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◆◆◆◆人物 Emberek
<◆◆◆ハンガリー陸軍 Magyar Honvédség a Második Világháborúban
<◆◆中東欧陸軍 目次 Földi Csata Index
<◆大西洋・地中海方面 目次
<第二次大戦FAQ


 【link】


 【質問 kérdés】
 イブラーニ・ミハーイって誰?
Ki az Ibrányi Mihály?

 【回答 válasz】
 ヴァヤとイブラーニの貴族,イブラーニ・ミハーイ Nemes vajai és ibrányi Ibrányi Mihály は職業軍人.

 1895年12月3日,デブレツェン生まれ.
 イブラーニ・デ・ヴァヤ・エト・イブラーニ Ibrányi de Vaja et Ibrány 家は,15世紀まで遡るハンガリーの貴族である.
 この一族は摂政ホルティとも親しい間柄だった.
 摂政ホルティとその家族は,ミハーイの叔父であるイブラーニ・ミハーイ男爵(1863~1939年)の住む,ガルガヂョルク Galgagyörk にあった屋敷をよく訪れていた.
 父親ミクローシュ Miklós (1865年~1925年)は1899年から1904年まで財務官僚,主席議員を務め,また,小説家でもあった.
 母親はコヴァーチ・イルマ Kovács Irma(1873~1912).
 フェレンツ Ferenc (1893~1915),ラースロー László (1897~1944),ジョーヂェフ József (1897~1967),デーネシュ Dénes (1899~1986),ピロシュカ Piroska (1894~1968),オルガ Olga (1910~2010)の6人の兄弟姉妹がいた.

 ミハーイの妻はショルテース・エーヴァ Soltész Éva (1907~1997).
 2人の間にはエーヴァ Éva (生没年不明)という娘がいた.

 ミハーイはデブレツェンの小学校とギムナジウムの第1~4学年を修了.
 1910年,オラデアの陸軍士官学校に入学.
 1914年,卒業.
 当時,彼はドイツ語を完璧に話せたばかりか,セルビア語とロシア語も少し話すことが出来た.
 第一次世界大戦勃発後の1914年8月1日に彼は動員され,ブダペシュトの王立ハンガリー第29歩兵連隊に配属.
 第1大隊司令部付機関銃分隊の長としてセルビア戦線に派遣された.

 同年9月13日,ドリナ川での戦闘で重傷を負い, 入院.
 同年12月,連隊は東部戦線に派遣された.
 1915年3月15日,少尉に昇進.
 同年3月27日,病気にかかった彼は病院への移送中,砲撃により負傷.
 同年11月1日,中尉に昇進.
 回復後,彼は連隊の予備大隊に配属.
 1916年1月,彼はbattalion-on-the-marchの臨時指揮官となり,その後,第1大隊機関銃中隊指揮官となった.
 同年4月,第3中隊指揮官.
 同年6月4日,ドブロヌク Dobronuc でロシア軍の捕虜に.
 1917年11月22日,捕虜交換によりハンガリーに帰還.
 イタリア戦線に派遣され,中隊長,大隊長として戦う.
 イタリア軍との停戦の数日前に病気になり,病院へ.

 1919年,ハンガリー共和国評議会がハンガリー軍を解体したため,ミハーイは職も階級も失う.
 1920年9月1日,彼は国民軍に志願し,以前の階級で軍に再配属.
 彼はミシュコルツ Miskolc の軍管区司令部に配属され,その後,ブダペシュトの歩兵旅団司令部に配属.
 1921年,参謀本部配属.

 1923年9月1日,大尉に昇進.
 同年11月7日,戦史史料館の職員に.
 その間の1923~25年,ルドヴィカ・アカデミー参謀本部訓練コースに参加し,参謀本部付士官に.
 1926年1月22日~1927年1月15日,第5混成旅団司令部に配属.
 その後,参謀本部に配属.
 1929年,彼は参謀本部の予備スタッフに一時的に配属.

 1930年11月1日,参謀本部の訓練室に配属.
 1931年,雑誌「ハンガリー軍事評論」誌に「The Air Force as an element of suprise and its cooperation with the land forces(驚きの要素としての空軍と陸軍との協力)」というタイトルでエッセイを執筆.
 この中で彼は,空軍は陸軍の支援部隊として使われるべきだと述べた.

 1933年5月1日,少佐に昇進.
 同年,「ハンガリー軍事評論」誌に「ハンガリーの戦争における我々の人種的特徴の現れ」というエッセイを発表.
 1934年1月1日,国防省第六課第二室(情報室)の防衛小室の主任に.
 これはスパイ対策部門であった.
 同年,「ハンガリー軍事評論」誌に「人種的特徴に基づく古代の戦闘」と「理性的特徴に基づく現代の戦争」という2つのエッセイを発表.
 1936年,「ハンガリーの戦闘スタイルのためのデータ」というエッセイを発表.

 同年11月1日,中佐に昇進.
 1937年12月13日,国家士官クラブにて「諜報活動と対スパイ活動」と題した講演を行った.
 1938年8月1日,第6混成旅団付参謀となる.

 1939年11月1日,大佐に昇進し,第VI軍団の参謀長となる.
 1940年11月15日,彼は参謀本部第5室の室長となる.
 この部門は部隊の訓練を担当した.
 1941年5月1日,勇爵章受勲者たちから成る「ズリーニ・グループ」において,「国家と軍隊の理想のために奉仕する正規の家族の文化」というタイトルで講義を行った.
 同年12月19日,ドイツ軍の装甲車輌を装備したハンガリー軍部隊の再訓練と装備の交渉に,ハンガリー代表団の一員として参加.
 1942年8月1日,第17歩兵師団司令官に就任.

 同年9月30日,少将に昇進.
 1943年8月10日,第16歩兵師団の歩兵部隊指揮官となり,異なる戦闘グループの戦闘を調整する責任を負った.
 彼はこの地位における先任者であったが,実際には12月までウクライナ占領地域治安維持部隊である第18歩兵師団の臨時司令官だった.
 この師団の戦闘詳報は今日失われているが,パルチザン狩りや,秋のソ連正規軍との小規模な戦闘を行ったことは判明している.
 1944年1月1日~7月2日,第25歩兵師団司令官.
 同年3月22日,同師団に対して前線派遣が発令.
 同年4月25日,ガリチア戦線に到着し,ハンガリー第1軍麾下に.
 しかし,戦車の支援の下,組織だった陣地構成のソ連軍相手に苦戦し,5月には前線が膠着.
 同年8月1日,第1騎兵師団の司令官に就任し,かつ,騎兵部隊の監察官にも任命さる.
 同年8月11日~8月20日,同師団はポーランドのPłońskにて休養と再編成.
 ポーランド国内軍のワルシャワ蜂起の際,ドイツ軍は蜂起鎮圧に第1騎兵師団を投入しようとしたが,イブラーニ・ミハーイ将軍はポーランドとハンガリーの友好関係を理由に,これを断固拒否した.
 それどころか,同師団の補給部隊は,ワルシャワからポーランドの民間人を密航させて安全な場所に連れて行き,時には民間人や内地軍の兵士を守るためにドイツ軍に対して武器を使用したこともあった.
 一方,第1騎兵師団主力は,ワルシャワ目指して押し寄せるソ連軍に対して巧みな拠点防御戦を行い,時には陣地から出撃して白兵戦で赤軍を打ち負かすこともあった.
 その戦闘ぶりはドイツ軍のグデーリアン元帥からも評価された.
 同年9月1日,イブラーニ・ミハーイは中将に昇進.
 9月14日まで第1騎兵師団は防衛拠点に留り,その日からどんどんと前線から戻され,ハンガリーに移された.
 同師団の内,最初の部隊がハンガリーに到着したのは9月末のことだった.
 同年10月に入ると,同師団はソ連軍やルーマニア軍に対して遅延戦術を展開.

 同年10月14日,ホルティ配下の軍事事務局長ヴァッタイ・アンタル Vattay Antal 中将はイブラーニ・ミハーイ将軍を呼び,戦争からの離脱しようとするホルティの試みを支援するため,10月15日に第1フッサール師団をブダペシュトに移すよう要請.
 しかしイブラーニ将軍は,同師団がソ連軍との戦闘を続けていること,また,同師団はドイツ軍の監督下にあったことなどから離脱は不可能だと述べた.
 イブラーニ将軍が矢十字党やドイツ軍に同調していたのか,単にソ連との停戦を拒否したのか,あるいはどうしようもない事情で命令を実行できなかったのかは,今日も判明していない.
 10月15日の出来事における彼の役割については,いまだに議論の的となっている.
 ただし,彼がサーラシ政権下でも軍務に就いていたことは確かである.

