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<第二次大戦FAQ


 【link】


 【質問 kérdés】
 第二次大戦のハンガリー陸軍第1騎兵師団について教えてください.
Kérem, mondja meg az királyi 1. honvéd lovashadosztály a második világháborúban.

 【回答 válasz】
 第1騎兵師団は1942.10.1,快速軍団の第1・第2騎兵旅団を基幹として創設された.
 両旅団は第2~第4フサール連隊に再編され,戦車大隊,野戦砲大隊,対空砲大隊,装甲車部隊,自転車部隊が師団に編入された.
 また,対戦車能力向上のため,ドイツ製の7.5cm PaK 40戦車砲やパンツァーファウストも配備された.
 師団指揮官は "勇敢なる" ヴァッタイ・アンタル vitéz Antal Vattay 少将.
 1943年上旬までに装備は完全充足し,師団の各部隊は必要な訓練を受けた.

 単独講和の道を模索していたハンガリーは1944.3.22,マルガレーテI作戦によってドイツに占領される.
 ドイツは親独派のストーヤイ内閣をハンガリーに立てると,第1騎兵師団などの兵力出動をハンガリーに要求した.
 このとき第1騎兵師団の兵力は
士官607名,
兵士16.639名,
馬10.889頭
馬車1201台
車輌778台.
 また,第3・第4フサール連隊は
1939年のザカルパチア地方占領
19414月のユーゴスラビア占領,
1941年夏のバルバロッサ作戦
に参加した歴戦の部隊.
 他の部隊にもベテラン兵士が多く配属され,当時ハンガリー随一のエリート部隊だった.

 1944.5.3,移動命令.
 ドイツとの約束では,第1騎兵師団はハンガリー第1軍の指揮下に入ることになっていた.
 だが,約束は果たされず,第1騎兵師団は Pinsk Marshesに配備された.
 同地は騎兵が真価を発揮して戦うことができるような場所ではなかった.
 師団最後の部隊は1944.6.21,ルニネツ Luninets に到着したが,師団の最初の任務は,ルニネツ周辺の森に潜むパルチザン部隊との戦闘だった.
 当時,その地域には,装備の良い1万~1万3千人のパルチザンがいた.

 7月には,師団はあちこち場所を変えながら,最終的には Kletsk を守備した.
 同地は,Babrujskにてドイツ軍の戦線を突破したソ連軍戦車部隊に対し,ヴァッタイ少将の反対にもかかわらず,ドイツ軍が移動を命じた地だった.
 ピンスク湿地を通る枢軸軍の撤退の間,ハンガリー軍部隊はドイツ軍ユニットの後衛についた.
 湿地には幾つか道路が通っているだけで,ハンガリー軍はソ連軍戦車や航空機からの攻撃により,この後退戦で大きな損害を受けた.
 これらの攻撃に対して非常に脆弱だった.
 湿地帯には追いつくことができるような場所は殆ど無かったが,ドイツ軍はしばしば,そういう場所を独り占めにした.
 ドイツ軍は彼ら自身の迅速な後退のため,ハンガリー軍を道路から追い出し,ハンガリー軍だけが後衛としてソ連軍の攻撃に晒された.
 ある時,ハンガリー軍の将校がドイツ軍の将軍に反抗してドイツ軍を通さなかった.
 その数時間後,ドイツ空軍のBf-109戦闘機がハンガリー軍の列に「誤って」機銃掃射し,数多くの兵士が死亡した.

 7月の間中,第1騎兵師団は1日も休まず戦い,ドイツ軍の後衛を務め,たびたび包囲された.
 彼らは馬を失い,歩兵となるか,略奪した馬車で移動した.
 ヴァッティ少将は,ドイツ軍との関係が悪化したため,更迭されたが,その時は一時的な休息となった.
 部隊に新指揮官が来るまでは Schell Zoltán 大佐が式を代行した.

 7月末,師団はブグ Bug 川において激しい防衛戦を行い,中でも Łosice ~ Mordy 間における第3フサール連隊は英雄的戦闘により,包囲されていたドイツ第20軍団を救出した.

 東部戦線において戦力を消耗した第1騎兵師団は8月,ワルシャワへ後退して戦力の補充と再編成を行った.
 戦闘により,第1・第2騎砲兵大隊は火砲を喪失していたため,第1大隊は37.M榴弾砲を,第2大隊は05/08.M榴弾砲を受領した.
 05/08.Mという制式年数が示す通り,後者は第一次大戦時代の中古である.

 だが,再編の最中,ワルシャワで反乱が起こる.
 師団はワルシャワの東に配置され,騎兵部隊としては不本意な戦闘,すなわち塹壕戦にてロシア軍を迎え撃った.
 反乱鎮圧に投入されたハンガリー軍部隊もあったと聞くので,それは騎兵師団の一部だったのかもしれない.
 もっとも,その部隊はポーランド人に同情的で,こっそり武器や医薬品を渡すなどしたため,すぐに鎮圧任務を解かれたという.

 1944年9月までに,師団の戦車大隊は戦車を全喪失した.
 戦車を失った戦車搭乗員はドイツに送られ,パンサー戦車の操縦訓練を受けた.
 ドイツは,彼ら搭乗員をパンサー戦車と共にハンガリーに戻すと約束していたが,いつものごとく,その約束は実行されず,彼らは戦車無しで戻り,歩兵として戦うこととなった.

 1944.10.2,第1騎兵師団は第1フサール師団と改名するが,その後の話は別項目に譲る.

 【参考ページ Referencia Oldal】
http://www.niehorster.org/015_hungary/oob/div_cav.html
http://www.niehorster.org/015_hungary/oob/u_cav.html
http://live.warthunder.com/post/472294/en/
http://live.warthunder.com/post/472295/en/
http://www.chakoten.dk/wp-content/uploads/Hungarian-Cavalry-Division.pdf
http://forum.axishistory.com/viewtopic.php?t=51386
http://mek.oszk.hu/07900/07956/07956.pdf

1枚目: 第1騎兵師団の装甲車大隊のエンブレム
(図Nofaq170404lv,こちらより引用)

2~3枚目:第1騎兵師団の車輌;
トルディII軽戦車 42.M Toldi II könnyűharckocsi
チェコ製Pz.Kpfw. 38(t)軽戦車 LT vz. 38, csehszlovák tervezésű könnyű harckocsi
上記画像のエンブレムを確認できる
(図No. faq170405tk1~2,こちらより引用)

4枚目:ピンスク湿地を行軍するフサール
1944年6月~7月.
この写真からも分かるように,部隊が進軍できる道路は1つしかなかったため,その機動性を強みとしたハンガリー第1騎兵師団にとって,ここの地形は非常に不利だった.
この場所に第1騎兵師団を投入したのはドイツ軍OKWの判断による
(図No. faq220117hs,こちらより引用)

2017.4.5


 【質問 kérdés】
 第二次大戦のハンガリー陸軍第1騎兵師団の戦闘序列は?
Mi az királyi 1. honvéd lovashadosztály harcrenda volt a második világháborúban?

 【回答 válasz】
・1944年6月の戦闘序列(書類上のもの)

第2フサール連隊 2. huszárezred-parancsnoksága 「アールパード王子 Árpád fejedelem」
第3フサール連隊 3. huszárezred-parancsnoksága 「ナーダシュディ・フェレンツ伯爵 Gróf Nádasdy Ferenc」
第4フサール連隊 4. huszárezred-parancsnoksága
第15自転車大隊 15. kerékpáros zászlóalj
第1独立装甲車大隊 1. lovas-harckocsi zászlóalj
第3偵察大隊  3. felderítő zászlóalj
第1騎砲兵大隊 1. lovastüzér-osztály
第3自動車化砲兵大隊  3. gépvontatású tüzérosztály
第55対空砲大隊 55. légvédelmi tüzérosztály
第4自動車化戦闘工兵中隊 4. gépkocsizó utászszázad és hadihíd-oszlop
第1騎兵通信大隊 1. lovas-híradó század
鉄道輸送本部  hadosztályvonat-parancsnokság

 【参考ページ Referencia Oldal】
http://www.niehorster.org/015_hungary/oob/div_cav.html
http://www.niehorster.org/015_hungary/oob/u_cav.html
http://live.warthunder.com/post/472294/en/
http://live.warthunder.com/post/472295/en/
http://www.chakoten.dk/wp-content/uploads/Hungarian-Cavalry-Division.pdf
http://forum.axishistory.com/viewtopic.php?t=51386
http://mek.oszk.hu/07900/07956/07956.pdf

第1騎兵師団の車輌;
チェコ製Pz.Kpfw. 38(t)軽戦車 LT vz. 38, csehszlovák tervezésű könnyű harckocsi
「ニムロード」自走砲 40.M Nimród önjáró gépágyú
「チャバ」装甲車 39.M Csaba páncélautó
こちらより引用)

2017.4.5


 【質問 kérdés】
 第二次大戦ハンガリー騎兵部隊の軍装は?
Milyen gépek magyar honvédségi lovasság volt a második világháborúban?

 【回答 válasz】
 基本的には歩兵と同じだったが,幾つかフサールに特徴的な衣装も有していた.

 この写真は,ハンガリー軍騎兵部隊の軍曹.
こちらより引用)
 1942年以前のもので,おそらくはバルバロッサ作戦時のもの.
 歩兵と同じヘルメットを被っている.
 当時,もはや騎兵は帯剣しておらず,手榴弾や即席の爆雷をもって対戦車戦闘をしばしば強いられた.
 彼らは,エンジンや走行中の戦車の手前の轍,あるいはソ連軍戦車兵が不注意にも開けっ放しにしたハッチの中に,それら爆発物を投げ込んだ.

