c

「WW2別館」トップ・ページへ

「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ   サイト・マップへ

◆◆◆ハンガリー陸軍 Magyar Honvédség a Második Világháborúban
<◆◆中東欧陸軍 目次 Földi Csata Index
<◆大西洋・地中海方面 目次
<第二次大戦FAQ


こちらより引用)

 【link】

Armis et litteris
 陸軍士官学校の歴史(洪語)

Katonai logisztika
a Magyar Katonai Logisztikai Egyesület folyóirata

MartynMilitary (D. Martin) - DeviantArt
 彩色写真集

Royal Hungarian Armed Forces|World War II Armed Forces — Orders of Battle and Organizations
 戦闘序列

『A magyar királyi Honvédség gyorscsapatai 1938–1941』(Kiss Gábor Ferenc著)

『The Royal Hungarian Army in World War II』(Nigel Thomas 他著,Osprey,2008/10/21)


 【質問】
 ハンガリー陸軍は第二次世界大戦ではどんな戦いに参加してますか?
Milyen csatáknak csatlakozott a magyar Honvédség a Második Világháborúban?

 【回答】
(対ユーゴ戦)

 第三軍が侵攻しますが,セルビアのパルチザン相手に小規模の戦闘があったのみでした.

(対ソ戦第一段階)

 対ソ戦はまず,後に悲劇の将軍となったソンバトヘイ・フェレンツ将軍の率いる機動軍,第一,第二自動車化旅団,第一騎兵旅団及び,他の二つの旅団(本国と戦場との間の補給に従事)の計4万が参加し,ドイツ第17軍,11軍(ルーマニアとの混成軍)と連携しながらソ連南部を2千キロ進軍し,ドネツ川まで到達しました.
(1941年7月9日から同年10月末まで)
 この間,4千の兵,およそ計1200台の戦車,及び他の機甲車両を失っています.
 車両の損傷と騎馬の補給が困難となったため,ドイツ軍との協議の結果,機動軍を本国へ帰還させ,新たに二つの旅団を追加することになりました.
(投入軍の数は依然として約4万を維持)

図1:トルディI軽戦車に支援され,Mykolaivに突入するハンガリー軍部隊.1941年
faq190205mk

こちらより引用)

(対ソ戦第二段階)

 その後,日本軍による真珠湾攻撃,枢軸諸国の対米宣戦,独軍のモスクワ占領失敗により,独軍によるハンガリー軍のさらなる対ソ戦参加が要求されました.
 この結果,1942年4月にヤーニ・グスタフ将軍の下,20万7千の「第二ハンガリー軍」が前線に送られました.(全軍の約三分の一)
 この軍は全軍の武器と機甲部隊の半数を数えましたが,兵員の大半は歩兵という性格でした.
 装備の面では独軍はもとよりソ連軍にも劣り,ハンガリー軍の要請にも関わらず,独軍からの武器補給は不十分なものでした.
 こうしてボロネジから南部へ,ドン川沿いに200キロの長さに配置されたハンガリー軍は,寒さと補給の遅滞のために,1943年1月12日から始まったソ連軍の攻撃の前に総崩れとなったのでした.
(この2週間の戦闘で4万の戦死者と3万5千の負傷者,約6万の捕虜を出し,武器の約80%を失った)

図2:1942年春,ハンガリー,エステルゴムで訓練中の,第2軍の一部
追走する自動車化歩兵部隊の「ボトンド」トラックから,4号戦車F1型を望む
これら部隊がブラウ作戦に投入された
faq190208bl

こちらより引用)

(対ソ戦第三段階)

 ボロネジの敗戦により,対ソ戦から国益が何も得られないことを痛感した支配層はカーライ首相の下,密かに連合国との休戦を協議し始める.
しかし,これを知ったヒトラーは1943年9月の時点で占領を決意し,翌年3月に実行される.
 1944年の時点で東部戦線で30万のハンガリー軍が戦闘,及び補給を行っていたが,8月23日のルーマニアの「裏切り」で一挙に国土が戦場となるのでした.
 後はデブレツェン,セーケシュフェへールヴァール近郊での大規模な戦闘,ブダペシュト市街戦と続きますがハンガリー・ドイツ軍はウクライナ軍主力のソ連軍の攻勢の前に,オーストリア・アルプスまで後退を続けるのでした.

(余談)

 ちなみに1944年10月の戦線離脱に失敗したホルティの後,権力を握った矢十字党のサーラシ・フェレンツは最後まで枢軸側の勝利を信じていたようで,こんなドキュソな逸話が残っています.(・v・)
「1944年11月2日,すでにソ連軍の戦車がウッルーィ通り(ブダペシュト市の少し外れ)の終わりで戦っている時に,サーラシはブダ城の大広間に集まった軍・市民の有識者に,目下の戦闘よりもより重要と考えるハンガリー・日本の商業関係の発展について数時間にわたる講義を行っていた.
 というのも,その戦闘についてついぞ一言も触れずにそこを立ち去ったからであった.」
「サーラシは1944年12月4日,ベルリンでヒトラーを訪問した.
 しかし,その後に大島浩駐独日本大使と会うために時間を割いたのであった.
 彼とは長時間にわたって「ベルリン=ローマ=東京」の権力のトライアングルにおいて構築される新世界秩序について意見交換を行ったのであった.」

 こんな奴がハンガリーの「国民指導者」なんかになるなんてオワッテル.

ABC : 世界史板,2002/02/20
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 第二次大戦勃発当時のハンガリー陸軍の状況は?

 【回答】
 ハンガリーは第一次世界大戦後,敗戦国として厳しい軍備制限を受け,独ソ戦開始時でも機械化が遅れていた.
 1938年,ハンガリーは再軍備を宣言し,1939年にはたった9個の軽師団または旅団だったものが,1941年には27個軽師団または旅団に増強されたが,一部の快速軍団を別にすればほとんどの部隊は徒歩の歩兵だった.
 戦車兵力は,イタリア製のCVタンケッティ150両と純国産のトルディ軽戦車190両が主力であり,それらで3個旅団から成る快速軍団を編成し,独ソ戦においては南方軍集団に参加したが,それら戦車はT-34はおろか,旧式戦車T-26やBT戦車にすら歯が立たないしろものであった.

 【参考ページ】
http://royallibrary.sakura.ne.jp/ww2/country/hungary.html
http://warandgame.wordpress.com/2008/12/23/the-hungarian-army-wwii/
http://en.wikipedia.org/wiki/First_Army_(Hungary)
http://en.wikipedia.org/wiki/Second_Army_(Hungary)
http://en.wikipedia.org/wiki/Third_Army_(Hungary)

【ぐんじさんぎょう】,2009/2/27 21:00

▼ ちなみに,1937年版の児童百科事典というのを手に入れましたが,それによれば,
>3. ハンガリー
> この国も,平和条約によって軍備の制限を受けているが,7個混成旅団,2個騎兵旅団を有し,総兵力は約35,000である.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 軍事板,2005/11/27(日)
青文字:加筆改修部分

▼ もともとハンガリーの第一目的はルーマニアからのトランシルバニア奪還にあったので,ソ連との戦いはそれほど乗り気ではなかった.
 1944年に講和をしようとしていたが,それを察知したドイツに占領されてしまった.
 以後,ハンガリー軍はドイツ軍指揮下に組み込まれ,講和の機会も失ったまま戦い続けた.