 同日以降も,同師団は遅滞戦術を展開.
 同年10月31日,ケチケメートはソ連軍,枢軸軍,ソ連軍と3回に渡って占領者が入れ替わったが,枢軸軍が街を奪還したのは第1騎兵師団の積極的な攻撃のおかげであり,この功績によりイブーラニ将軍は11月26日にドイツの鉄十字騎士章を受章している.
 同年11月1日,ブジ Bugyi にてイブラーニ将軍はソ連軍の空爆により頭部を負傷.
 同年11月15日には第1フサール師団司令官の職を離れた.

 同年12月15日,負傷回復により,彼はハンガリー第1軍第5軍団司令官となり,北ハンガリー(現在のスロバキア)に駐留.
 1945年1月まで重要拠点を守備.
 しかしその後,ハンガリー第1軍は解体され,各部隊は別の部隊の指揮下に置かれた.
 第5軍団の残余部隊はドイツ第8軍の指揮下に入り,徐々に西方のスロバキアへと移動.
 同年1945年3月1日,イブラーニ将軍は,騎兵監察官から歩兵監察官へと転勤し,第5軍団司令官職を解任された.

 彼は連合軍とソ連軍の境界線を越え,第2次世界大戦末期に米軍の捕虜となった.
 しかし連合軍はハンガリー軍の多くをソ連軍に引き渡しており,6月初旬,イブラーニも,オーストリアのツヴェットル修道院の隣にあるソ連の捕虜収容所に収監.
 彼はその後,デブレツェン,キエフ,さらにスターリングラードの捕虜収容所へと移された.
 1949年11月29日,MVD(内務省),MGB(国家保安省),検察庁の共同指令により,ミハーイ・イブラーニは1950年春から25年間強制労働するよう宣告された.
 1950年晩秋,彼は恩赦を受けてハンガリーに帰国.
 しかしハンガリー当局は彼をヤースベレニ Jászberény にて逮捕し,投獄.
 彼はその後,ブダペシュトの強制収容所に入れられた.

 1956年10月8日,釈放.
 その後の生涯を彼はボイラーマンとして過ごした.

 1962年10月19日,彼はブダペシュトで死去した.

 【参考ページ Referencia Oldal】
https://live.warthunder.com/post/796097/en/
https://generals.dk/general/Ibr%C3%A1nyi/Mih%C3%A1ly/Hungary.html
https://www.tracesofwar.com/persons/28072/Ibranyi-Mihaly.htm
https://www.arcanum.com/hu/online-kiadvanyok/Lexikonok-magyarorszag-a-masodik-vilaghaboruban-lexikon-a-zs-F062E/i-j-F0A5C/ibranyi-mihaly-F0A5E/

1枚目:准尉時代のイブラーニ・ミハーイ(1914年)
(図No. faq210828im,こちらより引用)

2枚目:大佐時代のイブラーニ・ミハーイ(1939~42年)
(図No. faq210828im2,こちらより引用)

3枚目:中将時代(1944年)
(図No. faq210828im3,こちらより引用)

枚目:中将時代
(図No. faq210828im4,こちらより引用)

mixi, 2021.9.5


 【質問 kérdés】
 オストヴィツ・フェレンツって誰?
Ki az Osztovics Ferenc?

 【回答 válasz】
 ハンガリー第2装甲師団司令官などを歴任した職業軍人.

 1899年4月25日,ジェール生まれ.
 父親は養豚業を営むオストヴィツ・パール Osztovics Pál(1866~1948)
 母親はラング・ユリアンナ Lang Julianna (1872~1956)
 兄弟姉妹はラースロー László (1897~1974),ヨーヂェフ József (1905~1972),シュテファーニア Stefánia (1903~1991),マグダ Magda (1907~1995),ユリアンナ・ツェツィーリア Julianna Cecília (?~1981)の5人.

 生い立ちについてはあまりよく分かっていないが,ジェールで学校に通い始めたことは確かである.

 1918年,彼はウィーナー・ノイシュタットにあるテレジア・ミリタリー・アカデミーを少尉として卒業したが,第一次世界大戦には間に合わなかった.

 1920~28年,ジェールの第4歩兵連隊の中隊長を務めた.
 この間,彼は少尉~大尉に昇進.

 また,彼はOrlaという名の女性と結婚したが,彼女の姓は不明で,子供がいたかどうかもわかっていない.

 1931年には参謀本部の試験を受け,30年代半ばには少佐に昇進.
  1938年,第2自動車化歩兵旅団の参謀長.
 1939年3月15~18日,ザカルパチアへの攻撃作戦に参加.
 1939年,国防省の第3/B室(自動車輌担当――第3分室(調達・管理))室長.

 彼は『ハンガリー軍事評論』誌に多くのエッセイを書いたが,その多くは機動部隊や装甲部隊に注目したものだった.
 1931年には「人民軍-小さな軍隊」と「遅れた防御」,1933年には「炎の中での攻撃と防御」,1939年には「ザカルパチアの解放-特に第2自動車化旅団の活動に関して」,1940年には「迅速な軍団の戦闘における道徳的力の役割」,1941年には「世界大戦の戦車から装甲高等部隊へ」と「メルドルプでの戦車戦」,1942年には「装甲師団の部隊内での支部の協力」等々.

 1940年,中佐昇進.
 1942年初頭,大佐に昇進し,第4軍団の参謀長となる.
 1943年10月1日,第2装甲師団の司令官に就任.

 1944年3月13日,師団は,サトマールネメティ Szatmárnémeti への部分的な動員命令を受けた.これはルーマニアとの戦争やドイツの占領に備えるものだった.

 同年3月19日,ドイツ軍がハンガリーを占領したため,この動員は中止されたが,師団はドイツ軍に敵意を示すことはなかった.
 同年3月29日,師団は再び動員され,ガリチアに移動.
 同年4月5~11日,師団はシュトリイ Strij に集結.
 同年4月14日,師団はドイツ第11軍団の指揮下に入った.
 同年4月18日,師団はナドビルナ Nadvirna を占領し,コロメア Kolomea に向けて進軍.
 ここで師団は,T-34とレンドリースのM4シャーマン戦車で強化されたソ連の強力な防御に直面し,枢軸軍はこの都市を奪うことができなかった.
 同年5月4日,オットー・モルティズ・ヴァルター・モデル Otto Mortiz Walter Model 総司令官は,師団本部にオストヴィツ大佐を訪ね,ハンガリー第2装甲師団の行動を評価した.
 第2装甲師団のおかげで,第1装甲軍は包囲を免れることが出来た,と.
 ドイツ軍は第2装甲師団にIV号戦車H型,タイガー,シュトゥーグIII型を供与することを決定し,前線からの後送を約束した.

 同年 5月15日,オストヴィツ大佐は第2装甲師団の指揮官を解任されたが,彼が師団を去ったのは6月1日のことだった.
 彼は無任所のまま母国に滞在し,その後,第1軍司令部に短期間所属した.

 同年9月28日から,第24歩兵師団司令官としてカルパチア地方で戦った.

 同年10月6日,セゲド近郊のティサ川に駐留する第23予備補充師団に配属.
 同年10月13日,その指揮を執ることになった.
 この師団はすでに大きな損害を受けており,ハンガリー第3軍の中で最も戦意喪失した部隊だった.

 同年10月15~16日,ドイツは反ホルティ・クーデターであるパンツァーファウスト作戦を実行.
 これに対してオストヴィツ大佐の部隊は,何のアクションも起こせず,摂政ホルティの布告を聞いても彼は
「これは運命だ」
と答えるだけだったという.

 同年10月29日,ソ連軍の砲弾が,当時キシュテレク Kistelek付近に駐屯していた第23予備補充師団司令部に命中.
 オストヴィツ大佐は重傷を負った.

 同年11月1日,彼は少将に昇進.

