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◆◆◆◆◆ヴァッタイ・アンタル Vattay Antal
<◆◆◆◆人物 Emberek
<◆◆◆ハンガリー陸軍 Magyar Honvédség a Második Világháborúban
<◆◆中東欧陸軍 目次 Földi Csata Index
<◆大西洋・地中海方面 目次
<第二次大戦FAQ
【質問 kérdés】
ヴァッタイ・アンタルって誰?
Ki az Vattay Antal?
【回答 válasz】
ヴァッタイ・アンタル(1891年~1966年)は職業軍人.
第一次大戦では第2次ピアーヴェ戦で捕虜に.
第二次大戦勃発~1944年まで騎兵部隊指揮官として前線に.
その後,ホルティ側近として休戦工作に従事するがゲシュタポに逮捕された.
***
1891年生まれ.
父親はカトリック教徒でありブルジョアであるVetter Pál ヴェッター・パール(1856~1917年).
彼は葡萄栽培とワインの技術者であり,ハンガリー王家のブドウ園の管理者だった.
そして「ブドウフィロキセラ対策委員」として,ハンガリー全土のブドウを救った.
その功績を称え,オーストリアのゴルスには彼の肖像をリレーフにした石碑がある.
母親は高校の音楽教師の娘,フレンツル・カロラ Frenzl Karola (1855年~1930年).
兄のヴァッタイ・フェレンツ(1889~1988)は王立ハンガリー憲兵隊の大佐となり,1944年に退役して第二次世界大戦後アルゼンチンに移住した.
妹に,ゼンプレーン Zemplén 郡の大法院院長Boronkay László ボロンカイ・ラースロー(1871~1938)予備中尉の妻となったヴェッター・カロラ
Vetter Karolaがいる.
彼の曽祖父は,ハンガリー1848年革命で最も優秀な将軍であったヴェッター・アンタル(アントン・フォン・ドッゲンフェルト・ヴェッター)の弟だった.
ヴァッター・アンタルはハンガリー参謀本部に配属された後,参謀総長も務め,さらには臨時の国防長官となって,オーストリア軍がブダペシュトを陥落させた際には,武器庫や軍需品の移動に活躍.
1849年の春季攻勢では,ハンガリー軍(トランシルヴァニア軍を除く)の総司令官となって,反攻作戦の計画を立てた.
彼はまた野戦司令官としても優れており,セルビア人の反乱に対して1848年,大隊を率いてペルレツ Perlez の戦いに勝利.
1849年には南域ハンガリー軍を率いてヨシップ・イェラジチ・ヴォン・ブイミ Josip Jelačić von Bužim 伯爵と戦い,キシュヘジェシュ Kishegyes の戦いでの勝利に大きく貢献.
革命の敗北後,彼は移住し,1859年にイタリアでハンガリー人軍団の創設に大きく貢献.
その司令官にもなり,その後,1866年にプロイセンで創設されたハンガリー人連隊の首席査察官となった.
1867年のアウグスライヒの後,ハンガリーに帰国し,アンドラッシ・ジューラ・ド・チクセントキラーイ・クラースナホルカ Andrassy Gyula
de Csikszentkiraly et Krasznahorka 伯爵の顧問として王立ハンガリー軍の設立に取り組んだ.
彼の行跡はヴェッター(後のヴァッタイ)家に,特に彼の名を冠したヴァッタイ・アンタルに大きな影響を与えた.
ヴァッタイ・アンタルはショプロンで初等教育を受けたが,1898年に父親がブラティスラヴァに赴任したため,アンタル少年は同地で初等教育を終えた.
1901年,ローマ・カトリックのジムナジウムに入学.
だが1902年,彼はブラチスラヴァの軍司令部に出頭し,Militar-Unterrealschule(少年軍事学校)への入学を申請.
秋にはコシツェ Košice にて入学試験を受け,当時,少しひょろっとした体型だったが合格.
コシツェにて最初の2年間を,優秀な成績で終えた.
1904年,学校の再編成によりオーストリアのアイゼンシュタットに転校となり,3~4年目をこれまた優秀な成績で終えた.
1906年,彼はマーリヒ=ヴァイスキルヒェン Mahrisch-Weiskirchen (現・チェコ共和国フラニツェ市)にある高等軍事学校に入学し,優秀な成績で卒業した.
陸軍士官学校には優秀な者しか入学できないが,彼の成績なら問題はなく,ウィーナー・ノイシュタットにあるテレジア陸軍士官学校に入学.
1912年8月18日,ウィーンの陸軍士官学校を卒業し,准士官として職業軍人の道へ.
1912年10月1日,ニレジハーザ Nyiregyhazaに駐屯する第14フサール「コロッシュヴァリ伯爵 von Kolossvary 」連隊第1大隊第1中隊に配属.
以後,毎年の記録では,好感が持てて品行方正,高い能力,規律正しく謙虚な若い将校であり,優秀と評価された.
1914年,第一次世界大戦勃発.
これ以降のことは,長くなるので別項に譲る.
1枚目:1910年代のヴァッタイ・アンタル
(図No. faq220202vt4,こちらより引用)
2枚目:参謀将校時代のヴァッタイ・アンタル少佐
3枚目:第1騎兵旅団司令官時代のヴァッタイ・アンタル少将
4枚目:第1騎兵師団司令官時代のヴィテス・アンタル・ヴァタイ中将
(図No. faq220202vt1~3,こちらより引用)
mixi, 2022.2.27
【質問 kérdés】
ヴァッタイ・アンタルの従軍歴は?
Milyen Vattay Antal katonai múltja volt?
【回答 válasz】
1914年に第一次大戦が勃発すると,ヴァッタイの所属する第14フサール連隊は大戦出征.
セルビア軍と対峙するため,南部に連隊は送られた.
だが,ロシアが間もなく参戦したため,7月にガリツィアへ移動.
1914年8月20日,ヴァッタイ・アンタルは第6騎兵旅団の指揮官の下に,連絡将校として配属.
彼は指揮官からの命令を部隊に伝えるだけでなく,時には戦闘参加することもあった.
1915年3月15日に第6騎兵旅団,1916年1月27日に第8騎兵旅団,1916年10月23日に第4騎兵旅団の幕僚となり,1918年3月15日まで同連隊に勤務.
第4騎兵旅団では,後の摂政ホルティの兄であるホルティ・イシュトバーン将軍の下にいた.
1915年1月1日,少尉昇進.
引き続き第4騎兵旅団に所属し,トランシルヴァニア地方でルーマニア軍と戦った.
1918年3月16日,彼はハンガリー第14騎兵連隊,すなわちかつての第14フサール連隊に戻ってきた.
同連隊は2月からイタリア戦線に配置されていた.
ここで彼は連隊長の副官として働き,その後第5中隊を指揮した.
同年5月1日,大尉昇進.
そのころ彼の部隊はピアーヴェ川の河口付近を防衛していたが,そこは騎兵戦術上非常に不利な湿地帯だった.
ピアーヴェ川の戦いでは,彼と彼の中隊は連隊の中で最初に渡河したが,川の氾濫のため,部隊はイタリア側の川岸で立ち往生.
1918年6月24日にイタリアの反攻が始まると,彼は自分の部下に,武器を置いてイタリア軍に降伏するよう命じた.
第5中隊はすでに弾薬が尽きていたので,無意味な流血を避けたかったからである.
彼はドイツ語とフランス語を流暢に話すほか,イタリア語も少し喋ることができたので,イタリア軍に対し,自分たちはオーストリア人ではなくハンガリー人であることを伝え,そのおかげで彼らの待遇はより友好的なものになった.
彼は将校としてピアッツァ・アルメリーナの捕虜収容所に連れて行かれ,その後,シチリア島のヴィットリアに収容.
1919年10月中旬にハンガリーに帰国するまで,彼は捕虜として過ごした.