 ハンガリー軍騎兵固有の軍装としては,フサール・マント huszár mente がある.
 これは騎兵将校や騎砲兵将校が着用したが,兵士用のロング・コートよりも遥かに快適だった.
 正式には肩にかけてこれを着ることは許されていなかったが,多くの将校はフサールの伝統に則ってそのような着方をした.
こちらより引用)

 また,フサール・ブーツ Huszár csizma が騎兵部隊には使われた.
 41.M将校ブーツとは上部が異なり,たとえばフサール・ブーツには薔薇模様があった.
こちらより引用)

 騎兵ベルトも通常の陸軍用ベルトとは異なり,背中側にストラップがあった.
 このストラップで騎兵銃を支えることができた.

 将校の正装としては,伝統的なアッティラ服があった.
 アッティラ服については別項を参照されたし.

 【参考ページ Referencia Oldal】
http://www.warrelics.eu/forum/imperial-germany-austro-hungary/husaren-interim-attila-tunic-24927/
http://rendormuzeum.com/gyujtemenyek
http://www.energy.hu/en/uniform-gallery/2016-10-28-11-48-32.html
http://live.warthunder.com/post/409199/en/
http://live.warthunder.com/post/472294/en/

2017.4.17


 【質問 kérdés】
 騎兵ズボンとは?
Mi az lovaglónadrág?

 【回答 válasz】
 25.Mブーツ用ズボン 25.M csizmanadrág とも呼ばれるもので,高級なブーツを履く将兵,騎兵,戦車兵,オートバイ兵,パイロットなどが着用した.
 陸軍と空軍で使われたが,水軍では使われなかった.
 脚部のボタンは平らなものが使われており,ブーツの中にしまい込んだ時に不快にならないようになっていた.
 色はフィールド・ブラウンだが,1943年以降,夏用として,綾織の緑色のものもあり,これは訓練や経営,労務,非番時に着用された.
 さらに,白色のものがあり,これは将校や将軍が夏に着用するものだった.
 タイツとお尻との間に厚手の皮を縫い付け,サドルに乗っている間に弾力を増すように改造されているものもあった.
 将軍クラスの人物の騎兵ズボンには,両脇に2本の緋色ののスリップがついていて,将軍以外のものと識別出来た.
 ただし,夏用の白色ズボンには,緋色のスリップはつかなかった.

 【参考ページ】
http://live.warthunder.com/post/400755/en/
http://mek.oszk.hu/04900/04967/html/
https://deckersmilitaria.wordpress.com/letoltesek/

25.M騎兵ズボン
(こちらより引用)

mixi, 2017.3.8


 【質問 kérdés】
 第二次大戦ハンガリー騎兵の刀剣は?
Milyen magyar lovassági kardok voltak a második világháborúban?

 【回答 válasz】
 主に以下のようなものがあった.

1904.M志願兵用騎兵剣 lovas legénységi kard
 騎兵が使用.
 戦闘や儀典において使われたが,それは1942年までで,それ以後は騎兵剣は廃止され,銃剣にとってかわられた.

1904.M 騎兵用栄誉サーベル 1904.M lovas altiszti kard
 将校が戦闘や儀典において使用した.
 しかし1942年以降は,使用は儀典のみに限定された.

▼・剣のフリンジ(刀緒)
 銃剣導入以前の騎兵科において使われた.
 「聖なる王冠」の飾りは無し.
 こちらの写真は,フリンジの装着方法を示す.▲

 【参考ページ Referencia Oldal】
http://live.warthunder.com/post/409316/en/ ※写真引用元
http://huszarok.nadasdymuzeum.hu/targy.php?targy=3056&fajta=12&keres=165
http://www.roncskutatas.hu/node/5337
http://live.warthunder.com/post/409353/en/ ※フリンジ写真引用元
http://www.roncskutatas.hu/node/12449 ※フリンジ写真引用元

2017.4.22
2017.4.27追記 utóirat


 【質問 kérdés】
 第二次大戦のハンガリー陸軍第1フサール師団について教えてください.
Kérem, mondja meg az Honvéd 1. Huszár osztály.

 【回答 válasz】
 第1フサール師団は1944.10.2,第1騎兵師団を改編して誕生した.
 摂政ホルティは,ウクライナとポーランドにおける英雄的な戦いを称え,第1騎兵師団を第1フサール師団と改名した.
 フサールは名誉称号だった.

 フサール師団は10月初旬にハンガリーに戻り,南部ハンガリーとデブレツェンでの激戦に投入された.
 次いでフサール師団はブダペシュトに撤退.
 ブダペシュト包囲により,師団の大部分も市街戦で壊滅した.
 残存部隊は徒歩でチャローケズ Csallóköz (現在のŽitnýostrov,スロバキア)に撤退.
 1945年1月,「コンラート」III作戦に参加した.
 フサール師団残余はヴェールテシュ Vértes の丘の東部を占領.
 3月にソ連軍の大規模攻勢が始まるまで,そこを保持した.
 この攻勢に対し,残存部隊は防戦しながらオーストリア方面へ後退.
 1945.3.29,将兵7200人,馬2500頭がハンガリーから脱出した.

 終戦時,フサール師団はリンツにまで後退していたが,第2~第4騎兵連隊など師団主力は,オーストリアのスティリアにて米軍に降伏.
 その他はソ連軍に降伏したという.

・歴代指揮官;
イバーニ・ミハーイ Ibrányi Mihály 少将 (1944.8.1~1944.11.4)
マカイ・アッティラ Makay Attila 大佐(1944.11.4~1944.11.13) ※指揮官代理
シェル・ゾルターン Schell Zoltán 大佐 (1944.11.13~1945.4)

・1944年12月の戦闘序列(書類上のもの)
 第1騎兵師団の序列に加え,以下の部隊が追加されている.

第7砲兵大隊
第73砲兵大隊
第82砲兵大隊
第4自動車化砲兵大隊
第2独立工兵大隊

 【参考ページ Referencia Oldal】
http://www.niehorster.org/015_hungary/oob/div_cav.html
http://www.niehorster.org/015_hungary/oob/u_cav.html
http://live.warthunder.com/post/472294/en/
http://live.warthunder.com/post/472295/en/
http://www.chakoten.dk/wp-content/uploads/Hungarian-Cavalry-Division.pdf
http://forum.axishistory.com/viewtopic.php?t=51386

1枚目:フサール・マント huszár mente
騎兵将校や騎砲兵将校が着用したが,兵士用のロング・コートよりも遥かに快適だった
正式には肩にかけてこれを着ることは許されていなかったが,多くの将校はフサールの伝統に則ってそのような着方をした
(図No. faq170315hs,こちらより引用)

2枚目:フサール・ブーツ Huszár csizma
騎兵部隊によって使われた
41.M将校ブーツとは上部が異なり,たとえばフサール・ブーツには薔薇模様があった
(図No. faq170403hs,こちらより引用)

3枚目:ピンスク Pinsk 湿原を歩くフサール
1944年6~7月頃
同地の地形は,部隊が使用できる道路は1本しかなく,騎兵部隊にとっては非常に不利なものだったが,にも関わらずドイツOKWは同地にフサールを投入した
(図No. faq210923hs,こちらより引用)

4枚目:フサールの2騎
一人は正規の下士官(左腕に三角形のマークがある)
もう一人はヘルメットも脱げて落馬しており,おそらく撃たれたものと思われる
(図No. faq210923hs2,こちらより引用)

2017.4.3


 【質問 kérdés】
 第二次大戦ハンガリー軍空挺部隊について簡単に教えてください.

 【回答 válasz】
 トリアノン条約で軍備を制限されていたハンガリーは,1938年に再軍備を宣言すると,同年夏,ブダペシュトのマリア・テレジア兵舎の一室においてパラシュート実験隊を創設した.
 マリア・テレジア兵舎は後にキリアーン兵舎と改名され,1956年ハンガリー革命(ハンガリー動乱)の主要な舞台の一つとなる.

 初代隊長はベルタラン・アールパード Bertalan Árpád 大尉.
肖像写真--wikipediaより引用)
 1898年,ボジョニイ Pozsony (現ブラチスラバ Bratislava )生まれの彼は,マリア・テレジア勲章や騎士十字章を受勲したことのある,第一次大戦の英雄だった.
 ついた綽名が「ヴィテーズ Vitéz (勇気)」

 同年9月11日,落下傘隊はソンバトヘイ Szombathely においてハンガリー軍初のパラシュート降下を行った.
 とはいっても,最初の人数は僅かに彼とその部下の中尉7人.
 すなわち
ベルタラン・アールパード Bertalan Árpád
キシュ・ゾルターン Kiss Zoltán
レーデツィ・ラースロー Lédeczy László
マイトヘーニ・イムレ Majthényi Imre
マートライ・カーロイ Mátray Károly
パタキ・ゲーザ Pataky Géza
ソコライ・ターマシュ Szokolay Tamás
ヴェールテシュ・ベーラ Vértes Béla
の計8人だった.
 輸送機はイタリア製民間機の,中古のカプロニCa.101が2機.
 この機体の前に整列したベルタラン隊長らの写真が残っている.
(写真1枚目;図表番号 faq170214pr,こちらより引用)
 カプロニCa.101は郵便機として20機がハンガリーに輸入され,後に空軍に移管されているから,おそらくこれだろう.
 また,パラシュートは様々な国からの輸入だった.
 上掲写真では,左からハンガリーのHehsパラシュート,イタリアのSalvatorパラシュート,イギリスのIrvinパラシュート,イタリアのSalvatorパラシュートの別のタイプ,そしてIrvinパラシュートを装備しているのが分かる.
 その数も不足していたが,予算の都合上,追加輸入することはできず,国産化を図るしかなかった.