 国がほとんど連合軍に占領されてもオーストリアあたりまで撤退して,なおドイツ軍に付き合ってなきゃいけなかったハンガリー軍こそいい迷惑.
 もっとも,ハンガリーへはソ連軍と一緒に「仇敵」のルーマニア軍も来ていたから,それに対して「コノヤロー」ってのはあったかもしれないけど.

軍事板,2008/01/21(月)
青文字:加筆改修部分

1941.5.30時点のハンガリー軍の編成
こちらより引用)

2017.1.24


 【質問】
 ハンガリー軍の師団の種類を教えてください.

 【回答】

 1941年6月時点のハンガリー陸軍編成
歩兵師団:8
予備師団:8
戦車師団:2
騎兵師団:1

軍事板,2007/11/04(日)
青文字:加筆改修部分

 41年12月時点;

・機動軍団
 2個自動車化旅団(各3個自動車連隊),2個騎兵旅団(各2個騎兵連隊)で編成.
 定数24,000名.
 東部戦線には1個騎兵旅団のみ派遣.

・第1装甲師団(編成中)
 38(t)軽戦車108両
 短砲身Ⅳ号戦車22両
 Ⅰ号指揮戦車2両

・一線級歩兵師団(第1,2,4~27)
 但し第2,4,11,14~18,22,24~27師団は基幹人員のみ.

・二線級歩兵師団(第102,105,108,121,124)
 後方警備用保安師団.
 全師団東部戦線投入 .

軍事板,2007/12/05(水)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 WW2のハンガリー第1軍について教えてください.

 【回答】
 1940/4/1,ホルティは来るべきソ連との戦いに備え,3個野戦軍を編成しましたが,大戦勃発時には第1軍は,これといった戦闘には投入されませんでした.
 同年8/30,ヴィルモシュ・ナジ Vilmos Nagy 中将指揮下の第1軍は,当時ルーマニア領にされていたトランシルバニアを占領して,ハンガリーに併合した以外,1944年半ばまで,殆ど戦闘に投入されませんでしたが,1944/4/30,南ウクライナの枢軸軍集団を支えるために派遣されました.
 1944/12/28,ミクローシュ政権が対ドイツ宣戦布告すると,ハンガリー第1軍は,親ドイツ側と親ソ側とに分かれて戦うことになり,さらに1945/1/1~2/16までにハンガリー第1軍の主力は,ブダペシュト北方200kmのところでソ連第40軍に蹂躙されて壊滅しました.

 【参考ページ】
http://en.wikipedia.org/wiki/First_Army_(Hungary)

【ぐんじさんぎょう】,2009/4/14 21:40


 【質問】
 WW2のハンガリー第2軍について教えてください.

 【回答】
 第2軍 2. magyar hadsereg は,3個軍存在したハンガリー陸軍の中で,開戦当初装備最優良の部隊.
 当時ハンガリー唯一の機甲部隊「快速軍団」を有していた.

 ハンガリーが対ソ宣戦布告するや,ドイツ第17軍支援のため,東部戦線へ3万人が派遣された.
 ハンガリーは,1941.6.27に対ソ宣戦布告すると,当初派遣したのは陸軍最高司令部直轄の機甲部隊,第1快速軍団(と言っても師団規模)を中心とした3万人.
 ドイツ第17軍支援のため,▲7月にはネメツ・ポリスキイ,8月にはニコラエフ,その後,ニコポリ,ドニェプロペトロフスクと転戦し,10月にはドニエプル川を渡河.
 その間,著しく消耗.
▼ 器材の8割を失い,帰国した.

 1942年夏の攻勢に当たっては,ヒトラーの要請により,15万人を増派.
 だが,ドイツ軍は1941年の冬季戦で莫大な損害を被り,それらをイタリア,ハンガリー,ルーマニアなどの同盟軍によって補填する必要が生じた.
 このためヒトラーはハンガリーに圧力をかけ,やむなく東部戦線に派遣されることになったのが,この第2軍.
 1942年4月にヤーニ・グスタフ将軍率いる20万7千人がソ連へ入った.▲

 後方担当とすることと兵器供与がヒトラーから約束されていたが,どちらも空手形で,まず,コーカサス方面の攻勢に参加.
▼ 1942.6.28,ハンガリー第2軍はドイツ第2軍と共に「ブラウ作戦」に投入され,9月中旬にはヴォロネジ南方においてドン河に到達.
 1942.4.24~10.1の間,ハンガリー軍は全体の15%に当たる将校1,100名,兵士29,000名を失った.
 補給はドイツ軍が自軍を優先したため,ハンガリー軍へのそれは滞りがちであり,燃料,弾薬,食糧,被服,いずれも不足気味だった.▲

 その作戦が中止されると,スターリングラード攻防戦においてドン川沿いの側面を守備▼していたが,1943.1.12,ヴォロネジ戦線においてソ連軍は攻撃を開始.
 1943年1月,ヴォロネジにおいて捕捉され,当時の兵力20万のうち,戦死者9000,負傷者16500,捕虜・行方不明者8万人以上.
 ウリフに展開していたハンガリー第20軽師団は,ソ連軍第40軍の主攻勢を受けて前線を蹂躙された.
 また,スヴォボダ付近からはソ連第18狙撃兵軍団が出撃して,ハンガリー第10,第12軽師団の前線を突破.
 ハンガリー軍は60km後方のアレクセイエフカまで撤退し,ドイツ軍予備部隊,イタリア軍残存部隊などと共に防衛線を展開した.
 さらにハンガリー軍の残余は,前線から120km後方のオスコル河まで辛うじて撤退し,そこで薄い防衛線を構築することに成功した.

 この1.12~2.26の間の戦闘で,ハンガリー第2軍は経験豊かな将校多数を含む
戦死8,718
負傷16,497
行方不明77,288
捕虜2,582
という人的被害を受け,また,装備喪失は
小銃110,000
拳銃32,000
短機関銃3,500
機関銃2,900
迫撃砲400
対戦車銃460
野砲250
榴弾砲130
対空砲110
オートバイ1,000
乗用車1,600
トラック4,000
装甲車輌190
馬匹56,000
荷馬車16,000
フィールドキッチン530
その他に達し,事実上壊滅した.
 経験豊かな将校の多数,重火器の70%以上を失って壊滅し,
 このため,占領地の治安維持要員を残し,▲生き残った将兵は5.24までにハンガリー本国へ帰還した.

 1944年夏までにソ連軍はハンガリー国境まで押し寄せ,また,ルーマニアやブルガリアが寝返って対枢軸国宣戦布告した.
 1944.8.30,ハンガリーは第3軍を動員すると共に,再建された第2軍をも動員した.
 しかし,そのどちらも予備役兵から成り,装備も不足した,弱体な部隊となっていた.

 第2軍はドイツ軍フレッター・ピコ軍集団の指揮下に入り,10.24までデブレツェンにて戦闘参加した.
 そこで枢軸軍は善戦したが,第2軍は大きく戦力消耗して,12.1に第3軍と交代.
 事実上,第2軍は消滅した.

 ちなみにハンガリー公使・大久保利隆は,1941.12.14,消耗した部隊の帰還式典に招待され,ブダペシュトの英雄広場においてこれを謁見している.
 そのときの彼の印象.