1919年10月22日,彼はセーケシュフェヘールヴァールの国民軍に志願.
彼は情報局に勤めたが,同年11月10日,大尉の階級でジェール県の第7軍区司司令部に配属され,参謀本部長に就任.
1920年1月22日,彼は地域司令部の国防局長としてミシュコルツに赴任.
同年7月30日~9月16日,ブダペシュトへ赴任し,ヨーゼフ・アウグスト・ヴィクトル・クレメンス大公の副官を務める.
同年9月26日,彼は国防省議長室C課の課長となり,そこで新生ハンガリー陸軍の編成,組織,訓練方法,戦術,ドクトリンを決定することになった.
1921年3月3日,地主階級の家の娘,セペッシ・エレノーラ Szepessy Eleonóraと出会い,すぐに結婚.
1922年3月7日,摂政ホルティ・ミクローシュの補佐官となった.
1928年,陸軍士官学校に通学したことはなかったにもかかわらず,参謀将校試験に合格.
学校に通い,参謀本部で長年働いていた参謀将校を凌ぐ最高の成績だったという.
1928年11月1日,ミシュコルツに赴任し,彼は第7混成旅団の後方支援スタッフとなり,1929年5月1日に少佐に昇進.
1929年6月,彼は兄のフェレンツとともに勇爵章を受章.
受章の条件として1930年,姓をヴェッターからハンガリーふうのヴァッタイに改名した.
この改姓は渋々だったらしい.
ミシュコルツ時代には,軍の公式代表団の一員としてドイツとフランスへ8週間の視察に行き,騎兵隊と機甲部隊を研究.
この知見を活かしてフサールを発展させたいと考えて,自ら志願したものだった.
1932年,国防省第六課第二事務局局長に就任.
これは情報部であり,彼の所属する小部隊(中央攻撃部,通称「コファ」)は,1932年8月にブダペシュトに赴任した.
1934年12月,深刻な腎臓のけいれんを起こし,腎臓結石を除去する手術を受ける.
手術後の1935年初め,医師の指示で6週間ほど家族全員でイタリアに旅行した.
1935年6月11日,彼は総司令部騎兵監の下に参謀長として配置された.
ここで彼は,海外で得た経験をもとに,フサールの現状を学び始め,ハンガリーの経済,軍需産業,財政事情などを考慮しながら,独自の考えを加えていった.
さて,彼が大佐に昇進するためには,参謀試験の後,半年間,戦闘部隊の将校として勤務しなければならない.
そこで彼は1936年5月1日~10月31日,ブダペシュトに駐屯するハンガリー王立「フランツ・ヨーゼフ1世ヤス・クマン」第1フサール連隊に勤務した.
これは彼にとって夏休みのようなものだった.
1937年8月16日~1938年1月15日,セゲド駐屯の第5混成旅団(再編後は第5軍団)司令部の参謀長に.
1937年11月1日,大佐昇進.
1939年1月15日,大佐に昇進し,摂政ホルティの軍事執務室に副主任として配属.
同年,イタリア王冠勲章3等章を授与さる..
1940年12月24日,ニーレジハーザ駐屯の第1騎兵旅団長に任命.
1941年4月3日,第1騎兵旅団はユーゴスラビア侵攻に参加.
彼の指揮下でハンガリー軍は VrbasとSrbobranを占領した.
1941年5月1日, 進駐していたDelvidek において少将に昇進.
同月末帰国.
1941年6月22日,独ソ戦勃発.
同月27日,第1騎兵旅団は再び動員された.
このバルバロッサ作戦において,彼はしばしば第一線にて部隊を指揮.
道路状況に応じて馬やトラックで移動し,時には自転車部隊と一緒に移動することもあった.
時には前線から2~3キロ離れた部隊集結地点から部隊を指揮したこともあった.
彼の指揮の下,騎兵旅団は32日間の行軍と21日間の戦闘機動で2045km移動した.
1日40~44kmということになる.
これはフサールの馬の運搬能力が117~125kg(70kgの騎手を乗せて計算),輓馬は120~160kg,馬車は300~600kgであることを考えると,非常に大きな成果だった.
中世の重装騎兵さえ,騎士と馬が共にフルアーマーであれば60~70kgしかなかった.
古代から19~20世紀までの軽騎兵部隊の行軍記録は,より少ない装備で1日50~60km程度であった.
ましてそのときフサールが行軍したのは,雨が降れば泥の海,晴れれば40~45℃[原文ママ],飲み水もほとんどないような厳しい条件下でのことだった.
このような地形や天候は,馬の半分近くを消耗したが,それでも騎兵旅団は半分以上,3000頭以上の馬をハンガリーに連れ帰った.
脱落したのは,このような厳しい条件下に不慣れな,民間から購入した馬が大半だった.
旅団が動員されたときはまだ馬の頭数が十分ではなかったので,民間から購入せざるを得なかったのだ.
また,開戦前の平時に,ヴァッタイは次のような訓練を繰り返させた.
40分騎乗後,騎手は全て馬を降り,20分間徒歩で馬を誘導.
再び騎乗して40分間小走りし,20分間馬を降りるというもので,これはアテネのクセノフォンも言及している行軍方法である.
その際,重要だったのは徒歩中は鞍を外すことで,これにより深刻な鞍の痛みを避けることができた.
この方法で騎手も馬も助かったばかりでなく,4種類の部隊(騎馬隊,自転車隊,トラック,戦車)の行軍を同期させることにも成功した.
この行軍方法によって騎兵旅団は,自軍の機械化部隊だけでなく,ドイツ軍部隊を追い越すこともあった.
特に殆どの機械化部隊が泥沼にはまり込んでいるときに,騎兵旅団はそのような事態を避けることができ,そのおかげでフサールは,重要な地点・道路・橋を占領し,時には包囲された友軍を救うことができた.
また,Vattayの鋭敏な状況認識のおかげで,彼の騎兵旅団はウーマニ・ポケットからのソ連軍の脱出を防いだ.
1941年8月6日午前8時,相互変調により,ヴァッタイは敵部隊が北に約15~20キロまで接近していることを察知.
彼はおおよそのことを知っていた.
すなわち,旅団の位置から北に70km離れたところで,ドイツ軍がソ連軍の主力部隊をウーマニに閉じ込めていたことをである.
そのとき,包囲されたソビエト第6軍の戦闘群は,10両の戦車の支援下でドイツ軍第4山岳師団の戦区境界を突破し,ドイツ軍第101猟兵師団と第257歩兵師団の戦線のすぐ後ろにある南のブーク川に到達しようとした.
その戦闘音はハンガリー軍にも聞こえた.
8時30分,ヴァッタイは迅速に対応し,メレース・ラースロー Merész László 准尉の装甲車小隊(チャバ装甲車3輌)を自転車化歩兵小隊で強化し,北への偵察任務を命じた.
准尉はキロヴォフラート Kirovohrad 州モルドフカに装甲車1輌を残して自転車小隊を待ち,ホロヴァニフスク Holovanivsk に向けて装甲車2輌で偵察を続けた.
午前10時,Csaba装甲車2輌が,ソビエトのコサック騎兵中隊2個を散開させたと報告.
ヴァッタイは旅団予備に警告した.
午前11時,メレース准尉ソ連軍のトラック20台を破壊し,部隊を逃散させたと報告.
午前11時30分,Csaba装甲車は,ソ連軍戦車2輌と激しく交戦.
一部の情報によると,この戦車は22トンの中戦車だったという.
もしそうであるとするなら,その説明に最も近い戦車はT-28だということになる.
ソ連軍第6軍には当時,戦車が配備された部隊は3個しかなく,そのうち第5騎兵軍団はBTのみ.
残りの2個は第4および第15機械化軍団だった.
