランドが頑強に抵抗したこと,特に要塞に篭るフィンランド側に対し,攻撃を仕掛けるソ連側に大きな損害が出たが,当然の帰結.

 独ソ戦に関していえば,緒戦で錬度の高い部隊を喪失したため.
 錬度の低い兵隊で勝利するためには,損害は気にしない・いくらやられようとも圧倒的な数で押しつぶすという方法しか取れなかった.
 また,上述のように優秀な将校がおらず,ドイツほど効率的な戦闘ができなかった.
 あとは,味方への誤射を計算に入れた大量の直接集中援護射撃なども要因のひとつ.

 1943年のクルスク戦で戦争の勝敗が決した以降は,ドイツ側の人材が払底していくのに対して,ソ連側は生き残り経験を積んだ将兵を増えていき,また,米英の援助物資が揃ってきたこともあって,作戦も比較的マトモになり,「とにかく突撃しろ」的な無謀な戦争はしなくなる.

 後半は連続した攻勢が続いていたのと,防御側が常に有利というのがある.
 逆に言うとドイツ軍の場合は全軍消滅や降伏が多くなる.

 ちなみに満州侵攻では,関東軍主力は引き抜かれてボロボロだった上に首脳陣がさっさと逃亡したこともあり,一部を除けば日本軍の抵抗は微々たるもので,
「味方部隊の前進が早すぎて味方を巻き添えにするから,砲兵支援や前線航空支援はしなくていい」
なんて要望が出たほど.

 なお,政治将校常時存在した訳ではなく,'41年の開戦直後の一時期や'43年以降は廃止されてるし,仕事の内容も部隊内の党細胞構成員としての政治宣伝だけでなく,人事管理や福利厚生的な役割も果たしていた.
 「政治将校が突撃させたから」,というのは一種のイメージに過ぎない.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ソビエトの質問です.
 独ソ戦初期の,人手不足で田舎野郎を強制徴募してそのまま前線に送っていたというパターンでは,具体的にどの程度の訓練・教育期間を設けて,兵士として形作っていたのでしょうか?
 軍服着せてスターリングラード行きの列車に詰め込むだけですか?

 【回答】
 ソ連では初等学校から,徴兵前訓練の授業がありました.
初等学校(1~4学年):赤軍の歴史,ガスマスク着用法,斥候・クロスカントリー・伝令ゲーム等の体育
中等学校(5~7学年):赤軍・ソ連の歴史,射撃・戦術的教練,ガス防護訓練,各種部隊に付いての知識習得
中等学校(8~10学年):赤軍規則の習得,軍事訓練

 ブートキャンプみたいな専用の場所は無く,新兵教育は配属先の部隊で行われます.
 3段階の訓練を1年(大戦中は3ヶ月に短縮)
第1期訓練:戦闘・政治・体育・行政の各訓練,衛生・獣医学
第2期訓練:1期の物+歩哨勤務,戦術訓練,野外訓練,小歩兵部隊の戦術訓練
上級訓練:中・大・連隊の戦闘訓練,政治教練,一般教育,規律教育,政治活動への参加

 志願者から選抜されれば下士官教練へ.

 こうした徴兵前訓練があるので,切羽詰って新兵を速戦場に放り込んでも,何も知らないと言う訳ではなかったような.

軍事板,2010/08/02(月)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 第二次大戦中のソ連軍海軍歩兵とアメリカ海兵隊とは,性質的には同じものなのですか?

 【回答】
 違う.
 基本的にソビエトの海軍歩兵は「海軍の施設を守る」為の人達.
 もちろん上陸作戦もするけど,部隊の設立性質としては日本海軍の陸戦隊と同じく,「海軍のために陸で戦う」兵科.

 ただ,第二次大戦では海軍の艦艇部隊は緒戦でほとんど全滅したので,「水兵」だった人たちが大量に「海軍歩兵」となり,陸軍の穴埋め戦力に使われたりもしている.
 第二次大戦だとセバストポリ要塞を守ってたのが有名だが,上陸作戦も行なっている.

軍事板

ロシア海軍歩兵設立300周年記念本『大祖国戦争の海軍歩兵』より
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CRS@空挺軍 in mixi,2008年03月30日18:22


 【質問】
 独ソ戦でソ連軍が上陸作戦を実施したことはありますか?

 【回答】
 ある.

 オデッサの包囲戦では包囲側の背後に連隊規模の逆上陸(というのかな?)作戦を実行して,ルーマニア軍の包囲を突破したりしている.
 ちなみにこの時の指揮官が,後のゴルシコフ元帥(当時は大佐).