 しかしその年のうちに,パラシュートを自国で生産できるようになり,航空機も,イタリア製はイタリア製でも新鋭の輸送機サヴォイア・マルケティSM75に更新された.
 想像するに,訓練内容もイタリア軍空挺部隊と同じものだったに違いない.
 であれば,降下スタイルは両手足を広げる「アンジェロ Angelo (天使)」スタイルであっただろう.
 部隊は大隊となり,全員志願兵から成る精鋭が集められた.
 1939年,ベルタランは少佐に昇進.
 1940年8月に編成は完結.
 11/1,空軍指揮下となった.

 空挺部隊の初の実戦参加は1941年のことだった.
 ハンガリーはドイツから圧力をかけられ,やむなくドイツ軍と共にユーゴスラヴィアへ侵攻.
 空挺大隊はユーゴ軍の背後に降下し,Újverbász (現Verbász)近くにある,フランツ・ヨーゼフ運河の2つの重要な橋を奪取するよう命じられた.
 空挺戦術において古典的な「縦の包囲」である.

 4.13夜明けに輸送機は発進.
 作戦は当たり,ハンガリー軍は30km前進することに成功した.
 しかし,手放しでは喜べなかった.
 離陸中に輸送機1機が墜落.
 ベルタラン少佐らが死亡したからである.

 後任の指揮官スジ・ゾルターン Szügyi Zoltán (1896~1967)大佐は,第一次大戦では黄金勲章を授与された,やはり武勲に輝く人物だった.
肖像写真――wikipediaより)
 独ソ戦が始まると,彼は1942~43年,少数の部下と共に軍事顧問として東部戦線へ派遣された.

 1943年になると,空挺大隊はバコニ山において「R」計画のための訓練を始めた.
 これはルーマニアが寝返ることを想定して,南部トランシルヴァニアに侵攻するという計画だった.

▼ 写真3枚目は記念の集合写真.
((図表番号 faq170214pr3,こちらより引用)

 4枚目はドイツ式パラシュートへ転換訓練中の空挺部隊.
 1944年.
 彼らはFallschirmjägerヘルメットを被っているが,これは訓練期間中だけだった.
(図表番号 faq190719pr,こちらより引用)▲

 1944年8月,ルーマニアは実際に枢軸陣営から離脱した.
 「R」作戦は少なくとも部分的には発令された.
 しかし作戦実施は遅れ,9月に実際に陸軍が動き出した時には時すでに遅し.
 ルーマニア軍とソ連軍はハンガリー国境に迫っていた.
 空挺大隊はカルパチア山脈に派遣され,祖国防衛の任に当たった.
 カルパチアの防衛ラインが突破されると,陸軍空軍の残存部隊を集めて空挺部隊(今や連隊だった)を基幹とするセント・ラースロー師団が編成され,スジ大佐が師団長となった.
 その名はラースロー1世(1040~1095)にちなむものであった.
 この王はクロアチアやダルマチアを支配下に置き,法を整備し,文化を発展させ,「聖王」と称えられる人物であり,その名を通して祖国愛に訴えようといたのだろう.

<初期の編制>
Szt.László Division Headquarters 師団司令部
1st (Parachute) Regiment 第1(パラシュート)連隊
2nd (Infantry) Regiment 第2(歩兵)連隊
3rd (Air Force) Regiment 第3(空軍)連隊
1st Artillery Battalion 第1砲兵大隊
6th Artillery Battalion (motorized) 第6砲兵大隊(自動車化)
9th Artillery Battalion 第9砲兵大隊
76th Artillery Battalion 第76砲兵大隊
1st Rocket Launcher Battalion 第1ロケット・ランチャー大隊
20th Assault Gun Battalion 第20突撃砲大隊
Szt. László Combat Engineer Battalion (motorized) セント・ラースロー戦闘工兵大隊(自動車化)
Szt. László Armored Reconnaissance Battalion セント・ラースロー装甲偵察大隊
Szt. Lászlo Signal Battalion (motorized) セント・ラースロー通信大隊(自動車化)
Szt. Lászlo Divisional Service Headquarters 兵站本部

 師団はブダペシュト周辺防衛線の「火消し役」に投入された.
 戦線が敵に突破されて穴が開くと,それを塞ぐために空挺連隊が投入された.

 この戦いと,それに続くブダペシュト包囲戦において,空挺連隊は精鋭の名に恥じぬ戦いを見せた.
 しかしブダペシュトは陥落し,師団は大きな損害を受けた.

 その後,クロアチア北部やオーストリア南部へ転戦し,ウィーン攻防戦に参加.
 終戦により,英軍に降伏したが,ユーゴスラビアの治安情勢を鑑みた英軍は,彼らを直ちには武装解除をせず,その後武装解除されると,所属将兵はドイツとオーストリアに位置した捕虜収容所に送られた.
 ソ連軍に引き渡されなかったのは幸運と言えよう.

 スジ少将(終戦時)は1948.2.23,「戦争犯罪」により10年の刑を宣告され,1949.11.28,国家評議会はそれを終身刑に変更した.
 1956年ハンガリー革命の際に釈放されるが,ソ連軍によって革命が弾圧されるや,彼は再び投獄.
 1957年秋に漸く釈放され,未熟練労働者としてその後を過ごした.
 1967年,ブダペシュトにて死去.
 冷戦終結後の1994年,最高裁は彼の無罪を宣告した.

 今日,ハンガリー国防軍第2特殊作戦連隊は「ベルタラン・アールパード」の名を冠している.

 【参考ページ】
http://forum.axishistory.com/viewtopic.php?t=100763
http://www.ww2f.com/topic/15799-the-death-heads-hungarys-airborne-forces-1938-1945/
http://www.wwpd.net/2016/01/bolt-action-hungarian-paratroopers-who.html
吉川和篤他『イタリア軍入門』(イカロス出版,2006)
http://www.austro-hungarian-army.co.uk/biog/bertalan.html
http://live.warthunder.com/post/376256/en/
http://cultura.hu/aktualis/a-magyar-katonai-ejtoernyozes-megalapitoja/
http://airbase.blog.hu/2013/04/12/_az_ornagy_ur_meg_bent_van_mentsuk_meg
http://www.honvedelem.hu/cikk/37395_tisztelges_a_magyar_katonai_ejtoernyozes_megteremtoje_elott
http://www.vitezirend.co.hu/CV & Award/vszugyi_zoltan_vorgy.htm
https://karpataljalap.net/?q=2006/09/15/magyar-emlekek-tatar-hagon
http://www.niehorster.org/015_hungary/oob/div_laszlo.html

夏用冬用の降下服
ハンガリー軍空挺部隊は専用のオーバーオールを装備していた
それ以外の服装は,歩兵と同じ
上掲写真や冬用降下服の写真では,リネンのヘッドギアを被っているが,これは降下時のみ使用された
こちらより引用)

https://www.youtube.com/watch?v=sFGpYEOOJTc&t=16s

mixi, 2017.2.14


 【質問 kérdés】
 初期のWW2ハンガリー軍落下傘兵の装備について教えてください.
Kérem, mondja meg három sorban.
-róől

 【回答 válasz】
 主なところでは以下の通り.

・16.M背嚢.
 1916年,オーストリア=ハンガリー軍に採用されたもので,第二次大戦中は空挺部隊だけが使用した.
 降下時には中は空.
 別途投下されたコンテナに詰められた装備品を,着地後に中に入れる手はずだった.
 コンテナは5機編成の輸送機の内の2~3機に搭載.
 各コンテナは食料,弾薬,弾丸,銃(マンリッヒャー31Mカービン銃または31M軽機関銃またはドイツ製のMP35短機関銃)など100kgを収納.
 ただ,他国の例では,こうした装備別途投下方式は,コンテナを回収できないことも多く,廃止されたケースが多いので,もし降下歴が多くなっていたならハンガリー軍もそれに倣っただろう.
 しかし幸か不幸か,ハンガリー軍の降下作戦はただの一度きりだった.
(他に輸送作戦が1回)

・35.Mハバーサック(肩掛けカバン)
 降下兵は左右に一つずつ,合2つ携行.
 中身は弾薬,手榴弾,私物,コート,毛布など.
 将校は私物を自らは持たず,従卒が代わりに将校の私物を持った.

・銃剣
 銃剣突撃の他,白兵戦や何かを切断する場合に使用.
 31M軽機関銃のような銃剣を装着できない火器を持った落下傘兵は,銃剣を持たなかった.

・弾薬ポーチ.
 体の左側に装着.
 降下兵のものは弾倉4つ(20発入り)を運ぶことができる,二重になった弾薬ポーチ.
 より多くの弾薬を携行する場合は,残りをハバーサックに入れた.

・フロンマー37M拳銃
 将兵いずれも携行.

・1917.M突撃短剣
 1917年,オーストリア=ハンガリー軍に採用されたもので,第二次大戦中は空挺部隊だけが使用した.