 負傷から回復した彼は,当時ナジドログ Nagydorog に駐屯していた第23予備補充師団の指揮官に復帰.
 同年12月1日,師団司令部はツェツェ Cece に移動.
 同日,オストヴィツ少将は,同師団が所属していた上位組織である第8軍団の参謀長オットー・ハッツ Ottó Hatz 大佐から手紙を受け取ったが,この手紙の中で,ハッツ大佐はオストヴィツ少将にソ連軍側につくよう求めた.
 だがオストヴィツ少将はそれを拒否し,赤軍との戦いを続行.

 同年12月10日,彼は第23予備師団の指揮官を解任.
 ハンガリー第3軍の督戦部隊長に任命さる.

 第3軍の戦闘指揮は12月に終了し,ナジグマーンド Nagyigmánd に移動.

 1945年3月1日,暫定国民政府の国防大臣ヴェレシュ・ヤーノシュ Vörös János は大臣令を発布し,暫定国民政府はオストフィツの少将昇進を認めないとした.
 この大臣令によれば,ホルティ自身が発令した昇進人事を除き,サーラシ政権が行った昇進は公式かつ合法的なものではないものとされた.

 1945年3月,ハンガリー第3軍は活動を再開.
 ドイツ第6軍と共にバルック Balck 軍集団を編成し,ヴェレンツェ Velence 湖~エスツテルゴム間の前線を守った.
 しかし,ソ連の激しい攻撃で第3軍は戦線を突破され,ドナウ河畔のニェルゲシューイファル Nyergesújfalu まで撤退を余儀なくされた.
 3月25日,第3軍はドナウ川を渡り,ジトニー・オストロフ Žitný ostrov まで後退.
 その後オーストリアに向かった.

 1945年5月8日,第3軍はオーストリアのリンツでアメリカ軍に降伏.

  1946年,オストヴィツは連合軍の捕虜収容所から帰国したが,当局から身を隠した.
 1948年6月17日,彼は政府令により大佐に降格.
 1948年9月2日,彼は共産政府によって投獄.
 処刑されることを恐れた彼は,ジェールで自殺した.

 【参考ページ Referencia Oldal】
https://live.warthunder.com/post/801658/en/
https://generals.dk/general/Osztovics/Ferenc/Hungary.html
https://www.genealogy.com/ftm/m/a/n/Zoltan-Manyoki-Kanata/WEBSITE-0001/UHP-0054.html

1枚目:参謀本部時代のオストヴィツ大佐
元は白黒写真だったものをデジタルで色彩復元
(図No. faq210821of2,こちらより引用)

2枚目:1列目,左からラカトシュ准将 Lakatos vezérezredes, モデル将軍 Model tábornagy,そしてオストヴィツ大佐.第2装甲師団時代.
(図No. faq210821of3,こちらより引用)

3枚目:ドイツ軍将校と話す,第2装甲師団司令官時代のオストヴィツ大佐
1944年5月
(図No. faq210821of4,こちらより引用)

4枚目:第2装甲師団司令官時代のフェレンツ・オズトヴィックス大佐
ジャベリンジャケットと乗馬用ブリーチを着用している
Osztovics Ferenc vezérkari ezredes a 2. páncéloshadosztály parancsnoka zsávoly zubbonyban és lovagló nadrágban
(図No. faq210821of,forepanより引用)

mixi, 2021.8.26


 【質問 kérdés】
 ソンバトヘイ・フェレンツって誰?
Ki az Szombathelyi Ferenc ?

 【回答 válasz】
 ソンバトヘイ・フェレンツは第二次大戦ハンガリー軍の参謀総長で,ホルティ・ミクローシュの側近.
 第一次大戦にも従軍した職業軍人で,カラパチア集団を率いて独ソ戦に従軍した後,1939年に参謀総長就任.
 終戦後逮捕,ユーゴスラビアへ引き渡され,同国での戦争犯罪により銃殺刑となったが,後にこれは冤罪と確定した.

*     *     *

 1887年3月17日,ジェール市民クナウツ・フェレンツ Knauz Ferencとソンバトヘイ・アンナ Szombathelyi Anna との間に生まれる.
 父親は一説には靴屋であったとも言われる.
 1902年秋,ペーチの王立ハンガリー軍士官学校入校.
 1906年8月18日,ニトラの第14陸軍歩兵連隊に軍曹として赴任.
 1907年11月1日,彼は中尉に昇進し,連隊の技術士官に.
 1910年10月1日,ブダペシュトの上級士官課程へ.
 1911年8月31日,「非常に良い」評価を得て研修終了.
 1911年10月,ウィーンのKriegsschule(陸軍士官学校)入学.
 1912年11月1日,准佐.
 1914年,ウィーンで勤務した後,第VI軍団に.

 1914年7月28日,第一次世界大戦勃発.

 1915年7月1日,参謀長.
 1916~17年,第39師団参謀長としてトランシルヴァニアの最前線で戦った後,国防省勤務.
 帝国鉄十字三等勲章受章.

 1918年10月31日,オーストリア=ハンガリーが崩壊し,ハンガリー人民共和国成立.

 1919年,ハンガリー赤軍本部の諜報部門に勤務.
 1919~21年,軍区司令部または第3旅団司令部に勤務.
 1921年以降,参謀本部の作戦部門に異動.
 1922年9月1日,少佐昇進.
 1926年5月1日,中佐昇進.
 1926年9月15日,ルドヴィカ陸軍士官学校の歴史教授に.
 1929年11月1日,参謀本部付大佐に.
 1931年9月1日~1933年5月1日,第3混成旅団参謀長.
 1933年5月1日,軍総司令官の補佐官としてブダペシュトに赴任.
 1934年,ハンガリーふうの姓であるソンバトヘイを名乗り始める.
 1935~36年,軍最高司令部副官.
 1936年8月1日,ルドヴィカ学校の校長に.
 1937年5月1日,少将昇進.
 1938年10月,参謀次長.
 1939年1月15日,新設の第7軍団司令官に.
 1939年11月1日,中将昇進.

 1941年8月1日,独ソ戦に派遣する機械化部隊カルパチア集団司令官に任命さる.
 同部隊は第1山岳歩兵旅団,第8国境警備旅団,ダールノキ・ミクローシュ・ベーラ将軍の快速軍団(第2騎兵旅団欠),兵員44,500人から成っていた.
 同部隊はドイツ第17軍の編成下に入ってガリツィアに侵攻.
 ドニエストル川渡河にも成功したものの,戦闘での損害は甚大.
 そのためその後,ソ連占領地域保安部隊の責任者に.
 1941年9月6日,退役したヴェルト・ヘンリクの後任として総参謀長に.
 ソンバトヘイの路線は,ドイツにたいする戦争協力を極力少なくし,ハンガリーの戦力維持に努めるというものだった.
 また,軍規の厳格化を行い,「1942年のノヴィサドの虐殺」についての軍法会議を開廷.
 1941年11月1日,大将昇進.
 同年10月23日,ハンガリー王室枢密顧問.
 1942~43年冬,第2軍壊滅によってハンガリーは枢軸軍の中での役割をいっそう減じようとし,ソンバトヘイはヒトラーに対し,対ソ戦線ではなくバルカン半島占領維持のほうへ派兵する旨提案.
 ヒトラーはこれを歓迎したが,カーライ・ミクローシュ首相がこれを拒否.
 1943~44年,連合軍側との接触を図るが,成果を得られず.
 1944年3月18日,ドイツによるハンガリー占領に際し,ハンガリー軍の実情を鑑みて,抵抗は無意味であるので占領を受け入れるべしとホルティに提言.
 1944年4月19日,ドイツの圧力により,ソンバトヘイは解任され引退.
 同年夏,極右系マスコミがソンバトヘイ糾弾を開始するが,参謀総長ヴェレシュ・ヤーコブ JánosVörösはそれを阻止.
 1944年10月11日~12日,ソンバトヘイとその同僚は参謀本部に連行.
 無罪とはなったが,矢十字党政権はその判決を承認せず.
 ソンバトヘイは逮捕され,ショプロンケーヒダ Sopronkőhida,更にはドイツに移送されるが,終戦となり,米軍によって解放さる.