 また,1943年2月には,ノヴォロシスク近郊オセレイカへの上陸作戦が行われている.
 この上陸自体は失敗したが,その陽動作戦として行われた,ノヴォロシスク近郊スタニチュカ上陸のほうが成功し,ソ連軍は橋頭堡を築くことに成功する.
 それから7ヶ月に渡り,独ソ両軍はこの橋頭堡を巡る攻防戦を行うことになったが,同年9月,ドイツ南方軍集団の前面撤退により,タマン半島からもドイツ軍は撤退した.

軍事板
青文字:加筆部分

▼ 第二次世界大戦時の海軍歩兵による上陸作戦は114回.
 その殆どが小隊や中隊規模クラスで,ボートや小型蒸気船を使った襲撃.
 数千という大規模で行われたものは僅かに4回.
 その内わけは
2回はケルチ半島で,
1回は黒海沿岸のノボロシスク
最後はバルト海のムーン・サウンドへのものだけ.

 第二次世界大戦の海軍歩兵は,絶望的と言える兵員不足を補うために,艦隊から乗員を引き抜き上陸作戦部隊に再編成したものである.
 そのため,上陸作戦のための特別な訓練を受けていない.
 もっぱら一般の歩兵同様に扱われた.

 しかしそんな境遇でも,海軍歩兵は名だたる活躍を見せており,戦史にも影響を与えております.
 かのマルゲロフ大佐(当時)も感激しています.

 船員の引き抜きが殆どを占めていましたが,志願すれば機関係でも海軍歩兵に入ることが許されていました.
 その場合は海軍義勇兵としての立場になりますが,大した差はないので一緒にすることもあったようです.

CRS@空挺軍 in mixi,2007年06月11日22:11

ロシア海軍歩兵設立300周年記念本『大祖国戦争の海軍歩兵』より
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CRS@空挺軍 in mixi,2008年03月30日18:22


 【質問】
 ツェーザリ・クニコフ少佐とは?

 【回答】
「ソヴィエト・ロシア軍歌集積所」:黒海の隼
の歌詞の中に登場するツェーザリ・クニコフ Цезарь Куников 少佐はこんな方です
http://www.warheroes.ru/hero/hero.asp?Hero_id=258

 1909/6/23,ロストフ生まれ.
 ユダヤ系.
 1928年,フルンゼ海軍大学入学したが,重病のために退学し,艦隊勤務となった.
 1930年にモスクワに戻って,エンジニアとなった.
 労働英雄.
 1941年6月に大祖国戦争のため海軍に戻り,Azov小艦隊へ.
 Rostovやkerch'の攻防に参加.
 1932年,黒海艦隊Novorossisk基地の守備隊へ.
 1942/2/3から4日にかけての深夜,Novorossisk市の一角,Ozereyskoyへの上陸作戦に従軍.
 上陸後,橋頭堡にて頑強に抵抗したが,2/14戦死.
(なお,機械翻訳に基づいているので,誤りがあったら指摘されたし)


 ロシア海軍歩兵設立300周年記念本『大祖国戦争の海軍歩兵』にも確認できました.
 上記のHPを見ていてもかなりの功績を残したようですが,上陸作戦中に戦死しました.
 死後ソ連連邦英雄を受賞,プロジェクト775大型揚陸艦の艦名に採用されることになったことからも,彼の業績がわかるというものでしょう.

CRS@空挺軍 in mixi,2008年06月24日19:43
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 wikiにあるマルゲロフ将軍の項目では,
>戦時中,スターリンから12枚の感状を受け取り
とあるが,本当か?

 【回答】
Сталинские благодарности
http://margelov.com/rewards_1.htm

 ちゃんと最高司令官スターリンと書かれており,12項目ありました.

 しかし諸外国から勲章貰いすぎてワラタ.
 服が傷むのが早くて危なそうなんですけど,大丈夫なのかね?

CRS@空挺軍 in mixi,2008年08月26日22:51


 【質問】
 入門書にと読んだ山崎雅弘氏の『独ソ戦戦史』で,1941年のソヴィエトの冬季大反で,騎馬部隊が投入された,とありますが,WW2での騎馬部隊はどのように運用されていたのでしょうか?

 【回答】
 耐久力が低いために,正面からの突撃では容易に銃火でなぎ倒されてしまうため,敵の抵抗が微弱で,かつ戦車等が通ることのできない湿地・雪原を通じて後方への浸透する・・・という用法をされていたようです.

 コルスン包囲戦時,ドイツ側の警戒がそちらに向かったのを利用して,プリピャチ沼沢地南方を第一・第六親衛騎兵軍団が前進,ロブノ・ルーツクを奪取するなどしており,全く活躍がないということはないです.