1941年8月1日までに,第15機械化軍団はすべてのKV-1とT-28を失っており,T-34×3,BT×10,T-26×2を有するのみでだった.
一方,第4機械化軍団はT-34×3,T-28×22,BT×4を有していた.
メレース准尉のCsaba装甲車2輌は,ほぼすべての弾薬(720発の徹甲弾と12.000発の機関銃弾)を発射して,なんとかT-28戦車を森の中に押し返すことができた.
こうして偵察部隊はかろうじてソ連軍を阻止し,ドイツ第257歩兵師団と第LII軍団司令部・兵站部隊を救った.
偵察部隊の報告を聞いたヴァッタイは,ソ連軍が大きな規模で包囲突破を企んでいると即座に判断し,ハンガリー軍快速軍団司令部に報告し,ドイツ軍LII軍団司令官に危険を警告した.
支援部隊を除くすべての動員可能な部隊をヴァッタイは集め,ソ連軍を遮断するため,北部方面への攻撃を開始した.
その間にドイツ軍第100猟兵師団が介入してソ連軍の側面を攻撃し,第101猟兵師団と第257歩兵師団のいる方向へ押し返したので,ハンガリー軍旅団の大部分は敵と交戦する必要がなかった.
ヴァッタイの素早い行動のおかげでウーマニ・ポケットは再び閉じられ,ドイツ軍LII軍団司令官は,その報告という点でヴァッタイを高く評価し,ヴァッタイはドイツ軍の鉄十字勲章の一等と二等を授けられた.
1941年9月11日~10月5日,ブーク川においてヴァッタイの旅団は,支援も受けられないまま防衛戦を展開.
同年10月6日,騎兵旅団はようやく救援を受け,本国に帰還することが決まった.
だが輸送の問題から,部隊の移動は10月29日に始まり,全ての部隊が帰国し終えたのは11月8日夜になった.
ヴァッタイ司令官は鉄道駅に出向いて彼らに敬礼した.
1941年11月17日,旅団の凱旋式が行われ,摂政ホルティが部隊に敬礼した.
パレード後,ヴァッタイは家族との夕食の席で,摂政のことをいかに誇りに思うかをしきりに語ったという.
同年12月13日,彼は国軍将校クラブで「対ソ戦における第1騎兵旅団」というタイトルの講演を行った.
その時の講演は1年後,『ハンガリー軍事評論』誌に発表されている.
1942年10月1日,ヴァッタイは,改編されて誕生したハンガリー王国軍第1騎兵師団(後にフッサール師団と改称)司令官相当である騎兵総監となった.
これにより彼は,騎兵師団改革のチャンスをようやく得た.
これまでの騎兵部隊は機械化部隊の支援部隊にすぎず,機械化部隊に追従するには大きな犠牲を払わなければならなかった.
彼はそれを変えたいと思ったのだった.
彼はフサールを他の部隊から独立した,機械化部隊と同水準の,装甲大隊で支援された戦闘部隊を作ろうとした.
彼は騎兵師団のみならず,9個軍団にそれぞれ配備されている独立フサール中隊,歩兵連隊のフサール部隊,山岳旅団の特別フサール中隊等々にも注意を払った.
だが,近代的騎兵師団にする彼の構想は,半分程度しか実現しなかった.
ハンガリーの工業生産力の制約により,重火器の数の増加率は緩やかであり,十分な数の短機関銃が揃わなかった.
予算上の制約により,11.000頭の馬の多くは民間から徴発された馬だったため,騎兵には使用されなかった.
一方,将校,下士官,兵士にはベテランが多く,それは訓練の助けとなった.
1942~43年,フサール部隊の再編成,近代化,訓練が行われた.
1943年5月,中将昇進.
1944年3月19日,ドイツ軍はハンガリーを占領下に置くマルガレーテ作戦実行.
ヴァッタイは第6軍団や第9軍団の指揮官との合意の下,ドイツ軍に抵抗すべくニーレジハーザにて部隊を動員したが,参謀総長は彼に反対し,抵抗しないよう命じた.
1944年3月24日,OKWはドイツ軍ブダペシュト駐在武官ハンス・フォン・グレイフェンベルクを通じて,ハンガリー第1騎兵師団の動員を要求.
ドイツ軍最高司令部は,動員可能な全ハンガリー軍部隊が東部戦線の最前線の穴を埋めることを望んでいたが,ハンガリー政府とハンガリー軍参謀本部は,ソ連軍がハンガリー国境に達したときに対抗できるよう,ハンガリー軍は最大限自国に留めておきたいを考えていた.
4月21日,ドイツの要求を国防相チャタイ・ラヨシュ Csatay Lajos 大佐は拒否したが,4月25日,新しく参謀本部長になったヴェレシュ・ヤーノシュ
Vörös János 将軍は,騎兵師団を動員するというドイツの要求をハンガリー政府が受け入れたと記している.
ただし,馬が必要な収穫期が終わり,また,75mm対戦車砲,突撃砲など喫緊の必要装備をドイツが提供してくれたならば,という条件付きだった.
これら装備による支援が無ければ,騎兵師団は敵の戦車の餌食になりやすく,何の戦果も挙げられずに犠牲を増やすだけであることをハンガリー側は強調した.
この交渉の間,ヴァッタイは提案を行うことによって結果に影響を与えようとし,ニーレジハーザとブダペシュトの間で頻繁に電話のやりとりがなされた.
同年4月28日,ヴェレシュ・ヤーノシュはヴィルヘルム・カイテル元帥に対し,摂政ホルティは騎兵師団をハンガリー第1軍の指揮下に置くことだけを望んだと記している.
4月29日,騎兵師団は動員された.
1944年5月中旬,彼は摂政ホルティと会見.
ホルティはヴァッタイの見解を求めた.
ヴァッタイは,ドイツが戦争に勝つすべは全くないと述べた.
次いでホルティはヴァッタイに対し,摂政軍事執務室の長に就任する意思があるかどうか尋ねた.
ヴァッタイは彼自身が騎兵師団に留まることができることを条件に,それに応じた.
1944年5月19日,ドイツのOKWはハンガリー軍第1騎兵師団が5月21日にピンスク湿地に送られる旨指令した.
その理由は騎兵部隊がソ連軍戦車によって危険にさらされることはなく,その性質に応じて投入できるということだった.
後者の理由付けは,騎兵部隊が道路外では大変行動を制約されるという意味で,悪い冗談でしかなかった.
5月27日,摂政ホルティのもとに,5月28日午後12時までに騎兵師団の動員を乗船を命じなければならないと述べた,もう一通の書簡がドイツから来た.
だがホルティは,騎兵師団をハンガリーの第1軍に麾下のみ送ることを許可すると宣言した.
5月30日,グライフェンベルクは,ドイツ軍戦闘計画全体がこれに基づいているとして,騎兵部隊をホメリ Gomel’ 地方へ派遣するようホルティを説得しようとした.
一方,チャタイ国防相はドイツ軍に対し,騎兵師団はハンガリー国境近くに配備するよう説得しようとした.
この問題は先延ばしされた末,1944年6月6日にクレスハイムにおいて,ストーヤイ・ドメ Sztojay Dome 首相,ヴェレシュ・ヤーノシュ
Vörös János 総参謀長,そしてOKWのヴィルヘルム・カイテル元帥との間で会談が行われた.
しかし彼らも合意を見ることはできず,最後はヒトラーの言葉によって決定された.
騎兵部隊はピンスク湿地に送る,と.
1944年6月11日,最初の列車が出発.
同月18日,最終列車が出た.
ヴァッタイが家族に別れを告げたのは6月13日だった.
騎兵師団が最前線に到着した時,ヴァルター・ヴァイス准将はこれを彼の第2軍の予備兵力として使う意向だった.