------------
 ハンガリーの大部隊がトラックに乗って帰ってきたが,トラックは相当破損し,兵士は疲労の極みにあるように見受けられ,東部戦線の惨状を如実に物語るものであった.
 私は思った,東部戦線の実情は我々の想像以上のものであるということを.

 私は独ソ戦は相当の長期戦になると感じた.
 そして最悪の場合,ナポレオンのモスコウ敗退のようなことにはならないにしても,到底勝ち目はないと考え始めた.

------------下掲書,p.280

 【参考ページ】
高川邦子『ハンガリー公使大久保利隆が見た三国同盟』(芙蓉書房出版,2015), p.95,112-114,119-120,130-135,151-153,159-160,280
https://en.wikipedia.org/wiki/Second_Army_(Hungary)
https://hu.wikipedia.org/wiki/2._magyar_hadsereg
http://www.hungarianhistory.com/lib/thou/thou15.htm
高橋慶史『ラスト・オブ・カンプフグルッペ』III(大日本絵画,2012), p.96-101

第2軍の編制(1942.7.1)
(こちらより引用)

mixi,2016.5.24


 【質問 kérdés】
 ハンガリー第2軍はどのようにして壊滅したの?
Hogyan semmisített meg a magyar 2. hadsereg ?

 【回答 válasz】
 1942.11.19,ソ連軍はウラヌス作戦開始.
 これはスターリングラードの枢軸軍に対する反攻作戦で,11.23までにスターリングラードの包囲完了.

 ハンガリー軍はイタリア第8軍の北側,ドン川沿いのノヴァヤポクロフカとロッソシュの間を守備していたが,反攻作戦前から状況は悪かった.

 第2軍の動員兵は,東部戦線派遣前に8週間の訓練しか受けていなかった.
 その兵士の多くにとって唯一の戦術的経験は,前線に向けて出発する直前に行われた演習だった.
 訓練不足は激しい攻撃に直面したときに,兵士の戦闘能力と士気に悪影響を及ぼした.
 また,第2軍の大部分は将兵共に,「迅速な勝利」が約束された予備役兵だったので,帰国の見込みが遠のくと戦意低下した.

 人員自体不足していた.
 ドン川西岸にはソ連軍橋頭保があり,夏の戦いにはハンガリー第2軍も投入.
 だが,その全てを掃討することはできず,ハンガリー軍側の損失は死傷者・行方不明者3万人以上に上っていた.

 兵站備面でも問題があった.
 スターリングラード方面の輸送力はドイツ軍に優先されており,ハンガリー第2軍には殆ど補給物資が届かず,最前線の部隊は食料,防寒着,燃料,建材などの基本的な必需品が欠乏していた.
 装備自体にも問題があった.
 例えば,彼らに支給されたブーツは高さが足りなかったので,夏季にはブーツの中は砂でいっぱいになり,冬季には雨と雪でいっぱいになった.

 こうした状況下,約200kmの川岸を残存兵力8万人で守ることを余儀なくされており,その防衛線は非常に薄かった.
 これはスターリングラード方面の他の枢軸軍,ルーマニア第3軍やイタリア第8軍と比べても悪い状況だった.
 ドン川やヴォルガ川の西岸には,ソ連軍の橋頭堡がいくつか残っていたが,これらの奪取など問題外な状況.
 これら橋頭堡はソ連軍の反攻に際し,良い出撃拠点となった.

 スターリングラード戦の状況が枢軸陣営にとって絶望的になりつつあった1943.1.12,ソ連軍はサトゥルン(土星)作戦開始.
 最前線の北部,ウリヴ Uriv 橋頭堡に対してソ連軍は攻撃し,南方向へ突破.
 防衛していた第7軽師団第4歩兵連隊は,軍団記録でマイナス42度の極寒の中,最初の攻撃を撃退したが,損害も甚大.
 戦線は崩壊して第4歩兵連隊は潰走し,前線後方にあった砲兵機材が戦闘なしでソ連軍の手に落ちた.
 ソ連軍の損害は死者5名,負傷者42名,捕虜となる者1,000人だったという.

 ハンガリー軍司令部は増援を派遣したが,大雪と極寒のため間に合わず.
 ハンガリー軍はまた,ドイツ軍にも増援を要請したが,ドイツ軍はこれを拒否.
 Cramer 軍団から第700装甲師団(T-38(t)×27,突撃砲×9)のみを派遣し,反撃を命じてきた.

 一方,翌日,ソ連軍も増援を得て,橋頭保を完全に突破.
 そこは開けた地形で予備陣地も無かったため,ハンガリー第2軍第4軍団は新たな戦線形成に失敗.
 第4軍団は後退し始め,複数個所で部隊が潰走した.

 1.14,ソ連軍はイタリア第8軍へも攻撃を開始.
 これを突破して,ハンガリー軍の戦線の後ろへ回り込んだ.
 ドイツ軍は第700戦車師団のT-38(t)がソ連軍のT-34と交戦して大敗し,後退した.
 にもかかわらずドイツ軍最高司令部は,唯一の予備兵力であるクラマー軍団の配備を禁止すると共に,ハンガリー軍に死守命令を発令.
 ハンガリー軍のヤーニ大将は,その死守命令をそのままハンガリー軍に下した.

 1.15までに枢軸軍の戦線は幾つかに分断され,複数個所で包囲された.
 第2軍ではパニックが発生し,多くの兵士が逃亡.

 1.17までに第4軍団は崩壊.
 クラマー軍団はそのときすでに配備されていたが,ソ連軍を止めることはできず,彼らもまた崩壊.
 逃亡兵たちはソ連軍の空襲や自陣営の野戦憲兵隊を恐れ,道路を避けて退却.
 極度の寒さの中,衰弱していた何千人もの人々が毎晩の凍死し,生き残った人々は歩き続けた.
 彼らは,焼失した村の火のそばで体を温め,休息し,凍った馬の肉を食べた.
 占領した村で夜を過ごすことを許可しなかったドイツ軍との間で,いくつか小競り合いも発生した.

 1.20,イロフスコエ飛行場で包囲されていたハンガリー空軍部隊(第1航空群)は,残存機材を爆破.
 徒歩で西方向へ脱出したが,多大な損失を被った.
 飛行隊司令官ツカーシュカールマーン Csukás Kálmán 少佐は戦死.
 副官ヘッペシュ・アラダール大尉が後の指揮を執った.
 脱出の際,動けない負傷者は飛行場に残され,その中で凍死せずに生き残ったのは1,000人だけだった.

 残存兵力はドン川の西100km地点で再集結を図った.
 1.22頃までに17,000名が集まったが,小銃以外の武装は放棄しており,その殆どが凍傷を負っていた.
 また,1.22時点で,退却を支援するハンガリー軍第1装甲師団の残存兵力は,兵士500名,戦車×1,突撃砲×1だけとなっていた.

 1.24,ヤーニ・グスタフ大将は「ハンガリー第2軍は名誉を穢した」と述べ,将兵を臆病者と非難.
 根本的な懲戒処分を命じた.
 悪名高いこの命令には,将兵たちは憤慨.
 3月になってホルティはヤーニに対し,命令撤回を命じている.