 戦後,新政府は共産党の圧力により,戦争犯罪人として米軍への照会を行う.
 1945年6月19日,ソンバトヘイは降格された後,軍から追放.
 1945年10月23日から拘留.
 1946年5月22日,人民裁判において人々に対する犯罪と公権力乱用の罪で有罪となり終身刑を宣告.
 同年,リエシュ・イシュトバーン Ries István 法相はソンバトヘイをユーゴスラビアに不法に引き渡す.
 彼は拷問を受け,同国のペトロヴァラディンの戦犯法廷において,ユーゴスラビア領内での戦争犯罪のかどで死刑を宣告さる.
 同年11月,銃殺刑執行.

 1994年3月16日,ハンガリー最高裁は,ソンバトヘイの人民裁判での有罪判決を冤罪として,彼に無罪を宣告した.

 【参考ページ Referencia Oldal】
https://hu.wikipedia.org/wiki/Szombathelyi_Ferenc
https://www.arcanum.hu/hu/online-kiadvanyok/Lexikonok-magyar-eletrajzi-lexikon-7428D/sz-77C95/szombathelyi-ferenc-78065/
http://www.bibl.u-szeged.hu/bibl/mil/ww2/who/szombathelyi.html
https://core.ac.uk/reader/160926174

Szombathelyi Ferenc vezérezredes szemleútja a keleti hadszíntéren
東部戦線を視察するソンバトヘイ大将

1枚目:肖像画
(図No. faq200806sm2,こちらより引用)

2枚目:Budapest, 1945. október Háborús bűnös foglyok sorakoznak ebédosztáshoz az Andrássy út 60. pincéjében, a Politikai Rendészeti Osztály (PRO) épületének alagsorában. (Szombathelyi Ferenc volt vezérezredes, mögötte Rátz Jenő, a Sztójay-kormány volt miniszterelnök-helyettese, Basch Ferenc, a magyarországi Volksbund vezetője, Szakváry Emil, a Szálasi-kormány iparügyi minisztere, gr. Pálffy Fidél volt földművelésügyi miniszter és Kolozsváry-Borcsa Mihály volt sajtófőnök.) MTI fotó/MAFIRT: Bass Tibor
1945年10月,ブダペシュト.アンドラーシ通り60番地にあった政治犯局(PRO)の建物の地下室で,昼食のために並ぶ囚人たち.
先頭がソンバトヘイ・フェレンツ
以下,
ストーヤイ政権時代の首相ラーツ・イェネー,
ハンガリー国民同盟理事長バシュ・フェレンツ,
サーラシ政権時代の産業・総務相サクヴァーニ・エミル,
元農相パールフィ・フィデール男爵,
宣伝相コロヂュヴァーニ=ヴォルツァ・ミハーイ
MTI写真/ MAFIRT:バッシュ・ティボールによる撮影

(図No. faq200806sm,こちらより引用)

mixi, 2020.8.6


 【質問 kérdés】
 ケーメリ・ナジ・イムレって誰?
Mi az Kémeri Nagy Imre?

 【回答 válasz】
 ケーメリ・ナジ・イムレ(現ルーマニア・ビュルゲズ,1903.3.27 ~ ワルシャワ,1942.4.13)は冬戦争に派遣されたハンガリー人義勇兵大隊の隊長であり,矢十字党の国家社会主義活動家.

 1903年3月,トランシルヴァニア,シラージ郡ビュルゲズの生まれ.
 1919年に彼は家から飛び出して,トランシルバニアのために戦うセーケイ人師団に参加したが,そのとき彼は16歳にも達していなかった.
 出身地シラージ郡で彼は地元の人々,特に若者をルーマニア人に対してけしかけていたので,1922年,トリアノン条約(によってトランシルヴァニアがルーマニア領となった)後,同条約による定義上のハンガリーへと彼は逃亡せねばならなくなった.
 そして1925年には軍隊入りするが,その1年後には部隊が解体してしまう.

 その後,ブダペシュトにおいて,法学部,人文科学科の学生となる.
 そして学生軍事団体「トゥルル・ウェルベーツィ同志会」の「主席射撃手」であり,「ハンガリー全国防衛連盟」(MOVE)とトゥルル同志会との間を繋ぐ組織指導者の一人(1926~28)となる.
 MOVEは反共を掲げた民間軍事団体.
 ゲムペシュ・ジュラが率いていた.
 ケーメリ・ナジ・イムレ自身の回想によれば,彼はゲムベシュ・ジュラとも密接な関係にあったという.

 1928~29年に兵役につき,そしてブダペシュトの大学で高校教師の資格を取得(1932).

 その後は臨時職で生計を立てた.

 1937年夏,バログ派のハンガリー国家社会主義党に入党し,その青年組織の指導者となった.
 バログ・イシュトヴァーン Balogh István はカトリックの司祭だったが,反共の立場からナチズム信奉者となり,デブレツェンで国家社会主義者党を結党した.
 ただしハンガリー語版wikipediaでは,バログの1930年代のナチズム政党歴については触れられていない.
 その後,ハンガリーの国家社会主義政党諸党は矢十字党に合流する.

 彼は極右的な記事を書いたかどで,懲役刑を数度宣告された.
 また,彼は消耗部隊を組織し(1936),社会民主党の青年組織との抗争をたびたび繰り返した.

 1930年代後半のケーメリ・ナジの目標は,トゥルル同志会が完全に国家社会主義運動陣営となるよう導くことだった.
 そのため,彼は大学においてしばしばユダヤ人殴打事件の主犯となり,短期間刑に服すること数度.
 1937年2月には,「ユダヤ人映画」排斥運動を起こしている.
 1937.2.22,いわゆるフェレンツ・ヨーヂェフ岸壁(現:第9フェーヴァーム広場9)において組織[トゥルル同志会]は総会を開催した.
 「トゥルル城」,すなわち組織本部では数千人が参加した.
 この場所において――暴力的な反セム主義の兆候のある中で――サボー・ジュラは,公教育の場からのユダヤ人完全排除を求めた.
 さらにヴェグヴァリ・ジョーヂェフも,ユダヤ人はハンガリー民族を"台無し"にし,彼らのせいで社会的な問題が起こると述べた.

 ケーメリ・ナジ・イムレ教師補は,さらに学生達を煽動したした.
 「陽気な出来事」と題されたコメディ映画――彼の言葉によれば,「不潔なユダヤ人の映画」――が公開されることに言及しながら,ユダヤ人を諸悪の根源呼ばわりした.
 この映画は,「若者がハンガリー民族への侮辱を見ることになる,純度100%のユダヤ人映画」とされた.
 実際に「Lovagias ügy」を見てもらえば分かるように,どうということのないコメディ映画でしかないのだが…

 更に彼は,その朝のペーチでの出来事についても言及した:
 これは,大学評議会が過去に全ハンガリ=イスラエル大学および学生協会のPécsグループの後援を引き受けていたという事実に対し,ti.エルジェーベト工科大学の極右学生のグループが午前11時に抗議集会を開催し,300人が集まった,と彼は述べた.
 極右学生団体代表からの請願書がダムブロヴスキ・イムレ学長へ渡された.
 この請願書はヌメルス・クラウズス(全国的な入学制限の制度,ラテン語)復活と警備の変更を要求していた.
 抗議のための3週間の授業不参加,また,ユダヤ人講師の授業をボイコットするよう訴えかけるビラも,学生たちに配った.

 トゥルル同志会の総会の後,ケーメリ・ナジの主導で80~100人の若者が「フォーラム・シアター」前でデモを行った.
 なにやら,本邦で過去に発生した,映画『万引き家族』に対する極右の難癖を彷彿とさせる話である.

 その後,群衆指導者間で喧嘩があり,その際ケーメリ・ナジはこんなことを言った:
「この映画に興味があるやつはみんな,ユダヤ人の映画と共に滅びるだろう」
「ここで千人もの観客がユダヤ人映画を見に行く」
「ハンガリーの精神とハンガリーの人々とを汚染する,このような作品には我慢ならないので,演目からすぐに削除するよう経営者に呼びかけた」

 また,矢十字党はホルティの国王即位運動にも熱心で,たとえば1937/11/28,デブレツェンで矢十字党は集会を開いたが,そこではとりわけ地元の青年層の「指導的人物」が登場した.
 バログ・イシュトヴァーン,サーラシ・フェレンツ,そしてケーメリ・ナジ・イムレといった面々.
 集会では,出席者たちが摂政ホルティ・ミクローシュを王であると「叫ん」で終了.