ただし第2フサール連隊はルニネツ Luninets 南方において100x100 kmの湿地帯のパルチザンを一掃する任務に就くため,7月15~18日にピンスクで後衛行動の訓練を受けた後,7月25日以降に師団に合流した.
師団本隊の第4フサール連隊,第15自転車大隊,機械化砲兵は6月16日に到着し,ドイツ第23軍団の予備として南に送られ,ここでもパルチザンと対峙した.
最後の部隊は6月22日に到着し,ルニネツに留まった.
最後に師団司令部が到着した時,目まぐるしく変わる命令によって師団の部隊は広範囲に分散しており,無意味に何十キロも何百キロも行軍させられていた.
1944年6月22日,バグラチオン作戦が始まった.
6月27日,騎兵師団本隊はドイツ軍第20軍団の麾下で,ラン Lan 川に展開していた.
ハンガリー軍部隊は2方向から砲撃を受けた.
ヴァッタイ将軍は援護を要請することなく,犠牲者無しで脱出した.
6月30日,新しい命令が出た.
第2フサール連隊と第3機械化砲兵中隊はドイツ軍第20軍団麾下で東進し,第15自転車大隊は第23軍団麾下で第20軍団の側面を南に確保,本隊はピンスク湿原を北進し,7月1日にシニャフカ
Sinyavka に着いてグスタフ・ハルテネク中将に報告,彼は同師団をドイツ第1騎兵軍団の指揮下に置くことになるという.
ヴァッタイ将軍は,ドイツ第1騎兵軍団の騎兵師団が既にキヤヴィチ Kiyavichy にてボブルイスク~ワルシャワ Bobruysk-Warsaw
の難路から来た敵と交戦しており,その戦車部隊は南から進撃中であることを把握していた.
彼は彼の部隊を分割して投入するというハルテネクの戦術に否定的だった.
同日,ヴァッタイは部隊より先にシニャフカへ行ってドイツ軍へ報告し,意見具申した.
彼は,ソ連軍から離脱するためにドイツ軍第4騎兵旅団を強引に取り戻し,行動の自由を取り戻せるクレツク Kletsk に全部隊を集めて攻勢に出ることを提案した.
しかしドイツ軍は,ヒトラーの命令に逆らって撤退することを望まなかった.
ヘルテネクは,ボブルイスク Bobruyskから迫るソ連軍は北東に転進し,北から枢軸軍の側面を狙うと考えた.
これを阻止するため,彼はドイツ軍第4装甲師団に北方への機動を命じた.
ハンガリー軍騎兵師団の任務は,モザ川でチムカヴィチ Cimkavičy を押さえている装甲部隊が離脱することによってこの行軍を支援し,そこから南にあるドイツ第4騎兵旅団と連結してその位置を守り,またクレツクとチムカヴィチの間の北へ向かう道路を一部確保しておくことだった.
問題の一つは,この2つの道路の間には25kmの広さの平原があり,これを小規模の部隊で確保しなければならないことだった.
もう一つの問題は,Bobruysk-Warsaw 難路の地域が完全に広い平原で,ちょうどソ連機甲部隊の主攻撃軸の中にあったことだった.
フサール師団にはまだ十分な対戦車砲がなく,このような仕事はドイツ軍第23軍団の歩兵師団にやらせるほうが遥かに良い選択だった.
ヴァッタイ将軍は部隊に戻り,無線がパルチザンに傍受される可能性があるため,自ら将校に命令書を渡した.
7月2日までにハンガリー軍騎兵師団の部隊はそれぞれの陣地に入った.
チムカヴィを保持していたドイツ軍第4装甲師団の部隊は,事前に北側の地域を偵察せず,ドイツ軍第4騎兵旅団と連絡しておらず,それはハンガリー軍騎兵師団によって行われた.
そして威力偵察が行われた時,ドイツ軍はハンガリー軍フサールを置き去りにした.
この日,9-10 個のソ連軍師団が東から攻撃し,ハンガリー騎兵師団とドイツ第 4 騎兵旅団の防御陣地を突破しようとしていたので,この連絡行動はハンガリー軍だけでなくドイツ軍の安全にも役立っ
た.
ヴァッタイ将軍もチムカヴィにおり,ソビエト軍に攻撃されたとき,彼は彼の部隊にとどまって威力偵察を命じた.
7月3日12:00,ヴァッタイはベイントナー Baintner 戦闘団に,東からの敵に対する防衛線を形成して枢軸軍が現在位置を維持するための足場とするため,
Cepra steam を占拠するよう自ら命じた.
14:00,彼はチムカヴィチに到着し,北への攻撃を命じた.
ソ連の強大な戦闘群がそこから側面を攻撃しようとしていたからだ.
その後,彼はKletskに戻り,さらに指示を出した.
一方,ドイツ軍第4騎兵旅団は何の連絡もせずに30kmほど撤退を開始した.
チムカヴィチのハンガリー部隊は孤立して,現状維持できなくなった.
ヴァッタイはハルテネクと交渉し,撤退命令を出すよう求めた.
この命令は0:00に届いたが,後退はクレツクまでしか許されず,そこでハンガリー軍騎兵師団は北へ反撃し,敵を押し戻さなければならなかった.
7月2日のドイツ軍第4装甲師団の攻撃が失敗し,そのソ連軍が3個軍団から成る主力攻撃部隊であることが判明したからだ.
ハルテネクがその命令を下した後,シニャフカにいた司令部がパルチザンに襲撃され,ハンガリー軍部隊を残してドイツ軍将兵はすぐに逃亡していた.
7月4日夜明け,ヴァッタイはチムカヴィチから彼の部隊が全て到着するのをこれ以上待つことができず,部隊の先頭に立った.
しかし彼は背後から戦闘音を聞いた.
クレツクがソ連軍戦車の攻撃を受けていたのだ.
05:00,ヴァッタイは後退中のドイツ軍戦車に遭遇し,ドイツ軍の大佐にクレツクを攻撃するよう命じた.
当時,クレツクが唯一の脱出ルートのようだったからだ.
ドイツ軍の大佐を説得するには長い時間がかかった.
しかしクレツクへの攻撃中,ドイツ軍戦車はハンガリー軍を置き去りにしただけだった.
そのころ,ヴァッタイ将軍は退却してくる部隊を迎えに行く途中だった.
彼は負傷したシュパーニ Spányi 中尉と他の2人の負傷したフサールを乗せた馬車に出会った.
彼らはシャツを着ているだけだった.
日中は湿地は暑かったので,フサールはふだんはチュニックを脱いで馬に残していた.
夜は寒かったが,中尉と彼の部下達はシャツだけを着ていたときに負傷し,チュニックを取り戻す方法はなく,その馬車には毛布もなかった.
ヴァッタイ将軍はシルクの下線付きのコートを脱ぎ,3人のフサールをそれで覆った.
彼は中尉に,コートはいつか返してくれればいいと言い,馬車を行かせた.
将軍のコートはシュパーニ中尉と一緒にドレスデンの陸軍病院まで運ばれ,後日,中尉はクラーゲンフルト在住のヴァッタイの叔母にそれを送った.
現在,このコートはニーレジュハーザのヨーシャ・アンドラーシュ Jósa András 美術館に展示されている.
閑話休題,ヴァッタイ将軍は自分の戦車大隊で北への攻撃を指揮した.
レオツク Reöck大尉は彼のトゥラーン戦車でソ連軍部隊の攻撃を阻止することができた.
早朝までにチムカヴィチのハンガリー軍部隊は,ラン川とCepra steamの間を巧みに後退し,この15~20kmの広さの土地で戦い続けた.
ヴァッタイ将軍は,全ての戦闘団に自ら防御作戦を指示した.
ハンガリー軍師団は9~12個のソ連軍師団と戦った.