・帽子
 多くの兵士は革製の飛行帽だったが,ショック吸収型ヘルメットを被った兵の例も稀に見られる.
 これはヘルメットの外周にエアチューブを張り巡らせたものだが,写真を見た限りでは,戦車兵のそれとも微妙に形が違うように思われる.

 【参考ページ Referencia Oldal】
https://live.warthunder.com/post/809045/en/
https://live.warthunder.com/post/464770/en/
https://live.warthunder.com/post/581121/en/
https://mult-kor.hu/az-orszag-elso-katonaja-feltarul-a-magyar-katonai-ejtoernyozes-szazeves-trtenelme-20180815
https://felderitokblogja.blog.hu/2017/07/31/_esernyos_katonak_egy_eloadas_vazlata

1枚目:落下傘兵の標準スタイル
(図No. faq210731ej,こちらより引用)

2枚目:装備名称
(図No. faq210723ej,こちらより引用)

3枚目:16M背嚢
(図No.faq210725pr ,こちらより引用)

4枚目:1917M突撃短剣
(図No. faq210725pr2 ,こちらより引用)

mixi, 2021.8.1


 【質問 kérdés】
 ユーゴ侵攻の際に起きた,ハンガリー空軍空挺部隊輸送機の墜落について教えてください.

 【回答 válasz】
「燃え上がる機体」
「機内を駆け抜ける炎」
「脱出できた兵士の服も燃えています」

https://www.youtube.com/watch?v=ddgmU3PfBq4

「これは実話であり,ウェブサイト,関係者の証言を元に構成しています」

「1941年4月12日.
 ハンガリー,バラトン湖のおよそ15km北にあるヴェスプレーム=ユタシ Veszprém-Jutasi 飛行場.
 ハンガリー空軍第1空挺大隊の将兵たちは,出撃の時を待ってました」

「4月6日に始まった,ナチスドイツのユーゴスラビア侵攻において,ヒトラーはハンガリーも参戦し,ドイツ軍のハンガリー領内通行を許可するよう強く求めていました.
 しかしハンガリーは前の年の12月にユーゴスラビア王国との間に友好条約を結んだばかりでした」

「結局,ハンガリーはヒトラーの圧力には逆らえず,当時の首相テレキ・パールは自殺.
 親独派内閣が誕生し,枢軸国の一員として参戦します」

「ソコライ・タマーシュ Szokolay Tamás 中尉は,写真記録要員として輸送機に乗り込んでいました.
 同じ機内にはベルタラン・アールパード Bertalan Árpád 少佐も乗っていました」

「ベルタラン少佐は空挺大隊の指揮官.
 第一次大戦ではマリア・テレジア騎士鉄十字章を受章したこともある戦闘のベテランです.
 ハンガリーが空挺部隊を創設するにあたり,彼は最初から責任者として関わっていました」

「この戦闘において,ベルタラン少佐は本来自ら出撃する責任はありませんでしたが,彼は上層部の反対を押し切り,オブザーバー役という名目で戦闘参加するつもりでした」

「午後5時.
 4機の輸送機は順次,飛行場を飛び立ちます.
 輸送機はイタリア製のサヴォイア・マルケッティSM.75.
 目標は,地上部隊の進撃ルートの先にある橋の確保です」

「ベルタランらが乗っているのはE-102号機.
(※サイトによってはE-101としているものもあり)
 機長はレケッチェーシュ・ラースロー Rekettyés László.
 レヴィド・ジュラ Rövid Gyula が副操縦士を勤め,無線通信士フェーゼー・カールマーン,航法士ミゲン・デヂェー Migen Dezső がサポートします」

「ところが,E-102号機は機は離陸しながら大きく右に傾きます.
 そして失速」

ソコライ中尉(手記)「墜落の瞬間,私は思わず機内を見回しました.
 兵士たちは全員着席していましたが,ベルタランはドアを開けようと懸命でした.
 目の前にいたマイトヘーニ(・イムレ Majthényi Imre中尉,第1パラシュート中隊指揮官)は,右側のドアを開けて飛び降りとしました.
 しかし彼の肩越しに見ると,地面は近すぎて飛び降りるには遅すぎたことが分かりました.
 私は引き返し,反対の側の補強材に強くしがみ付きました」

「機長は飛行機の姿勢を立て直そうと必死です」
「そしてつかの間,機体は水平に戻ります」

「しかし,機長の努力は実を結びません」

「E-102号機は高度50~60mのところから落下.
 右主翼のほうから地面に激突しました」

ソコライ中尉(手記)「マイトヘーニは半開きだったドアから飛び出ました.
 その瞬間,私の耳に叫び声が聞こえました.
『燃えてる!』
 次の刹那に,シャツェラーリ SaceIláry 少尉と落下傘兵1人が機体から脱出しました.
 それから,吹き出した炎が機内を駆け抜けました.
 それは私にとっては幸いなことに機体の左側を走っていき,私を直撃することはありませんでした.
 飛行帽が私の顔を保護し,私は軽傷を負っただけでした.

 私は目眩がしましたが,燃える飛行機から飛び出しました.
 私の後から,そのドアから出てきた者はいませんでした」

「墜落したE-102号機は,プロペラとエンジンが吹き飛び,燃料に引火.
 コンテナ投下するはずだった弾薬類にも火がついて炎上します」

「飛行場の兵士にはなすすべがありません.
 飛行場には粉末消火剤や発泡消火剤もなく,消防隊も編成されていなかったのです.
 機体は5時1分の墜落の後,2分間で全焼しました」

ソコライ中尉(手記)「飛行機から遠ざかったときに,私は撮影が自分の仕事であることを思い出しました.
 私は片手でカメラを引き出し,燃えている飛行機の写真を約半ダース撮りました」

「これは事故の時の実際の画像です」

「空挺隊員25名の内,9名が燃える機体から脱出できました.
 ドアからの脱出者の他に,胴体の羽布を切り裂いて脱出した者もいます.
 飛行機からこぼれた燃料が服について,脱出できた兵士の服も燃えています.
 7名が病院へ後送されましたが,翌日そのうちの2名が死亡しました」

 他に4人の遺体が飛行場近くで発見され,残りは機内で焼死体となって発見されました.
 ベルタラン少佐もその中にいました.
 また,パイロットら4人のクルーも全員死亡」

(※ 上記の内,死傷者数や4人の乗員の名前はサイトによって異なる)

「作戦は一時中止され,他の3機は離陸中止.
 2時間後に改めて出撃し,今度は無事に全機飛び立ちました」

「では,なぜこのような悲劇が起きたのでしょうか?」

「検証の結果,昇降舵に問題があることが分かりました.
 飛行機に作用する空気力,エンジン出力などを全て釣り合わせて操舵力をゼロにする事を,「トリムをとる」といいます.
 例えば,ある速度・ある高度で水平飛行したいとき,操縦桿を少し手前に引かなければならない飛行機があったとします.
 この姿勢を保ち続けるには,ずっと操縦桿を同じ力で引いていなければならないことになり,これは面倒ですし精度も悪いです.
 このようなとき,トリムをうまく調整すれば,操縦桿から手を放してもずっと一定の力で引き続けているのと同じような状態にすることができます.
 しかしE-102では昇降舵のトリムタブが機能していませんでした.
 結果,操舵力の釣り合いがとれず,右に大きく傾いたと推測されます」

「パラシュート部隊では元々,実戦のための輸送機としてユンカースJu-52の調達を考えていました.
 しかしドイツは輸出を拒否.
 そのため,ハンガリー航空株式会社(Magyar Légiforgalmi Részvénytársaság,MALERT)が旅客機として使用していたサヴォイア・マルケッティSM.75が輸送機に改造されることになりました.

 MALERTはトリアノン条約における軍備制限下において,秘密空軍として活動する任務を負っています.
 よって,サヴォイア・マルケッティSM.75も軍事転用を考慮して輸入されています.

 しかし問題が一つありました.
 この機体はユンカースJu-52のような金属製ではなく,鋼管フレームを羽布と合板で覆ったものでした.
 ところが空挺部隊が駐屯していたパーパ飛行場には,当初この機体用の格納庫が無く,防水シートをかけて露天駐機しての運用が続きました.
 そのため腐食が早く,1942年には残る全機がリタイアしています.
 油圧システムでの故障も頻発.
 飛行機がこのような状態であったことが,事故を招いたのかもしれません」

「また,空挺大隊自体,急造されたものでした.
 大隊としての編制が完結したのが1940年11月.
 実戦参加の僅か5ヶ月前のことです.
 その装備も間に合わせのものが多く,たとえばショルダーバッグや銃剣は第一次大戦時代のお下がりでした」

「サヴォイア機にしても部隊への到着は1940年5月.
 それまでは,より旧式なカプローニCa.101輸送機を使って練習していました.
 このような,お世辞にも優先順位が高いとは到底言えない装備調達状況が,機材の整備にも影響したのかもしれません」

「ユーゴスラヴィアでの空挺部隊の作戦は順調に進み,作戦全体での死者は24名.
 そのうち半数以上の17名がこの事故によるものでした」

「ベルタラン少佐は死後,大佐に名誉昇進.
 1941年4月17日には,第1空挺大隊は「ヴィテーズ(勇爵)・ベルタラン・アールパード大隊」と命名されました.
 そして現在でも,その名は第2特殊作戦旅団に引き継がれています」

 【参考ページ Referencia Oldal】
http://acta.bibl.u-szeged.hu/37397/1/belvedere_kk_014.pdf
http://real.mtak.hu/98367/1/HT_2018-6_cikk-07.pdf
https://www.facebook.com/magyarfelderito/posts/456045754596533/
https://www.facebook.com/magyarfelderito/posts/1610489755818788
https://www.arcanum.com/hu/online-kiadvanyok/2vhSzakkonyv-magyarok-a-ii-vilaghaboruban-2/legi-haboru-magyarorszag-felett-6E95/elso-kotet-6E96/a-gyori-programtol-a-haboru-kezdeteig-19381941-6F16/a-jugoszlav-legiero-helyzete-6FDE/
https://felderitokblogja.blog.hu/2018/04/12/ejtoernyos_bevetes_delvideken_1941_aprilis
https://skyart-japan.tokyo/2020/12/20/2020-12-20
https://wikiwiki.jp/flightsim/%E5%88%9D%E5%BF%83%E8%80%85%E5%90%91%E3%81%91%E5%9F%BA%E7%A4%8E%E7%9F%A5%E8%AD%98

1枚目:E-102の残骸
(図No. faq210807sm,こちらより引用)

2枚目:ベルタラン少佐
(図No. faq210807br,こちらより引用)

mixi, 2021.8.13


 【質問 kérdés】
 セーケイ人国境警備隊について教えてください.
Kérem, mondja meg az székely határőrség?