 その翌日,ケーメリ=ナジはデブレツェンのティサ・イシュトヴァーン Tisza István 大学へ行って,地元のトゥルル団体とその加盟団体のリーダーの元を訪れ,明日の午後,コッシュート像の前まで行進して,ホルティ王の戴冠に賛同するデモを行うよう呼びかけた.
 次のような文言から成るリーフレットも,デブレツェンの大学の学生の間にバラまかれた.
「ハンガリーの学生諸君! 国民は日曜午後,デブレツェンにおいて国王を選んだ!」
「何百万人という人々の夢が叶ったのは,進歩と繁栄の前に立ちはだかる壁を,我々が打ち破ったからである!」
「新世紀への扉が遂に開かれる!」
「1937.12.5午後7時に,王宮の中庭を隊列で埋め尽くし,そして中世の誓いを行おう:」
 このアジビラの執筆者としてケーメリ・ナジ・イムレの名が記載されていた.
 だが,警察の行動によってチラシは押収され,ケーメリ・ナジは街から追い出され,全ての青年協会施設は閉鎖され,計画されていたデモは協会の理事達を通じて阻止された.

 ケーメリ・ナジ・イムレはこの件により,短期間投獄している.
 当時,ホルティは国家社会主義勢力を抑えるため,サーラシらをたびたび微罪で逮捕させており,ナジの度重なる逮捕もそうした抑制策の一環と思われる.
 伝統保守派であるホルティは国家社会主義運動を嫌悪していたので,この国王即位運動はかえって逆効果になっただろうことは想像に難くない.

 1938年,トランスカルパチアの「ロンジョス・ガールダ」の分隊長の一人となる(1938–39)
 「ロンジョス・ガールダ("非正規防衛隊"の意味)」は白色テロで悪名高い非正規武装勢力.
 ハンガリー・ソヴィエト打倒に加わった後,少なくとも2桁の数の共産主義者やユダヤ人を拷問して殺害している.

 冬戦争ではフィンランド派遣義勇兵部隊の長となり(1941年2~3月),また,隊員の多くが冬戦争に義勇兵参加.
 冬戦争に参加するハンガリー人義勇兵は,万を超える応募者の中から,未婚で兵役を終えており,犯罪歴が無い者が選抜されたが,隊長のケーメリ・ナジ・イムレは例外だった.

 しかしドイツがこの部隊の通過を拒否.
 そのためフィンランド到着が遅れ,同地で冬季戦の訓練中に停戦成立.
 同部隊は停戦後に国境警備をしたのみで,帰国する.

 ちなみに,停戦後の3月末にマンネルハイム元帥が部隊を訪れ,将校16名に対して2級白薔薇騎士十字章を,ケーメリ・ナジ・イムレに対して1級白薔薇騎士十字章を授与し,彼を大尉に昇進させた.
 この昇進はハンガリー軍参謀本部からも承認された.

 帰国後,(第2次ウィーン裁定に基づく)北トランシルヴァニア進駐に参加(1940.9).

 現地ではルーマニア人住民とハンガリー人住民の間で衝突が発生.
 また,進駐してきたハンガリー軍に対するテロが発生したとの噂が駆け巡り,ハンガリー兵の不注意による事故も,テロと思われてしまうなど,疑心暗鬼も生まれていた.

 伝えられるところによれば,9/9,連隊の行軍列への銃撃があり,その後,排莢されていない弾丸が路上にあったという.
 周囲の森に潜む武装集団と銃撃の報告を聞き,ベデー・ヂョルト Bedő Zsolt 中尉の指揮の下,ブダペシュトの第32歩兵連隊から抽出された武力制圧部隊が シラージップ村 Szilágyipp に出動した.
 連隊の司令官代理はヴァシュヴァーリ・ゾルターン大佐だった.
 兵の報告によれば,9月13日夜,村で家宅捜索中,地元民ではない18人の武装集団を発見,「逃走を試みたので」2人以外全員を射殺したという.
 司令官(ヴァシュヴァーリ)はそのとき,村に火を放つよう命じたとされているが,村の人口の70%がハンガリー人であり,ルーマニア人の家は散在しているに過ぎないという事実を民兵から聞かされて,彼はガッカリした.

 その後,地元のハンガリー人民兵が率いる特別行動部隊の隊員は6つの隊に分かれ,ルーマニア人が住む家を一軒一軒捜索し,罪のない民間人を年齢・性別を問わず殺し始めた.
 夜明けまでに,高齢者,女性,子供を含む154人(158人説もあり)のルーマニア人住民が殺された.
 名前から45人の犠牲者は特定されている.

 報告書は武力攻撃について言及している.
 一方,ルーマニア人は,兵の報告によれば,教会の塔からハンガリー人を撃ったことは認めたが,組織的な行動については地元民から情報は得られなかったという.

 死体は翌日,正教会の墓地の集団墓地に埋められ,そして部隊は村を去った.

 幾つかのハンガリー側資料によれば,ケーメリ・ナジ・イムレの民兵部隊も,この行為に加わったという.

 第二次大戦では東部戦線にてパルチザンとの戦いで負傷し(1942.3),ワルシャワの軍病院で死亡した.
 上述の虐殺事件により,彼は起訴されていたが,戦死したことで公訴棄却となっている.

 【参考ページ Referencia Oldal】
https://www.arcanum.hu/en/online-kiadvanyok/Lexikonok-magyar-eletrajzi-lexikon-7428D/k-760F2/kemeri-nagy-imre-76309/
https://mek.oszk.hu/00300/00355/html/ABC07165/07700.htm
https://magyarhang.org/kultura/idogep/2019/12/29/sielo-kisertetek-magyar-rohamsisakban/
https://magyartudat.com/a-katonatiszt-aki-horthy-miklost-kikialtotta-kirallya/
http://epa.niif.hu/00900/00995/00027/pdf/kerepeszkir11-3.pdf
https://finlandabroad.fi/web/hun/ajankohtaista/-/asset_publisher/TV8iYvdcF3tq/content/kenraaliluuttnantti-ilkka-kyla-harakan-puhe-talvisodan-muistopaivana/384951
http://www.multesjovo.hu/hu/aitdownloadablefiles/download/aitfile/aitfile_id/187/
http://konfliktuskutato.hu/index.php?option=com_maps&view=map&event_id=419&tmpl=dka&Itemid=204
http://beszelo.c3.hu/cikkek/felrevarrt-szalak
https://nezozug.prae.hu/2171-lovagias-ugy-1937/

(仮訳)
https://togetter.com/li/1587507

肖像写真
冬戦争時の義勇兵の制服を着用している
(図No.faq170809fn2i,こちらより引用)

トゥク港において,オスカー・エンケル将軍(背中を向けている人物)により解散を告げられている,帰国の途につくハンガリー人大隊
将軍の正面に立っているのがケーメリ・ナジ・イムレ隊長(原出典:ウィキペディア・コモンズ)

(図No.faq200912ni,こちらより引用)

mixi, 2020.10.18


 【質問 kérdés】
 ヂェデーニ・ゾルターンって誰?
Ki az Zsedényi Zoltán?

 【回答 válasz】
 勇爵貴族ヂェデーニ・ゾルターン vitéz nemes Zsedényi Zoltán は職業軍人.

 1897年7月22日,コシツェ生まれ.

 父親はオーストリア・ハンガリー軍の将校で,中佐で退役した貴族ヂェデーニ・ヨーヂェフ Zsedényi József (1869~1932).
 母親はイワニシェヴィッツ・ルイザ Ivanisevic Lujza (1877~1904).
 ラースロー László (1899~1945),ミクローシュ Miklós (1901~????),ヂェルヂ György (1904~????)の3人の兄弟がいた.
 母親の死後,父はローザ・ウィンクラー Róza Winckler (1875~1959)と再婚し,4人の兄弟には異母姉エルヂェーベト Erzsébet (1910~????)が加わった.
 ちなみに父親の元の姓はプファンシュミット Pfannschmidt だったが, 1875年9月17日,時の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は,ゾルターンの祖父に当たるトリディオン・プファンシュミット Tridion Pfannschmidt に対し,彼と子供の姓をヂェデーニに変更することを許した.