状況が少し落ち着くと,ヴァッタイはシェル・ゾルターン Schell Zoltán 大佐に指揮を任せ,逃げたハルテネク 将軍を探すためにシニャフカに向かった.
ソ連軍はハンガリー軍の北と東におり,西は湿地帯が道を塞いでいた.
唯一の脱出ルートは南側の,ソ連軍砲兵の擾乱射撃を受けている沼沢地のラニ川の2つの不安定な幅1.5kmの橋状地帯だった.
このルートはマトゥシュコヴィチ・エンドレ Matuskovich Endre 少佐によって発見されたが,それまではそれをヴァッタイ将軍とシェル大佐は知らなかった.
戦況は酷く悪化し,包囲の輪はもうすぐ閉じられようとしていた.
トゥラーン戦車の支援により,シェル大佐率いる騎兵師団は午後遅くまでにこの狭い地帯を抜けることができた.
幸いにもラン川の南側地域は森林地帯だったので,ソ連軍はハンガリー軍の撤退に気付かなかった.
7月5日からは,ハンガリー軍師団はシュチャラ Shchara 川の湾曲部で後衛として遅滞戦術をとった.
7月8日,ヴァッタイ将軍とハルテネク将軍との間で,最後の確執が起きた.
ハルテネクはハンガリー軍師団の臆病とサボタージュにより領土を失ったと絶えず非難した.
彼はハンガリー軍師団をドイツ軍第129歩兵師団の指揮下に置き,ハンガリー軍各指揮官の上にドイツの将校を配置しようとした.
ヴァッタイ将軍はこれらの告発とそのような愚行を断固拒否し,ハンガリーの将校全員の辞任を賭けてドイツ軍の軍司令部や軍集団司令部において不満を述べ,また,摂政ホルティに報告した.
7月10日,ハンガリー師団はシュチャラ川から押し戻され,ビャウォヴィエジャ Białowieża の森において後衛として遅滞戦術を取り続け,そこで足場を固めることができた.
そして彼らはついにハルテネク将軍を追い払うことができ,ドイツ軍第23軍団麾下に入った.
ヴァッタイ将軍は可能な限りあらゆる方法で部下を助けようとした.
7月12日,フサールに馬も無くなり,疲労した兵士達が徒歩でヤセルダ Yaselda 川を渡らなければならなかったとき,彼は バルジャイ・オットー
Palugyay Ottó 中尉に対し,フサールを東へ移動させるため,全ての余剰自動車輌を集めてくるよう書面で命令を出した.
7月13日,クレツク Kletsk と同じようなポケットがプルジャニ Pruzhany に形成されようとしていた.
そこから抜け出した後,師団は非常に疲労していたのに酷使されていたので,ヴァッタイ将軍はすぐにビャウォビエジャまで駆けていき,彼の師団の状態をヴォルマン
Vormann 軍集団に報告し,これまで何度も約束された休暇を懇願した.
それでハンガリー軍師団はようやく3日間の休暇を取れた.
彼らは原生林の端で防御態勢にあったが,ソ連軍の攻撃は無かった.
1944年7月16日,師団は砲兵大将ルドルフ・フライヘル・フォン・ロマン Rudolf Freiherr von Roman 指揮する第20軍団の下に置かれた.
一方,ヴァッタイ中将は予備兵力となっていたハンガリー第2軍団の司令官に任命された.
この軍団には,対戦車砲も自動車輌も無いハンガリー軍第5・第12・第23予備師団が含まれていたが,にも関わらずドイツ軍はハンガリー軍第2軍団を最前線に投入した.
第2軍団支援のため,騎兵師団も第2軍団指揮下に置かれた.
7月17日,ハンガリー軍第1騎兵師団の将校団は,ヴァッタイ将軍と別れの昼食をとった.
7月16日~8月3日,ヴァッタイの部隊はブグ Bug 川で防衛戦を展開した..
7月25日,第2フサール連隊も最終的に騎兵師団に加わり,7月26日,騎兵師団と第12予備師団は一時的にドイツ第8軍団麾下に置かれた.
ヴァッタイの指揮によって攻撃を仕掛け,ソ連軍がドイツ軍第20軍団を包囲しようとする試みを混乱させることに成功した.
その後,予備師団はワルシャワ周辺に後退.
騎兵師団はシェドルツェ Siedlce に留まって防衛戦を行った後,ワルシャワ周辺へ後退した.
8月1日にワルシャワが蜂起すると,ドイツ軍はハンガリー軍にこれを鎮圧させようと考えた.
しかしヴァッタイは,ポーランドとハンガリーの友情,文化的および歴史的なつながり,そして何よりハンガリーは第三帝国とは異なりポーランドと戦争をしたことはなく,戦争もしていないという事実を装甲兵大将ニコラウス・フォン・フォルマン
Nikolaus von Vormann に説明し,これを拒否.
ヴォルマンは代わりにハンガリー軍に対し,ワルシャワを取り囲んでこの都市への全ての道を封鎖するよう命じた.
一方,ヴァッタイはポーランド国内軍との関係を確立した.
8月のある時点で彼は,ハンガリーの第5予備師団司令官サボー・ラースロー Szabó László を介し,ポーランド国内軍のタウデシュ・ボール・コモロウスキ
Tadeusz Bór-Komorowski 将軍の司令部と連絡を取り合うことができた.
ヴァッタイは,ハンガリー軍が蜂起に参加するとドイツ軍は激しい報復を行うだろうからそれはできないが,都市への道を開くことができ,弾薬,医薬品,その他の支援を提供できると述べた.
8月20日,すなわちハンガリーの建国記念日に,ポーランドの代表団がヴァッタイ将軍を訪れて花束を贈呈した.
だがドイツ軍指揮官は,ハンガリー軍がポーランド人に救いの手を差し伸べていることに気づいたため,ヴァッタイの解任を促した.
8月17日,ヴァッタイは参謀長として摂政ホルティの軍事執務室の室長に任命され,8月25日にハンガリーに帰国.
以後,彼が最前線に立つことは無かった.
mixi, 2022.2.27
【質問 kérdés】
ヴァッタイが重要な役割を果たした休戦工作について教えてください.
Kérem, mondja meg a tűzszünetközvetítésről, amelyben Vattay jelentős szerepet
játszott.
【回答 válasz】
8月17日,ヴァッタイは参謀長として摂政ホルティの軍事執務室の室長に任命され,8月25日にハンガリーに帰国.
以後,彼が最前線に立つことはなくなったが,彼は国防相と参謀総長に次ぐハンガリーで3番目に重要な軍人となった.
週に2回,ホルティに報告することが彼の新しい役職だった.
状況がさらに深刻になると,彼は1日に何度も報告した.
つまり彼は軍人としてはホルティの最側近であり,最も高位の軍事顧問および報告者となっていた.
立場上,国防省と参謀総長が計画し実行したあらゆる問題について彼は知っていなければならず,そしてそれを摂政に報告しなければならなかった.
彼には摂政の命令を発令し,ブリーフィングと情報を摂政に提供し,司令官その他の軍の要員を選ぶ権限があった.
一方,彼には,命令が実行されているか調査する権限も方法もなかった.
また,完全服従を強制することもできなかった.
ハンガリー軍将校からの不服従と反逆を想定してもいなかった.
ヴァッタイ将軍は政治家ではなく一介の兵士として,摂政に最も忠誠を尽くして命令を実行した.
彼の見解は,兵士は政治化してはならぬというものだった.
これはハンガリー王国陸軍の公式見解でもあり,兵士は政治活動を禁じられていたが,現実にはゲムベシュ・ジュラ Gömbös Gyula 首相時代以降,多くの兵士が政治活動を始めており,この傾向は1944年まで十分に駆逐されることは無かった.
任命当初から常時ヴァッタイは,戦争から離脱する試みに取り組んだ.