 ただ,モスクワ戦の最中,第44モンゴル騎兵軍団が独第106歩兵師団に対し,クリン南西の平原で正面からの突撃を行い,2000人余りが死傷したとされた,という何ともしょうもない運用もされております.
(独軍の損害は無かったそうな)

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
「銃は二人で一丁 後ろから督戦隊が機銃掃射」
というのが独ソ戦におけるソ連軍のステロタイプとしてありますが,これらは本当に行われたのでしょうか?
 前者については,徴集兵の急激な増加に対して補給が追いつかないという状況は理論上十分ありえますし,後者も国防人民委員令227号の内容から考えれば起こり得ると思うのですが,映画(米版スターリングラード)やゲーム(Call of Duty)で有名な割には,実際に行われた記録としては目にしたことが無いので気になりました.

 【回答】
http://en.wikipedia.org/wiki/Barrier_troops
に,英語だけど革命後の内戦期と独ソ戦時に赤軍で編成された阻止部隊についての記事がある.
 これによれば阻止部隊は師団ごとに編成され,NKVDの指揮下に置かれた.
 1941年10月現在で657,364名の兵士の無断後退と脱走を阻止.
 うち27,878名を逮捕し10,201名を銃殺したとある.
 ただしこの銃殺は戦場で行ったのか,逮捕後に行ったのかは書かれていない.

 あと,ここ
http://www.geocities.jp/putniki/Newspapers/rusrefelence.htm
に当時,従軍していた人物の証言がある.

――――――
『ドイツ軍が進撃し,我々が対峙していた時の事だった.
 進撃が始まった時は恐怖に包まれた.
 そして18歳ぐらいの若者が飛び出てきて,走り出した.
 彼を止めて,押し倒すだけで十分であり,5分もすれば彼は正気に戻った事だろう.
 彼は無意識に動いたのであり,自分のしていることがわからなかったのだ.
 しかし中隊長は,その場で直ちに背中へ銃撃した.』
――――――
――――――
 私が戦場へやって来た時,そこでは大隊の政治将校が次のような訓令を与えていました.
 貴官が『突撃』と言った時に,配下の兵が立ち上がらないのなら,最初に目に入った者を自分で銃撃せよ,銃撃すれば,彼らは直ちに立ち上がるものだと言うのです."
――――――

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 『黒騎士物語』で,時々セリフに出てくる「魔女のばあさん」って誰ですか?
 誰でもない単なる慣用表現?

 【回答】
 スラヴ系民話に出てくるババ・ヤガーという魔女のババーやがな.

軍事板

 魔女の婆サン(Баба Яга:バーバ・ヤガー)といえば,素で面白い絵.

 箒は掃く物であって飛ぶための物じゃない.臼で飛ぶ.

JSF in 「軍事板常見問題 mixi支隊」
青文字:加筆改修部分

 速水螺旋人氏の最近のコラムに出ていたが,ロシアには「魔女のばあさん」云々という罵言や呪いの言葉はないそうだ.
 つまりあれは架空のもの.

 ついでにドイツ兵のことも「ファシスト」「ネーメツ(ロシア語で「異邦人orドイツ人」)」と呼び,ゲルマンスキーとは言わない.

軍事板
青文字:加筆改修部分

 一方,一等自営業氏はかつて,『Simulater』誌でのインタビューで,
「戦況が不利になると,そういうセリフが出てきた」
旨,述べている.

 どちらが正しいのか判断するには,現時点では情報不足.

バーバ・ヤガー
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 元祖魔女の婆さんをウィキから引用

 なんか今の日本なら,速攻で萌えキャラ化されそうでやばい(笑)
 とか言ってるうち……

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ゆずこせう in 「軍事板常見問題 mixi別館」,2010年02月08日 10:12
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 WW2のソ連兵の強姦話をよく聞きますが(ベルリンや満州など),なぜそんなにレイプ好きだったんでしょう?
 酷い話をよく聞く割には,ベトナムみたいな残留孤児の話は殆ど聞かないし・・・

 【回答】
 人間,「悪事を働いても罪にならないし誰も咎めない」と思うと,タガが外れる.
 こう言うと異論反論が沢山来るだろうが,「女を犯りたい」ってのは,男の本能みたいなもんなので.
 生物学的な意味での「本能」とは違うものだろうが.

 で,ドイツはソビエトに攻め込んで悪虐の限りを尽くした――少なくともソビエト兵は皆そう思ってた――ので,「仕返し」の意識も大きい.
 ソビエト政府自身がそれを宣伝放送等で「正当な復讐」だと煽ってたので,ドイツ領内に入ると忠実?にそれが実行された.

 ソビエト軍の名誉のために一応書いとくと,全てのソビエト将兵が暴行略奪行為に熱中してたわけじゃないし,部下の蛮行を(時には実力で)止めた人もいるし,
「こんな事をするのは共産主義の恥だ」
と嘆いてた人もいっぱいいる.