 【回答 válasz】
 セーケイ人はハンガリー系少数民族であり,ハンガリー語族である.
A székelyek magyar tudatú és magyar nyelvű népcsoport.
 現在はルーマニア領である,トランシルバニア東部のセーケイ地方に住んでいる.
 先祖はフン族であるとも,アヴァール人であるとも,はたまたスキタイ人であるとも言われているが,本当のところはとんと見当がつかぬ.
 記録によると,12世紀には既にイシュトヴァーン二世の下でハンガリー兵として戦っていたという.

 国の端のほうに住んでいるものだから,代々,国境警備の義務を課された.
 オスマン帝国が侵入してきた時など,何度戦ったか数え切れぬ.
 中でもクマン人との戦いの激しさは,伝説に残ったほどだ.

 近代になったら義務は外れるかと思ったが,そうはいかぬ.
 かえって大隊だの旅団だのといった組織に,民族丸ごと組み込まれることになった.

 国境警備隊は平時は内務省に属した.
 関税の取り立てや出入国管理が主な仕事である.
 戦時には軍のほうに移る仕組みだった.

 第二次大戦前夜,セーケイ人国境警備隊は27個大隊を数えた.
 独ソ戦が始まると,国境警備隊の一部も快速軍団と一緒に東部戦線へ送られた.
 後方警備のためである.
 そこで散々な思いをした.

 1944年になると,ルーマニア軍が寝返った.
 国境警備隊も国境防衛をせねばならぬ.
 ところが,第一次大戦が終わって,トランシルバニアがルーマニアへ持っていかれているものだから,大変である.
 山脈という天然自然の防衛拠点がなくなったからだ.

 ある程度寝返りは予想されていたようで,1942年中には郷土防衛隊のようなものが作られた.
 地元警察や民兵やらを糾合し,民間人には4週間分の食糧備蓄を要求した.
 ティーン・エイジャーから中年男性までこれに駆り出された.

 けれども現実にルーマニア軍が侵攻してくると,そんなものでは間に合わなかった.
 なにしろ一緒にソ連軍が攻め込んでいる.
 対するに,ニワカごしらえの郷土防衛隊は,練度も士気も低い.
「もうよそう.勝手にするがいい.がりがりはこれぎりご免蒙るよ」
 良くて数日持ちこたえることができただけで,国境は簡単に突破された.
 国境近くに住む民間人も,多くが死んだ.

 そして国境警備隊はどうなったかというと,…今もまだいるのです.

 【参考ページ】
Nigel Thomas & Laszlo Szabo『The Royal Hungarian Army in WW2』(Osprey)
http://www.niehorster.org/015_hungary/oob/corps_szekel.html
http://www.country-data.com/cgi-bin/query/r-5953.html
http://www.hunsor.se/se/szekelypeople.htm
http://www.honvedelem.hu/cikk/43532_kereszthegy

画像左が第17セーケイ国境警備大隊の伍長,1944年10月
カモフラージュ・コートを着用し,31.Mライフルを持っている
画像中央は戦車搭乗員で中尉.42.M戦車兵用制服を着用
画像右は第21国境警備ライフル大隊の曹長.イタリア製のベレッタMAB38短機関銃を持っている.
ベレッタ短機関銃はハンガリー軍の制式兵器ではなかったが,ドイツ軍から供与されたり,1944年以降にルーマニア軍から鹵獲したりした.

(『The Royal Hungarian Army in WW2』より引用)

ルーマニア軍・ソ連軍の侵攻ルート
(こちらより引用)

国境における戦闘:再現映像より
faq170221sk.jpg
faq170221sk2.jpg
こちらより引用)

https://www.youtube.com/watch?v=KxtQZhovibE

mixi, 2017.2.22


 【質問 kérdés】
 WW2ハンガリー軍の工兵小隊について教えてください.
Kérem, mondja meg a utász szakaszról.

 【回答 válasz】
 ハンガリー語では工兵をウタース utász と呼ぶ.

 WW2ハンガリー軍には3種の異なる工兵小隊が編成されていた.

a) 歩兵連隊付属の工兵小隊.
 爆薬,手斧,地雷などの他,火炎放射器付属.
 東部戦線では練度が高いと評価された.
 工兵機材の移動は馬匹に頼っていた.

b) 突撃工兵小隊.
 師団や軍団に付属.
 ベテランの将兵から成る,工兵小隊の中のエリート部隊で,要塞攻撃などに投入された.

c) 自動車化工兵小隊.
 戦車大隊に付属.
 戦車支援のための部隊なので火炎放射器は有していない.

 ちなみにブダペシュト包囲戦では,3個突撃工兵大隊が市内にあった.
 彼らは陸軍技術学校のスタッフと学生,そしてブダペシュトに残存していた工兵によって編成されたという.

 【参考ページ Referencia Oldal】
https://www.flamesofwar.com/hobby.aspx?art_id=2356
https://www.arcanum.com/hu/online-kiadvanyok/Lexikonok-magyarorszag-a-masodik-vilaghaboruban-lexikon-a-zs-F062E/u-u-F0E52/utasz-F0E69/
https://folyoirat.ludovika.hu/index.php/mkk/article/download/3179/2426/8990

1枚目:鉄条網を切断する訓練中の工兵
(図No. faq220329ut,こちらより引用)

2枚目:工兵靴
歩兵その他の兵科の靴よりも,より快適なものだったため,工兵以外の兵科,さらにはハンガリー空軍の地上部隊やMe210の機銃手,河川部隊の水兵にも徐々に普及した.
写真のものは未使用品で,靴クリームやワックスをかけることによって茶色になった.
火炎放射器を操作する兵士用のアスベスト付きブーツや,化学戦部隊用に耐酸性革で作られたヴァリエーションも存在する.
(図No. faq220329ut2,こちらより引用)

2022.3.29


 【質問 kérdés】
 WW2ハンガリー軍の山岳旅団について簡潔に教えてください.
Kérem, röviden mondja meg a Magyar Királyi hegyidandárról.

 【回答 válasz】
 1938年2月3日策定の「フバ Huba 計画」において2個山岳旅団創設を計画.
 1939年,第一次ウィーン裁定後,チェコスロヴァキアが崩壊してトランスカルパティアがハンガリーに帰属すると,山岳地帯が国境となったことにより,山岳部隊編成は加速し,同時に山岳地帯に移駐した国境警備隊の山岳部隊化も準備された.
 しかし第二次大戦勃発により山岳部隊の訓練のペースは遅くなり,10月までには中断となった.

 一方で,同年10月1日付をもって,書類上は組織が制定.
 正式名称は「トランスカルパティア第1山岳旅団」となり,それは
・山岳旅団司令部
・山岳大隊×3
・山岳騎兵大隊×3
・山岳フサール中隊×1
・山岳伝令中隊×1
・山岳戦闘工兵中隊×1
・山岳旅団対戦車中隊(オートバイ・装甲車化) 1. hegyidandár páncéltörő ágyús század, motorkerékpáros és páncélgépkocsi szakaszok
・山岳輓馬中隊 1. hegyi vonatcsoport
から成ることになっていた.

 ハンガリーが対ソ参戦すると,第1山岳旅団や山岳歩兵化された国境警備隊猟兵旅団は,いわゆる「カルパティア・グループ」に編入されて国境での戦闘に投入され,さほどの抵抗もなく,同地域のソ連軍を掃討.
 その後,カルパティア・グループはドイツ軍麾下となってウクライナの占領治安維持任務に就いた後,帰国.

 1944年4月,ソ連軍がハンガリー領内に侵入すると,山岳旅団は国境においてこれを迎撃.
 遅滞戦術をとったが,損害も深刻で,10月には第2山岳旅団を解散して,残存人員・装備を第1山岳旅団に移管.
 12月には消耗し尽して,休養・再編成のために戦線後方に下げられたが,定数の半数まで満たしたところで12/20に戦線に投入.
 ヴィスワ川の戦線をソ連軍が突破したため,スロヴァキア東部に配備.

 4/1付で山岳旅団司令部等の残存部隊はオーストリアへ逃れ,SS装甲軍団麾下となり,山岳旅団という単位としての活動は実質的にそこで終了した.