 ヂェデーニ・ゾルターンは1915年にギムナジウムを卒業し,兵役に志願.
 王立ハンガリー・ホンヴェード第3野戦砲兵連隊(後に王立ハンガリー・ホンヴェード第39野戦砲兵連隊に改称)の少尉となり,第一次大戦において東部戦線でロシアと戦った.
 1916年5月1日に少尉昇進.
 1916年8月から彼の部隊はトランシルヴァニア戦線に送られ,1917年11月1日まで同地で戦ったが,彼は共通軍第27野戦砲兵連隊(後にk.u.k. 第127野戦砲兵連隊に改称)に再配属され,イタリア戦線に送られた.
 ピアヴェ川の戦い(第2次カポレット戦,いわゆる「ヴィットリオ・ヴェネトの戦い」)に参加し,その後モンテ・グラッパの戦いでは砲兵隊の連絡将校を務めた.
 1918年,中尉に昇進したが,第一次大戦は終戦を迎えた.

 戦後,彼はミシュコルツ Miskolc の砲兵大隊に配属され,その後,河川部隊に配属された.
 1923年に上級士官訓練コースを修了し,1924年には軍令課程を修了して参謀となった.

 この頃,彼はレオノア・コルネーリア・クレップ Leona Kornélia Klepp (1898~1971)と結婚し,息子エレード Előd (1924~1944)をもうけている.

 1925年,志願兵として軍歴をスタートさせていた彼は,階級に応じた適切な知識を身につけるべく,ルドヴィカ・アカデミー入学.
 1927年,大尉昇進.
 1928年,ルドヴィカ・アカデミー卒業.
 1928~29年,彼は第7混成旅団司令部に勤務し,そして輓馬砲兵の課程を受講.
 1929~31年,国防省第6事務所第1分科会勤務.
 これはトリアノン条約で制限されていたはずの,秘密の参謀本部だった.
 1929~42年,彼は多くの研究やエッセイを書き,国家士官クラブで講義を行った.
 1931年,第1混成旅団司令部に再度配属.
 1933年,河川部隊の参謀に就任.
 1935年,少佐に昇進.
 1936年,河川部隊の参謀長となった.
 1939年,中佐に昇進し,ルドヴィカ・アカデミーの講師を務めた.
 1940年6月15日,国防大臣補佐官.

 1941年2月1日,快速軍団の参謀長となり,ユーゴスラビア侵攻やバルバロッサ作戦に参加.
 同年5月1日,大佐に昇進.
 1942年2月15日,国防省の局長級のトップとなった.
 同年5月,摂政軍事局副局長.
 同年11月15日,再び国防省の国防省の局長級のトップに.
 1943年8月1日,少将に昇進.
 1944年5月1日,第1装甲師団司令官.
 同年5月15日,第2装甲師団に転属.
 同年6月1日,同師団司令官.
 ルーマニアが寝返った後,第2装甲師団はトランシルヴァニアに配置され,9月17日から10月7日までハンガリーの第25歩兵師団とともにトゥルダをソ連・ルーマニア軍から防衛.
 この戦いの間,ヂェデーニ将軍は作戦機動を担当し,第25歩兵師団司令官であるホローシ=クティ Hollósy-Kuthy 将軍は防衛を担当した.
 ヂェデーニ将軍自ら攻撃を指揮することもあった.
 トゥルダ戦後,第2装甲師団はティサ川まで後退.
 その後,さらにドナウ川まで押し戻されたが,その間は主に後方支援の任務に就いていた.
 休戦を呼びかける摂政ホルティの布告は,ティサ川に後退していた第2装甲師団にも届いたが,それでも戦闘を継続した.

 同年,息子エレードはルドヴィカ・アカデミーを卒業して少尉となり,同年セントゴットハールド Szentgothárd にて死亡している.

 1945年1月1日,彼は司令官職を解任され,無任所となった.
 1945年3月1日,彼は再び第2装甲師団の指揮を任され,「春の目覚め」作戦で同師団を指揮.
 1945年3月29日に記録されたミクローシュ・ベーラ政権(暫定国民政府)の閣議録によると,ヂェデーニ将軍の戦闘継続は矢十字党を助けることになったため,ヂェデーニ将軍は戦犯のレッテルを貼られたという.
 第2装甲 師団はオーストリアへの撤退を続け,連合国側に降伏しようとしたが,ドイツ軍に見捨てられ,ハンガリーの部隊は後方支援で戦うことになった.
 部隊の一部は連合国側に到着することができたが,大部分はオーストリアのシュタイアーマルクでソ連軍に捕らえられた.
 1945年5月11日,ヂェデーニ将軍はソ連軍の捕虜となった.
  彼はソ連の様々な捕虜収容所に入れられたが,最後に収監されたところはスターリングラードだった.
 1950年12月12日,彼は恩赦を受けてハンガリーに戻ったが,すぐにハンガリー政府に捕らえられ,投獄された.
 同年5月29日,彼は継続的な戦争犯罪で起訴.
 同年12月6日,降格,資産の完全没収,無期懲役の判決を受けた.
 1956年9月,彼は刑期は15年に減刑.
 1957年3月15日,恩赦により釈放された.
 彼は様々な場所で働き,1966年にはスポーツ病院の洗濯係を務めた.
 1979年10月27日,ブダペシュトで死去.

 【参考ページ Referencia Oldal】
https://live.warthunder.com/post/803751/en/
https://www.arcanum.com/hu/online-kiadvanyok/2vhSzakkonyv-magyarok-a-ii-vilaghaboruban-2/az-ihnetov-munkanaploja-vitez-beldy-alajos-vezerezredes-hadtortenelmi-leveltarban-orzott-irataibol-19411943-82D0/fuggelek-A02A/a-munkanaploban-szereplok-eletrajzi-adatai-A1B6/zsedenyi-zoltan-jozsef-sandor-vitez-nemes-AA3C/
https://generals.dk/general/Zsed%C3%A9nyi/Zolt%C3%A1n/Hungary.html
https://www.arcanum.com/ro/online-kiadvanyok/2vhSzakkonyv-magyarok-a-ii-vilaghaboruban-2/erdely-ismet-hadszinter-1944-szovjetnemet-es-romanmagyar-parhuzamos-haboru-magyarorszagon-2418/fuggelek-298C/kepek-es-vazlatok-328A/resztvevok-328B/

ヂェデーニ・ゾルターン(大佐時代)
(図No. faq210814zz,こちらより引用)

mixi, 2021.8.19


 【質問 kérdés】
 バランカイ・ヨーヂェフって誰?
Ki az Barankay József?

 【回答 válasz】
 バランカイ・ヨーヂェフは第二次大戦のハンガリー陸軍将校で,ズリーニ突撃砲大隊創設時の指揮官.

 1909.10.2,ノヴィサド生まれ.
 彼の父親はデムヤノヴィツという名だったが,後にハンガリーふうのバランカイという名に改めた.

 一家は第一次大戦後,まずブダフォクへ,次いでバーシャルマーシュへと移り住んだ.

 彼の兄弟,デムヤノビツ・エンドレは医師であり,1935年からバーチャルマーシュ地区の最高裁判事室で巡回医師として働いており,また,その間,農業高校で健康科学を教えてもいた.

 バランカイ・ジョーヂェフは,ブダペシュトでギムナジウム課程を修了.
 彼の母親と兄弟は1949年までにバーチャルマーシュに住んだが,彼はまだブダフォクに住んでいた.

 卒業後,1927年から,ジェールサバドヘジのハンガリー王国軍第2砲兵大隊において兵役に服し,その後カルパソマーニョシュの下士官学校を終了し,伍長となった.
 このカルパソマーニョシュとは,高校卒業後に1年間の軍事訓練を受けることができる制度.
 1882年に遡るもので志願制.
 兵役制度を補完することが目的で,予科練制度とでも訳すのが適切か.

 閑話休題,このとき彼はルドヴィカ・アカデミーに入学申請.
 これと並行して当時設立されたズリーニ・ミクローシュ・アカデミーへの入学をも申請していたが,結局1928年にルドヴィカ入学.

 1932.8.20,砲兵准士官.
 ニーレジハーザ駐屯のハンガリー王国軍第2砲兵大隊の中隊指揮官として,彼は将校としての第一歩を踏み出した.

 1935.11.1,中尉昇進.

 1937~41年,ルドヴィカにおいて最初,保護監察官[適訳不明]として,次いで砲兵教官として勤務.
 常に規律ある兵士として,全ての士官候補生に愛国心を行き渡らせる,厳格で筋の通った教官として尊敬されたという.