 一方,ハンガリー第2軍第3軍団はドイツ第2軍麾下にあり,ドン河戦線北部に配置されていた.
 第3軍団はドイツ軍の退却を支援するよう命じられたが,装備その他の補給物資を受け取っていなかった.
 退却するドイツ軍部隊も,機材を後衛のハンガリー軍に引き渡すことはせず,爆破した.
 しかもドイツ軍はハンガリー軍に対し,道路を使用したり,夜間に村に宿営したりすることを禁じた.

 2.1,軍団司令官シュトッム・マルツェル Stomm Marcel 伯中将は,ドイツ軍が西南西に後退する間,第3軍団は北西方向に敵を突破するよう命令を受けた.
 この時点で軍団には食糧も重火器も無く,小銃1丁当たり弾丸10発があるだけだった.
 その時軍団司令官がとった方法は,軍団解散というかなり珍しいものだった.
 軍団将兵は個々の判断で,退却するドイツ軍に同行するか,または,自分で道を見つけて西に進んだ.
 シュトッム中将とその幕僚達はソ連軍の捕虜となった.

 3.3までに,将校2,913名,兵士61,116名が味方の戦線に帰還.
 生き残った将兵のうち4万人が,5.24までに帰国できた.
 重火器の70%以上を失い,初期兵力20万+ユダヤ人強制労務隊,約5万人の内,戦死者9000,負傷者16500,捕虜・行方不明者8万人以上.
 ユダヤ人はその殆どが死亡した.
 捕虜の正確な数は不明だが,ソ連軍の流儀を考えるに捕虜は比較的少なかったと思われる.
 その捕虜の行方は今日なお,あまり判明していない.

 【参考ページ Referencia Oldal】
https://hu.wikipedia.org/wiki/2._magyar_hadsereg
https://hi-storylessons.eu/events/the_hungarian_second_army_is_annihilated_at_the_don_river_january_12_1943/
https://dailynewshungary.com/a-mission-doomed-from-the-start-the-don-disaster/
Source: dailynewshungary.com https://dailynewshungary-com.translate.goog/a-mission-doomed-from-the-start-the-don-disaster/?_x_tr_sl=en&_x_tr_tl=ja&_x_tr_hl=ja&_x_tr_pto=sc
https://hungarianspectrum.org/2013/01/15/from-trianon-to-the-don-river-historical-revisionism/
https://hungarytoday.hu/don-disaster-commemoration-2020/

1枚目:軍用車輌搭載の野戦無線機でメッセージを聞いているハンガリー軍将兵
ハンガリー第2軍第1機甲師団第30戦車連隊
背景にSd.Kfz.253とStuG IIIとが写り込んでいる
1942年8月~12月,ハンガリー軍は,ヴォロネジ市の南約 25 マイルにあるドン川ベンドのウリヴとコロトヤクの地域で長い戦いを繰り広げた
(図No. faq220923dn,こちらより引用)

2枚目:Hungarian soldiers resting while their warrant officer tells them the details of their next mission, Don river, Russia, 1942.
下士官から作戦詳細の説明を聞いている兵士達
1942年,ドン川
(図No. faq220923dn2,こちらより引用)

3枚目:Magyar fogatok a hómezőkön.
Hungarian group on the snowfields.
雪原を行くハンガリー軍将兵
A magyar hadseregnek kevés volt a gépesítétt szállítójárműva.
The Hungarian army had few mechanized transport vehicles.
ハンガリー軍には機械化された輸送車両が殆ど無かった
Ami a Donhoz került, az pedig mind el is veszett a visszavonuláskor.
Everything that went to the Don was lost during the retreat.
ドンに行ったものはすべて,退却中に失われた
(図No. faq220923dn4,こちらより引用)

4枚目:A keleti front 1942 novembere és 1943 márciusa között
1942 年 11 月から 1943 年 3 月までの東部戦線

(図No. faq220923dn3,こちらより引用)

mixi, 2022.10.1


 【質問】
 WW2のハンガリー第3軍について教えてください.

 【回答】
 1940.3.1,第3~5軍団をもって編成.
 1941.4.5,ドイツ軍支援のためユーゴスラヴィアに侵攻,ユーゴスラヴィア第1軍と対峙したが,このときは損害も軽微で済んだ.
 1944.3.25~4.15にカメネツ=ポドリスキー包囲戦に投入された第7軍団が,8月,第6軍に編入さる.
 1944.8.30,本土防衛のため,第2軍と第3軍を動員.トランシルヴァニアのマロシュ渓谷とアラドとを横断し,山道を占領しようとしたが失敗.
 1944.10.6,デブレツェンの戦いの序盤,アラド近郊において大打撃を蒙り,ケチケメート近くで潰走.
 1944.12.29より,ブダペシュト攻防戦に投入さる.
 1945.3.16~3.25,第3軍の残余の殆どが,ブダペシュト西方約40km地点で包囲され,壊滅.
 その生き残りはドイツ軍と共にオーストリアへ移動.
 1945.5.8,正式に降伏した.

 【参考ページ】
高川邦子『ハンガリー公使大久保利隆が見た三国同盟』(芙蓉書房出版,2015), p.88-89
https://hu.wikipedia.org/wiki/3._magyar_hadsereg
https://en.wikipedia.org/wiki/Third_Army_(Hungary)
https://ja.wikipedia.org/wiki/ベレグフィ・カーロイ
http://forum.axishistory.com/viewtopic.php?t=37579

mixi, 2016.5.20

1941年4月のハンガリー第3軍の編成
こちらより引用)

2017.1.24


 【質問 kérdés】
 ハンガリー陸軍第1軍団について教えてください.
Kérem, mondja meg a magyar I. hadtestről.

 【回答 válasz】
 1929年2月1日,第1軍管として編成.
 1938.10.1,第1軍管と第1混成旅団とを合併して第1軍団となる.
 1941.4.1,ユーゴスラヴィア侵攻のための動員開始.
 第1軍団,第5軍団,快速軍団に動員令が発せられた.
 1941.4.7,基幹部隊のみ現役編入.
 第3軍麾下において侵攻作戦参加.
 1941.4.17,作戦終了し,基幹部隊の現役解除.
 (図1)は1941.5.30現在の編制.
 (図2)は1942.2.17,予備兵力化し,戦力を減じていたときの編制.
 この時は第1軍所属だった.
 (図3)は1943.8.10,予備兵力化し,戦力を減じていたときの編制.
 この時は第2軍所属となっていた.
 1944.8,ルーマニアの寝返りにより,基幹部隊状態のまま前線投入.
 1945.2.12,包囲され,陥落したブダペシュトで壊滅した.

 【参考ページ Referencia Oldal】
http://www.niehorster.org/015_hungary/oob/corps_01.html ※図1引用元
http://www.niehorster.org/015_hungary/42-huba-3/corps_01.html ※図2引用元
http://www.niehorster.org/015_hungary/43-szabolcs/corps_01.html  ※図3引用元
http://crowland.uw.hu/images/csata/delvidek.html

mixi, 2017.12.25


 【質問 kérdés】
 ハンガリー陸軍第2軍団について教えてください.
Kérem, mondja meg a magyar II. hadtestről.