 戦後の一時,東ドイツやベルリンでは妊娠中絶件数が異様に多かったという話も一応あるよ.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 第二次世界大戦時,ドイツのバルバロッサ作戦開始前にコミッサール命令というのが発令されたらしいのですが,内容はソ連の政治将校は捕虜に取らないというので合ってますでしょうか?
 また上の事が合っているならば
1,捕虜になった部隊からドイツ軍は政治将校を簡単に見つける事が出来たのでしょうか?
2,政治将校の居た部隊の普通の将兵は捕虜として扱われるのでしょうか?

 【回答】
http://www.clas.ufl.edu/users/ggiles/barbaros.html
の一番下にコミッサール命令(The Commissar Order)の英訳全文が載ってる.

 処刑せよとは明記してないが,
"as a matter of routine to be dispatched by firearms. "
"they are to be finished off. "
と,処刑を示唆する命令になっている.

 1,についてはこの命令に
「バッジで識別できる(recognizable from their special badge)」
とある.
 投降時に政治委員はしばしば,バッジや階級章をはずして身分を隠そうとしたが,部下だった兵士に密告されることもまたしばしばあった.
 2,政治将校(ポリトルグ)より下のザムポリトと呼ばれる政治思想担当の将校は,中隊レベルまで配属されていた.
 逆に言えばそういう将校のいなかった部隊はない.
 これらの政治将校は命令により,速やかに部隊から分離することになっていた.

軍事板
青文字:加筆改修部分


          ◆◆◆◆空挺軍

 【質問】
 独ソ開戦前の空挺軍について教えて.

 【回答】
 ソ連軍は1920年代~30年代にかけては空挺部隊と強襲着陸の先駆けであった.

 1935年のウクライナ軍管区キエフ近郊での演習には,多くの外国観戦者が招かれ,その眼前で降下した2500名の空挺部隊は一躍世界の注目の的になった.
 36年にもモスクワ郊外で兵員12000名が空挺降下演習を行っている.

 1939年,第212空挺旅団は極東に配備.
 空軍所属でしたが,歩兵として日本軍とノモンハンで交戦.
 その年,ポーランド侵攻では第201・204・214空挺旅団が投入されましたが,こちらも歩兵としての扱いで,空挺部隊としての活躍は見られず.

 ソ連空挺部隊が初めて戦闘に参戦したのは1929年.
 中央アジアでのイスラーム教徒の反乱軍に対して小規模の分遣隊が降下.
 本格的な戦闘は,1939年11月のフィンランド・ペッツアモ付近での降下作戦であったが,あまり成功したという作戦ではなかった.
 後にマンネルハイム戦線で行われた空挺降下も同様.
 正規の赤軍兵の活躍が芳しくなかったので,空挺旅団3個も歩兵としてフィンランド戦線に投入された.
 1940年には第201・204空挺旅団がルーマニア・ベッサラビア占領作戦に投入.

 一連の戦闘実績を評価したソ連軍は,1940年末に空挺旅団を6個まで拡大する.
 フランス戦線でのドイツ軍空挺部隊の成功を評価し,極東の一個旅団はそのままに,ヨーロッパ配備の5個空挺旅団を5個空挺軍に拡大した.
 この空挺軍は3個旅団からなりたっていたが,西側から見れば師団規模に相当する.

CRS@空挺軍 in mixi,2007年11月22日20:09

▼ ソヴィエト赤軍・空中艦隊 (1935年)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3411887
 1935年当時のソ連軍の降下シーン
 優れているとはいえない降下方式である,
 まぁ,これしか無かったのだが・・・

 1936年9月24日 ソ連軍はモスクワ郊外にて兵員12000名を動員した展示降下演習を開始.
 この演習では大規模降下もさることながら,爆撃機の車輪の間に吊るされた軽トラック,3tトラック,軽装甲車および軽火砲が地上に安全にパラシュートで投下されたり.
 またこの当時のソ連軍は,単機または縦列でグライダーを曳航する実験を進めていたらしい.

 この展示降下演習を観戦していた外国侍従武官や招待客の中には,空挺部隊の迅速展開能力に感銘を受けた人物がいた.

 イギリスのウェイヴェル将軍は,ソ連軍による降下演習を見て感銘を受けたが,空挺部隊に将来の発展性があるとは考えなかった.

 しかし,後に「降下猟兵の父」と言われるようになった,ドイツのクルト・アルトゥール・ベンノ・シュトゥデントは,その将来性に非常に興味を抱いたのであった.