 ルドヴィカ・アカデミー勤務の後,1941年5月1日に大尉付に昇進し,ブダペシュトの第1砲兵大隊の砲兵中隊を指揮した.

 そこに第2軍動員のニュースが入り,最前線に志願することを彼は決意した.

 1942~1943年,第2軍の装甲師団の自動車化砲兵中隊指揮官として,ドン川戦線の戦闘に参加.
 彼は数回受勲し,また,数回負傷し,幾つかの勲章を受勲.

 1944年初頭,彼は全く新しい部隊,突撃砲部隊を設立するよう命じられた.

 3個中隊から成る部隊の長として,カルパチア山脈北東の戦線において,数ヶ月に渡る防衛戦に成功した.

 1944年春には,2個中隊から成る部隊を率い,ガリチア,オッティニアの東において1個連隊を殲滅.

 1944年6月,部隊の突撃砲のうち一両が,エンジン故障により敵陣近くに取り残された.
 それを知った時,彼自ら急行し,その突撃砲を自陣後方へ撤退させた.

 1944年6月の終わり,ある中隊への至近弾となった空爆により戦死.

 将校勇猛黄金勲章は彼の母親に,ビルニッツァー少佐が授与した.

 2012年,ハンガリーの戦没者墓碑管理の専門家によって,彼の遺体がウクライナにて発見された,
 そして特別に大臣の許可を得て母国に持ち帰られた.
 以後,彼はリエカの墓地で永遠の眠りについている.

 【参考ページ Referencia Oldal】
https://www.adontes.hu/alkotasok/magyar-hosok-arckepcsarnoka/barankay-jozsef
http://nevpont.hu/view/2264
http://www.vitezirend.com/rovatok/hirek/a-hadisirgondozas-kiemelt-feladat/
https://filmhiradokonline.hu/watch.php?id=5831
https://www.youtube.com/watch?v=CRcwVg3bs48
http://www.bacsalmas.hu/index.php?option=com_content&view=article&id=3139:2019-11-05-15-34-12&catid=59:kozelet&Itemid=231
http://www.bacsalmas.hu/index.php?option=com_content&view=article&id=697:vitez-nemes-barankay-jozsef-rohamtuezer-szazados-ujratemetese&catid=59:kozelet&Itemid=231

肖像画
(図No.faq200730br,こちらより引用)

将校勇猛黄金勲章授与の模様
https://filmhiradokonline.hu/watch.php?id=5831#

mixi, 2020.8.20


 【質問 kérdés】
 ボジョキ・ヤーノシュ Bozsoki János とは?

 【回答 válasz】
 1918.4.4生まれ.
 第2軍に所属して対ソ戦線で戦い,1943年,コロタイクにて負傷.
 その後,突撃砲大隊に転属し,少尉昇進.
 1944年9月,トランシルヴァニアのトルダにて,ズリーニィ6両を率い,T-34を18両撃破して,トルダを解囲.
 同年10.12,上記の戦功により金敢闘勲章を授与.中尉昇進.
 1956年,ハンガリー革命後にスイスに亡命.
 エリコン社で対戦車ミサイルの開発に関わる.
 1999年死去.

 詳しくは
https://togetter.com/li/1324264
参照.

1枚目:肖像写真
(図表番号 faq190301bz, こちらより引用)

2枚目:トゥルダの戦いにおける,夕暮れ時のハンガリー戦闘車輌の発射災
(図表番号 faq190611bf, こちらより引用)

mixi, 2019.3.26


 【質問 kérdés】
 マヨル・イェネーって誰?
Ki az Major Jenő?

 【回答 válasz】
 第二次大戦ハンガリー軍の大将.
 第1自動車化旅団長としてユーゴ侵攻や独ソ戦に参加する等,主に機械化部隊関連の要職を歴任.
 親独傀儡のサーラシ政権下でドイツ国防軍最高司令部附属ハンガリー軍総監となったが,終戦によりフランスにて捕虜生活.
 釈放後は西ドイツに移住し,同地にて死去.

*     *     *

 1891年8月6日生まれ.
 1905年,ベーチの軍事学校に入学.
 1909年8月18日,士官候補生となり,ルドヴィカ・アカデミーに進学.
 1912年10月1日,少尉としてチロルの第3猟兵連隊配属.
 1913年,Győri cs. és kir. 11. tábori vadászzászlóalj
 1914~18年,Szakasz-, század-, zászlóaljparancsnok a fronton
 1915年1月1日,中尉.

 第一次世界大戦に従軍し,二度負傷し,二度受勲.

 戦後,ハンガリー軍入隊.
 1918年5月1日,大尉.
 1921~23年,陸軍上級士官学校入学.
 1929~32年,第5混成旅団参謀次長.
 1932~35年,防諜部長.
 1933年11月1日,中佐
 1935年,ルドヴィカ・アカデミーの研究員および戦術講師.
 1936年11月1日,大佐.
 1938~40年,国防軍第8部門(人事)部長.
 1940年9月1日,少将.
 1940~41年,第1自動車化旅団指揮官.

 第二次大戦勃発後,同旅団を率いてユーゴ侵攻やバルバロッサ作戦に参加.

 1941~42年,ブダ城の陸軍野戦訓練部長.
 1942年9月,快速軍団団長.
 1942年10月,快速軍団は第1装甲軍団と改称.
 1944年10月,自動車化・戦車兵総監.
 1944年10~11月,第2軍司令官兼任.
 1944年11月1日,大将.
 1944年11月,矢十字党政権誕生後,ドイツ国防軍最高司令部附属ハンガリー軍総監
 1945年5月1日,ゾントホーフェンの町の近くのザイフリーツベルクで捕虜に.
 1946年8月まで,フランスにて捕虜生活.
 釈放後,西ドイツ,ブライハッハに定住し,そこで織物工場の労働者となる.
 1972年1月13日,バイエルン州ゾントホーフェンにて死去.享年81歳.遺体は同地に埋葬.
 Gosztonyi Péterによれば,マヨルは「回想を書いていたが,死が近づいているのを感じて,400ページを超える原稿メモを火の中に投げ込」み,彼が遺したのは1944年3月19日から1945年7月中旬までの回想のみであるという.

 【参考ページ Referencia Oldal】
https://en.wikipedia.org/wiki/Jen%C5%91_Major
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%83%8D%E3%83%BC
https://www.arcanum.hu/hu/online-kiadvanyok/2vhSzakkonyv-magyarok-a-ii-vilaghaboruban-2/emlektoredekek-visszaemlekezes-az-1944-marcius-es-1945-julius-kozotti-haborus-esemenyekre-B96B/bevezeto-B984/

1枚目:A Major Jenő vezérőrnagyról 1943-ban készült felvétel
少将時代のマヨル・イェネー.1943年撮影

(図No.faq200808jn,こちらより引用)

2枚目:Major Jenő vezérőrnagy, az 1. gépkocsizó lövészdandár parancsnoka szemlén,
Keleti front, 1941 nyara
第1自動車化旅団指揮官時代のマヨル・イェネー少将
東部戦線,1941年夏

(図No.faq200808jn2,こちらより引用)

mixi, 2020.8.9


 【質問 kérdés】
 ヤーニ・グスターヴって誰?
Ki az Jány Gusztáv ?

 【回答 válasz】
 ライカ Rajka という村がある.
Raija, egy község van.
 ハンガリー・オーストリア・スロヴァキアの3つの国境上という,興味深い場所に位置しており,シェンゲン協定締結以前はスロヴァキアの出入国管理所が置かれていたという.

 ヤーニ・グスターヴはこの村で,1883.10.21に生まれた.
 父親方の祖先はポーランド系ドイツ人であったというから,いかにも国境上の村らしい出自である.
 農業を営む傍ら,食料品店を開いていた.

 彼はルドヴィツァ Ludvica の軍事アカデミーを卒業後,1905年に少尉任官した.
 1909~12年,ウィーンに軍事留学した後,1914年に参謀本部入り.
 1914年と言えば,第一次大戦が勃発した歳である.
 彼は西部戦線や東部戦線に従軍し,大胆さで有名となった.

 第一次大戦後,ハンガリーはハプスブルク帝国から離脱.
 カーロイ・ミハーイを大統領とするハンガリー民主共和国が誕生する.
 ヤーニは新生ハンガリー軍に参加.