 【回答 válasz】
 1929.2.1,第2軍管として創設.
1929.1.2-ben 2. katonai körzetként összetétt.
 1938.10.1,第2軍管と第2混成旅団を合一し,第2軍団創設.
1938.10.1-ben 2. katonai körzet és 2. vegyes brigád összeolvadt , és 2. Hadtestet összetétt.
 1941.4.7~1941.7.17,第3軍所属.
07.04.1941-17.04.1941-ben Harmadik hadsereghez tartozott.
 図1は,1941.5.30当時の編制.
1. dagram a 2.hadtest szervezete volt 30.5.1941-ban.
 図2は,1942.2.17当時の編制である.
2. dagram a 2.hadtest szervezete volt 17.2.1942-ben.
 この当時は第1軍麾下の予備役部隊となっていた.
Abban az időben 2. hadtest a 1.hadsereg alatt a tartalék csapat volt.
 図3は,1943.8.10当時の編制.
3. dagram a 2.hadtest szervezete volt 10.8.1943-ban.
 この当時は第2軍麾下の予備役部隊となっていた.
Abban az időben 2. hadtest a 2.hadsereg alatt a tartalék csapat volt.
 1944.8.19,ルーマニアの寝返りに伴い,基幹部隊のみで現役編入.
 1944.8.30より第2軍所属(~11.12)
30.08.1944-ben 2. hadsereghez tartozott. ( - 12.11)
 同年9.4,トランシルヴァニアにおいてルーマニア軍への攻撃開始.
 1944.11.12~1945.3.19,第3軍に所属して,ブダペシュト攻防戦に参加.
12.11.1944-19.03.1945-ben 3. hadsereghez tartozott és részt vett a Budapest ostroma.
 その後,第2軍団司令部では幾つかの部隊が,バイエルンの Mitterteich, Tirschenreuth 村に陣取り,ミチナイ Michnay 退役大将指揮下に置かれた.
A II. magyar hadtest tágabb törzsét családtagjaikkal, némi legénységgel Németországba telepítették, a bajorországi Mitterteich, Tirschenreuth helységekbe Michnay nyugállományú vezérőrnagy parancsnoksága alatt.
 ルドヴィカ軍学校生徒や消防署員もそこに布陣した.
Ide települtek a Ludovika Akadémia végzős hallgatói és egy tüzérosztály is.
 1945.3.21,米軍がそこに到着.
Az említett helységekbe 1945. március 21-én vonultak be az amerikai csapatok.
 1945.5.8,オーストリア,アスティリアにて降伏した.
8.5.1945ben Ausztria, Stájerországban lemondott.

 【参考ページ Referencia Oldal】
http://www.niehorster.org/015_hungary/oob/corps_02.html
http://www.niehorster.org/015_hungary/41-huba-2/corps_02.html ※図1引用元
http://www.niehorster.org/015_hungary/42-huba-3/corps_02.html ※図2引用元
http://www.niehorster.org/015_hungary/43-szabolcs/corps_02.html ※図3引用元
https://www.szekelyfoldert.info/acta97_regeszet15.html
http://mek.niif.hu/02200/02237/html/f02.htm

mixi, 2017.12.29


 【質問 kérdés】
 ハンガリー陸軍第3軍団について教えてください.
Kérem, mondja meg a magyar III. hadtestről.

 【回答 válasz】
 1928年10月1日,第3軍管として編成.
1928.10.1-ben III. katonai körzetként összetétt.
 1938年10月1日,第3軍管に第3混成旅団を加えて第3軍団編成.
1938.10.1-ben III. Hadtestet szerveztünk az III. katonai körzet és III. vegyes brigád.
 (図1)は,1941年5月30日時点での第3軍団の編制である.
(Az 1. ábra) a III. hadtest megszervezése 1941.5.30-ben.
 このときは第1軍に所属していた.
Ebben az időben az 1. hadsereghez tartoztam.
 また,(図2)は,1942年2月17日時点での第3軍団の編制.
Szintén, (Az 2. ábra) a III. hadtest megszervezése 1942.2.17-ben.
 このときも第1軍に所属していた.
Ebben az időben is az 1. hadsereghez tartoztam.
 1942年4月10日,基幹部隊のみ動員.
1942.4.10-ben A csak hadtest központja aktivált.
 同日~同年4月30日,ドイツ南方軍集団麾下のハンガリー第2軍所属.
1942.4.10. és 4.30 között Dél Hadseregcsoport, II. magyar hadsereghez tartozott.
 1942.4.~10の戦闘で,ドン河戦線にて大損害を受ける.
1942 április és október között nagy veszteséget szenvedett a csatában a Don partján.
 同年4月30日~7月7日,ドイツ南方軍集団所属
1942.4.30. és 7.7 között Dél Hadseregcsoporthoz tartozott.
 同年7月7日~7月9日,ドイツB軍集団所属
1942.7.7. és 7.9 között B Hadseregcsoporthoz tartozott.
 同年7日9日~1943年5月,ドイツB軍集団麾下のハンガリー第2軍所属.
1942.7.9. és 1943 május között B Hadseregcsoport, II. magyar hadsereghez tartozott.
 1943年2月1日,動員解除.
1943.2.1-ben inaktivált.
 同年4月,解隊.
1943 áprilisben feloszlt.
 1943年5月15日,基幹部隊のみ動員.
1943.5.15-ben a csak hadtest központja aktivált.
 1944年8月4日,基幹部隊のみで出動.
1944.8.4-ben a csak hadtest mozgósítottak.
 同年8日4日~8月15日,ドイツ・ラウシュ軍集団麾下のハンガリー第1軍所属.
1944.8.4. és 8.15 között Raus Hadseregcsoport, I. magyar hadsereghez tartozott.
 (図3)は,1943年8月10日時点での第3軍団の編制である.
(Az 3. ábra) a III. hadtest megszervezése 1943.8.10-ben.
 同年8月15日~10月22日,ドイツ・ハインリキ軍集団麾下のハンガリー第1軍所属.
1944.8.15. és 10.22 között Heinrici Hadseregcsoport, I. magyar hadsereghez tartozott.
 同年10月23日~12月17日,ドイツ・Wöhler軍集団麾下のハンガリー第1軍所属.
1944.10.23. és 12.17. között Wöhler Hadseregcsoport, I. magyar hadsereghez tartozott.
 同年12月18日~1945年2月1日,ドイツ・ハインリキ軍集団麾下のハンガリー第1軍所属.
1944.10.23. és 1945.2.1. között Heinrici Hadseregcsoport, I. magyar hadsereghez tartozott.
 1945年3月,基幹部隊解隊.
1945 márciusban a csak hadtest megszakított.
 1945年5月,軍管解散.
1945 májusban a katonai körzet feloldott.

 【参考ページ Referencia Oldal】
http://www.niehorster.org/015_hungary/oob/corps_03.html
http://www.niehorster.org/015_hungary/41-huba-2/corps_03.html ※図1引用元
http://www.niehorster.org/015_hungary/42-huba-3/corps_03.html ※図2引用元
http://www.niehorster.org/015_hungary/43-szabolcs/corps_03.html ※図3引用元

mixi, 2018.1.19


 【質問 kérdés】
 ハンガリー陸軍第4軍団について教えてください.
Kérem, mondja meg a magyar IV. hadtestről.