9月7日,毎年恒例の軍事評議会において彼は,ソ連軍が南カルパティア山脈を突破してトランシルヴァニアに侵入したという新しい状況について知り,行動する最後の時が来たとホルティに述べた.
軍事評議会の後,ホルティは内閣に電話し,休戦したい旨,宣言した.
閣僚会議はホルティの発言を受け入れたが,ソ連が停戦を受け入れない場合に備え,ドイツ軍から5つの装甲師団をベーケーシュチャバ Békéscsaba
を配備・強化するよう求めるというチャタイ・ラヨシュ Csatay Lajos 将軍のアイディアを急遽採用した.
これによりドイツは,ハンガリーが戦争から離脱する計画を立てていることを確信した.
9月11日,閣僚会議は停戦案を放棄し,おそらくはドイツ軍の侵攻を総辞職したが,新政府の問題について再びドイツと掛け合う時間がなかったため,ホルティはこの政府を再び任命した.
この日からホルティと彼のインナー・サークル(ヴァッタイを含む)は,密かに休戦計画を進めた.
通常業務で多忙な中でヴァッタイは,メッセージを秘密裏にやりとりするために送受信を暗号化する,秘密通信用機械を入手する責任を負った.
彼はまた,密かにブダ城に出入りさせ,摂政ホルティの命令を伝えるという仕事にふさわしい人物を選ぶ責任をも負った.
さらに彼は,ブダペシュトの防衛を強化しつつ,西側連合国やソ連との間に関係を築くために的確な命令を発しなければならなかった.
ヴァッタイ将軍は,西側連合国との関係を築くための人物に,親欧米派として有名だったナーダイ・イシュトヴァーン Náday Istvánイシュトヴァン・ナデイ退役少将を任命した.
彼は,摂政ホルティの副官であるトシュト・ジュラ Tost Gyula中佐が操縦する飛行機によって密かに国外へ飛んだ.
何度か試みが失敗した後,Faragho Gábor ファラゴ・ガーボル中将がソ連に派遣された.
さらにヴァッタイ将軍は,摂政の息子であるホルティ・ミクローシュ,摂政の義理の娘であるエデルシュヘイム=ジュライ・イロナ Edelsheim-Gyulai
Ilona,内閣府長官アムブロージ・ジュラ Ambrózy Gyula ,そしてトシュト・ジュラ中佐に通信暗号化について教えた.
時々彼自身も暗号通信機を使った.
さらにまたヴァッタイは,摂政ホルティをドイツ軍から匿う場所としてリッラフュレド Lillafüred を選んだが,ホルティはブダペシュトを離れたがらなかった.
一方でヴァッタイ将軍は,ハンガリー国外でまだ戦っているハンガリー軍部隊の再配置問題にも取り組んだ.
これはヒトラーがヴェレシュ・ヤーノシュ Vörös János 将軍に約束したことだったが, ハンス・フォン・グライフェンベルク Hans
von Grieffenberg 将軍は,陸軍司令官達はおそらくOKWの命令を実行できなかったと言い訳して,約束の先延ばしを主張した.
これに対してヴァッタイは,ドイツ軍司令官がOKWの指揮に従わないのは悲しいことだと言うことしかできなかった.
10月8日,戦争離脱計画にも参画しており,時が来たときにブダペシュトを防衛する責任を負っていたバカイ・シラールド Bakay Szilárd 中将が,ゲシュタポに誘拐された.
ホルティはヴァッタイ将軍に,家族をニーレジハーザ Nyíregyháza からブダ城に移すよう命じた.
バカイの後任にはアッグテレキ・ベーラ Aggteleky Béla 中将が任命された.
2つのリスト,「矢十字党が信頼している人物の名前」と「ドイツが信用していない人物の名前」のリストを受け取った後,ヴァッテイ将軍は,参謀部のサボタージュを避けるため,合言葉を使用する必要があると考えた.
この合言葉は,次のことを意味するものだった.
ホルティの信頼できる2人の軍司令官に対し,ホルティの命令に従って行動すること.
すなわちソ連軍に対する敵対行動をやめて関係を持ち,ドイツ軍を攻撃し,規律と秩序を維持せよというものだった.
ホルティはヴァッタイに賛成し,次のような合言葉が決められた.
「1920年3月1日の勅令が実施されることになっています!」
第1軍司令官ベーラ・ミクローシュ Béla Miklós 将軍は直接合言葉を受け取り,第2軍司令官のヴェレッシュ・デ・ダールノク・ラヨシュVeress
de Dálnok Lajos 将軍は,ヴェレッシュ将軍がブダペシュトに派遣したゲレーブ・ラースロー Geréb László 中佐を介してそれを受け取った.
だがヴァッタイ将軍の知らないところで,ゲレーブ中佐はドイツ軍にその合言葉のことを教えてしまっていた.
10月13日,ブダ城の防衛体制を策定.
10月14日,ヴァッタイ将軍は摂政ホルティの護衛部隊に対し,その防衛態勢に入るよう命じた.
ブダペシュト防衛を命じられた部隊の多くは10月14日までに到着しなかったため,ヴァッタイは摂政ホルティに,第1フサール師団指揮官を呼び,部隊をブダペシュトに移動することを命じるよう承認を求めた.
そのとき同部隊は首都近郊に駐屯していた.
摂政は承認し,ヴァッタイはイブラーニ・ミハーイIbrányi Mihály中将を呼んだ.
ヴァッタイには命令を出す権限がなかったため,ヴァッタイの前で参謀総長がイブラーニに命令した.
夜間にツェグレードベルツェル Ceglédbercel村において部隊を結集し,10月15日にブダペシュトへ移動せよと.
10月15日,ホルティの息子は夜明けにゲシュタポに誘拐された.
それは午前9時30分にヴァッタイの知るところとなり,彼はそれを摂政ホルティに告げた.
ホルティは憤慨し,総評議会を開いて午前10時45分に声明を発表した.
この評議会の間,ヴァッタイは部隊に摂政ホルティの命令を発した.
その時までに主要な無線通信センターと軍の新聞はすべて矢十字党の手に渡っていたので,軍への命令は全国へ無線で発表されたが,そのとき既に午後になっていた.
ホルティの国民への布告は,ハンガリー全土で聞くことができるラジオで読まれた.
布告は午後12時30分,午後1時10分,午後2時10分とに計3回読まれた.
しかしホルティは布告文原文には「ハンガリーはドイツとの戦争状態にある」と書いていたが, 首相のラカトシュ・ゲーザ・ド・チークセンツィモニ Lakatos
Géza de Csíkszentsimonyi 上級大将と外相ヘンネイ・グスターヴ Hennyey Gusztáv 上級大将は,ラジオ放送時にはこの部分を削除した.
刺激が強すぎると判断したからだ.
ハンガリー軍の命令への午後2時10分以降に2回発せられた.
しかし元の命令では,ホルティは「私は休戦を実現した」と述べていたが,次官のフラッキー・エンドレ Hlatky Endre は無許可で最後の瞬間に「私は休戦を求めた」に改竄した.
これは軍を混乱させ,親矢十字党の将校によって指揮された部隊のいくつかは戦い続け,ソ連軍も戦い続けたので,最初は敵対行為をやめてい部隊でさえ祖国防衛戦を継続することになった..
評議会の後,合言葉「1920年3月1日の勅令が実行されることになっています!」はラジオでも読まれ,ヴァッタイは自宅に戻って昼食をとった.
その後,彼は摂政ホルティの軍事執務室に戻り,待機した.
公式の軍チャンネルは矢十字党の手に渡っていたので,彼と彼の部下は第1軍と第2軍の指揮官に知らせる別の方法を見つけた.
ほどなくしてヴァッタイはミクローシュ・ベーラ Miklós Béla 将軍と会談し,布告と合言葉の両方が法に叶ったものであると彼に話した.