 【参考ページ Referencia Oldal】
https://epa.oszk.hu/00000/00018/00015/05illes.htm
https://www.arcanum.com/hu/online-kiadvanyok/2vhSzakkonyv-magyarok-a-ii-vilaghaboruban-2/emlekezes-a-hegyicsapatokra-1999-813A/iii-tudomanyos-konferencia-1999-oktober-1-10-ora-81A0/dr-szabo-peter-ornagy-a-magyar-hegyicsapatok-az-1941-evi-szovjetunio-elleni-hadjaratban-81CF/
https://www.arcanum.com/hu/online-kiadvanyok/2vhSzakkonyv-magyarok-a-ii-vilaghaboruban-2/emlekezes-a-hegyicsapatokra-1999-813A/iii-tudomanyos-konferencia-1999-oktober-1-10-ora-81A0/szabo-zoltan-m-kir-fohadnagy-az-1-es-2-hegyidandar-harcai-194445-ben-81E1/

1枚目:訓練中の山岳猟兵
Magyar hegyivadászok kiképzés közben
(図No. faq210709hd,こちらより引用)

2枚目:山岳砲兵
火砲は分解され,ラバや馬に載せて運搬している.
(図No. faq210709hd2,こちらより引用)

3枚目:41.Mスキー・ブーツ 41.M síbakancs
1941年から山岳部隊のみで使用.
兵士は靴を履き替えることなくスキー靴を履くことが出来た.
(図No. faq210907bk,こちらより引用)

mixi, 2021.7.10
2021.9.8,画像3枚目追加

 第1ハンガリーSSスキー大隊が自分の中でスキー猟兵的な部隊だと思ってたら,武装SS移管前のハンガリー山岳兵からなるスキー訓練生と教官が母体になっただけ,と知って衝撃を受けている.
 そもそも訓練がまともに行えず(訓練地が前線と化した),滑れたかさえ怪しいところ.

 大隊長がハンガリーに戻った間にノイハマーで「フニャディ」師団から兵員吸収されかけたり,私財で賄賂送ってStG44等まともなドイツ製装備入手するなど,大隊長自身も中々のキャラ.
 彼はスキーの大会で何度か優勝経験があったらしい.

マーノシュ on twitter, 2022.1.20
https://twitter.com/Nasikandar_/status/1484141168770174976
https://twitter.com/Nasikandar_/status/1484144187356311553


 【質問 kérdés】
 ハンガリー第2装甲師団について教えてください.

 【回答 válasz】
 ハンガリー陸軍唯一の機械化部隊だった快速軍団が1942年10月,第1装甲軍団と改組され,その際に,その下部組織として作られたのが軍団司令部,第1装甲師団,および第2装甲師団.
 3個大隊から成る第3戦車連隊,自動車化歩兵連隊1,装甲偵察大隊・自動車化工兵大隊・自動車化対空大隊各1などから成る.
 ただし生産能力の劣るハンガリーは,ドイツから装甲車輌を輸入してもなお車輌が不足.
 第1装甲師団にそれらは優先配備され,第2装甲師団は後回しとされたが,そのおかげで東部戦線へ派遣されずに済む.
 1943年時点で,戦車大隊は以下の地に駐屯していた.
第3/I戦車大隊:セゲド
第3/II戦車大隊:ケチケメート
第3/III戦車大隊:キシュクンハラシュ Kiskunhalas

 【参考ページ Referencia Oldal】
Mujzer Péter『Hungarian Armored Forces in World War II』(KAGERO, 2017), p.15-16
https://tanks-encyclopedia.com/ww2/hungary/ww2_hungarian_tanks.php

1枚目:第3戦車連隊所属のニムロード自走砲
同一車輌を別角度からとらえた写真
1944年,ガリツィア
(図No.faq200909tk2,こちらより引用)

2枚目:修理中の第2装甲偵察大隊所属のチャバ装甲車
同一車輌を異なる時間に撮影したもの
1944年には迷彩塗装のないままのチャバが配備されており,写真の車輌には工場でなされた下塗りがまだ残っている
(図No.faq200909tk3,こちらより引用)

3枚目:第2装甲師団所属の車輌群
38/42.M ボトンドBトラックやトルディIIaなどが写っている
(図No.faq200909tk4,こちらより引用)

4枚目:戦車師団の組織編制,1942.2.17の案
(図No.faq200909tk,こちらより引用)

mixi, 2020.9.12


 【質問 kérdés】
 ハンガリー第2装甲師団の戦歴は?
Hadosztály_

 【回答 válasz】
(注意!
 以下の文中の戦車の数については,多くの異説がある.
 師団の記録書類が失われており,推定に頼らざるを得ないためである)

 1944年春,ハンガリー領内にソ連軍が侵入.
 ハンガリー軍は防戦に努め,第2装甲師団も投入される.

 戦闘中,第3戦車連隊は多数の戦車を喪失.
 その補充のため1944年6月,ドイツからティーガー戦車×10,4号戦車H型×12,3号突撃砲G型×10を受領.
 連隊は2個大隊に改編した.
 第3/II大隊にはトルディ,トゥラーンの残存車輌を全て配備.
 ハンガリー国内に当時残存していたトルディIIa×80両のうち,73両がこの大隊に配備された.
 ドイツ製戦車は全て第3/I大隊に配備された.
 第3/1中隊,第3/2中隊はティーガー戦車,
第3/3中隊は4号戦車,
第3/4中隊は3号突撃砲を配備.
 また,1944年9月,補充のためパンター×5,4号戦車×20台が連隊に届き,パンターは第3/2中隊に配備.
 この第3/2中隊はハンガリー人の中では有名な戦車エース,タルツァイ・エルヴィン Tarczay Ervin が指揮した.

 第2装甲師団の第3戦車連隊と第3自動車化歩兵連隊の兵士は,既に東部戦線で戦ったことのあるベテランから成っていた.
 第3自動車化歩兵連隊の兵士はバルバロッサ作戦において第11戦車大隊に所属して,第3/11戦車大隊に随伴して1941年にウクライナで戦っており,この第11戦車大隊は後の1942年に第3/II戦車大隊を形成する第32独立戦車大隊となっていた.
 第3/I戦車大隊の兵士も1942年のソ連軍との戦闘の経験者で,1942年から43年にかけてハンガリー第2軍指揮下で戦った第30戦車連隊の1個大隊を編成していた.
 第3/I戦車大隊の兵士もバルバロッサ作戦に参加しており,ベテラン兵士と見なされていたが,彼らは当時は自転車大隊所属であって戦車戦は未経験だった.

 1942~43年,ハンガリー政府は第3/I戦車大隊に編入する歩兵や国境警備隊兵士の再訓練を始めた.
 当時この部隊はドン河戦線で戦っていたため.
 ハンガリー戦車兵の中では有名なタルツァイ・エルヴィンも,これによって1943.1.1,第23国境警備大隊から第3戦車連隊第3/I戦車大隊に転属になった.
 元からいた第3/I戦車大隊の生き残り達は1943年春に帰国し,新兵が補充された自部隊に直ちに戻り,その新兵達を訓練した.

 1944年3月13日,第2装甲師団の一部の部隊は動員をかけられた.
 カルパチア防衛のため,ハンガリー政府は国境への部隊配備を切望していたのだが,ヒトラーとOKWはその計画に好意的ではなかった.
 1944.3.19,ドイツ軍がハンガリーを占領したことにより,第2装甲師団のカルパチア移動は停止され,1944.3.29に再開された.
 今度は師団全体が動員されたが,これはハンガリー国内で彼らが戦闘するものではないことが明らかになった.

 しかも師団の装備は非常に不足していた.
 第3戦車連隊の保有車輌は
トゥラーン40mm砲搭載型×18,
トゥラーン75mm砲搭載型×14,
トルディ×1,
ニムロード×2,
チャバ×1
にしか届かなかった.
 また,同師団にはトゥラーン40の砲弾がAPHE×20,200発,HE×10,000発,Turán75の砲弾はAPHE×8,800,HE×4,400しかなかった.
 さらに第2装甲師団全体では,81台のオートバイ,35台の車輌,109台のトラック,およびその他の19台の車輌しかなく,戦車牽引車輌もなかった.
 兵士の被服の質は言うまでもなかった.
 第2装甲師団は,物流の供給に関して4つの異なる軍団本部によって管理されていたが,たとえば衣服の30%は第8軍団の管理下にあって,その衣類は標準以下のものだった.
 加えて,重戦車大隊の戦車兵は,1943年9~10月に部隊に配属され,火力訓練と部隊訓練は最後の最後まで行われなかったため,トゥラーン75の十分な訓練を受けていなかった.

 こんな状態であっても,第2装甲師団は第1装甲師団よりも良好な状態にあると言えたが,装備不足を補うため,第1装甲師団も第2装甲師団に幾ばくかの装備を提供する必要があった.
 これで第2装甲師団は完全充足し,ガリツィアに派遣された.
 1944年4月5日~11日,師団の殆どはウクライナ,ストルイとその周辺に駐屯したが,一部部隊(たとえば第3/III戦車大隊と整備部隊など)は動員が遅れた.

 第2装甲師団はウクライナではハンガリー第1軍の指揮下にあり,ドイツの第1装甲軍と第8軍の間の隙間200kmを埋めた.
 当時の師団長はオストビツ・フェレンツ Osztovics Ferenc 大佐.
 彼は後に少将に昇進する.
 参謀長はルゴニ・ヂェルヂRugonyi György大佐.