CRS@空挺軍 in mixi, 2009年01月23日20:58

小冊子「国際パンフレット通信 ソ聯邦のパラシュート戰術」

 これは1936年にタイムス通信社が発行したもので,当時世界最先端を行っていた赤軍の空挺部隊の状況や,パラシュート降下のスポーツ振興について記述しており,なかなか興味をそそられる内容があります.
 マネトケさんには誠に多謝!

 上の写真には婦人パラシューターが載っていますが,既に背中の主傘とは別に腹には予備傘が装備されていて,空挺技術もなかなか進んでいた事が伺えます.

 でもどうしてそんな軍隊が,大戦中は落下傘無しの雪中降下をやらかして犠牲者続出の体たらくになってしまったのか…謎(^^;

 私も初めて知りましたが,「国際パンフレット通信」はおそらく一般書店売りでは無く,新聞社や出版社,会社法人や大学などの研究機関に向けた会員制の会報誌の様で,月に6回9册が発行と奥付にありました.
 1ヶ月なら2円,1年で20円の購読料だった様です.

 前に見つけた「偕行社記事」もそうですが,まだまだこういった知られざる資料が在る様ですね.

よしぞう(maro') in mixi,2007年02月25日00:06
&2007年02月25日 20:01


 【質問】
 トハチェフスキーの空挺部隊構想は,どんなものだったのか?

 【回答】
 1920年代頃にはトハチェフスキーは,空地にわたる諸兵連合を目指す空挺理論を構想していた.
 1929年にレニングラード軍管区司令官になった彼は,1930年には初めてパラシュートの生産の開始しており,1931年の空挺演習には,爆撃機12機,他10機を持って小型戦車(T27)2輌,76㎜砲2門の重装備を含む先遣隊を降下させた.
 これら「攻撃における空挺部隊の行動」を部隊実験し,各種の問題点を改善し続け,1935年のキエフ大演習,1936年の白ロシア機動演習も成功させている.

 また,トハチェフスキーは戦術教義の研究と同時に,空挺戦車までも構想している.
 彼によれば空挺部隊は,「縦深戦略理論」(「赤軍野外教令」)の最終段階,つまり逃走を図る敵部隊の退路遮断を目的にしており,そのためには空挺部隊は機動力と打撃力を併せ持たなければ,退路遮断は難しいだろうと推測できる,そのために空挺戦車という概念を考え空挺部隊の補佐的役割を考えていたのかもしれない.
 あくまでも空挺戦車は,空挺部隊の機動力と火力を補佐するものであり,本命は敵陣地を突破してくる戦車部隊である.
 空挺部隊が強力であればあればこそ,敵を食い止めることができ,本隊も敵に追いつくことが可能になる.

 しかし,彼の目指した「空挺部隊構想」や「赤軍野外教令」は,スターリンの粛清によって潰えることになるが,完全には消滅してはおらず「赤軍野外教令」は生き続け,その理論や人材はソ連に大きな功績を残したとも言える.
 その後大祖国戦争初期では,空挺部隊は無理強いな扱いを強いられたが,1945年8月,満州侵攻作戦においては空挺部隊がハルビン・吉林・旅順に降下し,日本軍守備隊の行動を麻痺させていることに成功している.

 伝説の空挺司令官として名高いマルゲロフ将軍も恐らくは,トハチェフスキーの思想をなんらかの形で影響を受けているのかもしれない.
 というのも空挺戦車を構想していたのは,マルゲロフ将軍も同じだからである.

 空挺部隊という概念を考え付き,基礎を固めたトハチェフスキー.
 その理念を受け継ぎ,さらなる発展を成し遂げたマルゲロフ.

 彼らがいなければ,今日におけるソ連/ロシア空挺軍は存在していなかったかもしれない.

<参考文献>
『機甲戦の理論と歴史』(葛原和三著,芙蓉書房出版,2009.6)

CRS@空挺軍 in mixi,次の日記へ>>2009年07月25日22:11


 【質問】
 独ソ戦勃発したさいの空挺軍は?

 【回答】
 装備は揃っていない・輸送機もない状態なので,戦争の大部分を歩兵として戦った.
 モスクワ防衛のために空挺降下作戦も実施されたが,散々な結果に終わる.

 1941年6月に独ソ戦が勃発したさい,これらの部隊は編成途上であり,装備は不十分であった.
 一例を挙げれば,全15個旅団のうち一つも,兵員降下に必要な120機のTB-3/輸送機を備えていなかった.
 実際に空挺軍が使用可能なTB-3の数が,200機を越えたことは一度も無い.
 不運なことに僅かなTB-3は,1941年6月のドイツ空軍のソ連飛行場に対する攻撃及び戦闘で,殆どが失われた.
 空挺軍が保有できたTB-3はわずか25機足らず.
 その後なんとか,民間から調達に成功したアエロフロートのPS-84を50機入手.
 しかしこのPS-84は,フル装備の空挺隊員をたった20人しか輸送できなかった.
 空輸能力の絶望的な不足から,空挺軍は大祖国戦争の殆どを赤軍配下の歩兵として戦うことになる.