午後8時頃,電信を介してヴェレッシュ・ラヨシュVeress Lajos 将軍との通信チャネルも確立された.
しかし午後2時から午後03:00の間に参謀本部は,公式の軍事通信回線を通じ,軍に戦闘を継続するよう命令した.
また午後5時20分に軍令が国営ラジオで読まれ,参謀総長ヴェレシュ・ヤーノシュVörös János 将軍の名において,摂政ホルティの命令を無効にした.
さらに,多くの高官が摂政に反逆して,摂政に忠誠を誓う指揮官を逮捕したため,ブダペシュト駐屯の部隊はドイツ軍側に味方した.
ヴァッタイが心血を注いだ騎兵師団さえ首都に到着しなかった.
同師団はまだ,首都から遠く離れたティサ川でソ連軍と戦っていた.
師団指揮官のイブラーニ・ミハーイ Ibrányi Mihály 将軍は,ヴァッタイの目の前でヴェレシュ・ヤーノシュと話した時,この事実については述べなかった.
ヴァッタイ将軍は最後の努力としてソ連に休戦交渉団を送ろうとしたが,適材を見つけることができず,しかもその頃にはブダ城はドイツ軍に包囲されていた.
ヴァッタイ将軍は内閣府長官アムブロージ・ジュラ Ambrózy Gyula と話し合い,何をしなければならないかについて合意を見た.
その第一は摂政の安全確保だった.
ヴァッタイは摂政のもとへ行き,彼に具申した.
首都と城での抵抗は絶望的です,と.
当初ホルティは拒否したが,ヴァッタイがハンガリー第1軍と第2軍の両方に情報を提供し,ヴェエレッシュ・ラヨシュ将軍を「我らが王(homo regius)」に任命して,ソ連との交渉を継続する全権を彼に持たせたと述べたことで,摂政も同意した.
ホルティはヴァッタイに,現在ドイツと交渉する権限を与えられているラカトシュ・ゲーザ Lakatos Géza 首相と会うように命じた.
ヴァッタイはシャーンドル Sándor 宮殿において,他の閣僚たちに囲まれているラカトシュを見つけた.
ラカトシュ首相,ヘンネイ・ギュスターヴ Hennyey Gusztáv 外相,ヴァッタイ摂政軍事執務室長は別の部屋に入り,ヴァッタイはラカトシュに摂政ホルティの命令を伝えた.
首相は,ドイツが摂政を捕らえたらどうなるのか?と尋ねた.
ヴァッタイの答えは,
「そうすれば,ハンガリーは大管区指導者の管理するナチス・ドイツ大管区の一つとなり,全世界は私たちが戦いたくなくなっていることを知るだろう」
だった.
この時点では,城での抵抗をやめることについてだけは,ホルティはまだ抵抗停止に言及していなかった.
ラカトシュとヘンネイがドイツ大使館駐在武官ゲルハルト・ファイネ Gerhart Feine に電話で連絡したとき,ヴァッタイ将軍はまだ部屋にいたが,交渉が始まるとラカトシュはヴァッタイを部屋から退出させた.
交渉が終わった後,ヴァッタイは説明を求め,夜明けにブダ城に戻った.
10月16日午前4時30分頃,ヴァッタイはドイツ軍の攻撃を知らされた.
ラカトシュの交渉が失敗したと判断した彼は,軍事執務室の彼の部下達に,戦闘になるだろうから城の正門までついてくるようにと命じた.
門のところで彼は摂政ホルティの家族が車に乗り込み,教皇庁に向けて出発するのを見送った.
摂政だけがとどまった.
ヴァッタイとホルティは階段に腰を下ろし,ヴァッタイは彼に,ラカトシュの交渉が交渉が失敗した可能性が高いことを知らせた.
彼らは拳銃に弾を込めた.
午前5時30分,首相が停戦を命じたと誰かが報告したところ,ヴァッタイは憤慨し,首相にはそのような命令を出す権利がないと言って立ち上がった.
ホルティの承認を得てヴァッタイはレセプションルームに行き,首相に電話をかけたが,ラカトシュはそこにはいなかった.
いませんでした.
その後,彼はドイツ大使館に電話をかけたところ,首相が大使と一緒に城に向かう途中であると言われた.
彼がレセプションルームを出ると,ホルティがエドムント・ヴィーゼンマイヤー Edmund Veesenmayer と交渉しているのを見つけた.
そして大使は摂政ホルティの腕を握って中庭に連れて行った.
中庭では,武装親衛隊がハンガリー人達を取り囲んでいた.
ヴァッタイはラカトシュを捜し,状況について彼に尋ねたが,首相は彼らが交渉すると言っただけだった.
摂政,ヴァッタイ,首相などはエレデーディ・ハトヴァニ Erdődy-Hatvany 宮殿に連行された.
ホルティ,ラカトシュ首相,ヴァタイ,摂政軍事執務室副長トシュト・ジュラ Tost Gyula 大佐,そして彼らを先導していたブルンスヴィク・カーロイ
Brunszwik Károly は部屋に連行され,2人のSS兵士が監視した.
すぐにSS将校が部屋に入ってきて,首相が隣の部屋で彼に会いたいとホルティに言った.
ホルティは不可解そうにそのドイツ人を見て,
「首相ならここに座っている」
と言ってラカトシュを指差した.
するとSS将校は,サーラシ・フェレンツ Szálasi Ferenc が摂政に会いたいと思っている,と言い直した.
摂政がサーラシと会見している間,ヴァッタイその他の人々は部屋にとどまっていた.
ホルティが戻ってくると,彼らはホルティがサーラシを首相には指名しないと言うのを聞いた.
摂政は休憩するために別の部屋に行き,残りは建物の反対側に連れていかれた.
ヴァッタイの2歩後ろでトシュト大佐は自殺した.
彼は自分の拳銃で頭を撃った.
10月17日,ヴァッタイ,ブルンスヴィク・カーロイ,ホルティ一家はケレンフェルド駅に連行され,オーバーバイエルンのヴァイルハイムに移動.
Schloss Hirschberg amHaarseeにて捕虜となった.
11月13日までヴァッタイはここに滞在した後,ウィーンに連行された.
11月14日,ゲシュタポのウィーン本部とされているホテルメトロポールにヴァッタイは到着.
ここで彼は551号室に幽閉された.
そこから62日間,彼は飢えと凍りさに耐えながら尋問を受けることになった.
彼の唯一の避難所は祈祷書だった.
彼は毎日祈った.
11月27日,腎臓の痛みに伴うけいれんを彼は起こしたが,その後4日間医者は誰も来なかった.
運よく空襲警報の間にベルシェム Berchem 伯爵という名前の囚人仲間と知り合い,彼が鎮痛剤と利尿剤の入ったお茶をくれた.
医者がヴァッタイに会いに来たのは,彼の腎臓結石がなくなった後になってからだった.
1944年12月,ヴァッタイが収監されている部屋に,同じく囚人として米軍の大佐が収監された.
だがヴァッタイは英語を話すことができず,アメリカ人はドイツ語を話すことができなかったため,彼らはジェスチャーでコミュニケーションをとる必要があった.
1945年1月18日,矢十字党が彼を尋問した.
もちろんそれは彼を起訴するためだった.
ハンガリーのショプロンケーヒダ Sopronkőhida において矢十字党は,戦争離脱工作に加担した多くの政府高官・軍人・その他の民間人を裁判にかけた.
ヴァッタイが自分の調書を読んだ時,ドイツ語文書の翻訳を見つけた.
それによると,彼は「ジフテリアで病院に運ばれた」ことになっていた.
ゲシュタポはこの方法で彼を閉じ込めようとした.
また,ゲシュタポがヴァッタイにの処刑を通告するよう命じていることも調書の中に述べられていた.