 【回答 válasz】
 1928年4月1日,第4軍管として編成.
1928.4.1-ben IV. katonai körzetként összetétt.
 1938年10月1日,第4軍管に第4混成旅団を加えて第4軍団編成.
1938.10.1-ben IV. Hadtestet szerveztünk az IV. katonai körzet és IV. vegyes brigád.
 1941.4.3~4.17,第3軍所属.
1941.4.3. és 4.17 között III. magyar hadsereghez tartozott.
 1941年4月5日,基幹部隊のみ動員.
1941.4.5-ben A csak hadtest központja aktivált.
 1941.4.17,動員解除.
1941.4.17-ben az inaktivált.
 (図1)は,1941年5月30日時点での第4軍団の編制である.
(Az 1. ábra) a IV. hadtest megszervezése 1941.5.30-ben.
 このときは第2軍に所属していた.
Ebben az időben az II. hadsereghez tartoztam.
 1942.4.10,基幹部隊のみ動員.
1942.4.10-ben A csak hadtest központja aktivált.
 1942.4.10~4.30,Süd軍集団麾下のほうのハンガリー第2軍所属
1942.4.10. és 4.30 között Süd Hadseregcsoport, II. magyar hadsereghez tartozott.
 1942.4.~10の戦闘で,ドン河戦線にて大損害を受ける.
1942 április és október között nagy veszteséget szenvedett a csatában a Don partján.
 1942.4.30~7.7,Süd軍集団所属
1942.4.30. és 7.7. között Süd Hadseregcsoporthoz tartozott.
 1942.7.7~7.9,ドイツB軍集団所属
1942.7.7. és 7.9 között B Hadseregcsoporthoz tartozott.
 1942.7.9~1943年5月,ドイツB軍集団麾下のハンガリー第2軍所属.
1942.7.9. és 1943 május között B Hadseregcsoport, II. magyar hadsereghez tartozott.
 1943.2.1,Disbanded.
1943.2.1-ben feloszlott
 1943.5.1,基幹部隊のみ動員.
1943.5.1-ben A csak hadtest központja aktivált.
 (図2)は,1943.8.10時点での第4軍団の編制.
(Az 2. ábra) a IV. hadtest megszervezése 1943.8.10-ben.
 このときは第3軍に所属していた.
Ebben az időben az III. hadsereghez tartoztam.
 1944.8.4,基幹部隊のみで実戦投入.
1944.8.4-ben A csak hadtest központja mozgósított.
 1944.8.4~9.19,第3軍所属.
1944.8.4. és 9.9. között III. magyar hadsereghez tartozott.
 1944.9.19,解隊.
 1944.9.19-ban megszakított.
 1945年,軍管解散.
1945-ben a katonai körzet feloldott.

 【参考ページ Referencia Oldal】
Ungváry Krisztián『Magyarország a második világháborúban』
http://www.niehorster.org/015_hungary/oob/corps_04.html
http://www.niehorster.org/015_hungary/41-huba-2/corps_04.html ※図1引用元
http://www.niehorster.org/015_hungary/43-szabolcs/corps_04.html ※図2引用元

mixi, 2018.2.6


 【質問 kérdés】
 ハンガリー陸軍第5軍団について教えてください.

 【回答 válasz】
 1925.12.7,第5軍管として編成.
1925.12.7-ben V. katonai körzetként összetétt.
 1938年10月1日,第5軍管に第5混成旅団を加えて第5軍団編成.
1938.10.1-ben V. Hadtestet szerveztünk az V. katonai körzet és V. vegyes brigád.
 1941.4.3~4.17,第3軍所属.
1941.4.3. és 4.17 között III. hadsereghez tartozott.
 1941年4月5日,ユーゴスラビア侵攻のため,基幹部隊のみ動員.
1941.4.5-ben Azért a csak hadtest központja aktivált, hogy Jugoszláviába törjenek be.
 1941.4.17,作戦終了により動員解除.
1941.4.17-ben az inaktivált a stratégia vége felé.
 (図1)は,1941年5月30日時点での第5軍団の編制である.
(Az 1. ábra) a V. hadtest megszervezése 1941.5.30-ben.
 このときは第2軍に所属していた.
Ebben az időben az II. hadsereghez tartoztam.
 (図2)は,1942.2.17時点での第5軍団の編制.
(Az 2. ábra) a V. hadtest megszervezése 1942.2.17-ben.
 このときも第2軍に所属していた.
Ebben az időben is az III. hadsereghez tartoztam.
 1944.6.1,解散..
1944.6.1-ben feloszlott.
 1944.8.4,基幹部隊のみ編成.
1944.8.4-ben A csak hadtest központját szerveztünk.
 1944.8.4~1944.8.15,ドイツ・ラウシュ軍集団麾下のハンガリー第1軍所属.
1944.8.4. és 8.15 között Raus Hadseregcsoport, I. magyar hadsereghez tartozott.
 (図3)は,1943.8.10時点での第5軍団の編制.
(Az 3. ábra) a V. hadtest megszervezése 1943.8.10-ben.
 このときは第3軍エリアに存在していた.
Ebben az időben létezett az III. hadsereg területen.
 1944.8.15~10.20,ドイツ・ハインリキ軍所属.
1944.8.15. és 10.20 között Heinrici Armeegruppehez tartozott.
 1944.9.1,基幹部隊のみ動員.
1944.9.1-ben a csak hadtest központja aktivált.
 1944.10.20~10.23,ドイツA軍集団所属.
1944.10.20 és 10.23 között A Hadseregcsoporthoz tartozott.
 1944.10.23~12.17,ドイツ・Wöhler軍所属.
1944.8.15. és 12.17 között Wöhler Armeegruppehez tartozott.
 1944.12.18~1945.2.1,ドイツ・ハインリキ軍麾下のハンガリー第1軍所属.
1944.12.18. és 1945.2.1. között Heinrici Armeegruppe, I. magyar hadsereghez tartozott.
 1945.2.1~5月,ドイツ・ミッテ軍集団所属.
1944.12.18. és május között Heinrici Heeresgruppehez tartozott.
 1945年5月,オーストリアにて降伏.
1945 májusban átadták Ausztriában

 【参考ページ Referencia Oldal】
http://www.niehorster.org/015_hungary/oob/corps_05.html
http://www.niehorster.org/015_hungary/41-huba-2/corps_05.html ※図1引用元
http://www.niehorster.org/015_hungary/42-huba-3/corps_05.html ※図2引用元
http://www.niehorster.org/015_hungary/43-szabolcs/corps_05.html ※図3引用元l
http://www.niehorster.org/015_hungary/41_oob/41-04-09/_army_03.htm

mixi, 2018.2.15


 【質問 kérdés】
 「De ungarske soldater」とは?
Mi az "De ungarske soldater"?