 ところがカーロイ政権は国内の混乱に対応しきれず,倒れてしまう.
 その次に誕生したのが,クン・ベーラの共産党政権.
 クンはハンガリー・ソヴィエト共和国を宣言し,赤軍を創設し,ヤーニら旧来の軍人達は,赤軍には必要ないとされた.
 しかし,国内外から「要らない奴ら」判断されたのはハンガリー・ソヴィエトのほうで,無謀にも他国に革命を起こそうと侵攻した彼らは,ルーマニア軍や白軍の反撃を受け,逆にブダペシュトまで占領されてクンらはソ連へ逃亡.
 陸軍省にいたヤーニは,ルーマニア軍の捕虜となった.

 白軍を率いていたホルティ・ミクローシュが「摂政」に就任すると,翌1920年に釈放されたヤーニは軍務に復帰.
 1931年,ルドヴィツァ軍事アカデミー校長.
 1935年,将官に昇進.
 1936.11.1,ソンバトヘイ混成旅団の指揮官に就任.
 1940.3.1,第2軍司令官に就任.
 第二次大戦が勃発すると,1942~1943年,第2軍はスターリングラード戦その他に参加し,大損害を蒙った.
 彼はその責任を問われ,8月に帰国すると,定年退職の形で辞任.

 ドイツ軍の侵攻によりハンガリーにその傀儡,サーラシ政権が誕生すると,ヤーニはそれに協力することを拒否.
 ソ連軍が迫るとドイツへ脱出し,米軍の捕虜となって1946年まで抑留された.

 帰国したヤーニを待っていたのは,上級大将から大将への降格.
 そして,「戦争を拡大させた」罪による逮捕と裁判だった.
 ティルディ大統領は彼の恩赦を拒否.
 1947.11.26,ヤーニは銃殺された.

 彼が無罪となったのは,冷戦後の1993年になってからのことである.

 【参考ページ】
http://www.rubicon.hu/magyar/oldalak/1883_oktober_21_jany_gusztav_szuletese
http://donkanyar.gportal.hu/gindex.php?pg=13019420
https://www.masodikvh.hu/szemelyek/g-l/j/461-jany-gusztav
http://live.warthunder.com/post/382958/en/
例によって誤訳御免

1枚目:肖像写真
(図表番号 faq190717jg,facebookより引用)

2枚目:ヤーニ・グスターヴ(画像右)と東部戦線の兵士たち
画像左はハダプロード Hadapród (予備役)軍曹.冬用スモックを着用し,ダヌヴィア短機関銃を持っている.
画像中央は二等工兵.外套着用
(図表番号 faq170219hn,『The Royal Hungarian Army in WW2』より引用)

mixi, 2017.2.20

3枚目:1942年5月,ヴォルフスシャンツェでヒトラーと会談しているヤーニ・グスターヴ、ハンガリー第2軍参謀長ラコヴスキイ・ヂョルジRakovszky György,およびJány副官チェヒ・カールマーン
この10分間の会談でヤーニは,ハンガリー第二軍の装備は最前線任務には不十分であり,もし第2軍を最前線に派遣するならば,ドイツからより多くの装備が提供されるべきだと指摘した.
ヒトラーはそれを約束したが,約束を果たすことは無かった.
(図表番号 faq190717jn,こちらより引用)

2019.7.17

4枚目:イタリア第8軍(ARMIR)の司令官イータロ・ガリボルディ Italo Gariboldi 将軍と,ハンガリー第2軍司令官ヤーニ・グスターヴ Jány Gusztáv 将軍
1942年10月,ロシアのベルゴロド州
第2軍司令部が位置するアレクセーフカにて
(図表番号 faq220614jg,こちらより引用)

2022.6.14


 【質問 kérdés】
 ラカトシュ・ゲーザって誰?
Ki az Lakatos Géza?

 【回答 válasz】
Katonatiszt, miniszterelnök.
ラカトシュ・ゲーザは軍人であり,首相を務めた人物.

 1890年,ブダペシュトの中流家庭の生まれ.
 中学校卒業後,双子の弟カールマーンと共にルドヴィカ士官学校に入学した.
 1910年8月18日,ラカトシュ兄弟はルドヴィカ士官学校を卒業.
 少尉に任官し,共にハンガリー軍第1歩兵連隊に配属.
 1912年,ハンガリー軍第14歩兵連隊に転属.
 1913年,ハンガリー軍第1歩兵連隊に戻り,1914年8月1日に中尉に昇進.

 第一次世界大戦に従軍するが,9月にカールマーンが戦死.
 ラカトシュはカールマーンの遺体を回収しようとしたが,発見することは出来なかった.
 同年,東部戦線で銃弾を受け負傷.
 同年12月22日より防諜活動に従事.
 1915年4~7月,ハンガリー軍第125歩兵旅団参謀.
 同年7月14日よりハンガリー軍第38歩兵旅団参謀.
 1916年12月,ドイツ軍との間の連絡将校に転任.
 1917年5月1日,大尉昇進.

 大戦終結後,国防大臣ボーム・ヴィルモスの副官を務めた後,1919年9月~1920年10月,警察本部参謀.

 1921年よりブダペスト陸軍士官学校で教鞭をとる.
1921-ben vezérkari tiszt lett, tanított a Ludovika Akadémián.
 担当は軍事組織論.

 1923年,陸軍省に配属され1928年5月まで諸部門を転々とする.
 1928年,少佐昇進.

 1928年5月7日~1934年,プラハ駐在武官.
1928.5.7 és 1934 között katonai attasé volt Prágában
 1929年5月1日,中佐昇進.
 1934年11月1日,大佐昇進.
 同年11月14日,第13歩兵連隊長に任命.
 1938年5月1日,第1歩兵混成旅団長.
 1939年1月23日,第3歩兵旅団長.
 同年11月1日,少将昇進.
 1940年3月1日,第2軍参謀長.
 1941年8月1日,第8軍団司令官.
 同年11月1日,中将昇進.
 1943年5月1日,ウクライナ占領軍司令官.
 同年8月1日,第2軍司令官に任命され,大将昇進.
 1944年4月1日,第1軍司令官.

 さて,そのころハンガリーはドイツの占領下にあったのだが,同年8月29日,連合国との講和を模索するホルティによって首相に任命さる.
 だが同年10月15日,ドイツ軍による反ホルティ・クーデター「パンツァーファウスト」作戦が行われ,首相解任.
 同年10月21日,ナチス・ドイツに身柄を引き渡され,以後,終戦までショプロンに軟禁.

 1945年4月1日,ドイツ軍撤退後にソ連軍によって逮捕され,1946年1月29日まで抑留.
 人民裁判における証人として尋問を受ける.
 1949年,新政府はラカトシュの年金支給を中止.
1949-ben az új rendszer megvonta a nyugdíját.
 また,土地改革の名目で財産を没収されたため,ラカトシュはブダペシュトにおいてイラストレーターや画家として食い繋いだ.
és a földreform során elvették birtokait, így Lakatos Budapesten illusztrátorként és kelmefestőként tartotta el családját.
 1951年6月19日,ブダペシュトより追放し,肉体労働を強制さる.

 1960年,イスラエルで行われたアイヒマン裁判に関し,エトムント・フェーゼンマイヤー駐洪ドイツ特使について証言.

 1965年,娘が移住していたオーストラリア・アデレードを訪れ,そのまま同地に定住.
 1967年5月21日,脳出血で死去した.

 【参考ページ Referencia Oldal】
http://www.bibl.u-szeged.hu/bibl/mil/ww2/who/lakatos.html
http://www.rubicon.hu/magyar/oldalak/1967_majus_21_lakatos_geza_miniszterelnok_halala/
http://www.archivnet.hu/hetkoznapok/volt_politikusok_levelei_kadar_janoshoz_megvont_nyugdijuk_ugyeben.html?oldal=2
http://users.atw.hu/historiamozaik/lakatos_geza_miniszterelnok_kalvariaja.html

1・2枚目:ラカトシュ・ゲーザ肖像写真
画像番号faq190426lk2
こちらより引用)
画像番号faq190426lk3
こちらより引用)

3枚目:ラカトシュ・ゲーザ肖像画
画像番号faq190426lk
こちらより引用)

mixi, 2019.4.26


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