 しかしそんな中でも空挺降下作戦は行われた.
 1941年9月には不思議なことに,空挺軍は10個軍団に拡大.
 1942年8月には独立2個グライダー強襲連隊が加えられた.
 1942年初冬には,第201空挺旅団は1月2日から~3日にかけての夜半,メディジン近くでドイツ軍戦線背後に降下.
 しかし悪天候のため,計画された後続部隊の着陸が行えず,部隊はブリザードの中を後退した.
 同旅団は1月18日に,ヒヤズマ近くに再び降下.
 2月14日~22日にかけて第204空挺旅団が,孤立した陸軍部隊救援のために,ルジェフ付近に空挺降下.

 もっとも野心的な空挺作戦は,第4空挺軍団全てをヒヤズマ付近のドイツ軍背後に降下されるというものであった.
 この作戦に必要な航空機は,大型輸送航空機が500~600近くであったが,空挺軍に与えられたのは,オンボロのTB-3が22機とアエロフロートのPS-84が40機だけ.
 このため航空輸送連隊の輸送機が,毎晩2回~3回出動する事態に.
 これが一週間続けられて,1月27日~2月2日までの間に,冬の凄まじい天候のもとにに約2100名の空挺隊員が降下したが,作戦は完全な失敗に終わり,生存者は近くの騎兵部隊に救助された.

 その後も第4空挺軍団は2月末にも,ユノノフに対する反抗作戦を支援するため,ドイツ軍の背後に空挺降下したが,またもや支援の輸送機が手に入らず,ローテーション輸送をおこなった.
 また,厳しい悪天候の元で空挺降下を行ったので,軍団はひどく散らばってしまい,孤立しパルチザンとして戦闘を続行した,
 しかし6月になると,あちこちでドイツ軍の戦線を破ることに成功する.
 当初3日間の作戦が5ヶ月近くに及ぶ長期作戦となってしまった.

 空挺軍の勇敢なる戦いぶりを賞賛し,ソ連軍指導部は1942年に,空挺軍団を親衛狙撃師団へ改称,都市への防衛に参戦させた.
 有名なスターリングラードでも彼らは奮戦した.
 その後,所属は空軍に戻り,親衛空挺軍団として再編成された.
 1943年には新たに6個師団が増設されたが,彼らは赤軍配下の精鋭歩兵部隊として留まった.

CRS@空挺軍 in mixi,2007年11月22日20:09

 【関連リンク】
67-я годовщина начала Вяземской воздушно-десантной операции
 ヴィヤジマ(ヒヤズマ)空挺作戦67周年


 【質問】
 カネフ空挺作戦について教えてください.

 【回答】
 ドニエプル河の橋頭堡の確保に成功したソ連軍は着々とその規模を拡大させた.
 この橋頭堡の中でも最大規模だったのが,キエフ南西にあるブクリン橋頭堡である.
 ドイツ南方軍集団は,この忌々しいブクリン橋頭堡を叩き潰すべく,その南方のカネフで渡河を目指す第24軍集団に,渡河後の北上を命じた.
 ソ連軍はこのブクリン橋頭堡を守るべく,大規模降下作戦を計画した.
 第1・3・5の各親衛空挺旅団の総兵員一万人をカネフ近郊に空挺降下させ,ブクリン橋頭堡の拡大と第24軍集団の退路遮断を目論んだが,ドイツ軍第24軍集団が先に渡河してしまい,北上を開始したのであった.
 この重大な情報が伝わらずに空挺降下作戦が開始された.
 結局北上してきた第24軍集団の3個師団に捕捉され壊滅.
 これまた大失敗.

CRS@空挺軍 in mixi,2007年11月22日20:09


 【質問】
 空挺軍が第二次世界大戦で学んだ教訓は?

 【回答】
 輸送機の問題や火力不足をはっきりと認識した.

 結局,ソ連軍で成功した空挺作戦は,1945年の海軍歩兵によるクリミアでの小規模なモノと,1945年8月,4千人以上の空挺兵による,満州の日本軍に対してのものであった.

 一連の作戦を見ると空軍に属しながらも,輸送機の不足に悩まされ続け,失敗が予想される作戦を実施しなければならなかったのが失敗の大きな要因であり,輸送機の問題は彼らの脅迫概念となったのである.

 戦後の1946年,空挺軍は空軍から分離され国防省直轄の戦略予備軍へ格下げ.
 空挺軍にとってその10年間は低調な時代であり不遇であった.