 1944年4月12日,第2装甲偵察大隊はロシルナRosil’na のルクヴァ Lukva 川の渡河点の確保,およびヤセン=ソロトヴィン=ボロハドチャニ Yasen’-Solotvyn-Bohorodchany 地方の偵察任務を命令さる.
 部隊は4月13日にロジニャチフとクラスネを通過して前進し,ロシルナを占領した.
 ここから計画通り,ソロトヴィンとボホロドチャニに向けて偵察を開始し,大隊はビストリチャ=ソロトヴィンスカ Bystrytsya-Solotvyns’ka 川を渡り,ラスティヴツィ Nadvirna とナスティバーナ Lastivtsi 西方の間でソ連軍部隊と交戦.
 師団はここで初の敗北を喫する.

 4月13~14日,第2装甲偵察大隊は陣地を強化し,ソロトヴィン Solotvyn とズラキィ Zhuraky に橋頭堡を作り,その地域を偵察.
 偵察大隊はズラキィの東にある514高地,モロドキフMolodkiv とヒビズド Hvizd 周辺の高地,およびラスティヴツィ~ボホロドチャニ Lastivtsi- Bohorodchany 間のラインにソ連軍部隊が存在することを報告した.


 4月15日,ドイツの第11軍団がハンガリー第2装甲師団を麾下に置く.
 4月15~17日,第2装甲師団の各部隊は,攻撃を開始するために割り当てられた位置に布陣.
 4月17~18日,師団はナドバーナを首尾よく奪い,その周りの陣地を強化した.
 4月19日から部隊はナドビルナ周辺の都市や村を取り戻し始め,その間に師団の一部がコロミヤに向かって前進し始めた.
 絶え間なく激しい戦いの最中,ハンガリーの第2装甲師団は街の周辺に達し,4月26~27日,他のドイツ軍とハンガリー軍の部隊と共に攻勢を開始したが,ソ連軍の反撃が強力なため,コロミヤを占領できなかった.
 ロシア軍によって攻撃が阻止されたリスナスロビドカ Lisna Slobidka に通じる唯一の主要道路を,主力部隊は進まなければならなかったので,師団は十分に展開することができなかった.

 4月28日から5月1日まで戦線は動かず,双方が現在位置で陣地強化した.
 5月2~3日,ハンガリー軍とドイツ軍はLisna Slobidkaを再び奪おうとしたが,殆ど成功せず.
 1944年5月3日,北ウクライナ方面軍グループの司令官であるオットー・モリッツ・ウォルター将軍がハンガリー第2装甲師団を訪問し,ドイツ軍の戦車をこの部隊に与えることを約束した.
 5月4~6日,ドイツとハンガリーの部隊は戦線を数百メートル前方に押し進めようとしたが,小競り合い以上の戦闘は起こらなかった.
 5月7~12日,第2装甲師団は予備部隊とされてナドビルナとその周辺に戻された.
 これにより,この部隊はドイツ軍第11軍団の直接の指揮下から外れた.

 4月17日~5月3日の戦闘で,第3戦車連隊の戦車18両(トゥラーンおよびトルディ),ニムロード4両,装甲車6両が破壊.
 整備部隊到着が5月になり,車輌部隊は小さな修理しかできなかったため,88台の車両がこの期間に故障し,そのうち6台は完全に故障し,7台は敵の背後に遺棄された.
 合計35台の車両は修理できず,戦車75輌が整備部隊に送られるか,修理のためにハンガリーに後送された.

 一方,ハンガリーとドイツの部隊はロシアの戦車48輌(主にT-34)を破壊し,そのうち27輌は第3戦車連隊の戦果だった.

 彼らは,彼らの戦車砲が射程距離においてT-34に対して不利なことを知っていたので,攻撃時には直ちに発砲し始め,前進のため撃ち続けた.
 絶え間ない砲火が敵を混乱させることを期待してのことである.
 そして40mm戦車砲の有効射程まで敵に接近した.

 しかし,ドイツ提供の兵装で戦車兵が再訓練されたときに,この戦術は変化した.
 この訓練は1944年5月6~14日にナドビルナで行われた.
 残存する全てのトゥラーン&トルディ戦車――おそらく,最前線に到着した第3/III戦車大隊(ただしこれを証明または否定できる文書はない)の戦車を含む――が,第3/II戦車大隊に合流する一方,第3/I大隊は
・ティーガー戦車×10(第1および第2中隊に配備)
・4号H型×12(第3中隊に配備)
・3号突撃砲G型×10(第4中隊に配備)
を受領.
 タイガー戦車は,同地域で戦っていたドイツ軍第503重戦車大隊から譲られた.

 訓練は順調に進んだ.
 ハンガリー軍の戦車兵は呑み込みが早く,また,学習意欲旺盛だった.
 彼らは訓練時間以外でもドイツ人の教官に質問をし続けた.
 短期間ながら88mm戦車砲の射撃訓練も行われ,ドイツ人をして
「ハンガリー人は素晴らしい射撃をする」
と言わしめた.

 訓練後,第3/I戦車大隊は1週間の長期「野戦試験」を実施.
 ティーガー戦車はそれぞれ2輌または3輌の小隊に分かれ, Tovmachyk近郊を防衛しているハンガリーの第24歩兵師団の各大隊の背後に配置された.

 中隊のティーガーは1両が最前線に留まってその地域を偵察し,他の車輌は歩兵大隊本部で待機.
 斥候が何か疑わしいものを報告した時には,ティーガーは集結し,太陽が敵の視界を妨げてくれる午後に,敵に向かって前進した.
 友軍の歩兵哨戒線をティーガーは駆け抜け,地形をうまく利用して,斥候が報告した場所へ奇襲攻撃をかけた.
 このようなやり方で,ハンガリー軍のティーガーはT-34を3~4輌,多数のバンカーや戦車砲や弾薬輸送車を撃破した.
 最優秀のハンガリー軍戦車兵に,ドイツ軍は鉄十字章を与えた一方,ソ連軍は宣伝用スピーカーを通じ,いわゆる「灰色のオーバーオール」でそうした戦車兵を脅迫した.

 この間,指揮官の交代があった.
 1944年5月15日,オストヴィツ Osztovics 少将はハンガリーに呼び戻され,1944年6月1日までルゴニ Rugonyi 少佐が指揮を執った.
 その後, ヂェデーニ・ゾルターン Zsedényi Zoltán大佐――後に少将に昇進――が指揮をを引き継いだ.

 その後ほぼ2か月間,ハンガリー第1軍の前線は平穏だった.
 祖国での戦いは続いていたが,戦線は実際には動かなかった.
 状況は第一次世界大戦の塹壕戦に類似し始めていた.

 だが1944年7月13日,ロシア人はリボフ=サンドミエルツ Lvov–Sandomierz 攻勢を開始.
 この作戦の影響がハンガリー軍に及んだのは7月23日となり,ロシア軍の攻勢がスタニスラウ市――現在の Ivano-Frankivsk ――を脅かし始めた.
 そこは撤退上の重要地点だった.
 この日,ハンガリーの第2装甲師団(2個大隊に減らされている)が街の周りに再配置され,その周りに防御陣地を置いた.
 師団はこの地域のドイツ軍とハンガリー軍の部隊が安全に避難するに足る十分な時間を,ソ連軍に対して稼ぐことに成功した.

 ハンガリー第1軍はカルパティア山脈に後退し始め,同地でフニャディ・ライン(カルパティア山脈の東斜面にある,アルパード・ラインに繋がる要塞線,カルパティア山脈のもう一方の側はセント・ラースロー・ラインと呼ばれた)で防御態勢を取り始めた.
 この状況ではハンガリーの第2装甲師団は必要ではなかった.

 だがハンガリーのティーガーは,後退戦の中,後衛として彼らができることをもう一度示した.
 Starunya近郊の514高地において,ハンガリーのティーガーは敵戦車僅か20分の間に14両を破壊し,さらに多くの戦車に大きな損傷を与えた.
 7月24日から29日にかけての撤退中,機械故障により10輌中7輌のティーガー戦車が放棄された.
 ハンガリー第2装甲師団はKhustに再配置した.

 8月9日の報告では,ガリチアから帰還した当時に師団にあったのは
トルディ×14,
トゥラーン40mm砲搭載型×40,
トゥラーン75mm砲搭載型×14
3号戦車M型×1
4号戦車H型×9
3号突撃砲G型×1
ティーガー戦車×3.
 しかしティーガー戦車は故障しており,除籍する必要があった.

 第2装甲師団は1944年8月30日,再び出動した.

 ルーマニアが枢軸陣営から連合軍側へ寝返った時,ハンガリー政府は領土主張(修正主義)と戦略的理由の両方の理由から,これを南トランシルバニアを取り戻す好機と見なした.
 だが,カルパチア山脈南部が開けた地形となっていることから,ソ連軍はカルパチア山脈のハンガリー軍の防衛戦を容易に迂回し,そこで防衛しているハンガリー第1軍を包囲することが可能な状況だった.
 そのためハンガリー軍最高司令部は,ソ連軍がルーマニア軍への援軍として到着する前に,南トランシルバニアに駐留するルーマニア軍に対する攻撃計画を直ちに実行に移した.

 1944年9月1日,パンター戦車×5輌,IV号戦車×20輌が,エステルゴム Esztergom とハイマーシュケール Hajmáskér から第2装甲師団のいるゲルラ Gherla に到着した.
 この地でハンガリーの戦車兵をパンター戦車搭乗のための簡単な再訓練セッションが行われたが,彼らはすでにドイツの技術に精通していたため,これは非常に迅速に終了した.
 ハンガリー第2装甲師団はハンガリー第2軍の直接指揮下に置かれ,攻勢に参加した.