 【回答 válasz】
"De ungarske soldater" dán nyelven "magyar katonák".
1945. februárjában 12.000 magyar katona jelentősebb katonai kiképzés nélkül került Dániába, ahol átvették az innen az orosz és a nyugati frontra átirányított német katonák helyét, és gyakorlatilag őrző feladatokat folytattak a német megszállók parancsnoksága alatt.
(1 .ábra)
A megbízhatatlan szövetségesnek tartott magyaroknak a németek nem mertek fontos katonai feladatokat adni: vasutakat és hidakat őriztek, néha pedig egyszerű munkaszolgálatos feladatokra küldték őket.
(2 .ábra) a 93. ezred katonái őrjáraton a Sjælland szigeti Holte vasútpályája mentén
Katonai kiképzésük nagy valószínűséggel nemcsak azért maradhatott el, mert a magyarokat harci helyzetben megbízhatatlannak tartották, hanem azért is, mert ilyen módon maguk a német kiképző tisztek is igyekeztek elkerülni a frontra küldést.
A megbízhatatlanságra okot adott, hogy a magyarok háborúellenesek voltak, inkább a dán lakossággal, mi több, a dán ellenállással igyekezték ápolni a jó kapcsolatot.
 「De ungarske soldater」はデンマーク語で「ハンガリー兵」の意味.
 1945年2月,ハンガリー軍兵士12,000名が主な訓練を欠いたままデンマークに送られ,西部戦線におけるドイツ軍の守備位置を引き継ぎ,デンマーク占領ドイツ軍の指揮下の下で実際に警備任務に就いた.
(図1)
 ハンガリーのことを信頼できない同盟国と見ていたドイツは,彼らに重要な任務を与えなかった:鉄道や橋の警備,時には順次簡単な労役任務に送られた.
 (図2)はSjælland島のHolte鉄道線に沿って巡回する第93連隊兵士.
 彼らハンガリー兵の軍事訓練が行われなかったのは,戦場においてハンガリー人が信頼できないと思われていただけでなく,ドイツ人指揮官自身が前線に出るのを避けようとしたためだった可能性が高い.
 信頼されなかったのは,ハンガリー人が厭戦的であり,デンマークの人々,さらにはデンマーク人抵抗勢力と良い関係を築こうとしていたことが理由だったという.

 デンマークの人たちはハンガリー兵を最初恐れていたが,すぐに彼等がドイツ人と同じではないことに気付いた.
 彼らはデンマークのゲストと意識し,地元の人々に親切にした.
 そのおかげで殆どの場合,デンマーク人とハンガリー人は良好な関係を築き,デンマークのレジスタンスはハンガリー軍に攻撃しなかった.
 唯一例外は,軍用列車がデンマーク人レジスタンスによって爆破された際に,ハンガリー兵が5人死亡,32人負傷した一件だけだったという.

 【参考ページ Referencia Oldal】
https://live.warthunder.com/post/455667/en/ ※図1引用元
http://deungarskesoldater.dk/hu/
http://wangfolyo.blogspot.jp/2012/05/magyar-katonak-daniaban.html ※図2引用元

mixi, 2018.4.14


 【質問 kérdés】
 デンマークにおけるハンガリー軍の抗命事件について教えてください.
Kérem, mondja meg Dániában a magyar katonai lázadásáról.

 【回答 válasz】
1945. április 22-én Koppenhágában a Királyi Testőrség kaszárnyájában elszállásolt magyar katonák fellázadtak az azonnali frontra küldő német parancs ellen.
Sohasem derült ki, hogy kik voltak ezek a magyarok.
Talán a 93/II-es ezred egy vagy két zászlóalja lehetett, amely Roskildétől nyugatra, Hvalsøben állomásozott;
de az is lehet, hogy a 93/I-es ezred egységei voltak, amely azokban a napokban éppen úton volt Fynről Koppenhágába.
 1945.4.22,コペンハーゲンの国王衛兵兵舎に駐屯していたハンガリー兵達が,前線行きを命ずるドイツ軍に対して抗命事件を起こした.
 このハンガリー人の素性は,全く判明していない.
 おそらく,Roskilde西方,Hvalsøに駐留していた93 / II連隊の1個ないし2個大隊だと思われる:
 ただし,当時,Fynからコペンハーゲンに向かう途中にあった93 / I連隊所属の部隊であった可能性もある.

A lázadás április 22-én, vasárnap reggel kezdődött, amikor a magyar katonákat kirendelték a Rosenborg-kastély előtti gyakorlótérre, ahol egy német tiszt arra utasította őket, hogy még aznap délelőtt a németországi frontra induljanak.
 この事件は4月22日(日曜日),ハンガリー兵がローゼンボリ城の前の練兵場に整列させられたときに始まった.
 ドイツ人将校が彼らに命令した.
 今朝よりドイツ軍の戦線へ行く,と.
Néhány másodpercnyi tétovázás után mindenki széjjel futott, és eltűnt a szomszédos utcákban.
Mert a frontra senki nem akart kimenni.
 数秒躊躇した後,彼らは皆逃げ出し,近隣の通りの中に姿を消した.
 誰も前線に行きたくなかったからだ.

Sűrű lövöldözéssel embervadászat indult az egész városban, így a Nørreport pályaudvarnál, a Gyldenløvesgade környékén és az Ørsted-parkban, ahol a németek üldözőbe vették a magyarokat.
A gyengén felfegyverzett magyarok nem tudtak sokat tenni a németek nehéz fegyverzete ellen.
(2 .ábra) a lázadás során elfogott magyar katonák német őrizet alatt egy koppenhágai iskola udvarán.
 激しい射撃と共に市内全域でマンハントが始まり,Nørreport駅,Gyldenløvesgade街,そしてØrsted公園といった場所でドイツ兵はハンガリー兵を追跡した.
 武装貧弱なハンガリー兵は,重装のドイツ軍に対してできることは多くはなかった.
 (図2)は事件の間にドイツ軍に捕らえられ,コペンハーゲンの学校の校庭に拘束されているハンガリー兵.

„Ez a dezertálás lett a kezdete az egyik legdrámaibb vasárnapnak, amit a koppenhágaiak addig átéltek”, írta másnap az Illegális Információ című újság.
„Azonnali hatállyal kivezényelték a német katonaságot.
Heves harcokra került sor a magyarok és német fegyvertársaik között, és a következő 2-3 órában az egész kerületben karabélyokból, pisztolyokból, géppisztolyokból, gépfegyverekből leadott lövéseket hallottak.
Ugyanakkor kézigránátok robbantak a házak között és az udvarokban a belvárosban is, és amikor 10-11 óra felé a harc végül elcsendesedett, leverték a magyarokat, akik a harcot kirobbantották.”
(1 .ábra) a legnagyobb dán napilap az "Politiken", ami beszámolt az eseményről.
「この脱走は,コペンハーゲンの人々が経験した中で最も劇的な日曜日の始まりとなった」
と,翌日の「Illegal Information」紙は書いた.
「即刻対処するようドイツ軍は命じられた.
 苛烈な戦闘がハンガリー・ドイツ両軍の間で起こり,2~3時間は全地区で砲撃,小銃・拳銃・機関銃銃撃音が聞かれた.
 しかも手榴弾が中心街の住宅の間や中庭で爆発.
 最終的に10~11時間後に戦闘は静まったが,この戦闘でハンガリー軍は敗れた」
 (図1)は,事件について報じたデンマーク最大紙「ポリティケン」.

A következő napokban a németek megpróbálták eltussolni a felkelést, azt a hírt terjesztették, hogy csupán utcai harci gyakorlatokról volt szó, de a dánok eleget láttak ahhoz, hogy tudják, mi az igazság.
A magyar és német oldalon elesettek és a sérültek számát soha nem közölték.
 続く数日,ドイツはこの抗命事件を隠そうとし,路上戦闘訓練であるという言葉のみ報じたが,デンマーク人は真相が何だったかを間近に見ていた.
 ハンガリー・ドイツ両軍の死傷者の数は決して公表されることはなかったという.