 この間に空挺部隊のあり方について徹底的な討論と,WW2の各国空挺作戦について検討されたソ連軍では,空挺作戦に対するほかの軍種からの評価は芳しくなかったのである.

 ソ連軍では
「1940年にドイツが行ったオランダ・ベルギーでの作戦を除き,WW2の空挺作戦は失敗に終り,決定的な役割を果たすことが出来なかった」
という結論であった,
 また,酷く弱体化したり士気の低下した敵に対してのみ空挺部隊は戦術的成功を収めており,装備の優れた敵に対しては,例を挙げればアルンヘムでドイツ機甲部隊と遭遇したイギリス空挺部隊のように,普通は火力不足から悲惨な敗北に終わっていることが判明した.

 しかしそれでも,空挺部隊が正規の機械化部隊の支援を得て敵の後方で大混乱を引き起こすことができるという,重要な能力は否定されなかった.

 その結果,空挺軍の存続が決定され,WW2で問題になった輸送能力と火力の問題を解決する努力が開始されたのである.

CRS@空挺軍 in mixi,2007年11月22日20:09

問題を熱心に討議する空挺軍
(一部うそ)


 【質問】
 「雪が積もってるから大丈夫!」とか何とか言って,ソ連軍がパラシュート部隊に,落下傘なし降下させたことがある,というのは本当?

 【回答】
 本当です.
 この話は,高橋慶史著『ラスト・オブ・カンプフグルッペ 続』(大日本絵画)で,詳細が判明しました.
 これは1942年2月のモスクワ南西200kmのユーフノフ付近でのソ連軍降下兵の話.
 湿地帯の雪の上に高度約10mで低空飛行した輸送機から約千人の降下兵が飛び降りて,半数が骨折もしくは負傷.
 残りの兵士も湿地帯で動きが取れず,作戦は失敗したとの事です.

名無し軍曹◆Sgt/Z4fqbE,2005/05/13(金)
青文字:加筆改修部分

 上記についてですが,『ラスト・オブ・カンプフグルッペ 続』の当該箇所は,出典が
Georg Gunter 「Die deutschen Skijager "Von den Anfangen bis 1945"」
となっています.
 が,「Die deutschen~」は1993年より古い版が見つからず,
「Achtung Fallschirmjager. "Eine Idee bricht sich Bahn"」
Alkmar von Hove 1954
の中に同じ表記があるようなので,そちらが「Die deutschen~」の元ネタと思われます.
 しかし,「Achtung~」が何を出典としているのかは分かりませんでした.

 試しに英語で,パラシュートなしの降下について検索してみたところ,
Steven Zaloga 「Inside the Blue Berets: A Combat History of Soviet and Russian Airborne Forces」
Presidio Press, 1995
に,
「1942年2月から3月にかけてヴィヤジマ方面で包囲されている赤軍部隊に対して行われた第4空挺軍団第204空挺旅団の空挺作戦(空中補給)において,若干名(Some troops)は低速で地面すれすれを飛行するU-2(Po-2)偵察機から雪溜まりの中へ飛び降りた」
という表記があるそうです.
 ただし,これもザロガ御大がなにを一次資料としているのかは分かりませんでした.

 なお,英語圏ではこの件に関して,
「1939年11月30日,ソビエトはソ・フィン国境紛争でペッツァモに世界初の空挺作戦を行った.
 その際,一部の兵士はパラシュートなしで雪の中へ飛び降りた」
というエピソードが頻繁に登場しますが,出典は不明なようです.
(「世界初の空挺作戦」というあたりがソビエト発のネタであることを感じさせますが……)
 英語圏では「パラシュートなしの降下作戦」は1950年代から聞かれるようになった話で,70年代には
「兵士は麦わらをクッションにした木枠に詰められ,爆撃機から雪の中へ落とされた」
というバージョンもあったそうです(笑).

 肝心のロシア語でパラシュートなしの降下について検索してみると,
「Воздушные десанты Второй мировой войны」(第二次大戦の空挺作戦)
という本の中に
「グロホフスキー(Гроховский)は低空からのパラシュートなしでの降下について研究していたが,実際のパラシュートなしでの降下試験において大きな死傷者を出し,逮捕された」
という記述があるそうです.
 この本は既出の「Achtung Fallschirmjager. "Eine Idee bricht sich Bahn"」と,
海軍落下傘部隊 :山辺 雅男 1956
Airborne Warfare :ジェームズ・ギャビン 1947
の三冊をまとめたものらしいです.
 しかし,このグロホフスキーの話がギャビンの本に出てくるなら,英語圏でもっとメジャーな(検索に引っかかる)はずですし,「海軍落下傘部隊」にこんな話が出てくるはずもなく,「Achtung~」に上記のエピソードが載っているという情報は見つけられず,どこからこの話が出てきたのかは不明です.
 また,Гроховский はおそらく実在するПавел Игнатьевич Гроховский将軍のことで,将軍はГ-26,Г-31などのグライダーを設計した空挺降下の専門家でレーニン勲章も受賞していますが,1942年11月5日に突如逮捕され1946年10月2日に獄死しています.
 逮捕の理由は,探したんですが見つかりませんでした.
 「パラシュートなしの降下で死傷者を出した責任で」というには,少々時期が合わない気がします.