 9月5日に攻撃開始し,3日間ルーマニア軍とソ連軍のハンガリー本国への進撃を遅らせることができたが,それを止めることはできなかった.
 一部のハンガリー軍部隊はトゥルナヴァ=ミカ Târnava Mică 川まで到達した.
 しかし9月8日,150~200両の戦車を擁したソ連軍主力部隊がトゥルヌ・ロシュ Turnu Roşu 峠を突破し,メディア Media へと進撃しているという報が届いた.
 ドイツ軍とハンガリー軍の協同攻勢は中止され,部隊はアリエシュ川とムレシュ川に撤退し,防御態勢をとった.

 9月10日から10月8日まで,トゥルダの戦いの間,ハンガリー第2装甲師団は,第25歩兵師団その他のハンガリー軍やドイツ軍のサブユニットと共に防御部隊の一つとなっていた.
 9月23日の戦闘において,ドイツ第23装甲師団はソ連軍に対して効果的な反撃を開始し,ハンガリー軍がもう暫くの間陣地を維持できるようにしたが,ドイツ軍部隊は翌日トゥルダから撤退した.
 9月24日の報告によれば,ハンガリー第2装甲師団の有する戦車は,
パンター×2
IV号戦車×6
トゥラーン40mm砲型×9
合計僅か17輌でしかなかった.

 ハンガリー第2軍司令官ヴェレッシュ少将はOKWの命令に従わなかっただけでなく,摂政ホルティ・ミクローシュの単独和平工作に加担した上,摂政の秘密命令「ホモ・レジウス」――摂政が職務を遂行できない場合に備え,彼が国家元首に任命された――を受けていたため,10月16日にゲシュタポに逮捕された.
 これが理由の一つとなって,司令官はハンガリー軍の第25歩兵師団と第2装甲師団に,ソ連軍と交戦せずにティサ川まで撤退するよう命じた.

 また,10月15日,ホルティによる枢軸離脱工作が発生したからでもあった.
 彼の宣言はラジオでハンガリー軍に放送され,停戦交渉のため,ソビエト軍との交戦に関与しないよう,そしてさらなる命令を待つようハンガリー軍に命じた.

 だが,このホルティの命令をハンガリー軍の大多数は実行しなかった.
 矢十字党のメンバーまたは親ドイツの将校がすでに通信部隊に潜入しており,命令を下部組織に送信しなかったため,兵士には届かなかった――そもそも,部隊としても兵士個人としてもロシア人を憎み,恐れていたので,そんな命令は届いていたとしても通じなかった.

 もちろん,ハンガリー第1軍司令官,ダールノキ・ベーラ・ミクローシュ准将のように,ホルティに近しかった一部の個人や高官は,可能であれば降伏したが,そのような事例は稀だった.

 ドイツ軍司令部は10月16日,ニーレジハーザを経由してトカイに向かう途中の第2装甲師団――丸一日,この部隊の所在はドイツ軍には分かっていなかった――と直接接触.
 ドイツ軍司令部は,このハンガリー軍部隊を集結して戦闘部隊として活動できるよう戦力補充するには日数がかかることを認識していたため,当座「マルガレーテ」作戦関係には投入しなかった.

 10月19日,ハンガリー第2装甲師団はドイツ第4装甲師団の指揮の下で,ポルガル Polgár から南約6km地点でソ連軍と交戦.
 10月23日,彼らは北に3km後退することを余儀なくされた.
 10月27日の報告では,第2装甲師団にはIV号戦車が22輌(内,稼働状態にあるのは11輌),パンター戦車が3輌あった.
 10月31日,師団はティサ川の対岸に撤退.

 11月,ハンガリー第2装甲師団は,ドイツ第6軍と,ハンガリー第2軍残余を含み,砲兵大将ジュリアス・フランツ・フレッター・ピコが指揮する軍集団「フレッターピコ」の指揮下に置かれた.
 このときハンガリー第2装甲師団には,IV号戦車×9輌,トルディ戦車×2輌が戦闘可能状態にあった.
 当時パンター戦車は全車戦闘不能だったが,師団の整備部隊はなんとかこれを修理できた.
 ヂェンヂェシュ Gyöngyös への撤退はドイツ軍の第1装甲師団と第75歩兵師団,ハンガリー軍の第2装甲師団と第25歩兵師団によって支えられていたため,修理されたパンターは良い時期に間に合った.
 11月18日にヂェンヂェシュがロシア軍に占領されるまで,ハンガリー第2装甲師団は同地で戦闘を行った.

 11月後半にはすべての戦車が破壊されたか戦闘不能となったため,しばらくの間歩兵として戦っていた第3/II・第3/III戦車大隊は,11月20日~12月23日,サーク Szák とセンド Szend に駐屯し,ドイツ軍の兵器を使用できるよう再訓練することとなった.
 再訓練者はシュトロボ Štúrovo に駐屯していた第3/I大隊から抽出され,一部は補充された.

 1944年12月7日時点で,第2装甲師団は,Turán 40×35輌が稼働不能,Turán 75×8輌,3号戦車M型×1,3号突撃砲×1,パンター戦車が稼働状態にあった.
 また,ニムロード26輌中7輌,チャバ装甲車8輌中3輌,トルディ16輌中5輌,4号戦車20輌中2輌が戦闘可能だった.

 12月8日,師団はは再びフレッター=ピコ軍集団麾下に置かれ,サヒ  Šahy 市への道を封鎖するように命じられた.
 だが,圧倒的な数のソ連軍戦車を押し止めることはできず,サヒは12月14日に陥落.
 殿軍となった後,12月21日には師団には4号戦車×2,パンター戦車×2しか戦闘可能な戦車は無かった.

 12月26日,師団はエステルゴムで戦ったが,北に後退することを余儀なくされた.

 1944年12月の最後の日から1945年1月の最初の日までの間,第1装甲師団と第2装甲師団の両方から編成されたハンガリー軍戦車の小さな戦闘団が,セントラースロー歩兵師団指揮下でフロン川にて戦った.

 1月1日,4号戦車×27,パンター戦車×2を受領するため,第3/I大隊の40名がガランタ Galanta に派遣されたが,戦車が到着したのは1月8日になってからだった.
 1月9日~12日の間に,第3/II大隊と第3/III大隊も4号戦車×13を受領.

 1月中旬,ハンガリー第2装甲師団がヴェールテシュ Vértes の丘周辺に駐屯しており,第3戦車連隊はボダイク Bodajk にあった.
 1月16日,第3/I戦車大隊では
IV号戦車32輌中27輌
パンター戦車2輌中1輌
が戦闘可能だった.
 他の2個大隊が持っていた戦車の数は不明.
 1月17日に開始されたコンラートIII作戦に第2装甲師団は参加, ソ連軍からセーケシュフェヘールヴァール Székesfehérvár を奪還した枢軸軍の一翼を担った.
 師団はほぼ連日この地域で戦い続けたが,戦線は動かなかった.

 2月24日時点では,師団は
IV号戦車×16
パンター戦車×1
が稼働状態にあった.

 3月6日,「春の目覚め」作戦開始.
 ハンガリー第2装甲師団は,ドイツの第6軍(第3装甲軍と第4 SS装甲軍)とハンガリー第3軍を含む,ヘルマン・バルク将軍が指揮する「バルク」軍集団の指揮下にあった.
 師団は,おそらく過去同様第3装甲軍指揮下にあったと思われる.

 ソ連軍がドイツ軍の攻勢を押し戻すと,ドイツ・ハンガリー軍はすぐに撤退し始めた.
 ハンガリー第2装甲師団は後衛の役を担った.
 この戦いの中でハンガリー戦車エース,ヴィテーズ・エルヴィン・タールツァイ大尉は1945年3月18日,シェレード Söréd にて戦死.

 ハンガリー第2装甲師団は,ドイツ第6軍と共にハンガリーからオーストリアへと撤退した.
 そしてスティリアの防衛に参加したが,ドイツ軍から取り残された.
 ドイツ軍は5月8日~9日に米軍に降伏しましたが,ハンガリー第2装甲師団は後衛任務を担っていたために連合国とソビエトの間の境界線を越えることができず,5月に赤軍に降伏することを余儀なくされた.
(部隊の幾つかは連合軍側の境界まで到達した可能性はあるが)

 ハンガリー第2装甲師団司令官,ヂェデーニ・ゾルタン Zsedény Zoltán 少将はは1945年5月からソ連軍の捕虜となっている.

 【参考ページ Referencia Oldal】
Mujzer Péter『Hungarian Armored Forces in World War II』(KAGERO, 2017), p.15-16
https://tanks-encyclopedia.com/ww2/hungary/ww2_hungarian_tanks.php
https://live.warthunder.com/post/507595/en/
https://live.warthunder.com/post/514826/en/
http://live.warthunder.com/post/514868/en/
http://live.warthunder.com/post/514977/en/
https://live.warthunder.com/post/515550/en/
http://live.warthunder.com/post/515551/en/
https://t.co/KjCPXSo6AS

2020.11.8

 44年5月4日付の独軍電報に,ハンガリー第2戦車師団の再訓練部隊が持っていたパンターを第23装甲師団への補充として引き渡すよう命じたとあり,同部隊に少なくとも2輌あったのではないかと推測されている.
https://t.co/x4LhW6TjFz

マーノシュ in twitter,2021年9月18日


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