つまり皮肉なことに,結果的に矢十字党が彼の命を救ったことを意味する.
だが彼は矢十字党の法廷において,階級を剥奪されて兵卒に降格させられた.
ショプロンケーヒダ Sopronkőhidaでヴァッタイはラカトシュ・ゲーザやヘンネイ・ギュスターヴと再会した.
ここで彼は,ラカトシュが法廷にて誤った証言をしていることを知った.
すなわち「ヴァッタイは,ラカトシュがドイツと交渉することを許可された10月15日,摂政ホルティは退位する意向であると述べました」と.
そんな事実は無かったので,ヴァッタイはそうは言わなかった.
彼らとの会話の中でヘンネイは,そのようなことは決して言われなかったと言った.
ラカトシュは戦後,ヴァッタイはラカトシュとホルティの両方に,故意に誤った情報を提供し,ホルティをドイツの幽閉下に置こうとしていたと述べた.
ラカトシュはまた,ホルティを首尾よく説得して亡命させようとしたと述べ,回顧録にも同じことを書いている.
だが,その出来事と関係のあるすべての人々の文書や回想録を比較すると,それは高い可能性で事実ではない.
ホルティを第三帝国の幽閉下に置くのはヴァッテイの考えであり,ヘンネイだけがそれを証明しうる立場にいた.
一方,ホルティのほうはラカトシュの手紙を「アーカイブ文書」として出版しただけであり,そのことに関する彼自身の著述は無い.
だが,ヘンネイの回想録でも大きな食い違いが見られるため,現代の研究者はラカトシュの述べていることを否定している.
ハンガリーでの共産政権の見せしめ裁判でさえ,裁判官自身が誰かが嘘をついていると指摘している.
1945年1月,ショプロンケーヒダでの多くの将軍が裁判にかけられている中,ヴァッタイも反逆罪で起訴された.
同年2月13日午前9時,裁判が開始され,ヴァッタイは被告席に立たされた.
国家犯罪裁判所はヴァッタイに死刑を宣告する意向だった.
だが2月末,ヴァッタイは胸膜炎にかかった.
ソ連軍が迫るにつれ,3月28日,彼などの囚人たちはドイツへの徒歩移動を強要された.
ヴァッタイはまだ回復したばかりだったので,徒歩で20km歩いた後,それ以上歩けなくなった.
そのためヴァッタイは馬車に乗せられてアイゼンシュタットに運ばれ,そこで荷馬車に乗せられた.
彼はトリフターン近くのグシャイドに移送.
4月14日に到着し,校舎に監禁された.
4月27日,彼はSimbachamInnへ歩くことを余儀なくされました.
5月4日,アメリカ軍がタン Tann に進軍し,囚人は解放された.
ヴァッタイはラジオでホルティもドイツ軍から解放されたと聞き,彼を訪ねることにした.
5月11日,彼はオーバーバイエルンのヴァイルハイムに旅行しましたが,ホルティはすでに同地にはいなかった.
ヴァッタイは彼を探し始めた.
ヴァッタイははアウグスブルクにあるアメリカ第7軍のG-5セクションで,ウルムに行くように言われたと述べている.
彼はなんとかそこにたどり着いたが,彼の身元が特定されたため,5月13日に捕虜になった.
彼はウルムからハイルブロンへど移送され,5月18日に到着.
5月20日,彼はルートヴィヒスハーフェンアムラインの捕虜収容所に連れて行かれた.
6月10日,彼はハイルブロンに連れ戻された.
6月18日,彼はフランスのフカルヴィルに移された.
回想録の中でヴァッタイは,この捕虜収容所に関して一言だけ書いている.
「飢え」
彼は同地で31.G.3.103.0001という囚人番号を付与され,同地で54歳の誕生日を迎えることになった.
8月30日~9月6日,彼は再び馬車で元はSS刑務所だったノイシュタットの捕虜収容所に移送された.
10月14日,彼はヘルツフェルドに移された.
このとき彼は飢餓状態にあり,体重はわずか54kgで非常に衰弱していた.
同月,彼は娘から短い手紙を受け取った.
11月10日,彼はヘルツフェルドに入院.
11月20日,彼はマールブルク・アン・デア・ラーン,ステインラーガー・アレンドルフに移送された.
4月,彼は,1946年5月6日にヴァッタイの娘と結婚した英軍将校ウィリアム・パターソン少佐から手紙を受け取った.
この手紙によって彼は家族が無事であることと,彼らがどこに住んでいるかを知った.
1946年6月,ヴァッタイはようやく解放され,ハンガリーに移送された.
【参考ページ Referencia Oldal】
http://www.bibl.u-szeged.hu/bibl/mil/ww2/who/vattay.html
https://intezet.nori.gov.hu/nemzeti-sirkert/budapest/farkasreti-temeto/vattay-antal-vitez-1930-ig-vetter-antal/
https://live.warthunder.com/post/791641/en/
【質問 kérdés】
戦後のヴァッタイ・アンタルについて教えてください.
【回答 válasz】
1946年6月,ヴァッタイは捕虜収容所から解放され,ハンガリーに移送された.
彼はカポシュバール Kaposvár の filter camp に入り,そこですぐに逮捕され,取り調べが行われた.
しかし幸運にもキャンプの司令官はショプロンケーヒダのヴァッタイの元同僚だったため,すぐに釈放された.
ヴァッタイは家族を探すため,ブダペシュトを旅した.
1944年10月16日以来,彼は家族と会っていなかった.
バルトーク・ベラ通りに,妻が働いていたシュトゥーマー Stühmer 工場のキャンディーショップがあった.
店に入るとすぐに妻に気づき,体育館から帰る途中の息子も現れた.
彼は妻たちから,彼の娘が英国の将校と結婚し,5月11日に英国に旅立ったことを知った.
1950年11月2日,ヴァッタイは秘密警察ÁVH(国家保衛庁)によって逮捕された.
彼はアンドラーシ通り60番地に連行され,尋問と拷問を受けた.
そして彼は戦争犯罪と,「民主主義国家」を打倒する運動に参加したかどで起訴された.
もちろん,彼の元軍人としての階級も再び剥奪された.
数ヶ月の投獄と拷問の末,彼は苦しみから逃れるため,1951年2月28日にニセの自白調書に署名した.
4月2日,起訴.
起訴状の中身は完全にでっち上げだった.
この見せしめ裁判は1951年5月2日に始まり,同年8月10日,ブダペシュト軍事裁判所において,懲役10年の判決を受けた.
獄中の過酷な環境により,ヴァッタイは再び病気にかかった.
1953年4月23日,彼は国立刑務所病院に移送され,6月13日まで入院.
1953年10月9日,彼は同病院に再入院し,重度の骨軟化症その他の病気と診断され・治療を受けた.
1956年6月4日,ハンガリー革命が起こり,彼は恩赦を受けて帰宅した.
しかし彼は毎週,特定の時間に地元の警察署に報告しなければならず,また,午後10時まで自宅にいることとされた.
午前6時には常に点呼されるため,バーやレストランなどに行くこともできなかった.
1957年11月29日,ハンガリー人民共和国の大統領評議会は,ヴァッタイの残りの刑期を保護観察3年に短縮した.
また,骨強化薬のおかげで骨軟化症からもやや回復し,軽作業や教会の仕事に従事することができた.
1966年11月2日,喉頭癌と副腎破裂により,ブダペシュトにて死去.
2001年6月25日,最高裁判所審査評議会は彼を冤罪認定している.
【参考ページ Referencia Oldal】
http://www.bibl.u-szeged.hu/bibl/mil/ww2/who/vattay.html
https://intezet.nori.gov.hu/nemzeti-sirkert/budapest/farkasreti-temeto/vattay-antal-vitez-1930-ig-vetter-antal/
https://live.warthunder.com/post/791641/en/
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