 なお,「Achtung~」は単独でロシア語版が出ていますが,そちらの版ではユーフノフの第4空挺軍団降下の話の直前に,空中補給について
「ソビエトは1930年代,”グロホフスキー・カセット”というモジュールを用いて低空での投下実験を行っていたが,実戦で使用されたことはない」
という訳註がついているそうですが,”グロホフスキー・カセット”は本来,主翼の下に兵士を収容するコンポーネントのことを言っているのだと思われます.
(「木枠で爆撃機から投下される兵士」の元ネタか)
参考:
http://www.e-reading.link/chapter.php/1008293/51/Maslov_-_Korol_istrebiteley._Boevye_samolety_Polikarpova.html

 一次資料と言えるものは,ドイツ側の記録の中に見つけました.

 1941年から42年にかけてユーフノフ-ヴィヤジマ間を防衛していた歩兵第260師団についてのサイト
http://www.hoernledivision.de/
で,歩兵第260師団第480連隊第2大隊隊長,ヘルムート・ガウディヒ(Hellmuth Gaudig)大尉の日記が公開されていますが,その中で42年2月の部分に
「(ロシア人は)低空飛行する飛行機から冷酷にも彼らをパラシュートなしで投げ落とした.
 深い雪にも関わらず一部の兵士が首や骨を折ることに,彼らはまるで無関心だった」
(Daruber hinaus warf er rucksichtslos wie er war, seine Leute aus niedrigste fliegenden Flugzeugen ohne Fallschirm ab.
Das sich dabei trotz des tiefen Schnees mancher Soldat das Genick und die Knochen brach, war ihm ziemlich gleichgultig.)
という記述があります.
http://www.hoernledivision.de/index.php/deutsche-version/erinnerungen/166-januar1942-in-der-ugra-stellung-1941-42
(上記ページ内の署名は「第480連隊連隊長,ヘルムート・ガウディヒ少佐」となっていますが,昇進の時期は不明)

 なお,日記は記述の時間が一部で前後しているので,月末あたりにまとめて書いているように見えます.

 このサイトの管理人は,祖父が実際にこの第2大隊に所属しており,42年2月13日に戦傷章(黒)をガウディヒ大尉から授与されているそうで,ソースとしての確実性はかなり高いのではないでしょうか.

 結論として,複葉機の観測席から少数が飛び降りたのか,部隊単位で輸送機から飛び降りたのかは分かりませんが,どうやら1942年2月末,ユーフノフ-ヴィヤジマ間でソビエト軍兵士がパラシュートなしで飛び降りてきたことが実際にあったようです.

 正直,こんなん絶対に戦後に作られた都市伝説のたぐいだと思ってました……

のとっちょ in FAQ BBS,2015/1/10(土) & 2/1(日)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 M1932 45mm対戦車砲(19-K)について教えてください.

 【回答】
 45-мм противотанковая пушка образца 1932 года (19-К) は,1931年にソ連が開発した対戦車砲で,1-K 37mm対戦車砲(ラインメタル 3.7 cm PaK 36のライセンス生産型)の拡大改良型.
 カタログ・データ上では,距離500mから43mmの装甲を貫徹できるとされていたが,本来の性能を発揮できない粗悪な砲もあった.
 二輪の運搬用車輪がとりつけられていたが,初期のものは木製であり,10~15km/h以下の速度で牽引しないと,スポークが破損した.
 そのため,後には鋼鉄製スポークのゴム・タイヤに変わった.
 1937年まで生産されたが,ドイツ軍のIII号戦車やIV号戦車に対しては力不足であり,小改良型である53-K 45mm対戦車砲の生産開始により,次第に第一線を退いていった.

M1932 47mm対戦車砲
(こちらより引用)

 【参考ページ】
http://operation-barbarossa.narod.ru/artelleria/45-mm-1932-19k.htm
http://armoredgun.org/brm007/russi_2.html
http://war-arms.info/artilleriya/protivotankovaya-artilleriya/protivotankovie-orudiya-sssr-vov/45-mm-protivotankovaya-pushka-beringa-1932-goda.html


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