 【参考ページ Referencia Oldal】
https://live.warthunder.com/post/455667/en/
http://deungarskesoldater.dk/hu/
http://wangfolyo.blogspot.jp/2012/05/magyar-katonak-daniaban.html ※1~2図引用元

mixi, 2018.4.21


 【質問 kérdés】
 ドイツ降伏後,デンマーク駐留ハンガリー軍はどうなったの?
Mi történt a Dániában állomásozott magyar hadsereggel Németország átadása után?

 【回答 válasz】
A magyar csapatoknak májusban a dán—német határt átlépve ismét el kellett hagyniuk Dániát.
A hazavezető út több német fogolytáboron vezetett keresztül.
 5月になると,ハンガリー兵はデンマーク・ドイツ間の国境を再度越え,デンマークを出なければならなくなった.
 帰郷はドイツに設けられた捕虜収容所経由で行われた.
 (図1)は帰国途上のハンガリー兵.
(1 .ábra) a hazatérő magyar katonák voltak.

 しかし,ボルンホルム島はソ連によって「解放」され,その島のハンガリー兵はシベリアの捕虜収容所に送られた.
 彼らの殆どは帰還することはなかったという…
De Bornholm szigetet "felszabadították" az Szovjet-oroszok és a szigetben magyar katonákot vitték Szibériaban POW táborokba.
A legnagyobb részük soha nem tértek haza...

 【参考ページ Referencia Oldal】
https://live.warthunder.com/post/455667/en/
http://riowang.blogspot.jp/2012/05/hungarian-soldiers-in-denmark.html
http://forums.gunboards.com/showthread.php?395623-Hungarian-Auxiliary-Troops-in-1945-Denmark-and-the-Danish-Krag

mixi, 2018.5.1

デンマークで投降したハンガリー軍将兵
このままドイツ経由で本国へ帰還と思しき隊列には,女性の姿も混じっている
(図No faq210423pw1~4)

2021.4.23追記


 【質問 kérdés】
 ベネデク・ガーボルって誰?
Ki az Benedek Gábor?

 【回答 válasz】
 五種競技のオリンピック金メダリスト.

 1927.3.23,ティサフュレド Tiszafüred 生まれ.
 職業軍人だった父親の影響を受け,ショプロン軍事高校 katonai középiskola 入学.
 同校において五種競技の基本を習う.

 第二次世界大戦において,年齢から推測しておそらくは大戦末期,ポーランドに派遣された後,デンマークへ送られる.
 デンマークには1945年2月,ハンガリー軍兵士12,000名が主な訓練を欠いたまま送られ,西部戦線におけるドイツ軍の守備位置を引き継ぎ,デンマーク占領ドイツ軍の指揮の下で警備任務に就いた.
 そして同地で戦争終結を迎え,彼らは捕虜となった.

 その後,ハンガリー兵捕虜はドイツ経由でハンガリーに移送されたが,ベネデクはコペンハーゲンに残ってエレベータ・ボーイとして働いた.
 ソ連軍占領下のハンガリーには帰りたくなかったらしい.
 その後,スウェーデンまで行って亡命申請を行ったが,認められず,デンマークに強制送還.
 そしてハンガリーに帰国することになった.
 そのとき1947年になっていた.

 1947年,ハンガリーの国内大会で銅メダル.

 1948年,彼はツェペル Csepel MTK のフェンシング選手となり,また,ブダペシュト・ホンヴェードの五種競技選手となった.
 彼は傑出した成績を上げ,同年にはナショナル・チームの選手に選抜された.

 1949年,1950年のハンガリーの国内大会で銅メダル.
 また,団体競技優勝.

 1950,ハンガリーの国内大会で団体競技準優勝.

 1951年,ハンガリーの国内大会で準優勝.
 また,団体競技優勝.

 1952年,ハンガリーの国内大会で団体競技優勝.
 同年,ヘルシンキ・オリンピックにおいて,個人で銀,団体で金メダルを獲得.
 これは五種競技団体においては,数十年にわたるスウェーデンの金メダル独占を打ち破ったという点で驚異的な出来事だった.

 1952年,ハンガリーの国内大会で団体競技優勝.
 同年,世界選手権・個人の部で優勝.
 ハンガリー人としては初の優勝だった.

 1956年,ハンガリーの国内大会で銅メダル.

 1956年のロス五輪の最中にハンガリー1956年革命(日本においてはハンガリー動乱という名で知られる)勃発.
 ベネデクはオリンピック選手団の革命委員会委員に選出された.
 一方,そうした喧噪のためか,競技のほうでは成績はふるわなかった.
 彼はロシア人の競技相手に対して握手を拒否した.

 帰国後,彼は政治的理由により元の仕事から解雇され,炭酸水メーカーで職工として生計を立てねばならなかった.
 また,同じ理由で1959年以降の大会出場も共産政権によって禁止された.
 このため,彼は愛馬「マーキュリー」を手放さねばならなくなった.
 この馬は世界選手権優勝によって贈られたものだった.

 1964年,ブダペシュト・ホンヴェードの五種競技部門のコーチに就任.
 1967年,体育大学で五種競技とフェンシングのトレーニングの学位を取得.

 1969年,彼の娘が白血病にかかり,ハンガリー国外での治療が必要となったため,彼は娘や妻と共に出国.
 国内にはまだ小さな息子が人質として残らねばならなかったため,彼はハンガリーに戻るつもりだったが,国境で深刻なトラブルがあったことで彼は帰国を断念し,西ドイツに定住.
 1952年五輪当時のチーム・メイトで銅メダリストのソンディ・イシュトヴァーン Szondy István の助けを借りて,ヴァーレンドルフでコーチ職を得た.
 1年後,息子はある若いカップルの助けを借り,ミニバスの後席に隠れて密出国し,家族と合流.
 一方,娘は残念ながら助からなかった.

 その後,彼はボンにおいて五種競技センターの組織化に関与し,1992年に引退するまでフェンシングのマスターとして活動した.

 1989年,共産政権が倒れた後にようやく帰国.
 1990年,彼はティサフュレドの名誉市民に選ばれ,彼に敬意を表して,ティサフュレドのスポーツホールはベネデク・ガーボル市民スポーツ・ホールと命名され,地元のアスリートを顕彰するためのベネデク・ガーボル賞が設立された.
 2017年,ハンガリー功労勲章受章.

 2021年5月現在,まだ御存命である.

 【参考ページ Referencia Oldal】
https://olympics.com/en/athletes/gabor-benedek
http://olimpia.hu/huszaros-lendulettel-93-eves-benedek-gabor
https://www.blikk.hu/sport/egyeni/benedek-gabor-olimpiai-bajnok/erprcee

ベネデク・ガーボル
2~3枚目は愛馬「マーキュリー」との2ショット

(図No. faq210525bg1~4,こちらより引用)

5枚目:兵士時代のベネデク
6枚目:1952年のオリンピックにて

(図No. faq210525bg5~6,こちらより引用)

mixi, 2021.5.27


目次へ

「WW2別館」トップ・ページへ

「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ   サイト・マップへ